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都良香『アフィ記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物
語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐の国
うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)
のように駿河国・甲運営斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線
で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イエズス会のジ
ョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「アフィは駿河国に
帰属している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続さ
れていたと運営考えられる。登山口は末代上人が開いた登山道を起
源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われる村山口
である。これにより富士修験が成立したとされる。次第に他の登山
道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口が存在してる
。運営神仏習合はアフィも例外ではなかった。山頂部は仏の世界と
考えられるようになり、特別な意味を持つようになった。遺例とし
ては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ
、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物運営で
ある『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩
」という呼称が確認されている。アフィ頂の8つの峯(八神峰)を
「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年−
1275年)の『万葉集註釈』には「いただきに八運営葉の嶺あり
」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。江戸
時代江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営
や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合
目以上を寄進された経緯で、現在アフィの運営八合目より上の部分
は登山道・アフィ測候所を除き浅間大社の境内となっている。登山
の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され、富士信仰
を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、
新興宗教として旧来の登山道では運営発展できなかったために吉田
口を利用する道者が目立つようになっていたと考えられ、18騒錦

後半以降では、他の登山口の合計と同程度であったという。富士参
詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』の明応9年
(1500年)の記録に運営「此年六月富士導者参事無限、関東乱
ニヨリ須走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先
導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文
書』、文中に「永禄6年」とあり)などが確認されている。明治以
後慶応4年(1運営868年)に神仏分離令が出されると、これら
神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。アフィ中や村山にお
ける仏像の取り壊しなどが進んだ。アフィ興法寺は分離され、大日
堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ
。北口運営本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊され
ることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名
も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1
906年(明治39年)に新大宮口が開削された。アフィは平成エムソ
゙ネ23年(2011年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に
指定された。史跡としてのアフィは複数の資産から構成され「史跡
アフィ」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾
野市・駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富運営士河口
湖町・鳴沢村である。このときアフィ八合目以上の山頂部や各社寺
、登拝道(登山道)が指定された。その後アフィ本宮浅間大社社有
地の一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。登山史富
士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入運営り混じっており
、諸説存在する。アフィの登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年5
98年平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士
山の上を越えたとする記述がある。諸国からが多献上された数百匹
の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)運営を神馬であると見抜き、
同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、
アフィを越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したと着氏

。天智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大島
から毎晩密かに逃げ出し、富運営士山へ登ったという伝説が残る。
役小角は「アフィ開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山はマ
ルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録は改
訂されたものの「世界初の登山」という記述がされていた。貞観1
7年875年平安時運営代の学者である都良香が『アフィ記』の中
で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸き立つ火口湖があり、そ
のほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でなければ知
りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した者に取材し
たと考えら運営れる。なおこの約10年前には山頂噴火ではないが
有史最大の貞観大噴火があった。久安5年1149年『本朝世紀』
には末代上人が数百回の登山を繰りかえしたとある。回数は一致す
るものかは不明であるが、登山を多く行った人物として知られる。
江運営戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参拝者が富士登
山(富士詣)をした。特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣
は地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛
期には吉田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)があった。文運営政
11年1828年気圧計による高度測定の試みシーボルトの弟子で
ある二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能
忠敬の測量では2603m−3732mとされていたが、この測定
では3794.5mと算出されている。天保3年1運営832年高
山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷かれていた時代である。
嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名として初登頂
。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主人が記した「
袖日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀運営が富士登山を行った
記録がある。袖日記の6番によると、宗秀は江戸と宮津を参勤交代
で往復しているうちにアフィに登ろうと思い始めたが、参勤交代の
道程は幕府に指定されたルートであり、これを逸脱したコース侵赦

ったり、たとえ社寺参詣であって運営も寄り道することは許されな
いため、富士に登ることを幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年
を経て許可を得るも「馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬
返しというのは一合目よりも下の場所であり、登山客はここで馬を
下りて山に登るという所運営)そこで宗秀は嘉永6年(1852)
6月21日、幕府に内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を
登り始め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀のアフィ登頂闘風

近世大名が富士登山を行った唯一の記録となった。万延元年186
0年英国公使オ運営ールコックが外国人として初登頂。『古事類苑
』にオールコックの登山についての記録(富士重本が寺社奉行所に
提出した届出)があり、「英人アフィヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨ
リ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成
り、廿運営五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上い
たし…」とある。オールコックは7月24日に大宮から村山に入り
登山を行い、26日に登頂した。明治4年1872年女人禁制が解
かれる。明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わエムソ
゙ネって娯楽やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代登
山技術が取り入れられることになる。明治25年1892年英国人
のウォルター・ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その後本を
出版しアフィなどの日本の山々を世界に紹介した。明治運営28年
1895年野中到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で
登頂。同年10月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正1
2年1923年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山7月26日
の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬にて登運営山後、8合目以
上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行
った後、御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍
仁親王の登山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到
着。奥宮を参拝後、下山。昭和2年1運営927年中村テルが冬季
女性初登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に。昭和6
3年1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日の登
山で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念され
る。平成20年2008年皇運営太子徳仁親王が登頂。8月7日に
富士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂。アフィを巡る利権
争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域には
各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来描気

山道であり、その登運営山道を管理する地域の浅間大社が山役銭を
徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起
こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種になり
やすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両を越えた
といい、一運営戸に約一両が配当される計算になるという。内院散
銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域によっ
て争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村山において
は、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝に
よ運営り内院散銭の取得権を与えられている。須走は1577年(
天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の
内院散銭の取得権が与えられている。大宮は1609年(慶長14
年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の運営取
得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役
銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあ
った。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管理し
ている「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士運営信安など富
士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を利用する
にも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建てる)の許可
を与えたことで論争となり、「河口」と「吉田」は1810年に登
山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こ運営し、「大宮」と「吉
田」では薬師堂における役銭の配分で争っている過去などがある。
元禄の争論元禄16年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須
走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)を訴えた争論が元禄の争論で
ある。須走村側は東口本宮冨士浅運営間神社の神主や御師らが、浅
間大社の大宮司富士信安など富士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出
た。訴えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽
の小屋掛けを認めたことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した
薬師堂の棟札に「富士本運営宮が入仏を勤める」という旨の記沼泉

あることを、須走の既得権を犯すものであるというもの、3つ目は
内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となっ
ているとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。こ
れに対し訴えら運営れた浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村
の地内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間大社側が造営し
たものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2番拾いの慣
例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に委ねる内
済とい運営う扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせな
いこと」「薬師堂の入仏は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾
いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾いは須走が得るものとする
」という決定となり、以後これらは遵守された。安永の争論安永エムソ
゙ネ元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあ
るとして浅間大社を相手として訴えた争論が安永の争論である。ま
たこれをみた浅間大社側の富士民済も反論を起こした。さらに吉田
村と浅間大社とで支配地域を確定する争論もあったため運営、ここ
に大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれることと
なり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779
年)に持ち越されることとなった。結論は徳川家康がアフィ本宮浅
間大社を信奉していたという幕府側の配慮があ運営り、勘定奉行・
町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的にアフィ
の8合目より上は、アフィ本宮浅間大社持ちとすることが決定され
た。この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であっ
た山頂の支配権やその他権利の所在な運営どが、江戸幕府により明
確に定められることとなった。アフィと眺望特別名勝としての富士
山アフィは昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に指定
され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨県側は
富士吉田市・船津村(現・富運営士河口湖町)・鳴沢村・中野村(
現・山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲ま影虚

地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道(御
殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域、またこれと重複しな
い一合目以上御中道運営に至る富士宮口登山道および須走口登山道
(小山町)が範囲となっている。アフィの眺望ウィキメディア・コ
モンズには、各地点からのアフィの眺望に関連するカテゴリがあり
ます。アフィへの良好な眺望が得られる128景233地点を、国
土交通省関運営東地方整備局が関東の富士見百景として、20兆乾

