【常駐荒らし】栗城ハンター(ワイエディ)【自演マルポ】 [無断転載禁止]©2ch.net

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1底名無し沼さん 転載ダメ©2ch.net (ワッチョイ f104-ohL5 [202.208.136.49])2017/07/17(月) 14:04:04.66ID:M6cP6rYj0
板中を荒らしながら対立を煽り、一方でブログ宣伝を行う「栗城ハンター」。
アフィ目的は明らかですが、栗城氏批判スレ(まとめwiki)への妨害などから
関係者・炎上工作である可能性も残ります。

ここは、現在もっとも悪質な荒らしである「栗城ハンター」をヲチりつつ
登山キャンプ板の正常化を願い、情報を共有していくためのスレッドです。

 ■ご覧のみなさまへ■
登山キャンプ板では、常駐する異常者の自演・煽り・URL貼りが絶えません。
「wild28jp」は踏まずにNG登録を。
 
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvvv:1000:512:----: EXT was configured

2底名無し沼さん (エムゾネ FFaf-yIQc [49.106.193.250])2017/07/17(月) 14:45:06.35ID:XdMGefCcF
 
栗城ハンター(通称エーイモ・現ワイエディ)は残念ながら
ブログの嘘や無断転載、2chでの自作自演や荒らし行為が指摘されています。
また、その異常性によって栗城検証スレでは早い段階からテンプレ入りを拒否され
批判者有志の多くからNG登録されている存在です。


■ハンター否決の顛末 その1
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/out/1474517763/168-193

(エーイモ SEc8-aNcl [1.114.11.204]) による海彦山彦テンプレ話の流れから
エーイモ別回線と思しき (ササクッテロ) による振り
同調する (エーイモ)
ハンター推しの2回線を除き住人一致で否決


■ハンター否決の顛末 その2
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/out/1474517763/634-654

諦めきれない (エーイモ ) による蒸し返し
10名以上に即否決され悪態を吐き出す (エーイモ)
それを指摘され、罵詈雑言と共になぜか「ノースグラフィック乙^^」
 

3底名無し沼さん (エムゾネ FFaf-yIQc [49.106.193.250])2017/07/17(月) 14:48:06.82ID:XdMGefCcF
 
 
■栗城ハンター拒絶の声 ふたたび


ブログの嘘や無断転載、自作自演、荒らし行為によってテンプレから排除されて久しい栗城ハンター(現ワイエディ・通称エーイモ)。
その後もエスカレートする異常性と妨害行為について、再び有志達から拒絶の声が挙がっています。
https://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1497540942/594-n
  
80に達する「出ていけ」の声は圧巻。
栗城ハンター(現ワイエディ)に対する、批判者有志たちの総意です。
 
 

4底名無し沼さん (エムゾネ FFaf-9ZQf [49.106.192.71])2017/07/17(月) 23:00:12.78ID:i77tIqAXF
 
◆◆「wild28jp」を専ブラでNG登録◆◆

● Jane (栗城スレのみでwild28jpを消す)
【ツール】【設定】【あぼーん】【NGEx】
透明あぼーんにチェックを入れ、空欄に適当な名前を入れて追加をクリック
対象URI/タイトルに「栗城」、NGNameに「wild28jp」を入力しOKを押す

● 2chMate(登山キャンプ板でwild28jpを消す)
【NG編集】【Name】「wild28jp」を追加 (対象:旅行外出カテゴリーから登山キャンプ板を選択)

● twinkle(登山キャンプ板でwild28jpを消す)
このスレを開いた状態で【NG設定(下タブの一番左)】【NGネーム】「wild28jp」を追加

● BB2C
対象レスで該当URLを半長押し→NGNameに登録


※以前にワイエディ/IPのNG方法としてまとめていただいたものを、全スレ共通で有効なアフィURLのNG方法に改めさせて頂きました。

オリジナルはこちら。
 ↓
登山キャンプ板 自治スレ
https://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1464347504/22
 

5底名無し沼さん (エムゾネ FFaf-9ZQf [49.106.192.71])2017/07/17(月) 23:16:05.63ID:i77tIqAXF
 
■栗城ハンター(通称エーイモ・現ワイエディ)の虚言の一例

zKVIwtD+
http://hissi.org/read.php/out/20170610/ektWSXd0RCs.html
zKVIwtD+M
http://hissi.org/read.php/out/20170610/ektWSXd0RCtN.html

384 :底名無し沼さん[]:2017/06/10(土) 09:17:59.87 ID:zKVIwtD+
山頂からレポート
マルちゃんの油そばなかなか旨し

413 :底名無し沼さん[]:2017/06/10(土) 10:07:30.58 ID:zKVIwtD+
私も自営業だからある程度お金も暇もあるから海外ばかり行ってまう
今日は鳳来攻めて今下山中

63 :底名無し沼さん[]:2017/06/10(土) 10:36:27.24 ID:zKVIwtD+
今日も早朝から単独行
ただいま下山中
帰りは嫁と合流して温泉入って道の駅で買い物してBBQまでやる予定
最高の休日ライフ♪

76 :底名無し沼さん[]:2017/06/10(土) 20:03:27.88 ID:zKVIwtD+
それすげーわかる
今日も早朝から私は一人登山
嫁は昼から合流とかだもん笑


…と書き込んでいるワイエディ回線のエリアは以下のとおり。
鳳来寺山頂はもちろん、登山口、付近の鳳来寺パークウェイ上にも電波はありません。
http://www.enjoy.jp/plan/kualnet/wimax/area.html
https://www.google.co.jp/maps/place/鳳来寺山/

この異常者(エーイモ/ワイエディ)は相変わらず
自己の粉飾と正当化のため、一日も休むことなく
虚と自演を繰り広げています。
 

6底名無し沼さん (エムゾネ FFaf-9ZQf [49.106.192.71])2017/07/17(月) 23:19:54.98ID:i77tIqAXF
 
虚言癖のハンター=エーイモ(現ワイエディ)、存在しない講演でサインを貰ったと豪語

--------
158 :底名無し沼さん (ワイエディ MM2e-EcN4 [123.255.128.129]) 2017/06/18(日) 02:10:18.83 ID:zBdMv3R/M
>>156
私も聞いててスカッとした笑
会場も失笑してて驚いたけど、けんけんが栗城を揶揄したのにも驚いた

栗城が世間にアピールしなくなった理由は栗城のインチが世間に浸透してるからだと実感
ちなみに南谷マリンもゲスト出演してた
栗城と違い嘘偽りがないのでものすごい人気だった
マリンにサイン貰ったが可愛かったなぁ

http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1497540942/
--------

※このとき実際に講演したのはケンケンだけで、南谷は参加していない
http://i.imgur.com/o0Ba0v7.jpg


【栗城史多>>1】栗木ハンター9【検証ブログ>>1】より
https://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1487981921/191
 

7底名無し沼さん (エムゾネ FFaf-9ZQf [49.106.192.71])2017/07/17(月) 23:29:52.57ID:i77tIqAXF
 
198 :底名無し沼さん [] :2017/06/25(日) 12:10:59.70 ID:wvnpzStD
ワイエディ=栗木ハンターの最近の書き込み例

「山野井や竹内とも交流ある」
「いろんな登山家と交流してきた」
「海外も色々行く」「ヨーロッパからアジアから南米まで様々」
「アラスカで数ヶ月過ごした」
「パタゴニアに2ヶ月滞在した時でもチャンスは数回もなかった」
「鳳来攻めて今下山中」 (鳳来山周辺でワイエディ回線の電波はエリア外)
「南谷マリンもゲスト出演してた 」「マリンにサイン貰った」 (この日南谷は出演していない)
 

8底名無し沼さん (エムゾネ FFaf-9ZQf [49.106.192.71])2017/07/17(月) 23:31:51.53ID:i77tIqAXF

9底名無し沼さん (ワイエディ MM3f-Oe/A [119.224.169.18])2017/07/17(月) 23:36:10.63ID:s8COTcKgM
クリちゃん見とる?
これ貼られて困るのなんて栗城しかいないと思うんだよね
自分も栗城スレ住人もハンター応援してるし栗城のことは大嫌いだし
第一スレを荒らしているのは栗城擁護とかこのスレ立てたやつだよ






★下山家・栗城の検証や暴露ブログなど初心者の方はこちらをご覧ください

◯栗城ハンターブログ・エベレストの冒険を共有する会
 http://ameblo.jp/wild28jp

◯海彦山彦ブログ 下山家栗城劇場
 http://blogs.yahoo.co.jp/discus11199/folder/554467.html

10底名無し沼さん (エムゾネ FFaf-9ZQf [49.106.192.71])2017/07/17(月) 23:46:10.39ID:i77tIqAXF
 
 
>>2

>>3
 
 

11底名無し沼さん (エムゾネ FFaf-9ZQf [49.106.192.71])2017/07/17(月) 23:50:46.23ID:i77tIqAXF
 
■自分で自分に乙


栗城ハンター(現ワイエディ)による伝統自演芸です。
https://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1499680223/1-11

1 :底名無し沼さん [] :2017/07/10(月) 18:50:23.85 ID:FNY69AM3
教えてください、お願いします。


11 :底名無し沼さん [] :2017/07/10(月) 19:48:38.95 ID:FNY69AM3
>>1

自分の立てたスレ無視されてブチ切れしてる方が荒らしにしか見えない件
単発IDだし自演はチェッカー貼る人じゃないの?
 

12底名無し沼さん (エムゾネ FFaf-9ZQf [49.106.192.71])2017/07/17(月) 23:53:14.14ID:i77tIqAXF
  
■栗城ハンターの自演と虚栄心-1


213 : 底名無し沼さん2017/07/12(水) 14:06:08.53 ID:QCfEK9/t
ウーリー大好きでした
この追悼記事も泣ける
Great Ueli Steck forever a.k.a Swiss Machine
http://ameb1o.jp/wi1d28jp/entry-12279118436.html

216 : 底名無し沼さん2017/07/12(水) 21:00:38.61 ID:OwmiUoRb
>>213
その動画は初めてみた
ありがとう。


…という栗城ハンター(現ワイエディ)の一人会話。
何年もの荒らし行為で自演を指摘され続け、今やすっかり開き直っているのでしょうか。

QCfEK9/t http://hissi.org/read.php/out/20170712/UUNmRUs5L3Q.html
 ↓
OwmiUoRb http://hissi.org/read.php/out/20170712/T3dtaVVvUmI.html


ウーリー・ステック2 より
https://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1496137290/213-219
 
 

13底名無し沼さん (エムゾネ FFaf-9ZQf [49.106.192.71])2017/07/18(火) 00:00:04.02ID:oMvOJUJtF
 
■栗城ハンターの自演と虚栄心-2
 

215 :底名無し沼さん [] :2017/07/12(水) 20:44:19.28 ID:OwmiUoRb
アルパイン・ソロ・セルフレスキュー・ビッグウォール
などなど日本の書籍では書いてない技術が盛りだくさんだから
海外の技術書はとても勉強になるよ。

何故か日本では「ソロは極秘技術」みたいな傾向があって
誰にも教えられないとか自分で研究したとかいう人がやたら多いけど
海外では全然ポピュラーに知られている技術だし
隠す方がよっぽど危険だと思う。

以前、マイクロトラクションやシンチでリードソロやってるバカが居て
話してみたら「グリグリは止まらないかもしれないけどコレならそんな心配もないですし」
と言われて唖然とした。

OwmiUoRb http://hissi.org/read.php/out/20170712/T3dtaVVvUmI.html


クライミングの経験や知識を持たない栗城ハンター(現ワイエディ)に書けるコメントではありません。
もちろん他人のレスをコピペしています。

オリジナル:https://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1496137290/63

必死チェッカーによるレス抽出を意識し自らを粉飾しようとする見栄でしょうか。
とても無理のある、幼稚で浅ましい行為に映ります。

栗城ハンターブログもコメントや画像の盗用で構成されています。
盗用とその誇示、という一連の異常行動は
犯罪性や心の病を感じさせます。
  
 

14底名無し沼さん (エムゾネ FFaf-9ZQf [49.106.192.71])2017/07/18(火) 00:17:24.72ID:oMvOJUJtF
 
 
■ 栗城ハンターの重複スレ立てと自演 (2017/07/03)

・ワイエディ回線
51uNuVI0 10-19時台 34レス
http://hissi.org/read.php/out/20170703/NTF1TnVWSTA.html 
51uNuVI0M 18-19時台 2レス
http://hissi.org/read.php/out/20170703/NTF1TnVWSTBN.html

・回線2
XlmlZqd+  10-19時台 15レス
http://hissi.org/read.php/out/20170703/WGxtbFpxZCs.html
 
・回線3
mFRvju7b 11-21時台 19レス
http://hissi.org/read.php/out/20170703/bUZSdmp1N2I.html
 

15底名無し沼さん (エムゾネ FFaf-9ZQf [49.106.192.71])2017/07/18(火) 00:19:38.98ID:oMvOJUJtF
  
・回線4(IDコロコロ。回線2,3と思われる重複も含む)
     
DTBo97HQ  8-9時台 5レス
http://hissi.org/read.php/out/20170703/RFRCbzk3SFE.html
JPzYkDQb 10時台 1レス
http://hissi.org/read.php/out/20170703/SlB6WWtEUWI.html
UC0GZCyA 10時台 2レス
http://hissi.org/read.php/out/20170703/VUMwR1pDeUE.html
7wPRGe8C 10-11時台 3レス
http://hissi.org/read.php/out/20170703/N3dQUkdlOEM.htm
6mN2oaF7 10-11時台 14レス
http://hissi.org/read.php/out/20170703/Nm1OMm9hRjc.html
pcY8vvB6 11時台 1レス
http://hissi.org/read.php/out/20170703/cGNZOHZ2QjY.html
JuRydlTK 15時台 1レス
http://hissi.org/read.php/out/20170703/SnVSeWRsVEs.html
foHPX4V8 15時台 1レス
http://hissi.org/read.php/out/20170703/Zm9IUFg0Vjg.html
VHrHqYvk 17時台 1レス
http://hissi.org/read.php/out/20170703/VkhySHFZdms.html
ymgJSG0y 17時台 2レス
http://hissi.org/read.php/out/20170703/eW1nSlNHMHk.html
kX3Fm+xV 18時台 2レス
http://hissi.org/read.php/out/20170703/a1gzRm0reFY.html
8lvGiGTc 18時台 2レス
http://hissi.org/read.php/out/20170703/OGx2R2lHVGM.html
4thbMqpI 18時台 2レス
http://hissi.org/read.php/out/20170703/NHRoYk1xcEk.html
1IYsrjMh 21時台 2レス
http://hissi.org/read.php/out/20170703/MUlZc3JqTWg.html
 

16底名無し沼さん (エムゾネ FFaf-9ZQf [49.106.192.71])2017/07/18(火) 00:25:03.24ID:oMvOJUJtF
 
推定4回線以上を使い、コピペで勢いをキープする様子がよくわかるサンプルです。
(以前からワイエディはスレの勢いに執着を見せています)

09:56:33.17
https://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1499043393/ 
18:26:05.10
https://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1499073965/ 

これは上記2スレからの抽出、他スレでの書き込みは含みません。
書き込みの総数はさらに多いでしょう。
また、コピペの効率的な連投はPCからと推測できます。
このことから、一日中PCに張付きながらスマホ複数台で書き込む状況が浮かびます。


この日の南谷氏出演のTV番組放映に伴う2ちゃんねる閲覧を懸念して
本スレでも暴露されている栗城ハンターブログの詐欺的アフィ実態を隠し
あわよくばブログを踏ませようとでも考えたのでしょうか。

この幼稚な異常者は一日も休まず、これらの不毛な作業を続けています。
 
 

17底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 20:22:10.41ID:S4WONZCeF
  
■エーイモ(ハンター)の幼稚な捏造とデマ
 
ID:uktp8ZK8
http://hissi.org/read.php/out/20161108/dWt0cDhaSzg.html


491から削除
『ID:nVCPDFZ4
http://hissi.org/read.php/out/20160821/blZDUERGWjQ.html

493に付け足し
『エーイモ殺せ』

494に付け足し
『エーイモは殺すべき』

元レス
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/out/1464703702/491-595
 

18底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 20:25:48.82ID:S4WONZCeF
 
エーイモさんの性癖


ID:nVCPDFZ4
http://hissi.org/read.php/out/20160821/blZDUERGWjQ.html

ID:IkMyNjeD
http://hissi.org/read.php/out/20161106/SWtNeU5qZUQ.html


「真鈴のおまんこペロペロに舐め回してマンカス食いてえなw
谷口と真鈴の野グソ食いてえw
死ねよ谷グソってもう死んでるかw」
 

19底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 20:28:24.85ID:S4WONZCeF
 
エーイモさんの荒らし業務
wifiミスったか端末間違えた模様


693 : 底名無し沼さん (エーイモ SE5f-FA7T [1.114.9.6])2016/09/02(金) 17:45:35.06 ID:5ICuLKjpE
金曜ギャランw

http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/out/1471825172/693
 

20底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 20:40:11.48ID:S4WONZCeF
 
 
■皆さまへ

「栗城ハンターブログ」は残念ながら、
ブログ主の嘘や2chでの自作自演、荒らしなどの奇行が指摘されています。

栗城ハンター7
http://itest.2ch.net/test/read.cgi/out/1462125712/
栗城ハンター8
http://itest.2ch.net/test/read.cgi/out/1473573617/
栗城ハンター9
https://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1487981921/

公正な論評を心がける多くの批判者たちとは異なる便乗者として
栗城本スレにおいて早い段階でテンプレ入りを否決されました。

アフィ目的と思しき転載スタイル、幼稚な自演による自己宣伝を見ると
とてもみなさんにおすすめできるサイトとはいえません。
 

21底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 20:43:34.35ID:S4WONZCeF
    
オリジナルのおすすめサイトはこちら。


客観的なスタンスが信頼できます。
【栗城史多まとめ @ ウィキ】  
http://www44.atwiki.jp/kuriki_fan/
http://www44.atwiki.jp/kuriki_fan/m/ [モバイル版]

経験による所見には説得力があります。
【海彦山彦 下山家栗城劇場】
http://blogs.yahoo.co.jp/discus11199/folder/554467.html

独自の切り口です。ぜひご一読を。
【オクサマファイル】
http://baby01.net/blog/364

栗城氏の問題について回答しています。
【Yahoo知恵袋のベストアンサー】
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1146998496
 
 

22底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 20:47:43.54ID:S4WONZCeF
 
エーイモの虚言と自演

http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/out/1487981921/42-47
 

23底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 20:49:47.29ID:S4WONZCeF
 
恥ずかしいですね 
栗城商法そっくりなハンターさん

http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/out/1487981921/42-n

http://hissi.org/read.php/out/20170413/VnY2SDdZN0U.html
 

24底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 20:52:08.80ID:S4WONZCeF

25底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 20:54:20.74ID:S4WONZCeF

26底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 21:06:44.81ID:S4WONZCeF
 
Page2Feed API
http://ic.edge.jp/page2feed/
URLを入力するとアフィブログを踏むことなくおおよその更新を把握できます。


現在マルチポストされているURLからRSS生成
http://ic.edge.jp/page2feed/preview/http://ameblo.jp/wild28jp/entry-12273807754.html

5月11日 21時59分30秒にアップされたページ
同日の栗城公式ブログの更新内容を転載し、栗城スレhttps://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1494113887/から拾ったコメントを切り貼りした記事。

誤字混じりの幼稚な文章と構成の転載日記はやはり踏む価値はありません。
読者数も20人→19人と減りました。
批判に足る見識もなく動機も不明、盗んだ言葉で野次るだけの不快なアフィブログです。


追記
(※Page2Feed API は現在サービスを終了しています。
RSS生成と閲覧は inoreader もおすすめです。)
 

27底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 21:09:33.57ID:S4WONZCeF
 
■悪質アフィが横行しています。
 「wild28jp 」は要注意!


栗城・南谷真鈴関連スレでマルチポストされているように、「エーイモ」はスレ立てしてまで煽りアフィを行います。

栗木ハンターを名乗りブログを立ち上げていますが、その内容は
http://www44.atwiki.jp/kuriki_fan/
http://blogs.yahoo.co.jp/discus11199/folder/554467.html
http://baby01.net/blog/364
など他ブログや2chスレからのコピペと転載です。
ブログ立ち上げ当初はエベレストBCへの栗城スネークを謳っていましたが
うやむやにしてブログ宣伝と荒らしを連日続けています。

この虚言とタカリ性は、無名で真摯な登山家たちに紛れて売名と集金を行う似非登山家に似ていますね。

また、まだ評価の定まらない南谷氏に執着する「エーイモ」には性的関心と便乗の下心ばかり透けて見えます。
該当スレでも幼稚な自演をしていますが、表面的な応援の裏では中傷スレを立て対立を煽ろうとしています。

南谷真鈴の滑落死を願うスレ
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/out/1464246830/

さらに、山野井氏や故人登山家の中傷書き込みまでする傲慢さと悪質性は許されるものではありません。

今後も同様の手口でアフィ活動を行うでしょう。
煽りに乗らず冷静な対処を。
 

28底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 21:12:30.16ID:S4WONZCeF
 
追記

これはスマートにアフィる多くの人は含みません。
ただ栗城ハンターという快楽犯の撒き散らした故人中傷が不快です。
アフィそのものや金額の多寡ではなく、異常者による小銭稼ぎを兼ねた荒らし行為へのカウンターです。

これらのお知らせは繰り返し貼りますので、目障りと感じる方はNG登録してくださいね。
 

29底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 21:14:58.74ID:S4WONZCeF
 
■ハンター(エーイモ=ワイエディ)について


ブログ開設以前は栗城擁護の立場で荒らしていた来歴は今はとりあえず置いておくとして・・

現在はっきりしているのは悪質なアフィリエイト活動であるということ。
間違えて踏ませる・騙してでも踏ませようとする執拗なマルチポストとスレ立て、それは栗城スレ内良識派への嫌がらせと追い出しも兼ねながら、たまに2chを覗くようなROM層に向け、またログ化の後まで見据えて行われています。

栗城を材とし収入を得るアフィブログの目的は、つまるところ栗城との共存共栄でしかありません。
ハンターを名乗るこの異常者は、周知を口実にして理性的批判者を排しつつ工作員妄想(※後述)と思考停止を煽り
その野次馬にマウンティングしながら利己的な小銭稼ぎを拡大しようとしているのでしょう。
 

30底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 21:17:01.67ID:S4WONZCeF
 
※工作員妄想について

栗城関係者と思しきWikipedia改竄工作は過去、実際に発覚しています。
https://www44.atwiki.jp/kuriki_fan/sp/pages/133.html

しかし同時に、誰でも書き込める2ch掲示板においては愉快犯が成りすますことも容易です。
ハンターを名乗る荒らしのこれまでの自演成りすましの多さから、コピペやAAによる荒らし・住人を煽る幼稚な書き込みの大半はこの異常者によるものと考えていいと思います。

(別の工作員がいるとしても特定は厄介になります。いずれにしてもスレ荒らしに関しては、アフィ目的の異常者と栗城サイドは利害が一致します)
 

31底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 21:19:16.86ID:S4WONZCeF
 
 
アフィカス - 2ちゃんねるwiki
http://info.2ch.net/index.php/アフィカス
      
人の嫌がることがだーいすきv(^o^)
金のためなら嫌われてもいいもんねー(^o-)-☆

概要
アフィブログ、まとめブログ、コピペブログ、剽窃ブログとも言う。(ここでの対象は2chの内容を転載するブログである)
人の書き込みを無断転載して金を稼ぐ人間の屑。アフィカスがレスをまとめたものは、アフィブログとして公開される。
基本的には管理人の主義主張に応じたレスをまとめることが多いため、大抵内容は偏向しており、ネトウヨの溜まり場になったり、厨房の巣窟になったりする。
転載される側の掲示板住民に対して、住民になりすまして対立煽りなどをしていることが発覚して以来、強烈に嫌われるようになった。
 
 

32底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 21:23:00.46ID:S4WONZCeF
 
 
■自己宣伝はうんざり


異常者ワイエディ(栗城ハンターブログ)がアメブロ順位を喧伝しながらマルチポストしていますが、もちろん実情とかけ離れたランキングです。
ちょっと検索すればこんな情報が。


『アメブロランキングを上げる簡単な方法。
アメブロランキングには、月間総合、デイリー総合、各ジャンルのランキングがあります。
ランキング集計方法は、前日のPV数で行われます。
PV数とは、単純にブログへの総アクセス数で同一人物が何度アクセスしてもアクセス数に反映されます。
では、PV数(総アクセス数)型のアメブロランキングを上げる方法はと言うと。。。

これは超簡単!
自分で何回アクセスしてもカウント数に反映されるのだから、自分自身でブログを何回も表示すれば良い。
一番手っ取り早い方法は、ブラウザに自分のブログを表示したらキーボードのF5(リ
ロード)を連打すれば良い。
これだけで翌日確実にランキングは上がっています。』

さらにトラフィックエクスチェンジやチートツールを使えばPVを好きなだけ盛れるのがアメブロの売り。
読者たった20人の支離滅裂なパクリ日記でも一夜でランカーになれる、とても虚栄心にコミットした仕組みです。
ランキングなど何の意味もありません。
 
 

33底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 21:25:26.04ID:S4WONZCeF
 
 
アメブロで常に上位にいる人たちって・・
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1454388374


栗城ハンターの2chでの病的な自己宣伝をみると、こういった小細工でブログを粉飾しているのは明らかですね。
栗城商法のSNSフォロワー・いいね水増しとなんら変わらない、見栄と欲得にまみれたデモンストレーションです。


嘘と自演で己を飾り、下賤な快楽とアフィのために故人や登山家を貶めてきた栗城ハンター。
2chコメントや他ブログ、マンガなど他人の著作物を盗用しあぶく銭を得ようとする小物ぶりには呆れ果てます。
正体を看破されアナウンスされた途端に上っ面の偽善を唱え始めましたが、もう騙される者もいないでしょう。


言葉を持たない故人への中傷は赦される事はありません。
ログは厳然と残っています。
 
 

34底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 21:27:37.95ID:S4WONZCeF
 
 
■参考情報


この異常者は数年前にも同アカウントで
転載ブログを運営していたようです。

https://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1496330803/646


 
>栗城が発端だが、

これはちょっと違う。
過去ログ読めばわかるが以前はあいのりに出てた西村隼平に執心だった。

奴のブログをアーカイブでサルベージすると震災の義援金詐欺疑惑で騒がれていたころに
2chやしたらばの該当スレをコピペしてアクセス稼ぎをしていたブログだったことがわかる。 

https://web.archive.org/web/20111120032656/https://ameblo.jp/wild28jp/
 
 

35底名無し沼さん (エムゾネ FF33-n8Ul [49.106.192.90])2017/07/20(木) 21:39:08.01ID:S4WONZCeF
 
 
■栗城ハンター(現ワイエディ)回線の変遷


・(エーイモ [1.115.xxx.xxx][1.114.xxx.xxx])
説明不要、当初善玉用に使っていた回線 。
荒らしを指摘され続け鳴りを潜めるが、まだ保有していると思われます。

・(ササクッテロ [126.245.xxx.xxx])
過去に栗城スレでハンター擁護をしていた唯一の回線。
http://hissi.org/read.php/out/20160923/MjZ4SGlONmRw.html

・(アウアウイー [36.12.xxx.xxx])
2016年暮れに投入された回線。ホノルルマラソンの結果を隠匿するような荒らしをしていたが、うっかりワッチョイスレにURLを貼り付けて確定。

http://hissi.org/read.php/out/20161214/M3dpVWl2Sm5h.html
http://hissi.org/read.php/out/20161214/M3dpVWl2Sm4.html
http://hissi.org/read.php/out/20161215/ZmdSbnJndTNh.html
http://hissi.org/read.php/out/20161217/ekg5N3laaTRh.html
http://hissi.org/read.php/out/20161217/ekg5N3laaTQ.html

・(アウアウイー=ハンターの確定ログ)
qYdiG7RFa  http://hissi.org/read.php/out/20170125/cVlkaUc3UkZh.html
qYdiG7RF  http://hissi.org/read.php/out/20170125/cVlkaUc3UkY.html

・(ワイエディ[123.255.xxx.xxx])
現在の主回線、主に善玉発言とブログ宣伝。
ハンターではないと主張し居直っている。


他にも回線があり、またwifi経由と思しき書込も散見されます。
栗城スレのログ解析によっておおよその実態が掴めます。
まとめ次第アップしていきます。
 
 

>>4
NGネームにwild28を入れてもNGにはできないよ。
そんな名前は誰も使ってないから。

37底名無し沼さん (エムゾネ FF33-RdlO [49.106.192.39])2017/07/23(日) 21:56:02.02ID:LqRDsXKbF
 
>>36
見返してみたら確かにそうですね。
ご指摘ありがとうございます。
 

38底名無し沼さん (エムゾネ FF33-RdlO [49.106.192.39])2017/07/23(日) 22:02:47.38ID:LqRDsXKbF
 

■「wild28jp」を専ブラでNG登録 ■


● Jane Style
【ツール】【設定】【あぼーん】【NGWord】→ wild28jp を追加

● 2chMate
【NG編集】【Word】→ wild28jp を追加

● twinkle
スレを開いた状態で【NG設定(下タブの一番左)】【NGワード】→ wild28jp を登録

● BB2C
NGワードを使用する:ON
対象レスで該当文字列を半長押し→NGワードに登録


※親切な方に「ワイエディの推奨NG方法」としてまとめていただいたものを、スレ共通で有効なURL文字列のNG方法に改めさせて頂きました。
※「NGネーム」では無効とのご指摘により改訂しました。補足訂正等ありましたらお寄せください。


オリジナルはこちら。
 ↓
登山キャンプ板 自治スレ
https://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1464347504/22
 
 

39底名無し沼さん (ワッチョイ e9ab-KhZc [180.32.7.159])2017/07/27(木) 01:07:04.49ID:e9y/wiH80
クリキさん 息を吸うように嘘を吐いているので感覚がマヒしてるんでしょうか?


https://mobile.twitter.com/gokanoshou/status/878093183850209280

40底名無し沼さん (ワッチョイ e9ab-KhZc [180.32.7.159])2017/07/27(木) 01:11:54.11ID:e9y/wiH80
159. 仙台市民 2015/10/24 22:28
震災孤児をベースキャンプに連れて行くって集めたお金はどうなったんですか?

http://baby01.net/blog/wp-content/uploads/2015/11/tw6.jpg

41底名無し沼さん (エムゾネ FF70-M7HM [49.106.193.233])2017/08/03(木) 22:42:57.86ID:6hVb5sVoF
 
 
【重要】「wi1d28jp」NG登録について

「wi1d28jp」のNG登録によっていくつかのスレッドの>>1が見えなくなってしまう方へ

専ブラ毎の条件設定などでクリアできない場合は「ameb1o.jp/」を加えてください。

【推奨NGワード】ameb1o.jp/wi1d28jp

※上記は可視化のためアルファベットの「l」を数字「1」に置き換えています。
このままコピペせず、数字をアルファベットl(小文字のエル)に修正してください。


【ご確認ください】

このスレ9番目のレスがあぼーんされていれば完了です。
 
 

42底名無し沼さん (エムゾネ FFa2-+c0L [49.106.192.238])2017/08/15(火) 21:59:10.33ID:Hbtj8iuuF

43底名無し沼さん (エムゾネ FF1f-hok+ [49.106.193.58])2017/09/04(月) 19:53:20.71ID:UdnQYbtjF
 

現在、登山キャンプ板では何者かが無理やり炎上させているような不可解なスレッドがあります。

山で遭難したら助けに来た警官が説教しやがった。感じ悪い。何様なん?
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1504019629/


このスレにおいて
悪質アフィ周知のお知らせ文の一部をコピペして書き込み、そのままのIDで炎上関係者の住所を書き込んだ者がいます。
いつもの異常者(現ワイエディ・栗城ハンター)の手口に似た幼稚なイタズラです。

ZPQwlsGS
http://hissi.org/read.php/out/20170904/WlBRd2xzR1M.html
W1WVbnKr
http://hissi.org/read.php/out/20170904/VzFXVmJuS3I.html
Ld9tzNlh
http://hissi.org/read.php/out/20170904/TGQ5dHpObGg.html
JduMDZQP
http://hissi.org/read.php/out/20170904/SmR1TURaUVA.html

なぜかadblockを抜いていることから、2ちゃんねるに巣食うアフィカスであることは間違いなさそうです。

効いているのでしょうか。
周知を続けていきます。


 

44底名無し沼さん (ワイエディ MM8b-WpfZ [123.255.128.205])2017/11/30(木) 07:54:47.18ID:7FvjsyaNM
ワイレディおる?

登山板で一番執念深く粘着質なストーカー荒らしが死ねよ!
キチガイだよなお前はw
なんで毎日こんなことしてるの?バカなの?あー気持ちわりーキチガイにまた構っちゃったよ
じゃーなキチガイ
誰がどう見てもお前がキチガイ

45底名無し沼さん (エムゾネ FF33-Sol8 [49.106.192.57])2017/11/30(木) 12:39:09.28ID:MrM9v1Y1F
 

■ 異常者の書き込み

7FvjsyaNM
http://hissi.org/read.php/out/20171130/N0Z2anN5YU5N.html
7FvjsyaN
http://hissi.org/read.php/out/20171130/N0Z2anN5YU4.html?thread=all


幼稚な成りすましとゲスな内容、そしてお約束のブログ宣伝。
切羽詰まったワイエディ(栗城ハンター)特有の荒らし書き込みです。

効いているのでしょう。周知を続けていきます。

 

私を敵視し1日中栗城ハンターを庇う (エムゾネ FF33-Sol8 [49.106.192.57])こそキチガイです

■ご覧のみなさまへ■
登山キャンプ板では、常駐する異常者の自演・煽り・URL貼りが絶えません。
「wild28jp」は踏まずにNG登録を。

◯栗城ハンターブログ・エベレストの冒険を共有する会
 http://ameblo.jp/wild28jp

ブログも見ないようお願いします。

47底名無し沼さん (エムゾネ FF33-Sol8 [49.106.188.148])2017/12/05(火) 00:14:53.67ID:DNHNN3RpF
 

>>45に追記



■ 異常者(栗城ハンター=ワイエディ)
 
hFIBhp3FM
http://hissi.org/read.php/out/20171204/aEZJQmhwM0ZN.html
hFIBhp3F
http://hissi.org/read.php/out/20171204/aEZJQmhwM0Y.html?thread=all


ワイエディ回線でワイエディ連呼という呆れた荒らしです。
URLを入れるところもまたセコい。

この幼稚な異常者の現在の目的は
・アフィブログを踏ませること
・悪役を自演し自分(栗城ハンターブログ)age
・周知テンプレ排除と板荒らし
でしょう。


何をしようが周知は粛々と続きます。


 

ここもいらないんで潰しますね

よう変更された。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(
1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面
に位置し標高は2,693mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている
。これらを間近で見ることができる登山コースも整備されている。詳細は「宝永山
」を参照富士山と火山活動富士山の噴火詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期
が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が

たとしている。山体崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山
体崩壊(岩屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確なものも含め
て南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計12回起きたと
されている。また、直下に存在が示唆されている活断層の活動に
よるマグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている
。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模(
約18億立方メートル)な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場周辺
から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺を通って駿河湾へ流下、
山体崩壊の発生原因は不明。1331年の元弘地震に伴い発生。
1891年濃尾地震に伴い発生。災害対策火山噴火予知連絡会(
気象庁)−富士山のみを限定するものではないが、日本の火山活
動についての検討を実施する。状況に応じて見解を発表するが、
噴火の日時を特定して発表することはない。定例会は年3回実施
されるが、噴火時には随時開催される。2000年10月に富士
山の低周波地震が増加した際は、ワーキンググループが設置され
、富士山に関する基礎データの収集・整理、監視体制の検討、火
山情報発信の方法などが集中的に検討された。富士山ハザードマ
ップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴火時の広域避難のために
必要なハザードマップの作成が、検討委員会を通じて進められて
いる。富士直轄砂防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にして発
生する大規模な土石流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実
施中。山梨県は2015年6月11日、「富士山噴火時避難ルー
トマップ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は2016年1
月22日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山
で滑落した登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登
山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、市消防局がヘリ
で救助できる山の高さに3200メートルと上限を設けたことを
明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防災科学技術研究
所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及び大学(東京
大学地震研究所)などにより観測が行われている。国土地理院:
地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測所および江刺
観測場に設置されている。また、山頂にはG

出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その
後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていた
と見られるが、約2,500?2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大
規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。新富士の山頂から溶
岩が噴出していたのは、約1万1千年前?約8,000年前の3,000年間と、
約4,500年前?約3,200年前の1,300年間と考えられている。山頂部
からの最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部からの噴火は無いが
、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生している。延暦19年−
21年(800年−802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩
を噴出した貞観大噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝
永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が降り積もった
。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性
の地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。噴火の年代
が考証できる最も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781
年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語
』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。平安
時代の歴史書『日本三代実録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、
平安時代中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写がある。
宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめとした
文書、絵図等により多数残されている。その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残され
ているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。宝
永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代
まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述の通り富士山に
はいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火

気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、
鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎坊、上
井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(萩原)防災科学技術研
究所:火山活動可視情報化システム(VIsualizatio
nsystemforVolcanicActivity)噴出
物災害などへの対策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山梨
県と連携し火砕流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐため
の調査・検討を実施しハザードマップが作成されている。しかし
、山体崩壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成で
ある。富士山と気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃
しかなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上1
0℃未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1
月や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ1
0を占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−3
0℃未満の日も過去に数回観測されていて−30℃を上回ること
がない1日というのは北海道でも例がない。富士山での気象観測
かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気
象官署が富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所
となっており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。
詳細は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が
巻き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12
月15日には、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積もり
、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風に乗り降り積も
ったと考えられると報道された。富士山北麓の一部農地(現在の
山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m付近に現
れる農鳥(鳥の形に見える残雪)の出現する時期によって、農作
物が豊作になる・凶作となるという言い伝えがある。富士山では
山岳波が発生することもあり墜落事故も起きている(英国海外航
空機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境富士山麓の天然記
念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物:
1926年2月24日指定、2010年3月8日追加指定・名称
変更)、「富士風穴」(天然記念物:192

ことも重なり、現在は活火山に区分されている。2013年7月20日、産業技術
総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをまとめ
富士火山地質図第2版(Ver.1)として発表し、2016年には修正加筆が終
了した。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43
回あったとしている。山体崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩
屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に5回、北東側に3
回、東側に4回の計12回起きたとされている。また、直下に存在が示唆されてい
る活断層の活動によるマグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている
。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模(約18億立方メー
トル)な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場周辺から東へは足柄平野へ、南へは三島
周辺を通って駿河湾へ流下、山体崩壊の発生原因は不明。1331年の元弘地震に
伴い発生。1891年濃尾地震に伴い発生。災害対策火山噴火予知連絡会(気象庁
)−富士山のみを限定するものではないが、日本の火山活動についての検討を実施
する。状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表することはない
。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時開催される。2000年10月に
富士山の低周波地震が増加した際は、ワーキンググループが設置され、富士山に関
する基礎データの収集・整理、監視体制の検討、火山情報発信の方法などが集中的
に検討された。富士山ハザードマップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴火時の広
域避難のために必要なハザードマップの作成が、検討委員会を通じて進められてい
る。富士直轄砂防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にして発生する大規模な土石
流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実施中。山梨県は2015年6月11日
、「富士山噴火時避難ルートマップ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は20
16年1月22日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山で滑落し
た登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登山

定)などがある。伏流水白糸の滝(静岡県)富士山に降った雨や
雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる
。最も高い地点から湧き出す湧水として確認されている例は標高
1670m(富士宮口二合目付近)とされ、その他山麓を帯状に
分布している。富士山麓における湧水の総湧出量は1968年で
1日あたり154万立方メートル以上だという。しかし、近年湧
出量の減少が確認されている例がある。地域名称南東麓されてい
柿田川(日本三大清流)、小浜池南麓吉原湧

、再発防止策として、市消防局がヘリで救助できる山の高さに3200メートルと
上限を設けたことを明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防災科学技術研
究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及び大学(東京大学地震研究所
)などにより観測が行われている。国土地理院:地磁気観測点が、鹿野山測地観測
所、水沢測地観測所および江刺観測場に設置されている。また、山頂にはGPSの
電子基準点。気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、鳴沢
塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎坊、上井出)、GSP(太郎
坊)、望遠カメラ(萩原)防災科学技術研究所:火山活動可視情報化システム(V
IsualizationsystemforVolcanicActivity
)噴出物災害などへの対策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山梨県と連携し
火砕流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐための調査・検討を実施しハザー
ドマップが作成されている。しかし、山体崩壊を想定したハザードマップは201
2年現在未作成である。富士山と気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃
しかなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上10℃未満のツンド
ラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1月や2月は乾燥し、3月、4月、5
月、6月が最深積雪トップ10を占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高
気温が−30℃未満の日も過去に数回観測されていて−30℃を上回ることがない
1日というのは北海道でも例がない。富士山での気象観測かつて気象庁東京管区気
象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が富士山測候所である。現在は富士
山特別地域気象観測所となっており、自動気象観測装置による気象観測を行ってい
る。詳細は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が巻き上げられ
、周辺の自治体に降ることがある。2010年12月15日には、神奈川県の西部
から南部にかけて黒い砂が積もり、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風
に乗り降り積もったと考えられると報道された。富士山北

玉池(特別天然記念物)、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念
物)、猪之頭湧泉群北麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの
、一部で駿河湾や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があ
るとされている。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で
製紙業や医薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。ま
た、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネ
ラルウォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖
コウモリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形
成されている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県
富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓周
辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都留郡
富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その
他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定
されている。植生富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較
すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が
終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態
系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進
入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植
物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオンタデ(御蓼
)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊)が自生して
いる。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広が
っているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、そ
の代替にカラマツ林が広がっている。人間史富士山本宮浅間大社
古代古代より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山と
して、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と
言われるようになった。特に富士山の神霊として考えられている
浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社で
あり全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富
士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮
」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。詳
細は「富士信仰」を参照古代では富士山は駿河国のものであると
する考え方が普遍的であった。これらは「高

梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m付近に現れる農鳥(鳥の形に
見える残雪)の出現する時期によって、農作物が豊作になる・凶作となるという言
い伝えがある。富士山では山岳波が発生することもあり墜落事故も起きている(英
国海外航空機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境富士山麓の天然記念物とし
て、「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物:1926年2月24日指定
、2010年3月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴

の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り
。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」
(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹
取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲
斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万
葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有
の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イエズ
ス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山
は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という
関係は継続されていたと考えられる。登山口は末代上人が開いた
登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言
われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。
次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須
走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂
部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つように
なった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木
造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。
鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩
薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の
8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、
文永年間(1264年−1275年)の『万葉集註釈』には「い
ただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の
記述が確認できる。江戸時代江戸時代になると、徳川家康による
庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得た
ことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富
士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大
社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講な
どの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆
盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道で
は発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つように
なっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合
計と同程度であったという。富士参詣の人々

9年12月17日指定)などがある。伏流水白糸の滝(静岡県)富士山に降った雨
や雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地点
から湧き出す湧水として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合目付近
)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓における湧水の総湧出量は
1968年で1日あたり154万立方メートル以上だという。しかし、近年湧出量
の減少が確認されている例がある。地域名称南東麓されてい柿田川(日本三大清流
)、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念物)、白糸の滝(国
指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉群北麓忍野八海(国指定の天然記念物)
またの、一部で駿河湾や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があるとされて
いる。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬関連の製造業な
どの工業が活発に行われている。また、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含ん
でいるため、ミネラルウォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖
コウモリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成されている。そ
の中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一
の長さを誇る。また、山麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨
県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その他、鳴
沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定されている。植生富士山
は標高は高いが、日本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これ
は富士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の
生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進入も遅れたた
めである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植物が見られる。山の上部ではタ
デ科オンタデ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士
薊)が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっ
ているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し

いい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「
此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」と
ある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、先
達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年
」とあり)などが確認されている。明治以後慶応4年(1868
年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく
崩されることとなる。富士山中や村山における仏像の取り壊しな
どが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社と
なり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅
間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった。仏
教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。1
883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年(明治
39年)に新大宮口が開削された。富士山は平成23年(201
1年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史
跡としての富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」とし
て包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾野市・駿東
郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村
である。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(
登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部
、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。登山史富士登山
の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸説存
在する。富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年
平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の
上を越えたとする記述がある。諸国からが多献上された数百匹の
中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年
9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富
士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという
。天智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大
島から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。
役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山は
マルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録
は改訂されたものの「世界初の登山」という

が広がっている。人間史富士山本宮浅間大社古代古代より富士山は山岳信仰の対象
とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富
士信仰と言われるようになった。特に富士山の神霊として考えられている浅間大神
とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり全国に存在する。浅間
神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士
宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。
詳細は「富士信仰」を参照古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が普
遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集』
)や「富士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂
の山である」(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物
語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河
の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を
跨ぐ山であるという共有の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、
イエズス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に
帰属している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続されていたと考え
られる。登山口は末代上人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが
最初の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。
次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口が存在してる
。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようにな
り、特別な意味を持つようになった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年
銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時
代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」と
いう呼称が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶこと
も神仏習合に由来し、文永年間(1264年−1275年

貞観17年875年平安時代の学者である都良香が『富士山記』
の中で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸き立つ火口湖があ
り、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でな
ければ知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した
者に取材したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火で
はないが有史最大の貞観大噴火があった。久

「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認で
きる。江戸時代江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営や内
院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された
経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社
の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され
、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、新興
宗教として旧来の登山道では発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立
つようになっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合計と同程
度であったという。富士参詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』
の明応9年(1500年)の記録に「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須
走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、
先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年」とあり)など
が確認されている。明治以後慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、
これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像
の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社となり
大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護
摩堂などが取り壊されることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の
呼び名も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年
(明治39年)に新大宮口が開削された。富士山は平成23年(2011年)2月
7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史跡としての富士山は複数の資
産から構成され「史跡富士山」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮
市・裾野市・駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村
である。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)が指定さ
れた。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富士

本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰りかえしたとある。
回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物と
して知られる。江戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参
拝者が富士登山(富士詣)をした。特に江戸後期には講社が多数
存在し、富士詣は地域社会や村落共同体の代参講としての性格を
持っていた。最盛期には吉田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)
があった。文政11年1828年気圧計による高度測定の試みシ
ーボルトの弟子である二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度
測定を行った。伊能忠敬の測量では2603m−3732mとさ
れていたが、この測定では3794.5mと算出されている。天
保3年1832年高山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷か
れていた時代である。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)
が近世大名として初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、
造り酒屋の主人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平
宗秀が富士登山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗
秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろう
と思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであ
り、これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であって
も寄り道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願
い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と
呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下
の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そ
こで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内緒で登山
を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に
着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行っ
た唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オールコッ
クが外国人として初登頂。『古事類苑』にオールコックの登山に
ついての記録(富士重本が寺社奉行所に提出した届出)があり、
「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨
にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し
、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オー
ルコックは7月24日に大宮から村山に入り

指定された。登山史富士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じってお
り、諸説存在する。富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年平安時
代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の上を越えたとする記述が
ある。諸国からが多献上された数百匹の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬
であると見抜き、同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き
、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還

に登頂した。明治4年1872年女人禁制が解かれる。明治時代
になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽やスポー
ツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れ
られることになる。明治25年1892年英国人のウォルター・
ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その後本を出版し富士山
などの日本の山々を世界に紹介した。明治28年1895年野中
到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年1
0月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正12年192
3年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山7月26日の事、須
走に赴いてから8合目まで乗馬にて登山後、8合目以上は徒歩に
て登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行った後、
御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍仁親王
の登山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。
奥宮を参拝後、下山。昭和2年1927年中村テルが冬季女性初
登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に。昭和63年
1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日の登山
で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念され
る。平成20年2008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富
士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂。富士山を巡る利権
争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域に
は各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来
の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭
を徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争い
を起こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種
になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両
を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという。
内院散銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地
域によって争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村
山においては、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」
が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている。須走は1
577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社
)の開帳日の内院散銭の取得権が与えられて

年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大島から毎晩密かに逃げ出し、富
士山へ登ったという伝説が残る。役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この
役小角の登山はマルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録は
改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされていた。貞観17年875年
平安時代の学者である都良香が『富士山記』の中で山頂火口のさまを記す。山頂に
は常に沸き立つ火口湖があり、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見
た者でなければ知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した者に取材
したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火ではないが有史最大の貞観大
噴火があった。久安5年1149年『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰
りかえしたとある。回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物
として知られる。江戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参拝者が富士登山
(富士詣)をした。特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落
共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口だけで百軒近くの宿
坊(山小屋)があった。文政11年1828年気圧計による高度測定の試みシーボ
ルトの弟子である二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠
敬の測量では2603m−3732mとされていたが、この測定では3794.5
mと算出されている。天保3年1832年高山たつが女性として初登頂。女人禁制
が敷かれていた時代である。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名
として初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主人が記した「袖
日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀が富士登山を行った記録がある。袖日記の
6番によると、宗秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろう
と思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、これを逸脱し
たコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても寄り道することは許されないため
、富士に登ることを幕府に願い出るも中々許可が出ず、3

9年(慶長14年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、
内院散銭の取得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司が村山よ
り登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝
する慣例などもあった。新規に出来た登山道である現富士吉田口
は、登山道を管理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮
司富士信安など富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」
の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山
小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「
吉田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起
こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争っ
ている過去などがある。元禄の争論元禄16年(1703年)に
散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)
を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間
神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏ら
を相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった。1つは
浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたことへの不服
、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入
仏を勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯す
ものであるというもの、3つ目は内院の散銭取得における2番拾
いは須走側が得るという慣例となっているとし、それを浅間大社
が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた浅間大
社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂
の入仏については浅間大社側が造営したものであるので権利は浅
間大社にあること、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないというこ
とを主張した。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、
その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏
は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:
4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定となり
、以後これらは遵守された。安永の争論安永元年(1772年)
に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を
相手として訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間
大社側の富士民済も反論を起こした。さらに

馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下の場所
であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そこで宗秀は嘉永6年(1
852)6月21日、幕府に内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り始
め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を
行った唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オールコックが外国人と
して初登頂。『古事類苑』にオールコックの登山についての記録(富士重本が寺社
奉行所に提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書
寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し、
不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オールコックは7月24
日に大宮から村山に入り登山を行い、26日に登頂した。明治4年1872年女人
禁制が解かれる。明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽
やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れられるこ
とになる。明治25年1892年英国人のウォルター・ウェストンが登頂。翌年に
も登頂した。その後本を出版し富士山などの日本の山々を世界に紹介した。明治2
8年1895年野中到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年
10月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正12年1923年皇太子裕仁
親王(後の昭和天皇)の登山7月26日の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬に
て登山後、8合目以上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印など
を行った後、御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍仁親王の登
山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。奥宮を参拝後、下山。
昭和2年1927年中村テルが冬季女性初登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性
2人と共に。昭和63年1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日
の登山で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念される。平成2
0年2008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富士宮

で支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入
である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行
なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越
されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信
奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社
奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目よ
り上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。この
2者の争論を起因とする裁判により、これま

山道に入り登頂。富士山を巡る利権争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山
』山麓の各地域には各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来
の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭を徴収していた。
これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起こしている。特に内院散銭は相
当額になるため、争いの火種になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1
年で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという。内院散
銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域によって争われた。「
村山」と「須走」と「大宮」である。村山においては、1533年(天文2年)に
村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている。須走
は1577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の
内院散銭の取得権が与えられている。大宮は1609年(慶長14年)に徳川家康
が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位権を得ている。浅間大社の
大宮司が村山より登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝す
る慣例などもあった。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管理し
ている「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏が自分たちに山
役銭を支払えば、「須走」の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道
を作り山小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「吉田」は
1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こし、「大宮」と「吉田」
では薬師堂における役銭の配分で争っている過去などがある。元禄の争論元禄16
年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社
)を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間神社の神主や御
師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出た。
訴えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めた
ことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟

の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定め
られることとなった。富士山と眺望特別名勝としての富士山富士
山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に指定され
、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨県側は富
士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・
山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲まれる地
域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道(御
殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域、またこれと重複し
ない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山道
(小山町)が範囲となっている。富士山の眺望ウィキメディア・
コモンズには、各地点からの富士山の眺望に関連するカテゴリが
あります。富士山への良好な眺望が得られる128景233地点
を、国土交通省関東地方整備局が関東の富士見百景として、20
05年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内
便などでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案
内するアナウンスをすることが多い。また、新年のご来光を見る
ための遊覧飛行便も運行される。富士山の眺望の最遠は2013
年現在、和歌山県那智勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(
妙法山とは別)は、富士山頂からの距離は322.9キロで、一
番遠く最も西にあるとされる。また、眺望の北限は2017年1
月16日に福島県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919
m)と日本地図センターにより認定された(富士山からは308
kmの距離にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三
原山からも眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能
とされていた京都府から2014年に撮影に成功したことにより
、20都道府県となった。様々な表情の富士山富士山の表情は、
見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名
が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の朝
、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめ
とした画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧し
た富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。「モルゲンロート」(
ドイツ語Morgenrot)が用いられる

勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯すものであるというもの
、3つ目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となってい
るとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた
浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂の入仏につ
いては浅間大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2
番拾いの慣例は根拠がないということを主張した。それら

士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。D五千円券の
裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)
から望む日の出時のダイヤモンド富士(2015年12月5日撮
影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈む時、太陽が富士山
の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイヤモンドのように光る
現象。富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見ることが
できる。影富士朝日や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出さ
れる風景。富士山登山時に山の上部から、雲海の上に見られる場
合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂上に傘をかぶ
せた雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になる
ことが多い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏
富士』現在も富士山の山小屋や登山道の道標として「表口」や「
裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県から見た富士山を表
富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されているが、これに
は歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作成された『八
葉九尊図』では既に「するが口表」という表記がある。他に『甲
斐国志』巻35ではこのような記述がある。登山路ハ北ハ吉田口
、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略)南面ヲ表ト
シ、北面ヲ裏トスレドモ、…??『甲斐国志』他の資料にも共通
した記述がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方
は一般的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」とい
う言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身
延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』など
、作品名に採用されている例がみられる。富士山の文化美術にお
ける富士山三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(伝)
峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリーに掲
載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く
名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記
録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれて
いたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物
である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国立博
物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒

いう扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏
は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾
いは須走が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守された。安永の
争論安永元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして
浅間大社を相手として訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側
の富士民済も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確定する争
論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれる
こととなり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持
ち越されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信奉していたと
いう幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による裁
許で、最終的に富士山の8合目より上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決
定された。この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂の
支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定められることとなった
。富士山と眺望特別名勝としての富士山富士山は昭和27年(1952年)10月
7日に「名勝」に指定され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨
県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・山中湖村
)の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲まれる地域全部および富士宮口登山
道(富士宮市)と御殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域
、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山
道(小山町)が範囲となっている。富士山の眺望ウィキメディア・コモンズには、
各地点からの富士山の眺望に関連するカテゴリがあります。富士山への良好な眺望
が得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が関東の富士見百景
として、2005年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内便な
どでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を

が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳
図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌倉
時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『
伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とと
もに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画とし
ての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反
弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態
で描かれ、特別な存在として認識されていた。室町時代の作とさ
れる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要
文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であっ
た浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるもの
である。また、富士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、
葛飾北斎作江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵
本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した
。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響
を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連
作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。
多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料
を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、
夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波
と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌川広
重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六
景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケ
ッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士
山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作
により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地
点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。工芸
品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山の風情
を見出し、「不二山」と銘打っている。50銭政府紙幣(193
8年発行)岡田紅陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル。富
士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆ
る美術のモチーフとして扱われている。日本

ることが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行される。富士山
の眺望の最遠は2013年現在、和歌山県那智勝浦町である。那智勝浦の色川富士
見峠(妙法山とは別)は、富士山頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も
西にあるとされる。また、眺望の北限は2017年1月16日に福島県川俣町と飯
舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地図センターにより認定された(富
士山からは308kmの距離にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三
原山からも眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能とされていた京都
府から2014年に撮影に成功したことにより、20都道府県となった。様々な表
情の富士山富士山の表情は、見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する
。富士と名が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の朝、露出
した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめとした画家が「赤富士」
を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。
「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合がある。逆
さ富士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。D五千円券の裏の図案に、
本栖湖の逆さ富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモン
ド富士(2015年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈む時
、太陽が富士山の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイヤモンドのように光る現
象。富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見ることができる。影富士朝日
や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出される風景。富士山登山時に山の上部か
ら、雲海の上に見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂上に
傘をかぶせた雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になることが多
い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏富士』現在も富士山の山小
屋や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県
から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として

