岡山の城

1人間七七四年2012/09/02(日) 12:21:30.30ID:uMY2hFtb
天守のある江戸期の城ではなく
県内に無数にある戦国期の城を語る。
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394人間七七四年2016/01/15(金) 14:50:19.96ID:aMX4OyQ7
総社市、小陣屋砦
丘陵、尾根頂

鬼ノ城麓のトイレ下の小川から鉄塔道ある。猪が堀返した道を進み、鉄塔到着(近くのゴルフ場から
人の声響く)、上に破壊整地された?元帯郭を通り山頂は緩やか?平坦地。東端に20mぐらいの高さ1mない?
土塁が伸び、下は藪で見えないが犬走りある傾斜地思う。
反対、鬼ノ城方面は藪で見えずらいが土塁はない(但し、先に進むと本丸から二ノ丸に高低差があり、そこに明らかな
区画する人工岩垣が出現し、ここから土塁も見られだす).更に北に藪で不明だが突出部に最高1m以上の囲い土塁がある。

鉄塔も山頂には築かれておらず、奥坂陣群と少し離れた?古代山城の山ろうを守る砦と見ていいような
独立に近い山容。藪で全体像が曖昧にしかとらえられなかったが、細尾根頂上がほぼ?全周土塁囲いで、簡素見で小中規模だが
想定外の石垣もあり、陣以前の城を妄想。
自分が見た範囲以外にも遺構ありそうで、畑改変の大陣屋と違い(類似名から大陣も遺構存在したか)遺構良好で小陣という名称も
規模は天地ほどはなく、安易な?後ずけ名?。
城構造の事は知らないが牛神砦を大きくしたような?忙しく作事する織田方の兵が浮かぶような所で?
水攻めが高松城と境目7城だけで語られるべきでないようなテクニカルな所なら又来たい。

395人間七七四年2016/01/25(月) 12:49:48.08ID:gloNoEM8
岡山市、赤坂城(仮)
室町?、城?。 八幡宮の東にある丘陵。頂部が平坦になってるが人工的かどうかは不明
堀、土塁などはない、城跡か?

電柱表記にはテラサカとある。水攻め激戦地?冠山を囲うように?配置された城の1つで、
山脈(というほど高くない)から道路に分断された小さな高原?にある山先端の小山、近くには八幡宮
(この丘も冠山に近い)ある。
山下に水の手の池がある、そこから藪があまり酷くないので直に登る。すぐ到達でき、山頂は小中規模の平坦地で
、十字を切る区画跡らしきが占めてるが、小さな石列や寺か墓地跡の土塀残骸が倒れず残っており、その他にもやや禿山で雨水流れを
起こしてるみたいだ。帯郭らしきも主郭下周囲に連続性なく?何段かみえる?(藪で正直不明)
冠山城がある反対側には犬走り状以外帯郭はない?(こちらは藪が酷くなく歩け、下斜面に腰郭状平坦あるが竪堀も見えず)

遺跡地図と少し矛盾してるかも?だが場所は間違えてないはず?。山より丘に近いが
冠山城内が見渡せるような位置にあり、又実際に見渡せ、遺跡地図が城?と示すように陣砦のようなものが
あったのかもしれない(地元民らしき居たが、ここの陣?の事は知らないだろう思い尋ねず、、{戦前の在野の考古学者の中には
何人も中世城郭に関心を広げた方がいる事実に驚く。しかも今日の私たちにはその成果がほとんど伝わってない}とある。
その学者たちはどこにいってしまったか、、。
北と西に3つ小陣屋砦でみたような土塁残骸も確認できたが、必ず近くに後世の土塀跡らしきあり、
ここが冠山攻撃の陣城なら、遺構はほぼ消滅したか(但し、山頂周囲を簡素に見ただけ。
次は洪庵トンネル上の城に行こうか)

396人間七七四年2016/01/25(月) 13:34:23.10ID:gloNoEM8
岡山市、吉備津神社裏山の城(仮)
山頂、段取り、掘切遺存。 清水宗治らによって社領の検地が行われ、吉備津宮は毛利氏に支配
されたと思われる。水攻めが勃発し両軍に挟まれた吉備津宮は苦しい立場にたったらしい
羽柴方を応援しなかったので社領も安堵されなかったらしい

吉備中山と道路を挟んだ神社と少しだけ距離のある裏山、近くに加陽氏館や板倉城の伝承地ある。
世の中には偶然とは思えないような{こういう時に限ってがあり}遅れ気味の上に大渋滞が発生しており焦る。
仕方なく埋蔵センターから尾根を進むが距離がある気がし、タイムアップの焦りからハイカー多数遭遇の自然が
満喫できそうな、山に沿う小川谷から崖斜を登る(場所を選べば浅藪程度)。
尾根頂上近くになると道はないが電塔が貫通してる。
山頂手前は笹の生えた急斜面で、明らかに加工された岸が出迎えてくれ、感激し丁寧削平の下郭に到着。次の上郭は端に
土橋ある。その上が主郭でやや細長い郭(内部に井戸跡?か後世の印か小さな円形の石列。端に土高まり)
その次がやや下り主郭を守るための堀が断ち切る(中央土橋あるが、優位性を考えたらやや広い)
掘り切りをえて土橋状がのび(見間違い?)、そこは削平地というには緩やかだが、
岸を加工したようなやや広がりを見せる3段?の郭(捨て郭か)

寺の鐘で心細くなり早々下山で後悔。平地側は崖に守られ城がこれを頼りにしてるのがわかる
連郭式に6段?並び(事実上3段?)、城前後を警戒してるが城横に郭はなく、全体に何度も戦場になる
ような神経質さは見れない?。
陣城と違い在地系の水攻め以前の城を妄想。山上に小中規模だが中世戦国の跡を色濃く残し、調べる限り知れないが
神官の加陽氏館とセットの詰めの城か、社への警護と称した圧力を与えてた城を妄想。

397人間七七四年2016/01/25(月) 13:53:21.34ID:gloNoEM8
岡山市、秀天城(仮)
頂部から東に1段下って平坦面あり、東端は急峻。西側の尾根は比較的広く平坦であるが
、堀切などの施設はない。城跡か?。

常山城と麦飯山城に挟まれた小山で合戦時ここを放置する理由はなく、気になってたが遺跡地図に
載ってた。墓地道から直藪登り。
北西の小頂上につき下周囲が緩やかに犬走りぐらいが巡るように見える、更に竪堀状?。
麦飯山方面には整形岸があり、下に1段(端に土橋状、補強石列2つ)。
尾根を北西に藪こきでやや下っていくと長い平坦地(場所により帯郭?)が続くが
区画もなくやがて神社に出る(登山道あり、常山がのぞめる)


簡素見で最高点にやや加工されてるように見え、人馬が駐屯しててもおかしくないが
、しかし戦況が長期化し陣の域を出た城として発展したようなところには見えない。

398人間七七四年2016/01/25(月) 14:17:52.35ID:gloNoEM8
岡山市、迫川城
記録に残ってるが城跡を確認するに至ってない。しかし候補地として左の3ヶ所をあげ、、
(常山合戦の陣跡とし遺構らしきみえないがと陣山を上げてる)
湊山城を攻略して常山攻撃の緒戦を展開した。常山を中心とした上野方も多くの城を
郡内において、これを防いでる。毛利家は1城ずつ抜いて本城に迫る確実な手段。
嫡子三村孫太郎親親(アンチ三村)は宇野津、迫川に陣を取り、1200騎伝々

陣山から下った支脈。かつて山下は浅海?。gisに載り池近くから直登り。
尾根線にでるが、登りに2つぐらいの小頂上が(城らしくない)途中あるぐらい。陣山まで行けそうな気もしたが
、曖昧登りは危険なので止める。
引き返し、尾根傾斜の中央に土橋状と周囲に削平地あるが、これも違う気がする。
(更に下かと下れど藪酷く退散).


