戦国ちょっと悪い話45 [無断転載禁止]©2ch.net

1人間七七四年2017/07/17(月) 09:31:56.46ID:PQvx1qrF
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

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506人間七七四年2018/01/27(土) 16:23:19.87ID:jh7qn4rj
まさむね「知らないふりをしておけばいいものを神保が…」

507人間七七四年2018/01/27(土) 18:26:15.97ID:h5bGR4Hh
この場合、惣右衛門さんの扱いはどうなるんだ?
事故死?

508人間七七四年2018/01/27(土) 20:58:26.45ID:S3i1cgJH
たぶん討たれ損なんだろうね
だからこそ、黙ってれば戦闘中の討ち死にですんだんだろうし
武士としての面目を考えるなら、やはり敵を討ち取ってくるべきだったと思う

509人間七七四年2018/01/27(土) 22:45:01.93ID:CmJGJAHL
中途半端が一番悪いというのがよくわかる事例

510人間七七四年2018/01/27(土) 23:42:10.35ID:VA82doJi
秋田佐竹は遅参で居ないからどこの佐竹衆だろう

511人間七七四年2018/01/28(日) 10:55:41.38ID:tXZo+VwF
坂井久蔵(尚恒・織田信長の家臣で高名な勇士)が姉川の合戦で討ち死にした時、彼の頸を
取ったのは、今井角右衛門、生瀬半兵衛右衛門の二人だとされていた。

両名ともに、後に豊臣秀次に仕えたのだが、秀次はある時このように奉行たちに命じた
「一人の首を二人で取るというのは不可能である。一人は虚説なのであろう。お前たちはこれを取り調べよ。」

そして詮議の結果、今井角右衛門こそが虚説を語っていたと結論され、刀を没収の上
鷹小屋に押し込められた。さらに侍への見せしめとして、切腹か斬首かと議論されていた
所に、今井が申し上げた

「常のことと違い、武士が他人の骨を盗んで罪科に逢うと言う事は、子孫において屍の上の
恥辱であり、何事がこれに過ぎるでしょうか。
全く命を惜しむということではありませんし、このような証人にするのは気の毒だとも思いますが、
願わくば浅見藤右衛門を召し出され、彼の申す所をお聞き召した上で、御成敗を仰せ付けられるように。」

この浅見は、今井と交流がなく、普段会話をしたこともなかった。
浅見はこの頃安土に居たが、秀次は「彼を召して、いよいよ正しく改め、武義の虚説を
言うものを成敗仕るように。」と命じた。

浅見は安土より呼ばれた。
彼は元々、生瀬とは無二の親友であったため、人々は
「沙汰にも及ばない。今井の非分ということに決まっている。今井は何を血迷って
浅見を証人に呼んだのか。」
専ら、そう取り沙汰した。その夜は浅見の友人たちが集まり、酒宴など行われた。

そして翌日、聚楽の大広間に諸侍集まり、この詮議を聞くべしとそれぞれ固唾をのんだ。
奉行が出仕して浅見を召し出し、篠部淡路守を通して坂井の件を尋ねが、この時奉行たちは

「定めて別の申し様も無いであろうし、今まで言われていた通りであろう。浅見の申し分一通りで
今井の罪科に決まるのだから、速やかにその旨を申し上げるように。」

そう、彼に促した。しかし浅見
「今井は、ここ三十年私と交流のない人物です。対して生瀬は日頃から別して親交のある友人です。
お尋ねのように、有り様に申し上げては、天下に私の外聞を失うことに成ります。これまで
長生きをしてこのようなお尋ねに逢い申す事、迷惑ここに極まるものです。
願わくば他の者を召し出し、よくよくご穿鑿を加えられますように。」

奉行衆はこれを聞くと
「今井と交流のない浅見であるから、今井の非分を申し上げにくいというのは仕方がないだろう。
しかしはるばると安土より呼び寄せ、秀次公も其方の証言を証拠に致すと仰っているのだから、
申し上げるように。」

そう説得したが、浅見はそれでも辞退を押し通した。篠部は一応、この事を秀次に言上すると、
秀次は重ねて証言をするようにと命じた。これに浅見は

「このように進退が極まったことは今までありません。生瀬は多年の友人、今井は多年の不通。
何れに付いて何と申しても、人々の誹謗は逃れがたいでしょう。しかし武義についての御詮議の
事ですから、有り体に申し上げなくては本意無い事ですので、申し上げます。