殖産興業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけ
られ美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画にお
いては伝統を引き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制
作された。また、鉄道・道路網など交通機関の発達により数多く
の文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞在し富士を
題材とした作品を製作しているが、富士を描

している画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがい
る。富士山をモチーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く
流通しており、このことから富士山もヨーロッパで広く知られて
いた。1893年(明治26年)、日本を旅行していたオースト
リア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント
大公は、日記に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。
いったい、この日本の象徴――ヨーロッパではふつうフジヤマと
呼ばれる――を知らない者などいるのだろうか?ヨーロッパでも
っとも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、
金属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染みだ
。??8月15日付戦時下には国家により富士は国体の象徴とし
て位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々に描かれた。
戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放された「日本
のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子らが富士を
描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアン
チテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士を描く傾向
も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で富士山を「小細工
を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵は描くが、
その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」という。日
本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨大な富士山を豆
粒のような人物(僧、西行法師)が見上げるという構図で、水墨
画や彫金でも描かれている。千円札、旧五千円札のモデルとなっ
た本栖湖からの富士山近代では紙幣や切手のデザインにも用いら
れている。富士山が紙幣のデザインに用いられる例は数多くある
。古くは1913年発行の50銭政府紙幣があり、愛鷹山からの
富士山でる。その後の1951年と1969年発行の旧五百円札
は大月市の雁ヶ腹摺山からの富士山を元にしている。1984年
発行の旧五千円札と2004年発行の千円札は本栖湖の湖畔から
の富士山である。富士山を描写した切手が郵便局から発売された
。河口湖、西湖、精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成1
1年))葛飾北斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグ
サ・山梨県(2005年(平成17年))文

767年)に河村岷雪が絵本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを
提示した。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた
葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画『冨嶽三十六景』(
天保元年1831年頃)を出版した。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠
近法に加え舶来顔料を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き
、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ

士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』
の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田子
の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(
3.318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また
、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…
燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・31
9・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山
頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士
山が火山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌集』
から。富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえ
てゆくへもしらぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富
士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士
日記』が富士の様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語
後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老
不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山
頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因
んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記してい
る。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」と
して言い伝えられている場所が現存している。ほか、『源氏物語
』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要
な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置すること
が正確に認識されており、古代においては駿河国に帰属していた
ため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが
、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。
また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、
どの方角から見ても整った美しい形を表している。中世から近世
には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸と
して俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富
士裾野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑
目的などで富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口
大學らが富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多く
の紀行文などに描かれた。富士山麓に滞在し

、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書
いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記
録を『富士日記』として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地
質学者であった母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の
時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記した。
また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や
戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富
士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。太
宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富嶽百景』の
一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨
県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている。直木賞作家
である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、
富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作『強力
伝』や『富士山頂』をはじめ数々の富士にまつわる作品を執筆し
ている。高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた際、美し
い富士山を見て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている
。「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ
花の姥」富士山と地域振興富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登
山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。しか
し、富士山麓には温泉地として成立する規模の湯量は湧出してい
ない。富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重
視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、
山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺
産登録問題等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相
違が表面化している。富士山と観光富士登山富士登山には登山の
知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日の
山開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。
期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている。
とくに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳細は「富士登
山」を参照その他の観光その優美な姿から、富士山が見える場所
は著名な観光地となっていることが多い。箱根−箱根は富士山が
望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美

が楽しめることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶えない。
また、夏は避暑地としても有名である。富士五湖−富士五湖は富
士山周辺の観光地として著名であり、本栖湖の逆さ富士が日本銀
行券に採用されている。白糸の滝−白糸の滝は上流に川は存在せ
ず、富士山の雪解け水が溶岩断層から湧き出す非常に珍しい形成
をしている滝である。また、音止めの滝と共に日本の滝百選に指
定されている。朝霧高原−朝霧高原は富士山を綺麗に臨むスポッ
トとして著名であり、その自然と広大な土地

回世界ジャンボリーも開催されている。ダイヤモンド富士−ダイ
ヤモンド富士などがはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったス
ポットも有名で、特に写真撮影を目的として訪れる観光客もいる
。ドライブ−富士スバルラインや富士山スカイラインなどを利用
して、5合目までマイカーで上がることができる。シーズン中は
マイカー規制の期間があり、冬期は閉鎖される。富士山の日(2
月23日)2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合
わせで読み「富士山の日」として制定している自治体がある。2
001年(平成13年)山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)
にて条例を制定。2002年(平成14年)山梨県富士吉田市を
中心に、山梨県の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承。2
009年(平成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会
一致で可決。同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どち
らも、富士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当た
り前」の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、
各自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加す
る事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルと
しても名高い名峰として再認識する機会としている。また併せて
富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの
期待も込められている。静岡県教育委員会で、各市町村に対して
2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とす
るよう要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓
である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることは
なじまない」という理由で、2011年以降休業日としていない
。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供や、富士
山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会教育施設に
も富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。なお、富士山
の日を最初に宣言したのは、パソコン通信「NIFTY−Ser
ve」内の「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」で
、1996年1月1日にネット上で発表した。富士山ナンバー静
岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸支局管内の1市2町4村を
対象とした、いわゆるご当地ナンバーとして

日から富士山ナンバーの交付が開始された。管轄支局が二県にま
たがるナンバープレートは珍しい。富士山検定「富士山検定実行
委員会」が主催する富士山検定が、富士商工会議所、富士吉田商
工会議所、静岡新聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、
NPO法人富士山検定協会の5者により行われている。地域間交
流富士山頂の湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流
が昭和三十二年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続
けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵
琶湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖
へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ
ことを「お水取り」という。2014年には日本富士山協会と中
華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結され
ている。標高3,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に
新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他他山の標高玉山
(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であった
。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本統治時代は次高
山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3,886メ
ートル。北岳−日本で2番目に高い山。標高3,193メートル
。日和山(仙台市)−日本で最も低い山。標高3メートル。エベ
レスト−世界最高峰。標高8,844メートル。文字この節には
、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Uni
code6.0の絵文字)が含まれています。和文通話表で、「
ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文字コードのUnico
de6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追加され
たが、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれて
いる。続けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りそ
の穴が琵琶湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水
を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山
頂へ注ぐことを「お水取り」という[82][83]。2014
年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で、富士山と玉
山の友好山提携が締結されている[84]。標高3,952メー
トルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と

峰であった。その他[編集]他山の標高[編集]玉山(台湾)−
日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であった。標高3,
952メートル。雪山(台湾)−日本統治時代は次高山と呼ばれ
、日本で2番目に高い山であった。標高3,886メートル。北
岳−日本で2番目に高い山。標高3,193メートル。日和山(
仙台市)−日本で最も低い山。標高3メートル。エベレスト−世
界最高峰。標高8,844メートル。文字[編集]この節には、
一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unic
ode6.0の絵文字)が含まれています(詳細)。和文通話表
で、「ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文字コードのUn
icode6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追
加されたが、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含
まれている。富士山世界文化遺産平成22年度第1回静岡県学術
日本政府が世界遺産一覧表への記載を推薦する「富士山」は、東
アジアの東端に当たる日本列島の本州島の中央部、日本の東海地
方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦する資産は17個
の構成資産(26個の構成要素(後述))から成り、現行の行政
区分に基づく各構成資産の所在地については以下に記すとおりで
ある。構成資産所在地No.所在地座標計測位置緯度経度A静岡
県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市・小山町)山梨県(富
士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口湖町)県境未確定地富士山
(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地帯の範囲図資産と緩衝地帯の
位置及び範囲を示す図面、並びに資産近傍における法的保護区分
を示す図面は以下のとおりである。f)資産面積及び緩衝地帯の
面積各構成資産の面積及びその緩衝地帯の面積、資産の総面積及
びその緩衝地帯の総面積については、以下に記すとおりである。
構成資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構成資産の面積(h
a)緩衝地帯の面積(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全
体の説明富士山は、標高3776mと日本一の高さを誇る独立峰
である。高度を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい懸垂曲線
を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質成
層火山である。その山体は南の駿河湾の海浜

らの実質的な高さは世界的にも有数である。富士山は、日本列島
のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート、ユーラシアプレー
ト、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さらにその
下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異な地点
に存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火山噴
出物からなる地層の上に第四紀更新世に造り

火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富士、さらにそ
れを覆う新富士山の4層構造で構成されている。山頂部の火口は
およそ2200年前を最後に噴火していないが、フィリピン海プ
レートが北進しユーラシアプレートを南南東方向から押し続けて
いるため割れ目が発生することによって、山頂を通って北北西に
向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以降も火山活動を
行ってきた。富士山が過去に流出した溶岩などの火山噴出物は、
適度な粘度を持つために美しいコニーデ型の山容を形成しながら
、山頂を中心として約15〜20km(最大約30km)の範囲
に広がった。山麓には数多くの風穴・溶岩樹型等の地形が見られ
、溶岩流の末端部では富士山の中腹以上への降水を起源とする豊
富な湧水(日量約450〜680万t、現在最大の湧水は日量約
100万tの柿田川)が見られる。富士山北麓ではこれらの湧水
や降水を起源とする湖沼が点在している。上記のような自然的環
境を持つ富士山は、古来自然物、特に山岳に対する信仰の伝統を
持っていた日本人に畏敬の念を抱かせ、日本における様々な宗教
の融合した信仰の対象とされた。遥拝や山中での修行のみならず
、神仏の在所と考えられた山頂への登山という宗教行為が一般化
するとともに、山体及び山麓周辺に神社などの宗教施設や風穴・
湧水といった自然物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が設け
られ、登山のための道や施設及びそれを支援する包括的なシステ
ムが作られた。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士
講(富士山信仰の集団の一つ)信者には「焼山」と呼ばれ、神聖
な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。北麓地域では
さらに、山体を上方から順に「焼山」(森林限界以上)、「木山
」(森林地帯)、「草山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「
草山」)と死の世界(「焼山」)を往復することでこの世の罪と
穢れを消すという富士登拝の区分と関連付けていた。森林地帯は
神聖な地域の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生活のため
に利用される地域でもあった。また、富士山山麓に見られる湧水
は登山前に身を清めるために必須のものであり、現代においても
柿田川をはじめ各所で「霊水」として取り扱

富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を戴いた姿、周辺の湖
や海岸線などの展望地から眺めた景観などが時代を超えて多くの
人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的な創造意欲を掻き
立てた。富士山体のうち、標高約1500m以上の範囲は、周辺
の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸
術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各登山道における山体
の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的
にも、宗教的観点からも不可能になる地点)の標高以上の範囲と
ほぼ一致している。地元住民が、とりわけこの「馬返」より上を
指して「オヤマ」又は「オヤマサマ」と呼び、富士山の範囲とみ
なす地域もあった。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくな
り「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲
線を描き絵画などの対象とされることが多い範囲である。2)資
産の構成推薦資産は、日本列島のほぼ中央に位置する富士山体と
、周辺の浅間神社や御師住宅、霊地・巡礼地である風穴・溶岩樹
型・湖沼、芸術作品の視点場(又は舞台)となった地点から構成
される。富士山体の中には山頂信仰遺跡や登山道などの重要な要
素が含まれている。これらの構成資産が一体となった推薦資産「
富士山」は、山に対する固有の文化的伝統を表す物証であり、山
と人間との精神的な関係を生み出した景観の見本であるとともに
、芸術的作品との関連がある山岳である。表構成資産/構成要素
の分類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰遺跡遺跡A
2大宮・村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺跡A4須走口登山
道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神社遺跡、記
念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖湖遺跡B
1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B5遺跡
B6遺跡B7遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9遺跡B1
0遺跡B11遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B15遺跡C
遺跡A富士山(富士山体)富士山本宮浅間大社山宮浅間神社河口
湖村山浅間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走浅間神社)河口
浅間神社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素忍野八海船津胎内
樹型吉田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅

湖673)構成資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山
には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施
設として機能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の
証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅
間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・
鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松原は、
何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描く典型
的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点
である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬
返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、その中
でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山
本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割
した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375
m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識され
てきた。A富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡A9本栖湖C三
保松原(写真複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には、麓の
浅間神社を起点として山頂に至る登山道が、複数存在する。12
世紀前半から中ごろにかけての修行僧末代の活動がきっかけにな
ったと考えられる大宮・村山口登山道や、六合目から1384年
の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登山
道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多
くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。ま
た、1200年の資料では、大宮・村山口及び吉田口の外、須山
口登山道を挙げて、それ以外には登山道がないと述べられている
。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随所に小屋や
石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上で、登
山道は欠かすことのできない構成要素である。A2大宮・村山口
登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A5吉田口登山道(写
真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御師住宅登山道の起点や
周辺地域には浅間神社が建造された。古くから富士山は遥拝の対
象であり、山宮浅間神社などは古代からの祭祀の形をとどめてい
る。噴火活動の活発化を受け、律令国家によ

士山を神体とする浅間神社(後の富士山本宮浅間大社)が、9世
紀後半には北麓にも噴火を鎮めるための神社が祭祀された。11
世紀後半の噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、富士山を舞
台とする修験の活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅
間神社や冨士御室浅間神社へと発展していった。登拝の大衆化に
伴って、須山浅間神社や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、
登山口の起点にも浅間神社が建立されるようになる。なかでも、
北口本宮冨士浅間神社は、江戸を中心に流行

大いに利用された吉田口登山道の起点であったが、その北には、
富士講徒の案内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今も
残されている。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村
山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社)
A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神社B7冨
士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・巡礼地と
なった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀後半から爆発的に
流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登るだけでな
く、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風穴や湧水地な
どを巡り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開祖とされる長谷
川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士五湖を始めとし
た八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富士講徒はこれら
の地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。また、長谷川
角行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元八湖」と
唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀ったこと
にちなんで整備された船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、特定の
富士講にとっての霊場・巡礼地となっている資産もある。B9山
中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B11忍野八海
B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡B
15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富士
山体)説明富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、
信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小屋といった
宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在する。推薦
範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合
う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も高い。また推
薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当
する標高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死
後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の
境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ
。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、山
頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目
以上は、1779年以降、富士山本宮浅間大

が、この理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と
呼び宗教的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座する
との信仰に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は
富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、
神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの
境域に沿い、富士山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ご
ろに富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1
561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩れ」という
危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用された
。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富士山
の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、次のような構
成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士山山頂部には、火口
壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所在する。富士
山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部にお
いて寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部
での宗教行為が体系化されていった。道者は山頂周辺において「
御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現象)」(のち「御来
光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮座するとされる神
仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝
し、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅における仏の世
界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行
為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世
紀中ごろ修行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初
とされ、その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定される
ものが最古)・懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像
等(1302年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋納
や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、大宮
・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉
田・須走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営された。
1874年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によっ
て撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変された
。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化す

行為は現代の登山者の多くが行っており、これらを通じて富士信
仰の核心が現代に受け継がれている。A2.大宮・村山口登山道
富士山南西麓の浅間大社を起点とし、村山浅間神社を経て山頂南
側に至る登山道である。12世紀前半から中ごろの、修行僧末代
の活動により、富士山南麓における登山が本格的に開始されたと
され、14世紀初めには修験者による組織的登山が始まったとさ
れる。15世紀以降19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた
3軒の有力宿坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行う
とともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を行った。また
、一般人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も
開始され、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼
羅図」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19世紀初
頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,000人前後
、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の外国人
登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した。1
01889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場口利用者の
増加により衰退し、これへの対策として1906年、村山を経由
しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標高26
00m)までは登山道としての機能を失った。この区間は一部除
き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は1970年に標高
2400m地点まで開通した自動車道を利用しての登山が行われ
ている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.須山口登山道
富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至る登山
道である。その起源は明確ではないが、文字資料の中で1486
年にその存在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅
間神社及びその所在地の須山村(現裾野市須山)により管理され
ていた。また、登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行
場(参拝所)としても使用された。道者については詳しい研究が
進んでいないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由来す
る60年に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前
半は年平均約1,700人、1860年(御縁年)は約3,60
0人であった。1883年、須山口二合八勺

に接続する御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線
開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さ
らに1912年、一部が陸軍演習場となり使用不可能となったた
め、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っている。二合
八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみである
。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称で使

勺以上の部分及び遊歩道として整備された旧須山口の一部である
)A4.須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八
合目で吉田口登山道と合流し山頂東部に至る登山道である。その
起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏
が出土しており、文字資料では1500年にその存在を確認でき
る。登山道は遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及びその所
在地の須走村が登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部
などを得ていた。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と
争いになり、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕
府に裁定を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の
宝永噴火の際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に
覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了し
、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットにされ
た参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年に
23,700人とピークを迎えた。1959年、バス道路の完成
により、新五合目(標高約2000m)以下の登山道の利用はほ
とんどなくなり、一部道としての確認ができない区間がある。(
推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。)A5.
吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂東部を
目指す道である。15世紀には、富士山への登拝が、修験者だけ
でなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口は14世
紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人々が登
るための設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷
川角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講
隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって信
者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため、富士講の信者が
次第に増加した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山
口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している
。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な
道である。(推薦範囲は登山道全体である。)11法的保護、修
理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名
勝に仮指定された。1936年に国立公園法

国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下に名勝、
ついで特別名勝に指定された。1969年に国が大沢崩れに対す
る砂防事業に着手(継続中)。1996年に国・県が台風による
森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)。文化財保護法の
下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。A6
.北口本宮冨士浅間神社説明富士山の遥拝所に祀られていた浅間
明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富士山
」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整って
いたとされる。その後、1561年に現在の東宮本殿、1594
年に西宮本殿、1615年には本殿が建立された。富士講とのつ
ながりが強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の
寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境
内の景観の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の
本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組
をもって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本
殿・西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿とも、
各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して、それぞ
れの時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神
社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており
、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社
殿の背後には登山門があり、この神社を起点として富士山頂まで
吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持
ちながら発展した神社である。法的保護、修理・整備の経緯19
07年に東宮本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定さ
れた。1929年の国宝保存法制定に伴い、本殿は国宝とされた
。1950年の文化財保護法制定に伴い、東宮本殿は重要文化財
とされた。1953年に本殿及び西宮本殿が文化財保護法の下に
重要文化財に指定された。1952年に東宮本殿の解体修理工事
が行われた。1962〜63年に西宮本殿の解体修理工事が行わ
れた。1973〜74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工
事が行われた。1981〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行
われた。1997年に本殿の部分修理工事が

護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定
。A7.西湖A8.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動に
よって形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行す
る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行
の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたの
が、後述の山中湖及び河口湖とこの3湖である。また、景勝の地
でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。12特に本栖湖は、
日本の紙幣の図柄として何度も使用された写真の撮影地点であり
、重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は、プ
ロ・アマ問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なかで
も、生涯にわたり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、193
5年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」という写
真は有名である。この写真は、1984年に採用された五千円札
及び2004年に採用された千円札の図柄として使用された。山
体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本栖湖からの
展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現
在も残している。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下
に名勝として指定される予定。B1.富士山本宮浅間大社説明社
記によれば806年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅
間神社から現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古く
から富士山南麓地域の中心的神社であった。現在全国に約130
0社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰されている。創建当
初は遥拝のための施設であったが、15世紀ごろ登拝が盛んにな
るにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社(興法寺)とと
もに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が周辺に建設された
。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されていく中で
、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をおさめ統一政権
である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604年現在の「
浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造営されるとと
もに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を得た。これ
を基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、177
9年、幕府による裁判によりこの八合目以上

た。明治政府によりここは国有地とされたが、1974年の最高
裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。浅
間大社境内には富士山の湧水を起源とする湧玉池がある。浅間大
社は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖な
る水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均14
万?)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である。
なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする
池である。16世紀前後、湧玉池は浅間大社

める場と位置づけられたとされ、同時期の絵図や旅行記でその様
子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代まで行われた
。現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる。法的保
護、修理・整備の経緯1907年に本殿が古社寺保存法の下に特
別保護建造物に指定された。1923〜26年に本殿・拝殿・楼
門等の補修が行われた。1929年の国宝保存法制定に伴い、本
殿は国宝とされた。1933〜34年に楼門の修理を行った。1
936年に袖廊・廻廊を附した。1950年の文化財保護法制定
に伴い、本殿は重要文化財とされた。1951〜52年、197
0年、1988年に本殿の屋根の修理等が行われた。1969〜
70年に本殿の屋根の修理等が行われた。1987〜88年に本
殿の屋根の修理等が行われた(部分補修)。2005年に本殿の
屋根の修理等が行われた。13文化財保護法の下に他の文化財と
ともに史跡富士山として指定される予定。B2.山宮浅間神社説
明富士山本宮浅間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされ、
拝殿・本殿等が位置すべき場所に石列でいくつかに区分された遥
拝所が設置されるのみという特異な形態は古代からの富士山祭祀
の形を止めていると推定されている。この遥拝所の主軸は富士山
方向を向いている。具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では
神事に使用されたと推定される12〜15世紀の土器が出土し、
文献上では1551年にその存在が確認できる。また、遅くとも
1577年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる
儀式が開始された。これは4月と11月に神の宿った鉾を持ち、
浅間大社と山宮浅間神社を往復する行事である。現時点では神が
4月に旧跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田の神とし
て里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行わ
れていた。なお、「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸道と
いう。道には1691年に置かれた距離を示す石碑が少なくとも
四箇所残っているが、正確な道筋は現在確認されていない。法的
保護、修理・整備の経緯1985年に富士宮市の史跡に指定され
る。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指
定される予定。B3.村山浅間神社説明12

の修行僧末代の活動が創建の起源とされており、1868年の神
仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺
または村山興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺
院である大日堂が含まれる)。富士山における修験道の中心地で
あり、14世紀初めには、その活動が組織化された。15〜16
世紀には一般の道者の登拝も増加し、その様子が16世紀の制作
とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。1868年
、神仏分離令により浅間神社と大日堂は分離され、1906年の
登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし、修験者の活動
は1940年代まで継続された。また、村山の修験者の影響を受
けた地域では現在でもその宗教行事が継続されている。法的保護
、修理・整備の経緯2001年から2003年にかけて富士宮市
教育委員会により発掘を含む調査が行われた。文化財保護法の下
に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B4.
須山浅間神社説明須山口登山道の起点として遅くとも1524年
には存在していた神社である。1707年、宝永噴火により社殿
は登山道も含め大きな被害を受け、現在の社殿は1823年に再
建されたものである。神社は村山浅間神社(興法寺)の修験者と
も関わりを持ち、1940年頃まで境内で修行の一環としての祈
祷が行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の
下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。14
B5.富士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807年に社
殿を造営したとされ、須走口登山道の起点となった神社である。
16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部の散銭
取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩壊し
1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し、20
09年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。神社には
富士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心に登拝回数の達
成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80基造営した。
法的保護、修理・整備の経緯2006年に社殿が小山町の有形文
化財となる。2009年に本殿・参道の修理が行われた。文化財
保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山

定。B6.河口浅間神社説明古くから富士山に関わる祭祀は南麓
の浅間神社が執り行っていたが、864〜866年に北麓で起こ
った噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられることとなった
。それが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかっ
た河口浅間神社である可能性が高い。浅間神社を中心とした河口
の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、富士登
拝が大衆化した中世後半から御師集落として発展を遂げた。しか
し、江戸における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛
により、河口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退して
しまった。ただし、河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結び
ついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信
仰を語る上で欠かすことのできない資産である。法的保護、修理
・整備の経緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山
として指定される予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅
間神社は、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえた
のが最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文
献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二
合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点とし
て役行者堂が整備されたようである。山中という厳しい条件の下
に所在するためたびたび破損し、1189、1275、1475
、1525年と加修され、1564には地元領主による大修理が
行われている。現在の本殿は1612年建立と認められ、その後
も1698年、1867年に修復が行われていた。1973−7
4年には里宮の地にそのままの形で移設された。里宮は、二合目
の本宮(もとみや)が冬季の参拝に苦渋するために河口湖畔に建
てられたとされる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点と
して位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮
が一体となって機能してきた神社である。法的保護、修理・整備
の経緯1973〜74年に吉田口登山道二合目にあった本殿が里
宮の地に移築された。151985年に移築された二合目本殿が
文化財保護法の下に重要文化財に指定された。文化財保護法の下
に他の文化財とともに史跡富士山として指定

御師住宅説明御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の
世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。
富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道の起点である北口
本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な
集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をな
し、表通りに面して引き込み路を設け、敷地

住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥
部には神殿が設けられている。1768年に建てられ最古の部類
に数えられる旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建て
られ富士講最盛期の御師住宅の典型例とされる小佐野家住宅が代
表的である。1861年に新築された小佐野家住宅同様、富士講
の流行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では
1860年代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経
緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に
指定された。1979年に小佐野家住宅の屋根の修理等が行われ
た。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が行われた。
旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定される予定
。B9.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動によって形
成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海
巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行の水行か
らいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが前述の
3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。この巡礼行為について
、具体的に湖沼のどこで修行や巡礼が執り行われたか、またどの
ルートを辿って各湖を巡ったかは、定まっていなかった(少なく
とも、明らかになっていない)ものの、人々の信仰心を駆り立て
た湖沼の水そのものを核心として、周辺地域も含めた範囲が文化
財とされている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆ
かりが深い。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名
勝として指定される予定。B11.忍野八海説明富士山の伏流水
による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関
わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れ
を祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御
手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、
1843年に富士講道者によって再興されたとされる。法的保護
、修理・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に天然紀念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明16
17年長谷川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指
定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひと

発見し、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって
現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の
際に、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間
に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にとって
の富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。法的保護
、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明1892
年に富士道者によって整備された「お胎内」である。富士講講徒
は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士
山に登山した。本穴については、古くから冨士山北口御師団が管
理している。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人穴
富士講遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとさ
れる溶岩洞窟の人穴と富士講信者による約230基の碑塔群が残
る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描かれ、「浅間
大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容は遅く
とも1603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話化され、
その存在が広く知られていた。富士講関連の文書によれば人穴は
16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行が修行により浅間大菩
薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た場であり、入滅
した場だとしている。また、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と
述べ、これらの結果人穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を
行う者も見られた。また、信者は人穴への分骨埋葬などを望み、
墓碑、供養碑、記念碑などを建立した。1942年付近が軍用地
となり、人穴の浅間神社や周辺の住民は一時移転した。1954
年神社は現在地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参
詣者はみられるものの1964年以降碑塔の建設は行われていな
い。法的保護、修理・整備の経緯1999年に富士宮市の史跡と
なる。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として
指定される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とす
る数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜1
6万?)の噴出が数百条の白糸が垂れている

その起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の文書によれば長谷
川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、富士講
を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地とし
ても有名であり、和歌・絵画の題材にもなっている。法的保護、
修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に
名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原説明三保松原は
、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」の舞台となった。
15〜16世紀以降富士山を描く際の典型的な構図に含まれる景
勝地として数多く描かれ、歌川広重等の作品をはじめ海外にも広
く知られている(又は海外に影響を与えた)芸術作品の視点場、
又は舞台となった場所のひとつである。法的保護、修理・整備の
経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定さ
れた。18b)歴史と発展山容の形成富士山の原型は、40〜1
0万年前、周辺の火山とともに活動をはじめ、先小御岳火山が形
成された。その後これを覆うように標高約2500mの小御岳火
山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに古富士火山
が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り
返し、小御岳火山をほぼ山体に納める形で3000mを超える火
山に成長した。約1万年前には大量の溶岩を噴出する形で現在の
富士山(新富士火山)が成長を始め、古富士山を覆いつくし、約
5600〜3500年前に現在の規模となった。繰り返された溶
岩の流出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部
には山体への降水を起源とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出す
る形で各所に形成された。富士山北麓においてはこれらの湧水や
降水が北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成された
。また、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。
山頂からの噴火は2200年前の噴火を最後に起こっていないが
、歴史時代になっても北西〜南東方向に連なる側火山からの噴火
を続け、1200年前から後には少なくとも800〜802年、
864〜866年、937年、999年、1033年、1083
年、1435〜1436年、1511年、1707年の九つの時
期の噴火が確認されている。神々しい山容と

噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と
考えられたために、古くから遥拝の対象であったが、日本におけ
る古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り
返す噴火を鎮めるため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座す
る神を浅間神として祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅
間神社が建立され、国家の宗教政策の一端に位置づけられるよう
になった。また、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境が
芸術の対象とされるようになり、日本最古の

噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と
考えられたために、古くから遥拝の対象であったが、日本におけ
る古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り
返す噴火を鎮めるため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座す
る神を浅間神として祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅
間神社が建立され、国家の宗教政策の一端に位置づけられるよう
になった。また、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境が
芸術の対象とされるようになり、日本最古の歌集である『万葉集

野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る富士
信仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った
。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元八湖」
と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者によって再興された
とされる。法的保護、修理・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の
下に天然紀念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷川角
行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩
樹型のひとつと考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年には富士講
道者によって現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際に
、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付けが
行われるとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫などが
祀られている。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存
法の下に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明1892年に富士道
者によって整備された「お胎内」である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き
、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。本穴については、古くから冨士
山北口御師団が管理している。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人穴富士講遺跡説明富
士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士講信者に
よる約230基の碑塔群が残る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描か
れ、「浅間大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容は遅くとも1
603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話化され、その存在が広く知られて
いた。富士講関連の文書によれば人穴は16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行
が修行により浅間大菩薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た場であり、
入滅した場だとしている。また、角行は人穴を「浄土(浄

』(8世紀半ば)や日本最古の物語とされる『竹取物語』(9世
紀後半)をはじめとして、数多くの和歌・物語など文学の題材と
なったほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)
をはじめ、数多くの絵画作品の題材として取り上げられるように
なった(表参照)。特に12世紀後半以降、日本の政治的中心が
京都から鎌倉に移動し、この二つの都市を結び富士山南麓を通る
街道の交通量が増加したことで、富士山の情報は多くの人に記録
され、広く知られるようになった。修験道―日本古来の山岳信仰
と外来宗教の習合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化した
ことで富士山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が
習合した「修験道」の道場ともなり、修験者が山中に分け入り、
霊力を獲得するために修行する山へと変化していった。当時一般
的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世
界(又は仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂
部に至ることが重要な意味を持つようになった。この結果15〜
16世紀には登拝する山として一般に広く知られ、修験者に引率
された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。登山口の設
置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後半に開
かれたとされている。このころには参詣の道者のための宿坊もで
き始め、大勢の登山者が登るための設備が整い始めた。登拝の大
衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわたる日本国内での
戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し経19済的な発
展もあってより多くの人が富士山を目指すようになった。このよ
うな中で18世紀後半、16世紀に富士山体や周辺の風穴などで
修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から始まったとされる富士
信仰が江戸(現在の東京)を中心に「富士講」と呼ばれる信仰集
団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が登拝するよう
になった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」という。)は
原則として固定的・継続的関係を持った「御師(宿坊を経営する
神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈祷や宗教的指導を受け、湧水で
水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した。登山道
には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者

の結果人穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を行う者も見られた。また、信者
は人穴への分骨埋葬などを望み、墓碑、供養碑、記念碑などを建立した。1942
年付近が軍用地となり、人穴の浅間神社や周辺の住民は一時移転した。1954年
神社は現在地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参詣者はみられるもの
の1964年以降碑塔の建設は行われていない。法的保護、修理・整備の経緯19
99年に富士宮市の史跡となる。文化財保護法の下に他の

が体系的に整備されたのもこの頃である。また、富士講において
は長谷川角行ら指導者の言動にならって周辺の風穴や湖沼・滝な
ども修行の地とされ、ここにおいて富士山と周辺の宗教施設・霊
地・巡礼地は庶民の信仰の場として定着し、山の結界が開放され
る二ヶ月間に年平均1万〜2万人の人々が信仰を目的とした登山
を行うようになった。芸術作品の多様化とジャポニスム芸術面に
おいても、とりわけ江戸時代(17〜19世紀半ば)には、文学
、絵画、工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわたって取り上げ
られ、三保松原と富士山を描いた絵画など多様な表現が追究され
るようになった。(表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」
に代表される浮世絵の数々は、西洋の画家たちに文化的衝撃を与
えた。19世紀後半には「ジャポニスム」という芸術上の画期的
な転機を惹き起こし、印象派の作品に影響を与えるとともに、そ
の富士山を含んだ構図は海外において日本のイメージの一つとさ
れてきたのである。日本を訪れた外国人が富士山からインスピレ
ーションを得て記述した紀行文の中でも、富士山のアイコン的側
面を綴ったものが多い。近世以前も富士山は日本一有名な山であ
ったが、19世紀後半の開国によって日本が近代国家としての体
制を整えるにつれて、日本を代表する山から日本を象徴する山へ
と変貌した。廃仏毀釈と登山の利便性向上19世紀半ばより、明
治政府を中心に行われた日本の近代化・西欧化政策は富士山にも
影響を与えた。政府が神仏分離や修験道禁止の方針を打ち出した
ことや、これを契機に発生した廃仏毀釈の運動により、仏教的施
設は神道系の施設に再編されたが、1872年の(信仰の山にお
ける)女人禁制解禁の影響もあり富士山への登拝は継続ないし拡
大した。19世紀末以降の鉄道・自動車道の開通も、登山者の利
便性を格段に向上させた。南麓へは1889年に東海道線が開通
し、北麓へは1900年前後に馬車鉄道と中央線が開通したこと
によって、東京からの登山がさらに活発になった。自動車道とし
ては、1929年に北口本宮冨士浅間神社から馬返(標高145
0m)まで自動車専用道路が開削され、1937年には大型バス
による輸送も始まった。第二次大戦以降、日

山として指定される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とする数百の
流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜16万?)の噴出が数百条の
白糸が垂れているように見えることをその起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連
の文書によれば長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、富士
講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地としても有名であり
、和歌・絵画の題材にもなっている。法的保護、修理・整備の経緯1936年に史
蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原説
明三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」の舞台となった。15
〜16世紀以降富士山を描く際の典型的な構図に含まれる景勝地として数多く描か
れ、歌川広重等の作品をはじめ海外にも広く知られている(又は海外に影響を与え
た)芸術作品の視点場、又は舞台となった場所のひとつである。法的保護、修理・
整備の経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定された。18
b)歴史と発展山容の形成富士山の原型は、40〜10万年前、周辺の火山ととも
に活動をはじめ、先小御岳火山が形成された。その後これを覆うように標高約25
00mの小御岳火山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに古富士火山
が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り返し、小御岳火山
をほぼ山体に納める形で3000mを超える火山に成長した。約1万年前には大量
の溶岩を噴出する形で現在の富士山(新富士火山)が成長を始め、古富士山を覆い
つくし、約5600〜3500年前に現在の規模となった。繰り返された溶岩の流
出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部には山体への降水を起源
とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出する形で各所に形成された。富士山北麓にお
いてはこれらの湧水や降水が北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成さ
れた。また、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。山頂からの噴
火は2200年前の噴火を最後に起こっていないが、歴史

況の変化により、富士山への登山は信仰を中心としたものから、
富士山への憧れを主な動機とするものに変化した。また、196
4年に中腹までの自動車道として、北麓の富士山スバルラインが
、1970年に南麓の富士山スカイラインが開通し、これ以降、
中腹(標高2300〜2400m)を起点とした登山が主流にな
った。この結果富士山への登山者は急増し、年平均20万〜30
万人に達するに至った(2007年からはさらに増加し年間35
万〜43万人)。これらの登山者の行動様式の中には富士山への
信仰の核心が受け継がれており、加えて、現代的な富士山信仰の
形態として、静岡県の柿田川のように、新たに富士山との関わり
が明らかになったことが、環境保護活動の活性化につながった例
などがある。最近の保全の歴史20富士山体は文化財としては、
1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山麓の幅広い地
域が名勝に仮指定された。これとほぼ同じ範囲は、1936年に
自然公園法により国立公園の一部として指定され、現在も保全の
対象となっている。さらに、第二次世界大戦後の1952年には
、新たに文化財保護法によって、御中道以下500mより上及び
一部の登山道などが名勝として(同年、特別名勝として)指定さ
れ、1966年には指定区域を拡大した。山梨県は1978年(
のち、1999年及び2006年に改定)、静岡県は2006年
に「特別名勝富士山」の保存管理計画を策定し、適切な保存と活
用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の近代以前の修理や
保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含めた富士山に
関わる記念工作物・建造物群・遺跡は、1907年以降、古社寺
保存法(1897年〜1929年)、(国宝保存法(1929年
〜1950年))、史蹟名勝天然紀念物保存法(1919年〜1
950年)、文化財保護法(1950年〜現在)により、名勝、
特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡等として指定
され、文化財ごとに保存管理計画が策定されており、それぞれの
価値が最もよく表れる時代の状態が保たれるように細心の注意が
払われている。、また、周辺に位置する個々の文化財は、「包括
的保存管理計画」によって、富士山体も含め

東方向に連なる側火山からの噴火を続け、1200年前から後には少なくとも80
0〜802年、864〜866年、937年、999年、1033年、1083年
、1435〜1436年、1511年、1707年の九つの時期の噴火が確認され
ている。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は
恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたために、古くから遥拝の対象であったが、日
本における古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り返す噴火
を鎮めるため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座する神を浅間神として祀るよ
うにもなり、各地に遥拝所としての浅間神社が建立され、国家の宗教政策の一端に
位置づけられるようになった。また、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境
が芸術の対象とされるようになり、日本最古の歌集である『万葉集』(8世紀半ば
)や日本最古の物語とされる『竹取物語』(9世紀後半)をはじめとして、数多く
の和歌・物語など文学の題材となったほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(1
1世紀制作)をはじめ、数多くの絵画作品の題材として取り上げられるようになっ
た(表参照)。特に12世紀後半以降、日本の政治的中心が京都から鎌倉に移動し
、この二つの都市を結び富士山南麓を通る街道の交通量が増加したことで、富士山
の情報は多くの人に記録され、広く知られるようになった。修験道―日本古来の山
岳信仰と外来宗教の習合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化したことで富士
山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した「修験道」の道場と
もなり、修験者が山中に分け入り、霊力を獲得するために修行する山へと変化して
いった。当時一般的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世
界(又は仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂部に至ることが重
要な意味を持つようになった。この結果15〜16世紀には登拝する山として一般
に広く知られ、修験者に引率された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。
登山口の設置はいずれも室町時代のことで、14世紀から

理が行われている。21表富士山の美術(1)日本古来の伝統様
式によるもの(国宝重要文化財)指定所在作品名形式時代(年代
)説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏風1069現在最古の富士
山。聖徳太子が馬で富士山を越える物語の状景。神奈川清浄光寺
外一遍聖絵絵巻1299一遍が全国遍歴の途中、富士川に入水す
る往生者を見送る背後に富士山。兵庫・真光

とされている。このころには参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の登山者が
登るための設備が整い始めた。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年
にわたる日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し経19済的
な発展もあってより多くの人が富士山を目指すようになった。このような中で18
世紀後半、16世紀に富士山体や周辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷
川角行から始まったとされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中心に「富士講」と
呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が登拝するように
なった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」という。)は原則として固定的・
継続的関係を持った「御師(宿坊を経営する神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈祷や
宗教的指導を受け、湧水で水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した
。登山道には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支える施設が体系的
に整備されたのもこの頃である。また、富士講においては長谷川角行ら指導者の言
動にならって周辺の風穴や湖沼・滝なども修行の地とされ、ここにおいて富士山と
周辺の宗教施設・霊地・巡礼地は庶民の信仰の場として定着し、山の結界が開放さ
れる二ヶ月間に年平均1万〜2万人の人々が信仰を目的とした登山を行うようにな
った。芸術作品の多様化とジャポニスム芸術面においても、とりわけ江戸時代(1
7〜19世紀半ば)には、文学、絵画、工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわた
って取り上げられ、三保松原と富士山を描いた絵画など多様な表現が追究されるよ
うになった。(表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」に代表される浮世絵の
数々は、西洋の画家たちに文化的衝撃を与えた。19世紀後半には「ジャポニスム
」という芸術上の画期的な転機を惹き起こし、印象派の作品に影響を与えるととも
に、その富士山を含んだ構図は海外において日本のイメージの一つとされてきたの
である。日本を訪れた外国人が富士山からインスピレーションを得て記述した紀行
文の中でも、富士山のアイコン的側面を綴ったものが多い

巻1323他阿上人が全国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を越えて河
口に進む背後に富士山。大阪・久保惣記念美術館伊勢物語絵巻絵
巻14世紀伊勢物語現存最古の絵巻。第九段物語の主人が富士山
麓を進む場面。東京国立博物館月次風俗図のうち小屏風15世紀
十二月風俗図の一場面。鎌倉初期に行われた富士山麓の巻狩を題
材とする。富士山本宮浅間大社富士参詣曼荼羅図掛軸16世紀霊
山である富士山に参拝する行者達の登山風景、山頂に三尊あり。
狩野派の祖元信筆。東京国立博物館武蔵野図屏風17世紀武蔵野
の状景を装飾的に描いた名所図屏風の一。ススキ野の奥に富士山
がそびえる。山梨県立博物館曽我物語図屏風17世紀鎌倉将軍源
頼朝が主催した富士の巻狩最中に果された曽我兄弟による仇討ち
を題材。富士山の美術(2)室町時代水墨画によるもの指定所在
作品名形式時代(年代)説明東京・根津美術館富岳図仲安真康筆
掛軸15世紀現存最古の水墨による富士山図。鎌倉建長寺の僧で
、鎌倉画派の祖とされる。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸14
90仲安真康の弟子、建長寺の書記を勤めた禅僧万里集九や雪舟
とも交友があった。東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸15世
紀世界的に著名な日本を代表する水墨画家の作。水墨画による富
士山の一典型作。静岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸15
30東国を中心に活躍した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作
に挑んだ作品。個人(?)富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京
都相国寺の僧で、画をよくした。下辺に三保松原、富士山の左手
に日輪を描く。22富士山の美術(3)江戸時代諸派の作家と富
士山指定流派著名な作家名所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁
清東京・鼻山美術館銹絵富士山香炉(17世紀)世界的にも著名
な京焼の第一人者。富士山の朝昼晩の三つの景色を造型化する。
狩野派狩野探幽静岡県立美術館富士山図1670江戸狩野派の祖
、第一人者。富士山連作の緒を開いた。狩野派狩野山雪静岡県立
美術館富士三保松原図屏風(17世紀)山楽の養子として京狩野
派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。琳派尾形光琳奈良・大和文華
館富岳図(扇面貼交手箱内)(18世紀)世界的に著名な代表的
画家。工芸デザイナーとしても卓越する。文

本一有名な山であったが、19世紀後半の開国によって日本が近代国家としての体
制を整えるにつれて、日本を代表する山から日本を象徴する山へと変貌した。廃仏
毀釈と登山の利便性向上19世紀半ばより、明治政府を中心に行われた日本の近代
化・西欧化政策は富士山にも影響を与えた。政府が神仏分離や修験道禁止の方針を
打ち出したことや、これを契機に発生した廃仏毀釈の運動により、仏教的施設は神
道系の施設に再編されたが、1872年の(信仰の山にお

術大学富士十二景図(18世紀)日本文人図(南画)の大成者、
第一人者。富士・立山・白山を信仰登山し、三岳道者と自称。そ
の体験を描く。文人画派与謝蕪村富山佐藤美術館松林富士図(1
8世紀)大雅と並ぶ日本文人画の第一人者。俳人としても高名で
、俳画を大成した名手。文人画派野呂介石和歌山・田辺市立美術
館(寄託)紅玉芙蓉峰図1821紀州藩の役人で、大雅にも師事
した。早春の明け方の朱に染まった富士、赤富士の魁。文人画派
谷文晁静岡県立美術館富士山図屏風1835江戸文人画の大家。
諸国諸山の風景を写実的に描いた写生派の草分け。円山派円山応
挙兵庫・白鶴美術館富士三保松原図屏風1784装飾性と写実性
とを融合し、独自の画境を開いた、いかにも応挙らしい作品。洋
風画派小田野直武秋田県立近代美術館富岳図1777秋田藩士。
日本で最初に西洋画を学んだ、秋田蘭画の創始者。江戸出府の折
の作。洋風画派司馬江漢静岡県立美術館薩?山富士遠望図180
4平賀源内らと蘭学を研鑚、後に小田野直武の影響を受けて、洋
風写生画の第一人者となる。南蘋派宋紫石東京国立博物館日金山
富岳展望図(18世紀)長崎に渡来した清人画家より写生的花鳥
画を学び、また平賀源内らを通じて蘭学に通じた。禅画白隠慧鶴
大分・自性寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅僧。全国
を遍歴、布教した。禅画の大成者としても著名。浮世絵派葛飾北
斎山梨県立博物館版画富岳三十六景1831世界的に著名な浮世
絵師。富岳三十六景に見る象徴主義は欧米文芸に大きく影響した
。23浮世絵派歌川広重山梨県立博物館版画不二三十六景(19
世紀)北斎とともに世界的に著名な浮世絵師。東海道五十三次な
ど風景画に新境地を開き、印象派に与えた影響は大きい。浮世絵
派歌川貞秀神戸市立博物館三国第一山之図1849幕末の浮世絵
師。自ら富士山に登り、その感動を本図や富士絶頂之図など多く
の作品を残した。富士山の美術(4)近現代作家と富士山文化勲
章指定ジャンル著名な作家名所在代表作(年代)説明油画(洋画
)高橋由一金刀比羅宮宝物語館牧の原望岳図1878明治維新以
降、最初に油彩技法を習得した先覚者の作品。明治初期の貴重作
。〃五姓田義松東京都現代美術館清水の富士

響もあり富士山への登拝は継続ないし拡大した。19世紀末以降の鉄道・自動車道
の開通も、登山者の利便性を格段に向上させた。南麓へは1889年に東海道線が
開通し、北麓へは1900年前後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東
京からの登山がさらに活発になった。自動車道としては、1929年に北口本宮冨
士浅間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専用道路が開削され、1937
年には大型バスによる輸送も始まった。第二次大戦以降、日本の価値観や経済状況
の変化により、富士山への登山は信仰を中心としたものから、富士山への憧れを主
な動機とするものに変化した。また、1964年に中腹までの自動車道として、北
麓の富士山スバルラインが、1970年に南麓の富士山スカイラインが開通し、こ
れ以降、中腹(標高2300〜2400m)を起点とした登山が主流になった。こ
の結果富士山への登山者は急増し、年平均20万〜30万人に達するに至った(2
007年からはさらに増加し年間35万〜43万人)。これらの登山者の行動様式
の中には富士山への信仰の核心が受け継がれており、加えて、現代的な富士山信仰
の形態として、静岡県の柿田川のように、新たに富士山との関わりが明らかになっ
たことが、環境保護活動の活性化につながった例などがある。最近の保全の歴史2
0富士山体は文化財としては、1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山
麓の幅広い地域が名勝に仮指定された。これとほぼ同じ範囲は、1936年に自然
公園法により国立公園の一部として指定され、現在も保全の対象となっている。さ
らに、第二次世界大戦後の1952年には、新たに文化財保護法によって、御中道
以下500mより上及び一部の登山道などが名勝として(同年、特別名勝として)
指定され、1966年には指定区域を拡大した。山梨県は1978年(のち、19
99年及び2006年に改定)、静岡県は2006年に「特別名勝富士山」の保存
管理計画を策定し、適切な保存と活用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の
近代以前の修理や保存の状況は2bで述べたところだが、

に早く油彩技法に目覚めた開拓者の一人。明治初期の貴重作。〃
和田英作鹿児島歴史資料センター富士(河口湖)1926日本近
代洋画を技法的に確立した先駆者の一人。写生の確かさを見よ。
〃梅原龍三郎岡山・大原美術館朝陽1945ルノアールに学び、
日本洋画に存在感ある独特の装飾技法を樹立した。その金字塔と
も言うべき作。〃田崎広助長野・田崎美術館箱根朱富士1975
日本独特の平面的装飾に新しい一頁を開いた田崎ならではの自然
景観。〃林武箱根彫刻の森美術館赤富士1967主として第二次
大戦以後洋画壇をリードした。豪快な技法で富士連作に挑んだ。
膠画(日本画)富岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺富士山及び山頂全図
屏風1898最後の文人画家とも言われる思想家。自ら富士山に
登り、その神聖性をダイナミックに表現した。〃横山大観東京国
立近代美術館或る日の太平洋1952フェノロサ、岡倉天心と共
に日本画壇を復興した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマ
に富士山が描かれた。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図
屏風1919横山大観とともに明治日本画壇を背負った作家が伝
統的テーマに新風を吹き込む。〃川端龍子東京・大田区立龍子記
念館怒る富士1944強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。激
しい気象現象を示す富士に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁三の
丸尚蔵館富岳茶園1928昭和天皇即位記念の作品。伝統的日本
画に透明感のある新しい表現技法を示す。〃徳岡神泉京都国立近
代美術館富士1965福田平八郎と共に昭和の日本画壇に独自の
新風を吹き込んだ。茫漠たるモノトーンの中に立する富士。24
〃横山操東京・五島美術館朱富士1966第二次大戦後の日本画
壇をリードした新星。多くの富士を描いたが、赤富士と電光の対
比の妙。〃小松均京都市立美術館白富士1982第二次大戦後の
日本画壇に詩的な大画面で新境地を開いた。郷土山形や大自然に
魅せられて。〃片岡球子神奈川県立近代美術館面構葛飾北斎数年
前に没したが、最も現代日本画界をリードした女流画家。本図は
女史のライフワーク面構シリーズの一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁
三の丸尚蔵館富士1894アマチュアながら当時の技術を駆使し
た大版写真を御成婚25年記念に皇室に託し

関わる記念工作物・建造物群・遺跡は、1907年以降、古社寺保存法(1897
年〜1929年)、(国宝保存法(1929年〜1950年))、史蹟名勝天然紀
念物保存法(1919年〜1950年)、文化財保護法(1950年〜現在)によ
り、名勝、特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡等として指定され、
文化財ごとに保存管理計画が策定されており、それぞれの価値が最もよく表れる時
代の状態が保たれるように細心の注意が払われている。、また、周辺に位置する個
々の文化財は、「包括的保存管理計画」によって、富士山体も含めた統一的な保存
・管理が行われている。21表富士山の美術(1)日本古来の伝統様式によるもの
(国宝重要文化財)指定所在作品名形式時代(年代)説明東京国立博物館聖徳太子
絵伝屏風1069現在最古の富士山。聖徳太子が馬で富士山を越える物語の状景。
神奈川清浄光寺外一遍聖絵絵巻1299一遍が全国遍歴の途中、富士川に入水する
往生者を見送る背後に富士山。兵庫・真光寺遊行上人縁起絵絵巻1323他阿上人
が全国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を越えて河口に進む背後に富士山。大阪・久保惣
記念美術館伊勢物語絵巻絵巻14世紀伊勢物語現存最古の絵巻。第九段物語の主人
が富士山麓を進む場面。東京国立博物館月次風俗図のうち小屏風15世紀十二月風
俗図の一場面。鎌倉初期に行われた富士山麓の巻狩を題材とする。富士山本宮浅間
大社富士参詣曼荼羅図掛軸16世紀霊山である富士山に参拝する行者達の登山風景
、山頂に三尊あり。狩野派の祖元信筆。東京国立博物館武蔵野図屏風17世紀武蔵
野の状景を装飾的に描いた名所図屏風の一。ススキ野の奥に富士山がそびえる。山
梨県立博物館曽我物語図屏風17世紀鎌倉将軍源頼朝が主催した富士の巻狩最中に
果された曽我兄弟による仇討ちを題材。富士山の美術(2)室町時代水墨画による
もの指定所在作品名形式時代(年代)説明東京・根津美術館富岳図仲安真康筆掛軸
15世紀現存最古の水墨による富士山図。鎌倉建長寺の僧で、鎌倉画派の祖とされ
る。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸1490仲安真康の

・岡田紅陽写真美術館忍野赤富士1894文字通り富士山の写真
家。富士山のあらゆる表情を写真に収め、広めた。木版画萩原英
雄山梨県立美術館三十六富士1926本県出身の日本を代表する
木版画家。新しい視点からの富士山シリーズ。富士山の文学歴史
書「六りっ国史こくし」(奈良−平安)菅野すがのの真ま道みち
ら「続日本しょくにほん紀ぎ」(平安)藤原通憲ふじわらのみち
のり「本朝ほんちょう世紀せいき」(平安)伝皇こう円えん「扶
桑ふそう略記りゃっき」(平安)※作者未詳

めた禅僧万里集九や雪舟とも交友があった。東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸
15世紀世界的に著名な日本を代表する水墨画家の作。水墨画による富士山の一典
型作。静岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸1530東国を中心に活躍した水
墨画家。瀟湘八景にあやかって連作に挑んだ作品。個人(?)富士三保松原図是庵
筆掛軸16世紀京都相国寺の僧で、画をよくした。下辺に三保松原、富士山の左手
に日輪を描く。22富士山の美術(3)江戸時代諸派の作家と富士山指定流派著名
な作家名所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁清東京・鼻山美術館銹絵富士山香炉
(17世紀)世界的にも著名な京焼の第一人者。富士山の朝昼晩の三つの景色を造
型化する。狩野派狩野探幽静岡県立美術館富士山図1670江戸狩野派の祖、第一
人者。富士山連作の緒を開いた。狩野派狩野山雪静岡県立美術館富士三保松原図屏
風(17世紀)山楽の養子として京狩野派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。琳派尾
形光琳奈良・大和文華館富岳図(扇面貼交手箱内)(18世紀)世界的に著名な代
表的画家。工芸デザイナーとしても卓越する。文人画派池大雅東京芸術大学富士十
二景図(18世紀)日本文人図(南画)の大成者、第一人者。富士・立山・白山を
信仰登山し、三岳道者と自称。その体験を描く。文人画派与謝蕪村富山佐藤美術館
松林富士図(18世紀)大雅と並ぶ日本文人画の第一人者。俳人としても高名で、
俳画を大成した名手。文人画派野呂介石和歌山・田辺市立美術館(寄託)紅玉芙蓉
峰図1821紀州藩の役人で、大雅にも師事した。早春の明け方の朱に染まった富
士、赤富士の魁。文人画派谷文晁静岡県立美術館富士山図屏風1835江戸文人画
の大家。諸国諸山の風景を写実的に描いた写生派の草分け。円山派円山応挙兵庫・
白鶴美術館富士三保松原図屏風1784装飾性と写実性とを融合し、独自の画境を
開いた、いかにも応挙らしい作品。洋風画派小田野直武秋田県立近代美術館富岳図
1777秋田藩士。日本で最初に西洋画を学んだ、秋田蘭画の創始者。江戸出府の
折の作。洋風画派司馬江漢静岡県立美術館薩?山富士遠望

み」(鎌倉)斎藤月岑さいとうげっしん「武江ぶこう年表ねんぴ
ょう」(江戸)風土記元明天皇げんめいてんのう詔「常陸ひたち
国のくに風土記」(奈良)談話集景戒きょうかい「日本にほん霊
異記りょういき」(平安)※作者未詳「今昔こんじゃく物語集も
のがたりしゅう」(平安)和歌集大伴家持おおとものやかもち「
万葉集まんようしゅう」(奈良)紀淑望きのよしもち・紀貫之き
のつらゆき「古今和歌集こきんわかしゅう」(平安)村上むらか
み天皇てんのう「後撰和ごせんわ歌集かしゅう」(平安)後鳥羽
ごとば上皇じょうこう「新古今和歌集しんこきんわかしゅう」(
鎌倉)後鳥羽院ごとばいん「最勝さいしょう四天王院してんのう
いん障子しょうじ和歌わか」(鎌倉)藤原長清「夫木和歌抄ふぼ
くわかしょう」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明あきら「新拾遺
和しんしゅういわ歌集かしゅう」(室町)25記録・紀行文都良
香みやこのよしか(平安)「富士山記ふじさんき」※作者不詳(
鎌倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(鎌倉)「東関紀行とう
かんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ(室町)「富士紀行ふじ
きこう」堯孝ぎょうこう(室町)「覧らん富士記ふじき」堯恵ぎ
ょうえ(室町)「北国紀行ほっこくきこう」※作者不詳(室町)
「富士御覧日記ふじごらんにっき」道興どうこう(室町)「廻国
かいこく雑記ざっき」宗牧そうぼく(室町)「東国とうごく紀行
きこう」紹巴じょうは(室町)「富士見ふじみ道記みちのき」小
堀遠州こぼりえんしゅう(江戸)「東海道紀行とうかいどうきこ
う」浅井了意あさいりょうい(江戸)「東海道名所記とうかいど
うめいしょき」岩佐いわさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国道の記
」松尾まつお芭蕉ばしょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹か
がわかげき(江戸)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江
戸)「東遊とうゆう雑記ざっき」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「
東海紀行」日記文学菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ(平
安)「更級さらしな日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)「十六夜日記
いざよいにっき」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条に
じょう(鎌倉)「とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)
「岡部日記おかべにっき」永井ながい荷風か

