【軍神 上杉謙信 毘沙門天 越後の龍】

1名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 20:00:50ID:MLw6ovr2
上杉景勝・上杉景虎・長尾晴景・長尾政景・長尾景信・長尾景連
上条政繁・直江実綱・直江信綱・直江兼続・柿崎景家・斉藤朝信
小島貞興・中条藤資・河田長親・北条高広・北条景広・本庄秀綱
本庄繁長・安田長秀・安田顕元・村上国清・高梨政頼・大熊朝秀
吉江景資・水原親憲・竹俣慶綱・温井景隆・藤田信吉・山吉豊守
遊佐続光・黒川清実・加地春綱・志駄春義・新津勝資・鮎川清長
小国頼久・新発田重家・宇佐美定満・山本寺定長・長景連など。

2名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 20:02:05ID:5iiKg+Qo
なんていうか
重複ていうか

3名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 20:07:56ID:KWNj/8k4
織田家家臣団のその後を語り明かすスレ!!
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152601585/

このスレ立てた人と同じ人のような気がする。

4名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 20:24:36ID:KWNj/8k4
越後の虎とも聞く。

5名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 20:26:04ID:MLw6ovr2
他にも・・・。

色部顕長・色部勝長・色部光長・色部長実・色部憲長・甘粕景継
柿崎晴家・柿崎憲家・春日元忠・神余親綱・北条高定・黒田秀忠
甘粕景持・甘粕長重・岩井信能・大石綱元・鮎川盛長・新居長重
島津忠直・上条定憲・須田満親・本庄実乃・村上義清・村上国清
荒川長実・安田能元・泉沢久秀・板屋光胤・市川房綱・飯沼頼清
秋山定綱・新発田綱貞・新発田長敦・前田利益・安田景元

6名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 20:27:21ID:MLw6ovr2
>>4
龍じゃあなかったっけ??無学ですんまそ。

7名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 20:30:10ID:MLw6ovr2
>>3
ドキッ(ーー;)・・・・実は同じです。いっぱい出してすんまそ。
謙信の方が好きなもんで(^_^)宜しくお願いしまっ(^◇^)

8名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 20:31:25ID:MLw6ovr2
>>2
とにかくすんまそ。許したって下さい。
いろいろ勉強したいんですわ(^_^)

9名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 20:35:43ID:MLw6ovr2
皆さんは家臣団で最強は誰だと思いますか??

10名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 20:38:13ID:HOqz1wlt
武田と比べて、上杉家臣団は目立たないね。

11名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 20:42:30ID:HOqz1wlt
>>9
単純に戦の強さなのか、総合的になのか

12名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 20:43:20ID:MLw6ovr2
>>10
織田と武田に比べたら確かに見劣りするけど
川中島等で引き分けやったって事は・・・。実は
同じぐらい優秀やったんやと思うんやけどなぁ。
謀略には、とても弱そうなイメージがあるけどな。
一応、織田もぶちのめしたし(>_<)

13名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 20:45:02ID:MLw6ovr2
>>11
べたに武力と統率力で一人ずつお願いします!

14名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 20:47:15ID:MLw6ovr2
>>1>>5
小笠原長時は家臣と違うのですか?

15名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 20:48:22ID:4rcEX9bp
柿崎景家
川中島合戦(永禄4年)の先鋒、内藤修理隊を一蹴し
武田の備えを突破する。思慮が足りないが、越後最強。

16名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 20:50:18ID:4rcEX9bp
>>14
小笠原長時は信濃守護職、信濃源氏。
信玄に信濃を追われて越後→京都→芦名へ亡命生活
のちに息子が信濃複料。

17名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 20:57:20ID:MLw6ovr2
>>16
ありがとうございます。ちなみに上杉憲政の家臣達や
(長野業正・上泉??)太田資正などは?

18直江兼続2006/07/14(金) 21:00:35ID:etf5VZke
上杉謙信公は、逃げて、戦を進めるのが得意

19名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 21:06:08ID:4rcEX9bp
太田資正は関東の盟友だが、家臣(被官)ではない。
厳密に言うと、越後の国人領主も被官関係ではないが、越後衆は謙信に誓詞を提出した
配下の者たち。「手飼之者たち」(直臣)は直江・河田・鰺沢・吉江あたり。
長野(その配下の上泉)・太田・佐竹・宇都宮ほか関東衆は
関東管領の指揮下で、従属的な同盟軍(御味方)にすぎない。
謙信が関東から兵を引くと北条に寝返るのが大半で、一貫した同盟軍は太田と里見くらい。

20名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 21:13:59ID:MLw6ovr2
>>18
油断させて相手が調子に乗って来たところで
「キャン」っていわせるって事ですか?
島津家と一緒という事ですか??

21名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 21:17:48ID:MLw6ovr2
>>19
そうですか・・・。全員が家臣やったら武田と比べても
見劣りせーへんのにね・・・。あと山上道及も家臣なの
ですか(・o・)??

22名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 21:19:49ID:HOqz1wlt
謙信の家臣ではない。

23名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/14(金) 22:46:37ID:MLw6ovr2
>>22
では景勝の家臣ですか?

24名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/15(土) 01:08:39ID:T/wgHuiC
関東勢は、いっそ上杉に被官しちゃえば、
現代まで続いたかもしんなのに。
なまじ北条に被官しちゃうから、
小田原攻めで全滅。


25名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/15(土) 10:13:22ID:mBDNNpyB
12
戦闘力なら謙信軍団のが高いような気がする。
川中島4では兵数13000対20000(かずに諸説あり)で差がハッキリしてる不利な状況でも謙信は勝算あると思っていたのだろうと思う。
それだけ将兵の質の違いに自信あったんでないでしょうか。
実際、奪った首の数は数の少ない謙信方のが多い。

26名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/15(土) 10:38:32ID:J8YQ+jg4
上杉謙信が戦上手だったことを示す戦略について教えてください

27名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/15(土) 16:37:49ID:Kz3Nxu5M
>>26
「戦上手だった」ということなら「戦略」よりも「戦術」だと思うが、
軍記書では「軍勢を縦横に分けて、謙信みずから陣立てをした」と伝わっている。
つまり、総大将の指揮権で部隊編成し、その際に主従が別れ別れになることも
あったらしい。武将の率いる一隊単位で陣立てがなされていた当時では、通常は
考えられない部隊編成で、近世的な兵種別の陣構えも可能だったかもしれない。
しかし、伝わっている軍記書はずべて江戸時代の兵学者の創作と思われ、
謙信もふつうの陣立てをしていたことが軍令書などからは伺える。
史実では謙信も負け戦をしているし、70戦したとされる大半は攻城戦。
城下に火をかけ、敵を降参させたのが確証のある史実ではないか。

28直江兼続2006/07/15(土) 21:17:58ID:tfPmXzZE
そうですよ

29名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/15(土) 22:29:52ID:RcEy90QZ
柿崎の知謀を考慮すると甘粕景持が最強だと思う。信長の野望に出てないから余り有名でないけど。確か上杉四天王の一人。ちなみに甘粕景継とは別人ですよ。

30名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/16(日) 03:14:14ID:tDDBd4JJ
川中島で武田の別働隊を一人で食い止めてた偉い人ですか?
何故かあまり本などで名前を見ないんだけど…。
景持と景継の違いを教えてほしい

31直江兼続2006/07/16(日) 09:45:28ID:0Wlk5i2H
>>20
そうですよ。

32名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/16(日) 19:06:47ID:/gvEe4AF
>>30
甘粕景持って武田軍の別動隊の追撃を自分の部隊だけで食い止めたって
すげーなぁ。上杉家の他の武将達も上杉謙信が自ら殿を務めたと勘違い
してたらしいから謙信級の神業をしたんやな(゜o゜)

33名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/16(日) 19:13:19ID:/gvEe4AF
謙信公が松永久秀級の野心家やったら歴史は大きく変わってそう
やけどな。まぁそれじゃあ謙信の魅力半減やけどな(>_<)人間味
を感じるところがええもんな(^_^.)

34名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/16(日) 19:24:52ID:/gvEe4AF
武田信玄は毛利元就とか松永久秀と同じ匂いがするから
あんまりやわ。確かに領国経営も素晴らしいものがある
けど・・・。なんかうさん臭いイメージが強すぎるから
やっぱり謙信公じゃろ(^◇^)

35名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/16(日) 20:48:57ID:7IenS/F+
>>29
柿崎は「天と地と」で武力馬鹿のイメージを植えつけられたけど、思慮分別のない人物ってわけじゃないよ。
当時としては珍しく部隊を黒一色で揃え、味方の同士討ちや混乱を防いだりしていた。
これが江戸時代になると『越後の黒備え』として創作されるようになった。
また、名政治家でもあって領民達からも慕われていたよ。詳しくは柿崎スレを参照しる!

36名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/16(日) 21:03:10ID:/gvEe4AF
>>35
なるほど。これで上杉家臣団の能力が、また1歩武田・織田家臣団の
能力に近づきましたな(;一_一)ちょっと上杉家臣団は過少評価され
すぎやわ。滅亡した武田・北条より下な訳がないやん。

37名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/16(日) 21:21:17ID:gFqAd/7/
謙信の家臣団ということでは、越後国人衆よりも政権後期の直臣たちのほうが
忠誠心もあるし、合戦の能力もすぐれていたよ。
河田長親・鰺坂長実・吉江一族(吉江景資・中条景泰ら)=近江出身
山甫国清(信濃村上氏)・須田満親(信濃衆)上条政繁(畠山氏養子)
とくに河田は武勇政務にすぐれ、若くして奉行人になり古志長尾を継承。
織田信長から近江に領地を与えると誘われるが、拒否して柴田勝家軍の侵攻を阻む。
一級史料とされる「信長公記」にもその活躍ぶりが散見される。
吉江一族は本能寺の変の翌日まで越中魚津城を死守して玉砕、籠城は50日に及んだ。
武田氏でいえば高天神城と高遠城の戦いに該当する魚津城攻防戦が上杉氏の命脈を
保ったといえる。玉砕するときは耳に穴をあけ、それぞれが名前を書いた札を縛ったという。

38名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/17(月) 04:30:43ID:/0hF8YAw
河田長親は越中を治めきれなかったイメージしかないんだけど・・・・・・・

39名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/17(月) 05:08:30ID:FJDW7tCw
上杉謙信とこは、信濃衆とか近江スカウト組とか、
新参者の方が働き者だべな。


40名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/17(月) 13:54:31ID:PT7nJsr8
>>39
信用されていたんやろうけど新参者が前線に配備されるのは
仕方がない事やったんやろな。みんなの予想以上に活躍したん
やろうけど。まぁ武田家みたいにみっともない終わり方をせんで
よかったですわ(^_^)

41名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/17(月) 14:35:41ID:/0hF8YAw
いや、信濃衆はやる気マンマンで謙信はマンドクセ・・・・・で、付き合ってただけだから。

42名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/17(月) 15:55:23ID:PT7nJsr8
>>41
マンドクセ・・・・では付き合いしてないでしょ。
武田信玄と何回も戦う方がマンドクセでしょ(;一_一)

43名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/17(月) 16:10:12ID:PT7nJsr8
>>38
普段の越中では無くて織田家・椎名家・神保家・畠山家・一向一揆衆
との戦いに明け暮れていた時の越中ですから。想像しただけでも・・・。
えらいこっちゃですよ。織田家だけでも、しんどいですよ。降参も
裏切りもせずに、なおかつ占領されずに守り抜いていただけでも賞賛
されると思いますが。

44名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/17(月) 16:14:27ID:PT7nJsr8
>>43
補足ですが、さらにその後も謙信が死去して「御館の乱」が起きてます。
上杉家自体がホンマにえらいこっちゃな状況ですよ。

45名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/17(月) 22:22:15ID:TciYsiXI
「信長公記」にある河田長親の記事

天正6年

 4月、信長公は上杉輝虎の死亡を受けて越中への進出を考え、
神保に佐々権左衛門を添え、飛騨国司姉小路頼綱に命じてかれらを飛騨から越中へ入国させたのであった。

 9月14日には、越中で斎藤新五が行動を開始していた。
越中では太田保の津毛城に敵方上杉勢の椎名小四郎と河田豊前守長親が軍勢を入れていたが、
尾張・美濃勢近付くの報を耳にしてたちどころに退散してしまった。
労せず津毛を手にした斎藤新五は神保長住勢を城に入れ置き、
みずからは三里ほど進んだ場所に陣を構えて各所へ出陣を繰り返していった。

 10月4日、斎藤新五は越中国太田保の本郷に陣を構え
、ここから河田長親・椎名小四郎の籠る今和泉の城下まで押し寄せて放火を働いた。
そして未明に軍勢を返そうとしたところ、敵方が兵を出して追尾してきた。
 この動きを見た斎藤新五は節所を選んで軍勢を退かせてゆき、
月岡野という地に至ったところで軍勢を立て備えて一戦に及んだ。
そして見事敵勢を追い崩し、首数百六十を討ち取る勝利を挙げたのであった。
 勝ちに乗じた斎藤勢はそののちも勢いを休めず駆けまわり、各所の土豪たちから人質を取り固めていった。
そして人質を神保長住に引き渡したのち帰陣の途についたのであった。

46名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/17(月) 22:23:13ID:TciYsiXI
天正9年

 馬揃の後の3月6日、神保長住・佐々成政及び越中国衆が上国の途についた。
これにより加賀・越前・越中三ヶ国の大名衆が馬揃のために在京することとなったが、ここで変事が起こった。
敵方の河田豊前がこの隙に兵を催し、郷の刀を作ることで知られる松倉という地に籠り、
さらに才略をもって越後より上杉景勝を大将に招いて一軍を形成したのである。
そして3月9日に佐々成政が人数を入れ置いていた小出城Pを包囲したのだった。

 そして3月24日になり、佐々成政は神通川・六道寺川を越えて越中中郡のうちの中田という地へ入った。
すると上方の軍勢が参着したと知った敵勢の上杉景勝・河田備前は同日卯刻に陣払いをはじめ、
小出表から兵を引き上げていった。その退陣の火の手を三里ほど先に見た佐々勢はただちに
常願寺川・小出川を越えて追撃にかかったが、すでに敵勢は全軍撤退を終えており戦果は挙がらなかっし。

5月24日には越中松倉の地に籠っていた河田豊前が病死した。
ひとたび信長公の憎悪を受けた者は、自然と果てゆく定めであるかのようであった。

47名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/18(火) 00:40:06ID:81Xj5J1j
個人的に地元の斎藤朝信が好きなんだけど(家が元家来の土豪と言われるんで笑)
あの人については最近まで何者かよく知らなかったんだがなかなか凄かったんだね。

朝信の城の支城の野呂一伯?てのがどんな人だったんか最近気になります。
誰かおしえてorz

48名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/18(火) 05:04:46ID:OSTaejjS
「信長公記」に河田長親の記事がこんだけ出てくるということは、
織田方にとって余程目障りだったのか。


49名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/18(火) 07:25:39ID:Wl+r55NU
>>48
間違いなくそうゆう事ですね。小物は出てきませんよね。
相手にされるだけの人物だったという事ですね。謙信の
片腕と言われてるぐらいですもんね。

50名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/18(火) 12:38:14ID:SSrCDj1d
そうだったのか。いつも反乱で越中失い越後に落ち延び、越中を取り返すとそのたびにまた城主に任命されるだけの武将だと思ってた。
ごめんよ河田長親

51名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/18(火) 14:51:45ID:P6BVucuI
ただし、椎名小四郎(長尾景直=椎名から長尾藤景の養子に)が織田に離反した
のが失策といえば失策の河田長親君。謙信の死にさいしては出家し、御館の乱では
最初は叔父の河田重親が景虎方に付いたこともあり様子見をしていたが、彼が景勝方に付く
ことで形勢が決定的に。ということは、謙信の後継指名はやはりどちらでも
なかった(定説)ということに? 形だけとはいえ古志長尾家を継承してるんだから、
景虎派になってるのがふつうの成り行きのはずだし。

52百地三太夫2006/07/18(火) 21:30:18ID:Wl+r55NU
激戦となった川中島4回戦での上杉家各将の行動、活躍を
教えてくだされ。

53名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/18(火) 22:28:05ID:Wl+r55NU
 大将クラスだけでも
討死(武田信繁・諸角虎定・山本勘助・初鹿野忠次)
負傷(武田信玄・武田義信)
 やっぱり謙信最強やな(^_^.)

54名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/19(水) 00:11:56ID:MA32x7Hc
このスレは上の方にあるけどFLYp3Vo1のコピペ来てませんね

>>53
上杉には上杉の
武田には武田の良い所がある
ライバルが素晴らしければ上杉もまた輝くというもの
どちらか一方を意図的にくさす発言は良くない

55名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/19(水) 00:51:21ID:xlG/QHCX
三好や織田政権を嫌っていた、幕府、堺商人、公家、朝廷とその息のかかった伊賀甲賀土豪だての情報収集力。
上杉の諜報機関といわれる軒猿、だがこのネーミングもいかにも江戸創作じみている、と仮定すれば、諜報機関名さえ漏れ伝わらないというところに情報管理能力が体現されている。。
というのはいかが?

56名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/19(水) 01:35:53ID:Dh74BKUW
甲陽軍鑑だかでは、第四次川中島で謙信は、ひそかに八幡原へ本隊を動かす際に、
そのことを武田方に知られないように、屈強の武者100人ほどを集めて、
本陣の様子を探りに来る武田方の草の者を根こそぎに切り倒させて、
ついに武田に情報を漏らさなかったそうだ。
まあ仮にそれが事実だとしても、
そのメンバーは普通に考えればその場で選りすぐったのだろうが、
あえて拡大解釈すれば、謙信の下には精鋭の防諜特殊部隊が存在した、
というような素敵な想像のネタにはなる。

57名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/19(水) 06:32:06ID:VjkiXECy
当時の春日山城下は、有数の商業都市だったので、
大量の商人が集まっていた。
商人たちは、当然ながら他家にも鉄砲やら織物やら茶器やらを納入しているので、
他大名の事情にも通じていた。
こういった商人たちのもつ情報を集めたものが、
上杉家の諜報網だったのじゃないかな。
現代でもCIAとかの情報の大半は世界にちらばるセールスマン経由だし、
ユダヤ商人ネットワークの上にモサドがあったりする。


58名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/19(水) 22:08:12ID:IFWLn1bE
上杉家は関が原の折、西軍について戦いましたが
一族や家臣の中で誰も東軍には付かなかったのですか?
真田家のように・・・・。

59名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/19(水) 22:32:46ID:uzDp78mQ
西軍に付いたとか東軍に付いたとか、
上杉家が西軍の旗頭ですな。地理的に関が原には行かなかったものの。

関が原の戦いというのは、そもそも景勝vs家康の戦いですもん。

60名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/19(水) 22:39:02ID:+tfPR754
こんな糞スレ早く潰そうぜ




























61名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/19(水) 22:39:46ID:+tfPR754
なにこの臭いスレ

























62名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/20(木) 01:02:14ID:hxWFjzuC
>>60>>61
氏ね。

63名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/20(木) 01:29:07ID:j3OvcyNy
>>60-61
クズだな

64名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/20(木) 04:12:58ID:mfKV4f02
もともと、上杉討伐名目で家康が北上してきたのじゃないかと。


65名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/20(木) 22:54:24ID:hxWFjzuC
必殺 直江状ですな(^_^.)

66名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/28(金) 00:53:04ID:XmsMv43/
直江状は捏造らしいけどね

67名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/28(金) 02:31:34ID:TTrAxIro
>>59
徳川との手切れ後に藤田信吉とあともう一人誰かが国抜けしてたはず。
もっとも生きて出られたのは藤田だけだったようだが。

68名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/28(金) 16:01:22ID:8lF8t/aL
何で秀吉は上杉家に飛び地を与えたのかな?
越後に加えて会津と庄内与えておけば強力な家康の抑えになりそうなのに
飛び地を繋ぐ為に最上領に侵攻したんでしょ?
余程秀吉に脅威と見られてたのかな?

69名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/28(金) 16:42:05ID:7YtA1Fy8
>藤田信吉
こいつは家康に利用されてることに気づかなかったのか?

70名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/28(金) 17:54:10ID:F/lrOffq
>>68
庄内は本庄繁長が武藤の跡目問題で揉めた経緯があるから
無理に動かせなかったんじゃないか。

71名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/29(土) 19:59:06ID:hi6MiRAF
上杉景勝・上杉景虎・長尾晴景・長尾政景・長尾景信・長尾景連
上条政繁・直江実綱・直江信綱・直江兼続・柿崎景家・斉藤朝信
小島貞興・中条藤資・河田長親・北条高広・北条景広・本庄秀綱
本庄繁長・安田長秀・安田顕元・村上国清・高梨政頼・大熊朝秀
吉江景資・水原親憲・竹俣慶綱・温井景隆・藤田信吉・山吉豊守
遊佐続光・黒川清実・加地春綱・志駄春義・新津勝資・鮎川清長
小国頼久・新発田重家・宇佐美定満・山本寺定長・長景連など。

72名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/04(金) 19:48:24ID:GpaLyxvv
>>68
何で上杉にそこまでしてやらねばならない?

73名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/20(日) 23:39:28ID:C/9wh//x
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。

※謙信自身が敗北を認めている書状↓
 晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
 かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日                  虎(花王)
[三洲寺社古文書]


【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。

1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。

上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。

謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである

本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。

74名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/06(金) 04:19:23ID:gkj26iV1
どうでもいいと言われても、「越後の龍」「越後の虎」 両方あるのがなんか気持ち悪い。
上杉謙信ファンの集いでどっちかに決めてほしいな。

「越後の龍」× Google = 872件
「越後の竜」× Google = 625件

「越後の虎」× Google = 51,900件
「越後の寅」× Google = 177件

虎か。

75名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/06(金) 14:41:01ID:lDj8JO0i
越後の寅だと映画の寅さんって感じがするな。越後の寅さん。

76名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/09(月) 07:50:30ID:lOa23crL
寅年生まれでないの?

77名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/20(金) 19:56:30ID:fx6c+0R8
戦国ファン全般でアンケートすると越後の龍が人気あるんで無いかな
甲斐の虎信玄とセットで認識されてると思う

78名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/21(土) 01:06:11ID:83L36++O
おおおおーーーーーーー!
2ch、謙信公ファンの漏れがきましたよー!
>>75
そりはねぇ、日本を代表する寅さんと謙信公がイメージ的に似ているからかも。


79名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/21(土) 04:18:02ID:QUQEqhys
>>66
直江状て捏造なん?

80名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/21(土) 10:45:22ID:5728FpTp
>>76
寅年生まれだよ
だから幼名は虎千代→景虎と改名
実母の名前が不明なんだが虎千代の母という事で虎御前と呼ばれてる
新潟県(特に上越市近郊)でアンケートを取ったら間違いなく『越後の虎』がダントツのトップになるだろうね

81名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/21(土) 19:44:17ID:Rg/jG4Cq
それがどうしたの

82名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/22(日) 00:09:48ID:MhBFoZBR
ググると越後の虎千代ってのも越後の虎に入っちゃうからそのせいもあり多いんでない?

83名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/25(水) 00:53:52ID:kS+prdfR
武田信玄は巳年か
さしずめ越後の虎、甲斐の蝮といった図式か

84名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/25(水) 18:11:13ID:6YSxOnii
「越後の龍、甲斐の虎」が一般的に広まってるからもう変えるの無理だ

85名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/25(水) 21:04:30ID:Y2J2IDo+
謙信って、信玄が虎ってイメージだから龍にされた感じだよね。
名前は景虎なんだから、越後の虎のはずなのに。

86名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/25(水) 21:08:56ID:0hfWWvh3
本人が懸かり龍の牙旗を使っていたからだろ。
┏━┓
┃龍┃
┣━┛

87名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/28(土) 04:16:34ID:ME2uAd4y
越後の狐 甲斐の狸

88名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/12(日) 00:17:11ID:1mLQomx0
うん。

89名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/19(日) 16:02:24ID:WVkYiLEB
┏━┓
┃屁┃
┣━┛

上杉謙信:
武田信玄と対立している。
これは信玄が茶の湯に使う砂糖が手に入らず困っているときに,
塩を送りつけ信玄が激怒したためだと言う。

90名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/19(日) 19:25:03ID:5AuvPJWp
茶の湯って砂糖使うの?
砂糖って戦国時代にあったっけか

91名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/15(金) 23:42:40ID:RHReUnn+
謙信は何ゆえ結婚しなかったの?

92名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/16(土) 02:48:14ID:iRszkJHu
┏━┓
┃〇┃
┣━┛

93名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/16(土) 03:07:20ID:aX1oMo0T
┏━┓
┃ω┃
┣━┛

94名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/16(土) 08:45:21ID:3XKf+OqH
┏━┓
┃d┃
┣━┛

95名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/03(土) 11:05:14ID:MuSujSU/
何か楽しそうだな
┏━┓
┃ф┃
┣━┛

96名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/03(土) 22:42:20ID:IcaoudeY
藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995年)を要約すると、

上杉謙信は関東に12回出兵していて、その内の10回は、
晩秋に出かけて年を超し、春か夏に帰る冬春型(長期越冬型)が多い。

明らかに戦いには季節性がある。

冬場の働き口などどこにもなく、まして飢饉・凶作の続いた戦国の村々に
とって、農閑期・端境期の戦場はたった一つの「口減らし」の場。

農閑期になると、謙信は戦争を正当化し、越後の人々を率いて雪の国境を
超えた。収穫を終えたばかりの雪もない関東では、かりに補給が絶えても
何とか食いつなぎ、乱取りもそこそこの稼ぎになった。

97名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/04(日) 01:12:33ID:DiGRL8jK
でも出兵は最長でも4ヶ月持たない
平均2ヶ月 

98人間七七四年2007/03/05(月) 02:24:52ID:0K9jt85A
結局このスレは何ですか?

┏━┓
┃f┃
┣━┛

99人間七七四年2007/03/12(月) 20:42:24ID:HgGtGEZN
明日検診の命日?

100人間七七四年2007/03/12(月) 22:44:05ID:jlNwujS7
上杉謙信は男色家だから偉大なのぢや!!!

101人間七七四年2007/03/12(月) 22:47:42ID:fvsBKg/A
不細工は嫌いだけどな

102人間七七四年2007/03/30(金) 00:36:04ID:7JWmlivP
NHKそのとき歴史が動いた・第283回
「謙信 恐るべし」
放送日 平成19年4月4日 (水) 22:00〜22:43 NHK総合

番 組 内 容

越後の龍・上杉謙信。生涯70回以上の合戦でほとんど負けたことがない戦の天才である。
しかし、謙信の戦は決して私欲からではなかった。彼は、戦国乱世の秩序回復を本気で志し、
助けを求められば労を惜しまず駆けつけた。その一方で、争いをなくすために国を豊かにしようと
特産品の開発に力を注ぎ、越後を経済大国に押し上げた。
この謙信を恐れたのが織田信長だった。
信長が謙信に贈った「洛中洛外図屏風」。近年の研究で、
この中に足利将軍邸に向かう謙信の姿が描かれていることが判明した。
そこには、必死に謙信に媚びを売る信長の心が透けて見える。
しかし信長の勢力が大きくなるにつれて、両者の関係は崩れていく。
謙信は信長と対立する足利義昭や毛利氏から「反織田同盟」の盟主となる。
そして加賀・手取川で最初で最後の頂上決戦を繰り広げる。
謙信は、この戦いで信長自慢の鉄砲隊を完全に封じ込め、
織田軍の精鋭部隊を完膚無きまでに打ち破り、信長を窮地に追いつめた。
ところが謙信は その直後に死去。歴史は再び信長を中心に回り始める。
信長が恐れた武将、上杉謙信の知られざる実像に迫る。

103人間七七四年2007/04/15(日) 21:06:55ID:ZOX+ihKK
test

104人間七七四年2007/05/14(月) 23:27:45ID:dkUu55dk
うーん

105米沢近辺 ◆.6Xl5IRKSc 2007/06/02(土) 06:45:00ID:7Z7+JSmQ
謙信て頂上決戦で信長軍を破ってたのね。戦国時代詳しく無いから、このスレで初めて知ったよ。
意外に鉄砲導入にも積極的で大型化したらしいけど、生産数や所持数はどの位だったのかなぁ?
そう言えば小さかった頃、米沢上杉祭りで火縄銃と言うより「手持ち大砲w」みたいなのの空砲を
集団で撃つ音を聞き、ビビって軽く失禁した思い出が有るなw。
慣れて無い足軽が戦場で聞けば、音だけで足がすくんじゃうと思う。

106人間七七四年2007/06/02(土) 20:58:42ID:wc31q49Z
何だこのスレ落ちたんじゃないのか。

107米沢近辺 ◆.6Xl5IRKSc 2007/06/06(水) 10:02:28ID:rxADDHri
たまに上杉神社に御参りに行って来ようかな・・。

108人間七七四年2007/06/17(日) 13:14:31ID:2j1DABpw
ガクトのロン毛謙信今日登場か
今から楽しみだぜ

109人間七七四年2007/06/19(火) 13:41:35ID:lGIAsBpL
上杉謙信は生涯に亘って男色のみを愛好して
女犯の穢れに染まなかったからこそ立派な武将として名を残せたのぢや

110人間七七四年2007/06/19(火) 15:06:48ID:hSga1fr9
>>109
あんたいつもいろんなスレで『○○の男色相手で有名なのは誰?』とかホモ系の質問してくる人でしょ?
何でそんなに男色が気になるんだ?

111義光2007/06/20(水) 16:59:36ID:9/qWd+4Y
人間七七四年って一体何人いるんだ?

112義光2007/06/20(水) 17:53:50ID:9/qWd+4Y
戦国大名って両刀普通なんでしょ?
信玄や政宗や信長なんて超有名

113人間七七四年2007/06/20(水) 18:19:39ID:BnMIrGPS
2007年6月9日リチャード・コシミズ 京都講演動画

http://video.google.com/videoplay?docid=-5531771243763964471&hl=en

114山形義光2007/06/21(木) 01:02:15ID:N9oTCdkn
戦国時代は両刀使いは珍しくない
主が家臣と関係を持つと、絆が深まるのでいいとされた
織田信長も前田利家と関係をもったが、それに関しては利家の手紙が残っているらしい
「殿は一時もお離しなさらなかった」と書いてあるとか
ちなみに、江戸時代には現代よりも同性愛者がたくさんいた
また、かなりオープンであったらしい

115義光2007/06/21(木) 21:19:48ID:XcOZm9hB
スレ違いになっちゃうけど武家社会と男色は奥が深いね
鍋島藩の葉隠も積極的に奨めてるし
明治以降そういう文化は無くなったんでしょうね

116人間七七四年2007/06/22(金) 02:13:10ID:fnkjLr+T
謙信、信玄の一騎打ちが「猪木アリ戦八百長説」のように
なかったことにされていくのは寂しいです。
なんとかしてあったことにしてみたいものです。

117人間七七四年2007/06/22(金) 02:36:35ID:DWpKvCaC
>>116
大名が一騎討ちするなんて、名誉どころか最悪の行為だよ。

118人間七七四年2007/06/25(月) 04:49:57ID:vXj7OdcE
影武者同士の一騎討ちという事で妥協して

119人間七七四年2007/07/08(日) 15:14:06ID:oVzz0/5C
大河でも大量虐殺や人身売買まで描いたのだから残る砦は衆道だと脚本家の
大森さんのスレで言われていたね。
今年の大河は主人公を聖人君子や単なる英雄譚にしないで悪の部分も良い部分もある厚みのある人間描写と
史実に忠実な姿勢は皆評価してるね。

日本史を語るうえで男色は避けて通れないだろう。
院政期の上皇や貴族は日記からも当時の政治家の男色ぶりはよく描かれているし戦国時代の傾国の美少年
とか永井路子氏や杉本苑子氏など一流の歴史小説家は武家社会の衆道もきちんと描いてる。
今度の大河は信玄と源五郎のラブレターの事みんな知ってるし思わせぶりな場面もあるけど
影虎の事もちゃんと描いてほしいな。

大河「草燃える」では原作どおり実朝暗殺の犯人政子の孫の僧の公暁と彼の後ろ盾の陰謀の張本人の鎌倉御家人の三浦氏
の嫡男駒若との逢瀬ちゃんと描いていたと思った。
当時の仏教界の稚児争いの凄まじさは後白河法皇も自分の手に負えないもののひとつとしてあげていたと思う。


120人間七七四年2007/07/08(日) 22:39:52ID:W3hE1XhT
景虎の衆道は書くと怒るファンもいるし、第一確証がないから書かなくていいんじゃないの?

121人間七七四年2007/07/09(月) 10:30:35ID:79ZisSYB
つか大河は一応勘助メインなんだし
敵陣営の景虎の男色疑惑なんて
表現する意味はあるのか…話の筋になんの関係ないし。
信玄みたいに手紙が残ってる訳でもなし

122人間七七四年2007/07/09(月) 10:44:24ID:oAxySjtu
衆道をテレビで見たい人は特別な人じゃないの。
まあ、いずれ大河化されることになるかもしれない
義満の場合でも世阿弥との男色関係は入れなくてもよい。

123人間七七四年2007/07/25(水) 01:18:44ID:56jXIGLB
織田信長の軍勢を唯一圧倒した謙信こそ戦国最強の武将

124人間七七四年2007/07/25(水) 08:46:43ID:1df1tSkp
次回の大河は予告からして出番が多そうだね

125人間七七四年2007/07/25(水) 21:58:06ID:VwseS6jn
酒のつまみに味噌を舐めていたらしいが
塩分の取りすぎだろ。死期を早めたのは残念。

126人間七七四年2007/08/11(土) 19:13:00ID:dMwj80Fv
あと十年長生きしていれば謙信は織田を撃ち破り上洛していたにちがいない!

127人間七七四年2007/08/11(土) 22:18:57ID:a3Tm0fGJ
>>125
味噌?聞いたことないぞ。
梅干しじゃねーの?

128人間七七四年2007/08/11(土) 22:24:18ID:81cbvVF0
>>127
どっちにしても塩分過多になりそうだw

129人間七七四年2007/08/11(土) 22:35:41ID:a3Tm0fGJ
>>128
通説では謙信の死因は脳溢血か何かだったっけ?やっぱり塩分過多だったんじゃないかね

130山浦国清2007/08/12(日) 00:25:48ID:Uu4j0dFB
>>17
長野業正、長野業盛、上泉信綱、大石綱元

131人間七七四年2007/08/15(水) 04:52:39ID:mnCown0A
>>116
まったくもってその通りで最近は手取川の合戦までなかったことに
されていく傾向。
とても残念。

132人間七七四年2007/08/15(水) 07:47:32ID:gcJL9os3
>>131
手取川合戦は逆に存在したって説の方が最近は強いだろ。

133関東三国志2007/08/15(水) 10:08:17ID:TkF1ORwG
崩壊する幕府や古河公方を復興し旧都鎌倉を奪還すべく逆賊北条を討つべし!
天険に囲まれ沃野千里の越後より義を奉じて南伐する謙信。
関東管領を禅譲され晴れて関東宰相になった謙信公は古河公方や足利将軍家の為に病をおして越山する。
公方を擁して専横する北条は関東を乗っとろうとする野心ムキだし。
関東の混乱に乗じて甲斐の悪魔も上野国へ侵攻。
室町の命運は独り謙信の双肩にかかっていた。
謙信進めば北条退がる。謙信越後に戻らば北条進む。

天才謙信を恐れて戦わない北条。
そして冬風悲し春日山。ついに北の守護神は流れ星とともに世を去る。
だが謙信を恐れた欲深で姑息な第六天魔王信長も武田も北条もまた滅亡する。
上杉の命脈は米沢で保つ事ができ義を真っ当できました。また謙信は可憐な女性のような姿だったので女性説もあります。

134人間七七四年2007/08/15(水) 10:50:04ID:TkF1ORwG
北条氏綱は息子の代で自立しようとし、野心を隠し足利晴氏を表向きには立てたフリをしたが娘の芳春院をムリヤリ嫁がせ公方の義父になり専横し関東を横領しようとした。
子の北条氏康はたちまち野望を表し人徳の人足利晴氏は川越に心ある武士をまとめて蜂起するも氏康に敗れ幽閉され1560年に崩御なされた。
それとともに将軍に認められた次期公方の義氏を排し傀儡に氏綱の娘の生んだ次男藤氏を公方に擁立。
この時に謙信は号泣し卒倒したという。
怒る謙信は小田原に侵攻するも関東を横領した財力で小田原は要塞化していたので旧都鎌倉の防衛の難しさを悟り古河城を奪回し正式に長男義氏の古河公方就任を宣言。
1566年に悪党北条は謙信の留守中に藤氏の身柄を拘束し幽閉していたが、ついに氏康は処刑する。
1570年には義氏の監視役に息子氏照を後見役に古河に戻すが天才謙信が1578年に死去すると北条は安心し1583年に義氏は謎の死を迎える。死ぬ時に「謙信があと7年延命の儀式に成功してさえいれば…」とうわ言を言っていたという。
かねて義氏の一子梅千代丸も北条は毒殺していたのでここに関東王として北条は君臨した。
公方の志士達は義氏の美しき娘を後継者に宣言に対抗したのであった。この危機を救ったのが太閤さまだった。

135人間七七四年2007/08/15(水) 10:56:24ID:TkF1ORwG
訂正
足利将軍に次期古河公方に認められていた藤氏を廃し、関東宰相氏綱の娘が生んだ義氏を古河公方に擁立した。

136人間七七四年2007/08/15(水) 11:30:53ID:FochG6EI
戦が強い大名=戦術にたけている、という事もあるが
武士の質の違いがあったんじゃないかと考える。単純に上方武士より甲斐、越後または関東の武士のほうが
戦の経験値も高く屈強な武士であったとか

137人間七七四年2007/08/15(水) 12:08:25ID:dgkjzdiE
単なるイメージの産物だろう>強い弱い
じゃあその上方兵主体の織田-豊臣ラインに日本全国が屈したのはなんなのかと
決戦点に投入する兵力と物量こそが勝負の決め手
冷たい兵站の鉄則は戦国期でも適用される
ごく少数の天才はそれをひっくり返すが、大勢としてはそんなスタンドプレイはいつまでも通じない

138上杉贔屓2007/08/15(水) 12:11:38ID:IZ8OCEwK
どうだろう…上方の武士も関東の武士も戦い慣れてはいたんだろうけど

139一向宗2007/08/16(木) 18:27:33ID:ZE4LRcte
てめぇ何調子こいてんだよ景虎。 
俺がボコボコにした時は泣いて詫び入れてたくせに何調子こいてんだよおめえ。 
もう一度ボコボコにするか。ああ?

140満親2007/08/16(木) 18:43:56ID:AHJFWa/0
お、落ち着いてください…!


(はぁ〜交渉役も疲れるわ)

141人間七七四年2007/08/16(木) 21:26:51ID:FVXF1jgY
上杉方側近に御忠臣! 御歓談中に申し訳ござらぬが、再来年度の大河ドラマ『天地人』を千倍楽しみたいがための豪華キャストを妄想するスレをどなたか建て下ださらぬか。
余はヘタレな者でスレを興す身分ではござらぬゆえお願い申す。もしスレが建ったなら永遠の忠節をもって奉公いたす。
越後のためにも皆様のお力で大河ドラマ史上傑作の部類にしようではござらぬか! ‥ 御免!

