織田勝長総合スレ

112006/07/01(土) 12:20:55ID:AQAlMBKL
このところ、日本史板、戦国板などで何かと話題に上る勝長。
その不自然な厚遇ぶりの理由はどこに?
犬山城主、信忠与力。
義兄である、信雄や信孝よりも明らかに上の扱い。
安土城で、栄華の中での元服とはいえ、兄達のそれとはあまりにも違う華やかさ。
どうしても判明しない生母を考えると、そこまで厚遇する理由が分からない。
そして、武田家での人質時代には、勝頼の秘蔵っ子と言われた逸話まであり。
本能寺の変の時に二条城で亡くなった、この謎の武将について語りましょう。

444人間七七四年2017/05/20(土) 17:43:44.84ID:9nTp+dV/
あの年齢で城主だから岐阜の留守居でもしてればそれなりの地位は得られたかもしれんがな

445人間七七四年2017/05/20(土) 18:19:48.65ID:3ROSKn6w
それはある

446人間七七四年2017/05/26(金) 20:45:28.24ID:FD7qI6zh
俺も今日おつやの方の回を放送してたの見たけど
信長の息子を武田に売った件について見事に一切触れてなかったw

おつやの方の生涯の流れは把握できたけど
信長を一方的に悪役にするんじゃなくておつやの方にも結構な非がある事は描いてほしかった

447人間七七四年2017/05/26(金) 23:10:38.12ID:kedEy+s1
あの内容だと、後でおつやの事を調べて坊丸までたどり着いた人は驚くだろう。
信長の子は敵に渡して自分の子は予め逃がしておくのかと。

六太夫の子孫が方が番組に出ていたけど、六太夫関連の本で、
武田と和睦すれば少なくとも坊丸は殺されずに済むとおつやは思った、
というようなことが書いてあった記憶がある。
その路線で行けば坊丸が話に入っても家族愛でまとめられそうだ。

448人間七七四年2017/05/27(土) 00:17:48.05ID:R4ZcRCUD
番組を見てた人の大半は内容を鵜呑みにするだろうから
実際に調べて信長サイドの事情まで行く人って少ないだろうな
遠山家視点の話だと見るしかないか……

坊丸は引き取ったけど織田の救援が見込めないから、武田に送る事で処刑されるのを防いだ
信長も裏切られただけでなく息子まで武田に送られた以上、裏切らなかった家臣の手前処刑するしかなかった

こんな感じなら家族愛部分でも処刑シーンでもお涙頂戴にできそうね

449人間七七四年2017/05/27(土) 06:18:03.07ID:gCUt9p8r
遠山家の視点もなにも史実かどうかも怪しいわけで…

450人間七七四年2017/05/28(日) 21:19:33.93ID:5EBomSxA
上杉謙信に養子に出そうとしてた人質って
勝長のこと?

451人間七七四年2017/05/28(日) 22:00:49.23ID:knRLSvjU
違うんじゃね?
チラ見だけど秀勝(お次)が実は天正7年頃まで信長の元にいたらしいことが
最近の研究で判明したとかなんとかだから秀吉の養子になった年代も
通説よりぐっと下がる指摘が出ているっぽいよ

452人間七七四年2017/05/28(日) 23:50:26.76ID:rrZ5DCmz
上杉謙信が勝頼に御坊を頂戴って言ったのに対して
「うちのだからあげないよ〜」と言ったらしいけど
(このスレ関連にあったような)
その出典はなんだろう?
読んでみたいよ〜
御坊が上杉に使者として行ってたというのも出典が気になるよ
皆さん どうやって資料を探してくるんだろう

453人間七七四年2017/06/01(木) 21:46:40.89ID:DMdVj5QU
出典が書いてないのは話半分に聞いておけば

454人間七七四年2017/06/18(日) 21:44:26.32ID:FsyKzYCh
http://www.city.gifu.lg.jp/29610.htm

2017年9月24日

信長検定

455人間七七四年2017/06/19(月) 22:43:15.09ID:F4Da2fxe
>>454
リンク先のテキスト見たら
系図に「織田信房」で出てた
なんか嬉しい
犬山城に行ったときに買った本にも犬山城主として信房という記載だったような
勝長の方が一般的かもしれないが
織田に戻って付けられたであろう名前の方が本人的に?良いんじゃないかと

