【有能だったと】信濃四大将【信じたい】の2匹目

1人間七七四年2012/09/19(水) 14:50:51.05ID:oCT0F8uz
北信の雄 村上義清
信濃守護 小笠原長時
見事な切腹 諏訪頼重
巧みな鞍替 木曾義康
扱いが不憫すぎやしないだろうか
前スレ
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1250166622/

378人間七七四年2017/11/22(水) 01:42:30.18ID:4jNk9xjy
革新の進化系出ないかなぁ。

379人間七七四年2017/11/22(水) 08:29:51.96ID:AuumTgLA
河越野戦シナリオで諏訪以外確定


https://i.imgur.com/Fv9b1yN.jpg

380人間七七四年2017/11/22(水) 21:35:42.54ID:SEo+4yH8
ちょっと辛め?
        統 武 知 内 外
村上 義清 82 86 72 53 59 家名存続
小笠原長時 69 73 31 45 32 所領拡大
木曾 義康 52 61 60 63 63 家名存続
諏訪 頼忠 38 45 47 60 53 領地保全

381人間七七四年2017/11/22(水) 22:23:56.57ID:4jNk9xjy
村上 義清→所領拡大
小笠原長時→家名存続
木曾 義康→領地保全
諏訪 頼忠→家名存続
ってイメージだな。

382人間七七四年2017/12/04(月) 03:33:34.73ID:eyYEFxtb
志にかなり左右されるから
信濃守護さんが1番プレーが楽というw
村上さんは3城もってて素敵

383人間七七四年2017/12/04(月) 22:19:25.78ID:zeR2QH+x
明日の鑑定団に出るのって有名な古文書なの?

384人間七七四年2017/12/04(月) 22:54:19.73ID:2lWRiElb
有名なら今更鑑定団に出さないのではないかな

385人間七七四年2017/12/05(火) 22:31:08.63ID:luj3XEng
伊勢物語の写本だった

386人間七七四年2017/12/06(水) 01:18:35.08ID:nzrp4XaH
おいくらでした?

387人間七七四年2017/12/06(水) 22:14:42.97ID:J0qEzWrB
江戸初期の写本だろうということで200万円

388人間七七四年2017/12/07(木) 01:21:25.34ID:GoOU58Jh
高いんだか安いんだか(´Д` )

389人間七七四年2017/12/12(火) 18:22:58.93ID:s5D1TzrR
>>382
砥石城
葛尾城
小諸城かな
村上さん過去最高の城数じゃないかな?

390人間七七四年2017/12/13(水) 12:00:52.67ID:5z+iSC2I
仁科や松尾小笠原は登場しないのか

391人間七七四年2017/12/13(水) 23:31:24.92ID:pana3z7T
へーノブヤボ新作出たんだ

ぐぐる

【悲報】新作信長の野望、クソゲーで本スレ大荒れ - ニッコリン
niccorin.com/archives/52549131.html - キャッシュ
2017年12月2日 ... 信長の野望-400x223 【悲報】新作信長の野望、クソゲーで本スレ大荒れ wwwwwwwwwwwwwwwwwww. 1:風吹けば名無し:2017/12/02(土) 13:52:53.02 ID:ZLWeQ69f0.net.
869 名前:名無し曰く、 (アウアウウー Sa21-sxEU)[sage] 投稿日: 2017/12/01(金) 10:31:54.10 ID:EUBxUByqa [1/2] 速攻でクリアしようと島津でプレイ してたんだけど
大地震で九州全土の人間がいきなり三分の1消えて大友龍造寺が 穴埋めに農兵雇いまくったんで九州が地獄絵図に 中央では巨大勢力が順調に形成され ていっ ...

