【舞兵庫】石田家臣を語る【横山喜内】

1 ◆RX/MoGZ9xs 2006/07/14(金) 22:36:30ID:TmC93GmF
舞兵庫や島清興など多彩な石田家臣達を語りましょう

165人間七七四年2010/10/30(土) 07:06:46ID:4emouvZH
これは知らなかった、すごい!

>>164
ありがとうございます。

166人間七七四年2010/10/30(土) 12:49:14ID:I9UFHAE0
>>162-163
おお、くわしくありがとう。寄贈品かー。
博物館は自分も何度かいったがそういうのは気づかなかったよ。

スレ違いな所にくいついてスマンかった。
もしよかったら冊子名や著者名わかったら、大谷スレの方に書いて頂けるとありがたいです。

167人間七七四年2010/10/30(土) 15:03:07ID:4emouvZH
了解しました。
11/7以降になると思うけど、冊子の詳細判明次第、大谷スレに書きます

168人間七七四年2011/02/05(土) 08:32:59ID:JwPwSN/O
結束の強いイメージ

169人間七七四年2011/10/07(金) 10:53:27.19ID:LgeKScnE
そんな大雑把な

170人間七七四年2011/10/12(水) 00:08:50.76ID:GQNXv9Ah
先月長浜城歴史博物館に行ったら
二年前に発見された、例の
嶋左近の名が書かれた書状が展示されてて鼻血出そうになった

171人間七七四年2011/10/15(土) 16:20:30.34ID:wlnJ0n45
戦国武将の手紙に載ってる家臣3人の名前が挙がってるやつ?

172人間七七四年2011/10/24(月) 17:36:02.08ID:ifu8Bw8H
遅レススマソ。 ぞう、免相がなんちゃらで3人を行かすねっ、てやつ

173人間七七四年2011/10/24(月) 21:32:13.28ID:ifu8Bw8H
追記…期間限定展示だたと思

174人間七七四年2011/10/26(水) 16:47:34.48ID:IGqmjGKN
>173
どうもありがとう。展示サイクル1か月って短いなあ
また展示するだろうから気長に待ちますわ

石田スレがあの調子だからこっちに書くけど、福岡市博物館も三成書状が常設で2、3点展示されてたり
秀吉の名護屋城の陣取り指示書きが見られたりで結構楽しかった

175人間七七四年2011/10/31(月) 00:47:41.34ID:YyHvZblg
福岡、黒田かw
常設はありがたい。行長領地行く途中、立ち寄りたいな。
因みに、三成文書がどこの博物館にあるとか、展示されてるとか、結構調べにくいもんだぬ…

スレチ続けたけど、まぁここ限界スレだから良いよね

176人間七七四年2012/02/02(木) 00:37:34.98ID:3ML1Li8l
ごめん今更だけど恥ずかしいから訂正させて
>>174は高麗渡海陣立書です

177 【31.5m】 電脳プリオン ◆GDSZsj1GHk 2012/03/03(土) 21:21:16.41ID:Y+vArgje?PLT(12078)
知らない人ばかり

178人間七七四年2012/03/14(水) 11:53:32.38ID:7GBhEqDU
>>155
坂源次郎→蒲生郷成ってのもいるが、蒲生郷舎と縁者なんですかね?

179人間七七四年2012/03/14(水) 21:09:37.95ID:gc3cKCcI
>>178
wikipediaでは郷舎の父、又は兄となってるね。

180人間七七四年2012/07/30(月) 03:16:13.23ID:8YTM100z
>>174
三成は最初結構いい位置だったのに
出兵を中止するよう諫言しまくったせいで
端っこに追いやられちゃったって話はマジ?>陣取り

181人間七七四年2012/07/31(火) 03:38:18.37ID:3upy2+rX
>>53
そもそも蒲生氏郷の死因は胃癌であることが確実視されてるしね。

182人間七七四年2012/08/01(水) 05:07:35.49ID:1H29ZaN/
現実の死因よりも、それを暗殺だと多くの人間が信じたことのほうが重要

183人間七七四年2012/08/22(水) 17:23:07.42ID:bUz3A3gY
秀次事件で秀次の妻子を動物みたいに殺したのは事実だしな。

184人間七七四年2012/08/25(土) 12:23:13.17ID:3Z7LTlz+
>>183
そうなの?
じゃあ、秀次は仕方無いけど
他の人達には何も罰を与えないで下さいよー
とか言ったって話は創作?

