【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net

1人間七七四年2016/08/02(火) 15:33:35.60ID:DfuO35GJ
古くはレジェンド東京”武蔵武芝”、
時は過ぎて、その後の”戦国時代”、
武蔵国の内の多摩郡、荏原郡、豊嶋郡、足立郡、葛飾郡
に関連が深い東京武将たちを語りたい。
1千葉利胤
2三田綱秀
3吉良頼康
4太田康資
5大石定久
6宇田川定氏
7宮城政業
8牛込勝行
9板橋親棟
控え
豊島康保、豊島胤定、板橋忠康、小田朝家、小山田弥三郎
平山氏重、渋川義基、舎人経忠、舎人孫四郎、梶原助五郎
the北条
北条綱高、北条康種、高橋氏高、高橋高盛、南条重長、
遠山綱景、富永直勝
the徳川
板倉勝重、豊島信満、etc.

よろしくどうぞ。

330人間七七四年2017/10/30(月) 13:26:09.57ID:EG7mVd/f
岩槻太田氏と江戸太田氏ってどっちが嫡流何だろうか?
あれかな、道灌死後資康は追われて、岩槻は扇谷に残ってるようだから、
ここで扇谷の意向で嫡流が変わった可能性もあるのかな?
自分に従った一族を嫡流にするって考えられるよね?

331人間七七四年2017/10/31(火) 00:07:57.63ID:AwqE0oYz
上杉憲幸と上杉憲寛が似てる
二人は両方とも武田氏が娘を両息子(上杉氏幸、上杉義勝)に娶わせている

332人間七七四年2017/10/31(火) 22:52:36.47ID:W2X0v376
>>330
新井白石は岩槻が嫡流と言ってるな
まぁただゴタゴタもたくさんあったからもはやどちらが嫡流というものでも
ないかもな

333人間七七四年2017/11/01(水) 16:29:55.87ID:TyC/FLnB
そろそろ2020年の大河ドラマ決まるらしいけど、
太田道灌を推してる団体の頑張りは実るかな?
僕的には本当は太田康資と資正のダブル主人公で
国府台の戦いまでを描く大河が見たい
太田一族の異なった歩みとはとこ(厳密には違うけど)が別の道を歩みながらも
影響しあい、最後は手を取り合うという物語……どうかな?

334人間七七四年2017/11/02(木) 06:48:54.48ID:ErjU5QZX
それ以前に北条早雲すら大河になってないのはおかしい

335人間七七四年2017/11/02(木) 07:41:13.53ID:O5HkvxHm
ラスボスが三浦になるしなあ

336人間七七四年2017/11/02(木) 18:09:08.90ID:ySUAfOax
>>334
そうですね、北条も団体が頑張ってるらしいですけどね
私も北条5代はやってほしいですね
ただやっぱり他の県の団体の活動が目立ちますね
ちなみに今回道灌団体は11万人の署名と神奈川県の黒岩知事の署名とメッセージを
ゲットしたみたいです
なので今回は北条より道灌をむさしも国、むさがみ国、ちちぶ国が推してるかもです
たぶん東京オリンピック意識なので早雲よりは下の代がライバルですね

337人間七七四年2017/11/03(金) 00:34:22.05ID:0WMM31B9
さすがに2020年の大河は戦国だ…よな?……

338人間七七四年2017/11/04(土) 05:44:06.55ID:MiRKbg/r
ライバルは立花宗茂と忠臣蔵らしいよ。
立花宗茂は2度目の藩主から400年記念、
忠臣蔵は1964年度東京オリンピックの時に赤穂浪士だったかららしい。
さてどうなるかね。

339人間七七四年2017/11/09(木) 00:11:58.17ID:07Cx0b+Q
武田四天王の内藤昌豊と北条家臣の内藤綱秀につながりを感じてる人、俺以外にいない?
昌豊(昌秀)の父工藤氏が早雲の所に亡命した説、綱秀の父が康行又は景豊で自身も
景豊を名乗った説、昌秀の子昌月も綱秀の子直行も最後は氏直のもとにいること、
そして両内藤とも大和守を叙位されてること。
秀に豊…気にならない?