周囲の山にも険しい山容あるが、誰も戦国時代の城に興味を持たないから知れない。
地元に聞くも「長年住むがここが城とは聞いた事ない」いわれる。
迫川城が別山にあるなら、いつかmy戦国城を発見してみたい。

399人間七七四年2016/01/25(月) 15:00:04.83ID:gloNoEM8
岡山市、トンギリ山城
三村行清と伝えられ、一説には児島高徳。城山とも呼ばれ、とんぎりという名称も
かかる山型から生じたのだろう。実に要害。焼石が発見され、城麓の谷を勝負谷と呼び、
五輪等が多い事は注目に値する。馬場、木戸口、札場、城裏門など地名が今なお残ってる。
常山合戦当時戦場になった事も考えられるが、実証するに足る記録は残ってない。

池道から進み(ここが勝負谷?)道が消え、城裏から浅藪を直に登る。息を切らしながら
カラスに騒がれる。
西下に小郭、上に石垣跡?らしきある整形小郭。上が山頂曲輪群で隅に1m土塁(土塁と郭で山側、戸山城方面を
警戒してる、下り谷に堀跡らしき?)。山頂を歩けば浅藪だが高低のある郭が連郭式に並び、平野方面の端に到着。
視界が少しだけ利き、少し下れど郭いうほどのものはない。


地域の範囲で中規模で片岡城と並び遺構良好だが竪堀は見れない?。
1山折れを持つ頂全てが作事の丁寧区画あり(作事跡を見ると平素は戦国人も現代人と変わらない感覚を備えてたか思う)
、小郭も合わせると長く6,7段あり、楚石跡か転がった石散乱も2,3見える。
前に訪れた時に石垣もある、と聞いた気がするが、埋もれたか跡らしき?しか見えない。
遺構良好だが、典型的な山城でシンブルにも見え、周囲の険しい崖に守られ郭を並べるぐらいで
防備も十分発揮したのかも。
今は人気のない寂しい藪山で信じられないが、多勢が籠もり危機に瀕し大声を張り合い、
走り回って防戦する戦国武者を妄想。

400人間七七四年2016/01/25(月) 15:29:43.21ID:gloNoEM8
岡山市、丸山城(灘崎)
九十九山頂、消滅。 川張合戦当時常山城兵が出城として使用したと伝えられてる。
又は、小早川隆景、兵1万余りをもって児島に入り常山から西のところどころに陣取り、陣山
九十九山は当時の陣跡である。

気になってた城だが、ネットで調べ登りたくなる。場所がわからず城直下の住宅街の竹やぶから進む。
丘陵に出て、畑跡か?削平地が多く見え、最後尾に囲う勢いの堀切らしき?ある。
そこから一気に険しい崖になりキツイ(身軽な身でぜぃぜぃいい、戦国の肉弾戦が知略をもちいたろうが
どう行われたか不思議)
山頂は小笹が生える中規模?平坦地で、視界利けば眺めよさそう。
周囲の岸が急峻以外、簡素見で何も見えない。帰り印つけながら迷い、斜面に腰郭らしき
1つだけ見つける。

遠望は小規模ながらやや急峻な如何にも城がありそうな山容で、実際に低山だが
孤高な印象を受け、達成感を感じさせる山。
しかし城遺構らしきはあまり見えず?gisがいうとおり?消滅も考えれる?。
おそらく山上の屋敷地か常山合戦時の広さが限られた事から首脳クラスが詰めた陣跡か
(後気ずきだが、つながりの尾根線を見忘れた)
途中の丘の方がやや遺構にも見え、畑跡か宿営地?。

401人間七七四年2016/01/25(月) 15:55:55.20ID:UKjEpOPq
姫路城くらいしか知らないもんな普通w

402人間七七四年2016/02/15(月) 12:28:54.81ID:bRutLmRC
砂山、西田井地、高畠と畝竪群、高切岸と良好だったが何故かスレ表示できてない。
{玉野市、高畠城}で検索を。





矢掛町、山田古城
古くより城跡と伝えられる。城主蓮地和泉九郎とされる。

隣の城と峠を監視するように築かれてる。角度から急峻な山。
地元でどう思われてるか知りたく三人ぐらい尋ねるが城認識はなく、猿掛城や
隣の船ヶ迫山城を教えられる。城途中まで畑あり作業されてる方に「道はない、
行きたいなら猪柵越えていい」と許可をもらうが、柵を壊しそうで無念だが諦める。
猪糞多く注意。
他県の有名城より地元の小城に興味がある身としては、峠封鎖の関所には絶好地で
、コンパクトに何かありそうな城山だが。

403人間七七四年2016/02/15(月) 12:49:33.40ID:bRutLmRC
矢掛町、庄氏館(花房氏館)
鎌倉以来猿掛の城主で、備中の至る所に一族を配し、庄氏全盛時代を誇った。
土塁の名残らしい高まりあり。

「御土井」と看板。近くには立派な庄屋門。微高地?で竹薮手前には庄氏館と小石碑あり、
隣には一部重複と言われる花房氏知行所址と石碑。
裏の竹薮に進入するが、藪隅に低土塁が石碑方面長く伸びてる(内部は藪で
簡素見だが遺構らしきは見れない平地)。
畑に接する横隅部にも土塁?や石垣らしきあるが、館遺構か知れない(藪内に
上部をセメントで固めた、現在でも深く水を湛えた石組井戸があるが城遺構か)


簡素見で竹薮内が本丸で?、周囲を土塁で囲ってたのかもしれない。
藪背後に祠を奉り、付近も平地?の畑や民家で配置想定できそうで?、弓場、馬場など
いつ命を落とすか知れない乱世にあって、戦国武者が武練や教養を磨いてたか。
隣に古そうな江戸時代?の庄屋館があり、戦国城が下地となり後世館に便利よく利用されたか。

404人間七七四年2016/02/15(月) 13:07:02.67ID:bRutLmRC
矢掛町、原ノ砦
水田から比高50、60m。猿掛城の出城だったと伝えられる。


庄氏館近く、宝泉寺向かいの山魂先端の円形?小山。
小川から藪こき、相当藪が酷く丘上までが猛烈竹藪で絶望的気分。
削平された帯郭状の二ノ段に到着し、主郭を囲うように横堀と一部土高まりが巡る
(堀先に井戸穴らしきや主郭へとつながる通路があり、堀は後世排水設備?)。
4m?ぐらいの切岸登れば、そこが頂上主郭で、こちらも削平されてるが猛烈藪。

2城目で藪コキ体力限界で、コンパクトだけに城遺構見れるかと期待したが、
城内が猛烈竹藪で規模、遺構などほとんど見れず。
城らしくも見えるが低丘だけに畑改変も考えれるか。
少し離れから臨んでも二段あるのが確認でき、楼台か何か建てていたか(主郭も
極狭ではない)。
輪郭式に城館が築かれていたのかもしれない。
猿掛城の出城とは確かな理由があるか。

405人間七七四年2016/02/15(月) 13:36:23.99ID:bRutLmRC
矢掛町、要害山城(追記)
山本の城、妹尾の城として城主江木平四郎がある。
東、西、堀切から北にも段が続いている。