185人間七七四年2012/08/25(土) 13:02:25.28ID:M8PWV1s6
そんな記録は一切ない。創作。

186人間七七四年2012/08/31(金) 19:34:40.38ID:J18DFBdy
>>183にある三成が主導したってのも後世の創作の可能性大だがな。

187人間七七四年2012/08/31(金) 20:06:49.44ID:VY1J2o8S
秀次事件に関しては三成は「何やってたかよく解らんけど一部被害者筋からは恨まれてたフシがある」
程度だな、現在言えるのは。

188人間七七四年2012/09/05(水) 22:55:04.16ID:Ewg1aZ5M
秀次事件の被害者が大体関ヶ原で東軍についたのを三成主犯説の根拠にする人は
彼らの多くはあの時家康に救われてるということを忘れてると思う。
まあ、事件の後佐和山貰ってるからあれこれ邪推されることは当時からあっただろうがね。

189人間七七四年2012/10/03(水) 21:35:35.31ID:SKFwdXhp
そもそも三成って秀次事件起こるかなり直前まで佐竹さんとこで検地してなかった?
利休事件の時も検地だの何だのであっちこっち出張してる最中だったよな。

190人間七七四年2012/10/10(水) 22:51:32.69ID:hAei6L9g
秀次はようわからんが、少なくとも利休と対立した形跡はない。
むしろ事件が起こる少し前に利休が土地に関する件で
三成に取り計らってもらったことに関する礼状があるし
利休と正澄や宗安と三成の関係から考えても、両者の関係が険悪だったとは思えない。
多分、利休七哲筆頭の三歳様と三成が仲悪かったからそういうイメージが出来たんだと思う。

191人間七七四年2012/11/21(水) 02:22:20.85ID:hvSbJfUS
左近が仕えたのも文禄年間以降とすると
有名な家臣は意外と仕えてた期間短いんだなあ。

192人間七七四年2012/11/21(水) 09:58:42.79ID:LGvazCHD
>>191
急に身代が大きくなって、慌てて急募したんだろうな。
太閤が百万石与えてたらどうなってたことやら?

193人間七七四年2012/11/21(水) 18:34:59.93ID:hvSbJfUS
逆に言えば関ヶ原前のゴタゴタでよく出奔者が出なかったなw

194人間七七四年2012/11/21(水) 20:51:02.27ID:6pAeQzF3
その辺は漢気ある的な逸話いくつかあるしな

195人間七七四年2012/11/22(木) 00:11:08.77ID:MSEgHv1I
関ヶ原で実はかなり早く壊滅したっての知った時はショックだったな。
やっぱり最後まで奮戦したってのが真実であって欲しかった。

196人間七七四年2012/11/22(木) 21:27:40.58ID:1knoCbfJ
>>189
その時期は母親の法要だかで数日だけ検地から京に戻って
また検地に出向いてたとか何かで読んだ記憶

197人間七七四年2012/11/23(金) 03:28:14.80ID:4zixlAjn
>>195
あくまでもそういう説もあるよって話だからね。
早期決着説の根拠になってるのは島津家臣の記録だけど
島津隊も割とゴタゴタしてたから覚書きだと結構曖昧になってたり。
一応、石田隊は通説でも左近が負傷して一度崩壊しかけるんだけど
その時の事を指してる可能性もあるし(通説だとその後持ち直して押し返した事になってる)
逆に東軍の記録だと日暮れまで戦いが続いたってのもあるし真相はまだわからんよ。

198人間七七四年2012/12/01(土) 02:37:10.93ID:1V0Gt0FB
>>189
そもそも秀次がいなくなる事は一見三成にメリットが
あるように見えてまるでメリットが無いからね。
事実、秀次事件以降中央集権化どころかかえって豊臣政権は不安定なものになった。
そもそも秀次の側近の官僚達はみんな三成より1〜2世代年上なわけで
そういう面で見ても「秀次が跡を継いだら居場所が無くなる事を危惧して」っていうのも考えにくいのよ。

199人間七七四年2012/12/01(土) 13:58:29.91ID:967gJXn3
>>198
居場所なくなるに決まってるだろ。秀次は既に家中を形成しているんだから。
今秀次の側近官僚が三成より世代が上でも、その後を受け継ぐのは三成ではなく秀次系の若手官僚になる。

200人間七七四年2012/12/01(土) 16:39:18.71ID:1V0Gt0FB
秀次系の若手官僚って例えば誰?

