■ 坐禅・瞑想・ 悟り・覚醒

1名無しさん@京都板じゃないよ2014/08/12(火) 17:29:11.25
ここ何年か「悟りブーム」とも言われています。特別に修行を行わなくとも
「悟り」を体感する若い世代が現れたり、今までの坐禅のような長い修行を経なくとも
悟る方が大勢現れています。
時代的にもそのような覚醒者が多く現れる時代に入ったとも言われています。
仏教とか宗教に関係なく「悟り」を体現する人の多い昨今。悟りや覚醒について
アレコレ語るスレです。

209名無しさん@京都板じゃないよ2017/01/24(火) 07:50:10.63ID:PIGaRPynK
呼吸に集中することにより、集中力を鍛えるのが「止」の行である。
雑念が浮遊する心を制御する練習である。 で、この集中の練習をする過程で、同時に、観察の練習も始まっているのである。
集中しようとしても、次々に雑念が浮かんでくるようす、集中することによって、それが消えて行くようすなどに気付くことができるのである。
「止」である程度心の制御ができるようになってきたら、高まった集中力をもって、心の観察を「観」の行として取り組むのである。
この、観察は、心だけでなく、身体も対象なのである。
心に思いや感情が生じたり消えたりするときに、身体にどんな反応が起こるがも観察するのである。
最初に呼吸に集中する練習を積むことにより、微妙な呼吸の変化にも気付けるようにするのである。
不快な感情があるとき、身体が道反応するかを観察するのである。
で、それをじっと観察することにより、どんな効果があるかは、自分で繰り返し試してみるのである。
勿論これは、いつでもどこでもできるのである。

210名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/08(水) 09:22:33.09ID:vKk3q1TT0
>>207
書かれてあるその通りです。

わたしはその事を、観ているものは誰と言っています。

211名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/08(水) 09:26:33.27ID:vKk3q1TT0
>>209

この行動を続けていきますと、思い、感情などは身体から生じているのでは
ないかと

212名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/08(水) 10:28:41.43ID:vKk3q1TT0
スクリーンのようなものと観たとき
他とはそのスクリーン写ったもので
他それが有るのは、自の中のスクリーンの上であり
となると
自らもそのスクリーンの上であり

自も他の区別は、本来的には無いのではないかと

213名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/11(土) 12:11:29.18ID:lgxHqyzWK
>>210
ただ一つの意識なるものが、本当にあるのだとして、そのただ一つの意識であることを忘れた自我の意識が見ているのでありましょう。

214名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/11(土) 12:13:57.60ID:lgxHqyzWK
>>211
身体以外にないであります。

215名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/11(土) 12:17:23.79ID:lgxHqyzWK
>>212
なるへそ!へそのごま!
自他ともにスクリーン上なら自他の区別なしとは!
そんなこと思ってもみなかったであります。
吟味してみるであります。
ありがと。
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)

216名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/13(月) 07:09:39.26ID:IrYZmjwMd
唯識

217名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/13(月) 11:05:49.29ID:yiLVH8/r0
この様な話があります。

馬祖が、弟子の百丈と歩いていました。
野原から鴨の一群が飛び立って去って行った。
それを見た馬祖が、百丈に尋ねた。
「あれは何だ」
「野鴨です」
「どこへ飛んで行ったのか」
「わかりません。ただ飛んで行ったのみです」
馬祖は、いきなり百丈の花を強くつまみあげた。
思わず、百丈は叫んだ。
「痛いっ!」
すると馬祖は言った。
「なんだ、飛び去ったというが、野鴨はここにいるではないか

218名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/13(月) 22:04:06.69ID:53P445PI0
>>214
脳の活動を測定すると、意思決定を下す7秒前にその決断を予測できるという研究が本家で紹介されています
Nature Neuroscienceに掲載されたこの研究では、被験者がボタンを手で押す際の脳活動を測定したところ、
被験者に「どちらの手でボタンを押すか」という意思決定が起きる7秒前に前頭葉前頭局における活動が測定でき、
その時点で被験者が右手でボタンを押すか、左手で押すかを予測できたとのことです。
研究では被験者が自分の意思を意識する前に、どちらの手でボタンを押すかはすでに意識下で決断が下されている、としています。

