佐竹氏を語るスレ 4

1人間七七四年2010/10/18(月) 03:20:03ID:zPNl4PPq
とりあえず立てました

あとはたのむ

811人間七七四年2016/10/11(火) 23:55:34.05ID:UX2AJyuY
北関東攻略の拠点としてばっちり活用されてるけどね関宿城

812人間七七四年2016/10/12(水) 06:45:55.55ID:sG0SSwot
関宿は古河公方の勢力を押さえる上では重要であったけど
古河公方が実質的に北条に取り込まれて消滅してからは相対的に価値がなくなった
北条氏の主戦場も両毛へと移った事もあり結局関宿は簗田氏に返還される運びとなった

813人間七七四年2016/10/12(水) 08:29:22.85ID:ptWehgc7
関宿城は越相同盟の条件になるぐらい重要拠点だよ

814人間七七四年2016/10/12(水) 08:57:52.58ID:WpeFAzmc
関宿城は水上交通の要衝を抑えることができる位置にあるからなあ。

815人間七七四年2016/10/12(水) 10:04:21.21ID:Pqj0BQ6n
だから越相同盟の時点では重要だったんだよ
簗田系公方を中心に反北条勢力が結集していから、古河付近を押さえるのは政治的にも地理的にも重要だった
だから公方を追って目的を達した後はこの方面に主点が置かれる事はなかった

816人間七七四年2016/10/12(水) 11:03:43.34ID:LuN0O0XD
あの時点で上杉佐竹が関宿を維持するのは不可能。
上杉は夏季は越後へ帰ってしまうし、佐竹も本拠から遠過ぎる。
なにより両家とも北条とは統治形式が異なっており、
関宿を敢えて維持しようとするならば、北条と似た方法、
つまり自家中の有力家臣を関宿に入れて簗田氏を名目上の城主にし、
事実上関宿城を自勢力の拠点=対北条の最前線として機能させるしかない。

しかしそれをしてしまえば、結局は上杉佐竹も北条と同様の言わば「侵略型」の
戦国大名にならざるを得ない。これではそもそも関東秩序の維持方法として、
北条に対抗して上杉佐竹が選択した大義名分を失うことになる。

817人間七七四年2016/10/12(水) 13:54:06.23ID:gp6rvlVS
age

818人間七七四年2016/10/12(水) 18:21:36.75ID:S0CAIkHG
>>816
結局、上杉や佐竹の苦悩と決定力に欠けた原因はそこなんだよな
長尾上杉は管領を引き継いだ事で室町体制の守護者としての立場も引き継いだ訳で
関東衆の支持を得られた反面、旧来の体制を守り、旧来の体制の破壊者である北条との対決を義務付けられた
故に戦って勝っても本領の拡大は難しく、複雑に絡み合った関東衆の狭間で身動きも取りにくく苦心した
だが、北条と同じになってしまえば支持を失う訳で何ともやりにくい
結局上杉は上方の状況変化もあり越相同盟を結んだ事で関東衆の支持を失い影響力を大きく後退させた
その上杉の代わりとなって台頭したのが佐竹
佐竹に期待されるのも当然に管領上杉の立場であって、もどかく一進一退を繰り返した
更に南陸奥でも同様の立場にたったことで多面作戦を強いられじり貧に陥りはじめてしまったという…

819人間七七四年2016/11/06(日) 04:34:12.65ID:Su3D/Mln
>>803
義重と江戸の叙任って信長に働きかけてじゃなかったっけ

820人間七七四年2016/11/14(月) 21:18:34.28ID:6RbUl7i6
真田丸に佐竹勢出たで


雑兵と旗印だけだが

821人間七七四年2016/11/15(火) 04:45:29.13ID:SOibXzT2
伊達はともかく岩城がどうやって信繁の娘ゲットしたのか謎

822人間七七四年2016/11/15(火) 07:39:36.72ID:GNkpts8H
義宣が京で拾ってきたんじゃなかったっけ
お陰で佐竹、伊達、真田、豊臣の血を引くサラブレッド重隆公が誕生

>>820
でも長門守と又兵衛をボコってたぞ

823人間七七四年2016/11/15(火) 23:59:58.26ID:9p2FC8MB
上杉に助けられたところやらなかったから得したなw

824人間七七四年2016/12/03(土) 07:40:09.52ID:ht858xyw
□文亀 三年(一五〇三)  車斯忠一字状写

   忠
文亀三年         車丹波守
霜月十二日        斯忠(花押影)
石井弥七郎殿
御宿所
(『茨城県史料中世編W』秋田藩家蔵文書四〇―二一)

佐竹義斯の偏諱の車斯忠の前にもう1人車斯忠がいたの?