142千坂対馬守2007/08/17(金) 00:24:11ID:sKzBtq22
配役のスレなら↓
http://live25.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1177634741/
にござるが…
戦国板内で建てたいとのことなれば、他の諸将をあたってくだされ。
(某は携帯からゆえ建てられぬ)


せっかくの上杉主体の大河、良作にして欲しいと我々も念願しておるが、
原作と脚本家の悪評を聞くとなんとも…

143人間七七四年2007/08/17(金) 07:11:28ID:RcR3j5aG
今、シュミレーションゲームの「天下統一相克の果て」を上杉謙信でプレーしてる
越後統一→越中を一向一揆に征服されるもそのまま放置→武田と同盟ののち、村上との同盟を破棄して北信濃を征服
→上野に進出してきた北条の退路を絶って決戦、北条の主力を壊滅させる→武蔵、相模、伊豆と北条領を掃討→従臣を拒んだ上扇上杉を滅ぼす
→下野、常陸を領有している結城領に進出、滅亡させる→一揆勢が支配する越中に侵攻、征服する→芦名、伊達を従臣させて東北征服
→従臣を拒んだ上総、下総、安房を領有していた千葉氏を滅ぼす→武田と今川を従臣させて、近畿一帯に勢力を拡大しつつある織田領に侵攻開始

1977年時点で石高890万石^^ ちなみに織田200万石、毛利(同盟)200万石、大友270万石
…欲望をむき出しにした上杉のポテンシャルスゴス

144人間七七四年2007/08/17(金) 14:26:41ID:oIqL15F5
どこかで当時の越後は京都の次に人口が多かったと聞いたことがある
他国より少ない兵数で戦ってると言うことは、そんだけ精鋭揃えれたって事?

145人間七七四年2007/08/17(金) 15:33:34ID:XKwSctyT
>>142 千坂対馬守殿、誠にありがたき幸せ御礼申し上げます。早速レスして参りました。某337がわたくしめの考えるキャスティングでありますゆえとくとご覧下さりませ。
今なら脚本家ぐらい代えられるでござろう…… ジェームス氏を推挙しましたが、どうしても某局が女性の脚本家を押したいのであれば、大野靖子先生か小山内美江子先生にしていただけたら漢が生きるのでよかったと思いますが、漢が冴えないと功名が辻の二の舞になるのは必定。
『天地人』は某局と視聴者の関ヶ原でござります。
上杉方御側近の方々も『天地人』の行方をよろしくお守りお願い奉ります。

1461432007/08/17(金) 23:26:55ID:RcR3j5aG
50万石まで織田の勢力をすり減らしたところで、織田が毛利の従臣になってしまった…
仕方が無いので織田に従属していた六角を滅ぼす→長島一揆を征服→伊勢志摩の北畠を従臣させたあと、満を持して毛利を従属させたところで朝廷から関白に任命された
謙信の寿命がつきそうなので完全に天下統一しないでここで終了
1583年の勢力
上杉1280万石、毛利(従属)270万石、大友330万石、あとは三好、畠山など近畿の小勢力が上杉に征服されるのを恐恐と待っている状況

>144
ゲームだと越後の兵質はとても高いです。一番兵質が低いのが尾張…

147人間七七四年2007/08/18(土) 01:45:52ID:7vSmov0J
尾張の兵がチャオズだとしたら、関東武者はナッパってとこか?
兵質に多少は違いがあったかもしれないが、武将の統率力にも違いがあったかも
例えば右にならえ、左にならえと忠実に実行するよう訓練されているとしたら、武将の
理想どうりの軍略が展開されてたと思う

1481432007/08/18(土) 01:56:49ID:heR8mtWC
ゲームだと謙信、鬼のように強いですよ…

でもコンピューターにやらせるとたいてい武田と北条との、死にものぐるいの多面戦争で
ジリ貧になって滅ぶパターンが多いですね

そういうのを見るにつけ実際の謙信はすごいおとこだったんだなーと思うことひとしおです

149人間七七四年2007/08/18(土) 08:12:41ID:yqspsj+a
>>148
俺の時の上杉は南下してきた伊達に飲み込まれるパターンが多いな。

150人間七七四年2007/08/18(土) 08:46:26ID:HYC8/kt4
機内の兵なんて尾張に比べてもかなり弱そうなものだが。

151人間七七四年2007/08/24(金) 20:32:26ID:CPzVICK2
石山城があれほど織田の精兵吸収したのも知らないアホか。
こんなのがよく戦国板に居れるな

152人間七七四年2007/08/25(土) 10:56:10ID:zDhZloCx
今日から開催
【来てね\(^O^)/】NHK大河「風林火山」出演中のGacktが新潟県上越市の「謙信公祭」出陣行列に参加決定

153人間七七四年2007/08/25(土) 11:03:52ID:xrPMgFdp
石山合戦は野信長の天下統一を遅らせた障害

154人間七七四年2007/08/30(木) 00:34:11ID:UlUz2dPE
柴田の越前軍が最強軍団で佐々や前田など人材も集中していた。
石山は無能の佐久間隊。

155人間七七四年2007/08/30(木) 11:33:12ID:HG1msKoQ
大河ドラマの「武田信玄」の上杉謙信は
晩年織田の圧力にさらされて必死に毘沙門天にすがってる

実際は違うのかもしれないけど必滅の悲壮感がチョーカッコヨス

http://jp.youtube.com/watch?v=4tx0uwVasMM&mode=related&search=

156人間七七四年2007/09/11(火) 19:21:33ID:5Y51MtKY


宇佐美定満と長尾政景は野尻池で舟遊び中に溺死したとされていますが、あれは結局
どちらがどちらを殺害しようとしたのでしょうか?
第三の黒幕でもいたのかな?

157人間七七四年2007/09/11(火) 20:36:19ID:MjzTpe66
コーエーは嘘つきです

158sage2007/09/12(水) 09:37:34ID:15zVhCM2
>>144
都市で言えば、京の次は博多。地域で言えば摂津、近江、尾張の三地域が多いね。

159人間七七四年2007/09/12(水) 14:13:05ID:24twAPdk
安倍辞任は景虎の真似

160人間七七四年2007/09/13(木) 01:13:46ID:WapPGA0x
http://www.tenkabito.jp/extra/img/wall_kenshin&shingen/uesugi_1280X1024.jpg

161人間七七四年2007/09/15(土) 21:32:58ID:rK3RT68F
以前トリビアで観たんだが
兜に「愛」の飾り付けてた武将て
確か謙信とこの人だよね?

162人間七七四年2007/09/17(月) 01:10:46ID:F55KV+Li
直江兼続だよ>愛

163人間七七四年2007/09/17(月) 22:48:03ID:ksVADYF5
宇佐美定満(1489〜1564)

越後上杉氏の家臣。老齢ながら若き日の謙信を支えた功臣。
二本角を立てた独特な兜を愛用しており、兎の耳に似ていた事から
宇佐美とかけて「うさみみ殿」「うさみみ爺」と呼ばれていた。
野尻湖で長尾政景とともに船遊び中の事故で水死した。
彼の残した兜は「うさみみの兜」、
彼の残した剣、鎧は「うさみみの剣」「うさみみの鎧」、
聖なる守りは「うさみみの印」として残されたという冗談がある。

164人間七七四年2007/10/05(金) 02:32:38ID:brbQuAfu
童貞野郎共よ押忍、押忍、
全く上杉厨共の書き込みを見てると情けなくって涙が出てくる。
30代になったいい無職がまだ「デカマラの六尺謙信公」とか言ってデカマラの六尺謙信公を求めてひた走る
この健気さにうっとりだ。
アホかこの童貞が!
いずれ謙信公が女狐と結婚したら後悔するぜ
男ならもっとビシッ!とズリ道を極めろってんだ!
俺はその為に毎日1000回のゼンズリを欠かさない。
「オッス!!オッス!!」と気合を入れながらデカマラを振り下ろす度に菊門にギュッ、と力を込める。 
こうして鍛え抜かれた俺の性根は「衆道」なんて立派なシロモンとは対極を成す、まさに「男の極み」だ。
そのあまりのデカマラっぷりにご近所じゃあ“デカマラの毘沙門天”って呼ばれてる。

そんな俺だが、俺でさえ家を出たくなるほどの形のいいデカマラの六尺謙信公の出現を心待ちにしている。
勿論、最悪のアウェイを味わいたい命知らずの衆道彼も受付中だ!
毎週金曜14時頃はだいたい衆道の結婚相談所&出会い系の衆道サイトにいる。178*74*48角刈りにねじり鉢巻がユニフォームだ。

俺のほぼ不可能な衆道&糞尿離れ!離せるもんならハナしてみやがれ!!
この書き込みに勃起した包茎ミニマラ上杉厨房もオレと一緒に
ズリ道極めようぜ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

165人間七七四年2007/10/06(土) 05:34:07ID:yrOBy8Mc
お前等、埼玉に存在した最大暴走族「毘沙門天」ってしってる?

http://hamq.jp/stdB.cfm?i=akdgtp&pn=1



166人間七七四年2007/10/24(水) 18:46:53ID:iF8dWJEq

167人間七七四年2007/12/30(日) 13:40:17ID:1CZQl+/G
テレ朝天と地と公式サイト開設
http://www.tv-asahi.co.jp/tentochito/

北大路欣也の毘沙門天のコスプレが
http://www.tv-asahi.co.jp/tentochito/contents/img/contents03.jpg

168人間七七四年2008/01/15(火) 20:41:04ID:GwJ1ws3q
雪ん子まつり

169人間七七四年2008/02/01(金) 12:02:36ID:OO0M0KY9
越後は人材の宝庫

170人間七七四年2008/02/01(金) 20:09:05ID:DQ4UPEBX
北大路の毘沙門天は神というより三国志の武人。
この雰囲気は魏のチョウリョウだな。

171人間七七四年2008/02/18(月) 21:40:28ID:uI4630nl
今日は新暦で謙信公の誕生日だぞ!

172人間七七四年2008/02/20(水) 22:51:10ID:YM7+jfkq
軍神


プ

173人間七七四年2008/03/22(土) 11:11:59ID:yXqXKTCe
自分が神だとかただのキチガイだろw

174人間七七四年2008/04/29(火) 08:05:57ID:ekyA6Sxi
↑キチガイ乙

175人間七七四年2008/05/04(日) 15:33:38ID:OCQ1ag6X
 /:::::: ::. : :. .. . :.. ..::::::::::::: .:::ヽ
/::. :. :. .:::::...::::::.:::::.::::::::::::::::::::::::::::::::\   ,、_,ノー-、__,ハ.ィ
:::::.:::.:::::::::i、:::::::::ト、ヽ 、::::::::::::::::::::::::::、_ヽ-'
:::::::::::::i|::::|.ヽ:::::::l \\ヽ\:::::::::::::く  だ ll_o こ 上
:::::::::i|:| l:::|u ヽト、l /_,≧、ヽ. t::::,r-、}  ろ || ̄   l  杉
::::l!::|'l| l::| 、 ヽイ/〃'_ リ u ヽ`tフ   !!!! ヾ=  ゆ ヲ
:::ハ::「l_≧:いヽ^ヽ! ヾ=彳// 八 ∠、     ‖  う  タ
小 il{i´{{¨_/////////// ⌒ /i:|ヽ.     ‖   の は
l!|ハ ヽ ヾ=''///////,. -‐‐ 、 u l:レ }      ‖   見
/! ぃヾ/////////     ヽ /l:|/     っ   て
  tヘ////rー‐'         }/ ∠_     て
   ` ト、  ヽ         / /|!ハ    る
    l:| ` ー;'⌒ヽ _   ,∠.._ i: /: /:}   ん
     l!  ,⊥   Y二.「: : \ |/: :/: :|          /
     _,.」  ヽr‐}  ノ:ヽ: : : ヽ: :/: : :レ'⌒ヘ ,. 、   _z':
  r'フ入.  ヽ  ゙t '.∠ ---―――¬/;.イ∨l! ト、/ : : :
  }_,、_,ノヽ. 、 ヘ r‐{           |´l| ! li| | l: : : : :
 ̄     `ーヘ.フ.           | ll   | l |:/: : :::
  ,. '" _,,. -…;   ヽ             |タ    l l.|: : :::::::
  (i'"((´  __ 〈    }             |    |  j: :::/:
  |__ r=_ニニ`ヽfハ  } 腹ン中が   |     |  |: /: : :
  ヾ|!   ┴’  }|トi  } パンパンだぜ|   j | !: : :/
    |! ,,_      {'  }          |    l |:/ ::::
   「´r__ァ   ./ 彡ハ、         |    !| : : : : :
    ヽ ‐'  /   "'ヽ           |    |: : /::
     ヽ__,.. ' /     ヽ.        |    |/::::_;.
     /⌒`  ̄ `    ヽ\_      |   |:ー'´: :
    /           i ヽ \       |   |: : : : : :

176人間七七四年2008/06/15(日) 19:16:31ID:ft0Cpd1z
        ドンドコドンドコ!ドンドコドンドコ!
             ∧_∧   ∧_∧      言え!
ずーり        /   ・ω ./   ・ω     「謙信公最強」と!
 ずーり    ∧_∧__ノ...../____ノ∧_∧  ずーり
        /    )          /  ・ω・)
       ∧_∧ _ノ  ヒ、ヒィー   ...../_∧_∧
      (    )   ('A`≡'A`)     ( ・ ω ・ )
       ヽ ∧_∧   人ヘ )ヘ  ∧_∧__ノ
        (・    ヽ       (・ω・  \
ずーり    ヽ_ ∧_∧   ∧_∧___ノ 
           ω・   \ ω・   \    ずーり
           ヽ____\ヽ___ノ

177人間七七四年2008/07/12(土) 13:10:36ID:J0EjpQ6/
                 、,;'"´'"´´``ヽ
(゙゙゙''''⌒"´``'゙゙゙''''ー-'"´``'゙''"´        ノ
ヽ           人           |
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   ‖         人       / .ノ‖゙
 i"⊂i,        (__)     , ,/
 ヽ ‖`ヽ、    (__)   /,,/      _人人人人人人人人
     ゙ヽ、 .ヽ,_ ( ・ Д ・)/ /      > ここは今日から
      `\  `'ヽ   '" /       > うんこスレだよー!!
         ヽ、      ,゙          ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^
           i     i
           i    |
           i      |

178人間七七四年2008/07/12(土) 18:34:12ID:sZqKo7VE
所詮は田舎大名

179人間七七四年2008/07/12(土) 20:35:57ID:ZfIlLdxU
http://etc7.2ch.net/test/read.cgi/esp/1215839585/l50
仏像の力を信じる者はここで祈れ
1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/12(土) 14:13:05 ID:xl45iBs5
仏像の神々しさ、超越的パワーは一切の衆生を救い給う。
その慈悲の厚さ、全能さを信じて止まないもの、何となく心ひかれるものは
毎日このスレで仏像の御方へお祈りささげましょう
日々の出来事、悩みを仏像に聞いて頂きましょう
            /ヽ v1
          |Y ゝくY :!
          | |Yゝク  |
         f三 へ三ニト
         {ゝ二 二kミ!
         | ー 一 Y
         U、 ー ,U
        >'1ミ二彡^ヽ、
       /  个 ー イ 彡ヽ
      /  i  ト/ミy@┬ ヘ
      /| ̄|ヘ / ,h  /| ̄ |
      7|> '  /n `タ._k  |
      ゝ _ /彡イ `〜 、...,,_}
    __ >彡 '_ゞ_ゝニゝ、_
   < ミ三三彡彡へ r‐ァニ三彡ハ
   〉ーニ二三彡彡1 l キニ三二−ヲ
   f⌒Y⌒⌒Y⌒⌒Y⌒⌒Y⌒⌒Y⌒ハ
 f⌒Y⌒⌒Y⌒⌒Y⌒⌒Y⌒⌒Y⌒⌒ 〉
  ゝ⌒X⌒ヽ〜‐-<⌒⌒ メ⌒Y  / ヘ
 ( \ \     〉-‐rく   ,.-く   ノ
  `丶 _ へ  ハ    ) /  //    【大日如来様】

どの仏像に願掛けしてもお前らの自由だ。
参考:http://syorin.fc2web.com/butuzou.htm

180人間七七四年2008/08/24(日) 08:55:09ID:MeYrCvlX
 ┌○┐
 │お|ハ,,ハ
 │断|゚ω゚ )  お断りします
 │り _| //
 └○┘ (⌒)
    し⌒

181人間七七四年2008/09/06(土) 21:11:06ID:bmON5M2k
その時歴史が動いた 謙信恐るべし

誰かうpして〜〜〜〜〜

182石井 慧2008/09/08(月) 17:22:13ID:Px0lqiG8
上杉神社に「五輪優勝」の勝利報告しました。

183謙信郎2008/10/27(月) 23:02:21ID:Jnn/srCL
ケンシロウの声を充てた阿部寛なら、
正義感溢れる最強の謙信像を見せてくれると期待。
舞台も「北斗」だ。

184人間七七四年2008/12/21(日) 07:25:56ID:YH5ZLyv7
もうすぐ始まるがどうなることか・・

185人間七七四年2008/12/22(月) 13:14:00ID:XYznPfOl
>>183
タイトルも篤姫から一新、世紀末戦国伝になり
馬に乗ったモヒカン野郎をなぎ倒しながら
覇王(ラオウ)ならぬ魔王(信長)を倒すわけですね

わかります

186人間七七四年2009/01/03(土) 09:42:43ID:5VgbEeD4
おれは上杉検診より斎藤朝信が好きだ

187人間七七四年2009/01/21(水) 13:13:52ID:V/ajTTa4
>>185
脚本の小松なら手取川あたりでやりそうだなw

188人間七七四年2009/02/10(火) 01:16:56ID:x+9Ev7E1
>>185
俺のイメージでは、、
ラオウは武田信玄で、信長はサウザーだな。
残虐ぶりとか。

189人間七七四年2009/02/11(水) 00:40:50ID:CmQtHrMM
とりあえず今日特進決める龍について
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/keirin/1234278505/


前橋9R、A級チャレンジ決勝
1上原龍「自力」
2佐藤康「先行」
3武藤貴「前々自力」
4鈴木春「福島3番手」
5宇佐見「Aジカ」
6中島義「上原君」
7佐藤和「単騎で自力」
8堺哲也「福島4番手」
9伊藤拓「武藤さん」

←@6 B9 A548 F
mms://maebashi.hyper-nets.com/maebashi_digest/09021109.wmv
https://keirin.jp/pc/dfw/dataplaza/member/racemember?KCD=22&KBI=20090211&RNO=9

190人間七七四年2009/03/03(火) 22:49:56ID:G1ywzYag
北斗の謙信郎 「俺はもう死んでいる・・・」

191人間七七四年2009/03/12(木) 01:23:33ID:CY2yFKJP
三月九日朝、肖像画は完成した。
謙信は、この寿像にみずから筆をとって、詩偈した。

一期の栄華 一杯の酒
四十九年 一睡夢
生も知らず 死もまた知らず
歳月 ただ是 夢中のごとし

書き終わってしばらくの後(正午頃)、謙信は厠へ行き、昏倒した。
そのまま人事不省となって、社寺の祈祷、名医の霊薬の甲斐もなく、
ついに覚めず、天正六年三月十三日、逝った。 
                     (終り)

192人間七七四年2009/03/19(木) 03:32:04ID:9xxnK9r0
sage

まあ謙信だって問題点とか間違いとかあったんだろうし
ひたすら盲目的に礼賛する一部の傾向がイヤになる事もあるけど
だからと云ってその反動でやたらと欠陥点や現代から見た奇妙な点を強調した上に
ボロクソに嘲笑と否定を浴びせまくるのは
ハッキリ言って軽薄過ぎやしませんかねと言いたいよ、俺は。

ままあそれは謙信に限らず歴史関係の全体に言えるんだけどな。
呪詛の掛合いは平安時代で打ち止めにしとけよw

194人間七七四年2009/03/20(金) 22:20:15ID:/TRCC6I+
信長は化けの皮がはがれたけど、
謙信は研究が未発達なこともあって神秘性が根強いから、
信者がわきやすい上、感情的なアンチもうまれやすいんだろうね。

195奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2009/03/20(金) 22:56:13ID:BgZQ1pMP
それは順序が違うんだと思う。

196人間七七四年2009/03/21(土) 02:52:50ID:aEzSWvy3
俺、新潟県民だけどあんま謙信好きじゃないな……

関東への略奪とか、人身売買とかやってんのに美化されてばっかだしさ。やってる事は自己満足のような気がするし、「義」という飾り立てた仮面で自分を正当化しているだけだろう。

延暦寺を焼き討ちした信長を悪者だと思ってたようだが、自分の事はかえりみない。天才故に自己愛が強い人だったんだろう。


俺ごときがそんなこと言える立場じゃないだろうが。

197人間七七四年2009/03/21(土) 09:23:05ID:28NMjTnG
略奪や人身売買のための遠征をいまだに信じてるの?
米も取れない大凶作の関東へ出稼ぎ(しかも1561の11万人遠征時しかその記録なし)
二束三文の商売経費の一割にもならない価格で赤字の人身売買(実態は捕虜解放)
これぐらいは知っておこうぜ

198奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2009/03/22(日) 02:10:53ID:vJ4QUwKw
越後から10万を動員して全国制覇できないのなら、それは無能と言われても仕方ないな。

199人間七七四年2009/03/22(日) 05:03:23ID:XH87hYs+
下手な煽りするなら三戦に帰れよ

200人間七七四年2009/03/22(日) 11:04:21ID:7RY3uJU+
ぷらっとは10万にツッコミを入れてるんだと思うが

201人間七七四年2009/03/22(日) 11:45:25ID:pnAxUZDP
需要と供給。
凶作だから人質が二束三文にしかならなかったんだろうが。
馬鹿?

202人間七七四年2009/03/22(日) 12:10:16ID:9YAyHJur
>>201
毎回二束三文で売り渡すために遠征していたのかw

203人間七七四年2009/03/22(日) 13:40:49ID:pnAxUZDP
>>202
毎回?
俺は遠征の目的についての話なんかしてないんだけど。

204人間七七四年2009/03/23(月) 20:14:28ID:eBQ2/C5U
御館の乱のときって上杉と武田って同盟むすんでるんですか?

205人間七七四年2009/03/23(月) 21:36:15ID:N7CtyAPw
謙信の晩年に武田上杉間の一応の和睦はあったといわれている
本格的な同盟化は景勝と菊姫(武田勝頼の妹)の結婚のときになる

206人間七七四年2009/03/24(火) 00:14:27ID:xmjrNiBM
>>205サンクス
あれ?長篠のあとには結んでないのかな?

207人間七七四年2009/03/24(火) 09:36:16ID:/WLTzT73
結んでないよ

208人間七七四年2009/03/24(火) 15:45:13ID:Ns3FIuMA
>>207そうなんだ
WIKIだと1577年に謙信と同盟結ぶってかいてあるが

209人間七七四年2009/03/25(水) 07:52:05ID:6orKIU5p
手取り川の戦いって上杉軍はだれが出陣してたかわかりますか?

210人間七七四年2009/03/27(金) 01:44:30ID:CMi9Hl2p
「俺なら天地人をこう書く」のつづき----------------
史実通り直江兼続が当初は上杉謙信に見初められて寵愛され、
その後、養子の上杉景勝の小姓として閨の相手をつとめる。
謙信はまた美男子の養子・景虎をも枕席に侍らせて愛し、嗣子を誰にするか
決めあぐねている最中に厠で敵の放った刺客に暗殺される。
愛し合う景勝=兼続主従だが、断絶した直江家を立て直す為に、已む無く養子入り。
しかし、女色に無関心な兼続は一通り膣性交を義務的に果たして子を儲けるものの
他のオンナには一切、手を出さない。
むろん景勝は生涯女犯の穢れを避けて衆道一筋!
男装の麗人を寝所に送り込まれても手も触れない。
云々・・・と続いていくゼッ!
楽しみにしてろよナッ!!!
当時の女蔑視の風潮を正しく書いてやるゼッ!!!

211人間七七四年2009/05/05(火) 10:22:13ID:gChPxEEH
織田が逃げ帰ったのは事実だから

212人間七七四年2009/06/08(月) 22:19:16ID:61NgT17a
>>210
刺客に暗殺されるより兼続とガチで掘り合って腹上氏の方が謙信公らしいナッ!

213人間七七四年2009/06/18(木) 03:24:15ID:RcD94GR/
謙信曰く
「天下を取るのは小事なり。それより"義"を貫いて、背筋を伸ばして生きる方が大事である」

214人間七七四年2009/06/18(木) 06:48:27ID:2FnBMhTx
景勝が会津120万石になる前の、越後では何万石だったの?
それまでは検地されていなかったってこと?

215仙台藩百姓2009/06/18(木) 09:52:17ID:GxbA/Ufj
>>213
自分がよければそれでいい
と言う事ですおね( ^ω^)
極めて統治者に不向きな人間だお

216人間七七四年2009/06/18(木) 15:19:55ID:mdEt5RuW
ナッちゃんw

217人間七七四年2009/06/22(月) 04:07:08ID:tNdUEKyN
>214

92~94石高くらいでした

218人間七七四年2009/06/22(月) 08:14:38ID:AUG40ptg
>>217
ちょーちょーどんだけ少ないんだよw

219人間七七四年2009/07/05(日) 15:53:38ID:qTq2oyL0
>217

万石でした
単位が間違ってました

220人間七七四年2009/08/01(土) 12:10:50ID:vCSaxl0K
戦績は勝率9割5分
強過ぎ! 

221人間七七四年2009/08/01(土) 12:34:16ID:3AXfC2mg
越後は39万石しかない。。。。。。。。。。。。

222人間七七四年2009/08/01(土) 12:38:09ID:eqidYNYJ
越後は91万石

223人間七七四年2009/08/01(土) 16:33:44ID:5WJSDU7H
米の収穫高は39万石だけど、鉱山やら交易やら青そやらでかなりの儲けを出してたからね…

224人間七七四年2009/08/02(日) 06:52:27ID:0yTOBvSq
>223

そうそう

225人間七七四年2009/08/09(日) 00:29:33ID:o2YpXNRF
>>215

はいはい土下座土下座w

226人間七七四年2009/09/05(土) 09:04:29ID:JA2qfcym
保守

227人間七七四年2009/09/28(月) 00:26:57ID:XK4wHx/2
真面目なお役人だったんだね
他のみんなが下剋上をやってる乱世なのに、
越後国主として関東菅領として、弱った幕府を支え、一生懸命がんばったんだね

228人間七七四年2009/10/06(火) 17:18:10ID:UKmMbywN
>1
・新津勝資:清和源氏平賀氏
謙信の幼少期の子守り役も?!
越後→会津→米沢と、役28〜30代に渡り上杉・長尾家に支えた忠臣にて、前半期の重臣。

229人間七七四年2009/10/08(木) 18:15:41ID:CX7XTklC
毛利・島津・小早川が本気で家康軍強襲!
徳川軍壊滅!内府家康は明に逃亡!
豊臣秀頼石高462万石太政大臣!関白秀秋 左大臣輝元 内大臣秀家
征夷大将軍上杉景勝! 豊臣摂関の下に
上杉・毛利・宇喜多の将軍御三家体制の幕府
石田・直江・真田・大谷・小西の五管領・五参議体制
島津・長曾我部は大納言 織田信雄は右大臣
上杉家越後を増加
後に上杉親藩に足利武田徳川の御三家と長尾北条ができる。
上杉定勝は帝の皇女を正室に迎えその間に生まれた姫を
足利徳川武田に嫁がせ
その間に生まれた男子を一度定勝の養子にして源氏の三名家を相続
上杉御三家は左右近衛の大将を武田と徳川 足利は中納言指定席を
兼継の孫は管領筆頭を勤めた後に中納言に
老後は日本各地を周り義と愛を説く「米沢黄門」
豊臣は秀頼系統と秀秋系統と織田系統が交互に
関白太政大臣に就任「筆頭は秀頼系統」
三家摂関 三家将軍 五管領・三位制度でバランスを保つ。
やっぱ一つの一族の将軍独占はダメでしょう。
あと大大名は嫡男を帝の皇女との間に生まれた男子にした方がいい
豊臣も上杉も毛利も対等。 皆皇族との血縁あり。
なお足利上杉家は上杉親藩の筆頭で上杉本家の婿養子になる習慣が
「第2次足利幕府」上杉尊信 源氏長者 征夷大将軍
        直江師兼  筆頭管領 征夷副将軍
        石田義成  管領 兵部卿

230人間七七四年2009/10/22(木) 19:54:41ID:duYa9oxU
謙信公語録
「仁義礼智信を規とし、衆人を憐れみ」

231人間七七四年2009/10/28(水) 09:57:56ID:fXCh+JzO
>228
 訂正
清和源氏平賀姓×
  〃 有賀姓○

子守り役:新津氏× 金津氏○

232人間七七四年2009/11/24(火) 10:43:55ID:47OgZyWT
新津氏→金津氏

233人間七七四年2009/12/10(木) 03:55:16ID:sZQVah6T
◇足利学校(栃木県)
 当時の日本最古で最大の学校。(当時のヨーロッパからの宣教師達の記録にもあり)
・一時期、足利荘の代官を勤めていた長尾氏が、学問に熱心だった事もあり、学校の保護に勤めた。
その流れなのか兼続(米沢藩祖・景勝の執政)は、米沢藩より一人足利学校に行かせている。そして後に、地元で寺を開かせている。学問の教育係にする為か?
(当時は僧侶しか学校に入れず、また、寺で学問を習わせていた←時代がずれていたらスマソ)

234人間七七四年2010/01/19(火) 23:42:10ID:Sv45KPma
実質的に長尾学校だね

235人間七七四年2010/01/23(土) 00:00:46ID:9yRfaIix
当時(武家の時代:鎌倉時代から室町時代・戦国時代)の日本は室町殿御分国(西国)と鎌倉殿御分国(東国)
に分かれて統治されていたんですよね。謙信が足利藤氏を擁立して東国を治めることも、信長が足利義昭を
擁立して西国を治めることも同じレベルの話ではないでしょうか?

236人間七七四年2010/01/23(土) 16:57:27ID:TTWFMag3
謙信は自分が治めるというよりも、足利幕府を支えて再興する、という立場でしたが。

237人間七七四年2010/01/25(月) 14:07:02ID:iqHaiEBx
>>222
越後だけは40万石くらいで、佐渡・出羽庄内・信州の北部分を含めた、上杉景勝領の
総石高が90万石くらいだったのでは??

238人間七七四年2010/01/25(月) 16:23:21ID:/czRZexs
上杉領は91万石くらい、
というべきかもね。

239人間七七四年2010/01/30(土) 14:04:33ID:3uXNnWTS
>1
遊佐続光って、能登・七尾城の…?

240人間七七四年2010/03/12(金) 09:58:43ID:IvhUQzr0
他にいるのかよ

241人間七七四年2010/03/12(金) 14:56:23ID:mDuiEyuF
〜謙信の野戦〜

広瀬郷の戦い【上杉謙信○−●長尾政景】(宿命の従兄弟対決! 謙信方の部将、政景方の部将・発智長芳を攻撃、政景も応戦)
八幡の戦い【上杉謙信○−●武田信玄】(武田軍の先鋒、謙信にボロ負け。信玄は塩田城内でブルブル。上洛の予定あった謙信さっさと引き上げる)
犀川の戦い【上杉謙信○−●武田信玄】(引き分けとは名ばかり! 旭山城は破却、川中島は没収! 義元兄ちゃんの助け船なければ信玄死んでた)
駒帰の戦い【上杉謙信○−●大熊朝秀】(謙信方の部将、信玄に内通して一揆軍を味方につけた裏切り者・朝秀を撃破)
上野原の戦い【上杉謙信△−△武田信玄】(信玄、深志城内でブルブル、戦場に現れず。謙信呆れる)
八幡原の戦い【上杉謙信○−●武田信玄】(信玄、身の程知らずにも海津城から飛び出し謙信と野戦! 案の定ボッコボコ、信繁を討ち取られる。自業自得)
生野山の戦い【上杉謙信△−△北条氏康】(八幡原の戦いで多少ダメージ受けてた上杉軍は連戦の疲れで苦戦。但し謙信自身が軍を率いてたか不明)
塩崎の対陣【上杉謙信△−△武田信玄】(信玄、分をわきまえて謙信との野戦は控える。塩崎城内でブルブル、兵の一部のみ城外に待機。謙信呆れる)
放生津の対陣【上杉謙信△−△越中一向一揆】(信玄と手を組んだ一揆の大軍と長期戦に)
尻垂坂の戦い【上杉謙信○−●越中一向一揆】(謙信、越中一向一揆に圧勝。謙信に野戦を挑んだ一揆はマヌケ)
利根川の対陣【上杉謙信△−△武田信玄&北条氏政】(さすがの謙信も巨大な利根川を渡河できず。氏政、巨大河川に救われる)
利根川の対陣【上杉謙信△−△北条氏政】(再び利根川で睨みあい。謙信、巨大河川に邪魔され武蔵国の支配諦める)
手取川の戦い【上杉謙信○−●柴田勝家】(賤ヶ岳で秀吉に善戦した勝家も謙信には全く敵わず北ノ庄城へ敗走。逃走中、勝家は脱糞、利家は失禁)

242人間七七四年2010/03/21(日) 16:35:54ID:ZUJ4aPKV
信濃衆はやる気マンマンで謙信はマンドクセ>>これ、ホント うちの実家がそうだよ
お国替えでは、つれていかれなかったね 実際、俺の実家は新潟 古文書信じればの話だけどね・・・「裏切り者のー」の家系ですよ・・・死にてぇ



243人間七七四年2010/03/23(火) 17:01:38ID:YMdPxeJh

244人間七七四年2010/04/08(木) 22:45:57ID:wK8v6fD0
ttp://www.youtube.com/watch?v=XGwV6Usq72Q
パート5まであるんだけど
これに出てくる謙信唯一の負け戦って何の戦い?

245人間七七四年2010/04/29(木) 23:22:45ID:eEWl39Ks
負けなんてない

246人間七七四年2010/05/04(火) 08:31:13ID:b86z/ep9
>>73>>196
上杉キチガイだな

247人間七七四年2010/05/04(火) 21:07:49ID:8wML4J7t
謙信








248人間七七四年2010/05/08(土) 00:18:24ID:opBgTLE/
>>73>>196
上杉キチガイすぎだろ

249人間七七四年2010/06/07(月) 12:33:29ID:CmZkrETU
>1
北条と安田って毛利一族なんですね。
今さら知りました。

250人間七七四年2010/06/22(火) 10:07:29ID:Eo1fgoi+
はやぶさおめ!

251人間七七四年2010/07/06(火) 14:55:54ID:Q2uyP0aH
謙信のトイレもこういうものだったのだろうか?

戦国のトイレ雪隠

信玄の書斎兼用のトイレ『甲州山』
(命名の理由は、甲斐は山国であり山には常に草木(臭き)が絶えぬからのう)
たかがトイレが豪華な京間6畳敷きという広さは自らの権威を表すことにもなるだろう。
狭い便所の場合は屋外や隣室から刺客に刀などを差し込まれてはよける余裕がないため。
事実、息子との間で緊迫した時期などはここで宿泊して警戒してたと言う。
長期滞在も可能なように室内に香炉をおき、家来に朝・昼・晩に香を焚かせ心地よいリラックス空間にしていた。
彼はここで諸国から送られてくる書状を読み戦略を組み立てていた執務室でもあった。
隣接して風呂場も備えその湯殿の縁の下に樋を設け、あまり湯を利用して流すという水洗式。

ちなみに加藤清正はトイレでウンコする時は30cmの高さの下駄を履いてたと言う。

252人間七七四年2010/07/29(木) 09:17:46ID:fBYoEUMJ
便所に篭るなんてチキンな信玄ぐらいなものだろ。

253人間七七四年2010/07/30(金) 16:06:23ID:REJcfOtg
田舎の古い農家だと、ときどき京間4畳くらいのトイレがあったりするよな。
大名のトイレならさぞ広かっただろう。

しかし水で流していたとはいえ所詮ぽっとん便所だろ?
相当臭かっただろうに、よく生活できたよな。

254人間七七四年2010/08/05(木) 00:19:04ID:6j8ZYhzT
仙洞院が上田長尾に輿入れしたのって
政景が謙信に降伏した前?後?

255人間七七四年2010/08/11(水) 16:36:37ID:KvDEwqtN
上田長尾氏が反乱を起こしたとき、
本庄実乃が「たとへ御新造極近御親るいにて候とも」許せないと書いてるから、
この頃にはすでに輿入れしてたんだと思う。

「極近御親るい」が必ずしも仙洞院とは限らないし
「御新造」が房長妻なのか政景妻なのかすら判然としないから、断定はできないけど。

256人間七七四年2010/08/14(土) 12:56:08ID:vaWLk7PK


上杉謙信>武田信玄>織田信長>毛利元就>今川義元>島津義久>伊達政宗>北条氏康

257人間七七四年2010/08/14(土) 19:00:47ID:DgpT48tf
なんで上杉憲虎とか上杉輝憲とか名乗らなかった

258月孔雀2010/08/16(月) 13:45:11ID:2ShFxy78
謙信は、「信長に謙遜する」、という意味らしい・・・

259人間七七四年2010/08/17(火) 06:54:28ID:cGiAcm4u

軍神と連続爆弾犯

http://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0204/41/275.html

加藤隼戦闘隊隊長と連続爆弾犯人ユナボマーは誕生日でつながっていた。

260人間七七四年2010/08/19(木) 23:36:35ID:wJ12kVay
謙信が南北朝時代に産まれてたらどこについただろう
権威主義ということで南朝か
先祖の直義派か
バサラ尊氏派か

261月孔雀2010/08/20(金) 02:43:40ID:BdJxTCjG
南朝だと思う。

262人間七七四年2010/09/18(土) 10:11:41ID:i6hH5C1u

やはり戦国最強は謙信だな

先見性・合理性では信長が最高、
権謀術数では信玄・元就が双璧、
内政だと義元・氏康。

でも純粋に軍対軍の軍事力(直接戦闘)だと謙信だよ
謙信が攻めてくるとどんな戦上手でも城に逃げ込んでる

263人間七七四年2010/09/18(土) 17:14:45ID:6cd+Zqmp
権謀術数って…元就の一次史料で具体的に教えて。

264人間七七四年2010/09/20(月) 15:27:55ID:svZupRAl
>>263
残念ながら無い。
後世の厨房が書いた軍記講談にしか登場しない。

265人間七七四年2010/10/02(土) 07:40:41ID:gwv7PNPX
UP !