合格点は80点以上って最初は簡単だと思ってテキスト見たら
結構真面目に書かれていて驚いた
テキストだけでも読み応えあるね

456人間七七四年2017/06/24(土) 11:30:14.04ID:k4pJaYGx
武田氏滅亡 第34回
「勝頼の切り札、織田源三郎」
http://www.chukei.co.jp/takeda/

457人間七七四年2017/07/12(水) 00:16:22.31ID:N3qxNZ8h
前の書き込みにあった信房(勝長)の子孫が家綱の乳母、という話に関連して
こんな内容の文章を見つけた。


「常高院(初)が小浜に常高寺を建立した折りにも骨身を惜しまずに尽力した
川崎六郎左右衛門の娘は「川崎」、その娘は「外山(とやま)」の名で、
江戸城大奥の大年寄りとなった。すなわち真珠院と溪心院とである。」

これを読んだ限りでは信房と関係ないように思えるけど、
川崎局は真珠院ではなくて真現院だし、どっちが正しいんだろう。
信房の子孫が川崎(真現院)でその養女が「外山」なのか、
二人とも川崎六郎左右衛門の娘なのか。

458人間七七四年2017/07/14(金) 03:57:00.30ID:AzWl2Th+
どこのスレだか忘れたけど(ここではなく史板だったかもしれぬ)、
それについて考察されていて川崎や外山の先祖は信長五男という記録から
=信房というだけの話だから同じく五男説のあるお次秀勝の可能性もある
(その寺の記録や滋賀の郷土史史料などから見るに秀勝の方が
しっくりくるかな…)

穿った見方をすればお次秀勝の系統だったけど家綱を支えた保科正之の
養母は見性院(穴山正室)で松姫もちょいと絡む(?)武田家つながりや
他方で小宮山と恒興がという記録を残したり信房の子孫といわれる藩士を
抱えていた両池田家つながり他などで豊臣の養子になっていた秀勝より武田や
池田といった幕閣や徳川血縁との縁故重視で信房と改竄された可能性は
あるかもしれんね

459人間七七四年2017/08/11(金) 22:55:09.76ID:O31VVJy9
>豊臣の養子になっていた秀勝より武田や池田といった幕閣や徳川血縁との
>縁故重視で信房と改竄された可能性はあるかもしれんね

確かにこの可能性は大いにあると思われ

460人間七七四年2017/08/12(土) 22:41:14.33ID:Wc4HIsxf
お次は子どもがいなかったのでは・・・?
お次秀勝が亡くなった時点で秀吉は上り調子だったわけだし
お次の子孫がいたらその存在は伏されないんじゃ
むしろ五男以下で本能寺の時点であまり名前の知られていなかった
信長の子供の系統が(気を悪くされたらすまん)信房の子孫としたのかなと

461人間七七四年2017/08/12(土) 23:11:56.42ID:Wc4HIsxf
妄想ついでに書いていいかな

信房が二条御所で亡くなったという確実な証拠はあるのかな
なにかの本で信忠も本能寺にいたのではという文章を読んで
それなら妙覚寺から二条御所へ移って信忠の逃走を助けようとするし
ぎりぎりまで二条御所に留まって信忠が来る様子がなければ本能寺から単身逃げてくれたことを期待して
自分だったらそこで解散するかな〜
でも織田を信用して少ない手勢で来てくれている徳川に知らせは送るよな
現代でいうなら会長と社長と取引先の社長が会うのに、会長と社長がテロで生死不明だからって
こちらへ向かっている取引先に何も知らせずに逃げるのはないだろうと
自分だったら妙覚寺から移動する時点で使者を送るかな
この場合信房自身が知らせに行くことはあるんだろうかとか
つらつらと考えたんですよ

462人間七七四年2017/08/12(土) 23:27:29.45ID:Wc4HIsxf
なんでこんな妄想したかというと

南光坊天海の家紋が「丸に二つ引両」と書いてあるのを見て
岩村遠山氏の家紋も同じじゃないかと
信房だったら年齢的にも天海107歳で没なんていう信じ固い寿命にはならないし(70代?80代で亡くなったことになるのか?)
二条御所から徳川に連絡し、そのまま徳川領まで一緒に行って、織田のごたごたと羽柴の台頭と
自身の軍団はないしで、織田に帰るに帰れず、武田の遺臣の取り込みに協力したりとか・・・

