戦国ちょっといい話46

1人間七七四年2018/06/11(月) 22:45:50.79ID:3S+RqTvu
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

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2人間七七四年2018/06/11(月) 22:47:22.04ID:x90bEq2Z
できた。ここ埋まったら移動してください

戦国ちょっといい話46
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3人間七七四年2018/06/11(月) 22:51:31.01ID:x90bEq2Z
>>2
間違えた。申し訳ない

4人間七七四年2018/06/11(月) 23:40:44.11ID:6u0nRO91
>>1
乙!

5人間七七四年2018/06/12(火) 00:05:21.87ID:6bYuvtCd
大仏殿普請の事

去る程に四海八島の外も波静かに治まり、関白左大臣豊臣秀吉公は京都に大仏殿を御建立あるべしと、
天正17年の春より人夫を揃え、京に石を引かせた。
大仏殿は五条の橋の方で、その大門の石は松坂少将蒲生氏郷の担当と成った。
それは一辺が2間(約3.6メートル)の、四角形の大石であった。
大津三井寺の上より、漸く道まで引き出したが、そこで秀吉から氏郷に
「あの大石は人夫への負担が大きいので輸送は中止するように。」
と伝えられたため、氏郷も畏まりこれを中止した所、それを京童が一首の狂歌を詠んで
落書にして立てた

『大石を 道の蒲生に引き捨てて 飛騨の匠も成らぬものかな』

もちろん飛騨とは氏郷の受領名「飛騨守」の事である。氏郷はこれを知ると
「京童に嘲られる事こそ口惜しい!ならば引いてみせよう!」
そう決意し、再びこの大石に取り付き引き始めた。

蒲生源左衛門尉郷成の、その日の装束は太布の帷子の、袖裾を外し背には大きな朱の丸をつけ
小麦藁の笠に采配を取って石の上に上り、木遣をした。
その他には、蒲生左門家来である中西善内が笛の役、蒲生四郎兵衛郷安家来、赤佐一蔵は太鼓の
役で、拍子を取り、これが誠に面白いと人夫共もこれに勇を得て引いた。
また氏郷自身がこれを奉行したので、氏郷の侍たちも皆、石を引く本綱末綱に取り付き、
我劣らじと引いた。

ここで、戸賀十兵衛の人足の一人が、草鞋の奉行であるからと傍に居たのを氏郷が見つけ
「あれは如何にも悪き奴かな!搦め捕ってこい!」
と命じ、土田久介という小姓がこれを承り、走り寄り手巾にてかの者を搦めて来ると、
氏郷はこれを田の畦に引き据え、腰の脇差を抜いて、立ちどころに頸を落とした。

これを見た者たちは興醒め顔にて、なお一層石引に精を出した。しかしながらやはり大石
であり、なかなかうまく進まず、人夫たちにも次第に疲れの色が濃くなった。
そこで「彼らに力を与えよう」と、都より傾城十余人を呼び寄せ、石の上に登らせ
小歌を謡わせると、これにひときわ気力を得た。

しかし、日岡峠を登らせる時は流石に不可能に思えたが、氏郷は源左衛門尉郷成に、
「どうにか精を出して引き登らせよ!」と命じた。
郷成は「承り候」と言うや、わざと田の中に転び落ちた。彼は装束を泥だらけにして
起き上がると、それを見た人夫たちは、一斉にどっと笑った。その夥しい笑い声は
暫く鳴り止まないほどであった。
そしてその勢いでこの峠をついに越えたのである。氏郷は非常に喜び、彼に秘蔵の名馬を
与えた。

その後も人々精を出して引いたが、どうしたことか鎖綱が引きちぎれ、額に当たって
人夫一人が死んだ。しかし別の鎖に付け替えて引き、ついに加茂川へと引き入れ、都の内へと入った。

ここで氏郷は「今度の京童共による狂歌への返報である」と、人夫共を京の民家の上に
上らせで石を引かせた。このため大仏殿の方向にある家々は踏み破られた。

そこに関白秀吉が氏郷を迎えに御出になられた。御供は木村常陸介で、彼らは石の上に
上がってきた。これを見て赤佐一蔵は驚いて石より飛び降り、郷成、中西善内も下りようとしたが、
秀吉は「そのまま罷りあれ!」と彼らを留め、自身は帷子に着替えて木遣を成された。
常陸介は太鼓を打ち、中西善内はまた笛を吹いた。こうなった以上、秀吉の御供として
付き従っていた大名小名もみな石に取り付いて引いたため、そこからは飛ぶように進み、
程なく大仏殿へと到着した。
この時、一番の大石を尋ねた所、この氏郷の引いてきたものより大きな物は無かった。

