戦国ちょっといい話45 [無断転載禁止]©2ch.net

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1人間七七四年2017/06/08(木) 07:42:51.12ID:BB46T000
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話44
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899人間七七四年2018/05/16(水) 10:37:35.98ID:l3hhkPYC
カーストかよ

900人間七七四年2018/05/16(水) 11:08:37.71ID:7w2utxgu
これ、商人の方も、資金の融通をしたつもりで転売しなかったのだろうな。

901人間七七四年2018/05/16(水) 13:20:03.03ID:ZK9AFFT7
>>889
イイハナシダナー(´;ω;`)

>水谷蟠龍斎(正村)が二十歳の年
!?( ゚Д゚)

902人間七七四年2018/05/17(木) 14:36:46.05ID:K//rCD5n
山中行軍での用心

ある時、家康公が山中を行軍されていた際、鐙に足をかけない者たちをお見かけになった。
家康公は丹沢久助を呼んで訳をお尋ねになった。
丹沢は「馬が暴れたとき、ころりと落馬すれば人も馬も大して手負いしないものです。
しかし、馬にしがみつけば人は引きずられ、或いは踏みつけられ、馬はますます狂乱して手がつけられなくなります。
ましてこのような山道では小勢(の攻撃)でも(そのようなことになりやすく、そうなれば)お味方に与える損害は大きなものになります。
そのため鐙に足をかけさせないのです」と答えた。
家康公は「これこそ用心というべきものだ」とお褒めになり、
「鐙用いぬ者の落馬を笑ってはならない」とおっしゃった。

903人間七七四年2018/05/17(木) 20:08:26.40ID:l4//1zVI
天文21年の正月のこと。
この頃、水谷蟠龍斎(正村)の領内では、正月に村々の百姓の大人衆が城へ御礼に上がることが
嘉例であった。彼らには供餅一重、並びに酒食が出され、終日の御馳走であった。

この時、百姓たちがこのように言った
「今年は餅が、一回り小さいようですな。」

これを聞いた蟠龍斎は
「餅の大小はお前達次第だ。年貢さえ多く上がってきたならば、餅を富士の山ほどにして
取らせるぞ。」

百姓たちはこれに
「我らは下郎ですから、上を恐れずむさ苦しい事を申してしまいます。それを怒っても当然なのに、
殿は狂を散じる御意をなされ、却ってご機嫌よろしくされています。殿は不思議なるお生まれ
ですな。」

そう申すと、お互い大いに笑ったとのことである。

(水谷蟠龍記)

「場をわきまえないでこんなぶっちゃけたこと言っても怒らず、それに乗っかってきてニコニコしてるなんて、お殿様変わった人だねえ」
みたいな感じでしょうか

904人間七七四年2018/05/17(木) 20:55:26.16ID:Hj+5d5xo
人間ができてるなぁw

905人間七七四年2018/05/17(木) 21:17:37.60ID:UpvLuhWb
これ、いい話かなあw
収入の多寡で、供応の内容が変わるって、けっこう露骨だと思うが。

906人間七七四年2018/05/17(木) 22:16:53.97ID:phZG3KKg
>>905
ちゃんと読んでるかい?
百姓に負けてるよ

907人間七七四年2018/05/17(木) 22:17:46.33ID:mMO4sL5q
>>902
とても良い話だ
俺も馬乗り始めた時、鎧なしで乗せられて内股が筋肉痛になって歩けなくなったが
そんな事を戦国時代にやってるとは思わんかった
目から鱗だわ

908人間七七四年2018/05/17(木) 22:19:12.59ID:mMO4sL5q
>>903
水谷さんを今の安倍さんと比べるとなんだかなぁって思ってしまう

909人間七七四年2018/05/18(金) 08:25:07.72ID:w7pC9Y0m
>>907
なんのために鐙なしだったの?
転んだとき引きずられるから?

