戦国ちょっと悪い話45 [無断転載禁止]©2ch.net

1人間七七四年2017/07/17(月) 09:31:56.46ID:PQvx1qrF
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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747人間七七四年2018/05/13(日) 11:57:27.51ID:hgZsim4a
寛永十一年(1634)八月晦日 細川忠利書状案

御門わき石垣、はば五六間程くみ申候由、如元可被仰付哉与被仰越候、中々御無用にて御
座候、道へ崩れかかり候はば、人の通候道御座候程にお引のけ候而、少しも少しも石垣御
築直之儀御無用に而御座候、城之見苦事は何方も同前儀候、不被得御意候而は、少之御普
請も御堪忍、御尤候事

 ここでは、父・祖父よりも影が薄い忠利さんを、ダイマ。
 有馬直純から、城の修復について相談を受けたときのお返事。城の修理はくれぐれも慎
重に。ちゃんと幕府の許可を得よう。城のメンテナンスが行届いていないのは、どこも同
じだから気にすんなだって。
 関ヶ原以前に築かれた近世城郭が、数十年を経て、いっせいにメンテナンスが必要な状
況になってきたそうだ。ついでに、この年は家光の上洛で、この種の事務も滞っていたの
だろうな。
 しかし、道を塞いだら、人が通るところだけ石をよけて、あとはそのままにしとけって…

748人間七七四年2018/05/13(日) 12:19:44.01ID:mMOiDVzU
>>747
寛永11年なら戦国も終わって太平の世真っ盛りだしなぁ… もうちょっとしたら天草の乱が有るけれど。
しかし、届出してやるにしても金はかかるは幕府に睨まれかねないは、やらなきゃやらなかったでお咎め食らいそうだわ… しかし、平山城も草生えたり木が伸びて道が荒れる事もあるし、お手入れはどうしてたんだろうなぁ
外様大名は辛いわねぇ…

749人間七七四年2018/05/13(日) 14:23:41.11ID:VWNosI8F
草刈りと木の手入れは副産物貰って帰る条件で
むらかた、町方に。
草は家畜の餌とか肥料になるし木は焚き木に使える。

750人間七七四年2018/05/13(日) 20:48:41.93ID:L9R6rIQ1
一万石しかなかった苗木藩はどうしてたんだろうな

751人間七七四年2018/05/14(月) 00:57:44.02ID:gQvuxCq+
平山城って荒れるねぇ。維新まで天守があった米子城をGWに見てきたけど、
おそらく解体の際に石垣壊されたのか修復工事入ったところ以外は見る影もないぐらいだし。

752人間七七四年2018/05/14(月) 01:31:52.92ID:BZghMJw4
松山城なんかも二の丸庭園からかな?
黒門口登城道は結構道が荒れてた印象

753人間七七四年2018/05/14(月) 19:27:57.57ID:l7ZwV+IQ
蘆名盛隆の麾下であった二本松義継の小姓に非常に美麗な者があり、盛隆はこれを貰い受けたいと
伝えた所、義継は「あの小姓は随分甲斐甲斐しいのだが、悪しき所もあり、やめたほうが良いと
思います」と答えた。

盛隆は義継があの小姓を手放すことを惜しんでそのよう事を言うのだと思い、不満を漏らした。
しかし義継としては、惜しむような気持ちは一切なかったので、「そこまで思われているのなら」と、
かの小姓を盛隆の元へ遣わした。

盛隆は2,3年はこれを寵愛したが、次第に疎となり、またこの小姓の噂を、近侍の医者に
色々と申し聞かせ、この医者がさらにこの事を様々に語った。
これをかの小姓は深く恨んだ。

ある時、蘆名盛隆は鷹を据えて縁の柱に寄りかかり、近くの者たちにこれを見せていた所、
かの小姓が通りかかった。盛隆は小姓の名を呼び、「お前もこの鷹を見よ」と進めた。
小姓は「心得候」と返事をするや、刀を抜いて盛隆を二刀斬りつけるとそのまま走り去った。
この時盛隆の周りには武士が5,60人居たのであるが、皆狼狽えたのか慌て、かの小姓を
討ち止める者は居なかった。

小姓はさらに、噂を広めた医者の所へ向かい門を走り抜けようとした所、門番が不審に思い
彼を止めた。そこに追手の者達が追いつき、小姓を討ち取ったという。

(老士雜談)