坂井久蔵の頸は、間違いなく今井が討ち取りました。

比類なき手柄であり、この事は私に限らず、大勢がその場のことについて見聞きしております。
生瀬については多年の友人であり、この件については彼の身を捨てるような事になりますが、
坂井の頸の事について、全く存じよりもありません。これは何かと勘違いをして、あのように
申し上げたのではないでしょうか。」

座中、興を醒まし、言葉もなかった。
しかし「この上は今井別儀あるべからず」と、別途賞せられることとなった。
生瀬は罪科に及ぶべきであった所を、秀次が惜しんで処罰に及ばず、その後に病死したという。
(士談)

512人間七七四年2018/01/28(日) 12:02:12.10ID:t0jRki3R
>>511
なんで何十年もたってから言い出すんだw

513人間七七四年2018/01/28(日) 12:33:51.88ID:oyeAe0TI
昔話を聞くのは若侍のつとめ

514人間七七四年2018/01/28(日) 22:19:17.83ID:+FUSGADB
ttps://dotup.org/uploda/dotup.org1450461.jpg
なおなぜかセンゴクでは坂井久蔵を山崎新平が討ち取って、
親友の仙石秀久がその仇を討つという展開だった模様

515人間七七四年2018/01/29(月) 16:03:18.94ID:lZRCvsBb
黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解


以下は黒田長政が大坂の陣で豊臣側についた後藤又兵衛について釈明した書状。
長いので抜粋&意訳。

 後藤又兵衛のことについて上様(秀忠)に申し上げ条々のこと。

一又兵衛の親が小寺に従って死んだとき、幼少だったので如水が養育しました。
 成人した後、又兵衛の伯父が如水に対し謀反を企んだので追放しました。
 このことで又兵衛の一族にも立ち退くように申し付けました。
 如水は召し返しましたが、側で召し仕えはさせないよう申したところ
 栗山備後に預けて知行百石をつかわした上で、段々と取り立てたため
 又兵衛は家老同然に召し仕えるようになり、領地も豊前(細川家の領地)との
 境目である小隈という城を預けることになりました。そうしたところ
 他家の方々と書状をやり取りするようになり、特に豊前と通じるように
 なったので停止するよう誓紙を取り交わしたのに、やめませんでした。
 このことで黒田家の事情が漏れてしまうので当惑しました。
 また羽柴三左衛門殿(池田輝政)とも内緒で懇意にしていたようです。

一又兵衛とその家来が立ち退いた後、どこに住んだかかはよく分からないのですが
 一、二年した後、羽柴三左衛門殿はとりわけ浪人の為に扶持を与えていたので
 扶持をもらうため故郷の播州に帰ったことを知ったので、幕府の旗本である
 村越茂助、鵜殿兵庫頭の両人をもって、再三奉公構の届けをしたのですが
 ついに同心されず、特に申し分もされなかったので遺恨に存じています。
 三左衛門殿へ拙者(長政)が直接訪ねるのは憚られたので、慶長16年に
 大御所(家康)が(二条城会見の為に)上洛されたとき、村越茂助を通して
 又兵衛のことを追放するよう理をもって申し入れたところ、(家康も)
 御受け合いされたので、三左衛門殿にも訪問を申し入れました。
 しかし去年の夏も、播州から又兵衛が立ち退いた様子はありませんでした。
 (輝政が亡くなった後なので)松平武蔵守殿(池田利隆)に先年の筋目のことを
 申し入れたところ、すぐに又兵衛を追放されました。

一この後池田家臣の滝川豊前、三好丹後に帰参の訴訟をしたところ、ことごとく
 納得されて両人も返事をされたのに、表裏のことを言い出したので又兵衛の
 帰参は叶いませんでした。このことは成瀬隼人、安藤帯刀も存じられています。

 (又兵衛の親類の居所などについて四条あるが省略)

一今度の大坂の不慮で又兵衛が籠城しましたが、勿論意図したことではありません。
 又兵衛の親類は、拙者の下にはおりませんから命令を申し付けることは
 出来ませんでした。これらの趣を上様に申し上げてくださればありがたく思います。
 以上。

