NHK土曜ドラマ ちゃんぽん食べたか [無断転載禁止]©2ch.net

1名無しさん@お腹いっぱい。2016/05/28(土) 18:32:04.73ID:7tO/6GUK
2015年5月30日−8月1日放送

キャスト
佐野雅志:菅田将暉(少年期:大八木凱斗)
古田政美:本郷奏多
樫山  満:間宮祥太朗
菊田保夫:泉澤祐希
岡倉洋子:森川 葵
佐野喜代子:西田尚美
佐野雅人:遠藤憲一

スタッフ
原作:さだまさし『ちゃんぽん食べたかっ!」
脚本:尾崎将也
演出:清水一彦、川野秀昭
音楽:渡辺俊幸
制作統括:真鍋斎、谷口卓敬

337岡田惠和2017/09/21(木) 20:31:38.76ID:aRsvCePZ
ある意味“ユートピア”のようにも見える『ひよっこ』の世界。

「敵がいるとドラマは動くんですけど、敵がいなくなると解決するので……。たぶん人生って、敵がいようがいまいが、基本ままならないものだし、
自分の人生経験からも、何かがうまくいかなかったことが、他人のせいであったことがあんまりないなって。

 これまでドラマみたいな敵役の人には会ったことがないし、僕をうまくいかせないためだけに生きている人はいなかったし(笑)、
人間を一面的に描くことはしたくなかったんです。なので唯一、救えなかった登場人物は(実からお金を盗んだ)ひったくりの人くらいかな(笑)」

338名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/25(月) 15:23:15.01ID:LLN0Cmom
 そして、演出を手掛けた岸善幸さんの大胆さと素朴さも素晴らしかったと感じる。お涙頂だい的な台詞や表現は皆無に等しく、淡々と流れるシーンとシュチュエーションが突き刺さって来る。
誇大な表現や華美な演伎を極限まで削ぎ落とし、役者の感情が高まる迄、心と時間をじっくり温めながら撮影に挑んだのであろうと想像するが、
ある意味、贅沢な時間を過ごせたに違いない。それは、俳優にも製作者にも貴重な経験になったと思う。映像を拝見すると、
撮影には民生用のビデオカメラやデジタルスチルカメラの動画撮影機能を利用したと感じられる部分が多くあり、莫大な予算と壮大なスケールで描かれたドラマに対し、
極めて低予算で制作されたドラマの成功例と呼べるこのドラマは、海外の、特に、ヨーロッパの映画祭やドラマフェスティバルに出品すれば、確実に受賞出来る秀作と言える。本当に、とても良く撮れたドラマだった。

339名無しさん@お腹いっぱい。2017/10/03(火) 15:15:47.16ID:BRBjrYQG
小泉今日子のドラマだと、
そういう汚れた部分を自分もそういうとこあるある、って感じで
共感持てる表現でアッサリ化させてたなあ
わざわざウンチが出てくる様子を時間かけてネチネチ表現する感じなんだよこのドラマ

岡田脚本はリアルの中に大人のファンタジーを散らすのが得意で
坂本脚本はリアルの中で大人の生々しさを追求するのが得意だと感じる

山田太一ドラマ:
人が抑圧している本音を発散させてストレスを解消させる→
自由に生きていいんだよ。
藤本有紀ドラマ:
人が隠している弱さを開放して気持ちを楽にさせる→
無理に頑張らなくていい。たいていのことは時間が解決する

ちりとてちん
いい意味で 松竹新喜劇を現代風に染め直したような脚本だったと思う。
しかも「笑わせて最後泣かせる」のではなく
「笑いと同時に涙がでてくる」という最も難しいことを
いともたやすくやってのけた脚本家には敬服する。

340佐藤忠男2017/10/05(木) 22:22:03.26ID:5e/u4Tjy
「美化した自画像を世界中が喜んで買って見てくれる国である。厳密にいえばこれはいまではアメリカ一国である。(中略)アメリカは自由主義を国是にしているだけに自己批判の精神が旺盛で、自分たちの社会の恥部も積極的に描く気風を持っているから、
美化ばかりしてはいないという反論もあると思うが、じつはその自己批判的な作品でさえ、アメリカの自由さ、闊達さ、強さを強調し、その、嫌味なまでの美化となっていることが多いのは認めないわけにはゆかないだろう」

「他方、自分たちの作った映画を広く世界中の人々に見てもらう機会をほとんど持たず、自分たちの姿はただ、なにかロクでもないことが起ったときに若干の先進諸国からかけつけたカメラマンたちに撮られて世界中に紹介されるだけという多くの国がある。
ロクでもないこととは、内戦、暴動、飢餓、災害、難民の発生、などであって、それをよそ者のカメラでまさに客観的に撮られるとき、そこには美化は生じない。ジロジロ見られるだけである」

「日本はどうだろうか。まあ両者の中間というところだろう。自己美化を自己評価以上に感心して見てもらえて有頂天になる場合と、ジロジロ疑わしそうに見られる場合と、両方が極端に分かれていて、自惚れと誤解への憤慨の間を右往左往させられてきたものだ」

341名無しさん@お腹いっぱい。2017/10/06(金) 04:16:57.18ID:iHEVqRPX
いしかわじゅん先生の「タイガー&ドラゴン」評を無断引用しておきます。
  ★  ★  ★  ★  ★
「タイガー&ドラゴン」は、落語を毎回下敷きにしてるようなんだけど、ちょっと無理がある。
クドカンは勢いがあって面白いけど、たぶん落語には興味がないし知識もないんだと思う。
だから、ストーリーにただ材料として嵌めてってしまう。
登場人物が「GU-GUガンモ」を読んでるのをちらっと見せるように、
落語とかそのニュアンスみたいなものは記号のようなもので、切り貼りして背景に使ってるだけなのだ。
まあそういう使いかたもあっていいけど、ぼくはそのやりかたはあまり面白いとは思わない。
落語を話の縦筋の太い一本に使うんなら、もっと落語という意味自体を使ってみたいと思うほうだ。
登場人物の、名人達者という設定の落語家たちが素人丸出しの噺をやるたび、かなり嫌になる。
それは時代劇の剣豪という設定の登場人物が剣の構え方すら知らなかったりするのと同じで、
まあそういう一種の記号だと思って見ればいいんだけど、好きなジャンルだとそれがしにくい。
もちろん、クドカンはおそらくそういうやり方を意図的に取っているのだ。
だから不満をいってみてもしょうがないが、意味までを材料に使えばもっと重層的になって面白くなるのにとは思う。
それを面白いと思うか思わないかは、趣味の問題だからなあ。
仕方がない