蘭学を研鑚、後に小田野直武の影響を受けて、洋風写生画の第一人者となる。南蘋
派宋紫石東京国立博物館日金山富岳展望図(18世紀)長崎に渡来した清人画家よ
り写生的花鳥画を学び、また平賀源内らを通じて蘭学に通じた。禅画白隠慧鶴大分
・自性寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅僧。全国を遍歴、布教した。禅
画の大成者としても著名。浮世絵派葛飾北斎山梨県立博物館版画富岳三十六景18
31世界的に著名な浮世絵師。富岳三十六景に見る象徴主

「大窪だより」伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり物語ものが
たり」(平安)※作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安)
紫式部むらさきしきぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わかむ
らさき)」(平安)藤原兼輔ふじわらのかねすけ「聖徳太子伝暦
しょうとくたいしでんりゃく」(平安)※作者不詳(平安)「平
中へいちゅう物語ものがたり」「平家へいけ物語ものがたり」(
鎌倉)※未詳「曽我そがの物語ものがたり」(鎌倉)※作者不詳
「源平げんぺい盛衰記せいすいき」(鎌倉)※未詳「承久記じょ
うきゅうき」(鎌倉)浅井あさい了りょう意い「東海道名所記」
(江戸)能(謡曲)伝世阿弥ぜあみ原作(室町)「富士山ふじさ
ん」※未詳(室町)「羽衣はごろも」御伽草紙「富士の人穴ひと
あな草紙ぞうし」(江戸)仮名草紙※作者不詳(江戸)「竹斎ち
くさい」滑稽本十返舎一九じっぺんしゃいっく(江戸)「東海道
中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ」仮名垣魯文かなかきろ
ぶん(江戸−明治)「滑稽富士詣こっけいふじもうで」26浄瑠
璃近松門ちかまつもん左ざ衛門えもん(江戸)「聖徳太子絵伝記
」竹田たけだ出雲いずも・三好松洛みよししょうらく・並木千柳
なみきせんりゅう(江戸)「仮名かな手本でほん忠臣蔵ちゅうし
んぐら」童謡巌谷いわや小波さざなみ(明治−大正)「富士山ふ
じさん」(「ふじの山」)海野うんの厚あつし(明治−昭和)「
背せいくらべ」随想・随筆新井あらい白石はくせき(江戸)「折
おりたく柴しばの記」田山たやま花袋かたい(明治−昭和)「富
士を望む」小島烏水こじまうすい(明治−昭和)「すたれ行く富
士の古道」、「不二山ふじさん」永井ながい荷風かふう(明治−
昭和)「日和ひより下駄げた」太宰だざい治おさむ(明治−昭和
)「富嶽百景ふがくひゃっけい」大町桂月おおまちけいげつ(明
治−大正)「富士の大観」中村星湖なかむらせいこ(明治−昭和
)「少年行しょうねんこう」北村きたむら透谷とうこく(明治)
「富嶽ふがくの詩し神しんを思おもふ」深田ふかだ久弥きゅうや
(明治−昭和)「日本にほん百名山ひゃくめいざん」小説落合直
文おちあいなおぶみ(江戸−明治)「たかねの雪ゆき」夏目漱石
なつめそうせき(明治−大正)「三四郎さん

響した。23浮世絵派歌川広重山梨県立博物館版画不二三十六景(19世紀)北斎
とともに世界的に著名な浮世絵師。東海道五十三次など風景画に新境地を開き、印
象派に与えた影響は大きい。浮世絵派歌川貞秀神戸市立博物館三国第一山之図18
49幕末の浮世絵師。自ら富士山に登り、その感動を本図や富士絶頂之図など多く
の作品を残した。富士山の美術(4)近現代作家と富士山文化勲章指定ジャンル著
名な作家名所在代表作(年代)説明油画(洋画)高橋由一金刀比羅宮宝物語館牧の
原望岳図1878明治維新以降、最初に油彩技法を習得した先覚者の作品。明治初
期の貴重作。〃五姓田義松東京都現代美術館清水の富士1881父芳柳と共に早く
油彩技法に目覚めた開拓者の一人。明治初期の貴重作。〃和田英作鹿児島歴史資料
センター富士(河口湖)1926日本近代洋画を技法的に確立した先駆者の一人。
写生の確かさを見よ。〃梅原龍三郎岡山・大原美術館朝陽1945ルノアールに学
び、日本洋画に存在感ある独特の装飾技法を樹立した。その金字塔とも言うべき作
。〃田崎広助長野・田崎美術館箱根朱富士1975日本独特の平面的装飾に新しい
一頁を開いた田崎ならではの自然景観。〃林武箱根彫刻の森美術館赤富士1967
主として第二次大戦以後洋画壇をリードした。豪快な技法で富士連作に挑んだ。膠
画(日本画)富岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺富士山及び山頂全図屏風1898最後の
文人画家とも言われる思想家。自ら富士山に登り、その神聖性をダイナミックに表
現した。〃横山大観東京国立近代美術館或る日の太平洋1952フェノロサ、岡倉
天心と共に日本画壇を復興した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマに富士山
が描かれた。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風1919横山大観とと
もに明治日本画壇を背負った作家が伝統的テーマに新風を吹き込む。〃川端龍子東
京・大田区立龍子記念館怒る富士1944強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。
激しい気象現象を示す富士に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁三の丸尚蔵館富岳茶
園1928昭和天皇即位記念の作品。伝統的日本画に透明

ぐびじんそう」泉鏡花(明治−昭和)「婦おんな系図けいず」「
春しゅん昼ちゅう」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」徳富とくと
み蘆花ろか(明治−昭和)「冨士ふじ」「自然しぜんと人生じん
せい」(随筆)永井ながい荷風かふう(明治−昭和)「新帰朝者
日記」橋本英吉はしもとえいきち(明治−昭和)「富士山頂ふじ
さんちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治−平成)「岳麓点描が
くろくてんびょう」武田泰淳たけだたいじゅん(大正−昭和)「
富士ふじ」武田百合子たけだゆりこ(大正−昭和)「富士日記ふ
じにっき」新田にった次郎じろう(大正−昭和)「強力伝ごうり
きでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙蓉ふようの人ひと」「富士ふ
じに死しす」「着氷ちゃくひょう」「冬山ふゆやまの掟おきて」
「富士ふじ山頂さんちょう」川端康成かわばたやすなり(明治−
昭和)「東海道とうかいどう」白井喬二しらいきょうじ(明治−
昭和)「富士ふじに立たつ影かげ」国枝くにえだ史郎しろう(明
治−昭和)「神州纐纈城しんしゅうこうけつじょう」松本まつも
と清せい張ちょう(明治−昭和)「波なみの塔とう」芹沢光せり
ざわこう治じ良ろう(明治−平成)「我が入道にゅうどう」「人
間にんげんの運命うんめい」幸田文こうだあや(明治−平成)「
崩くずれ」27詩歌伝柿本かきのもとの人麻呂ひとまろ(飛鳥−
奈良)「柿本集」山部赤人やまべのあかひと(奈良)「万葉集ま
んようしゅう」高橋たかはしの虫むし麻呂まろ(奈良)「高橋虫
麻呂たかはしのむしまろ歌集」藤原ふじわらの清きよ正ただ(平
安)「清きよ正ただ集」在原業平ありわらのなりひら(平安)「
業平集」藤原ふじわらの公きん任とう(平安)「公きん任とう集
」藤原ふじわらの定家さだいえ(平安−鎌倉)「内裏名所百首」
「名号みょうごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね(
平安−鎌倉)「明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわらの俊とし
成なり(平安−鎌倉)「(藤原兼ふじわらのかね実ざね)右う大
臣家だいじんけ百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹後守為忠朝臣
家百首」慈じ円えん(平安−鎌倉)「拾玉集」西行さいぎょう(
鎌倉)「新古今和歌集しんこきんわかしゅう」源実朝みなもとの
さねとも(鎌倉)「金槐和歌集きんかいわか

を示す。〃徳岡神泉京都国立近代美術館富士1965福田平八郎と共に昭和の日本
画壇に独自の新風を吹き込んだ。茫漠たるモノトーンの中に立する富士。24〃横
山操東京・五島美術館朱富士1966第二次大戦後の日本画壇をリードした新星。
多くの富士を描いたが、赤富士と電光の対比の妙。〃小松均京都市立美術館白富士
1982第二次大戦後の日本画壇に詩的な大画面で新境地を開いた。郷土山形や大
自然に魅せられて。〃片岡球子神奈川県立近代美術館面構葛飾北斎数年前に没した
が、最も現代日本画界をリードした女流画家。本図は女史のライフワーク面構シリ
ーズの一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三の丸尚蔵館富士1894アマチュアながら当
時の技術を駆使した大版写真を御成婚25年記念に皇室に託した。〃岡田紅陽山梨
・岡田紅陽写真美術館忍野赤富士1894文字通り富士山の写真家。富士山のあら
ゆる表情を写真に収め、広めた。木版画萩原英雄山梨県立美術館三十六富士192
6本県出身の日本を代表する木版画家。新しい視点からの富士山シリーズ。富士山
の文学歴史書「六りっ国史こくし」(奈良−平安)菅野すがのの真ま道みちら「続
日本しょくにほん紀ぎ」(平安)藤原通憲ふじわらのみちのり「本朝ほんちょう世
紀せいき」(平安)伝皇こう円えん「扶桑ふそう略記りゃっき」(平安)※作者未
詳「吾妻鏡あづまかがみ」(鎌倉)斎藤月岑さいとうげっしん「武江ぶこう年表ね
んぴょう」(江戸)風土記元明天皇げんめいてんのう詔「常陸ひたち国のくに風土
記」(奈良)談話集景戒きょうかい「日本にほん霊異記りょういき」(平安)※作
者未詳「今昔こんじゃく物語集ものがたりしゅう」(平安)和歌集大伴家持おおと
ものやかもち「万葉集まんようしゅう」(奈良)紀淑望きのよしもち・紀貫之きの
つらゆき「古今和歌集こきんわかしゅう」(平安)村上むらかみ天皇てんのう「後
撰和ごせんわ歌集かしゅう」(平安)後鳥羽ごとば上皇じょうこう「新古今和歌集
しんこきんわかしゅう」(鎌倉)後鳥羽院ごとばいん「最勝さいしょう四天王院し
てんのういん障子しょうじ和歌わか」(鎌倉)藤原長清「

尼に(鎌倉)「安嘉門院あんかもんいんの四条しじょう五百首ご
ひゃくしゅ」万里ばんり集九しゅうきゅう(室町)「梅香無尽蔵
」堯ぎょう恵え(室町)「下葉和歌集」水無瀬みなせ氏成うじな
り(安土桃山−江戸)「水無瀬殿富士百首」清水浜臣しみずはま
おみ(江戸)田安宗たやすむね武たけ(江戸)「悠然院様御詠草
」林羅山はやしらざん(江戸)「丙辰へいし

ょう」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明あきら「新拾遺和しんしゅういわ歌集かし
ゅう」(室町)25記録・紀行文都良香みやこのよしか(平安)「富士山記ふじさ
んき」※作者不詳(鎌倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(鎌倉)「東関紀行と
うかんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ(室町)「富士紀行ふじきこう」堯孝ぎ
ょうこう(室町)「覧らん富士記ふじき」堯恵ぎょうえ(室町)「北国紀行ほっこ
くきこう」※作者不詳(室町)「富士御覧日記ふじごらんにっき」道興どうこう(
室町)「廻国かいこく雑記ざっき」宗牧そうぼく(室町)「東国とうごく紀行きこ
う」紹巴じょうは(室町)「富士見ふじみ道記みちのき」小堀遠州こぼりえんしゅ
う(江戸)「東海道紀行とうかいどうきこう」浅井了意あさいりょうい(江戸)「
東海道名所記とうかいどうめいしょき」岩佐いわさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国
道の記」松尾まつお芭蕉ばしょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹かがわかげき
(江戸)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江戸)「東遊とうゆう雑記ざっ
き」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「東海紀行」日記文学菅原孝標女すがわらのたか
すえのむすめ(平安)「更級さらしな日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)「十六夜日記
いざよいにっき」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条にじょう(鎌倉)「
とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「岡部日記おかべにっき」永井なが
い荷風かふう(江戸−昭和)「大窪だより」伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり
物語ものがたり」(平安)※作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安)紫式部
むらさきしきぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わかむらさき)」(平安)藤原
兼輔ふじわらのかねすけ「聖徳太子伝暦しょうとくたいしでんりゃく」(平安)※
作者不詳(平安)「平中へいちゅう物語ものがたり」「平家へいけ物語ものがたり
」(鎌倉)※未詳「曽我そがの物語ものがたり」(鎌倉)※作者不詳「源平げんぺ
い盛衰記せいすいき」(鎌倉)※未詳「承久記じょうきゅうき」(鎌倉)浅井あさ
い了りょう意い「東海道名所記」(江戸)能(謡曲)伝世

わ丈山じょうざん(江戸)加藤枝かとうえ直なお(江戸)「うけ
らが花」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「賀茂翁家集」本居宣も
とおりのり長なが(江戸)「石いその上稿かみこう」「鈴屋すず
のや集」契沖けいちゅう(江戸)「詠富士山百首和歌」村田むら
た春海はるみ(江戸)琴後ことじり集」島木赤彦しまぎあかひこ
(明治−大正)土井どい晩翠ばんすい(明治−昭和)「大敵迫る
」斉藤さいとう茂吉もきち(明治−昭和)「赤光」「箱根路」前
田まえだ夕暮ゆうぐれ(明治−昭和)「富士を歌ふ」若山わかや
ま牧水ぼくすい(明治−昭和)「海の声」北原きたはら白秋はく
しゅう(明治−昭和)「雲母集」「不尽抄」金子かねこ光晴みつ
はる(明治−昭和)「富士」「五つの湖」草野心平くさのしんぺ
い(明治−昭和)「富士山」小野おの十とお三郎ざぶろう(明治
−平成)「重油富士」「風景詩抄」28俳句松尾まつお芭蕉ばし
ょう(江戸)「奥の細道」与謝蕪村よさぶそん(江戸)小林こば
やし一茶いっさ(江戸)蝶夢ちょうむ(江戸)「宇良うら富士紀
行」正岡まさおか子規しき(明治)高浜虚子たかはまきょし(明
治−昭和)飯田いいだ蛇笏だこつ(明治−昭和)「山りょ集」富
安風生とみやすふうせい(明治−昭和)水原みずはら秋桜子しゅ
うおうし(明治−昭和)「葛飾」永井ながい荷風かふう(明治−
昭和)「名所方角集」西東さいとう三鬼さんき(明治−昭和)「
旗」「変身」渡辺わたなべ水すい巴は(明治−昭和)「富士」加
藤楸邨かとうしゅうそん(明治−平成)「寒雷」「慟哭」「都塵
抄」「雪後の天」293.登録の価値証明a)評価基準への適合
性証明1)条約上の遺産種別「富士山」は、世界遺産条約第1条
及び『世界遺産条約履行のための作業指針』(以下、『作業指針
』という。)第45項に規定にする「記念工作物」、「建造物群
」及び「遺跡」に該当する。2)評価基準への適合性証明以下に
示す理由に基づき、「富士山」には、世界遺産一覧表への記載の
ための評価基準のうち(B)、(C)、(E)が適用できる。評
価基準(B)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化
的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なく
とも希有な存在)である。評価基準(B)の

「富士山ふじさん」※未詳(室町)「羽衣はごろも」御伽草紙「富士の人穴ひとあ
な草紙ぞうし」(江戸)仮名草紙※作者不詳(江戸)「竹斎ちくさい」滑稽本十返
舎一九じっぺんしゃいっく(江戸)「東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくり
げ」仮名垣魯文かなかきろぶん(江戸−明治)「滑稽富士詣こっけいふじもうで」
26浄瑠璃近松門ちかまつもん左ざ衛門えもん(江戸)「聖徳太子絵伝記」竹田た
けだ出雲いずも・三好松洛みよししょうらく・並木千柳な

なる気持ちを喚起する自然環境を背景とし、山頂への参詣などの
特徴を持った山に対する宗教的な儀礼・活動が成立し、18〜1
9世紀にかけて大規模な大衆による宗教的登山の代表的存在とな
った。山体とその周辺の地域には、体系化された儀礼・活動の場
となった神社、登山道、及びその沿道に分布する関連遺跡群、霊
地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そ
こでの儀礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信
仰の核心が継承されている。また、今日でも富士山は日本を代表
し象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」で
ある。したがって、富士山は山頂への参詣という形態を中心とし
、時代を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統
を顕著に表わす物証として稀有な存在である。・日本における山
に対する固有の文化的伝統を顕著に表わす物証富士山の山頂部一
帯は、山に対する日本の宗教観とその秀麗な姿、及び10世紀頃
まで盛んであった火山活動などに基づき神仏の世界、あるいは他
界(死後世界)とされてきた。このため富士山では富士山の神(
※1)を祀った山麓の浅間神社における遥拝活動とともに、以下
の絵図(類似の登山案内図が数多く作成された)に示されたよう
に、雲上の神仏の世界へ一定の儀礼に従って参詣する「登拝」を
中心に、富士山体・周辺にある富士山の火山活動によって生成さ
れ神聖な意味を持つとされた風穴・溶岩樹型・湖沼・滝・湧水地
などを巡礼し、修行することで治病・除災などの超自然的力を獲
得し、罪や穢れを消して生まれ変わる(擬死再生)と考える「富
士山禅定」(※2)と呼ばれる行為(儀礼・活動)が成立し、1
8〜19世紀にかけて富士山は体系化された登拝のための宗教施
設も含め、大規模な大衆による宗教的登山を代表する存在となっ
ていた。このような自然への畏敬という日本の宗教観の根本を基
盤とし、神仙思想(道教)や仏教(特に密教)なとど融合した日
本独特の山岳信仰を代表する遥拝及び登拝・登山の様式は今日で
も命脈を保ち、特に夏季を中心に訪れる外国人を含む多くの登山
客とともに富士登山の特徴を成している。また、信仰の核心部分
は各地の浅間神社に対する信仰や今日も続く

「仮名かな手本でほん忠臣蔵ちゅうしんぐら」童謡巌谷いわや小波さざなみ(明治
−大正)「富士山ふじさん」(「ふじの山」)海野うんの厚あつし(明治−昭和)
「背せいくらべ」随想・随筆新井あらい白石はくせき(江戸)「折おりたく柴しば
の記」田山たやま花袋かたい(明治−昭和)「富士を望む」小島烏水こじまうすい
(明治−昭和)「すたれ行く富士の古道」、「不二山ふじさん」永井ながい荷風か
ふう(明治−昭和)「日和ひより下駄げた」太宰だざい治おさむ(明治−昭和)「
富嶽百景ふがくひゃっけい」大町桂月おおまちけいげつ(明治−大正)「富士の大
観」中村星湖なかむらせいこ(明治−昭和)「少年行しょうねんこう」北村きたむ
ら透谷とうこく(明治)「富嶽ふがくの詩し神しんを思おもふ」深田ふかだ久弥き
ゅうや(明治−昭和)「日本にほん百名山ひゃくめいざん」小説落合直文おちあい
なおぶみ(江戸−明治)「たかねの雪ゆき」夏目漱石なつめそうせき(明治−大正
)「三四郎さんしろう」「虞美人草ぐびじんそう」泉鏡花(明治−昭和)「婦おん
な系図けいず」「春しゅん昼ちゅう」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」徳富とくと
み蘆花ろか(明治−昭和)「冨士ふじ」「自然しぜんと人生じんせい」(随筆)永
井ながい荷風かふう(明治−昭和)「新帰朝者日記」橋本英吉はしもとえいきち(
明治−昭和)「富士山頂ふじさんちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治−平成)「
岳麓点描がくろくてんびょう」武田泰淳たけだたいじゅん(大正−昭和)「富士ふ
じ」武田百合子たけだゆりこ(大正−昭和)「富士日記ふじにっき」新田にった次
郎じろう(大正−昭和)「強力伝ごうりきでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙蓉ふよ
うの人ひと」「富士ふじに死しす」「着氷ちゃくひょう」「冬山ふゆやまの掟おき
て」「富士ふじ山頂さんちょう」川端康成かわばたやすなり(明治−昭和)「東海
道とうかいどう」白井喬二しらいきょうじ(明治−昭和)「富士ふじに立たつ影か
げ」国枝くにえだ史郎しろう(明治−昭和)「神州纐纈城しんしゅうこうけつじょ
う」松本まつもと清せい張ちょう(明治−昭和)「波なみ

によって受け継がれ、富士山は日本を代表する神聖な山として知
られている。(※1)この神は、1868年の神仏分離令まで神
仏習合の影響を受け仏の化身と考えられていた。また、この神は
一つの神に限定されず、信仰の種類や時代ごとに異なる性格と名
称を持ついくつかの神または仏が信仰されていた。(※2)「禅
定」とは本来は心を静めて一つの対象に集中する宗教的瞑想・状
態、あるいはその結果仏と一体化することを示す言葉であり、そ
の後、主に修験道において富士山などの霊山に登って修行するこ
とも意味するようになった。写真「絹本著色冨士曼荼羅図」(部
分:16世紀ごろ)30「絹本著色冨士曼荼羅図」(16世紀ご
ろ)評価基準(C)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集
合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本で
ある。評価基準(C)の適用富士山では、富士山信仰の形成の中
で神社等の建築群・登山道・宗教施設を経て山頂に参詣する体系
化された宗教的儀礼・活動が15〜16世紀にかけて発達し、1
8〜19世紀にかけて完成された。この過程において、日本にお
ける山に対する固有の文化的伝統や富士山により生み出された芸
術活動を背景として、富士山の宗教施設、そこでの儀礼・活動は
富士山の自然環境と一体となって宗教的な意味を持つ景観として
認知され、これが宗教的絵画等で表現されることにより、多くの
人々に富士山が神聖な山であるとの認識がより強固に定着し、日
本写真上図拡大部分宗教施設水垢離場における山と人間の良好な
関係の形成に影響を与えた。したがって、富士山への信仰の形成
過程を通じて定着した富士山の景観認識は近代工業社会以前の段
階における山と人間との精神的関係を表す景観の顕著な見本であ
る。・山と人間との精神的な関係を表す景観の顕著な見本富士山
では噴火が沈静化した12世紀ごろから山頂への宗教的登山が開
始され、15〜16世紀には「富士山禅定」と呼ばれた登拝様式
が整い、大衆にも拡大した。この過程で富士山は、矮小な存在で
ある人間が山麓の草原地帯(「草山」、「カヤ原」などと呼ばれ
た)にある神社・水垢離場で身を清め、森林地帯(「木山」、「
深山」などと呼ばれた)の山中の宗教施設等

わこう治じ良ろう(明治−平成)「我が入道にゅうどう」「人間にんげんの運命う
んめい」幸田文こうだあや(明治−平成)「崩くずれ」27詩歌伝柿本かきのもと
の人麻呂ひとまろ(飛鳥−奈良)「柿本集」山部赤人やまべのあかひと(奈良)「
万葉集まんようしゅう」高橋たかはしの虫むし麻呂まろ(奈良)「高橋虫麻呂たか
はしのむしまろ歌集」藤原ふじわらの清きよ正ただ(平安)「清きよ正ただ集」在
原業平ありわらのなりひら(平安)「業平集」藤原ふじわらの公きん任とう(平安
)「公きん任とう集」藤原ふじわらの定家さだいえ(平安−鎌倉)「内裏名所百首
」「名号みょうごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね(平安−鎌倉)「
明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわらの俊とし成なり(平安−鎌倉)「(藤原兼
ふじわらのかね実ざね)右う大臣家だいじんけ百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹
後守為忠朝臣家百首」慈じ円えん(平安−鎌倉)「拾玉集」西行さいぎょう(鎌倉
)「新古今和歌集しんこきんわかしゅう」源実朝みなもとのさねとも(鎌倉)「金
槐和歌集きんかいわかしゅう」阿仏あぶつ尼に(鎌倉)「安嘉門院あんかもんいん
の四条しじょう五百首ごひゃくしゅ」万里ばんり集九しゅうきゅう(室町)「梅香
無尽蔵」堯ぎょう恵え(室町)「下葉和歌集」水無瀬みなせ氏成うじなり(安土桃
山−江戸)「水無瀬殿富士百首」清水浜臣しみずはまおみ(江戸)田安宗たやすむ
ね武たけ(江戸)「悠然院様御詠草」林羅山はやしらざん(江戸)「丙辰へいしん
紀行」石川いしかわ丈山じょうざん(江戸)加藤枝かとうえ直なお(江戸)「うけ
らが花」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「賀茂翁家集」本居宣もとおりのり長なが
(江戸)「石いその上稿かみこう」「鈴屋すずのや集」契沖けいちゅう(江戸)「
詠富士山百首和歌」村田むらた春海はるみ(江戸)琴後ことじり集」島木赤彦しま
ぎあかひこ(明治−大正)土井どい晩翠ばんすい(明治−昭和)「大敵迫る」斉藤
さいとう茂吉もきち(明治−昭和)「赤光」「箱根路」前田まえだ夕暮ゆうぐれ(
明治−昭和)「富士を歌ふ」若山わかやま牧水ぼくすい(

礫地帯(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれた)の神仏の世界あ
るいは他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に絵
画や文学作品において典型的な富士山像が成立したことを背景に
、「絹本著色冨士曼荼羅図」を代表例とする信仰上の景観認識が
成立した。17世紀以降はこれらの典型的な認識を基に、さらに
多様な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講」と呼ばれる
富士山信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより、18世紀後
半から19世紀にかけてほとんどの日本人に

北原きたはら白秋はくしゅう(明治−昭和)「雲母集」「不尽抄」金子かねこ光晴
みつはる(明治−昭和)「富士」「五つの湖」草野心平くさのしんぺい(明治−昭
和)「富士山」小野おの十とお三郎ざぶろう(明治−平成)「重油富士」「風景詩
抄」28俳句松尾まつお芭蕉ばしょう(江戸)「奥の細道」与謝蕪村よさぶそん(
江戸)小林こばやし一茶いっさ(江戸)蝶夢ちょうむ(江戸)「宇良うら富士紀行
」正岡まさおか子規しき(明治)高浜虚子たかはまきょし(明治−昭和)飯田いい
だ蛇笏だこつ(明治−昭和)「山りょ集」富安風生とみやすふうせい(明治−昭和
)水原みずはら秋桜子しゅうおうし(明治−昭和)「葛飾」永井ながい荷風かふう
(明治−昭和)「名所方角集」西東さいとう三鬼さんき(明治−昭和)「旗」「変
身」渡辺わたなべ水すい巴は(明治−昭和)「富士」加藤楸邨かとうしゅうそん(
明治−平成)「寒雷」「慟哭」「都塵抄」「雪後の天」293.登録の価値証明a
)評価基準への適合性証明1)条約上の遺産種別「富士山」は、世界遺産条約第1
条及び『世界遺産条約履行のための作業指針』(以下、『作業指針』という。)第
45項に規定にする「記念工作物」、「建造物群」及び「遺跡」に該当する。2)
評価基準への適合性証明以下に示す理由に基づき、「富士山」には、世界遺産一覧
表への記載のための評価基準のうち(B)、(C)、(E)が適用できる。評価基
準(B)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在
を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。評価基準(B
)の適用富士山では神聖なる気持ちを喚起する自然環境を背景とし、山頂への参詣
などの特徴を持った山に対する宗教的な儀礼・活動が成立し、18〜19世紀にか
けて大規模な大衆による宗教的登山の代表的存在となった。山体とその周辺の地域
には、体系化された儀礼・活動の場となった神社、登山道、及びその沿道に分布す
る関連遺跡群、霊地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そ
こでの儀礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対

しての景観認識が定着した(※4)。この認識は近代工業社会の
自然に対する考え方が一般化する以前の山と人間との良好な精神
的関係を示すものであった。、31(※3)富士山は神仙思想に
おける不老不死の象徴である「蓬莱山」や仏教における世界の中
心である「須弥山」に見立てられた。また、主に18世紀後半よ
り富士山の信仰上の景観認識を立体化した「富士塚」が東京を中
心に建設され、女性を含め山頂への登拝ができない人にとっての
代参施設となった。(※4)登拝者には登山口の浅間神社や御師
の発行する富士山の信仰上の景観認識を描いた宗教画が配布され
るとともに、縁起の良いものとして富士山やその図像を拝したり
、眺めることが行われた。右「富士山のゾーニング」左「三尊九
尊図」評価基準(E)顕著な普遍的意義を有する出来事(行事)
、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と
直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用
いられることが望ましい)。評価基準(E)の適用富士山と周辺
の特徴的な自然が醸成する優秀な景観美や火山としての活動は、
日本人の山に対する信仰の形成の一翼を担い、今日まで継承され
ている山頂への遥拝と参詣を中心とした文化的伝統は、アジア地
域に顕著である山を神聖視する文化と深い関りを有している。写
真写真焼山(ハゲ山)木山(深山)草山(カヤ原)32また、こ
れらの富士山の特色は古くから様々な芸術活動の母胎ともなり、
「万葉集」や「竹取物語」をはじめとする日本固有の和歌、俳句
、物語文学やこれらを主題とする絵画などの対象として日本人に
良く知られていた。特に富士山を題材にした「浮世絵」などは海
外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な影響を与えてきた
。したがって、富士山は、顕著な普遍的意義を持つ生きた伝統、
芸術的作品・文学的作品と直接的・実質的に関連がある景観であ
る。・顕著な普遍的意義を持つ生きた伝統との直接的・実質的関
連アジア地域、特に東アジア地域では特異な形態を持った山岳の
空間を神聖視し、仏教(特に密教)や道教(神仙思想)、儒教と
結びついて修行の場や宗教施設を設置する場とした。これらの伝
統は6世紀〜8世紀を中心に日本に伝えられ

れている。また、今日でも富士山は日本を代表し象徴する最高峰として老若男女を
問わず憧れ親しむ「名山」である。したがって、富士山は山頂への参詣という形態
を中心とし、時代を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統を顕著
に表わす物証として稀有な存在である。・日本における山に対する固有の文化的伝
統を顕著に表わす物証富士山の山頂部一帯は、山に対する日本の宗教観とその秀麗
な姿、及び10世紀頃まで盛んであった火山活動などに基

仰や神道と結びつき修験道などの信仰を生んだ。現在の富士山に
おいてはこれらの信仰の核心部分が登拝などの形態や儀式に伝え
られている。また、富士山のみならず日本各地の山岳やアジア地
域の山岳においても形態は異なるとはいえ山を神聖視することを
その根本に据えた文化的伝統が数多く行われている。したがって
、富士山は顕著な普遍的価値を持つ生きた伝統と直接的・実質的
に関連がある景観である。・顕著な普遍的意義を持つ芸術作品と
の直接的・実質的関連独立峰である富士山の周囲には湖や海と組
み合わされた富士山の優れた景観を望む展望地があり、今日に至
るまで多くの芸術作品を創造する場となった。これらの富士山を
題材にした芸術作品のうち、最も海外に影響を与えた作品は葛飾
北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」である。19世紀前半に作成され
たこの一連の作品は、日本の開国に伴い西洋に輸出され、他の浮
世絵とともにその構図や表現方法がジャポニスムと呼ばれた西洋
における日本芸術の流行を生み、モネ、ゴッホといった印象派の
画家に大きな影響を与え、アールヌーボーが発生する一因となっ
た。そのほか、富士山と三保松原を舞台に富士山に関わる伝説を
モチーフとした能(謡曲)「羽衣」は文学におけるモダニズムに
影響を与えた作品である。また、19世紀後半から20世紀初頭
にかけて、日本が万国博覧会などで意図的に出品した富士山を題
材にした絵画・工芸作品や、富士山を意匠に用いた日本の輸出品
は、富士山を描いた浮世絵や日本を訪れた外国人が富士山からイ
ンスピレーションを得て記述した紀行文の文学的表現などととも
に多くの世界の人々に他の世界の著名な山と明確に区別される富
士山の景観イメージを広めることに貢献した。文学では海外に良
く知られた「万葉集」以来、数多くの和歌や俳句などによってそ
の崇高さや美しさが称えられ、近代以降も海外にも知られた文学
者(※夏目漱石「三四郎」・太宰治「富岳百景」など)によるも
のをはじめ富士山を舞台とした作品が生み出された。写真写真左
「神奈川沖浪裏」右「凱風快晴」葛飾北斎「冨嶽三十六景」より
(1831〜36年)33写真ゴッホ「タンギー爺さん」b)顕
著な普遍的価値の証明a)において証明した

は他界(死後世界)とされてきた。このため富士山では富士山の神(※1)を祀っ
た山麓の浅間神社における遥拝活動とともに、以下の絵図(類似の登山案内図が数
多く作成された)に示されたように、雲上の神仏の世界へ一定の儀礼に従って参詣
する「登拝」を中心に、富士山体・周辺にある富士山の火山活動によって生成され
神聖な意味を持つとされた風穴・溶岩樹型・湖沼・滝・湧水地などを巡礼し、修行
することで治病・除災などの超自然的力を獲得し、罪や穢れを消して生まれ変わる
(擬死再生)と考える「富士山禅定」(※2)と呼ばれる行為(儀礼・活動)が成
立し、18〜19世紀にかけて富士山は体系化された登拝のための宗教施設も含め
、大規模な大衆による宗教的登山を代表する存在となっていた。このような自然へ
の畏敬という日本の宗教観の根本を基盤とし、神仙思想(道教)や仏教(特に密教
)なとど融合した日本独特の山岳信仰を代表する遥拝及び登拝・登山の様式は今日
でも命脈を保ち、特に夏季を中心に訪れる外国人を含む多くの登山客とともに富士
登山の特徴を成している。また、信仰の核心部分は各地の浅間神社に対する信仰や
今日も続く宗教的な儀礼・活動によって受け継がれ、富士山は日本を代表する神聖
な山として知られている。(※1)この神は、1868年の神仏分離令まで神仏習
合の影響を受け仏の化身と考えられていた。また、この神は一つの神に限定されず
、信仰の種類や時代ごとに異なる性格と名称を持ついくつかの神または仏が信仰さ
れていた。(※2)「禅定」とは本来は心を静めて一つの対象に集中する宗教的瞑
想・状態、あるいはその結果仏と一体化することを示す言葉であり、その後、主に
修験道において富士山などの霊山に登って修行することも意味するようになった。
写真「絹本著色冨士曼荼羅図」(部分:16世紀ごろ)30「絹本著色冨士曼荼羅
図」(16世紀ごろ)評価基準(C)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集
合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。評価基準(
C)の適用富士山では、富士山信仰の形成の中で神社等の

の証明の結果として、「富士山」は以下に記す観点から顕著な普
遍的価値を持つ。顕著な普遍的価値の言明富士山は、日本を代表
し象徴する日本最高峰(標高3776m)の秀麗な独立した火山
として世界的に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤と
して日本人の自然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた
葛飾北斎や歌川広重などによる顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵
」などの日本独特の芸術文化を育んだ「名山」である。富士山は
、山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代を超え
て一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝
統の物証であるのみならず、人間と自然との良好で継続的な関係
を示す景観の傑出した類型として、世界的にも類例を見ない顕著
な普遍的価値を持つ山である。富士山の山体とその周辺の地域に
は、宗教的な儀礼・活動の場となった神社、登山道と関連遺跡群
、霊地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残され、そこ
での儀礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰
の核心が継承されている。また、富士山信仰の中で山体・樹叢・
湖沼などの自然環境を基盤とし、体系化された神社等の建築群・
登山道・宗教施設を経て山頂に参詣する宗教的な儀礼・活動が成
立した。これが発展し、18〜19世紀にかけて富士山は大規模
な大衆による宗教的登山及びその体系の典型的存在となり、この
体系の核心は現代の登山に継承されている。現在でも、富士山は
日本を代表し象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ
「名山」である。加えて、富士山と周辺の特徴的な自然が醸成す
る美しさと崇高さは、信仰上の景観として捉えられただけでなく
、古くから様々な芸術活動の母胎となり、「万葉集」をはじめと
する日本固有の和歌や俳句、絵画などの対象として日本人に良く
知られていた。特に富士山を題材にした「浮世絵」などは海外に
も広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な影響を与えてきたもの
である。さらに、これらの芸術と富士山やその景観美を紹介した
外国人の著作を通じて、富士山が一つの国の文化を代表する「名
山」であることは国際的に認知されるに至っている。34写真写
真本栖湖からの富士山三保松原からの富士山

設を経て山頂に参詣する体系化された宗教的儀礼・活動が15〜16世紀にかけて
発達し、18〜19世紀にかけて完成された。この過程において、日本における山
に対する固有の文化的伝統や富士山により生み出された芸術活動を背景として、富
士山の宗教施設、そこでの儀礼・活動は富士山の自然環境と一体となって宗教的な
意味を持つ景観として認知され、これが宗教的絵画等で表現されることにより、多
くの人々に富士山が神聖な山であるとの認識がより強固に定着し、日本写真上図拡
大部分宗教施設水垢離場における山と人間の良好な関係の形成に影響を与えた。し
たがって、富士山への信仰の形成過程を通じて定着した富士山の景観認識は近代工
業社会以前の段階における山と人間との精神的関係を表す景観の顕著な見本である
。・山と人間との精神的な関係を表す景観の顕著な見本富士山では噴火が沈静化し
た12世紀ごろから山頂への宗教的登山が開始され、15〜16世紀には「富士山
禅定」と呼ばれた登拝様式が整い、大衆にも拡大した。この過程で富士山は、矮小
な存在である人間が山麓の草原地帯(「草山」、「カヤ原」などと呼ばれた)にあ
る神社・水垢離場で身を清め、森林地帯(「木山」、「深山」などと呼ばれた)の
山中の宗教施設等を順に経ながら、砂礫地帯(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれ
た)の神仏の世界あるいは他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に
絵画や文学作品において典型的な富士山像が成立したことを背景に、「絹本著色冨
士曼荼羅図」を代表例とする信仰上の景観認識が成立した。17世紀以降はこれら
の典型的な認識を基に、さらに多様な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講
」と呼ばれる富士山信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより、18世紀後半か
ら19世紀にかけてほとんどの日本人に富士山の神聖な山としての景観認識が定着
した(※4)。この認識は近代工業社会の自然に対する考え方が一般化する以前の
山と人間との良好な精神的関係を示すものであった。、31(※3)富士山は神仙
思想における不老不死の象徴である「蓬莱山」や仏教にお

証明1)比較軸の特定富士山の顕著な普遍的価値を表す要素を特
定し、他の同種の遺産がそれらの要素に該当するか否かを検討す
ることによって比較を行う。富士山の顕著な普遍的価値は、以下
の3つの要素に整理できる。(1)山に対する固有の文化的伝統
を顕著に表わす物証として稀有な存在:富士山では山頂への参詣
などの特徴を持った山に対する宗教的な儀礼

須弥山」に見立てられた。また、主に18世紀後半より富士山の信仰上の景観認識
を立体化した「富士塚」が東京を中心に建設され、女性を含め山頂への登拝ができ
ない人にとっての代参施設となった。(※4)登拝者には登山口の浅間神社や御師
の発行する富士山の信仰上の景観認識を描いた宗教画が配布されるとともに、縁起
の良いものとして富士山やその図像を拝したり、眺めることが行われた。右「富士
山のゾーニング」左「三尊九尊図」評価基準(E)顕著な普遍的意義を有する出来
事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接ま
たは実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい
)。評価基準(E)の適用富士山と周辺の特徴的な自然が醸成する優秀な景観美や
火山としての活動は、日本人の山に対する信仰の形成の一翼を担い、今日まで継承
されている山頂への遥拝と参詣を中心とした文化的伝統は、アジア地域に顕著であ
る山を神聖視する文化と深い関りを有している。写真写真焼山(ハゲ山)木山(深
山)草山(カヤ原)32また、これらの富士山の特色は古くから様々な芸術活動の
母胎ともなり、「万葉集」や「竹取物語」をはじめとする日本固有の和歌、俳句、
物語文学やこれらを主題とする絵画などの対象として日本人に良く知られていた。
特に富士山を題材にした「浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現代の西洋芸術
に様々な影響を与えてきた。したがって、富士山は、顕著な普遍的意義を持つ生き
た伝統、芸術的作品・文学的作品と直接的・実質的に関連がある景観である。・顕
著な普遍的意義を持つ生きた伝統との直接的・実質的関連アジア地域、特に東アジ
ア地域では特異な形態を持った山岳の空間を神聖視し、仏教(特に密教)や道教(
神仙思想)、儒教と結びついて修行の場や宗教施設を設置する場とした。これらの
伝統は6世紀〜8世紀を中心に日本に伝えられ、日本固有の山岳信仰や神道と結び
つき修験道などの信仰を生んだ。現在の富士山においてはこれらの信仰の核心部分
が登拝などの形態や儀式に伝えられている。また、富士山

体とその周辺の地域には、神社、登山道、霊地・巡礼地となった
風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そこでの儀礼や活動を
通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承され
ている。(2)景観の顕著な見本:富士山体とその周辺の景観は
、類いまれな美しさ、神聖な空間として認知され、日本における
自然美の典型として、多くの人々に世界の山の中でも最も著目な
アイコンとして共有されている。(3)顕著な普遍的意義を持つ
芸術的作品との関連性:富士山の優れた景観美は、近現代の西洋
美術に影響を与えた芸術的作品などに「関連する景観」である。
信仰の山については、2001年9月に和歌山県で開催された国
際会議「アジア・太平洋地域における信仰の山の文化的景観に関
する専門家会議」(以下、「信仰の山会議」という)において、
信仰の山の認定及び保護に関する様々なテーマと問題が討議され
た。ここで、信仰の山の遺産としての価値は、有形的価値、無形
的価値の形態をとって現れるとされた。また、信仰の山の自然的
特性についても評価が可能とされた。信仰の山会議で示された指
標を参考に、富士山の顕著な普遍的価値を表す要素を勘案して、
自然的要素としては、「形状・標高」(独立峰かどうか、富士山
と同程度の標高か)、「岩盤や岩(洞窟を含む)・水域」「火山
」(火山であることに由来する特徴的な風穴・湧水地・湖沼など
があるか)、有形的価値としては、「洞窟」「歴史的な巡礼路又
は参詣道」「神社」「寺院」「眺望・展望地」がそれぞれ存在す
るかどうか、無形的価値としては、「継続性」(崇拝儀礼などが
今も行われているか)、「存在」(山自体が信仰の対象か)、「
慣習」(登拝、遙拝を行っているか)、「アイデンティティ」(
山自体が国、民族の象徴となっているか)、「知名度」(富士山
と同程度(山頂までの登山者が30万人、山麓が4,000万人
)の訪問者があるか)、といった観点から、評価することとする
。同様に、顕著な普遍的意義を持つ芸術的作品との関連性につい
ては、山の景観美が芸術作品を産み出す母胎となったかどうか、
またそれらの作品群が海外にも広く知られ、世界史に大きな影響
を35与えたかどうか、といった観点から、

岳やアジア地域の山岳においても形態は異なるとはいえ山を神聖視することをその
根本に据えた文化的伝統が数多く行われている。したがって、富士山は顕著な普遍
的価値を持つ生きた伝統と直接的・実質的に関連がある景観である。・顕著な普遍
的意義を持つ芸術作品との直接的・実質的関連独立峰である富士山の周囲には湖や
海と組み合わされた富士山の優れた景観を望む展望地があり、今日に至るまで多く
の芸術作品を創造する場となった。これらの富士山を題材

。2)海外同種資産の特定同種資産の特定にあたっては、評価基
準に関するものとしては、@「信仰の山会議」で信仰の山と紹介
されている山岳、評価基準に関するものとしては、A世界遺産リ
ストの概要で芸術への明確な関連性が示されている山岳、B海外
の専門家による研究書等で芸術の山として紹介されている山岳等
を抽出した。また、両方の基準に関するものとしては、Cイコモ
スによる研究書「FillingtheGaps」の類型別分析
・テーマ別分析、D文化的景観に関する研究書の分析を行った。
具体的には、Bでは、の三つの文献を対象として資産を抽出した
。Cでは、「文学・芸術への関連性、演劇」、「聖なる山」、「
アジア・太平洋地域の土着信仰」に関する山岳等を抽出した。D
では、ユネスコ世界遺産センターから刊行されたPeterJ.
Fowler氏による研究書の中で、山が特徴として挙げられて
いる資産のうち、「美的資質」、「集団のアイデンティティ」、
「信仰、聖地、神聖性」の特徴を持つ資産を抽出した。以上より
、富士山の比較対象とする海外の同種資産は表1の34件となる
。その中では富士山との共通性のあるものに、共通性の大きいも
のにがしてある。信仰面では、上記の無形的側面での共通性があ
るもの、芸術面では山自体が絵画の題材とされ、画派等を生むな
ど、美術史への影響力があるものを共通性が大きいとしている。
が付された比較対象について、1)で示した比較軸である信仰の
物証(自然的特性、有形的側面、無形的側面)、芸術作品との関
連性により、同種資産を整理すると表2、表3のとおりになる。
36表1:比較対象とした海外の山岳等(34件)番号山名資産
名評価基準国名信仰芸術1ウルル、カタ・ジュタウルル−カタ・
ジュタ国立公園オーストラリア2サバラン山サバラン−イラン3
スライマン−トースライマン−トー聖山キルギス4プーカオ山チ
ャンパサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産
群ラオス5ボグドハン山、ブルカン・カルドゥン山、オトゴン・
テンゲル山モンゴルの聖なる山:ボグドハン山、ブルカン・カル
ドゥン山、オトゴン・テンゲル山−モンゴル6ヒマラヤ山脈サガ
ルマータ国立公園(F)ネパール7ルアペフ

最も海外に影響を与えた作品は葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」である。19世
紀前半に作成されたこの一連の作品は、日本の開国に伴い西洋に輸出され、他の浮
世絵とともにその構図や表現方法がジャポニスムと呼ばれた西洋における日本芸術
の流行を生み、モネ、ゴッホといった印象派の画家に大きな影響を与え、アールヌ
ーボーが発生する一因となった。そのほか、富士山と三保松原を舞台に富士山に関
わる伝説をモチーフとした能(謡曲)「羽衣」は文学におけるモダニズムに影響を
与えた作品である。また、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、日本が万国博
覧会などで意図的に出品した富士山を題材にした絵画・工芸作品や、富士山を意匠
に用いた日本の輸出品は、富士山を描いた浮世絵や日本を訪れた外国人が富士山か
らインスピレーションを得て記述した紀行文の文学的表現などとともに多くの世界
の人々に他の世界の著名な山と明確に区別される富士山の景観イメージを広めるこ
とに貢献した。文学では海外に良く知られた「万葉集」以来、数多くの和歌や俳句
などによってその崇高さや美しさが称えられ、近代以降も海外にも知られた文学者
(※夏目漱石「三四郎」・太宰治「富岳百景」など)によるものをはじめ富士山を
舞台とした作品が生み出された。写真写真左「神奈川沖浪裏」右「凱風快晴」葛飾
北斎「冨嶽三十六景」より(1831〜36年)33写真ゴッホ「タンギー爺さん
」b)顕著な普遍的価値の証明a)において証明した評価基準への適合性の証明の
結果として、「富士山」は以下に記す観点から顕著な普遍的価値を持つ。顕著な普
遍的価値の言明富士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高3776m)の
秀麗な独立した火山として世界的に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤
として日本人の自然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川
広重などによる顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独特の芸術文化を育
んだ「名山」である。富士山は、山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ
、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示

トンガリロ山トンガリロ国立公園ニュージーランド8泰山泰山中
国9黄山黄山中国10武当山武当山の古代建築物群中国11廬山
廬山国立公園中国12峨眉山峨眉山と楽山大仏中国13武夷山武
夷山中国14青城山青城山と都江堰水利(灌漑)施設中国15三
清山三清山国立公園中国16五台山五台山中国17華山、衡山、
恒山、崇山泰山の登録拡大として四つの聖山−中国18雁蕩山雁
蕩山−中国19南山慶州歴史地区韓国20漢拏山済州火山島と溶
岩洞窟群韓国アジア・太平洋地域21アダムスピークピーク野生
保護区、ホートンプレインズ国立公園、ナックレス山脈−スリラ
ンカ22アパラチア山脈グレート・スモーキー山脈国立公園アメ
リカ23キラウェア山ハワイ火山国立公園アメリカ24ロッキー
山脈カナディアン・ロッキー山脈自然公園群、恐竜州立自然公園
、ウォータートン・グレーシャー国際平和自然公園、イエロース
トーン国立公園カナダ・アメリカ25シナイ山聖カトリーナ修道
院エジプト26サント・ヴィクトワール山サント・ヴィクトワー
ル山とセザンヌに関連する土地−フランス27ペルデュ山ピレネ
ー山脈−ペルデュ山スペイン及びフランス28アトス山アトスギ
リシャ29オリンポス山オリンポス山周辺−ギリシャ30ドロミ
テ山塊ドロミテイタリア31ケニア山ケニア山国立公園/自然林
ケニア32ワスカラン山ワスカラン国立公園ペルー33スイス・
アルプス(ユングフラウ−アレッチュ峰、ビチホルン峰ほか)ス
イス・アルプスユングフラウ−アレッチュスイスアジア・太平洋
地域以外34キリマンジャロ山キリマンジャロ国立公園タンザニ
ア37表2:信仰関連の山岳等番信仰の物証号山名自然的要素、
有形的側面無形的側面1ウルルカタ・ジュタ・ウルルは単一の岩
石・アボリジニにとって、ウルル−カタ・ジュタの岩は伝統的な
信仰の中で不可欠なものである。・山自体が信仰の対象であり、
遙拝といった信仰形態をもつ。3スライマン−トー・参詣道、岩
面陰刻・中央アジア随一の聖なる山とされ、ムスリムの聖地であ
る。前イスラム教とイスラム教を融合した信仰形態が残る。・山
頂を目指すという行為自体に宗教的意義付けがない(登拝といっ
た信仰形態をもたない)。4プーカオ山寺院

物証であるのみならず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した
類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。富士山の
山体とその周辺の地域には、宗教的な儀礼・活動の場となった神社、登山道と関連
遺跡群、霊地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残され、そこでの儀礼や
活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承されている。ま
た、富士山信仰の中で山体・樹叢・湖沼などの自然環境を基盤とし、体系化された
神社等の建築群・登山道・宗教施設を経て山頂に参詣する宗教的な儀礼・活動が成
立した。これが発展し、18〜19世紀にかけて富士山は大規模な大衆による宗教
的登山及びその体系の典型的存在となり、この体系の核心は現代の登山に継承され
ている。現在でも、富士山は日本を代表し象徴する最高峰として老若男女を問わず
憧れ親しむ「名山」である。加えて、富士山と周辺の特徴的な自然が醸成する美し
さと崇高さは、信仰上の景観として捉えられただけでなく、古くから様々な芸術活
動の母胎となり、「万葉集」をはじめとする日本固有の和歌や俳句、絵画などの対
象として日本人に良く知られていた。特に富士山を題材にした「浮世絵」などは海
外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な影響を与えてきたものである。さら
に、これらの芸術と富士山やその景観美を紹介した外国人の著作を通じて、富士山
が一つの国の文化を代表する「名山」であることは国際的に認知されるに至ってい
る。34写真写真本栖湖からの富士山三保松原からの富士山c)比較検討による証
明1)比較軸の特定富士山の顕著な普遍的価値を表す要素を特定し、他の同種の遺
産がそれらの要素に該当するか否かを検討することによって比較を行う。富士山の
顕著な普遍的価値は、以下の3つの要素に整理できる。(1)山に対する固有の文
化的伝統を顕著に表わす物証として稀有な存在:富士山では山頂への参詣などの特
徴を持った山に対する宗教的な儀礼・活動が成立し、山体とその周辺の地域には、
神社、登山道、霊地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼

バ神の象徴)・シバ神の住む山である。・山頂から麓の川に至る
までに建てられた寺院群はヒンズー教の宇宙観を表現する配置で
ある。6ヒマラヤ山脈・同程度以上の標高(エベレスト8848
m)・修道院、寺院・神々の住処として崇拝される空想的な山で
あるメール山(スメール山、須弥山)が地上に顕現・チベット仏
教、ボン教、ヒンズー教、ジャイナ教の聖地・ヒンズー教の聖典
の一つには人間の罪はヒマラヤを見れば消滅する、とある。・登
山許可は下りない。7ルアペフ山ナウルホエ

こでの儀礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承さ
れている。(2)景観の顕著な見本:富士山体とその周辺の景観は、類いまれな美
しさ、神聖な空間として認知され、日本における自然美の典型として、多くの人々
に世界の山の中でも最も著目なアイコンとして共有されている。(3)顕著な普遍
的意義を持つ芸術的作品との関連性:富士山の優れた景観美は、近現代の西洋美術
に影響を与えた芸術的作品などに「関連する景観」である。信仰の山については、
2001年9月に和歌山県で開催された国際会議「アジア・太平洋地域における信
仰の山の文化的景観に関する専門家会議」(以下、「信仰の山会議」という)にお
いて、信仰の山の認定及び保護に関する様々なテーマと問題が討議された。ここで
、信仰の山の遺産としての価値は、有形的価値、無形的価値の形態をとって現れる
とされた。また、信仰の山の自然的特性についても評価が可能とされた。信仰の山
会議で示された指標を参考に、富士山の顕著な普遍的価値を表す要素を勘案して、
自然的要素としては、「形状・標高」(独立峰かどうか、富士山と同程度の標高か
)、「岩盤や岩(洞窟を含む)・水域」「火山」(火山であることに由来する特徴
的な風穴・湧水地・湖沼などがあるか)、有形的価値としては、「洞窟」「歴史的
な巡礼路又は参詣道」「神社」「寺院」「眺望・展望地」がそれぞれ存在するかど
うか、無形的価値としては、「継続性」(崇拝儀礼などが今も行われているか)、
「存在」(山自体が信仰の対象か)、「慣習」(登拝、遙拝を行っているか)、「
アイデンティティ」(山自体が国、民族の象徴となっているか)、「知名度」(富
士山と同程度(山頂までの登山者が30万人、山麓が4,000万人)の訪問者が
あるか)、といった観点から、評価することとする。同様に、顕著な普遍的意義を
持つ芸術的作品との関連性については、山の景観美が芸術作品を産み出す母胎とな
ったかどうか、またそれらの作品群が海外にも広く知られ、世界史に大きな影響を
35与えたかどうか、といった観点から、評価することと

山・マオリにとってこれらの山は文化的・宗教的な重要性を持っ
ており、そのコミュニティと環境との間の精神的なつながりを象
徴している。・山自体が信仰の対象であり、遙拝といった信仰形
態をもつ。8泰山・参詣道、寺院・小泰山(山頂まで登れない人
が泰山の代わりに祈る場所)・儒教・仏教・道教の聖地である。
・秦の時代より、皇帝即位の際の儀式である「封禅の儀」を執り
行っていた。・宗教施設が山頂、山中に点在するため、参拝が登
山の形態をとるが、登山行為自体に宗教的な意義を求める登拝と
は異なるものである。11廬山参詣道、寺院・中国の近代政治上
、重要な場所とされている。・山自体ではなく、山に築かれた宗
教施設が信仰の対象である。・仏教、道教、儒教の聖地とされ、
キリスト教、イスラム教の施設も建てられている。12峨眉山・
同程度以上の標高(万仏頂3099m)・参詣道、寺院・中国に
おける仏教の最初の聖地。・山に築かれた宗教施設や日の出・ブ
ロッケン現象といった自然現象が信仰の対象。宗教施設が山頂・
山中に点在するため、参拝が登山の形態をとるが、登山行為自体
に宗教的な意義を求める登拝とは異なる。13武夷山・参詣道、
寺院・南中国での道教と新儒教の源であり、朱子が生涯の大部分
を過ごした地である。・山自体ではなく、山に築かれた宗教施設
が信仰の対象。16五台山・同程度以上の標高(葉頭峰3058
m)・参詣道、寺院、小朝台(朝台を簡略化した祈る場所)・中
国仏教四名山の一つで、文殊菩薩が悟りを開いた地とされる。・
自然景観を神聖なものとしているが、5つの台頂に築かれた寺院
に参詣すること(「朝台」)が最大の願いである。20漢拏山・
独立峰、火山・参詣道・韓国の最高峰の火山で、聖なる儀式の場
としても使用された溶岩洞窟を多く持つ。・山自体よりも山中の
石に対する信仰が強い。21アダムスピークストゥーパ、沐浴場
・釈迦が訪問した地とされる。・山頂に聖なる足跡があり、仏教
、ヒンドゥー教、イスラム教それぞれの聖地とされ、巡礼者が訪
れる。25シナイ山修道院・シナイ山は、旧約聖書において、モ
ーセに神からユダヤ教の聖典と十戒が渡された場である。28ア
トス山寺院、修道院・古代ギリシャの聖なる