392人間七七四年2017/12/14(木) 00:36:41.23ID:+e8diqZZ
>>390
信濃の城は増えてない
PKで増えたりするかもしれないけどね
村上さん3城なら小笠原木曽にも追加欲しい

393人間七七四年2017/12/22(金) 21:34:45.11ID:xcrXCew3
いろいろアプデ出すらしいね

394人間七七四年2017/12/30(土) 09:44:37.11ID:cbpyeiJa
革新が良すぎてなぁ。
そろそろ革新の進化形が来て欲しい。

395人間七七四年2017/12/30(土) 11:37:46.20ID:8hD3MWXq
古い時代のシナリオがないから、このスレ的には革新は駄目でしょ

396人間七七四年2017/12/30(土) 13:20:14.81ID:Br4vf9Kc
革新はプレイアブル村上しかいないからねえ

大志は塩尻商圏だったかな?
特別な経済拠点があるので四大将もがんばれる

397人間七七四年2018/01/03(水) 16:09:57.08ID:BcX7T1gT
信長誕生シナリオ配信されるから四人ともつかえるようになるな

398人間七七四年2018/02/07(水) 23:39:00.37ID:Tqez69e0
追加コンテンツ第2弾(2018年1月配信予定)
・武将編集用顔CG(50点)

追加コンテンツ第3弾(2018年2月配信予定)
・シナリオ「沖田畷の戦い」

追加コンテンツ第4弾(2018年3月配信予定)
・『信長の野望・創造』BGM(30曲)

追加コンテンツ第5弾(2018年4月配信予定)
・シナリオ「信長誕生」

追加コンテンツ第6弾(2018年5月配信予定)
・姫衣装替えCGセット(25点)

追加コンテンツ第7弾(2018年6月配信予定)
・シナリオ「長篠の戦い」

399人間七七四年2018/02/08(木) 17:57:26.92ID:vXdl/Q0A
有料なのか

400人間七七四年2018/03/13(火) 18:07:30.83ID:KvRnEYO8
小笠原長時公は諏訪頼重を味方として、甲斐国内および柳と申すところまで度々御働きになった。
そんなところに晴信(武田信玄)が典厩(武田信繁)をもって頼重へ仰せられたことには、

「武田の味方となりましたら晴信の妹を人質ながら妻子に遣わしましょう。その上で信濃が治まり
ましたら、諏訪に村上郡を添えて遣わしましょう」と色々無事を作り仰せられ、

それに付き、頼重は同心致されたのである。頼重は長時公の家老・小見と申す者の婿でおられた。
小見の娘を追い出して晴信の妹の婿になり、甲斐上原城で祝言されて頼重の息女は甲斐へ人質に
越され申した。これは頼重の先腹の息女である。それより頼重は晴信の味方になったのである。

長時公が仰せられたことには、「晴信が諏訪頼重と縁組して諏訪を甲斐へ引き付けたのは、伊那・
林へ取り掛かろうという知略のためである。しからば、晴信の旗下になった諏訪頼重を踏み崩し、
晴信へ取り掛かって一戦をなすべし」と仰せられ、伊那衆と仁科衆がひとつになって長時公は

諏訪へ御働き遊ばし、頼重の持ち分を焼き払って上野原へ取り掛かった。4,5日攻めると頼重の
者たちを討ち取り、本城ばかりに攻め寄せていたところに、晴信は後詰に蔦木まで御出馬された。

先手は板垣(信方)、飯富兵部(虎昌)、浅利が諏訪の青柳まで参られた。長時公方は伊那衆の
小笠原民部少信貞、下条、箕輪頼親(藤沢頼親)、万西でこの衆が先手となって、長時公の本陣
より攻め掛かって板垣と飯富兵部を切り崩し、首百100ほどを討ち取った。

長時公は実検なさって勝鬨を作り、諏訪頼重は降参して人質を出し、長時公の旗下になられたに
付き、長時公は林へ御入馬されて、伊那衆も帰陣仕った。その後もまた頼重は晴信方になった。

伊那衆の内、箕輪と申すところは6千貫で箕輪殿の領地であった。福与城(箕輪城)に在城の
ところに諏訪頼重は晴信の先手を仕り、3月上旬福与城へ取り掛かり、60日ほど取り巻き攻め
申した。福与城に籠った箕輪頼親の侍衆・松島、大出、長岡、小河内、福島、木下の衆は箕輪殿の
家中で大身の武士である。その他に野口寺や澤々の者が100余騎、雑兵1500で籠っていた。