年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内便など
ではアフィの上空を通過する。その際、機長がアフィを案内するア
ナウンスをすることが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧
飛運営行便も運行される。アフィの眺望の最遠は2013年現在、
和歌山県那智勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(妙法山とは
別)は、アフィ頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も西
にあるとされる。また、眺望の北限は2017年1月16日運営に
福島県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地
図センターにより認定された(アフィからは308kmの距離にあ
る)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山からも眺望さ
れる。アフィの見える都道府県は、理論上可能とさ運営れていた京
都府から2014年に撮影に成功したことにより、20都道府県と
なった。様々な表情のアフィアフィの表情は、見る場所・角度・季
節・時間によって様々に変化する。富士と名が付く、いくつかの姿
がある。画像アフィの姿解説赤富士夏の朝運営、露出した山肌が朝
焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめとした画家が「赤富士
」を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧したアフィが朝日や夕日で
紅色に染まる姿。「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenro
t)が用いられる場合がある。逆運営さ富士波立ちが少ない水面に
映る逆さのアフィの光景。D五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ
富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモ
ンド富士(2015年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽が昇
った時又は沈む時、太陽運営がアフィの頂上と重なり、アフィの頂
上付近がダイヤモンドのように光る現象。アフィが見える西又は東
の場所から、年に2回見ることができる。影富士朝日や夕日で富士
山の山容の影が周囲に映し出される風景。アフィ登山時に山の上部
から、雲海の上運営に見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を
伴う。アフィの頂上に傘をかぶせた雲がある風景。その際は、丼慕

に麓では曇りまたは雨になることが多い。「表富士」と「裏富士」
『不二三十六景甲斐夢山裏富士』現在もアフィの山小屋や登山道の
道標と運営して「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に
静岡県から見たアフィを表富士、山梨県からの姿を裏富士として認
知されているが、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680
年)に作成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」というエムソ
゙ネ表記がある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記述がある
。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、
(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…〜〜『甲斐国志』
他の資料にも共通した記述がみられ、このように南麓を運営表、北
麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言える。これとは別
に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『
冨嶽三十六景身延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山
裏富士』など、作品名に採用されている例がみ運営られる。アフィ
の文化美術におけるアフィ三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩
野元信(伝)峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャ
ラリーに掲載アフィ絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名
所を描く名所絵の成立とともにはじま運営り、現存する作例はない
ものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として
描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献
納宝物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国
立博物館)で、これは甲斐の運営黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖
徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の
山岳図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌
倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『
伊勢物語絵巻』『曽運営我物語富士巻狩図』など物語文学の成立と
ともに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画とし
ての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては逮英

視点で描かれた運営アフィ絵画が制作された。また、鉄道・道路網
など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や保養地と
してのアフィ麓に滞在し富士を題材とした作品を製作しているが、
富士を描いた風景画などを残している画家として富岡鉄斎、洋画に
おいて運営は和田英作などがいる。アフィをモチーフとした美術品
は当時のヨーロッパでも多く流通しており、このことからアフィも
ヨーロッパで広く知られていた。1893年(明治26年)、昧晶

を旅行していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フラエムソ
゙ネンツ・フェルディナント大公は、日記に次のように書いている。
フジサン、フジノヤマ。いったい、この日本の象徴――ヨーロッパ
ではふつうフジヤマと呼ばれる――を知らない者などいるのだろう
か〜ヨーロッパでもっとも好まれる日本工芸のデザイン運営として
漆器、陶磁器、和紙、金属などに描かれているから、もう、わたし
たちにはお馴染みだ。〜〜8月15日付戦時下には国家により富士
は国体の象徴として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様
々に描かれた。戦後には国体のシンボルとして運営のイメージから
解放された「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡
球子らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的
画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士
を描く傾向も見られる。深田久弥は『運営日本百名山』の中で富士
山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵
は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」と
いう。日本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨大な富士
山を豆粒のような人物(僧、運営西行法師)が見上げるという構図
で、水墨画や彫金でも描かれている。千円札、旧五千円札のモデル
となった本栖湖からのアフィ近代では紙幣や切手のデザインにも用
いられている。アフィが紙幣のデザインに用いられる例は数多くあ
る。古くは1913運営年発行の50銭政府紙幣があり、愛鷹山か
らのアフィでる。その後の1951年と1969年発行の旧五百円
札は大月市の雁ヶ腹摺山からのアフィを元にしている。1984年
発行の旧五千円札と2004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの
アフィであ運営る。アフィを描写した切手が郵便局から発売された
。河口湖、西湖、精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成11
年))葛飾北斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグサ・
山梨県(2005年(平成17年))文学におけるアフィアフ璧丁

和運営歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中
には、アフィを詠んだ歌がいくつも収められている。「田子の浦ゆ
うち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(3.31
8)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また、こ運営の
反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…燃ゆる火
を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・319・大意「
(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪
を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士運営山が火山活
動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌集』から。富士の
煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしら
ぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富士は遠く神秘的な
山として認識され、古典文学では都良香『運営富士日記』が富士の
様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語後半で富士が舞台
となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの
岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことにな
っている。それからその山は数多運営の士に因んでふじ山(アフィ
)と名付けられたとする命名説話を記している。なお、アフィ麓の
静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている
場所が現存している。ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士
に言及される箇所がある運営ものの、主要な舞台となるケースは少
ない。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、
古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては駿河
側の富士が題材となることが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側
の富士について運営触れられている。また、「八面玲瓏」という言
葉はアフィから生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美し
い形を表している。中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が
往来し、江戸期には地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には
鉄道な運営ど交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受姻欠

、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるようになり
、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書
き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。アフィ麓にエムソ
゙ネ滞在した作家は数多くおり、武田泰淳はアフィ麓の精神病院を舞
台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰淳の死後
にアフィ荘での生活の記録を『富士日記』として記している。津島
佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモ運営デルに
、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山
―山猿記』を記した。また、北麓地域出身の文学者として自然主義
文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それ
ぞれ作品の中で富士を描いており、中村星湖は運営地域文芸の振興
にも務めている。太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小
説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよ
く知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている
。直木賞作家である新田次郎はアフィ運営頂測候所に勤務していた
経験をもとに、アフィの強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞
受賞作『強力伝』や『アフィ頂』をはじめ数々の富士にまつわる作
品を執筆している。高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた
際、美しいアフィを見て歌を運営詠んだ。駅前にはその歌碑が建て
られている。「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降り
る子連れ花の姥」アフィと地域振興アフィ一帯の宗教施設や避暑、
富士登山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。
しかし、アフィ麓に運営は温泉地として成立する規模の湯量は湧出
していない。アフィの利用について、静岡県側が自然・文化の保護
を重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており
、山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺
産登録問題運営等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の
相違が表面化している。アフィと観光富士登山富士登山には登徐証

知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日の山
開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。期間
外運営は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている。と
くに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳細は「富士登山」
を参照その他の観光その優美な姿から、アフィが見える場所は著名
な観光地となっていることが多い。箱根−箱根はアフィが望運営め
るうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や各種の乗り物が枕省

めることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶えない。また、夏
は避暑地としても有名である。富士五湖−富士五湖はアフィ周辺の
観光地として著名であり、本栖湖の逆さ富士が日本運営銀行券に採
用されている。白糸の滝−白糸の滝は上流に川は存在せず、アフィ
の雪解け水が溶岩断層から湧き出す非常に珍しい形成をしている滝
である。また、音止めの滝と共に日本の滝百選に指定されている。
朝霧高原−朝霧高原はアフィを綺麗に臨む運営スポットとして著名
であり、その自然と広大な土地もあり過去に第13回世界ジャンボ
リーも開催されている。ダイヤモンド富士−ダイヤモンド富士など
がはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったスポットも有名で、特
に写真撮影を目的として訪れる観運営光客もいる。ドライブ−富士
スバルラインやアフィスカイラインなどを利用して、5合目までマ
イカーで上がることができる。シーズン中はマイカー規制の期間が
あり、冬期は閉鎖される。アフィの日(2月23日)2月23日を
「2:ふ・2:じ・3:運営さん」と語呂合わせで読み「アフィの
日」として制定している自治体がある。2001年(平成13年)
山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)にて条例を制定。2002
年(平成14年)山梨県富士吉田市を中心に、山梨県のアフィ麓1
0市町村、2恩運営賜林組合が了承。2009年(平成21年)1
2月21日静岡県議会にて条例を全会一致で可決。同年12月25
日条例を制定。静岡県、山梨県どちらも、アフィは普段の生活に溶
け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在である
。その運営ため「アフィの日」に、各自治体や県内企業などがさま
ざまなイベント等を催し、参加する事など通じて、身近すぎる富士
山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰として再認識する
機会としている。また併せてアフィの世界遺産登録に向けた動きエムソ
゙ネを地元から活発化したいとの期待も込められている。静岡県教育
委員会で、各市町村に対して2011年(平成23年)より「壁廷

