織田勝長総合スレ

112006/07/01(土) 12:20:55ID:AQAlMBKL
このところ、日本史板、戦国板などで何かと話題に上る勝長。
その不自然な厚遇ぶりの理由はどこに?
犬山城主、信忠与力。
義兄である、信雄や信孝よりも明らかに上の扱い。
安土城で、栄華の中での元服とはいえ、兄達のそれとはあまりにも違う華やかさ。
どうしても判明しない生母を考えると、そこまで厚遇する理由が分からない。
そして、武田家での人質時代には、勝頼の秘蔵っ子と言われた逸話まであり。
本能寺の変の時に二条城で亡くなった、この謎の武将について語りましょう。

460人間七七四年2017/08/12(土) 22:41:14.33ID:Wc4HIsxf
お次は子どもがいなかったのでは・・・?
お次秀勝が亡くなった時点で秀吉は上り調子だったわけだし
お次の子孫がいたらその存在は伏されないんじゃ
むしろ五男以下で本能寺の時点であまり名前の知られていなかった
信長の子供の系統が(気を悪くされたらすまん)信房の子孫としたのかなと

461人間七七四年2017/08/12(土) 23:11:56.42ID:Wc4HIsxf
妄想ついでに書いていいかな

信房が二条御所で亡くなったという確実な証拠はあるのかな
なにかの本で信忠も本能寺にいたのではという文章を読んで
それなら妙覚寺から二条御所へ移って信忠の逃走を助けようとするし
ぎりぎりまで二条御所に留まって信忠が来る様子がなければ本能寺から単身逃げてくれたことを期待して
自分だったらそこで解散するかな〜
でも織田を信用して少ない手勢で来てくれている徳川に知らせは送るよな
現代でいうなら会長と社長と取引先の社長が会うのに、会長と社長がテロで生死不明だからって
こちらへ向かっている取引先に何も知らせずに逃げるのはないだろうと
自分だったら妙覚寺から移動する時点で使者を送るかな
この場合信房自身が知らせに行くことはあるんだろうかとか
つらつらと考えたんですよ

462人間七七四年2017/08/12(土) 23:27:29.45ID:Wc4HIsxf
なんでこんな妄想したかというと

南光坊天海の家紋が「丸に二つ引両」と書いてあるのを見て
岩村遠山氏の家紋も同じじゃないかと
信房だったら年齢的にも天海107歳で没なんていう信じ固い寿命にはならないし(70代?80代で亡くなったことになるのか?)
二条御所から徳川に連絡し、そのまま徳川領まで一緒に行って、織田のごたごたと羽柴の台頭と
自身の軍団はないしで、織田に帰るに帰れず、武田の遺臣の取り込みに協力したりとか・・・

もちろん、Wikiにも南光坊天海のことは色々書いてあるけど
あのうさん臭さって異質なんだよな
だって天海だよ
初めて聞いたとき「空海」をもじっているのかと思って触れちゃいけない気がしたよ
長益の「有楽斎」、信雄の「常真斎」、信包の「老犬斎」と並べてみても
なんかこう既視感があるようなないような
そして子孫が微妙に厚遇されているようなないようなのも納得というか
(御年寄は高給取りだよな)

超妄想なんだけどね
全然裏付けもしてなくてすまん
ここに書いてすっきりした

4634612017/08/13(日) 19:28:49.92ID:D4+mQ8An
史実通りに信忠が妙覚寺に居たとして
信房に徳川へ知らせに行くよう言いつける場合もあるかもしれないし
逆に信房が信忠に逃げてもらった後
信忠になりすまして二条御所に立てこもって
無事逃げられるよう時間稼ぎをするかもしれないし
(後者の方がありえそうだけど信忠は亡くなったことになっている)