910人間七七四年2018/05/18(金) 09:22:32.94ID:XgdJGW5s
踏ん張らずに素直に落ちろってことだろ

911人間七七四年2018/05/18(金) 10:39:18.36ID:OhIEcNTF
馬は太腿で挟んで乗るもの、鐙や鞍はあくまでも補助。とか言われて座布団だけ乗っけた馬に乗せられてたな

912人間七七四年2018/05/18(金) 17:49:39.47ID:tk8eyJAB
清水某「両足でギュッとしめたら愛馬が死んじゃったでござる」

913人間七七四年2018/05/18(金) 20:11:27.40ID:g/ZshpEs
>>909
人馬一体になるためっていきなり鐙は使うなと言われて手綱は持たず両手は水平に伸ばして
内股だけで馬にしがみつくような感じ
鞍だけはつけてくれたw
一日中(10時間位)乗って降りてから駅まで帰る時に普通に歩けなかった

914人間七七四年2018/05/18(金) 20:34:33.85ID:KnvGSCC7
>>913
バイクでいうニーグリップだけでバランスを取る感じ?

915人間七七四年2018/05/18(金) 22:39:50.44ID:xeERsPD+
天文21年のこと。水谷蟠龍斎(正村)の居城の台所に火事が起き、危うく焼け落ちる所を、
家中の者達走り来てどうにか消火をした。

この事より、火事への対策として、城の東の藪の中に五間の蔵を建て、そのうち二間は
番所とし、残りの三間の中に、先祖代々の功名の感状数通、そして所領加増の書付などを
はじめとして、家重代の諸道具、その他高値の諸道具などをここに籠め置いた。
そして家臣の根岸兵庫、河上勘解由の両人を頭として足軽20人を付け、昼夜番をさせた。
殊に火を用いること、固く禁止させた。

そうするうちに、かの番頭両人はこのように話し合った
「この番所は、人の通わぬ場所にある。であれば、実に良き博打打ち所ではないか!」
そして忍び忍びに相手を誘い、昼夜を分かたず博打を打った。

その時はみな博打に打ち疲れ、さらに酒に酔い寝てしまった。この隙に火鉢より火事が起きた。
かの者達は、「火事だ!火事だ!」と叫んで逃げた。
家中の者達かけつけ、蔵の中の物を取り出そうとしたが、10のうち1つも出すこと成らず、
殆どが焼失した。

その後、家老たちはこの番頭2名を探し出し、死罪にすべきであると水谷蟠龍斎に申し上げた。
しかし蟠龍斎はこう言った

「家の宝を焼いて損をした上に、大切な譜代の臣二人を殺すというのは、重ね重ねの
費えである。
前に台所の家事があった故、その予防のため随分念を入れたのに焼失したという事は、
もはやそういう運命の時節であったのだろう。全く彼らの咎ではない。
早々に召し返し、元のように仕えさせよ。

彼らは心こそ阿呆なのであろうが、臆病ではない。
万一の時、役に立つのは譜代である。
さあさあ、早く召し返せ。」

そう仰せ付けられたのである。

(水谷蟠龍記)

正直めちゃめちゃ甘いとは思いますが、確かにいいお殿様ですね。

916人間七七四年2018/05/18(金) 23:53:55.92ID:yTxT8aCv
重要書類だの、非常用の高価な品々を焼失させて、許すって、心広すぎる。
しかし、これ、許してもらっても針の筵だろ。同僚からの冷たい目にどれだけ耐えられるか。