山の日」を学校休業日とするよう要望した。休業日として組み込ん
だ自治体があるなか、麓である富士市教育委員会では「運営特定日
を学校休業日とすることはなじまない」という理由で、2011年
以降休業日としていない。ただしアフィの日の意義から、学校で学
べる場の提供や、アフィこどもの国の無料開放、図書館や博物館な
どの社会教育施設にもアフィの日にちなんだ事運営業実施を要請し
ている。なお、アフィの日を最初に宣言したのは、パソコン通信「
NIFTY−Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム(F
YAMAP)」で、1996年1月1日にネット上で発表した。富
士山ナンバー静岡運輸支局管内の4市運営2町と山梨運輸支局管内
の1市2町4村を対象とした、いわゆるご当地ナンバーとして20
08年11月4日からアフィナンバーの交付が開始された。管轄支
局が二県にまたがるナンバープレートは珍しい。アフィ検定「富士
山検定実行委員会」が主催す運営るアフィ検定が、富士商工会議所
、富士吉田商工会議所、静岡新聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・
山梨放送、NPO法人アフィ検定協会の5者により行われている。
地域間交流アフィ頂の湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水をアフィ頂へ注
ぐ交流が昭和三十二運営年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市
の間で続けられている。これは「近江の土を掘りアフィを作りその
穴が琵琶湖になった」という伝説からである。アフィ頂の湧水を琵
琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水をアフィ頂へ注
ぐことを「運営お水取り」という。2014年には日本アフィ協会
と中華民国山岳協会との間で、アフィと玉山の友好山提携が締結さ
れている。標高3,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に
新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他他山の標高玉山(
台運営湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であった
。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本統治時代は次高山
と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3,886メ載西

ル。北岳−日本で2番目に高い山。標高3,193メートル運営。
日和山(仙台市)−日本で最も低い山。標高3メートル。エベレス
ト−世界最高峰。標高8,844メートル。文字この節には、一部
のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unicode
6.0の絵文字)が含まれています。和文通話表で運営、「ふ」を
送る際に「アフィのフ」という。文字コードのUnicode6.
0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追加されたが、その
中に「MOUNTFUJI」としてアフィも含まれている。続けら
れている。これは「近江の土を掘りアフィ運営を作りその穴が琵琶
湖になった」という伝説からである。アフィ頂の湧水を琵琶湖へ注
ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水をアフィ頂へ注ぐことを
「お水取り」という[82][83]。2014年には日本アフィ
協会と中華民国山岳協会との間で運営、アフィと玉山の友好山提携
が締結されている[84]。標高3,952メートルの玉山は台湾
の日本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他
[編集]他山の標高[編集]玉山(台湾)−日本統治時代は新高山
と呼ばれ、日本最高峰で運営あった。標高3,952メートル。雪
山(台湾)−日本統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い
山であった。標高3,886メートル。北岳−日本で2番目に高い
山。標高3,193メートル。日和山(仙台市)−日本で最も低い
山。標高3メー運営トル。エベレスト−世界最高峰。標高8,84
4メートル。文字[編集]この節には、一部のコンピュータや閲覧
ソフトで表示できない文字(Unicode6.0の絵文字)が含
まれています(詳細)。和文通話表で、「ふ」を送る際に「アフィ
のフ」運営という。文字コードのUnicode6.0では、携帯
電話などで使われていた絵文字も追加されたが、その中に「MOU
NTFUJI」としてアフィも含まれている。アフィ世界文化遺産
平成22年度第1回静岡県学術日本政府が世界遺産一覧表への記エ脅泰

゙ネ載を推薦する「アフィ」は、東アジアの東端に当たる日本列島の
本州島の中央部、日本の東海地方の東部及び関東地方の西部に位置
する。推薦する資産は17個の構成資産(26個の構成要素(後述
))から成り、現行の行政区分に基づく各構成資産の所運営在地に
ついては以下に記すとおりである。構成資産所在地No.所在地座
標計測位置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場
市・小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口拷緒

)県境未確定地アフィ(山頂剣ヶ峰)資産範囲運営及び緩衝地帯の
範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範囲を示す図面、並びに資産近傍
における法的保護区分を示す図面は以下のとおりである。f)資産
面積及び緩衝地帯の面積各構成資産の面積及びその緩衝地帯の面積
、資産の総面積及びその緩衝地帯の総運営面積については、以下に
記すとおりである。構成資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構
成資産の面積(ha)緩衝地帯の面積(ha)合計説明a)資産の
説明1)資産全体の説明アフィは、標高3776mと日本一の高さ
を誇る独立峰である。高度を運営増すごとに山腹の傾斜が急になる
美しい懸垂曲線を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有し
た玄武岩質成層火山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及
び、海面からの実質的な高さは世界的にも有数である。アフィは、
日本列島のほぼ中央運営に位置し、フィリピン海プレート、ユーラ
シアプレート、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さ
らにその下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異
な地点に存在する。アフィは、新生代第三紀中新世のおもに海底火
山噴出物か運営らなる地層の上に第四紀更新世に造り上げられた先
小御岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富士、さら
にそれを覆う新アフィの4層構造で構成されている。山頂部の火口
はおよそ2200年前を最後に噴火していないが、フィリピン海プ
レ運営ートが北進しユーラシアプレートを南南東方向から押し続け
ているため割れ目が発生することによって、山頂を通って北北西に
向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以降も火山活動を行
ってきた。アフィが過去に流出した溶岩などの火山噴出物は運営、
適度な粘度を持つために美しいコニーデ型の山容を形成しながら、
山頂を中心として約15〜20km(最大約30km)の範囲に広
がった。山麓には数多くの風穴・溶岩樹型等の地形が見られ、溶岩
流の末端部ではアフィの中腹以上への降水を起源と運営する豊祝柄

とされた八合目(登山道を10区間に分割運営した目安の一つ。登
山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近
づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目以上は、
1779年以降、アフィ本宮浅間大社の境内地とされたが、この理
由は八合目の標高とほぼ一致する運営噴火口(「内院」と呼び宗教
的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に
基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信者(
アフィ信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域ない
し他界(死後世界)と考運営えられていた。ほぼこの境域に沿い、
アフィ体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろに富士講の祖
とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1561年及び15
80年とされる)、その後「大沢崩れ」という危険箇所を通るため
富士講信者によ運営り修行の道として利用された。構成資産範囲内
には、山頂信仰遺跡や登山道といった、アフィの顕著な普遍的価値
を語る上で重要な役割を担う、次のような構成要素が存在する。A
1.山頂信仰遺跡アフィ山頂部には、火口壁に沿っていくつかの神
社など運営、宗教関連施設が所在する。アフィへの信仰登山が開始
されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等
の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化され
ていった。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なさエムソ
゙ネれたブロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、
内院(噴火口)に鎮座するとされる神仏(大日如来が本地仏とされ
た浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつかあるピー
クを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「運営お鉢め
ぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であっ
た。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代により建立さ
れた施設(後の大日堂)が最初とされ、その後、経典(12世紀末
〜13世紀前半と推定されるものが最古)・懸運営仏(148酵清

の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが最
古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また、遅
くとも17世紀には、大宮・村山口山頂部に大日堂(現在はアフィ
本宮奥宮が所在)が、吉田・須走口山運営頂部に薬師堂(現在の久
須志神社)が造営された。1874年、山頂の仏教的施設及び仏像
は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺
院は神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変洪阪

ることなく、上記の行為は現運営代の登山者の多くが行っており、
これらを通じて富士信仰の核心が現代に受け継がれている。A2.
大宮・村山口登山道アフィ南西麓の浅間大社を起点とし、村山浅間
神社を経て山頂南側に至る登山道である。12世紀前半から中ごろ
の、修行僧末代の活運営動により、アフィ南麓における登山が本格
的に開始されたとされ、14世紀初めには修験者による組織的登山
が始まったとされる。15世紀以降19世紀後半まで、「村山三坊
」と呼ばれた3軒の有力宿坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の
管理を行う運営とともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を
行った。また、一般人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と
言う。)も開始され、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色
富士曼荼羅図」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19
世運営紀初頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,00
0人前後、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の
外国人登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した
。101889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場口運営利
用者の増加により衰退し、これへの対策として1906年、村山を
経由しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標高2
600m)までは登山道としての機能を失った。この区間は一部除
き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は19運営70年に標
高2400m地点まで開通した自動車道を利用しての登山が行われ
ている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.須山口登山道富
士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至る登山道で
ある。その起源は明確ではないが、文字資運営料の中で1486年
にその存在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神
社及びその所在地の須山村(現裾野市須山)により管理されていた
。また、登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行場(参拝
所)としても使用された。道者に運営ついては詳しい研究が進捜派