340人間七七四年2017/11/09(木) 10:39:29.61ID:Ud+Xlxe7
ほう。

341人間七七四年2017/11/09(木) 10:47:46.32ID:Ud+Xlxe7
内藤昌秀(俗説では昌豊とされる。)の父工藤虎豊は信虎に殺されて死亡した、
とされ、その時は1536年であったとされ、
たしかもう、このころには北条早雲は死亡しておりましたし、
1508年に信虎に敗北して早雲の元へ逃れた工藤氏、が虎豊の事であるとされますと
昌秀が生まれるのはそれから14年後、
虎豊は一回北条早雲の元に逃れた後で、また信虎に許されて帰参して、
その後で信虎に殺されて死亡して、また工藤氏は北条を頼ったりしたのでしょうかね?

342人間七七四年2017/11/09(木) 13:30:44.22ID:07Cx0b+Q
>>341
内藤綱秀は分家からの養子とされてる。祖父(?)の朝行は朝定から、
養父の康行は氏康から、子の直行は氏直から、
綱秀はなぜか逆転して氏綱から(不明)。
次に内藤景豊は北条幻庵の三女が1535年に内藤景豊の正室になってるようで、
小田原攻めの際の内藤景豊は老兵か2代目。
内藤綱秀と内藤景豊と同一人物かまたは別人か。(互いに大和守、
家紋に共通あり、ただし親族かも)
ここで、出自が曖昧な津久井内藤氏(一応藤原秀郷系)に内藤綱秀や内藤景豊のときに
甲斐内藤氏(源満季系だとか)が入り込んでないか(秀や豊から)
と、意味を含んだ妄想の文が339。
とまぁここまで書いて、ネットを漁ったらまた新情報(北条方内藤氏は三系統あり)
もあり、北条方内藤氏の謎はまた深まってしまった。
ごめん会話がかみ合ってるかわからんけど一応返信しとく。

343人間七七四年2017/11/09(木) 23:11:06.66ID:i4iaPgp5
>>342
返信と情報提供をどうもありがとうございますね。

344人間七七四年2017/11/09(木) 23:46:26.57ID:07Cx0b+Q
>>343
いえいえ、こちらこそ。

345人間七七四年2017/11/14(火) 02:02:33.45ID:/Muas2pB
興味深いスレですかね。

346人間七七四年2017/11/28(火) 10:27:51.86ID:vEREretA
丹波篠山藩の初代藩主の松平康信の母親は太田輝資の娘紫雲院
輝資は太田康資の弟で北条方に残り太田/北条氏房に仕えた
徳川が入国したあとは仕官を断り現川口で隠居
ただ女系での血は形原松平家で大名として幕末まで存続

347人間七七四年2017/11/30(木) 11:34:47.07ID:9frVxLvp
武蔵千葉氏と下総千葉氏に関して

とりあえず関東を原点からみると
(本当は将門、頼朝、前北条も地続きだと思う)
鎌倉幕府を経て室町幕府初代の足利尊氏直義兄弟後ずっとくすぶっていた
中央と関東の争いからはじまる
もともと鎌倉足利と関東管領上杉は足利兄弟派閥の違いで、ねじれていた
これは尊氏の子足利基氏が尊氏死後に尊氏の思惑と異なり
直義の意向(鎌倉府の独立性)を引き継いだためだという
(直義派の上杉氏を関東管領に復帰させた、だが皮肉なことに上杉は中央寄りになる)

そして鎌倉足利持氏のときに、上杉の権力拡大を疎み上杉禅秀を虐げ、
犬懸と対立関係であった山内を起用した結果、上杉禅秀の乱が起こる
これは中央の支援もあり、犬懸上杉が没落し(子供らは京へ逃げた)
山内がより強くなった
(起用された憲基がすぐ亡くなったため越後上杉憲実が山内を引き継ぐ)
そしてこの争いで活躍したのが関東のフィクサー長尾景仲である
憲実自体も長尾、大石によって擁立されたとみる説もある
ちなみに大石氏も上杉氏の下で大石遠江守信重や
大石能重などを輩出し、上杉禅秀の乱でも
大石遠江守憲儀が活躍し出世していた