917人間七七四年2018/05/19(土) 00:15:53.43ID:D+THEoGj
水谷さん名君だな。ちと甘いかもしれんが。

918人間七七四年2018/05/19(土) 04:00:31.20ID:49RyciQl
>>914
ニーグリップってのが分からないが
馬の腹を内股で挟んで上半身は腹を凹ませ胸をこれ以上無理って所まで張って保持
馬の動きに合わせてセックルの女性上位みたいな感じでずっと動くのだけど
その時も又力のみで上半身は張り詰めまくってしがみつく感じ
上半身のバランスを崩したら多分振り落とされる
馬に乗ると姿勢が良くなるってのはおそらくここら辺から来てるのだと思う
ちな、鬼籍に入ったけど母は北海道の出身で裸馬平気な人で鞍も手綱も不必要な人だった
鞍を付けたらもう既に人馬一体な感じで
往年は大井競馬場に犬の散歩がてら行って非開催日に犬も上げて馬に乗ってたw
長文すまん、いつも誰かが載っけた話に勝手に評価してみんなに迷惑かけて済まぬと思ってる
あまりにも良い話に出会ってしまって興奮してしまった
水谷さん大名になってたら立花宗茂並にすげー人だったんだろうなと思いながら眠ります

919人間七七四年2018/05/19(土) 08:44:45.92ID:shzG6qdW
>>915
地方だから緩いのかと思ったら陸奥じゃあブラック893がいるし品格なんだろうな

920人間七七四年2018/05/19(土) 09:19:38.56ID:H1U7sSII
常陸(茨城県)が陸奥?

921人間七七四年2018/05/19(土) 09:24:40.02ID:H1U7sSII
途中送信してまった
常陸国(茨城県)が陸奥と思っているのか?
敵対する相手の多い隣国陸奥地方と比べて品格の違いって言いたいのかな?

922人間七七四年2018/05/19(土) 09:35:43.61ID:r7qifuJI
>>921
落ち着こう。「地方」の範疇としての陸奥だよ

923人間七七四年2018/05/19(土) 10:05:02.24ID:H1U7sSII
>>922
すまん、余計分かりづらくなった

>>919
地方だから緩いと思ったけど、(違う「地方」)陸奥にはブラック893もいるから、(こんな事件起こして許したのは水谷さんの)品格なんだろうな


と理解したら良いかな?

924人間七七四年2018/05/19(土) 10:27:06.50ID:r7qifuJI
>>923
そういう事かと

925人間七七四年2018/05/19(土) 12:19:18.70ID:uXLvaBob
>>918
大名になってたはずだが?

926人間七七四年2018/05/19(土) 12:21:54.82ID:uXLvaBob
あー独立したころは隠居してたのかすまん

927人間七七四年2018/05/19(土) 14:17:51.34ID:lbvMQOtY
>>915
>その予防のため随分念を入れたのに焼失したという事は、
>もはやそういう運命の時節であったのだろう。全く彼らの咎ではない。
悟ってる…

928人間七七四年2018/05/19(土) 17:15:00.09ID:Q+0OwvW6
>>923
国語力がないのか茨城をバカにされたと思って過剰反応したのかどっちなんだい?

929人間七七四年2018/05/19(土) 21:07:35.46ID:3JuLBCgO
>>902
これは酷い怪我をしないように心がけているのが偉いんじゃなくて、不意の急襲の際に味方へ被害を与えないようにしている心がけが立派ってことなんだろうね。

ところで、家康はなぜ丹沢という人を呼んだんだろう?馬術がうまかったのかな?