もちろん、Wikiにも南光坊天海のことは色々書いてあるけど
あのうさん臭さって異質なんだよな
だって天海だよ
初めて聞いたとき「空海」をもじっているのかと思って触れちゃいけない気がしたよ
長益の「有楽斎」、信雄の「常真斎」、信包の「老犬斎」と並べてみても
なんかこう既視感があるようなないような
そして子孫が微妙に厚遇されているようなないようなのも納得というか
(御年寄は高給取りだよな)

超妄想なんだけどね
全然裏付けもしてなくてすまん
ここに書いてすっきりした

4634612017/08/13(日) 19:28:49.92ID:D4+mQ8An
史実通りに信忠が妙覚寺に居たとして
信房に徳川へ知らせに行くよう言いつける場合もあるかもしれないし
逆に信房が信忠に逃げてもらった後
信忠になりすまして二条御所に立てこもって
無事逃げられるよう時間稼ぎをするかもしれないし
(後者の方がありえそうだけど信忠は亡くなったことになっている)

本能寺の変は事変が起こったところでも
領国へ逃げた徳川方も羽柴の大返しについても
話が不確かで本当に謎が多いなと

一次資料もなにもない話での長文はこれで終わりにします。すみませんでした。

464人間七七四年2017/08/14(月) 09:03:18.97ID:zMIL3bK7
>>462
ほぼ同時期に随翁舜悦(通称卜山/勅賜仏国普照禅師)という享年120歳の禅僧が
いたから寿命については信じがたいとは思わないけどなあ
譲って入れ替えとするなら個人的に卜山の方かなあと…
天海だと信房をよく知る池田輝がすぐに気づくだろう

465人間七七四年2017/09/21(木) 21:32:13.05ID:Q/GmcgJg
二条御所の戦いで生き残っても信房には軍団もついていないし何もできないだろうな
跡継ぎ争いには巻き込まれないだろうが平穏な人生ではなさそうだ

466人間七七四年2017/09/23(土) 16:22:45.74ID:vo9Ut+Z7
岐阜城の留守居でもしてたのなら何か動けたやもしれんが
二条御所から脱出したのなら何もできないだろうな

467人間七七四年2017/10/01(日) 10:57:01.65ID:lFDo1ha/
「武田勝頼」平凡社刊(丸島和洋著)に載っていた、
御坊丸は「勝頼のもとで元服し、織田源三郎信房を名乗っていた。
つまり、信房実名の「信」字は武田氏通字の「信」である。」
にじわじわきてる。
武田は状況が悪くならなければ一生帰す気はなかったのか?
武田の通字も織田の通字も「信」だけど、武田で付けられたと言われると
ちょっと虚を突かれた感じ。

468人間七七四年2017/10/01(日) 12:05:24.99ID:yLDhD3oh
平山は信房という名前が武田の元で名付けられたという
典拠としてどの史料を出してるの?
信長公記との違いについての考察などは?

語弊あるけど織田関連についての平山論はいまいちゴニョゴニョ

469人間七七四年2017/10/01(日) 14:50:11.01ID:lFDo1ha/
>>468
平山優氏ではなく、丸山和洋氏の「武田勝頼ー試される戦国大名の「器量」ー」です。
P.279に467の記載があるのですが、根拠となる史料は書いてないのでなんとも・・・。
論文みたいに注釈が入っていると分かりやすいのですが。
ちなみに自分が今まで読んだ平山氏の本の中では、「武田の通字である」
という文章はなかったように記憶しています。

470人間七七四年2017/10/01(日) 15:04:34.34ID:lFDo1ha/
469ですが「丸山」ではなく「丸島」氏でした。失礼しました。

471人間七七四年2017/10/02(月) 01:56:39.84ID:K2an0R+I
平山と丸島間違えてた、こちらこそすまぬ

どちらにしても両名の論じる織田関係の考察などを
鵜呑みにするのは危険だと個人的には思う

472人間七七四年2017/10/02(月) 17:37:45.36ID:FtXu4ufx
>>467
勝頼自身に通字が入ってないのに信房に与えるかなあ
そういう考えから勝長という安直な名が流布されたのやもしれんが