342蓮見重彦2017/10/06(金) 20:07:23.29ID:iHEVqRPX
著者の批評スタイルは「表層批評」と言われます。スクリーンに映るもの、すなわち「表層」を観ることにより作品を批評することです。じつはこれがけっこう難しい。
たとえば、わたしたちが小津の代表作『東京物語』を語るさい、「近代化により変容していく家族の物語」というような言い回しを使いがちです。けれど、そうした「物語」はスクリーンの上に映像として焼きつけられたものではありません。
2時間の映像のつらなりから具体的な細部を捨て去り、ある一定の型にあてはめることで、つくりあげられたにすぎません。
著者は「物語」に還元することなく、確実に眼に見えるスクリーン上の映像のつらなり(著者のことばによれば「説話論的な持続」)から、小津作品を読み解くことを試みます。

一例を挙げると、小津作品にしばしば指摘される、たがいに向きあうふたりの視線のズレ。このズレが単にイマジナリー・ラインの法則を守ら「ない」ことからくる結果だ、という否定的な言辞を著者は拒否します。それは映画の虚構ないし限界をあばくための演出だと述べます。
カメラはふたりの登場人物の瞳をそれぞれとらえることはできても、見つめあうふたつの瞳を結ぶ視線をとらえることはできない。そのため見つめあうふたりを映像で表現する場合、
切り返しショットという映像技巧を使い、あたかもふたりが見つめあっているかのように編集せざるをえない。そもそも、わたしたちはふだん日常のなかで映画におけるように長く見つめあうこともない。
著者によれば、視線のズレはそのような映画の作為性をあらわにし、観客に映画の制約を意識させることで、説話論的な持続に緊迫感を与える小津の企みだというのです。

343名無しさん@お腹いっぱい。2017/10/15(日) 18:19:06.04ID:SoSW4nAe
明治(夏目漱石・森鴎外)、大正(芥川龍之介・有島武郎)、昭和(宮沢賢治・太宰治)と、それぞれ2人ずつ、
吉本隆明が愛好する作家を取り上げ、その作品中、<父の像>がどう描かれ、時代とともにそれがどう変遷してきたか――を語り下ろした書。
漱石『夢十夜』に触れて――。
《じぶんの中に不安というものがあるとすれば、その不安がもちろん親からあたえられたことは確かでしょうが、親からあたえられただけではなくて、
親の親とか、親の親の親とたどっていくと、何か祖先からあたえられた、とても不気味な遺伝だという考え方もできます》
・鴎外「カズイスチカ」に触れて――。
《父親のそういう態度、腰弁で役所に勤めに行ってまた帰ってくるという繰り返しの中に、父親のすばらしさを見つけ出すことができている。そこが鴎外の偉大なところというか、鴎外を一級の作家にさせたところだと思います》
・芥川の「大導寺信輔の半生」からは、こんな引用をする――。
《「殊に彼よりも背の低い、頭の禿げた父を憎んだ。父は度たび学校の保証人会議に出席した。信輔は彼の友だちの前にこういう父を見ることを恥じた。同時にまた肉親の父を恥じる彼自身の心の賤しさを恥じた」》
・また、吉本自身の父・順太郎についての思い出のひとつ――。
《ときとして貧しさのために蒲団をかぶって泣いたことがあったが、それは不如意のためではなかった。父のあくせくとたえまない働きが、酬いられることがない場面を身近に感じたとき、
父の酬われのなさが、いつまでもつづくようにおもえることが、口惜しいとおもえて泣いた。
 父のかんがえる貧困ということの核心は、委縮してゆくじぶんということにあったようだ。父が、貧乏すると人間が小さくなるもんねと語るのを、しばしば小耳にはさんだことがある》

344名無しさん@お腹いっぱい。2017/10/17(火) 18:48:25.91ID:IcMcUzIw
落語あらすじ」を論じても意味がない。一つの演目が一つの型に固定化されることは決してない。
●第一章 芝浜
耳で聴く文学作品――三木助
ドラマティックな感情の注入――談志
人間味あふれる夫婦の機微――志ん朝
型の自由なアレンジ――小三治
現代的なホームドラマ――圓楽
淡泊さとダイナミックさ――馬生・権太楼
台詞を膨らませる――さん喬
笑いと涙のラブストーリー――談春
可愛い女房が起こす騒動――志らく
新しいサゲの開発――談笑
軽さの可能性――白酒・一之輔

345吉本隆明2017/10/21(土) 16:37:25.65ID:qIayEgBG
吉川文学にはあって、これまでの純文学に欠けているものは何なのか。挙げ
てみるとまず第一に物語性ということに違いない。純文学では物語性はどうし
ても第二義的になってしまう。初めから作家が重きを置かない。
 吉川英治の物語性の背後には、日常的な、ごく普通の生活から発する好奇心
があるのではないか。日常生活を送りながら体験するさまざまなこと。どんな
ことでもいい。あの時にけんかをしたら涙がこう出たとか、いや別な女はこん
なふうに涙をためたとか、そんな日々の生活の機微に大そう惹かれる気持ちが
物語性の細部を成り立たせている。
 純文学作品だったら、それは第二義的でいいと思うようなささいなことかも
しれない。でも本当は大事なことなのだと思う。

346吉本隆明2017/10/21(土) 16:47:38.31ID:qIayEgBG
男女の恋愛関係のなかでいちばんむずかしいのは三角関係なんです。三角関 係というものを最後まで追いつめていくと、どうしても死ぬか生きるかといい
ますか、相手を殺してじぶんの恋を成就するか、それじゃなければじぶんが死 ぬかというようなところに追いつめられるほどきついものです。
 一人の女性をめぐって二人の親しい人間が葛藤するのが三角関係の小説で、 これは不倫小説とか浮気小説とはまるで違います。何が違うかというと、二人
が親しいこと、もしかしたら広い意味での同性愛に近いかたちで親愛感をもっ ていることが三角関係小説の大きな特徴です。これがなければ、単なる姦通小
説で、トルストイの『アンナ・カレーニナ』とかフローベールの『ボヴァリー 夫人』みたいな小説になりますが、漱石が書くとそうはならないで三角関係小 説になってしまいます。
つまり三者三様にギリギリに追い詰められて、『こころ』の場合では親友は 自殺し、自分は下宿の娘さんと一緒になって暮らしますが、やがて年を経て明
治の終わりとともに先生も自殺して終わります。つまり、三者三様に自滅して いくようにもっていく。大なり小なりそれが漱石の主題になってきます。