卯月八日  黒田筑前守(長政)   
本多佐渡守殿(正信)


又兵衛は池田家にいたとき、池田家臣の三浦氏の娘を妻に迎えていて
大坂の陣のとき2才だった遺児の為勝がのちに鳥取池田家の家臣になっている。

516人間七七四年2018/01/30(火) 00:02:00.17ID:0It5AjrQ
上下の間の作法を申し付けぬ人


寛永9年12月に、細川忠興が熊本に四男の立孝を呼び寄せたところ
立孝に付くことになった地元の従者が"上下の作法"を知らなかったので
笑ってしまったという話を嫡男の忠利宛てに書き送っている。その手紙の中で

寛永9年12月14日の忠利宛て忠興書状(細川家史料)
『古肥後(加藤清正)は一切上下の間の作法を申し付けぬ人であった。
 高麗などでも左様に見えた』

と40年以上前の話を持ち出して、清正のせいで熊本の侍の
態度が悪いと皮肉っている。よっぽど不快だったのだろうか?

517人間七七四年2018/01/30(火) 11:39:32.08ID:+FDuZGLA
下人から成り上がった者は下々と親しく振る舞うからね
将軍に仕えてたお大尽とは接し方が違う

518人間七七四年2018/01/30(火) 12:26:31.16ID:wMisgGOo
儀礼をわきまえてないのと親しくするのは全然違うことでしょう。
現代でも「親しき仲にも礼儀あり」と言いますからね。

519人間七七四年2018/01/30(火) 21:43:00.66ID:BKmLaQWd
>>518
無礼講って言ってたのに機嫌が悪くなるクソ上司に似てるな

520人間七七四年2018/01/31(水) 00:03:56.08ID:rz1wIjlV
>516-517
真田丸で豊臣系の成り上がりの家に不快感を示してたのはこの辺の話がベースだったっぽいね
ただ加藤家が残ってる頃だと黒田家とは違い付き合いは一応してたので
「熊本から贈られた海苔美味しい」とか言ってる三斎様

521人間七七四年2018/01/31(水) 00:35:45.02ID:qyN129Vt
>>520
肥後治めるのに清正を最大限立ててもいたしなぁ。結果、熊本で何かといえば全部清正に。

522人間七七四年2018/01/31(水) 08:35:08.35ID:r/L94H6H
>>519
ゴメン。
この話題からその感想は理解不能。

523人間七七四年2018/02/01(木) 11:20:39.69ID:I+NaHYvb
ある老人が言った、「信長と秀吉の弓矢の取り様は、全く別物である」と。
それはどういうことかと問うと、こう答えた

信長は永禄年中に京都へ攻め上がり、その勢力を広げ、山城、摂津、和泉、河内、越前、若狭、丹後、
但馬、播磨を手に入れられ、美濃、尾張、三河の遠近を合わせれば、15ヶ国を治めた。
ではあったが、大阪の一向宗は、坊主の一人も信長の旗下につかず敵となり、それに地下の旦那共
一味して籠城した。これらは一を以って千に当たる血気の者共であった。それに対し信長は、
強引に攻めれば味方に多くの損害が出ると考えたのであろう、5年間打ち置き後に、和平があって
城を開き退いた。

甲州で武田信玄が逆威を振るっている間も、返ってなだめ和睦し、勝頼の時代に馬を出すと、
武田家は聞き落ちに敗北し、滅びた。
人々は、この勢いで信長は関八州まで望むだろうと思ったものであったが、当時関東にあって
北条氏直は大国を守護しており、また西国も未だ治まっていなかったため、甲州より帰洛した。

このような例から考えるに、織田信長という人は、一般には武勇に長け苛立ちやすく、短慮未練であると
言われているが、そうではなく、智謀武略の大将であると評価すべきであろう。

一方で秀吉は、一身の武勇に秀で、運に任せて弓矢を取り、勝ちに乗じて驕りを旨とした。

例えば北条氏直は秀吉に臣従し、使者を登らせその上来春の上洛を決定しその支度もしていた所に、
遅参であると事を左右にして関東へ出馬した。
名大将というのは戦わずして勝つことを本意とするものだが、秀吉は弓矢の手柄を以って国を治めるのを
専らとした。その上、秀吉の奥州下向は何ゆえであろうか?