348人間七七四年2017/11/30(木) 11:35:15.64ID:9frVxLvp
その後持氏は将軍義持猶子だったため(一説)義持の死後に将軍の野望をもってしまう
そして新しい将軍義教を軽んじた、これにより中央よりの憲実とも対立してしまう
これで中央&上杉vs鎌倉はいよいよ後戻りできなくなる

状況の悪化により持氏は上杉憲実に中央との仲裁を依頼し、
憲実も助力するが持氏は将軍義教によって自害においやられる
憲実は弟清方に託して出家、結城合戦の後
(結城氏が中央に逆らい持氏の遺児を擁立をしようとした戦)
自らの子も出家させ完全に関東管領を弟に回した。
景仲は両戦いを上杉家宰長尾忠政の下で功績あげ、
清方から指名され山内上杉家の家宰を手に入れる
彼は上杉憲実、その子憲忠や長尾忠政と違い、鎌倉公方に対して強行的に行動していく
景仲vs持氏遺児の成氏と構図へ向かう
(中央は上杉一強を恐れ成氏の鎌倉入りを許した)

349人間七七四年2017/11/30(木) 11:35:30.61ID:9frVxLvp
憲忠(景仲よって擁立)は成氏を補佐しようとしたが景仲は成氏派の結城氏などと対立した
景仲は強硬に出て扇谷上杉家宰で婿の太田資清とともに江ノ島合戦を起こす
(資清は憲忠義父の扇谷上杉家宰で景仲の婿)
だが景仲は敗北し所領家宰職没収、憲忠の鎌倉の追放と復帰へて
一度は丸く収まったものの成氏は憲忠と家宰職長尾実景憲景父子を謀殺してしまう
少しズレるが大石憲儀も反成氏派で処分をうけていることから
景仲、太田資清と近い存在だったことがうかがえる
憲忠暗殺の報せを聞いた景仲は憲忠の弟房顕を関東管領に迎え入れると共に
成氏を討伐する事を決め、家宰職に復帰した
分倍河原の戦いにて惨敗してしまったが、成氏も報告を受けて中央から派遣された
今川範忠によって鎌倉を追われて下総国古河城に移り古河公方を名乗った

ここでいよいよ下総では
永享の乱の終盤に上杉方になった千葉宗家胤直胤賢兄弟と胤直の子で
兄胤将の早世で当主だった幼い胤宣を
庶家で成氏派の馬加康胤と重臣原胤房によって攻撃され滅ぼされてしまった
(胤将は父とは逆に持氏派だった)
胤賢の子実胤と自胤は千葉城から市川城、
そして武蔵国の上杉派を頼り葛西城へ逃げ延びたのであった
こうして武蔵千葉氏がはじまった

350人間七七四年2017/11/30(木) 11:35:45.83ID:9frVxLvp
1454年 成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺
千葉胤将死去
古河に公方が移る
武田信長と里見義実が上総、安房に現る
可能性としてこの頃土岐為頼の先祖も現れたか!?
(武田信長は下総前は相模西部を所領していた説あり)
1455年 成氏によって扇谷上杉顕房、武蔵国守護代大石憲儀が戦死
後の武蔵千葉氏vs馬加&原胤房
東常縁が千葉氏の内紛を収めるため下総に下向
酒井定隆も東常縁と一緒に下向したとも
(上総酒井氏の祖の可能性あり)
1456年 東常縁が馬加氏を滅ぼす
道灌家督を継ぐ(この頃には品川湊近辺の館に居た)
1457年 江戸城や河越城を太田道灌が築城
(江戸周りは江戸氏の所領を南下していて、豊島氏が主)
上杉持朝が河越城を居城とする
江戸城の築城において太田道灌の命令で、
宇田川長清が江戸日比谷から北品川に移住する
ちなみに武蔵吉良氏の成高は持朝の娘を妻に迎えた
そのため、上杉方として動いた
1458年堀越公方下向
1459年五十子・太田庄の戦いがはじまり旧利根川挟んで上杉方と古河公方方に分かれる
ここから享徳の乱の謎の中期になる