国勝寺横山道から藪コキ。
加工岸が出迎えてくれ、尾根に4段?ある(後世道か虎口3?、浅堀、郭内に珍しい?
巨大?2m土塁土橋で厳重警護に囲い、土止め石垣で補強した微穴跡?らしきあり
、井戸守土塁?)。
広くとられた主郭到着(背後に土塁、腰郭2?、窪み)。裏の尾根続きは二重堀切で
断ち切る(そこから藪酷く止める)。
主郭から北西にも帯郭、犬走り持つ長く4段?あり、(郭内に郭が二重構造?に土台とし造られてる)。
先端郭の谷下途中には石垣を持つ堀切土塁が構えられ、更に下谷周辺にも竪堀など
遺構あるが止める。

谷と加工された崖に守られ段形造成も丁寧な遺構良好で、堀切など当時の緊張感が伝わる。
遠望角度から緩やかな?200mの?低山だが、主郭から三方?(一部想定)に郭を配し、
単に郭を並べる一辺倒でもなく、郭内に幅をもって県内では珍しい?用途不明?の構築物を築き(少し
近いのは矢掛岩屋山城?あるが)、一部?谷にまで神経を使い、隣の茶臼山城で存在感が薄れるが、
見れた範囲で放射型?連郭式に10段近くあり、やや大きく確かな造りで、縄張り図の何も知らないが、
描くのに丸1日はかかるか。
採掘場が近くに迫ってる?のが気になるが、刀を提げた一体誰が築いたのだろう。
討死者も後世人は誰も知るよしもないが出てるのだろうか?。

406人間七七四年2016/03/17(木) 11:10:11.50ID:xqha9rsK
てすと

407人間七七四年2016/03/17(木) 11:31:29.46ID:xqha9rsK
岡山市、洪庵トンネル上の城(仮)
室町。宇喜多の将が鍛冶山城で毛利に抵抗している。毛利方では命じて
これを討たしている。鍛冶山城は取り返され再び宇喜多方が入城す。


鍛冶山城と宮地山城に対抗するように築かれてる先端丘。トンネル横の墓地から藪コキ。
浅藪程度でいけ、斜面には畑跡か段々ある。
城跡は帯郭らしきえて山頂は平坦で、背後に幅2、3m?、高さ2mない土塁構築。
下切岸下れば中央に土橋設けた、浅いがやや幅のある堀切が断ち切る。
その先にも二ノ丸にあたる?加工平坦地あり、2つ目の堀切?。その先は鍛冶山城に
ずく尾根で止める。(乾燥山火事注意の消防車がしきりに訴えてたが火のスピード
考えれば山城巡りなどひとたまりもない)


藪で本丸内部が見れてなく、周囲が畑段々?で不明だが前方に帯郭、後方に堀と土塁あり、
4段ぐらいの小中規模?。鍛冶山城方面に手の込んだ作事を行い?こちらを警戒し鍛冶山攻撃陣と
見るのが素直か。
水攻めにも使用されたろうが、加工が丁寧で館城の可能性も?。砦クラスだが
抑えておきたい占地で?、ここでも局地的な奪還戦があったか。

408人間七七四年2016/03/17(木) 11:58:28.46ID:xqha9rsK
岡山市、宮路山城
賀陽義藤。毛利氏の境目7城のうち最北に位置した城。3月16日秀吉宮路山城を攻める。
一時に攻落させようと包囲するが、弓鉄砲を放って防戦する。和平の策略が行われ
、その結果案内者であった船木が密通しあっさりと城を明け渡した。これを見て
乃美元信は備後の居城に帰ってしまった。


足守陣屋公園から藪こき(帰り同公園内に鉄塔道、但し立ち入り禁止ある)。
塔上の猛烈藪内に冬眠覚めの蛇。藪超えれば尾根は順調で、山下に伸びる堀切。
城近くになると、三重?堀切。北?にもくの字に折れる二重堀切。
城横腹斜面にかなり下に伸びる6?の畝状竪堀。横にも二、三重の堀切。
重厚な堀に周囲を守られた城内は(瓦散布多く藪もさほどでない)細尾根に土塁が伸びる。
城虎口辺り横腹にも大規模?畝竪。
その先にも尾根上に郭段々と虎口?あり、周囲を二、三重の堀切で守る箇所が多い。


鍛冶山城方面の一方を多勢の軍を引き受ける事も想定か、隙ょ与えないほど堀が見え、
尾根上郭は10段ないが?、全容を書くのを諦めた土塁と堀の組み合わせ。
毛利?が神経を使いこの城に賭けた思いが伝わり、調略で落城したとは相当落胆したろう。
この周辺の城は鍛冶山、立石、日近と明瞭に遺構を残すが地元の関心は低い?。
しかし高松城が包囲される頃には大局が決まってたか思わす城?。
訪れた者に圧倒的に重厚な堀数がインパクトを与える城。

409人間七七四年2016/03/17(木) 12:23:02.58ID:xqha9rsK
岡山市、大井城(仮)
室町、尾根上。

宮地山城から近い大井神社がある足守川への先端?丘。城直下の畑墓から登山道ある。
途中帯郭もつ平坦地。その上の山頂は緩やか斜面と小平坦で城らしくないが、
川と平野が臨める景観で、西?に小郭状の2、3段で藪止め。
山頂を挟み、逆側切岸下に城証拠になりうる堀切状が尾根端に見れる(横下に土塁土橋?)。
その先尾根続きはやめる(この先が本城域か)。

さっきまで猪が居た跡が多く怖くて早々の下山となった。
一見城には見えないが、小規模な段形状や堀があり、山頂と周辺に築かれた砦程度か?。
しかし農作業をされてた方に聞くと城を指し[おじいさんの話で向こうの方に見張り場があった]と言い、
向こう、がどのくらい先か知らないが城はやはり存在したか、見た場所は出丸か(後調べ遺跡地図には少し奥に
示されてる)
全貌が見れてないためなんとも言えないが、宮路山城の監視砦で織田方が迫るとあっさり放棄散逃を妄想。

410人間七七四年2016/03/17(木) 12:36:54.07ID:xqha9rsK
岡山市、吉?城(仮)
室町、尾根先端、連郭式。

日近城の隣丘。
丘横斜面から尾根への切り通し登山道あり。尾根上からは浅藪だが傾斜をえて、
すぐ警戒堀切あり(足守地区?には必ず簡素城でも堀切あり?)。
その先はシンプルな平坦地で(片方に沿う緩やかな帯郭状)、丘先端に窪み郭?
と土高まりを見せ、下に加工一段。

5分ぐらいで城到着で、見た範囲は加工跡と堀切あるが尾根は二段のシンプル構造で
日近城でも合戦があったらしいから?、その隣に迫った付け城か。
藪斜面に畝竪などあるかな?。こんな城でも地域の謎の多い戦国史にはヒントなのかもしれない。

411人間七七四年2016/03/17(木) 13:06:48.86ID:xqha9rsK
金光町、長山城
注意深く観察すると面白い遺構(土塁状に細長く削りだし、侵入者は左右に分かれて
主曲輪に進む)。「城ヶ平」と地元では昔から伝えられ、鬼打やま城の出城とも。
中途半端な造成部が目立つ。しかし見張り場のようなものでない、むしろ規模が大きく
大人数が収容できるようなものである。


国道2号側から急斜な墓地上の畑を進み、鉄塔到着。そこから尾根線の浅藪渡り、
小頂上をえて、虎口状と低加工岸が見え城到着。
山頂はよく慣らされたやや広い平坦地で(地元いう石垣見つけれず)、北?に行けば虎口あり、
下郭が検問場か郭段が2、3見える(城前方を守るように帯状に本郭をやや包む)。
城の逆側は高さ1m、幅3m?の現状では素人目で土橋に見える?土塁と言われるものが長く伸びてる。
その先も尾根は平坦に近いが積極的な城域というほどではない。