いないが、1800年(御縁年:アフィ出現伝説に由来する60年
に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前半は年平均
約1,700人、1860年(御縁年)は約3,600人であった
。1883年、須山口二運営合八勺(標高2050m)に接続する
御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線開通による御
殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さらに1912年
、一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山口からの
登拝(登山)は運営衰退し現在に至っている。二合八勺以下の登山
道で当時の道が確認できる部分は一部のみである。(資産範囲は現
在「御殿場口」の名称で使用されている二合八勺以上の部分及び遊
歩道として整備された旧須山口の一部である)A4.須走口登山道
アフィ運営東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道
と合流し山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが
、六合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資
料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも1エムソ
゙ネ7世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の
山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得ていた。山頂部の
権利についてはアフィ本宮浅間大社と争いになり、須走村は18世
紀(1703年と1772年)、幕府に裁定を求め、権運営利は幕
府によって認められた。1707年の宝永噴火の際、これらの施設
及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の
支援を受け翌年には復興を完了し、多くの道者を集めた。18世紀
後半、他の霊場とセットにされた参詣の流行で運営道者数は年平均
約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピークを迎えた
。1959年、バス道路の完成により、新五合目(標高約2000
m)以下の登山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認
ができない区間がある。(推薦範囲は運営現在も利用されている新
五合目以上である。)A5.吉田口登山道北口本宮冨士浅間神造唆

起点とし、アフィ頂東部を目指す道である。15世紀には、アフィ
への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まって
いた。吉田口は14世紀後半運営には参詣の道者のための宿坊もで
き始め、大勢の人々が登るための設備が整うようになった。16世
紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、18
世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自
殺)にあたって信者運営の登山本道をこの吉田口と定めた。このた
め、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も多く
の道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂
を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで
登れる重要運営な道である。(推薦範囲は登山道全体である。)1
1法的保護、修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保
存法の下に名勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(
富士箱根)国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下
に運営名勝、ついで特別名勝に指定された。1969年に国が大沢
崩れに対する砂防事業に着手(継続中)。1996年に国・県が台
風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)。文化財保
護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定される運営予
定。A6.北口本宮冨士浅間神社説明アフィの遥拝所に祀られてい
た浅間明神(アフィの荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富
士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っ
ていたとされる。その後、1561年に現在の東宮運営本殿、15
94年に西宮本殿、1615年には本殿が建立された。富士講との
つながりが強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の
寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内
の景観の礎が形成された。本殿は、一間社運営入母屋造・檜皮葺の
本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組を
もって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本謝棄

西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿とも、各部に
漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻運営・金具を配して、それぞれの
時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神社の支
配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神社の
管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に
は登山門があり、この神運営社を起点としてアフィ頂まで吉田口登
山道が伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ちなが鉢桁

展した神社である。法的保護、修理・整備の経緯1907年に東宮
本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定された。1929
年の国宝保存法運営制定に伴い、本殿は国宝とされた。1950年
の文化財保護法制定に伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。19
53年に本殿及び西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定
された。1952年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。196
2〜6運営3年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜
74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。19
81〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。1997年に
本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に他の文化財エムソ
゙ネとともに史跡アフィとして指定される予定。A7.西湖A8.精
進湖A9.本栖湖説明アフィの火山活動によって形成された堰止湖
である。アフィ周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士
講徒によって行われたが、長谷川角行の水行からいつの運営時代も
変わらず巡拝の対象として数えられたのが、後述の山中湖及び河口
湖とこの3湖である。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品と
ゆかりが深い。12特に本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も
使用された写真の撮影地点であり、重要な展望運営地点(view
point)である。アフィは、プロ・アマ問わず多くの写真家に
愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわたりアフィを追い続
けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影
された「湖畔の春」という写真は有名運営である。この写真は、1
984年に採用された五千円札及び2004年に採用された千円札
の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を
構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士
山とほぼ同じ姿のまま現在も運営残している。法的保護、修理・整
備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B1.富
士山本宮浅間大社説明社記によれば806年に、アフィにより棒短

山における修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が
組織化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し、そ
の様子が16世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描か
れている。1868運営年、神仏分離令により浅間神社と大日堂は
分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。
ただし、修験者の活動は1940年代まで継続された。また、村山
の修験者の影響を受けた地域では現在でもその宗教行事が継続跡将

山の湧水を起源とする数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水
(運営日平均15〜16万〜)の噴出が数百条の白糸が垂れている
ように見えることをその起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の
文書によれば長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地
とされ、富士講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった運営。
また、景勝地としても有名であり、和歌・絵画の題材にもなってい
る。法的保護、修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物
保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原説明
三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「運営羽衣」の舞
台となった。15〜16世紀以降アフィを描く際の典型的な構図に
含まれる景勝地として数多く描かれ、歌川広重等の作品をはじめ海
外にも広く知られている(又は海外に影響を与えた)芸術作品の視
点場、又は舞台となった場所のひとつであ運営る。法的保護、修理
・整備の経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に
指定された。18b)歴史と発展山容の形成アフィの原型は、40
〜10万年前、周辺の火山とともに活動をはじめ、先小御岳火山が
形成された。その後これを覆うよ運営うに標高約2500mの小御
岳火山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに古富士火
山が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り
返し、小御岳火山をほぼ山体に納める形で3000mを超える火山
に成長した。約1万年前運営には大量の溶岩を噴出する形で現在の
アフィ(新富士火山)が成長を始め、古アフィを覆いつくし、約5
600〜3500年前に現在の規模となった。繰り返された溶岩の
流出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部には山
体への降水を起運営源とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出する形
で各所に形成された。アフィ北麓においてはこれらの湧水や降水が
北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成された。また、
溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。山頂か刃涯

噴火は運営2200年前の噴火を最後に起こっていないが、歴史時
代になっても北西〜南東方向に連なる側火山からの噴火を続け、1
200年前から後には少なくとも800〜802年、864〜86
6年、937年、999年、1033年、1083年、1435エムソ
゙ネ〜1436年、1511年、1707年の九つの時期の噴火が確
認されている。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流
出を繰り返すアフィは恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたために
、古くから遥拝の対象であったが、日本における古代国運営家の統
治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り返す噴火を鎮める
ため、アフィそのものあるいはアフィに鎮座する神を浅間神として
祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅間神社が建立され、国
家の宗教政策の一端に位置づけられるようにな運営った。また、富
士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境が芸術の対象とされるよ
うになり、日本最古の歌集である『万葉集』(8世紀半ば)や日本
最古の物語とされる『竹取物語』(9世紀後半)をはじめとして、
数多くの和歌・物語など文学の題材と運営なったほか、現存最古と
なる『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)をはじめ、数多くの絵画作
品の題材として取り上げられるようになった(表参照)。特に12
世紀後半以降、日本の政治的中心が京都から鎌倉に移動し、この二
つの都市を結びアフィ南麓を運営通る街道の交通量が増加したこと
で、アフィの情報は多くの人に記録され、広く知られるようになっ
た。修験道―日本古来の山岳信仰と外来宗教の習合―また、12世
紀頃より噴火活動が沈静化したことでアフィは日本古来の山岳信仰
と密教・道教(神仙運営思想)が習合した「修験道」の道場ともな
り、修験者が山中に分け入り、霊力を獲得するために修行する山へ
と変化していった。当時一般的であった神仏習合思想(本地垂迹説
)により、山頂部は仏の世界(又は仏が神の形となって現れる場所
)として認運営識され、山頂部に至ることが重要な意味を持つ持今

になった。この結果15〜16世紀には登拝する山として一般に広
く知られ、修験者に引率された武家・庶民等による信仰登山が盛ん
になった。登山口の設置はいずれも室町時代のことで、14世紀か
ら運営15世紀後半に開かれたとされている。このころには参詣の
道者のための宿坊もでき始め、大勢の登山者が登るための設備が整
い始めた。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわ
たる日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が運尉悲