もし西洋の小説なら、三角関係になったら、女がどちらかの男を選ぶ。しかし漱石の小説でははじめからそのような可能性は考えられていない。それが日本の後進性であり、
西洋風の自我がそのまま日本には通用しないことを示すのだという

三人というのは、共同性のいちばん原型にある関係で、恋愛感情とか男女の恋愛という対幻想とはぜんぜんちがいます。本来ならばちがうはずなんです。
ですから、三角関係における恋愛というのは大なり小なりごまかしであるか、二重操作であるか、あるいは一方の対幻想の場面ではもう隠しておく、そういうでしか成りたたないのです

347吉本隆明2017/10/21(土) 17:05:11.91ID:qIayEgBG
僕は言葉の本質について、こう考えます。言葉はコミュニケーションの手段や機能ではない。それは枝葉の問題であって、根幹は沈黙だよ、と。
 沈黙とは、内心の言葉を主体とし、自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し、問いかけることが、まず根底にあるんです。

俺だけにしか分からない」というのが、自己表出性。しかし「俺だけにしか分からない」と誰もが思うわけですから、その「誰もが」思う表出性が指示表出性です。
優れた作品(=優れた表現)というのは、ディスコミュニケーションを共有するものなわけです。
これが吉本の〈表出〉概念の根源です。〈表出〉の本質は、まずもって〈沈黙〉としての自己表出にあるわけです

文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、
俺だけにしか分からない、と読者に思わせる作品です、この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、と思わせたら、それは第一級の作家だと思います。

コミュニケーションは「指示表出」。
俳句は五・七・五の限られた文字の中に自己表出があって、小説は、筋として「指示表出」があって、
そこに価値が生まれ、間接的に「自己表出」がされている。純文学が「自己表出」で、大衆文学が「指示表出」

「沈黙」は〈自己表出〉であり、コミュニケーションに用いられる言葉は〈指示表出〉である。そして言葉の本体とはそのふたつが
縦糸と横糸として織り合わさったものであると。そしてより重要なのは「沈黙」の方であり、話された言葉はオマケでしかない。

348吉本隆明2017/10/21(土) 17:09:18.02ID:qIayEgBG
インターネット、携帯電話と、コミニュケーション手段が発達していくのが最近の世の趨勢で、
これに逆行することはできないんですが、コミニュケーション自体が自己目的化したら、それはちょっと病気です。

文化芸術というものは、 人を強制したり、または、 人に導いたり、ということはできないんです。
つまり、もともと、役に立たないことです。 そのかわりに、自由度があるんですよ。

帰するところ、最も重要なことは何かといったら、自分と、 自分が理想と考えてる自分との、
その間の問答です。「外」じゃないですよ。つまり、人とのコミュニケーションじゃないんです。
先生だったら「子どもに対して」ということじゃありません。 子どもに対してちゃんといい授業を見せる、
実行するということは主たることではないんです。 人に対して、というのは あとでいいんです。
自分と、自分が理想と考えるもの、そことの内的な問答が いちばん大切なんです。
先生だったら先生なりに「俺はどうなればいいんだろうか」と、考えていることが必ずあるはずです。
人になんか、わからなくていいんですよ。
自分だけの心の中に問答も反省も絶えずある、ということが、「自分そのもの」にとって大切なんです。
問答の道の行き帰りの回数が多くなればなるほど、そこが豊かになります。それは、最も価値あることです。
先生だけじゃなくて、何の職業であっても、 問答をくり返したそのことは、ひとりでに、自然に出てくるんです。
無理なんかちっともしてないところで、 完全に出るし、わかります。
子どもは鋭敏だから、なおさらよくわかるんだけど、 大人にだってわかられますよ。
自分の中の問答の行き来が豊富になって、 自分の中にたまっていくことが、いちばんです。
先生は、子どもに何か教える必要もないし、「おまえ、こうしろ」なんて言う必要もありません。
問答の道を豊かにくり返している先生が、ただ自然に振る舞っていること、 それが子どもにはいちばんいいんです。

349大江健三郎2017/10/21(土) 17:21:28.90ID:qIayEgBG
\\\\\\\\\\\チェルフィッチュ\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
言葉以前の叫び、物語化する直前の身振り、意味になる前の無意識、世界のすべてに繋がる得体の知れないものが
そこにあるように感じられた

いま情報テクノロジーの支配する社会で、もっとも痩せているのが、「文学の言葉」です。「ケータイ」とインターネットの表現が、
この国の人間の表現をおおいつくす時代が遠からず来るそれが老作家のペシミズムです

若い層から実力ある働き手の層にまで、知的で柔軟な、言葉の革新をなしとげる新種族が登場するはず、と私は信じます。その革新の手がかりとなるのが、
この国の近代化でつねにそうであったように「文学の言葉」だと続けると、我田引水にすぎるといわれるかも知れません。
しかし、漱石のみならず、諭吉も、まず「文学の言葉」の人だったと考えて、かれらのもたらした流れを辿り直してはどうでしょうか?

私は永く「文学の言葉」で生きてきました。そしていま、社会の表現と認識の言葉をリードしてゆく層の人たちが、「文学の言葉」と無縁になっているのを実感します。
また外国の知識人が、日本の知識人の言葉をどこに見出せばいいか、戸惑っているのにも気付きます。

「文学の言葉」を、知的な共通の広場に推し立てたいのです。上質の翻訳にして世界に向けても押し出します。

そして、この国でも海外でも、あの「文学の言葉」に共感した、ということが相互理解のきっかけだった、善き時代をよみがえらせたいとねがいます。

350名無しさん@お腹いっぱい。2017/10/26(木) 02:10:37.38ID:wE/HxT1f
http://trainer-labo.com/index.html

スタニスラフスキー、マイケル・チェーホフ、デヴィッド・ジンダー、ヴァイオラ・スポーリンといった俳優訓練の指導者の概要や最新情報や実戦的なメソッド、また効果や注意点などの注釈をつけたインプロヴァイゼイション、シアターゲームです。
また、簡単なムーヴメント・トレーニングの方法やお薦めの書籍(和・洋)、DVDを紹介するページもあります

351名無しさん@お腹いっぱい。2017/10/31(火) 15:36:33.12ID:7ewBG87s
――岡田さんのドラマを観ていると、突然恐くなる瞬間があるんです。それはホラー映画的な恐さじゃなくて、
もっと足元がグラグラする感じで。『夢のカリフォルニア』で、すごく印象に残っているシーンがあります。夫の元から逃げ出してしまった過去がある恵子(国仲涼子)が、起こられたり罵倒されたりすることを覚悟して、
ファミリーレストランで働く元夫に会いに行くシーンなんですが、すごく優しくされるんですよね。でも、それがきっかけで恵子は壊れてしまう。この時に、なんで誰も悪くないのに、いちばん酷いことになってしまうんだろうと、ショックだったんです。

