【信康・忠輝】歴代松平一族を語る【長親・清康】

1人間七七四年2011/04/21(木) 15:54:10.90ID:3XXnNPQM
江戸幕府を開く徳川家康を排出した松平氏の歴代当主や一族である十八松平、
家康の子である信康、忠吉、信吉、忠輝らも語りましょう。

■wiki
松平氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B0%8F
十八松平
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AB%E6%9D%BE%E5%B9%B3

■関連スレ
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http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164378018/
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http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1262441540/

※家康公のスレは 【徳川家総合】 徳川家康 で検索して下さい。

261人間七七四年2016/07/18(月) 20:00:55.19ID:UzcRrj8j
三河物語だと低い身分みたいに書かれているけど、実際は弥四郎は
結構高い身分だったみたいだし、彦佐は何でそんな脚色をしたのかね

262人間七七四年2016/07/20(水) 20:28:36.29ID:xaysYt+m
内藤信成が、家康の同父兄弟だった可能性が高い

263人間七七四年2016/07/21(木) 10:10:13.54ID:4lQExyZr
>>262
史料

264人間七七四年2016/07/21(木) 11:57:24.92ID:fAw5sGvj
世間的には、信成を家康の弟して認知していなかったから、意味はないな
単に徳川家臣内藤家の武将でしかない

265人間七七四年2016/07/21(木) 13:17:52.60ID:ttE4Q6P/
>>261
三河物語では信康の評価高いけど、そこら辺も関係しているのかな

266人間七七四年2016/07/21(木) 20:10:45.32ID:n1pHifet
内藤信成は駿府藩主だったが、家康の駿府隠遁に伴い、江州膳所に加増転封された。

267人間七七四年2016/08/01(月) 16:10:21.80ID:KtHa9IK7
Wikipedia上で、内藤家長の室が「松平忠長の娘」とあり、
その松平忠長のリンク先が駿河大納言という、
有り得ない構成になっている

同名の別人だろう
詳しく判る人、修正たのむ

268人間七七四年2016/08/01(月) 17:14:33.12ID:tON+mQqe
家光と将軍の座を争って命を落とした、駿河大納言忠長卿の忘れ形見である。

269人間七七四年2016/08/01(月) 17:33:10.50ID:KtHa9IK7
>>268
からかわんでくれ
駿河大納言が生まれたのは、内藤家長の戦死よりも後だ

自分が死んだ後に生まれた人物の、更に一世代後に生まれる娘と
結婚なんてあるわけないだろう

270人間七七四年2016/08/01(月) 21:23:17.10ID:f6u1885g
松平忠長というのは松平弥右衛門忠長のことみたいだが、どの松平家の出身なのかわからん
寛政譜の索引持ってる人がいたら調べてほしい

271人間七七四年2016/08/01(月) 23:03:44.75ID:tON+mQqe
松平長七郎長頼

272人間七七四年2016/08/02(火) 13:38:19.54ID:gtUvlB7S
弥右衛門という通称が提示されたのは、大きな進歩


ttp://www.geocities.jp/shiro20051212/Tokugawakashindan.html
個人作成のサイトから
内藤家長の項で、家長の母を松平弥右衛門としている
諱は不明
同名の別人か、あるいは母と室を取り違えたか


http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg200.html
常山紀談から
二股城攻内藤桜井功名の事の項で、
松平弥右衛門忠長の名が登場する
弥右衛門の息子が彦九郎
関連部分を要約すると、
「彦九郎は内藤家長の縁者なので、家長は彦九郎の危機を弓箭で救った」
という、それらしい文面がある


どちらにしろ、史料と呼べる代物ではないし、
どの松平家の者かを調べる手がかりにはならないけど

273人間七七四年2016/08/02(火) 13:40:50.34ID:F7nLwAz8
葵三代の家光役の尾上辰之介観てたら腹立つ 喋り口調が歌舞伎のまんま

2742722016/08/02(火) 14:03:58.15ID:gtUvlB7S
違ったか
常山紀談の文を読み直したら、
射伏せりとあるから、彦九郎は敵将朝比奈に射殺されたんだな
家長は、義兄弟の仇討ちで朝比奈兄弟に射返し、負傷させたという話

275人間七七四年2016/08/02(火) 14:04:27.22ID:3enpF6iZ
「弥」右衛門という通称といい「忠」長という諱といい五井松平家臭がすごくするのだが、
寛政譜には松平忠長という人物は見当たらなかった

276人間七七四年2016/08/02(火) 18:15:57.92ID:3enpF6iZ
寛政譜によれば、彦九郎の討死で弥右衛門の系統が絶え、
家長に松平弥右衛門家の相続を勧める命が下ったが、家長が固辞したため弥右衛門家は絶えたようである

277人間七七四年2016/08/02(火) 18:35:05.28ID:gtUvlB7S
となると、十八松平には含まれない、
マイナーな枝分かれ松平家だった可能性が高いわ