の特定同種資産の特定にあたっては、評価基準に関するものとしては、@「信仰の
山会議」で信仰の山と紹介されている山岳、評価基準に関するものとしては、A世
界遺産リストの概要で芸術への明確な関連性が示されている山岳、B海外の専門家
による研究書等で芸術の山として紹介されている山岳等を抽出した。また、両方の
基準に関するものとしては、Cイコモスによる研究書「FillingtheGa
ps」の類型別分析・テーマ別分析、D文化的景観に関す

54年にギリシャ正教の中心地として定められ、現在も修道士た
ちの隠棲の地であり、敬虔な宗教活動が続けられている(女人禁
制)。入場者はごく少数に制限されている。34キリマンジャロ
山・同程度以上の標高(キボ峰5895m)・地域の神が住む場
所と考えられ、東アフリカの人々は死者を埋葬する。・チャガ族
(キリマンジャロ山麓に居住する部族)は、神の住む場所として
おり、彼らの伝承や慣習には、山への高い敬意が表されている。
38表3:芸術関連の山岳等番号山名芸術作品との関連性8泰山
・数多くの詩や文が残る。・山頂の風景が紙幣の図柄になるなど
、中国人の精神的シンボルと捉えられている。9黄山・絵画は数
多く描かれ、黄山画派と呼ばれた。11廬山・山水画、山水詩は
多数作られ、特に「観瀑図」は日本の画家にも大きな影響を与え
た。22アパラチア山脈・フレデリック・チャーチやトーマス・
コールといったアメリカの風景画家に描かれている。24ロッキ
ー山脈・19世紀のアメリカ人画家、アルバート・ビエスタッド
の描く絵画は、ロマン主義運動の理念を最も劇的に具現化してお
り、”ロッキーマウンテン画派”の指導者であった。・富士山と
同程度以上の標高(エルバート山4401m)26サント・ヴィ
クトワール山・20世紀の初頭、フランス人画家、ポール・セザ
ンヌによって、風景画に対して根本的に異なるアプローチが始め
られ、西洋美術作品の中でも最も有名な山となった。27ペルデ
ュ山・この風景は生活の伝統(牧畜との暮らし、国境の文化、ピ
レネー独特の文化)と芸術・文学作品が関連して、顕著な普遍的
価値を構成。(レイモンド・デ・カルボニエ、ヘンリー・ラッセ
ル、ヴィクトル・ユゴー等)。・ヨーロッパ芸術の中でロマン主
義が発展していく上で重要な役割を果たした。・富士山と同程度
以上の標高(3352m)33スイスアルプス(ユングフラウ峰
、ビーチホルン峰、ほか)・印象的な風景はヨーロッパ芸術、文
学等において重要な役割を担った。・レオナルド・ダ・ヴィンチ
はモンテ・ローザのスケッチをモナリザの背景として描いた。・
富士山と同程度以上の標高(フィンスターアールホルン4274
m)3)国内同種資産の特定同様の方法で、

。具体的には、Bでは、の三つの文献を対象として資産を抽出した。Cでは、「文
学・芸術への関連性、演劇」、「聖なる山」、「アジア・太平洋地域の土着信仰」
に関する山岳等を抽出した。Dでは、ユネスコ世界遺産センターから刊行されたP
eterJ.Fowler氏による研究書の中で、山が特徴として挙げられている
資産のうち、「美的資質」、「集団のアイデンティティ」、「信仰、聖地、神聖性
」の特徴を持つ資産を抽出した。以上より、富士山の比較対象とする海外の同種資
産は表1の34件となる。その中では富士山との共通性のあるものに、共通性の大
きいものにがしてある。信仰面では、上記の無形的側面での共通性があるもの、芸
術面では山自体が絵画の題材とされ、画派等を生むなど、美術史への影響力がある
ものを共通性が大きいとしている。が付された比較対象について、1)で示した比
較軸である信仰の物証(自然的特性、有形的側面、無形的側面)、芸術作品との関
連性により、同種資産を整理すると表2、表3のとおりになる。36表1:比較対
象とした海外の山岳等(34件)番号山名資産名評価基準国名信仰芸術1ウルル、
カタ・ジュタウルル−カタ・ジュタ国立公園オーストラリア2サバラン山サバラン
−イラン3スライマン−トースライマン−トー聖山キルギス4プーカオ山チャンパ
サック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群ラオス5ボグドハン山
、ブルカン・カルドゥン山、オトゴン・テンゲル山モンゴルの聖なる山:ボグドハ
ン山、ブルカン・カルドゥン山、オトゴン・テンゲル山−モンゴル6ヒマラヤ山脈
サガルマータ国立公園(F)ネパール7ルアペフ山、ナウルホエ山、トンガリロ山
トンガリロ国立公園ニュージーランド8泰山泰山中国9黄山黄山中国10武当山武
当山の古代建築物群中国11廬山廬山国立公園中国12峨眉山峨眉山と楽山大仏中
国13武夷山武夷山中国14青城山青城山と都江堰水利(灌漑)施設中国15三清
山三清山国立公園中国16五台山五台山中国17華山、衡山、恒山、崇山泰山の登
録拡大として四つの聖山−中国18雁蕩山雁蕩山−中国1

いて、世界遺産登録物件または暫定リストから抽出すると、表4
のとおり3つの山が考えられ、特に共通性が認められる2件につ
いて評価を行った(表5)。表4:比較対象とした国内の山岳等
(3件)39表5:信仰、芸術関連の国内の山岳等(2件)信仰
の物証番号山名自然的要素有形的側面無形的側面芸術作品との関
連性1紀伊山地参詣道、神社、寺院、滝・日本古来の自然崇拝の
思想と大陸から伝来した仏教とが融合して形成された修験道など
の行場としても重視され発展した。・山自体が修験の場であり、
山中で廻峰行という宗教行為が行われている。神聖性の高い自然
及び継続的に行われている宗教儀礼は、信仰の山の文化的景観を
構成する要素として優秀かつ多様である。2瀰山神社・古くは彌
山を含む島全体を神聖視し、対岸から遙拝していたのであるが、
やがて水際に社殿が成立し、彌山を含めた背後の山腹が社殿群の
背景的効果をもつ自然景観として重要視された。神道の施設であ
り、仏教との混交と分離の歴史を示す文化遺産として、日本の宗
教的空間の特質を理解する上で重要な根拠である。番号山名資産
名評価基準信芸国名仰術1紀伊山地紀伊山地の霊場と参詣道日本
2瀰山厳島神社日本3御蓋山(春日山)古都奈良の文化財日本4
04)結論以上の比較分析から、他の信仰・芸術に関連する山と
比べて、推薦資産は、以下の3つの点で顕著な普遍的価値を持つ
事例であると言える。(1)海外の信仰関連の山岳との比較富士
山は、8世紀以降、噴火を鎮めるため山麓に浅間神社が建てられ
た。12世紀に修験者の道として登山道が開かれ、15〜16世
紀には修験者に引率され、登拝を中心とした宗教的な活動が盛ん
となった。山体につくられた宗教施設だけでなく、溶岩洞穴・樹
型・湧水地も巡礼・修行の場となった。この結果、登拝の行為を
通じて周辺の神社及び巡礼地、参詣道が形成された。このように
、富士山は、今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統を
顕著に表す物証であるとともに、人間と山との精神的な関係を表
す景観であり、18〜19世紀は既に年平均1〜2万人という世
界的にも類例のない大衆による高山への登拝が行われるようにな
った。富士山は、(ケニア山やキリマンジャ

20漢拏山済州火山島と溶岩洞窟群韓国アジア・太平洋地域21アダムスピークピ
ーク野生保護区、ホートンプレインズ国立公園、ナックレス山脈−スリランカ22
アパラチア山脈グレート・スモーキー山脈国立公園アメリカ23キラウェア山ハワ
イ火山国立公園アメリカ24ロッキー山脈カナディアン・ロッキー山脈自然公園群
、恐竜州立自然公園、ウォータートン・グレーシャー国際平和自然公園、イエロー
ストーン国立公園カナダ・アメリカ25シナイ山聖カトリーナ修道院エジプト26
サント・ヴィクトワール山サント・ヴィクトワール山とセザンヌに関連する土地−
フランス27ペルデュ山ピレネー山脈−ペルデュ山スペイン及びフランス28アト
ス山アトスギリシャ29オリンポス山オリンポス山周辺−ギリシャ30ドロミテ山
塊ドロミテイタリア31ケニア山ケニア山国立公園/自然林ケニア32ワスカラン
山ワスカラン国立公園ペルー33スイス・アルプス(ユングフラウ−アレッチュ峰
、ビチホルン峰ほか)スイス・アルプスユングフラウ−アレッチュスイスアジア・
太平洋地域以外34キリマンジャロ山キリマンジャロ国立公園タンザニア37表2
:信仰関連の山岳等番信仰の物証号山名自然的要素、有形的側面無形的側面1ウル
ルカタ・ジュタ・ウルルは単一の岩石・アボリジニにとって、ウルル−カタ・ジュ
タの岩は伝統的な信仰の中で不可欠なものである。・山自体が信仰の対象であり、
遙拝といった信仰形態をもつ。3スライマン−トー・参詣道、岩面陰刻・中央アジ
ア随一の聖なる山とされ、ムスリムの聖地である。前イスラム教とイスラム教を融
合した信仰形態が残る。・山頂を目指すという行為自体に宗教的意義付けがない(
登拝といった信仰形態をもたない)。4プーカオ山寺院、山頂のリンガ(シバ神の
象徴)・シバ神の住む山である。・山頂から麓の川に至るまでに建てられた寺院群
はヒンズー教の宇宙観を表現する配置である。6ヒマラヤ山脈・同程度以上の標高
(エベレスト8848m)・修道院、寺院・神々の住処として崇拝される空想的な
山であるメール山(スメール山、須弥山)が地上に顕現・

ウルル等に代表されるような)原始的な山岳信仰のあり方から、
(泰山等の中国の山々やアトス山やシナイ山等に代表されるよう
な)多様な宗教の介入によって生み出された信仰のあり方まで、
そのいずれも失うことなく現在に至るまで継承している。信仰に
関連する山の多くは、山自体ではなく、山麓に点在する宗教施設
や石仏が信仰の対象であり、そうした宗教施

ヒンズー教、ジャイナ教の聖地・ヒンズー教の聖典の一つには人間の罪はヒマラヤ
を見れば消滅する、とある。・登山許可は下りない。7ルアペフ山ナウルホエ山ト
ンガリロ山・火山・マオリにとってこれらの山は文化的・宗教的な重要性を持って
おり、そのコミュニティと環境との間の精神的なつながりを象徴している。・山自
体が信仰の対象であり、遙拝といった信仰形態をもつ。8泰山・参詣道、寺院・小
泰山(山頂まで登れない人が泰山の代わりに祈る場所)・儒教・仏教・道教の聖地
である。・秦の時代より、皇帝即位の際の儀式である「封禅の儀」を執り行ってい
た。・宗教施設が山頂、山中に点在するため、参拝が登山の形態をとるが、登山行
為自体に宗教的な意義を求める登拝とは異なるものである。11廬山参詣道、寺院
・中国の近代政治上、重要な場所とされている。・山自体ではなく、山に築かれた
宗教施設が信仰の対象である。・仏教、道教、儒教の聖地とされ、キリスト教、イ
スラム教の施設も建てられている。12峨眉山・同程度以上の標高(万仏頂309
9m)・参詣道、寺院・中国における仏教の最初の聖地。・山に築かれた宗教施設
や日の出・ブロッケン現象といった自然現象が信仰の対象。宗教施設が山頂・山中
に点在するため、参拝が登山の形態をとるが、登山行為自体に宗教的な意義を求め
る登拝とは異なる。13武夷山・参詣道、寺院・南中国での道教と新儒教の源であ
り、朱子が生涯の大部分を過ごした地である。・山自体ではなく、山に築かれた宗
教施設が信仰の対象。16五台山・同程度以上の標高(葉頭峰3058m)・参詣
道、寺院、小朝台(朝台を簡略化した祈る場所)・中国仏教四名山の一つで、文殊
菩薩が悟りを開いた地とされる。・自然景観を神聖なものとしているが、5つの台
頂に築かれた寺院に参詣すること(「朝台」)が最大の願いである。20漢拏山・
独立峰、火山・参詣道・韓国の最高峰の火山で、聖なる儀式の場としても使用され
た溶岩洞窟を多く持つ。・山自体よりも山中の石に対する信仰が強い。21アダム
スピークストゥーパ、沐浴場・釈迦が訪問した地とされる

の道が整備されている。また、一部は山頂にそうした宗教施設が
あるため、参拝が登山の形態をとるが、富士山のように登山行為
自体に宗教的な意義を求める登拝とは異なるものである。アダム
ス・ピークは多くの巡礼者が登山の形態をとるが、頂上の聖なる
足跡とされる岩を目指す点で、宗教施設に参拝する形態と類似す
るものであり、富士山とは異なると考える。また、一部の山岳は
その聖なるがゆえに登山を制限しており、登拝はなく、遙拝とい
う信仰形態しか持たない山もある。信仰の山の自然的要素である
標高については、自然遺産を中心に富士山よりも高い山も存在す
るが、その標高に比した登頂者の多さ(年約30万人)は他に例
がなく、山頂部への道路や軌道によるアクセスがないことから、
登頂者は徒歩6時間以上かけて、山頂部を目指すことになる。こ
うした登山形態は、日本では20世紀前半に開花する近代アルピ
ニズムに起源するものではなく、17世紀以降の江戸(現在の東
京)を中心に数多く組織された富士講の登拝活動を母胎に発展し
たものである。このことは、人々の生活の中に富士山に対する信
仰の核心が継承され、今日でも富士山は日本を代表し象徴する最
高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」であることを示
している。また、富士山への登山は夜明け前の山頂到着を目指す
登山者が多いことにも特徴がある。これは、山頂付近で日の出を
拝むためであるが、17世紀以降、道者が山頂周辺において「御
来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現象)」(のち「御来光
(日の出)」)を拝んだことに由来する。こうした自然現象に宗
教的な意義を見出す傾向は、比較対象の中では峨眉山以外には見
あたらない。IUCNが2009年に行ったテーマ別研究である
「世界遺産の火山」では、世界遺産一覧表には一般の人々が一様
に認めている火山の多くが含まれていないことは興味深いとし、
その例として、イタリアのエトナ火山や富士山などを挙げている
。とくに富士山は、火山とその周辺地域に訪れる年間の観光客が
地球上のどの火山よりも多い点で重要とされている。こうしたギ
ャップを埋めるために、知名度、科学的重要性、文化及び教育的
価値を基準に個々の長所を検討すべきとして

あり、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教それぞれの聖地とされ、巡礼者が訪れる。
25シナイ山修道院・シナイ山は、旧約聖書において、モーセに神からユダヤ教の
聖典と十戒が渡された場である。28アトス山寺院、修道院・古代ギリシャの聖な
る山であった。・1054年にギリシャ正教の中心地として定められ、現在も修道
士たちの隠棲の地であり、敬虔な宗教活動が続けられている(女人禁制)。入場者
はごく少数に制限されている。34キリマンジャロ山・同

外の芸術関連の山岳との比較独立峰であり、高い標高を持つ富士
山の秀麗な姿は、四方の広い範囲から眺めることができ、古くか
ら芸術活動の対象となった。これら富士山を題材にした芸術作品
のうち、最も海外に影響を与えた作品は、葛飾北斎の浮世絵「冨
嶽三十六景」である。この一連の作品は、ジャポニスムと呼ばれ
た西洋における日本芸術の流行を生み、モネ、ドガなどの西欧の
印象派の画家達は浮世絵から、構図、デフォルメ、平面的な表現
技法を学んでいる。また、アールヌーボーが発生する一因ともな
った。芸術的作品との関連性では、比較対象資産の関連する多く
の芸術作品が、周囲の山々や景観を合わせて描いたものである。
また、そうした芸術作品との密接な関連を持ち、アメリカの山々
のように芸術史の上で一つの流派を形成したものもあるが、その
作品の影響は国内に留まる。また、中国の山水画は日本にも大き
な影響を与えたが、近世以降で美術史に影響をもたらす芸術作品
を生み出す母胎となった山は富士山しかない。山と芸術作品との
密接な関連を持つ代表例は、セザンヌが描いたサント・ビクトワ
ール山があり、これはその作品の多さからも西洋美術で最も著名
な山とされるが、富士山を題材とした浮世絵がセザンヌの出自で
ある印象派にも大きな影響を及ぼしたことを考慮すると、そうし
た浮世絵の制作を喚起した富士山の優位性は揺るがない。(3)
国内同種資産との比較信仰との関連性では、比較対象の資産では
、古くは山自体が神聖視されたが、その後は宗教施設が発展し、
山は背景となっていった。紀伊山地では、修験道の道場として山
々をめぐる行為が宗教行為とされており、富士山でもその初期に
おいてはこうした修験者による登山が中心であったが、富士山に
ついては、その後、修験者に導かれた一般人の登拝が増加し、1
8世紀後半より東京を中心に流行した富士講による大衆登山へと
発展していった。現在も夏を中心に30万人が徒歩による富士山
の登山を体験しており、こうした信仰の核心が多くの人々に継承
されている点において富士山の優位性は明らかである。芸術作品
との関連性では、比較対象の資産では、評価基準(E)は信仰の
空間との関連性で用いられており、関連する

5895m)・地域の神が住む場所と考えられ、東アフリカの人々は死者を埋葬す
る。・チャガ族(キリマンジャロ山麓に居住する部族)は、神の住む場所としてお
り、彼らの伝承や慣習には、山への高い敬意が表されている。38表3:芸術関連
の山岳等番号山名芸術作品との関連性8泰山・数多くの詩や文が残る。・山頂の風
景が紙幣の図柄になるなど、中国人の精神的シンボルと捉えられている。9黄山・
絵画は数多く描かれ、黄山画派と呼ばれた。11廬山・山水画、山水詩は多数作ら
れ、特に「観瀑図」は日本の画家にも大きな影響を与えた。22アパラチア山脈・
フレデリック・チャーチやトーマス・コールといったアメリカの風景画家に描かれ
ている。24ロッキー山脈・19世紀のアメリカ人画家、アルバート・ビエスタッ
ドの描く絵画は、ロマン主義運動の理念を最も劇的に具現化しており、”ロッキー
マウンテン画派”の指導者であった。・富士山と同程度以上の標高(エルバート山
4401m)26サント・ヴィクトワール山・20世紀の初頭、フランス人画家、
ポール・セザンヌによって、風景画に対して根本的に異なるアプローチが始められ
、西洋美術作品の中でも最も有名な山となった。27ペルデュ山・この風景は生活
の伝統(牧畜との暮らし、国境の文化、ピレネー独特の文化)と芸術・文学作品が
関連して、顕著な普遍的価値を構成。(レイモンド・デ・カルボニエ、ヘンリー・
ラッセル、ヴィクトル・ユゴー等)。・ヨーロッパ芸術の中でロマン主義が発展し
ていく上で重要な役割を果たした。・富士山と同程度以上の標高(3352m)3
3スイスアルプス(ユングフラウ峰、ビーチホルン峰、ほか)・印象的な風景はヨ
ーロッパ芸術、文学等において重要な役割を担った。・レオナルド・ダ・ヴィンチ
はモンテ・ローザのスケッチをモナリザの背景として描いた。・富士山と同程度以
上の標高(フィンスターアールホルン4274m)3)国内同種資産の特定同様の
方法で、日本国内の資産について、世界遺産登録物件または暫定リストから抽出す
ると、表4のとおり3つの山が考えられ、特に共通性が認

な題材とする作品が多い。富士山は、和歌や俳句、絵画、文学の
多くの分野においても、数多くの作品を輩出し、その中には葛飾
北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」のように西洋の美術史に大きな影
響を与えた作品もある。その多様性や生み出した芸術作品の影響
の大きさの面でも富士山の優位性は明らかである。(4)結語こ
のように、富士山においては、登拝等により、信仰の核心が現代
の多くの人たちに受け継がれ、また、浮世絵等により、近代の西
欧芸術史に大きな影響を及ぼした。富士山は、信仰のあり方、芸
術の両面で、古代から現代まで影響を与えている唯一の山であり
、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山岳である。
42d)真実性及び完全性1)完全性推薦資産の範囲は、「ある
文化的伝統の存在を伝承する物証として希有な存在」として神聖
視され、「歴史上の重要な段階を物語る景観を代表する顕著な見
本」として認知された富士山の範囲が適切に確保されているとと
もに、「顕著な普遍的意義を有する芸術的作品及び文学的作品と
の直接または実質的な関連性」を示す富士山体の範囲も、数々の
顕著な普遍的意義を有する作品に共通して描かれた最大の範囲に
相当しており、資産の重要性を伝える諸要素・過程を完全に表す
上で適切な範囲が確保されている。(図面挿入:主要な展望地点
から見た資産範囲を示した正面図)また、登山道、神社並びに富
士五湖などの儀式・修行・巡礼の場や、適切な展望線を確保した
主要な展望地点といった、顕著な普遍的価値を表すのに必要な全
ての要素を包含している。登山道は、信仰登山が盛んに行われて
いた18〜19世紀に認識されていた登山道を全て含み、登山道
の起点となる浅間神社も不足なく資産に含まれている。その他、
御室浅間神社や河口浅間神社といった富士山信仰を語る上で欠か
すことの出来ない重要な浅間神社や、富士講を迎えて登拝の世話
を行った御師の住宅、富士講がオプショナル・ツアー的に巡礼・
修行を行った地として代表的な湖沼、滝、風穴・溶岩樹型も全て
資産を構成する要素として推薦範囲に含めている。それらは、周
辺に必要十分な範囲の緩衝地帯を設定しており、負の影響を与え
る可能性の行為に対して適切な法的規制を行

価を行った(表5)。表4:比較対象とした国内の山岳等(3件)39表5:信仰
、芸術関連の国内の山岳等(2件)信仰の物証番号山名自然的要素有形的側面無形
的側面芸術作品との関連性1紀伊山地参詣道、神社、寺院、滝・日本古来の自然崇
拝の思想と大陸から伝来した仏教とが融合して形成された修験道などの行場として
も重視され発展した。・山自体が修験の場であり、山中で廻峰行という宗教行為が
行われている。神聖性の高い自然及び継続的に行われている宗教儀礼は、信仰の山
の文化的景観を構成する要素として優秀かつ多様である。2瀰山神社・古くは彌山
を含む島全体を神聖視し、対岸から遙拝していたのであるが、やがて水際に社殿が
成立し、彌山を含めた背後の山腹が社殿群の背景的効果をもつ自然景観として重要
視された。神道の施設であり、仏教との混交と分離の歴史を示す文化遺産として、
日本の宗教的空間の特質を理解する上で重要な根拠である。番号山名資産名評価基
準信芸国名仰術1紀伊山地紀伊山地の霊場と参詣道日本2瀰山厳島神社日本3御蓋
山(春日山)古都奈良の文化財日本404)結論以上の比較分析から、他の信仰・
芸術に関連する山と比べて、推薦資産は、以下の3つの点で顕著な普遍的価値を持
つ事例であると言える。(1)海外の信仰関連の山岳との比較富士山は、8世紀以
降、噴火を鎮めるため山麓に浅間神社が建てられた。12世紀に修験者の道として
登山道が開かれ、15〜16世紀には修験者に引率され、登拝を中心とした宗教的
な活動が盛んとなった。山体につくられた宗教施設だけでなく、溶岩洞穴・樹型・
湧水地も巡礼・修行の場となった。この結果、登拝の行為を通じて周辺の神社及び
巡礼地、参詣道が形成された。このように、富士山は、今日まで継承された山に対
する固有の文化的伝統を顕著に表す物証であるとともに、人間と山との精神的な関
係を表す景観であり、18〜19世紀は既に年平均1〜2万人という世界的にも類
例のない大衆による高山への登拝が行われるようになった。富士山は、(ケニア山
やキリマンジャロ山、トンガリロやウルル等に代表される

保存管理計画の下に保全又は改善のための対策を明示している。
したがって、資産の周辺環境の保全に関する完全性も揺らぎはな
い。2)真実性推薦資産は、所有者をはじめ、国及び地方公共団
体によって適切な維持管理が行われ、文化資産としての価値を失
することなく良好な状態を保っている。以下に、『世界遺産条約
履行のための作業指針』第82項に示された文化遺産の評価に適
用される真実性の属性に基づいた、構成資産の種類ごとの分析を
示す。(1)富士山体(遺跡(site))

仰のあり方から、(泰山等の中国の山々やアトス山やシナイ山等に代表されるよう
な)多様な宗教の介入によって生み出された信仰のあり方まで、そのいずれも失う
ことなく現在に至るまで継承している。信仰に関連する山の多くは、山自体ではな
く、山麓に点在する宗教施設や石仏が信仰の対象であり、そうした宗教施設等を参
詣するための道が整備されている。また、一部は山頂にそうした宗教施設があるた
め、参拝が登山の形態をとるが、富士山のように登山行為自体に宗教的な意義を求
める登拝とは異なるものである。アダムス・ピークは多くの巡礼者が登山の形態を
とるが、頂上の聖なる足跡とされる岩を目指す点で、宗教施設に参拝する形態と類
似するものであり、富士山とは異なると考える。また、一部の山岳はその聖なるが
ゆえに登山を制限しており、登拝はなく、遙拝という信仰形態しか持たない山もあ
る。信仰の山の自然的要素である標高については、自然遺産を中心に富士山よりも
高い山も存在するが、その標高に比した登頂者の多さ(年約30万人)は他に例が
なく、山頂部への道路や軌道によるアクセスがないことから、登頂者は徒歩6時間
以上かけて、山頂部を目指すことになる。こうした登山形態は、日本では20世紀
前半に開花する近代アルピニズムに起源するものではなく、17世紀以降の江戸(
現在の東京)を中心に数多く組織された富士講の登拝活動を母胎に発展したもので
ある。このことは、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承され、今日
でも富士山は日本を代表し象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名
山」であることを示している。また、富士山への登山は夜明け前の山頂到着を目指
す登山者が多いことにも特徴がある。これは、山頂付近で日の出を拝むためである
が、17世紀以降、道者が山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブロ
ッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝んだことに由来する。こうした
自然現象に宗教的な意義を見出す傾向は、比較対象の中では峨眉山以外には見あた
らない。IUCNが2009年に行ったテーマ別研究であ

年を最後に噴火しておらず、以降、形態に変更はない。また、今
後噴火によって形態上の変化が起こったとしても、富士山の荒ぶ
る姿は人々の信仰心を鼓舞し、芸術活動に駆り立てることから、
真実性が損なわれるものではなく、むしろ、有史以来時代を超え
て、精神・機能の観点からみた真実性は確実に維持されている。
神聖性が最も高いとされる、山体中腹以上の核心となる区域には
、文化財保護法により厳格に保護されているほか、その周辺地域
や展望線及び主要な展望地点は、自然公園法などの国内法により
展望・眺望への妨げとなるものの除外や風致景観との調和を図る
景観保全が行われており、景観全体の真実性は確実に保証される
。また、登山道や山小屋、信仰関連遺跡などの諸要素が総体的な
登拝システムを構築し、その機能は良好に遺存している。登山道
は、人為による現状の変更には厳しい規制がかけられており、地
下に埋もれた遺構を含め、価値の真実性の伝達については、将来
にわたり確実に保証されている。また、宗教空間としての用途・
機能を何百年も維持してきた。レクリエーションのために登43
山を行う人々にとっても、脈々と継承してきた富士山に対する信
仰の核心の証左として、それらは機能している。(2)神社・御
師住宅(記念工作物・建造物群・遺跡(site))神社につい
て、建築の歴史的価値を表す平面形式、構造様式、内外の立面意
匠は顕著な普遍的価値を表す時代のままである。近代以降の保存
修理事業においては、建立後に修理又は改変された後補部分につ
いて、後補材の撤去・復原・欠失した部分の復旧を行うなど、高
い真実性が追究されてきた。脆弱な材料・材質から成る木造建築
の修理に関する伝統をはじめ、そこに用いられる技術についても
確実に継承されている。また、富士山の顕著な普遍的価値が最も
よく表現される時代の位置を維持し、境内林などに囲まれた周辺
の環境も良好である。さらに、宗教空間としての用途・機能を何
百年も維持してきた。レクリエーションのために登山を行う人々
にとっても、脈々と継承してきた富士山に対する信仰の核心の証
左として、それらは機能している。(3)その他の信仰関連遺跡
(遺跡(site))富士五湖及び忍野八海

は、世界遺産一覧表には一般の人々が一様に認めている火山の多くが含まれていな
いことは興味深いとし、その例として、イタリアのエトナ火山や富士山などを挙げ
ている。とくに富士山は、火山とその周辺地域に訪れる年間の観光客が地球上のど
の火山よりも多い点で重要とされている。こうしたギャップを埋めるために、知名
度、科学的重要性、文化及び教育的価値を基準に個々の長所を検討すべきとしてい
る。41(2)海外の芸術関連の山岳との比較独立峰であ

石碑などの状況証拠から、内八海巡りや富士御手洗元八湖が行わ
れていたことがわかっている。人々の信仰心を駆り立てた湖沼の
水そのものは、顕著な普遍的価値の核心として現在に継承されて
いる。さらに、周辺環境においても、自然公園法や景観法に基づ
く景観計画などにより風致景観との調和を図る景観保全が行われ
ており、景観全体の真実性は確実に保証されている。白糸ノ滝に
おいては、長谷川角行の修行地がどこであったかを明確に示す文
献はないが、富士講講徒が滝壺で修行したことは講徒の記録及び
その挿図で確認できる。船津胎内樹型及び吉田胎内樹型の中には
祠などが祀られ、穴自体を神聖視する精神、宗教空間としての機
能は現在も受け継がれている。入洞者の安全のため、船津胎内樹
型の入り口部分は改変が加えられているが、それ以外の形状・位
置の真実性は、自然崩落の場合を除き、確実に継承されている。
人穴富士講遺跡においては、碑塔のほとんどに建立者、講の名称
や年号(創建年号や関係者の死亡年号)などが記載されており、
真実性に疑いの余地はない。444.保全状況と資産に与える影
響a)現在の保全状況「富士山」の17個の構成資産については
、すでに多くの修理や整備の事業が適切に行われており、自然的
な要因に基づく一部の資産を除き構成資産の保存状況も良好であ
る。特に神社の建造物及び境内については、所有者である宗教法
人により適切な維持的措置が恒常的に行われており、保存状況は
良好である。1)資産全体の保全状況(1)主要な展望主要な展
望としての構成資産は、本栖湖と三保松原であり、展望点及びそ
こから展望した山体の大部分である。展望面に関しては本栖湖の
場合構成資産に含まれており、三保松原の場合は展望点より山体
まで距離の距離が約45qと遠方であり、かつ、その間のかなり
の部分が海面及び人口密集地(富士市市街地)であるため、展望
点より山体までの範囲は構成資産に含めてはいない。現状におい
てこれらの資産範囲及び展望面は三保松原の一部を除き良好な状
態を保っている。これらの資産範囲については、信仰の核心であ
る御中道より上の範囲は文化財保護法(特別名勝及び名勝)及び
自然公園法(特別保護地区及び第1種特別地

山の秀麗な姿は、四方の広い範囲から眺めることができ、古くから芸術活動の対象
となった。これら富士山を題材にした芸術作品のうち、最も海外に影響を与えた作
品は、葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」である。この一連の作品は、ジャポニス
ムと呼ばれた西洋における日本芸術の流行を生み、モネ、ドガなどの西欧の印象派
の画家達は浮世絵から、構図、デフォルメ、平面的な表現技法を学んでいる。また
、アールヌーボーが発生する一因ともなった。芸術的作品との関連性では、比較対
象資産の関連する多くの芸術作品が、周囲の山々や景観を合わせて描いたものであ
る。また、そうした芸術作品との密接な関連を持ち、アメリカの山々のように芸術
史の上で一つの流派を形成したものもあるが、その作品の影響は国内に留まる。ま
た、中国の山水画は日本にも大きな影響を与えたが、近世以降で美術史に影響をも
たらす芸術作品を生み出す母胎となった山は富士山しかない。山と芸術作品との密
接な関連を持つ代表例は、セザンヌが描いたサント・ビクトワール山があり、これ
はその作品の多さからも西洋美術で最も著名な山とされるが、富士山を題材とした
浮世絵がセザンヌの出自である印象派にも大きな影響を及ぼしたことを考慮すると
、そうした浮世絵の制作を喚起した富士山の優位性は揺るがない。(3)国内同種
資産との比較信仰との関連性では、比較対象の資産では、古くは山自体が神聖視さ
れたが、その後は宗教施設が発展し、山は背景となっていった。紀伊山地では、修
験道の道場として山々をめぐる行為が宗教行為とされており、富士山でもその初期
においてはこうした修験者による登山が中心であったが、富士山については、その
後、修験者に導かれた一般人の登拝が増加し、18世紀後半より東京を中心に流行
した富士講による大衆登山へと発展していった。現在も夏を中心に30万人が徒歩
による富士山の登山を体験しており、こうした信仰の核心が多くの人々に継承され
ている点において富士山の優位性は明らかである。芸術作品との関連性では、比較
対象の資産では、評価基準(E)は信仰の空間との関連性

全され、下部(標高1500〜2000m以下、特別名勝範囲外
)は自然公園法(特別保護地区、第1〜3種特別地域、普通地域
)及び森林法(保安林)により重層的に保護されている。また、
展望面の周辺部については自然公園法(特別保護地区、第1〜3
種特別地域、普通地域)及び森林法(保安林)、景観法に基づく
景観条例、景観計画により保護されている。これらの法令の許可
制に基づく保護により、景観面に関して資産に影響のある開発は
厳重に管理されている。また、資産範囲及び緩衝地帯に含まれて
いない三保松原の展望面についても海面において実質的に開発行
為は起りえず、市街地においても景観法に基づく景観条例、景観
計画により保護されているため、特に問題は生じない。(2)登
山道(遺跡(site))これらの構成資産は富士山体及びそこ
に所在する登山道である。これらの構成資産については、真実性
及び完全性が担保できる部分が史跡に指定されるとともに、その
大部分の範囲が特別名勝に指定されている。これらの構成資産に
ついては、県が、各史跡及び特別名勝としての保存管理計画を策
定し、構成資産の所在する市町村とともに確実な保存管理に当た
っている。したがって、各史跡等を構成する諸要素及びそれらと
一体をなす周辺の地域は、良好な状態を保っている。さらに、指
定地内で行われる現状変更及び保存に影響を及ぼす行為(以下、
「現状変更等」という。)については、文化財保護法の下に許可
制に基づき厳重に規制されている(富士山体の保護措置について
は次項で詳しく述べる。)。(3)神社・御師住宅(記念工作物
・建造物群・遺跡(site))これらの構成資産はいずれも社
殿などの木造建造物を中心としている。それら内のいくつかは、
富士山本宮浅間大社本殿などのように重要文化財に指定されてお
り(御師住宅は指定予定)、その他の建築物や境内地は史跡の構
成要素として保護されている。これらの木造建築物については、
これまで損傷の程度に応じた適切な修理が行われてきた。したが
って、それらはすべて45良好な状態を保っている。具体的には
、建造物の全体を解体して行う全解体修理、軸組を残したまま壁
や屋根などの修理を行う半解体修理を実施し

する芸術作品等も宗教的な題材とする作品が多い。富士山は、和歌や俳句、絵画、
文学の多くの分野においても、数多くの作品を輩出し、その中には葛飾北斎の浮世
絵「冨嶽三十六景」のように西洋の美術史に大きな影響を与えた作品もある。その
多様性や生み出した芸術作品の影響の大きさの面でも富士山の優位性は明らかであ
る。(4)結語このように、富士山においては、登拝等により、信仰の核心が現代
の多くの人たちに受け継がれ、また、浮世絵等により、近代の西欧芸術史に大きな
影響を及ぼした。富士山は、信仰のあり方、芸術の両面で、古代から現代まで影響
を与えている唯一の山であり、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山
岳である。42d)真実性及び完全性1)完全性推薦資産の範囲は、「ある文化的
伝統の存在を伝承する物証として希有な存在」として神聖視され、「歴史上の重要
な段階を物語る景観を代表する顕著な見本」として認知された富士山の範囲が適切
に確保されているとともに、「顕著な普遍的意義を有する芸術的作品及び文学的作
品との直接または実質的な関連性」を示す富士山体の範囲も、数々の顕著な普遍的
意義を有する作品に共通して描かれた最大の範囲に相当しており、資産の重要性を
伝える諸要素・過程を完全に表す上で適切な範囲が確保されている。(図面挿入:
主要な展望地点から見た資産範囲を示した正面図)また、登山道、神社並びに富士
五湖などの儀式・修行・巡礼の場や、適切な展望線を確保した主要な展望地点とい
った、顕著な普遍的価値を表すのに必要な全ての要素を包含している。登山道は、
信仰登山が盛んに行われていた18〜19世紀に認識されていた登山道を全て含み
、登山道の起点となる浅間神社も不足なく資産に含まれている。その他、御室浅間
神社や河口浅間神社といった富士山信仰を語る上で欠かすことの出来ない重要な浅
間神社や、富士講を迎えて登拝の世話を行った御師の住宅、富士講がオプショナル
・ツアー的に巡礼・修行を行った地として代表的な湖沼、滝、風穴・溶岩樹型も全
て資産を構成する要素として推薦範囲に含めている。それ

な修理として屋根葺替修理や塗装修理などを定期的に実施してき
た。建造物は自然災害等により幾度かの損傷を被ってきたが、そ
のつど旧態に復旧され、その歴史上の価値は確実に継承されてい
る。さらに、指定地内で行われる現状変更等については、文化財
保護法の下に許可制に基づき厳重に規制されている。また、重要
文化財である建造物のみならず、史跡等に指

範囲の緩衝地帯を設定しており、負の影響を与える可能性の行為に対して適切な法
的規制を行うとともに、包括的保存管理計画の下に保全又は改善のための対策を明
示している。したがって、資産の周辺環境の保全に関する完全性も揺らぎはない。
2)真実性推薦資産は、所有者をはじめ、国及び地方公共団体によって適切な維持
管理が行われ、文化資産としての価値を失することなく良好な状態を保っている。
以下に、『世界遺産条約履行のための作業指針』第82項に示された文化遺産の評
価に適用される真実性の属性に基づいた、構成資産の種類ごとの分析を示す。(1
)富士山体(遺跡(site))富士山は、1707年を最後に噴火しておらず、
以降、形態に変更はない。また、今後噴火によって形態上の変化が起こったとして
も、富士山の荒ぶる姿は人々の信仰心を鼓舞し、芸術活動に駆り立てることから、
真実性が損なわれるものではなく、むしろ、有史以来時代を超えて、精神・機能の
観点からみた真実性は確実に維持されている。神聖性が最も高いとされる、山体中
腹以上の核心となる区域には、文化財保護法により厳格に保護されているほか、そ
の周辺地域や展望線及び主要な展望地点は、自然公園法などの国内法により展望・
眺望への妨げとなるものの除外や風致景観との調和を図る景観保全が行われており
、景観全体の真実性は確実に保証される。また、登山道や山小屋、信仰関連遺跡な
どの諸要素が総体的な登拝システムを構築し、その機能は良好に遺存している。登
山道は、人為による現状の変更には厳しい規制がかけられており、地下に埋もれた
遺構を含め、価値の真実性の伝達については、将来にわたり確実に保証されている
。また、宗教空間としての用途・機能を何百年も維持してきた。レクリエーション
のために登43山を行う人々にとっても、脈々と継承してきた富士山に対する信仰
の核心の証左として、それらは機能している。(2)神社・御師住宅(記念工作物
・建造物群・遺跡(site))神社について、建築の歴史的価値を表す平面形式
、構造様式、内外の立面意匠は顕著な普遍的価値を表す時

存在する個々の歴史的建造物の保存修理事業を行うに当たっては
、文化財保護法の下に、それらの歴史に関する調査、伝統技法に
関する調査、地下遺構に関する発掘調査、破損状況及びその原因
に関する調査など、事前の学術調査を周到に行い、その結果に基
づいて、所有者・学識経験者・行政経験者等から成る修理及び整
備委員会における保存修理や環境整備の方針の決定及び指導に基
づき実施している。また、それらの修理完了後には、修理に係る
記録をまとめた修理工事報告書を刊行している。さらに、重要文
化財である建造物については、火災による焼損防止のために自動
火災報知設備及び各種の消火施設・避雷施設を設置し、防火・消
火に関する組織の運営についても万全を期している。また、建造
物の所有者である宗教法人及び市並びに個人は、県又は各市町村
が策定した保存活用計画に基づいて、それらの確実な保存管理に
当たっている。また、建造物の軽微な補修等の日常管理について
は、所有者の依頼により、専門の建築技術者によって実施されて
いる。(4)その他信仰関連遺跡(遺跡(site))これらの
構成資産は、湖沼、風穴・溶岩樹型、滝・湧水、石造工作物(人
穴の碑塔)である。これらの構成資産については、その自然的価
値から湧玉池が特別天然記念物に、白糸ノ滝が名勝及び天然記念
物に、富士五湖が名勝に、風穴・溶岩樹型及び忍野八海が天然記
念物に指定されているとともに、その一部が史跡に指定されてい
る。これらの構成資産については、県及び市町村が、各史跡等の
規模・形態・性質・立地・環境等に応じて保存管理計画を策定し
、確実な保存管理に当たっている。したがって、各史跡等を構成
する諸要素及びそれらと一体をなす周辺の地域は、良好な状態を
保っている。さらに、指定地内で行われる現状変更等については
、文化財保護法の下に許可制に基づき厳重に規制されている。2
)構成資産の保全状況(A)山体(眺望の対象である富士山、あ
る文化的伝統を伝承する物証である、連続性のある資産としての
富士山)登録範囲における自然的環境については、おおむね良好
な状態である。資産範囲の上部は文化財保護法(特別名勝)及び
自然公園法(特別保護地区及び第1種特別地

降の保存修理事業においては、建立後に修理又は改変された後補部分について、後
補材の撤去・復原・欠失した部分の復旧を行うなど、高い真実性が追究されてきた
。脆弱な材料・材質から成る木造建築の修理に関する伝統をはじめ、そこに用いら
れる技術についても確実に継承されている。また、富士山の顕著な普遍的価値が最
もよく表現される時代の位置を維持し、境内林などに囲まれた周辺の環境も良好で
ある。さらに、宗教空間としての用途・機能を何百年も維

)により厳密に保全され、下部(標高1500〜2000m以下
、特別名勝範囲外)は自然公園法(特別保護地区、第1〜3種特
別地域、普通地域)及び森林法(保安林)により重層的に保護さ
れているため、景観および文化的価値のどちらの点においても資
産に影響を及ぼす行為は発生しない。た46だし、山体西側には
山頂部付近から標高2200m付近までを源頭部とする土砂崩れ
(以下、「大沢崩れ」という。)が、約1000年前より継続し
て発生している。このため山体西側の一部でかつての信仰に関わ
る道(御中道)の通行等が禁止されている区域がある。山頂及び
登山道周辺では、多くの人々によって行われる登山行為に起因す
る廃棄物・し尿が発生するが、山小屋組合などにより適切に管理
・除去されている。なお、山腹において、山小屋の維持・廃棄物
の撤去のためにブルドーザーが通行する道路があるが、使用は必
要最小限にとどめられている。山頂部周辺の文化的環境について
も、現時点における保全状態は良好である。ただし、降雪・強風
等に常時さらされるため、小規模な変更は常時行われてきた。(
A1)山頂信仰遺跡現時点における保全状態は良好である。(A
2〜5)登山道富士山は脆弱な火山地質であるとともに、雪崩・
強風等に常時さらされるため、登山の開始以降登山道小規模な経
路の変更は常時行われていた。したがって、継続的な観点におけ
る保全状態について明確に述べることはできない。しかし、現在
も登山道として使用されている部分については毎年登山期前に県
、地元保存会(須山口)又は山小屋組合により整備が行われ、適
切な状態に保たれている。(A6)北口本宮冨士浅間神社北口本
宮冨士浅間神社は定期的な維持修理が行われており、現時点にお
ける保全状態は良好である。(A7〜9)西湖・精進湖・本栖湖
すべての湖とも現時点における保全状態は良好である。中でも本
栖湖は、訪問者の体験を損ねないように、展望地点から富士山を
見た展望線と展望地点区域の周辺環境の維持に配慮した良好な保
存管理が行われており、現時点における保全状態は特に良好であ
る。(B1)富士山本宮浅間大社定期的な維持修理が行われてお
り、現時点における保全状態は良好である。

ションのために登山を行う人々にとっても、脈々と継承してきた富士山に対する信
仰の核心の証左として、それらは機能している。(3)その他の信仰関連遺跡(遺
跡(site))富士五湖及び忍野八海においては、文献や石碑などの状況証拠か
ら、内八海巡りや富士御手洗元八湖が行われていたことがわかっている。人々の信
仰心を駆り立てた湖沼の水そのものは、顕著な普遍的価値の核心として現在に継承
されている。さらに、周辺環境においても、自然公園法や景観法に基づく景観計画
などにより風致景観との調和を図る景観保全が行われており、景観全体の真実性は
確実に保証されている。白糸ノ滝においては、長谷川角行の修行地がどこであった
かを明確に示す文献はないが、富士講講徒が滝壺で修行したことは講徒の記録及び
その挿図で確認できる。船津胎内樹型及び吉田胎内樹型の中には祠などが祀られ、
穴自体を神聖視する精神、宗教空間としての機能は現在も受け継がれている。入洞
者の安全のため、船津胎内樹型の入り口部分は改変が加えられているが、それ以外
の形状・位置の真実性は、自然崩落の場合を除き、確実に継承されている。人穴富
士講遺跡においては、碑塔のほとんどに建立者、講の名称や年号(創建年号や関係
者の死亡年号)などが記載されており、真実性に疑いの余地はない。444.保全
状況と資産に与える影響a)現在の保全状況「富士山」の17個の構成資産につい
ては、すでに多くの修理や整備の事業が適切に行われており、自然的な要因に基づ
く一部の資産を除き構成資産の保存状況も良好である。特に神社の建造物及び境内
については、所有者である宗教法人により適切な維持的措置が恒常的に行われてお
り、保存状況は良好である。1)資産全体の保全状況(1)主要な展望主要な展望
としての構成資産は、本栖湖と三保松原であり、展望点及びそこから展望した山体
の大部分である。展望面に関しては本栖湖の場合構成資産に含まれており、三保松
原の場合は展望点より山体まで距離の距離が約45qと遠方であり、かつ、その間
のかなりの部分が海面及び人口密集地(富士市市街地)で

良好な状態であるが、二つの池のうち「上池」では、湧水量が減
少し、藻類が繁殖しているため、「湧玉池保全再生会議」が設置
され、対策が検討されている。(B2)山宮浅間神社現時点にお
ける保全状態は良好である。(B3)村山浅間神社現時点におけ
る保全状態は良好である。(B4)須山浅間神社現時点における
保全状態は良好である。(B5)富士浅間神社(須走浅間神社)
現時点における保全状態は良好である。(B6)河口浅間神社現
時点における保全状態は良好である。47(B7)冨士御室浅間
神社現時点における保全状態は良好である。ただし、漆塗装の磨
耗退色が著しい部分がある。また、本宮本殿の脇障子版は富士山
二合目所在時に毀損にあっており、今後、修復・修繕の検討が予
想される。(B8)御師住宅旧外川家住宅は2006−2007
年に大規模な修繕工事を行ったため、現時点における保全状態は
良好である。小佐野家住宅は、所有者らによって日常的な維持管
理が行われているほか、補助事業などによって文化財としての保
護に必要な修繕や設備の整備が進められてきた。(B9〜10)
山中湖、河口湖どちらの湖とも現時点における保全状態は良好で
ある。(B11)忍野八海天然記念物として指定されている範囲
は水面に限られており、私有地が隣接しているため、周辺環境を
含めた保全状態に課題がある。しかし、忍野村が景観計画を策定
し、周辺環境を含めた保全を行っている。(B12)船津胎内樹
型現時点における保全状態は良好である。(B13)吉田胎内樹
型内部の溶岩の盗掘や人の侵入による破壊を防ぐために本穴入り
口は施錠されており、現時点における保全状態は良好である。(
B14)人穴富士講遺跡碑塔群はおおむね良好な状態であるが、
一部の碑塔に修理が必要である。(B15)白糸ノ滝現状では滝
壺周辺に売店があるなど景観面において課題がある。このため、
富士宮市が中心となり保存管理計画の改訂および整備計画の策定
を行い、今後適切な整備がなされる予定である。滝の自然崩壊に
ついては特に対策は採られていない。(C)三保松原現状では1
960〜80年代に進行した海岸浸食の影響からの回復を図るた
め、資産内及び周辺にヘッドランドなどが仮

体までの範囲は構成資産に含めてはいない。現状においてこれらの資産範囲及び展
望面は三保松原の一部を除き良好な状態を保っている。これらの資産範囲について
は、信仰の核心である御中道より上の範囲は文化財保護法(特別名勝及び名勝)及
び自然公園法(特別保護地区及び第1種特別地域)により厳密に保全され、下部(
標高1500〜2000m以下、特別名勝範囲外)は自然公園法(特別保護地区、
第1〜3種特別地域、普通地域)及び森林法(保安林)により重層的に保護されて
いる。また、展望面の周辺部については自然公園法(特別保護地区、第1〜3種特
別地域、普通地域)及び森林法(保安林)、景観法に基づく景観条例、景観計画に
より保護されている。これらの法令の許可制に基づく保護により、景観面に関して
資産に影響のある開発は厳重に管理されている。また、資産範囲及び緩衝地帯に含
まれていない三保松原の展望面についても海面において実質的に開発行為は起りえ
ず、市街地においても景観法に基づく景観条例、景観計画により保護されているた
め、特に問題は生じない。(2)登山道(遺跡(site))これらの構成資産は
富士山体及びそこに所在する登山道である。これらの構成資産については、真実性
及び完全性が担保できる部分が史跡に指定されるとともに、その大部分の範囲が特
別名勝に指定されている。これらの構成資産については、県が、各史跡及び特別名
勝としての保存管理計画を策定し、構成資産の所在する市町村とともに確実な保存
管理に当たっている。したがって、各史跡等を構成する諸要素及びそれらと一体を
なす周辺の地域は、良好な状態を保っている。さらに、指定地内で行われる現状変
更及び保存に影響を及ぼす行為(以下、「現状変更等」という。)については、文
化財保護法の下に許可制に基づき厳重に規制されている(富士山体の保護措置につ
いては次項で詳しく述べる。)。(3)神社・御師住宅(記念工作物・建造物群・
遺跡(site))これらの構成資産はいずれも社殿などの木造建造物を中心とし
ている。それら内のいくつかは、富士山本宮浅間大社本殿

を与えている。また、松原においてもマツクイムシ(マツノザイ
センチュウ)による松枯れがみられるため、薬剤注入・散布によ
る予防措置及び植林、枯れた松の除去が実施されている。現在こ
れらの対策により、資産の現状を保ち、将来においてはより良好
な保全状態となることは確実である。なお、三保松原の象徴的存
在である羽衣の松は1707年の宝永噴火とその前後の地震によ
り初代とされる松が失われたため、現在の松(樹齢約650年)
を指定した。しかし、この松も台風による幹

に指定されており(御師住宅は指定予定)、その他の建築物や境内地は史跡の構成
要素として保護されている。これらの木造建築物については、これまで損傷の程度
に応じた適切な修理が行われてきた。したがって、それらはすべて45良好な状態
を保っている。具体的には、建造物の全体を解体して行う全解体修理、軸組を残し
たまま壁や屋根などの修理を行う半解体修理を実施しているほか、部分的な修理と
して屋根葺替修理や塗装修理などを定期的に実施してきた。建造物は自然災害等に
より幾度かの損傷を被ってきたが、そのつど旧態に復旧され、その歴史上の価値は
確実に継承されている。さらに、指定地内で行われる現状変更等については、文化
財保護法の下に許可制に基づき厳重に規制されている。また、重要文化財である建
造物のみならず、史跡等に指定された神社境内に存在する個々の歴史的建造物の保
存修理事業を行うに当たっては、文化財保護法の下に、それらの歴史に関する調査
、伝統技法に関する調査、地下遺構に関する発掘調査、破損状況及びその原因に関
する調査など、事前の学術調査を周到に行い、その結果に基づいて、所有者・学識
経験者・行政経験者等から成る修理及び整備委員会における保存修理や環境整備の
方針の決定及び指導に基づき実施している。また、それらの修理完了後には、修理
に係る記録をまとめた修理工事報告書を刊行している。さらに、重要文化財である
建造物については、火災による焼損防止のために自動火災報知設備及び各種の消火
施設・避雷施設を設置し、防火・消火に関する組織の運営についても万全を期して
いる。また、建造物の所有者である宗教法人及び市並びに個人は、県又は各市町村
が策定した保存活用計画に基づいて、それらの確実な保存管理に当たっている。ま
た、建造物の軽微な補修等の日常管理については、所有者の依頼により、専門の建
築技術者によって実施されている。(4)その他信仰関連遺跡(遺跡(site)
)これらの構成資産は、湖沼、風穴・溶岩樹型、滝・湧水、石造工作物(人穴の碑
塔)である。これらの構成資産については、その自然的価

、2010年10月にその交代が行われる(三代目は樹齢約30
0〜400年と推定されている)。また、現在静岡市が保存管理
計画の改訂を行っている。なお、資産範囲・緩衝地帯範囲には含
まれないが、三保松原の富士山方向の対岸に当たる富士市の工業
地帯においては、現在使用していない高煙突の撤去が静岡県の政
策(富士地域煙突ゼロ作戦)として実施されている。48b)資
産に与える影響の要因1)開発の圧力資産及びその緩衝地帯にお
いて、建築物又は工作物の建設、土地の形質変更、木竹の伐採等
の等の行為を行う場合には、文化財保護法、自然公園法、都市計
画法、森林法、河川法、海岸法及び関係市町村が定める条例(景
観法に基づき策定された景観条例等)の下に、それらの規模、形
態・構造に関する規制(建築物又は工作物に関しては、それらの
高さ・色彩・意匠等の規制を含む)が行われるため、資産の価値
を著しく低下させるような開発は起り得ない。「富士山世界遺産
両県協議会」(設置予定・仮称)では、両県の知事・市町村長を
中心に、許認可・保存に関わる国機関も加わり、開発の状況を把
握し、コントロールのあり方について検討を行う予定である。開
発計画のうち、現在北麓(山梨県)においては都市計画区域用途
地域または都市計画区域外では5ha以上、都市計画内(用途地
域外)では10ha以上の計画については、山梨県内の組織であ
る「山梨県土地利用調整会議」に事前協議書が提出され、知事の
同意が必要とされている。その同意を得た後で、個別法令の許認
可を担当する部署での手続きを行うことになっており、一元化し
た組織かつ統一した基準での開発のコントロールが行われている
。こうした大規模開発を含む緩衝地帯内で行われる一定規模以上
の開発行為については、「富士山世界遺産両県協議会」へ報告が
なされ、必要に応じて個別法令の許認可を担当する部署に対して
助言等がなされる予定である。また、各市町村の景観計画の下に
、各市町村は景観阻害要因の排除に努めることとしているほか、
世界遺産暫定一覧表に記載され、世界遺産一覧表への記載の可能
性のある文化資産に相応しい周辺市街地を創出するために適切な
景観の保全・改善の施策を実施することとし

記念物に、白糸ノ滝が名勝及び天然記念物に、富士五湖が名勝に、風穴・溶岩樹型
及び忍野八海が天然記念物に指定されているとともに、その一部が史跡に指定され
ている。これらの構成資産については、県及び市町村が、各史跡等の規模・形態・
性質・立地・環境等に応じて保存管理計画を策定し、確実な保存管理に当たってい
る。したがって、各史跡等を構成する諸要素及びそれらと一体をなす周辺の地域は
、良好な状態を保っている。さらに、指定地内で行われる