岡田 僕はその点において自分が山田太一さん的なものを引き継いでいるなと思うんですけど、つまり正論と正論の戦いにしか興味がないんですよ。聖と悪ではなくて、
なんでみんなそれぞれ正しいのにこんな酷いことになるんだろうっていう感じがたぶん好きなんです。例えば『彼女たちの時代』において、
平泉成さん演じる部長の言っていることは一〇〇%正論なのに、なんでこんなに辛いんだろうっていうふうに、あそこを嫌な奴にしてしまうのは簡単なんだけど、それには興味がないんですよね。とたんに自分の中ではペラペラになってしまう。
だからひょっとしたら僕は作家になった時はかなりS体質なんだと思いますね。人が本当に言われて嫌なことはなんなんだろうとか、
単にケンカをするとか罵倒されるとかではなくて、謝りに行って「いいよ」って言われた時がいちばん辛いよなっていうことがあるとか、本当に一〇〇%存在を否定するってどういう言葉なんだろうとかっていうことを考えるのが好きなんだろう思います(笑)。
https://news.yahoo.co.jp/byline/narimareiichi/20170814-00074500/

352名無しさん@お腹いっぱい。2017/11/06(月) 02:51:57.88ID:QHCBhj3N
小津安二郎bot‏ @ozuyasujiro_bot ·
メロドラマは苦手だ。メロドラマは自分より哀れな境遇の人を見て流す涙は楽しいということが根本になっている。
だから出てくる人間は無知な常識外れが多いし、事件にも不自然さがなくてはならない。これはダメだ

353名無しさん@お腹いっぱい。2017/11/06(月) 16:03:34.81ID:QHCBhj3N
(家族観が変化して)僕自身も70年代になると、当時人気のあった『時間ですよ』に代表されるような、みんながいいたいことをポンポンいって、
途中でお父さんが怒ってお膳をひっくり返しても、最後は心が通じ合うという家族像だけでは、満たされないものを感じるようになっていた
山田太一

354名無しさん@お腹いっぱい。2017/11/07(火) 02:52:07.33ID:5nOW8vNV
吉本隆明の好きな映画ベスト5
・羅門光三郎主演のチャンバラ映画(日)
・海を渡る祭礼(日)
・今ひとたびの(日)
・獣の宿(日)
・猿飛佐助(日)

355名無しさん@お腹いっぱい。2017/11/07(火) 03:13:27.57ID:5nOW8vNV
井上ひさし
貧乏で生活が苦しい時に、「お金が欲しい、お金が欲しい」と言っていたのでは、人間落ち込むばかりです。そこで黄表紙では、絶対にありえないとわかっていながら、金が貯まり過ぎるというユーモラスな話を仕立て、金があるとか無いとかという次元を突き抜けてみたわけです。

356名無しさん@お腹いっぱい。2017/11/07(火) 03:30:13.71ID:5nOW8vNV
井上ひさし
駄洒落を愛するということは、同音異義語の多いわたしたちの日本語を愛することと同義である。

357名無しさん@お腹いっぱい。2017/11/13(月) 12:54:43.91ID:TPZvgxgr
ある女性のニュースキャスターが、社会的弱者を助けて彼らも「社会の資源」になれるようにしていこうといった発言をしていました。
これも役に立たない者はいらないというような価値観を背景に感じる発言であると思いますし、こうしたものの捉え方は私たちの社会にすり込まれているようです

みんな同じなんだ、平等なんだというのは、権利の部分で平等なわけで、本当は人間の存在って全然平等じゃないですよね(

山田太一

358名無しさん@お腹いっぱい。2017/11/17(金) 13:36:28.71ID:1IX7zdy4
井上ひさしbot‏
本が父親となれば、たとえばシェイクスピアはホラ吹き親父、モリエールはおもしろ親父、
ドストエフスキイはおしゃべり親父、そしてトルストイは説教親父である。

359山田太一2017/11/18(土) 15:25:25.80ID:uQLRYr6Z
客観的に見たら、とりたてて能力がない子でも、お母さんが「この子は世界一の素晴らしい子」だと思っていることは、
子供にとってはどんなに大きな安定感、安心感になるでしょう。合理的にクールに育てるなんて、もったいない。親だけですからね、「この子は世界一」と思えるのは

文化と何のかかわりもなくニューヨークの瓦礫を見たら、なんて汚いところだろうと思うだけじゃないでしょうか。
ニューヨークはよってたかっていろんな作家がスラムまで美的存在にしてしまった。そういうふうなものが日本の郊外なんかにもあっていいという気がするんですね

(時代の)変化や乱れを悪いとばかりはとてもいえません。ただ、テレビを見たりラジオを聞いたりすると、僕はたえずジャブをくらっているような感じがありますね。そのたびに傷ついている

社会全体として政治的な平等などはあるべきだと思うけど、人間の実存に即した平等なんてあり得ない。一人一人違うから面白いし、辛いし、嬉しいわけです

360山田太一2017/11/28(火) 14:35:16.14ID:j+NVjj5d
愛の家庭」を書くものとか、ポンポンいいあいながら実は愛しあっているというような作品をプロデューサーから要求されても、何だか嘘っぽくて書けなくて困ったんです。
むしろ、表面はやわらかくて当たりさわりのないことをいいあっているけれど、実は心が離れているというほうが今の家庭(1979)

(今の日本が舞台では)非日常的な出来事、極端にいえばカフカの『変身』みたいに、誰か一人が毒虫になってしまったみたいなくらい極端な要素を入れないと、表面穏やかだけど、
実は、というような内面が浮上してこない難しさがある。どうも非現実を引き込まないと今の現実が浮かびにくい(2003)

361名無しさん@お腹いっぱい。2017/12/02(土) 01:18:35.92ID:IRDPdrZK
蓮實重彥

残念なことに、今、日本の社会には、靴をつくることしか知らない人たちばかり、あるいは笛でも椅子でもかまいませんが、
イデアとは全く無縁に特定のものをつくっているだけの職人しかいなくなってしまった。

堺屋太一
官庁や大企業のような巨大組織で確立された仕組みの歯車としてのみ働くのなら、これも決して悪くはない。上位者には絶対服従し、
同等者には巧みに話を合わす技術だけを習得している人間ほど使い易いものはないからである。 「組織の盛衰」