角度が悪いか思ったほど美しい山に見えない。山間街道?を監視するような占地で、
加工跡が明瞭に残り(町史のいう中途半端な造成とは構造上の事か)、全周を1Mから4M?
の岸で囲ってる。町史に従えば前後両方に防備を備えてる(自分が進入した虎口?は横腹だが)。
しかし周囲の尾根に警戒する堀切もなく?加工が丁寧だが城ヶ平だけに、シンプルな陣城的な城か(相手の
裏をかく事に必死だった戦国にあって兵の往来を妄想)。
絶えない争いを鎮めた?細川氏入国以来、城郭発展しなかったか無知な妄想。

412人間七七四年2016/03/17(木) 13:25:55.21ID:xqha9rsK
金光町、松本城(仮)
城?、尾根は幅広で郭面らしき平坦面。西側に石列?認められる。
上竹には環境とし中世的なものが残り、地元の記憶では厚みが1mもあるような
土塀の跡があったという。大築地のようなものであったと推測され興味深い。

上竹城の対比のような位置にある丘で、感社という小社から上る。
近世城のような石垣群があり、大きく採掘されたような場所で、遺構らしきもあるが?諦める。
今度は背後の池畑から登るが山頂は小平坦なだけで城らしくない(急に崖場となり注意)。

帰り先端の山頂が見れてない気がするが、後世の採掘などでも消滅か?.

413人間七七四年2016/03/17(木) 13:55:11.37ID:xqha9rsK
鴨方町、益坂城(仮)
城、鎌倉ー室町。郭面、北に堀切確認。

背後に西地山城を控える支脈先端丘、給油場の裏丘。
前方に登山道あり、すぐ藪に消えるが城には直ぐ到着。
主郭は小中規模で小薮に覆われてるが急峻な加工?岸に守られ、緩やかな帯郭らしき
も付属する(横に判断しかねる竪堀土塁状)。
裏には二の段目になる平坦地あり、そこから山尾根続きに深さ2Mない、幅も5M?の
後世道にも使用されたような堀切が断ち切る。


地元で聞くと、竜王山城を教えられ「ここに城はない、畑を作り桃を売ってた」と話す。
二段とやや立派な堀切で小規模だが城らしい雰囲気はあり、根拠が遺跡地図のみだが、
若干後世改変された在地の城館のようなものがあったのかもしれない。
一部薮だが比較的簡単に全容が見れる城。


今回の旅は事実上の2城で物足りず、倉敷?ポリテクセンター側の道路からすぐの善昌寺近くの
朝日山城目指すも場所がいまいちわからず。
近くには伝承の船岩山城(仮)があり、狭い農道が山頂まであるが、城が山頂なら
畑や後世施設で多くは破壊か。次回持ち越し。

戦国城シーズン終了。戦国当時のテンションを肌で感じれる城が多く感慨。

414人間七七四年2016/06/08(水) 11:17:07.06ID:0Q4hdGqz
テス

415人間七七四年2016/06/08(水) 11:46:45.74ID:0Q4hdGqz
岡山市、上中野城
金川城主の松田氏に従った名主層の前田氏代々の居館。周溝及び地名が残る。

遺跡地図に載る岡山中心部に近い、周囲に山は見れない宅地化した平地の城。
周囲には「属将を配した」とある高柳城がある。
城周辺思われる場所は宗忠神社と完全な住宅街で、電柱にも城を思わす地名表記は
簡素見ではない。
場所違いでないなら施錠された小規模墓地が中心辺りにあり、そこの石碑?に城痕跡あるか。


わずかな滞在で宮司や地元民に尋ねても知らない、という回答で城根拠に自信をなくすが、
綱濱ノ熊城のように宇喜多直家が岡山城に入城するまで、乱世の均衡を保ってた城館か?。
現状では小川はあるが、地理的要害性はみれず?、戦国当時の風景はだいぶ違い、
典型的な土塁囲いの城が存在したか。戦国以前のさらに中世臭い城館か?。
宇喜多氏の本拠に近く、生活の中に溶け込む、間もない泰平の世にあって物騒な城から
役割を変えた近世的建物と、いまだ中世的色彩を残す城痕の混同を妄想。
「城とは聞いた事がない」という話だったが、戦が迫ったり、現代人と同じように
さまざまな配慮に神経を摩耗した人物がいたか。

416人間七七四年2016/06/08(水) 12:08:35.88ID:0Q4hdGqz
洪庵トンネル上の城、土塁に厚みがあった気がし鍛冶山城から尾根伝いに攻め寄せる
敵に対し、一台の戦車のように切岸と楼門で防いでたか(火災の原因になるらしく無理か)

西田井地城の小谷と土橋の畝竪、マイナーゆえか?圧巻

矢掛要害山城の段岸に見えた奇妙な土塁、、後世削りか?、専門家がみれば即答?

山に行くと唸る音や微かに言語らしきを発する音を聞く事が多い。釈迦は霊の存在を
否定も肯定もせず「現世にあって非科学を語る事は意味のない事」と話すし、
妖怪大先生は「人間は100年しか生きないのに、そういう事に簡単に答えを出してはいけない」
と話すが、学者の本分とし研究されてる方はいるか。


城の数では圧倒的ながら一般人にはその存在すら知られてない中世城。
戦国と冠り、縁の薄い??江戸時代の城しか紹介しないbs番組には裏事情があったとしても閉口する。
どちらも大切にされたい。

道もない山を藪コキし不安の中、山頂間近を示す空が見え、人工痕を見た時の感動はかえがたい

歴史は先の見えない将来に対し、「その後」をすぐ教えてくれるのが魅力とある。

417人間七七四年2016/06/08(水) 13:34:35.92ID:0Q4hdGqz
testo

418人間七七四年2016/08/14(日) 16:37:18.30ID:jHA0AjNO
真備の南山城、やはり現在消滅の畏れがあるみたいだ゜
城郭体系の縄張り図は簡単だが、倉敷市で上位に遺構残す゜
地元の宝、保護を切実に望む。

419人間七七四年2016/08/14(日) 19:15:01.51ID:vsM7g1G4
山中鹿介の上月城くらいか備前・美作

420人間七七四年2016/08/16(火) 18:45:39.67ID:m1GInVhC
長文糞野郎は岡山県民か

421人間七七四年2016/08/19(金) 10:48:42.42ID:vgzeAH9e
テスト

422人間七七四年2016/08/19(金) 11:21:49.25ID:vgzeAH9e
高梁市、丸山城
本丸、二の丸、三の丸あり。近くに根小屋。土塁残る。赤木忠房、忠直の居城と伝える


180号から来れば素晴らしき映画のような理想的な山間の平地に広がる田園風景の景観があり、
城がある現地も狭い山間地域で、現在も人口は少なく?、それを物語るように、この周辺には
小規模な城が築かれていると現地看板(縄張り図と濃厚な説明のある看板がそれぞれ4つ設置
されておりうれしい地区。大群に包囲されながら知恵を絞り撃退した伝承がある城があるが
山上は自然地形に近いらしい

丸山城は舌状の?の山で寺や民家もあり、他に夏場の城巡りを想定していなかったため
観察できない(縄張り図には段形が築かれてたみたいだが古老に教えられた丘先端の一部を
見ただけで、後で確認すると山上?の方みたいだ)