351人間七七四年2017/11/30(木) 11:35:57.63ID:9frVxLvp
まず、武蔵千葉氏は下総に戻れなかった、
だけれども東常縁は1469年に息子縁数を残し帰国とあるので
下総で古河公方の勢力が強い中でも残っているのである
ではどこにいたのか、自分は古河勢が巻き返し図った際、匝瑳郡まで逃れたことから
今の東総地区にいたと思われる
さらに上記の武田、里見は成氏に呼ばれたとあるが、
堀越公方政知は成氏方の諸将を懐柔することに努めたことや、
東常縁がそのまま存在していることから、実は武田、里見、酒井、土岐氏は
中央側の東常縁と成氏側とをいききしたりなど、
定説通りには動いてなかったのかもしれない
そして大須賀左馬助・国分五郎などは東常縁の味方をしたようだ
逆に酒井定隆は成氏の客将になったという

1462年 武蔵千葉実胤隠居
(堀越公方と扇谷上杉が揉めたため、三浦氏や大森氏とともに隠居)

このことからこの時には立場から見て扇谷で出世してることが分かる
(後に実胤は上杉顕房の娘、自胤は長尾景信の娘で景仲の孫を嫁にしている)
いつごろから赤塚、石浜わからないがこの時には所領していたのではないか
それから隠居に伴い弟自胤が当主になり、宗家の千葉介も公認されている
そして実胤は出奔したと言われる

352人間七七四年2017/11/30(木) 11:37:32.71ID:9frVxLvp
さて時を同じくして下総では馬加氏の庶長子と思われる岩橋輔胤が原氏の所領を
受け継いでいた、だがそれ以外は不明である
ちなみに胤将は父胤直の異母兄弟とする説がある、妄想だが年齢的に子がいてもおかしくない
つまり岩橋輔胤の子とされる孝胤は実は胤将の子ではないか
東常縁もいてまだ下総自体不安定の中で不自然に岩橋氏が千葉氏を乗っ取るというのに
引っかかりがある、そしてこの時期の情報はほぼない
だとすると可能性はかぎりなく低いが考えてしまう
胤将は馬加と同じく成氏派で、父又は兄の胤直の出家に伴い当主になったが、
胤将死後今度はまた上杉派の胤直が口をだしてくると
謀反を起こし、その子息を擁立というのがありうるし、後世の千葉氏の動きとも
大きな矛盾はない、残念なことに胤将に子がいた資料はないが

1463年 長尾景仲死去、ついに関東のフィクサーが死にその息子景信が継ぐ
武蔵千葉氏に赤塚の寺院への返還要求の書状が堀越公方から届いている

実胤ははたしてこの時戻っていたのであろうか

1464年 足利義視が僧侶から還俗
1465年 臼井教胤死去

千葉孝胤の明確な活動時期までまだある、本佐倉城の築城時期も諸説ある
そこから西には臼井城があった、城主は臼井教胤である
死去後実子俊胤が幼いため養子の持胤がついだということだ
そしてこの持胤は孝胤の子だというが、年齢が合わない
この時に14〜20ぐらいだとしてもこのとき孝胤が
6〜21歳ぐらいだということだ
これも妄想だがこれは実胤の子ではないだろうか
ただし実胤も孝胤同様に年齢が合わないが
理由としては伝承に実胤と扇谷上杉の娘の子守胤が臼井俊胤のあとをつぐ
というのがある、世代がずれたと見るのはどうか
持胤=守胤というのもおもしろいと思う