825人間七七四年2016/12/03(土) 10:04:37.00ID:iuwsN5ht
>>824
それおそらく茨城県史料編纂者の間違いである可能性が高い。
文亀の「文」は、元亀の「元」の間違いだと思う。

文亀三年事は車氏は岩城氏についており、
佐竹との関係はまだあまり深くはなかったと思われ、
まだ山入の乱の最中で依上保の有力一族石井氏は結城や山入、
佐竹の間での主従関係が揺れていた時期でもある。
またこの頃は岩城が依上保への干渉を強めていた時期でもあり、
車氏が石井氏に一字を与えたことも考えられないことではないが、
文亀と元亀がどっちがより状況的に当てはまるかと言えば、後者と言わざるを得ない。

この一字状写を文亀としているのは茨城県史料だけで、
常陸太田市史料や他の資料では元亀としている。

826人間七七四年2016/12/04(日) 08:22:14.99ID:/rH3fykP
詳しくありがとうございます

827人間七七四年2016/12/29(木) 20:15:59.34ID:ZCUG+BhM
新出史料続々の2016年やった

828人間七七四年2017/01/12(木) 18:15:31.65ID:wgHRgK49
佐竹が常陸から秋田に国替えになったとき、譜代の家臣だけ(85騎(家)ぐらい)
引き連れていって、その他は水戸の徳川家に採用をアテにするか帰農するかと
いった選択を迫られたわけだが、
秋田の雪とかを思えば、常陸の土地で豪農として生活した方がなんぼかマシ。

829人間七七四年2017/01/12(木) 21:03:40.00ID:lfcKWSz2
本当は苛政だった水戸徳川家

830人間七七四年2017/01/15(日) 19:37:27.16ID:KXq1Oo4l
土地痩せてるし

831人間七七四年2017/01/23(月) 18:35:02.00ID:r0ujVAZo
冬の秋田は、毎日ウツになりそうな曇り空だそうですね。
常陸の国は、真冬でもカラッと晴天です。

832人間七七四年2017/01/23(月) 23:44:58.97ID:Tofvp/Wn
源平合戦…平家方
関ヶ原…西軍方
戊辰…官軍に寝返る

どこか屈折したものを感じる

833人間七七四年2017/01/24(火) 06:24:18.84ID:WJHcatXo
>>832

屈折というか、勝ち馬に乗ることに失敗したということだな。

834人間七七四年2017/01/24(火) 10:37:02.42ID:Ze6ym75D
戊辰は勝ち馬に寝返ってるだろ

835人間七七四年2017/01/25(水) 01:14:32.52ID:WaNhasi9
父祖の地に戻っただけ。源平合戦のころ佐竹の先祖は秋田にいたらしい。

836人間七七四年2017/01/25(水) 22:01:03.63ID:L/9eYCN2
常陸にいないんだ

837人間七七四年2017/01/25(水) 22:35:20.37ID:jXBbjFbZ
頼朝の元に参じなかったので攻撃された。常陸または奥州のどこやらに落ちのびたとは聞いているが
秋田というのは初耳。

838人間七七四年2017/01/26(木) 14:51:28.83ID:Cup9i/if
人取橋で劣勢の伊達政宗が佐竹大軍を追い払ったことになってるけどあれ身内だから見逃しただけだよね?