266人間七七四年2010/10/08(金) 18:49:48ID:MPQvXGGr
謙信って下手に上杉名乗るより
長尾景虎名乗ってた時の方が強かった気がする。

267スレ主2010/10/16(土) 13:29:10ID:kJugKMvg
>>266
無知すぎ
上杉になっても謙信最強

越中出兵では神懸り的指揮統率力に磨きが掛かってる

268人間七七四年2010/10/16(土) 22:00:21ID:Grr3p4J+
ゲームじゃないんだから、名前がかわったから強くなったり弱くなったりするわけじゃない。
無職はダーマの神殿で職業安定させろ。

269人間七七四年2010/10/18(月) 09:53:04ID:FABf5RQx
むしろ長尾から関東管領上杉になったことにより
領内や周辺が収まった感するあるんだけど
つまり長尾時より強くなった

270人間七七四年2010/10/21(木) 02:13:59ID:v/YW0a90
越後上杉家臣どもも
関東管領上杉を継いだ謙信の家臣化が
いっそう促進されたもんな。

271人間七七四年2010/10/24(日) 02:10:19ID:4Dj8w5Lo
運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり
何時も敵を我が掌中に入れて合戦すべし。
死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。

我に歯向かうは神に背くものと知れ!皆の者いざ出陣じゃああああああああああああああ




272人間七七四年2010/11/03(水) 05:27:41ID:+Lg5b9ty
生涯で70回以上戦って無敗の軍神・謙信

信長・信玄ですら恐れ戦いて逃げ出したという

273人間七七四年2010/11/12(金) 14:37:20ID:UfGqWv18
毘沙門天使 謙信ちゃん

274人間七七四年2010/11/12(金) 14:59:15ID:t6610+WS
奴隷商人

275人間七七四年2010/11/12(金) 15:47:53ID:7A7OwuFZ
うん。あの頃は皆そうだね

276人間七七四年2010/11/12(金) 16:07:23ID:t6610+WS
そのとうり

277人間七七四年2010/11/14(日) 00:20:19ID:beonjvnb
そのとうり
倭猿哀れ

278人間七七四年2010/11/15(月) 02:34:07ID:dZAoE4qr
Gackt謙信様がBASARAからご出陣なさるそうです
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1977174

279人間七七四年2010/11/15(月) 18:58:00ID:8yxKRjT5
おお〜

280人間七七四年2010/11/15(月) 23:18:43ID:IMq6pgyz
>>275
そのとうり
倭猿哀れ

281人間七七四年2010/11/16(火) 07:56:19ID:Yt3nZ6n/
お堂にこもって自己を高めてるところがカッコイイ

ただ神様に戦に勝つために祈ってたんじゃなく

瞑想とか勉強とかして修行してたんだよな

そこがかっこいい

282人間七七四年2010/11/17(水) 19:32:08ID:sl85Wrdy
片手には数珠を持ち
もう片手には軍配を持ち

坊さん大名やGj!

283人間七七四年2010/12/06(月) 10:32:26ID:DDLy8vt4
>1
宇佐美氏のルーツは藤原南家なんですね

284人間七七四年2010/12/13(月) 00:39:54ID:ie62jDBz
野戦で謙信が破った敵:

武田信玄・柴田勝家・越中一揆・蘆名盛氏
小田氏治・長尾政景・大熊朝秀

無敵杉る

285人間七七四年2010/12/20(月) 12:16:22ID:S0ogyM6+
足利義輝がすがり着いたのも納得の強さ

286人間七七四年2010/12/21(火) 22:02:15ID:GZ/Jk8ZW
この人が 8000人くらいを率いた時は無敵じゃね。
軍議を開いたり 前もって戦術を立てたりしないで現場で臨機応変に采配
するタイプだから あまり大人数じゃないほうが動かしやすいのかも。

287人間七七四年2010/12/21(火) 22:21:13ID:PEdhLYSD
越後精鋭8000あればどんな敵も打ち破れるって本人が言ってるからね。

288人間七七四年2010/12/25(土) 05:52:34ID:5WerDImd
最強の戦略家・上杉謙信にみる武士道精神−海上知明氏に聞く
http://circle.zoome.jp/matarihosyu/media/610

>謙信はよく天才的な戦術家でひらめきで戦い戦略はなかったという誤解がされているが大戦略家だった
>信玄との心理戦は7、8手先の戦いで手取川は4、5手先で十分だった
>戦略家として信長は謙信に比べると5、6段下がる武将

289人間七七四年2010/12/25(土) 14:22:04ID:O/wVhMcD
 武芸においては、剣道の他に、槍は佐野天徳寺を師範として習い、馬術は八条広繁を師として第一の乗り手と称された。
軍学については、孫子・呉子の兵法を研究し、14才の初陣から采配をとって軍兵指揮の経験を積み、特に源義経を武将の手本と考えて、日頃から修行を積んでいた。

と、今に伝わる。

すなわち、
「胆力絶倫で、知勇技能は群を抜き、精鋭さは人を圧倒するものがあった」

290人間七七四年2010/12/25(土) 19:51:35ID:81rv48rB
そんな凄い戦略家が関東から追い出され北陸制圧しないまんま死ぬか?

291人間七七四年2010/12/26(日) 11:00:47ID:K2g/hmfM
北陸は制圧してるし
後年は北条とは和睦してるから、関東を追い出されという言い方は馴染まない

292人間七七四年2010/12/27(月) 05:41:38ID:RoXPAV+9
追い出されて和睦だろ。
和睦は破れたし倒れなけりゃ、また関東に出張るつもりだった説もあるしな。

293人間七七四年2011/01/02(日) 09:08:39ID:moRXu6pT
春日山を本拠地のまま関東制圧できたらそれこそ凄いよ

294人間七七四年2011/01/02(日) 17:05:21ID:IlIzcrEn
本拠地移せばよかっただけ
本拠地移せない状況のままだった謙信には戦略眼なんてねーよ
何が最強の戦略家だよ
大笑いだわ

295人間七七四年2011/01/02(日) 17:26:39ID:wA4l9DNz
>294
何でそんなに必死なの?

296人間七七四年2011/01/02(日) 17:36:04ID:g7ihiRYk
いっそフランチャイズ無しで西へ東へ戦を求める
フーテンの虎さんだったら

297人間七七四年2011/02/11(金) 16:55:30ID:iodMPAnv
新潟県柏崎市にある"専称寺"。(柏崎駅あり)
 謙信臣下の重鎮・北条毛利家の菩提寺。
近くに、北条城もあり、寺には城の正門も残る。
<謙信由来の宝>
♯血染めの衣:謙信公の血の付いた法衣で、謙信公が鎧の上から着ていたものと伝わる。
♯ほら貝:謙信公も吹いたものと伝わる。

 事前に連絡をくれれば、見せてくれるそうだ。

 よろしければ観光にどうぞ。

298人間七七四年2011/03/01(火) 20:40:02.18ID:H2DKh96W
毎日謙信に祈ってる

299人間七七四年2011/03/01(火) 20:53:56.87ID:qvdN4o7e
>>294
どこに本拠地を移すべきだったの?
春日山は能登七尾城や上野厩橋城まで170`と中間点に位置して日本海有数の湊を持つ立地としては申し分ない場所だが。

300人間七七四年2011/03/01(火) 21:50:02.22ID:TZPcc0wD
>>299
関東に決まってるだろ

301人間七七四年2011/03/01(火) 23:44:58.38ID:qvdN4o7e
関東なんて土田舎に移すとかどんな罰ゲームだよワロタ

302人間七七四年2011/03/02(水) 15:07:03.86ID:MMud4DU9
実際、利根川氾濫でいつも水浸しの当時の関東に魅力なんてないからなー。
そもそも関東平野に固執してたのは北条だけだろ。
結局、今川も武田も上杉もみんな西へ向かったし、佐竹すら北上…

303人間七七四年2011/03/02(水) 15:17:19.06ID:/omRHQHk
ものは言い様だなw

304人間七七四年2011/03/02(水) 17:55:16.36ID:MMud4DU9
言いようも何も
当時の関東は東海道の街道もないような辺境。
実際、謙信は両毛地域は由良足利兄弟にあげちゃったし、
小田領は佐竹にあげちゃってるし。

305人間七七四年2011/03/02(水) 23:08:39.72ID:9g0Y6AbL
天下統一したいとかそーゆー理念で動いてないからこの人
謙信を否定する前に謙信についてもっと調べろよ
戦国時代では異端児だよな

306人間七七四年2011/03/03(木) 00:26:40.08ID:rqPpWPMa
>>298
俺も謙信公を神と信じているが
仏典は何を読んでいたんだろう わかる?

307人間七七四年2011/03/03(木) 01:05:43.42ID:W0c0tn6N
ただの戦闘マニアだろ謙信

308人間七七四年2011/03/03(木) 14:36:59.82ID:cBhiVNIX
蓄財マニアでもあり文芸マニアでもある

309人間七七四年2011/03/03(木) 16:52:38.79ID:IWnOWgm5
人身売買マニアだろww

310人間七七四年2011/03/03(木) 18:30:14.25ID:t4lGjoAz
「人身売買マニア」って言葉的にちょっとおかしい

311人間七七四年2011/03/03(木) 22:28:08.51ID:rqPpWPMa
>>309
呪われない様に気を付けてね^^
3世代後の子孫が人身売買^^されても
関係ないけどねww

312人間七七四年2011/03/04(金) 04:29:56.71ID:ID6IkhCJ
高雄って側室兼従妹の木造氏だっけ

313人間七七四年2011/03/05(土) 20:14:14.96ID:sou5qz6v
死後内紛が馬鹿の証

314人間七七四年2011/03/06(日) 19:23:44.09ID:7bqjyYgZ
アル中でもあるがな

315人間七七四年2011/03/06(日) 19:23:50.37ID:7bqjyYgZ
アル中でもあるがな

316人間七七四年2011/03/06(日) 19:50:05.04ID:I/Ul7/cg
普段の食事があまりに質素だったと言うね。
ロクに食べずにいつも梅に塩つけて酒飲んでたとか。
まぁ越後は寒いから仕方ないのかも知れんが
保存食にするために塩を含んだ食べ物など
塩分取りすぎは良くないとか当時の医学知識に無かったんだろうか。

317人間七七四年2011/03/06(日) 19:51:17.76ID:LsW6OqER
>>316
そんなに寒くないよ

318人間七七四年2011/03/06(日) 21:23:54.65ID:lwhFdjNl
アル中は過大評価されすぎ

319人間七七四年2011/03/07(月) 03:02:55.66ID:mUw/aMtZ
昔は軍記物を基にした評価だったせいか、昔に比べると評価は落ちてきてるね
研究が進んで色々なことがわかるにつれ、戦績も性格も、もっと評価が落ちる可能性大

320人間七七四年2011/03/07(月) 03:07:01.41ID:8wXhm24i
なに言ってんだ?謙信の商業政策など戦以外の点も脚光を浴びてむしろ評価が上がっているんだが。

321人間七七四年2011/03/07(月) 10:25:37.87ID:Qqrkw7l4
そもそも今までが戦は強いが他は駄目的な評価だったんだよな

322人間七七四年2011/03/08(火) 00:43:59.55ID:rZZGPp5R
>>319
何かどれだけ仕事が出来るか知らないけどコンプレックスの塊君が
評価評価評価って(笑)どんだけの評価なんだよ(大笑)

323人間七七四年2011/03/08(火) 01:07:04.94ID:FSQ1jM5I
戦国武将にも流行りがあるのですね。

324人間七七四年2011/03/08(火) 04:03:29.12ID:lLz91JDy
上杉と武田は根本的に国力が違う
上杉は地理的にも武田と比べて有利で、港も充実していて経済は活発であった
鉱山も充実、石高も高い水準で安定した経済大国
だから、アホみたいに戦をやるまくることが出来た
武田の場合は国力がないから、戦をして侵略しないと崩壊する自転車操業
上杉と武田の力の差は歴然だったわけ

325人間七七四年2011/03/08(火) 04:32:43.82ID:yT26CVFQ
差が歴然なのに結果がイマイチなのは冬場動けなさ過ぎるせいなん?

326人間七七四年2011/03/08(火) 08:47:31.15ID:dHEKLf/+
>>324
残念だけど謙信が国主になる前の越後は、経済破綻寸前でヒャハーどもが暴れ回る国だったとさ。

327人間七七四年2011/03/08(火) 14:51:10.02ID:K/XnM9oA
>>322
頭に血が上りやすい。激しやすい。火病る。。。そんな評価かな

328人間七七四年2011/03/09(水) 00:33:04.16ID:PAmJ0jvF
あっぱんじょで死んだってんがの

329人間七七四年2011/03/09(水) 02:18:45.66ID:vorY7ilv
太田資正曰く
「無欲で正直で慈悲深く、部下の意見もよく聞く有り難い武将でした」

330人間七七四年2011/03/09(水) 11:46:41.21ID:0ob9jOpt
新潟出身の歴史小説家、小松重男曰く
「謙信は高血圧症、糖尿病、アルコール依存症、躁鬱気質」
「謙信の死で越後兵の生命が何千人も救われた」

331人間七七四年2011/03/09(水) 11:52:11.89ID:9O8gVnWl
>>330
これ真理だな

332人間七七四年2011/03/09(水) 14:25:13.68ID:v5G0hY8s
謙信在世の時の越後の威望は頂点に達して武名が高く鳴り響いて武門の面目と名誉は全国で知らないものはいなかったが、
謙信死後に御館の乱で越後内乱になり
さらに新発田の乱に発展して
越後兵同士の殺し合いになってんのに
なに言ってんだそいつ。

333人間七七四年2011/03/09(水) 15:58:13.38ID:nmdpaPTs
脈も見ないで病気を診断するのってエスパーじゃね?

334人間七七四年2011/03/09(水) 23:07:55.57ID:0ob9jOpt
医師がそう診断したんだから、誰が何を言ってもしょうがないんじゃないか?

335人間七七四年2011/03/10(木) 12:29:25.05ID:ME0K1B9E
というか謙信生まれる前から国内で殺しあいやってたじゃないかよ
むしろ謙信が国内を安定させたのに

336人間七七四年2011/03/16(水) 06:33:57.34ID:77ei1Sxd
長野県にある希望湖の名前の由来面白いな。
信濃川中島の戦いの後に村まで撤退してきた上杉軍に村の人々が親切にしてくれた時に
この地の村人達がすごい水に困っていたのを聞いて謙信が国境を変更し
越後領内の湖を譲渡したから村人達が大変喜んで希望の湖と名付けたとか。
それで希望湖の所属が現在ではそのほとんどの領域が新潟県では無く長野県側だそうだ。

337人間七七四年2011/03/17(木) 10:53:34.88ID:rpYpABju
越後の人はさぞ困ったろうな。かわいそうに。
謙信の虚栄心はすさまじいな

338人間七七四年2011/03/19(土) 12:38:08.62ID:gQWK4Jk1
自分の領国が潤ってないのに譲渡したとしたらまさしくクズ
337の言う通り虚栄心としか言いようがない

339人間七七四年2011/03/20(日) 13:52:56.02ID:+tWJA5d6
高血圧症、糖尿病、アルコール依存症、躁鬱気質な上に虚栄心の塊か・・・

340人間七七四年2011/03/21(月) 18:36:23.94ID:oOAhOn3F
上杉謙信の歴史に忠実なDVDがあれば教えてください〜

341人間七七四年2011/03/21(月) 20:40:43.72ID:ZmYTnAEh
>>337
新潟県の者です。
市史を読んでみたのですが、戦国時代や江戸時代に、その湖がなくなって水で困ったという情報は見えませんでした。
旧越後のほかの地域はどうか分かりませんが、我が市に相当する地域では困ることは無かったようです。

342人間七七四年2011/03/22(火) 01:58:03.09ID:zfp64Jgf
>>341
>>336にあるような由来が迷信だからだと思います。

343人間七七四年2011/03/23(水) 08:36:59.69ID:4OyIF1b2
希望湖の湖岸線は越後側にも多少接していたから
越後の民が取水できなくなる話ではないよ。
それに大雪地域の越後側は水が豊かだったから水不足にならない。

344人間七七四年2011/04/11(月) 00:21:28.53ID:n3cI+vCI
謙信統治下において
越後国人衆の当主が死去した際に
跡継ぎが何歳未満の場合は家督を継げないとかあったよね?
あれ何歳だっけ。

345人間七七四年2011/04/23(土) 08:08:09.85ID:0tTfqpRL
>>344
15歳だったと思う。たぶん

346人間七七四年2011/04/23(土) 23:31:49.00ID:Bi+oVtIz
U福島からの避難児童に対して鬼畜のような新潟県民=新潟・長岡
時事通信 [4/23 20:27]

東日本大震災で、福島県から新潟県長岡市に避難している小学6年の男子児童(11)が転入先の小学校で同級生に蹴られ、入院していることが23日、同市教育委員会への取材で分かった。学校側はいじめがあったことを認め、保護者に謝罪した。
 市教委によると、男子児童は父親の実家がある長岡市に避難し、今月7日の始業式から新しい学校に通学。19日午前の休み時間、同級生の女子児童に腹を蹴られた。20日に腹部打撲と診断され、様子を見るために入院しているという。
 男子児童は15日にも「女子から悪口を言われている」と担任教諭に相談。学校側は21日、PTA総会で事実関係を説明し、同級生の児童からも話を聞いている。
 市教委の山田修管理指導主事は「福島県への差別的な発言があった。つらい思いをさせて申し訳ない」と話している

347人間七七四年2011/04/23(土) 23:59:43.77ID:UIklnBjP
>>346
新潟の女はつえーな

348人間七七四年2011/04/24(日) 00:06:53.21ID:/2qu1ePG
いやな女が多いのか?

349人間七七四年2011/04/25(月) 01:28:40.27ID:5sjbbNNY
>>346
連呼だけど正気?

・・・大丈夫?

350人間七七四年2011/04/25(月) 13:40:14.45ID:RZwC0+uA
子供同士のいじめなんてどこにでもある

351人間七七四年2011/04/25(月) 14:00:13.14ID:Ho20mDW2
犯罪もどこにでもある

352人間七七四年2011/05/07(土) 19:30:47.38ID:l3+zA2Ic
>>346に同意

353人間七七四年2011/05/12(木) 00:53:04.32ID:MHPsHivD
日本分断工作と日本人差別の典型だな。

354人間七七四年2011/06/23(木) 23:51:12.77ID:SBKkFl8Y
>>353その通り

>>346
ここにもありました、変質的なコピペの跡

日本分断と大和民族差別の典型
地域対立をあおる悪質なコピペです
この他にもあるようです

355人間七七四年2011/06/25(土) 21:07:57.75ID:rXQ7G8Un
謙信は当時戦国最強ですか?

356人間七七四年2011/06/25(土) 21:55:21.90ID:53038llk
最強である事に意味がありますか?

357人間七七四年2011/06/26(日) 07:54:10.42ID:TF70FThL
実際、比べられないだろ
ゲームのキャラでもあるまいし

358人間七七四年2011/06/26(日) 09:49:33.38ID:164E1lXJ
>>357よく見かけるが…、どこの大名が最強だったの?とか、どの武将が一番強いの?とか…、なんかガン○ムやポケ○ンと一緒に考えてるんじゃないか?

359人間七七四年2011/06/28(火) 11:36:38.77ID:5IbTGe04
BS-TBS 毎週月曜22:00〜23:00
THEナンバー2 〜歴史を動かした陰の主役たち〜
7月4日放送
「愛と義の忠臣〜直江兼続〜」
http://w3.bs-tbs.co.jp/no2/

360人間七七四年2011/07/09(土) 11:00:19.59ID:J84E88+r
義を重んじていた上杉謙信だが、
足利幕府が滅亡した後には、
しっかりと領土を拡大している。

幕府の滅亡により、関東管領職への
義理立てが必要なくなったのに、
柴田勝家(信長軍)を破った後は、
関東の征圧を狙っていたという説は誤り。

天下取りのための上洛を考えていた、
という説のほうが自然。

361人間七七四年2011/08/28(日) 08:33:45.74ID:r4fKfObi
足利義昭から「幕府を支える為に上洛せよ」と、書状が来てるじゃん

362人間七七四年2011/09/09(金) 14:40:41.35ID:AD4W3ONI

幕府はもう滅んでいる。関東管領という役職ももうない。

右大臣・内大臣・参議の信長を討つということは、
朝廷に反逆することになるな。謙信は。

幕府も朝廷の家来なんだが。

363人間七七四年2011/09/09(金) 15:12:07.45ID:2qRbgvZH
滅んでないよ

364人間七七四年2011/09/11(日) 03:45:40.96ID:7C4iNWQL
ですね

365人間七七四年2011/09/12(月) 01:17:30.32ID:9+/ZLtj+
http://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/

記事はアレだが
表紙の絵カッコイイ

366人間七七四年2011/09/12(月) 20:00:07.21ID:jSE7hYpy
つーか信長はラキ珍なんだよ
俺が将軍なら川中島4戦目の前に信長ムカつくから信玄と謙信頼んで滅ぼしてもらってその後はお前らにやるよって言う

367人間七七四年2011/09/12(月) 20:02:19.89ID:Bl9VvS2s
>>358
人それをゲーム脳という

368人間七七四年2011/09/26(月) 20:51:21.31ID:3BvwJMrs
結局のところ謙信は強すぎたのだろう
直接戦闘で誰も歯が立たなかった

外交も素晴らしく信玄・氏康と対抗するため当初は信長・里見と同盟し、
後に信長と対抗するため毛利・本願寺と同盟

内政面も経済を発展させ流通を改善

武将としてだけでなく政治家としても超一流であることを証明した

369人間七七四年2011/09/30(金) 00:48:38.34ID:/btdW5Un
まさに毘沙門天の化身
連戦連勝、神出鬼没

370人間七七四年2011/09/30(金) 03:08:18.13ID:jlZxcMh6
謙信が有能な政治家なら早い時期に小田原落ちてたんじゃないの
その北条から養子取って、跡継ぎ決めずに没して内乱になっちゃうし

371人間七七四年2011/10/21(金) 22:55:54.55ID:n0M9Sdhh
そこそこの政治家でもある程度だな
アレだけ戦争大好きの割に実入りが無いのに、少なくとも国政がむちゃくちゃになってはいない

372人間七七四年2011/11/05(土) 07:42:13.99ID:SdFb5gSZ
>>370
信玄が氏康に味方して援護射撃したから流石の謙信も小田原攻めを中止した

謙信=信玄+氏康

373人間七七四年2011/11/05(土) 19:26:06.62ID:yobyyvk/
謙信が不幸だったのは隣に信玄という孫子を体現する大謀略家がいたことだな。
常に四面楚歌、内乱状態。
信玄がいなければ関東から京まで秩序は回復していたかもしれないな。

まぁ信玄にとっても利や欲がなく全く話が通じない謙信は定期的に襲ってくる台風みたいなもので、気の毒といやぁ気の毒だ。


374人間七七四年2011/11/05(土) 20:06:09.23ID:4sii9Bjy
謙信が有能な政治家なら早い時期に小田原落ちてたんじゃないの
その北条から養子取って、跡継ぎ決めずに没して内乱になっちゃうし

375人間七七四年2011/11/05(土) 20:31:35.18ID:0Nz9BR4O
二回書いてる

376人間七七四年2011/11/06(日) 10:03:07.15ID:uoDdFOSJ
謙信が存在しなかったら信玄が、
信玄・氏康が存在しなかったら謙信が、
関東勢を率いて京都に上洛してただろうね。

377人間七七四年2011/11/07(月) 14:24:14.32ID:m+ZTZ8CW
北陸の戦国武将は関東・中部の戦国武将より強い

北国道:
上杉謙信・北陸一揆・朝倉義景・畠山義綱・神保長職

中山道:
武田信玄・斎藤道三・村上義清・上杉憲政・六角義賢

東海道:
織田信長・今川義元・北条氏康・里見義尭・徳川家康

378人間七七四年2011/11/13(日) 16:08:06.67ID:8TVRL0sR
謙信最強すぎるな

謙信が押し寄せてくるだけで誰もが逃げ出す
互角に戦えるライバルが殆どいないから大規模な合戦は意外と少ない

379人間七七四年2011/12/03(土) 14:38:08.07ID:bWOOvJAN
信長→戦略概念がなく各地で無計画にケンカを売ってまわり
同時に各戦線を支えるために戦力分散して
何度も打ち破られる。
また内政無視で敵を殲滅しても
その配下国人が謀反して治安が達成できない。
安国寺も信長の末路を予見される始末。
外交が糞。屈伏しないなら攻撃するだけ。
浅井も配下扱いして離反されるアスペルガーぶり。
補給は各国人が自弁な為に各地で現地調達の略奪。

秀吉→出来うる限り外交を駆使して敵を減らし
自軍戦力に加える能力を備える。
兵力の集中により目標を撃破。
出来うる限り日数をかけずに迅速に戦役を集結することを心掛けて疲弊しないようにする。
秀吉本人が数字に明るく兵站概念が存在し
兵力の集中を支える大軍補給力がある。
そのために占領地に負担をかけず迅速に治安が回復し経営が可能。

家康→旧武田家臣を登用し武田流軍略を学び、
さらに豊臣政権参加で
秀吉のやり方を学んだ。

380人間七七四年2011/12/04(日) 20:51:51.19ID:ZjX0L+cy
謙信から逃げ回ってた信玄
謙信に織田軍主力部隊をボコボコにされちゃった信長

381人間七七四年2011/12/26(月) 19:49:13.63ID:6NyJ/ND6
軍神と称えられ男は、ある記念日に誕生した

http://2nd.geocities.jp/jmpx759/0204/41/275.html

その日は、ソビエト共産党の記念すべき日だった。

(仮説を含む)

( http://book.geocities.jp/japans_conspiracy/02/p009.html )

382人間七七四年2012/01/08(日) 13:52:14.62ID:JhiSIIIP
手取川の戦いはあったのか?
なぜ勝家は逃亡したのか?
なぜ秀吉は逃亡したのか?
信長本隊はどこまで北上していたのか?
信長は逃亡したのか?
謙信はなぜ越後に帰還してしまったのか?

383人間七七四年2012/01/08(日) 14:43:46.74ID:qSXlCtC9
そもそも信長は手取川まで出張ってすらないし
秀吉も光秀もいないような織田軍を主力と言い張るのは無理ありすぎだわな

384人間七七四年2012/01/08(日) 18:30:16.61ID:5iURpj7D
>>383
秀吉も光秀もいない、って
どっちも織田家筆頭重臣でもなければ代行でもないだろ
手取川において信長の代行を務めて総大将として柴田が率いた軍勢が
あの時期における面子で見りゃ織田家主力だろ

385人間七七四年2012/01/12(木) 12:27:37.97ID:5R/K8ttY
あげ

386人間七七四年2012/01/13(金) 23:32:16.29ID:vKfPP/pN
>>384
謙信が強すぎて、逆に信長本人を狩るチャンスを逃してしまったよな。

387人間七七四年2012/01/15(日) 19:16:23.07ID:haWTDOWP
あんだけの織田オールスター武将で加賀に出兵してるのに
信長がいないなんて誰が指揮統御できんのよW
まさか柴田とか言わないだろうなw
柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのかね?
634 :人間七七四年:2011/10/02(日) 14:07:12.94 ID:z2/9hs33
>>633
>あんだけの織田オールスター武将で加賀に出兵してるのに信長がいないなんて
まさか、それだけの理由で「信長も行っていた」と見立てていたとは・・・
水越左馬助宛の文書でも「柴田に命令した」とあるので信長自身は行っていないとわかる。
637 :人間七七四年:2011/10/02(日) 18:05:01.45 ID:C9Oq+awY
>>634
それは9/1現在の情勢で、信長が現地の柴田(8/8には手取川へ柴田は渡河済み)に防衛を命じてあるから
お前も相談して防衛してくれ。もし防衛できそうにない状況なら
織田軍を動員することになる。決して見放さないと
上杉から離反した水越左馬助に信長が伝えてる書状だ。
しかし結局、9/15には七尾城が落城してしまい
上記の情勢は明らかに現地の柴田や水越では防衛できない状況になっており
水越に約束したように信長が織田本軍を率いて
秀吉・丹羽らと共にやってきて大敗。
9/23には上杉軍が加賀国湊川まで追撃を兼ねて南下。
9/27には逃げ帰った信長が美作の江見為久へ秀吉を派遣する旨を伝える。
信長が留守中の政治は二条城築城など村井貞勝が準備執行をやってるのがわかる。
こんな感じだろうね。
644 :人間七七四年:2011/10/02(日) 22:24:53.14 ID:B3K/tGDr
結局、信長が京か安土城にいた一次史料は出せないわけだ。
もっとも信長がいなかったから松永親子の謀反が現実化してしまい
やっと9月29日になってから松永への対処を信長はやっているが
明らかに手を打った時期は遅きに逸してる。
明らかに信長は北陸から逃げ戻ってきてる証拠。
647 :人間七七四年:2011/10/03(月) 07:16:33.26 ID:Ajt017hl
8月17日には久秀が石山本願寺包囲から大和へ離脱して
本願寺包囲に大和衆が抜けた穴が空いてしまったのに
松永討伐が出来ないまま放置は
上杉軍への対処に信長が出撃したからだろね。
648 :人間七七四年:2011/10/03(月) 15:07:22.85 ID:m55dTMVz
ちなみに謙信の能登加賀攻略に呼応して勝頼も遠江で徳川と対陣してんだよね。
謙信の越後撤退を知ったのか10月20日に武田軍も撤退。
結局、大兵力を上杉への対処に充てた織田軍による援軍派遣が徳川には無かった。
徳川はその後すぐに浜松城の譜請を大動員してやってる。
徳川にとってもいまだ武田軍はかなりの脅威だから浜松城のさらなる防御力向上を図ったんだろう。
649 :人間七七四年:2011/10/03(月) 15:22:19.94 ID:m55dTMVz
松永攻略は北陸に行ってない明智光秀、細川、筒井が大和へ先発し
後詰めで信忠がやって来てるのがわかる。
しかし信長公記は秀吉や丹羽ら北陸出兵組まで松永攻めに動員されたとする。
公記は実にウソくさい。

388人間七七四年2012/01/15(日) 19:16:42.88ID:haWTDOWP

650 :人間七七四年:2011/10/03(月) 19:20:32.01 ID:3JrVMn3S
>>644
今まで何を根拠に「信長が越前方面へ進軍していた説」を唱えているのかなと思っていたが、
「京や安土にいた記録が残ってないから、石山や紀伊を差し置いても上杉謙信への対応に全力を注いでいたに違いない」
という妄想だったのか・・・
651 :人間七七四年:2011/10/03(月) 20:43:32.69 ID:cJqiV3Iw
松永すら対処できずに放置なのにさらに遠方の石山本願寺や紀州に信長がいたとかワロタw
ちなみに閏7月13日に信長は安土下向してるし
本願寺方面には松永離脱と同日に信長が和泉に着陣した筒井と佐久間が話し合って協力するように伝えてるから
信長が京や石山本願寺にいて指揮をとっているとは思えないし
手取川の前後の京には光秀が入っている。
また北陸には秀吉、丹羽、滝川、稲葉らが行ったとされるが、
大敗した為に滝川や稲葉の戦後の動きは不明だし
柴田も消極的だし、秀吉も中国へ赴任した際はかなり貧弱な兵力だった為に播磨で苦戦続き。
明らかに織田軍の動きが鈍い。
654 :人間七七四年:2011/10/03(月) 21:33:19.02 ID:cJqiV3Iw
1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として
北陸へ松田監物を派遣してるところから
佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけないほど追い詰められていた。
本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。
松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には細川の増援が決まったな。
3月27日には
黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して状況によっては信長自身の出馬があると言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを指摘してる。
結局、謙信死んだのが確定した為か戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され
代わりに信忠が派兵されることになる。
658 :人間七七四年:2011/10/04(火) 08:21:42.68 ID:Svv9z974
松永の 片岡城攻略で明智軍に「大勢損」が出たのに苦戦してないとかあり得ないわけだが。
それに当時の謙信と勝頼は義昭主導の甲越相一和が成立してたから
上野や信濃で緊張なんて無かったわけだが。
しかも北条からも謙信が上洛するなら北条の援軍も派遣したいと申し出てるしな。
659 :人間七七四年:2011/10/04(火) 09:22:43.20 ID:Svv9z974
柴田や佐久間は織田家の宿老ではあっても
秀吉、丹羽、滝川、稲葉ら信長直臣に命令する立場にない。
彼らを命令できるのは信長だけ(そもそも柴田は目付けの前田や佐々らに監視されている)
また柴田軍はかなり被害をこうむったから本願寺攻め総指揮官の佐久間がやってきて専守防衛してたんだろう。
稲葉や滝川の活動も見えなくなり彼らは負傷していたのではないか?
また織田軍全体でも天正5年末から天正7年まで活動が鈍りまくっている。
上杉に大敗したのか兵力の立て直しに時間がかかり過ぎている。
661 :人間七七四年:2011/10/04(火) 09:53:31.48 ID:s8m1/X+N
手取川の後、京防衛だった最後の無傷戦力たる明智軍団を投入して松永相手に明知軍まで大損害を出したのちも
丹波の明智・播磨の秀吉
三河の徳川・越前の柴田・和泉の筒井・摂津の佐久間
これらの戦域で増援が必要だったのに
ぜんぜん信長は増援派兵できないからなぁ。
彼ら自身も戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げてないね。
丹羽・滝川・稲葉らを遊ばせていたのか?
上杉相手に殿を勤めて大損害&負傷で動けなかったんじゃないかな。
光秀がラッキーだったのは謙信に続いて丹波の赤鬼赤井直正が死去したことだな。
670 :人間七七四年:2011/10/05(水) 09:07:56.22 ID:ME40zgiB
越山すると言ってしない時が何度となくあるし
そもそも数週間だけ北関東に来てからさっさと越中出馬に出向くなんてしょっちゅうやってる。
そもそも越相同盟の時も北関東への謙信の出馬は
北条との対立には該当してない

389人間七七四年2012/01/15(日) 19:18:39.51ID:haWTDOWP
歴代古案の謙信の書状と北徴遺文があるって散々書いてあるだろ
詳細といえば謙信の書状に詳しく書いてあるじゃねーか
手取川の史料が少ないだけで否定するなら、
戦国時代のほとんどの合戦が
非実在戦争になるぞw
厳島合戦や河越合戦はなかったのかよ。
一次史料による否定ができない限り、
いくら粘着してテキトーに思いついたケチをつけても無駄だけどな。
その前後に明らかに勢力図が変わってるし、
織田はわざわざ本願寺攻め総責任者の佐久間まで引っ張り出してまで、
越前防衛に必死こいてるし、
謙信が死んだ情報が入って始めて
織田軍の播磨への援軍が実行されてるように、
手取川ののちも信長は謙信を恐れて警戒してるのが現実だからなw
なんせ本願寺に和睦させて頂くまでは手取川で敗れたダメージがありすぎて
加賀に一切侵攻できなかったと>>961で言い訳してるのはあなた本人でしょ。
それなのにいきなり逆切れするとか頭おかしくねw
>>969
信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句だからw
なんと第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい。
とりあえず織田を擁護したいなら最低でも信長公記くらい読もうよバーカwww
じゃあなんで織田軍はその後、
戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げられないんだ?
上杉の4倍の国力があったなんて妄想まで書いてるわりに
佐久間信盛が追放された時に信長は柴田も功績をぜんぜん挙げられず
「越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した」と書いている。
天正8年春にやっと加賀へ侵攻してるほど動きが鈍いのはなぜ?
謙信は天正6年3月に死んでるんだよ。
あまりに柴田率いる北陸軍の損害が大きすぎて加賀にすら満足に侵攻できない状態なのが露呈してるんだけど。
柴田が秀吉や光秀どころか小身の池田恒興までがはなはだしい武功を挙げているので
武功がない柴田が焦って加賀を制圧したと信長は佐久間への糾弾で言っている。
つまり、本願寺との和睦成立で加賀へ侵攻できたのではなく
秀吉や光秀らと違い手取川での敗戦で損害の大きい柴田軍が焦っていたのであって
そこに本願寺との抗争で加賀侵攻ができなかったとする言い訳は
信長のこの発言により成立しないのである。
もしこれ以上の加賀への侵攻に遅れが生じていたなら
佐久間同様に柴田も改易されていたのは明白で
そこに本願寺が〜と言う言い訳が成立しないのは明らか。
もっとも一向宗というより、すで家臣に組み込まれているので上杉軍ではあるが。

390人間七七四年2012/01/15(日) 19:18:52.96ID:haWTDOWP
>>誰も討ち死にしてない
討死してないが滝川・稲葉らが重症を負ったようで
当分の間、登場しなくなる。しかも各地で苦戦する織田軍は
まったく援軍が派遣できないまま各戦線で劣勢。
>>野田福島の戦いや志賀の乱でもちゃんと記述がある
お前がwikiを読んでるだけで信長公記をまったく読まずにケチつけてるのがはっきりわかった。
信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ。
敗北してる手取川の戦いを隠蔽している可能性は高いし
そもそも筆者の太田からして、北陸情報に疎いので
柴田に関する記述もほとんどないし、
>>774>>785のように前線からの捏造報告を鵜呑みにしてる記述している。
>>秀吉に一切のお咎めを与えない
お前は信長公記を読んでないからそういうことを平気で発言する。
公記ではそのこともあるから秀吉は中国戦線で昼夜を問わず駆け回って働いたと書いてる。
もっとも太田は太閤秀吉が手取川の大敗に参加してないと捏造記述した可能性はあるが。それは大かうさまくんきのうちでの
秀吉マンセーぶりからすればありうる。
そのためか公記では秀吉が毛利に敗れた記述も隠蔽している。
>>一向衆側が何の記録も残してないのは何でだ?
義元は殺したとされるほどの桶狭間の戦いを証明できる書状がないのは何でなの?
だからって桶狭間の戦いは実在しなかったよねとは言わないよな?
天災や戦災などで書状なんて消失してしまったのも多いのに
一向宗側に残ってないからおかしいなんて暴論すぎ。
しかも歴代古案に証拠があるにも関わらず。
それにメディアが発達し民衆の知識も戦国とは比べものにならない近代の
大東亜戦争においては数々の敗戦を完璧に隠蔽してたぞ。
もっと言うとアメリカに知らされないように大地震すら隠蔽された。
1943年9月10日鳥取地震・1944年12月7日東南海地震・1945年1月13日三河地震
まぁアメリカにはバレてたがな・・・
それどころか台湾沖航空戦という勝ち戦がデッチ挙げられたりしたし。
だから大きな大敗や災害ほど周辺国への影響を考えて隠蔽されるのが普通だ。

391人間七七四年2012/01/16(月) 00:20:56.71ID:KBB2qARn
信玄だけでなく謙信にも負けて、
プライドズタズタだったんだな、信長どん。

392人間七七四年2012/01/16(月) 03:57:48.66ID:vucFl7ES
歴代古案の謙信の書状=これ謙信の花押がないニセ文書だろ。
歴代古案=元禄時代に作成した編纂文書。

北徴遺文=手取川の合戦など一切記述なし。


393人間七七四年2012/01/16(月) 04:09:44.75ID:vucFl7ES
一向一揆の研究。5月廿五日としか書いてないのを、天正5年9月25日にしている。
5月は、9月の誤りなどと書いてありました。天正5年9月25日(井上氏注釈)。

北徴遺文における天正5年9月25日の感状
今度夜討之刻、首討捕高名之旨、具遂披露候。御感被思召候通、能々可申舌旨被仰出候。
向後弥々可被抽忠節事 肝要候。恐々謹言。 刑部卿法眼 頼兼判 堀才助殿

394人間七七四年2012/01/16(月) 19:16:34.68ID:6rWpMMfy
>>393
原文の誤読翻訳はよくあるから。
ちなみに信長の右筆はむちゃくちゃキレイな字を書くから、
研究者にとっては有難い。

395人間七七四年2012/01/17(火) 06:56:35.41ID:iICz0gzV
ID:vucFl7ESのことらしいな。

848 :人間七七四年 :2012/01/16(月) 09:32:15.34 ID:zz9skm0Z
subちゃんまた出たなw

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/14.132.94.41

a. [IPネットワークアドレス] 14.132.64.0/19
b. [ネットワーク名] COMMUFA
f. [組織名] 中部テレコミュニケーション株式会社

396人間七七四年2012/01/17(火) 18:52:00.33ID:hXRpvUs9
そもそも落城したから織田4万は戦わず帰ったと記す長家家譜からして
落城原因として籠城中に伝染病が流行り畠山の幼君まで亡くなり落城したなどと大ウソ吐いてるからな。
実際の幼君は落城後に
謙信が養子に迎えてるのにw
織田軍大敗し七尾が落城したのが、
よほど悔しかったと見えるw

397人間七七四年2012/01/17(火) 22:15:32.28ID:iDOtRivh
梅干し大好き
日本酒大好き
越後国主

自殺?