754人間七七四年2018/05/14(月) 20:39:11.24ID:u5qrCqxx
小姓「衆道とは修羅道と見つけたり」

755人間七七四年2018/05/16(水) 17:18:18.01ID:u9u3Mv61
山中鹿之介の最期と埋葬地について記事があったのだが、どうやら未出の様なので貼っておく
記事はかなり長いので各自読んで見られたし

古墳の石棺から出てきた山中鹿介の首なし遺骨
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4952

756人間七七四年2018/05/16(水) 19:06:21.10ID:7w2utxgu
肥後へ御使に被遣御鉄砲衆両人、今日罷もとり候、御書之返事御座候、御文箱を則 を以、
上ケ申候事
肥後に先月十七日の夜、大なえゆり、殿主其外城中の家、から木立斗残り、かわらひき物
も皆々おちくづれ、城中に人五十人ほと死申候、塩硝倉ともずりに火出候て、跡もなくふ
きちらし、あたり五町八町之間の家無残ふきちらし、ゑんせう八万斤の上有之つる故に、
倉の下の石かき何もやねかわら六り五りほとふきちらし申候、斉藤伊豆守殿・防庵の家も損、少しつつ作事被仕候
 (細川家文書 万覚書寛永二(1625)年七月二十一日条)
<BR>
 寛永2年6月17日の地震被害について、一月後に肥後を訪問した使者が報告している。豊
後時代の執務日誌から。
<BR>
 50トン近くの火薬を貯蔵していた煙硝蔵が爆発。周囲500から800メートル四方ほどが吹
き飛び、瓦礫が3から4キロの範囲に飛散したという。黒色火薬とはいえ、50トンもあれば、
それだけの被害がでるかな。
 痕跡が残っていそうなものだが。今度の震災復旧で、見つからないだろうか。
<BR>
 最初の方、「ひき物」というのが、よく分からないけど、建物が柱ばっかりになったと
いうことだろうか。「城中」の死者についても、煙硝蔵の爆発の死者がこれだけなのか、
本丸の建物被害で死者がこれだけでたのか、細かいところでよく分からない。
<BR>
 地震被害の話なので、当然こっちに。

757人間七七四年2018/05/16(水) 20:27:04.77ID:xYUxUbly
>かわらひき物

瓦葺き物かな?

758人間七七四年2018/05/16(水) 21:28:52.05ID:KlPapVDl
<BR>が散見されるのでwebからのコピーくさい

759人間七七四年2018/05/16(水) 21:50:39.47ID:7w2utxgu
>>758
単純に手癖。無駄なことをしてしまったw

760人間七七四年2018/05/16(水) 22:12:53.29ID:7w2utxgu
>>755
荼毘に付したとされているのに、原型をとどめた遺骨がでてきてるのおかしくね。
実は、弥生時代の人骨なんじゃ?

761人間七七四年2018/05/16(水) 22:35:56.88ID:riG18fly
>>760
現代だと密閉した火葬炉が有って重油などの燃料を使った火葬が一般的だけど、戦国当時は野焼きの方が一般的だったみたいだから遺体の焼き上がり方や炭化の度合にも差が出たとか?

762人間七七四年2018/05/17(木) 12:51:36.94ID:Hj+5d5xo
あの時代に火葬なんてしたの?

763人間七七四年2018/05/17(木) 13:16:12.68ID:ck0GM2gO
>>762
平安時代以降、貴族ですら普通に火葬してる。
貴族の場合、火葬した場所に火葬塚作る。

764人間七七四年2018/05/17(木) 13:17:34.43ID:vJ5I+qQ+
>>762
鎌倉室町で火葬が一般に普及して明治の廃仏毀釈の際、一時的に土葬になったらしい

765人間七七四年2018/05/17(木) 13:22:47.97ID:C9wJF8gd
後の時代からすれば土葬が色々細かいことが分かって助かるんだけどねえ
疫病と土地の関係で生きてる人間の都合からすれば火葬一択なんだけど

766人間七七四年2018/05/17(木) 13:52:18.28ID:Hj+5d5xo
>>763-764
ありがと〜、時代劇なんかだと桶に遺体入れてたから土葬のイメージだったわ。

767人間七七四年2018/05/17(木) 14:20:48.56ID:h59oOBe5
>>765
そう言えば秀忠は土葬だったから戦傷とかで、実は前線での戦闘経験もある武人肌の大将だと分かったんだっけ

768人間七七四年2018/05/17(木) 18:54:48.85ID:+2o5eVMZ
モブ武将は鳥葬だったんだろうな

769人間七七四年2018/05/17(木) 19:01:03.56ID:5UwhWejb
土民による落ち武者刈りで死体漁るわけだけど、火葬して埋葬して塚作るぐらいのことはするんじゃない?