右の衆が城際で日夜取り合い申し、その時に箕輪殿の内に藤沢織部と大泉上総といって強弓の
射手がいた。福与城の大手でこの者たちの矢先に当たり、晴信の者たちが多く死んだ。2人の
武士は移って箕輪殿に供仕り、中塔城に籠り申した。伊那衆はことごとく残らず後詰仕り、

箕輪福与の近辺の三日町と申すところに陣を取った。天竜川を隔てて足軽合戦があり、長時公も
後詰に上伊那の内の籠ヶ崎と申すところを御本陣にされ、先手は北大手に陣を取り申した。

その時、それがし(著者・二木重吉)は万太郎と申し、生年庚寅年15歳で初めて具足を着仕り、
御供仕った。天文13年(1544)甲辰のことである。

下伊那の内の小笠原信貞より多科惣蔵を使者として籠ヶ崎へ参った趣は「御馬を福与城の根古屋
へ寄せられて、是非一戦仕るべし」との由を申して来た。ところが伊那衆に対して御憤りに思し
召すことがあったために御馬を御寄せにならなかったのは、御一代の御分別違いであった。

それに付き、伊那衆は引き取り申した。箕輪殿の城は無事になり、権次郎と申す弟を晴信へ人質
に出して箕輪殿は牢人となった。そのため長時公も林へ御引き取りになられた。

諏訪頼重が晴信公の妹に若子が出来申して心安く存じ、甲斐へ参られたところ、甲斐柳町と申す
ところで晴信より頼重を生害した。それがしが16歳の正月末のことである。それに付き諏訪衆
と晴信とが合戦し、その年中に諏訪と甲斐は治まり、晴信は城代に板垣を置かれ申した。

――『二木寿斎記(二木家記)』

401人間七七四年2018/03/13(火) 18:08:01.85ID:KvRnEYO8
長時公(小笠原長時)が家中の者を召して仰せになったことには「下諏訪に晴信(武田信玄)
より城代を置かれたことは無念至極である。諏訪の城代を追い払うべし!」との旨を仰せ付け

られた。すなわち、両郡の侍・仁科道外(盛能)、瀬馬、三村、山家、西牧、青柳、刈谷原、
赤沢、島立、犬甘、平瀬である。右の衆はいずれも大身の旗頭であった。その他に長時公の
御旗本衆・神田将監、泉石見、栗葉、惣社、下枝、草間、桐原、瀬馬村、

及び塩尻衆・征矢野、大池などである。二木豊後(重高)の舎弟・土佐の三男・六郎右衛門、
豊後の子・万太郎(著者・二木重吉)、土佐の子・万五郎と弟の源五郎兄弟もである。

この源五郎は草間肥前の養子と罷りなり草間源五郎と申した。長時公の近習を仕り、林に居住
して御旗本と罷りなった。二木豊後と同土佐、同六郎右衛門、同万太郎、草間源五郎の5人は
西牧の備と一緒に罷りあり、備を立て申した。全軍の兵は林を出立して下諏訪へ取り掛かり、

晴信より置かれた城代を手きつく攻め申した。頃は4月中旬である。城際まで取り詰めて急
に攻め申したゆえ「長時公へ城を渡し申すので、御馬を少し御退き下され」と城中より使者
2人が出てきたので城を受け取り申すというところで、仁科道外が望み申されたのは、

「下諏訪を私に下されば甲斐国までの先駆けを仕って、晴信と一戦仕りましょうぞ!」との
ことで、これに長時公は「私の稼ぎの花を望むとは推参であるぞ!」と仰せられた。道外は
「骨を折っても何になるだろう。信濃にいるよりは、晴信の朱印が良い」と軍前を外して

備を仁科へ引き取り申した。城内よりこの旗色を見届けて城は渡されなかった。そんな折に
晴信は後詰のために上諏訪まで御着きになり、皆々は「諏訪を道外に御遣わしにならないと
長時公が仰せられたのは、御一代の御不覚である」と申したのであった。

長時公はその日は諏訪の四つ屋と申すところへ御馬を上らせなさり、夜が明けて諏訪峠に
御陣を御取り遊ばされ、その日の巳の刻に合戦が始まったのである。初めの合戦で晴信の
先手を切り崩し、四つ屋まで敵を追い下して長時公方は首150を討ち取ったのであった。