473人間七七四年2017/10/02(月) 19:49:20.25ID:BOggKfOX
勝頼は将軍から一文字貰うつもりが将軍は追放されついで親父も死んでで
たまたま勝頼のまんまになってしまっただけだからあまり関係はない

474人間七七四年2017/10/02(月) 19:52:16.34ID:iWgf5d9/
武田重臣連中から「名乗るなよ、『信』名乗るなよ」と無言のプレッシャーかけられてそう

475人間七七四年2017/10/02(月) 21:04:57.74ID:NSXBLOPA
勝頼が「武田の通字でもあるし、織田の通字でもあるからいいよね」
なんて安易に考えてなかったか心配
「和睦の時も役に立つかも〜」って立ってない
武田で元服したとしても織田でも「信房」のままだったということか
織田も「信」が付いているからまあいいか、だったんかい

476人間七七四年2017/10/03(火) 17:25:42.64ID:in+HMIXF
>>473
関係ないなら嫡男になった時点で信頼とでも改名すればよかったのに

477まこと2017/10/29(日) 17:30:46.28ID:nEk7366W
ホストが一致するばあいもあるんだよ!

478人間七七四年2017/10/29(日) 17:31:46.78ID:nEk7366W
>>477

( ´,_ゝ`)y―-~~.フハハハ!!

479人間七七四年2017/10/30(月) 22:15:22.08ID:xk4nvlKg
「信頼」と「勝頼」じゃ、字面で受けるイメージが随分違うな

そういやなんで信房の子供が「勝良」なんだろう
信雄が自分の子供の「信良」とお揃いにしようとしたのか?
信忠の「三法師」がいるのに自分の子供も「三法師」と名付けたらしいから
お揃いの可能性もありそうなのが怖い
「信」つけてやれよ
武田でさえ付けてくれたんだったらさ

480人間七七四年2017/10/31(火) 17:40:26.13ID:JjUc4Tjr
>>479
勝良の存在が勝長という名の信憑性の根拠でもあるのじゃない?
武田時代から信房で一度も勝長と名乗ってないなら息子に勝なんて付けないでしょ

481人間七七四年2017/10/31(火) 17:45:43.99ID:JjUc4Tjr
ただ信雄は信勝と名乗った時期があってそこから勝の字が来た可能性はある 

482人間七七四年2017/10/31(火) 21:03:25.73ID:UY2fVkrx
「勝長」は甲陽軍鑑に載っていたんだっけ
そう名乗っていた時期もありそうだ
もし織田に返還される段階で仲介役を期待されて武田に
武田と織田の通字の「信」のある「信房」と改名させられたとしたら結構せつないな
戦国時代だからそんな感傷はないかもしれないが

483人間七七四年2017/11/09(木) 00:50:37.66ID:XQCMfElB
>>480
そもそも話で勝良の勝って勝長由来なのかだなあ
例えば池田の勝三からの勝かもしれないじゃん

484人間七七四年2017/11/13(月) 22:29:42.27ID:wreUrR11
そもそも信房の息子が勝良と名乗ったのが確実かどうか

485人間七七四年2017/11/14(火) 10:52:12.24ID:PsxN3cuj
加賀藩の藩士録や家譜に名前あるから間違いないんじゃね?

486人間七七四年2017/11/23(木) 20:52:13.24ID:5f245HG/
信雄の系統だけじゃなく
信房の直系の子孫が今もいらっしゃるんですか?