398人間七七四年2012/01/21(土) 23:34:10.69ID:t72SRIE/
上杉家過小評価されすぎやろ〜もっと評価されていいと思う。ただ資料が少ないからいたしかたない気もするけどね。><

399人間七七四年2012/02/02(木) 09:25:26.87ID:KHLNNSfg
信長公記に書いてないから全部デタラメ

400月孔雀2012/02/02(木) 11:31:33.54ID:orQws2rR
信長公記って信長、美化しすぎじゃね?

401人間七七四年2012/02/02(木) 21:07:36.06ID:DjtgpFAk
>>396
長家家譜は信長本隊の出陣も伝えているから、
やはり信長が北陸出陣したのは間違いない。

402人間七七四年2012/02/02(木) 22:32:21.49ID:3Muvf5TF
長家家譜はどっかに翻刻されてるの?

403人間七七四年2012/02/05(日) 18:46:15.47ID:d523XLdP
長家記録

≪冊データ≫
1
【形態】 107p





≪細目データ≫
【史料名】 (総記)



【史料名】 長家印譜


【原蔵者分類番号】 95

【史料名】 長家元祖ヨリ代々盛衰并於所々合戦働之事(延享4丁卯望月中旬)


【原蔵者分類番号】 101

【史料名】 長家之内御先祖様より之聞書(元禄8年下限)

元禄8年に作成した軍記モノの長家記録を信じる?

404人間七七四年2012/02/05(日) 18:59:16.18ID:E9FYuUis
>>403
すべての完成がその時期であって
御当家御年譜(1)天文7年〜文禄4年や
覚え書きなどの成立は
別だろ。

405人間七七四年2012/02/05(日) 21:00:32.13ID:d523XLdP
江戸時代に成立した『長家家譜』などの軍記物史料は義慶・義隆を混同している
ので、そもそも義慶の存在が無いので畠山義隆となっている
興臨院過去帳」では、1576年に「能州太守 義慶公」が死去したと伝えて

上杉謙信は本当に能登を攻略領土化したんだろうか?

1576年の段階で、能登国主は畠山氏であると記録されている。

手取川までの1年ほどで、加賀能登越中飛騨が上杉領?

406人間七七四年2012/02/05(日) 21:18:57.20ID:IQmtNgn9
混同してるのではなく、
史実を曲げてるだけ。

407人間七七四年2012/02/05(日) 21:39:01.11ID:d523XLdP
興臨院過去帳」では、1576年に「能州太守 義慶公」が死去

って、なってるのに、

上杉家の記録では、能登を領土化してました?

上杉家の記録では、畠山義隆なる人物が能登の国主らしいが。

京都のお寺の記録では、畠山義慶になってる。これを否定する同時代史料はない。

畠山義隆は、果たして、存在していたのか?

408人間七七四年2012/02/05(日) 22:28:56.78ID:IQmtNgn9
そもそも興臨院過去帳は同時代に記入されたものでは無いから信憑性が低すぎる。

409人間七七四年2012/02/07(火) 08:40:26.93ID:l+oMXANa
当主畠山氏に幼君を擁立して傀儡政権で好き勝手やってたのを隠蔽して、
自己正当化してるからな長家家譜って。
あからさまに捏造歪曲してる。
逆に謙信書状は一次史料だから否定出来んよ。

410謙信は本当に関東管領?2012/02/08(水) 23:31:11.13ID:hRn5w+MF
結論 謙信はいなかった。

411人間七七四年2012/02/10(金) 23:06:54.89ID:gGx9RLic
自分キュシューなもんで全然実感無いんですけど、ちょっと長い質問が。携帯なんでアレなんだが。
謙信のカンレイ職就任についてなんだけど、これって意味合いとしてはどんなんだろう。

大きなラインとして、足利創成期からの鎌倉と室町の対立軸…
関東においてはそれが、公方家と、室町と近い上杉家との代理対立に発展したわけだよね。それが戦国末期には足利を抱き込んだ北条⇔山内上杉の対立になったと。
そういう中で謙信は山内とくっついた。
つまり関東下向の公方をいずれは排除したかったって考えて良いのかな。近衛を据えようとしていたくらいだし。
そこには室町義輝の意向も強く働いていたんだろうか。
あわよくば謙信を通して関東に大きな影響力を…くらいの事は義輝なら考えてそうな感じなんだけど。
つまり謙信の考えてた関東の秩序云々ってのは、『関東公方足利を中心とした秩序の回復、自らは管令としてサポート』なのか
『あくまで室町を中心とした秩序回復。すなわち最終的には関東公方足利を排除した体制…
つまり自分は本来的な意味(鎌倉公方=関東管令だった頃)での関東管令職についたつもり』
だったのか。
あんまりそこら辺書いてる本とか小説無いから聞いてみる。
ひょっとして関東住みの歴ファンだったら
『んなもん言わなくてもわかるだろks』
くらいの暗黙なのかな。複雑過ぎてよくわからんw(;・∀・)

412人間七七四年2012/02/12(日) 18:16:26.89ID:Rwc1jGiw
菅領家も公方家も内紛だらけで、
とっくに対立関係の時代は終わってて、
北条に圧迫されてる始末だからなあ。

413人間七七四年2012/02/18(土) 11:59:39.69ID:eYu1Rti5
官職なんてずいぶんと前から名目だけでとっくに破綻してると思う。
○○守なんて官職、実際にその領地治めてないやつばっかだし。

414人間七七四年2012/02/18(土) 12:47:00.43ID:T5g7gjYg
『長尾』で越後を治めるのが大変っぽいから『上杉』が欲しかったのかなあ

415人間七七四年2012/02/18(土) 20:50:23.75ID:iVaBodjO
要するに謙信の目指した関東管令職による秩序回復が、
【関東足利家を中心とした秩序、及びサポーターとしての上杉家体制復活】
だったのか、
【山内上杉を代理人とした室町幕府の関東支配体制、及び関東足利家の実質的断絶】
という事だったかって事?
近衛引っ張って来たのを考えても、俺は後者だと思うな。
そこら辺最初から関東諸将と思惑の違いがあったんだろうなー。
結局関東諸将の望んでた事って、あくまでも関東足利家中心の体制なんだよね多分。
その中に上杉も北条も組み込まれて、それなりに平和が維持出来ればヨシって思ってたんじゃないの、特に武蔵七党系とか藤氏一揆系とかの勢力分水嶺上の細かい中小豪族はさ。
結局状況分析が甘いんだよ謙信は。
堀越の失敗とか、逆に御弓御所の部分的成功とか、そういうのちゃんと考慮していれば
あんな本質的な失敗はおかさないと思う。
最も上洛以前、単に憲正が転がり込んだ段階ではどうだか分からんけどさ。
京都で義輝に丸め込まれたんじゃないの、いや、これ結構マジでw

416人間七七四年2012/02/18(土) 21:15:35.60ID:TOMpzWt2

妄想を吐き出してスッキリしたかい?

417人間七七四年2012/02/19(日) 17:10:34.02ID:P+sErgHu
天正4年の木津川の戦いと天正6年の第二次木津川の戦いの間である
天正5年にも織田軍は毛利と海戦して大敗してるのを公記は隠蔽してる。
謙信の上洛戦に言及があるため天正5年9月23日の手取川の戦いが始まる寸前の書状。

龍谷大学大宮図書館蔵 光佐披露状 江戸浄林寺文書 顕如上人文書簒所収

急度令啓上候 仍今度芸州警護船 早速被相催 歴々衆渡海候
殊為合力 兵糧等厳重之儀 囘申謝候 随而於海上及一戦 敵船悉被打果候事
無比類高名 併上意御威光之故候 当寺門下・紀州兵船相共ニ 抽戦■候
可然様御執成専用候 其節之儀 加太豊前守存知之事候条 可有言上候
就中御太刀一腰金・御馬一疋鹿毛進上之候
聊表祝儀計候 於此上 播州陸路之行 肝要存候 弥可被上意候
北国謙信事 近日越前表 可有出張候 猶以三和之儀 此刻候 甲州之儀
八月中尾濃江必定出馬■■ 一両日已前も申越候 諸国之儀■■分急申候
吉事近々可申入候 此等之旨 宜有披露候 怖々謹言

            七月廿八日 光佐(花押)
  一色駿河守殿
  真木嶋玄蕃頭殿


謙信が死ななければ信長討死間違いなしの情勢だった。

418人間七七四年2012/02/19(日) 19:09:00.28ID:0DAXwsvO
謙信好きだわ
人格者だし

419人間七七四年2012/02/19(日) 22:14:45.76ID:jXjzNsMC
>>417
もしも長篠の敗戦が無かった武田だったら…

420人間七七四年2012/02/20(月) 12:57:28.05ID:Lbaycoef
>>419
長篠で織田軍を殲滅したとしても、武田の滅亡が二三年遅くなるだけ。
織田の国力だと何回負けても戦力の再編成が可能。

421人間七七四年2012/02/20(月) 21:35:18.69ID:UXmORSq2
お前の主張には全く根拠が書かれていない
ただ主観で決め付けているだけ

422人間七七四年2012/02/20(月) 22:22:30.27ID:/soiuRkk
何のために武田厨VS織田厨専用スレが存在していると思うのかね!!

423人間七七四年2012/02/21(火) 19:46:28.40ID:j80MHZ/K
>>420
ゲーム脳乙

424人間七七四年2012/02/22(水) 07:22:09.27ID:+muXjWwN
信長は援軍として西に兵力派兵する余裕が無かったから、
勝頼は非常に有利な状況だった。
丹波の赤井直正も勝頼に書状を出してたし、
赤井忠家や内藤如安や宇津頼重らが反織田で丹波も毛利や武田に協調してる。
これ信玄の大きな遺産だな。
5月に長篠で武田が無謀な決戦で大敗した為に、
信長は余裕が生まれてしまい、
8月越前一向衆を壊滅させてから、
光秀に丹波侵攻を開始させてる。
波多野ら丹波衆の反撃で光秀は大敗したが。
実際、天正三年3/4には
芸但和与が正式に発足したことに対する織田→小早川への返信で、
信長は但馬はかねてから申し入れているように織田分国であることを承知してるはずだ。
近年はずっと山名祐豊から連絡が来なくなったのは無念だが、
出雲や伯耆の安定の為に、
尼子のいる但馬出兵がどうしても必要なら
仕方が無いと
背後で尼子を支援してる信長もしぶしぶ毛利の但馬での勝手な行動を認めてる。
それだけ信長には余裕が無かったから
露骨に毛利に開戦したく無かった。
信長は毛利に対して内心激怒してただろう。
すでに天正元年12月までに元春が信玄西上のドサクサに織田分国但馬を平定して出雲に帰国しており、
毛利は朝山日乗や安国寺らを織田に派遣し、秀吉を窓口に信長に媚びて敵対行動の誤魔化しをしてた。
うまく信長との間を誤魔化せたのは秀吉と朝山のおかげだと安国寺が12/12に書状を出してる。
天正4年5月までに尼子残党を京へ逃亡させ
毛利は山陰再平定に成功してる。
その一方で山陽道でも織田に内応した備中の三村を毛利は天正3年5月までに平定に成功。
勝頼が長篠で大敗したのはガチでバカ過ぎ。

425人間七七四年2012/02/22(水) 13:52:40.38ID:DBa4RpRU
天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗したのだろう。
公記の加賀出兵記述は、
目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述。
尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。

426人間七七四年2012/02/22(水) 14:26:52.36ID:GHRuAc7S
太田牛一の記述は基本でたらめだらけだが
北陸・関東方面には特に極端に疎いからな
柴田の動きとか全然詳細に書かれてないし
芋川らが信濃で奮戦してる書状があるのに森が越後まで侵攻したとか
氏政が関東を放棄して織田に前面降伏したとか頭おかしいレベルw

427人間七七四年2012/02/22(水) 15:29:03.00ID:BSFpEmKA
>>424
天正2年4/13六角義賢が石部城で抵抗後に三雲氏の本拠地の信楽に向けて退城し、
この時に敵を追い払った山中山城に感状を12/24に出してる。
この間に勝頼が美濃明智城と遠江高天神城を攻略し、信長は越前での一揆を危惧
長篠の戦いの前年ですら、武田がむちゃくちゃ有利に戦ってるからね。
北条も織田を敵と言ってるし。
そもそも危機的な北条は越中で謙信の背後を突いてもらいたい一心で
永禄3年に氏康が永正3年からの禁制を撤回して
石山本願寺に関東での亡命寺社の帰国と保護を認めると約束しちゃったからな。
北条は何かあったら一向一揆を起こされるため完全に武田と本願寺の奴隷モードなんだよ。
だから氏政は氏康を暗殺してまで甲相同盟を復活させた。

428人間七七四年2012/02/22(水) 21:59:22.33ID:+BhAJJvJ
なんか、新手のウソツキが出てきたな。

429河越合戦はいつ?2012/02/22(水) 23:46:57.14ID:+BhAJJvJ
1次史料同士が矛盾している事例もあるな。

「続群書類従所収上杉系図」
朝興-----------朝定
             五郎、天文六年七月十五日与氏綱合戦、陥河越城、法名正栄

「続群書類従所収上杉系図別本」
朝興-----------朝定
             五郎、天文十四乙巳年十月河越合戦之時討死、

どっちが正しいの?上杉の史料の中でも矛盾している。

「歴代古案」
憲政為後詰河越城を取巻、氏康事も 河越籠城之者共
「本に天文十五年四月廿九日ト有」
天文十二 左京大夫 四月 日  六月十日 氏康 一本ニ書之 進上簗田中務大輔殿」

高白斎記○天文七戊戌年(1538)

正月小丙子。北条氏康が上杉憲政、上杉朝定と武州河越にて合戦。氏康勝利す。

《註》河越合戦については『甲陽軍鑑』に天文七年とあり、他の諸録はおゝむね天文六年とある。

どうなってるの???????????

これで、上杉、武田、北条の1次史料を信用しろと?

430人間七七四年2012/02/23(木) 00:34:02.70ID:Q///k//9
何が矛盾なんだ?

431人間七七四年2012/02/23(木) 00:41:18.82ID:YlTrOMSv
>>429
まず上杉氏といっても山内、扇谷、長尾と居るわけで、
どの史料がどの氏族のものか分けるべき。
特に扇谷上杉氏は最初に滅びており、事績が不正確なのは考えればわかる。

次に河越籠城戦は北条氏綱による奪取、氏康による防衛と大きく2回あるのだから、
どちらをさすのか判別するべき。

著者も人間だから得意不得意分野がある。
全部ひとくくりにして信用云々と言うようじゃもったいない。

432人間七七四年2012/02/23(木) 08:46:43.41ID://CZoNuN
川越では何度も攻防戦があったと言われてるわけだが

433人間七七四年2012/02/28(火) 09:38:55.13ID:aYyjA2/4
>>417
相変わらず九鬼織田水軍弱過ぎるワロスwww

434人間七七四年2012/02/28(火) 10:07:34.58ID:Ii4StGct
>>417って完全に顕如坊主のヨイショ文でしょ。
文書上の七月廿八日から考えると天正5年の7月28日なんだろうが、
この頃の謙信はまだ手取川どころか能登畠山すら健在の時期。

それなのに「8月中には濃尾織田領に入ってくるはず」とオオボラをふく顕如。
実際にはそれより約1月後にようやく七尾城が陥落したのにな。

435人間七七四年2012/02/28(火) 11:14:24.38ID:H5IW6Tej
age

436人間七七四年2012/02/28(火) 12:00:25.85ID:GMoyGDiU
>>434
織田坊涙ふけよw

437人間七七四年2012/02/28(火) 12:06:27.75ID:Ii4StGct
>>436
結局謙信は美濃に来れずにポックリ逝きました
どこに涙目になる要素があるんですかねだがさんw

あ、もしかして謙信が生きていたらとか考えちゃう系ですか?
そういうのって信長が本能寺で生き延びていたら天下取れたとかいうのと同じですよw

438人間七七四年2012/02/28(火) 13:49:19.59ID:iSeglIit
天寿を完うした人物が
もう少し寿命があれば、
良い社会を樹立出来たかもとは思うが、
家臣に謀反されて親子共々焼き殺された人間は自業自得だから
もしは無い

439人間七七四年2012/02/28(火) 20:00:06.60ID:4i8Z9q4q
悪逆無道の末に家臣の謀反で死ぬ辺り
まさに足利義教そっくりのバカ長

440人間七七四年2012/02/28(火) 21:00:24.46ID:Ii4StGct
>>438
天寿を全うした人間がさらに寿命を延ばすなんて100%不可能。
可能なら信玄も謙信も病を克服してピンピンできただろう。
だがそれは2人に限らず全人類が未だ到達したことのない事象。
彼らは人生の全てを燃焼して病に散ったのだから当然だ。

家臣のクーデターによって死んだというのは家臣のクーデターが成功しなければ回避できる分望みも多い。
現実的な話でいえば信長信忠は京に揃わないとか言えるし、荒唐無稽が御望みなら本能寺の前に光秀が急死するというのもありうる。
天寿を克服することに比べて外的要因に頼れる、不慮の死という不完全燃焼だからかなり楽なIfなんだが。

441人間七七四年2012/02/28(火) 21:06:34.92ID:Ii4StGct
ちなみに謙信の死因は脳卒中や脳溢血といった、酒の飲みすぎが起因したと言われている。
これを克服するには謙信が普段から酒を控えなければならない。
アル中親父が酒の飲みすぎで死んだというのは、ある意味信長以上に自業自得である。
大名のくせに健康管理もできず、お家管理すらできずに死後後継者争いをするのはもはや滑稽の域に近い。

442人間七七四年2012/02/29(水) 09:20:03.32ID:dgBt79GY
脳卒中発症が
冬季に冷えきったトイレで倒れたんだろ。
ほとんど偶発的な死去じゃねーか。


443人間七七四年2012/02/29(水) 10:00:57.77ID:pZDY63Ww
>>442
現代と違って当時は医学がそこまでの発達を見てないので大病を患ったらほぼ死ぬ。
特に謙信の場合脳関連の死因が主流であり、脳の病気は現代でも致死率が高く、生き延びても後遺症が残ることも多い。
この時代に脳のせいで倒れたというならほぼ助からんだろうな。まだ信長の刺客に暗殺されたとかいう俗説の方が期待できたかもしれんね。

444人間七七四年2012/02/29(水) 11:04:44.06ID:Qa/G/fxF
信長はどっちにしろ家臣に殺される末路しかないから
もしもなんてあり得ないわな。
安国寺からも転落を予想されてたし、
家臣たちに遺領を分割されるは、
家は乗っ取られるわ散々で全く遺徳がなかった。

445人間七七四年2012/02/29(水) 11:23:07.69ID:pZDY63Ww
信長が京に入らなかった
光秀が謀叛をやめた
信長軍を率いていた

とまあ可能性はいろいろあるわけだが。
そもそも反織田厨はなぜか清洲会議を信長遺領の仕分けとしているが、
厳密には明智領の分配なんだがなw信忠旧領は信雄信孝が功績なく引き継いでいる

446人間七七四年2012/02/29(水) 11:28:00.45ID:pZDY63Ww
そもそも遺徳というなら武田信玄、上杉謙信の遺徳のなさは酷いものがある。
武田信玄は死後半年もたたずして西上作戦で得た旧徳川家臣が引き離れ、
これを取り戻そうとした勝頼がボコボコに長篠で破られる有様。
最後は2万の兵を率いていたのに1ヶ月後にわずか40騎にまで追い詰められるというザマ。
抵抗らしい抵抗もなく信長をして拍子抜けたと言わんばかりであった。

上杉謙信は死んでからまもなく骨肉の後継者争いで謙信のけの字もないまま身内同士での争い。
せっかく謙信の上洛を待ち望んだ顕如が呆れ返るようなザマで信長を西に専念させるという愚行を犯す。
やがて武田を滅ぼした織田軍と北陸からくる柴田勝家のせいで滅亡秒読み。
信長が死ななければめでたく滅亡となりかけるというザマであった。

447人間七七四年2012/03/02(金) 18:37:04.83ID:U60yyYD4
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ
(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され
森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に
安堵状を発給しまくる始末www
織田信澄を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww





448人間七七四年2012/03/03(土) 02:22:49.51ID:5lB0BvoL
武田信玄:行軍途上で死亡、死後寝返らせた家臣が逆戻り。
上杉謙信:戦争直前に死亡、死後後継者争いでお茶を濁しまくる
織田信長:謀叛で死亡、死後後継者(ry
豊臣秀吉:寿命で死亡、死後家臣達が好き放題暴れて暴走

・・・・一概にどれがいいとは言いづらいな。
家康くらいじゃね?まともに成功したのって

449人間七七四年2012/03/03(土) 11:55:12.89ID:TOe2H3jY
結果論でしかないけど、御館の乱は景勝体制確立のために役立ったと思う

450人間七七四年2012/03/03(土) 14:16:42.29ID:iCWYGOXI
家中真っ二つのお家騒動&周辺諸大名の越後侵攻を招いて役立ったも糞もない。
阿賀北衆なんて御館の乱後も自立性まんまんなのは新発田の乱やそれに次ぐ
鮎川の背意、色部・本庄の新発田討伐に対する消極性などで顕著に現れている

451人間七七四年2012/03/03(土) 17:23:38.34ID:c9xjoOMF
>>442-443
普段の時に倒れたんじゃなくて廁で倒れたって事は、気張って逝っちゃった可能性は高いんだよね?
という事はその日寒くなかったり、もしくはウンコがスムーズに出ててればもうちょっと生きれた可能性もあるのかな?

452人間七七四年2012/03/03(土) 21:36:17.66ID:RymqxTX0
信玄死んで10年後まで責任持てるかよ。
死後、寝返った家臣が離反って、
寝返ったばかりのやつが死んだら離反したからってマイナスになるとかアホか。
それに勝頼が本隊率いて援軍行く行く詐欺やったのが原因だし。
長篠の無謀な敗戦まで
武田は常に圧倒してたし。
謙信死後にしても家臣による乗っ取りが起きたわけじゃないし、
本庄らが新発田攻めを躊躇してたなんて俗説レベルだろ。
単に秀吉が新発田と和睦斡旋しようとしたりと介入してくるから長引いただけだし。
米沢30万石で生き残ったじゃんよ。

453人間七七四年2012/03/03(土) 23:08:10.47ID:5lB0BvoL
織田家がほぼ完全崩壊するのは1600年の関ヶ原による秀信信雄の同時改易まで待たなきゃならんから
信長にしても死後18年後のことなんざ知らんよ。
上杉にしても完全な結果論で状況的には西から織田、南からも織田、東に新発田伊達蘆名で完全に詰み。
武田ともども滅亡一直線だったのを光秀に助けられただけ。

454人間七七四年2012/03/03(土) 23:27:49.54ID:22EC3h05
織田は幼君をないがしろにする専横で、
速攻家臣に乗っ取られたじゃんよw

つうか、越中から親不知を簡単に通過出来るとかゲームみたいに考えてんのかw
南からって森なんて撃退したし、
上野方面から滝川が北上してたなんて捏造だし、
実際、御館の乱の時の北条も冬が来て時間切れになり越後侵攻失敗してるしw
新発田なんて揚北で閉塞してたから脅威でもなんでも無い存在だったし。
まあ織田軍は伊勢長島で退却した時も鬼追撃されて凍死続出だったし、
越後にうまいとこ入れても籠城で粘られ凍死続出だな。
地の利がない越後なんて山岳地帯に入ったら関東管領上杉顕定みたいに討ち死にするだけだ。

455人間七七四年2012/03/03(土) 23:46:38.49ID:5lB0BvoL
大名としての織田家が存在する以上乗っ取られたなんていう理屈にはならん。
それとも上杉家は御館の乱以降秀吉や家康にパシられたから大名として滅亡したと言った方がいいか?

456人間七七四年2012/03/04(日) 00:01:12.21ID:iCWYGOXI
信雄は分家だし
秀信なんて幼すぎて実権なしだから
実質的には崩壊してるも同義

457人間七七四年2012/03/04(日) 11:20:58.58ID:9g6VS971
>>451
ちょくちょく誤解されてるけど倒れていたのは厠じゃないからね
出た後か出る前かは知らんけど
あと、息を引き取ったのもそれからしばらくしてからだし

458人間七七四年2012/03/04(日) 11:48:02.09ID:cagooaJ4
>>457
俺の婆様もトイレで脳出血起こしたんだけど、爺様に末期の言葉を残してから昏睡状態になった、
出血量にもよるんだろうけど、場合によっては踏張って脳出血起こしてもトイレから這い出る時間ぐらいはあると思う。

459人間七七四年2012/03/04(日) 12:32:19.69ID:RwsG7Lq9
>>456
分家だろうが信長一門が残っている以上崩壊したことにはなりません。
徳川幕府は7代目の徳川家継で本家筋が断絶して8代吉宗から御三家の分家が将軍になってるから
徳川家は7代目までで滅亡した崩壊したと言っているのと全く同じ。

460人間七七四年2012/03/04(日) 12:34:07.71ID:RwsG7Lq9
ってよく考えたら上杉景勝も養子じゃねーかw
ID:iCWYGOXIの理屈で言えば謙信が死んだ瞬間に上杉家は滅亡したということになるなw

461人間七七四年2012/03/04(日) 12:50:48.30ID:UcSlsOtY
神戸家と北畠家は織田家じゃないんだから織田家は信長の死で実質終わり

462人間七七四年2012/03/04(日) 13:22:21.12ID:RwsG7Lq9
長尾顕景が継いだんだから上杉家は謙信の代で終わりか
で織田三法師はガン無視か、ついでに言うと信長の息子はまだいっぱいいるんだがw

463人間七七四年2012/03/04(日) 14:35:17.57ID:UcSlsOtY
織田には実権なしなんだから織田滅亡に変わりない
秀信は幼すぎて何の力もない
利用されただけ
神戸家と北畠家は織田家ではない
よって織田は終り

464人間七七四年2012/03/04(日) 15:50:46.18ID:RwsG7Lq9
信長の子でかつ復姓しているので何の問題もない。

それとも武田勝頼は諏訪勝頼と当初に名乗っているから
信玄死後に武田は終わりとでも返した方がいいか?w

皮肉だな、織田をコケにすればするほど武田はそれ以下ということが証明されるんだから

465人間七七四年2012/03/04(日) 16:09:34.00ID:UcSlsOtY
信長は領土拡張率0のカス

466人間七七四年2012/03/04(日) 17:17:31.40ID:RwsG7Lq9
織田信雄
織田信孝
織田長益
織田信包

467人間七七四年2012/03/04(日) 21:16:21.39ID:dXu5j2uL

468人間七七四年2012/03/06(火) 09:26:34.97ID:tIuQZ8yO
>>464
勝頼って信玄生前に武田姓に戻ってるのも知らんとか
どんだけ織田厨って無知だよ・・・

469人間七七四年2012/03/06(火) 13:39:52.61ID:CAoPIaiq
北畠信雄が伊勢に逃げ帰っていた時期に、
神戸信孝を担いで光秀を討ち、
信孝を織田宗家秀信後見人にした後に自害に追い込み後見人を抹殺した秀吉。
秀信と秀吉に歯向かって家康と組んだ信雄はただのオマケに過ぎなかったからなあ…

470人間七七四年2012/03/06(火) 14:11:11.19ID:CAoPIaiq
オマケ信雄は改易して秋田北部へ流罪。
秀信には一切実権なしで飼い殺し。
氏康や信長や家康が今川氏真を保護した時と一緒。

471人間七七四年2012/03/06(火) 19:48:38.12ID:ThIFFc3e
>>468
復姓したからもういいじゃんってか?
あいにくだな、領土乗っ取った信雄はともかく、当主の具盛が生きているから、
神戸信孝は信長生前から「織田三七郎」って呼ばれているんだがw

>>470
そこまで無力化したんだからどうしようもない。
ついでにいうと後見人は未だによくわかっていない。
そもそも秀吉はともかく、丹羽と池田が織田を簒奪しようとする秀吉の肩持つわけないからな。
清洲会議の秀信擁立は秀吉の独断でもなんでもない。秀吉独断説が出てくるのは江戸期の講談。

472人間七七四年2012/03/06(火) 23:10:30.67ID:2K8IRXNy
信孝なんて秀吉に自刃に追い詰められたバカだろ。

473人間七七四年2012/03/07(水) 02:14:18.44ID:e+nMZ5HS
織田姓を名乗る信長子孫がいるかどうかが同義。
信孝が腹切ったときは信雄は既に織田姓に戻ってる。
つまり>>463は妄想

474人間七七四年2012/03/07(水) 12:13:07.49ID:iyQQ9df6
他家に行った者は復姓して初めて元の家の者に戻る
それまでは他家の人間に変わりはない
大体現に信長の死の時点で信雄信孝は織田家当主として織田家臣団に見られていない
皆好き勝手に行動して織田家として機能していないから織田家は信長の死で実質的に終り

475人間七七四年2012/03/07(水) 18:07:15.06ID:e+nMZ5HS
武田征伐で一族ほとんどのたれ死んだ武田じゃあるまいし信長の家督継ぐ資格あった人間なぞいくらでもおるわ
秀信だって後継者指名ない以上分家、つまり信雄信孝信包らと何も変わらない。
つまり織田家は存続している。のたれ死んだ武田は大名に返り咲けないどころか穴山武田を本家にしようと家康が画策する有様
どうしようもないなw

476人間七七四年2012/03/07(水) 18:13:36.97ID:Jq9a6Rn1
資格があるだけで織田家の当主なわけではない
実際本能寺の変時点で秀信が当主として織田家が機能していないという事実が重要
清洲会議で会合での復興その後はまた別物

477人間七七四年2012/03/07(水) 18:16:22.25ID:Jq9a6Rn1
織田には実権なしなんだから織田滅亡に変わりない
秀信は幼すぎて何の力もない
利用されただけ
神戸家と北畠家は織田家ではない
よって織田は終り
信長は領土拡張率0

478人間七七四年2012/03/07(水) 20:24:19.37ID:e+nMZ5HS
>>476
秀信のもとで織田体制に戻ったんだろ?
どこが滅亡してるんだ?wその後織田が衰退したからそう思えるだけ。
実質終わりとか言葉濁さなくていいよ。
実質どころか本当に終わっちまった武田に失礼

479人間七七四年2012/03/07(水) 21:05:53.01ID:Jq9a6Rn1
信長が死んだ時点では0だから信長が織田家を崩壊させた事実には変わりはない
秀信が領土与えられるのは後年なんだから。
それすら結局関が原後ミジンコみたいになってしまったから旗本として残った武田とどちらがマシかなんて
目糞鼻糞を比べるみたいなもん。

480人間七七四年2012/03/07(水) 21:11:19.24ID:e+nMZ5HS
信長が本能寺で死ぬ1582年から秀信が領地貰う1591年92年の10年間の間に織田家がなければそうなるね。
織田信雄や織田信孝、織田信包はどこへいったのかな?ついでにいうと織田秀信に領土を与えられたのはこれが初めてじゃあないよ。
清洲会議で小さいながら1万石貰っている。まあこの時は信雄信孝が主流だったから仕方ないね

481人間七七四年2012/03/07(水) 21:35:07.96ID:Jq9a6Rn1
信雄や信孝は神戸や北畠であって織田家ではない。
現に本能寺後織田家は信雄信孝信包を当主として機能していない
家臣団は皆織田など関係なく好き勝手に行動している
実質的に織田家は崩壊しているといっていい

482人間七七四年2012/03/07(水) 22:48:05.96ID:e+nMZ5HS
それが清洲会議であっさりまとまった
よって織田家は当主権力が衰退しながらもなんとか戻りました
終了

483人間七七四年2012/03/07(水) 23:21:41.25ID:S+/F9F6N
よくわからんから、
信孝と信雄が織田姓に戻った証拠となる一次史料を日付を明示して書いてくれ。

484人間七七四年2012/03/08(木) 01:27:13.02ID:80VOA52E
よくわからんけど
なんで立派に成人している織田上野介は無視するの?w本能寺で死んだ?違うよねw
織田家の中じゃお馬揃えから見ても信孝より格上の扱いなのw子供じゃないから継げないとか言わんでくれよw

485人間七七四年2012/03/08(木) 01:30:21.45ID:80VOA52E
そもそも信雄も信孝も当主じゃねーのになんで織田姓の必要があるんだよw
神戸家と北畠家だから無理?なんのために丹羽や蜂屋や滝川みたいな連中つけられてると思ってるんだw
形式上なんてどうでもいいの、史実見てみろよ、織田一門ですらない秀吉がしきっちゃってるじゃんw

486人間七七四年2012/03/08(木) 14:23:19.86ID:W4/yfasU
>>483
俺もそれ知りたい。

487人間七七四年2012/03/10(土) 11:36:18.97ID:ZHp1AGGD
>>483
逃げたみたいね。

488人間七七四年2012/03/10(土) 12:25:02.70ID:zTyv9xMh
ソースがついてないみたいだが、信雄が復姓したのは賤ヶ岳の後
つか復姓以前に織田信包や織田長益がいるから誰も継がなきゃ信包か長益が
後継者になっておわり

489人間七七四年2012/03/17(土) 11:45:05.14ID:m9dkG3Ap
また織田チョンの大ウソ詐欺かよ…

490人間七七四年2012/03/17(土) 13:04:27.19ID:GWxNmzWX
ぐむむ・・・

491人間七七四年2012/03/17(土) 14:43:25.05ID:LqTkClFB
他家の人間になった者が本家を継いだ場合は
他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が
縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく
信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw




492人間七七四年2012/03/18(日) 14:00:58.63ID:dn78M9Bn
多分誰も読んでないね(;´д`)↑

493人間七七四年2012/03/18(日) 17:42:52.62ID:dn78M9Bn
多分誰も読んでないね(;´д`)↑

494人間七七四年2012/03/18(日) 18:07:38.31ID:SNUJsJET
上杉に大敗したのか兵力の立て直しに時間がかかり過ぎている。
手取川の後、京防衛だった最後の無傷戦力たる明智軍団を投入して松永相手に明知軍まで大損害を出したのちも
丹波の明智・播磨の秀吉三河の徳川・越前の柴田・和泉の筒井・摂津の佐久間 これらの戦域で増援が必要だったのに全然
信長は増援派兵できない。彼ら自身も戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げてないね。丹羽・滝川・稲葉らを遊ばせていたのか?
上杉相手に殿を勤めて大損害&負傷で動けなかったのだろう。光秀が幸運なのは謙信に続いて丹波の赤井直正が死去したこと。
越山すると言ってしない時が何度となくあるし数週間だけ北関東に来てからさっさと越中出馬に出向くなんてしょっちゅうやってる。
越相同盟の時も北関東への謙信の出馬は北条との対立には該当してない。
歴代古案の謙信の書状と北徴遺文がある。詳細は謙信の書状に詳しく書いてある
史料が少ないだけで否定するなら、戦国時代のほとんどの合戦が非実在戦争になるぞw
厳島合戦や河越合戦はなかったのか。一次史料による否定ができない限り、いくら粘着して適当にケチをつけても無駄
その前後に明らかに勢力図が変わってるし、織田はわざわざ本願寺攻め総責任者の佐久間まで引っ張り出してまで、
越前防衛に必死。謙信が死んだ情報が入って始めて織田軍の播磨への援軍が実行されてるように、手取川ののちも信長は謙信を恐れて
警戒してるのが現実。信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句。第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい。
織田軍はその後、戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げられないんだ?佐久間信盛が追放された時に信長は柴田も功績を
全然挙げられず「越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した」と書いている。
天正8年春にやっと加賀へ侵攻してるほど動きが鈍いのはなぜ?謙信は天正6年3月に死んでる。
あまりに柴田率いる北陸軍の損害が大きすぎて加賀にすら満足に侵攻できない状態なのが露呈してるんだけど。
柴田が秀吉や光秀どころか小身の池田恒興までがはなはだしい武功を挙げているので
武功がない柴田が焦って加賀を制圧したと信長は佐久間への糾弾で言っている。つまり、本願寺との和睦成立で加賀へ侵攻できたのではなく
秀吉や光秀らと違い手取川での敗戦で損害の大きい柴田軍が焦っていたのであって
そこに本願寺との抗争で加賀侵攻ができなかったとする言い訳は信長のこの発言により成立しないのである。
もしこれ以上の加賀への侵攻に遅れが生じていたなら佐久間同様に柴田も改易されていたのは明白で
そこに本願寺が〜と言う言い訳が成立しないのは明らか。
もっとも一向宗というより、すで家臣に組み込まれているので上杉軍ではあるが。
滝川・稲葉らが重症を負ったようで当分の間、登場しなくなる。しかも各地で苦戦する織田軍は
まったく援軍が派遣できないまま各戦線で劣勢。公記筆者の太田は北陸情報に疎いので柴田に関する記述もほとんどない
前線からの捏造報告を鵜呑みにしてる記述している。秀吉は公記ではそのこともあるから秀吉は中国戦線で昼夜を問わず駆け回って
働いたと書いてる。もっとも太田は太閤秀吉が手取川の大敗に参加してないと捏造記述した可能性はあるが。それは大かうさまくんきのうちでの
秀吉マンセーぶりからすればありうる。そのためか公記では秀吉が毛利に敗れた記述も隠蔽している。
>>一向衆側が何の記録も残してないのは何でだ?
義元は殺したとされるほどの桶狭間の戦いを証明できる書状がないのは何でなの?
だからって桶狭間の戦いは実在しなかったよねとは言わないよな?天災や戦災などで書状なんて消失してしまったのも多いのに
一向宗側に残ってないからおかしいなんて暴論すぎ。しかも歴代古案に証拠があるにも関わらず。
それにメディアが発達し民衆の知識も戦国とは比べものにならない近代の
大東亜戦争においては数々の敗戦を完璧に隠蔽してたぞ。もっと言うとアメリカに知らされないように大地震すら隠蔽された。
1943年9月10日鳥取地震・1944年12月7日東南海地震・1945年1月13日三河地震
まぁアメリカにはバレてたがな・・・それどころか台湾沖航空戦という勝ち戦がデッチ挙げられたりしたし。
だから大きな大敗や災害ほど周辺国への影響を考えて隠蔽されるのが普通だ。

495人間七七四年2012/03/18(日) 18:36:57.87ID:dn78M9Bn
目がチカチカする(;´д`)↑

496人間七七四年2012/03/23(金) 19:37:55.12ID:gLjg7KSH
上杉は越後と越中東部の一部しか支配していない。
加賀=本願寺領土。
能登=畠山氏の領土
越中=神保氏と一向一揆でほぼ全域を支配。魚津城以東の椎名氏の領土を上杉が接収しただけ。

つまり、加賀、能登、越中は上杉の領土=デタラメ。
上杉家譜(謙信軍記、歴代古案)は偽書。。。。。。。。
また、上野も武田領土で、上杉ではない。織田軍が武田攻略の際に、上野も支配して、滝川一益を置いている。
上杉の大領土は、存在しない。
北陸での、所領安堵の朱印状が発給されている事実もなく、北陸上杉領はインチキ。。。。。。。。。。
そして、手取川の戦いは、架空であり、信長公記に載っていないし、謙信が北陸へ出兵した事実は、ない。。。。。。。
加賀、能登、越中を攻略したのは織田軍で、信長公記には、どこにも上杉軍は出てこない。

497人間七七四年2012/03/23(金) 20:52:21.81ID:gLjg7KSH
上杉の捏造酷すぎ。。。。。。。。キチガイだな。

498人間七七四年2012/03/23(金) 20:59:28.79ID:gLjg7KSH
史実の勝者は英傑の信長&伊達>>>>>ガチホモ上杉捏造史観

499人間七七四年2012/03/23(金) 21:00:03.86ID:gLjg7KSH
謙信と直江と景勝と景虎はホモ
上杉家は家臣もホモばかり

500人間七七四年2012/03/23(金) 21:08:08.63ID:3hhqsxSU
上野衆は御館の乱で景虎側についた時に失っただけ。
織田厨必死すぎw

501人間七七四年2012/03/23(金) 21:43:05.93ID:gLjg7KSH
>>500 ソースくれ。

502人間七七四年2012/03/23(金) 21:49:32.81ID:EC9p7h35
サブちゃんよ、謙信貶めても信長最高ってなことにはならんのよ。
謙信に貢物を贈り信玄亡き後の武田を屠る、
こういう信長の戦略眼が優れてるってことを自ら貶めることになるんだがな、
謙信や信玄を貶めるっつうことの結果としてはな。
あとな、
史実の勝者は家康だろ。伊達とか土下座乞食を持ち上げてなんのつもりだよ?
あとウルトラ捏造大名は後北条だ。

503人間七七四年2012/03/23(金) 21:53:28.07ID:gLjg7KSH
鮭厨=サブ

504人間七七四年2012/03/23(金) 21:54:58.01ID:gLjg7KSH
ソースを教えていただけませんか?