本能寺の変は事変が起こったところでも
領国へ逃げた徳川方も羽柴の大返しについても
話が不確かで本当に謎が多いなと

一次資料もなにもない話での長文はこれで終わりにします。すみませんでした。

464人間七七四年2017/08/14(月) 09:03:18.97ID:zMIL3bK7
>>462
ほぼ同時期に随翁舜悦(通称卜山/勅賜仏国普照禅師)という享年120歳の禅僧が
いたから寿命については信じがたいとは思わないけどなあ
譲って入れ替えとするなら個人的に卜山の方かなあと…
天海だと信房をよく知る池田輝がすぐに気づくだろう

465人間七七四年2017/09/21(木) 21:32:13.05ID:Q/GmcgJg
二条御所の戦いで生き残っても信房には軍団もついていないし何もできないだろうな
跡継ぎ争いには巻き込まれないだろうが平穏な人生ではなさそうだ

466人間七七四年2017/09/23(土) 16:22:45.74ID:vo9Ut+Z7
岐阜城の留守居でもしてたのなら何か動けたやもしれんが
二条御所から脱出したのなら何もできないだろうな

467人間七七四年2017/10/01(日) 10:57:01.65ID:lFDo1ha/
「武田勝頼」平凡社刊(丸島和洋著)に載っていた、
御坊丸は「勝頼のもとで元服し、織田源三郎信房を名乗っていた。
つまり、信房実名の「信」字は武田氏通字の「信」である。」
にじわじわきてる。
武田は状況が悪くならなければ一生帰す気はなかったのか?
武田の通字も織田の通字も「信」だけど、武田で付けられたと言われると
ちょっと虚を突かれた感じ。

468人間七七四年2017/10/01(日) 12:05:24.99ID:yLDhD3oh
平山は信房という名前が武田の元で名付けられたという
典拠としてどの史料を出してるの?
信長公記との違いについての考察などは?

語弊あるけど織田関連についての平山論はいまいちゴニョゴニョ

469人間七七四年2017/10/01(日) 14:50:11.01ID:lFDo1ha/
>>468
平山優氏ではなく、丸山和洋氏の「武田勝頼ー試される戦国大名の「器量」ー」です。
P.279に467の記載があるのですが、根拠となる史料は書いてないのでなんとも・・・。
論文みたいに注釈が入っていると分かりやすいのですが。
ちなみに自分が今まで読んだ平山氏の本の中では、「武田の通字である」
という文章はなかったように記憶しています。

470人間七七四年2017/10/01(日) 15:04:34.34ID:lFDo1ha/
469ですが「丸山」ではなく「丸島」氏でした。失礼しました。

471人間七七四年2017/10/02(月) 01:56:39.84ID:K2an0R+I
平山と丸島間違えてた、こちらこそすまぬ

どちらにしても両名の論じる織田関係の考察などを
鵜呑みにするのは危険だと個人的には思う

472人間七七四年2017/10/02(月) 17:37:45.36ID:FtXu4ufx
>>467
勝頼自身に通字が入ってないのに信房に与えるかなあ
そういう考えから勝長という安直な名が流布されたのやもしれんが

473人間七七四年2017/10/02(月) 19:49:20.25ID:BOggKfOX
勝頼は将軍から一文字貰うつもりが将軍は追放されついで親父も死んでで
たまたま勝頼のまんまになってしまっただけだからあまり関係はない

474人間七七四年2017/10/02(月) 19:52:16.34ID:iWgf5d9/
武田重臣連中から「名乗るなよ、『信』名乗るなよ」と無言のプレッシャーかけられてそう

475人間七七四年2017/10/02(月) 21:04:57.74ID:NSXBLOPA
勝頼が「武田の通字でもあるし、織田の通字でもあるからいいよね」
なんて安易に考えてなかったか心配
「和睦の時も役に立つかも〜」って立ってない
武田で元服したとしても織田でも「信房」のままだったということか
織田も「信」が付いているからまあいいか、だったんかい

476人間七七四年2017/10/03(火) 17:25:42.64ID:in+HMIXF
>>473
関係ないなら嫡男になった時点で信頼とでも改名すればよかったのに

477まこと2017/10/29(日) 17:30:46.28ID:nEk7366W
ホストが一致するばあいもあるんだよ!