278人間七七四年2016/08/02(火) 20:12:51.08ID:3enpF6iZ
前述したように五井から分かれた一族かと思うんだけどなー
あと、三方ヶ原で討死した松平弥右衛門がこの人でいいのだろうか

279人間七七四年2016/08/03(水) 12:16:01.85ID:q22ObE63
情報少なすぎで一概には言えないよー

息子の諱は不明で、通称は彦九郎で特に「弥」を引き継いでおらず…

「忠」を含む諱は全体に多く、
深溝家でも藤井家でも桜井家でもそれっぽく感じてしまう

280バロン曽志崎2016/08/03(水) 14:10:56.09ID:b5K9MkqO
「内藤家伝」には家長の妻(馨宗院伝荘誉月庵理慶大姉)を
「御油(五井)松平系 弥右衛門忠長」とし、
「系図纂要」では忠長は五井松平氏四代忠次の弟としている。

281人間七七四年2016/08/03(水) 15:06:13.17ID:RfrVrJLE
内藤家伝、譜牒余録中巻か。翻刻でてないのはきっついな

282人間七七四年2016/08/04(木) 12:02:30.76ID:nQqPrnnk
Wikipediaに簡単な伝を立てるくらいの情報は集まりそうですか?

とりあえず、内藤家長縁者としてのリンク先が駿河大納言という
四世代ほどもズレた全くの別人になっている現況は打開すべきかと

283人間七七四年2016/08/04(木) 12:09:58.73ID:TzjHAULy
俺の名前は

284人間七七四年2016/08/04(木) 12:25:11.25ID:VYj16vrs
>>282
もう修正されてるぞ

285人間七七四年2016/08/04(木) 14:26:54.69ID:nQqPrnnk
夫人の戒名は馨宗院?
姉妹がいた場合に備えて、個人を特定できる情報があるなら入れておく方が良いかも
後々、夫人について誰かが項目を立てるかもしれないし

「妻:馨宗院(松平弥右衛門忠長の娘)」といった記述でどうでしょ

286人間七七四年2016/10/31(月) 11:47:44.07ID:CMkj3O79
本来なら松平家の本家である岩津修理亮親長って親忠の影に隠れて
存在感薄いけどどうだったんだろう
断絶したというのもあるだろうけど、安祥松平家にとって都合が悪いから
記録が失われた可能性ってあるかな

287人間七七四年2016/10/31(月) 12:29:34.60ID:5+AFcP2I
親長は生涯の大半を京都で過ごしてるから記録の残りようがなかったというのもあると思う

288人間七七四年2016/11/01(火) 19:46:28.35ID:3movnKsf
松平一族は数が多いから結構よく分からない人物が多いよね

289人間七七四年2016/11/01(火) 20:02:01.33ID:XDQTr1ZE
混同されちまうんだよ

290人間七七四年2016/11/02(水) 14:57:51.49ID:yGuV8vWo
親長末裔を称する松平親以の家系も本来は五井家っぽいとか

291人間七七四年2016/11/02(水) 19:27:55.02ID:tFYf7JnV
応仁の乱終結後三河守護が置かれなくなったんだよね
幕府の直轄国ってことかしら
それ以前から松平氏が伊勢氏の被官だったのもよくわかんない

292人間七七四年2016/11/02(水) 21:12:30.11ID:foQH8X9O
>>286
松平七人の衆と言うのがあって惣領である岩津太郎を除く、
形原又七郎、安祥二郎三郎、大給源八郎、岡崎大膳亮、
竹谷与二郎、五井弥九郎、長沢源七郎の七人だっけ

293人間七七四年2016/11/03(木) 17:04:38.87ID:HJuW/n7h
>>292
二はともかく、通称に七の字が入るのが二人いるのはなんだろう

294人間七七四年2016/11/03(木) 17:48:40.54ID:G7+oWbE+
>>293
誤伝。長沢の親則の発給文書では源七郎ではなく弥次郎と名乗っている
大給の源次郎が源八郎になっているのも誤りだな

295人間七七四年2016/11/03(木) 21:07:22.74ID:gJzGytZ2
信光の嫡庶子合わせて分かっているだけで兄弟順どうなっているのかな
太郎って言うくらいだから本来岩津が嫡長子だろうけど

296人間七七四年2016/11/04(金) 07:27:19.19ID:bX2qVguB
次郎三郎って通称は信康以降使われなくなったのかな

297人間七七四年2016/11/04(金) 11:09:12.25ID:0Vm1NJA+
秀忠も家光も通称は次郎三郎だと思う

298人間七七四年2016/11/06(日) 20:55:03.88ID:nN6JPYdh
>>295
自分が今まで読んだ本だと信光の男子の兄弟順に関しては
親長、乗元、親則、親忠、正則というのと
親長、乗元、親忠、親則、光重というのと
守家、親忠、昌龍、与副、光重、光英、忠景、光親、家勝、親正、親則というのがあったな

299人間七七四年2016/11/07(月) 09:46:56.41ID:Hm8Xs1zA
親長、乗元は親忠の子供って説もあるんだっけ?