現地看板に水攻め以降の戦局の移り変わりを見越して改修された、とあった気がする。
ここを含む看板で見つけた4つの城群の中には館的な要素の城もあり、地域クラスの城ばかり?
だけに、大名の介入もあるみたいだが、狭い地域だけに領主と住民の結束が否応なしに強かったかと妄想。
領主?の鎧も現在に伝え、地域の人も城に篭ったかと妄想し、現場に立てば戦国城も
戦争遺跡である事が実感でき、戦国に限らず昔を知る事は価値観を揺さぶられる楽しさがあり、
記録にほとんど残らない?地域の災いを生きた証?である城も見てみたい。
遺構も見てなく、登山道こそ示されてないが、道沿いにそれぞれ設置された看板があり
満足できる城旅とあいなった。

423人間七七四年2016/08/19(金) 12:14:17.50ID:vgzeAH9e
笠岡市、園井土井舘
中世から近世までの居住跡、中でも40近い礎石が用いられた大規模な館跡が見つかった事は意義深い、
中世から近世にわたる多数の土器や古銭などがあまた出土した(現地看板)
園市の事を○?の市とも書く、中世村落の自治組織の事である。土井や石丸(石で囲った砦)が
小字名として残り中世へと誘われる。
北条早雲ともいわれるが、その前身の伊勢盛定が園井、尾坂を領したという。

現地は関所のような山と山の谷間の関所のような地形で?近くには詰めの城の?園井城がある。
高さのある立派な高架橋が横断しており、高架下は柵のある草地で隣は民家と畑で、その辺りが
城館だろうが、遺構が眠っているのか?ウロウロできない(人生初の職務質問を受け「城!?」と戸惑い例の不思議な顔をされ、
そして考えるように興味を示され楽しめたが、その後体を触られ財布の中身まで調べられ
、あくまで愛想はよく仕事なので、という話だったが、周囲からは犯罪者みたいで、職質はいいもの?ではない)

「諏訪神社は園井に居住する後藤氏の先祖が奉祭したもので、県道の西側では堀と柵で区画された館跡が見つかっており」と
社看板にあり現状から栄えた当時を想像など全く困難だが、平地であり地表面に遺構が眠るかもしれない?。
職務質問を受けたように余り遺構探しができなかったが、近世以前の?豪壮な城館なら
当時の情勢の反映や、挟み込む両翼の山にも警戒した山上の城砦があったかもしれない?。

424人間七七四年2016/08/19(金) 12:44:51.29ID:vgzeAH9e
笠岡市、小平井城
現在は大井運動場になっているが、かつては土塁残存。

山から伸びる支尾根丘先端、園井土井館から距離少し。児童の下校時と重なり又あの入念な
職質受けたら敵わない(なぜほとんど破壊されているような城まで訪問してしまうか自嘲するが、
現地にはゾワゾワー!ッとする高揚があり、補えない心の欠陥が戦国城への渇望となって現れてるのだろうか)
現地は丘で山頂は周囲から少し小高く、完全に整地された平地の広いグラウンドで柵に覆われ中には入れない。
改変受けてるだろうが、4m?ぐらいの切り岸状がグラウンド下を巡り、下に並ぶ倉庫辺りが帯郭?。
帯郭?には屈折する2mぐらいの横堀状が大きく?周囲を巡り囲う(丘背後の警戒?
ガチャガチャ刀槍の小競り合い妄想、隣の民家のある丘先端方面にも横掘り?。
更に先端斜面にも遺構眠るか?)
グラウンドから東は多くが寺と畑化。


丘上まで道路が通じ静時なら展望のある気持ちのいい場所か。
近くの社には「備後国の渡部○?之ジョウ正が平井村の領主となり」とあり、
大半がグラウンドに占められてるわりに、民家、寺、幼稚園と所狭しとある。
看板もなく?痕跡はほとんど消滅してるだろう惜しいが、現状でも当時の城が空想できる雰囲気はある場所で、
グラウンド下には城痕跡思われる遺構も見られる?。
狭い山間地域ながら丘上から景観も効き、丘上と丘下両方からあり日しの堂々とした城を妄想し
、戦国戦乱を生きた{領主の思い」に思いを馳せる。

425人間七七四年2016/10/28(金) 16:40:16.97ID:8/6ivfst
テスト

426人間七七四年2016/10/28(金) 17:10:41.59ID:8/6ivfst
徳吉城の端の土高まり、今思えば土塁痕跡か。

士良計城、発掘すれば部分的に可能性は低く総石垣?

境目7城の西知山城の圧倒的な畝竪と二重堀りの組み合わせ、記憶のかぎり?
知らない

玉野市は島だったわりに楠城、砂山城、西田井地城などなど畝状竪堀が多い?のは意外(スレ表示
できず、{戦国時代板 デスクトップ}で確認)。
八浜城でも見つかり?毛利と宇喜多の激戦時の遺物か無知妄想。地理に当時の軍勢の痕跡が
刻まれてるのが面白い。

道迷いの山城巡りには車一台の幅でもストレスのない、小回り&快速&低燃費の原付並み車体の小型バイクは重宝。
気分は物見兵。

男のロマンのように戦国時代が好き、と語る方は多いが、[大阪夏の陣」や「関が原の戦い」止まりで、
地元派は少数派か。

親族が酷評するように、山崎豊子?の小説の中でも先祖が悪役なのには複雑な心境。

「未来は不安と希望でできている」とあったが?、藪山城巡りは恐怖とワクワクでみちている。


継続して書くと義務のように思え、書いてきた安易な無責任書きが痛々しい。
文字だけのスレなので建設的な意見、感想がほとんどこず、スレ閲覧がされてないのは幸いでもあり、
不幸でもあり。
ただ自己満足以外に苦痛を伴う城巡りをして書き込む意義があるか自問自答。
脳裏に焼きついた{戦国城依存症}と診断でき、意識の潜在パターンの反復が、まるで
前世のカルマを消化するように今年も巨大イノシシに脅え、一人薄暗く寒い藪山に突入する思うと憂鬱。

427人間七七四年2016/10/28(金) 17:40:39.73ID:8/6ivfst
本に「実際に激戦があった城はさほど多くない。文献資料で城攻めが確認されても、
考古学的にその痕跡が確認される事はさらに少ない」とある。
戦国時代が何年続いたか知らないが、1400?以上の城があれば乱立の長い歴史の中で威嚇程度の
小競り合いは多くの城であったか?、と考えるが白兵戦のような激戦となれば事実はそうなのかもしれない。
しかし素人愚問として、戦後処理として城内は清められるのでは?。

銃(遺跡)は剣(記録)より強し?
遠くの親戚(大城)より近くの他人(地元小城)?

無人島の過酷を思うと文明?は尊いが、利便性の為に、よりによって瀬戸内国際芸術祭りへ出品級の土木遺産、
真備南山城が犠牲になるとは、、。
市民レベルの価値の再確認はされたか?。本では最近戦国城も注目されだした、と景気よく載るが?
地方の現実は厳しく{普通に生活してる人}には存在すら知られず、知らないでの消滅は残念。
優秀な(敬意と社交辞令)専門家の方々には{山肌にしかみえない}という中世城郭の魅力の難しさを克服し、
古墳という言葉程度には知名度を世間に浸透させて頂ければありがたい。


城の首砦、夏場でも通仙園と平坦な岬道が整備され、雨水流れを起こしてる中に
重厚な面影を見る?。
先端の砦から瀬戸内海?の島々を望み、看板もない小規模砦だが重視された造り。
現代とは比にならない中世兵の苛烈過酷?を代弁し、島唄の「島唄よ 風に乗り 
届けておくれ 私の涙」が浮ぶ美景観。
発掘すればどんな情報が出土するか。

428人間七七四年2017/02/16(木) 11:14:14.04ID:GW1Cx/fV
テスト

429人間七七四年2017/02/16(木) 11:41:06.91ID:GW1Cx/fV
倉敷市、田ヌヌヌヌ城(漢字読めない、追記)
簡素に調べる限り、室町と以外に情報なし。