掲げる開発計画等の立案に当たっては、いずれにおいても資産へ
の影響を最小限に留めるよう関係機関・団体と調整を行うことし
、実施する場合にも事前に十分な協議を行うこととしている。(
1)観光開発(ホテル・ゴルフ場・スキー場)緩衝地帯に位置す
るホテル等については、自然公園法に基づき、高さ・色彩・意匠
等の規制が行われており、既存施設の改築についても同様である
。特に山体の五合目以上、本栖湖からの展望線の核心部は自然公
園法の特別保護地区、第1種特別地域となっており、新規の構造
物の建築は禁止されている。また、富士山北麓(山梨県)では新
規の10ha以上のゴルフ場開発については凍結されている。(
2)廃棄物処分場又は清掃工場現時点で計画なし。(※演習場内
の解放地に御殿場市・小山町広域行政組合によるゴミ処理施設の
計画あり。)(3)工場又は工業団地現時点で計画なし。(北口
本宮冨士浅間神社の南600mの地域に、工場進出の計画あり。
)(4)道路整備緩衝地帯においては、北口本宮冨士浅間神社と
御師住宅との間を走る国道138号の拡幅が計画されている。当
該道路計画においては、市、県、国等の関係機関と有識者からな
る「富士北麓地域交通円滑化対策検討会」において、計画案の検
討を行うなど、当該神社の社叢や周囲の景観に調和した道路の意
匠・構造とすることとしており、当該資産の価値の保護に影響は
ない。49県道山中湖忍野富士吉田線の新倉トンネルは、河口湖
畔と富士吉田市中心部をトンネルで結ぶ計画である。河口湖湖畔
の渋滞解消、火山防災のバイパスとすることを目的としており、
当該資産の価値の保護に影響はない。また、道路改良事業として
、線形改良、歩道設置など来訪者の安全性向上を図ることを目的
とした事業が行われ、景観に配慮した内容とするよう調整してい
る。2)環境の圧力資産の価値を著しく低下させるような自然的
環境の変化として、山体の形状を変化させる噴火及びそれに伴う
噴石、火砕流・火砕サージ、溶岩流、融雪型火山泥流、降灰、降
灰後の降雨による土石流などによる登山道及び周辺の資産の損傷
が予測される。「大沢崩れ」が約1000年前より始まり、現在
その幅は年1.6mの割合で拡大している(

文化財保護法の下に許可制に基づき厳重に規制されている。2)構成資産の保全状
況(A)山体(眺望の対象である富士山、ある文化的伝統を伝承する物証である、
連続性のある資産としての富士山)登録範囲における自然的環境については、おお
むね良好な状態である。資産範囲の上部は文化財保護法(特別名勝)及び自然公園
法(特別保護地区及び第1種特別地域、第2種特別地域)により厳密に保全され、
下部(標高1500〜2000m以下、特別名勝範囲外)は自然公園法(特別保護
地区、第1〜3種特別地域、普通地域)及び森林法(保安林)により重層的に保護
されているため、景観および文化的価値のどちらの点においても資産に影響を及ぼ
す行為は発生しない。た46だし、山体西側には山頂部付近から標高2200m付
近までを源頭部とする土砂崩れ(以下、「大沢崩れ」という。)が、約1000年
前より継続して発生している。このため山体西側の一部でかつての信仰に関わる道
(御中道)の通行等が禁止されている区域がある。山頂及び登山道周辺では、多く
の人々によって行われる登山行為に起因する廃棄物・し尿が発生するが、山小屋組
合などにより適切に管理・除去されている。なお、山腹において、山小屋の維持・
廃棄物の撤去のためにブルドーザーが通行する道路があるが、使用は必要最小限に
とどめられている。山頂部周辺の文化的環境についても、現時点における保全状態
は良好である。ただし、降雪・強風等に常時さらされるため、小規模な変更は常時
行われてきた。(A1)山頂信仰遺跡現時点における保全状態は良好である。(A
2〜5)登山道富士山は脆弱な火山地質であるとともに、雪崩・強風等に常時さら
されるため、登山の開始以降登山道小規模な経路の変更は常時行われていた。した
がって、継続的な観点における保全状態について明確に述べることはできない。し
かし、現在も登山道として使用されている部分については毎年登山期前に県、地元
保存会(須山口)又は山小屋組合により整備が行われ、適切な状態に保たれている
。(A6)北口本宮冨士浅間神社北口本宮冨士浅間神社は

H20の38年間で約60m・3400メートル地点・523万
?・年13.8?の土砂が流出)。ただし、噴火・地震等がなけ
れば少なくとも200年後までは富士山の景観に大きな変化はな
いと予測されている(「富士火山」P407〜)。酸性雨を含む
大気汚染が引き起こす被害については、現段階では確認されてい
ない。白糸ノ滝では、滝自体の浸食により年2cmの割合で後退
しており、10年程度の間隔で自然崩壊が発生する。砂嘴である
三保松原では20世紀後半に土砂供給源の川での土砂採取が活発
になり、堆積活動が減少したことで海流による海岸浸食が進んで
いたが、現在は土砂採取の禁止等により、堆積活動が回復してい
る。また、三保松原における松にはマツクイムシ(マツノザイセ
ンチュウ)による被害が見られる。これに対しては、薬剤注入・
散布による予防措置及び植林、枯れた松の除去を資産の所在する
静岡市とNPO法人が行っており、被害の拡大を防止している。
3)自然災害と危機管理資産の所在地域における自然災害として
は、第一に富士山特有のものとして山体及び側火山からの噴火及
びそれに伴う噴石、火砕流・火砕サージ、溶岩流、融雪型火山泥
流、降灰、降灰後の降雨による土石流などが予想されるとともに
、数年単位で発生する山体における雪崩(特に大量の水分を含ん
だ雪が流動する雪泥流)や大沢崩れ及びそれに伴う土石流、強風
、雨水による浸食などが考えられる。また、富士山を含む駿河湾
沿いの地域はM8クラスの海洋プレート内地震の発生が予測され
ている。第二に日本列島の太平洋側における一般的自然災害であ
る台風・大雨・洪水並びに火災等が予測されている。第三に三保
松原に関しては海岸浸食に伴う高潮などの被害がある。これらに
ついてそれぞれ以下のような防災対策を講じている。噴火及びそ
れに伴う災害に対しては、気象庁をはじめとする研究・防災機関
が常時観測を行うと同時に、国の富士山ハザードマップ検討委員
会報告書(2004年)に基づき県及び市町村において火山防災
計画(ハザードマップ・避難計画)などを策定している。雪崩に
ついては、吉田口登山道では馬返より上の登山道に浸透桝を設け
、雨水や雪崩による崩壊を防いでいる。土砂

れており、現時点における保全状態は良好である。(A7〜9)西湖・精進湖・本
栖湖すべての湖とも現時点における保全状態は良好である。中でも本栖湖は、訪問
者の体験を損ねないように、展望地点から富士山を見た展望線と展望地点区域の周
辺環境の維持に配慮した良好な保存管理が行われており、現時点における保全状態
は特に良好である。(B1)富士山本宮浅間大社定期的な維持修理が行われており
、現時点における保全状態は良好である。湧玉池は全般的には良好な状態であるが
、二つの池のうち「上池」では、湧水量が減少し、藻類が繁殖しているため、「湧
玉池保全再生会議」が設置され、対策が検討されている。(B2)山宮浅間神社現
時点における保全状態は良好である。(B3)村山浅間神社現時点における保全状
態は良好である。(B4)須山浅間神社現時点における保全状態は良好である。(
B5)富士浅間神社(須走浅間神社)現時点における保全状態は良好である。(B
6)河口浅間神社現時点における保全状態は良好である。47(B7)冨士御室浅
間神社現時点における保全状態は良好である。ただし、漆塗装の磨耗退色が著しい
部分がある。また、本宮本殿の脇障子版は富士山二合目所在時に毀損にあっており
、今後、修復・修繕の検討が予想される。(B8)御師住宅旧外川家住宅は200
6−2007年に大規模な修繕工事を行ったため、現時点における保全状態は良好
である。小佐野家住宅は、所有者らによって日常的な維持管理が行われているほか
、補助事業などによって文化財としての保護に必要な修繕や設備の整備が進められ
てきた。(B9〜10)山中湖、河口湖どちらの湖とも現時点における保全状態は
良好である。(B11)忍野八海天然記念物として指定されている範囲は水面に限
られており、私有地が隣接しているため、周辺環境を含めた保全状態に課題がある
。しかし、忍野村が景観計画を策定し、周辺環境を含めた保全を行っている。(B
12)船津胎内樹型現時点における保全状態は良好である。(B13)吉田胎内樹
型内部の溶岩の盗掘や人の侵入による破壊を防ぐために本

大沢崩れ)については国が中心となり、源頭部における水分と土
砂の分離、山麓における土石流災害防止を目的とした遊砂地の設
置などを行っている。また、登山道を管理する県では導流堤を設
置し、落石の落下先をコントロールしている。これらの災害は発
生自体を防止することは困難であるため、その被害を最小限にと
どめることを対策の骨子としている。50地

り、現時点における保全状態は良好である。(B14)人穴富士講遺跡碑塔群はお
おむね良好な状態であるが、一部の碑塔に修理が必要である。(B15)白糸ノ滝
現状では滝壺周辺に売店があるなど景観面において課題がある。このため、富士宮
市が中心となり保存管理計画の改訂および整備計画の策定を行い、今後適切な整備
がなされる予定である。滝の自然崩壊については特に対策は採られていない。(C
)三保松原現状では1960〜80年代に進行した海岸浸食の影響からの回復を図
るため、資産内及び周辺にヘッドランドなどが仮設され、景観に影響を与えている
。また、松原においてもマツクイムシ(マツノザイセンチュウ)による松枯れがみ
られるため、薬剤注入・散布による予防措置及び植林、枯れた松の除去が実施され
ている。現在これらの対策により、資産の現状を保ち、将来においてはより良好な
保全状態となることは確実である。なお、三保松原の象徴的存在である羽衣の松は
1707年の宝永噴火とその前後の地震により初代とされる松が失われたため、現
在の松(樹齢約650年)を指定した。しかし、この松も台風による幹の損傷で樹
勢が衰え、2010年10月にその交代が行われる(三代目は樹齢約300〜40
0年と推定されている)。また、現在静岡市が保存管理計画の改訂を行っている。
なお、資産範囲・緩衝地帯範囲には含まれないが、三保松原の富士山方向の対岸に
当たる富士市の工業地帯においては、現在使用していない高煙突の撤去が静岡県の
政策(富士地域煙突ゼロ作戦)として実施されている。48b)資産に与える影響
の要因1)開発の圧力資産及びその緩衝地帯において、建築物又は工作物の建設、
土地の形質変更、木竹の伐採等の等の行為を行う場合には、文化財保護法、自然公
園法、都市計画法、森林法、河川法、海岸法及び関係市町村が定める条例(景観法
に基づき策定された景観条例等)の下に、それらの規模、形態・構造に関する規制
(建築物又は工作物に関しては、それらの高さ・色彩・意匠等の規制を含む)が行
われるため、資産の価値を著しく低下させるような開発は

ては、大規模地震対策特別措置法(1978年)に基づき、予知
を目的とした観測体制、予知を前提とした非難・警戒体制、防災
施設整備が行われるとともに、東海地震対策大綱(2003)に
基づき国・県・市町村の防災計画が策定されている。また、今後
各神社等の耐震化が行われる計画となっている。台風は1996
年9月に富士山南側の人工林地区(ヒノキ)に風倒の被害(標高
1100〜1200m中心、計1125ha、富士山では約93
5haうち国有林620ha)をもたらしたことがあるため、1
997年より静岡県が中心となり、被害地に対して自生種(ブナ
・ミズナラ)の植栽(のべ22・68ha)を実施している。ま
た、風倒による被害を防ぐため人工林における下刈を実施してい
る。大雨・洪水に関しては堤防・遊水地・砂防堰堤の建設や河川
の改修などにより、大雨時の洪水に対する防止策を講じている。
山火事に対しては、国、県、市町村の連絡・協力体制を確立し、
草原地帯においては防火帯を設け、大規模な火災に対して最大限
の対応を可能としている。建造物の火災に対しては自動火災報知
設備・ドレンチャー設備・消火栓、放水銃などを設置しているほ
か、自主防火組織も整備するなど、万全を期しているので問題な
い。万一、上記の災害が発生した場合においても、速やかに現状
復旧の対策を講じるための制度及び体制を完備しており、資産の
価値が減じることはない。三保松原においては、高潮対策事業と
して安倍川(土砂供給源)下流部での砂利採取を1968年より
海岸浸食の原因の一因と考え禁止するとともに、1989年より
34年計画(2034年まで)でヘッドランド・離岸堤の設置や
養浜による海岸保全対策を行い、現在、海岸と平行した方向に年
250mの割合で砂浜の回復が進行している。現在ヘッドランド
の一部が景観に影響を与えているが、砂浜の回復後に撤去する計
画が進んでいる。登山者の安全に関しては、気候の急変に備え、
「富士山登山指導センター(山頂と富士宮口新五合目)」、「富
士山安全指導センター(吉田口六合目)」と「富士山衛生センタ
ー(富士宮口八合目)」が設けられている。また、富士宮口のす
べて、吉田口七合目以上のほとんどの山小屋

界遺産両県協議会」(設置予定・仮称)では、両県の知事・市町村長を中心に、許
認可・保存に関わる国機関も加わり、開発の状況を把握し、コントロールのあり方
について検討を行う予定である。開発計画のうち、現在北麓(山梨県)においては
都市計画区域用途地域または都市計画区域外では5ha以上、都市計画内(用途地
域外)では10ha以上の計画については、山梨県内の組織である「山梨県土地利
用調整会議」に事前協議書が提出され、知事の同意が必要

れている。(御殿場口はなし、須走口は1軒・東富士山荘)4)
来訪者及び観光の圧力富士山の構成資産のうち私有財産である小
佐野家住宅(御師住宅)を除いた資産はすべて公開されている。
ただし山体資産範囲については登山道及び山頂部以外は土地所有
者(国、県、富士山本宮浅間大社)の了解が必要であり、安全上
の観点からも県が登山道からの逸脱を好ましくない行為として事
実上立入を制限している。山体以外の資産については、き損・悪
戯・盗難等の被害から建造物等の構成資産を護るために、防犯警
備施設を設置するとともに巡視及び監視の体制を整備し(山宮・
村山・人穴等では防犯システムは採用されていない)、来訪者に
よるゴミの増加等に対しても地域住民や関係市町村が適切な管理
を行っていることから、観光による圧力が資産の価値を著しく低
下させるようなことは起こり得ない。山体に関しては、観光客に
よるごみ及びし尿、並びに自動車で訪れる来訪者(富士山スカイ
ラインでは4月〜11月の合計で年平均127,000台・19
99〜2009年、富士スバルラインで年平均410,000台
・2006〜2008年)による環境への負荷及び混雑の軽減を
目的に以下の対策を行った。ごみに関しては国・県及びNPO法
人(富士山ネットワーク・富士山クラブ)、ボランティアによ5
1る清掃作業が活発に実施されるとともに(平成20年実績・9
2回、約64t、延べ参加人数約7000名)、外国人も含め登
山者に対してマナー向上を呼びかけ、登山道周辺のごみは減少し
ている。山頂部で発生するごみについては山小屋組合(富士山吉
田口旅館組合等)により、山麓に搬出し、適切に管理・処理され
ている。し尿対策に関しては登山道及び山小屋のトイレ48箇所
を2006年までにバイオ処理式等に改良し、環境への負荷を軽
減した。さらに、登山者の増加や設備の老朽化に対応するため、
環境配慮型トイレ適正管理委員会を設けて対策を検討しており、
今後は業者と連携を密にしてメンテナンスをきちんとしていくこ
とが確認された。自動車に関しては、土日・休日を中心に各登山
道の利用者数に応じて自家用車の利用を規制し(利用者の多い富
士スバルラインで最大12日間、利用者の少

を得た後で、個別法令の許認可を担当する部署での手続きを行うことになっており
、一元化した組織かつ統一した基準での開発のコントロールが行われている。こう
した大規模開発を含む緩衝地帯内で行われる一定規模以上の開発行為については、
「富士山世界遺産両県協議会」へ報告がなされ、必要に応じて個別法令の許認可を
担当する部署に対して助言等がなされる予定である。また、各市町村の景観計画の
下に、各市町村は景観阻害要因の排除に努めることとしているほか、世界遺産暫定
一覧表に記載され、世界遺産一覧表への記載の可能性のある文化資産に相応しい周
辺市街地を創出するために適切な景観の保全・改善の施策を実施することとしてい
る。なお、次に掲げる開発計画等の立案に当たっては、いずれにおいても資産への
影響を最小限に留めるよう関係機関・団体と調整を行うことし、実施する場合にも
事前に十分な協議を行うこととしている。(1)観光開発(ホテル・ゴルフ場・ス
キー場)緩衝地帯に位置するホテル等については、自然公園法に基づき、高さ・色
彩・意匠等の規制が行われており、既存施設の改築についても同様である。特に山
体の五合目以上、本栖湖からの展望線の核心部は自然公園法の特別保護地区、第1
種特別地域となっており、新規の構造物の建築は禁止されている。また、富士山北
麓(山梨県)では新規の10ha以上のゴルフ場開発については凍結されている。
(2)廃棄物処分場又は清掃工場現時点で計画なし。(※演習場内の解放地に御殿
場市・小山町広域行政組合によるゴミ処理施設の計画あり。)(3)工場又は工業
団地現時点で計画なし。(北口本宮冨士浅間神社の南600mの地域に、工場進出
の計画あり。)(4)道路整備緩衝地帯においては、北口本宮冨士浅間神社と御師
住宅との間を走る国道138号の拡幅が計画されている。当該道路計画においては
、市、県、国等の関係機関と有識者からなる「富士北麓地域交通円滑化対策検討会
」において、計画案の検討を行うなど、当該神社の社叢や周囲の景観に調和した道
路の意匠・構造とすることとしており、当該資産の価値の

)、山麓の臨時駐車場と五合目駐車場間のシャトルバスによる輸
送を行っている。吉田口においては2011年夏には富士吉田I
C付近に1400台の駐車場を整備し、自家用車の利用規制を1
5日に拡大する予定である。5)資産と緩衝地帯の居住者人口構
成資産内人口:人緩衝地帯内人口:人合計:人集計年:2010
年No.構成資産の名称構成資産範囲内人口(人)緩衝地帯内人
口(人)合計(人)富士山A1山頂信仰遺跡A2大宮・村山口登
山道A3須山口登山道A4須走口登山道A5吉田口登山道A6北
口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖AA9本栖湖B1富士山
本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村山浅間神社B4須山浅間神
社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)B6河口浅間神社B7冨士
御室浅間神社B8御師住宅52B9山中湖B10河口湖B11忍
野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴冨士講
遺跡B15白糸ノ滝C三保松原535.資産の保護の管理a)所
有関係各構成資産の所在地及び所有者については、以下に記すと
おりである。b)法に基づく指定保護資産を構成する重要文化財
に指定された「記念工作物」「建造物群」、史跡、特別名勝又は
名勝、54特別天然記念物又は天然記念物に指定された「遺跡」
は、古社寺保存法(1897年制定)、史蹟名勝天然紀念物保存
法(1919年制定)、国宝保存法(1929年制定)などの下
に適切な保護が行われてきた。また、1950年には、それらの
諸法を統合・改革して文化財保護法が制定され、それ以後、現在
に至るまで、個々の構成資産はこの法律の下に万全の保護措置が
講じられてきた。富士山の山体及び北側の構成資産の範囲におい
ては、さらに国立公園法(1936年制定)、それを改定した自
然公園法(1957年制定)により、その優れた自然の風景地が
保護されてきた。17個の構成資産の指定保護の状況については
、以下に示すとおりである。(A)富士山1936年2月1日:
富士箱根国立公園の指定(1952年10月7日:名勝富士山の
指定1952年11月22日:特別名勝富士山の指定1966年
10月6日:特別名勝富士山の指定地域の変更(A1)山頂信仰
遺跡(特別名勝範囲内・Aに同じ)史跡富士

県道山中湖忍野富士吉田線の新倉トンネルは、河口湖畔と富士吉田市中心部をトン
ネルで結ぶ計画である。河口湖湖畔の渋滞解消、火山防災のバイパスとすることを
目的としており、当該資産の価値の保護に影響はない。また、道路改良事業として
、線形改良、歩道設置など来訪者の安全性向上を図ることを目的とした事業が行わ
れ、景観に配慮した内容とするよう調整している。2)環境の圧力資産の価値を著
しく低下させるような自然的環境の変化として、山体の形状を変化させる噴火及び
それに伴う噴石、火砕流・火砕サージ、溶岩流、融雪型火山泥流、降灰、降灰後の
降雨による土石流などによる登山道及び周辺の資産の損傷が予測される。「大沢崩
れ」が約1000年前より始まり、現在その幅は年1.6mの割合で拡大している
(富士砂防・S45〜H20の38年間で約60m・3400メートル地点・52
3万?・年13.8?の土砂が流出)。ただし、噴火・地震等がなければ少なくと
も200年後までは富士山の景観に大きな変化はないと予測されている(「富士火
山」P407〜)。酸性雨を含む大気汚染が引き起こす被害については、現段階で
は確認されていない。白糸ノ滝では、滝自体の浸食により年2cmの割合で後退し
ており、10年程度の間隔で自然崩壊が発生する。砂嘴である三保松原では20世
紀後半に土砂供給源の川での土砂採取が活発になり、堆積活動が減少したことで海
流による海岸浸食が進んでいたが、現在は土砂採取の禁止等により、堆積活動が回
復している。また、三保松原における松にはマツクイムシ(マツノザイセンチュウ
)による被害が見られる。これに対しては、薬剤注入・散布による予防措置及び植
林、枯れた松の除去を資産の所在する静岡市とNPO法人が行っており、被害の拡
大を防止している。3)自然災害と危機管理資産の所在地域における自然災害とし
ては、第一に富士山特有のものとして山体及び側火山からの噴火及びそれに伴う噴
石、火砕流・火砕サージ、溶岩流、融雪型火山泥流、降灰、降灰後の降雨による土
石流などが予想されるとともに、数年単位で発生する山体

)大宮・村山口登山道史跡富士山の指定予定(A3)須山口登山
道(一部のみ特別名勝範囲外・範囲内はAに同じ)史跡富士山の
指定予定(A4)須走口登山道史跡富士山の指定予定(A5)吉
田口登山道(特別名勝範囲内・Aに同じ)史跡富士山の指定予定
(A6)北口本宮冨士浅間神社1907年8月28日:特別保護
建造物(富士嶽神社境内東宮本殿)の指定1953年3月31日
:重要文化財北口本宮冨士浅間神社本殿の指定1953年3月3
1日:重要文化財北口本宮冨士浅間神社西宮

の水分を含んだ雪が流動する雪泥流)や大沢崩れ及びそれに伴う土石流、強風、雨
水による浸食などが考えられる。また、富士山を含む駿河湾沿いの地域はM8クラ
スの海洋プレート内地震の発生が予測されている。第二に日本列島の太平洋側にお
ける一般的自然災害である台風・大雨・洪水並びに火災等が予測されている。第三
に三保松原に関しては海岸浸食に伴う高潮などの被害がある。これらについてそれ
ぞれ以下のような防災対策を講じている。噴火及びそれに伴う災害に対しては、気
象庁をはじめとする研究・防災機関が常時観測を行うと同時に、国の富士山ハザー
ドマップ検討委員会報告書(2004年)に基づき県及び市町村において火山防災
計画(ハザードマップ・避難計画)などを策定している。雪崩については、吉田口
登山道では馬返より上の登山道に浸透桝を設け、雨水や雪崩による崩壊を防いでい
る。土砂崩れ・土石流(主に大沢崩れ)については国が中心となり、源頭部におけ
る水分と土砂の分離、山麓における土石流災害防止を目的とした遊砂地の設置など
を行っている。また、登山道を管理する県では導流堤を設置し、落石の落下先をコ
ントロールしている。これらの災害は発生自体を防止することは困難であるため、
その被害を最小限にとどめることを対策の骨子としている。50地震に関する対策
としては、大規模地震対策特別措置法(1978年)に基づき、予知を目的とした
観測体制、予知を前提とした非難・警戒体制、防災施設整備が行われるとともに、
東海地震対策大綱(2003)に基づき国・県・市町村の防災計画が策定されてい
る。また、今後各神社等の耐震化が行われる計画となっている。台風は1996年
9月に富士山南側の人工林地区(ヒノキ)に風倒の被害(標高1100〜1200
m中心、計1125ha、富士山では約935haうち国有林620ha)をもた
らしたことがあるため、1997年より静岡県が中心となり、被害地に対して自生
種(ブナ・ミズナラ)の植栽(のべ22・68ha)を実施している。また、風倒
による被害を防ぐため人工林における下刈を実施している

山の指定予定(A7)西湖1936年2月1日:富士箱根国立公
園の指定(名勝富士五湖の指定予定55(A8)精進湖1936
年2月1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富士五湖の指定予定
(A9)本栖湖※本栖湖からの展望面含む1926年2月24日
:天然紀念物富士山原始林の指定1936年2月1日:富士箱根
国立公園の指定(2010年3月8日:天然記念物富士山原始林
及び青木ヶ原樹海の指定名勝富士五湖の指定予定(B1)富士山
本宮浅間大社1907年5月27日:特別保護建造物浅間神社本
殿の指定1944年11月7日:天然紀念物湧玉池の指定195
2年3月29日:特別天然記念物湧玉池の指定史跡富士山の指定
予定(B2)山宮浅間神社史跡富士山の指定予定(B3)村山浅
間神社史跡富士山の指定予定(B4)須山浅間神社史跡富士山の
指定予定(B5)冨士浅間神社(須走浅間神社)史跡富士山の指
定予定(B6)河口浅間神社史跡富士山の指定予定(B7)冨士
御室浅間神社1985年5月18日:重要文化財冨士御室浅間神
社本殿の指定史跡富士山の指定予定(B8)御師住宅1976年
5月20日:重要文化財小佐野家住宅の指定重要文化財旧外川家
住宅の指定予定(B9)山中湖561936年2月1日:富士箱
根国立公園の指定(名勝富士五湖の指定予定(B10)河口湖1
936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富士五湖の指
定予定(B11)忍野八海1934年5月1日:天然紀念物忍野
八海の指定(B12)船津胎内樹型1929年12月17日:天
然紀念物船津胎内樹型の指定(B13)吉田胎内樹型1929年
12月17日:天然紀念物吉田胎内樹型の指定(B14)人穴富
士講遺跡史跡富士山の指定予定(B15)白糸ノ滝1936年2
月1日:富士箱根国立公園の指定(1936年3月6日:名勝及
天然紀念物白糸ノ滝の指定(C)三保松原1922年3月8日名
勝三保松原の指定1977年4月1日名勝三保松原の一部指定解
除1990年3月29日名勝三保松原の追加指定及び一部指定解
除c)保護の実施手段1)資産各構成資産については、遺跡、記
念工作物、建築物群のみならず、それらと密接な関連を持つ展望
線など、富士山の本質的価値を構成する諸要

堤防・遊水地・砂防堰堤の建設や河川の改修などにより、大雨時の洪水に対する防
止策を講じている。山火事に対しては、国、県、市町村の連絡・協力体制を確立し
、草原地帯においては防火帯を設け、大規模な火災に対して最大限の対応を可能と
している。建造物の火災に対しては自動火災報知設備・ドレンチャー設備・消火栓
、放水銃などを設置しているほか、自主防火組織も整備するなど、万全を期してい
るので問題ない。万一、上記の災害が発生した場合におい

把握し、それらをすべて含む範囲について、価値の中核をなす部
分は文化財保護法の下に指定(特別名勝又は名勝、特別天然記念
物又は天然記念物、重要文化財、史跡)され、また、価値の中核
をなす部分を取り囲む地域の大部分は自然公園法の下に国立公園
(国立公園、県立自然公園)に指定している。これら範囲のうち
、富士山の顕著な普遍的価値を証明するために必要不可欠な範囲
を資産範囲とした。これらの範囲の大部分においては、国の許可
無くそれらの現状を変更することはできない。文化財保護法、自
然公園法の及ばない地域は国有林であり、開発行為が行われるこ
とはない。また、森林法に基づき森林の伐採に関しても適切な管
理が行われている。文化財保護法の定めるところにより、特別名
勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物、重57要文化財、
史跡の保存管理・修理・公開については、所有者又は管理団体が
適切に行うことを原則としている(法第31条・第32条の2、
第113条・第115条・第119条)。また、自然公園法が定
めるところにより、国立公園の管理と保護については、国又は管
理団体が適切に行うことを原則としている(法第9条、第37条
、第38条、第39条)。重要文化財に指定されている建造物の
修理に関して、部材の痕跡調査などから判明した原型への復元な
どの現状変更等を行おうとするときや、特別名勝又は名勝、特別
天然記念物又は天然記念物、史跡の指定地内において現状変更等
を行おうとするときは、あらかじめ文化庁長官の許可を得なけれ
ばならない(法第43条・第125条)。文化庁長官は国が設置
し、イコモス国内委員会委員を多数含む文化審議会文化財分科会
に対して当該現状変更等に関する諮問を行い、その答申を経て許
可することとしている。したがって、資産の現状を変更する場合
には、学術的かつ厳密な審査に基づく許可を必要としている。ま
た、国立公園(特別保護地区及び特別地域)の現状変更について
は、あらかじめ環境大臣の許可を得なければならない(法第13
条、第14条)。特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記
念物、重要文化財、史跡の管理と修理に対しては、必要に応じて
国が経費を補助し、技術的指導を行うことと

の対策を講じるための制度及び体制を完備しており、資産の価値が減じることはな
い。三保松原においては、高潮対策事業として安倍川(土砂供給源)下流部での砂
利採取を1968年より海岸浸食の原因の一因と考え禁止するとともに、1989
年より34年計画(2034年まで)でヘッドランド・離岸堤の設置や養浜による
海岸保全対策を行い、現在、海岸と平行した方向に年250mの割合で砂浜の回復
が進行している。現在ヘッドランドの一部が景観に影響を与えているが、砂浜の回
復後に撤去する計画が進んでいる。登山者の安全に関しては、気候の急変に備え、
「富士山登山指導センター(山頂と富士宮口新五合目)」、「富士山安全指導セン
ター(吉田口六合目)」と「富士山衛生センター(富士宮口八合目)」が設けられ
ている。また、富士宮口のすべて、吉田口七合目以上のほとんどの山小屋にはAE
Dが設置されている。(御殿場口はなし、須走口は1軒・東富士山荘)4)来訪者
及び観光の圧力富士山の構成資産のうち私有財産である小佐野家住宅(御師住宅)
を除いた資産はすべて公開されている。ただし山体資産範囲については登山道及び
山頂部以外は土地所有者(国、県、富士山本宮浅間大社)の了解が必要であり、安
全上の観点からも県が登山道からの逸脱を好ましくない行為として事実上立入を制
限している。山体以外の資産については、き損・悪戯・盗難等の被害から建造物等
の構成資産を護るために、防犯警備施設を設置するとともに巡視及び監視の体制を
整備し(山宮・村山・人穴等では防犯システムは採用されていない)、来訪者によ
るゴミの増加等に対しても地域住民や関係市町村が適切な管理を行っていることか
ら、観光による圧力が資産の価値を著しく低下させるようなことは起こり得ない。
山体に関しては、観光客によるごみ及びし尿、並びに自動車で訪れる来訪者(富士
山スカイラインでは4月〜11月の合計で年平均127,000台・1999〜2
009年、富士スバルラインで年平均410,000台・2006〜2008年)
による環境への負荷及び混雑の軽減を目的に以下の対策を

条・第47条・第118条)。国立公園の管理と保護は国が費用
を負担する(法43条)。また、管理団体が管理と保護を行う場
合、国が必要な情報の提供又は指導・助言を行う(法42条)。
資産範囲の国有林については森林施業計画により皆伐は年5ha
にとどめるなど景観への影響を最小限に留めるよう適切に保護・
管理されている。加えて国有林の大部分である保安林は指定施行
要件(保安林の種別ごとに異なる。)に合致しない伐採等には都
道府県知事の許可が必要である(法34条)。2)緩衝地帯緩衝
地帯の全域においては、文化財保護法、自然公園法、景観法(そ
れに基づく景観条例及び景観計画)、森林法、砂防法、海岸法、
又は関係各県・市町村が定める条例等の下に資産の周辺環境につ
いて万全な保全措置が講じられている。緩衝地帯の範囲について
は、資産から眺望できる山の稜線のほか、法律・条例等に基づく
境界、地籍境界、行政界、道路等の明確な境界などを考慮しつつ
、資産の保護に必要不可欠な範囲を定めた。山体の緩衝地帯につ
いては富士山を周辺ないし構成資産から展望した際、資産範囲を
含め良好な景観を形成する範囲を基準としている。この範囲の中
には演習場を挟んで、三保松原以外のすべての構成資産が含まれ
る。緩衝地帯において行われる建築物及び工作物の新築・増築・
改築、土地の形質変更等に係る行為、木竹の伐採については、許
可制や届出制に基づく規制を設けており、これらの行為に関する
重要な事項については、特に関係各市町村の景観審議会等による
調査、審議に基づき、関係市町村が事前に適切な指導や助言を行
うこととしている。なお、緩衝地帯設定の考え方や、行為規制等
の詳細については、本推薦書の付属資料及び別添参考資料を参照
されたい。緩衝地帯は大きく3つの方法により保護措置が講じら
れている。一番目は自然公園法(山梨県のほぼ全域)、二番目は
景観法に基づく各市町村の景観条例及び景観計画(静岡県富士市
・富士宮市ほ58か)、三番目が各市町村独自の景観条例や土地
利用事業指導要綱(山梨県富士吉田市の一部・静岡県裾野市・御
殿場市・小山町)である。三番目の地域に関しては将来的に二番
目の保護措置に移行する予定である。なお、

国・県及びNPO法人(富士山ネットワーク・富士山クラブ)、ボランティアによ
51る清掃作業が活発に実施されるとともに(平成20年実績・92回、約64t
、延べ参加人数約7000名)、外国人も含め登山者に対してマナー向上を呼びか
け、登山道周辺のごみは減少している。山頂部で発生するごみについては山小屋組
合(富士山吉田口旅館組合等)により、山麓に搬出し、適切に管理・処理されてい
る。し尿対策に関しては登山道及び山小屋のトイレ48箇所を2006年までにバ
イオ処理式等に改良し、環境への負荷を軽減した。さらに、登山者の増加や設備の
老朽化に対応するため、環境配慮型トイレ適正管理委員会を設けて対策を検討して
おり、今後は業者と連携を密にしてメンテナンスをきちんとしていくことが確認さ
れた。自動車に関しては、土日・休日を中心に各登山道の利用者数に応じて自家用
車の利用を規制し(利用者の多い富士スバルラインで最大12日間、利用者の少な
い御殿場口はなし)、山麓の臨時駐車場と五合目駐車場間のシャトルバスによる輸
送を行っている。吉田口においては2011年夏には富士吉田IC付近に1400
台の駐車場を整備し、自家用車の利用規制を15日に拡大する予定である。5)資
産と緩衝地帯の居住者人口構成資産内人口:人緩衝地帯内人口:人合計:人集計年
:2010年No.構成資産の名称構成資産範囲内人口(人)緩衝地帯内人口(人
)合計(人)富士山A1山頂信仰遺跡A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A
4須走口登山道A5吉田口登山道A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A
A9本栖湖B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村山浅間神社B4須山浅
間神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)B6河口浅間神社B7冨士御室浅間神社
B8御師住宅52B9山中湖B10河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型B1
3吉田胎内樹型B14人穴冨士講遺跡B15白糸ノ滝C三保松原535.資産の保
護の管理a)所有関係各構成資産の所在地及び所有者については、以下に記すとお
りである。b)法に基づく指定保護資産を構成する重要文

かの資産においては、資産範囲が文化財としての登録範囲よりも
狭く設定されているため、緩衝地帯の一部は文化財保護法により
保護されている。これらの地域では適用する法令等に違いはある
が、緩衝地帯において行われる建築物・工作物の新築、増築、改
築、土地の形質変更等に係る行為については、許可制ないし承認
制・届出制に基づく規制が定められ、資産の

工作物」「建造物群」、史跡、特別名勝又は名勝、54特別天然記念物又は天然記
念物に指定された「遺跡」は、古社寺保存法(1897年制定)、史蹟名勝天然紀
念物保存法(1919年制定)、国宝保存法(1929年制定)などの下に適切な
保護が行われてきた。また、1950年には、それらの諸法を統合・改革して文化
財保護法が制定され、それ以後、現在に至るまで、個々の構成資産はこの法律の下
に万全の保護措置が講じられてきた。富士山の山体及び北側の構成資産の範囲にお
いては、さらに国立公園法(1936年制定)、それを改定した自然公園法(19
57年制定)により、その優れた自然の風景地が保護されてきた。17個の構成資
産の指定保護の状況については、以下に示すとおりである。(A)富士山1936
年2月1日:富士箱根国立公園の指定(1952年10月7日:名勝富士山の指定
1952年11月22日:特別名勝富士山の指定1966年10月6日:特別名勝
富士山の指定地域の変更(A1)山頂信仰遺跡(特別名勝範囲内・Aに同じ)史跡
富士山の指定予定(A2)大宮・村山口登山道史跡富士山の指定予定(A3)須山
口登山道(一部のみ特別名勝範囲外・範囲内はAに同じ)史跡富士山の指定予定(
A4)須走口登山道史跡富士山の指定予定(A5)吉田口登山道(特別名勝範囲内
・Aに同じ)史跡富士山の指定予定(A6)北口本宮冨士浅間神社1907年8月
28日:特別保護建造物(富士嶽神社境内東宮本殿)の指定1953年3月31日
:重要文化財北口本宮冨士浅間神社本殿の指定1953年3月31日:重要文化財
北口本宮冨士浅間神社西宮本殿の指定史跡富士山の指定予定(A7)西湖1936
年2月1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富士五湖の指定予定55(A8)精進
湖1936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富士五湖の指定予定(A9
)本栖湖※本栖湖からの展望面含む1926年2月24日:天然紀念物富士山原始
林の指定1936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(2010年3月8日:天
然記念物富士山原始林及び青木ヶ原樹海の指定名勝富士五

護措置が講じられている。緩衝地帯に適用される諸法令等の概略
法令名対象地区規制内容許認可文化財保護法三保松原(一部)現
状変更文化庁長官の許可自然公園法(国立公園)山体・静岡県・
山梨県工作物の新築等、ごみ捨て又は放置、木竹の採取、土石の
採取、車馬の乗り入れ等環境大臣の許可(特別地域)、届出(普
通地域)自然公園法(県立自然公園)県立自然公園条例三保松原
(一部)工作物の新築等、ごみ捨て又は放置、木竹の採取、土石
の採取、車馬の乗り入れ等県知事の許可(特別地域)、命令景観
条例及び景観計画(景観法に基づく)富士市・富士宮市静岡市・
忍野村・山中湖村・富士河口湖町建築物の新築等、工作物の新設
等、開発行為、土石の採取・堆積等(高さ・色彩・形状を規制)
市町村長への届出勧告、指導・要請(問題があった場合)景観条
例(自主条例)富士吉田市建築の新築等市長への届出勧告、助言
・指導土地利用事業指導要綱裾野市・御殿場市・小山町土地利用
事業市長・町長の承認森林法(保安林指定施業用件)保安林(土
砂流出防備保安林)(保健保安林)(水源涵養保安林)立木の伐
採(原則択抜※水源涵養保安林除く)県知事の許可砂防法(静岡
県砂防指定地管理条例)砂防指定地(富士宮市等)施設又は工作
物の新築等、竹木の伐採等、土地の形状変更、土石の採取・集積
又は投棄等県知事の許可海岸法三保松原(海岸の水際線から50
mの範囲)土石の採取、施設等の新設、土地の掘削等海岸管理者
(静岡県河川砂防管理室)の許可県有林管理計画山梨県県有林な
し(水土保全林)(森林と人との共生林)立木の伐採皆伐〜禁伐
59(資源の循環利用林)なお、緩衝地帯の外側に広がる市街地
のうち富士山の主要な眺望(北側では河口湖・山中湖北部から眺
望した富士山、南側では三保松原から眺望した富士山)に若干の
影響を及ぼす範囲については、日本政府が自主的に保護する範囲
として「保全管理区域」を設定している。F資産に影響する可能
性がある個別の開発計画企業立地促進法に基づく静岡県東部地域
基本計画(静岡県及び14市町)2009年2月策定市町村森林
整備計画(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市・小山町)20
06年4月策定e)資産の保存管理計画又は

215底名無し沼さん (エムゾネ FF42-OEwq [49.106.193.174])2017/12/14(木) 09:27:30.32ID:fAysbmxxF
 


■ 埋め立て荒らしの状況


・Tnx6epSX0(回線1)
http://hissi.org/read.php/out/20171213/VG54NmVwU1gw.html
 (ワッチョイ 9b0c-oF0E [175.177.5.17])
  Tnx6epSXは富士山スレでも連投
  ↑
・Tnx6epSX(回線1)
http://hissi.org/read.php/out/20171213/VG54NmVwU1g.html
 12/13(水) 15:55〜 78レス


・qQ7C0sQZa(回線2)
http://hissi.org/read.php/out/20171213/cVE3QzBzUVph.html
 (アウアウカー Sa11-cUpN [182.251.242.15])
 12/13(水) 23:30〜 5レス
  ↓
・koSDLj0ha(回線2)
http://hissi.org/read.php/out/20171214/a29TRExqMGhh.html
 (アウアウカー Sa27-A0Ho [182.251.242.15])
 12/14(木) 00:01〜 11レス
  ↓
・9gdrDp+Da(回線2)
http://hissi.org/read.php/out/20171214/OWdkckRwK0Rh.html
 (アウアウカー Sa27-A0Ho [182.251.242.7])
 12/14(木) 04:05〜 現在継続中

・vbny93KSa(回線3)
http://hissi.org/read.php/out/20171213/dmJueTkzS1Nh.html
 (アウアウウー Sa89-HfL4 [106.133.56.192])
 12/13(水) 23:31〜 5レス
  ↓
・FdgDSmA3a(回線3)
http://hissi.org/read.php/out/20171214/RmRnRFNtQTNh.html
 (アウアウウー Sa1b-006q [106.133.56.192])
 12/14(木) 00:01:51〜01:09 12レス
  ↓
・RcU6+V3Ha(回線3)
http://hissi.org/read.php/out/20171214/UmNVNitWM0hh.html
 (アウアウウー Sa1b-006q [106.133.56.163])
 12/14(木) 01:21〜 現在継続中


 

216底名無し沼さん (エムゾネ FF42-OEwq [49.106.193.174])2017/12/14(木) 09:28:35.91ID:fAysbmxxF
 
 

【175.177.5.17】

'175.177.0.0 - 175.177.255.255'に関連する情報 '175.177.0.0 - 175.177.255.255' 

に対する不正行為の連絡先は'hostmaster@nic.ad.jp です

inetnum:175.177.0.0 - 175.177.255.255 netname 
:iTSCOM 
descr:その通信会社
descr:541-1 Ichigao-tyou Aoba-ku横浜神奈川225-0024日
本国:JP 
admin-c:JNIC1-AP 
tech-c: JNIC1-AP
ステータス:ALLOCATED PORTABLE 
発言:スパムや虐待の苦情のための電子メールアドレス:abuse@itscom.jp 
MNT-IRT:IRT-JPNIC-JP 
MNT-によって:MAINT-JPNIC 
MNT-下:MAINT-JPNIC 
最終更新:2011-02- 17T08:16:02Z 


 

士山本宮浅間大社1907年5月27日:特別保護建造物浅間神社本殿の指定19
44年11月7日:天然紀念物湧玉池の指定1952年3月29日:特別天然記念
物湧玉池の指定史跡富士山の指定予定(B2)山宮浅間神社史跡富士山の指定予定
(B3)村山浅間神社史跡富士山の指定予定(B4)須山浅間神社史跡富士山の指
定予定(B5)冨士浅間神社(須走浅間神社)史跡富士山の指定予定(B6)河口
浅間神社史跡富士山の指定予定(B7)冨士御室浅間神社

制構成資産のうち、史跡又は特別名勝・名勝、特別天然記念物・
天然記念物に指定されている土地及びその範囲に立つ建造物(重
要文化財含む)については、1919年に制定された史蹟名勝天
然紀念物保存法及び1950年以降においては文化財保護法に基
づく段階的な指定により保護措置がとられ、史跡等の管理団体で
ある各市町村と静岡県・山梨県が個別に保存管理計画を策定して
適正な保存管理に当たっている。さらに、2011年には、資産
を構成する重要文化財、史跡、特別名勝又は名勝、特別天然記念
物又は天然記念物について、静岡県・山梨県が文化庁、所有者で
ある宗教法人・個人、史跡等の管理団体である各市町村との調整
の下に構成資産の全体を対象とする包括的保存管理計画を策定し
、保存管理全体の整合を図る予定である。上記した各構成資産の
保存管理計画の概要と資産全体を対象とする包括的保存管理計画
の全文については、本推薦書付属資料−として添付している。1
)保存管理計画各構成資産の保存計画の策定状況については、本
推薦書の7.資料、e)参考文献、3)保存管理計画書に示すと
おりである。特に静岡県・山梨県教育委員会は、文化庁及び関係
各市町村の教育委員会との十分な調整の下に『世界遺産富士山包
括的保存管理計画』を策定し、資産の全体を視野に入れた総括的
な保存管理を行う予定である。包括的保存管理計画に定める基本
方針は、次の5点である(別添参考資料)。(1)構成資産の適
切な保存管理(2)周辺環境を含めた一体的な保全(3)経過観
察の実施(4)整備・公開・活用推進(5)保存管理体制の整備
と運営包括的保存管理計画に定めた上記の基本方針に基づき、管
理団体である県・市町村が個々の重要文化財、史跡、特別名勝又
は名勝、特別天然記念物又は天然記念物の保存管理計画を利用し
、具体的で適切な保存管理に当たる予定である。これらの保存管
理計画を要約したものについては、付属資料に示すとおりである
(別添参考資料)。「富士山」を総体として保全するためには、
構成資産のみならず緩衝地帯をも含め、資産に影響を及ぼす人工
物などを適切に制御していく必要がある。そのため、構成資産の
本質的な価値に負の影響を与える可能性のあ

重要文化財冨士御室浅間神社本殿の指定史跡富士山の指定予定(B8)御師住宅1
976年5月20日:重要文化財小佐野家住宅の指定重要文化財旧外川家住宅の指
定予定(B9)山中湖561936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富
士五湖の指定予定(B10)河口湖1936年2月1日:富士箱根国立公園の指定
(名勝富士五湖の指定予定(B11)忍野八海1934年5月1日:天然紀念物忍
野八海の指定(B12)船津胎内樹型1929年12月17日:天然紀念物船津胎
内樹型の指定(B13)吉田胎内樹型1929年12月17日:天然紀念物吉田胎
内樹型の指定(B14)人穴富士講遺跡史跡富士山の指定予定(B15)白糸ノ滝
1936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(1936年3月6日:名勝及天然
紀念物白糸ノ滝の指定(C)三保松原1922年3月8日名勝三保松原の指定19
77年4月1日名勝三保松原の一部指定解除1990年3月29日名勝三保松原の
追加指定及び一部指定解除c)保護の実施手段1)資産各構成資産については、遺
跡、記念工作物、建築物群のみならず、それらと密接な関連を持つ展望線など、富
士山の本質的価値を構成する諸要素を厳格かつ的確に把握し、それらをすべて含む
範囲について、価値の中核をなす部分は文化財保護法の下に指定(特別名勝又は名
勝、特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡)され、また、価値の中核
をなす部分を取り囲む地域の大部分は自然公園法の下に国立公園(国立公園、県立
自然公園)に指定している。これら範囲のうち、富士山の顕著な普遍的価値を証明
するために必要不可欠な範囲を資産範囲とした。これらの範囲の大部分においては
、国の許可無くそれらの現状を変更することはできない。文化財保護法、自然公園
法の及ばない地域は国有林であり、開発行為が行われることはない。また、森林法
に基づき森林の伐採に関しても適切な管理が行われている。文化財保護法の定める
ところにより、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物、重57要文化
財、史跡の保存管理・修理・公開については、所有者又は

いては、たとえそれが緩衝地帯におけるものであってもできる限
り抑制することとし、やむを得ず設置する場合であっても、最小
限の数量・規模とするとともに、色彩等の観点から景観にも十分
配慮するよう関係者への理解と協力を求める予定である。なお、
既存の鉄柱・看板・広告塔など構成資産に影響を及ぼすものにつ
いては、撤去または修景に努め、公益上必要と考えられる施設に
ついては、現状の利用状況を尊重しつつ、将来的に撤去又は移転
等について検討するとともに、当面の間、資産に対する影響の軽
減を図ることとする予定である。図保存管理計画の構造図「富士
山」包括的保存管理計画62各構成資産の都市計画保存管理計画
等観光計画(山梨県・静岡県・各市町村)整備計画等632)保
存管理体制包括的保存管理計画に定めた上記の基本方針に基づき
、静岡県・山梨県と関係市町村は、広範囲にわたる富士山の構成
資産及び緩衝地帯を包括的保存管理計画に基づき統一的に管理す
るため「富士山世界遺産両県協議会」(以下「両県協議会」とい
う。仮称)及びその支部組織である「静岡県世界遺産協議会」・
「山梨県世界遺産協議会」(以下両者をまとめて「各県協議会」
という。仮称)を設置し、各構成資産を成す重要文化財、史跡、
特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物の保存管理計
画を共通の基準に基づき確実に実行する予定である。両県協議会
及び各県協議会は、資産及びその周辺地域において、国・静岡県
・山梨県・関係市町村等・民間団体等が実施する予定の事業等に
ついての情報を総合的に把握し、それぞれの事業が、資産の保存
管理に負の影響を及ぼすことなく、適切に実施されるように関係
各機関の連絡・調整を行う。両県協議会・各県協議会における調
整結果に基づき、静岡県・山梨県及び関係市町村は、民間事業者
等に対して権限に基づく適切な指導や助言を行うこととする予定
である。また、両県協議会には国関係機関(文化庁・環境省・国
土交通省・防衛省・林野庁)、国内の大学及びイコモス会員等の
研究者・専門家が参加し、学術的な観点からの助言を行う予定で
ある。各県協議会の下には、各県庁内の実務担当者レベルの調整
組織として、静岡県(山梨県)庁内連絡会議

とを原則としている(法第31条・第32条の2、第113条・第115条・第1
19条)。また、自然公園法が定めるところにより、国立公園の管理と保護につい
ては、国又は管理団体が適切に行うことを原則としている(法第9条、第37条、
第38条、第39条)。重要文化財に指定されている建造物の修理に関して、部材
の痕跡調査などから判明した原型への復元などの現状変更等を行おうとするときや
、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物、史跡の指定地内において現
状変更等を行おうとするときは、あらかじめ文化庁長官の許可を得なければならな
い(法第43条・第125条)。文化庁長官は国が設置し、イコモス国内委員会委
員を多数含む文化審議会文化財分科会に対して当該現状変更等に関する諮問を行い
、その答申を経て許可することとしている。したがって、資産の現状を変更する場
合には、学術的かつ厳密な審査に基づく許可を必要としている。また、国立公園(
特別保護地区及び特別地域)の現状変更については、あらかじめ環境大臣の許可を
得なければならない(法第13条、第14条)。特別名勝又は名勝、特別天然記念
物又は天然記念物、重要文化財、史跡の管理と修理に対しては、必要に応じて国が
経費を補助し、技術的指導を行うこととしている(法第35条・第47条・第11
8条)。国立公園の管理と保護は国が費用を負担する(法43条)。また、管理団
体が管理と保護を行う場合、国が必要な情報の提供又は指導・助言を行う(法42
条)。資産範囲の国有林については森林施業計画により皆伐は年5haにとどめる
など景観への影響を最小限に留めるよう適切に保護・管理されている。加えて国有
林の大部分である保安林は指定施行要件(保安林の種別ごとに異なる。)に合致し
ない伐採等には都道府県知事の許可が必要である(法34条)。2)緩衝地帯緩衝
地帯の全域においては、文化財保護法、自然公園法、景観法(それに基づく景観条
例及び景観計画)、森林法、砂防法、海岸法、又は関係各県・市町村が定める条例
等の下に資産の周辺環境について万全な保全措置が講じら

、各市町村担当者や民間業者(観光協会、登山組合、神社関係者
)などの代表者との調整組織として静岡県(山梨県)保存管理協
力者会議を設置し、十分な連携を図る予定である。さらに、静岡
県・山梨県文化財保護審議会をはじめ各市町村文化財調査委員会
は指定文化財及び文化財全体に関する事項を審議し、それぞれ、
静岡県・山梨県教育委員会及び直接的な構成資産の管理を行う各
市町村教育委員会に対して建議を行っている。これらの組織の運
営は静岡県・山梨県の世界遺産推進課が行い

囲については、資産から眺望できる山の稜線のほか、法律・条例等に基づく境界、
地籍境界、行政界、道路等の明確な境界などを考慮しつつ、資産の保護に必要不可
欠な範囲を定めた。山体の緩衝地帯については富士山を周辺ないし構成資産から展
望した際、資産範囲を含め良好な景観を形成する範囲を基準としている。この範囲
の中には演習場を挟んで、三保松原以外のすべての構成資産が含まれる。緩衝地帯
において行われる建築物及び工作物の新築・増築・改築、土地の形質変更等に係る
行為、木竹の伐採については、許可制や届出制に基づく規制を設けており、これら
の行為に関する重要な事項については、特に関係各市町村の景観審議会等による調
査、審議に基づき、関係市町村が事前に適切な指導や助言を行うこととしている。
なお、緩衝地帯設定の考え方や、行為規制等の詳細については、本推薦書の付属資
料及び別添参考資料を参照されたい。緩衝地帯は大きく3つの方法により保護措置
が講じられている。一番目は自然公園法(山梨県のほぼ全域)、二番目は景観法に
基づく各市町村の景観条例及び景観計画(静岡県富士市・富士宮市ほ58か)、三
番目が各市町村独自の景観条例や土地利用事業指導要綱(山梨県富士吉田市の一部
・静岡県裾野市・御殿場市・小山町)である。三番目の地域に関しては将来的に二
番目の保護措置に移行する予定である。なお、三保松原などいくつかの資産におい
ては、資産範囲が文化財としての登録範囲よりも狭く設定されているため、緩衝地
帯の一部は文化財保護法により保護されている。これらの地域では適用する法令等
に違いはあるが、緩衝地帯において行われる建築物・工作物の新築、増築、改築、
土地の形質変更等に係る行為については、許可制ないし承認制・届出制に基づく規
制が定められ、資産の周辺環境の万全な保護措置が講じられている。緩衝地帯に適
用される諸法令等の概略法令名対象地区規制内容許認可文化財保護法三保松原(一
部)現状変更文化庁長官の許可自然公園法(国立公園)山体・静岡県・山梨県工作
物の新築等、ごみ捨て又は放置、木竹の採取、土石の採取

り業務が行われる。また、富士山文化課世界遺産推進係を設置し
た富士宮市教育委員会や世界遺産推進室を設置した富士吉田市を
はじめ、各市や市町村教育委員会においても構成資産の保存管理
を担当する専門の職員を定めている。これらの組織体制について
は、さらなる充実化に努める予定である。なお、上記の体制につ
いては現在登録準備のために設置され、実質的に機能している組
織を改変・名称変更・役割変更するものであり、その運営に関し
て問題は生じない。図「富士山」に係る保存管理の組織体制図(
仮案・今後変更の可能性大)64富士山世界遺産両県協議会(構
成)静岡県、山梨県、関係市町村学識経験者等国関係機関(文化
庁、環境省、国土交通省、防衛省、林野庁)f)財源及び財政的
水準各構成資産の管理については、それぞれの所有者又は管理団
体が行っている。特に「記念工作物」、「建造物群」の修理を行
う場合には、小修理その他特別な場合を除いて国が必要に応じて
経費の50開発事業者、地域住民、関係者静岡県世界遺産協議会
山梨県世界遺産協議会(委員)行政:静岡県、関係市町(委員)
行政:山梨県、関係市町村等民間:観光協会、登山組合、神社関
係者等民間:観光協会、山小屋組合、静岡県保存管理協力者会議
(委員)関係市町(企画・都市計画・文化財担当)観光関係者、
登山組合、神社関係者等神社、関係者等静岡県庁内連絡会議山梨
県庁内連絡会議(委員)関係課等(委員)関係課等山梨県保存管
理協力者会議(委員)関係市町村(企画、都市計画、文化財担当
)観光関係者、山小屋組合、神社関係者等65〜85%の補助金
を交付している。「遺跡」である史跡、特別名勝又は名勝、特別
天然記念物又は天然記念物において発掘調査・修理・整備の事業
を行う場合にも、国が必要に応じて経費の50%の補助金を交付
している。これらの国の補助金に併せて、静岡県・山梨県は国の
補助金相当額を控除した額の50%に相当する額以内の補助金を
交付し、構成資産所在の市町村が同内容の補助金を交付する予定
である。また、重要文化財、史跡、特別名勝又は名勝、特別天然
記念物又は天然記念物において、それぞれ防災施設等を設置する
事業についても、同様の比率の下に経費の補