300人間七七四年2016/11/07(月) 11:15:15.74ID:zpFg0kJm
江戸時代の系譜ではそういう事になってるけど、
親長は1462年以前から京都での活動を行っていることが確認されるので1438年生まれの親忠の子供とするには無理がある
乗元も1443年生まれだと伝わっているので、親忠の子供とは見れない

301人間七七四年2016/11/10(木) 21:17:54.09ID:vbAGribS
>>296
通称が受け継がれていたにしろ、
秀忠にしろ家光にしろ元服前に
官位貰っていて使う機会が無かったんだろうね
それにまさか将軍を通称で呼ぶわけにもいかんだろうし

302人間七七四年2016/11/13(日) 21:27:31.81ID:YM+SKMbr
>>298
親長の通称が太郎で乗元が源次郎、親則が弥次郎で親忠が次郎三郎なのを見ると
一番上が正しいような気がするな。三男の親則が早世した所為で四男の親忠が
三男扱いされるようになった説もあるらしいし
ただそうなると乗元と親則の通称のどちらにも次郎が入っているのが気になるが

303人間七七四年2016/11/13(日) 22:32:19.75ID:1SM5XlwF
乗元は正室の子じゃなかったのかもしれない
正室の子供だけだと太郎親長、弥次郎親則、次郎三郎親忠に

304人間七七四年2016/11/14(月) 02:47:25.68ID:HD7nG3i2
あと次郎なら竹谷松平守家も与次郎

305人間七七四年2016/11/14(月) 20:51:24.19ID:vfbUXgC/
形原は彦太郎と又七郎の二つの通称があるのは何だろう
あと岩津庶子の通称に六、七、八も持つ家はあるけど
四と五がいないのは何でかなぁ

306人間七七四年2016/11/15(火) 01:32:35.33ID:Dq6W/Avb
>>305
岩津弥四郎信守という人物が実在するからこの人の系統が家康以前に絶えたせいで
四郎がいないように見えるのかもしれない
五郎系は何故か五井家に二人いる(源五光則・八郎五郎親勝)

307人間七七四年2016/11/15(火) 21:14:40.23ID:JwQzd9ty
>>307
岩津なのに太郎じゃなくて弥四郎って事は
岩津家の庶流の人なのかな?

308人間七七四年2016/11/15(火) 21:29:34.99ID:Dq6W/Avb
>>307
五井系も岩津を名乗っているので、岩津を名乗っている=親長の子孫というわけではない
というか信光が岩津家だから太郎左衛門家以外全員岩津家の庶流だし

309人間七七四年2017/07/30(日) 21:51:12.15ID:1Kd8hxfB
>>258
ほぼ間違いないでしょ。それ以外にあり得ない。

家康は大岡弥四郎事件をうやむやに終わらそうとした。
この事件をつつくと、徳川家が分裂する恐れが高いからだ。

しかし、信長が許さなかった。大岡弥四郎の後ろにいた築山を、
断じて見逃さなかった。信長の言い分は、長篠で多くの兵を出し、
戦死者も大勢出しているのに、うやむやに済まされてはたまらん、
というもので、信長側も筋はそれなりに通っている。

なお、長篠後に武田と通じることはない。武田家は長篠で事実上
滅亡し、ゾンビと化していたからだ。家康も信長の意図を組んで、
わざと戦線を動かさないようにしていた。本当ならあっという間に
滅ぶ相手にも関わらずにね。

310人間七七四年2017/08/15(火) 14:21:56.60ID:6hU3vs+l
忠輝、忠直、忠長

311人間七七四年2018/05/21(月) 15:47:29.28ID:gA1qUUKx
応仁の乱は東軍

明応の政変による将軍廃立は新将軍足利義澄(この派は義晴・義輝・義昭)派

永正三河の乱で義材(この派は義維・義栄)派の今川に負ける

同派の斯波義達が織田達勝に追放され達勝は義維派に鞍替え

織田今川に挟まれるも清康打開のために今川氏輝が若年で家中を掌握できてない隙に
美濃三人衆や武田信虎と連携しながら尾張出兵

守山崩れ

桜井松平による広忠追放

今川家において栴岳承芳は家督の正当性を得るために義晴から偏諱を受け義元に
甲斐武田家とも和睦するなど安祥松平と同じ義晴派に鞍替え。反対する福島氏が玄広恵探を担ぐ(花倉の乱)

東条吉良家を通じて今川の支援を受けながら岡崎復帰を目指す

広忠死去後松平の他一族を今川が直接統治する

義元が桶狭間で死後独立を目指す

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