353人間七七四年2017/11/30(木) 11:38:50.20ID:9frVxLvp
1466年 上杉房顕死去

フィクサー景仲が越後国守護上杉房定の子に継がせるよう遺言で残していたらしく、
上杉顕定が関東管領に就任

1467年 応仁の乱が起こる
今川義忠が応仁の乱のため上洛し、伊勢早雲の姉妹と婚姻をする
扇谷上杉持朝が死去、息子の上杉政真が継ぐ
宇田川清勝討ち死に
1468年 東常縁の美濃の所領を奪われる
1469年 東常縁は息子を下総に残し、京都へ上洛し所領を返還される
1470年 現千葉県市川市で原左衛門次郎蓮教
高城氏が松戸市の平賀本土寺に制札が伝わっているが疑いもあり

いよいよ謎の享徳の乱の中期を脱し
応仁の乱の余波で関東もより動きだす
下総においても戦いがいくつもあったとおもわれ所領は確定はしてないように思う

1471年 小山、結城、千葉孝胤が堀越公方を攻めるが、
山内上杉が堀越と合流し、退却するも叩かれ壊滅状態に
景信が古河城を攻め、成氏は孝胤の元へ逃げる
成氏が下総の知行に関し権威を行使して解決させた
上杉氏が小弓に攻めこみ原胤房死去

この頃か定かではないが、実胤は大石石見守に招かれ葛西城に赴き、
密かに成氏と連絡をとり、千葉介を認めてもらい、下総に帰還できるよう頼んだとか、
だが、それを知った孝胤が猛抗議し叶わず、上記の出奔につながるとのこと
美濃の東氏を頼ったとか

354人間七七四年2017/11/30(木) 11:40:07.84ID:9frVxLvp
1472年 古河城を成氏方が取り戻す
五十子で上杉方と成氏方が激突
1473年 上杉政真、長尾景信が死去、扇谷は嫡子がいなかったため
資清など老臣の評定により、政真おじの定正が継ぐ
長尾は上杉顕定の指示で息子の景春ではなく、景信弟の忠景に継がせる

ここで景春の乱につながる、景春は従兄弟の道灌をたったが、道灌は拒否したものの
色々提言したが聞き入れてはもらえなかった、さらにその行動を父資清に𠮟咤された

1476年 今川義忠討ち死に
伊勢早雲が調停のため幕府から遣わされる
道灌が犬懸上杉の血が入る小鹿範満を擁立すべく出向く
この件は和談が成立し、道灌は撤収
景春が武蔵鉢形城に拠って反旗を翻す
大石遠江守房重が戦死
1477年 臼井持胤が俊胤に家督を譲るが、俊胤が実子に譲るべきと拒否、
だが強引に譲って隠居してしまった
景春が五十子陣急襲、顕定と定正は大敗を喫して上野へ敗走した
上杉顕定の重臣として大石定重は武蔵国守護代につく

これにいくつかの関東の武家、国人、地侍が呼応し、景信の娘をもらっていた義兄弟の
豊島氏も景春についた(これまでは南武蔵で防波堤の役割をしていたと感じる)
武蔵二宮の大石憲仲や葛西の大石石見守も景春についたという説もある
太田資忠や上杉朝昌(朝良や東永の父)、三浦高救や自胤、
もちろん道灌の活躍により諸々の武士及び豊島氏、景春をはねのけた
この時江戸城を守備したのは恐らく吉良成高だった
景春は武蔵国鉢形城に逃れ、足利成氏一同が救援に駆けつけため景春は討てず、
顕定と定正はまたも上野に撤退した

355人間七七四年2017/11/30(木) 11:42:26.37ID:9frVxLvp
1478年 成氏が和議を打診
公方と上杉氏との和睦が成立
1479年 臼井城包囲

和議に反対の豊島氏を滅ぼし、鉢形城から景春も追い出し、顕定の居城とした
さらに反対派の孝胤のもとへ太田資忠と自胤とともに攻め込んだ、
境根原合戦経て孝胤を下総から追い出した
この時臼井俊胤が城主の臼井城を攻めた太田資忠が討ち死にした
自胤は城代を置き、武蔵国へ帰国した
ただこのとき海上備中守、武田上総介、武田参河入道が下り、
武蔵石浜へ移った武田入道は、金龍山浅草寺を再建し、ふたたび上総に戻ったらしい
そして定説では孝胤は下総にもどり巻き返し下総を抑えた
一番最後に破壊的な妄想を書く