この城は気になってた城!。
ほぼ独立系の低山で八幡宮沿いの道路から山道に入り、山麓に二本の4m級の深堀状を
見て(何の跡?、城と後世の類似跡は間違い易いのでガイドラインがあればいいが)
、自然地形を登るが藪というほどは困難なく到達。
城がある細尾根は前後に土塁高まり(東土塁は明瞭加工で、郭内の両脇に犬走り状、
土塁下に2mない切岸あり、下に採土堀切)。
その先は自然地形で緩やかに下る尾根。


登山道もないが?誰もいない人工物もない、全くの自然の中で早朝の朝焼けを受け、
清清しい城廻となった。
城には傾斜のある帯郭らしきも付属するが?細尾根の単郭城と印象で、城横腹を警戒すべき
斜面にも竪掘りもなく?、明瞭と曖昧な加工跡が入り交じり、緩やかな尾根伝いの攻め上がりを警戒した
小中規模の城か、隣の稗田城と同じようにやや改修された古い時代の城、陣と無知妄想。
簡素だが重点部も見え、常山合戦時には湊山城を足掛かりに毛利勢が児島に攻め込んだと記憶するが?、
ここも誰かしら中継点として守備したのだろうか。

430人間七七四年2017/02/16(木) 12:23:10.77ID:GW1Cx/fV
倉敷市、岩山城
由加山へ至る道を見下ろす山頂に所在する。築城時期や城主名などは伝わっていない。
堀切の多重化と畝状竪堀群の存在、更に両者の連携など新しい要素が見られ、
毛利氏の影響を受けた築城が考えられる。
又は、進行勢力による純軍事的な要請から構築されたものと見る。

田ヌヌヌヌ城の近くで、この城は公機関の調査もなされ?ネットにも多少載っている。
池がある児島墓地?のトイレ背後に鉄塔道があるが、城には途中から、わかりずらい獣道らしき
を行く羽目になり多少時間がかかった。

主郭までの明瞭な二重堀(中央土橋)。造成された主郭と付属守備する帯郭。
主郭背後の切岸下の二方面には浅堀らしき2か所?
畝状竪堀も3本?ややわかりずらいが、明瞭土塁で斜面に築かれてるのを発見。


池を透かして望む城はいい景観だが、城は藪がやや覆い、遺構を探索する気が失せ、
早々に下山してしまい後で後悔。
{村民が協力的でないが、城の完成を急ぐように}と現代に残らなかった幻の書状を妄想。
岩山城というように?多少ゴツゴツ岩が城の一部のように散乱しており、意外と藪城で、
2セットの畝状竪堀の内、1セットしか見つけられず、岡山図書館にある縄張り図を
もっと参考にしておけばよかった。
小中規模だが支城?になったのは間違いなさそうで、曲輪造成と堀切があり、後世の作事跡と違い、
城跡なのはわかる。
埋もれ忘れられた戦乱時代の城として、マイナー城ファンにはいいか。

431人間七七四年2017/02/16(木) 12:44:22.54ID:GW1Cx/fV
倉敷市、山村城?
小早川伊豆守の陣屋、又は詳細不明。

多分常山合戦当時の陣跡で、それ以前に豪族の城があったのかも知れない。
情報が少ないので。占地も曖昧なまま、ユガ山の山麓の蓮台寺が陣跡か、山頂のユガ山が陣跡かと勝手推測。
寺は霊山の由加山として有名で?、観光バスが来るほど渋滞。
観光客と山斜面に大規模?な寺が築かれ、新たに山を削る工事も進められており、
陣跡を探す余裕がない。
寺にある遊歩道を使い寺最高峰?の展望台まで行くが城らしき跡はない(山肌を覗き込む不審者で、
誰が「ああ、陣跡を見に来たのか」と思ってくれるだろうか)。
当然、寺の来歴にも陣の事は一字も書かれていない(なぜか真田幸村の顕彰?碑)。


寺は興味ないがなかなか味わいのある寺。
背後のユガ山も実見してみたいが、寺が合戦時に陣場になる事は多いから、蓮台寺が陣跡か?。
常山合戦当時、少数の上野方から攻められる想定も少ないだろうから?、ここが陣場なら陣所造りも簡素だったか、
或いは後世破壊で遺構は奇跡的でないと残存してないか。

432人間七七四年2017/02/16(木) 16:39:29.20ID:NqTKQTPr
な、畷
なぜか変換できる

433人間七七四年2017/03/09(木) 13:59:28.91ID:F5FQUw1a
備中高松城水攻めしか知らんのお〜〜〜

434人間七七四年2017/09/06(水) 20:20:28.90ID:A0GbCF56
☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆

435人間七七四年2017/11/18(土) 15:26:55.74ID:jilG/C4Z
河川道路から見た倉敷市の南山城、威風堂々《ここにあり〉と存在感がやはり抜群であります。
武骨な中世の櫓や柵、建物など復元して、古墳と同時に歴史公園化はやはり治水問題?となるとテクニカル的な問題があり無理なのでありましょうか?。
あの辺りは観光資源もあまりありませんし?、専門家の方々が一目置く南山城。
現代にあって中世的な気分も味わえ、戦国時代のお城がどういうものであったか、市民の学習の場となれば、歴史公園化としての史跡保存を思うのでありますが。

436人間七七四年2017/12/14(木) 08:20:53.27ID:k0CAu87W
岡山市、野殿城
富山城と一連の関係がある遺跡。環濠集落を利用。戦国時代末期に宇喜多左京亮が形成。
明智光秀に近い中川清秀に対し返書を送っていて、それによれば野殿で貴下の書状を読んだが、、。
富山城主宇喜多忠家がその子に城を譲って自分は今の野殿の地に屋敷を構えこれに隠棲したといい、、。
野殿の全域を見るとき、大川と称する沼にとりまかれた全村59ヘクタールの還濠集落−−野殿そのものが、構想雄大な平地の城郭の建設地として条件を備えていたことに気付くであろう。
宇喜多左京亮が富山城の建物を野殿に移したのは城ノ内であったか知れないが、戦争気構えののこる当時の武将として、水に守られこれほどの要害を見のがす筈はない。また富山城の根小屋があったとしても究竟の場所である。


この城はネットで検索すれば詳細が詳しく載ってる。警察署の裏、新興住宅地と宅地が多く建ち、わずかに?畑が残り、そこに墓地があり、 その近くの道路看板に【野殿と中国大返し】とあり矢坂富山城の支城があったとある。
城周辺は小さな用水路が巡っているが、住宅が多くあり、ウロウロもできず綿密な下調べをしていないため、軽く通過するだけでは何が何だか分からない 。
浮島を持つ?水堀の城→のどかな田んぼ化→城の面影ない宅地化、というのもノスタルジーか。
天下人、豊臣秀吉この生活感のあるどこかで腰を下ろし、天下取りの構想の為、(信長は生きている)と撹乱情報を発していたか。宇喜多本家から睨まれる曰く関連城でもあり、秀吉が勝機を掴む大事な時期の城でもあり?日本史的に重要な場所なので大事にしてほしい土地である。
現在は面影は少ないが?〈岡山市史〉に掲載された古い写真で見れば沼地で、いかにも城がありそうな場所で、専門家と歩きで観察していけば、消滅した野殿城が薄っすら浮彫になってくるようなところかもしれない。

437人間七七四年2017/12/14(木) 08:27:15.13ID:k0CAu87W
岡山市、辻川城
辻将監(名主層か)の居館。
径約80mの巡る地割があり備前焼や磁器が散布。
周辺に「木戸口」「築出」の地名あり。