478人間七七四年2017/10/29(日) 17:31:46.78ID:nEk7366W
>>477

( ´,_ゝ`)y―-~~.フハハハ!!

479人間七七四年2017/10/30(月) 22:15:22.08ID:xk4nvlKg
「信頼」と「勝頼」じゃ、字面で受けるイメージが随分違うな

そういやなんで信房の子供が「勝良」なんだろう
信雄が自分の子供の「信良」とお揃いにしようとしたのか?
信忠の「三法師」がいるのに自分の子供も「三法師」と名付けたらしいから
お揃いの可能性もありそうなのが怖い
「信」つけてやれよ
武田でさえ付けてくれたんだったらさ

480人間七七四年2017/10/31(火) 17:40:26.13ID:JjUc4Tjr
>>479
勝良の存在が勝長という名の信憑性の根拠でもあるのじゃない?
武田時代から信房で一度も勝長と名乗ってないなら息子に勝なんて付けないでしょ

481人間七七四年2017/10/31(火) 17:45:43.99ID:JjUc4Tjr
ただ信雄は信勝と名乗った時期があってそこから勝の字が来た可能性はある 

482人間七七四年2017/10/31(火) 21:03:25.73ID:UY2fVkrx
「勝長」は甲陽軍鑑に載っていたんだっけ
そう名乗っていた時期もありそうだ
もし織田に返還される段階で仲介役を期待されて武田に
武田と織田の通字の「信」のある「信房」と改名させられたとしたら結構せつないな
戦国時代だからそんな感傷はないかもしれないが

483人間七七四年2017/11/09(木) 00:50:37.66ID:XQCMfElB
>>480
そもそも話で勝良の勝って勝長由来なのかだなあ
例えば池田の勝三からの勝かもしれないじゃん

484人間七七四年2017/11/13(月) 22:29:42.27ID:wreUrR11
そもそも信房の息子が勝良と名乗ったのが確実かどうか

485人間七七四年2017/11/14(火) 10:52:12.24ID:PsxN3cuj
加賀藩の藩士録や家譜に名前あるから間違いないんじゃね?

486人間七七四年2017/11/23(木) 20:52:13.24ID:5f245HG/
信雄の系統だけじゃなく
信房の直系の子孫が今もいらっしゃるんですか?

487人間七七四年2017/12/02(土) 16:16:52.85ID:AhrwjqxS
加賀藩士だった勝良じゃなく同じく信房の子供といわれる
鳥取藩士だった村田伝兵衛なるものついては和気意池田家墓所や
岡山後楽園などの造営に尽力した津田永忠の祖父(伝兵衛を名乗ってた)が
同一ではないかとする見方があるようだが…。

永忠の津田家については織田信勝の息子(信澄の弟)を祖とするという
記録もあり他で判然としない部分もあるけど600石足らずの家でありながら
光政は永忠と初謁見した時に児小姓として即抜擢して(光政の性格上これは
例外に近い)城に上がって以降は次代綱政の代まで寵臣として君臨した
なぜ600石たらずの家でありながらここまでできたのか?また一門の天城などと
政争バトルがあったがなぜか津田は家老家3万石相手でも対等にバトルが
できていてその件についてまわりも黙認している(普通あり得ない)
光政も一門より津田に軍配をあげたがだからといって天城が宗家と険悪に
なったかというとそういうこともなく最終的に家老家も納得している
要するに実力以上に水面下ではなにか事情がありその事情が例えば信房の
息子のように池田家と大恩義織田家嫡流筋の血を引いているぐらいの事情で
なければこのような線引きはできないのではないかという話