219名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/13(月) 22:42:46.35ID:DalcRBCRK
>>218
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)
えっ!0.7秒ではありませんか?
いずれにしても、
そもそも無我なら自由意思とは・・・・とか問わなくて済むので楽チンなのでありますが、
へたに自我があもんだから、決定論は嫌だぁ〜い! って、思ってしまうくまであります。
無我で、不二一元なら、そんな観念何の意味もないのでありましょうが、
自由意思があると言うことが、錯覚であると言う程度のことは、自我そのものが錯覚であると言うことに比べれば、まだどうにかこうにか、理解できそうな気がするであります。
どんな小さなことでも、物事の複雑な因果の全てを解きほぐすことは困難であり、そこに意思が関与するとしても、複雑な因果の要素の一つに過ぎないので、
顕在意識による意思決定より先になされる行為が決まってると言うことがあっても不思議ではないようにも思えるであります。

220名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/14(火) 01:41:37.90ID:DpDW3Qhc0
このテストは以前から複数の人が実験をおこなっているようです
測定器の精度が年々上がっているので
その時間が長い前から変化を始めていることがわかってきたようです。

221名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/14(火) 01:49:01.68ID:DpDW3Qhc0
このはなしを医療関連の方と話していたとき
これって反射ですねと言う言葉が
印象的でした
つまり身体の変動が心を生み出すとでもいいましょうか

222名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/14(火) 02:07:22.40ID:DpDW3Qhc0
このことは簡単に言ってしまうと
悲しいから泣くのでは無く
泣くから悲しいといいましょうか

ともあれわたしが泣いているのでは無いなら
つまりわたしはいない=無我ということを言っているように
思えるのです。

または我ならざるものを我と勘違いしている=非我とでもいいましょうか

223名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/14(火) 07:58:25.07ID:UK78AdgdKSt.V
>>221
ググってみたら2008年にたくさん引用されてたであります。
この実験からどのような仮説を導き出したとしても、「反射」 としての行為に関与する「意思」以外要素は何か?謎が深まってしまうくまであります。
>身体の変動が心を生み出す
←そのようなことはあるかもでありますね。
て、言うか、心も身体も、不二であり、ともに幻想と言うことに近付けるかもでありますね。
>>222
>わたしが泣いているのでは無いなら
つまりわたしはいない=無我ということを言っているように
思えるのです。

←そのように思えて、そのように実感するのであるならよいのでありますが、今はくまには難しそうに思うであります。

意思の前後がどうでも、結果の違いで喜んだり悲しんだりするくまは引き続きいるでありましょう。
けど、反射としての感情を全て幻想として見極めるための取り組みを続けてみたいであります。
 ‖      ‖‖
‖○∩_∩ ∧ /‖○
‖((´∀`)(゚Д゚‖))
○∧_∧∧_∧ ‖
.((-へ-(・(ェ)・)/‖ ∧
ヽ   (   つ‖(゚*
`| | | | | ‖/ /
(_(_(_)_) ‖

224名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/14(火) 20:27:21.83ID:gcvNhDX1aSt.V
[HD] ガッテン!「ボケない!脳が若返る“めい想パワー”SP」
https://www.youtube.com/watch?v=uiYaYjtS-R4

マインドフルネス瞑想
https://www.youtube.com/watch?v=4bo-KrT1qSQ

225名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/14(火) 22:01:23.04ID:DpDW3Qhc0
慈悲の瞑想というものがあります。ご存じとおもいます。
わたし、親しい人、嫌いな人、嫌っている人、いきとしいけるもの達
とありますが
この視点で見たとき、これらすべてがどこにあるのかと言うと
すべてこのスクリーン上にあることになります。

すべて同一の一つのもの
じつはスクリーン

そしてそれはどこにあるのかと言えば、自分の心の中にあります。

親しい、嫌いというものに慈悲を向けると言う事は
このわたしの中に実は、慈悲を向けていることになります。

様々に向けられた慈悲の目は
すべて自分に向けられていた..........