930人間七七四年2018/05/19(土) 21:17:46.12ID:prsFsTPU
久助は大事な喧嘩友達

931人間七七四年2018/05/20(日) 23:15:50.96ID:IVDC596W
播磨国、加古の宿に丈部左門と言う儒学者が年老いた母と暮らしていた。
左門は志高く、清貧に甘んじ、日夜親しむ書物の他は身の回りの諸道具類など煩わしいと、
万事簡素に暮らしていた。
左門の母も賢母ではたを織る事を仕事として左門の志を助けていた。左門には妹が1人いたが、同じ里の裕福な家へ嫁いでおり、
妹婿一族は左門親子の性格を慕って何かにつけ生活の援助をしようとしたか、左門はそれを断り、母に孝行し、質素な暮らしを続けていた。
ある日、左門は知人の家で病に苦しむ旅の武士に出会った。
知人が言うにはこの武士に宿を求められ、貸した所その晩から病に倒れ、3-4日が経ち困っていると言う。
左門は看病を申し出たが、知人は流行病だから左門に罹ってもいかぬと止めたが、左門はそれを押し切り懸命に武士を看病した。
その甲斐あって武士は快復し、左門に礼を述べ素性を語った。
武士は赤穴宗右衛門と言い、出雲の富田城で城主の塩谷掃部介に招かれた軍学者であったが、密使として出雲の国主を務める近江の佐々木氏綱の元へ遣わされていた時、
出雲では塩谷掃部介が尼子経久に城を乗っ取られて討ち取られ、宗右衛門は佐々木氏綱に塩谷の仇を討つ事を申し出たが氏綱は動こうとしないどころか、
宗右衛門を近江へ押し留め、何とか抜け出して出雲へ帰ろうとした所、この加古の宿で病に倒れたとの事だった。
2人は意気投合し、親交を深め遂には歳上の宗右衛門を兄、左門を弟として義兄弟の契りを結ぶに至った。
宗右衛門は左門の家に逗留し左門の母にもよく尽くした。左門の母も息子に良き義兄ができたことを喜んだ。
3人の生活が始まってから春から初夏に差し掛かった頃、宗右衛門は一度元の目的地であった出雲へ帰る事を左門に告げた。そして出雲の様子を見届けたらまた必ず帰って来ると。
左門の何時戻るかと言う問いに、宗右衛門は九月九日、重陽の節句を約束の日と固く決め、2人は再会の約を定め宗右衛門は出雲へ旅立った。

932人間七七四年2018/05/20(日) 23:22:08.19ID:IVDC596W
月日が経ち約束の重陽の節句の日が訪れると、
左門は家を掃き清めて菊の花を飾り、酒肴を用意して宗右衛門の到着を待った。
しかし、夕刻になっても宗右衛門は姿を見せない。左門の母も遠方のことだからと慰めたが、
左門は夜になっても外で宗右衛門の到着を待った。
そして深夜、左門が諦めかけた時、生温かな風と共に一人の人影が左門の前に現れた。それはまさしく宗右衛門であった。
左門は嬉々として義兄を招き入れ、酒肴の席につかせたがその義兄は義弟の顔を見てもどこか暗く、
消沈した様子で左門が出した酒肴に対しても顔を背け左門が母を起こしてこようと言うと、首を横に振り漸くその口を開いた。

出雲に帰った宗右衛門だが、もはや出雲の国人どもは皆尼子経久に靡いてしまい誰も塩谷の恩を顧みる物は居らず、
従兄弟の赤穴丹治が富田の城にいるので訊ねたが、丹治は宗右衛門を経久に仕えさせようとした。
仮にその言葉を受け入れて、よくよく経久の所業を見申したが、万人にも当たる勇気に優れよく兵士を訓練するとも言えど、
智者に疑い深い心を持っており、主君と心を一つにし手足となって働くような家臣もいない。
暇を請い左門と菊花の契りがあることを話し去ろうとすると、経久は丹治に命じ宗右衛門を城に幽閉したのだという。

そして幽閉されたまま、ついに今日という日が来たが左門との約を違える事を苦に思った宗右衛門は、自らの命を絶ち、
魂魄と成って百里の道を越えて左門との約束を守る為来たのだと語った。
そして、宗右衛門は左門と眠っている左門の母に永遠の別れを告げるとふっと姿を消した。

左門は慟哭し、その声に目を覚ました母に今あったことを告げると、
当初は信じなかった母も息子の様子に只ならぬものを感じ、共に泣いた。

左門は宗右衛門の弔いをする為、妹婿一家へ母を預けると出雲へ旅に出、
義兄の死の一因となった赤穴丹治に面会すると、丹治の行いを非難し一刀のもとに丹治を斬り殺すと姿をくらました。
大騒ぎとなったが尼子経久はこのことを伝え聞くと、兄弟の信義の篤さを哀れに思い、
あえて左門の跡を追わせなかったと言う。

雨月物語 菊花の約

元々は中国の逸話だけど、尼子経久がディスられてる逸話だったので

933人間七七四年2018/05/20(日) 23:24:58.41ID:6DQdr9AC
>>左門は志高く、清貧に甘んじ、日夜親しむ書物の他は身の回りの諸道具類など煩わしいと、
>>万事簡素に暮らしていた。

情熱大陸とかプロフェッショナル仕事の流儀に出てそう

934人間七七四年2018/05/20(日) 23:30:47.27ID:TZDOqU9w
しかし戦国の時代にあって儒学者ってどうやって食い繋いでたんだろう?