長くなってしまいすんません

488人間七七四年2017/12/02(土) 16:18:49.79ID:AhrwjqxS
誤字すまん
和気意→×、和意谷→〇

あとこの津田の末裔さんは今もいるよ

4894862017/12/02(土) 21:50:07.58ID:CmT9cSIW
>>487
もしかしたら失礼な質問だったかもと心配になってしまったのですが
ご丁寧に回答していただきありがとうございます。
一般には織田家の末裔が信雄系統しか残っていないように流布されているのが
なんだか釈然としなかったもので。
永忠の津田家のお話、とても興味深く読みました。
信房の子孫と言われる人が前田、池田、徳川(御年寄として)に仕えているというのも
元の家格のせいもあるでしょうが、不思議なものです。

私事ですが先日行政書士にお願いして家系図を作成してもらいました。
名の知れた家ではありませんが、家系図の名前を見ているだけでも、
こちらは農家か、こちらは商家の出かと色々と想像が膨らみます。
江戸時代は飢饉もあったのによく切り抜けてきたものだと感心したり。
そんな状況だったので、つい聞いてしまったのですが、
今も家系が続いているならそれだけで嬉しいです。
(あわよくば資料が出てこないかな〜なんて思ってしまうんですけど)

490人間七七四年2017/12/07(木) 17:21:36.46ID:0vqihWFS
>>487
永忠が尽力したものに池田宗家菩提寺の曹源寺もあるけど
この寺は綱政が父光政の菩提を弔うため以外に恒興の菩提を
弔うという目的があって実際今でも恒興の位牌や養徳院の木像が
安置されている
それ読んでもし伝兵衛の母親が信房の側室になったといわれる恒興の娘と
いうのが事実ならなんか関係あるのかなとふと思った

491人間七七四年2017/12/07(木) 21:49:57.63ID:t3AvcLRR
>>490
浅学なもので伝兵衛を調べようと「織田伝兵衛」でググったら
「1661年に広島県熊野町の貴船神社が洪水によって流されて、1663年に当時の庄屋「織田伝兵衛」を中心に、現在の貴船山に移された。」と出てくるし、
「津田伝兵衛」でググると
「生没年1798〜1875の鳥取藩士で軍学者(学館学頭。本牧守衛、芝の鳥取藩邸警備に奔走。軍監として軍式改正を具体化。著作『御軍式策問』等)。明治維新後、鳥取藩権大参事、少参事。」
というすごいのが出てきました。
「織田」は場所が違うようですし、「津田」だと生没年で無理があるので(でも子孫なのか?)、どちらも違うのでしょうがなんか面白い。

492人間七七四年2017/12/13(水) 20:43:03.63ID:b7PIIk9s
美濃遠山氏関係の本で
「信長公記」から引用したらしいけど御坊丸のことを信勝と書いてあった
「美文会報」からの引用では信長の九男御坊丸と書いてあるらしい
織田関連でもこんなに違うと
遠山氏のことなんてもっと知らないのに信じて読み進めて良いのか心配

493人間七七四年2018/02/03(土) 20:33:47.97ID:aMBJ5Wke
勝良って武田時代の子供だと思ってた
池田勝三からきた「勝」だったら池田の娘とも子供がいたってことか??
ちょっと子供ができるのが早い気もするんだが

494人間七七四年2018/02/03(土) 21:23:50.12ID:GgYlaRt3
>>493
父の死後に生まれたとかなら辻褄が合わないことは無い
一応wikiには1580年馬生まれ?とも書いてあるな

495人間七七四年2018/03/07(水) 21:41:00.37ID:E9H03/Cm
ネットでこんなの見つけて
面白そう、でももう終わってるんだ〜と思って良く見たら
平成18年。
2018年ですらなかった・・・

山梨県史講演会(全3回)※終了しました。
平成18年
1月29日(日) 織田源三郎の生涯―武田信玄の養子となった織田信長の息子―
平山 優 主査
(県史編さん室)
 織田信長といえば、武田信玄・勝頼の宿敵であり、武田氏を滅亡させた人物です。
しかし、信長の実子の1人が信玄の養子になっていた事実はほとんど知られていません。
その人物は御坊丸と呼ばれ、後に元服して織田源三郎と名乗り、武田勝頼によって信長
のもとに送り返されています。これまで、源三郎の実名や生涯、そして織田家復帰後の
役割については謎に包まれていました。県史編さん事業で明らかになった事実をもとに、
彼の生涯を検証します。