その日の合戦は6度あり、その内5回は長時公の御勝利であった。晴信方では本陣がこらえて、
6度目の合戦では瀬馬、三村、山家が逆心仕り、長時公の御本陣にて追いつ返しつ入り乱れる
合戦となった。御本陣の良き者たちの過半は討死仕ったため、長時公もかろうじて林の手勢を

使いなさっていたところ、村上殿(村上義清)が小室へ働かれ申したとの由を聞こし召されて
早々に御引き取り申された。瀬馬の逆心により、西牧の二木一門は本道を退くことはできず、
桜沢に差し掛かって奈良井へ出て、奈良井源右衛門のところで飯米の合力を受け、御岳越しを
して、やっとのことで西牧へ出ていった。

――『二木寿斎記(二木家記)』

402人間七七四年2018/03/14(水) 19:47:29.29ID:rXYjm7zW
その合戦の後、2,3年の間たびたび合戦があり、神田将監は寝込にあって討死仕った。
その時も良き者が多く討死仕った。神田将監は強弓の精兵で長時公(小笠原長時)の

御家中で一騎当千の兵(つわもの)であり、長時公も惜しく思し召された者であった。
“寝込”とは夜討のことである。出水石見と神田将監は長宗公(長棟。長時の父)も

良く思し召して御使いになった者たちである。長時公に御代を渡された時も、その由緒
を仰せられて2人を御渡しになった。信貞公(信定。長時の弟)へは木下惣蔵と

溝口刑部を渡され、下伊那の鈴木城(鈴岡城?)へ御在城させた。信貞により木下惣蔵
は多科城へ差し置かれ、すなわち多科惣蔵と申して一騎当千の者だった。惣蔵は長宗公
が御取立てした者である。

神田将監が常に申されたことには「私めは長宗公が御取立てなさった者なり。『どんな
ことがあろうとも長時公へよく御奉公仕るように』と、私めは後室様に仰せ付けられた。

信貞へは木下惣蔵を御渡しになり、長時公へは拙者を御渡しになったのである。それ故、
私めはいかようにも御奉公仕る覚悟である。しかしながら、長時公は強き御大将であり、

我儘気随で遊ばされるゆえに、両郡の大身の侍衆は皆不満に存じておられる。ある時、
西牧、瀬馬、三村殿ら両三人の衆が御用あって出仕申されたが、長時公の気随によって
出仕はならず、それゆえに帰り申されたことがあった。

またある時には万西、赤沢、鎌田兵衛尉が出仕したが、これも気随ゆえに御会いになら
なかったのである。また山家が出仕した時も同じであった。かようのことが度々あった
ので、両郡の武士たちは不満に存じておられる。

これは水竹と申す者が出頭(寵愛を受けて出世すること)仕るようになって、長時公へ
申し上げることがあったゆえ、このようになったのである」とのことであった。

――『二木寿斎記(二木家記)』

403人間七七四年2018/03/14(水) 20:17:58.88ID:iYv7QnU0

面白かった

404人間七七四年2018/03/14(水) 21:10:59.25ID:rXYjm7zW
小笠原信貞は家老の多科惣蔵と溝口刑部を召して御命じになり、長時公(小笠原長時)が下諏訪
の城代・板垣を攻めなさるため諏訪へ取り掛かり申すにつき、下条殿と御談合のために

溝口刑部を御遣わしになり、伊那衆の侍はいずれも一身にして打ち立ち、下条殿、片桐、飯島、
知久、晴近の衆は下伊奈を5月中旬に出立し、相沢・駒沢まで詰めていた。そこに長時公が

諏訪峠合戦に敗軍の由が聞こえてきた。信貞公が仰せられたことには「一日早く出立していれば、
晴信方を切り崩していただろうに」とのことであった。その日は平出を越えて相沢・駒沢に陣を

取り、密かに出立した。伊那の軍勢の押さえのために板垣信方(信憲?)が置かれていたので、
下伊奈の軍勢が相沢・駒沢に詰めていたところを信方は攻め掛かり、小笠原信貞に切り崩されて
小尻まで追い討ちし、武田晴信方の首を多数討ち取って信貞は勝鬨を上げなさったのである。