362名無しさん@お腹いっぱい。2017/12/02(土) 14:38:45.85ID:IRDPdrZK
山田太一
弱い人こそ美しいという視点、それは近代人には共感しにくい感受性ですけれど、たとえば口ごもることの美しさってありますよね。
はにかみとか遠慮とかひるみとか、そういうマイナスの美しさへの視点がどんどんなくなってきて

363名無しさん@お腹いっぱい。2017/12/03(日) 18:02:33.35ID:Jcjs3Mqr
大宅壮一ノンフィクション賞,星野博美『転がる香港に苔は生えない』(文藝春秋)
星野 博美 (著) 今日はヒョウ柄を着る日

東京の下町の商店街に生まれ育った著者のエッセイ集。「溢れているのは、人情味ではなく、人間味」だと断言する。例えば小学生の頃、
文房具屋で商品を見ながらしゃがみこんでいると「買うの、買わないの?」とハタキで追い払われた。
お目当てのイチゴの匂いの消しゴムはお金がないから触るだけ。子供心に不機嫌な店主の顔が刻みつけられている。一方、愛想が良いのはパン屋や肉屋だった。
そんな昔話に母が平然と一言。優しかったのは自分の家が工場を営み、工員さんの三食用に大量に買い込む上客の子だったからだ、と。感傷を打ち砕くのが面白い。
写真家でもある著者は、立ち位置で見える「世界」が変わることも語る。表題は「シマウマ柄のシャツにヒョウ柄のスカーフのおばあちゃん」についての考察がもとになっている

364名無しさん@お腹いっぱい。2017/12/19(火) 14:02:49.81ID:ugE6jQ31
山田太一の言葉b
「何、結局こういうことだったの」という形でドラマや小説を読むのは、非常につまらないことだと思うんですよ。僕らは結果を生きるんではなくて、
プロセスを生きるわけでしょう。プロセスがいかに違うか、というその違いの中で、喜んだり悲しんだり、張り切ったりしているわけですよね(1988)

365名無しさん@お腹いっぱい。2017/12/20(水) 15:27:22.46ID:/DkPghhN
井上ひさしbot‏ @inouehisashi ·
われわれ人間には「演ずる」という本能がある。人生は涙の谷であって、たのしいことよりは辛いことのほうが圧倒的に多い。この辛さを幻想の力をかりて少しでも美しくして、
やわらげていくほかに救われようがない。これがつまり演劇性である。

自分の気に入った現実をすべて「カワユイ」一色で塗り潰してしまう。そんなことをしていると、現実Aと現実Bとのちがいがわからなくなる。現実をコトバという鋭利な庖丁で
腑分け(これを認識という)することなしにどうやって生きていけるというのか。

コメディアンたちは手さぐりしながら、だれにも見当のつかない幕切れに向って、必死で生きて行こうとしていた。
そのとき、わたしはニセモノの人生=舞台のほうが現実の人生よりも、
もっとほんものらしく思えたのである。その日からわたしは芝居を書きはじめた。ニセモノの人生に賭ける気になったのだ

おもしろい物語には二つの特徴がある。まず情報が精選されている。次にその情報がよく整理され、効果的に配列されている。

366名無しさん@お腹いっぱい。2017/12/21(木) 16:37:11.81ID:Ff5styom
井上ひさし
折口がたくさんのペンネームを用いた、その背後には別人になるという変身願望があり、
これも自殺願望の心理に通底しているのではないだろうか(以上引用)
つまり自分に新しい名を与えることで、折口は自己崩壊の危機から逃れようとしたのだ。

山田太一
今の社会は「本当」のマイナスとは向き合わず、プラスの明るさだけを求めている気がします。
テクノロジーの進歩がマイナスの排除に拍車をかけている。社会を効率化し、洗練させることを永続的に追求しようとする動きです(2013)

367名無しさん@お腹いっぱい。2017/12/22(金) 17:39:57.65ID:98BVzv7U
山田太一
(レイプやストーカーなどのドラマは)結局それらは、十九世紀から二十世紀の大衆文化つまり小説や映画が開発した“感動のパターン”を踏襲しようとしてるんですね

死をシナリオに書くと)人間はみな死ぬわけですから、そこにはたくさんのドラマがありますよね。だけど、それをいわば商売に使うというのは、ちょっと避けたいというか,
それを出せば楽だけど、そのように病気や死を利用するのはたしなみがないような、はしたないような感じがして(2005)

井上ひさしbot‏ @inouehisashi ·
英雄的独裁者のあらわれる時をすこしでも先へのばすためにも、わたしはドジで間抜けな主人公を次から次へとつくり出して行かなくてはならない。
それらの主人公たちが、疲れた人たちの疲労をやわらげるのに、ほんのすこしでも役に立てば、これこそ作家冥利につきる。

368山田太一2017/12/26(火) 23:41:33.92ID:UhlhSTWP
人間にはカネがほしいとか、そんな分かりやすいことではない動機があると思うんですね。それを整理して物欲、性欲というところで判断しようとするのは、すごく残酷なことだと思います。残酷というよりも乱暴かな(2007)

あきらめるのはとてもむずかしい。よくあきらめるということは無気力状態で何もしないこととは違います。実現可能なことに対する感度をみがいて、
可能なことに執拗になることです。実現不可能なことにいつまでも拘るのは一種のセンチメンタリズムです

能力は万人に公平にあたえられているものでもないし、能力のある人が必ずしも努力をしている人とは限らないし、能力のある人の前では口を閉ざすという社会も、
別の時代から見ると、滑稽で野蛮に見えるかもしれないと思うんです。DNAまで手が届いたんだから

369名無しさん@お腹いっぱい。2017/12/29(金) 05:05:24.93ID:1iMnvu43
山田太一
むしろ悲劇があったほうが(小さな悩みが吹っ飛んで)助かるというような、ある意味で倒錯した、
屈折した部分に僕たちの切実さがあるんだと思う。それは、十九世紀以来の大衆文化が培ってきた文脈ではとらえられない。そういう厄介さの中に、僕らは生きてると思いますけど

370名無しさん@お腹いっぱい。2018/01/02(火) 20:03:29.89ID:YuEC49Wv
山田太一
社会全体として政治的な平等などはあるべきだと思うけど、人間の実存に即した平等なんてあり得ない。一人一人違うから面白いし、辛いし、嬉しいわけです
井上ひさし
「自分は絶対に正しい」という唯我独尊的考え方からはファシズムしか生まれないが、「ひょっとしたら自分は正しくないのではないか」という
劣等意識はとにもかくにも民主主義を生む可能性はあるのだ。どんな下らない民主主義でも、ファシズムよりはいいのである。