770人間七七四年2018/05/17(木) 21:20:02.73ID:UpvLuhWb
そういえば、平安時代の京都は、庶民の遺体は放置して、犬に喰われたりしていたんだよなあ。庶民がまともに埋葬されるようになったのって、いつごろからなんだろ。

771人間七七四年2018/05/17(木) 22:12:06.96ID:kF9DI9BX
>>770
庶民といっても京都と農村部で違いそうだな。
都市部だと土葬場所の確保も穴掘り人も確保しずらいだろうが、農村部なら普段の農作業の延長にあるから比較的墓場や穴掘り人の確保がしやすい印象がある。

772人間七七四年2018/05/17(木) 23:00:06.07ID:QSNvN+n7
昭和の頃は墓掘り人夫って脅し文句になってたな

773人間七七四年2018/05/18(金) 00:10:03.55ID:tk8eyJAB
地獄の墓堀人

774人間七七四年2018/05/18(金) 05:20:15.81ID:XgdJGW5s
平安時代の庶民って鳥辺山で鳥葬じゃないの?

775人間七七四年2018/05/18(金) 06:46:18.32ID:sHzbvCKD
>>774
他に紫野や化野など、三大風葬地がある。
僧や貴族、皇族は平安時代から火葬してた。

776人間七七四年2018/05/18(金) 09:29:14.98ID:yTxT8aCv
病気になった使用人を屋敷外にたたき出すとか、やってたらしい。疫病のときは街路に死体が溢れるとか。

777人間七七四年2018/05/18(金) 09:48:02.10ID:sHzbvCKD
>>776
きちんと埋葬していれば、疫病が蔓延するのをある程度抑えられただろうに…。

778人間七七四年2018/05/18(金) 15:05:41.63ID:XgdJGW5s
それやるな、と指示が出るのは徳川綱吉の時代のことなので

779人間七七四年2018/05/18(金) 19:23:13.98ID:nrppEGCY
羅生門にあるように肉はご馳走なのだ

780人間七七四年2018/05/20(日) 17:45:33.12ID:YeJdzbDA
天文20年8月6日、宗像大宮司氏男と香月次郎左衛門隆光は、宗像を出立して同9日、
山口へと参着した。そして相良遠江守武任を通して、大内義隆に参勤の御礼を申し上げたい旨を
申し入れると、同11日、両人供に築山の御所に召され、義隆より直々に「遠国よりの参勤
神妙なり」との言葉をいただき、また大友や島津の軍謀の事なども聞かれ、九国(九州)の
太平の事を祝し、ご機嫌殊に麗しかった。

そして「両人供に路次の労を休められよ」との仰せにて、宗像氏男、香月隆光は自分の旅館に戻った。


このような所、同月26日に、大内義隆の家老である陶尾張守隆房は、主君義隆へ恨みを持つ
事があって、逆心を企て山口を攻めようと若山の城を出陣した、との情報が聞こえた。
宗像氏男、香月隆光は大内義隆に命ぜられ、五百騎あまりを付けられ千把ヶ嶽に差し向けられたが、
陶方の宮川甲斐守、江良丹後守率いる二千騎と戦いもみ合っている所に、黒川形部より使いが来て、
『山口の搦手が敵に破られ陶勢が乱入し、築山の御所にも火がかけられ、大内義隆は行方も知れず
落ち行かれた』と伝えられた。

宗像、香月は「今は是迄」と打ち揃って長門国へと落ちていくと、付き従う軍勢はみな散り散りとなった。
そんな中、深川の大寧寺に義隆が居るとの情報を聞き、ここを尋ねていったものの、早くも昨日
御自害されたと言われ、両人供に力を失い

「大内殿の家の滅亡は此の時に究った。本来そうする必要のない公卿殿上人までみな討ち死にし、
或いは自害されたという。我ら武門に生まれ、生きて帰って誰に面を向けるべきだろうか。」

そう考え、両人ともに腹を掻っ切って死んだ。あわれという言葉もない。

(宗像軍記)