935人間七七四年2018/05/20(日) 23:35:10.66ID:clAtfEj5
最後の追わせなかったあたり、尼子経久が情を分かる人間扱いだったのではなかろうか。

936人間七七四年2018/05/20(日) 23:52:25.79ID:IVDC596W
>>935
長いので略したけど、一応経久さんがこの兄弟の行いを美しいと感じ入り、
また自分の行いを反省して追っ手を出さなかったという事になってます。

後、冒頭と最後に軽薄な人と友情を交わすものではないという趣旨の文が入ってます。
これでもかなり端折りましたので菊花の約(契)でググると全文の現代訳を載せたサイトがいくつか出てくるので、
そちらを読むこともお勧めします。現代的に言うとBL的な話にもなるそうなんですが・・・

937人間七七四年2018/05/21(月) 00:31:06.56ID:qWRQBKFt
ひょっとして>>932
>万人にも当たる勇気に優れよく兵士を訓練するとも言えど、
>智者に疑い深い心を持っており、主君と心を一つにし手足となって働くような家臣もいない。


これを知っていたからこそ尼子経久は天性無欲の人と言われるくらい何かある度に家臣に自分の物を分け与えて、心を繋ぎ留めようとしたのかも…
後世の創作話だから必ずしもその当時の実情と一致はしないかも知れないが

938人間七七四年2018/05/21(月) 17:08:42.13ID:BQWXmI/o
>>929
鐙使ってない侍が彼の家来だったんじゃない?
旗指物でわかるでしょ。

939人間七七四年2018/05/21(月) 19:46:37.70ID:DLAIiPg8
>>915
甘いというより徹底した合理主義な印象を受けた。
戦国の世では書状や感状より忠臣が何より価値ありという判断力よ。

940人間七七四年2018/05/23(水) 15:33:48.62ID:9bph0DTt
天文二十三年三月二十四日、前日の二十三日に故宗像氏男の後室と娘を殺した吉田飛騨守と峰玄蕃は、
家老である石松和泉守の宅へ行き、
「陶全羨(晴賢)の命により昨夜後室、姫君を殺し申したり。この旨を大将である宗像氏貞様へ
言上いたしたく、これについて、和泉守殿も同道して頂きたい。」と申し入れると、和泉守も
「尤もである」と同じて、3人で御前に罷り出て申し上げた

「全羨より仰せ付けられた趣を以て、氏男の後室姫君を殺しました。これも大将の御為の忠義と
存ずる故であります。」

実は氏男の後室は氏貞の腹違いの姉であり、彼はこの事を非常に嘆き悲しんだが、全羨入道の
指図ということであればどうにも出来なかった。

後室、姫君の遺骸は石松、許斐、占部、吉田といった家臣たちにより、増福禅寺に葬られた。
後室を栄林院妙周、姫君を心源院妙安と号した。
作法通りに法事が執行され、墓を築いて翌朝これを見ると、母娘の二つの墓は、四つに破れていた。

これを知った吉田飛騨守は大いに驚き、鎮国寺の僧侶である法念という者を招いてこの事を告げ、
祈念するよう求めた所、法念は「我に秘法あり、怨霊をして畜生道に堕在させれば祟をなすこと
できなくなります。」と、巨大な釜を鋳させて墓を覆い、その上に糞土を覆いかけ、邪術を
行った。ところが、その術がいまだ終わらぬ前に、身の丈ほどの髪をうち靡かでた女性が現れ、
覆っていた釜はたちまち砕き割れ、法念はこの破片に当たり即死した。彼の胸のあたりには、
3つの穴が空いていた。