神は、理屈など通用しない子どもを相手にしなければならない女性の精神衛生を考えて、女性の頭から理屈を抜いておいたのである。そして神の手落ちは、
この理屈の通じない女性を相手にしなければならぬわれら男性に、理屈のわかる頭を与えたもうたことである。

お客様と作り手たちとは、自分たちではハッキリそうと意識しておりませんが、現在の、この時代の要請をうけて、文化の中継走者の役を果しているのではないでしょうか

駄洒落愛好者たちとは、「別の見方がないだろうか」「他の立場に立てばどうであろうか」という思いやりや心のやさしさや咄嗟の機転をあわせ持った人間たちのことなのである。

371名無しさん@お腹いっぱい。2018/01/10(水) 13:02:15.62ID:0VcKm44U
井上ひさし
芸術家というものは、人間のこころの中から、小さな、しかし燦然ときらめく宝石を取り出そうと苦心する人たちのことで、読者はその宝石の鑑賞者であり、
またじつはそれぞれが小さな宝石の所有者でもある。

小説や戯曲の中の死語の氾濫を防ぐ有効な便法のひとつは、この日本語に顕著な音遊びを、コトバの音としての機能を、意味と同じぐらいは重んずることだろうと思うのだ

堺屋太一
つまり、「量」と「質」を確定して、容易に換算できるようなものが「コモデティ(産品)」なんですね

蓮實重彦 蓮見、蓮実
残念なことに、今、日本の社会には、靴をつくることしか知らない人たちばかり、あるいは笛でも椅子でもかまいませんが、
イデアとは全く無縁に特定のものをつくっているだけの職人しかいなくなってしまった。

372名無しさん@お腹いっぱい。2018/04/01(日) 02:56:07.06ID:1x0TKj9g
http://jp.channel.pandora.tv/channel/video.ptv?c1=&ch_userid=diet45&prgid=47798942
2013-03-26 特集ドラマ ラジオ

373山田太一2018/04/06(金) 14:22:29.90ID:WgOsW1l7
生身の人間というのは論理的ではないですから、論理的に生きようとすると、何かゆがむという気がするのね(

(センチメンタリズムは)被害者面をして自己憐憫に陥るとかね。そういうニセの感情だから、知的な人ほど嫌いなんですよ。けれども、そんなにシビアに僕らは、
そういうところで強がっていられるのか。強がっているアメリカ人は、いっぱい精神科医にかかっているじゃないか(笑

格差社会が続いて格差が大きくなると、下のほうが荒れるということもあるけれど、上のほう、つまり金を持っている人間がバカだということも多くなる

インターネットの進化も医療の進歩も、もちろんプラスの側面は非常に大きいんです。しかし一方で、私たちの感受性を深いところで変えつつある。
チャンバラみたいなコミュニケーションでは、思考も浅薄で単純になっていくのではと心配です

人間って言葉で教えられる部分は、親子の関係では小さいと思います。子どもが小さい時、親を見ているというのは、親が言っていることを聞くのではなく、
日々の生活を見ている。親が道に唾を吐かず、ゴミを捨てなければ、子どももまずしないでしょう

374山田太一2018/04/08(日) 13:00:45.05ID:mNhagH/H
僕はタモリさんを見ると自分が不器用に思え、(ビート)たけしさんを見るとなんだか殴られちゃいそうで、両方とも近よりがたい。
人間の魅力をおもしろさで判断する時代そのものが怖いです(1986)

すごい絵を見ると、とても救われる。くわしくはありませんが音楽もそう。あぁ、この人はこんなに微妙なことを狙っている。実際にはありえないものを、
感覚を総動員して構築している。そういう作品を探して、読んだり見たり聞いたりする楽しみが、ずいぶん自分の救いになっています(2015)

(シナリオを書く際に)頭の中で漠たる構成は考えていますけど、あるシーンにのめりこめば長くなったりします。
それを、ハコ書きのバランスで抑制したくない。なるべくドラマが有機体として動くようにしたい(1998)

375山田太一2018/04/13(金) 17:16:59.63ID:zWZG4eIY
お金が儲かるのが現実的だという人も、能率的なのが現実的だという人も、あるいはそれらと反対のことを現実的だという人も
、みんなそういうフィクションを選んで、それを生きているのだと思います(1988)

法律で罪に対する刑罰は決まっていますが、自責の念は個々人の内面にあってバラバラです。一つの行為で自分を責める人がいる一方で、同じことをして何も感じない人もいる。
一般化しにくい問題なんです。でも、過ちに対する自責の念を持つことがモラルの基礎。(2011)

(デモより)個人の話をこまごま書く文学のほうが、革命的ではないかもしれないけれど、よほど腰が決まっていると思っていた。
しかし、60年安保反対のデモは、その反体制のピークとなり、デモに行かない人は「信じられない」という目で見られたりして、ものすごい盛り上がりでした(2015)

優れた芸術というものは、テクノロジーの進化や新発見と同じくらい、いやそれよりも価値があると思います(2015)

376名無しさん@お腹いっぱい。2018/04/18(水) 21:48:17.44ID:zK4STYGj
(ニーチェの言葉は)「そんなことを言えれば簡単だよ」っていう大人の前では、ぶっ飛んでしまうところもあるかもしれない。
ニーチェ自身だって言葉のようには生きられなかった。普通の生活をしていれば、そんなカッコイイことばかりは言えない(2005)

複雑なことは、口ごもることなくパッパッとはいかないのが当り前です。ただパッパッと答えたりすることがいいことだと思いつづけていると、
それが長きにわたった場合、非常に日本を毒することになるという気がする。
複雑なことをゆっくりしゃべっていいんだ、というふうにならないと(1988)

日常生活をしっかり生きていない人というのは、日常生活を地味に生きている人を笑おうとするところがありますよね(2003)

本当にかなしいときって、かなしみに向かい合ってしまうのも救いですよね。だから、日本の演歌や歌謡曲も悲しいものが好まれる(2015)

(震災や活発化する火山という)状況の中で(東京)オリンピックやパラリンピックを開催するより、「開催は光栄だけれども、
万一を考えた結果、我慢をして辞退する、控える」、津波の後遺症を、こういう形でみんなで共有してもいいのではないでしょうか。参加はできるのですからね(2015)

377山田太一2018/04/23(月) 12:56:37.31ID:pFaG03Yo
人間って本当は実に変な存在だと思うんですよ。一人ひとり変なことを考えているのに、みんなそれを抑圧して一般論でつき合ってる(2011)