宗像大宮司より見た大寧寺の変

781人間七七四年2018/05/21(月) 10:14:49.21ID:14KKaOvu
宗像大宮司氏男が長門国にて大寧寺の変に巻き込まれ自害したことが告げられると、
筑前国白山の城に残っていた家臣の石松加賀守、吉田飛騨守、占部貞安、許斐氏鏡といった
重臣たちは、氏男の先々代の大宮司である宗像氏続入道良喜(氏男の叔父、もしくは大叔父)を
呼び相談した。
「氏男様には七歳の女子、そして今年三歳になる男子がおられます。宗像の家督はまだ、
どちらも継げる状況ではありません。二人の君達が御成長されるまで、良喜様が再び白山に
入られ、大内の御下知を承って宗像の家督に付いていただけないでしょうか。」

しかし良喜は
「私はもう齢70であり、そんな明日をも知れぬ身で大勢の人を扶持しこの乱世に幼い子供の
後見をするなど無理である。その上神宮の祭事なども誰が勤めるべきか。
ここは陶入道全羨(晴賢)の元に使いを出し、大内殿の末葉の人を申し請け、女子に娶らせ
宗像の家督と定めるべきであろう。」

そう申され、家臣団もこれに同意して、占部越後守賢安、大和治部丞秀政を両使として山口に
派遣し、全羨に訴えた所

「その事なら宗像の家に縁のあるものを差し遣わす。ここに黒川形部少輔隆像の子に、鍋寿丸という
十五歳の男子が有る。彼は宗像氏男の妻の、腹違いの弟である。また私にとっては姪の産んだ
子でも有れば、いよいよ鍋寿丸に過ぎたる者はない。彼を元服させ、左衛門尉氏貞と名乗らせ
これを宗像の家督とし大宮司職に任じよう」

と有り、これに良喜入道も家臣団も同意し、「ならば迎えを遣わすべし」と決定した。

ところが、この左衛門尉氏貞がまさに筑前に向かおうとした時、いかなる野心の者がいたのか、
陶全羨にこのように告げた

「宗像の家臣の中には、氏貞を主君とするのは不道であり、幼いながらも氏男の男児があり
これを守り立てようという者たちが多く、この方針に決定し、氏貞を呼び寄せ鴆毒を薦め
殺そうと、相謀っているのだと取り沙汰されています。」

これを聞いて全羨は激怒し、宗像家中に対して使いを出して命じた
『急ぎ、氏男の後室、および女子は藍島に流すべし。三歳の男子は刺し殺すべし。
この義に背くならば白山の城を攻め破り家臣残らず討ち殺す。』
これを再三に渡り伝えられたため、宗像の家臣たちは全羨の威を恐れこの義に従い、
しかし後室、女子を藍島に流すまではないと、山田の邑に隠し置くべきとして、城を追い出し
侍女3,4人を付けて、小さな草庵を結いここに入れ置いた。

三歳の男子は吉田飛騨守が預かって養育するという事になったが、飛騨守は彼の領地である
鞍手郡吉川にこの男子を置き奉ると欺き、乳母に抱かせてそこに向かう途中の山口という場所で
これを刺殺した。
乳母はこの時、慌てふためいて刀に取り付き抵抗したため、彼女も共に刺殺した。
この飛騨守の不道を憎まぬものは居なかった。その後、この男子、乳母の怨霊が祟をなしたため、
一宇の社を建て山口の今宮と号して祭り奉った。

(宗像軍記)

782人間七七四年2018/05/21(月) 14:09:08.85ID:YPbJw9WL
陶さんは、そうやって周囲のうらみを買っていったんですな・・・

783人間七七四年2018/05/21(月) 14:15:11.11ID:/F7cGq/K
文治派憎しで公家殺しまくるというわけわかなことやらかしたしなぁ。アホだよ、陶晴賢は。

毛利云々は置いといても、大寧寺の変の直接的な結果として、北九州はまんま大友にくれてやっちゃうことになるし。

784人間七七四年2018/05/21(月) 20:18:50.18ID:b2R4vdiQ
いやいや北九州を捨てて大友と結んだのは良い選択だと思うよ
後顧の憂いを無くすのは常道でしょ