505人間七七四年2012/03/23(金) 22:01:50.85ID:gLjg7KSH
上杉厨のバァカが忠実を捏造している。。。。。。。

506人間七七四年2012/03/23(金) 22:15:19.25ID:PM26fWgh
あんだけの織田オールスター武将で加賀に出兵してるのに信長がいないなんて誰が指揮統御できんのよW
柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのか?信長が現地の柴田(8/8には手取川へ柴田は渡河済み)に防衛を命じてあるから
お前も相談して防衛してくれ。もし防衛できそうにない状況なら織田軍を動員することになる。決して見放さないと
上杉から離反した水越左馬助に信長が伝えてる書状だ。しかし結局、9/15には七尾城が落城してしまい
上記の情勢は明らかに現地の柴田や水越では防衛できない状況になっており水越に約束したように信長が織田本軍を率いて
秀吉・丹羽らと共にやってきて大敗。9/23には上杉軍が加賀国湊川まで追撃を兼ねて南下。9/27には逃げ帰った信長が美作
の江見為久へ秀吉を派遣する旨を伝える。信長が留守中の政治は二条城築城など村井貞勝が準備執行をやってるのがわかる。
信長が京か安土城にいた一次史料はない。信長がいなかったから松永親子の謀反が現実化してしまい
やっと9月29日になってから松永への対処を信長はやっているが明らかに手を打った時期は遅きに逸してる。
明らかに信長は北陸から逃げ戻ってきてる証拠。 8月17日には久秀が石山本願寺包囲から大和へ離脱して
本願寺包囲に大和衆が抜けた穴が空いてしまったのに松永討伐が出来ないまま放置は
上杉軍への対処に信長が出撃したからだろね。ちなみに謙信の能登加賀攻略に呼応して勝頼も遠江で徳川と対陣してんだよね。
謙信の越後撤退を知ったのか10月20日に武田軍も撤退。結局、大兵力を上杉への対処に充てた織田軍による援軍派遣徳川には無かった。
徳川はその後すぐに浜松城の譜請を大動員してやってる。徳川にとってもいまだ武田軍はかなりの脅威だから浜松城のさらなる
防御力向上を図ったんだろう。松永攻略は北陸に行ってない明智光秀、細川、筒井が大和へ先発し後詰めで信忠がやって来てるのがわかる。
松永すら対処できずに放置なのにさらに遠方の石山本願寺や紀州に信長がいるわけない
ちなみに閏7月13日に信長は安土下向してるし本願寺方面には松永離脱と同日に
信長が和泉に着陣した筒井と佐久間が話し合って協力するように伝えてるから信長が京や
石山本願寺にいて指揮をとっているとは思えないし手取川の前後の京には光秀が入っている。
また北陸には秀吉、丹羽、滝川、稲葉らが行ったとされるが、大敗した為に滝川や稲葉の戦後の動きは不明だし
柴田も消極的だし、秀吉も中国へ赴任した際はかなり貧弱な兵力だった為に播磨で苦戦続き。
明らかに織田軍の動きが鈍い。1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として
北陸へ松田監物を派遣してるところから佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけない
ほど追い詰められていた。本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には
細川の増援が決まったな。3月27日には 黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して状況によっては信長自身の出馬があると言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを指摘してる。結局、謙信死んだのが確定した為か戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され代わりに信忠が派兵されることになる。
松永の 片岡城攻略で明智軍に「大勢損」が出たのに苦戦してないとかあり得ないわけだが。
それに当時の謙信と勝頼は義昭主導の甲越相一和が成立してたから上野や信濃で緊張なんて無かった。
しかも北条からも謙信が上洛するなら北条の援軍も派遣したいと申し出てるしな。
柴田や佐久間は織田家の宿老ではあっても秀吉、丹羽、滝川、稲葉ら信長直臣に命令する立場にない。
彼らを命令できるのは信長だけ(そもそも柴田は目付けの前田や佐々らに監視されている)
また柴田軍はかなり被害をこうむったから本願寺攻め総指揮官の佐久間がやってきて専守防衛してたんだろう。
稲葉や滝川の活動も見えなくなり彼らは負傷していたのではないか?また織田軍全体でも天正5年末から
天正7年まで活動が鈍りまくっている。

507人間七七四年2012/03/23(金) 22:21:50.20ID:PM26fWgh
上杉に大敗したのか兵力の立て直しに時間がかかり過ぎている。
手取川の後、京防衛だった最後の無傷戦力たる明智軍団を投入して松永相手に明知軍まで大損害を出したのちも
丹波の明智・播磨の秀吉三河の徳川・越前の柴田・和泉の筒井・摂津の佐久間 これらの戦域で増援が必要だったのに全然
信長は増援派兵できない。彼ら自身も戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げてないね。丹羽・滝川・稲葉らを遊ばせていたのか?
上杉相手に殿を勤めて大損害&負傷で動けなかったのだろう。光秀が幸運なのは謙信に続いて丹波の赤井直正が死去したこと。
越山すると言ってしない時が何度となくあるし数週間だけ北関東に来てからさっさと越中出馬に出向くなんてしょっちゅうやってる。
越相同盟の時も北関東への謙信の出馬は北条との対立には該当してない。
歴代古案の謙信の書状と北徴遺文がある。詳細は謙信の書状に詳しく書いてある
史料が少ないだけで否定するなら、戦国時代のほとんどの合戦が非実在戦争になるぞw
厳島合戦や河越合戦はなかったのか。一次史料による否定ができない限り、いくら粘着して適当にケチをつけても無駄
その前後に明らかに勢力図が変わってるし、織田はわざわざ本願寺攻め総責任者の佐久間まで引っ張り出してまで、
越前防衛に必死。謙信が死んだ情報が入って始めて織田軍の播磨への援軍が実行されてるように、手取川ののちも信長は謙信を恐れて
警戒してるのが現実。信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句。第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい。
織田軍はその後、戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げられないんだ?佐久間信盛が追放された時に信長は柴田も功績を
全然挙げられず「越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した」と書いている。
天正8年春にやっと加賀へ侵攻してるほど動きが鈍いのはなぜ?謙信は天正6年3月に死んでる。
あまりに柴田率いる北陸軍の損害が大きすぎて加賀にすら満足に侵攻できない状態なのが露呈してるんだけど。
柴田が秀吉や光秀どころか小身の池田恒興までがはなはだしい武功を挙げているので
武功がない柴田が焦って加賀を制圧したと信長は佐久間への糾弾で言っている。つまり、本願寺との和睦成立で加賀へ侵攻できたのではなく
秀吉や光秀らと違い手取川での敗戦で損害の大きい柴田軍が焦っていたのであって
そこに本願寺との抗争で加賀侵攻ができなかったとする言い訳は信長のこの発言により成立しないのである。
もしこれ以上の加賀への侵攻に遅れが生じていたなら佐久間同様に柴田も改易されていたのは明白で
そこに本願寺が〜と言う言い訳が成立しないのは明らか。
もっとも一向宗というより、すで家臣に組み込まれているので上杉軍ではあるが。
滝川・稲葉らが重症を負ったようで当分の間、登場しなくなる。しかも各地で苦戦する織田軍は
まったく援軍が派遣できないまま各戦線で劣勢。公記筆者の太田は北陸情報に疎いので柴田に関する記述もほとんどない
前線からの捏造報告を鵜呑みにしてる記述している。秀吉は公記ではそのこともあるから秀吉は中国戦線で昼夜を問わず駆け回って
働いたと書いてる。もっとも太田は太閤秀吉が手取川の大敗に参加してないと捏造記述した可能性はあるが。それは大かうさまくんきのうちでの
秀吉マンセーぶりからすればありうる。そのためか公記では秀吉が毛利に敗れた記述も隠蔽している。
>>一向衆側が何の記録も残してないのは何でだ?
義元は殺したとされるほどの桶狭間の戦いを証明できる書状がないのは何でなの?
だからって桶狭間の戦いは実在しなかったよねとは言わないよな?天災や戦災などで書状なんて消失してしまったのも多いのに
一向宗側に残ってないからおかしいなんて暴論すぎ。しかも歴代古案に証拠があるにも関わらず。
それにメディアが発達し民衆の知識も戦国とは比べものにならない近代の
大東亜戦争においては数々の敗戦を完璧に隠蔽してたぞ。もっと言うとアメリカに知らされないように大地震すら隠蔽された。
1943年9月10日鳥取地震・1944年12月7日東南海地震・1945年1月13日三河地震
まぁアメリカにはバレてたがな・・・それどころか台湾沖航空戦という勝ち戦がデッチ挙げられたりしたし。
だから大きな大敗や災害ほど周辺国への影響を考えて隠蔽されるのが普通だ。

508人間七七四年2012/03/23(金) 22:45:00.91ID:3hhqsxSU
>>504
ソース

「御館の乱」

終わり

509人間七七四年2012/03/24(土) 01:21:45.68ID:ckPCWmhp
家忠日記に天正6年6月末から7月下旬まで行われた播磨神吉城攻めの布陣に滝川も稲葉も丹羽もいるのに
これをガン無視してありもしない手取川に虚飾を加えるアスペルガーだが

510人間七七四年2012/03/24(土) 02:51:50.60ID:jP+oRgJJ
*上杉に会うては織田も手取川
跳ねる謙信 逃げる信長

@当時流行った狂歌

511人間七七四年2012/03/24(土) 05:22:31.48ID:ckPCWmhp
狂歌なんて2ちゃんねるのレス以上にアテにならんぞ
あんなもの言ったもの勝ちだし匿名性だから言いたい放題

手取川は唯一歴代古案に残る謙信書状のみがその現状を伝えているが
これを引用すると

当陣之模様無心元候間、内々以飛脚可申候処、此表仕置執紛令延引候、
如啓先書ニ、当月十五、遊佐美濃守守年来以奏者之好令忠信、彼之讒輪ヘ
当手可引入由申候間、何蕨も不入愚入乗移、一日も不抱候、七尾城主ニ候
長対馬一類一族百余人討捕、実城乗取、其外温井備中・三宅備後・内藤王・
平以下身命計相扶、七尾存分之尽ニ入事ニ、同十七、号末森与地モ入手ニ、
是者 賀・能之間之地ニ候間、源五殿、斎藤龍置、当国一変ニ申付候処ニ、
是を信長一向ニ不知、十八、賀州湊川迄取越、数万騎陣取候所ニ、両越・能之諸軍勢
為先勢差遣、謙信事も直馬候処ニ、信長、謙信後詰迄聞届候哉、当月二十三夜中ニ令敗北候処ニ、
乗押付、千余人討捕、残者共悉河ヘ追籠候ケル、折節洪水張故、無瀬、人馬不残押流候(以下略)

とあり、要約すると

・上杉謙信は17日まで加賀能登国境付近にまで軍事行動をしていた
・織田信長はそれを知らず18日に川を渡り23日に謙信の動きを知り撤退
・撤退途中に上杉方の追撃を受けて千人くらい討ち取られた

ということになる。いずれにせよ正攻法でボコって上杉の大勝というのは史料にすらないデマであることがわかる。

またこれを鵜呑みにした場合

・圧倒的に織田信長をボコった謙信が織田が進軍してきた加賀南部への侵攻、織田軍の追撃を行わなかったこと
・国力差を考えるとどう見ても織田方の方が軍が多いということ(信長がいるなら猶更)
・にも関わらず信長は謙信を見るや否や兵の優勢を無視して即敗走を決め込んだこと

の矛盾点が挙げられる

512人間七七四年2012/03/24(土) 05:39:32.34ID:ckPCWmhp
また手取川の謎はこれだけではない。織田軍の動向、史料の信憑性にも大いに疑問が残る。

そもそも織田軍が手取川含む加賀方面に進軍した理由は、能登畠山家臣の長連龍による救援要請によるもので、
いわば他人の領土を織田軍が守るために救援するのであるが、こんな戦いに信長自ら国元を空っぽにしてまでいくのはかなり怪しい。

徳川氏の長篠の戦いこそ自らが出張ったものの、能登畠山氏は風前のともし火で、謙信による七尾攻囲も既に複数回行われている状態であった。
つまり謙信書状と照らし合わせると、縁もゆかりもない、昵懇でもない他大名のために信長は自ら大軍を率いて国を空にして、かつそそくさと撤退したことになる。


また歴代古案の史料そのものに齟齬があり、具体的には

・九月十九日付の書状にもかかわらず、九月二十三日までの動向を書状に記している点
・宛先人の長尾和泉守という人物が同時代に見当たらない点

なども挙げられ、いずれにせよかなり捏造、誇張度が高い戦いであったと言えるだろう。
http://books.google.co.jp/books?id=osixy2rI3ccC&pg=RA1-PA17&lpg=RA1-PA17&dq=%E9%95%B7%E5%B0%BE%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%AE%88&source=bl&ots=WM3J3RA0Ze&sig=
zpIL4yTb7RM8baDIwRo7NaAi4Jo&hl=ja&ei=JFtsTsLSCYPbmAXLhdgf&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=3&ved=0CCYQ6AEwAg#v=onepage&q=%E9%95%B7%E5%B0%BE%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%AE%88&f=false


513人間七七四年2012/03/24(土) 08:10:07.19ID:d2EMCK/p
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/14.132.94.41
中部テレコミュニケーション株式会社

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/180.197.206.75
中部テレコミュニケーション株式会社

※Sabkakusikakuがブロック破りでまた荒らし始めてるから注意が必要。
拡散希望

514人間七七四年2012/03/24(土) 13:18:35.03ID:91NCAe0C
>>512
長尾和泉守は栖吉衆にいるから、これは否定しなくてもよいのでは?

515人間七七四年2012/03/24(土) 14:47:44.91ID:ckPCWmhp
その注意書きが確か歴代古案にしかなかったはず

516人間七七四年2012/03/24(土) 15:31:25.48ID:JjBZX7Z1
歴代古案が捏造文書=織田厨の妄想
花押がおされてる書状が捏造というならソースつきでどうぞ

517人間七七四年2012/03/24(土) 15:57:34.94ID:tM9Oxnpe
>>516 

信長公記からの丸ごと転載と思われる、信長が、武勇天下第一という 足利義昭の言葉も載ってる。
阿部氏によると、歴代古案は、元禄以降に作成されたもの だという。
歴代古案のに、原文織田信玄、なる記述があり、それを、信長と、朱書きして、
改ざんしているようです。

織田信玄って誰だよ?

518人間七七四年2012/03/24(土) 16:07:05.62ID:JjBZX7Z1
阿部さんはどの論文でそれを主張しているの?
あと織田信玄という記述が他の記述までも同じように改ざんであるといえる根拠は何?

519人間七七四年2012/03/24(土) 16:08:17.39ID:JjBZX7Z1
あと信長公記からの転載だとしたらなぜ信長公記に載ってない手取川の記述が???

520人間七七四年2012/03/24(土) 17:43:30.75ID:ckPCWmhp
つか捏造扱いされる根拠は九月十九日付の書状なのに九月二十三日までのことを記しているからだろ。
書状を送った5日後の内容を書状に盛り込むのは捏造かあるいは後から書いたものかどちらか。

花押がついているから本人のものって言うのはかなり乱暴な決めつけ。
実際六角義治と六角義堯は花押が似ているけど別人説がある。
仮にこの書状を後世に捏造した人間が上杉家に近しい存在だったら、謙信書状から謙信の花押を真似るくらい造作もないことだろうな。

521人間七七四年2012/03/24(土) 18:02:33.32ID:qNWenrEx
>>520
ここで同一人物説のある六角義治と六角義堯を例とするのは適切ではないのでは?

522人間七七四年2012/03/24(土) 18:04:09.28ID:tM9Oxnpe
上杉謙信も上杉家臣も上杉厨もホモ。

523人間七七四年2012/03/24(土) 18:39:44.56ID:ckPCWmhp
>>521
花押が不確かなものだというのはそれだけで十分だと思うけど。
特に同族や親類は似通ることも多いし

524人間七七四年2012/03/24(土) 18:46:32.95ID:k4YfO5W+
たとえ撤退中の奇襲でもプロの軍人である織田軍を農民兵の上杉軍が圧倒するというのは
ありえない話だわ。

525人間七七四年2012/03/24(土) 19:52:31.26ID:tM9Oxnpe
前田慶次は、上杉の捏造、架空の人物です。
信長公記に記載ナシ。山本勘助と同じ可能性。

526人間七七四年2012/03/24(土) 21:17:06.69ID:Y4DhK+14
>>524
全く逆だろ。
身元不明の都会アルバイトの集まりである織田軍。

かたや村社会制度の見えない規律により完全に統率された
旧日本軍並みの狂信者集団である上杉軍。

これが当時の兵農一体集団の実態。

527人間七七四年2012/03/24(土) 21:29:03.80ID:k4YfO5W+
>>526
じゃ、都会アルバイト集団が上杉軍と互角の戦いをした武田軍を簡単に殲滅したのか?

528人間七七四年2012/03/24(土) 21:30:36.98ID:JjBZX7Z1
>>520
なぜ後から捏造した人間が、明らかに捏造がバレるようなやり方で捏造したの?
あと阿部さんの論文を紹介してくれ。

529人間七七四年2012/03/24(土) 21:34:59.37ID:Y4DhK+14
>>527
互角?簡単に殲滅?いつ?
全然意味が分からない。もう少し具体的に頼む。

530人間七七四年2012/03/24(土) 21:46:29.20ID:JjBZX7Z1
武田対織田の結果

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり

531人間七七四年2012/03/24(土) 23:35:09.04ID:Y4DhK+14
その武田を終始圧倒していたのが上杉謙信だな。

532人間七七四年2012/03/25(日) 00:25:59.87ID:+Jrf5OMi
歌や講談など有名無実なところばかりに残る武田
負け惜しみだけは天下一である。

挙句長篠以外はほとんど信長が関与せず終わっているのに
なんでも信長のせいにする朝鮮人並みの責任転嫁

533人間七七四年2012/03/25(日) 00:27:42.40ID:azxi54O/
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最終勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
北条早雲     1460 0 万石   25万石      ∞ 
3徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
4最上義光    1533年     1万石  54万石      54倍  
5津軽為信    1540年    0,7万石  24万石     34倍
6葦名盛氏    1532年?     2万石    60万石      30倍
7伊達政宗    1585年     15万石    180万石     13倍
8武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
9上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
10毛利元就    1526  10万石    60万石     6倍 
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長 30万石    0           0倍



ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長

534人間七七四年2012/03/25(日) 00:29:04.62ID:+Jrf5OMi
苦しくなるとコピペしかできなくなるとは地に落ちたなだがw

535人間七七四年2012/03/25(日) 09:12:20.90ID:azxi54O/
S 伊達政宗
A 織田信長 徳川家康 三好長慶
B 葦名盛氏 豊臣秀吉 北条早雲 毛利元就 島津義久
C 上杉謙信 大友宗麟 今川義元 本多忠勝 柴田勝家 斉藤道三 明智光秀

536人間七七四年2012/03/25(日) 09:37:05.64ID:v7x5dVCu
>>534
長文で毎回虐殺されてる連呼リアン乙

537人間七七四年2012/03/25(日) 09:53:22.32ID:mzSSgUx1
上杉謙信が最強じゃあ!手取り川で織田を粉砕して
室町幕府再興も夢じゃなかったのに。残念だ。

538人間七七四年2012/03/25(日) 10:18:48.90ID:boSddDYB
>>511
>>上杉謙信は17日まで加賀能登国境付近にまで軍事行動をしていた
・織田信長はそれを知らず18日に川を渡り23日に謙信の動きを知り撤退

天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗したのだろう。
公記の加賀出兵記述は、
目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述。
尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。

>>512
>>いわば他人の領土を織田軍が守るために救援するのであるが、
こんな戦いに信長自ら国元を空っぽにしてまでいくのはかなり怪しい。

越前一揆を撲滅するために柴田らはとっくに加賀への進出をすでに行っている。
そのため、もし能登が一向宗と同盟している上杉の手中に落ちたら
織田の加賀領国が危険に晒される。越中が上杉領化した今、能登まで上杉化することは
越前・加賀の織田領国の不安定化につながる。言わば日本を守るためには朝鮮を
朝鮮を守るために満州を!と言う軍事防衛思想に他ならない。
親織田勢力を見捨てることは大規模離反につながりかねないのは、
高天神城落城における信長が家康への指示において、武田が見殺しにしたと思わせるために
降伏を許さないで、皆殺しにせよと命じていることでもわかる。
もっとも高天神城側は降伏するつもりで、
勝頼には援軍はいらないと書状を出していたから救援は最初から来ないわけだが。

>>九月二十三日までの動向を書状に記している点

日付の誤記はよくあることで、珍しくないし、途中まで書いていて、その後に戦況変化などで
書状の記入をストップして出さずにいて、後から付け足して戦況報告しているケースもある。

539人間七七四年2012/03/25(日) 10:19:06.59ID:boSddDYB
>>長尾和泉守という人物

この時に上野国の深澤で守備していた傅兵衛の祖父へ謙信が送った書状だろ。

>>517
>>歴代古案は、元禄以降に作成されたもの
藩士などに書状提出を求め収集し編纂事業が行われたのが元禄期であり、
それは大半の藩に言えること。
なぜなら幕府が史書編纂のために各藩に史料提出を求めたのが発端だから。

>>原文織田信玄、なる記述があり、それを、信長と、朱書

「是を信長一向ニ不知」と書いていて、その後に「信玄、謙信後詰迄聞届候哉」と書いて
あるところで玄では無く「長」と訂正朱書されてるだけ。
ふつうの良識で読んでいけば、最初に信長と書いてあるんだから、信玄を誤記だとわかる話。
そもそも「織田信玄」なんて朱書で書いてはいない。

>>520
>>花押がついているから本人のものって言うのはかなり乱暴な決めつけ
あんた死んだほうがいいよマジで。

>>実際六角義治と六角義堯は花押が似ているけど別人説がある
そんな妄言を吐いてるのはロクに原文の字の判別すらできない愚かな信長公記狂信者だけだw

義治の書状での署名で以前まで義治の下に花押していたのが
天正3年までに「治」や「右(右衛門)」の下に花押を書く変更をしており
義堯はそのまま変わらず義堯の下に花押してる。
しかも明らかに「治」ではなく「堯」と書いて花押し続けてる。
義堯が江州殿の後継に成長したために義治が変更している証拠で
しかも義治の花押も弧を描かなくなっている。
河田文書(上杉)や吉川文書(毛利)で義堯は
また別な花押が使用されてるし(書止めが跳ねたり跳ねなかったり)
そもそも承禎から山中文書において
池田景雄(六角重臣で信長に仕えていた江州衆)が義堯の使者として
承禎の元へやってきて父子相談したと書いてある。
三河方面のことや三好甚五郎ら四国衆渡海、義堯挙兵を義昭が期待してること
なども書いてある。
このことから義堯が承禎親子と反対に信長方に付いていたのも明らかで
信長と上洛戦を主導した江州殿の後継者であることもわかる。
お湯殿の上の日記における亀千代(義堯)が1552年11/27に髪置をしているが
公家式では2歳で行われるため元亀3年で22歳(義治は亀松丸と呼ばれたから別人)
坂内文書においては承禎はまだまだ若輩の義堯を大本所(天正4年)と呼んでおり
義治は承禎を御屋形(永禄9年)や大御屋形(元亀元年)などと呼んでおり序列も判明する。
謙信宛の書状でも承禎は謹上と書いて宛名を書いており厚礼だが、義堯の謙信宛には上所がない。

540人間七七四年2012/03/25(日) 10:21:59.39ID:boSddDYB
>>538の訂正
11/3は現在の日付に修正したもの
当時は9/23

541人間七七四年2012/03/25(日) 10:28:02.99ID:boSddDYB
>>実際六角義治と六角義堯は花押が似ているけど別人説がある
そんな妄言を吐いてるのはロクに原文の字の判別すらできない愚かな信長公記狂信者だけだw

あぁごめん。>>521と間違えた・・・
>>ここで同一人物説のある六角義治と六角義堯を例とするのは適切ではないのでは?

同一人物説なんてデッチ上げ。公記に出てこない人物だから義堯なんて存在しないって言う思考停止脳が織田狂信者



542人間七七四年2012/03/25(日) 10:47:54.30ID:boSddDYB
>>524
>>プロの軍人である織田軍
ソースよろしく。

兵農分離の先駆けは天正13年卯月22日付けの秀吉朱印状が嚆矢。
紀州の雑賀・根来を討ったときに刀狩りを命じていて
その際に頭領の者を選んで皆殺し、平百姓は許すと書いていて
明確に兵と農を区別して国人指導層を殺し、武器を没収して完全な農民にしている。

信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある
(生産力・経済の概念は遠征補給兵站思想と、重商主義的な朝鮮出兵ビジョンが視野にあるから)
そのため島津に対して豊後の民を返還しろと命じたり、
宣教師に奴隷売買すんなや!と激怒し、宣教師が苦し紛れに
日本人が売るからポルトガル人が買うだけで私たちは苦しく思ってたと釈明していたり
キリシタン禁止理由として「本願寺一向宗のように国を奪い戦を起こすようにする企みがあり
しかも本願寺は百姓を惑わしたが、キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
秀吉の諸政策は、織田狂信者のエセ作家によればすべて信長の脳内にすでにあったと捏造してるのが笑えるw

543人間七七四年2012/03/25(日) 11:18:40.25ID:wa/QZ/X5
伊達厨のバァカは根拠のないコピペをするようになったな。
キチガイだな。。。。。。。。。。。。。

544人間七七四年2012/03/25(日) 11:24:08.03ID:boSddDYB
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
一次史料をみる限り石山本願寺が降伏する以前の織田軍兵力は1万〜3万しか動員出来てない。
織田軍が攻めこんだ先は摂津や河内・大和など一国亡国と記述されるなど、
軍が略奪による現地調達方式なので多方面に敵を作るデメリット付き兵力分散して軍を養う必要性から大軍集中が無理。
しかもそこを領国にしても荒れ果ててる。
よって国力の単純比較は成立しない。

信長の軍事政策にはまるで評価されるところがない。
常備軍や兵農分離なんてデタラメであるばかりか
そもそも基本である法度に従って寄子を取り締ることもしてないし
貫高に応じて負担する軍役の内容を細かく指示したこともない。
それをやったと思われるのは最末期の光秀だけである。

さらに秀吉は太閤検地と身分法令において人口戸籍まで作らせて言わば国政調査をしている。
例えば伊達が朝鮮出兵で飛ばされている間を狙って石田豊前守にやらさせたりしてる。
また朝鮮出兵は看羊録によれば国内で変事を起こさせないように
兵を消耗させる意図があったとする。
また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。

そもそも信長は分国法すら作る知識も能力も無かった。
ちなみに天文16年の甲州法度の最後の条文が、
史学において誉れ高いんだよね。
晴信が法を犯したら、
貴賎の身分を問わず目安に申し立てよ。
晴信が法治国家の魂をちゃんと理解していたのがわかる。

また甲州の治水技術は関東開発に役に立ったが織田は治水をやらないために後世に残る織田治水などは一切残らなかった。
秀吉が治水をしているのも田畑開発、水害防止、大坂から京への海上経済通商政策を理解しているから。

興福寺(永禄8年・永禄10年)や浅井氏(永禄9年)の撰銭令の猿真似をした
織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、
他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。
そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw
元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり
そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。
豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。

一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において
無礼にも流通拒否される悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。

このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。

545人間七七四年2012/03/25(日) 11:29:08.75ID:q4RFNhOj
織田カスが滅び歴史から忘れ去られたのとは対照的に
武田の名声が現代まで鳴り響くのがとてもよくわかった

546人間七七四年2012/03/25(日) 11:36:51.20ID:UBxDA5y4
>>539
318 :人間七七四年:2011/09/18(日) 22:53:51.61 ID:EzYQ/Ox8
六角義治≠六角義堯という説も、義治は花押を変えているというのが別人の根拠だけど、
『戦国遺文』読んだら、その違う花押を使っている書状だけ「治(花押)」なんだよね。
他の数十通の書状は全部「義治(花押)」と名前を略してない。
「治(花押)」だけ六角氏じゃない、全くの別人なのではないかと。

547人間七七四年2012/03/25(日) 12:31:46.09ID:boSddDYB
>>546
木村氏の子孫に伝えられる六角氏書状巻物に
収められているのに六角氏じゃない別人っていったい誰を指すと主張するのか対案を示せ。
織田厨得意の願望妄想なだけで根拠なんて存在しないで、思いつきでケチつけてるだけだろw
ちなみに該当文書の治(花押)が差出人の宛名はキチ(木筑の極端な短縮で薄礼)
さらにキチを宛名に義治の官途である右衛門の「右」だけの署名文書も存在する。
しかし同時期の義堯はちゃんと差出人に「義堯」と書いてるし、宛名も「木筑」と書いており
文中では「いそいでこっちに来てくれ」と書いてあり義堯と木筑が正式な主従関係を想定できるが、
義治とキチが「(信長方の話を)立ち聞きするように」「美濃や近江の様子の報告を聞いた」など
密書形式の内容の書状なので義堯と義治はまったく別人であるし「治」も六角義治しか考えられない。

548人間七七四年2012/03/25(日) 15:38:00.52ID:ugC7396e
たがとサブ、毎度の発狂?
劣等感丸出しで2ちゃんに篭るぐらいなら、早いとこ精神科に行けばいいのに

549人間七七四年2012/03/25(日) 15:41:47.91ID:T9MZsg5Z
さすが精神科に通院してる連呼リアン
やたら精神科にこだわりがある

550人間七七四年2012/03/25(日) 15:46:22.54ID:boSddDYB

秀吉は兵站補給概念を持っていて奉行衆による計画的な物資管理や
大軍進駐に伴う排便処理による衛生管理を編み出すことで
信長には不可能だった「位攻め」戦略を多用し瞬く間に天下を統一してしまった。
位攻めとは、圧倒的大軍を用いて相手の軍の士気を崩壊させ服属を強要する戦略。
信長の現地調達方式では大軍の集中は不可能であり、
戦力崩壊を起こす攻勢限界点が存在する。
すでに美濃の隣国信濃への出陣である武田攻めにおいて、
遠陣だから率いる人数を抑えることで兵糧が続くように。
しかし戦力ダウンにならないように剛力の者を選んで引き連れよと人数調整をしていた時点でお察し。
信濃より遥かに遠い備中えの遠陣である毛利攻めで旧来の遅れた兵制の信長は討死していただろう。

また高山右近が高槻に続き転封先の明石で寺社を破壊してたのを施薬院全宗が秀吉にチクったことで
激怒した秀吉が博多でポルトガル人の奴隷売買を糾弾したり、
牛馬は人間に仕え有益な動物なのになぜ食べるのか?と言ってたが、
(秀吉の基本思考・・・ポルトガル船でも純粋な交易のためなら寄港するのも問題なし、
秀吉から2000貫以上を給付される者がキリスト門徒になる場合は自分の許可を得よ。
それ以下の者の場合、日本の宗派は八宗あるが、キリスト教が加わり九宗になっても大して変わらんから
信教の自由は保障し何を信じようが構わない。但し、秀吉から給地を与えられた者が、権力を以って
庶民にキリスト教信者になることを強制したら罰する。)
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
信長のような蒙昧暗愚の暴君と秀吉の差は天地の開きがある。
重商主義的・帝国主義的な植民地化がすでにフィリピンにまで押し寄せている中で
秀吉のみがキリシタンの野望を喝破し、逆に朝鮮への遠征を行うことで
日本の武威を知らしめ、陶工などを連れ帰り現在に至る名産品を生む。

551人間七七四年2012/03/25(日) 15:53:37.67ID:boSddDYB
アホ池沼だった我妄氏郷

高山右近が明石の寺社を破壊しまくっている中で
伊勢を秀吉から与えられた氏郷の動向に恐怖した伊勢神宮が
大政所や北政所の帰依を受けている慶光院周養を運動して
秀吉から伴天連追放令の禁制を貰う。
これにより池沼氏郷が伊勢神宮を破壊する行動が不可能になった。

552人間七七四年2012/03/25(日) 16:42:39.15ID:boSddDYB
こんなアホだから伊勢は任せられないと感じた秀吉に
会津へ飛ばされたんだろうな・・・

553人間七七四年2012/03/25(日) 17:16:23.51ID:azxi54O/
織田厨からの反論レス

信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)

おまえのアホコピペから抜粋。

この多聞院日記にある「おおむね羽柴がままの様なり」、かかっているのは清洲会議ではなく旧明智領の褒賞だw
それが証拠にその前文には柴田丹羽池田堀といった織田家臣団の領地配分が事細かに書かれている。

つまり「(山崎の戦いで活躍したため旧明智領の丹波や山城は)おおむね羽柴がままの様なり」となっているだけw
清洲会議の段階で秀吉派閥がなっていないのはその後後継者の三法師秀信が織田信孝のもとにいることからもわかる。

後世の与太話にこじつけて「清洲会議から織田家の乗っ取りが進行していた」と原文無視してアホな妄想繰り広げるだがには恐れ入るw
おまえには一次史料なんて必要ないよ、司馬遼太郎の小説でも読んでればw

ちなみに秀吉と勝家が対立を深めたのは秀吉が京の配置を自分の身内にさせていたり、
置き去りにされていた信雄を担ぎ上げたり、信長葬儀を主催したり、それらを勝家信孝を書状で咎めたりしていた
天正10年の10月〜11月。清洲会議は6月末だから秀吉の乗っ取りなんてまずありえないんだがなw

そもそも秀吉が本気で織田を乗っ取ろうとしてるなら丹羽や池田が無条件でついてくるわけないのに
そこを全て無視しているのが失笑モノ

554人間七七四年2012/03/25(日) 22:56:07.42ID:+Jrf5OMi
>>538

>>公記の加賀出兵記述は、目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述。

なんでここで信長公記の話になるんだw
>>511の文章は全て歴代古案の謙信書状そのままだ

>>親織田勢力を見捨てることは大規模離反につながりかねないのは、

だからって出来立てばかりの加賀のために全軍移動してたら話にならんだろ
ましてや能登畠山は親織田勢力でもなんでもないし、加賀国にしてもかなり日が浅い。
本願寺や毛利と絶賛交戦中の信長がわざわざ加賀一国のために全軍回すのか?
旧日本軍でも満州方面で戦った主力軍は関東軍で本土兵はほとんど動員してないぞ。

>>あんた死んだほうがいいよマジで。

花押の件については結局否定なしかよw
日付の誤記は「というのもある」って言っておきながらw

555人間七七四年2012/03/25(日) 23:27:49.77ID:jIjHDLnk
>>549
よう荒らし。少しは勉強したか?w

556人間七七四年2012/03/26(月) 08:39:49.58ID:7EvIvoRq
よう連呼リアン 精神科の薬はちゃんと飲んでるか?w

557人間七七四年2012/03/26(月) 10:11:33.97ID:5zQ0PEfu
「連呼リアン」と連呼する連呼リアン
シュールやね

「精神科」というワードは禁句だったらしいw

558人間七七四年2012/03/26(月) 15:19:44.76ID:Z2n+Xdiu
上杉謙信も直江兼続も上杉の家臣も
上杉厨もホモばっか。。。。。。。。。。。。

559人間七七四年2012/03/26(月) 16:07:45.01ID:U9X32x3w
>>556
はっきりアンカー付けてレスしないのは反論されるのが怖いからかな?w

560人間七七四年2012/03/26(月) 20:11:29.18ID:Z2n+Xdiu
上杉は越後と越中東部の一部しか攻略していない。
手取川の戦いは、捏造だし、謙信が、北陸へ出兵した事実も、ない。
信長公記に記載も、ない。よって捏造。。。。。。。。。。。。。。
能登=畠山
加賀=本願寺
越中=一向一揆と神保でほとんど。魚津城以東の椎名の領土を上杉が接収しただけ。