(氏ク記)

有名な話ですが、出典付きで

6人間七七四年2018/06/12(火) 01:03:03.38ID:gXqWeN7x
男塾の直進行軍を思い浮かべてしまうな

7人間七七四年2018/06/12(火) 09:24:59.36ID:5Fu7ixea
蹴上あたりから、どういうルートを通ったんだろう。お寺も、犠牲になってそうだけどw

8人間七七四年2018/06/12(火) 11:34:45.72ID:7/r2BUUk
約2名を除いて楽しそうだな(小並感

9人間七七四年2018/06/13(水) 16:37:50.26ID:NO0axVvC
川北九大夫肥後国川尻を守る事

細川忠利の士川北九大夫と言う者有り。川尻の代官を勤めよ、となりしに、出陣の時供に
連れられなれば代官の職勤むべし、と言いければ、尤とて、出陣の時供すべし、と定めら
る。天草はややもすれば一揆をなす所と西国の人の言いける事なれば、心に掛けて、川尻
は海辺、船の着く所にて細川家の米蔵あり。天草へ海上七里と聞ゆ。川北兼ねて地鉄砲の
数を調べ置けり。(地鉄砲とは猟師の事也)天草の一揆起ると聞きて、川尻の海岸に一間
に一本宛竹を立てさせ、一本毎に火縄を結い付け、五本に一人の地鉄砲を配りけり。後に
天草にて生捕られし者の言いけるは、其夜川尻の米を取らん為に船を押出して見しに、川
尻に幾らとも無く鉄砲を備えて見えたる故、さては熊本より軍兵の早川尻に来たれり、と
て船を戻しけるとなり。川北なかりせば川尻の米を取られ、天草の糧容易く破れまじかり
しに、川北が謀にて天草の糧早く尽きてけり。

(常山紀談)

 竹を2メートル間隔で立てて、それに火縄を結びつける。5本ごとに一人の地元猟師が担
当。つまり、臨戦態勢の鉄砲隊がたくさんいるように見せかけたということなのかな。
 これで川尻の米蔵を略奪されていたら、切腹が一人や二人ですまない大恥。ナイス計略。

 しかし、天草・島原の乱で、川尻襲撃の準備があったという話は、聞いたことないなあ。
 天草四郎が一揆の直前まで宇土町の郊外に住んでいて、母や姉を連れ出そうと船が送り込まれたが失敗した話ならあるけど。

10人間七七四年2018/06/14(木) 17:07:32.39ID:MnYHqCft
天正19年(1591)、豊臣秀吉は隠居し、天下並びに聚楽城を猶子である三好中納言秀次へ譲った。
その官位昇進のため、同年12月28日、秀吉秀次以下天下の諸大名は、位次第に車にて参内を
することとなった。

この時秀吉は、蒲生氏郷の次に伊達政宗、その次に山形出羽守(最上)義光と定めた。
ところが氏郷は御前に進み出て

「山形(最上)は源氏の縁であり、その上政宗にとっては母方の叔父にあたります。
政宗の後にすべきではありません。」

このように申し上げたところ、秀吉も「そういう事なら」と、最上義光を政宗の前に立てた。

これを知った義光は謹んで氏郷に申し上げた
「お陰を以って天下に面目を雪ぎました。この御恩はいつの世に忘れることが有るでしょうか。
氏郷殿御一代、それがし一世の間に、会津に何事か有れば、その御用に立ちましょう。
その証拠として人質を進上しましょう。」

それより子息の一人駿河守(家親)を、氏郷の生きている間は差し置いた。

(氏ク記)

11人間七七四年2018/06/14(木) 17:10:00.88ID:NpoWDhvU
氏郷が、最上家の取次だったのかな。わざわざ人質まで送るとは。

12人間七七四年2018/06/14(木) 23:55:07.48ID:qqKel1dY
伊達が共通の敵ならしょうがない

13人間七七四年2018/06/15(金) 00:04:24.55ID:ldS390FA
文禄元年、朝鮮の役のため、会津より上洛の途に付いた蒲生氏郷は、途中那須ノ原という場所を
通った。そこはあまりに人気無く、非常に物寂しい場所であった。
ここで氏郷は思いつくままに、一首詠んだ

『世の中に 我は何をか那須ノ原 なすわざもなく年や経ぬべき』

そう言葉にして、打ち過ぎたという、

(氏ク記)