7851/22018/05/22(火) 00:07:01.30ID:yNjh7yJS
天文23年2月下旬、宗像家の家臣の中に、陶全羨(晴賢)き媚びへつらうものあり、
周防国に使いを立て讒言を行った
『宗像氏男の後室は山田の邑に有り、旧好の臣達に密かに命じて、息女を豊後大友の方へ
遣わし、宗麟の子息のうち何れなりとも婿として宗像の家督を譲り、全羨様より遣わされた
氏貞様を攻め殺そうと議されております。ご油断なきように。』

これに全羨は大いに怒り、
「後室息女は先だって、男子を殺した時藍島に流すべしと申し渡したはずなのに、山田の邑に
召し置いているとは心得がたい!そういう事なら、宗像家の男子を殺したというのも偽りであろう。
この男子成人の上は彼に家を継がせるつもりなのだ。今は天下争乱の時であるから、この入道の
威を借りて暫くは当家に従う色を見せ、氏貞は私が宗像に遣わしたから、已むを得ず仮の主君として
頂いているのだろう。

急ぎ氏男の後室および二人の子供を殺し、その首を持ってくること無ければ、大軍で押し渡り
白山城を攻め破り、一人残らず妻子共に串刺しにすべし!」

そう、江良源左衛門賢盛を使いとして宗像家中に命じた。
これを受けて宗像の群臣は、石松和泉守の宿所に集まり詮議を行った。意見はまちまちであったが、
許斐氏鏡、占部貞安進み出て
「これはおそらく、家中に讒者があり全羨に悪しく申したものと考えます。あのように申せば
全羨が立腹するのも当然でしょう。ですが、後室息女共に何も知らず、明け暮れ山田の草庵にて
氏男様の菩提を弔い、また殺害された男児国丸様が、今も吉田飛騨守の元で養育されていると信じ、
毎日法華経を読誦し、その無事を祈られています。そのような方々を無下に殺すなど出来るでしょうか!?
遠賀の高倉に移し隠し置いて、全羨には事の仔細をありのままに申しましょう。
男子は先だって殺したことは事実です。また後室の陰謀ばるものは跡形もない虚言ですと申せば、
女子の事ですから、何事が有るでしょうか。ただ、後室母娘を高倉に遣わすべきです!」

そう申した所、吉田飛騨守が進み出た
「私は邦丸様を預かりますと後室に嘘を言って殺害しました。しかし陶全羨は私が助け置いていると
疑われ、山口に召喚して殺すとの事です。またこの事が後室のお耳び入れば、私が今まで後室を
騙し奉り、3年前に国丸様を殺した罪は逃れがたいものとなります。
あなた方はいか様にも道を立てられよ。この飛騨においては、全羨の命に従い氏貞様を主君と
奉る上は別の主君など持ちません。後室息女を殺し全羨に首を見せ、3年前に国丸様を手に掛けた
ことも正直に申せば、我が身の科を免れ、また宗像社務七十九代の後栄ともなるでしょう。」
そう、言葉荒く申し、辺りを払うがごとく見えた。

占部日向守が進み出て「この上は誰に憚ることもない。氏貞様は年若いが我らの大将である。
明日、この事を申し上げて、氏貞様のお計らい次第に従うとしよう。」と申すと、各々も
最もであると同意し、この日、三月二十三日の評定はこれにて終了し、それぞれ宿所へと
帰った。

しかし吉田飛騨守は妻の弟である峰玄蕃を呼び
「今日の石松和泉守宿所での詮議では、占部、許斐の一族は道理を立てるような者が多く、老臣である
石松和泉守の言葉も出ぬ前から何かと申し立てたこと心得難い。あれでは明日氏貞様へどのように申す
だろうか。そうなれば我らの身の上にも大事となるだろう。
そこで、今夜の内に山田の邑に行き、後室息女を殺すのだ。お前も来い。」

玄蕃は驚き止めた
「これは大事の思い立ちです。しかしやはり、明日の御詮議次第とすべきではないでしょうか。」

7862/22018/05/22(火) 00:07:35.16ID:yNjh7yJS
ところが彼の姉である飛騨守の妻が説得した
「既に歳五十となる飛騨守の申される事に従わないとは何という若輩者でしょう。私達はあなたの
行く末を思えばこそ、代々の主君の妻子を殺すと申しているのです。飛騨殿のお供をして山田へ行き、
殺してくるよう、偏に頼み申します。」