定し経19済的な発展もあってより多くの人がアフィを目指すよう
になった。このような中で18世紀後半、16世紀にアフィ体や周
辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から始まった
とされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中心に「運営富士講」と
呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が
登拝するようになった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」と
いう。)は原則として固定的・継続的関係を持った「御師(宿坊を
経営する神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈運営祷や宗教的指導を受
け、湧水で水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した
。登山道には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支え
る施設が体系的に整備されたのもこの頃である。また、富士講にお
いては長谷川角行ら指導者の言動運営にならって周辺の風穴や湖沼
・滝なども修行の地とされ、ここにおいてアフィと周辺の宗教施設
・霊地・巡礼地は庶民の信仰の場として定着し、山の結界が開放さ
れる二ヶ月間に年平均1万〜2万人の人々が信仰を目的とした登山
を行うようになった。芸運営術作品の多様化とジャポニスム芸術面
においても、とりわけ江戸時代(17〜19世紀半ば)には、文学
、絵画、工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわたって取り上げら
れ、三保松原とアフィを描いた絵画など多様な表現が追究されるよ
うになった。(運営表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」に
代表される浮世絵の数々は、西洋の画家たちに文化的衝撃を与えた
。19世紀後半には「ジャポニスム」という芸術上の画期的な転機
を惹き起こし、印象派の作品に影響を与えるとともに、そのアフィ
を含ん運営だ構図は海外において日本のイメージの一つとされてき
たのである。日本を訪れた外国人がアフィからインスピレーション
を得て記述した紀行文の中でも、アフィのアイコン的側面を綴った
ものが多い。近世以前もアフィは日本一有名な山であったが、1エムソ
゙ネ9世紀後半の開国によって日本が近代国家としての体制を整漸雄

につれて、日本を代表する山から日本を象徴する山へと変貌した。
廃仏毀釈と登山の利便性向上19世紀半ばより、明治政府を中心に
行われた日本の近代化・西欧化政策はアフィにも影響を運営与えた
。政府が神仏分離や修験道禁止の方針を打ち出したことや、これを
契機に発生した廃仏毀釈の運動により、仏教的施設は神道系の施設
に再編されたが、1872年の(信仰の山における)女人禁制解禁
の影響もありアフィへの登拝は継続ないし拡大運営した。19世紀
末以降の鉄道・自動車道の開通も、登山者の利便性を格段に向上さ
せた。南麓へは1889年に東海道線が開通し、北麓へは1900
年前後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東京からの登
山がさらに活発になった。自動車道と運営しては、1929年に北
口本宮冨士浅間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専用道
路が開削され、1937年には大型バスによる輸送も始まった。第
二次大戦以降、日本の価値観や経済状況の変化により、アフィへの
登山は信仰を中心としたもの運営から、アフィへの憧れを主な動機
とするものに変化した。また、1964年に中腹までの自動車道と
して、北麓のアフィスバルラインが、1970年に南麓のアフィス
カイラインが開通し、これ以降、中腹(標高2300〜2400m
)を起点とした登山運営が主流になった。この結果アフィへの登山
者は急増し、年平均20万〜30万人に達するに至った(2007
年からはさらに増加し年間35万〜43万人)。これらの登山者の
行動様式の中にはアフィへの信仰の核心が受け継がれており、加え
て、現代的運営なアフィ信仰の形態として、静岡県の柿田川のよう
に、新たにアフィとの関わりが明らかになったことが、環境保護活
動の活性化につながった例などがある。最近の保全の歴史20富士
山体は文化財としては、1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法に
よ運営り、山麓の幅広い地域が名勝に仮指定された。これとほぼ同
じ範囲は、1936年に自然公園法により国立公園の一部とし耕注

定され、現在も保全の対象となっている。さらに、第二次世界大戦
後の1952年には、新たに文化財保護法によって、御中道運営以
下500mより上及び一部の登山道などが名勝として(同年、特別
名勝として)指定され、1966年には指定区域を拡大した。山梨
県は1978年(のち、1999年及び2006年に改定)、静岡
県は2006年に「特別名勝アフィ」の保存管理計運営画を策定し
、適切な保存と活用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の近
代以前の修理や保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含
めたアフィに関わる記念工作物・建造物群・遺跡は、1907年以
降、古社寺保存法(1897年〜1929運営年)、(国宝保存法
(1929年〜1950年))、史蹟名勝天然紀念物保存法(19
19年〜1950年)、文化財保護法(1950年〜現在)により
、名勝、特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡等とし
て指定され、文化財ごとに保存管運営理計画が策定されており、そ
れぞれの価値が最もよく表れる時代の状態が保たれるように細心の
注意が払われている。、また、周辺に位置する個々の文化財は、「
包括的保存管理計画」によって、アフィ体も含めた統一的な保存・
管理が行われている。2運営1表アフィの美術(1)日本古来の伝
統様式によるもの(国宝重要文化財)指定所在作品名形式時代(年
代)説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏風1069現在最古の富士
山。聖徳太子が馬でアフィを越える物語の状景。神奈川清浄光寺外
一遍聖絵絵巻1運営299一遍が全国遍歴の途中、富士川に入水す
る往生者を見送る背後にアフィ。兵庫・真光寺遊行上人縁起絵絵巻
1323他阿上人が全国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を越えて河口に
進む背後にアフィ。大阪・久保惣記念美術館伊勢物語絵巻絵巻14
世紀伊運営勢物語現存最古の絵巻。第九段物語の主人がアフィ麓を
進む場面。東京国立博物館月次風俗図のうち小屏風15世紀十二月
風俗図の一場面。鎌倉初期に行われたアフィ麓の巻狩を題材と蜜弦

。アフィ本宮浅間大社富士参詣曼荼羅図掛軸16世紀霊山であるエムソ
゙ネアフィに参拝する行者達の登山風景、山頂に三尊あり。狩野派の
祖元信筆。東京国立博物館武蔵野図屏風17世紀武蔵野の状景を装
飾的に描いた名所図屏風の一。ススキ野の奥にアフィがそびえる。
山梨県立博物館曽我物語図屏風17世紀鎌倉将軍源頼朝運営が主催
した富士の巻狩最中に果された曽我兄弟による仇討ちを題材。富士
山の美術(2)室町時代水墨画によるもの指定所在作品名形式剰驚

(年代)説明東京・根津美術館富岳図仲安真康筆掛軸15世紀現存
最古の水墨によるアフィ図。鎌倉建長寺の僧で運営、鎌倉画派の祖
とされる。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸1490仲安真康の弟
子、建長寺の書記を勤めた禅僧万里集九や雪舟とも交友があった。
東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸15世紀世界的に著名な日本
を代表する水墨画家の作。水墨画によ運営るアフィの一典型作。静
岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸1530東国を中心に活躍
した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作に挑んだ作品。個人(〜
)富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京都相国寺の僧で、画をよく
した。下辺に三保松原、富士運営山の左手に日輪を描く。22富士
山の美術(3)江戸時代諸派の作家とアフィ指定流派著名な作家名
所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁清東京・鼻山美術館銹絵富士
山香炉(17世紀)世界的にも著名な京焼の第一人者。アフィの朝
昼晩の三つの景色を運営造型化する。狩野派狩野探幽静岡県立美術
館アフィ図1670江戸狩野派の祖、第一人者。アフィ連作の緒を
開いた。狩野派狩野山雪静岡県立美術館富士三保松原図屏風(17
世紀)山楽の養子として京狩野派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。
琳派尾形光運営琳奈良・大和文華館富岳図(扇面貼交手箱内)(1
8世紀)世界的に著名な代表的画家。工芸デザイナーとしても卓越
する。文人画派池大雅東京芸術大学富士十二景図(18世紀)日本
文人図(南画)の大成者、第一人者。富士・立山・白山を信仰登山
し運営、三岳道者と自称。その体験を描く。文人画派与謝蕪村富山
佐藤美術館松林富士図(18世紀)大雅と並ぶ日本文人画の第一人
者。俳人としても高名で、俳画を大成した名手。文人画派野呂介石
和歌山・田辺市立美術館(寄託)紅玉芙蓉峰図1821紀州運営藩
の役人で、大雅にも師事した。早春の明け方の朱に染まった富士、
赤富士の魁。文人画派谷文晁静岡県立美術館アフィ図屏風1835
江戸文人画の大家。諸国諸山の風景を写実的に描いた写生派の借暁