みんなの幸せは、わたしの幸せとおなじです。

226名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/14(火) 22:56:13.27ID:UK78AdgdK
>>225
無我であり、自他の別がなければ、他の命を自の命のように扱うのが道理でありましょう。
無我の実感を得れてなくても、無我を実感しているように行為するかとは、良いことかもでありましょうが、
自らの心の観察に際しては、ありのままに、憎んでいるなら憎んでいると、怒っているなら怒っていると、恥ずかしいなら恥ずかしいと、ありのままに観察し気づいていることが大切でありましょう。

ありのままの自分、そのありのままの「観念」としての自分も、幻想のように消えて行く自分でありますので、仮に一時的に苦しんでも、その苦しみも幻想のように消える。
その辺まではたどり着いたでありますが、
それでもやっぱりくまはくま。

くまがスクリーンと言うとき、それは、思考、感情、感覚等それがあることに気付いている意識の存在。
内容=映像であるところの思考、感情等が映ってなくても、それが映ってないことに気付いている意識は存在し、内容のない意識は、自分のもの感が希薄なような気がするのでありますが、
それもまたくまの自我の思考であり、実感とは違うのであります。
   ∧∧
  (-・(ェ)・-)
  _| ⊃/(___
/ └-(____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

227名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/16(木) 23:28:30.22ID:d2ZGCIrja

228名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/19(日) 10:02:13.41ID:keeiixPYK
∧_∧
(・(ェ)・`)
./) /)
∪∪ ̄//"⌒
 ̄ ̄//""゙"
天気が良いので、無我について語ってみるのである。

無我とは、自分が誰だかわからなくなっちゃうことではないでありましょう。

自分のもの、自分の考え、自分の感情、他人と自分、と言うとき、自分のもの、自分の考え、自分の感情 自分の存在が傷つかないように守ろうとするのであります。
守ろうとする自我がなければ、傷つく主体はなく、不安になることも、恐れることもないでありましょう。

感受して、分別して、快不快を生じる過程を幾度も経験することにより、守るべき自我が消しがたく実感されるようになり、不快を避けたいがために、不安になり、恐怖する。

だけど、感受して、その反射として危険を避けることは、無我とは関係ないことでありましょう。
この場合先のボタンの実験のように、7秒前に決まってることはないでありましょう、分別思考の前の「反射」でありましょう。

無我とは、その感受を否定するものではなく、感受するものを主体と認識することが幻想だと言うことなのでありましょう。

分別したり、快不快を感じたりするものが、主体としてあり続けると感じていることが幻想であると言うことなのかなと思うのであります。

無論、この事がそうであったとしても、心身の痛みを感じる今のくまの実感とは異なるのであります。
そうであるのかないのか、確かめてみたいと思うのであります。

229名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/19(日) 20:50:51.73ID:cZdajCPGa
『松果体とワンネス』大天使メタトロン(レイ・チャンドラン)
https://www.youtube.com/watch?v=MvuC3Teyu10

230名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/19(日) 22:04:15.53ID:icSkvD1k0
ボタン実験は、自分というものの存在を
疑わせる実験だとおもいますよ

自分が押したように、だれもが思うのですが
実はそうでは無い

本当は作られたもの、操られたもの
そう見えてしまうのです。

それを称して無我、または非我

しかし、どうもそれだけではなさそうですけど

ともあれ表面的に出てくるこのわたしという感覚
それにこだわる必要も無いように見えてきます。

相当あやしい存在だからです。

231名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/19(日) 22:07:47.05ID:icSkvD1k0
しかし我はいなさそうですが

この意識というもの、相当奇妙です。

そしてこの世界、これも相当奇妙です。調整されているみたいです。

232名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/19(日) 23:43:28.67ID:keeiixPYK
>>230
↓ある掲示板から借用です
>1.マハルシの「あるがままに」
「何であれこの身体がすること、何であれそれが通り抜ける体験は、その身体が正体を現した時既に決定されている。」
「現状における困難は人が自分を行為者だと考えていることにある。全てをなすのは高次の力であり、人は単なる道具にすぎない」
「想念が起こる度にこの想念は誰に起きたのかを探求しなさい。その答えは私にだろう。そこで私は誰か?と問えば想念は静まるだろう。」
だそうであります。