1480年 景春が日野城及び武蔵国から追い出させられる
1482年 ついに幕府と関東公方が和解
1486年 臼井持胤の子幸胤元服とともに当主になる
定正によって太田道灌暗殺される
足利に人質としてだしていた
道灌の子資康が江戸に戻ったが放逐される
三浦高救(定正の実兄)が定正に代わろうと図って、
養父三浦時高に追放される
太田資康をはじめとした扇谷家臣が離反し山内に下った
太田資康はその後三浦義同の娘をもらう

1487年 顕定と実兄で越後守護の定昌は
扇谷に通じた長尾房清の城を奪い、両上杉の戦いがはじまる
大石憲儀の庶子で大石定久の父とされる大石信濃守定重が
亡父の三十三回忌を供養した
1488年 酒井定隆が勢力を伸ばし上総酒井氏の祖になったという説がある
顕定は実父の上杉房定の支援を受けて、
太田資康や三浦高救とともに鉢形城を攻めた
結果としては顕定は敗走、定正は兄の朝昌居城を奪われた
そして定昌は謎の死を遂げる、その後も攻防が続いた

356人間七七四年2017/11/30(木) 12:21:13.57ID:9frVxLvp
最後に千学集抜粋は災害で多くが失われ、
千葉大系図は邦胤の子重胤が校訂したとされてるみたいだから
鎌倉大草紙も途中で作者が変わったとないとか
割となんでもあり…とはいかないか
本当に不思議な情報があって妄想がすごいことになる
やっぱひどいか

357人間七七四年2017/11/30(木) 12:24:11.05ID:9frVxLvp
1489年 江戸城代の曾我祐重が苦悩手紙を定正に出す
1490年 臼井幸胤死去、再び義理のおじの俊胤が家督を継ぐ
1491年 支配が伊豆1国のみなってしまった堀越公方の足利政知が病死
1493年 武蔵千葉自胤死去
北条早雲が伊豆に侵攻し堀越公方から所領を奪う
北条早雲は定正と手を組んでたいわれる

1494年 扇谷重臣の三浦時高と大森氏頼が死去、両家とも内紛状態へ
定正が落馬で死去
上杉朝昌の子で伯父上杉定正の養子となった上杉朝良が継ぐ
太田資康が扇谷上杉家へ復帰
山内と対立姿勢の景春と和睦を望むその子景英が対立
景英が白井長尾家の当主に取り立てられる
1495年 扇谷朝良が駿河国守護今川氏親に顕定打倒への支援を依頼する
派遣された北条早雲が大森藤頼から小田原城を奪い取る
ただし、すでに大森藤頼が扇谷を裏切り山内に下っていた可能性あり
朝良の了解のもと奪ったのかもしれない

1497年 足利成氏死去

こうしていよいよ後北条氏が関東に侵攻してくることになる

358人間七七四年2017/11/30(木) 12:28:17.11ID:9frVxLvp
そして時代は遡って…
定説では道灌の下総侵攻後、孝胤は下総にもどり巻き返し下総を抑えた
ここからは完全に壊れた妄想だけど、
本当に数か月落ちなかった臼井城が落ちるだろうか
これより後の時代でも上杉謙信が落とせなかった城だから
戻ってきてさぁ落としましたは不自然に感じる
それにせっかく下総に戻ったのに帰るのもなんか違う
和議で討伐流れなわけだし
それはおもうに兄の子にゆずったから