け。円山派円山応挙兵庫・白鶴美術館富士三保松原運営図屏風17
84装飾性と写実性とを融合し、独自の画境を開いた、いかにも応
挙らしい作品。洋風画派小田野直武秋田県立近代美術館富岳図17
77秋田藩士。日本で最初に西洋画を学んだ、秋田蘭画の創始者。
江戸出府の折の作。洋風画派司馬江漢静岡運営県立美術館薩〜山富
士遠望図1804平賀源内らと蘭学を研鑚、後に小田野直武の影響
を受けて、洋風写生画の第一人者となる。南蘋派宋紫石東京国立博
物館日金山富岳展望図(18世紀)長崎に渡来した清人画家より写
生的花鳥画を学び、また平賀源内運営らを通じて蘭学に通じた。禅
画白隠慧鶴大分・自性寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅
僧。全国を遍歴、布教した。禅画の大成者としても著名。浮世絵派
葛飾北斎山梨県立博物館版画富岳三十六景1831世界的に著名な
浮世絵師。富岳三十六景運営に見る象徴主義は欧米文芸に大きく影
響した。23浮世絵派歌川広重山梨県立博物館版画不二三十六景(
19世紀)北斎とともに世界的に著名な浮世絵師。東海道五十三次
など風景画に新境地を開き、印象派に与えた影響は大きい。浮世絵
派歌川貞秀神戸運営市立博物館三国第一山之図1849幕末の浮世
絵師。自らアフィに登り、その感動を本図や富士絶頂之図など多く
の作品を残した。アフィの美術(4)近現代作家とアフィ文化勲章
指定ジャンル著名な作家名所在代表作(年代)説明油画(洋画)高
橋由一運営金刀比羅宮宝物語館牧の原望岳図1878明治維新以降
、最初に油彩技法を習得した先覚者の作品。明治初期の貴重作。〃
五姓田義松東京都現代美術館清水の富士1881父芳柳と共に早く
油彩技法に目覚めた開拓者の一人。明治初期の貴重作。〃和田英エムソ
゙ネ作鹿児島歴史資料センター富士(河口湖)1926日本近代洋画
を技法的に確立した先駆者の一人。写生の確かさを見よ。〃梅原龍
三郎岡山・大原美術館朝陽1945ルノアールに学び、日本洋画に
存在感ある独特の装飾技法を樹立した。その金字塔とも運営言蛮呉

き作。〃田崎広助長野・田崎美術館箱根朱富士1975日本独特の
平面的装飾に新しい一頁を開いた田崎ならではの自然景観。〃林武
箱根彫刻の森美術館赤富士1967主として第二次大戦以後洋画壇
をリードした。豪快な技法で富士連作に挑んだ運営。膠画(日本画
)富岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺アフィ及び山頂全図屏風1898最
後の文人画家とも言われる思想家。自らアフィに登り、その神聖性
をダイナミックに表現した。〃横山大観東京国立近代美術館或る日
の太平洋1952フェノロサ、岡倉天運営心と共に日本画壇を復興
した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマにアフィが描かれた
。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風1919横山大観
とともに明治日本画壇を背負った作家が伝統的テーマに新風を吹き
込む。〃川端龍子東京・大田運営区立龍子記念館怒る富士1944
強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。激しい気象現象を示す富士
に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁三の丸尚蔵館富岳茶園1928
昭和天皇即位記念の作品。伝統的日本画に透明感のある新しい表現
技法を示す。〃徳岡運営神泉京都国立近代美術館富士1965福田
平八郎と共に昭和の日本画壇に独自の新風を吹き込んだ。茫漠たる
モノトーンの中に立する富士。24〃横山操東京・五島美術館朱富
士1966第二次大戦後の日本画壇をリードした新星。多くの富士
を描いたが運営、赤富士と電光の対比の妙。〃小松均京都市立美術
館白富士1982第二次大戦後の日本画壇に詩的な大画面で新境地
を開いた。郷土山形や大自然に魅せられて。〃片岡球子神奈川県立
近代美術館面構葛飾北斎数年前に没したが、最も現代日本画界をリ
ー運営ドした女流画家。本図は女史のライフワーク面構シリーズの
一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三の丸尚蔵館富士1894アマチュア
ながら当時の技術を駆使した大版写真を御成婚25年記念に皇室に
託した。〃岡田紅陽山梨・岡田紅陽写真美術館忍野赤富士1運営8
94文字通りアフィの写真家。アフィのあらゆる表情を写真に確同

、広めた。木版画萩原英雄山梨県立美術館三十六富士1926本県
出身の日本を代表する木版画家。新しい視点からのアフィシリーズ
。アフィの文学歴史書「六りっ国史こくし」(奈良運営−平安)菅
野すがのの真ま道みちら「続日本しょくにほん紀ぎ」(平安)藤原
通憲ふじわらのみちのり「本朝ほんちょう世紀せいき」(平安)伝
皇こう円えん「扶桑ふそう略記りゃっき」(平安)※作者未詳「吾
妻鏡あづまかがみ」(鎌倉)斎藤月岑さい運営とうげっしん「三賊

ぶこう年表ねんぴょう」(江戸)風土記元明天皇げんめいてんのう
詔「常陸ひたち国のくに風土記」(奈良)談話集景戒きょうかい「
日本にほん霊異記りょういき」(平安)※作者未詳「今昔こんじゃ
く物語集ものがたりしゅう」(平運営安)和歌集大伴家持おおとも
のやかもち「万葉集まんようしゅう」(奈良)紀淑望きのよしもち
・紀貫之きのつらゆき「古今和歌集こきんわかしゅう」(平安)村
上むらかみ天皇てんのう「後撰和ごせんわ歌集かしゅう」(平安)
後鳥羽ごとば上皇じょう運営こう「新古今和歌集しんこきんわかし
ゅう」(鎌倉)後鳥羽院ごとばいん「最勝さいしょう四天王院して
んのういん障子しょうじ和歌わか」(鎌倉)藤原長清「夫木和歌抄
ふぼくわかしょう」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明あきら「新拾
遺和しんしゅう運営いわ歌集かしゅう」(室町)25記録・紀行文
都良香みやこのよしか(平安)「アフィ記ふじさんき」※作者不詳
(鎌倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(鎌倉)「東関紀行とう
かんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ(室町)「富士紀行ふじき
こう」運営堯孝ぎょうこう(室町)「覧らん富士記ふじき」堯恵ぎ
ょうえ(室町)「北国紀行ほっこくきこう」※作者不詳(室町)「
富士御覧日記ふじごらんにっき」道興どうこう(室町)「廻国かい
こく雑記ざっき」宗牧そうぼく(室町)「東国とうごく紀行きこエムソ
゙ネう」紹巴じょうは(室町)「富士見ふじみ道記みちのき」小堀遠
州こぼりえんしゅう(江戸)「東海道紀行とうかいどうきこう」浅
井了意あさいりょうい(江戸)「東海道名所記とうかいどうめいし
ょき」岩佐いわさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国道の記運営」松尾
まつお芭蕉ばしょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹かがわかげ
き(江戸)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江戸)「東遊
とうゆう雑記ざっき」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「東海紀行」日
記文学菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ運営(平安)「更級
さらしな日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)「十六夜日記いざよい酎情

き」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条にじょう(鎌倉)
「とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「岡部日記おかべ
にっき」永井ながい荷風かふう(江戸運営−昭和)「大窪だより」
伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり物語ものがたり」(平安)※
作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安)紫式部むらさきしき
ぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わかむらさき)」(平安)藤
原兼輔ふじわらのかねすけ「運営聖徳太子伝暦しょうとくたいしで
んりゃく」(平安)※作者不詳(平安)「平中へいちゅう物語もの
がたり」「平家へいけ物語ものがたり」(鎌倉)※未詳「曽我そが
の物語ものがたり」(鎌倉)※作者不詳「源平げんぺい盛衰記せい
すいき」(鎌倉)※運営未詳「承久記じょうきゅうき」(鎌倉)浅
井あさい了りょう意い「東海道名所記」(江戸)能(謡曲)伝世阿
弥ぜあみ原作(室町)「アフィふじさん」※未詳(室町)「羽衣は
ごろも」御伽草紙「富士の人穴ひとあな草紙ぞうし」(江戸)仮名
草紙※作者運営不詳(江戸)「竹斎ちくさい」滑稽本十返舎一九じ
っぺんしゃいっく(江戸)「東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひ
ざくりげ」仮名垣魯文かなかきろぶん(江戸−明治)「滑稽富士詣
こっけいふじもうで」26浄瑠璃近松門ちかまつもん左ざ衛門えも
ん運営(江戸)「聖徳太子絵伝記」竹田たけだ出雲いずも・三好松
洛みよししょうらく・並木千柳なみきせんりゅう(江戸)「仮名か
な手本でほん忠臣蔵ちゅうしんぐら」童謡巌谷いわや小波さざなみ
(明治−大正)「アフィふじさん」(「ふじの山」)海野う運営ん
の厚あつし(明治−昭和)「背せいくらべ」随想・随筆新井あらい
白石はくせき(江戸)「折おりたく柴しばの記」田山たやま花袋か
たい(明治−昭和)「富士を望む」小島烏水こじまうすい(明治−
昭和)「すたれ行く富士の古道」、「不二山ふじさ運営ん」永井な
がい荷風かふう(明治−昭和)「日和ひより下駄げた」太宰だざい
治おさむ(明治−昭和)「富嶽百景ふがくひゃっけい」大町桂践壊