その夜、吉田飛騨守も法念と同じ頃に、胸に穴ができ心身悩乱して
「今我山田の怨霊のために突き殺される!たすけよ!たすけよ!」と絶叫して死んだ。
飛騨守の妻も狂乱し「胸痛や!」と叫び苦しんでいたが、そのうちに

『我は氏男の後室であるが、汝が男に胸を刺された苦しみ、今思い知らせよう!』

そう罵り叫び、心身悩乱し、十余日過ぎてこれも胸に穴出来て狂い死にをした。その他吉田の一族、
峰氏の一類、同じ日に十七人まで胸痛に悩乱して死んだ。

弘治元年正月二十三日、山田の怨霊は野中勘解由に祟った。野中は「私は吉田飛騨守と断金の
友である故に、後室姫君を殺せと談じた罪逃れがたい!今、我が生命が召し取られる!
ああ、胸が苦しい!」
そう叫んで忽ち死んだ。

同年十月二十三日の夜、陶全羨の夢に、婦人が幼女を連れ、侍女四人を従え全羨の枕元に立った。
『我は宗像氏男の妻である。我に何の罪があったか。讒者の実否をも正さず殺害した、その怨み
深い。汝を殺してその家を滅ぼすべし。』

果たして十一月朔日、毛利元就に攻められ陶全羨は自害した。

弘治二年三月二十三日、宗像氏貞の十五歳になる妹が俄に狂病に罹り群臣に向かって罵り叫んだ
『大逆非道の者共かな!我が胸を見よ、この苦しみ氏貞へと思えども、大神宮の神職なれば
力なし。怨むる所は家臣共に有り!』
そう喚いて二十三日の夜半に忽ち死んだ。氏貞は大いに驚き、弘治三年の春、「妙周妙安の
御霊を祭るべし」と田島の坤ノ山に一宇の社を建立して氏八幡と号して神事をなし、
かつ毎月二十三日かた二十四日までは増福禅寺の本尊地蔵菩薩の御前にて衆僧を集め法華経を
読誦させた。

幸いにも、殺害されたのは二十三日の五更(午前三〜五時)であった事より、月待の二十三夜の三夜供養にあわせ、
妙周妙安が地蔵菩薩の化身であると、様々な事を成して怨霊を宥めた事で、亡魂もそれなりに嬉しく思ったのか、
氏八幡の巫女に宣託し
『今は氏八幡として祭られ、本地は地蔵菩薩となりぬること嬉けれ。荒れる霊も治まるべし。』
と聞こえたという。
末世とはいえ、不思議なる事共である。

(宗像軍記)

941人間七七四年2018/05/23(水) 15:41:13.82ID:L8aloBMb
>>940
怖い話になっとるw

>この苦しみ氏貞へと思えども、大神宮の神職なれば力なし。
妙にリアルだな(´・ω・`)

942人間七七四年2018/05/23(水) 15:56:16.03ID:VkStT/Ab
怨霊を鎮めるのではなくて地獄に堕とすとか駄目なやつだよね

943人間七七四年2018/05/23(水) 19:01:51.36ID:tYfyA9ZY
20人以上呪い殺すとか、歴史に残るレベルの怨霊じゃね・・・

944人間七七四年2018/05/23(水) 20:32:18.64ID:vVQTpGDO
>>940
全然いい話じゃない orz

945人間七七四年2018/05/24(木) 03:17:46.36ID:kjZ5Tp+r
早良親王「なにそれ怖い」

946人間七七四年2018/05/24(木) 19:58:03.65ID:TakCX18k
筑前国糟屋郡立花の城主は、大友宗麟の股肱の臣、戸次入道道雪であった。
この道雪は、智仁勇の三徳を兼ねた人であるので、筑前に召し置かれ、原田、秋月、千葉、
千手、筑紫、高橋らを攻めて豊後の屋形の幕下となし、肥前の龍造寺隆信をも攻め従え、
薩摩の島津との九州支配をかけた争いの時に備えた。