野殿城の近い、川を背後にもつ平地の城。この城もあまり調べてない為、繊細位置は曖昧だが、航空写真で形状らしきがわかり、おそらく土手沿いの土が高まった台地状が城跡と思われるが?。
行ってみると台地上にはシャベルカーが入っており、現在土の造成がされており、 GIS に乗ってるような遺構も消えてるかもしれない 。
わずかに小さな溝も見えたが田んぼのものか。
シャベルカーで整地してる土の高まった台地部分が見えるだけで(これも工事用に持ち込まれた土か)城らしい跡はもはや消滅してしまったか。
作業員がおり、遺構探しは怪しいので通過する程度と、遠目から臨んだ程度で曖昧だが、城跡がある周辺は未だ田園風景が残る場所だが、城跡には何か建物が建設されるのか作業場と化してる。
築出などの地名も残り、入念な防備が施され?番兵がいた城館が存在したか思ったが平城の宿命(立地がいいのか、なぜ城がある場所にピンポイントで後世構造物が建設される事が多いのか、、)。
辻川城から望める矢坂富山城にも包囲するようシャベルカーが山上に登っており、辻川城につぎ、この有名な山上の城も近い将来消滅するか。

438人間七七四年2017/12/14(木) 08:34:19.04ID:k0CAu87W
岡山市、大窪
室町、福谷-大窪 山頂。
又は詳細不明

毛利と宇喜多が衝突した幸川合戦(小早川隆景が15000の軍勢を率いて備前岡山城に攻めようとしていた。
宇喜多直家は報せを受けるも、病気で動けない。
代わりに弟の宇喜多忠家が軍勢を率いて岡山城を発し富山城を過ぎ、矢坂村から一宮村までの間に七段の備えで毛利勢の侵入を待ち受けた)の舞台となった近辺?の城。山の先端部に近く、対岸に西辛川城がある。
勘違いか?記憶では gisには記載されておらず?遺跡地図記載。
‎宗形神社方面から[城山墓地参道改修]と小石碑がある墓地群を登る。
そこから薮コキで2段ぐらいの段形があり(横に幅のある竪堀状がある)。
さらに藪漕ぎして登ると岩群を利用した歪曲させた虎口らしきがあり。
その上は酷い藪となっており、今回登山口探し程度の計画だった為、準備部足で諦める、、、のつもりがなぜか体が城へと進む。
‎ 薮コキの中、無数の岩群を見てやっと山頂主郭に到達する(内部は丁寧造成とまではいえない?)。
‎主郭端に石積みがあり、最初この城跡は岩が多いだけに岩が偶然重なったものに見えたが、それが高さ1m?、延長10m?と結構の長さであり、崩れてるが、あまりに自然岩群というには均等に並列し、これは人為的な石垣だろう。
‎主郭背後には尾根を断ち切る堀切はなく、幅のある竪堀状が2本落とされてる?。
背後の尾根には物見岩らしき巨石が2個あり崖となり終わり。
来た道を戻り長大?石垣群の逆側にも自然岩を利用した岩群形成の虎口らしきあり。

薮コキと、下調べ程度に考えてた準備不足の為、曖昧だが、城は低山で前後に細尾根を持つ単郭の主郭のみで?、大きな竪堀状が辛川合戦時のものか?、おそらくそれ以前は石垣から国人領主の館があったのかもしれない、と素人妄想。
単郭?のイメージゆえ、あんまり厳重な城には見えないが、無数の岩が自然の防御にもなり、その中に時代の経過か一見乱雑に見えるやや延長のある石垣群には驚き。
城山麓の墓地が城内に含まれたかはわからないが、主郭下の離れの丁寧な二段の削平地は後世跡だろう?(辛川合戦使用?)。

予定にないまま登り結構大変な目にあったが、単郭城?に不釣り合いな竪堀状と石垣群を見れたので満足な城となる。
城が存在した根拠も遺跡地図のみだが?城山という小石碑から城跡との言い伝えが存在するのだろう。
西辛川城辺りで毛利と宇喜多の大激突?があったなら?、近距離のこの城も、人声や轟音が飛び交う緊張の中、当然武者達が詰めただろう。

439人間七七四年2017/12/14(木) 20:53:41.06ID:tZUp0D+G
遠隔操作手法によりますが、一般に遠隔操作が不正アクセスだとすると、その行為は、3年以下の懲役または100万円以下の罰金が課される犯罪(不正アクセス行為の禁止等に関する法律3条・11条)に該当します。
犯罪になるかはどうかは盗聴の方法にもよります。例えば、通信操作によって外部から不正に侵入してやりとりされる会話の音声情報を取得して場合には不正アクセスの問題も生じるでしょう。
民事上の損害ですが、一般に秘匿性が保証されいる環境下で、実はアプリや盗聴器で盗みぎきされていた、それを外部に漏らされたということになると、プライバシー侵害による慰謝料請求ができるでしょう。

440人間七七四年2018/01/18(木) 13:32:37.17ID:RyY8QdsR
美星町、法雲山城

三村氏の居城と伝えられる。頂上近くの墓地には30基を越す五輪塔片や残存。

国道48号407号の分岐点辺りに、小田氏の神戸山城の登山道を示す看板を見て、そこから内陸らしく高地となりだす。
高い台地まで道路が続いてる(現在は道路や車があり、だいぶ便利だが、中世は高地での生活は楽だったのだろうか)

城は中興寺隣で細長い小山。道もありすぐ城内に入れ、お墓や五輪塔がある(五輪塔は無造作に集積されてるようなものもあり) 墓の後ろは土塁のように高まっているが墓地造成時のものに見える。
墓所から東へ3段の小郭群があり、 そして中規模?の堀切で遮断。
堀切の先を行くと細長い帯郭らしきあり(後世道?)、 その先は山の両側が削られてる感があるが、端に1mない土塁らしきものがまた出現する。
その先に遺構まだありそうだが猛烈な籔になり諦める。

城の登城自体は簡単で、籔に埋れた堀切からここへ城があったことがよくわかる。
おそらく墓所辺りが一番高いので主郭だろうが、山自体はだいぶ後世に削られた感じがあるので、城がどの程度かわからないが、墓所から離れた所にも土塁らしきがあり、堀切の先の細長い小山先端にも遺構があるかもしれない?。
すぐ着ける割には城の跡が僅かだが明確に見えた場所。 今はうっすら籔に覆われてるが堀切を境に武者たちが罵倒したり小競り合いをしてたかと妄想。
城の歴史はあまり知れないが?、五輪塔の多さが?この城の歴史事実を物語ってる?。
城の前面は駐車場と畑跡?、横は道路と作業場?で、棒崩しのように本来の姿を失ってるように見えるが?、寺と歩んだ城なら?(歴史に詳しくないのでわからないが)価値が再認識され、これ以上の城の亡き姿がしんこうしない事を望みたい。

441人間七七四年2018/01/18(木) 13:34:41.54ID:RyY8QdsR
美星町、金黒山城
三村氏は三村家親の時に星田より鶴首城に移り、その後は叔父の三村為親がこの辺りの城を守っていたようである。
備中兵乱で小早川隆景の軍勢によって落城。
城の北隣の山地で、古銭が一端を地表に現して土中に埋っていたといわれる。


大名化の道を進みつつあった三村氏の出自がこの辺りだったかもしれない?とは初耳。
城山下の全く人気がないところへポツンと城看板がある。その先の電塔道から登る。
電塔まで快適な道があるが、城跡はまさか!のやや藪の中に覆われており 、単郭の城というイメージだったが、本丸を中心に前方と両端に帯郭(下段内部に2m?幅の穴、看板が云う井戸跡か)が施されている。
本丸後方の尾根に、この城の見所の中規模と小規模の堀切を三重に配置し、厳重に警戒している。
高場頂上の本丸は半々?土塁囲いで、 石柱がある。