小田原攻めの間に、伊達政宗を始め、奥州の諸侯はことごとく馳せ参じ、手をついて臣従していた。
その上、諸軍は小田原百余ヶ日の長陣に草臥れ気も疲れ果てていたが、そういった所に思いの外の
計策の扱いあって、小田原城は落城した。

惣軍、早く帰国したいと希望していた所に、諸勢の労苦も考えず驕るに任せて敵も居ない奥州に下り、
田畑の検地をさせ黒川から帰洛した。
これは偏に、秀吉の弓矢の勢いを、百姓らに知らせるだけのための物であった。

(略)

その上、天下を争い戦いを為すと言うが、その身のために軍を起こすのは、一旦の利があると雖も、
その治世は久しくならず、果の滅亡の兆しが既に生まれている。
国のため、万民のために弓矢を取れば、神明の加護があって、身の幸いが生まれる。
上より下を撫育すれば、下は上に対し父母の思いを成す。
天下を治めて後、干戈を箱に納め弓を袋に入れ、秩序を専らとし民を豊かにするのが、君子の道である。

然るに秀吉、高麗国への出陣は、唐の使いが遅参した事が無礼であると言葉巧みに宣伝し、
戦争を望んだ故のものであった。これに動員されたのは五十万騎だという。そしてこれに対する
兵糧米の運送を行ったのは、日本国の民百姓である。その嘆き、悲しみ、その費え、計ることも出来ない。
その上に、敵味方の死者は幾万幾千と数えることも出来ないほどだ。これは秀吉が、驕りを旨とし、一身の
誉れを願うが故の事である。このような彼の科から、目をそらしてはならない。

(北條五代記)

524人間七七四年2018/02/01(木) 11:41:24.60ID:GfisAjrZ
ラスボス絶賛されてんなーと思ったら五代記かよ

525人間七七四年2018/02/01(木) 12:22:40.18ID:90CjWerw
絶賛?

526人間七七四年2018/02/02(金) 05:18:59.84ID:4rWMnih/
本多忠勝が、北条家の朝倉兼也を招いて武義の物語をしたことがあった。
兼也帰って後、忠勝は言った

「朝倉兼也はなかなかの人物だと聞いていたが、武義の上の詮索、真に然らざるものであった。
何故かと言えば、彼は一度も遅れを取ったことはないと物語った。
名将と言えども、初めは万事落ち度無きとは行かないものだ。いわんや兼也程度の侍であれば、
善と悪が半々であっても、人々は盛んに褒め称えるものだ。

正しく、素直でなければ、武士の意地とは言わぬのだ。」

そう批判したという。

(士談)

527人間七七四年2018/02/02(金) 19:26:35.01ID:7I1QUZnP
家康「そやそや」

528人間七七四年2018/02/09(金) 08:31:11.41ID:LuXzig//
細川幽斎・忠興父子により、丹後弓木城主である一色五郎(義定)が謀殺された後、
幽斎の娘であったその内室は宮津へと帰った。そこで一色五郎の討たれた終止を聞くと、
その最期の時を想い深く嘆いて過ごした。彼女はこのように語った

「過ぎし八日の卯の刻(午前6時ころ)、殿は私に向かってこう仰られました

『今日は細川殿と対面する。我が家と細川殿、互いの先祖は親しくして代々公方様へ仕えつつ。
ここかしこの戦において、互いに頼み頼まれ、力を合わせてきたと見える、古い文なども
今に残っている。子孫の末となったが、昔を思えば懐かしく、またこのように親子の縁となった
宿縁の浅からぬ不思議さよ。』

そうしていつもより丹念に、馬鞍をきれいに装わせて弓木を出発されました。
私が一色に嫁いでより、あのように賑々しい供人にて、いづくの地へも出かけたことはありません
でしたから、私もひとしお嬉しく、城の窓から一行を見送りました。
須津の浜道を過ぎ山路に差し掛かると、そのあたりを覆っていた朝霧も吹き払われ、とても幽幻な
姿に写りましたが、それもやがて松陰に見失い、供人も見えなくなり、心の中にやるせない思いを成し、
そぞろに涙がこぼれそうになりましたが、忍んでそのような姿を人に見せませんでしたが、なにやら
不吉な気もして、盃を出させ、女房たちも慰めました。