俺が考える人取橋て
事実上の総大将の佐竹にとって
正室の実家=伊達
実母の実姉の嫁ぎ先=伊達
姉妹の嫁ぎ先の岩城の当主の実家=伊達
だからへたに伊達の嫡流の首を取ったら四面楚歌になるの必至じゃん
家臣だってあとあと当主の正室にどんな恨み買うかわからんのに正室の実家を滅ぼすわけにもいかんでしょ

さらに
援軍の芦名の当主(2歳)の御母堂の実家=伊達
援軍の石川家の当主の実家=伊達
援軍の相馬の親戚=伊達政宗の正室

839人間七七四年2017/01/26(木) 14:56:51.06ID:Cup9i/if
政宗が個人的に嫌いだからアンチ政宗軍が3万の大軍にふくれあがったけど

伊達と婚姻関係のない小大名が政宗嫌いが爆発して政宗に銃弾あびせるほど
あと一歩で首を討ちとるとこまでやっちゃったから
親戚の佐竹としてはそこまでしようとは思ってなくて
当時18・19歳の政宗が頭冷やせばそれでいいやぐらいにしか思ってなかったから
あわてて軍を引いた
石川、芦名、相馬も引いた
じゃないかなと思ってる

840人間七七四年2017/01/26(木) 17:58:44.79ID:1mB8xjdk
それ言っちゃうと、織田と武田、織田と浅井も親戚だが。

841人間七七四年2017/01/26(木) 19:44:52.97ID:EejcITiS
あの時代でも親戚無視できるDQNなんか信長と政宗くらいだろ
その政宗でさえ血族はちゃんとにがしてる

842人間七七四年2017/01/26(木) 20:55:16.34ID:YlIPdTHz
>>838
>人取橋で劣勢の伊達政宗が佐竹大軍を追い払ったことになってる
なってない。圧倒的に優勢なのに佐竹が謎の撤退となっている。

843人間七七四年2017/01/26(木) 21:59:35.27ID:cd2S0AOa
大将が死んだからじゃないの?

844人間七七四年2017/01/27(金) 00:24:05.95ID:LgWiNSbL
>>842
だからその謎の撤退についてのネタだろ

845人間七七四年2017/01/27(金) 10:27:51.33ID:FdBG0iU5
佐竹関連スレでこれについて書き込むのは何度めか……。
奥州高倉合戦について、ある程度の状況が確定可能な一次史料はない。
だからほぼ内容を軍記物に頼るしかないわけだが、
『奥羽永慶軍記』では江戸と里見が共謀して佐竹領を攻めようとしたから、
佐竹が撤退したということになっているのに対し、
『会津四家合考』には佐竹の大将である小野崎義昌が
陣中で殺害されたためということになっている。
当時の状況や史料としての価値から考えるに『合考』のほうがより信頼できる。
『永慶軍記』はどうも佐竹方の手落ちを隠そうとしているくさい。

846人間七七四年2017/01/27(金) 16:25:02.30ID:mlH5lKSD
そもそも当事の里見が攻めてくるメリットが里見側に無いことも無いがさほどない

847人間七七四年2017/01/27(金) 16:39:34.86ID:qe1akHwk
>>846

義理立てってこともあるでしょ。

848人間七七四年2017/01/28(土) 10:06:25.45ID:SMja047H
『永慶軍記』の江戸と里見が佐竹領を窺ったため佐竹勢が
高倉合戦(人取り橋合戦)からそそくさと退却したというのは完全に虚構。
このころ里美は北条と和睦していたが、そもそもこの四五年前には
武田佐竹里見の対北条同盟が成立しようとしていた。
ましてや里見側に佐竹を攻めなければならないメリットなど全く存在しない。
しかも江戸は佐竹義重時代は滅亡まで完全に佐竹の従属化にあり、
高倉合戦以後は府内の大掾と敵対して佐竹勢を頼って戦争した。
江戸も里見も佐竹と敵対する理由などなく、当時の勢力図をうろ覚えでしか
知らなかった者が適当に思いついた説としか言いようがない。
大体里見領と佐竹領の間は相当隔たりがあり、間に北条勢力下の家々を挟んで、
常陸川を越え、香澄、波逆、鹿島の内海を渡海して、さらに大掾氏系列の
中小の武士領をも縦断してやっと水戸城へとどく。
外洋を行くならば犬吠埼を回って軍勢を船で送らなければならない。
こんな馬鹿げた戦争はどう考えてもあり得ない。