板垣信方はやっとのことで下諏訪へ引き取り申した。信貞が仰せられたのは、「大手(長時本陣)
が敗軍した以上は、搦め手で勝利したといっても保科弾正(正俊)は晴信に心を寄せ、そのうえ
松島や大出などもそうであるから、対陣には及ばない」とのことで、伊那へ御引き取りなさった。

――『二木寿斎記(二木家記)』

405人間七七四年2018/03/15(木) 05:25:34.68ID:U1Bapz9M
まだ、質問に答えるうちはいい
反論に行き詰まると

それは、自演の証拠ではない

と、まことは連呼した

406人間七七四年2018/03/16(金) 08:14:48.90ID:1FmXdxCZ
小笠原さんは実に惜しい
強くても人徳がねえ

407人間七七四年2018/03/17(土) 10:58:28.64ID:im2qAF3b
神田将監が7月の初めに出仕した時、征矢野甚助・惣社久太郎・万西次郎・大池右馬之助・桐原と
同道仕り、照りに照った日坂を上ろうと股立を高く取って小飛び掛かりに坂を上った。

若き衆は申して「将監はどうしてこの暑いのに飛んで上がり申されるのか」と申されれば、将監は、
「暑くはない。秋の露ばかりで身体が濡れるので、露を払って上り申しておる」と申した。

若き衆はますます笑って申し「将監殿は気違い申したのか。これほど埃が立って日照りで汗に濡れ
て困るというのに、身体に露と仰せられるのは可笑しく存ずる」と笑った。

将監は申されて「呉越の戦の折、呉王・夫差の臣下・伍子胥が申したことを存ぜぬのか。それを
思い出したのだよ。長時公(小笠原長時)は我儘でいらしゃるので、両郡の武士には不満が多い。

それゆえにこれよりこの城は後に晴信(武田信玄)の仕置きになり、城や家は破却されるであろう。
その時は鹿の臥すところとなって(野に伏すことになって)残念なことである。されば露に濡れる
ことを思い、飛んで通って股立も高く取り申しておるのだ」と申された。

その後、若き衆の落書を将監は立てた。神田将監の存分は面白きものである。

「小笠原の 御家をたをす ものとては 昔は絲竹 今は水竹」
(昔から遊興が御家を滅ぼしてきたが、今は佞臣の水竹が小笠原家を滅ぼそうとしている)

――『二木寿斎記(二木家記)』

408人間七七四年2018/03/19(月) 01:24:53.84ID:u2f+C8P5
それがしが20歳の時(著者・二木重吉。1549年)の4月末に晴信公(武田信玄)は御働きになり、
村井に陣を御取りなされ、長時公(小笠原長時)も御出陣して合戦し、その日の合戦は村井・林の間で

敵を切り崩したものの味方も崩れ申し、その後は互いに本陣で追いつ返しつ入り乱れて合戦と相なった。
その合戦で草間肥前と泉石見が討死仕った。泉石見は長棟公の御代より数度の合戦を仕った精兵の強弓

の射手で“土射ず”と皆々は申した。勝負の矢は申すに及ばず、諸々の鳥を射ち申しても外すことが
ないので、あずちを射ち申さずとして皆々このように申したのである。石見はもとは沢清右衛門と申し、

泉小四郎の子孫なので長棟公の仰せにより泉石見と名乗り申した。このような者が討死仕ったために、
林勢は弱くなり、その他にも御味方は多く討たれ申したので長時公は林城へ御引き籠りなされた。

その時に長時公を背いて晴信方となった衆は山家・洗馬の三村・赤沢・深菅・万西・鳥立・西牧の各々
であり、長時公の御家中で5千貫や3千貫を取った大身であった。長時公の御味方で大身の衆は犬甘・
平瀬・刈谷原・小見、その他に御旗本衆ばかりである。

長時公は御家の良き者は討死して、家老の者は逆心仕ったために叶い難く、林城を御開けなされようと
思し召されたが、どこへも道は塞がれて出口もないところに、桐原だけが御味方致し、深志城(松本城)
の城主・万西は桐原の伯父だったため、かの万西は桐原に申して、