それなのに、思いの外の事があって失せさせられた哀しさよ。
このような企てが有ったとは、夢にも知りませんでしたが、御最後の時、さぞかし私の事も
恨まれたでしょう。」

そう、明け暮れに嘆かれたという。

(丹州三家物語)

529人間七七四年2018/02/10(土) 14:30:50.66ID:xivEyj3j
兄が基地外だと普通の男が優しく見えるようだ

530人間七七四年2018/02/10(土) 15:31:24.86ID:7B7liXrt
三斎様の眉間の刀傷ってこれが原因か?

531人間七七四年2018/02/10(土) 19:12:39.08ID:gbjmgkWA
京都四条糸屋の事件


天正7年(1579年)、京都で前代未聞の事件が起こった。

下京四条小結町の糸屋の後家で、70になろうかという老人がいた。
娘が一緒に住んでいた。

4月24日夜、娘は良い酒を買ってきて、母親が充分だと言うのに、更に無理やり飲ませた。
酔い伏した母親を土蔵に担ぎ入れ、夜更けて人が寝静まってから刺殺した。

自分で死体を箱に入れ厳重に縛った。
家は法華宗であるのに浄土宗の誓願寺の僧侶を呼び、人に分からぬように
死体を寺へ運んだ。

この家には下女が一人いた。
娘は下女に美しい小袖を与え、
この夜のことは絶対に内密にするように言いつけた。

しかし下女は、後で発覚したときの恐ろしさを思い、
村井貞勝の役所へ駆け込み事件を告げた。

村井貞勝はすぐさま娘を逮捕して取り調べた。
4月28日、娘を上京一条の辻から車に乗せて市中を引き廻し、六条河原で処刑した。

532人間七七四年2018/02/10(土) 19:26:01.19ID:psbhjA/6
京の四条の糸屋の娘、母は七十で娘は十五♪
諸国大名は刀で殺す、糸屋娘は懐剣で殺す♪

533人間七七四年2018/02/10(土) 21:51:51.95ID:fhHkUYw7
>>531
姥捨て山とかあるし親殺しなんて珍しくなさそうな気がするけど前代未聞なのか。意外と平和…?

534人間七七四年2018/02/10(土) 22:23:36.38ID:udfaa2Lf
良家のお嬢様が母親を殺して完全犯罪をもくらんだって十分スキャンダラスな出来事じゃね?
戦国時代でもこんな事件はあるってことが驚き

535人間七七四年2018/02/10(土) 22:56:49.20ID:wOZAjPNf
なんか見たことある話だと思ったら信長公記だった

536人間七七四年2018/02/11(日) 00:02:53.76ID:6HQtIGdn
このサスペンスみたいな展開、雲仙のお糸地獄を思い出す

http://livedoor.blogimg.jp/fukucyan_jp-part2/imgs/5/b/5b1948ab.jpg

537人間七七四年2018/02/11(日) 16:18:39.24ID:mYeY2LiS
金はあるけどインポっていう男は少なからずいるね

538人間七七四年2018/02/13(火) 23:52:31.83ID:cTUphLAD
https://booklog.jp/users/kobunsha-bungei/archives/1/4334912087
ついに富田長繁がピックアップされた小説が出るぞ…主人公は射殺した小林吉隆

539人間七七四年2018/02/14(水) 11:00:59.59ID:fxCgwsxT
>>538
タイトルがぴったりじゃねーか! w

540人間七七四年2018/02/14(水) 16:18:21.46ID:G4VisRUK
なかなかマニアックなとこを題材にする作家だな

541人間七七四年2018/02/15(木) 08:13:13.66ID:Wykk0Was
くるい咲き(直球)

542人間七七四年2018/02/15(木) 20:58:54.90ID:ZutmD3mi
主君義景公や御三家の景鏡、景健、景恒なんかはどう描かれているのかな?