氏郷みたいな人でも「俺は何も成さずに今まで生きてきてしまった」みたいに思うこと
あったのですね。

14人間七七四年2018/06/15(金) 00:38:12.36ID:aqx17Q8P
天下鳥以外は、「成した事」に入らないみたいなノリだったりして。

15人間七七四年2018/06/16(土) 10:50:45.33ID:OPn9dD68
意識高い系戦国武将

16人間七七四年2018/06/16(土) 12:05:27.02ID:odU49sW/
今は諸浪人の多くが先知を減じ


下方覚兵衛*は元々は蒲生氏郷に四百石で仕え、その後は小早川秀秋に呼ばれ
千二百石で仕えていたが秀秋が亡くなったため、池田家臣の土肥周防の誘いで
慶長八年、池田輝政のもとへ召し出された。

土肥周防が輝政の嫡男・利隆に氏郷時代の知行四百石で仕えるようにと
折紙を渡すと、覚兵衛は
「中納言(秀秋)のことで浪人になってしまったので、ただいま無双の御当家へ
 召し出されるのならば、いかようでもお請けしたいのですが、せめて
 先知(千二百石)の半分は下されるべきでしょう」
と申したため、周防が折紙と違う知行を求めてくるのは困るとして
断ろうとしたところ、輝政が
「今は諸浪人の多くが先知を減じ、そのままで終わってしまうことがあるから
 このようなことを言ったのだろう。この先配慮をしてやるように」
と仰せられたので、翌年から覚兵衛には百俵の合力米が支給された。

覚兵衛はその後出世していき、慶長十六年には光政の守役に任ぜられた。
そのとき輝政と利隆の相談の結果、池田家の譜代同然に扱われることになり
家督を継いだ光政が領国に帰るときには、妻子と一緒に江戸で留守を守った。
元和七年に亡くなるが、最終的には千百石を拝領したという。


――『吉備温故秘録』

* 祖父が小豆坂七本槍の下方左近であったことから、蒲生氏郷に仕える。
 氏郷の死後、堀秀治に仕え越後にいたが、小早川秀秋に召し出される。
 光政とは家族ぐるみで交流があり覚兵衛の死後、妻は岡山城の水の手に
 屋敷を拝領し、光政から"水の手の祖母"と呼ばれ慕われた。

17人間七七四年2018/06/17(日) 15:34:15.91ID:p3ch8gs1
ある時、蒲生氏郷が伏見の前田利家の屋敷を訪ねた時、蒲生家と前田家はもとより縁辺であるので
(利家の次男・利政の妻が氏郷の娘)、供の侍たちは蒲生家、前田家共に座敷に入るのであるが、
その時は蒲生家の侍たちは、座敷には入らなかった。

ところが、氏郷の小姓である岡半七という者、これを知らずいつものように番所の戸を開けて
座敷に入ろうとした所、傍輩が一人も居ないことに気が付き、驚いて座敷の戸を閉めて退出した。
この姿を番所に居た者たちが小声で笑った。

その瞬間、岡半七は太刀の柄に手をかけた
「汝ら何を笑うのか!?」

声高に過ぎたその声を氏郷は聞き付け
「また半七めか。いつもの大声だな。」と、つるつると座を立ち半七を呼んで、特に用があったわけでは
無かったが、当座の事について長岡越中守(細川忠興)への使いに出した。これによって喧嘩を止めたのである。
このように氏郷は、物事に分別のある人であった。

(氏ク記)

18人間七七四年2018/06/17(日) 17:04:59.83ID:UyI9nnUz
ぷーくすくすされたら、刀を抜かないといけない。これ、侍の掟。

19人間七七四年2018/06/19(火) 00:25:10.18ID:LF7ESyC8
長岡越中守(細川)忠興が蒲生氏郷に、蒲生家重代の宝である”佐々木鎧”を所望したことがあった。
氏郷の家臣である錦利八右衛門は、「似せの鎧を遣わしましょう」と申し上げたが、氏郷は

「『なきなどと 人には言て有なまし 心の問はば如何こたへん』という古歌がある。
お前の言う事、我が心は恥ずかしい。

確かに佐々木鎧は天下に一足の鎧であるから、それが如何なるものか知る者はほとんど居ない。
だが、私は一度忠興に遣わすと言ってしまったのだ。そうである以上、後に残ったとしてもそれは重宝ではない。」

そう言って佐々木鎧を忠興へと遣わした。後になって忠興は、その鎧が蒲生家重代の宝であることを知り
様々に返還しようと働きかけたが、氏郷は決して受け取ろうとしなかった。

この鎧は氏郷逝去の後、跡を継いだ秀行へ返還されたという。

(氏ク記)

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