まず、守胤=持胤で、持胤が勝胤に改名で孝胤の養子に入る
そして孝胤は出家で家督を譲る、これで堂々と千葉介を名乗る

359人間七七四年2017/11/30(木) 12:32:20.93ID:9frVxLvp
持胤の伝承で孝胤、勝胤、持胤が山内と扇谷の間で争いがはじまると
山内に味方したが、家臣の原胤隆と木内氏に味方しようとしたために
孝胤が持胤を原胤隆へ送り寝返りさせようとしたとある
持胤=守胤としたとき、時期的に道灌暗殺後であるから
両千葉氏が山内に転じても問題ない、守胤=勝胤でない場合は
両千葉氏は真逆の立場をとるだろう、ただそうすると道灌の盟友は
いくつかの武家が扇谷から離れたときに律儀にのこることなる
残念なことに武蔵千葉氏に関して道灌死後全く資料がない
さらにこのころ葛西城の大石石見守が円城寺氏に殺害されたのは
家臣団の中に扇谷派がいたのかもしれない
そしてもめることなく他の大石石見守が葛西城に入ることから
話がちゃんとついたのだろう
そもそも扇谷の中にぽつんとある山内家臣大石氏も不思議だ

そしてさらに守胤は東常縁や常和とつながりがあり和歌が得意、
勝胤も得意だが本人の和歌は残ってない、それは改名したからかも

360人間七七四年2017/11/30(木) 12:37:15.22ID:9frVxLvp
そして子供は昌胤と良胤、良胤は自胤死後に武蔵千葉氏を継ぐ
これでだいぶあとに出てくる胤富の子の邦胤と双子の良胤を消化できる
良胤は親北条氏と言われる、つまり早い段階で
武蔵千葉氏は北条氏に下ったとも見える
これによりまた下総と分かれた

これからがもっとひどいが良胤の子の胤利と昌胤の子言われる利胤は同一人物で、
実は武蔵千葉氏が父自胤死後、家中の実権を掌握した良胤は胤利の正室に
北条氏綱の娘をもらっており
武蔵千葉氏が千葉殿になったのではないか
川越城の戦いに参加したのも実は武蔵千葉氏ではないか
利胤が元服で千葉妙見宮で行えなかったのは武蔵千葉氏だからではないか

そして昌胤の方は利胤を飛ばして子の親胤が下総を継ぐ
弟の臼井胤寿ともめていたのは利胤ではなく親胤ではないか
他が親北条なのに親胤が反北条だったからではないか
そして兄の胤富によって暗殺される
ちなみに親胤と臼井守胤つまりここでは勝胤=守胤=持胤の
法名と逸話が一緒で守胤は重臣になり(重臣はおいといて)
最後は孫と一緒に自害し、そして家臣の砂尾修理が
守胤をまつるのに石浜総見寺に千葉塚を建てたとさ

361人間七七四年2017/11/30(木) 12:38:26.64ID:9frVxLvp
最後に千学集抜粋は災害で多くが失われ、
千葉大系図は邦胤の子重胤が校訂したとされてるみたいだから
鎌倉大草紙も途中で作者が変わったとないとか
割となんでもあり…とはいかないか
本当に不思議な情報があって妄想がすごいことになる
やっぱひどいか

362人間七七四年2017/11/30(木) 12:39:58.61ID:9frVxLvp
>>356
あー間違えた

363人間七七四年2017/12/02(土) 18:43:59.57ID:7A4oWJcr
所領帳で六郷殿って河越筋脚折(埼玉鶴ヶ島市)に所領持ってた
鶴ヶ島市って言えば正音寺の伝承によると岸田正春は扇谷上杉朝定に仕えていたが
川越城戦のあと正春は孤児になったしまった朝定の子を養子にして岸田和泉正信と
名乗らせ岸田家を継がせたって話らしい
上杉憲幸とは関係あるのかな?少し遠いけど北は東松山だし憲勝も気になるな
資正家臣の宇田川弾正も扇谷系宇田川氏がいるからこれも気になるなぁ
宇田川弾正は浦和だけど