しかし宗像の大宮司は、大内殿の頃より山口に参勤して幕下となり、陶晴賢が亡びた後は
毛利元就に属して大友に従わなかった。

これについて道雪は考えた。
『先ず、宗像を攻め従えれば、龍ヶ岡の城主・杉十郎貫並も、烟ノ城主・香月七郎経孝も、
山鹿城、花尾城、剣嶽城までも、残らず手に入れることができる。

幸いにも近年宗像氏貞は、城普請に財を費やし。家中に十分の一の役料をかけ、民百姓にも
課役をかけて、領内衰微し粮も乏しい。
その上、名のある老臣、武勇の士は山田の怨霊によって取り殺され、氏貞自身も博多津の
聖福禅寺の玄蘇和尚を招き、禅法を学び詩歌ばかり成し、家中もその風に靡いて武事を
怠っているという。

この虚に乗じて、宗像を攻め滅ぼすべし!』

こうして、大山対馬守、小野和泉守、由布美作守、薦野三河守、安部、十時、森、原田、吉弘
を始めとして軍勢を集め、永禄十年九月に立花を出立して飯盛山に陣を取った。

宗像氏貞はこれを聞いて、急ぎ飯盛打ち越して追い払うべしと、吉田伯耆守重致、許斐安芸守氏鏡、
占部右馬之助氏時、石松但馬守、米多比修理進貞兼、畔口伊予守益勝、吉田左近貞延を始めとして
都合二百余騎の軍勢にて飯盛山に押し寄せた。

その頃、敵は先ず許斐の城を攻めてその後維ヶ嶽に攻め寄せんと支度をし、飯盛山にて諸卒兵粮を
つかわしめんと、野陣をしたばかりであったため、この宗像勢の急襲に慌てふためいた。

宗像勢より黒糸縅の鎧を着て栗毛の馬に銀幅輪の鞍を置いて打ち乗った武者、一騎駆け出して
「吉田勘解由左衛門致晴である!」と名乗り真っ直ぐに進んで

「日頃、立花の人々は、『宗像大宮司の長袖烏帽子のヘロヘロ矢、何程の事があろうか。』
などと嘲弄されていると承る。神職の者の射る矢が立つか立たぬか受けてみよ!これ神通の
鏑矢なり!」

そう弓を引き絞って射放った。その矢は、正面に居た立花方、原田源五郎の胸板を貫き、
その後ろに控えていた、原田源助の草摺の端まで射通した。

これを合戦の始まりとして、互いに揉み合って戦ったが、既に日暮れに及び、この立花勢を
率いていた小野和泉守は
「日が暮れて他領に陣する事は不覚である。急ぎ引き取れ!」
と撤退を指示し、莚内新原方面に退き、立花城に帰城した。この時宗像勢の討ち取った首
百七十三は、のちに立花に送り届けられた。

この後、立花勢と宗像勢は小規模な衝突を繰り返したが、元亀元年、両家の家臣たちの計らいにより、
宗像氏貞の妹を立花に嫁がせ、双方講和を結んだ。

(宗像軍記)

宗像と戸次道雪との合戦についての逸話。合戦のきっかけが「怨霊で弱ってるからチャンス」というのも珍しい

947人間七七四年2018/05/24(木) 20:32:06.26ID:4Xit32je
ヘロヘロ矢
こう言う擬音使うんだね
なんか和むわ

948人間七七四年2018/05/24(木) 23:17:08.94ID:JBrXXdXb
怨霊などと苦しい言い訳だな

949人間七七四年2018/05/24(木) 23:21:14.32ID:3MSEcnfi
まあ、後継者問題で家中がゆれてたんだろうな。その隙を狙われたけど、撃退に成功したわけだ。

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