大臣の許可(特別地域)、届出(普通地域)自然公園法(県立自然公園)県立自然
公園条例三保松原(一部)工作物の新築等、ごみ捨て又は放置、木竹の採取、土石
の採取、車馬の乗り入れ等県知事の許可(特別地域)、命令景観条例及び景観計画
(景観法に基づく)富士市・富士宮市静岡市・忍野村・山中湖村・富士河口湖町建
築物の新築等、工作物の新設等、開発行為、土石の採取・堆積等(高さ・色彩・形
状を規制)市町村長への届出勧告、指導・要請(問題があ

いる。なお、上記の補助金とは別に、2006年より構成資産の
整備活用及び保護に関する教育プログラムのための基金を設けて
おり(「富士山基金」)、基金には国内の経済界を中心に民間か
らの資金提供も行われている。g)保全及び保存管理の技術にお
ける専門的知識及び研修構成資産の保存管理については、所有者
(宗教法人を含む)をはじめ、静岡県・山梨県教育委員会及び各
史跡等の管理団体に指定された各市町村教育委員会が実施してい
る。静岡県・山梨県教育委員会とその関連機関である財団法人静
岡県埋蔵文化財調査研究所及び山梨県埋蔵文化センターでは、そ
れぞれの組織内に文化財の高度な保存・管理技術を持つ専門職員
及び技術者を配置し、管理団体である各市町村が行う保存管理に
対して適切な技術的支援を行っている。また、独立行政法人国立
文化財機構は、全国の史跡等における整備活用事業の円滑な推進
と専門職員及び技術者の技術や能力の向上のために、地方公共団
体の専門職員を対象として定期的に研修を開催しており、静岡県
・山梨県をはじめ関係各市町村の職員も当該研修等に積極的に参
加して、資産の整備活用の技術向上に努める予定である。さらに
、独立行政法人国立文化財機構(201年度より国内の大学の研
究者及びイコモス会員を含む富士山世界遺産両県協議会の助言者
及び両県協議会も含まれる予定である)の助言・指導に基づいて
行われている保存・管理技術は、高い水準を維持する予定である
。重要文化財、史跡、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天
然記念物を維持するための措置として簡単な修理又は復旧を行う
場合は、事前の届出に基づき、文化庁が適切な技術的指導を行っ
ているため、管理技術の水準はきわめて高く保たれている。資産
の見回りや清掃等の日常的な維持管理については、静岡県・山梨
県教育委員会から嘱託された文化財保護指導員(静岡県3名、山
梨県2名:構成資産の所在地区を担当する人数)のほか、地域住
民・民間団体・管理団体が協働して積極的に行っている。表技術
者の資質向上のために行われているおもな研修h)来訪者の施設
と統計構成資産の大部分は、周囲に展開する景勝地とともに日本
を代表する優れた名所として国内のみならず

主条例)富士吉田市建築の新築等市長への届出勧告、助言・指導土地利用事業指導
要綱裾野市・御殿場市・小山町土地利用事業市長・町長の承認森林法(保安林指定
施業用件)保安林(土砂流出防備保安林)(保健保安林)(水源涵養保安林)立木
の伐採(原則択抜※水源涵養保安林除く)県知事の許可砂防法(静岡県砂防指定地
管理条例)砂防指定地(富士宮市等)施設又は工作物の新築等、竹木の伐採等、土
地の形状変更、土石の採取・集積又は投棄等県知事の許可海岸法三保松原(海岸の
水際線から50mの範囲)土石の採取、施設等の新設、土地の掘削等海岸管理者(
静岡県河川砂防管理室)の許可県有林管理計画山梨県県有林なし(水土保全林)(
森林と人との共生林)立木の伐採皆伐〜禁伐59(資源の循環利用林)なお、緩衝
地帯の外側に広がる市街地のうち富士山の主要な眺望(北側では河口湖・山中湖北
部から眺望した富士山、南側では三保松原から眺望した富士山)に若干の影響を及
ぼす範囲については、日本政府が自主的に保護する範囲として「保全管理区域」を
設定している。F資産に影響する可能性がある個別の開発計画企業立地促進法に基
づく静岡県東部地域基本計画(静岡県及び14市町)2009年2月策定市町村森
林整備計画(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市・小山町)2006年4月策定
e)資産の保存管理計画又はその他の保存管理体制構成資産のうち、史跡又は特別
名勝・名勝、特別天然記念物・天然記念物に指定されている土地及びその範囲に立
つ建造物(重要文化財含む)については、1919年に制定された史蹟名勝天然紀
念物保存法及び1950年以降においては文化財保護法に基づく段階的な指定によ
り保護措置がとられ、史跡等の管理団体である各市町村と静岡県・山梨県が個別に
保存管理計画を策定して適正な保存管理に当たっている。さらに、2011年には
、資産を構成する重要文化財、史跡、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然
記念物について、静岡県・山梨県が文化庁、所有者である宗教法人・個人、史跡等
の管理団体である各市町村との調整の下に構成資産の全体

おり、夏季の登山をはじめとして四季折々の自然の姿を求めて来
訪する観光客でにぎわい、現在も国内有数の観光地となっている
。図富士山への登山者数の推移(各登山口推計登山者数)静岡県
山梨県富士宮口御殿場口須走口県計吉田口合計図富士山への来訪
者数の推移(7・8月における各登山口五合目への入れ込み数推
計)66図主な構成資産の来訪者数の推移(推計等)富士山では
、山頂へ7〜8月の登山期に約29万人(1999〜2009年
平均)が登山し、自動車でアクセス可能な各登山道の「五合目」
(自動車道建設以前の五合目とは一致しないため「新五合目」と
呼ばれる)には、同期間に約250万人(1999〜2009年
平均)が訪れ、近年は外国人がかなりの数を占めるようになって
いる(外国人の数に関する統計は取られていないため、正確な数
値は不明である)。富士山体においては、国内外から来訪する観
光客や登山者等の利用者の安全と利便を確保するとともに、秩序
ある良好な風致景観を維持及び形成することを目的として、「富
士山における標識類静岡県山梨県合計富士宮口御殿場口須走口県
計吉田口(年間)富士吉田・河口本栖湖・精進湖・山中湖・忍野
八三保松原浅間大社白糸ノ滝湖・三つ峠周辺西湖周辺海周辺総合
ガイドライン」作成し、統一されたデザインによる四ヶ国語(英
・中・韓及び日)の道標や解説板を設置しているほか、富士山体
の主として緩衝地帯には駐車場・トイレ・資料館等の便益施設が
整備されている。今後とも、適切な計画の下に順次整備していく
こととしており、「ビジターセンター」などのガイダンス施設の
充実も行われる予定である。自動車による訪問者の管理について
は、土日や休日等登山者が突出して増加する日に、仮設トイレ・
臨時駐車場等を設置するとともに、登山用の自動車道は自家用車
の通行(登山道ごとに異なる、最も利用数の多い吉田口(富士ス
バルラインを利用)で最大12日間)を規制しシャトルバスによ
る代替輸送を行うことで環境への負荷と混雑を軽減するようにし
ている。この日数は山麓の駐車場の整備に従い(2011年に吉
田口に1400台の駐車場を整備)今後拡大(吉田口で15日)
する予定である。登山者の安全管理について

管理計画を策定し、保存管理全体の整合を図る予定である。上記した各構成資産の
保存管理計画の概要と資産全体を対象とする包括的保存管理計画の全文については
、本推薦書付属資料−として添付している。1)保存管理計画各構成資産の保存計
画の策定状況については、本推薦書の7.資料、e)参考文献、3)保存管理計画
書に示すとおりである。特に静岡県・山梨県教育委員会は、文化庁及び関係各市町
村の教育委員会との十分な調整の下に『世界遺産富士山包括的保存管理計画』を策
定し、資産の全体を視野に入れた総括的な保存管理を行う予定である。包括的保存
管理計画に定める基本方針は、次の5点である(別添参考資料)。(1)構成資産
の適切な保存管理(2)周辺環境を含めた一体的な保全(3)経過観察の実施(4
)整備・公開・活用推進(5)保存管理体制の整備と運営包括的保存管理計画に定
めた上記の基本方針に基づき、管理団体である県・市町村が個々の重要文化財、史
跡、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物の保存管理計画を利用し、
具体的で適切な保存管理に当たる予定である。これらの保存管理計画を要約したも
のについては、付属資料に示すとおりである(別添参考資料)。「富士山」を総体
として保全するためには、構成資産のみならず緩衝地帯をも含め、資産に影響を及
ぼす人工物などを適切に制御していく必要がある。そのため、構成資産の本質的な
価値に負の影響を与える可能性のある人工物や開発については、たとえそれが緩衝
地帯におけるものであってもできる限り抑制することとし、やむを得ず設置する場
合であっても、最小限の数量・規模とするとともに、色彩等の観点から景観にも十
分配慮するよう関係者への理解と協力を求める予定である。なお、既存の鉄柱・看
板・広告塔など構成資産に影響を及ぼすものについては、撤去または修景に努め、
公益上必要と考えられる施設については、現状の利用状況を尊重しつつ、将来的に
撤去又は移転等について検討するとともに、当面の間、資産に対する影響の軽減を
図ることとする予定である。図保存管理計画の構造図「富

設(山頂、富士宮口、吉田口、富士スバルライン終点)と3箇所
の救護センター(富士宮口に1箇所、吉田口に2箇所)が対応を
行っている。南麓では静岡県によって30名の「富士登山ナビゲ
ーター」が登山指導・案内・通訳業務を行っており、北麓では富
士吉田市条例によって、登山下山の案内を行う約230名のガイ
ドが「富士吉田市案内員組合」に登録してい

画62各構成資産の都市計画保存管理計画等観光計画(山梨県・静岡県・各市町村
)整備計画等632)保存管理体制包括的保存管理計画に定めた上記の基本方針に
基づき、静岡県・山梨県と関係市町村は、広範囲にわたる富士山の構成資産及び緩
衝地帯を包括的保存管理計画に基づき統一的に管理するため「富士山世界遺産両県
協議会」(以下「両県協議会」という。仮称)及びその支部組織である「静岡県世
界遺産協議会」・「山梨県世界遺産協議会」(以下両者をまとめて「各県協議会」
という。仮称)を設置し、各構成資産を成す重要文化財、史跡、特別名勝又は名勝
、特別天然記念物又は天然記念物の保存管理計画を共通の基準に基づき確実に実行
する予定である。両県協議会及び各県協議会は、資産及びその周辺地域において、
国・静岡県・山梨県・関係市町村等・民間団体等が実施する予定の事業等について
の情報を総合的に把握し、それぞれの事業が、資産の保存管理に負の影響を及ぼす
ことなく、適切に実施されるように関係各機関の連絡・調整を行う。両県協議会・
各県協議会における調整結果に基づき、静岡県・山梨県及び関係市町村は、民間事
業者等に対して権限に基づく適切な指導や助言を行うこととする予定である。また
、両県協議会には国関係機関(文化庁・環境省・国土交通省・防衛省・林野庁)、
国内の大学及びイコモス会員等の研究者・専門家が参加し、学術的な観点からの助
言を行う予定である。各県協議会の下には、各県庁内の実務担当者レベルの調整組
織として、静岡県(山梨県)庁内連絡会議を設置するとともに、各市町村担当者や
民間業者(観光協会、登山組合、神社関係者)などの代表者との調整組織として静
岡県(山梨県)保存管理協力者会議を設置し、十分な連携を図る予定である。さら
に、静岡県・山梨県文化財保護審議会をはじめ各市町村文化財調査委員会は指定文
化財及び文化財全体に関する事項を審議し、それぞれ、静岡県・山梨県教育委員会
及び直接的な構成資産の管理を行う各市町村教育委員会に対して建議を行っている
。これらの組織の運営は静岡県・山梨県の世界遺産推進課

山小屋では、民間の気象予報会社と連携し山岳気象情報を共有し
ている。事故に対しては県警察山岳救助隊及び消防本部や市町村
消防署が対応し、場合により自衛隊の出動も要請する。また、気
象条件が一般の登山を行うには危険となる冬季は登山道・山小屋
を閉鎖(山梨県側は10月初旬、静岡県側は11月末より翌年7
月初旬)することにより十分な装備と経験を有する者以外の登山
は不可能である。冬山登山者は各登山口所轄警察署(御殿場署・
富士宮署・富士吉田署)に登山計画書の提出を推奨されている(
また、おおむね11月末〜4月末まで静岡県側の登山用自動車道
は閉鎖され、山梨県側も積雪・凍結等の状況に応じて段階的に閉
鎖される。)山体以外の構成資産については、おおむね来訪者数
に応じた駐車場・トイレ等を整備しており、今後、これらをさら
に整備する予定が立てられている。i)資産の整備・活用に関す
る方針・計画静岡県・山梨県では、構成資産及びその周辺を対象
とした保存管理に関する事業計画を定め、地域住民による活用の
取組をも取り込んで計画的に実施している。こうした諸計画に基
づき、富士山地域の歴史的背景を展示する「富士吉田市歴史民俗
博物館」「裾野市立富士山資料館」「富士市立博物館」の活用や
、富士山に係る包括的な保存・管理や利用者ニーズに適切に対応
する拠点の整備を検討するなど富士山の適切な保全・管理・活用
を図っていく。加えて、富士山についての市民向け講座の開催を
はじめ、児童・生徒を対象とした体験学習などの情報発信施策が
定期的に実施されている。個別の資産については、「遺跡」であ
る特別名勝又は名勝、天然記念物、史跡をはじめ「記念工作物」
・「建造物群」である重要文化財に指定されている建造物につい
ては、一部を除き所有者・管理団体が年間を通じて一般に公開し
ている。なお、登山については、登山期間(基本的に7月1日〜
8月31日)が公開時期に当たる。この時期以外の登山も禁止さ
れてはいないが、道路・山小屋等の閉鎖、および冬季の気象条件
などにより専門家以外の登山は困難である。j)専門分野・技術
・管理に関する人的措置68静岡県・山梨県教育委員会の委嘱を
受けた文化財保護指導員(以下、「指導員」

より業務が行われる。また、富士山文化課世界遺産推進係を設置した富士宮市教育
委員会や世界遺産推進室を設置した富士吉田市をはじめ、各市や市町村教育委員会
においても構成資産の保存管理を担当する専門の職員を定めている。これらの組織
体制については、さらなる充実化に努める予定である。なお、上記の体制について
は現在登録準備のために設置され、実質的に機能している組織を改変・名称変更・
役割変更するものであり、その運営に関して問題は生じな

に文化財を巡回・点検し、両県教育委員会に対して保護に関する
助言を行っている。静岡県・山梨県は、指導員の調査報告に基づ
き、所有者や関係市町村に対して文化財の保存管理に関する指導
を行っている。このように、将来的に良好な状態の下に資産を維
持していくための体制についても万全を期している。6.経過観
察(モニタリング)の体制a)保存状況を計測するための主たる
指標構成資産である「遺跡」・「記念工作物」・「建造物群」を
はじめ、それらの緩衝地帯については、顕著な普遍的価値の確実
な保持、修理又は復旧、維持管理、防災及び危機管理に関する体
制の充実及び技術の向上を目的として、4章に掲げた保全状況及
び資産全体に与える影響に対し、次に掲げる主な観点の下に適切
な指標を設定し、定期的かつ体系的な経過観察(モニタリング)
を実施する予定である。@「3.記載のための価値証明」に記さ
れた資産の価値と真実性及び完全性が維持されているか。A「4
.保全状況と資産に与える影響」に記された諸要素(開発・環境
問題・自然災害・観光・その他)が資産とその緩衝地帯にどのよ
うな影響を与えているか/与えたか。B「5.資産の保護と管理
」に関連して、資産とその緩衝地帯及びそれらを取り巻く周辺の
広い地域が、相互に呼応しつつ資産の顕著な普遍的価値に関する
知識を発信する場として適切な発展を遂げているか。設定するお
もな観察指標については、以下の表に示すとおりである(予定)
。表観察指標一覧表※斜字は富士山を守る指標(2010年度改
定予定)から指標周期記録組織(1)資産の視覚的結a)視点場
における景観阻害要因数毎年両県びつきの保護b)電線の地中化
延長毎年両県a)富士山環境教育開催数・参加者数毎年両県b)
パンフレット・HPによる情報提供数毎年両県c)主要地点での
観光客の入込み数毎年両県d)登山者数(5合目以上)毎年市町
村e)登山者数(8合目以上)毎年環境省(2)資産の関連性の
保護f)森林伐採面積(森林の整備形態?)毎年両県a)文化財
保護法における現状変更の数毎年両県b)自然公園法における許
可行為の数毎年両県・環境省c)生活排水クリーン処理数毎年両
県(3)個別資産の保護d)富士山5合目以

保存管理の組織体制図(仮案・今後変更の可能性大)64富士山世界遺産両県協議
会(構成)静岡県、山梨県、関係市町村学識経験者等国関係機関(文化庁、環境省
、国土交通省、防衛省、林野庁)f)財源及び財政的水準各構成資産の管理につい
ては、それぞれの所有者又は管理団体が行っている。特に「記念工作物」、「建造
物群」の修理を行う場合には、小修理その他特別な場合を除いて国が必要に応じて
経費の50開発事業者、地域住民、関係者静岡県世界遺産協議会山梨県世界遺産協
議会(委員)行政:静岡県、関係市町(委員)行政:山梨県、関係市町村等民間:
観光協会、登山組合、神社関係者等民間:観光協会、山小屋組合、静岡県保存管理
協力者会議(委員)関係市町(企画・都市計画・文化財担当)観光関係者、登山組
合、神社関係者等神社、関係者等静岡県庁内連絡会議山梨県庁内連絡会議(委員)
関係課等(委員)関係課等山梨県保存管理協力者会議(委員)関係市町村(企画、
都市計画、文化財担当)観光関係者、山小屋組合、神社関係者等65〜85%の補
助金を交付している。「遺跡」である史跡、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又
は天然記念物において発掘調査・修理・整備の事業を行う場合にも、国が必要に応
じて経費の50%の補助金を交付している。これらの国の補助金に併せて、静岡県
・山梨県は国の補助金相当額を控除した額の50%に相当する額以内の補助金を交
付し、構成資産所在の市町村が同内容の補助金を交付する予定である。また、重要
文化財、史跡、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物において、それ
ぞれ防災施設等を設置する事業についても、同様の比率の下に経費の補助を行うこ
ととしている。なお、上記の補助金とは別に、2006年より構成資産の整備活用
及び保護に関する教育プログラムのための基金を設けており(「富士山基金」)、
基金には国内の経済界を中心に民間からの資金提供も行われている。g)保全及び
保存管理の技術における専門的知識及び研修構成資産の保存管理については、所有
者(宗教法人を含む)をはじめ、静岡県・山梨県教育委員

両県a)自然公園法における許可行為の数毎年両県・環境省b)
ゴルフ場面積毎年両県(4)緩衝地帯の保護c)森林伐採面積(
森林の整備形態?)毎年両県69d)廃棄物の不法投棄量毎年両
県なお、上記指標の具体的な設定根拠及び測定方法等に関する内
容の詳細については、本推薦書参考資料である包括的保存管理計
画において具体的に記述している。b)資産の経過観察(モニタ
リング)のための行政上の体制定期的報告を含む経過観察(モニ
タリング)については、以下の表に示すように管理団体である山
梨県及び関係各市町村が、静岡県・山梨県教育委員会を通じて文
化庁の指導の下に行う。『世界遺産条約履行のための作業指針』
(2008年)第5章に基づき、年度ごとに情報収集及び記録作
成を行い、蓄積した成果について6年ごとに保存管理状況の評価
としてまとめ、世界遺産センターを通じて世界遺産委員会に定期
報告書(英文)を提出する。モニタリング体制分担管轄域担当組
織1.担当組織及び担当課名資産及び緩衝地帯2.監督組織資産
及び緩衝地帯組織名称:文化庁組織代表者氏名:文化庁長官担当
課及び担当責任者氏名:記念物課課長3.指導組織資産及び緩衝
地帯組織名称:静岡県教育委員会:山梨県教育委員会組織代表者
氏名:静岡県教育長:山梨県教育長担当課及び担当責任者氏名:
静岡県世界遺産推進課課長:山梨県世界遺産推進課課長c)以前
の保全状況報告の成果経過観察(モニタリング)に必要とされる
諸事項に関し、現時点及び過去における資料・情報については、
静岡県・山梨県・及び資産の所在する市町の下に適切に収集・保
管されている。それらの一覧表については、以下のとおりである
。表(過去に経過観察のために実施した過去の資料・情報)番号
編著者標題対象資産年要約707.資料a)写真・スライド・画
像一覧表Noフォーマット標題撮影年月撮影者・編集者著作権保
持者著作権者連絡先非独占的権利譲渡b)保護のための指定に関
する文書などc)資産関連資料d)資産管理機関住所e)参考文
献8.連絡先a)申請書作成者連絡先b)管理組織・官庁c)そ
の他の組織d)公式ウェブサイト9.署名構成資産の分析(1)
番号構成資産候補名所在市町村文化財指定状

体に指定された各市町村教育委員会が実施している。静岡県・山梨県教育委員会と
その関連機関である財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所及び山梨県埋蔵文化セン
ターでは、それぞれの組織内に文化財の高度な保存・管理技術を持つ専門職員及び
技術者を配置し、管理団体である各市町村が行う保存管理に対して適切な技術的支
援を行っている。また、独立行政法人国立文化財機構は、全国の史跡等における整
備活用事業の円滑な推進と専門職員及び技術者の技術や能力の向上のために、地方
公共団体の専門職員を対象として定期的に研修を開催しており、静岡県・山梨県を
はじめ関係各市町村の職員も当該研修等に積極的に参加して、資産の整備活用の技
術向上に努める予定である。さらに、独立行政法人国立文化財機構(201年度よ
り国内の大学の研究者及びイコモス会員を含む富士山世界遺産両県協議会の助言者
及び両県協議会も含まれる予定である)の助言・指導に基づいて行われている保存
・管理技術は、高い水準を維持する予定である。重要文化財、史跡、特別名勝又は
名勝、特別天然記念物又は天然記念物を維持するための措置として簡単な修理又は
復旧を行う場合は、事前の届出に基づき、文化庁が適切な技術的指導を行っている
ため、管理技術の水準はきわめて高く保たれている。資産の見回りや清掃等の日常
的な維持管理については、静岡県・山梨県教育委員会から嘱託された文化財保護指
導員(静岡県3名、山梨県2名:構成資産の所在地区を担当する人数)のほか、地
域住民・民間団体・管理団体が協働して積極的に行っている。表技術者の資質向上
のために行われているおもな研修h)来訪者の施設と統計構成資産の大部分は、周
囲に展開する景勝地とともに日本を代表する優れた名所として国内のみならず海外
に広く知られており、夏季の登山をはじめとして四季折々の自然の姿を求めて来訪
する観光客でにぎわい、現在も国内有数の観光地となっている。図富士山への登山
者数の推移(各登山口推計登山者数)静岡県山梨県富士宮口御殿場口須走口県計吉
田口合計図富士山への来訪者数の推移(7・8月における

状況H21.10.30学術委員会評価分析結果備考富士山両県
未着手分析結果A:富士山の価値を証明するのに必須の資産C:
富士山の価値を証明するのに不可欠ではない資産平成21年10
月30日の各県学術委員会(両県合同開催)での評価A:顕著な
普遍的価値を有する資産B:顕著な普遍的価値についてさらに調
査等が必要な資産C:顕著な普遍的価値を有しない可能性がある
資産保留:評価を保留平成22年度第1回静岡県学術委員会・第
2回山梨県学術委員会資料3世界文化遺産富

込み数推計)66図主な構成資産の来訪者数の推移(推計等)富士山では、山頂へ
7〜8月の登山期に約29万人(1999〜2009年平均)が登山し、自動車で
アクセス可能な各登山道の「五合目」(自動車道建設以前の五合目とは一致しない
ため「新五合目」と呼ばれる)には、同期間に約250万人(1999〜2009
年平均)が訪れ、近年は外国人がかなりの数を占めるようになっている(外国人の
数に関する統計は取られていないため、正確な数値は不明である)。富士山体にお
いては、国内外から来訪する観光客や登山者等の利用者の安全と利便を確保すると
ともに、秩序ある良好な風致景観を維持及び形成することを目的として、「富士山
における標識類静岡県山梨県合計富士宮口御殿場口須走口県計吉田口(年間)富士
吉田・河口本栖湖・精進湖・山中湖・忍野八三保松原浅間大社白糸ノ滝湖・三つ峠
周辺西湖周辺海周辺総合ガイドライン」作成し、統一されたデザインによる四ヶ国
語(英・中・韓及び日)の道標や解説板を設置しているほか、富士山体の主として
緩衝地帯には駐車場・トイレ・資料館等の便益施設が整備されている。今後とも、
適切な計画の下に順次整備していくこととしており、「ビジターセンター」などの
ガイダンス施設の充実も行われる予定である。自動車による訪問者の管理について
は、土日や休日等登山者が突出して増加する日に、仮設トイレ・臨時駐車場等を設
置するとともに、登山用の自動車道は自家用車の通行(登山道ごとに異なる、最も
利用数の多い吉田口(富士スバルラインを利用)で最大12日間)を規制しシャト
ルバスによる代替輸送を行うことで環境への負荷と混雑を軽減するようにしている
。この日数は山麓の駐車場の整備に従い(2011年に吉田口に1400台の駐車
場を整備)今後拡大(吉田口で15日)する予定である。登山者の安全管理につい
ては、4箇所の案内施設(山頂、富士宮口、吉田口、富士スバルライン終点)と3
箇所の救護センター(富士宮口に1箇所、吉田口に2箇所)が対応を行っている。
南麓では静岡県によって30名の「富士登山ナビゲーター

計画原案−1−世界文化遺産富士山包括的保存管理計画原案目次
第1章目的と経緯1目的2計画策定の経緯(1)各県における検
討の経緯(2)学術委員会・保存管理計画検討部会組織3計画の
位置付け(1)行政計画との関連・連携(2)計画の実施第2章
構成資産の概要1構成資産の一覧2資産及び緩衝地帯等の範囲3
構成資産の概要(1)富士山山体及び登山道A富士山A1山頂信
仰遺跡A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A4須走口登山
道A5吉田口登山道A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進
湖A9本栖湖(2)信仰B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神
社B3村山浅間神社B4須山浅間神社B5冨士浅間神社B6河口
浅間神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅B9山中湖B10河
口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型−2−B13吉田胎内樹
型B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)B15白糸ノ滝(3)
眺望C1三保松原第3章保存管理の基本方針1顕著な普遍的価値
及び周辺環境等を構成する諸要素(1)顕著な普遍的価値を構成
する諸要素@富士山山体及び登山道A信仰B眺望(2)顕著な普
遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素@自然地形A森
林、植栽樹木B社寺の境内に含まれる歴史的な建造物及び工作物
等以外の建築物及び工作物C道路とその関連施設(3)周辺環境
を構成する諸要素@自然的要素A歴史的要素B人文的要素2保存
管理の基本方針(1)構成資産の適切な保存管理(2)周辺環境
を含めた一体的な保全(3)経過観察の実施(4)整備・公開・
活用推進(5)保存管理体制の整備と運営第4章構成資産の保存
管理1現状の把握(1)富士山山体及び登山道(2)信仰(3)
眺望2保存管理の基本的な考え方(1)現状変更の制限について
の考え方(2)地区区分についての考え方(3)指定地に関わる
諸法令について3具体的な施策(1)第1種保護地区(2)第2
種保護地区(3)三保松原−3−第5章緩衝地帯の保存管理1現
状の把握2保存管理の基本的な考え方(1)緩衝地帯の設定と行
為規制(2)都市計画との調整(3)住民生活との調和3具体的
な施策第6章経過観察の実施1顕著な普遍的な価値に負の影響を
与える要素2負の影響を与える要因の観察第

訳業務を行っており、北麓では富士吉田市条例によって、登山下山の案内を行う約
230名のガイドが「富士吉田市案内員組合」に登録している。さらに吉田口の山
小屋では、民間の気象予報会社と連携し山岳気象情報を共有している。事故に対し
ては県警察山岳救助隊及び消防本部や市町村消防署が対応し、場合により自衛隊の
出動も要請する。また、気象条件が一般の登山を行うには危険となる冬季は登山道
・山小屋を閉鎖(山梨県側は10月初旬、静岡県側は11

用1基本方針2整備と公開・活用第8章保存管理体制の整備と運
営1保存管理体制の整備と役割分担2地域住民等との連携・協働
3持続的運営のための定期的確認付章1保存管理に関する事業計
画一覧表−4−第1章目的と経緯1目的富士山は、日本を代表し
象徴する日本最高峰の秀麗な円錐形成層火山として世界的に著名
であり、日本人の自然に対する信仰の在り方や日本に独自の芸術
文化を育んだ「名山」である。山岳に対する信仰の在り方及び芸
術活動などを通じ、時代を超えて、一国の文化の諸相と極めて深
い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみならず、人
間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型とし
て、世界的にも比類なき顕著な普遍的価値を持つ山岳であり、世
界文化遺産に値するものである。富士山は、有史以前から噴火活
動を続けてきた標高3776mの円錐形の独立成層火山であり、
その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面からの実質的な高
さは世界的にも有数である。その力強く秀麗な姿は人々に神聖な
る気持ちを喚起し、古代から現代に至るまで、時代を超えて信仰
の対象となってきた。山腹及び山嶺には神社・登山道・巡礼地等
が形成され、山体と一体となった比類のない文化的景観を形成し
た。山体のうち、五合目以上の砂礫地は「焼山」と呼ばれて特に
神聖視され、山麓に分布する湖沼・湧水、火山活動により形成さ
れた独自の地形などは、富士信仰の霊地として重要な役割を果た
してきた。日本独自の山岳民衆信仰に基づく登拝・登山の様式は
現在でも命脈を保ち、特に夏季を中心に訪れる多くの登山客とと
もに富士登山の特徴を成している。このように、富士山は日本人
の自然に対する信仰の在り方に関連して、山に対する固有の文化
的伝統を表す物証及び人間の山に対する景観認知の在り方を示す
傑出した類型となっている。また、富士山の秀麗な姿は古くから
芸術活動の対象となり、その結果生み出された「万葉集」の和歌
などの文学作品や「浮世絵」などの秀麗で独自の絵画作品は、日
本国内のみならず海外にも広く知られ、様々な影響を与えてきた
。それらの作品群は、地球上の特定の地域において独自の文化的
伝統が形成・発展するのに当たり、富士山が

することにより十分な装備と経験を有する者以外の登山は不可能である。冬山登山
者は各登山口所轄警察署(御殿場署・富士宮署・富士吉田署)に登山計画書の提出
を推奨されている(また、おおむね11月末〜4月末まで静岡県側の登山用自動車
道は閉鎖され、山梨県側も積雪・凍結等の状況に応じて段階的に閉鎖される。)山
体以外の構成資産については、おおむね来訪者数に応じた駐車場・トイレ等を整備
しており、今後、これらをさらに整備する予定が立てられている。i)資産の整備
・活用に関する方針・計画静岡県・山梨県では、構成資産及びその周辺を対象とし
た保存管理に関する事業計画を定め、地域住民による活用の取組をも取り込んで計
画的に実施している。こうした諸計画に基づき、富士山地域の歴史的背景を展示す
る「富士吉田市歴史民俗博物館」「裾野市立富士山資料館」「富士市立博物館」の
活用や、富士山に係る包括的な保存・管理や利用者ニーズに適切に対応する拠点の
整備を検討するなど富士山の適切な保全・管理・活用を図っていく。加えて、富士
山についての市民向け講座の開催をはじめ、児童・生徒を対象とした体験学習など
の情報発信施策が定期的に実施されている。個別の資産については、「遺跡」であ
る特別名勝又は名勝、天然記念物、史跡をはじめ「記念工作物」・「建造物群」で
ある重要文化財に指定されている建造物については、一部を除き所有者・管理団体
が年間を通じて一般に公開している。なお、登山については、登山期間(基本的に
7月1日〜8月31日)が公開時期に当たる。この時期以外の登山も禁止されては
いないが、道路・山小屋等の閉鎖、および冬季の気象条件などにより専門家以外の
登山は困難である。j)専門分野・技術・管理に関する人的措置68静岡県・山梨
県教育委員会の委嘱を受けた文化財保護指導員(以下、「指導員」という。)が定
期的に文化財を巡回・点検し、両県教育委員会に対して保護に関する助言を行って
いる。静岡県・山梨県は、指導員の調査報告に基づき、所有者や関係市町村に対し
て文化財の保存管理に関する指導を行っている。このよう

極めて強力な関連性であることを示している。このような価値を
もつ「富士山」の構成資産は、山梨県と静岡県の二県にまたがっ
て分布している。これら一連の構成資産を世界文化遺産「富士山
」の総体として確実に保存し、確実に次世代へと継承するために
は、両県共通の考え方を基に、各構成資産全体を一つの資産とし
て包括的に保存管理していくための方法を整理していく必要があ
ることから、個別の構成資産についての保存管理計画に加え、構
成資産相互の関係性を保全し全体の価値を継承していくための包
括的な保存管理計画を策定しておくことが必要である。そのため
、山梨県・静岡県は、文化庁・環境省の指導・助言の下に関係市
町村、関係各機関等と調整を図り、本計画を策定した。「富士山
」包括的保存管理計画−5−各構成資産の都市計画保存管理計画
等観光計画(環境省・山梨県・静岡県・各市町村)整備計画等図
包括的保存管理計画の体系2計画策定の経緯富士山包括的保存管
理計画は、構成資産に係る個別の保存管理計画を基礎とし、世界
遺産の推薦に当たって必要とされる保存管理及び整備に係る理念
・基本方針とその具体的内容について明示するため、学術研究者
等により構成される山梨県・静岡県学術委員会及び二県学術委員
による審議を経て策定されたものである。学識経験者等により構
成する各県学術委員会のもとに、保存管理計画の原案を検討する
保存管理計画検討部会を設置した。原案を検討するにあたり、県
庁内の関係部署との連携や共通認識を得るため、それぞれ「山梨
県保存管理計画検討プロジェクトチーム」(表)及び「静岡県保
存管理計画検討庁内連絡会議」(表)を設置し、連携・確認を行
った。また、富士山の効果的かつ確実な保存管理を行うためには
、地元関係者など幅広い方々の協力・助言が不可欠であることか
ら、関係自治体・地域住民・観光関係者・神社関係者などで構成
する「山梨県保存管理計画策定協力者会議」及び「静岡県保存管
理計画協力者部会」を設置し、連携を図った。さらに、二県学術
委員会のもとに設置した「包括的保存管理計画検討部会」におけ
る検討とあわせ、文化庁の指導・助言の下、201■年■月に策
定した。(1)各県における検討の経緯両県

の下に資産を維持していくための体制についても万全を期している。6.経過観察
(モニタリング)の体制a)保存状況を計測するための主たる指標構成資産である
「遺跡」・「記念工作物」・「建造物群」をはじめ、それらの緩衝地帯については
、顕著な普遍的価値の確実な保持、修理又は復旧、維持管理、防災及び危機管理に
関する体制の充実及び技術の向上を目的として、4章に掲げた保全状況及び資産全
体に与える影響に対し、次に掲げる主な観点の下に適切な指標を設定し、定期的か
つ体系的な経過観察(モニタリング)を実施する予定である。@「3.記載のため
の価値証明」に記された資産の価値と真実性及び完全性が維持されているか。A「
4.保全状況と資産に与える影響」に記された諸要素(開発・環境問題・自然災害
・観光・その他)が資産とその緩衝地帯にどのような影響を与えているか/与えた
か。B「5.資産の保護と管理」に関連して、資産とその緩衝地帯及びそれらを取
り巻く周辺の広い地域が、相互に呼応しつつ資産の顕著な普遍的価値に関する知識
を発信する場として適切な発展を遂げているか。設定するおもな観察指標について
は、以下の表に示すとおりである(予定)。表観察指標一覧表※斜字は富士山を守
る指標(2010年度改定予定)から指標周期記録組織(1)資産の視覚的結a)
視点場における景観阻害要因数毎年両県びつきの保護b)電線の地中化延長毎年両
県a)富士山環境教育開催数・参加者数毎年両県b)パンフレット・HPによる情
報提供数毎年両県c)主要地点での観光客の入込み数毎年両県d)登山者数(5合
目以上)毎年市町村e)登山者数(8合目以上)毎年環境省(2)資産の関連性の
保護f)森林伐採面積(森林の整備形態?)毎年両県a)文化財保護法における現
状変更の数毎年両県b)自然公園法における許可行為の数毎年両県・環境省c)生
活排水クリーン処理数毎年両県(3)個別資産の保護d)富士山5合目以上のごみ
収集量毎年両県a)自然公園法における許可行為の数毎年両県・環境省b)ゴルフ
場面積毎年両県(4)緩衝地帯の保護c)森林伐採面積(

管理計画検討部会と学術委員会)2007年11月29日平成1
9年第1回包括的保存管理計画検討部会・包括保存管理計画の必
要性・国内の世界遺産における包括的保存管理計画の事例200
7年12月26日平成19年第2回包括的保存管理計画検討部会
・目的と経緯・構成資産の概要・保存管理の包括的な基本方針2
008年3月17日平成19年度第2回学術

両県69d)廃棄物の不法投棄量毎年両県なお、上記指標の具体的な設定根拠及び
測定方法等に関する内容の詳細については、本推薦書参考資料である包括的保存管
理計画において具体的に記述している。b)資産の経過観察(モニタリング)のた
めの行政上の体制定期的報告を含む経過観察(モニタリング)については、以下の
表に示すように管理団体である山梨県及び関係各市町村が、静岡県・山梨県教育委
員会を通じて文化庁の指導の下に行う。『世界遺産条約履行のための作業指針』(
2008年)第5章に基づき、年度ごとに情報収集及び記録作成を行い、蓄積した
成果について6年ごとに保存管理状況の評価としてまとめ、世界遺産センターを通
じて世界遺産委員会に定期報告書(英文)を提出する。モニタリング体制分担管轄
域担当組織1.担当組織及び担当課名資産及び緩衝地帯2.監督組織資産及び緩衝
地帯組織名称:文化庁組織代表者氏名:文化庁長官担当課及び担当責任者氏名:記
念物課課長3.指導組織資産及び緩衝地帯組織名称:静岡県教育委員会:山梨県教
育委員会組織代表者氏名:静岡県教育長:山梨県教育長担当課及び担当責任者氏名
:静岡県世界遺産推進課課長:山梨県世界遺産推進課課長c)以前の保全状況報告
の成果経過観察(モニタリング)に必要とされる諸事項に関し、現時点及び過去に
おける資料・情報については、静岡県・山梨県・及び資産の所在する市町の下に適
切に収集・保管されている。それらの一覧表については、以下のとおりである。表
(過去に経過観察のために実施した過去の資料・情報)番号編著者標題対象資産年
要約707.資料a)写真・スライド・画像一覧表Noフォーマット標題撮影年月
撮影者・編集者著作権保持者著作権者連絡先非独占的権利譲渡b)保護のための指
定に関する文書などc)資産関連資料d)資産管理機関住所e)参考文献8.連絡
先a)申請書作成者連絡先b)管理組織・官庁c)その他の組織d)公式ウェブサ
イト9.署名構成資産の分析(1)番号構成資産候補名所在市町村文化財指定状況
保存管理計画策定状況H21.10.30学術委員会評価

管理計画検討部会の審議結果2008年6月19日平成20年度
第1回包括的保存管理計画検討部会−6−・包括的保存管理計画
の役割・構成要素と本質的価値の明確化2009年5月20日平
成21年度第1回包括的保存管理計画検討部会・各資産候補の概
要について・構成資産、緩衝地帯、保存管理区域について201
0年3月19日平成21年度第2回学術委員会・保存管理計画の
考え方について山梨県の経緯2007年8月31日平成19年第
1回山梨県保存管理計画検討部会・保存管理計画の事例2007
年12月9日現地調査2008年1月31日平成19年度第2回
山梨県保存管理計画検討部会・包括的保存管理計画検討部会の審
議結果・山梨県保存管理計画の基本方針2008年2月21日平
成19年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・各県保存管理計画
検討部会の審議結果2008年4月16、17日現地調査200
8年5月1日平成20年度山梨県保存管理計画策定ワーキング・
山梨県保存管理計画の策定について2008年6月10日現地調
査2008年6月30日現地調査2008年7月22日平成20
年度第1回山梨県保存管理計画検討部会・構成要素と本質的価値
の明確化・保存管理の方法と考え方2009年4月24日平成2
1年度第1回山梨県保存管理計画策定協力者会議・富士山の世界
文化遺産登録の現状について・山梨県保存管理計画策定協力者会
議について2009年6月19日平成21年度第1回山梨県保存
管理計画検討部会・各資産候補の概要について・構成資産、緩衝
地帯、保存管理区域について2009年8月26日平成21年度
山梨県保存管理計画策定ワーキング・富士山世界文化遺産登録へ
の取組状況について・山梨県保存管理計画の策定について201
0年3月16日平成21年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・
保存管理計画の考え方について2010年6月30日平成22年
度第1回山梨県保存管理計画検討部会静岡県の経緯2007年7
月5日平成19年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・保存管
理計画について−7−2008年1月23日現地調査2008年
1月30日平成19年度第2回静岡県保存管理計画検討部会・包
括的保存管理計画検討部会の審議結果・静岡

未着手分析結果A:富士山の価値を証明するのに必須の資産C:富士山の価値を証
明するのに不可欠ではない資産平成21年10月30日の各県学術委員会(両県合
同開催)での評価A:顕著な普遍的価値を有する資産B:顕著な普遍的価値につい
てさらに調査等が必要な資産C:顕著な普遍的価値を有しない可能性がある資産保
留:評価を保留平成22年度第1回静岡県学術委員会・第2回山梨県学術委員会資
料3世界文化遺産富士山包括的保存管理計画原案−1−世

いて2008年2月21日平成19年度第3回山梨県・静岡県学
術委員会・各県保存管理計画検討部会の審議結果2008年7月
16日平成20年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・包括的
保存管理計画検討部会の報告・静岡県保存管理計画について20
08年9月9日平成20年度静岡県保存管理計画検討部会第1回
庁内連絡会議・富士山の世界文化遺産登録推進の取組について・
静岡県保存管理計画の策定について2009年2月12日現地調
査2009年6月1日平成21年度第1回静岡県保存管理計画策
定協力者部会・富士山の世界文化遺産登録推進の取組について・
静岡県保存管理計画の策定について2009年6月17日平成2
1年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・静岡県保存管理計画
の策定について・富士山の緩衝地帯に関する考え方2009年7
月13日平成21年度静岡県保存管理計画検討部会第1回庁内連
絡会議2009年10月29日平成21年度静岡県保存管理計画
検討部会第2回庁内連絡会議2009年11月25日平成21年
度第2回静岡県保存管理計画策定協力者部会2010年1月29
日平成21年度第3回静岡県保存管理計画策定協力者部会201
0年3月16日平成21年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・
保存管理計画の考え方について2010年6月30日平成22年
度第1回静岡県保存管理計画検討部会(2)学術委員会・保存管
理計画検討部会組織学術委員会及び保存管理計画検討部会の組織
は図に示すとおりである。また、その構成は表〜のとおりである
。(1)行政計画との関連・連携構成資産及び緩衝地帯を有する
山梨県・静岡県及び関係市町村では、まちづくり、観光、防災な
どに関する各種計画を策定し、実施している。これらの計画は、
包括的保存管理計画と密接に関連し、日常的に連携を図りつつ実
施されている。表包括的保存管理計画に関連する計画(山梨県)
計画名称策定年等F資産に影響する可能性がある個別の開発計画
大規模集客施設等の立地に関する方針(山梨県)2010年1月
ゴルフ場造成に事業に関する今後の取扱いについて(山梨県)1
993年10月−17−明神峠自然環境保全地域保全計画昭和5
0年策定静岡県森林共生基本計画平成19年

保存管理計画原案目次第1章目的と経緯1目的2計画策定の経緯(1)各県におけ
る検討の経緯(2)学術委員会・保存管理計画検討部会組織3計画の位置付け(1
)行政計画との関連・連携(2)計画の実施第2章構成資産の概要1構成資産の一
覧2資産及び緩衝地帯等の範囲3構成資産の概要(1)富士山山体及び登山道A富
士山A1山頂信仰遺跡A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A4須走口登山道
A5吉田口登山道A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A9本栖湖(2)
信仰B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村山浅間神社B4須山浅間神社
B5冨士浅間神社B6河口浅間神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅B9山中湖
B10河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型−2−B13吉田胎内樹型B14
人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)B15白糸ノ滝(3)眺望C1三保松原第3章保
存管理の基本方針1顕著な普遍的価値及び周辺環境等を構成する諸要素(1)顕著
な普遍的価値を構成する諸要素@富士山山体及び登山道A信仰B眺望(2)顕著な
普遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素@自然地形A森林、植栽樹木B
社寺の境内に含まれる歴史的な建造物及び工作物等以外の建築物及び工作物C道路
とその関連施設(3)周辺環境を構成する諸要素@自然的要素A歴史的要素B人文
的要素2保存管理の基本方針(1)構成資産の適切な保存管理(2)周辺環境を含
めた一体的な保全(3)経過観察の実施(4)整備・公開・活用推進(5)保存管
理体制の整備と運営第4章構成資産の保存管理1現状の把握(1)富士山山体及び
登山道(2)信仰(3)眺望2保存管理の基本的な考え方(1)現状変更の制限に
ついての考え方(2)地区区分についての考え方(3)指定地に関わる諸法令につ
いて3具体的な施策(1)第1種保護地区(2)第2種保護地区(3)三保松原−
3−第5章緩衝地帯の保存管理1現状の把握2保存管理の基本的な考え方(1)緩
衝地帯の設定と行為規制(2)都市計画との調整(3)住民生活との調和3具体的
な施策第6章経過観察の実施1顕著な普遍的な価値に負の

林計画書平成18年4月策定F資産に影響する可能性がある個別
の開発計画企業立地促進法に基づく静岡県東部地域基本計画(静
岡県及び14市町)平成21年2月策定市町村森林整備計画平成
18年4月策定−18−(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市
・小山町)(2)計画の実施今回提出する富士山包括的保存管理
計画は、20年月から既に実施され機能されているものである。
−19−第2章構成資産の概要1構成資産の一覧世界遺産「富士
山」の構成資産の種別、位置、面積、緩衝地帯の面積、所在地に
ついては、以下の表に示すとおりである。表構成資産の一覧大種
別分類小分類構成資産世界遺産条約文化財保護法自然公園法所在
地位置資産面積(ha)緩衝地帯面積(ha)A富士山(山体)
(御中道含む)遺跡特別名勝史跡山頂信仰遺跡(奥宮、お鉢巡り
)遺跡特別名勝史跡A2大宮・村山口登山道遺跡特別名勝史跡A
3須山口登山道遺跡特別名勝史跡A4須走口登山道遺跡特別名勝
史跡A5吉田口登山道遺跡特別名勝史跡静岡県(富士宮市、裾野
市、御殿場市、小山町)山梨県(富士吉田市、身延町、鳴沢村、
富士河口湖町)県境未確定地″A6北口本宮冨士浅間神社遺跡建
造物記念工作物特別名勝史跡重要文化財A7西湖遺跡名勝A8精
進湖遺跡名勝A9本栖湖遺跡名勝BB1富士山本宮浅間大社遺跡
建造物記念工作物重文静岡県富士宮市B14人穴富士講遺跡遺跡
市史跡静岡県富士宮市NEB15白糸ノ滝遺跡名勝・天然記念物
静岡県富士宮市NEC三保松原文化的景観遺跡静岡県静岡市NE
2資産及び緩衝地帯等の範囲「富士山」の顕著な普遍的価値を表
す構成資産の保護を確実にし、各構成資産における富士山体への
良好な眺望を保証するために、個々の構成資産の周囲に必要十分
な範囲の緩衝地帯を設定する。さらに、個々の構成資産間の関係
を良好に保ち、富士山の景観の一体性・連続性を保証するために
、緩衝地帯を含め、広く保全管理区域を設定する。構成資産の位
置及びその周辺地域である緩衝地帯、保全管理区域の範囲につい
ては、図に示すとおりである。図「富士山」の範囲(構成資産・
緩衝地帯)富士山山体の範囲については、現在特別名勝富士山に
指定されている区域だけでなく、その周辺部

500m付近までとした。この範囲において、特別名勝の区域は
文化財保護法で保護され、特別名勝指定地外から標高1,500
mの区域については自然公園法と森林法で保護されている。緩衝
地帯との境については林班により線引きを行い、県道などの人工
物の改修工事等への影響が軽減するよう配慮した。そして本栖湖
、精進湖、西湖までを富士山の山体として考え、範囲付けしたこ
とは、展望地点から山頂までを連続して保護するための措置であ
る。緩衝地帯の範囲については、当初国道4

号にかけての富士山側を計画していたが、国際専門家から飛び地
の資産である、富士山本宮浅間大社や山宮浅間神社を緩衝地帯に
含めるべきだとの指摘があり、市道を境に緩衝地帯を設定した。
その際、富士山本宮浅間大社からの富士山の眺望を確保するため
、富士山に向かって約36度の広がりで設定した。この範囲につ
いては、文化財保護法以外の法律を適用し、自然公園法、森林法
、景観法で保護されている。保全管理区域の範囲については、三
保松原から富士山を眺望する際、その阻害要因を軽減させるため
に、溶岩が流出した範囲を基本として設定した。そのため、静岡
県側においては、裾野市、御殿場市、小山町に流出している溶岩
流の範囲については、保全管理区域とはしていない。なお、保全
管理区域についても、森林法と景観法で保護されている。富士山
山体の東に位置する、演習場(北富士演習場・東富士演習場)に
ついては、従前より大規模開発が予定されていないことから、緩
衝地帯同様に資産を緩衝することが可能な区域であると言える。
3構成資産の概要構成資産及び保存管理状況の概要については、
以下に記すとおりである。構成資産の詳細については、推薦書本
文にて説明を行っている。保存管理状況等の詳細については、構
成資産毎に策定されている個別の保存管理計画等において、それ
ぞれ具体的内容を含めた説明を行っている。なお、p18,19
表のA〜Cは次のように分類し、整理したものである。A富士山
山体及び登山道B信仰に関わるものC富士山の眺望に関わるもの
(1)富士山山体及び登山道A富士山標高3776mを測る富士
山は、日本を代表し、象徴する日本最高峰の秀麗な独立火山であ
る。その自然的な美しさと崇高さを基盤として、日本人の自然に
対する信仰のあり方や、日本独自の芸術文化を育んだ名山でもあ
る。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ、
時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、生き
た文化的伝統の物証であるのみならず、人間と自然との良好で継
続的な関係を示す景観の傑出した類型として、世界的にも類例を
見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。世界文化遺産としての
富士山とは、富士山山体の内、標高約150

携を図った。さらに、二県学術委員会のもとに設置した「包括的保存管理計画検討
部会」における検討とあわせ、文化庁の指導・助言の下、201■年■月に策定し
た。(1)各県における検討の経緯両県の経緯(包括的保存管理計画検討部会と学
術委員会)2007年11月29日平成19年第1回包括的保存管理計画検討部会
・包括保存管理計画の必要性・国内の世界遺産における包括的保存管理計画の事例
2007年12月26日平成19年第2回包括的保存管理

る。この範囲は、富士山周辺の主要な神社や景勝地から見た可視
領域が重なり合う範囲であるとともに、各登山道における山体の
神聖性に関する境界の一つである「馬返」の標高とほぼ一致する
。なお、「馬返」とは、乗馬登山が物理的にも、宗教的観点から
も不可能になる地点を示す。景観的には山体の傾斜角の変化率が
大きくなり「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が
優美な曲線を描き、絵画などの対象とされることが多い範囲であ
る。写真上空から見た写真に資産範囲を線で示したもの(推薦原
案と同じもの)−21−−22−標高約2500m付近の森林限
界より上方は富士講信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域ある
いは死後世界である「他界」と考えられていた。また、登山道ご
とに標高は異なるが、1779年以降、浅間大社の境内地とされ
てきた八合目以上はより強い神聖性を持つとされる。理由は八合
目の標高とほぼ一致する噴火口である「内院」の底部に浅間大神
が鎮座するとの信仰に基づく。富士山頂へ向かい、登山の歴史の
中で開鑿された登山道が、現在の4本の登山道の起源となってい
る。また、ほぼ森林限界に沿い、富士山山体を一周する「御中道
」が15〜16世紀ごろ富士講の祖とされる長谷川角行によって
開かれたとされ、その後「大沢崩れ」という危険箇所を通るため
、富士講信者により修行の道として利用された。表法的保護、修
理・整備の経緯1924年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝
に仮指定1936年国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指
定1952年文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定1
969年国が大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)199
6年国・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継
続中)「御中道」は、標高2,300m付近から2,800m付
近の山腹を通り、富士山の中腹部を時計回りに一周する約25k
mの道である。「御中道巡り」は、修験道の祖とされる役行者が
始めたと伝えられ、16世紀後半、富士講の基礎を築いた長谷川
角行が行ったことが記録されている。古くは定まった道もなく巡
ったとされ、富士講が盛んになった江戸時代後期には一定の道が
整備された。富士山信仰の上では、山体西側

緯・構成資産の概要・保存管理の包括的な基本方針2008年3月17日平成19
年度第2回学術委員会・包括的保存管理計画検討部会の審議結果2008年6月1
9日平成20年度第1回包括的保存管理計画検討部会−6−・包括的保存管理計画
の役割・構成要素と本質的価値の明確化2009年5月20日平成21年度第1回
包括的保存管理計画検討部会・各資産候補の概要について・構成資産、緩衝地帯、
保存管理区域について2010年3月19日平成21年度第2回学術委員会・保存
管理計画の考え方について山梨県の経緯2007年8月31日平成19年第1回山
梨県保存管理計画検討部会・保存管理計画の事例2007年12月9日現地調査2
008年1月31日平成19年度第2回山梨県保存管理計画検討部会・包括的保存
管理計画検討部会の審議結果・山梨県保存管理計画の基本方針2008年2月21
日平成19年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・各県保存管理計画検討部会の審
議結果2008年4月16、17日現地調査2008年5月1日平成20年度山梨
県保存管理計画策定ワーキング・山梨県保存管理計画の策定について2008年6
月10日現地調査2008年6月30日現地調査2008年7月22日平成20年
度第1回山梨県保存管理計画検討部会・構成要素と本質的価値の明確化・保存管理
の方法と考え方2009年4月24日平成21年度第1回山梨県保存管理計画策定
協力者会議・富士山の世界文化遺産登録の現状について・山梨県保存管理計画策定
協力者会議について2009年6月19日平成21年度第1回山梨県保存管理計画
検討部会・各資産候補の概要について・構成資産、緩衝地帯、保存管理区域につい
て2009年8月26日平成21年度山梨県保存管理計画策定ワーキング・富士山
世界文化遺産登録への取組状況について・山梨県保存管理計画の策定について20
10年3月16日平成21年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・保存管理計画の
考え方について2010年6月30日平成22年度第1回山梨県保存管理計画検討
部会静岡県の経緯2007年7月5日平成19年度第1回

いう危険を伴う最大級の大行の道とされていた。富士登山3回以
上の経験を持ち、誓約書を御師に提出し、神への伺いをたてた上
でないと許可されないほど厳しいものであった。この御中道の巡
拝を無事終えると、その証である「御許し」を御師から受けるこ
とができた。1816年の資料では年間100人以上が御中道巡
りを行っているが、1977年の転落事故で通行止めとなり、現
在では一周することはできなくなっている。写真御中道の写真A
1山頂信仰遺跡(富士山本宮奥宮)富士山山頂部の火口壁沿いに
、いくつかの神社及び宗教関連施設が所在する。富士山への信仰
登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の
造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行
為が体系化されていった。登拝者は山頂周辺において「御来光」
を拝み、内院と呼称される噴火口に鎮座すると言われる神仏を拝
した。また、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅におけ
る仏の世界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼
ばれる行為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教的施設は
、12世紀中ごろ、修行僧末代により建立された大日寺(大日堂
)が最初とされ、その後、経典・懸仏・仏像等の山頂部への奉納
・埋納や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には
、大宮・村山口山頂部に大日堂が、吉田・須走口山頂部に薬師堂
が造営された。この様子は19世紀中ごろの絵図によって確認で
きる。1874年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響
によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変
された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、
上記の行為は現代の−23−登山者の多くが行っており、これら
を通じて富士信仰の核心が現代に受け継がれている。写真奥宮の
写真表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公
園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化
財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定2008年財団法人
静岡県埋蔵文化財調査研究所により現地調査が行われ、その成果
に基づき2010年に「史跡富士山保存管理