上杉家譜(謙信軍記、歴代古案)は偽書。。。。。。。。
また、上野も武田領土で、上杉ではない。織田軍が武田攻略の際に、上野も支配して、滝川一益を置いている。

また、加賀、能登、越中を攻略したのは織田軍で、信長公記には、どこにも上杉軍は出てこない。

561人間七七四年2012/03/26(月) 21:21:44.69ID:Z2xcVyCs
あんだけの織田オールスター武将で加賀に出兵してるのに信長がいないなんて誰が指揮統御できんのよW
柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのか?信長が現地の柴田(8/8には手取川へ柴田は渡河済み)に防衛を命じてあるから
お前も相談して防衛してくれ。もし防衛できそうにない状況なら織田軍を動員することになる。決して見放さないと
上杉から離反した水越左馬助に信長が伝えてる書状だ。しかし結局、9/15には七尾城が落城してしまい
上記の情勢は明らかに現地の柴田や水越では防衛できない状況になっており水越に約束したように信長が織田本軍を率いて
秀吉・丹羽らと共にやってきて大敗。9/23には上杉軍が加賀国湊川まで追撃を兼ねて南下。9/27には逃げ帰った信長が美作
の江見為久へ秀吉を派遣する旨を伝える。信長が留守中の政治は二条城築城など村井貞勝が準備執行をやってるのがわかる。
信長が京か安土城にいた一次史料はない。信長がいなかったから松永親子の謀反が現実化してしまい
やっと9月29日になってから松永への対処を信長はやっているが明らかに手を打った時期は遅きに逸してる。
明らかに信長は北陸から逃げ戻ってきてる証拠。 8月17日には久秀が石山本願寺包囲から大和へ離脱して
本願寺包囲に大和衆が抜けた穴が空いてしまったのに松永討伐が出来ないまま放置は
上杉軍への対処に信長が出撃したからだろね。ちなみに謙信の能登加賀攻略に呼応して勝頼も遠江で徳川と対陣してんだよね。
謙信の越後撤退を知ったのか10月20日に武田軍も撤退。結局、大兵力を上杉への対処に充てた織田軍による援軍派遣徳川には無かった。
徳川はその後すぐに浜松城の譜請を大動員してやってる。徳川にとってもいまだ武田軍はかなりの脅威だから浜松城のさらなる
防御力向上を図ったんだろう。松永攻略は北陸に行ってない明智光秀、細川、筒井が大和へ先発し後詰めで信忠がやって来てるのがわかる。
松永すら対処できずに放置なのにさらに遠方の石山本願寺や紀州に信長がいるわけない
ちなみに閏7月13日に信長は安土下向してるし本願寺方面には松永離脱と同日に
信長が和泉に着陣した筒井と佐久間が話し合って協力するように伝えてるから信長が京や
石山本願寺にいて指揮をとっているとは思えないし手取川の前後の京には光秀が入っている。
また北陸には秀吉、丹羽、滝川、稲葉らが行ったとされるが、大敗した為に滝川や稲葉の戦後の動きは不明だし
柴田も消極的だし、秀吉も中国へ赴任した際はかなり貧弱な兵力だった為に播磨で苦戦続き。
明らかに織田軍の動きが鈍い。1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として
北陸へ松田監物を派遣してるところから佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけない
ほど追い詰められていた。本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には
細川の増援が決まったな。3月27日には 黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して状況によっては信長自身の出馬があると言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを指摘してる。結局、謙信死んだのが確定した為か戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され代わりに信忠が派兵されることになる。
松永の 片岡城攻略で明智軍に「大勢損」が出たのに苦戦してないとかあり得ないわけだが。
それに当時の謙信と勝頼は義昭主導の甲越相一和が成立してたから上野や信濃で緊張なんて無かった。
しかも北条からも謙信が上洛するなら北条の援軍も派遣したいと申し出てるしな。
柴田や佐久間は織田家の宿老ではあっても秀吉、丹羽、滝川、稲葉ら信長直臣に命令する立場にない。
彼らを命令できるのは信長だけ(そもそも柴田は目付けの前田や佐々らに監視されている)
また柴田軍はかなり被害をこうむったから本願寺攻め総指揮官の佐久間がやってきて専守防衛してたんだろう。
稲葉や滝川の活動も見えなくなり彼らは負傷していたのではないか?また織田軍全体でも天正5年末から
天正7年まで活動が鈍りまくっている。


562人間七七四年2012/03/26(月) 21:22:51.35ID:Z2xcVyCs
上杉に大敗したのか兵力の立て直しに時間がかかり過ぎている。
手取川の後、京防衛だった最後の無傷戦力たる明智軍団を投入して松永相手に明知軍まで大損害を出したのちも
丹波の明智・播磨の秀吉三河の徳川・越前の柴田・和泉の筒井・摂津の佐久間 これらの戦域で増援が必要だったのに全然
信長は増援派兵できない。彼ら自身も戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げてないね。丹羽・滝川・稲葉らを遊ばせていたのか?
上杉相手に殿を勤めて大損害&負傷で動けなかったのだろう。光秀が幸運なのは謙信に続いて丹波の赤井直正が死去したこと。
越山すると言ってしない時が何度となくあるし数週間だけ北関東に来てからさっさと越中出馬に出向くなんてしょっちゅうやってる。
越相同盟の時も北関東への謙信の出馬は北条との対立には該当してない。
歴代古案の謙信の書状と北徴遺文がある。詳細は謙信の書状に詳しく書いてある
史料が少ないだけで否定するなら、戦国時代のほとんどの合戦が非実在戦争になるぞw
厳島合戦や河越合戦はなかったのか。一次史料による否定ができない限り、いくら粘着して適当にケチをつけても無駄
その前後に明らかに勢力図が変わってるし、織田はわざわざ本願寺攻め総責任者の佐久間まで引っ張り出してまで、
越前防衛に必死。謙信が死んだ情報が入って始めて織田軍の播磨への援軍が実行されてるように、手取川ののちも信長は謙信を恐れて
警戒してるのが現実。信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句。第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい。
織田軍はその後、戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げられないんだ?佐久間信盛が追放された時に信長は柴田も功績を
全然挙げられず「越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した」と書いている。
天正8年春にやっと加賀へ侵攻してるほど動きが鈍いのはなぜ?謙信は天正6年3月に死んでる。
あまりに柴田率いる北陸軍の損害が大きすぎて加賀にすら満足に侵攻できない状態なのが露呈してるんだけど。
柴田が秀吉や光秀どころか小身の池田恒興までがはなはだしい武功を挙げているので
武功がない柴田が焦って加賀を制圧したと信長は佐久間への糾弾で言っている。つまり、本願寺との和睦成立で加賀へ侵攻できたのではなく
秀吉や光秀らと違い手取川での敗戦で損害の大きい柴田軍が焦っていたのであって
そこに本願寺との抗争で加賀侵攻ができなかったとする言い訳は信長のこの発言により成立しないのである。
もしこれ以上の加賀への侵攻に遅れが生じていたなら佐久間同様に柴田も改易されていたのは明白で
そこに本願寺が〜と言う言い訳が成立しないのは明らか。
もっとも一向宗というより、すで家臣に組み込まれているので上杉軍ではあるが。
滝川・稲葉らが重症を負ったようで当分の間、登場しなくなる。しかも各地で苦戦する織田軍は
まったく援軍が派遣できないまま各戦線で劣勢。公記筆者の太田は北陸情報に疎いので柴田に関する記述もほとんどない
前線からの捏造報告を鵜呑みにしてる記述している。秀吉は公記ではそのこともあるから秀吉は中国戦線で昼夜を問わず駆け回って
働いたと書いてる。もっとも太田は太閤秀吉が手取川の大敗に参加してないと捏造記述した可能性はあるが。それは大かうさまくんきのうちでの
秀吉マンセーぶりからすればありうる。そのためか公記では秀吉が毛利に敗れた記述も隠蔽している。
>>一向衆側が何の記録も残してないのは何でだ?
義元は殺したとされるほどの桶狭間の戦いを証明できる書状がないのは何でなの?
だからって桶狭間の戦いは実在しなかったよねとは言わないよな?天災や戦災などで書状なんて消失してしまったのも多いのに
一向宗側に残ってないからおかしいなんて暴論すぎ。しかも歴代古案に証拠があるにも関わらず。
それにメディアが発達し民衆の知識も戦国とは比べものにならない近代の
大東亜戦争においては数々の敗戦を完璧に隠蔽してたぞ。もっと言うとアメリカに知らされないように大地震すら隠蔽された。
1943年9月10日鳥取地震・1944年12月7日東南海地震・1945年1月13日三河地震
まぁアメリカにはバレてたがな・・・それどころか台湾沖航空戦という勝ち戦がデッチ挙げられたりしたし。
だから大きな大敗や災害ほど周辺国への影響を考えて隠蔽されるのが普通だ。


563人間七七四年2012/03/26(月) 21:26:21.87ID:Z2xcVyCs
信長公記は捏造軍記

・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森のキ沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い

564人間七七四年2012/03/26(月) 21:27:07.06ID:Z2xcVyCs
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。

さて以下がその隠蔽である。

永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。

これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。

565人間七七四年2012/03/26(月) 21:27:53.80ID:Z2xcVyCs
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている) 現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
信長公記は志賀の陣まで 前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て 一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。 志賀の陣でも朝倉軍3万に
織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長をさすがの弓取りと称賛してるから
これでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。信長から御加勢依頼がきて
徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。

公記は天正10年の武田攻めでは侵攻日に起きた浅間山大噴火を隠蔽。
武田滅亡の天意と言われた。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。
浅間山噴火が京で視認できたのは有史以来この時でわずか二度目。
東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、
広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。
信長公記によると、
范可とは唐時代の人で止むを得ない事情により父親を殺さざるを得なかった経歴を持つとの事を書いているが ...もちろんそんな人物は中国に存在しません。
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、 公記の記述は辻褄が合わない。
捏造信長公記は父殺しイメージを架空人物まで創造して捏造してまで強調してるが、
実際は重臣達に追放された武田信虎や六角義治らと同じような状態になった際に道三は死ぬ覚悟に決戦を選択したに過ぎ無い。

566人間七七四年2012/03/26(月) 21:28:48.05ID:Z2xcVyCs
公記には天文21年(1552年)に桶狭間の戦いがあったと書いている事実w
このため桶狭間の戦い虚構捏造説の根拠にされるw(信秀死去は天文20年もしくは天文21年とされる)
天正9年11/24に信長の子の御坊殿が武田から返却されてきたので犬山城主にしたと
公記には書いてある。そこには信玄が養子にしたいと言うから甲斐へ送っていたと書かれている。
しかし実際は岩村城の養子に信長がねじ込んだ末に、武田軍に大敗して拉致られただけ。
完全に歪曲捏造しまくりなのが公記。
第二次木津川口の戦い自体は兵糧搬入成功している以上勝利だからね
毛利側にも本願寺側にも証拠がある
毛利家文書834 小早川隆景書状写
「去六日至木津諸警固乗入、大坂衆申談候、敵船雖罷出候、舟軍等勿論此方得勝利候」
毛利家文書832 下間頼廉書状写
「諸警固一昨日六日木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」
「兵粮両度被入 信長公より九鬼大隅守に被命以大船 川口被塞 雖然打破り 兵粮を入る」
毛利家日記より

討ち取られた武将もいない

野田福島の戦いでは京へ撤退しようとする信長 江口川は水量が多く、水勢もすさまじいものがあり
船でしか渡れない場所なのに、信長は徒歩で渡れる始末。 しかも翌日からはまた徒歩でわたれなくなり
地元民が奇跡だと言い合う。これにより三好軍と本願寺からの 追撃を免れたなどとバカな妄想を書く公記。
他にも道三が討死した報を聞き退却しようとした織田軍であったが義龍の軍勢が追撃しようとしたところを、
信長が鉄砲を撃っただけで、信長公の勢いに飲まれて追撃する気がなくなるなど
くだらん話が散見されるのが妄想軍記信長公記のウケを狙ったガチなギャグである。

567人間七七四年2012/03/27(火) 07:52:26.61ID:Iym6fwsx
毛利家日記とやらは九鬼嘉隆が大隅守になった後に書かれたものですよねw

568人間七七四年2012/03/27(火) 09:22:32.80ID:/bTPCR4C
織田厨がまた虐殺されてる

569人間七七四年2012/03/28(水) 02:01:27.04ID:UrgzvLC7
そもそも>>566は信長公記を読んでないな

信長公記による第二次木津川口の全文

西国の舟六百余艘、木津表へ乗り出だし侯。九鬼右馬允、乗り向ひ侯へば、取り籠め、
十一月六日辰刻、南へ向つて、午刻まで、海上にて舟軍あり。初めは、九鬼支へ合ひ侯事、成りがたく見え侯。
六艘の大船に大鉄炮余多これあり。敵船を間近く寄せ付け、大将軍の舟と覚しきを、大鉄炮を以て打ち崩し侯へぱ、
是れに恐れて、中中寄り付かず、数百艘を木津浦へ追上、見物の者ども、九鬼右馬允手柄なりと、感ぜぬはなかりげり。


ここからわかること

・九鬼右馬允嘉隆が西国(毛利)の舟六百艘を迎え撃つ

・九鬼は六艘の大船にあった大鉄砲を使用し、大将軍の舟を中心に撃退

・数百艘を木津浦(木津川の入江)へ追い上げて、人々はこれが九鬼の手柄であると感心

つまり全軍撃退したなんていうのはハナから書いていないことで、>>566は過度な信長信者にでも踊らされたのであろう。
この時点では九鬼が毛利水軍を妨害したというだけで、そこまで大戦に影響はなし。
その3日後は信長は大軍を率いて摂津荒木の討伐に向かっている。あくまで主戦場は陸地だろ。

570人間七七四年2012/03/28(水) 09:55:10.38ID:eWlIFm3a
九鬼嘉隆の活躍はデタラメばっかりで一次史料による根拠は一切存在しない最上級捏造武将

571人間七七四年2012/03/28(水) 11:18:59.95ID:UrgzvLC7
捏造も何も最初から書かれていないわけだがw

572人間七七四年2012/03/29(木) 04:40:54.95ID:qrslfxi1
>>570
最上義光をなんでdisってんだと思ってしまったのは俺だけでいい。

573人間七七四年2012/03/29(木) 07:43:13.97ID:0hlp7n5N
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1325991921/395
ソースは歴代古案ですか?

574人間七七四年2012/03/29(木) 07:59:27.24ID:l3Ed8fbt
歴代古案が偽書の根拠がありません
馬鹿の妄想で書状を否定できるわけがない

575人間七七四年2012/03/29(木) 18:25:58.40ID:PtmCKu8A
         ___
       /     \ キリッ
      /   \ , , /\
    /    (●)  (●) \  歴代古案が偽書なわけがない、証拠はあんのか証拠は?
     |       (__人__)   |
      \      ` ⌒ ´  ,/ 
.      /⌒〜" ̄, ̄ ̄〆⌒,ニつ
      |  ,___゙___、rヾイソ⊃
     |            `l ̄
.      |          |


        / ̄ ̄\
      /       \      ____
      |::::::        |   /     \
     . |:::::::::::     |  / ⌒   ⌒  \  
       |::::::::::::::    |/  (●) (●)   \ 信長公記?あああれは偽書だお
     .  |::::::::::::::    } |    (__人__)     | 証拠?んなもんないお。負けまくりの信長が活躍しているというのは嘘に決まってるお
     .  ヽ::::::::::::::    } \   ` ⌒´     _/ 
        ヽ::::::::::  ノ   |           \
        /:::::::::::: く    | |         |  |
-―――――|:::::::::::::::: \-―┴┴―――――┴┴――


576人間七七四年2012/03/29(木) 18:42:10.40ID:l3Ed8fbt

577人間七七四年2012/03/29(木) 18:45:20.78ID:l3Ed8fbt
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w

578人間七七四年2012/03/29(木) 18:45:42.89ID:l3Ed8fbt
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに美濃は尾張半国を取っていると書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)

579人間七七四年2012/03/29(木) 18:49:22.42ID:l3Ed8fbt
信長公記はデタラメだらけだしね。例えば伊勢なんて簡単に平定したみたいに書かれてるけど
永禄10年(1567年)に滝川を先鋒に4万で伊勢侵攻したが
仁木氏勢力圏の楠城の山路弾正の籠城&神戸氏への支援として
白子からの伊勢水軍・鳥羽からの志摩水軍&鈴鹿の関氏の他に
長島門徒・高田門徒・天台宗信徒に呼応して美濃で氏家・安藤・稲葉が謀反の噂が流れ。
さらに支流支援として北畠氏は鳥屋尾石見を使者として信玄とも
協調し徹底抗戦したから滝川を放置して信長は逃亡してるし、
永禄11年11月の伊勢攻めでは去年の屈辱からかおよそ武士とは言えない略奪暴行大虐殺をしまくって南下するも苦戦。
結局戦闘行為で力でねじ伏せることを諦め神戸氏に人質として信孝と信包を与えて縁戚化させるしかなかった。
(情勢的には10/18義昭征夷大将軍になったり10/28松永久秀が幕府に降伏するなど
続々と幕府に帰順降伏していて六角義秀や仁木義政らの影響も受けている神戸氏は義昭への協調姿勢に転じた)
織田軍は永禄12年春には安濃津城前面まで来ながら抵抗が激しく信長は逃走してる。
この頃、長野氏やその家臣の細野氏や雲林院氏らが家中で内紛を起しており、
(もともと具藤は暗愚だから長野氏の養子に迎えることに細野・雲林院は大反対だった)
それに乗じて織田軍はやっと進出し長野具藤は長野城を放棄して実家の北畠氏へ逃げ、
細野藤敦から離反した弟達の尽力により神戸友盛の娘を娶っていた信包が入城した。
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると滝川の子を信長養子にし
細野へ人質として渡し味方になってもらった。 関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎の近江日野城へ逃亡。
永禄12年5月北畠四御所木造氏が北畠内での序列に不満があり織田方へ走るや
北畠は信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆秋山・沢・芳野らも動員して木造を滅ぼそうとする
織田も伊勢神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍派兵し滝川三郎兵衛が
九鬼を買収し一部の志摩水軍が北伊勢反北畠連合に寝返る。
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で高級幹部20人以上が討ち死に大敗。
撤退での追撃を恐れて信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で何度も信長の要請をシカトしてるし
彼らは北畠家臣や南朝以来の繋がりがある
紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと
織田側は通報してる(日根野弘就に協力してた自由商業町の山田三方の福島親子とか有名)

580人間七七四年2012/03/29(木) 18:49:51.28ID:l3Ed8fbt
信長は大河内城2ヶ月大包囲において本田親康の船江城の陥落は難しいとして避けたら奇襲される始末。
さらに曽原城の天花寺氏と挟撃されるわ、氏家ト全も蜂屋般若之助ら36人討死と壊滅的打撃を受ける。
滝川軍も逆激を受けて谷底に落ちまくるなどして壊滅。
大河内城攻防は周囲の支城からの夜昼なき奇襲を受けまくり
北畠は信長から信雄を人質にとってるが北畠は信長に人質を1人も出さず。
しかも嫡男信忠と次男信雄の2人だけは母が生駒氏だとされているためその価値は非常に高い。
信忠が死ぬなどでうまくやれば織田家乗っ取りさえも可能。
すばらしいカードを手に入れたが長島一向一揆を鎮圧後に伊勢掌握のために
具教暗殺&暗愚具房のため逆に弱体化させられる。
明らかに不平等な交渉だがそのおかげで織田軍は退却の時に追撃を受けずにすんだ。
退却時にボコボコにされて織田軍の将が討死するケースはたくさんあるからね。
安全に退却させてもらうためには人質提出は止むをえない。
信雄を人質に取ったことで水谷刑部少輔が賛意を取り付け和睦に合意。
具教は具藤と一緒に三瀬谷城へ隠棲したが暗に妻の実家の六角氏の支援を受けている。
北は宮川の険路・南は吉野や紀州に連なる南朝以来の結束を持つ土豪達の住むところ
西は大樹海に覆われる要害に地で伊賀国人とも連絡が取れた。
隠棲するや家臣達が具教を慕って集住しあっという間に城下町が形成されたくらい反織田だった。
船江城の者どもは信長の帰国を狙って銃撃し激怒した信長が曽原城の天花寺に
船江城破却を命じるや拒否し破却中の織田軍を伊賀衆で襲撃し壊滅させる。
信長は曽原城を攻撃するが苦戦し付け城を築くがまったく落ちず
逆に四五百森に潮田長助らが防御施設を作り対抗。結局、信長は破却どころか一城たりとも落せず。
具教が背後で伊勢長島一向一揆を支援していたのは
紀伊の熊野新宮の豪族で熊野水軍最強と言われた堀内氏善(新宮城主)らに支援要請してたのでもわかる。
井上専正入道教順は本願寺顕如の客将になる。家城之清は槍主水と呼ばれ勇名で鳴っていた。
ちなみに志摩水軍で北畠家臣だった小浜景隆は土屋貞綱の元で武田水軍創設に尽力。

1575年に信雄が家督を得て田丸城へ入り御本所と呼ばれるようになる(田丸具忠は一ノ瀬御所へ移城)
北畠当主として滝川に差出検地をやらせることで伊勢での実効支配を進めようとしたのだ。
それに対して信雄側の加藤甚五郎に対して熊野勢堀内氏虎が攻撃をかけて激破。
具教の差し金ということで信長が徹底調査すると
以前に鳥屋尾満栄が信玄に使いし信玄の上洛の時は岡崎まで大船団を派遣し迎えると約していたことが発覚。
1576年正月に鳥屋尾が岐阜に国司の使いとして年賀の挨拶に来るや信長は挑発しまくって威嚇した。
11月北畠具房と四男・徳松丸、五男・亀松丸が共に暗殺され
同日朝に次男・長野具藤、三男・北畠親成、北畠房兼、大河内教通、大河内具良、
波瀬具祐、波瀬具通、岩内光安、坂内具義は
信雄の妻の千代御前(雪姫)が兄達にぜひ会いたいと騙されて田丸御所に呼び出され暗殺。
坂内御所では坂内具房・霧山御所では城代・北畠政成・波瀬具通が殺されたことで
北畠氏は完全に指導者を失うことでやっと伊勢国を鎮定するまでは北畠氏の支配はうまくいかなかった。
剣豪国司と言われた具教ももっとも信用する藤方慶由の嫡男である藤方朝成の家臣達の挨拶と聞いて
完全に油断していたそうで短刀しかもっていなかった。
のち息子が主家に不忠したことにショックを受け藤方慶由は自害。
鳥屋尾満栄は具房の妻子(具房嫡男昌教はのち本願寺へ)を助け出すことに成功し
具教の弟で大和興福寺別当にいた北畠具親は伊賀吉原氏の支援により
還俗し1577年蜂起した際に合流し川俣の戦いで戦死。具親は国司家復興と打倒信長を掲げ毛利客将になった。

581人間七七四年2012/03/29(木) 19:26:18.61ID:l3Ed8fbt
9/26に越前虐殺大会から帰ると、万単位の虐殺に大満足してるようで高揚してるのか
思い出したように10/1に赤井直正を討つから光秀派遣したから片岡藤五郎は協力しろ。
そして天正4年1/15に光秀が赤井と波多野に大敗した報が入り、
1/28には石山本願寺に織田軍が敗れる報がやってくる。
ここら辺りの信長公記は安土城建設開始とか書いて完全に隠蔽してる。
さすがに本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死するところは隠蔽できず書いてるが
(つか、書かないと大幅に白紙日程になるのを誤魔化しきれない)
それですら一次史料にはない信長の5/7天王寺突撃大勝利話を持ち出して信長マンセーに摺り変えてる。

582人間七七四年2012/03/30(金) 15:37:14.47ID:6JbKw+o9
信長公記でも後世に後から作った首巻は数えられることが少ないのにそれをソースに
「信長公記はアテにならない」と主張するだが・・・

首巻がアテにならないのは誰もが知っている。
ま、その首巻程度の信憑性しかないのが甲陽軍鑑だけど

583人間七七四年2012/03/30(金) 16:15:30.25ID:BC4BkoNH
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。

尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。

木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。

尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。

天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
信長公記は志賀の陣まで 前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て 一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。 志賀の陣でも朝倉軍3万に
織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長をさすがの弓取りと称賛してるから
これでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。信長から御加勢依頼がきて
徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。

公記は天正10年の武田攻めでは侵攻日に起きた浅間山大噴火を隠蔽。武田滅亡の天意と言われた。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。浅間山噴火が京で視認できたのは有史以来この時でわずか二度目。
東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。
信長公記によると、
范可とは唐時代の人で止むを得ない事情により父親を殺さざるを得なかった経歴を持つとの事を書いているが ...もちろんそんな人物は中国に存在しません。
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、 公記の記述は辻褄が合わない。
捏造信長公記は父殺しイメージを架空人物まで創造して捏造してまで強調してるが、
実際は重臣達に追放された武田信虎や六角義治らと同じような状態になった際に道三は死ぬ覚悟に決戦を選択したに過ぎ無い。

584人間七七四年2012/03/30(金) 21:26:49.67ID:6JbKw+o9
噴火ごときで滅亡する弱小大名武田w

気象庁の観測記録では1595年から1600年までは毎年のように噴火し
かつ1500年代初頭にも噴火記録があるのに武田だけ滅亡www

585人間七七四年2012/03/30(金) 21:32:12.03ID:BC4BkoNH
領国疲弊と侵攻時期と噴火が運良くマッチしたから滅んだだけ

586人間七七四年2012/03/31(土) 02:57:22.25ID:KL4eZUZN
領国疲弊しているのは誰のせいだよまぬけw

587人間七七四年2012/04/01(日) 14:19:52.24ID:oSEv2uDc
>>584
気象庁の噴火記録に出てくる大半が
後世の人間が書いた記録をそのままカウントしてるだけ。
噴火自体がウソや伝説・誤伝・超小規模であるのがほとんど。
公家日記や幕府記録など同時代人により記録されていて
間違いなく確実な超噴火は685年・1108年・武田滅亡時・1783年の4つだけ。
ちなみに1783年の噴火はアルプス山脈を越えた京では観測されていないので超ではなく大噴火レベルだろう。

588人間七七四年2012/04/03(火) 10:42:00.46ID:7dPvbygm
685年のは京で観測されてないから超ではないのでは?
浅間山のある上野国の国司から
上野国壊滅の報告の使者が京へ報告してる
これ以後になると畿内武士団の東国移動と東国開発が
一気に活性化することから
地元ではかなりの被害が出て
土地所有者が死んだりといろいろと大変化があったとされる。

589人間七七四年2012/04/05(木) 16:29:15.31ID:A/6x4YDJ
織田一族が既存の土地に執着する古い豪族の連合体で
武田家などは集権化が比較的進んでいたことが判明しているんだよね
織田一族の領域では在地構造がそのまま温存されたり
私的な関係や便宜的な寄子寄親関係で適当に済ませてるケースが非常に多いが
武田家の領国では代官支配や主城主を中心とした再編成が多く見られる
ざる統治だったので、ちょっと体制を整備しようと
取り敢えず重臣2人のクビ斬ってみたら、反動で連続謀反が起き死亡ってとこじゃね
織田に離反が多いのも私的な主従関係を築いて一蓮托生な国人が多いから。

信長は織田家による領地支配を全く考えていなかった。
完全に内政丸投げ。
織田軍統一の規則自体がまるで無く
しかも一職支配権を与えて丸投げするから、
勝手に在地国人たちと主従を結んでいるにすぎ無い。
そのために大規模謀反が多発。
結果、信長死んだら織田の命を無視する一職支配権者が自立乱立したために
秀信を擁して専横されて
家臣と主従関係が逆転し下克上されて織田は引きずり落とされた。
一職支配権とは簡単な話、
室町幕府における守護設置みたいなもん。

信長の好い加減な統治により、
家臣らが軍閥化していた。
信長の死によって簡単に、
大身家臣が安易に自立できるだけの在地と一職支配家臣の主従関係が成立していた。
信長と在地国人には統治の仕組みは存在せず、
織田政権が脆く崩壊する構造だった。
織田テキトー政権は、そもそも足利幕府に寄生してただけ。
いずれ大身家臣が信長を下克上するのは当然の結果。
なぜなら家臣と在地が主従であり、
在地と織田に内政政策による介在がなく、従って主従関係が無い。
光秀の命令を聞いて信長を殺す軍隊であり
軍隊は信長を主人だと思ってない。
家臣の力量、懐柔、苦楽を共にする戦友家中が戦闘集団である。
> 池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
>
> 「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。
> これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
> 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
> 従って武篇道と戦果が問題となる。
>
> (中略)
>
> 信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
> それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
> 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
> 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
>
> 信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を
> 戦っていかなければならない。
> 拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
> なされていないからこそ生じた問題であろう。
> それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
> それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
> 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
>
> この問題の解決は秀吉の課題となる。

590人間七七四年2012/04/07(土) 21:01:25.07ID:1b/UFck3
信長公記にない、手取川の戦い。捏造であるのは明白。。。。。。。。

架空の人物である前田慶次を捏造。。。。。。。

上杉の偽書の捏造恐るべし

591人間七七四年2012/04/07(土) 21:05:25.87ID:6ObyvX5i
なんで。を一杯つけるの?

592人間七七四年2012/04/08(日) 15:42:21.87ID:lhrb8VFo
謙信や信玄は奴隷売買しまくってたんだろ?


信玄は天文16年8月に
関東管領上杉憲政の大軍を撃破した後も籠城を続けて、
あくまで武田に抵抗する志賀城の笠原清繁ら国人衆に対して
行った1回だけです。
金山採掘のための人手が必要だったために買い戻す価格は高く設定されました。

謙信は永禄9年に、佐竹義昭の死去に乗じて佐竹を攻めて
再度の謀反を企てた小田氏を攻めた時にやった1回だけです。
しかも激安価格でメシ代程度でした。
そして詫び言を言ってきた小田氏の小田復帰も許してあげてます。

信玄や勝頼の悪政で領国は疲弊したんだろ?
悪政どころが飢饉対策と洪水対策の成果が出たので
永禄6年に都留郡で洪水がおきて田畑が流される被害を最後に
毎年必ずおきていた災害記録はまったく記録されなくなります。
それどころか武田領は敵に侵攻され燃やされる心配もなく
安心して暮らせる領内となってます。

593人間七七四年2012/04/08(日) 16:02:57.14ID:lhrb8VFo
>>550
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは
軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。

594人間七七四年2012/04/09(月) 22:08:00.70ID:UluUvvBz
のぶやぼ厨涙目w

595人間七七四年2012/04/09(月) 22:23:40.97ID:7/tGzjhT
>>593
そんなすごい武田がどうしてお馬鹿の織田にあっというまに滅ぼされちゃったの?

596人間七七四年2012/04/09(月) 23:20:18.85ID:McE7ptwQ
北条と徳川との交戦による領国疲弊&北条徳川織田による圧倒的大軍での侵攻
&浅間山噴火災害→離反の連鎖となって自落しただけ

597人間七七四年2012/04/10(火) 15:15:01.04ID:FrK6Z+xQ
浅間山噴火なら補給線が伸びきって、遠く敵地で軍団を展開している織田の
ダメージの方が大きいはずだが。

598人間七七四年2012/04/10(火) 17:24:13.50ID:PZeqYlu0
被害なし地域から補給があるのと生産地がモロ被りどっちが大変だと思う?

599人間七七四年2012/04/11(水) 00:57:19.60ID:/pNcGuoQ
>>593
笹本が政治同様に確証がないと否定してるな
評価してる軍事関係者って誰よ

600人間七七四年2012/04/11(水) 21:10:15.59ID:nwImF8b3
>>468
>勝頼って信玄生前に武田姓に戻ってる

ソースは?

601人間七七四年2012/04/12(木) 01:35:46.90ID:tTssGkrx
過去は変えれない。今を生きろ。

602人間七七四年2012/04/12(木) 16:17:12.21ID:/ZmAdrD9
後一ヶ月本能寺が遅れれば、森長可が春日山城を落としていただろうに。

603人間七七四年2012/04/12(木) 20:39:00.07ID:zKoUtC0+
芋川を殺してからにしてね

604人間七七四年2012/04/12(木) 20:54:54.30ID:Z2A6IsWe
4月には仁科方面や長沼の守りを磐石にとか命令してるし
5月になっても富山は取り返されて残念だが信濃方面の守りは磐石で心配はないとか言ってるし
信濃の守り捨てて越中まで天神山まで出兵するくらいだもんなあ

605人間七七四年2012/04/12(木) 23:16:50.55ID:IREuQ68A
>>600
織田厨、無知すぎw

606人間七七四年2012/04/12(木) 23:39:34.60ID:FGB+CeOh
>>605
織田厨じゃないけどソース教えてくれ

607人間七七四年2012/04/13(金) 01:53:15.79ID:pQSHin4t
それで急遽春日山城に戻ってるじゃないかw
森が近くまで進軍してきたんでなければ、なぜ魚津城を見捨てて戻ったんだ?

608人間七七四年2012/04/13(金) 10:47:54.32ID:X8OJh2hJ
>>599
山梨教育委員会が200万以上で購入した
信玄の陣立書を政治同様に?などと
山梨教育委員会を批判してんのか?
おれ購入後のお披露目で
実物が公表された時に見たけど
秀吉の陣立書にすらない、
兵種の記入まで細かくなされていて
非常に時代を超越した凄さを感じたぞ。

609人間七七四年2012/04/13(金) 10:54:17.69ID:X8OJh2hJ
森も天正10年4/2に景勝に破れて長沼城を奪われてるわけだがw
(武田への援軍で上杉が派兵した松本房繁が長沼にいたが、
武田滅亡のため越後に撤退した後に森が接収してた)
森が奪回した記録はない。

当時の芋川は武田配下で上杉配下じゃねーから。
しかも一豪族が8000も動員できるわけがない。
そもそも上記の話は一次史料で全く証明できないわけだが。

はいはいデタラメ乙
天神山で織田と戦ってないのになんで質的優位とか語れるんだよアホすぎ。
月岡野は一次史料で全く証明できず、あくまで太田の伝聞レベル。
明らかに太田が北陸方面の情報に疎いのがここでも露呈。
だから信長の反応が全くなし、実際は調略が成功した程度だろ。
そもそも当時の上杉は家督争いの内乱で武田軍が越後府中に駐留してるは、
北条軍が景勝の本領上田を襲撃する為に氏照と氏邦が越後坂戸城攻撃してる最中で、
越中なんて気にしてられない状況。
しかも織田は一次史料まったく無しの自称最強九鬼水軍の大船を使って
木津川口で毛利水軍を自称大敗させ瀬戸内海制海権を手に入れ
西国方面で絶対優位を確定させていながら、越中での勢力拡大すらできない体たらくw

月岡野www9/24に越中出陣を命じられ、10/4にはすでに帰陣候なのにわずか10日で
安土から飛騨経由で越中を往復して何ができんだよw

いま思いついたレベルの書き込みしかできない織田厨www

610人間七七四年2012/04/13(金) 12:15:15.37ID:n84z5YQH
春日山に急遽戻った?そんな史料あったっけ?

611人間七七四年2012/04/13(金) 20:57:26.91ID:9N8JcCij
>>609どこのどんなレスに対しての論破なのか文盲なオイラにもうすこし、わかりやすく…(T_T)

612人間七七四年2012/04/14(土) 09:19:32.37ID:A11Cl47u
>>599
笹本はどういう根拠を以って
山梨教育委員会の鑑定をひっくり返したのか?
しかも「政治同様に・・」とか意味不明なんだけど?ソースは?

613人間七七四年2012/04/14(土) 09:55:55.72ID:v3Ek3RCz
教育委員会が購入しただけでは、お墨付きにはならないだろ

614人間七七四年2012/04/14(土) 10:40:58.35ID:A11Cl47u
>>613
なるわw

615人間七七四年2012/04/14(土) 10:50:17.03ID:v3Ek3RCz
教育委員会の基準は歴史的・文学的・美術的価値であって、内容の史実性を鑑定したわけではないぞ

616人間七七四年2012/04/14(土) 11:05:43.38ID:v3Ek3RCz
そもそも史実性があっても軍事的な評価とは別物なんだけど

617人間七七四年2012/04/14(土) 11:35:46.86ID:A11Cl47u
はいはい連レス乙w
屁理屈を弄してバカじゃねw
2ちゃんのカスぶりを遺憾なく発揮してますねw

618人間七七四年2012/04/14(土) 11:43:30.37ID:v3Ek3RCz
教育委員会としては鑑定しているつもりもないのに勝手に決め付けられたら困る

619人間七七四年2012/04/14(土) 11:46:19.20ID:A11Cl47u
遊びで200万円も出すわけねーだろw

620人間七七四年2012/04/14(土) 11:50:53.81ID:v3Ek3RCz
文化的価値に支出している

621人間七七四年2012/04/14(土) 11:55:54.90ID:823yetI1
この件につきましてはID:A11Cl47uの負けということでよろしいかと

622人間七七四年2012/04/14(土) 12:30:21.44ID:gS0w6aeC
とわけのわからないことを供述しており

623人間七七四年2012/04/14(土) 19:49:59.50ID:zx9NvZL0
上杉の百姓兵では山賊に毛が生えた程度の武田とは戦えても
織田の正規兵が相手では屠殺されるだけだろう。

624人間七七四年2012/04/14(土) 19:55:55.96ID:b2wv5ETM
以上 織田厨の渾身のギャグでした

625人間七七四年2012/04/14(土) 21:26:55.00ID:zx9NvZL0
>>624
森長可は上杉景勝の支援を受けた芋川親正の一揆勢8000人をたった2日で撫で斬りにしてる。
越後本国への侵攻でも国境から春日山城間近まで一週間かからずに制圧してるだろ。
織田の皆殺しを前提とする軍隊は、専ら威嚇で事をおさめる上杉、武田等の従来型軍隊とは異質な存在だよ。

626人間七七四年2012/04/14(土) 22:13:04.75ID:z9xVqeXK
それ書いてるの江戸期の軍記だけだよ。

627人間七七四年2012/04/14(土) 22:55:18.85ID:zx9NvZL0
田舎侍に過ぎない上杉や武田が強いってのは江戸時代の軍記物からだよね。

628人間七七四年2012/04/14(土) 23:14:28.92ID:b2wv5ETM
幕府を開いた徳川ディスってんのかてめー?

629人間七七四年2012/04/15(日) 07:18:07.43ID:yzxoJSNm
なんだかんだ言っても織田はほぼ滅亡してんだからw
上杉はちゃんと残りましたよ。
部下に殺されるなんて恥だよ、恥。

630人間七七四年2012/04/15(日) 08:15:25.50ID:fw6jStdl
歴史ヲタはともかく、戦術とかの研究者の見解では上杉謙信・武田信玄には信長は勝てないと言われていますね。
徳川家康も野戦の達人と言われているが、「上手いから勝ったのではなく、結果的に勝った」と言われている。
そして、勝ったから上手いと言われる事が多いが、下手でも勝った戦争も多いので人物評価には注意が必要と指摘がある。

631人間七七四年2012/04/15(日) 08:17:28.40ID:6lUBxtyu
>>630
戦術とかの研究者って誰?