201博多学才2014/02/17(月) 04:32:03.06ID:swMgmPyr
大一大万大吉
今年の一発目!?レス…ということで、
[スレタイの原点に戻って]
島左近勝猛(清興)、蒲生備中真令(頼郷)、舞兵庫(前野忠康)、
高野越中、樫原彦右衛門、大場土佐、北川平左衛門、
蒲生郷舎、大山伯耆、河瀬左馬助、杉江勘兵衛、
森九兵衛、大橋掃部、林半介、横山監物、松田重太夫、
渡辺勘兵衛、曾根高光、小幡信世、荻野鹿之助、水野庄次郎…
思いつくままにざっと名前を挙げるだけでも、やはり
石田三成家臣団は他家と比べても(一騎当千級の)粒揃いだった
と言えるのではないか。

202人間七七四年2014/02/19(水) 21:13:52.75ID:yMsMH2q6
秀次には実務をやる奉行がいないんだから、
結局、秀次政権でも奉行らはそのまま。
そうしないと取次、指南、奏者といった仕事に支障が出る。
秀吉死後、大坂城を利家が主導していても、
利家死後に家康が北政所を追い出し西の丸占拠しても奉行は運営に必要不可欠だったし、
浅野と三成が追放されたら、
奉行の業務に支障が生まれ、
大谷と小西を家康は奉行補填に追加してるくらい。
奉行は大坂の実権者のために働いているだけだから、
輝元が大坂を占拠したら輝元のために働いている。
奉行には巨大な武力がないので実力と才覚はあっても実権者の力の裏付けが無いと困る。
実権者と奉行は互いに必要不可欠な存在。

203人間七七四年2014/02/20(木) 00:46:26.17ID:+JvkXSg2
家康「豊臣奉行なんていなくても政権運営できたけど?」

204人間七七四年2014/02/20(木) 08:54:03.22ID:kOeI/fzR
家康は中央集権による全国支配を諦めて幕藩体制という封権統治で妥協したからな。
いまで言えば地方分権ってやつだな

205人間七七四年2014/02/20(木) 18:32:38.15ID:2VRSYr1K
江戸幕府はホントに運がいい。
ペリー来航まで外国からの侵略がなかったからね。
まあ秀吉が朝鮮出兵で日本侮りがたし!と宣教師が報告してたことが最大の理由だが。
しかし秀吉の中央集権全国支配体制なら外国からの侵略なんて怖くもないどころか、敵地に報復侵攻できるし、
南朝鮮をはじめ、沿岸地域に拠点を設けて大航海時代→重商主義→産業革命が始まってただろう。
それだけの蓄積が日本にはあった。

しかし家康は大名たちに媚びた土下座っぷりで天下を盗んでバカ幕府を作ったので幕府には力がなかったからペリー来たら呆気なく内乱へ向けて混迷。

関が原土下座外交の結果、
豊臣恩顧大名が20カ国で日本の1/3を支配。
伊達や毛利や上杉や毛利や佐竹など旧族外様大名達が1/3支配。
かろうじて徳川系大名は20カ国1/3支配したものの、
東海道など小国が多く面積レベルはかなり下回る劣弱な基盤しか徳川幕府にはない。
豊臣政権は立ち入り検地、太閤蔵入地設定、
与力大名による監視、
領地宛行において有力家臣の知行地や石高を指定し、
豊臣政権と有力家臣を結びつけ支配、
奉行による指南による内政干渉をしたり、
一国一円領有支配をできるだけ許さないなど、
秀吉は強力な全国支配体制を構築した。
しかし家康は立ち入り検地も蔵入地も大名家臣狙いの加増も廃止、
越後の溝口と村上の例外以外は与力大名廃止。
中小大名を移動させての一国一円支配の国持大名の増加による大名領有権の自立性の強化を背景に、
藩による分権自治を容認せざるを得なかったのが家康。
これは全て関が原で味方につけようと武断派に媚びた結果であり、
関が原が武断派によって勝利し、
西軍支持の北政所や淀とその意向で動いた女性たちも家康は処罰できず、
結果、武断派の奉ずる豊臣による論功行賞が行われ、
強欲武断派の要求を飲むハメになったからである。
幕府体制と呼ばずに幕藩体制と呼ばれる藩王による分割統治という弱体国を作ったのが家康。