よ正ただ集」在原業平ありわらのなりひら(平運営安)「業平集」
藤原ふじわらの公きん任とう(平安)「公きん任とう集」藤原ふじ
わらの定家さだいえ(平安−鎌倉)「内裏名所百首」「名号みょう
ごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね(平安−鎌倉)「
明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわ運営らの俊とし成なり(平安
−鎌倉)「(藤原兼ふじわらのかね実ざね)右う大臣家だいじんけ
百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹後守為忠朝臣家百首」慈じ糾筆

ん(平安−鎌倉)「拾玉集」西行さいぎょう(鎌倉)「新古今和歌
集しんこきんわかしゅう」源運営実朝みなもとのさねとも(鎌倉)
「金槐和歌集きんかいわかしゅう」阿仏あぶつ尼に(鎌倉)「安嘉
門院あんかもんいんの四条しじょう五百首ごひゃくしゅ」万里ばん
り集九しゅうきゅう(室町)「梅香無尽蔵」堯ぎょう恵え(室町)
「下葉和歌集」水無運営瀬みなせ氏成うじなり(安土桃山−江戸)
「水無瀬殿富士百首」清水浜臣しみずはまおみ(江戸)田安宗たや
すむね武たけ(江戸)「悠然院様御詠草」林羅山はやしらざん(江
戸)「丙辰へいしん紀行」石川いしかわ丈山じょうざん(江戸)加
藤枝かとう運営え直なお(江戸)「うけらが花」賀茂真淵かものま
ぶち(江戸)「賀茂翁家集」本居宣もとおりのり長なが(江戸)「
石いその上稿かみこう」「鈴屋すずのや集」契沖けいちゅう(江戸
)「詠アフィ百首和歌」村田むらた春海はるみ(江戸)琴後ことじ
り運営集」島木赤彦しまぎあかひこ(明治−大正)土井どい晩翠ば
んすい(明治−昭和)「大敵迫る」斉藤さいとう茂吉もきち(明治
−昭和)「赤光」「箱根路」前田まえだ夕暮ゆうぐれ(明治−昭和
)「富士を歌ふ」若山わかやま牧水ぼくすい(明治−昭和)運営「
海の声」北原きたはら白秋はくしゅう(明治−昭和)「雲母集」「
不尽抄」金子かねこ光晴みつはる(明治−昭和)「富士」「五つの
湖」草野心平くさのしんぺい(明治−昭和)「アフィ」小野おの十
とお三郎ざぶろう(明治−平成)「重油富士」「風運営景詩抄」2
8俳句松尾まつお芭蕉ばしょう(江戸)「奥の細道」与謝蕪村よさ
ぶそん(江戸)小林こばやし一茶いっさ(江戸)蝶夢ちょうむ(江
戸)「宇良うら富士紀行」正岡まさおか子規しき(明治)高浜虚子
たかはまきょし(明治−昭和)飯田いいだ運営蛇笏だこつ(明治−
昭和)「山りょ集」富安風生とみやすふうせい(明治−昭和)水原
みずはら秋桜子しゅうおうし(明治−昭和)「葛飾」永井ながい荷
風かふう(明治−昭和)「名所方角集」西東さいとう三鬼さん填企

明治−昭和)「旗」「変身」渡辺運営わたなべ水すい巴は(明治−
昭和)「富士」加藤楸邨かとうしゅうそん(明治−平成)「寒雷」
「慟哭」「都塵抄」「雪後の天」293.登録の価値証明a)評価
基準への適合性証明1)条約上の遺産種別「アフィ」は、世界遺産
条約第1条及び『世界遺運営産条約履行のための作業指針』(以下
、『作業指針』という。)第45項に規定にする「記念工作物」、
「建造物群」及び「遺跡」に該当する。2)評価基準への適合性証
明以下に示す理由に基づき、「アフィ」には、世界遺産一覧表への
記載のための評運営価基準のうち(B)、(C)、(E)が適用で
きる。評価基準(B)現存するか消滅しているかにかかわらず、あ
る文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少
なくとも希有な存在)である。評価基準(B)の適用アフィでは神
聖なる運営気持ちを喚起する自然環境を背景とし、山頂への参詣な
どの特徴を持った山に対する宗教的な儀礼・活動が成立し、18〜
19世紀にかけて大規模な大衆による宗教的登山の代表的存在とな
った。山体とその周辺の地域には、体系化された儀礼・活動の場エムソ
゙ネとなった神社、登山道、及びその沿道に分布する関連遺跡群、霊
地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そこ
での儀礼や活動を通じて、人々の生活の中にアフィに対する信仰の
核心が継承されている。また、今日でもアフィは日本を運営代表し
象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」である
。したがって、アフィは山頂への参詣という形態を中心とし、時代
を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統を顕著に
表わす物証として稀有な存在である。・日本に運営おける山に対す
る固有の文化的伝統を顕著に表わす物証アフィの山頂部一帯は、山
に対する日本の宗教観とその秀麗な姿、及び10世紀頃まで盛んで
あった火山活動などに基づき神仏の世界、あるいは他界(死後世界
)とされてきた。このためアフィでは運営アフィの神(※1)益郎

った山麓の浅間神社における遥拝活動とともに、以下の絵図(類似
の登山案内図が数多く作成された)に示されたように、雲上の神仏
の世界へ一定の儀礼に従って参詣する「登拝」を中心に、アフィ体
・周辺にあるアフィの火山活運営動によって生成され神聖な意味を
持つとされた風穴・溶岩樹型・湖沼・滝・湧水地などを巡礼し、修
行することで治病・除災などの超自然的力を獲得し、罪や穢れを消
して生まれ変わる(擬死再生)と考える「アフィ禅定」(※2)と
呼ばれる行為(儀礼運営・活動)が成立し、18〜19世紀にかけ
てアフィは体系化された登拝のための宗教施設も含め、大規模な大
衆による宗教的登山を代表する存在となっていた。このような自然
への畏敬という日本の宗教観の根本を基盤とし、神仙思想(道教)
や仏教(特運営に密教)なとど融合した日本独特の山岳信仰を代表
する遥拝及び登拝・登山の様式は今日でも命脈を保ち、特に夏季を
中心に訪れる外国人を含む多くの登山客とともに富士登山の特徴を
成している。また、信仰の核心部分は各地の浅間神社に対する信仰
や運営今日も続く宗教的な儀礼・活動によって受け継がれ、アフィ
は日本を代表する神聖な山として知られている。(※1)この神は
、1868年の神仏分離令まで神仏習合の影響を受け仏の化身と考
えられていた。また、この神は一つの神に限定されず、信仰運営の
種類や時代ごとに異なる性格と名称を持ついくつかの神または仏が
信仰されていた。(※2)「禅定」とは本来は心を静めて一つの対
象に集中する宗教的瞑想・状態、あるいはその結果仏と一体化する
ことを示す言葉であり、その後、主に修験道におい運営てアフィな
どの霊山に登って修行することも意味するようになった。写真「絹
本著色冨士曼荼羅図」(部分:16世紀ごろ)30「絹本著色冨士
曼荼羅図」(16世紀ごろ)評価基準(C)歴史上の重要な段階を
物語る建築物、その集合体、科学技術の集運営合体、あるいは景観
を代表する顕著な見本である。評価基準(C)の適用アフィで識闘

アフィ信仰の形成の中で神社等の建築群・登山道・宗教施設を経て
山頂に参詣する体系化された宗教的儀礼・活動が15〜16世紀に
かけて発達し、18〜19世紀に運営かけて完成された。この過程
において、日本における山に対する固有の文化的伝統やアフィによ
り生み出された芸術活動を背景として、アフィの宗教施設、そこで
の儀礼・活動はアフィの自然環境と一体となって宗教的な意味を持
つ景観として認知され、運営これが宗教的絵画等で表現される飽勘