人は忘れないと生きていけない面がある。マスコミは「忘れまい」と言うけれど、忘れるのも人間の大切な生理だから(2015)

コミュニケイト全てが善だとは思いません。ある人には嬉しいことが、別の人には非常にうるさいこともあり得ます(2002)

(いまの日本では)依然として差別はあるし屈辱もあるんだけど、熱度があまりない。熱度をこめると現代の物語ではなくなってしまうような難しさがある(2003)

何かしたいと思うけれど出来なかった。それが傷になっていたり、誰かが倒れていて声をかけようかなと思って出来なかったとか、
人間にはそういう暗闇だとか、マイナスの面がどうしてもあるし、それをなくすことはできません(1998)

378名無しさん@お腹いっぱい。2018/04/24(火) 19:09:34.56ID:vy2jgkeb
陳舜臣
推理小説が人にばかにされないような、立派な作品を書きたい、という超月並みな言葉しかありません。
愛好者も多いかわりに、白眼視する人もいるのです。
海音寺さんや山本周五郎さんを高く評価することがいま流行っています。「しかしこれと、 (一行不明)  り区別さるべき現象である。
後者はたんに底の浅い団体旅行化の一例に過ぎない」大衆文学再評価論のあとに、評論家S氏はこうつけ加えました。切歯扼腕にたえませんが、
こうした論は大いに斗争心をかきたててもくれます。作品でもってこの種の説に応酬してやろう、というのが私の抱負の一つです
かの純文学のなかには非常にすぐれたものがある反面、いやしい媚び、それもたくみに取り澄ました姿勢、苦悶なき呻吟の体裁による媚びを感じるものもあります。

379山田太一2018/04/25(水) 13:12:12.57ID:A+1AA3Xu
仮に政治が完璧に行われたとしたって、人間は失恋するし、老いるし、死ぬし、個人としていろんな現実は依然として抱えているわけです。僕は、
なるべく政治とかかわらないで生きていけるような世の中がいい世の中だと思う(2007)

本当に自由が無くなる時は無くなっちゃうんですよ。しかも、ただ被害者というだけじゃなくて、
いつの間にか加害者になっているという怖さね。そういう、戦争の時の一人一人の実感、無力感(2011)

いつまでたっても戦争がなくなりません。話し合いで解決できない。結局、人間は善なんかじゃないと
フロイトは100年近く前に指摘しました。人間は自分の領域以外の人がどうなろうが平気だ、と。残念ながら、そうなのでしょう

どこの国にせよ、爆弾を1発日本のどこかに落としたら、もう敵国憎しでウワーッとなって、とても怖い事態になるでしょう。どこの国にだっていろんな人がいるわけですが、
そんなことは問題じゃないっていう風になるのが最も危険であり、今も少しそういう傾向にあることを看過してはならない(2014

380山田太一2018/05/02(水) 13:04:02.11ID:nFceBbo5
僕らの生活の大半は、他者のモデルがあることによって、すごくホッとさせられたり、助けられたりしています。何でもオリジナルでやれと言われたら、
どうやっていいのかわからず、途方に暮れてしまうでしょう(1999)

世界がグローバルになり、異文化との接触も増え、解釈しなければならないこともあるけれど、他者の現実を畏怖する視点を失って、他者を捉えてはいけないと思います。
みんな、それぞれの切実さで生きているんですよね(2010)

(結婚について)契約とご縁とどちらが成熟した考え方かというと、僕はご縁のほうが成熟していると思う。完全に自立した一人の人間が、すべて自分の裁量に任されて、
間違いのない契約を交わすなんて、結婚においてはあり得ないのではないのでしょうか(2000)

(木下恵介監督『野菊の如き君なりき』の)セリフはね、リアリズムというか、ナチュラルにやったら聞いていられないですよ。恥ずかしくて(笑)。それが成立するのは、あの棒読み。
それも狙って棒読みじゃなくて、単純に下手だっていう…。その下手さを格調に転化させて。あの計算は凄い(2011)

(イギリスの大人気ドラマを見て)日本の若くて綺麗で、好人物ばかりのテレビドラマを見慣れている私には、異世界でした。特別、嫌な人間ばかりのドラマを作ったのではなく、
人間はこんなもんだよ、という共通の感覚があるのだと思いました(2000)

(戦時中について)今だったらなぜ「戦争反対」と言わないのかと思われるかもしれないけれど、戦争は始まってしまうと「反対」なんて言えない。
出征していく人がいて、死んでしまう人がいる。「バカな戦争はやめろ」と言えなくなる。始まってしまうと手に負えなくなる(2015)

作り手の意図から、はみ出るといいんですよね。脚本を書くと細かくコントロールしたくなりますが、それでは生き生きとした楽しさが出てきません。
演出家も音楽家も僕じゃないし、生身の他者を楽しまなきゃ。他者性が入り込んでくることが、つくるおもしろさです(2011)

381山田太一2018/05/04(金) 21:21:26.97ID:mm7Yb3DL
真実は必要だけれども、アリが生まれて死ぬのと人間が生まれて死ぬというのに差なんかないとか、結局最後には死があるとか、
一人だとか、それも真実かもわからないけれど、それでは身も蓋もないというかな、そんなむき出しの真実には、僕らは、耐えられない(2004)

一人の人間が他者に対して、そんなにできることはないんだ、ということを前提にして、子育ても考えた方がいいと思っています(1997)

(バブル時代の)世の中は「可能性」に浮かれていました。だからこそ、何より目を向けるべきなのは、「生きるかなしさ」なのだといいたかった。
人間のはかなさ、無力を知ることこそが大切なのではないかと(2015)

マイナスの出来事によって、感情や感受性が育つというところはやっぱりあると思う。
だから、「マイナスがあったらラッキー」と思う(笑)。「プラスとしてのマイナス」っていうのかな(2014)

人生の、そうですねえ、七〇%くらいは、自分の力ではどうにもならないこと、その時にはプラスともマイナスともわからないもので
、形作られているのではないでしょうか(1998)

382名無しさん@お腹いっぱい。2018/05/18(金) 12:51:48.03ID:XnNXRSId
給料が一番多くても、打率が2割だったらふさぎ込んでしまいます。
逆に給料が一番少なくても4割打てれば、それこそ大喜びするでしょう。
大事なのは、自分が好きな事をとびきり上手にやることです。

ウォーレン•バフェット 総資産6兆円の言葉

383山田太一2018/05/18(金) 13:04:59.58ID:XnNXRSId
このままお金さえ稼げばいいという状況が続けば、幸福な人は誰もいなくなってしまうでしょう。仕事ができる人はいつ
成績を落とすだろうかと不安に駆られますし、仕事ができない人は無能を糾弾されてしまいますから。そんな単純な価値観で人間を測ったら、必ず頽廃します(2000)