487人間七七四年2017/12/02(土) 16:16:52.85ID:AhrwjqxS
加賀藩士だった勝良じゃなく同じく信房の子供といわれる
鳥取藩士だった村田伝兵衛なるものついては和気意池田家墓所や
岡山後楽園などの造営に尽力した津田永忠の祖父(伝兵衛を名乗ってた)が
同一ではないかとする見方があるようだが…。

永忠の津田家については織田信勝の息子(信澄の弟)を祖とするという
記録もあり他で判然としない部分もあるけど600石足らずの家でありながら
光政は永忠と初謁見した時に児小姓として即抜擢して(光政の性格上これは
例外に近い)城に上がって以降は次代綱政の代まで寵臣として君臨した
なぜ600石たらずの家でありながらここまでできたのか?また一門の天城などと
政争バトルがあったがなぜか津田は家老家3万石相手でも対等にバトルが
できていてその件についてまわりも黙認している(普通あり得ない)
光政も一門より津田に軍配をあげたがだからといって天城が宗家と険悪に
なったかというとそういうこともなく最終的に家老家も納得している
要するに実力以上に水面下ではなにか事情がありその事情が例えば信房の
息子のように池田家と大恩義織田家嫡流筋の血を引いているぐらいの事情で
なければこのような線引きはできないのではないかという話

長くなってしまいすんません

488人間七七四年2017/12/02(土) 16:18:49.79ID:AhrwjqxS
誤字すまん
和気意→×、和意谷→〇

あとこの津田の末裔さんは今もいるよ

4894862017/12/02(土) 21:50:07.58ID:CmT9cSIW
>>487
もしかしたら失礼な質問だったかもと心配になってしまったのですが
ご丁寧に回答していただきありがとうございます。
一般には織田家の末裔が信雄系統しか残っていないように流布されているのが
なんだか釈然としなかったもので。
永忠の津田家のお話、とても興味深く読みました。
信房の子孫と言われる人が前田、池田、徳川(御年寄として)に仕えているというのも
元の家格のせいもあるでしょうが、不思議なものです。

私事ですが先日行政書士にお願いして家系図を作成してもらいました。
名の知れた家ではありませんが、家系図の名前を見ているだけでも、
こちらは農家か、こちらは商家の出かと色々と想像が膨らみます。
江戸時代は飢饉もあったのによく切り抜けてきたものだと感心したり。
そんな状況だったので、つい聞いてしまったのですが、
今も家系が続いているならそれだけで嬉しいです。
(あわよくば資料が出てこないかな〜なんて思ってしまうんですけど)

490人間七七四年2017/12/07(木) 17:21:36.46ID:0vqihWFS
>>487
永忠が尽力したものに池田宗家菩提寺の曹源寺もあるけど
この寺は綱政が父光政の菩提を弔うため以外に恒興の菩提を
弔うという目的があって実際今でも恒興の位牌や養徳院の木像が
安置されている
それ読んでもし伝兵衛の母親が信房の側室になったといわれる恒興の娘と
いうのが事実ならなんか関係あるのかなとふと思った

491人間七七四年2017/12/07(木) 21:49:57.63ID:t3AvcLRR
>>490
浅学なもので伝兵衛を調べようと「織田伝兵衛」でググったら
「1661年に広島県熊野町の貴船神社が洪水によって流されて、1663年に当時の庄屋「織田伝兵衛」を中心に、現在の貴船山に移された。」と出てくるし、
「津田伝兵衛」でググると
「生没年1798〜1875の鳥取藩士で軍学者(学館学頭。本牧守衛、芝の鳥取藩邸警備に奔走。軍監として軍式改正を具体化。著作『御軍式策問』等)。明治維新後、鳥取藩権大参事、少参事。」
というすごいのが出てきました。
「織田」は場所が違うようですし、「津田」だと生没年で無理があるので(でも子孫なのか?)、どちらも違うのでしょうがなんか面白い。

492人間七七四年2017/12/13(水) 20:43:03.63ID:b7PIIk9s
美濃遠山氏関係の本で
「信長公記」から引用したらしいけど御坊丸のことを信勝と書いてあった
「美文会報」からの引用では信長の九男御坊丸と書いてあるらしい
織田関連でもこんなに違うと
遠山氏のことなんてもっと知らないのに信じて読み進めて良いのか心配

493人間七七四年2018/02/03(土) 20:33:47.97ID:aMBJ5Wke
勝良って武田時代の子供だと思ってた
池田勝三からきた「勝」だったら池田の娘とも子供がいたってことか??
ちょっと子供ができるのが早い気もするんだが

494人間七七四年2018/02/03(土) 21:23:50.12ID:GgYlaRt3
>>493
父の死後に生まれたとかなら辻褄が合わないことは無い
一応wikiには1580年馬生まれ?とも書いてあるな

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