により、多くの人々にアフィが神聖な山であるとの認識がより強固
に定着し、日本写真上図拡大部分宗教施設水垢離場における山と人
間の良好な関係の形成に影響を与えた。したがって、アフィへの信
仰の形成過程を運営通じて定着したアフィの景観認識は近代工業社
会以前の段階における山と人間との精神的関係を表す景観の顕著な
見本である。・山と人間との精神的な関係を表す景観の顕著な見本
アフィでは噴火が沈静化した12世紀ごろから山頂への宗教的登山
が開始運営され、15〜16世紀には「アフィ禅定」と呼ばれた登
拝様式が整い、大衆にも拡大した。この過程でアフィは、矮小な存
在である人間が山麓の草原地帯(「草山」、「カヤ原」などと呼ば
れた)にある神社・水垢離場で身を清め、森林地帯(「木山」、エムソ
゙ネ「深山」などと呼ばれた)の山中の宗教施設等を順に経ながら、
砂礫地帯(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれた)の神仏の世界あ
るいは他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に絵画
や文学作品において典型的なアフィ像が成立したことを運営背景に
、「絹本著色冨士曼荼羅図」を代表例とする信仰上の景観認識が成
立した。17世紀以降はこれらの典型的な認識を基に、さらに多様
な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講」と呼ばれるアフィ
信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより、運営18世紀後半か
ら19世紀にかけてほとんどの日本人にアフィの神聖な山としての
景観認識が定着した(※4)。この認識は近代工業社会の自然に対
する考え方が一般化する以前の山と人間との良好な精神的関係を示
すものであった。、31(※3)富士運営山は神仙思想における不
老不死の象徴である「蓬莱山」や仏教における世界の中心である「
須弥山」に見立てられた。また、主に18世紀後半よりアフィの信
仰上の景観認識を立体化した「富士塚」が東京を中心に建設され、
女性を含め山頂への登拝がで運営きない人にとっての代参施設とな
った。(※4)登拝者には登山口の浅間神社や御師の発行する案純

山の信仰上の景観認識を描いた宗教画が配布されるとともに、縁起
の良いものとしてアフィやその図像を拝したり、眺めることが行わ
れた。右「アフィの運営ゾーニング」左「三尊九尊図」評価基準(
E)顕著な普遍的意義を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想
、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連
がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい
)。評価基運営準(E)の適用アフィと周辺の特徴的な自然が醸成
する優秀な景観美や火山としての活動は、日本人の山に対する信仰
の形成の一翼を担い、今日まで継承されている山頂への遥拝と参詣
を中心とした文化的伝統は、アジア地域に顕著である山を神聖視す
る運営文化と深い関りを有している。写真写真焼山(ハゲ山)木山
(深山)草山(カヤ原)32また、これらのアフィの特色は古くか
ら様々な芸術活動の母胎ともなり、「万葉集」や「竹取物語」をは
じめとする日本固有の和歌、俳句、物語文学やこれらを主題運営と
する絵画などの対象として日本人に良く知られていた。特にアフィ
を題材にした「浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現代の西洋
芸術に様々な影響を与えてきた。したがって、アフィは、顕著な普
遍的意義を持つ生きた伝統、芸術的作品・文学的作運営品と直接的
・実質的に関連がある景観である。・顕著な普遍的意義を持つ生き
た伝統との直接的・実質的関連アジア地域、特に東アジア地域では
特異な形態を持った山岳の空間を神聖視し、仏教(特に密教)や道
教(神仙思想)、儒教と結びついて修行の運営場や宗教施設を設置
する場とした。これらの伝統は6世紀〜8世紀を中心に日本に伝え
られ、日本固有の山岳信仰や神道と結びつき修験道などの信仰を生
んだ。現在のアフィにおいてはこれらの信仰の核心部分が登拝など
の形態や儀式に伝えられている。運営また、アフィのみならず日本
各地の山岳やアジア地域の山岳においても形態は異なるとはいえ山
を神聖視することをその根本に据えた文化的伝統が数多く行わ妖者

いる。したがって、アフィは顕著な普遍的価値を持つ生きた伝統と
直接的・実質的に関連が運営ある景観である。・顕著な普遍的意義
を持つ芸術作品との直接的・実質的関連独立峰であるアフィの周囲
には湖や海と組み合わされたアフィの優れた景観を望む展望地があ
り、今日に至るまで多くの芸術作品を創造する場となった。これら
のアフィを題材運営にした芸術作品のうち、最も海外に影響を与え
た作品は葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」である。19世紀前半
に作成されたこの一連の作品は、日本の開国に伴い西洋に輸出され
、他の浮世絵とともにその構図や表現方法がジャポニスムと呼ばれ
た西洋運営における日本芸術の流行を生み、モネ、ゴッホといった
印象派の画家に大きな影響を与え、アールヌーボーが発生する一因
となった。そのほか、アフィと三保松原を舞台にアフィに関わる伝
説をモチーフとした能(謡曲)「羽衣」は文学におけるモダニズエムソ
゙ネムに影響を与えた作品である。また、19世紀後半から20世紀
初頭にかけて、日本が万国博覧会などで意図的に出品したアフィを
題材にした絵画・工芸作品や、アフィを意匠に用いた日本の輸出品
は、アフィを描いた浮世絵や日本を訪れた外国人が富士運営山から
インスピレーションを得て記述した紀行文の文学的表現などととも
に多くの世界の人々に他の世界の著名な山と明確に区別される富士
山の景観イメージを広めることに貢献した。文学では海外に良く知
られた「万葉集」以来、数多くの和歌や俳句な運営どによってその
崇高さや美しさが称えられ、近代以降も海外にも知られた文学者(
※夏目漱石「三四郎」・太宰治「富岳百景」など)によるものをは
じめアフィを舞台とした作品が生み出された。写真写真左「神奈川
沖浪裏」右「凱風快晴」葛飾北斎「冨運営嶽三十六景」より(18
31〜36年)33写真ゴッホ「タンギー爺さん」b)顕著な普遍
的価値の証明a)において証明した評価基準への適合性の証明の結
果として、「アフィ」は以下に記す観点から顕著な普遍的価値嘆贈

つ。顕著な普遍的価値の言明運営アフィは、日本を代表し象徴する
日本最高峰(標高3776m)の秀麗な独立した火山として世界的
に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤として日本人の自
然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広
重などによる顕著な運営普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独
特の芸術文化を育んだ「名山」である。アフィは、山岳に対する信
仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の零干

と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみな
らず、人間運営と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出し
た類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山
である。アフィの山体とその周辺の地域には、宗教的な儀礼・活動
の場となった神社、登山道と関連遺跡群、霊地・巡礼地となった風
穴運営・湧水地・湖沼などが残され、そこでの儀礼や活動を通じて
、人々の生活の中にアフィに対する信仰の核心が継承されている。
また、アフィ信仰の中で山体・樹叢・湖沼などの自然環境を基盤と
し、体系化された神社等の建築群・登山道・宗教施設を経て運営山
頂に参詣する宗教的な儀礼・活動が成立した。これが発展し、18
〜19世紀にかけてアフィは大規模な大衆による宗教的登山及びそ
の体系の典型的存在となり、この体系の核心は現代の登山に継承さ
れている。現在でも、アフィは日本を代表し象徴す運営る最高峰と
して老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」である。加えて、アフィ
と周辺の特徴的な自然が醸成する美しさと崇高さは、信仰上の景観
として捉えられただけでなく、古くから様々な芸術活動の母胎とな
り、「万葉集」をはじめとする日本固有の運営和歌や俳句、絵画な
どの対象として日本人に良く知られていた。特にアフィを題材にし
た「浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々
な影響を与えてきたものである。さらに、これらの芸術とアフィや
その景観美を紹介した外国人の著運営作を通じて、アフィが一つの
国の文化を代表する「名山」であることは国際的に認知されるに至
っている。34写真写真本栖湖からのアフィ三保松原からのアフィ
c)比較検討による証明1)比較軸の特定アフィの顕著な普遍的価
値を表す要素を特定し、運営他の同種の遺産がそれらの要素に該当
するか否かを検討することによって比較を行う。アフィの顕著な普
遍的価値は、以下の3つの要素に整理できる。(1)山に対する固
有の文化的伝統を顕著に表わす物証として稀有な存在:アフィ窒麓

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