849人間七七四年2017/01/28(土) 10:32:20.39ID:SMja047H
つまりは『合考』の説が最も理にかなうものであり、実際に佐竹勢の大将だった
小野崎義政は天正十二年(1584)以降、一次史料からは足跡が消える。
既知の義政最後の消息は会津の守護代クラスだった金上盛備へ沼尻鯉沼合戦の
様子を伝えるもので、義政は佐竹(常陸)の守護代クラスとして蘆名と外交していた
とみられる。この蘆名佐竹の同盟関係から対伊達の高倉合戦が行われたと見ていい。
高倉合戦時には蘆名当主の盛隆は死亡しており、守護代として同じ身分の
金上盛備と小野崎義政の共同、即ち南奥州の蘆名佐竹の二大勢力を筆頭とする
惣無事体制から、これに対する伊達勢への対抗戦が行われたと推測される。
つまり高倉合戦において佐竹義重の出陣はなかった。『合考』にも義重自身の
出陣の記述はない。また岩城白川など惣無事下にある大勢力の当主の出陣もない。
こういう経緯から、小野崎義政の陣中での死によって奥州陣が瓦解し、
瞬く間に退却することになったというのが真相だと思われる。

850人間七七四年2017/01/28(土) 11:34:01.16ID:NkDt9XcE
実際に侵攻を企図していたかはともかく犬吠埼から香取霞ヶ浦への軍船による侵攻は可能なんじゃないのかな
犬吠埼ルートを使った下総乱入はやってるし
まあ補給だ増援だとなると大変だろうけど

851人間七七四年2017/01/28(土) 16:06:54.25ID:Jb8qqZ4r
馬担当に殺されたんだっけ
それがなくても伊達家滅亡はさせなかったと思うよ
まだまだ親戚同士なあなあにやってた頃だし

ただこれをきっかけに伊達政宗が強硬派から策謀派に転じたて言われてるから奥州のターニングポイントだったな

852人間七七四年2017/01/30(月) 07:36:05.92ID:geF14MxP
義政殺したやつと義宣落胤が同じ名字だったような
これ(義政暗殺)もストンと信用できるかというとどうなんやろ

853人間七七四年2017/05/27(土) 21:36:06.96ID:9EVdWRe0
最近の知事は熊害に本腰を入れてる様子が見えないと評判がよくないみたいね

854人間七七四年2017/05/27(土) 22:32:16.31ID:eIoAxVKu
真崎兵庫宣治の資料が全然見つからんなぁ
生没年すら不詳とか
義宣公時代の高官だったんでしょ?
真崎豊後はちょくちょく名前見るんだけど

855人間七七四年2017/05/27(土) 22:32:40.22ID:eIoAxVKu
ああsageちゃった
上げとくね

856人間七七四年2017/06/04(日) 22:16:20.98ID:K7QanVqp
真崎家の史料は秋田藩家蔵文書の文書群と系図くらいしか無いよ。
佐々木倫朗が「真崎義伊(宣伊・宣治)に関する一考察」という論文の中で、
戦国後期真崎宗家の流れについて書いているので、それを見るといいと思う。

真崎義伊(宣伊・宣治)に関する一考察 佐々木 倫朗
栃木県立文書館研究紀要16

857人間七七四年2017/07/05(水) 16:21:15.71ID:UCqKox2N
市村氏も真崎氏に関する本を出しているね

858人間七七四年2017/07/24(月) 21:46:19.32ID:R3byeHPW
グイッと一杯age

859人間七七四年2017/07/25(火) 08:08:32.40ID:WWYrjQcL
北殿叩かれてるのう

860人間七七四年2017/08/10(木) 20:24:55.30ID:Ws2vyM+U
浄財洗浄じゃなかった、常在戦場の政治家が楽になりたいだと?
政治家引退して楽になれよ、馬鹿殿様は

861人間七七四年2018/02/09(金) 17:28:57.82ID:3F1O7MWx
賀正

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