364人間七七四年2017/12/03(日) 14:52:04.90ID:7AXmq5rN
後北条氏に二つ以上の中条氏がいて、
ひとつは国府台もしくは新田金山攻めで討ち死にした出羽守。
この方は北条の重臣で調布に所領を持ってた、
それと真言宗から日蓮宗に改宗してる。
もう一つが1590年頃家臣になった景信の子景正、
景正甥の景定が後を継いで景正子景忠は医者になったって話がある。
樋口信孝の母の中条氏は日蓮宗の中条氏らしい、つまりひとつめの中条氏の一族。
そのまま、その人物が持胤とも考えられる。
中央の中条満秀系か又は熊谷市あたりにいたかと思ってたけど、
永和や永徳の時代にいる中条氏があやしい。
浦和地頭や世田谷代官で名が見えて、もしかしたら武蔵吉良氏の関連の人物かも。

365人間七七四年2017/12/03(日) 15:21:26.18ID:D/I4lzLL
長文が多くて読みにくい……

366人間七七四年2017/12/04(月) 08:16:11.76ID:6QdP+T8L
東京で城めぐりするとしたらどこがおすすめとかある?

367人間七七四年2017/12/04(月) 08:56:10.39ID:YvSVkfB9
多摩に行けば滝山とか状態は良いな
23区なら赤塚が比較的残ってるかな

368人間七七四年2017/12/04(月) 10:00:49.02ID:6QdP+T8L
>>267
ありがとう、じゃあちょっくら行ってみようかな
縄張とかそういうのよくわかってないけど、勉強がてら散策してこようこな

369人間七七四年2017/12/04(月) 14:34:02.19ID:azsyHkNT
>>364
ふたつめの中条氏ってもしかしたらフェニックスのとこから来たのかな?
たしか小田城攻めの家臣に中條出羽守がいたし、そのあたりから北条に助け求めてるし、
ボロボロになりだした小田氏から北条に移ったかな?

370人間七七四年2017/12/04(月) 16:44:46.80ID:IfmbPFPr
所沢から府中にかけて府中街道沿いに新田足利軍と鎌倉幕府軍の戦場がいくつもある

371人間七七四年2017/12/08(金) 07:45:45.67ID:UQEy2iel
遠山綱景の娘を嫁がせた先って
・太田康資
・舎人経忠→大道寺政繁(再婚)
・牛込勝重
あとあったっけ?

372人間七七四年2017/12/08(金) 19:39:03.58ID:UQEy2iel
連投になっちゃうけど
これ
・太田康資→牛込勝重(再婚)
もあったりするんかな?
で法性院の連れ子が氏政の政と勝重の重で重政
うーん

373人間七七四年2017/12/17(日) 02:34:14.97ID:ZB4lamXf
>>360
残念だが横浜市港南区野庭ら辺を開拓した臼井一族の臼居守胤ってのがいるぞ。
千葉守胤が1556年or1537年、臼井景胤、臼井守胤、千葉親胤、臼居守胤が
1554年に没っしたという。臼居守胤は臼井守胤と同一人物と見られてる。
ちなみに臼居守胤は中田加賀守の娘をもらってる。
ただこの話も色々おかしいところがり、かなり混乱されてるのは事実。

374人間七七四年2017/12/17(日) 02:43:42.75ID:ZB4lamXf
>>373
開拓ではなく土着。訂正。

375人間七七四年2017/12/27(水) 09:40:12.89ID:GxX9xfGy
江戸川区開発
・宇田川喜兵衛
・篠原伊予
・田島図書

376人間七七四年2017/12/28(木) 02:47:32.01ID:J9w0YdgV
質問なんですが江戸氏館が江戸城の前身ってどのくらい根拠があるんですか?

377人間七七四年2018/01/10(水) 05:06:31.13ID:Cz55wxfG
>>376
ない

378人間七七四年2018/01/11(木) 15:27:19.39ID:gEvP4v/0
桑原右京

379人間七七四年2018/01/16(火) 07:50:10.96ID:wf/UyoVe
三田氏家臣の野口秀房

380人間七七四年2018/01/31(水) 22:49:50.86ID:LfIX9Kg4
質問ですが、上杉憲勝と宇田川親定は兄弟ですか?

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