543人間七七四年2018/02/18(日) 19:10:30.83ID:Z9pD70Ir
越中魚津の蜃気楼 乾達婆城の事



永禄7年(1564年)5月下旬より6月半ばに至り、本庄繁長、柿崎景家を魁首として、
上杉謙信公は越中国に在馬した。

この折節、魚津の海上において貝の城が出来たのを見るといって、
浜辺には市のように多くの老若男女が集まり垣根を巡らしたようであった。

暑熱の時に属して、蛤がたむろして靄気を立てていた。
中華の書物で言われている蜃気楼とはこれであろう。

故老の説に曰く、

「蜃(シャコ貝の一種)は蛤の大きいやつだ。よく気を吐いて楼台を作る。南北海に多い。
 支那登州の海濤は、春夏の間に水面を遠くから眺めると、これ気がある。
 人馬の往来が絶え間ない城郭や市を彷彿とさせる。地元では海市と呼んでいる。
 西域でもこれに似た事があると伝え聞く。

 朝日が出始める時、紅輝天に映して楼門宮闕を現して、ちかく官人の出入りを見る。
 日が高く昇ると消滅する。しかしながら、肉眼の及ぼす幻みたいなもので実在はしない。
 これを乾達婆城と名づく。全て乾坤の間象を含む者、
 陰陽の二気を感じて変化の成行を計り知ることは出来ないという」

544人間七七四年2018/02/20(火) 04:19:24.31ID:pTzW/K4q
さても世間の有り様を見聞すると、その道のならぬこと多し。

諸法をもっぱらに行うべき僧形は兵具を帯び、また弓箭を旨とすべき大俗は顕密の
両流に立ち入り、座禅の窓に心掛けている。まことに風変わりな時節である。

さて、この類ここにあり。

細川右京大夫政元と申す人は都の管領の職をお持ちになり、天下の覚え隠れなし。
しかしながら、細川の流れが2つになってしまう原因であったということだ。

40の齢に及ぶまで夫婦の語らいなきゆえ、御子は1人もいらっしゃらなかった。
常には魔法を行って近国他国を動かし、またある時は津々浦々の御船遊びばかり
行っていたのである。

そのため家子や老衆は詫言し、ある時に皆々相談して、かたじけなくも九条関白殿
の末の御子(細川澄之)を申し受けなさり養子となし奉った。すなわち政元の幼名と

同じく聡明殿と申した。光陰を送り程なく御成人され、御元服されて九郎殿と号し、
皆々深く慕い申し上げた。さて政元は何と思召されたのか、御心中は相変わって、

「よくよく物事を考えると、我が家は一門中の誰かが持たなければ良くないであろう」
と思し召した。阿波国に住みなさる細川讃岐守(成之)は御出家なさって慈雲院殿と
申し、この御孫に六郎澄元という人がいた。

政元は「この人を養子にして我が家を譲りたいものだ」と思し召し、摂津国守護代の
薬師寺与一元一を御使にして阿波国へ差し下した。与一はたいそう畏まって兵庫の
浦より船に乗り、絵島明石を打ち眺め、鳴門の渡りを漕ぎ過ぎて阿波国へ到着した。

慈雲院殿へこの由を申し上げると、入道殿は聞こし召して「どうしたものか」と、暫く
御思案されたが、与一は武略を巡らせて漢家本朝の例を色々と申されたので、

斟酌ながら御了承されたため、与一は御返事を頂き、時の面目を施して都へ上った。
この由を申し上げると、政元は御悦びになること限りなし。

――『細川両家記』

545人間七七四年2018/02/20(火) 11:21:32.09ID:/W40+KPc
あれ?一人足りないぞ?

546人間七七四年2018/02/20(火) 13:54:30.42ID:QeNsa6BB
俺のことか!

547人間七七四年2018/02/20(火) 23:20:28.14ID:jlZaj6kt
???「なんか足んねぇんだよなぁ」

548人間七七四年2018/02/21(水) 03:39:28.52ID:aA/6Utkz
そのようなところに、政元(細川政元)はあまりに物狂わしくおられたため、御内・外様の
人々は、「この分ではどうしようもない」と悲しみ合っていた。

その折に薬師寺与一(元一)はつくづく考え出して、赤沢宗益(朝経)という法師と相語らい、
「政元を誅し奉り、阿波の六郎澄元をその上に崇め申しようぞ!」と語ると、

かの宗益は同心した。しかし、ある文に“好事門を出でず 悪事千里を行く”というが、道理
ではないだろうか。包み隠してもこの事はわずかに表れてしまい、叶わずして宗益は伏見
竹田口へと切り上った。