ここは城と言えばそれまでだが 、主郭円周の切岸も整然としており、もの言わぬ中世の施設という感じがする所である。
城近くで銭が出土したのは(城続きの尾根?、すぐ近くに資産を隠すとは)、持ち主が落城で戻れなかったからか?、掘り返す間もなく離れる必要があったか?、どういう理由だろう。
小規模?ながら丁寧な加工がいきとどき、厳重に尾根続き背後を警戒した見応えある城。

442人間七七四年2018/01/18(木) 13:36:25.53ID:RyY8QdsR
美星町、星田茶臼山城
杵築神社のある小高い独立丘。俗に茶臼城と伝える。周辺にこれと関連するように古墓が点在。


美星辺りは極南地域より台地がかなり高いが?、その高い台地に小山あり。
登山道を登ると主郭跡思われる頂上に神社があり、背後の一段下がった籔によく加工された三日月状?の帯郭状が巡ってる(帯郭内に立派な江戸時代の年号が刻まれた石塔があり〈古等殿諸精霊塔〉とある。
石塔の横に小さな五輪塔が二基?あり、城主の墓かと妄想。
又、同じ社の背後には帯郭状とは別に竪堀状が一本落とされてるが、こちらも祭綱が山頂に飾られ、城遺構ではなく籔化した後世道にも見える?。

頂上主郭、神社の下を囲うように帯郭状が巡るが、帯郭状が戦国時代のものか、立派な石塔から江戸時代に整地されたものか、わからないが、伝承通りに城があったとしても、せいぜい土塁と僅かな段形を持つ単郭に近い城だっただろう?。誰が居たのだろうか。

城山自体も緩やかに下るイメージで要害性が感じれない?。激しい攻防の中の城というより、政務を行う国人の城館のようなものが小山上に築かれていたのであろう?。
神社裏の下段の籔にある江戸時代の年号が刻まれた石柱に刻まれた「妹尾頼朝」という人物は誰を指しているのであろうか?

443人間七七四年2018/01/27(土) 10:19:52.78ID:IEFbkoBv
岡山市、寺山城(追記)
小丘陵上、数段の平坦面。
直家百余騎を似て矢原村に陣し、城近き山の峰々谷合河原より攻寄す。

川を挟んだ対岸に、西備前最大の国衆勢力誇ったとある松田氏の本拠地、金川城がある。
前回、[松田攻め寺山城が宇喜多直家の本陣]と、それらしき事が本に記載されてた記憶あり。
それについて直家本陣が金川城に肉薄していた?と書いた記憶あるが?、今回の簡素調べでは矢原の寺山城が直家本陣とは確認できず。
記憶違いか?もう少し離れた標高のある熊谷城が本陣か?。
距離が金川城に近いのは地図上の事で、現場は丁度いい緊張感が保てる距離で、松田攻め最終戦?には最適な地で宇喜多直家本陣跡は事実であるか?。

電波塔がある丘上に城があるのだが、登山道がわからず裏の池側から籔を登る。
藪コギで曖昧だが、途中に後世石垣や土塁、堀らしき見れる(後世の畑に改変された跡か)。
‎城の本尾根に到着し、墓地が現れ、そこへ主郭へと通じる中央を貫通した後世の現在も使用されてるように見える登山道も見える。
数段の城段形岸を通り、奥の主郭辺りに電波塔が立っている。
‎電波塔超えた奥の民家が見下ろせる切岸には、だいぶ補強された石垣が見える。

入山口を調べてないが、登山道はあるみたいだ?。
城郭大系では寺山城は熊谷城の根小屋か、と書いてた記憶するが?、根小屋にしても一定のまとまった人員が籠めれ、
宇喜多直家がここに本陣を置いたなら?金川城も見渡せ、松田攻めの集大成とし諸将と陣馬を集結し?、
用意周到な作戦を練り、この寺山城から長槍、鉄砲、弓を備えた宇喜多軍主力が川を超え、金川城に向かい、攻防の中落城する姿も見えたか。
城跡は丘の宿命で電波塔、登山道、墓地などの後世改変で掴みづらいが、今でも4、5段の段形がわかり(登った池側の畑跡?を加えればもう少し規模あるか。
4段目には井戸らしき水の残る穴あり)、歩いた範囲、石垣も後世石垣を含むと、簡素見で四ヶ所で確認でき、加工はよくされてるように見え、籔で確認してない斜面に畝状竪堀か何かあるかもしれない?。
今は城看板すら無いが?、宇喜多直家はこの城で?脅威だった?松田氏に対し、どのように指揮を取り、滅び去る松田氏を目前にどのように考え、
象徴的な言葉一つでも従者に漏らしたのだろうか。


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前前回に書いた、真備の木村山城と、消滅予定?の南山城近く?の沖城(仮、遺跡地図参照)がなぜか表示されていない。

444人間七七四年2018/01/27(土) 10:28:30.56ID:IEFbkoBv
岡山う市、菅城(仮)
正 八幡宮建立の際に大幅に削平されたようで、神社裏の尾根筋に堀切が一条残るだけである。
「七曲神社旧事の書」に「松田此地に来りし時に菅村に居住して玉松の城ならびに金川の郷を取立て移住・・・」とある。(中略)菅には殿屋敷の地名があって、近くの正八旛宮は中世の砦があったのか、西側には空濠(堀切)が見られる。


遺跡地図に載る。神社をネット検索すれば多少当たる。
松田氏の本拠地、金川城からさほど離れておらず、城跡は〈正八幡宮〉がある丘上の境内。
城跡の神社まで結構な長い一直線の参道を登る(石段に傾斜があり、ゼェゼェと藪コギよりしんどいか?)。
神社看板には[宇喜多孫一郎発願の再建棟礼に、、]と見えるが、無知には誰の事かわからない、城の人物に関係か?。
この城には堀が残ってるということで、神社の裏へ行くと1m?の高さの分厚い土塁状らしきが築かれている。
そこから籔へ分け入ると、伝え通りに、すぐに確かに3 M ぐらいの幅の堀があり、その先に又土塁状が築かれている。
更に先に二重堀りだったのか、尾根端に竪堀に変化する堀痕跡らしきある。
その先は平坦尾根が多少続き、城丘から更に山斜面となる。


城は丘程度の高さだが、石段がきつく要害地に思える印象。
山頂の城は神社へと変貌しているが、前方は急峻な斜面?と、背後は平坦なつながりの山尾根を警戒して、遮断すべく二重堀り?と分厚い土塁?を設け、城遺構が確かに見える場所。
土塁状が城遺構なら?、削平前は厚みから当時は高さがあったか。
二重堀と、高さのある二壁の土塁なら、かなり強固な裏山への備えかと無知妄想。
簡素見で現状からは帯郭のようなものは見れず?山頂に神社があるだけの単郭城に見えるが(注、大幅に削平)、まさに要害な立地を活かした金川城の出城か。
あるいは松田氏の詰め城館のようなものがこの丘上に築かれてたのだろうか(丘とはいえ、毎度登り降りするには大変な地形の為?、平時の館とは違うか?)。
歴史を知らない無知は松田氏のこの地での原型がこの辺りかと素人空想。

ここは神社に城が埋れた地であるか?、現在では誰にもここが城跡かすら定かでないが?、明日の安全の保証もない激動の乱世、ここで誰が何を考え、行動してたのであろう?。

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