632人間七七四年2012/04/15(日) 09:26:48.86ID:yzxoJSNm
病死とぶっ殺されたんなら病死のがマシだろ。
信長は最後に負けて死んだんだから。

信長マンセーしてる奴は今川義元だってマンセーしてるか?
してないだろ。同じなのにな。

633人間七七四年2012/04/17(火) 08:20:45.09ID:3xZq4JpI
病死と敗死で伸びしろがあるのは敗死。
病死の場合、特に信玄や謙信のような癌や結核、脳溢血みたいな死因だと
当時では不治の病だからどうしようもない。たとえ生き延びても言語障害か半身不随になる。

実際「桶狭間で義元が死ななかったら」という推測は容易に立つが
「信玄が病気で死ななかったら」という推測は現実味がない。なぜなら病気にかかった時点で当時は終わりだから

634人間七七四年2012/04/17(火) 09:43:54.50ID:IpxGSEgF
>>627
大和国興福寺蓮成院記録 五帥釈迦院寛尊 天正10年3/5
武田征伐と聞き甲斐国・越後国衆は弓矢天下一之軍士と言われているから一大事と
戦国末期になってもリアルタイムに織田軍大和戦区部隊が恐れている。
>>625
信長公記のデタラメで一次史料にはまったく存在しないウソ。
森も天正10年4/2に景勝に破れて長沼城を奪われてるわけだがw
(武田への援軍で上杉が派兵した松本房繁が長沼にいたが、
武田滅亡のため越後に撤退した後に森が接収してた)
森が奪回した記録は当然ない。

当時の芋川は武田配下で上杉配下じゃねーから。
しかも一豪族が8000も動員できるわけがない。
そもそも上記の森の話は一次史料で全く証明できないわけだが。

635人間七七四年2012/04/17(火) 11:18:21.12ID:rV8w9Yre
>>608
調査不足で真贋不明と本人談
本格的な調査する予定がなく断られたとも

636人間七七四年2012/04/17(火) 13:33:03.02ID:3xZq4JpI
信長公記を調べてみました。

御敵山中へ引籠り、大蔵の古城拵へ、いも川(芋川親正)と云ふ者一揆致し、大将楯籠る
四月七日、御敵、長沼ロヘ八千ばかりにて相働き侯。則ち、森勝蔵懸けつけ、
見合せ、焜と切り懸かり、七、八里の間、追討に千弐百余討お捕り、大蔵の古城にて女童千余切り捨つる。

とありますね。後ろの「女童千余切り捨つる」という文章からもわかるように
老若男女全て入れて8000人程度を芋川が率いていただけだと思いますけど。
「一揆」とありますしただ近隣の連中が織田の支配に抵抗しただけでしょう。その首謀者が芋川だったと。

637人間七七四年2012/04/17(火) 13:42:00.66ID:3xZq4JpI
例えば普段芋川に付き従い戦争に向かう雑兵が1000人いたとしましょう。雑兵は大体成人男子で構成されます。

その雑兵1人1人に嫁がいたとすると嫁も1000人いることになります、これで2000人
当時は一人っ子なんてまずいないので雑兵の兄弟がいないわけはありません。兄弟1人いても1000人。全員に2人ずついると2000人です。足して3000人から4000人です。

当然雑兵たちにもお父さんお母さんがいます。腰の曲がった老人がほとんどでしょうが彼らが自分の土地のために与しないとも限りません。
父母合わせて2000人。足して5000人から6000人です。ここに雑兵の子供たちや雑兵の普段は戦争にいかない兄弟の嫁、などなど村ぐるみ集団一党となって抵抗すれば

あながち8000という人数も十分可能な人数ですね。

638人間七七四年2012/04/17(火) 16:22:12.27ID:LypskZko
ほとんど足弱じゃないか。
無辜の民を大量虐殺ですね。

639人間七七四年2012/04/17(火) 18:42:57.33ID:j3vAhfzW
織田は信濃にひどいことをしたよね(´・ω・`)

640人間七七四年2012/04/17(火) 23:33:57.96ID:R3uYQ7Nc
織田の戦いは戦闘員、非戦闘員を区別しない総力戦だからな。
上杉や武田の中世の戦いとは根本的に異なる。

641人間七七四年2012/04/18(水) 00:33:05.84ID:z6Hy0ThR
織田の戦い方は好きになれんな
結果自身の身を滅ぼす事になってるし

642人間七七四年2012/04/18(水) 02:49:28.88ID:gMH2c2Iw
>>636
勝手な推測されてもなー
「長野市誌・歴史編1」では一向一揆だと推測されとる

643人間七七四年2012/04/18(水) 05:37:13.21ID:XzDcynpJ
>>642
推測も何も一揆だったら信長公記そのままでは?
文中にもありますけどそもそも通常の戦争とは全然違いますし
本来非戦闘要員だった連中が立ちあがったとするなら8000はありえる数。

644人間七七四年2012/04/18(水) 14:35:43.27ID:mP6E0qDO
森は忠正も高坂の磔刑や検地後の一揆での千人単位の磔とか半端ないね。

645月孔雀2012/04/19(木) 05:59:12.68ID:z1hAUU+G
謙信は、手取川で信長に勝ったが、上洛前に死んだ。
死因は、よく分からないが、死ぬのも自己責任。
謙信は、基本的に、信長に負けていたと思う。

反動より革新が上ってことかな。

646人間七七四年2012/04/19(木) 09:38:38.12ID:E62kalQ/
謙信にしても信玄にしても信長に殺される前に死んで良かったと思うよ。

647人間七七四年2012/04/19(木) 10:25:12.23ID:JPt83VEj
逆だろwww

648人間七七四年2012/04/19(木) 12:14:18.95ID:McY9FLgr
>>8000はありえる数
一向宗の坊官が率いてるわけでも
寺社からの命令があったわけでもないのに
そんなに大軍動員なんてありえねーよアホw

649人間七七四年2012/04/19(木) 12:21:07.57ID:McY9FLgr
>>635
>>笹本が政治同様に確証がないと否定してるな
>>調査不足で真贋不明と本人談
>>本格的な調査する予定がなく断られたとも
どの本に書かれてんの?もう少しくわしく。
信州大学の笹本のこと?
なんか事情あって山梨から拒否られたんかwww

ちなみに愛知県史の執筆に参加した藤田達生も
信玄の陣立書だとしているよ。
山梨と愛知は陣立書を積極的に認め
唯一、長野が確証がないと言ってる構図か。
長野は恨みがあるんかw
まぁ信州いっても。長野と松本でも対立してるらしいからな。

650人間七七四年2012/04/19(木) 17:13:01.73ID:McY9FLgr

池上裕子
武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹
信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。


651人間七七四年2012/04/19(木) 17:17:14.36ID:REmdaht/
芋川一揆が書かれてるのは公記以外でいうと惣見記とか江戸期の軍記しかないからなぁ。
大体滝川が上野から三国峠を越えて攻めてったら上杉方のカラス組奇襲隊に大敗して撃退されたとかも軍記ソースだから全く史実扱いされてないのに
芋川一揆やら二本木侵攻のみを史実扱いするのは無理がある

652人間七七四年2012/04/19(木) 17:23:21.40ID:Euor2ZgY
>>648
一向宗の坊官?基本的に一向一揆でも現地の豪族や地侍頼みですよ。
まさかオウムのようなカルト宗教じゃあるまいし一向宗の坊官様万歳ーってついてくるわけないでしょう。

653人間七七四年2012/04/22(日) 07:23:30.74ID:h7u1eviM
>>634
一方、総本山である比叡山を信長に焼かれた蓮成院の坊主は
仏法の保護者である武田を称えたというだけの話だろ
正親町親王は保護者信長を古今無双の名将といってるのと同じ

654人間七七四年2012/04/22(日) 18:03:33.53ID:O4xO0oin
蓮成院って大和興福寺の蓮成院だろ?
なんで比叡山が総本山なんだ?
南都北嶺は並び立ってるからどちらが主でどちらが従ではないだろ。
大和一国を支配して事実上の大和守護とみなされた
荘園防衛軍たる僧兵武力軍で、三好軍や松永軍とも互角に戦ってんだろ。
筒井氏とかも興福寺官符衆徒だし。

655人間七七四年2012/04/22(日) 18:04:59.05ID:O4xO0oin
正親町のは献金してもらいたいから
リップサービスでそう信長を持ち上げておだててるだけで
誰か他の大名と比較してそう言ってるわけじゃない。

656人間七七四年2012/04/22(日) 18:19:24.91ID:NMUkDfhr
蓮成院のも天下一と言ってるだけで別に誰かと比べとらんだろ

657人間七七四年2012/04/22(日) 18:39:16.43ID:O4xO0oin
蓮成院にはリップサービスする必要性は無いし
実際に風聞として天下一だという世評を知っていて
これからその地へ行くことにビビっている姿がわかる。

658人間七七四年2012/04/22(日) 22:15:12.96ID:NMUkDfhr
風聞ってのはどこの誰ともつかぬ人間が無責任に垂れ流した噂にすぎない。
政府の公式見解よりも2chのレスの方がアテになるといわんばかりだなw

しかも蓮成院のある大和衆は「遠国迷惑」として単に軍事行動をサボタージュしていただけにすぎんのだがw

659人間七七四年2012/04/22(日) 23:24:12.59ID:h7u1eviM
風聞って言ったって火のない所に煙はたたないもの。

660人間七七四年2012/04/22(日) 23:28:47.68ID:uR7cPFL0
いいえ、立ちます。

661人間七七四年2012/04/30(月) 23:25:10.56ID:/d25WyQD
信吉が1602年に水戸25万石に封じられたのは武田としてだよ。信玄最強というのは江戸初期から常識であり
甲州流軍学が江戸時代を通じて最強とされ続けてるしな。
1576年 円昌坊教雅書状
謙信、大方於太刀者日本無双之名大将ニ而御入候

1582年3/5 蓮成院記録
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士

信玄死去から10年経っても甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
とその遺武があったほどの威勢だったけどな。
信長死んだら武遺の話題すら出てないな。江戸期を通じて織田流軍学なんてもんは
誰も見向きもせず一切評判になったことすらないw

蓮成院って大和興福寺の蓮成院だろ?なんで比叡山が総本山なんだ?
南都北嶺は並び立ってるからどちらが主でどちらが従ではないだろ。
大和一国を支配して事実上の大和守護とみなされた荘園防衛軍たる僧兵武力軍で、三好軍や松永軍とも互角に戦ってんだろ。
筒井氏とかも興福寺官符衆徒だし。

正親町のは献金してもらいたいからリップサービスでそう信長を持ち上げておだててるだけで
誰か他の大名と比較してそう言ってるわけじゃない。
蓮成院にはリップサービスする必要性は無いし実際に風聞として天下一だという世評を知っていて
これからその地へ行くことにビビっている姿がわかる。

662人間七七四年2012/04/30(月) 23:26:45.34ID:pnGQJNls
そう思っていたんなら小田原征伐前に松平信吉に改姓なんてしないから

663人間七七四年2012/04/30(月) 23:32:08.50ID:/d25WyQD
当代記の信長関連の記事は太田牛一公記や甫庵信長記のトレース部分が非常に多いから
信長関連の記述は基本的に役に立たない。
また同じ一次資料の松平記ではしっかりその記述がなされている

664人間七七四年2012/05/03(木) 19:48:11.45ID:pw4cbfwk
江戸時代って先祖の軍功水増しして誇る時代だよね。300年間。

665人間七七四年2012/05/05(土) 16:21:20.34ID:HyebX9em
島津のことかぁー

666人間七七四年2012/05/05(土) 22:41:56.21ID:FTmeMJ7L
上杉は負け組だから300年のあいだに目減りしてるはず

667人間七七四年2012/05/06(日) 12:18:31.60ID:RvpkYr1r
>>622
はやくそのソース出してね。
まさかWIKIの松平信吉がソースとか笑わせてくれないよね?
>>666
えっ上杉は途中で出家させられ秋田へ流罪にされた後に、
朝鮮出兵の偉大さを見せ付けたい秀吉に、
お情けで再興してもらい名護屋に呼びつけられた信雄の織田と違って
江戸時代スタートの時点で30万石もあったけど?

668人間七七四年2012/05/06(日) 12:26:16.56ID:RvpkYr1r
訂正
>>622ではなく>>662

669人間七七四年2012/05/06(日) 12:48:18.32ID:arD9ezxW
そもそもWikiは基本的に根拠となる史料を絶対明記しなきゃならんからおまえの妄想よりは100倍信用価値があるよw
ちなみに俺がパッと見つけたのでは藩翰譜がきっちりと明記してあるな。
ただし「小田原以降」ではなく「御成人ののち」という文章だが。

670人間七七四年2012/05/06(日) 12:58:27.65ID:nKe0sT7f
120万石で残ってたら水増し分含めてとんでもない事態になったはず

671人間七七四年2012/05/06(日) 13:01:12.66ID:RvpkYr1r
【捏造】新井白石【歪曲】
こいつの書いてる内容はウソばかり 上杉貶して伊達家マンセーしてて気持ち悪い
上杉に贈賄を強要して断られたのかもしれないな。どっちにしろ白石も伊達家も不潔だな。
白石は事実確認の裏取りを一切やってないとしか思えない
100日(たった3か月)でつくった粗悪品だからなwwww
白石の折たく柴の記には、「諸家の事共、尋ね究めて」と記載があり、藩翰譜が伝聞に基づくものであることがわかる。
そして他の史料を引用している記述は見られないことから、新井白石が伝聞に基づいて、独自の主観で編纂したものと思われる。
家系図においても、寛政重修諸家譜で大幅に修正を加えると、ほとんど改修となってしまうと記載されている。

「藩翰譜」上杉譜内において景勝と兼続は衆道関係にあったと断言しているが
それを裏付ける一次史料等は皆無であり信憑性は全く無い。
関ヶ原後に相馬改易になったが(政宗が関ヶ原の功績として相馬領を恩賞に欲した)
関ヶ原で伊達の領内通過を許したり、月夜畑で伊達と一緒に上杉に大敗した際の死者リストを持って江戸で運動した結果、
なんとか相馬の改易を免れた。
相馬盛胤は安堵の知らせを受ける前に失意のまま死去
相馬義胤は怒り、死後は伊達領に向けて立ったまま埋葬させた。
そういう経緯を無視して白石は藩翰譜で政宗が相馬を弁護したから改易されずに済んだと大ウソをデッチあげた。
上杉を貶して伊達を持ち上げる…白石のやつ金をもらって長谷堂の戦い前後の捏造やってるな!
伊達の編纂した資料は月夜畑で相馬と一緒に大敗した史実を抹消してるしな。
惰弱だとか保身だとかいう公家のマイナスイメージ(卑怯な公家、正々堂々
とした武家という図式)もこの男が作り出した面が大きい。
明治以降も「武」一点張りでしたからね。
実際には公家だから弓が弾けないとかいうことはなかった。
直江兼続の父・兼豊の身分についても見解が分かれている。
「藩翰譜」によれば兼豊は薪炭吏だったという。
すまん新井白石の書いてることってまるっきり信用できないんだが・・・
新井白石の功績は甲斐姫の事跡の捏造文献を世に広めたこと。
義を重んじるなら伊達の改易を心待ちにしてたのに結局改易にならず、
家臣に「相馬改易なったらオレの領土だったのに畜生」みたいな
手紙を送ってる政宗を貶めるべき。
文筆に関しては自分の地位を深く考えず無責任に噂話を書き綴った馬鹿野郎だと思う。

荻原重秀「新井筑州、おことは致仕を願い出たが、聞き届けられず、逆に加増を受けたそうじゃな。
新井白石「‥‥」
荻原重秀「学者先生も道義よりも加増をよしとされたか」
新井白石「何のことだかわかりませんな。余人はともかく、貴殿から道義などという言葉は承りたくないものです」
荻原重秀「どういう意味じゃ」
新井白石「意味はいずれ、おわかりになりましょう」
金欲しかったんだろと鋭く突っ込まれる白石プププwwwwwww
貨幣改鋳問題については明らかに荻原重秀のほうに実があると思われる。
拡大した経済規模に相応する通貨量を供給すべきところ、
白石は高純度主義に囚われて現実的な提案をできなかった。
某柴の日記で、綱吉をネロや始皇帝に比する「首都市民の3割を処刑した」という捏造文章で一気に有名人にしたのが最大の功績じゃね?

672人間七七四年2012/05/06(日) 13:02:29.85ID:arD9ezxW
そんなけち臭いこと書いてる暇があったら武田信吉名義で江戸時代まで続いていたことを証明すればいいのにな
できないからやってるんだろうけどw

673人間七七四年2012/05/09(水) 00:26:17.56ID:4q85gt8L
>>561
>>1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として北陸へ松田監物を派遣してるところから
>>佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけないほど追い詰められていた。
佐久間まで北陸へ派兵させてまで謙信への防衛に当てる理由はただひとつ。
手取川で信長が超大敗して完全にビビっている証拠。
なぜなら信長が佐久間信盛へ弾劾状を出した内容には
本願寺包囲の責任者の佐久間の軍隊として
三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。
これに佐久間自身の配下を加えればと書かれている。

織田軍で一番の大部隊で必死に謙信の攻勢を凌ごうとして焦ってる姿が目に浮かぶ。

674人間七七四年2012/05/11(金) 09:52:02.67ID:R9iBqtKz
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書いてるが完全にデタラメ。
ちなみに謙信→長景連(長続連の子)への3/19書状には
(菅屋・林・佐々・松井と供に長連竜が織田配下として書かれてる)
信長が謙信に比叡山再興を約束してる土下座モードで謙信も納得したとか書いてるwww
(4/24謙信→関東の小田守治で氏政を足蹴倒すぞと報せていて、武田攻めする気なしwww
おそらく3/5の遊足庵への謙信書状で葦名と佐竹が和議になることと葦名が北条へ手切れ
佐竹・宇都宮連合が氏政を29日夜に多功原で大破し数千人を討ち取り、
岩槻へ氏政がたった一騎で逃げ入った報が影響してる。
謙信は信玄と氏康同陣の時にたびたび俺が乗り出してきても決戦せずに退散するくせにと愚痴ってる)
朝倉義景が一乗谷城から越前府中まで3/11には出陣してきたことを報じている。
また濃州・信州境を用心しろとも書いていて、信玄の美濃侵攻が近いことがわかる。
3/7信長→幽斎書状にも長与一(長景連)が味方だと書いてる。

元亀4年時点ですでに明らかに七尾城は織田方なのだがwww

675人間七七四年2012/05/11(金) 10:01:27.82ID:R9iBqtKz
訂正
長連竜(長続連の子)

676人間七七四年2012/05/11(金) 10:39:18.67ID:rPjCvYJt
ソースを出さずに忘れたころに暴れだすだがw
まるで謙信そのものだなw

677人間七七四年2012/05/11(金) 14:18:17.24ID:R9iBqtKz
天正4年の木津川の戦いと天正6年の第二次木津川の戦いの間である
天正5年にも織田軍は毛利と海戦して大敗してるのを公記は隠蔽してる。
謙信の上洛戦に言及があるため天正5年9月23日の手取川の戦いが始まる寸前の書状。

龍谷大学大宮図書館蔵 光佐披露状 江戸浄林寺文書 顕如上人文書簒所収

急度令啓上候 仍今度芸州警護船 早速被相催 歴々衆渡海候
殊為合力 兵糧等厳重之儀 囘申謝候 随而於海上及一戦 敵船悉被打果候事
無比類高名 併上意御威光之故候 当寺門下・紀州兵船相共ニ 抽戦■候
可然様御執成専用候 其節之儀 加太豊前守存知之事候条 可有言上候
就中御太刀一腰金・御馬一疋鹿毛進上之候
聊表祝儀計候 於此上 播州陸路之行 肝要存候 弥可被上意候
北国謙信事 近日越前表 可有出張候 猶以三和之儀 此刻候 甲州之儀
八月中尾濃江必定出馬■■ 一両日已前も申越候 諸国之儀■■分急申候
吉事近々可申入候 此等之旨 宜有披露候 怖々謹言

            七月廿八日 光佐(花押)
  一色駿河守殿
  真木嶋玄蕃頭殿


加太豊前守=鹿伏兎豊前守宗心の血統か?
亀山城主関盛信に従って関軍の先鋒を勤めていた鹿伏兎城(白鷹城)主
信孝が神戸家の養子になると関氏を通じて織田に仕えたが、のち反織田挙兵。
姉川での討死説あり?子の四郎盛氏も天正2年に長島で討死説あり。

神戸具盛(妻は蒲生定秀の娘)
養子信孝を冷遇していた為に元亀2年に山路弾正など家臣が大虐殺され
信長により幽閉されるも義父を頼り日野城へ逃亡し、元亀3年に神戸家は信孝が家督を継ぐ。
ちなみに永禄11年の観音寺城の戦いで蒲生賢秀を降伏させたのはこの人

関盛信(妻は蒲生定秀の娘)
亀山城主。信孝との不和が原因で
元亀4年に信長により幽閉され義父を頼り日野城へ逃亡
嫡子の関盛忠は天正2年の長島討伐で信孝や蒲生賢秀に従い従軍し討死。

織田信孝
信雄は長島滅亡後の天正3年信意に改名するまで
北畠家での支配実績がまったく書状で確認できない。
そのために織田家へ突っ返されていたとする見解もある。
神戸家での信孝はほとんど不明で、信雄以上に謎。

鹿伏兎豊前守宗心・神戸具盛・関盛信・蒲生定秀は反織田でつながっていた。
しかし義昭降伏と浅井・朝倉滅亡を契機に蒲生は織田へ鞍替えし関氏の嫡男も従う。


678人間七七四年2012/05/11(金) 15:43:52.72ID:R9iBqtKz
第二次木津川口の戦いは実は毛利の圧勝。
毛利側にも本願寺側にも証拠がある

毛利家文書834 小早川隆景書状写
「去六日至木津諸警固乗入、大坂衆申談候、
敵船雖罷出候、舟軍等勿論此方得勝利候」

毛利家文書832 下間頼廉書状写
「諸警固一昨日六日木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」

「兵粮両度被入 信長公より九鬼大隅守に被命以大船 川口被塞 雖然打破り 兵粮を入る」
毛利家日記より


679人間七七四年2012/05/11(金) 17:48:00.06ID:rPjCvYJt
織田ですら圧勝と言ってないのににわかに振り回されるだがw

680人間七七四年2012/05/12(土) 18:06:18.27ID:RCUO9sKM
北条軍は扇谷上杉軍の籠る深大寺城をパスして河越城を直接攻撃したとか。
http://saikatsutramway.sakura.ne.jp/saikatsu_tramway/furumaki.html

681人間七七四年2012/05/14(月) 07:55:34.27ID:RLlht0cO
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682人間七七四年2012/05/14(月) 16:56:16.39ID:RLlht0cO
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683人間七七四年2012/05/14(月) 17:22:50.83ID:RLlht0cO
見た目ど真ん中ストライ〜クのソープ嬢を妊娠させたくてたまんねぇ
嫁にして子供産ませてぇ〜

684人間七七四年2012/05/17(木) 00:55:28.22ID:N0O/rpxA
戦国時代を平定した秀吉
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/l50
金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www

元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww

3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。

また高山右近が高槻に続き転封先の明石で寺社を破壊してたのを施薬院全宗が秀吉にチクったことで
激怒した秀吉が博多でポルトガル人の奴隷売買を糾弾したり、
牛馬は人間に仕え有益な動物なのになぜ食べるのか?と言ってたが、
(秀吉の基本思考・・・ポルトガル船でも純粋な交易のためなら寄港するのも問題なし、
秀吉から2000貫以上を給付される者がキリスト門徒になる場合は自分の許可を得よ。
それ以下の者の場合、日本の宗派は八宗あるが、キリスト教が加わり九宗になっても大して変わらんから
信教の自由は保障し何を信じようが構わない。但し、秀吉から給地を与えられた者が、権力を以って
庶民にキリスト教信者になることを強制したら罰する。)
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
信長のような蒙昧暗愚の暴君と秀吉の差は天地の開きがある。

685人間七七四年2012/05/18(金) 02:49:17.43ID:pCZuDZAx
必死に自分のたてた過疎スレを宣伝するだがw

686人間七七四年2012/05/20(日) 09:09:08.12ID:2w2WUlS2
>>684
>6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交
養徳院が信長の乳母だということを知らないのかな?
それとも、乳母に加増することを「土下座外交(?)」と言いたいのかな?

687人間七七四年2012/05/20(日) 12:07:56.50ID:xlHExFKW
乳母だったって一次史料ないんじゃなかったっけ?
だから信秀側室→乳母と拡大解釈されてただけとか聞いたが。
恒興が信長に離反する可能性は充分にあるよな。
なんせ信長を騙して勝頼の子である武田勝親を匿ってるからな。
本能寺の変で信長がすぐ死ぬことがわかっててやっていたとしか思えない。
バレたらそうとうヤバイ行為だからな
その後も織田家を救わず秀吉に付いて行動してるし。

688人間七七四年2012/05/20(日) 13:17:50.26ID:6pSoxr+K
ならば父の側室に加増することを「土下座」と言うのか?
一次史料が無いことを理由に否定しながら、
同じ文中で、存在すら怪しい武田勝親の話を
補強材料にしようとするのが変だと思わないか?

689人間七七四年2012/05/20(日) 13:20:58.27ID:xlHExFKW
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状
この前提があるから、完全に土下座だろ。
恒興の母に恒興への取り成しを懇願しての加増だろ。

690人間七七四年2012/05/20(日) 13:31:20.99ID:6pSoxr+K
あなたの感覚では、
咎めた相手方に土下座するのが普通だというのはわかりましたが、
そんな変な感覚を他人に押し付けないでください

691人間七七四年2012/05/20(日) 18:15:19.63ID:OJkFrlRP
過疎スレを宣伝するアスペルガーだがwww

692人間七七四年2012/05/21(月) 22:09:11.00ID:rS1FBVbF
上杉景虎VS長尾景勝

景勝は政党後継者にクーデターを起こしたといえるだろうね

693人間七七四年2012/05/22(火) 21:55:13.64ID:9+UXNggY
まだ天地人史観がいるのかよ。

694人間七七四年2012/05/26(土) 17:48:59.61ID:faJvUfK2
しかし上杉は30万石を維持したのに較べて
織田は旧主だからと、朝鮮出兵陣の壮大さを
見せびらかせたい秀吉に家を再興してもらって
滅亡からおこぼれ復興させてもらっただけの
大名ですらなく、コジキ衰微高家だもんなぁ。
織田信雄系→2700石
織田信高系→2000石
織田信貞系→700石
もう、目も当てられないわ。

695人間七七四年2012/06/14(木) 12:01:56.82ID:sqRAU7+v
>>653
その古今無双の名将〜の勧修寺晴豊の書状はあくまで
綸旨案であって実際には再考された結果、送られてない。
しかも実際に出された同日付けの万里小路書状では
露骨に馳走しろとか書かれてるしwww
万里小路宛ての女房奉書では誠仁親王の元服費用を織田から取れ!
信秀も御所の御事を他と違う御事だと認識していたとか書かれてるように
信長にリップサービスして金を取ろうと考えた結果の下心からのマンセー言辞でしかない。
だから他者と比較して信長がスゴイと言った表現ですらない軽薄さ。
しかも実際には再考され出されてない。
そして女房奉書の如く元服費用だせと同日付けの万里小路も直球で信長宛て添え状出してる始末。

696人間七七四年2012/07/14(土) 16:46:33.01ID:61wPxEL0
>>689
よっぽど織田軍内は財政逼迫と兵の離散が多かったのだろう。

697人間七七四年2012/07/20(金) 06:54:56.55ID:St3Vl8na
不識庵謙信

698人間七七四年2012/07/20(金) 08:48:02.80ID:we6XbcIa
>>695
こりゃあ織田厨涙目ですなwww

699人間七七四年2012/07/20(金) 21:02:44.59ID:3j7FzVJt
そこから元服費用程度出しただけで天皇は親信長になってるんだから勝ち組だわなw
蓮成院で「天下一という噂がある」と言われて一週間で滅亡した雑魚武田w

700人間七七四年2012/07/21(土) 08:11:00.05ID:f0BFYxUX
×織田に滅ぼされた
○勝頼の失政自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊と浅間山噴火による自落と甲江同盟反故の騙し討ち


あんなもん火事場泥棒みたいなもんだろ
実力で滅ぼしたように語る馬鹿がいるから困る
大体高遠以外でろくな会戦なんかなかったじゃねぇかw

701人間七七四年2012/07/21(土) 12:11:22.67ID:yULUw6GS
噴火ごときで滅んだ雑魚武田wwwに変えてほしいの?w
武田が雑魚なのに変わりはないんだけどw

702人間七七四年2012/07/22(日) 09:04:45.12ID:sNKAZc9g
噴火で滅ぶ
花押をかけることが健康の証
弱いというか虚弱体質だな武田

703人間七七四年2012/07/22(日) 10:04:49.32ID:lx3+DRtu
噴火の天変地異を天皇の力だとか吹聴してたくらいだからな。

704人間七七四年2012/07/22(日) 12:15:23.12ID:IrsC6ou0
手取川がまた独自研究で書き換えられてるなw

705人間七七四年2012/07/29(日) 15:18:46.16ID:X5+SVVPC
すみません、質問なんですが、歴代古案612、「地下鑓触之覚」の原文はどのようなものなのでしょうか。
近くに大きな図書館もないので……どうぞよろしくお願いします

706人間七七四年2012/07/30(月) 21:15:03.08ID:4Z+1eSrW
剛田が風邪を引いてる所をのび太がボコボコにして最恐剛田ブランド失墜。スネ夫及び脅かされてたクラスメイトは一気に離散

こんなイメージでよい?

707人間七七四年2012/07/31(火) 01:09:53.35ID:3jCHdDSe
>>706
知るかよ。

708人間七七四年2012/08/31(金) 11:50:34.36ID:FewJxgdL
>>699
信長の命令を無視して市場取引を拒否られる屑銭ばっかりを献上して朝廷で不興を買った信長乙www

709人間七七四年2012/08/31(金) 12:58:27.75ID:EGE98Dy1
>>708
信長の命を受け…ふこう(?)を買った信長ってどんな意味だ?バカ

710人間七七四年2012/09/01(土) 20:02:10.14ID:ndoq4HgG
>>709が夏休み明けの月曜日、教師にこの話をすることを楽しみに待っている

711人間七七四年2012/09/04(火) 16:08:10.42ID:mbV4/gpM
>>662
はっ?また大嘘かよ。そんな事実はない。
一次史料を出せよ。
ちなみに結城秀康は松平の宗家の家柄で
徳川家の記録では1604年に松平姓に戻っても良いという許しは出たが
松平性を名乗った一次史料は存在しないのに、なんで信吉だけ改姓してんだよw
いつ徳川名乗ってよいって許可がでてんだよw

712人間七七四年2012/09/13(木) 07:55:02.14ID:WgBD0IgV
豆知識
鎌倉時代後期以降の人身売買は最低価格が2貫文だったと磯貝氏が指摘してる。
実際、借金苦から子供を売る習慣を宣教師があり得ないと驚いているが、
2貫文で売れるなら止むを得ず売り、
残された家族を養うのも止むを得ないかも。
またキリスト教徒同士では敗者であっても奴隷に出来ない代わりに
イスラム教信者は奴隷にできるため、
奴隷狩りが戦の目的となる場合もある。
日本人は宗教による差別が存在しない代わりに日本人同胞を奴隷にできる一方、養子にしたり、
奴隷が得た物は奴隷の所有物に見做されるなど恩情的奴隷制度であった。
しかし九州南部を中心に
倭寇文化圏は残虐な扱いを奴隷にしていたり、
しばしば奴隷獲得のために戦を惹き起こしている。
まったく蛮族と言う他はない。
ポルトガル商人は酷い扱いを受ける日本人や朝鮮人奴隷を買うことで、
待遇をよくしてやったと開き直ることができたのは、
恩情的奴隷制度の無い島津を代表とする九州倭寇文化圏の習慣を悪用したからである。

713人間七七四年2012/09/19(水) 09:00:29.68ID:klF8K+yM
ほう、信長みたいに有無を言わさず女子供ごと全員虐殺されるよりは温情的奴隷になった方がいいな。

714人間七七四年2012/10/21(日) 20:29:49.82ID:5ZdxnaFt
>>704
いろいろな史料に記事があるのに
手取川を必死に否定する人っていったい?

715人間七七四年2012/10/21(日) 20:47:48.80ID:U2jJRv1t
謙信の様な「義将」がいる事を認めたくないのでしょう。
自我が崩壊するのだろうな。

716人間七七四年2012/10/22(月) 03:57:27.01ID:0a850r0j
どこが義だとおもうんだ?w
そもそも義って?w
お花畑だよな、義w

717人間七七四年2012/10/22(月) 07:57:44.19ID:vyziF4Rr
>716
論語読め

718人間七七四年2012/10/22(月) 08:27:57.34ID:7hkPHljv
wikiの手取川改編してるのはブロック破りのsubだろ

719人間七七四年2012/10/22(月) 15:28:18.47ID:uQWZsUsF
上杉謙信は義と言うよりは仏教ヲタなよーな気がしないでもない。

720人間七七四年2012/10/28(日) 21:39:09.64ID:b8TwIzCG
北条氏康も足利義輝も認めた関東管領上杉謙信に完敗し、
滅亡寸前だった自称織田上総介。

あの状況で生き残びたのは本当に幸運だった。

721人間七七四年2012/10/28(日) 21:44:33.50ID:awx1RlQ5
480 名前:人間七七四年 :2012/10/28(日) 14:56:58.05 ID:b8TwIzCG
北条氏康も足利義輝も認めた関東管領上杉謙信に完敗し、
滅亡寸前だった自称織田上総介。

あの状況で生き残びたのは本当に幸運だった。

722人間七七四年2012/10/28(日) 21:45:53.58ID:awx1RlQ5
ID:b8TwIzCG

だがチョン乙www

723人間七七四年2012/10/28(日) 23:42:35.80ID:b8TwIzCG
>>721-722
真実を告げられて悔しかったの?
駄目だよ荒らしちゃw

724人間七七四年2012/10/28(日) 23:55:07.94ID:8L14LUTb
まあ当初自称だったのは謙信も同じだし?
右大将正二位?に正式に任命されてるし、格差は広がるばかりだなw

725人間七七四年2012/10/28(日) 23:57:11.14ID:b8TwIzCG
>>724
当初自称だった?
前任者の承認は考慮せず?

726人間七七四年2012/10/29(月) 01:47:30.86ID:IX9blEdq
当たり前じゃん
承認ってw
唯一の任命権を持つのは将軍だぞ?w

727人間七七四年2012/10/29(月) 20:21:25.30ID:YhZIDbwr
関東管領の任命権は関東公方にすら無いのに前任者って・・・

728人間七七四年2012/10/29(月) 23:13:13.75ID:SDSc7+U5
まぁいいじゃん。
先代様が後継者として承認・指名しなきゃ公方様の任命なんてないわけで。
細かいとこで突っつくと板全体が殺伐とするからやめといて。

729人間七七四年2012/10/30(火) 00:14:21.01ID:oI3Kbtjg
憲当の意思でなされたもので、
事前に将軍と関東国衆の承認も得ている。

730人間七七四年2012/10/30(火) 01:14:00.67ID:xmMYtLdx
>>728
>>729みたいな事いうからおかしいと指摘されてるだけだろ
あと前任者が指名することも無い、承認なんてもってのほか
承認できるのは唯一将軍だけ、そして事前承認なんて存在しない
よって自称、これが事実

731>7302012/10/30(火) 07:59:41.05ID:Hfp8JQLl
前任者等の意見も何もなく、勝手に将軍が任命するわけないだろ
関東管領の任命って天(将軍)から降ってくるように就任するものなのか?
上杉家の都合とか全く関係ないのか?

非難のための非難はやめてほしい

732人間七七四年2012/10/30(火) 08:26:38.49ID:xmMYtLdx
内部調整と正式手続きを混同されてもw

733人間七七四年2012/10/30(火) 09:18:39.91ID:bOQTjjI8
>>731に聞きたいけど、
侍所所司が後任を推薦すれば、将軍から任命される前でも有効なのか?

734人間七七四年2012/10/30(火) 12:33:04.87ID:Hfp8JQLl
733は先代や上杉家の都合も意見も何も関係なく将軍が代々勝手に関東管領職を初代から任命していたと言いたいんだな?
そういうバカな非難のための非難はやめてほしいものだ。


735人間七七四年2012/10/30(火) 12:55:00.51ID:o+vcrdpR
上杉氏の実子や足利氏からの養子ならともかく、
長尾氏からの養子を上杉氏の都合で勝手に任命できるわけ無いだろw

736人間七七四年2012/10/30(火) 14:10:10.76ID:Hfp8JQLl
上杉憲政の意向がなければ将軍が勝手に任命できないってことだな。

737人間七七四年2012/10/30(火) 14:29:59.88ID:xmMYtLdx
ID:Hfp8JQLlの乞い願う中世社会では、補任状の価値がまったく無いなw

738人間七七四年2012/10/30(火) 19:17:31.49ID:Hfp8JQLl
まぁ
 「上杉謙信の関東管領就任はまがいものではない」
ということでOK

739人間七七四年2012/10/30(火) 19:47:55.06ID:o+vcrdpR
上杉氏の意向だけで関東管領を任命できるようなら、幕府の存在意義は無いな

740人間七七四年2012/10/30(火) 20:09:24.99ID:o+vcrdpR
724 :人間七七四年:2012/10/28(日) 23:55:07.94 ID:8L14LUTb
まあ当初自称だったのは謙信も同じだし?
右大将正二位?に正式に任命されてるし、格差は広がるばかりだなw

を検証した結果、>>738も当初は自称だったことを認めた、ということでOK

741人間七七四年2012/10/30(火) 23:15:52.73ID:Hfp8JQLl
>738
総理大臣の意向で大臣を任命できるようなら天皇の存在意義はないな

>740
みとめてねぇよw
なんでそうなるかな
批判のための批判はやめろってw

742人間七七四年2012/10/31(水) 06:12:51.51ID:HXXsfi61
認証式と違って、将軍には拒否権があるんだぞ

743人間七七四年2012/10/31(水) 08:14:47.93ID:pZIbOVTJ
738 名前: 人間七七四年 投稿日: 2012/10/30(火) 19:17:31.49 ID:Hfp8JQLl
まぁ
 「上杉謙信の関東管領就任はまがいものではない」
ということでOK

741 名前: 人間七七四年 投稿日: 2012/10/30(火) 23:15:52.73 ID:Hfp8JQLl
>738
総理大臣の意向で大臣を任命できるようなら天皇の存在意義はないな


自演失敗ですか?w

744人間七七四年2012/10/31(水) 13:24:27.32ID:qNrpe77r
なんで【自称】関東管領の就任式に
関東の国衆が集まるんだよw

745人間七七四年2012/10/31(水) 13:48:21.34ID:pZIbOVTJ
別に就任式のために集まったわけじゃないから

746人間七七四年2012/10/31(水) 20:56:09.36ID:i1Hfh94+
>>744
つーか、その時は将軍の了承後だろ
今までは上杉憲政の意向で決まるかどうかを話題にしてたのに
わざとミスリード狙ってるのか?

747人間七七四年2012/10/31(水) 22:15:56.45ID:bMuB5XU7
上杉謙信の関東管領は正統だよ
北条の自称関東管領こそ他国の兇徒を物語る権威づけ

748人間七七四年2012/11/01(木) 06:30:41.85ID:WaosAFhU
北条氏は執権を名乗り
里見氏は副帥を名乗った

749人間七七四年2012/11/01(木) 08:49:52.50ID:ydH72KLk
>>746
そのときも承認なんて無いけど?