頃は永正元年(1504)甲子9月初めに与一は淀城へ立て籠もった。そのため京や田舎
では仰天して物言い取り取りであった。

そうとはいえども政元の御内衆は与一の弟の与次(長忠)を初めとして御屋形様へと参り、
評議をなしてすぐに諸勢を催し、淀城へと押し寄せて川とも堀ともいわずに攻めなさった。

城中でもここを先途と戦ったが、まことに攻め手は国々の勢たちが一つになって新手を
入れ替え攻めていった。そうして城中ではここかしこで5人、10人ずつ討死していった。

そのようにばかりで、どうして堪えることができるだろうか。9月18日申刻、ついに城は
落ちてしまった。与一は今一度謀反を企てようと思い、川の畔の葦の中で弛んでいたが、
因果の道理に任せて生け捕りとなり、都へと上った。

船橋に一元院といって、与一が世にありし時に建立した寺があった。与一はそこへ移り、
色々の物語りをして一首の歌にかくばかり。

「めいどには 能わか衆(我が主)のありければ おもひ立ぬる 旅衣かな」
(あの世には良い主君がいるので、思い立って旅立つとしよう)
(あの世には良い若衆がいるから、お前も早く来るといいぞ)

このように親しき方へ文などを遣わし、最後の時の申し様は、

「皆々御存知のように我は一文字好みの薬師寺与一。名乗りも元一、この寺も一元院と
名付けた。されば腹をも一文字に切ってやろう!」

と言って腹一文字にかき切り、朝の露とぞ消えにける。上下万民押し並べて皆涙を流した。

さるほどに弟の与次は御感を蒙り、今回の恩賞に桐の薹の御紋を賜り、三郎左衛門と
改名なされ、兄の与一の跡を賜って摂津国上下守護代となり栄華に誇った。

昔も主君の仰せに従い、源義朝が父・為義の首を取りなさったのである。ましてや末世の
以下の侍であれば、主君の下知に従って兄の立て籠もる城を攻めるのは道理である。

――『細川両家記』

549人間七七四年2018/02/22(木) 11:34:46.20ID:/G4E2NbT
死に様一つで見事にキャラがたった与一さん
なぜか万民が涙を流す

550人間七七四年2018/02/22(木) 18:29:27.56ID:7/fd5rz0
福島正則が安芸に入部して、広島城の普請のおり、正則は石垣の据え方が悪いと、近江坂本より雇った
穴太衆たちを叱りつけ、さらに石垣の普請を担当する、丹波、石見、久之丞といった者たちにも
「お前たち一人ひとりの首を切ってやるぞ!」(おのれら一々首を切くれん)と、散々に叱りつけた。

さらに気が治まらなかったのか、元織田秀信の家老であった木造大膳(長政)の持ち場へ行くと
「木造殿は岐阜中納言(秀信)をしたいままにあしらっていたというが、それは間違いだったようだ!」
そう罵り、散々に叱りつけ、それは朋輩たちに対しても恥ずかしくなるほどの叱り方で、木造大膳は
面目無く無念に思い、そのまま宿舎へ帰り

「只今このように主人より叱られた事、不覚である。もはや男として立つことも出来ない。
二万石の所領と軍役の人数をみな返納し、船にて上方へ退く所存である!」

そう言って支度を始め他ところ、石見、丹波、久之丞その他組頭の衆がやってきて様々に異見し、
そうしてどうにか、留まることになったという。

(福島太夫殿御事)

551人間七七四年2018/02/22(木) 18:45:54.29ID:cwMgupbs
市松はほんと人間としての器が小さいな

552人間七七四年2018/02/22(木) 19:11:38.00ID:8gtNielT
さては、一杯引っかけてたな

553人間七七四年2018/02/23(金) 14:28:14.95ID:g1a5qSNi
のちの台風で石垣崩れたんでしょ、正則の一喝が無かったら天守崩落してたな