そして飛騨守は
「ならば、私の存分ばかり聞いた所で納得しないだろう。中山勘解由左衛門は私の知古の友であり、
また石松和泉守は此の家の大老でも有る。この二人に相談いたせ」という。

玄蕃は先ず野中に相談すると、似るを以て友というが、彼もまた大悪人であり飛騨の意見が
尤もであると同意した。その足にて石松和泉守と談じたが、彼は既に七十あまりの年齢で、
老いぼれとなり人の言うことに従うだけで、もはや善悪の判断もできなくなっていたため、
「いかにも飛騨の申されること理り至極」と言うばかりであった。

そうして飛騨守は「今はこれまでぞ、明日まで引き伸ばせば何が起こるか解らない。」と、
玄蕃を同道して山田の邑に参り、後室の侍女に申し上げた

「実は俄に藍島に朝鮮よりの流船が来たため、我らはその見聞に遣わされる事となり、
その御暇乞いのためまかり出ました。」

これに対応した花見の少将と申す女房は
「今夜は二十三夜の御月待のため、今御行水をされております。暫くお待ち下さい。この事を
申し上げてきます。」
と申し、暫く待っていた所、後室は浴室より出て、姫君と共に窓前に座した。
少将が「吉田飛騨守、峰玄蕃が明日藍島への御用にて渡海すると、先刻より御暇乞のためとして
罷り出、お待ちされております。」と報告すると、後室は
「ならば待ちかねているだろう。ここへ」と飛騨を召され、玄蕃もそれに相従った。

飛騨守に向かって後室は言った
「この頃、うち続いて夢見が悪く、気にかかることが多いのです。どうでしょう、国丸殿には
何事も無いでしょうか?久しく見ることもなく、懐かしさだけが募ります。どうか良く良く、
養育をして下さい。」

そう言い終わらぬ内に、飛騨守は後室の御前に駆け寄り懐中より氷の如き短剣を抜き胸のあたりを
刺し貫いた。彼女は「あっ…」との言葉だけを最期に、そのまま空しくなった。
同時に峰玄蕃は姫君を刺殺した。
侍女である小少将、花見の少将、小萩、月白の四人は混乱し、「これはいかなる事か!?」と
両人に取り付いたが、彼らは二刀づつ刺し通し、四人共に斃れた。あはれと言うも愚かである。

(宗像軍記)

宗像家における「山田事件」についての記述である。

787人間七七四年2018/05/22(火) 07:48:43.97ID:m1d/dBwZ
うーむ、えぐい。

788人間七七四年2018/05/22(火) 14:54:20.06ID:hFRPbsPL
>>786
>うち続いて夢見が悪く
カーチャン…

789人間七七四年2018/05/22(火) 15:10:48.60ID:fU0KShZ6
国丸って氏隆のことか?96まで生きてたよな

790人間七七四年2018/05/23(水) 01:29:53.81ID:p4y9snsD
>>96
伝承上、自称氏隆が96まで生きてたってだけでしょあれは。
なんで陶方に攻撃されて逃げた先が陶支配下の長門なんだ、って話だし。

791人間七七四年2018/05/23(水) 02:29:48.58ID:r0yXmG3/
お前は灯台下暗しって言葉を知らないんだな

792人間七七四年2018/05/23(水) 11:43:38.35ID:p4y9snsD
>>791
そもそも氏隆の生存説は系図上事実として扱われてないからな

793人間七七四年2018/05/23(水) 12:33:45.54ID:r0yXmG3/
それはお前の中だけの話だろ

794人間七七四年2018/05/24(木) 01:26:53.58ID:kmpFCxd/
>>793
なんでそんな喧嘩腰なんか知らんが、古代氏族系譜集所収の宗像氏系図ほか、諸系図で氏男男子(塩寿丸)は早世とされてるよ。
長門の氏隆子孫主張は民間伝承の類。

795人間七七四年2018/05/24(木) 07:55:28.10ID:Qisp8OGb
塩寿丸は氏貞の子であり、養子じゃないかwしかも養子解消されて実家に戻っている
宗像記追考では殺されたのは氏男弟の千代松な
これだけでもお前の中だけの話ってことなのが分かるな

796人間七七四年2018/05/24(木) 07:57:19.51ID:Qisp8OGb
弟じゃなくて甥だったわ

797人間七七四年2018/05/24(木) 08:27:55.81ID:Qisp8OGb
すまぬ記憶違い、弟で合ってたか

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