750人間七七四年2012/11/01(木) 08:58:34.29ID:eyYdjQ0i
お前ら幼稚な議論ごっこしてないで
専門書ぐらい読めよ。

751人間七七四年2012/11/02(金) 23:49:23.21ID:tgHrF8r3
将軍が任命権を持っていたのは鎌倉府の持氏時代までだろ。
そこで足利義教が鎌倉府は滅亡させた後は任命権なんて存在した証拠なんてない。
その後、義教が暗殺され義勝も早世すると6年に渡り、将軍自体が空位になってるし
義教の命を無視して上杉憲実が隠棲してしまうと、上杉清方は将軍自体が存在してない中で関東管領になってる。
完全に上杉氏の世襲職であって、後年では古河公方から養子をもらい、実子と管領職をめぐり争ったりする中で
義政は堀越公方を派遣するのがせいぜいで、
関東管領職継承後継問題に将軍が口出しした証拠もない。
上杉家が景虎を後継者にしたのなら、それは正統なものだよ。
将軍にはもはや関東の秩序維持への介入力などとっくに喪失したために
関東ではいち早く戦国の世が到来してるし、
長尾景春のように関東管領上杉すらも脅かす家臣まで登場してるし。
わざわざ景虎が将軍に挨拶に来たのも、律儀さからだろ。

752人間七七四年2012/11/03(土) 08:27:49.50ID:a8CeaE1e
お前がこの任命権に関してまったく調べてないのはよく分かった
相伝の守護でも補任状がだされてるって知ってる?w

753人間七七四年2012/11/03(土) 08:38:15.07ID:JGvvAERW
>>752
戦国時代の関東にはもう出されてないだろ。

754人間七七四年2012/11/03(土) 09:06:10.90ID:KFqHfxMH
>752
謙信がかつての手続きを経たのは秩序回復を目指しての事だろうな。
謙信って他の戦国武将とは一味違うな。

755人間七七四年2012/11/03(土) 10:51:52.09ID:a8CeaE1e
>>753
>>751の解説()も戦国時代の例じゃないっすねw
世襲の将軍職もいちいち朝廷から宣下あったことぐらい知ってるよね?w

756人間七七四年2012/11/03(土) 12:46:38.54ID:YKvlgkX1
>>755
へっ?そんな一次史料はどこにもありませんが?
とりあえず関東管領職への将軍の補任状の一次史料を提示してください。

757人間七七四年2012/11/03(土) 13:26:58.02ID:fTPHEJyW
鎌倉公方もみんな自称と言えるけど、
織田信長の上総介みたいな実体も前任者の認証もない
自称といっしょにするのは当時を知らなさ過ぎるよなw

758人間七七四年2012/11/04(日) 08:25:01.65ID:mKGUZhlw
>>756
別に>>751>>753はわかってて言ってると思うから、外野のお前が吼えなくていいよw

759人間七七四年2012/11/04(日) 11:07:44.04ID:W67kk+LX
織田厨逃亡w

760人間七七四年2012/11/04(日) 15:32:04.79ID:+JppR/dx
関東管領という幕府の役職と上総介という受領との区別すら知らないのかな?

761人間七七四年2012/11/04(日) 17:52:27.54ID:W67kk+LX
ますます実体が無くなって差が開いたなw

762人間七七四年2012/11/04(日) 20:16:27.78ID:mKGUZhlw
>>756
自信満々で聞くから軽く調べたら不通にあるじゃねえかw
それより俺は補任状もないのに清方が管領だというロジスティックがきになるんだけどw

763人間七七四年2012/11/04(日) 20:57:47.50ID:+JppR/dx
ちょっと落ち着け
「普通」と「ロジック」な

764人間七七四年2012/11/04(日) 21:19:21.99ID:+JppR/dx
永享十一年って足利義教は生きてるよね?

765人間七七四年2012/11/07(水) 08:52:06.20ID:M3S4gpst
>>756
事象関東管領に関東の諸将が集まるってw
それ時点でおかしいと思わないのかなぁ。
まずは事象じゃない証拠をだすべきじゃね?
つか、勉強してこいよw

766人間七七四年2012/11/07(水) 16:45:33.96ID:QsfiXrSW
散々挙げられてるだろ・・・

767人間七七四年2012/11/09(金) 07:20:34.10ID:WiWpe2xV
上杉謙信の下に集まった関東諸将って山内扇谷両上杉家の旧臣が中心だからな
主家が混乱衰退して生き残るために嫌々北条についてただけの連中
そんななかかつての主君である上杉憲政が認めた上杉謙信が大軍率いて関東へなんてなったら
謙信が馬鹿か赤子でもなけりゃ皆寝返るだろ、結局期待外れで出戻り連中もいたけどな

768人間七七四年2012/11/09(金) 08:07:06.70ID:aPq4/aXz
旧臣?被官でしょ

769人間七七四年2012/11/09(金) 12:42:13.16ID:0PJ4Yh9U
いや、その前に論点が変わっちゃってるよ!

770人間七七四年2012/11/11(日) 21:42:36.39ID:K7OTZkTr
あの10万の大軍で鎌倉まで制圧したのに、
本当に残念だったよな。
あれが成功してたら天下統一も夢じゃなかったのに。

771人間七七四年2012/11/12(月) 11:16:10.83ID:EIvXED9V
諸将が初物に乗った感が否めないが、機会にはなったよなぁ。

772人間七七四年2012/11/12(月) 12:13:48.12ID:dcyqdkNR
信玄が邪魔しなければ東日本から近畿にかけては全部従ったし、逆に謙信がいなければ信玄も大飛躍していたろうな。

773人間七七四年2012/11/12(月) 13:14:46.35ID:sQh/KypV
お得意のたら、れば

774人間七七四年2012/11/12(月) 18:04:10.24ID:dcyqdkNR
>773
状況よめばそのとおりだろ
関白とか将軍の動きが読めないっていうか知識がない煽りは本当は相手にしたくないのだが、誰でも書き込める掲示板では仕方がない

775人間七七四年2012/11/12(月) 18:16:05.17ID:sQh/KypV
それがたら、ればだっていってるんだけどなw

776人間七七四年2012/11/12(月) 21:32:29.82ID:aMOB1kdA
>>774
>状況よめばそのとおりだろ
そうは思わない人に説得できていない
全く根拠も無い仮定の話で他人を説得するのは無理だろ

777人間七七四年2012/11/12(月) 22:44:57.24ID:dcyqdkNR
そうは思わない人は知識がないからなぁ
英語の話をしているところで、「AとかBとかって何?」なんて言われたんじゃ面倒くさくてな
もう少し勉強してから来てよって思うだろ

根拠もない仮定の話とかって言いきっちゃってるし

778人間七七四年2012/11/12(月) 22:45:43.88ID:dcyqdkNR
776は蘆名氏が軍勢率いて越後を武田から守ってたって話も知らないだろ。

779人間七七四年2012/11/13(火) 01:51:48.64ID:NphxXm18
ならこんなところでお前の研究成果()を披瀝すべきじゃないんじゃねw
つかこんなところにレスするのは面倒じゃないんだなw

780人間七七四年2012/11/13(火) 10:09:33.70ID:ocGFGOg+
あーあ、人格批判に行きはじめっちゃったよ・・。

781人間七七四年2012/11/13(火) 13:11:04.81ID:NphxXm18
だな
煽りだの知識が無いだのひでえ奴だよ

782人間七七四年2012/11/13(火) 20:56:06.41ID:nDlWNzM+
謙信は関東管領の武威を示せれば満足するから
北条を滅亡させる気すらなかった。

783人間七七四年2012/11/13(火) 22:36:36.61ID:DUM17OOX
関東管領の任務に忠実すぎた。
もっと関東の国人諸将の領地を直轄化させまくればよかった。
ただ一時は上野国全土まで北条領化された中から
よく押し戻せたとも思う。
北条が南関東において進めていた直轄化政策を北関東では断念させたのも謙信の武功ゆえだろう。

784人間七七四年2012/11/14(水) 10:21:13.60ID:mCf+070s
北関東までまだ勢力圏を確立出来ていなかったとも言えるけどね。
上野は同族が多い地方でもあるし。
が、謙信が来たときの勢いは凄いよなぁ。
いっそうのこと、関東に地盤を置いたらどうなっていたんだろう。

785人間七七四年2012/11/14(水) 18:37:09.98ID:iUodIwIq
ジリ貧になってただろう、他人の領地で戦争するのと
自分の領地でやるのとはわけが違うからな

786人間七七四年2012/11/14(水) 19:34:51.88ID:Jvu7jSjD
三国越えを今の国道17号線でバイクでやると凄まじく大変なのが理解できる。
当時は細い街道で険しさは今の国道の比ではない。
謙信の志は三国峠に阻まれたといっていいだろうな。

787人間七七四年2012/11/14(水) 21:31:45.59ID:/zqrvwyr
長尾能景、為景、景虎の三代の強さは遺伝というより越後兵のおかげだと思う

788人間七七四年2012/11/14(水) 21:41:54.73ID:Jvu7jSjD
為景の相手は越後の衆でしょ

789人間七七四年2012/11/14(水) 21:43:58.39ID:rHBEsWEg
>>785
越後、上野、武蔵、相模、伊豆はもともと上杉氏の領土だから、
自分の領地なんだけど???

790人間七七四年2012/11/14(水) 22:30:23.36ID:/zqrvwyr
信濃も守護国だぞ

791人間七七四年2012/11/14(水) 22:58:54.95ID:rHBEsWEg
信濃守護は小笠原氏だろ

792人間七七四年2012/11/15(木) 00:57:15.03ID:9L1Z7w9z
>>789
もともとって言うことは支配力は無くなっていたことは
理解できてるんですね

793人間七七四年2012/11/15(木) 08:10:37.54ID:xUfZyPmg
>>785
???
地盤を置いたらって話なのに、他人の領地ってのがよく解らない。

>>789
上杉氏もそうだけど、長尾氏の地盤もある。
後北条が苦労した地盤作りよりは上手くいきそう。
が、関東に出てどうするかだよなぁ。

794人間七七四年2012/11/15(木) 08:20:20.18ID:w2d77qov
山内と扇谷についてはノータッチなのかお前ら
越後は越後でまた違う上杉だしな

795人間七七四年2012/11/15(木) 12:34:03.89ID:xUfZyPmg
>>794
言っている事が解らない。
謙信は山内上杉なんだが・・・。
越後のはとーちゃんに潰されてる。

796人間七七四年2012/11/17(土) 12:14:00.06ID:WK5V9qxK
越後府内長尾氏なんて関東とまったく関わりねーに等しいのに
関東に地盤のクソもあるかよ。

797人間七七四年2012/11/17(土) 12:42:31.09ID:z4cfZ5ig
>>794
おいおいそこからズレてるのかよw

798人間七七四年2012/11/17(土) 12:45:56.27ID:z4cfZ5ig
>>796
武蔵の大石氏、藤田氏、用土氏、太田氏も上杉の旧臣なんだけど、
関わり全く無い???

799人間七七四年2012/11/17(土) 12:52:06.35ID:TLPyekbA
上杉家ばらばら、北条に負けてもしゃーないわ・・・

800人間七七四年2012/11/17(土) 12:56:30.21ID:z4cfZ5ig
>>799
それだけ強大だったから。
成田氏は、永正の乱のころから上杉氏に対して反抗的になっちゃったし。

801人間七七四年2012/11/17(土) 13:18:13.28ID:IqPh6JlQ
人望なさすぎやな

802人間七七四年2012/11/17(土) 13:29:05.77ID:T6lxAcyN
藤田氏(秩父、寄居、その近辺)は謙信の道案内して婿(氏邦0)に長男ともども殺されているよな。
猪俣本家が北条を滅ぼすきっかけを作ったのも、関東を蹂躙した北条に対する仇討みたいな感じかな?

803そういえば2012/11/17(土) 13:51:54.63ID:T6lxAcyN
上杉景勝が北条討伐後に関東管領として君臨するという秀吉との約束があったな。
猪俣は上杉景勝のスパイ・諜報員だったのかも。

804人間七七四年2012/11/17(土) 19:16:34.29ID:WK5V9qxK
人心を失って滅亡した山内上杉を継ぐのはゼロからのスタートよりキツイ

805人間七七四年2012/11/17(土) 21:14:55.24ID:BEKQ76u/
猪俣邦憲が本家だと考えている人を初めて見たw

806人間七七四年2012/11/17(土) 23:45:51.31ID:z4cfZ5ig
>>804
んなわけないだろw

807人間七七四年2012/11/19(月) 10:00:01.47ID:1AcfpWIL
>>796
長尾氏が何処の出身かから勉強した方がよさそうだね。

>>804
人心を失った?
支配力が無くなったんだよ。

808人間七七四年2012/11/23(金) 21:19:01.51ID:59thWJzt
長尾氏の出身地?鎌倉郡だけど、んなもん鎌倉時代中期に長尾氏滅亡してるし
南北朝初期に兄が上野守護代で弟の長尾景恒が越後守護代になって以来、
別々に自立してんだから、関東に越後長尾氏は基盤なんてねーよカスw
どんだけ遡るつもりだw
だいたい山内上杉の負債だけを継承してもぜんぜん有利になんねーよ。

809人間七七四年2012/11/25(日) 22:10:07.55ID:90Fl5WYa
白井長尾氏と越後長尾氏は長年同盟関係だったし、
足利長尾も謙信は重用してる。
更に山内上杉の家名によって上野一国を完全に掌握してる。

氏康と信玄が食止めなければ、関東管領の名の元に
下野から伊豆まで全てを飲み込んだのは必然の流れだっただろ。

810人間七七四年2012/11/26(月) 10:23:00.88ID:ytKjw209
>>808
あーあ、持論保てないから人格非難が始まっちゃったよ。
調べたのかもしれないけど、経緯を調べないで出身地しか調べなかった口か?

>>809
>808に言っても駄目かもしれん。

811人間七七四年2012/11/26(月) 22:51:44.27ID:5Hmt1GrJ
>>810
808と809の文章読み直しなされ。
両方とも同じ事言ってますから。

812人間七七四年2012/11/27(火) 21:51:41.95ID:B3gekdQj
>>811
俺は1行目から808を全否定したつもりなんだけどなー。

813人間七七四年2012/11/29(木) 23:28:02.52ID:k2C5FPRu
>>白井長尾氏と越後長尾氏は長年同盟関係
これの一次史料はまだなの?越後長尾ってどこのことを指してんの?
まさか府内長尾の父親と白井長尾って関東管領に謀反した長尾景春のことでも指してんの?w

そもそも越後長尾からして府内長尾氏や古志長尾氏や上田長尾氏に
分かれているのも知らんのが露呈してる頭の弱い文章だな。
ついでに総社長尾とかも知らんのがバレバレ
しかも利根川以東なんて古河公方の勢力圏であって
関東管領上杉氏の勢威は及んでなかったのも知らんだろw
つか利根川の東遷もわからんと思うけどな。
>>足利長尾も謙信は重用してる
へっ?足利長尾なんて謙信が由良氏に相続させちゃったじゃんよw
白井長尾や総社長尾は上野国を捨てて越後に逃亡してて、地盤なんてまったくねー流浪組だろw

814人間七七四年2012/11/30(金) 08:26:35.83ID:XM5+bQyK
次は一時資料かw
解りやすいヤツだなぁw

言ってる事ぐらいみんなわかってて、その上で返しているんだけどなぁ。
地盤がないっていう一時資料出してくれよw

815人間七七四年2012/12/01(土) 03:26:36.02ID:Da4+bpox
>813
ほぼ全行間違ってるw

816人間七七四年2012/12/01(土) 03:48:15.38ID:Da4+bpox
>>813
>これの一次史料はまだなの?越後長尾ってどこのことを指してんの?
>まさか府内長尾の父親と白井長尾って関東管領に謀反した長尾景春のことでも指してんの?w
景春の子、孫、ひ孫まできちんと調べましょう

>そもそも越後長尾からして府内長尾氏や古志長尾氏や上田長尾氏に
>分かれているのも知らんのが露呈してる頭の弱い文章だな。
古志長尾氏や上田長尾氏と越後上杉氏の主従関係の変遷ももきちんと調べましょう

>ついでに総社長尾とかも知らんのがバレバレ
総社長尾氏と山内上杉氏の主従関係の変遷ももきちんと調べましょう

>しかも利根川以東なんて古河公方の勢力圏であって
>関東管領上杉氏の勢威は及んでなかったのも知らんだろw
>つか利根川の東遷もわからんと思うけどな。
足利長尾氏と山内上杉氏の主従関係についてきちんと調べましょう

>>>足利長尾も謙信は重用してる
>へっ?足利長尾なんて謙信が由良氏に相続させちゃったじゃんよw
長尾当長について念入りに調べましょう

>白井長尾や総社長尾は上野国を捨てて越後に逃亡してて、地盤なんてまったくねー流浪組だろw
白井長尾氏と総社長尾氏が越後に移った年代を調べましょう

817人間七七四年2012/12/03(月) 07:04:28.16ID:9loC7aB5
ソビエト共産党の記念すべき日が誕生日

http://music.geocities.jp/jphope21/0204/41/275.html

陸軍の軍神として有名な加藤隼戦闘隊隊長の加藤建夫のことだ。

818人間七七四年2012/12/04(火) 00:23:03.13ID:zKRSEA4E
>>816
あんた実は何も知らんだろ・・・

819人間七七四年2012/12/04(火) 12:31:44.91ID:jaY4a373
まあ、>>813が何に拘っているのか知らないけど、特に北関東と越後は結構
な繋がりがある。
普通に上杉、長尾系の親族や家臣は謙信側に付くわな。

820人間七七四年2012/12/05(水) 06:23:17.86ID:xbmvv6hr
長尾為景が上杉房能や上杉顕定を殺したことを知らない人がいるな

821人間七七四年2012/12/05(水) 08:48:28.68ID:/h9WYOMR
普通に知ってるだろ。
その後に山内が頼ってきたって経緯もね。

822人間七七四年2012/12/08(土) 09:35:37.25ID:FHSBNd6S
だがさん歯切れが悪いね
代わりに調べてみるね

長尾景英
父とともに主君である上杉顕定と戦うが、本拠地である上野国白井城が
奪還されると、あくまでも顕定に対抗しようとする父と対立した。
その後顕定が戦死すると、景春は顕定の養子の憲房とも戦うが、
逆に景英は憲房に対して同じ顕定の養子であった上杉顕実から
関東管領の地位を奪うように勧めた(永正の乱)。このために
親子の対立が激化して景春は出奔し、逆に景英は憲房を援けて
顕実追放に功を挙げたとして、憲房によって白井長尾氏の当主に
立てられた。

長尾景誠
景英の嫡男で、長野業正の甥に当たる。父の病死によって家督を継ぎ、
白井城主となる。長野氏の援助を受けつつも、総社長尾顕景や越後守護代
長尾為景と軍事面で盟友関係を結んだ。
しかし、家督を継いだ翌年、家臣によって討たれてしまった。業正の斡旋に
よって、跡を総社長尾家出身の憲景が継いだ。


長尾憲景

総社長尾顕忠(またはその庶流の高津長尾顕景)の子で、白井長尾景誠の
養子となり、景誠の横死後に長野業正の斡旋で当主となる。初め景房を
称していたが、主君上杉憲政の偏諱を受けて憲景と改名した。永禄10年
(1567年)、甲斐の武田信玄の上野侵攻で白井の所領を失い、越後の
上杉謙信の許へ逃れた。その後は謙信に従って各地を転戦したが、
元亀3年(1572年)、真田幸隆に白井城を攻められて八崎城に逃れた。
この際次男の輝景に家督を譲った。翌年には越相同盟が結ばれ、上野への
諸将の影響力が薄まったために白井城に戻る。謙信死後は御館の乱で
上杉景虎に与したため、乱後は武田勝頼、滝川一益、後北条氏に仕えた。

823人間七七四年2012/12/08(土) 09:46:45.52ID:FHSBNd6S
白井長尾氏の次は総社長尾氏

長尾 顕方

総社長尾氏当主。山内上杉家家臣。一説には直江信綱の父ともいわれる。
永正6年(1509年)、養父の死により幼くして後を継ぐが、関東管領上杉顕定の
後継争いで伯父の成田顕泰と共に上杉顕実を支持し、武蔵の鉢形城に拠って上杉
憲房と争うが横瀬景繁・長尾景長に敗北し、勝った憲房によって家宰の地位を
奪われて景長に与えられる(永正の乱)。
これを深く恨んだ顕方は大永4年(1524年)に相模の北条氏綱に内応して謀叛を図るが、
憲房の後を継いだ上杉憲寛の命を受けた従兄で庶流の高津長尾氏の長尾顕景に攻められて
当主の座も失った。扇谷上杉家の太田資頼は、この件で顕方を激しく非難している。
以後の消息は不明。以後総社長尾家の家督は顕景の子孫に引き継がれる事になった。


長尾 顕景

上野の総社長尾氏の当主。庶流高津長尾氏の長尾定明の子。
関東管領上杉顕定に仕えて一字を拝領する。永正7年(1510年)に越後の長尾為景との
戦いに加わった父定明が長森原の戦いにおいて顕定とともに討たれたため、その後を継ぐ。
大永4年(1524年)、従弟で総社長尾氏当主の長尾顕方が山内上杉家の家宰職を
足利長尾氏の長尾景長に奪われたことを恨んで北条氏綱と内応した。これを知った
関東管領上杉憲寛によって顕方は廃され、代わりに顕景が当主となった。
だが、顕景も白井長尾氏の長尾景誠とともに長尾為景と通じたため、大永7年
(1527年)に憲寛の命を受けた長野信業に攻められて降伏、出家して知龍斎
元昶(ちりゅうさいげんえい)と名乗って家督を景孝に譲った。
その後の動向は不明だが、上野への武田信玄の侵攻で総社長尾氏が所領を
失った時に老齢の顕景も一族とともに越後の上杉謙信を頼ったとも言われ
ている。

824人間七七四年2012/12/08(土) 09:49:48.66ID:FHSBNd6S
>>818
wikiだけから見るとだがさん負けっぽいんだけど?

825人間七七四年2012/12/08(土) 13:48:01.33ID:kdoLBJjA
白井長尾氏も総社長尾氏も長尾為景と共闘しまくりじゃねーかwww

826人間七七四年2012/12/10(月) 12:24:27.99ID:pYeCj7sO
なんか、家の話が人の話にすり替わっている様な。
まず、謙信に反意をした上杉や長尾がいたかと言うと・・・。

827人間七七四年2012/12/15(土) 02:04:05.97ID:Bvk1Jnix
>>816
お前アホか。
関東幕注文には宇都宮、小山、梁田、皆川、横瀬の名があるんだぞ?

828人間七七四年2012/12/15(土) 02:05:16.39ID:Bvk1Jnix
ってよく見たらだがのアホレスか。

829人間七七四年2013/02/11(月) 21:48:33.39ID:AouNks2p
>>825
同盟したとする一次史料ソースは?
>>827
古河公方と関東管領の対立時代に
宇都宮、小山、梁田、皆川、横瀬の名の入った
関東幕注文があるわけないだろw超ワロタw時代認識がごちゃ混ぜすぎw

830人間七七四年2013/03/15(金) 10:38:28.37ID:1CrsMKYj
今福匡『神になった戦国大名―上杉謙信の神格化と秘密祭祀―』(洋泉社、2013年発行)

831人間七七四年2013/03/15(金) 14:34:46.01ID:QEScWENM
>>830
謙信公命日に発売されたね。

832人間七七四年2013/03/23(土) 20:43:20.77ID:cD3MYnkN
松隣夜話にこのような記述があるのですがわかる方教えてください

越前境宮野郷主中沢長兵衛、殊に豪強の士たり。
信長より柴田修理を以って、様々手を入れ申さるるに依って、振方なく裏切の約束を致す。
然るして松任の城主馬を絶し給ふ時も、肺肝を砕くと雖も、謙信衆手配違わぬ故、相窺うことを得ず。
猶以て隠密に致し、さらぬ振にて候ひけるを、謙信公、如何にしてか知召しけるにや、月迫に及び、歳末の御礼に、登城致しけるを召出され、童坊に後の戸を鎖させ、御腰物を抜放し、長兵衛脇差抜き、立上る所を討たせ給ふ。
数月の御重病にて、御肉落ち、就中二十日以前より、御食事一向絶ち給えば、御力も定めて落ち給い、御手足も叶ふまじく、危く見奉るの所に、思の外御身軽き事、鳥の様に見え給う。
一の太刀にて、肘の懸りをふつと斬つて落され二の太刀を以って、高紐の辺を横手切に、露も懸けず、三つに切つて離し給ふ。見る人、肝を消さぬはなし。即ち中条五郎右衛門・苦桃伊織に仰付けられ、中沢共の者五十余人、御坪の内に於て之を切害す。中条五郎右衛門疵を蒙る。
苦桃衆・中条衆九人まで討たれ、片時の間に之を尽す。
殊更見物目覚めたるは、苦桃伊織家来浄真といふ者、小太刀を以って走り回り、総て七人まで敵を討つに、皆余の所に切る事なし。
一の腕・二の腕・高肘・手の首、一分も志す所を誤たず。
自身も髪面・太股、かすり手二箇所蒙る。稀代の達人なり。

833人間七七四年2013/03/29(金) 06:05:37.61ID:ZF75A8fF
四天王って言っても多聞天だけ毘沙門天と呼ばれたり別格だよな
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1364488848/l50

834人間七七四年2013/05/05(日) 05:51:57.48ID:VsLpKHyN
【長野】野尻湖で溺れ2人死亡=合宿中の駒大生
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1367584402/

定満&政景ごっこが現代にも根付いてたとわwwwwwww

835人間七七四年2013/08/06(火) NY:AN:NY.ANID:E+Ip4QNY
謙信最強

836人間七七四年2014/03/15(土) 11:43:37.72ID:u7kM3jOb
>>829
そいつキチガイだから相手すんな。

837人間七七四年2014/03/31(月) 00:57:00.59ID:48yiFXMS
戦国時代についてマニアックなトークをしているラジオだよ
今回のテーマは「上杉謙信の旗印」
http://www.suki-radi.com/radio/radiostation.html

838人間七七四年2014/09/02(火) 23:37:43.72ID:2AmPLpwU
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839人間七七四年2014/09/05(金) 16:34:00.56ID:90g14pjO
今夜BS11でやるね

840人間七七四年2014/09/29(月) 15:59:10.07ID:eo0IeJnl
桓武平氏鎌倉氏流越後長尾氏歴代当主とその正室

守護代家当主名      正室出自
長尾平内左衛門尉景茂   葛西時清の娘
長尾四郎景忠        長尾光景の娘
長尾四郎景能        長尾景煕の娘
長尾弾正左衛門尉景為   佐原明連の娘
長尾弾正左衛門尉景忠   長尾基景の娘
長尾新五郎定時      山吉長久の娘
長尾弾正左衛門尉景恒    長尾景直の娘
長尾豊前守景晴       山吉長久の娘
長尾筑前守高景      長尾景行の娘
長尾弾正左衛門尉景房    長尾景晴の娘
長尾信濃守頼景       山吉行盛の娘
長尾信濃守重景        長尾景良の娘
長尾信濃守能景       高梨政高の娘
長尾信濃守為景       高梨政盛の娘
長尾弾正左衛門尉晴景   上杉定実の娘
長尾弾正少弼景虎      なし

841人間七七四年2015/01/14(水) 02:46:29.71ID:lCjkJNXt
謙信がやってたように梅干し食べながら酒飲んでみたけど結構キツいな
こんなの毎日やってたらそりゃ体壊すわな

842人間七七四年2015/01/14(水) 21:59:19.15ID:yeaKfGF0
脳溢血コースまっしぐら

843人間七七四年2015/01/25(日) 00:03:33.15ID:xZLKouOy
たしか酒好きという資料はいくつかあるが大酒呑みというのはないとか

844人間七七四年2015/01/25(日) 00:15:15.08ID:DZBsp1q2
このスレ昔からあるよな
まだ埋まらないのか、スレ主は土下座して詫びを入れろ

845人間七七四年2015/02/03(火) 01:03:16.03ID:JfUwmkDJ
>>844
土下座するのはお前だ。謙信公に謝れ!

846人間七七四年2015/02/09(月) 01:11:27.22ID:WUHp6F0S
桓武平氏鎌倉氏流越後長尾氏歴代当主とその正室

長尾平内左衛門尉景茂   葛西新左衛門尉時清の娘
長尾四郎景忠   
長尾四郎景能   長尾四郎太夫景煕の娘
長尾弾正左衛門尉景為   佐原七郎左衛門明連の娘
長尾弾正左衛門尉景忠   長尾左衛門尉基景の娘
長尾新五郎定時   

長尾弾正左衛門尉景恒   
長尾豊前守景晴   山吉伊予守長久の娘
長尾筑前守高景   
長尾弾正左衛門尉景房  上杉中務大輔朝顕の娘
長尾信濃守頼景   山吉伊予守行盛の娘
長尾信濃守重景   
長尾信濃守能景   高梨摂津守政高の娘
長尾信濃守為景   高梨摂津守政盛の娘
長尾弾正左衛門尉晴景   上杉兵庫頭定実の娘
長尾弾正少弼景虎       なし

847人間七七四年2015/05/27(水) 13:49:57.78ID:63A4eMJo
謙信のエピソードで、槍隊の穂先が少しでも乱れたり、
部隊を突然左右に分けたときに取り残されたら処罰される
っていうのをどこかで見た覚えがあるのですが、本当にあったのか分かりませんか?

848人間七七四年2015/08/25(火) 02:28:40.46ID:LQlexbXz
上杉謙信が軍神と言われ始めたのは何時頃だろう?
2001年発売の信長の野望 嵐世記で合戦特技・軍神が付いてから
上杉謙信=軍神という扱いが増えたように感じる

それまでの烈風伝では
(1530〜1578)戦国最強と謳われた「越後の龍」。上杉憲政から関東管領職を譲られ、上杉姓を名乗った。
「毘」の軍旗を翻して疾駆する姿は、軍神の如しと畏れられた。
という具合に軍神の如しという表現で
軍神そのものは南無諏方南宮法性上下大明神のような祀られている神々を指していたはず

849人間七七四年2015/11/21(土) 10:54:40.90ID:kjDgXzx2
上杉謙信が最も寵愛した
男色相手というのは
誰でござったかの?

教えて下されい。

850人間七七四年2015/11/22(日) 00:20:41.69ID:8FEmH2+x
散々調べても解らないなら
何で調べたのか挙げると同時に

「誠に申し訳次第もござりませぬが、
蒙昧なる小輩者の私めに博識なる皆様のお知恵を
僅かでもよろしいのでお貸し頂きたい」

と虚心になって土下座して頼めばよろしい

851人間七七四年2015/11/23(月) 10:37:05.24ID:D7xLD4A3
だが断る!

852人間七七四年2015/12/07(月) 21:31:11.52ID:ruEcg8ys
謙信が衆道を愛したという明確な根拠はない。
「独身だったからゲイなんだろw」という発想をするやつも多いが。

853人間七七四年2015/12/08(火) 04:42:17.61ID:OXUIHTOk
菊丸に夢中だったらしい

854人間七七四年2016/02/10(水) 06:08:17.91ID:ijhC9ro3
https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTeOp0(パトカーサービス不足ウソ製作費)

https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTe0p0 メジャールールブック総務京都米予算
https://www.youtube.com/watch?v=fDO_QMfIvSc
ニューヨークネックス従業員英産プルトニウム任天プロチャイニーズオージービーフステーキ(キッペイ武田ファンド

855人間七七四年2017/01/31(火) 23:13:53.13ID:vmApUXnn
謙信本↓

上杉謙信―信長も畏怖した戦国最強の義将 (Truth In History)

上杉謙信の夢と野望 (歴史新書y)

この2冊、かなりレベル高い良書。だと思うんすが、皆さんはどちらが好み?
また他におススメの謙信本ありますか?

856人間七七四年2017/05/27(土) 17:56:47.35ID:MJLNTKY+
越後の龍って異名は
『龍虎相討つ。と言う事は、どちらかが龍でどちらかが虎という意味なんだな。
信玄は荒っぽい虎のイメージだから謙信はきっと龍だな。』
みたいな頭の悪い奴が付けた感じ
単にライバル関係を現している言葉であって
別にどちらかの異名が龍で虎と言うわけでもないのにね
しかも名前に虎が入ってるから龍にされた謙信に違和感ありすぎ
たぶん最近付けられたんだろう
ゲームの攻略本や新解釈と銘打ってアニメキャラみたいな極端な人物像をでっち上げてるタイプの歴史本で

857人間七七四年2017/05/27(土) 20:03:46.89ID:1LrhFYKR
>信玄は荒っぽい虎のイメージ

???

858人間七七四年2017/05/27(土) 23:09:56.90ID:zklsMp/H
謙信は「毘」と「龍」の軍旗を使ってるから
当時から龍のイメージはあったと思う

859人間七七四年2017/05/28(日) 16:24:49.75ID:9VrKcpY1
まあ越後の虎の方が一般的だとは思う
むしろ信玄の甲斐の虎の方がよくわからない(周囲の人の名は虎だらけだが)
いずれにしろ後付けだろうけど

860人間七七四年2017/05/28(日) 18:05:02.99ID:5EBomSxA
軍旗と印章で謙信・信玄・氏康が自己主張
しながら龍・虎・獅子と見事に棲み分け。

861人間七七四年2017/05/28(日) 18:41:06.75ID:Bhu3d4EH
信虎が甲寅の生まれだからだろう
更に領主専制を目論んだからか諸侯にやたら偏諱でバラ撒いた

北条の虎の印判は子生まれの早雲による鼠が杉の大木食い破って虎になったという
夢見が元だそうな

862人間七七四年2017/05/28(日) 19:42:39.43ID:/DsBji7c
なんの関係もない氏康の「獅子」が一番後付け臭い
龍虎に並び立とうと必死な感じ

863人間七七四年2017/05/28(日) 20:10:30.74ID:IpFQQ8c7
鼠が虎になったと云われる家で、なぜか獅子だからなw
まあ、この逸話も後付けだろうが

864人間七七四年2017/05/28(日) 20:44:04.51ID:Bhu3d4EH
まあ基本的に夢見なんて作り話だ

865人間七七四年2017/06/17(土) 18:04:50.98ID:bgqIq258
相模の獅子はせいぜい20年位かな?
学研の歴史群像で唐突にでてきたもんだと思うが。

866人間七七四年2017/07/31(月) 23:37:46.12ID:tyddy7SZ
武田信玄︰甲斐の虎
上杉謙信︰越後の龍
北条氏康︰相模の獅子

小田氏治︰常陸の不死鳥
佐野昌綱︰下野の狐

867人間七七四年2017/08/01(火) 23:42:05.17ID:gtKi4xjJ
猛将ですね

868人間七七四年2018/01/28(日) 01:56:03.98ID:908Be69n
去年末刊行の高志書院「上杉謙信」を読んだが、やはり
晴景と仙洞院の生母は上条上杉氏で確実のようだね。
これは、森田真一氏も数年前に著書「上杉顕定」で指摘
(朴峰永浮が上条氏であると)していたことだけど。

869人間七七四年2018/01/28(日) 03:32:15.93ID:e7fPzNZO
前々から気になってたんだけど晴景は謙信とは親子ほど離れた兄説と、謙信とは2〜3歳くらい離れた兄説があるよね。
最近発売された高志書院のは前者を採用してるが一方、乃至政彦氏は後者を採用している。
上杉氏年表も「1527年・為景に男子が誕生(晴景か)」とあるが、「1553年・晴景が死去(享年45歳)」とあり年齢が矛盾している。
高志書院の著書では1527年に生まれたのは晴景の弟であり、謙信の兄である人物とされているけどどちらが正しいんだろう。
後者の説だと晴景は13歳くらい?で家督を継いだことになってしまうことから普通に考えればちょっと早いのかな、と思ったり

870人間七七四年2018/02/10(土) 22:08:22.44ID:+1z5+v4i
上杉謙信は戦国最強。あと5年長生きしていれば畿内制圧し信長を平らげ、室町幕府復興も成し遂げていただろう。

871人間七七四年2018/02/12(月) 04:45:09.46ID:mHDPv0Je
>>869
「1527年・為景に男子が誕生」は晴景ではない。それだと、
13どころか満9歳で家督を継ぐことになってしまう。
1486年生まれの為景の長男としては遅すぎるし。

872人間七七四年2018/02/12(月) 20:49:28.74ID:SoUxJ0Bw
実在したかどうかはしらないけど、為景の子は晴景・景康・景房・影虎の4兄弟と仙桃院たち三姉妹じゃないの?

873人間七七四年2018/02/18(日) 10:23:20.75ID:L7YS4bl8
別に長男だから嫡男として家督を継げるわけじゃないし、為景の長男が他家の養子に行って…とかね

874人間七七四年2018/03/05(月) 13:39:04.62ID:vFLQl7hw
上杉謙信の著作は天室光育について触れているものがあるが益翁宗謙に触れているものが少ない。

875人間七七四年2018/03/12(月) 20:13:50.56ID:/9m4ku5R
>>868
最近の最強本かな?

876人間七七四年2018/03/21(水) 10:09:53.49ID:p0sm3iFD
長尾為景の正妻は上杉氏(上条上杉弾正少弼の娘)。

よって、 上条弾正少弼−為景正室−仙洞院−上杉景勝  となる。

877人間七七四年2018/03/28(水) 18:51:55.05ID:AFPyZB+R
警察、創価と在日マフィアによる集団ストーカーの模様
^^(車両ナンバー付き)
https://www.youtube.com/watch?v=gTOBN1AkSz0
https://www.youtube.com/watch?v=bbPcpPwO3ug
https://www.youtube.com/watch?v=de1jeSPGGNo

怖ろしくておもらししそう´・ω・`

878人間七七四年2018/04/30(月) 19:23:52.62ID:zNFxkftT
>>832
うん信長って暗殺者を多数放ってたんだろうね
斉藤義龍、武田信玄、上杉謙信、いずれも死期が信長に都合良過ぎる

879人間七七四年2018/06/14(木) 13:08:34.36ID:2P+1WSnj
>>878
30年前のTBSと大映テレビとの共同制作の時代劇「おんな風林火山」で武田信玄の妻・三条夫人が織田方の間者に毒殺される場面があった。

880人間七七四年2018/06/16(土) 17:59:00.18ID:HJYkoRFQ
https://www.youtube.com/watch?v=_t675VZJgl4
時代を超えて受け継がれる
日本人の心意気。

881人間七七四年2018/06/16(土) 18:13:55.81ID:K83ptNsE
大河風林火山の影響で上杉謙信=GACKTのイメージだったが
最近の2ちゃん見てると各地に遠征しては青苧を売り込むセールスマンのイメージになってきた

882クバの化身2018/06/17(日) 04:33:46.51ID:50+MZUIw
バレないように細工していても、自演はバレるものである
が、まことは、統合失調症のため、その理論が理解出来なかった

883人間七七四年2018/06/17(日) 11:19:33.65ID:fMxPM8CN

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