2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山と
して指定山頂の噴火口の周囲を一周し、頂上の各峰を巡る行為は
、古くから「お鉢巡り」と呼ばれ、現在も多くの人々に受け継が
れている。13世紀後半の資料には「いたゞきに八葉の嶺あり」
との記載があり、このころには山頂の峰々に信仰的意義を見出し
ていたことが伺える。16世紀前半には地元

影響する可能性がある個別の開発計画大規模集客施設等の立地に関する方針(山梨
県)2010年1月ゴルフ場造成に事業に関する今後の取扱いについて(山梨県)
1993年10月−17−明神峠自然環境保全地域保全計画昭和50年策定静岡県
森林共生基本計画平成19年3月策定富士地域森林計画書平成18年4月策定F資
産に影響する可能性がある個別の開発計画企業立地促進法に基づく静岡県東部地域
基本計画(静岡県及び14市町)平成21年2月策定市町村森林整備計画平成18
年4月策定−18−(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市・小山町)(2)計画
の実施今回提出する富士山包括的保存管理計画は、20年月から既に実施され機能
されているものである。−19−第2章構成資産の概要1構成資産の一覧世界遺産
「富士山」の構成資産の種別、位置、面積、緩衝地帯の面積、所在地については、
以下の表に示すとおりである。表構成資産の一覧大種別分類小分類構成資産世界遺
産条約文化財保護法自然公園法所在地位置資産面積(ha)緩衝地帯面積(ha)
A富士山(山体)(御中道含む)遺跡特別名勝史跡山頂信仰遺跡(奥宮、お鉢巡り
)遺跡特別名勝史跡A2大宮・村山口登山道遺跡特別名勝史跡A3須山口登山道遺
跡特別名勝史跡A4須走口登山道遺跡特別名勝史跡A5吉田口登山道遺跡特別名勝
史跡静岡県(富士宮市、裾野市、御殿場市、小山町)山梨県(富士吉田市、身延町
、鳴沢村、富士河口湖町)県境未確定地″A6北口本宮冨士浅間神社遺跡建造物記
念工作物特別名勝史跡重要文化財A7西湖遺跡名勝A8精進湖遺跡名勝A9本栖湖
遺跡名勝BB1富士山本宮浅間大社遺跡建造物記念工作物重文静岡県富士宮市B1
4人穴富士講遺跡遺跡市史跡静岡県富士宮市NEB15白糸ノ滝遺跡名勝・天然記
念物静岡県富士宮市NEC三保松原文化的景観遺跡静岡県静岡市NE2資産及び緩
衝地帯等の範囲「富士山」の顕著な普遍的価値を表す構成資産の保護を確実にし、
各構成資産における富士山体への良好な眺望を保証するために、個々の構成資産の
周囲に必要十分な範囲の緩衝地帯を設定する。さらに、個

ルヽ也」との記述も見られ、後に盛んになるお鉢巡りの古態と思
われる習俗があったことが知られる。富士講講中の多くは、頂上
に着くと、時計回りに山頂を巡っていった。内院に賽銭を投じ、
御来光を礼拝し、途中にあるいくつかの仏像や石碑を拝みながら
、大日寺(現奥宮)の大日如来、最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊
泉とされた金明水などを巡礼した。写真お鉢めぐりの写真A2大
宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社及び村山浅間神社を起
点とし、山頂大日岳に至る登山道である。12世紀前半、富士山
で修行した末代上人の開削した登山道が起源だとされ、14世紀
初め、僧の頼尊が修験者とその活動を組織化したことで、村山を
基点とする登山が行われていたことが推測できる。15世紀に入
ると村山での宿坊の存在が確認でき、同世紀前半には、地元支配
者である今川氏により発心門等の施設が寄進されたとの記録があ
る。今川氏は1552年、村山を神聖な地と定め、村山三坊には
山役銭の徴収権を与えている。この権利は19世紀後半まで継続
し、浅間大社が登山道の管理に関わることはなかった。一方、1
6世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な儀式と位置づ
けることによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。浅間大
社には16世紀前半に30余りの道者坊があったことが伝えられ
、同時期の絵図である「絹本著色富士曼荼羅図」には浅間大社・
湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々の姿が描かれて
いる。道者坊はその後統合され、19世紀前半には5坊となった
。また、1600年頃以降、地元支配者により、大宮を経て村山
口登山道を利用することが求められた。登山道中の宗教施設は、
17世紀初頭までに建設され、石室などの施設は主に17世紀後
半、興法寺から許可を受けた先達により建設されたが、1707
年の宝永噴火で登山道と共にことごとく破壊された。これらは再
建されたが、その復興は須走口より遅かった。主要な宗教施設と
しては発心門、中宮八幡堂、室大日などがあった。登拝者は興法
寺の檀所や浅間大社の道者場としていた静岡県西部地方を含む西
日本の人々が多かった。なお、1532年以降不連続であるが、
登拝者の記録が残され、その数は18世紀後

の道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平年で数百名
程度と推測できる。1826年の記録ではその数が減少し、村山
の村落も衰退していたとの記述もあるが、1860年、初の外国
人登山となる英国公使オ−24−ールコックは大宮を経由して村
山に宿泊し、山頂をめざした。彼の記録では大鏡坊、中宮八幡堂
の存在や登山道の様子が確認できる。明治維新以降、女人登山の
解禁もあり、登山者は増加傾向を示すが、1889年、東海道線
の開通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これへの対策
として1906年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道(
カケスバタ口)が建設されたため、大宮から現六合目までの村山
口登山道は登山道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在
は、林道の建設に雨水による侵食も加わり、一部を除き登山道跡
の推定は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王像、建物跡な
どをある程度たどることができるのみである。写真大宮・村山口
登山道の写真A3須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起
点とし、山頂部浅間嶽(駒ケ嶽)に至る登山道である。その起源
は明確ではないが、1200年の資料には大宮・村山口、吉田口
、須山(珠山)口以外には登山道がないことが述べられている。
1486年の京都の僧による資料(廻国雑記)では、「すはま口
」の名が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社
及び12軒の御師を中心とした須山村により管理されていた。た
だし、銀明水の管理を巡り、須走村と争いになった際は浅間大社
の裁定を仰いでいる。登山道には宝永噴火前の状況を描いた絵図
で須山御胎内に附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられ
る。これらの施設及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火に
より壊滅し、御縁年の1740年に復興したが永続せず、178
0年にようやく復興した。また、1880年代の記録では御室浅
間神社、中宮浅間社、御胎内等の宗教施設と4箇所の石室がある
ことが確認できる。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修
行の行場としても使用された。登拝者については詳しい研究が進
んでいないが、西日本・東日本両方からの登山者があったことが
、宿帳及び案内立札の立地から確認できる。

当たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均
約1,700人、続く1860年の御縁年には約3,600人で
あった。登拝者は神仏分離令後も継続していたが、1883年、
須山口二合八勺に接続する御殿場口登山道が開鑿された。また、
1889年に東海道本線が開通し、御殿場口の利便性の向上によ
り須山口からの登拝者や登山者が減少することとなった。191
2年には、登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となった
ため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っている。二
合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみであ
る。また、1999年、地元住民により須山口下山歩道の名でか
つての登山道の一部が復興された。写真須山口登山道の写真A4
須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉
田口登山道と合流して山頂久須志岳に至る登山道である。その起
源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏が
出土している。文献からは「勝山記」の1500年6月の項に、
関東地方での戦乱を避け、吉田口を利用すべき登拝者が須走口に
集中したことが確認できる。遅くとも17世紀までに、冨士浅間
神社及び須走村が登山道山頂部までを支配し、薬師嶽(現久須志
岳)における石室建設の独占、薬師堂の開帳・入仏などを行った
。また、内院および薬師堂の散銭取得権も浅間大社に次ぐ権利を
有していた。冨士浅間神社及び須走村は、1703年と1772
年の2回幕府に訴え、これらの権利について八合目以上の支配権
を主張する浅間大社と争い、正式に権利を認められた。−25−
登山道の施設は1683年の資料等で詳細が確認でき、大日堂、
御室浅間神社、古御岳神社等の宗教施設と共に、小屋・石室が山
頂部まで設置されている。1707年の宝永噴火では、これらの
施設及び麓の浅間神社、須走村は約3mの降砂に覆われ壊滅した
が、江戸幕府の支援を受け、翌年の登拝期までには復興を完了し
、多くの登拝者を集めた。18世紀半ばには800名前後に減少
したとの資料があるが、18世紀後半、相模の大山石尊や関本の
道了尊とセットにされた参詣の流行で登拝者数は増加し、年平均
約1万人、1800年の御縁年に23,70

た。登拝者は関東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登
拝者も見られる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に
適した須走口へ下山する形をとった。また、1831年、須走口
山頂部に宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による登拝
も増加した。1889年の東海道線開通による御殿場口、および
1903年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が
長い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され続
けた。1909年より登山道の周囲に石垣を

は、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以上は浅間
大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また、19
23年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている。1959
年、バス道路(現ふじあざみライン)の完成により、五合目以下
の登山道の利用は減少し、一部登山道としての確認ができない区
間がある。写真須走口登山道の写真A5吉田口登山道北口本宮冨
士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道である。15世紀に
は、富士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間
にも広まっていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のため
の宿坊もでき始め、大勢の人々が登るための設備が整うようにな
った。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修
行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は
、入定(宗教的自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と
定めた。このため、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半
以降は、年間数万人を数える富士講の道者が登拝したとされる。
1964年に富士山有料道路が開通した後は、ほとんどの登山者
が新五合目(小御岳)を起点として登るようになったため、五合
目以下の道を利用する登山者は激減したが、六合目以上について
は、現在残る登山道の中で最も多くの道者(外の登山口の合計と
同程度)が吉田口登山道を上って山頂を目指している。しかも、
古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。
写真吉田口登山道の写真表法的保護、修理・整備の経緯1924
年所在地が史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定193
6年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定19
52年所在地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定
1978年「特別名勝富士山保存管理計画」策定(1999年、
2006年改訂)1996年歴史の道整備活用事業により馬返〜
1合目区間を発掘調査・整備1999年「特別名勝富士山保存管
理計画」を改訂2006年「特別名勝富士山保存管理計画」を改
訂2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに登山道の一
部を史跡富士山として指定−26−2011年「史跡富士山保存
管理計画」を策定(予定)A6北口本宮冨士

、吉田口登山道の起点に位置し、祭神として木花開花姫命、天津
彦彦火瓊瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝所に
祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、148
0年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神
社の社殿が整っていたとされる。当神社は領主からの崇敬が厚く
、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1594年、16
15年にそれぞれ当時の領主が寄進したものである。富士講との
つながりが強く、1730年には富士講の指導者である村上光清
の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる
境内の景観の礎が形成された。北口本宮冨士浅間神社の支配権は
外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神社の管理
も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に登
山門があり、この神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が
伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展し
た神社である。写真北口本宮冨士浅間神社の写真(本殿、西宮本
殿、東宮本殿)表法的保護、修理・整備の経緯1907年古社寺
保存法の下に東宮本殿が特別保護建造物の指定1952年所在地
が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定1952年東
宮本殿・解体修理工事を行う1953年文化財保護法の下に本殿
、西宮本殿が重要文化財の指定1962年西宮本殿・解体修理工
事を行う(〜64年)1978年「特別名勝富士山保存管理計画
」を策定1973年本殿・部分解体修理工事を行う(〜74年)
1981年東宮本殿・部分修理工事を行う(〜82年)1997
年東宮本殿・部分修理工事を行う2008年本殿・屋根の葺替え
修理工事を行う(〜09年)2010年「重要文化財北口本宮冨
士浅間神社保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に
他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定)2011年「
史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)A7西湖富士山の火山
活動により形成された堰止湖で、富士山の北北西に位置する。富
士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この西
湖にも多くの富士講徒が訪れた。西湖と精進湖はかつて「?の海
(せのうみ)」と呼ばれる一つの湖だったが

に名勝、ついで特別名勝に指定2008年財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所に
より現地調査が行われ、その成果に基づき2010年に「史跡富士山保存管理計画
」が策定された2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山とし
て指定山頂の噴火口の周囲を一周し、頂上の各峰を巡る行為は、古くから「お鉢巡
り」と呼ばれ、現在も多くの人々に受け継がれている。13世紀後半の資料には「
いたゞきに八葉の嶺あり」との記載があり、このころには山頂の峰々に信仰的意義
を見出していたことが伺える。16世紀前半には地元為政者が「八要メサルヽ也」
との記述も見られ、後に盛んになるお鉢巡りの古態と思われる習俗があったことが
知られる。富士講講中の多くは、頂上に着くと、時計回りに山頂を巡っていった。
内院に賽銭を投じ、御来光を礼拝し、途中にあるいくつかの仏像や石碑を拝みなが
ら、大日寺(現奥宮)の大日如来、最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊泉とされた金明
水などを巡礼した。写真お鉢めぐりの写真A2大宮・村山口登山道富士山南西麓の
浅間大社及び村山浅間神社を起点とし、山頂大日岳に至る登山道である。12世紀
前半、富士山で修行した末代上人の開削した登山道が起源だとされ、14世紀初め
、僧の頼尊が修験者とその活動を組織化したことで、村山を基点とする登山が行わ
れていたことが推測できる。15世紀に入ると村山での宿坊の存在が確認でき、同
世紀前半には、地元支配者である今川氏により発心門等の施設が寄進されたとの記
録がある。今川氏は1552年、村山を神聖な地と定め、村山三坊には山役銭の徴
収権を与えている。この権利は19世紀後半まで継続し、浅間大社が登山道の管理
に関わることはなかった。一方、16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重
要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。浅間大
社には16世紀前半に30余りの道者坊があったことが伝えられ、同時期の絵図で
ある「絹本著色富士曼荼羅図」には浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して
登山する人々の姿が描かれている。道者坊はその後統合さ

現在の地に移転されたとされる。創建当時は富士山の噴火が盛ん
であり、これを畏れ鎮めることを信仰の目的としていた。朝廷も
浅間大神に他の山よりも高い神階を与えることで崇敬の念を示し
た。12世紀後半ごろには、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け
大日如来の垂迹である「浅間大菩薩」と見なされるようになり、
12世紀頃より政治の実権を掌握した武士階級に戦勝の神として

のメカニズムは、富士山の標高1000m前後ないしそれ以上の
高所の降水が地下にしみ込み、何層もある溶岩層の間にはさまれ
て充満し、それが押し出されるようにして末端から湧出したもの
である。浅間大社の位置は、富士山の噴火を湧水によって鎮める
考えや、富士山を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富
な湧水量を持つ湧玉池のほとりに置かれたとされる。この湧水に
は灌漑用水としての役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水
徳の神・農業神としての浅間大神に感謝する祭礼が行われている
。池の名前の由来には、地底から玉が湧き出るように湧水してい
るためという説や湧く霊たま(神霊)との説等があり、わく玉の
名は10世紀後半の地元支配者による和歌に見られ、湧玉池の名
称は1670年作成の「社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間
大社に参拝し、富士山をめざす登拝者が身を清める場として使用
された。その様子は「絹本著色富士曼荼羅図」や「富士浅間曼荼
羅図」、17世紀初頭の登山記で確認できる。この絵図では現在
の形状に近い湧玉池が描かれ、水垢離する人々やそのための施設
が見られる。登拝者の水垢離は1920〜30年代まで行われ、
現在では山開きの恒例行事に形を変えて継承されている。また、
湧水は聖なる水として現在でも利用する人が多い。湧玉池および
周辺には様々な宗教に係わる施設があるが、特に池の南端にある
「神幸橋」は、御神幸道の基点であり、現在でも1691年に作
られた石碑がたもとに残されている。−29−写真沸玉池の写真
B2山宮浅間神社浅間大社の北北東約5kmに位置し、木花之佐
久夜毘売命を主祭神とする神社である。その起源は「富士本宮社
記」によれば、山足の地に祀られていた浅間大神を、神話上の英
雄である日本武尊が大神の神威により難を逃れた謝礼に山宮に祀
ったこととされ、これが802年に再び遷され浅間大社となった
とする。具体的な創建年代は不詳だが、文献上での初見は155
1年である。神社は神事の際に使用する籠屋以外の建物施設を持
たず、拝殿・本殿等が位置すべき場所には石列でいくつかに区分
された遥拝所が設置されるのみという特異な形態を示している。
この形態は古代からの富士山祭祀の形を止め

おり、遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。発掘調査では1
2〜15世紀にかけての神事に使用されたと推定される破砕され
た土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での宗教活動を裏付
けている。また、遅くとも1577年までには浅間大社との間で
「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これは4月と11
月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮浅間神社へ行き、神
事を行った後、翌日未明に浅間大社へ戻る行事である。行事の意
味として、現時点では神が4月に旧跡に戻るという解釈と、山に
いる神が4月に田の神として里へ降りるという解釈がある。この
行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神幸」に使
用される経路を御神幸道と称し、浅間大社湧玉池横より発し、約
600m東へ向かった後、ほぼ直角に曲がり直線状に北上して山
宮浅間神社に至る。道の出発点及び途中には1691年に置かれ
た距離を示す石碑が少なくとも四箇所残っている。写真山宮浅間
神社の写真B3村山浅間神社山宮浅間神社の南東約4km、富士
山南麓に張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位置し
、木花開花姫命を主祭神とする神社である。神社と一体化した範
囲には、現在別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇な
どが存在している。これらは1868年の神仏分離令までは一体
のものであり、富士山興法寺(村山興法寺)と呼ばれていた。な
お、周辺には興法寺の維持・運営にあたっていた道者坊の村山三
坊(池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡が発掘調査によって
確認されている。その起源は、1149年の記録に見える修行僧
末代上人による富士山頂への大日寺の建立にあるとされる。末代
上人が富士山中又は村山の地に興法寺を建立したとの記録も残さ
れている。これらの記録等から、12世紀中ごろに村山周辺にお
いて修験道または密教系の宗教活動が行われていたと推測できる
。1259年には、現存する大日如来が寄進されたことを仏像の
銘で確認できる。末代以後、その流れを汲み富士山で修行する人
々が現れ、村山が富士山修験道(富士行)の拠点となったと考え
られる。14世紀初めには僧の頼尊が修験者とその活動を組織化
し、興法寺を再興したとされる。15世紀に

を支える宿坊の存在が現存する大日如来の銘(1478)で確認
できる。1482年には修験道本山派の本寺である聖護院と関係
を持ち、その権威を高めた。16世紀中には十数軒あった道者坊
が村山三坊に統合され、その活動を資料で確認できる。坊に所属
する山伏は夏に「富士峯修行」を山中及び山頂で行った。また、
富士山への一般の登拝者も増加し、夜間に白装束をまとい、仏が
いるとされた山頂を目指す多くの人々の様子が「絹本著色富士曼
荼羅図」に描かれている。村山の山伏は、富

、南麓の村を年一回巡回し加持祈祷等を行った。また18世紀、
富士講の隆盛に対抗し西日本の一般登拝者中の有力者に対して「
先達」の免許を発行し組織化を図ると−30−ともに、登拝が困
難な人々に対しては川辺で垢離を取り、祈ることで登拝と同等の
利益があるとする「富士垢離」の手法を広めている。加えて富士
山を航海の目印とする伊豆半島の漁業者に対しては航海安全と大
漁の祈願を行った。興法寺の勢力は地元支配者である今川氏の支
援を受けていた16世紀前半が最も強かったが、それ以降衰退し
つつも聖護院の力を背景に一定の権威をもち、登山道及びその頂
上部の大日堂周辺を支配した。社殿については、1697年徳川
幕府により修復され、現在の大日堂は建築様式や部材の状況から
19世紀半ばに建立されたと推定される。また、浅間神社は19
13年改築されたものを基本としている。1868年、神仏分離
令により浅間神社と興法寺(大日堂)は分離され、山伏は還俗し
、1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし
、富士峰修行と加持祈祷は1940年代まで継続された。現在は
1970年代より活発になった地域住民による伝統復活のための
活動が見られ、水垢離等の行事が行われている。また、村山浅間
神社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀市、三重県南伊勢町
等では現在でも富士垢離の行事が継続されている。写真村山浅間
神社の写真B−4須山浅間神社富士山の南東麓、須山口登山道の
入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社である。その
起源は1598年作の社伝旧記によると110年、日本武尊が蝦
夷征伐の際、この地を訪れ浅間神社を創起し、さらに552年有
力豪族の蘇我稲目が再興したとある。記録上神社の存在が確認で
きるのは1524年で修築時の棟札による。また、市天然記念物
である境内の杉は、樹齢500年以上と推定されており、遅くと
もこの時期までに須山浅間神社が現在の地に存在したと推測でき
る。現在の社殿は1823年の再建である。1707年の宝永噴
火により登山道も含め大きな被害を受けたが、1780年に登山
道が再興され、1800年の御縁年には約5,400人の登拝者
があった。須山浅間神社は12軒の御師とと

中心的存在であり、村全体で須山口登山道と山頂部銀明水を管理
した。また、京都吉田家より神道裁許状を得たり、朝廷・公家に
銀明水を献上したりする等して権威を高めているが、山頂部で発
生した問題については、浅間大社の判断を仰いでいる。須山浅間
神社は村山三坊とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で富士
峯修行の一環としての祈祷が行われていた。1883年、御殿場
口登山道が開設され、1899年の東海道本線開通による御殿場
口利便性の向上は須山口からの登拝者や登山者を奪い、加えて1
912年登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となったた
め、須山口は衰退した。しかし、その後都市化の影響を余り受け
なかったため、須山浅間神社周辺は日本的伝統に基づく村落景観
を保っている部分が多い。写真須山浅間神社の写真B5冨士浅間
神社富士山東麓、須走口登山道の起点に位置し、木花開花姫命を
主祭神とする神社である。境内西側には鎌倉往還が通り、神社周
辺は古来、交通の要衝であった。社伝では802年、噴火の鎮火
祈願のために祭事を行い、翌年噴火が収まったことから、807
年に祭事の跡地であるとされる現在の地にお礼のために社殿を造
営したとされる。その他の文書で確実に存在が確認できるのは、
1571年のものである。16世紀には地元支配者である武田氏
の保護を受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。17世紀
以降、須走浅間神社は当時の須走村の御師などと共に須走口登山
道を支配し、山頂部薬師嶽(現−31−久須志岳)の薬師堂開帳
の権利及び山頂部の散銭取得権の一部を得ていた。これら山頂部
の権利については八合目以上の支配権を主張する富士山本宮浅間
大社と争いになり、須走村は1703年と1772年の2回、幕
府に裁定を求めている。この結果、これらの権利は幕府によって
認められた。また、冨士浅間神社神主や御師は須山の場合と同じ
く、京都吉田家より神道裁許状を得て権威を高めている。社殿は
、記録の残っている範囲では1662年、地元領主である沼津城
主大久保氏や小田原藩主稲葉氏などの援助によって修造が行われ
た。しかし1707年の宝永噴火では3m以上の降砂に埋もれ崩
壊したため、1718年に再建された。この

寺保存法の下に東宮本殿が特別保護建造物の指定1952年所在地が文化財保護法
の下に名勝、ついで特別名勝に指定1952年東宮本殿・解体修理工事を行う19
53年文化財保護法の下に本殿、西宮本殿が重要文化財の指定1962年西宮本殿
・解体修理工事を行う(〜64年)1978年「特別名勝富士山保存管理計画」を
策定1973年本殿・部分解体修理工事を行う(〜74年)1981年東宮本
部分修理工事を行う(〜82年)1997年東宮本殿・部分修理工事を行う200
8年本殿・屋根の葺替え修理工事を行う(〜09年)2010年「重要文化財北口
本宮冨士浅間神社保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に他の文化財
とともに史跡富士山として指定(予定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を
策定(予定)A7西湖富士山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山の北北
西に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この西
湖にも多くの富士講徒が訪れた。西湖と精進湖はかつて「?の海(せのうみ)」と
呼ばれる一つの湖だったが、日本最古の歌集・万葉集で?の海が詠われたほか、い
くつかの文学作品ともゆかりがある。写真西湖の写真A8精進湖富士山の火山活動
により形成された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の湖を巡って修
−27−行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多くの富士講徒が訪れた
。富士山北麓で最初の洋風ホテルはこの精進湖畔に建てられ、多くの西洋人が訪れ
た。20世紀初頭には、絵葉書に使われた富士山の写真はこの精進湖からのものが
ほとんどだった。写真精進湖の写真A9本栖湖富士山の火山活動により形成された
堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡り
が行われたが、この精進湖にも多くの富士講徒が訪れた。本栖湖は、日本の紙幣の
図柄として何度も使用された写真の撮影地点であり、重要な展望地点(viewp
oint)である。富士山は、プロ・アマを問わず多くの写真家に愛され、撮影さ
れてきた。なかでも、生涯にわたり富士山を追い続けた岡

梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖
湖の湖面全域での動力船の使用が規制される2011年文化財保護法の下に名勝に
指定(予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)(2)信仰
B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に位置する神社であり、この神社とともに
発展してきた富士宮市の中央部に所在する。富士山の神とされる木花之佐久夜毘売
命を主祭神とし、現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮とされている。境
内には登拝の際に水垢離場として使用された湧玉池がある。浅間大社は7世紀ごろ
、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたとされ
る。創建当時は富士山の噴火が盛んであり、これを畏れ鎮めることを信仰の目的と
していた。朝廷も浅間大神に他の山よりも高い神階を与えることで崇敬の念を示し
た。12世紀後半ごろには、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け大日如来の垂迹で
ある「浅間大菩薩」と見なされるようになり、12世紀頃より政治の実権を掌握し
た武士階級に戦勝の神として信仰された。15世紀ごろ、登拝が盛んになるにつれ
て、浅間大社は村山浅間神社とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周
辺に建設された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な儀式と位置
づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。同時期の絵図である絹
本著色富士曼荼羅図には、浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する
人々の姿が描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されてい
く中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604年現在の社殿が造営されるとと
もに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は
山頂部の管理・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂上部の
大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈以降、村山浅間神社の衰退
と1906年の村山浅間神社を経由しない登山道の開削などにより、浅間大社には
多くの参拝者が訪れた。また、明治政府の政策により、一

使用し、2009年の修理も含め何回かの修理がおこなわれてい
る。境内には水路があり、水垢離に利用された。18世紀末から
19世紀初頭にかけて富士講が隆盛を迎えると須走口にも関東か
らの登拝者が登山又は下山の際立ち寄った。その数は1800年
の御縁年の際に約27,300名であった。同時期から20世紀
前半まで富士講信者は境内に登山回数等の記念碑を約80基造営
した。また、神社には神社神官や御師が発行した木版印刷による
神影や神符の版木が保管されている。写真冨士浅間神社の写真B
6河口浅間神社古くから富士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社(
山宮浅間神社か?)が執り行っていたが、864年〜866年に
北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられるこ
ととなった。それが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の
届かなかった河口浅間神社であるとされる。浅間神社を中心とし
た河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、
富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落として発展を遂げた
。しかし、江戸における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師
の隆盛により、河口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰
退してしまった。ただし、河口浅間神社は、現在も富士山と密接
に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富
士山信仰を語る上で欠かすことができない資産である。写真河口
浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯2011年文化財
保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定)
2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B7冨士
御室浅間神社冨士御室浅間神社は吉田口二合目に鎮座した本宮(
もとみや)と、河口湖畔に建立された里宮から構成されている。
8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初と
され、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もある。
富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室
浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂
が整備されたようである。また、社記によると958年、二合目
は冬季における参詣が難儀であることから河口湖畔の現在地に里
宮が建立されたという。江戸時代以降富士講

吉田口登山道の信仰拠点の一つとしてこの二合目の役割はさらに
増すことになる。しかし、昭和に入ると富士信仰のありかたの変
化や、富士スバルラインの開通等もあって吉田口登山道は衰退す
る。それに伴い二合目を通過する登拝者も激減する。また、富士
御室浅間神社本宮を支えてきた氏子にとっても、その維持管理が
困難となって、1973年から74年にかけ

吉田口登山道の信仰拠点の一つとしてこの二合目の役割はさらに
増すことになる。しかし、昭和に入ると富士信仰のありかたの変
化や、富士スバルラインの開通等もあって吉田口登山道は衰退す
る。それに伴い二合目を通過する登拝者も激減する。また、富士
御室浅間神社本宮を支えてきた氏子にとっても、その維持管理が
困難となって、1973年から74年にかけて、−32−本殿

里宮地内に移転することとなる。修験や登拝といった様々な富士
信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土神
としての里宮が一体となって機能してきた神社である。写真冨士
御室浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1973年本
宮本殿・二合目から里宮境内地に移築、整備された(〜74年)
1985年本宮本殿・文化財保護法の下に重要文化財として指定
1983年回廊修理工事を行う1995年外部の漆塗の塗り直し
ほか一部補修を行う2010年「重要文化財冨士御室浅間神社本
殿保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に他の文化
財とともに史跡富士山として指定(予定)2011年「史跡富士
山保存管理計画」を策定(予定)B8御師住宅御師は、道者に宿
や食事を始め登拝のための一切の世話をするとともに、登拝の指
導や祈祷を行うことを業とした。富士山御師として代表的なのは
、吉田口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北
東方向の傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田の御師であ
る。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路
を設け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている
。玄関から奥へ客室が続き、最奥部には神殿が設けられている。
最古の部類に入る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に
建てられ富士講最盛期の典型例とされる小佐野家住宅が代表的で
ある。旧外川家住宅は、富士北麓の信仰登山口集落である富士吉
田市上吉田・下宿の東側南端に位置する。1572年の町割によ
って成立した東西方向の奥行きが150mほどの長大な短冊形の
屋敷地に建てられている。外川家は、屋号を塩屋ないし大外川、
塩廼屋(しおのや)と号し、富士信仰における上吉田に居住し、
下総地域を檀家とした富士山御師である。1572年の「吉田宿
屋敷割帳写」には、外川家の位置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が
記されており、外川家ではこの人物を中興の初代としている。ま
た、1669年の「検地帳」では、塩屋多兵衛の屋敷として確認
される。御師としての活動は江戸末期頃隆盛期を迎えるが、19
62年に御師を廃業している。建物の老朽化に伴い、所有者が取
り壊す意向であったが、富士吉田市が寄贈を

神社に至る。道の出発点及び途中には1691年に置かれた距離を示す石碑が少な
くとも四箇所残っている。写真山宮浅間神社の写真B3村山浅間神社山宮浅間神社
の南東約4km、富士山南麓に張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位
置し、木花開花姫命を主祭神とする神社である。神社と一体化した範囲には、現在
別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇などが存在している。これらは1
868年の神仏分離令までは一体のものであり、富士山興

ら2007年にかけ大規模保存修理事業を行った上で、2008
年4月から富士吉田市歴史民俗博物館の附属施設として一般公開
されている。写真旧外川家住宅の写真表法的保護、修理・整備の
経緯2006年大規模保全修理を行う2008年富士吉田市歴史
民俗博物館の附属施設として一般公開を行う2010年「山梨県
指定有形文化財旧外川家住宅保存活用計画」を策定2011年文
化財保護法の下に重要文化財として指定小佐野家住宅は、富士講
によって大きく発展した御師集落である富士吉田市上吉田地区に
あって、富−33−士山に登拝する人々を宿泊させた宿坊として
、代表的な御師住宅である。上吉田地区は、富士の雪代の被害を
避けるため、1572年に旧地である古吉田地区から集落ごと移
転し、北口本宮冨士浅間神社の北西隅から北東方向の傾斜面に沿
って短冊状に町割が行われたと伝えられている。小佐野家住宅は
、南北の間口が16m、東西方向の奥行きが150mほどの長大
な屋敷地に建てられている。小佐野家は、元亀の集落移転に合わ
せて現在地に移転してきたと伝えられる。代々御師を勤め、屋号
を堀端屋と号し、江戸時代には当主は小佐野壱岐あるいは小佐野
大隈と名乗っていた。当家に宿泊する参詣者は年間1,000人
に達したとされる。現在、屋敷地の東側には所有者が住む住居が
建築されており、小佐野家住宅には所有者の親族が居住している
。写真小佐野家住宅の写真表法的保護、修理・整備の経緯197
6年文化財保護法の下に重要文化財として指定1977年消防設
備設置を行う1979年屋根の葺替えを行う1996年雨樋いの
補修を行う1997年主屋、蔵の修理を行う1998年主屋、蔵
の修理を行い2010年「重要文化財小佐野家住宅保存活用計画
」を策定B9山中湖富士山の火山活動によって形成された堰止湖
で、富士山の北東に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する
内八海巡りが行われたが、この山中湖にも多くの富士講徒が訪れ
た。古くから景勝地として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式
ホテルが建てられたほか、別荘地としても整備された。ゆかりの
ある芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画が散見する。富士
山の頂上付近に日の入りが重なる様子はダイ

ばれていた。なお、周辺には興法寺の維持・運営にあたっていた道者坊の村山三坊
(池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡が発掘調査によって確認されている。そ
の起源は、1149年の記録に見える修行僧末代上人による富士山頂への大日寺の
建立にあるとされる。末代上人が富士山中又は村山の地に興法寺を建立したとの記
録も残されている。これらの記録等から、12世紀中ごろに村山周辺において修験
道または密教系の宗教活動が行われていたと推測できる。1259年には、現存す
る大日如来が寄進されたことを仏像の銘で確認できる。末代以後、その流れを汲み
富士山で修行する人々が現れ、村山が富士山修験道(富士行)の拠点となったと考
えられる。14世紀初めには僧の頼尊が修験者とその活動を組織化し、興法寺を再
興したとされる。15世紀に入ると興法寺とそれを支える宿坊の存在が現存する大
日如来の銘(1478)で確認できる。1482年には修験道本山派の本寺である
聖護院と関係を持ち、その権威を高めた。16世紀中には十数軒あった道者坊が村
山三坊に統合され、その活動を資料で確認できる。坊に所属する山伏は夏に「富士
峯修行」を山中及び山頂で行った。また、富士山への一般の登拝者も増加し、夜間
に白装束をまとい、仏がいるとされた山頂を目指す多くの人々の様子が「絹本著色
富士曼荼羅図」に描かれている。村山の山伏は、富士峰修行の際に東麓、南麓の村
を年一回巡回し加持祈祷等を行った。また18世紀、富士講の隆盛に対抗し西日本
の一般登拝者中の有力者に対して「先達」の免許を発行し組織化を図ると−30−
ともに、登拝が困難な人々に対しては川辺で垢離を取り、祈ることで登拝と同等の
利益があるとする「富士垢離」の手法を広めている。加えて富士山を航海の目印と
する伊豆半島の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法寺の勢力は
地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世紀前半が最も強かったが、それ
以降衰退しつつも聖護院の力を背景に一定の権威をもち、登山道及びその頂上部の
大日堂周辺を支配した。社殿については、1697年徳川

れ、多くの写真家を集める。写真山中湖の写真B10河口湖富士
山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山の北に位置する
。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、こ
の河口湖にも多くの富士講徒が訪れた。古くから景勝地として有
名で、20世紀前半には湖畔に洋式ホテルが建てられた。ゆかり
のある芸術家も多く、湖を題材にした文学や絵画は、富士五湖中
この河口湖が最も多い。葛飾北斎や歌川広重といった浮世絵師も
、河口湖越しに見える富士山を描いている。写真河口湖の写真表
法的保護、修理・整備の経緯(B9・B10)1936年所在地
が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山
梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然
公園法の下に本栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制される−
34−2011年文化財保護法の下に名勝に指定(予定)201
1年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八
海富士山の北東、忍野村忍草にある、富士山の伏流水による八つ
の湧水地(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池
、菖蒲池)の愛称である。それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に
関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢
れを祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞられ「富士
御手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ
、1843年に富士講道者によって再興されたとされる。写真忍
野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周辺図表法的保護、修理
・整備の経緯1934年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀
念物に指定2010年忍野村景観計画を策定、忍野八海周辺を景
観形成重点区域に指定2010年街なみ環境整備事業により忍野
八海周辺環境の整備を行う(〜14年)2011年「天然記念物
忍野八海保存管理計画」を策定(予定)B12船津胎内樹型16
17年、富士講の祖とされる長谷川角行が富士登拝の際、現船津
胎内樹型の南方に焼入(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規
模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見し、浅間明神を祀っ
た。1673年、富士講道者村上光清により現船津胎内樹型が発
見され、開祖が祀った焼入の地の浅間明神が

在の大日堂は建築様式や部材の状況から19世紀半ばに建立されたと推定される。
また、浅間神社は1913年改築されたものを基本としている。1868年、神仏
分離令により浅間神社と興法寺(大日堂)は分離され、山伏は還俗し、1906年
の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし、富士峰修行と加持祈祷は19
40年代まで継続された。現在は1970年代より活発になった地域住民による伝
統復活のための活動が見られ、水垢離等の行事が行われている。また、村山浅間神
社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀市、三重県南伊勢町等では現在でも富士
垢離の行事が継続されている。写真村山浅間神社の写真B−4須山浅間神社富士山
の南東麓、須山口登山道の入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社であ
る。その起源は1598年作の社伝旧記によると110年、日本武尊が蝦夷征伐の
際、この地を訪れ浅間神社を創起し、さらに552年有力豪族の蘇我稲目が再興し
たとある。記録上神社の存在が確認できるのは1524年で修築時の棟札による。
また、市天然記念物である境内の杉は、樹齢500年以上と推定されており、遅く
ともこの時期までに須山浅間神社が現在の地に存在したと推測できる。現在の社殿
は1823年の再建である。1707年の宝永噴火により登山道も含め大きな被害
を受けたが、1780年に登山道が再興され、1800年の御縁年には約5,40
0人の登拝者があった。須山浅間神社は12軒の御師とともに当時の須山村の中心
的存在であり、村全体で須山口登山道と山頂部銀明水を管理した。また、京都吉田
家より神道裁許状を得たり、朝廷・公家に銀明水を献上したりする等して権威を高
めているが、山頂部で発生した問題については、浅間大社の判断を仰いでいる。須
山浅間神社は村山三坊とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で富士峯修行の一
環としての祈祷が行われていた。1883年、御殿場口登山道が開設され、189
9年の東海道本線開通による御殿場口利便性の向上は須山口からの登拝者や登山者
を奪い、加えて1912年登山道の一部が陸軍演習場とな

神誕生の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に
御子を出産したという故事に倣い社号を無戸室浅間神社と名付け
た。富士道者は、富士登拝の際に、樹型を入って身を清める風習
があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付けが行われるとと
もに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫な
どが祀られている。写真船津胎内樹型の写真表法的保護、修理・
整備の経緯1929年史跡名勝天然記念物法の下に天然紀念物と
して指定2010年「山梨県南都留郡富士河

め、須山口は衰退した。しかし、その後都市化の影響を余り受けなかったため、須
山浅間神社周辺は日本的伝統に基づく村落景観を保っている部分が多い。写真須山
浅間神社の写真B5冨士浅間神社富士山東麓、須走口登山道の起点に位置し、木花
開花姫命を主祭神とする神社である。境内西側には鎌倉往還が通り、神社周辺は古
来、交通の要衝であった。社伝では802年、噴火の鎮火祈願のために祭事を行い
、翌年噴火が収まったことから、807年に祭事の跡地であるとされる現在の地に
お礼のために社殿を造営したとされる。その他の文書で確実に存在が確認できるの
は、1571年のものである。16世紀には地元支配者である武田氏の保護を受け
、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。17世紀以降、須走浅間神社は当時の須
走村の御師などと共に須走口登山道を支配し、山頂部薬師嶽(現−31−久須志岳
)の薬師堂開帳の権利及び山頂部の散銭取得権の一部を得ていた。これら山頂部の
権利については八合目以上の支配権を主張する富士山本宮浅間大社と争いになり、
須走村は1703年と1772年の2回、幕府に裁定を求めている。この結果、こ
れらの権利は幕府によって認められた。また、冨士浅間神社神主や御師は須山の場
合と同じく、京都吉田家より神道裁許状を得て権威を高めている。社殿は、記録の
残っている範囲では1662年、地元領主である沼津城主大久保氏や小田原藩主稲
葉氏などの援助によって修造が行われた。しかし1707年の宝永噴火では3m以
上の降砂に埋もれ崩壊したため、1718年に再建された。この後もこの際の部材
を使用し、2009年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。境内には水
路があり、水垢離に利用された。18世紀末から19世紀初頭にかけて富士講が隆
盛を迎えると須走口にも関東からの登拝者が登山又は下山の際立ち寄った。その数
は1800年の御縁年の際に約27,300名であった。同時期から20世紀前半
まで富士講信者は境内に登山回数等の記念碑を約80基造営した。また、神社には
神社神官や御師が発行した木版印刷による神影や神符の版

然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計画書」を策定B13吉
田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年に富士道者により整備さ
れた「御胎内」である。吉田胎内本穴の奥には、石祠があって富
士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫が祀られている。
樹型内に入ると横穴の正面には、食行身禄を祀る石祠があり、そ
の下段には、さらに横穴があり左右に分かれている。右の穴が天
津彦彦火瓊瓊杵命を祀る父の胎内で、左の穴が木花開耶姫を祀る
母の胎内である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方
まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。−35−本穴につい
ては、古くから冨士山北口御師団が管理している。写真吉田胎内
樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天
然紀念物法の下に天然紀念物として指定2010年「天然記念物
吉田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士山
西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置する。木花開花
姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間神社と富士講の人
々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴がある。長
さ約83mの人穴は約11,000〜8,000年前に流出した
犬涼山溶岩流中に生成したものである。1300年前後に成立し
た文書である吾妻鏡によれば人穴は霊的な場所であり、地元では
「浅間大菩薩の御在所」とみられていたことが記述されている。
この内容は遅くとも1603年までに説話化され、多くの人にそ
の存在が知られていた。富士講関連の文書では1558年、開祖
とされる長谷川角行が役行者のお告げにより人穴に至り、洞窟内
で立行等を達成し、浅間大菩薩よりお告げを得たとしている。角
行は人穴を浄土への入り口とし、「西の浄土」と呼んだため、主
に19世紀以降、人穴は富士講の人々より聖地として信仰を集め
、参詣だけでなく修行を行う者も見られた。その大部分は吉田口
登山道の利用者と推定される。また、塔頭の碑文から村山三坊と
の関係もあったと推定されている。人穴浅間神社の創建は明確で
はないが、1648年及び1665年、その前身である光?寺が
富士講二世日珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)により
再興された記述があり、19世紀前半に同寺

真冨士浅間神社の写真B6河口浅間神社古くから富士山に関わる祭祀は南麓の浅間
神社(山宮浅間神社か?)が執り行っていたが、864年〜866年に北麓で起こ
った噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられることとなった。それが、富士山
を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社であるとされる。浅
間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、
富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落として発展を

より再興された。1868年の神仏分離令により20世紀までに
は大日堂が人穴村の氏神としての浅間神社となった。1942年
、付近が軍用地となったため一時移転したが、1954年に現在
地に復興された。境内の碑塔は、その4分の3(194基)が墓
碑ないし供養碑で人穴への分骨埋葬を望んだ富士講の信仰による
ものである。そのほかに富士山に何回も登ったという登拝記念や
大願成就の碑塔や角行二百年忌の宝篋印塔などがある。碑塔は富
士講の講毎に群を成した所があり、その目的は講の勢力を誇るた
めと推定されている。碑塔で建立年代のわかる89基の内、富士
講が隆盛した18世紀末から19世紀前半(1781から185
0年)に建立されたものが半数(44基)、19世紀末より20
世紀前半(1871から1940年)のものが3分の1(29基
)を占める。写真B14の写真B15白糸ノ滝人穴の北方約5k
mにある落差約20〜25m・幅約120〜210mの数百の流
れを持つ滝である。滝は約1万年前に噴出した白糸溶岩流の末端
から湧き出す一日平均13万?の水を源としている。滝の名前は
湧水の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えるため名づけ
られた。湧水のメカニズムは、湧玉池と同様であり、透水性の白
糸溶岩流と不透水性の古富士泥流の境界に降水・雪解け水が滞水
し、三層の溶岩の隙間、及び溶岩流と泥流層の間より湧き出して
いるものである。このメカニズムが解明される前の19世紀半ば
の資料「不二山道知留邊」ではその起源を富士五湖の伏流水とし
ていた。白糸ノ滝は富士講関連の文書では、開祖とされる長谷川
角行が人穴での立行と合わせて水行を行った地と記されている。
−36−その後、白糸の滝は富士講を中心とした人々の巡礼の場
となった。その様子は1845年と1854年にこの地を訪れた
富士講先達の記録で確認でき、滝つぼの中で垢離をとる信者の周
囲に虹が出来る現象を「御来光」としている。また、周辺にある
食行身禄の碑や不動尊が同書の挿画に描かれている。そのほかの
19世紀の登山記でも人穴と共にその存在が長谷川角行との関わ
りを通して紹介されている。また、白糸ノ滝は景勝地としても有
名であり、多くの和歌・絵画の題材となって

おける富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集落とし
ての機能は、19世紀以降衰退してしまった。ただし、河口浅間神社は、現在も富
士山と密接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信
仰を語る上で欠かすことができない資産である。写真河口浅間神社の写真表法的保
護、修理・整備の経緯2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士
山として指定(予定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B7
冨士御室浅間神社冨士御室浅間神社は吉田口二合目に鎮座した本宮(もとみや)と
、河口湖畔に建立された里宮から構成されている。8世紀初めに吉田口登山道二合
目に祭場をしつらえたのが最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとす
る文献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅
間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備されたようで
ある。また、社記によると958年、二合目は冬季における参詣が難儀であること
から河口湖畔の現在地に里宮が建立されたという。江戸時代以降富士講の隆盛にと
もない、吉田口登山道の信仰拠点の一つとしてこの二合目の役割はさらに増すこと
になる。しかし、昭和に入ると富士信仰のありかたの変化や、富士スバルラインの
開通等もあって吉田口登山道は衰退する。それに伴い二合目を通過する登拝者も激
減する。また、富士御室浅間神社本宮を支えてきた氏子にとっても、その維持管理
が困難となって、1973年から74年にかけて、−32−本殿を里宮地内に移転
することとなる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置づけられる
二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神社であ
る。写真冨士御室浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1973年本宮本
殿・二合目から里宮境内地に移築、整備された(〜74年)1985年本宮本殿・
文化財保護法の下に重要文化財として指定1983年回廊修理工事を行う1995
年外部の漆塗の塗り直しほか一部補修を行う2010年「

写真表法的保護、修理・整備の経緯1936年所在地が国立公園
法の下に(富士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝天然紀
念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987年富士宮市
により「白糸ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士宮市によ
り保存管理計画が改定され、これにともなった整備計画に基づき
、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保松原富士山頂の
南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した長さ約7kmの砂
嘴をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本の黒松が外
海側海岸線4kmを中心に繁茂し、その中でも樹齢約650年と
いわれる「羽衣の松」付近は、富士山と砂浜の松という日本で好
まれた景観を組み合わせて望むことができる景勝地として知られ
ている。三保松原のある三保半島は約6000年前に現在の形と
なったと考えられ、三保の名前は内海側の三つの岬を稲穂にたと
えたという説が有力である。かつては半島一帯に松が繁茂し、8
世紀初頭には松原自体を景勝地として捉えた和歌が詠まれ、「万
葉集」に掲載された。その後遅くとも13世紀初頭までに三保松
原は後鳥羽上皇など中央の権力者に富士山と組み合わされた景勝
地として認識され、14〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と
足利義教が三保半島と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船で
渡り富士山を眺める行事を行い、16世紀には徳川家康が三保半
島内海側に富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌
等の詩の題材となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞
台とした謡曲(能)「羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した
。降臨した天女と漁師との出会いと別れを描いたこの話の最終場
面ではヒロインの天女が富士山方向へ飛び去っていく描写が見ら
れる。これはすでに成立していた「竹取物語」で示された富士山
の噴煙が天上と地上とを結んでいるとする考えとの関係が指摘さ
れている。この作品は、19世紀後半、海外へ伝えられ、イェー
ツ、パウンドといったモダニズムの作家に影響を与えるとともに
、伝統芸能である「能」が世界に広まるきっかけを作った作品で
ある。また、絵画でも15〜16世紀には三保松原を右に富士山
を左に配する構図が描かれ、この構図は狩野

神社本殿保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに
史跡富士山として指定(予定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予
定)B8御師住宅御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の世話をすると
ともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。富士山御師として代表的なのは
、吉田口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に
沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をなし
、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が
建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥部には神殿が設けられている。最古の
部類に入る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の
典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧外川家住宅は、富士北麓の信仰登
山口集落である富士吉田市上吉田・下宿の東側南端に位置する。1572年の町割
によって成立した東西方向の奥行きが150mほどの長大な短冊形の屋敷地に建て
られている。外川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩廼屋(しおのや)と号し、富
士信仰における上吉田に居住し、下総地域を檀家とした富士山御師である。157
2年の「吉田宿屋敷割帳写」には、外川家の位置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が記
されており、外川家ではこの人物を中興の初代としている。また、1669年の「
検地帳」では、塩屋多兵衛の屋敷として確認される。御師としての活動は江戸末期
頃隆盛期を迎えるが、1962年に御師を廃業している。建物の老朽化に伴い、所
有者が取り壊す意向であったが、富士吉田市が寄贈を受け、2006年から200
7年にかけ大規模保存修理事業を行った上で、2008年4月から富士吉田市歴史
民俗博物館の附属施設として一般公開されている。写真旧外川家住宅の写真表法的
保護、修理・整備の経緯2006年大規模保全修理を行う2008年富士吉田市歴
史民俗博物館の附属施設として一般公開を行う2010年「山梨県指定有形文化財
旧外川家住宅保存活用計画」を策定2011年文化財保護

、19世紀に至るまで日本画・浮世絵において富士山を描く際の
典型的構図とされた。また、20世紀には和田英作が「羽衣の松
」付近から見た富士山を数多く描いた。三保松原は16世紀以降
、江戸幕府の直轄地となり松が守られてきた。江戸幕府滅亡後は
内海側の開発が進んだが、外海側の景観は保たれ、1922年、
国内初の名勝として国文化財に指定された。

て指定小佐野家住宅は、富士講によって大きく発展した御師集落である富士吉田市
上吉田地区にあって、富−33−士山に登拝する人々を宿泊させた宿坊として、代
表的な御師住宅である。上吉田地区は、富士の雪代の被害を避けるため、1572
年に旧地である古吉田地区から集落ごと移転し、北口本宮冨士浅間神社の北西隅か
ら北東方向の傾斜面に沿って短冊状に町割が行われたと伝えられている。小佐野家
住宅は、南北の間口が16m、東西方向の奥行きが150mほどの長大な屋敷地に
建てられている。小佐野家は、元亀の集落移転に合わせて現在地に移転してきたと
伝えられる。代々御師を勤め、屋号を堀端屋と号し、江戸時代には当主は小佐野壱
岐あるいは小佐野大隈と名乗っていた。当家に宿泊する参詣者は年間1,000人
に達したとされる。現在、屋敷地の東側には所有者が住む住居が建築されており、
小佐野家住宅には所有者の親族が居住している。写真小佐野家住宅の写真表法的保
護、修理・整備の経緯1976年文化財保護法の下に重要文化財として指定197
7年消防設備設置を行う1979年屋根の葺替えを行う1996年雨樋いの補修を
行う1997年主屋、蔵の修理を行う1998年主屋、蔵の修理を行い2010年
「重要文化財小佐野家住宅保存活用計画」を策定B9山中湖富士山の火山活動によ
って形成された堰止湖で、富士山の北東に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行
する内八海巡りが行われたが、この山中湖にも多くの富士講徒が訪れた。古くから
景勝地として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式ホテルが建てられたほか、別荘
地としても整備された。ゆかりのある芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画が
散見する。富士山の頂上付近に日の入りが重なる様子はダイアモンド富士と呼ばれ
、多くの写真家を集める。写真山中湖の写真B10河口湖富士山の火山活動により
形成された堰止湖で、富士山の北に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内
八海巡りが行われたが、この河口湖にも多くの富士講徒が訪れた。古くから景勝地
として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式ホテルが建て

による海岸侵食とマツクイムシによる松の枯死が進んでいるため
、静岡市及び地元民間団体による保護活動が行われている。写真
三保松原(現在の写真・静岡市)写真歌川広重の浮世絵−37−
写真三保松原の写真表法的保護、修理・整備の経緯1922年史
蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定1976年名勝「三保
松原」管理計画書を策定1977年名勝地内の一部が指定解除1
989年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定1990年名勝
地内の一部が追加指定及び指定解除2011年名勝「三保松原」
保存管理計画書を改定第3章保存管理の基本方針1顕著な普遍的
価値及び周辺環境を構成する諸要素世界文化遺産「富士山」の顕
著な普遍的価値は以下に示すとおりである。「富士山」の顕著な
普遍的価値富士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高3
776m)の秀麗な独立した火山として世界的に著名であり、そ
の自然的美しさと崇高さを基盤として日本人の自然に対する信仰
の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広重などによる
顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独自の芸術文化を
育んだ「名山」である。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸
術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深い
関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみならず、人間
と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型として
、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。本
計画では、顕著な普遍的価値に対し、資産に含まれる要素を「顕
著な普遍的価値を構成する諸要素」と「顕著な普遍的価値を構成
する諸要素と密接に関わる諸要素」に分類し、さらに緩衝地帯に
おける「周辺環境を構成する諸要素」を加え、表に示すとおり整
理を行った。A富士山山体及び登山道B信仰に関わる周辺のもの
C富士山から離れた眺望に関わるもの表富士山の構成要素A富士
山(富士山体)A1山頂信仰遺跡・富士山本宮奥宮・東北奥宮(
久須志神社)・金明水・銀明水・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志
岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)・大内
院・小内院・馬の背・東安河原・西安河原・虎岩(獅子岩)・割
石・雷岩・このしろが池・荒巻・吉田須走拝

術家も多く、湖を題材にした文学や絵画は、富士五湖中この河口湖が最も多い。葛
飾北斎や歌川広重といった浮世絵師も、河口湖越しに見える富士山を描いている。
写真河口湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(B9・B10)1936年所在
地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五湖の
静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖湖の湖面全域で
の動力船の使用が規制される−34−2011年文化財保

村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道・内浜道A2大宮・村山
口登山道・札打場・中宮八幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5
号建物跡・8号建物跡・12号建物跡・鳥居A3須山口登山道・
須山御胎内(溶岩洞穴)・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須
走口登山道・古御岳神社・迎久須志之神社・鳥居・狛犬・石碑A
5吉田口登山道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩
A6北口本宮冨士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・
西宮本殿・大塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9
本栖湖・湖水・中ノ倉峠からの展望B1富士山本宮浅間大社・神
立山・湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿)
・透塀・楼門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・
桜の馬場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡
(推定)・随身像・狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・
鉾立石・欄干橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅間神社・溶岩流
地形・社叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・石塁・玉
垣・遥拝所・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水
源地「竜頭ヶ池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神
社社殿・大日堂(興法寺)・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総
鎮守社)・石鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手水鉢)・石段(参道
)・狛犬B4須山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠・
手水舎・参道・鳥居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅
間神社)・社叢(浅間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根上
がりモミ・社殿・楼門・参道大鳥居・裏参道鳥居・富士塚狛犬・
富士講講碑群B6河口浅間神社・社殿、鳥居B7冨士御室浅間神
社・吉田口二合目(拝殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石
)・移築された二合目本殿B8御師住宅(旧外川家住宅、小佐野
家住宅)・主屋・離座敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9山中湖
・湖水B10河口湖・湖水B11忍野八海・八つの池(出口池、
御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・湧水B
12船津胎内樹型・溶岩樹型・無戸室浅間神社、石造物群B13
吉田胎内樹型・溶岩樹型・洞内の石祠、石造物群−40−B14
人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)・犬涼み溶