496人間七七四年2018/03/09(金) 06:33:44.04ID:7diGCMto
面白そうではあるけど講師がちとね…
池田の娘を信房の正室と断言しているのが何ともで…
織田・池田サイドの史料もきちんと検証しない人だし…

497人間七七四年2018/03/09(金) 22:33:32.98ID:VoosG6yt
他になかなか信房のことを取り上げてくれる人がいないのがなんとも…
彼自身の話だけなら5分も講演が持たなそうです
信房のことは載っていないかもしれませんが、
池田家の研究本でなにか興味深い本はありますか?

これは独り言に近いんですが…
池田家の娘が正室ではないとしたら
どんな家格の娘が正室になる予定だったのだろうと考えてしまいます
信忠みたいに公家の娘(の予定?)とか
お次みたいに敵対していた毛利家の養女とか
この場合は敵対とは言えないけれど北条、長曾我部、島津辺り?
でも信房は四男ですし、兄たちを差し置いてそんな扱いを受けるのだろうかと

498人間七七四年2018/03/10(土) 17:28:15.15ID:s5sYVPVI
これから征服・臣従する家に婿養子という名の乗っ取りに出される可能性はあるかも
武田は縁があるけど穴山がいるから無かったけど
上杉や毛利は嫡男いないし芦名も実子はいない

499人間七七四年2018/03/10(土) 17:30:18.92ID:s5sYVPVI
上記はあくまで本能寺無しの場合の仮定だけど史実で急いで正室を迎える必要があったのかね

500人間七七四年2018/03/11(日) 15:50:21.99ID:v+14VJKw
>>497
信忠に公家の娘の予定なんてあったのか?
むしろそっちの史料が知りたい

信房は池田みたいに準一門ないし一門系もしくは尾張か美濃地盤の有能な
家臣の娘とかのような感じがするなあ
信忠が甲州征伐後の4月に勧修寺あてに送った書状をみるにえらく
【東国】に拘っているんで松姫の動向いかんにはなるだろうけど信忠は名実共に
武田の看板を使える松姫を娶ることで征夷を盤石なものにして信房はその補強として
東国の誰かの娘かそういうことはせずに池田みたいな準一門ないし一門系か
美濃か尾張地盤の有力な家臣の娘を嫁にして東国入りかもな
北条は信長が娘を嫁に出す約束をしているし松姫通じれば信忠と氏直は叔父甥の
関係なんでさらに強固な関係を結ぶという意味ではあり得なくはないけど
これも北条の動き次第かな

501人間七七四年2018/03/11(日) 23:26:29.58ID:wSIHL9qP
>>500
497です。誤解を招く描き方ですみません。
>>信忠に公家の娘の予定なんてあったのか?
>>むしろそっちの史料が知りたい
学者による専門書でない歴史本に書いてあり、資料の裏付けもないので
「公家の娘(の予定?)とか 」と書きました。
個人的な考えですが、こうした仮説は豊臣政権で行われたことを投影しているのかなと思っています。
秀吉が唐入りを実行したから信長も考えていたに違いない、
あるいは秀次の正室が菊亭晴季の娘だったから信忠の正室も公家の娘を予定していたのではないか、
といったことを前提とした小説や歴史企画本などを目にしているものでお恥ずかしいです。
如何せん古文書の読解力がないもので資料に当たれないというところが事実です。
最近は専門家が書いた本を読むことが多くなってきました(でも一次資料は読めない…)。
研究分野によっては得手不得手があるのでしょうが、やはり専門家が書いた本は面白いですね。