206人間七七四年2014/03/29(土) 09:28:51.23ID:1q+5DZlb
ここ定期的に過疎るけど、なんでスレタイに島左近(勝猛)をつけなかったの?
(横山喜内よりは賑わったでしょ)

207人間七七四年2014/09/14(日) 23:41:20.55ID:FZG5HaGY
w

208人間七七四年2015/10/15(木) 19:34:28.67ID:RVfz5yB3
>>204
そもそも織田政権も豊臣政権も中央集権でもなんでもないんだが。
それらと比べれば江戸幕府こそ中央集権的

209人間七七四年2016/01/15(金) 14:28:18.02ID:nmTvigTs
兄の正澄って家臣ではなく別家?

210人間七七四年2016/07/02(土) 10:56:38.95ID:NPKHPScY
“過ぎたる”島左近の書状発見 石田三成腹心として他武将と交渉 東大と長浜歴博

戦国武将、石田三成の腹心だった島左近が記した書状2通が初めて見つかり、東京
大史料編纂所と長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)が1日までに発表した。
豊臣秀吉が「三成に 過ぎたるものが二つあり 島の左近と 佐和山の城」と評価
するほどの人物だったが関係史料は少なく、同博物館の太田浩司館長は「島左近の
動向や実像に迫ることができる画期的な発見」と話している。2通は、いずれも
天正18(1590)年7月に書かれていた。秀吉が小田原北条氏を滅ぼした後に
島が常陸(茨城県)の戦国大名佐竹義宣の重臣小貫氏と、佐竹義久に宛てており、
秀吉に従うことになった佐竹氏との交渉に島が当たっていたことが分かるという。
1通は、常陸の大掾氏が
秀吉側に人質を出すのを渋っていたため、今後の対処について佐竹氏側に問い
合わせた内容。書状は縦33・6センチ、横46・5センチ。もう1通は縦32・7
センチ、横45・2センチで、領地支配の方法などを指示した内容だった。
同編纂所の村井祐樹助教は「島は石田三成の下、交渉で重要な役割を果たして
いたことが分かる」と注目している。書状は、同編纂所の調査で、大阪府内の
民家から見つかった。7月23日〜8月31日に、長浜城歴史博物館で開催する
「石田三成と西軍の関ケ原合戦」で公開する。
http://www.sankei.com/smp/west/news/160701/wst1607010071-s1.html

211人間七七四年2016/07/02(土) 17:00:11.10ID:az8F2rcB
内海重次、通称は左門、六郎左衛門

近江出身。中条流槍術を習得した槍術家
基本的には高田吉次などと同じく、一介の武辺者である
佐分利流の伝書には、流祖重隆の同門に打身左内が居て、
冨田牛生の下で共に修業に励んだとあり、
その打身左内と同一人物と確定視される
内海流の槍は、佐分利流と同じく、当時大流行が始まった鍵槍である

初めは蒲生家に仕えていたが、蒲生騒動によって蒲生家臣は大量解雇された
重次もその中の一人で、浪人する
が、石田三成は蒲生旧臣を大量に召し抱える
その中の一人に重次もいた。全くよくあるモブで、重次が特別ではない

関ヶ原で三成が敗れて石田家が解体すると、重次は近江を流浪した
やがて藤堂高虎に召し抱えられる
藤堂家内では内海流を称する流派を確立し、指導にあたる
ようやく安定した生活を手に入れることになった

212人間七七四年2016/07/27(水) 11:55:40.22ID:xZ4YiPTE
石田三成は大河ドラマの主役に成りうるだろうか

213人間七七四年2017/02/18(土) 01:07:47.72ID:KKiMDwus
島左近しか知らん

214人間七七四年2017/10/15(日) 10:30:41.71ID:uiDo/Ree
保全

215人間七七四年2018/01/20(土) 01:17:49.69ID:L3qDYEgV
こんばんはです

新着レスの表示
レスを投稿する