友達を多く持って、仲良くして、元気で…。そういうのはまったく成熟していない人間観であると、お年寄りは率先して言うべきですね。最後はひとりで死ぬことは、
誰にしてもわかっている。そのときに介護の人が三途の川まで手を引いて行ってくれるかといったら、そうはいきません(笑)(2000)

理念が正しいと思い込んでしまうと、その理念通りに動かないやつはバカだと思うんです。テロだってそうだし、国と国の戦争になることだってある。
どっちが正しいとは言えないはずなのに、メンツだとかプライドだとか、いろいろなものが入り込んで他人の犠牲に鈍感になってしまう(2013)

(悪しき)感情は誰しもが持っているのではないかと思います。しかし、現在行われている議論は、人間のそういった始末におえない部分を忘れてしまったかのように、
とことん話し合えば理解し合える、なくせない悪はないという考え方に支配されてしまっているようです(2001)

前世代があって、良くも悪くも次世代があるわけで、まったく切り離されて、ある世代が存在してるわけでもないから、前世代がどうであるかということは、
現代を生きている私たちにとっても、無視できる問題ではない(2003)

道徳主義でものごとを判断していくと、どうしても捉えられないものが出てきますよね。排除してしまうものとか。だからあまり、善とか悪とかっていう風には考えない。
善や悪は、一種のネーミングであって、たとえば「大根は善か悪か」とは考えませんものね(1998)

384名無しさん@お腹いっぱい。2018/05/18(金) 13:22:47.29ID:XnNXRSId
日本なんだけれども、どこかアメリカやヨーロッパみたいなとこばかり撮るのが今風でおしゃれだっていうのは、あまりに情けない。
どうやったら美として評価できるんだっていうような町を、美にしちゃうっていう(笑)、そういう物語を書きたいですね(2000)

テレビドラマというのは本来、会話劇が本流だという偏見が僕にはあります。どこの水準で人生を切り取るかという時に、ストーリーで切り取りたくない。
むしろ設定で切り取る。ストーリーの進行はゆっくりであればゆっくりであるほどいい(2002)

人間の「鬼」の部分はドキュメンタリーで本人の口からは聞けませんから、それこそドラマで描くべきだと思うんです(2016)

年配の世代のいい俳優さんが、コメディ・リリーフで使われるのは惜しい。画面を横切って笑わす程度だったり、
頑固ではた迷惑なキャラクターをあてがわれていたりするのを見るのはしのびない。人としてそれなりに生きている姿をまるごと描くという視点が、そこには欠けていると思う(1997)

(いまの人は)性格は非常にあいまいであって、それぞれが違う現実とぶつかり合っている。夫婦であっても全く違う現実にそれぞれが孤独にぶつかり合っている。
そして二人は、そうした孤独をまぎらわすためだけに付き合っている。そうなると人間同士に本質的なドラマがなくなってしまう(1979)

ある日狙った電車に間に合って、今日はいい日だなっていうような、日常のささいなことをとりこめるのが、テレビの特性だなって思うんです。そういうものを積み重ねていって、
その人がいつのまにか非日常的なところにいるっていうことですね。それがテレビドラマのよさなのではないか(1979)

385名無しさん@お腹いっぱい。2018/05/28(月) 02:18:11.81ID:H30GEKYc
マルキシズムにせよ、民族主義にせよ、金儲け・成功にせよ、過度に幸福の像を描いて関わる人が不幸になってしまうというところが二〇世紀にはありました。これから二一世紀に生きるわれわれは中庸を維持したいものです(2000)

観念的な難しいことを言ってたって、納得する根拠っていうのは生活世界なんですよね。そこで現実感を感じない観念っていうのは、結局は自分の力になっていかない(1995)

10代の終わりや20代の初めのころなんて、誰もみんな家族なんていらないと思ってますよ。それが、やがて結婚して新しい家族を作り、子供にうっとしがられたりしてね。そういうもんだと思うな。
みんなで仲良しだなって思ったり、家族っていいねなんて言ってられるのは、ほんの短い間ですよ(1993)

思春期の頃に「自分は自分」という思いにとらわれることがあります。そこから考えると、個を重んじ守ることを重視しすぎる二十世紀の考え方は、いわば人類の思春期みたいなものだったのかなあ、と思います(1999)

何、結局こういうことだったの」という形でドラマや小説を読むのは、非常につまらないことだと思うんですよ。僕らは結果を生きるんではなくて、プロセスを生きるわけでしょう。
プロセスがいかに違うか、というその違いの中で、喜んだり悲しんだり、張り切ったりしているわけですよね(1988)

20世紀は“個の時代”ですから、例えばゴッホの絵がゴーギャンとの共作だ、というのはスキャンダルになってしまう。だけどミケランジェロの頃は合作が多いし、
それで問題がないわけでしょう。つまり“個”の価値観が現代と昔とは違っていて、そしてこれからも違ってくると思うんですよ(1988)

道徳主義でものごとを判断していくと、どうしても捉えられないものが出てきますよね。排除してしまうものとか。だからあまり、善とか悪とかっていう風には考えない。善や悪は、一種のネーミングであって、たとえば「大根は善か悪か」とは考えませんものね(1998)

386名無しさん@お腹いっぱい。2018/06/12(火) 01:43:31.96ID:e64gXzjB
カーネーション
糸子(M)「大きい声で言いながら
     誰よりも うちが そう思いたかったんです」
これ、モノローグのお手本と言って良いと思う。その直前で感情を爆発させた台詞を言わせて、その直後のモノローグでなぜ大声で言ったのかを視聴者に告げる。モノローグはこうでなきゃ。
抽象的な台詞や曖昧な映像の補完の役目で使う脚本家が多いが、本作は違う。きちんと台詞とモノローグの使い分けが出来ている。

その上、それが「語り」として、物語を次の展開へけん引する役目を果たすことも、ちゃんと理解されているから、最後の1行にこのモノローグが書けるのだ。1週間の締め括りとしても、15分間としてもお見事と言わざるを得ない。

387名無しさん@お腹いっぱい。2018/06/15(金) 02:58:52.96ID:p78PK2ts
「お前が好きだ」と叫んで抱きしめる、「許せない」と言ってから殴りかかる――新人のマンガ家には、説明してから行動する、説明してから行動するというやり方ばかりする人が多いのですが、それでは意外性がなくまったく面白くありません

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