このことを科学的な視点から
>本当は作られたもの、操られたもの
そう見えてしまうのです。
と、言うことなのでありましょう。

で、ありますが、くまにとりましては、その実感を得れるかが重要でありまして、
心身の痛みを感じる限りは、
その、作ったもの、操ってるもののことを、自我、あるいは主体と仮定した上で、その不在を実感できるまで、取り組みは終わらないのであります。

刺激になる、助言をいただき、ありがとうであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
(つ旦と)
と_)_)

233名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/20(月) 04:42:50.43ID:nyXG9Fkq0
古ウパニシャッドは、仏教より以前からそんざいするインドの思想なのですが
その中の我というのは、アートマンと呼ばれることは
よく知られています。
それは心臓に宿ると言われているらしいのですが
そのようなものはどこを探してもみつからないので
それが固定的実体は無い、つまり我はいない無我の意味だと思います。

ただ我という実感があるのはなぜか

それは考えているから、そう思えるのだと思います。
まあよく言われる色受想行識の流れ

それ流れ自体が我の正体では?

234名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/20(月) 04:46:34.90ID:nyXG9Fkq0
取り組みはおわりませんね

この流れるものは、何が起こしているかと言えば
このいのち生命なのでしょうね

235名無しさん@京都板じゃないよ2017/02/20(月) 12:14:46.43ID:FTbNKP4l0
本当のところは、瞑想しないと分からないよ。

236名無しさん@京都板じゃないよ2017/03/28(火) 06:43:27.52ID:WAzVzFqEM
>>28
子猫も恐ろしい存在
殺戮という行動を起こさせる

237名無しさん@京都板じゃないよ2017/03/29(水) 12:56:28.78ID:xycr10BkMNIKU
>>217
なるほど
百丈に意地悪をするために問うとはとんだ腐れですな馬祖も

238名無しさん@京都板じゃないよ2017/04/25(火) 16:59:51.02ID:/S5/zLu20
>>233
そうでしょうね。
般若心経で五蘊は皆「空」ということが無我ということですね。

般若心経については下記もご参照下さい。
http://ncode.syosetu.com/n3313cy/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be20a4887bc3d3353f527d3636c44e3)

239名無しさん@京都板じゃないよ2017/08/01(火) 12:00:56.48ID:D0o+xh9u0
電車の中で座禅するとして、印は何がオススメですか?
余り目立たない感じで。

240名無しさん@京都板じゃないよ2017/08/03(木) 06:14:16.28ID:5fXsxbJD0
>>237
馬祖は親切なかたです。

241名無しさん@京都板じゃないよ2017/09/29(金) 00:14:12.72ID:nqfraVoT0
>>237
馬祖は親切に野鴨が飛んだのではなく、百丈の心が動いているのだと教えてくれたのですよ。

242名無しさん@京都板じゃないよ2017/09/30(土) 14:42:01.99ID:bDwFj+bs0
(´・ω・`)いや、無理に慢心を抑え込む必要はない。
慢心を抱く理由は、他者の優れた点を見ようとしない、あるいは見る技術を持たないからだ。
全てにおいて自分が他者より優れているということはない。
相手は私より、必ず何か自分より優れた点を持っている。
それが見えるようになれば慢心も自然と消えるのではないだろうか。
つまり相手の幸せを願うことだ。

243名無しさん@京都板じゃないよ2017/10/05(木) 17:18:04.77ID:sTPZVLzqa
>>239
立ってる場合か、座ってる時か分からんが、特に印に拘る必要は
無いと思う。
印などに捉われることなく行えばよいのでは。
座っている場合、敢えていえば、力を抜いて伸ばした左の手を
右手で覆うように軽く手を添えて握る「さ手」のような形とかなら
違和感が無い。

244名無しさん@京都板じゃないよ2017/11/06(月) 12:20:19.46ID:SIjHXGU20
え?座禅して踵で底丹田に圧かけて、ドライオーガズムになることじゃないの?