554人間七七四年2018/02/24(土) 08:46:34.62ID:ZPsYMZ55
伏見城の普請の時、福島正則の衆は過半が幟町より城へ参っていた。道が遠いため、何れも
馬にて通勤していたのだが、この時、越前三河守殿(結城秀康)が京より伏見へ向かっていた
先を、福島正則の家臣の侍が、馬にて通った。三河殿はこれを見て「乗打をしている者を捕らえよ!」
と命じ、家臣たちが追いかけたが、その者はそのまま乗り通ってしまい、後にいた挟箱持ちを捕え
「乗打した者は誰か、申せ!」と厳しく尋問した所、下者であったのですぐに申し上げた。

これにより、三河守殿より正則へ使いが送られた。
「御内である梶田八左衛門と申す者、乗打を致した故、我々に引き渡すよう仰せ付けられるように。」
使いはこれを非常に荒々しく要求したが、正則は
「御尤もです。いかにも詮索してこちらよりご返事申し上げましょう。」
そう申し、その後家中を詮索した所、梶田八左衛門は

「当日、京より伏見へと向かいましたが、横合いには誰も見えませんでしたので、乘り通ったのです。」

このように申し上げた。これに正則も「それは乗打ではない。梶田は少しも気遣う必要はない。」
そう納得し、後日三河守殿へも「乗打の事について様々に詮索しましたが、我々の家中の者では
ありません。何者かが、嘘の名を証言したのでしょう。」と返事をした。

そして正則は「三河守殿は近頃になく不合点な人である」と、交流しなく成ったという。

(福島太夫殿御事)

555人間七七四年2018/02/24(土) 10:15:36.90ID:JXhtM3Nn
まるで別人だな。同一人物の台詞とは思えん気配り…

556人間七七四年2018/02/25(日) 05:53:09.00ID:oc9UB2Xe
同2年(1505)乙丑夏の頃、六郎澄元の御迎のためとして薬師寺三郎左衛門(長忠)が
御使になり阿波国へ下された。御約束のことなので澄元は御上洛し、

御供には三好筑前守之長、高畠与三などを召し連れなさって御上洛された。京童たちは
これを見て「これこそ細川の2つにならんずるもとぞ」と、ひそひそと申した。

そして政元は九郎殿(細川澄之)へ丹波国を差し上げ、かの国へ下向させ申されたので、
九郎殿はいよいよ無念に思召されたところに、魔の業ではないだろうか、

政元42歳の時、永正4年(1507)丁卯6月23日の夜、御月待の御行水をなさっていた
ところを、御内の侍である福井四郎と竹田孫七新名という者たちが、薬師寺三郎左衛門、
香西又六(元長)兄弟に同心して政元を誅殺し奉った。

そのため都は誰もが「これはさてどうなってゆくとも分からない」と騒ぐことは、中々申し様
もない有様であった。さてこの頃の政元は近国を切り取らんと、赤沢宗益(朝経)を御許し
になって丹後国へ遣わされ、この他に軍兵を相添えなさっていた。

河内国へは摂津上下の国衆を出立させなさって切り取り、大和国へは宗益の弟・福王寺、
また喜島源左衛門、和田源四郎を遣わせて切り取りなさっていた。

ところが、政元御生害のことが風聞したので国々の諸陣は破れ、国々にて大将格の人々
は腹を切って討死した。その数は3千余人と申す。

しかしながらこの企みは薬師寺三郎左衛門と香西兄弟が談合して、丹波にいらっしゃる
九郎殿を御代に立て天下を我等がままに振舞おうとの企みにより、かの3人が相語らい、
政元を誅し申したのである。

同じく六郎澄元をも誅し申すべしと、澄元がおられる御屋形へ明くる24日、薬師寺と香西
は押し寄せて終日に渡り合戦した。両方の手負い死人は数を知らず。

上京の百々橋では、澄元方の奈良修理亮が名乗って香西孫六と渡り合い、太刀打ちして
孫六は討死する。修理亮は手負いて屋形の内へ退いたのだった。その高名の振舞いは、
澄元や筑前守を初めとして感心しない者はいなかった。

合戦が夜に入ったので両方は互いに退き、澄元はここでは叶わないと思召してその夜に
近江の甲賀へ三好筑前守之長の御供で落ち行きなさった。案の定、相手方は九郎殿を
都へ上らせ奉り、細川の家督へ据え申した。

――『細川両家記』

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