「長時公の味方を致すよりも、長時を討ち申して晴信へ忠節を仕れ」と意見したが、桐原は少しも同心
仕らずに強いて御味方致し、長時公に申し上げて、

「いずれも御家中の家老や譜代の者が御敵と罷りなり、私の伯父・万西までも逆心仕り、挙句に拙者にも
逆心を企てよと意見仕りました。ですから少しでも早く塩田へ御退きになられて、村上殿(村上義清)を
御頼み遊ばされませ」と、桐原の妻子を長時公へ人質に出して居城の深志城に引き取り申した。

それより長時公は村上殿を御頼みになられ、村上殿は如才なく存ぜられて、「長時公の御本意を遂げさせ、
林へ御帰し致しましょう」と仰せられ、清野(信秀)と申す侍に仰せ付けられて長時公を御馳走申された。

――『二木寿斎記(二木家記)』

409人間七七四年2018/03/22(木) 17:55:40.23ID:h5+fQbrH
二木さんのはどのくらい忠実なんだろね

410人間七七四年2018/03/24(土) 02:01:40.68ID:knic9YSh
>>409
ぷらっとなら詳しいんだろうけどなあ

411人間七七四年2018/03/25(日) 01:54:45.00ID:NxNtCC4w
長時公(小笠原長時)が林城を御退きになられてのち、晴信公(武田信玄)は林城を破却して深志の万西に
居城を取立て普請なさり、馬場民部少(信春)を城代にして御置きになった。長時公は領地を御支配されず

といえど、犬甘と平瀬が城に籠っていた。そのようなところに馬場民部は犬甘・平瀬へ計略を入れ、互いに
融和があった。しかしながら、いまだ仲裁も済まぬうちに、長時公の御本意を遂げなさるため、村上(義清)
が深志へ御発向との由が申し来たため、犬甘と平瀬は勢い強く、ますます甲斐には従い申さなかった。

同年(1549)11月初めに、村上の軍勢が会田に陣取り申したとの由が深志へ申し来たので、馬場民部
とその他の者ら深志にいた晴信の軍勢たち20騎余りが、11月初めのまだ夜の暗いうちに、刈谷原崎まで
物見に出て行った。ところが村上衆は1人も参らなかったので、物見の人々は帰ることにした。

一方、犬甘大炊助は自城に軍勢を置いて、手廻り10騎ほどで自身は“あかきり栗毛”と申す名馬に乗り、
長時公御迎えのために出て行った。岡田町という宿に到着した一行は、帰るところだった馬場民部ら

20余騎を見かけると、村上衆だと見て犬甘の方から使者を遣した。使者は申して「こちらに御越しの者は
村上衆と御見受けします。長時公の本意のために、ここまでかたじけなく存じております。深志へ先駆けを
仕るべく、犬甘がここまで参りました」と述べた。

馬場民部は「犬甘が罷り出たので謀って討ち申そう」と談合致し、犬甘への返答に、「長時の本意のため、
村上はここまで罷り出ました。深志への先駆けになられたいとの由、もっともなことです」と返事仕り、

犬甘を調子よく騙し含め申すと、犬甘は見切りも早々に退き申した。その後、深志よりの人々が出合い、
犬甘に切り掛かり申したため、犬甘は犬甘城に移ることができずに同城を右に見つつ、

青島と申すところで掛け馬をも乗り放し、ただ1人になって西牧まで退き、二木豊後(重高)のところへ
参られた。豊後は犬甘をうまく隠し置き、後に西牧殿と相談致して飛騨を通り、美濃のかくちょうへ

犬甘大炊助を送り申された。犬甘城は馬場民部少輔が大将となって、甲州衆と信州降参衆が一つになって
攻め落とし、それより平瀬城をも攻め落とし申した。平瀬城で討死致した人は多かった。長時公の御味方
は強く抵抗致したのでこのようになったのである。

――『二木寿斎記(二木家記)』

412人間七七四年2018/03/28(水) 19:11:45.45ID:AFPyZB+R
警察、創価と在日マフィアによる集団ストーカーの模様^
(車両ナンバーつき)
https://www.youtube.com/watch?v=gTOBN1AkSz0
https://www.youtube.com/watch?v=bbPcpPwO3ug
https://www.youtube.com/watch?v=de1jeSPGGNo