>>499
池田家の娘(若御前)が関白秀次の正室だったので、
池田家の家格としては信房の正室にできない訳ではないのかなと思っていたのですが…

確かに急いで正室を持たせる必要はないですよね。
が、取り急ぎ側室を、という扱いを池田家にしてしまって良いのかなという気がします。
案外、若御前が秀次の正室になったときと、秀次が関白になってからとでは
豊臣家と池田家で家格の差が大きくなってしまって改めて公家から正室をもらったのかも?
それならば当時の織田家と池田家の主従関係を考えると、信房の「側室」という扱いで良かったということかもしれないです。

書いていて自分でも訳わからなくなってきましたが、
織田家と池田家で「正室」とした資料がないならば少なくとも正室ではないということですよね。

502人間七七四年2018/03/12(月) 05:36:43.23ID:sALztUyi
取り急ぎ側室というより信房を犬山に入れる上で
池田の娘が適任だったからじゃないかな
信房が入るまでの犬山は池田所領(池田は摂津入りしても
信房が入るまでの本拠地は犬山のままだった)なことや
池田は信忠付が長かったから信忠の与力となった信房に信長ではなく
信忠軍のことをいろいろ教えるのにも最適だったのだと思われ
他方で恒興が帰依していた坊さんと快川は妙心寺時代からの入魂の仲
だったそうだからもろもろでくどいが池田が適任だったと思われ

まあ水面下で恒興自身も小宮山とパイプをもっていたっぽいから
そこらでも何かあったのかもね

503人間七七四年2018/04/15(日) 13:18:36.67ID:Z2PzRb3l
保守

504人間七七四年2018/04/16(月) 01:59:37.22ID:2LjnSx/F
>>501
面白い
自力で文書に当たれないのが勿体無いな

505人間七七四年2018/04/19(木) 13:27:24.08ID:y5eyhr6e
>>502
当代記によれば家臣達がこぞって信房に贈り物合戦を繰り広げ
中でも秀吉はすごかったとあるのを踏まえるとわが娘を信房の嫁か
側室にという動きも連動していたとも考えられるからそういうのを
落ち着かせる(家臣達の閨閥政争を防ぐ)意味合いもあったと思われ
池田だったら乳母と乳兄弟の家、嫡男の嫁は信長養女で濃姫の実姪、
孫も既に生まれていて見ようによっては閨閥系の中では頭一つ出ているから
火に油を注ぐということもあるまいて

506人間七七四年2018/05/01(火) 01:07:07.67ID:R04XORzV
>>当代記によれば家臣達がこぞって信房に贈り物合戦を繰り広げ
中でも秀吉はすごかった

なのに法名が厳が付いていないって謎
林庭宗松という法名の格も良く分からないが
織田家の墓は複数あるようですが、その中に信房の墓はあるんですか?

507人間七七四年2018/05/01(火) 10:25:54.28ID:g4lmeApp
確認できている信房の墓は京都の阿弥陀寺
前に鳥取にもらしき墓はあるらしいとなんかで見かけたけど
詳細までは覚えてない
戒名の謎については前にこのスレで議論になっていたから
最初から読んでみるといいと思われ

508人間七七四年2018/05/01(火) 21:05:58.94ID:R04XORzV
>>507
ありがとうございます
戒名の件を読んでみましたが院号や法名の話自体なじみがないので
まずは基礎知識を頭に入れなければ
信雄がいても直す余裕はなかったのか、知らなかったのか〜

スレの前の方を読んで
僧坊で生まれたから(と仮定して)幼名「(御)坊丸」で諱が「信房」(房は「僧の住む所。坊。」という意味もある)だったら
駄洒落みたいだと思ったり

509人間七七四年2018/05/02(水) 18:59:22.05ID:IjEYx77a
>>507
鳥取って池田絡み? 他に縁や所縁があるとも思えないし

510人間七七四年2018/05/15(火) 20:19:26.91ID:8eb9dUop
20年の明智光秀の大河ドラマに出てくるかな
真田丸の二条御所の戦いでも出てこなかったから無理か?

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