245名無しさん@京都板じゃないよ2017/11/06(月) 22:57:14.37ID:98bBaPsF0

246名無しさん@京都板じゃないよ2017/11/06(月) 23:42:38.02ID:XCAmwg2oa
その「瞑想の心得 」は参考にならんわw。
他人に教えるというより、本人が本人なりに確認しているように
おもえる。

247名無しさん@京都板じゃないよ2017/11/07(火) 03:19:54.27ID:7usCqhzDa
目指すは無意識なんだろう
鎌倉建長寺の座禅コーナーはフリーでいい、背中丸まってても笏プレイされずに済む

248名無しさん@京都板じゃないよ2017/12/05(火) 23:54:19.43ID:A75SIM1z0

249名無しさん@京都板じゃないよ2018/03/04(日) 00:46:46.68ID:DDCd3DM00
あげます。

250名無しさん@京都板じゃないよ2018/03/30(金) 22:08:55.90ID:yF9jZgjA0
フルフィルメント瞑想  エターナルラブ瞑想
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1522412725/

251名無しさん@京都板じゃないよ2018/04/29(日) 23:51:53.77ID:fgrlt1msaNIKU
ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想は、「謙虚な心」が余り育たない気がする。

長年それをやってる人を観てそう感じるんだが・・・

252名無しさん@京都板じゃないよ2018/05/19(土) 22:32:43.51ID:+7lsMIQ70
当たり前だけどまずはテレビやネットなどを完全に遮断しないといけないね、なるべく原始的な生活
結局悟りって理屈ではなくて大自然を見て「我は宇宙の一つ」て感じなんだろうけど肉体的に悟るならば断食は当たり前なのかな
でも感覚遮断して脳内物質出してもいいけど、普通に社会の中で生活してて悟る方が何というか人間的な感じかもしれない
あと自分は美しい音楽に集中して聴き入ってる状態にもなんだか瞑想を感じる

253名無しさん@京都板じゃないよ2018/05/20(日) 01:08:04.00ID:ah4/1vCe0
三大欲を初めとしたあらゆる欲からの解放
でもそれってやっぱり自死に近いよね

254名無しさん@京都板じゃないよ2018/05/20(日) 01:19:46.35ID:ah4/1vCe0
結局はいわゆる「無駄のない生活」に行き着くとは思う
それはなるべく自給自足してくことか

255名無しさん@京都板じゃないよ2018/05/20(日) 01:54:14.62ID:ah4/1vCe0
改めて平和とインフラには有り難みを感じるね

256名無しさん@京都板じゃないよ2018/05/20(日) 02:05:23.52ID:ah4/1vCe0
目覚めのいい朝と太陽の光にも

257名無しさん@京都板じゃないよ2018/05/23(水) 21:54:57.53ID:jGLA6uLLa
>>254
「無駄のない生活」と「自給自足」の結びつけが良くわからない。

インド仏教や上座部においては、出家者の生産活動そのものを諌めていたから
「こつじき」によって食を得ていた。勿論「自給自足」は論外だからそんな事は行なわなかった。

中国を経た仏教に於いては、禅宗系にやや「自給自足」の傾向はあるが、他の宗派においては
特段目立った其の動きは無い。

資本主義に於いては、仕事が細かく分業化され、自給自足するよりも「餅は餅屋」に委ねたほうが
効率的で「無駄のない生活」が出来ると考えられるから、自給自足によっては、却って無駄を生む
生活となってしまう。

しかし物事深く考えてみると、何が無駄で何が効率的など簡単に答えは出ない。生産効率の
イイことが全てではない。無駄と思えることが案外有用なことも少なくないのだ。

258名無しさん@京都板じゃないよ2018/05/23(水) 22:28:42.47ID:LwOV7H5P0
確かに宇宙規模で観たら無駄も効率も水の泡だよね

259晴明公2018/06/07(木) 09:40:31.67ID:1Ona++5W0
キリスト教と陰陽道ひっつけた、アーマン観音の呪文、アークスで2時間やってみろ。こういう子がええ、丁寧に物事推し進めたい子がええ。

新着レスの表示
レスを投稿する