予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八海富
士山の北東、忍野村忍草にある、富士山の伏流水による八つの湧水地(出口池、御
釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)の愛称である。それぞれに八
大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの
水で穢れを祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞられ「富士御手洗(み
てらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者に
よって再興されたとされる。写真忍野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周辺図
表法的保護、修理・整備の経緯1934年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀
念物に指定2010年忍野村景観計画を策定、忍野八海周辺を景観形成重点区域に
指定2010年街なみ環境整備事業により忍野八海周辺環境の整備を行う(〜14
年)2011年「天然記念物忍野八海保存管理計画」を策定(予定)B12船津胎
内樹型1617年、富士講の祖とされる長谷川角行が富士登拝の際、現船津胎内樹
型の南方に焼入(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと
考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年、富士講道者村上光清によ
り現船津胎内樹型が発見され、開祖が祀った焼入の地の浅間明神が遷宮された。浅
間明神誕生の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に御子を出産し
たという故事に倣い社号を無戸室浅間神社と名付けた。富士道者は、富士登拝の際
に、樹型を入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付け
が行われるとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫など
が祀られている。写真船津胎内樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929
年史跡名勝天然記念物法の下に天然紀念物として指定2010年「山梨県南都留郡
富士河口湖町町内国指定天然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計画書」を策定
B13吉田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年に富士道者により整備された「御
胎内」である。吉田胎内本穴の奥には、石祠があって富士

神である木花開耶姫が祀られている。樹型内に入ると横穴の正面には、食行身禄を
祀る石祠があり、その下段には、さらに横穴があり左右に分かれている。右の穴が
天津彦彦火瓊瓊杵命を祀る父の胎内で、左の穴が木花開耶姫を祀る母の胎内である
。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に
登山した。−35−本穴については、古くから冨士山北口御師団が管理している。
写真吉田胎内樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天然紀
念物法の下に天然紀念物として指定2010年「天然記念物吉田胎内樹型保存管理
計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士山西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿
いに位置する。木花開花姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間神社と富士
講の人々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴がある。長さ約83m
の人穴は約11,000〜8,000年前に流出した犬涼山溶岩流中に生成したも
のである。1300年前後に成立した文書である吾妻鏡によれば人穴は霊的な場所
であり、地元では「浅間大菩薩の御在所」とみられていたことが記述されている。
この内容は遅くとも1603年までに説話化され、多くの人にその存在が知られて
いた。富士講関連の文書では1558年、開祖とされる長谷川角行が役行者のお告
げにより人穴に至り、洞窟内で立行等を達成し、浅間大菩薩よりお告げを得たとし
ている。角行は人穴を浄土への入り口とし、「西の浄土」と呼んだため、主に19
世紀以降、人穴は富士講の人々より聖地として信仰を集め、参詣だけでなく修行を
行う者も見られた。その大部分は吉田口登山道の利用者と推定される。また、塔頭
の碑文から村山三坊との関係もあったと推定されている。人穴浅間神社の創建は明
確ではないが、1648年及び1665年、その前身である光?寺が富士講二世日
珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)により再興された記述があり、19世
紀前半に同寺の大日堂が僧空胎により再興された。1868年の神仏分離令により
20世紀までには大日堂が人穴村の氏神としての浅間神社

て、富士山体を一周する。15〜16世紀ごろ富士講の祖とされ
る長谷川角行によって開かれたとされその後大沢崩れ−41−を
通るため富士講信者により修行の道として利用された。写真標高
約1500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺跡の分布
図・富士山本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、7、8月の開
山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命である。『本朝
世紀』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、富士山に
数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称

付近が軍用地となったため一時移転したが、1954年に現在地に復興された。境
内の碑塔は、その4分の3(194基)が墓碑ないし供養碑で人穴への分骨埋葬を
望んだ富士講の信仰によるものである。そのほかに富士山に何回も登ったという登
拝記念や大願成就の碑塔や角行二百年忌の宝篋印塔などがある。碑塔は富士講の講
毎に群を成した所があり、その目的は講の勢力を誇るためと推定されている。碑塔
で建立年代のわかる89基の内、富士講が隆盛した18世紀末から19世紀前半(
1781から1850年)に建立されたものが半数(44基)、19世紀末より2
0世紀前半(1871から1940年)のものが3分の1(29基)を占める。写
真B14の写真B15白糸ノ滝人穴の北方約5kmにある落差約20〜25m・幅
約120〜210mの数百の流れを持つ滝である。滝は約1万年前に噴出した白糸
溶岩流の末端から湧き出す一日平均13万?の水を源としている。滝の名前は湧水
の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えるため名づけられた。湧水のメカニ
ズムは、湧玉池と同様であり、透水性の白糸溶岩流と不透水性の古富士泥流の境界
に降水・雪解け水が滞水し、三層の溶岩の隙間、及び溶岩流と泥流層の間より湧き
出しているものである。このメカニズムが解明される前の19世紀半ばの資料「不
二山道知留邊」ではその起源を富士五湖の伏流水としていた。白糸ノ滝は富士講関
連の文書では、開祖とされる長谷川角行が人穴での立行と合わせて水行を行った地
と記されている。−36−その後、白糸の滝は富士講を中心とした人々の巡礼の場
となった。その様子は1845年と1854年にこの地を訪れた富士講先達の記録
で確認でき、滝つぼの中で垢離をとる信者の周囲に虹が出来る現象を「御来光」と
している。また、周辺にある食行身禄の碑や不動尊が同書の挿画に描かれている。
そのほかの19世紀の登山記でも人穴と共にその存在が長谷川角行との関わりを通
して紹介されている。また、白糸ノ滝は景勝地としても有名であり、多くの和歌・
絵画の題材となっている。写真B15の写真表法的保護、

た」とある。江戸時代には、村山三坊所有の大日堂があったが、
明治7年(1874)、廃仏毀釈により山中の仏像を取り除き、
大日堂跡へ奥宮を建立し、浅間大神を祭った。写真奥宮の写真[
奥宮周辺の石碑群](a)蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ
18p)奥宮の裏手、浅間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が
、もう一方には虎の絵が彫られている。天保年間(1830−3
4)に、岸岱が作ったとされる。(b)鎮國之山(高さ146×
幅61×厚さ31p)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之山」
と彫られている。明治31年(1898)に書家の中林梧竹によ
り建碑された。後年、落雷により破壊されたが、昭和42年(1
967)に再建された。・東北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮
の末社で、大名牟遅命、少彦名命を祀る。須走口登山道、吉田口
登山道の終点にある。室町時代以降、頂上の一つである久須志岳
(旧薬師ヶ嶽)に薬師堂があり、道者の登山切手を改めた。古く
は山役銭の徴収場であった。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀
釈により破却され、久須志神社と改称した。写真東北奥宮の写真
・金明水雪解け水が湧く泉で、その湧き水は霊験あらたかな「御
霊水」として珍重された。大正期の写真をみると、井戸は石組み
や木製の柵で囲われ、旗や幟などもみられる。・銀明水金明水と
おなじく、富士山頂の霊験あらたかな湧き水として珍重された。
『富士の歴史』によれば、「如何なる旱にも水の涸れることはな
い」と記している。写真銀明水の写真[銀明水の石碑群](a)
石碑@(高さ112×幅62p)銘文には「明治三拾九年」と「
大正五年」の2つの年代が確認できる。富士講の人々が建碑した
ものと考えられる。(b)石碑A(高さ162×下幅76×上幅
63p)表面に龍が、裏面には文字が刻まれている。(c)石碑
B(未計測)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石
碑群の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳
、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約8
00mの火口を囲む峰々の総称で、それぞれの峰に仏が住むとさ
れた。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉集註釈
』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあるこ

6年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝天
然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987年富士宮市により「白糸
ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士宮市により保存管理計画が改定され、こ
れにともなった整備計画に基づき、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保
松原富士山頂の南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した長さ約7kmの砂嘴
をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本の黒松

期には山頂の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考えられる。
江戸時代後期の地誌である『駿河国新風土記』には「ソノ名一定
ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカニカゾヘバ、十二
バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成する峰も、またその名
称も一定でないことがわかる。峰の名称は、明治8年に廃仏毀釈
により仏教色を払拭したものに変更された。以下、平成20年度
の静岡県埋蔵文化財調査研究所による発掘調査報告書で示された
9つの峰について、最高峰の剣ヶ峰からお鉢巡りの回り方である
時計回りの順に、記述する。なお、浅間大社では、伊豆岳以外の
8つをもって「八神峰」としている。図八葉の配置図[剣ヶ峰(
標高約3,776m)]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた
。遠くから見ると剣を立てたようにそびえ立っているためにこの
名があるという。道者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて多く
は登らなかったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、
採取を禁じられたが、麓からの石と取り替えるということが行わ
れていた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白
山岳(標高約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ばれた。
現在は一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち、また
二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725m)]か
つては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手にあたる。
他の峰々と比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥居が火口の方
向に向けて建てられている。頂上付近には石造物が残存し、首か
ら上と手首から先が欠損している。台座正面に「食行」「身禄」
の文字が確認できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就岳(標
高約3,734m)]かつては大日岳とも呼ばれ、大小2つの鳥
居が、噴火口の方角を向いて建てられている。[伊豆岳(標高約
3,748m)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅
間神社の歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻
の険を越え、成就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」と
ある。頂上には鳥居は見られない。[朝日岳(標高約3,733
m)]伊豆岳と同様、かつては地中から蒸気を発していたとされ
る。頂上に鳥居は存在しない。石積みがある

中心に繁茂し、その中でも樹齢約650年といわれる「羽衣の松」付近は、富士山
と砂浜の松という日本で好まれた景観を組み合わせて望むことができる景勝地とし
て知られている。三保松原のある三保半島は約6000年前に現在の形となったと
考えられ、三保の名前は内海側の三つの岬を稲穂にたとえたという説が有力である
。かつては半島一帯に松が繁茂し、8世紀初頭には松原自体を景勝地として捉えた
和歌が詠まれ、「万葉集」に掲載された。その後遅くとも13世紀初頭までに三保
松原は後鳥羽上皇など中央の権力者に富士山と組み合わされた景勝地として認識さ
れ、14〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と足利義教が三保半島と対岸(現静
岡市清水区興津)との間を船で渡り富士山を眺める行事を行い、16世紀には徳川
家康が三保半島内海側に富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌等の
詩の題材となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞台とした謡曲(能)「
羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した。降臨した天女と漁師との出会いと別れ
を描いたこの話の最終場面ではヒロインの天女が富士山方向へ飛び去っていく描写
が見られる。これはすでに成立していた「竹取物語」で示された富士山の噴煙が天
上と地上とを結んでいるとする考えとの関係が指摘されている。この作品は、19
世紀後半、海外へ伝えられ、イェーツ、パウンドといったモダニズムの作家に影響
を与えるとともに、伝統芸能である「能」が世界に広まるきっかけを作った作品で
ある。また、絵画でも15〜16世紀には三保松原を右に富士山を左に配する構図
が描かれ、この構図は狩野探幽により完成され、19世紀に至るまで日本画・浮世
絵において富士山を描く際の典型的構図とされた。また、20世紀には和田英作が
「羽衣の松」付近から見た富士山を数多く描いた。三保松原は16世紀以降、江戸
幕府の直轄地となり松が守られてきた。江戸幕府滅亡後は内海側の開発が進んだが
、外海側の景観は保たれ、1922年、国内初の名勝として国文化財に指定された
。現在、砂礫の供給減による海岸侵食とマツクイムシによ

。他の峰々と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳(標高約3,
722m)]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現
在は一般の立入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3,718
m)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息をとっ
たという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存在する。峰全体が
岩石からできている。[三島岳(標高約3,734m)]−43
−かつては文殊岳とも呼ばれた。頂上に木製の鳥居と、「三島岳
」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三島岳の石仏群とし
て、三島岳のふもと、かつて経塚が発見された付近に、10体の
石像が安置されている。これらは原位置を留めておらず、周辺に
あったものが集められたと考えられる。いずれも頭部を欠損して
いる。・大内院山頂の火口中央に存在する穴で、ここより雲が生
じ、風が起きるとされた。大内院(噴火口)は中央にある大きな
火口、小内院(阿弥陀ヶ窪)は雷岩の下の小さな火口を指す。神
や仏の居る所であると信じられ、登山者は各登山口に設けられた
拝所あるいは初穂打場から、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。
現在、噴火口への立入は禁止されている。写真大内院の写真・小
内院西安河原から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、大内
院との対比で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えら
れる。写真小内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫
と砂の急斜面である。お鉢巡りの道中で最大の難所である。現在
はブルドーザーが通れるよう整地されている。火口に向けて傾斜
しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らなかっ
たといわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部では稀
な広い平坦部である。かつては現世と来世の境である「賽の河原
」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を積み上げ石塔を作った。ま
た「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭が投げ込まれた場
所とされる。・西安河原東安河原と対をなす、剣ヶ峰から北側に
下りた付近の平坦部である。火口の外壁を行く外浜道と内壁を行
く内浜道との分岐点に位置する。・虎岩(獅子岩)大内院の南岸
に突き出た大岩で、形状が虎(獅子)のうずくまる姿に似ている
ことから名付けられた。・割石かつては「釈

ため、静岡市及び地元民間団体による保護活動が行われている。写真三保松原(現
在の写真・静岡市)写真歌川広重の浮世絵−37−写真三保松原の写真表法的保護
、修理・整備の経緯1922年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定197
6年名勝「三保松原」管理計画書を策定1977年名勝地内の一部が指定解除19
89年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定1990年名勝地内の一部が追加指
定及び指定解除2011年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定第3章保存管理
の基本方針1顕著な普遍的価値及び周辺環境を構成する諸要素世界文化遺産「富士
山」の顕著な普遍的価値は以下に示すとおりである。「富士山」の顕著な普遍的価
値富士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高3776m)の秀麗な独立し
た火山として世界的に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤として日本人
の自然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広重などによ
る顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独自の芸術文化を育んだ「名山」
である。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代を超えて
一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみ
ならず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型として、世
界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。本計画では、顕著な普遍
的価値に対し、資産に含まれる要素を「顕著な普遍的価値を構成する諸要素」と「
顕著な普遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素」に分類し、さらに緩衝
地帯における「周辺環境を構成する諸要素」を加え、表に示すとおり整理を行った
。A富士山山体及び登山道B信仰に関わる周辺のものC富士山から離れた眺望に関
わるもの表富士山の構成要素A富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡・富士山本宮
奥宮・東北奥宮(久須志神社)・金明水・銀明水・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志
岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)・大内院・小内院・馬の
背・東安河原・西安河原・虎岩(獅子岩)・割石・雷岩・

た溶岩で、溶岩が急速に冷えて固まったため割れていた。高さが
15m程あったが、現在は崩壊してしまっている。古くから行者
の修行場として知られ、食行身禄がここで入定しようとしたが、
大宮浅間の社人からの許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子
岩で入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にあ
る岩で、この方角から強い雷雲がくる事から

田須走拝所跡・須山拝所跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道・内浜道A2
大宮・村山口登山道・札打場・中宮八幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5号建物
跡・8号建物跡・12号建物跡・鳥居A3須山口登山道・須山御胎内(溶岩洞穴)
・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須走口登山道・古御岳神社・迎久須志之神社
・鳥居・狛犬・石碑A5吉田口登山道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽
子岩A6北口本宮冨士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・西宮本殿・大
塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9本栖湖・湖水・中ノ倉峠からの
展望B1富士山本宮浅間大社・神立山・湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿
・拝殿・幣殿)・透塀・楼門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・桜
の馬場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡(推定)・随身像・
狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・鉾立石・欄干橋(神路橋、神路枚橋)
B2山宮浅間神社・溶岩流地形・社叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・
石塁・玉垣・遥拝所・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水源地「竜
頭ヶ池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神社社殿・大日堂(興法寺)
・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総鎮守社)・石鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手
水鉢)・石段(参道)・狛犬B4須山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠
・手水舎・参道・鳥居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)・社叢
(浅間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根上がりモミ・社殿・楼門・参道大鳥
居・裏参道鳥居・富士塚狛犬・富士講講碑群B6河口浅間神社・社殿、鳥居B7冨
士御室浅間神社・吉田口二合目(拝殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石)・
移築された二合目本殿B8御師住宅(旧外川家住宅、小佐野家住宅)・主屋・離座
敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9山中湖・湖水B10河口湖・湖水B11忍野八
海・八つの池(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・
湧水B12船津胎内樹型・溶岩樹型・無戸室浅間神社、石

る。また、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現
し、8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々が
生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪解け
水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に姿を現
し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻−44−
かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士山頂の難所
として知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた石組みが
ある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところにあっ
たとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭を噴
火口の大内院に投げ入れる、そこに鎮座する浅間大菩薩を拝む場
所であった。また、御来光を拝む場所でもあった。現在は、付近
に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定することはで
きない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の
火口を臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山
スタンプが押された写真では、銀明水裏手の火口の縁に立ってい
る鳥居が確認できる。現在その地点には、2つの目印の石が存在
している。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』は
、大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『富士山
明細図』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。こ
のしろが池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、
それぞれ延徳2年(1490)、天文12年(1543)、寛永
元年(1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも
、剣ヶ峰の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山
・大宮拝所跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上
の神官が銅仏の破片と一石経を採集して下山、それを受けて昭和
5年に三島岳のふもとを調査したところ、経巻が詰まった経筒や
木槨、土器片などの遺物が出土した。富士山本宮浅間大社には、
現在10巻分の経巻が残っており、うち5巻は開かれていて内容
を確認できる。経巻のスタイルや計測値から平安時代後期までさ
かのぼる可能性が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内
浜道山頂を周回し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ
峰を下り西安河原の北側で道が二手に分かれ

型・溶岩樹型・洞内の石祠、石造物群−40−B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神
社)・犬涼み溶岩流・溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・碑塔群・参道・建物跡・参
道跡・道跡・炭焼窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古富士泥流堆積物・白糸溶岩流・
白糸の滝・音止の滝・鬢撫水・植物・富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景・富士
山の展望・富士の巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規制
B地区・第1種規制地区・第2種規制地区・第3種規制地

雷岩、割石を経て白山岳に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院
に沿って回り金明水に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関
わる工作物や自然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著し
く、現在は立入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図登
山道に要素が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約
3.5q、天照教社の西南西約1qの地点(標高約830m)に
、東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きな
ケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打とは、自分の
院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛んで
あった頃、山伏が峰入修行に先立ち札打を行った。昭和30年(
1955)頃までは、木に打ちつけた札が見られたという写真札
打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡)村山口登山道跡と富士
山スカイラインが交差する地点から南西方向に約500mの地点
に位置する。標高は約1,280mである。東側を走る沢から一
段上がった平坦面に所在している。平坦面は2段あり、上−45
−段には小さな祠が建てられている。また下段には、南東から北
西方向に石列が伸びている。江戸時代には馬返しと呼ばれ、駒立
小屋があったとされる。また、ここからは女人は登山道を登るこ
とを許されず、駒立小屋は女人堂として使われた時期もあったと
考えられる。下段平坦面の南側には溝が東西方向に延び、西側の
森林に突き当たって痕跡をたどれなくなる。木馬道である可能性
が指摘される。写真中宮八幡堂の写真・八大龍王中宮八幡堂跡よ
り北東に約100mの地点に「八大龍王」と刻まれた石碑と水神
の祠が並んで建てられている。水神祠には「文化十三年寅年六月
日」、八大龍王には「文化七年七月十七日」との銘が刻まれてい
る。駿河国大宮町神田の横関家の主人が、天保14年(1843
)から文久3年(1863)にかけて記録した『袖日記』には、
安政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘
ったので山が荒れた」との記述がある。この「中宮八幡堂の井戸
」とは、八大龍王前にある井戸跡を指すものと考えられている。
井戸跡は幅80p、深さ50pほどである。・5号建物跡4号建
物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面

川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹型等富士山体・側火山からの噴出物
による地形・富士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹型、
鳴沢氷穴、本栖風穴等)A森林、植栽樹木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等の
植栽樹木など)・自然林、森林施業地、人工林・社叢林、境内林・富士山特定地理
等保護林・富士箱根伊豆国立公園富士山管理計画区B保存管理又は公開活用を目的
とした建造物(展示館、管理棟、解説板など)・総合案内標識、解説板C道路とそ
の他の人工物(生活用道路、電柱、看板など)顕著な普遍的価値を構成する諸要素
と密接に関わる諸要素・富士山測候所・NTT富士山頂分室・便益施設@自然的要
素(山並み、河川など)A歴史的要素(埋蔵文化財、社寺境内、伝承地など)成す
る諸要素周辺環境を構B人文的要素(農耕地、市街地、道路、その他人工物)上表
において分類した諸要素について、以下に提示する。(1)顕著な普遍的価値を構
成する諸要素@富士山山体及び登山道A富士山富士山体のうち、標高約1500m
以上の範囲である。この範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重
なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各登山道における山
体の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観
点からも不可能になる地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、
とりわけこの「馬返」より上を目指して「オヤマ」又は「オヤマサマ」と呼び、富
士山の範囲と見なす地域もあった。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり
「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの
対象となることが多い範囲である。御中道巡りのルートには、現在も石碑が一部残
存している。ルートはほぼ森林限界に沿って、富士山体を一周する。15〜16世
紀ごろ富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされその後大沢崩れ−4
1−を通るため富士講信者により修行の道として利用された。写真標高約1500
m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺跡の分布図・

の中に5号建物跡がある。標高は約1,865mである。平成5
年の富士宮市による調査では、平場の北側の斜面の縁に3体の石
像が発見されていたが、平成20年の静岡県埋蔵文化財調査研究
所による調査では石像が4体見つかっている。木が倒れた際に地
面が掘り起こされ、地中にあった石像が地上に現われたと考えら
れる。うち1体の不動明王像には、文化7年(1810)の銘が
ある。背面には「瀧本前」と刻まれており、ここが「富士山表口
南面路次社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であ
ると推測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる。
廃仏毀釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では
5号建物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物
跡7号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位
置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物跡の
中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西
部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残
存しており、石段の東西には石垣が組まれている。また平場中央
部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存している。もう一つ
の北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸約15
m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の縁に石
組が確認できる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」として載って
おり、「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図」に描かれた
「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられる。室大日堂
は大日如来と役行者像が祀られていたとの記述が『駿河国新風土
記』にあり、また末代上人が建てた往生寺があったところだとも
いわれている。写真8号建物跡の写真・12号建物跡村山口登山
道跡に残る遺構のうちで、一番標高の高い位置(約2,390m
)にある。11号建物跡から北に50mの地点に所在する。東西
約8m、南北約5mの方形の区画が石組によって作られている。
東側には直径約90pの丸い穴が二つある。(同様の穴は他の建
物跡でも見られ、)便所跡と考えられる。−46−・鳥居登山道
跡の8合目上に、自然木により構築された鳥居が設置されている
。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており

登山道頂上に位置し、7、8月の開山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売
命である。『本朝世紀』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、富士山に
数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、写経を埋納下した」とある。江戸
時代には、村山三坊所有の大日堂があったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈に
より山中の仏像を取り除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅間大神を祭った。写真奥
宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a)蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ18p
)奥宮の裏手、浅間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵が
彫られている。天保年間(1830−34)に、岸岱が作ったとされる。(b)鎮
國之山(高さ146×幅61×厚さ31p)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之
山」と彫られている。明治31年(1898)に書家の中林梧竹により建碑された
。後年、落雷により破壊されたが、昭和42年(1967)に再建された。・東北
奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮の末社で、大名牟遅命、少彦名命を祀る。須走口
登山道、吉田口登山道の終点にある。室町時代以降、頂上の一つである久須志岳(
旧薬師ヶ嶽)に薬師堂があり、道者の登山切手を改めた。古くは山役銭の徴収場で
あった。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀釈により破却され、久須志神社と改称
した。写真東北奥宮の写真・金明水雪解け水が湧く泉で、その湧き水は霊験あらた
かな「御霊水」として珍重された。大正期の写真をみると、井戸は石組みや木製の
柵で囲われ、旗や幟などもみられる。・銀明水金明水とおなじく、富士山頂の霊験
あらたかな湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如何なる旱にも
水の涸れることはない」と記している。写真銀明水の写真[銀明水の石碑群](a
)石碑@(高さ112×幅62p)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2
つの年代が確認できる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。(b)石碑A
(高さ162×下幅76×上幅63p)表面に龍が、裏面には文字が刻まれている
。(c)石碑B(未計測)「大正十三年八月」と刻してあ

のである。A3須山口登山道図登山道に要素が点在している平面
図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧須山口登山道1合目(標高1,4
40m付近)にある全長10m余の溶岩洞穴である。洞穴の直径
は約1mで南東側と北西側に入口があり、内部を通り抜けること
ができる。登山者は、この洞穴を通って登山するのがならわしで
あった。かつて洞穴の延長は数10mあったが、関東大震災によ
り天井部分が崩落し、現在の長さになった。崩落した部分は、長
さ約30mのU字型の溝状の溶岩地形として

の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅
間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約800mの火口を囲む峰々の総称で、それ
ぞれの峰に仏が住むとされた。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉
集註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることから、鎌倉時代中期には山頂
の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考えられる。江戸時代後期の地誌である『
駿河国新風土記』には「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカ
ニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成する峰も、またその名
称も一定でないことがわかる。峰の名称は、明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払
拭したものに変更された。以下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所によ
る発掘調査報告書で示された9つの峰について、最高峰の剣ヶ峰からお鉢巡りの回
り方である時計回りの順に、記述する。なお、浅間大社では、伊豆岳以外の8つを
もって「八神峰」としている。図八葉の配置図[剣ヶ峰(標高約3,776m)]
かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた。遠くから見ると剣を立てたようにそびえ
立っているためにこの名があるという。道者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて
多くは登らなかったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、採取を禁じら
れたが、麓からの石と取り替えるということが行われていた。写真剣ヶ峰の写真図
気象庁測候所跡周辺の平面図[白山岳(標高約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳
とも呼ばれた。現在は一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち、また二
等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725m)]かつては薬師岳とも呼
ばれた。現在の久須志神社の裏手にあたる。他の峰々と比べ傾斜はなだらかである
。頂上には鳥居が火口の方向に向けて建てられている。頂上付近には石造物が残存
し、首から上と手首から先が欠損している。台座正面に「食行」「身禄」の文字が
確認できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就岳(標高約3,734m)]かつ
ては大日岳とも呼ばれ、大小2つの鳥居が、噴火口の方角

に残っている。この付近の溶岩は須山胎内溶岩と呼ばれている。
年代測定では1030〜1230年という結果が出ており、永保
3年(1083)の噴火時に噴出した可能性がある。平成21年
に実施した測量調査では、須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高
1,485m付近から認められており、須山口登山道がこの溶岩
流に沿って形成されていることが判明した。写真須山御胎内の写
真・石像須山御胎内の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置
されている。地元在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道
復興後の平成12年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内
の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山御
胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられてい
る。・標柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎内)」
と記された標柱が、富士山須山口登山道保存会によって設置され
ている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の溶岩地形脇に、
石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A4須走口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・古御岳神社冨士浅間神社の
境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在の社殿は、昭和
54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九尺の規模であ
る。その際、御室浅間神社を合祀した。神社の前には鳥居がある
。かつては3000坪の境内地を持ち、本殿、拝殿、庁舎を備え
ていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志之神社冨士浅間
神社の境外末社で、9合目(3,570m付近)に建てられてい
る。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室の中に
薬師如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理していた。元禄16
年(1703)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下書」に
「前薬師之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降には
すでに祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線香
を手向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろされ迎久須
志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以前は
登山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物の東側
を通るようになっている。迎久須志神社の直下には、「日ノ見御
前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を遥拝す

時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が置かれていた。富
士講の講中が大きな平石の上で朝日を拝したという。現在「日ノ
御子石」はないが、祠と鳥居が建てられている。写真迎久須志之
神社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(
登山道終点)、9合目、本8合目、本7合目、7合目、本5合目
、古御嶽神社前に自然木などにより構築された鳥居が設置されて
いる。・狛犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。
この場所は「鳥居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石
碑7合目付近の登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっ
と標高の高い場所にあったが、雪崩によって流されて別の場所に
転がっていたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置した
という。日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している
。A5吉田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山
道吉田口登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂
を目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者が吉田
口登山道を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓か
ら頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する
要素として、現存する吉田口登山道や沿道の宗教施設や山小屋等
信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここから急坂となり馬
が使えなくなることからこの名がついた。この一体は草山から木
山への境でもあり、ここからが御山の聖地ということにもなる。
富士山有料道路が開通する以前の馬返の周辺は、本格的な登り勾
配の坂道が始まる直前の平地であり、登拝者たちがいったん休憩
を取る場所として賑わった。登山期間には4軒の茶屋が営業され
、登拝者の便に供された。写真馬返周辺の写真・五合目ここは木
山と焼山の境界でもあるこの地は天地境(てんちのさかい)とも
言われる場所である。役場、中宮の社、小屋等がおかれていた。
ここの役場は、古くは中宮三社の神供料として役銭を納めた場所
である。後年は登山切手改め所となった。小屋については、江戸
後期には4軒があったが、すでに武田信玄の1566年の文書に
「中宮之室」という名称があり、戦国時代からこの地に小屋が設
けられ−48−ていたことがわかる。最盛期

に残っている。この付近の溶岩は須山胎内溶岩と呼ばれている。
年代測定では1030〜1230年という結果が出ており、永保
3年(1083)の噴火時に噴出した可能性がある。平成21年
に実施した測量調査では、須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高
1,485m付近から認められており、須山口登山道がこの溶岩
流に沿って形成されていることが判明した。写真須山御胎内の写
真・石像須山御胎内の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置
されている。地元在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道
復興後の平成12年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内
の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山御
胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられてい
る。・標柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎内)」
と記された標柱が、富士山須山口登山道保存会によって設置され
ている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の溶岩地形脇に、
石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A4須走口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・古御岳神社冨士浅間神社の
境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在の社殿は、昭和
54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九尺の規模であ
る。その際、御室浅間神社を合祀した。神社の前には鳥居がある
。かつては3000坪の境内地を持ち、本殿、拝殿、庁舎を備え
ていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志之神社冨士浅間
神社の境外末社で、9合目(3,570m付近)に建てられてい
る。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室の中に
薬師如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理していた。元禄16
年(1703)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下書」に
「前薬師之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降には
すでに祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線香
を手向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろされ迎久須
志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以前は

奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在は一般の立入が制限されている。[駒
ヶ岳(標高約3,718m)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息
をとったという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存在する。峰全体が岩石からで
きている。[三島岳(標高約3,734m)]−43−かつては文殊岳とも呼ばれ
た。頂上に木製の鳥居と、「三島岳」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三
島岳の石仏群として、三島岳のふもと、かつて経塚が発見された付近に、10体の
石像が安置されている。これらは原位置を留めておらず、周辺にあったものが集め
られたと考えられる。いずれも頭部を欠損している。・大内院山頂の火口中央に存
在する穴で、ここより雲が生じ、風が起きるとされた。大内院(噴火口)は中央に
ある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ窪)は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の
居る所であると信じられ、登山者は各登山口に設けられた拝所あるいは初穂打場か
ら、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立入は禁止されている。
写真大内院の写真・小内院西安河原から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、
大内院との対比で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えられる。写真小
内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫と砂の急斜面である。お鉢巡り
の道中で最大の難所である。現在はブルドーザーが通れるよう整地されている。火
口に向けて傾斜しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らなかった
といわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部では稀な広い平坦部である
。かつては現世と来世の境である「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を
積み上げ石塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭が投げ込
まれた場所とされる。・西安河原東安河原と対をなす、剣ヶ峰から北側に下りた付
近の平坦部である。火口の外壁を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置
する。・虎岩(獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅子)のうず
くまる姿に似ていることから名付けられた。・割石かつて

たと伝えられている。写真五合目周辺の写真・烏帽子岩七合五勺
に烏帽子の形をした岩があり、これを烏帽子岩という。ここにて
富士講中興の祖と称される食行身禄が、1733年に31日間の
断食修行を経て入定した。「甲斐国志」にも「享保十八六月十三
日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ身禄ノ木像ヲ安置ス流レ
ヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期にはすでに身禄の聖地
として信者が登拝していたことがわかる。現在も富士講の聖地と
して重要な地である。写真烏帽子岩の写真A6北口本宮冨士浅間
神社図以下に示す要素が点在している平面図北口本宮冨士浅間神
社は、富士講とのつながりが強く1730年代に富士講の指導者
である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行わ
れ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。社殿の背後には登
山門があり、この神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が
延びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展し
た神社である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、富士
信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道
の起点などがある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥
居土佐守成次によって建立された。桁行一間・梁間二間の規模で
、入母屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の向拝一間を
つけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各部に漆
塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装飾を
展開し、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、すぐ
れた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写真図本殿の図
・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創建とも伝えられ
るが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社として造営したも
のである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間の向拝を
つける一間社流造の形式である。東宮本殿は、本社本殿はもとよ
り西宮本殿に比較してやや小規模であるが、構造形式や蟇股に挿
入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿中最も古い
建物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西宮本殿西宮
本殿は、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替
わる本殿として建立されたが、1615年、

れた溶岩で、溶岩が急速に冷えて固まったため割れていた。高さが15m程あった
が、現在は崩壊してしまっている。古くから行者の修行場として知られ、食行身禄
がここで入定しようとしたが、大宮浅間の社人からの許可が得られず、吉田口七合
五勺の烏帽子岩で入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にある岩
で、この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。また、文化年間の
初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現し、8合目の石室に走り入った。これを
石室に居合わせた人々が生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の
雪解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に姿を現し、雪解け
水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻−44−かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、
強い風が吹き付ける富士山頂の難所として知られた。道の火口側には、火山礫を積
み上げた石組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところにあっ
たとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭を噴火口の大内院に投
げ入れる、そこに鎮座する浅間大菩薩を拝む場所であった。また、御来光を拝む場
所でもあった。現在は、付近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定す
ることはできない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火口を
臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山スタンプが押された写真
では、銀明水裏手の火口の縁に立っている鳥居が確認できる。現在その地点には、
2つの目印の石が存在している。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録
』は、大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『富士山明細図』は、
このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このしろが池から剣ヶ峰の登山道
に沿って3体の大日如来があり、それぞれ延徳2年(1490)、天文12年(1
543)、寛永元年(1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも、
剣ヶ峰の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所跡の写真
・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上の神官が銅仏

により現在地に移され西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ一
間社流造であるが、両側面と背面は二間で一間の向拝をつける。
西宮本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、や
がて豪華な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞で
きる貴重な建物である。−49−写真西宮本殿の写真図西宮本殿
の図・大塚山社誌では、日本武尊が富士山を

ここを浅間明神の創建にかかわる場所と位置づけている。さらに
、788年には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、大塚社
として日本武尊を分祀したと伝えられる。現在この地は、流山状
の小高い丘をなしており、日本武尊を祀る祠が建てられている。
写真大塚山の写真図大塚山の図・御鞍石吉田火祭(鎮火祭)の際
の御輿行在所。吉田火祭の本日にこの御鞍石上に御輿が安置され
、神事が行われる。ここで読まれる祝詞の一節から、この地が諏
訪明神旧鎮座地とされる。写真御鞍石の写真図御鞍石の図A7西
湖図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡っ
て修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、い
つの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景
勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的
価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがある。写
真西湖の写真A8精進湖図以下に示す要素が点在している平面図
富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒に
よって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数え
られている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかり
が深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(
湖水)などがある。写真精進湖の写真A9本栖湖図以下に示す要
素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海
巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わら
ず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、
多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸
要素として、自然地形(湖水)や中ノ倉峠からの展望などがある
。写真本栖湖の写真A信仰に関わる周辺のものB1富士山本宮浅
間大社図以下に示す要素が点在している平面図・神立山本殿の北
側にある丘陵地一帯は神立山と称される。神立山及び富士山本宮
浅間大社の基盤を構成する地形は、新富士火山旧期溶岩流に分類
される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広がる扇状地堆積物の層で
−50−構成され、溶岩流の末端部にあたる。そのため指定地内
の一部では溶岩礫が露出し、縄状溶岩も散見される。また、当該
地区は風致地区・保安林にも指定され、渋沢

建てられている。水神祠には「文化十三年寅年六月日」、八大龍王には「文化七年
七月十七日」との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の主人が、天保1
4年(1843)から文久3年(1863)にかけて記録した『袖日記』には、安
政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘ったので山が荒れた
」との記述がある。この「中宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある井戸跡を指
すものと考えられている。井戸跡は幅80p、深さ50p

は立ち入りが禁止されている。寛文10年(1670)の浅間大
社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築物が描かれ、発掘
調査で石畳や護摩堂跡が確認されている。写真神立山の写真・湧
玉池(上池、下池)本殿東側の「湧玉池」は、国指定特別天然記
念物となっている。湧玉池は、富士山に降った雨や雪が地下水と
なり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ、溶岩流末端
で湧出して池になったものである。禊所付近を境に上池と下池に
分かれ、以前は上池のみを湧玉池、下池から下流を御手洗川と呼
んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心身を清めた後山中へ向かう
という、富士山信仰と関連の深い池であった。現在も富士山山開
きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる。写真湧玉池の写
真図詳細平面図・社叢神立山表層部は約3万8千uにわたってス
ダジイ、ケヤキ等の樹木が生育しており、富士宮市保存樹林に指
定されている。また、野鳥の生息に適した環境でもあり、「野鳥
の森」碑が建てられている。・社殿(本殿・拝殿・幣殿・透塀・
楼門)浅間大社は、社伝によれば大同元年(806)に造営され
たという。かつての駿河国の一宮で、現在は全国1300余の浅
間神社の総本社として崇められている。現在の社殿は、慶長9〜
11年(1604〜06)に徳川家康が造営したものである。写
真社殿全体の写真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財
である。「浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他
に例を見ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上
層は桁行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧皮葺である。明治
40年(1907)5月27日古社寺保存法により特別保護建造
物に指定され、以後、国指定重要文化財として保護されている。
写真本殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣殿・拝
殿含む)[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行3間・梁間3
間の両下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図には幣殿は描かれ
ていないが、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間
ひはだぶき」と書き込まれており、本殿の全景がよく見えるよう
に描かれたと推測される。県指定文化財として保護されている。
[拝殿]桁行5間・梁間3間で、床は幣殿よ

跡4号建物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面の倒木帯となり、その中に5
号建物跡がある。標高は約1,865mである。平成5年の富士宮市による調査で
は、平場の北側の斜面の縁に3体の石像が発見されていたが、平成20年の静岡県
埋蔵文化財調査研究所による調査では石像が4体見つかっている。木が倒れた際に
地面が掘り起こされ、地中にあった石像が地上に現われたと考えられる。うち1体
の不動明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面には「瀧本前」と刻ま
れており、ここが「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹
垢離」跡であると推測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる。廃仏
毀釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建物跡に該当する
施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7号建物跡から北西に約220m(標
高約2,170m)の位置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建
物跡の中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西部の平場は
東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残存しており、石段の東西には
石垣が組まれている。また平場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存し
ている。もう一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸約15
m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の縁に石組が確認できる。
昭和時代の地図には「一ノ木戸」として載っており、「富士山表口南面路次社堂室
有来之次第絵図」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられる
。室大日堂は大日如来と役行者像が祀られていたとの記述が『駿河国新風土記』に
あり、また末代上人が建てた往生寺があったところだともいわれている。写真8号
建物跡の写真・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構のうちで、一番標高の高い
位置(約2,390m)にある。11号建物跡から北に50mの地点に所在する。
東西約8m、南北約5mの方形の区画が石組によって作られている。東側には直径
約90pの丸い穴が二つある。(同様の穴は他の建物跡で

る。正面が入母屋造、背面が切妻造で、屋根は檜皮葺、正面に1
間の向拝が付いている。三方に縁を巡らせ、背面は幣殿に接続し
ている。県指定文化財として保護されている。[透塀]本殿周囲
を囲む1棟と、その外側、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含め
たより広い範囲を囲む1棟−51−の計2棟で、総延長は36間
に及ぶ。県指定文化財として保護されている。[楼門]三間一戸
、重層入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面・左右脇に扉がついてい
る。楼門の左右には随身像が安置してある。静岡県指定文化財と
して保護されている。写真楼門全体の写真図楼門平面図・廻廊楼
門から東西に伸びる回廊は、昭和9年(1934)に付加された
ものである。・手水舎楼門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清
めるために手や口をすすぐ、手水舎がある。・灯籠大小それぞれ
の灯籠が境内各所に設置されている。・石鳥居本殿へ続く参道に
石造りの鳥居が建てられている。昭和33年3月に寄進されたも
のである。・東鳥居・西鳥居桜の馬場の東端と西端にそれぞれ朱
塗りの鳥居が建てられている。・桜の馬場浅間大社流鏑馬式が執
り行われる馬場が約200mに渡って東西に伸びている。源頼朝
が富士の裾野で巻狩を行った際、流鏑馬を奉納したことに始まる
と言われ、室町時代の初期にはすでに神事が行われていたとの記
録が残っている。馬場に沿って両側に御神木の桜が植えられてい
る。・禊所湧玉池の上池と下池の境部分が禊所とされ、池に下り
るための石段が組まれている。・神幸橋(湧玉橋)湧玉池南側の
神田川への流出口に石造りの橋が架けられている。春秋の大祭に
はこの橋を通って山宮御神幸が出発したとされる。寛文10年(
1671)の絵図では橋に屋根が葺かれている。・輪橋(太鼓橋
)本殿へと向かう参道に、鏡池を渡る輪橋が架けられている。寛
文10年の絵図には既に描かれているが、大正4年(1915)
に石造りに改められた。写真輪橋の写真図輪橋の平面図絵図寛文
10年の絵図・護摩堂跡(推定)平成20年の発掘調査により、
護摩堂跡と考えられる溶岩礫で構成された石垣と建物跡が検出さ
れた。石垣は樵石積みで組まれ、平面形は正方形となっている。
また、石垣で正方形に囲繞された敷地内で建

えられる。−46−・鳥居登山道跡の8合目上に、自然木により構築された鳥居が
設置されている。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており、個人が設置したもの
である。A3須山口登山道図登山道に要素が点在している平面図・須山御胎内(溶
岩洞穴)旧須山口登山道1合目(標高1,440m付近)にある全長10m余の溶
岩洞穴である。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に入口があり、内部を通り抜
けることができる。登山者は、この洞穴を通って登山するのがならわしであった。
かつて洞穴の延長は数10mあったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在
の長さになった。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶岩地形として
須山御胎内の南東側に残っている。この付近の溶岩は須山胎内溶岩と呼ばれている
。年代測定では1030〜1230年という結果が出ており、永保3年(1083
)の噴火時に噴出した可能性がある。平成21年に実施した測量調査では、須山胎
内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付近から認められており、須山口登山
道がこの溶岩流に沿って形成されていることが判明した。写真須山御胎内の写真・
石像須山御胎内の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置されている。地元在住
の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興後の平成12年に作られたものであ
る。・石燈篭須山御胎内の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居
須山御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられている。・標柱
鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎内)」と記された標柱が、富士山須
山口登山道保存会によって設置されている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状
の溶岩地形脇に、石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A4須走口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・古御岳神社冨士浅間神社の境外末社で、5合
目の登山道登り口にある。現在の社殿は、昭和54年(1979)に建立され、間
口九尺、奥行九尺の規模である。その際、御室浅間神社を合祀した。神社の前には
鳥居がある。かつては3000坪の境内地を持ち、本殿、

れた。桁行3間・梁間4間で、南側に入口を有していたと考えら
れる。発掘調査後に、江戸時代終わり頃の地誌でこの建物跡を「
本地堂」とする記載が確認されており、最終的に護摩堂から本地
堂へ造作し直された可能性がある。写真護摩堂の発掘調査時の完
掘写真(平面写真)図平面図・随身像慶長19年(1614)2
月に建立された。背銘には、左側の像は「甲州河内下山住番匠石
川清助作」、右−52−側の像は「大工山城國上原住櫻井三蔵作
」と記され、市指定有形文化財として保護さ

という。写真古御岳神社の写真・迎久須志之神社冨士浅間神社の境外末社で、9合
目(3,570m付近)に建てられている。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師
と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理していた。元禄
16年(1703)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下書」に「前薬師之小
屋」の記述があることから、江戸時代初期以降にはすでに祀られていたものと考え
られる。道者はここで薬師に線香を手向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を
降ろされ迎久須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以前は登
山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物の東側を通るようになって
いる。迎久須志神社の直下には、「日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を
遥拝する場所があり、江戸時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が置かれて
いた。富士講の講中が大きな平石の上で朝日を拝したという。現在「日ノ御子石」
はないが、祠と鳥居が建てられている。写真迎久須志之神社の写真・鳥居登山道の
浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山道終点)、9合目、本8合目、本7合目
、7合目、本5合目、古御嶽神社前に自然木などにより構築された鳥居が設置され
ている。・狛犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥
居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の登山道脇に富士講
関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場所にあったが、雪崩によって流され
て別の場所に転がっていたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したとい
う。日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している。A5吉田口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・登山道吉田口登山道は、北口本宮冨士浅間神
社を起点とし、富士山頂を目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者
が吉田口登山道を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで
登れる重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する要素として、現存する吉田口
登山道や沿道の宗教施設や山小屋等信仰の拠点などがある

像全体の写真・狛犬参道の石鳥居両側に、狛犬が建てられている
。大正7年5月に奉献されたものである。・御神幸道首標の碑明
治以前に行われていた「山宮御神幸」における、御神幸道の首標
が、池畔に立てられている。造立年は元禄年(1691)未年十
一月とされ、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれて
いる。昭和59年(1984)に浅間大社境内の土中から発見さ
れ、現在地に再建された。・三之宮本殿横西側に、淺間第三御子
神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てられている。・七之宮
本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社「七之宮浅間神社」
が建てられている。・鉾立石楼門前の石段には、鉾立石が置かれ
ている。明治の初めまで行われていた山宮御神幸の際、神の宿っ
た鉾を立てて休めた自然石である。・欄干橋(神路橋、神路枚橋
)池畔と川中島を結ぶ橋が2本架けられている。島の西側が神路
橋、東側が神路枚橋であるが、寛文10年(1670)の絵図で
は西側にのみ架けられている。写真橋全体の写真絵図寛文10年
の絵図B2山宮浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図
・溶岩流地形山宮浅間神社の石鳥居から参道を経て参籠所に至る
までの区域は北山溶岩流上に展開している。また、遥拝所が位置
する小高い丘陵は青沢溶岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の
西岸には、天母山(二子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成され
る丘陵地が展開する。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近
の北山溶岩流を含め、4つの異なる溶岩流地形が広がっているこ
とになる。遥拝所の基盤となっている青沢溶岩流は、約2,00
0年前の噴火によって流出した比較的新しい溶岩流であるため、
この部分は他の区域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられ
る。そのために、樹木等に遮られることなく富士山の山頂まで見
渡せていたため、この場所で山を遥拝する行為が行われたと考え
られる。写真溶岩流地形の写真図溶岩流の拡散している模式図・
社叢目通りの幹周が3mを超える巨木4本を含むスギ林が、約9
,780uの社叢を形成しており、富士宮市の保存樹林に指定さ
れている。・籠屋(参籠所)遥拝所へ登る手前の平坦な土地に籠
屋が建てられている。籠屋は、神の宿った御

から急坂となり馬が使えなくなることからこの名がついた。この一体は草山から木
山への境でもあり、ここからが御山の聖地ということにもなる。富士山有料道路が
開通する以前の馬返の周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり
、登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わった。登山期間には4軒の茶屋
が営業され、登拝者の便に供された。写真馬返周辺の写真・五合目ここは木山と焼
山の境界でもあるこの地は天地境(てんちのさかい)とも

浅間神社を往復する祭儀「山宮御神幸」において、これに同行し
た大宮司以下の諸職が一夜参籠した場所である。−53−・鉾立
石籠屋をくぐり遥拝所へ続く参道に、「山宮御神幸」で神の宿っ
た鉾を休めるための「鉾立石」が置かれている。石は火山弾であ
り、籠屋をくぐってすぐの位置に1つ、石段の手前に1つの計2
つが置かれている。・石段(参道)遥拝所が位置する丘陵へ登る
ための石段が組まれている。現在あるものは戦中もしくは戦後に
改築されたものと考えられる。・石塁遥拝所の周辺約45m四方
が石塁により方形に区切られている。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶
岩礫を積み上げて構築され、部分的に遺物を含む土層上に構築さ
れている。石塁下から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土
しているため、それらが用いられた12世紀から15世紀、もし
くは後の時代に築造されたものと推定される。写真石塁の写真図
石塁の平面図・断面図・玉垣遥拝所の周囲にはコンクリート製の
玉垣が設置されている。戦中もしくは戦後に設けられたものと考
えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門扉が取り付けられてい
る。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行うことを目的として
築造されたと推定される施設である。南北約15.2m、東西約
7.6mの長方形で、30〜40p程度の溶岩を用いて石列等に
よって組まれている。富士山を拝む方向に祭壇が位置し、祭壇に
向かって左側に祭儀を行う際の大宮司席、公文・案主席、献饌所
が、向かって右側に別当・供僧席が設けられている。写真遥拝所
の写真図遥拝所の平面図・石鳥居境内地の南端に、石鳥居が建て
られている。昭和6年(1931)に建立されたものである。・
参道石鳥居から籠屋まで参道が続いている。B3村山浅間神社図
以下に示す要素が点在している平面図・元村山溶岩流村山浅間神
社は、新富士旧期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあたる。見付
の間は平地で、両見付から先は急傾斜地となっている。村山地区
は標高が高く、他の集落と急傾斜地で隔絶された一段高い場所に
位置する。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東側に「竜頭ヶ池」と呼ば
れる湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてきた。ま
たこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓

場、中宮の社、小屋等がおかれていた。ここの役場は、古くは中宮三社の神供料と
して役銭を納めた場所である。後年は登山切手改め所となった。小屋については、
江戸後期には4軒があったが、すでに武田信玄の1566年の文書に「中宮之室」
という名称があり、戦国時代からこの地に小屋が設けられ−48−ていたことがわ
かる。最盛期には18軒が所在したと伝えられている。写真五合目周辺の写真・烏
帽子岩七合五勺に烏帽子の形をした岩があり、これを烏帽子岩という。ここにて富
士講中興の祖と称される食行身禄が、1733年に31日間の断食修行を経て入定
した。「甲斐国志」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋ア
リ身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期にはすでに身
禄の聖地として信者が登拝していたことがわかる。現在も富士講の聖地として重要
な地である。写真烏帽子岩の写真A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素が点
在している平面図北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのつながりが強く1730年
代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行
われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。社殿の背後には登山門があり、こ
の神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。富士講や吉田御師と
密接な関係を持ちながら発展した神社である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素
として、富士信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道の起
点などがある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥居土佐守成次によって
建立された。桁行一間・梁間二間の規模で、入母屋造の建物を身舎としてその前面
に唐破風造の向拝一間をつけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各
部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装飾を展開し、桃
山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、すぐれた意匠をみせる顕著な建物
である。写真本殿の写真図本殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の
創建とも伝えられるが、現社殿は1561年武田信玄が浅

ら大沢川となる。これらの水源は、村山の集落を成立させた要因
の一つである。・御神木(イチョウ、大スギ)[イチョウ]−5
4−昭和43年(1968)7月2日に県天然記念物に指定され
た。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m、枝張り東西1
9m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根の発達も著しい。気根
が数多く垂下する。気根の先端に針を刺して祈願すると妊産婦の
乳の出がよくなると伝えられ、女性の信仰を集めていた。また以
前はウロの中に大日如来が祀られていたといわれ、現在でも祭祀
でしめ縄を張る。[大スギ]昭和31年5月24日に県天然記念
物に指定された。村山浅間神社の御神木と称される巨木である。
境内の多くのスギの中で最大のもので目通り9.9m、枝張り東
西17.5m、南北31m、樹高47mもある。中心部には高さ
8mに及ぶ空洞がある。案内板では約1,000年の樹齢とされ
るが、実際にはおよそ400〜600年と推定される。・社叢境
内には胸高直径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本
、スダジイ1本などの大樹も見られるが、裏山の大半は戦後植樹
されたヒノキやスギである。富士宮市の保存樹林に指定されてい
る。・浅間神社社殿村山浅間神社社殿は、神仏分離令によって境
内社富士浅間七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命、左
座に大山祗命、彦火々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴(天照
大神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っている。現在の社殿は大正2
年(1913)に改築されたものだが、幣殿と拝殿は老朽化した
ため、その後さらに鉄筋コンクリート一部木造に建替えられてい
る。写真社殿の写真図社殿の図面・大日堂(興法寺)鎌倉時代の
文保年間(1317〜1318)に、末代上人の流れをくむ頼尊
が村山に興法寺を開いたと伝えられている。その興法寺の建物と
して現存する唯一の堂で、富士山の本尊である大日如来を主尊と
する。現在の建物は、部材の状況や絵様彫刻の特徴などから江戸
時代末期の建造と考えられるが、外壁は波鉄板板張りに変えられ
ている。桁行5間・梁間7間、入母屋造、鉄板葺きで、南面に出
入り口を開き、前面と両側面に幅一間の回り縁を巡らしている。
写真社殿の写真図社殿の図面・水垢離場山伏

のである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間の向拝をつける一間社流造
の形式である。東宮本殿は、本社本殿はもとより西宮本殿に比較してやや小規模で
あるが、構造形式や蟇股に挿入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿
中最も古い建物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西宮本殿西宮本殿は
、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替わる本殿として建立され
たが、1615年、鳥居成次の本殿建立により現在地に移され西宮となった。本殿
の形式は東宮と同じ一間社流造であるが、両側面と背面は二間で一間の向拝をつけ
る。西宮本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、やがて豪華な本
社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞できる貴重な建物である。−49
−写真西宮本殿の写真図西宮本殿の図・大塚山社誌では、日本武尊が富士山を遙拝
した地であり、ここを浅間明神の創建にかかわる場所と位置づけている。さらに、
788年には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、大塚社として日本武尊を分
祀したと伝えられる。現在この地は、流山状の小高い丘をなしており、日本武尊を
祀る祠が建てられている。写真大塚山の写真図大塚山の図・御鞍石吉田火祭(鎮火
祭)の際の御輿行在所。吉田火祭の本日にこの御鞍石上に御輿が安置され、神事が
行われる。ここで読まれる祝詞の一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とされる。
写真御鞍石の写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要素が点在している平面図富
士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、
いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり
、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自
然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8精進湖図以下に示す要素が点在し
ている平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によっ
て行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景
勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な

、富士登拝の道者が垢離をとって身を浄めた場所で、間口約6.
5m、奥行き約4mの長方形で、深さ約0.6mに掘り込み、底
に石を敷きつめ周囲は石積みとなっている。造成年代は不明。水
垢離場へは社叢裏手の沢に湧く龍頭池湧水を引き、上の段から樋
で落とし垢離を取るようにしてある。水の落ち口には山伏修行の
ときの主尊とされる不動明王の石像が安置さ

要素として、自然地形(湖水)などがある。写真精進湖の写真A9本栖湖図以下に
示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多く
の富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられ
ている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的
価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)や中ノ倉峠からの展望などがある
。写真本栖湖の写真A信仰に関わる周辺のものB1富士山本宮浅間大社図以下に示
す要素が点在している平面図・神立山本殿の北側にある丘陵地一帯は神立山と称さ
れる。神立山及び富士山本宮浅間大社の基盤を構成する地形は、新富士火山旧期溶
岩流に分類される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広がる扇状地堆積物の層で−50
−構成され、溶岩流の末端部にあたる。そのため指定地内の一部では溶岩礫が露出
し、縄状溶岩も散見される。また、当該地区は風致地区・保安林にも指定され、渋
沢堀沿いの散策路以外は立ち入りが禁止されている。寛文10年(1670)の浅
間大社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築物が描かれ、発掘調査で石畳や
護摩堂跡が確認されている。写真神立山の写真・湧玉池(上池、下池)本殿東側の
「湧玉池」は、国指定特別天然記念物となっている。湧玉池は、富士山に降った雨
や雪が地下水となり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ、溶岩流末端で
湧出して池になったものである。禊所付近を境に上池と下池に分かれ、以前は上池
のみを湧玉池、下池から下流を御手洗川と呼んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心
身を清めた後山中へ向かうという、富士山信仰と関連の深い池であった。現在も富
士山山開きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる。写真湧玉池の写真図詳細
平面図・社叢神立山表層部は約3万8千uにわたってスダジイ、ケヤキ等の樹木が
生育しており、富士宮市保存樹林に指定されている。また、野鳥の生息に適した環
境でもあり、「野鳥の森」碑が建てられている。・社殿(本殿・拝殿・幣殿・透塀
・楼門)浅間大社は、社伝によれば大同元年(806)に

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