^怖ろしくておもらししそう´・ω・`

413人間七七四年2018/04/18(水) 12:35:16.44ID:T+nr3qnS
織田信長の甲州征伐の折、諏訪の寺へ本陣を据えるため入る折に、信長は
木曾(義昌)に軍勢を見せるべしと思われたためか、「従う大名小名、一人も
騎馬してはならない。歩行にて我が馬の先へ立つように」と命じ、五千人の人数皆、
信長の御先を歩んだ。

その頃、燻革(ふすべがわ)のたちつけ(膝から下の部分を脚絆のように仕立てたもの)が
流行っており、殆どはその装束であった。

寺の門前にて菅谷九右衛門(長頼)が信長に申し上げた「木曾殿がここに参られました」
信長は「寺に入れ、ここで礼を申させよ」と命じ、木曾義昌を寺の中に通すと、
礼を述べる木曾に対し、黄金二百枚を台に積んでこれを与えた。
この時、木曾義昌は台を持ち上げてこれを戴こうとした。

後に信長はこう言った
「木曾はうつけ者であるな。二百枚を積んだ台が持ち上がるものか。ああいう時は
台に手をかけ頭を付けて礼をするものだ。山家の遠国者は何も知らぬ。」

(祖父物語)

信長公、木曾義昌を「うつけ者」「田舎の礼儀知らず」と酷評

414人間七七四年2018/04/18(水) 12:51:29.85ID:CKDM1RwS
木曾はそりゃもう田舎だでなぁ

415人間七七四年2018/04/19(木) 03:37:24.85ID:bzicIBcc
姉小路 一条「ド田舎の領主ですがなにか?」

416人間七七四年2018/05/14(月) 21:13:53.24ID:OwnQVXCv
>>144
むしろ仁科の自称平氏が嘘くさい

417人間七七四年2018/05/14(月) 21:42:23.24ID:OwnQVXCv
>>95
頼朝の信濃統制の手段に使われただけだろ

418人間七七四年2018/05/14(月) 22:27:07.90ID:OwnQVXCv
>>342
足利尊氏への貢献度が段違いだからしょうがない

別スレで諏訪氏を守護にすべきだったとかいうやつがいたが、
あんだけアンチ足利やって守護になれるわけない

419人間七七四年2018/05/14(月) 22:37:04.70ID:+s1JoDqT
鎌倉占領しちまったからな

420人間七七四年2018/05/15(火) 21:08:17.14ID:kueC0NkG
>>297
仁科本家も安曇郡を回復して小笠原とやりあえば大町藩とかがあったかも

421人間七七四年2018/05/16(水) 07:43:54.80ID:u0tzy+kk
>>297
その後もう一回改易から復帰してるあたり
小笠原もフェニックス的なところがある

422人間七七四年2018/05/21(月) 11:21:23.93ID:kVPHENMY
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>>727
まず信長は自身が討たれてしまったので、そもそもケースが別
信長は金ヶ崎の撤退で行方を晦ましても、自身の生存が明らかになったときは
各地に落ち、散り散りになった兵はすべて帰参している…
同様に扱うことは不可 もうちょっと建設的に語ろうか

423人間七七四年2018/05/21(月) 11:21:52.91ID:kVPHENMY
武田信玄が長生きしていたら、天下が取れたのか 8

424人間七七四年2018/05/21(月) 12:10:23.27ID:9LAI6x/5
なにこれ

425人間七七四年2018/05/27(日) 03:19:43.45ID:ZLr2fcgC
☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪

426人間七七四年2018/05/30(水) 20:35:37.21ID:ckeW9xXY
>>414
信玄も攻めるのめんどいから懐柔してすませてたしな

427クバの化身2018/05/31(木) 09:51:03.31ID:hCABnNa9
その後、オレ様は、まことがやっている
ハッキングデータを消した

428人間七七四年2018/06/06(水) 22:37:48.95ID:lvwBVxzN
https://pbs.twimg.com/media/DQl56xBUQAEBiKR.jpg

平山氏による信濃諏方氏か

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