武田信玄が長生きしていたら、天下を取れたのか?4

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795人間七七四年2018/02/14(水) 07:37:53.03ID:2mKFN6mH
>>792
いやいやいや、必死に捏造曲解にご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
まず、信長はその細川宛の書状以外でも謙信に対して、「こちらも攻め込みますので、武田領土に侵攻して欲しい!
今こそ織田・上杉・徳川の三勢力で武田領土に侵攻して信玄を打ち倒すべき時!」的な事を同時期に書いているわけなのですが、
細川宛には「謙信を武田領土に侵攻させれば、武田勢の圧力が減退するから、存分にする事できる。」
「謙信が越後府内に戻ってきた。こうなれば(さ候へば)諸方への手当てができたので、上洛して存分にしたい。」とか
書いているわけでございまして、信長の率いる織田の軍勢が瞬間移動できるのでもなければ、
武田領土と畿内という二つの領域を瞬時に移動する事は不可能なわけでございますし、
普通に細川宛の書状内容を考慮してみますれば、謙信に対して述べている事は、謙信に対する扇動であり、
謙信を武田領土に侵攻させて、当て馬にして、その間に上洛して存分にしたい、というのが信長の本音だという事が
わかるように思われますしねえ。
まあ、謙信の方も織田の思惑は承知していたのか、織田の要請をスルーして、北陸と関東に東西奔走し続ける事を
1574年末まで続けていくわけではございますけれどねえ。

いやいやいや、必死に捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
少なくとも、それまで単独で将軍を擁していた信長が、
朝倉浅井側に対して、これからはともに将軍家の政道とかを運営していきましょう、的に述べ、
さらには公家門跡の政道は朝倉浅井側の沙汰に相違なし、と述べているわけなのですから、
自身よりも上位に置こうとしているような感じで、これは普通に信長が降伏的に和睦交渉を申し込んでいる、と
解釈するのが妥当であるかと思われる次第でございますかねえ。

いやいやいや、必死に捏造曲解にご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
2次資料である信長公記だけを無理やりに論拠もなしに持ち上げる必要性はないように思われますし、
織田側の信長公記を出すのであれば、朝倉側の朝倉始末記を出すのも極めて自然、という話でございまして、
朝倉始末記に朝倉側がそのようにした文章が一切ない、という事や、
朝倉始末記には朝倉側が優位だったけれど、勅命などによって講和した、的な流れである事、
朝倉側の1571年2月の書状でも、そのように書いている事、なども普通に考慮されるべきであると思われますし、
信長の上記の朱印状の内容からも、信長側が申し入れている事は明らかなように思われる次第でございますしねえ。

いつも通りに必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、別に無理やり書かされた、とはこちらも述べておりませんし
京都の公家さんの記録は信長の過大宣伝をそのまま受け取っている可能性が高い事は、
姉川の戦いの朝倉浅井側の被害を一万近くとしたり、浅井長政が死亡した、という風に書いてたり、
という事からも明らかなように思われる次第なのでございますが、いかながものなのでございましょうかねえ。

とりあえず、そのように必死に捏造曲解などにご狂奔なさられるのではなく、
聞かれている事柄などに、具体的にお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>790
それは貴方ですよー。
>>792
いやいやいや、必死に都合の悪いところは答えないようにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
貴方は現状の様子からして、明らかにご自身はお答えになられないのに、質問返しにご狂奔なさられるのが明らかなように思われますので、
貴方さまが>>705
>織田の武田征伐軍が木曽から進撃したように、武田信玄は岩村からどのルートを通るのか、地名や城の名を書いて説明して下さい。
と述べておられるように、こちら側にはやたらと詳細なルート説明を求められているご様子ではございますが、
それと同じくらいの精度でもって、他の侵攻の事例を説明なさられる事からおはじめになられていただきたい、
というだけの話でございますので、とりあえず、貴方はまずは、貴方が要求する程の詳細なる侵攻ルートが残っている事例を
資料やら史実やらを基にして、貴方が要求なさられておられるだけの精度でもって、
お答えになられる事からおはじめになられていただきたいと思いますので、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

とりあえず、今朝はこれくらいで撤収しますかねえ。

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