戦国ちょっと悪い話46

1人間七七四年2018/08/02(木) 10:17:13.37ID:rEFEdP0l
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

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2人間七七四年2018/08/02(木) 10:47:04.16ID:rEFEdP0l
とりあえず落ちないように逸話書いておく


その頃、公方足利義澄卿の御母堂は柳原大納言隆光卿の娘で、今の摂政九条太政大臣政基公の北政所とは
御連枝であった。故に公武の貴賤、おしなべて九条殿を崇敬した。

しかし細川政元は公方家の権を執り驕りを極める余りであろうか、あらぬ心出来て、九条政基公の
御未子の公達を己が養子に申し受け、自分の童名を付け聡明丸と号し、その後今年12月10日、
この聡明丸の元服の時は忝なくも公方御手づから加冠なされて細川源九郎澄之と名乗らせた。

こうして公家武家相共にこの澄之を崇敬しかしずき、九条殿も繁盛した。

古、鎌倉の征夷大将軍頼常卿と申すのは光明峰寺摂政殿(九条道家)の公達であったのを、
武家の上将となした。これも珍しい例であったが、それは右大将頼朝卿の親戚であったからであり、
右大臣実朝公の跡目であったから、軽々な話ではない。しかし、今の澄之はまさしく摂政相国の公達で
あるが、将軍家の執事である細川政元の子として、盛んな事とするのは、末世とは言いながら浅ましい
次第であると批判する人々も多かった。

その後、またどうしたわけか、細川政元は熟考した
「我家は代々公方の管領を相勤め親類も数多ある所に、他家の子を養いて家督を立てるのも
謂れなき所業であり、細川一族の面々も、他家の大名も、これに同心し挙用しないだろう。」
そのように突然考え、かの九郎澄之には丹波国の主語を譲り彼の国へ差し遣わし、永正元年の春頃、
家臣の薬師寺与一郎元一を使いとして阿波国へ差し遣わし、彼の国の一族である細川成之の孫で、
讃岐守義春の子である11歳に成る男子があり、これを養子にしたいと所望した。

成之も義春も細川一族であり、すぐに同意すべきであったが、政元の行跡見届けがたいと感じ、
何事か後難があるのではないかと、様々に辞退したが、薬師寺元一が古今の例を引いて様々に
理を尽くして説得し、漸く成之、義春も同意し、ならば養子に参らせると固く契約した。

政元は喜び直ぐにこの子を元服させた。彼にも公方家より御一字を申し受け、細川六郎冠者澄元と名乗らせ、
未だ若年であるとして、上洛もさせず阿波国の屋形に差し置いていた。

下の屋形とは阿波国の守護所である。昔、常久禅門(細川頼之)は大忠功の人であったため、摂津、丹波、
阿波、讃岐の四ヶ国の守護に任じられた時、自身は在京して管領職を勤め、守護する四ヶ国には一族を置いた。
中でも阿波国には舎弟讃岐守詮春を留め置いて分国の政事を執行させ、これを下の屋形と号した。
そして細川頼之嫡流の管領家を上の屋形と名付けた。現在の義春も詮春の子孫であり、上の屋形に
子無き時は必ず下の屋形より相続するのが筋目であった。

そのような由来がありながら、政元はどうしたことか、身の栄耀に飽き足らず、驕りを極めるあまり、
摂家の貴族を養子にして、ついに一家に二流を作り、後日の災いを招いた。その不遠慮の義、只事ではない。

政元は不忠不孝であったので、すなわち天罰を被って一家は滅亡するのだが、その先触れであったと
考えるべきだろう。

(應仁後記)


細川政元が九条政基から澄之を養子にとった件、家格のことで当時から批判があったらしい、というお話

3人間七七四年2018/08/02(木) 12:40:05.67ID:s61QDbDi
前に銭取の地名の由来を書いたけど、布橋は書いたっけかな?

三方ヶ原で大敗した徳川軍
何としても一矢報いたいと ある計略を持って武田軍に夜襲を掛ける
大勝利に絶賛油断中の武田軍は後方よりの突然の奇襲に蜂の巣を突いた様な
恐慌状態に
「奇襲じゃ!」「逃げろ逃げろ!」「あそこに橋があるぞ!」「渡って逃げろ!」
「!! うわーー!!」
唯一残る逃げ道に兵達は殺到、しかしこんなところに橋なんてあったか?
そう武田軍に仕掛けた計略はこの橋
実は夜襲の前に谷に布を渡し橋のように見せかけていたのだ
殺到する人馬の勢いは止められず崖の下にはおびただしい数の兵士や
馬の死骸が山の様に積み重なっていたという

局地戦で見事意趣返しに成功した徳川家
しかしその後この崖から夜な夜なうめき声の様なものが聞こえ続け
数年後に慰霊の大念仏を家康が執り行うまで地域の住民を苦しめ続けたという

4人間七七四年2018/08/03(金) 12:59:17.06ID:wIiR5RyB
薬師寺は細川京兆家被官の中でも歴々の者であり、今の薬師寺与一元一は摂津の守護代で淀城に在し、
その弟与二(長忠)と共に、その頃の名高き勇士であった。度々の合戦で手柄を顕し、忠功は諸人に越えていた。
その中でも薬師寺与一は一文不通にて文才無き者であったが、天性正直で理非に厚い徳が有り、細川一門の
人々は、皆彼を重んじていた。されば、この元一ならばこそ、この年月、細川政元へ様々に諫言し、
終に一門である阿波守護細川家より澄元を養子とさせたのだ、

しかし近年細川政元は、政務を粗略にし、専念して魔法を行い、空の上へ飛び上がり空中に立つなど、
不思議を顕し、後々はうつつ無き事のみを喜び、時々狂乱のごとくとなった。

この有様に元一も、このままでは当家の滅亡は近いと諫言するも及ばず、赤澤宗益入道と相談し、
六郎冠者澄元を家督に取り立て政元は隠居させ、細川家を末長久に治めるべしとすぐに評議一決して、
永正元年九月四日、薬師寺元一は淀城に立て籠もり、同六日、赤澤宗益は京を落ちたが、巷説では
彼もまた多勢を催して淀、鳥羽へと攻め上がるのだという。
かつ又、西岡では土一揆が起こり、これも京へと攻め入った。
このようなわけで洛中では風聞頻りにして人々はみな騒動した。

細川政元はこの事態に驚き、薬師寺元一の弟である薬師寺与二を討ち手として多勢を遣わし淀城を
攻め囲んだ。与二はこの淀城攻めの案内者であり、兄に劣らぬ剛の者であり、彼は淀城へ攻め寄せたが、
城兵も能く防ぎ、同十日、寄せ手の一人、讃岐の守護代である安富某が討ち取られた。

同十四日、西岡の土一揆は散々に打ち負け、その指導者である四ノ宮という父子は淀城へ落ち入った。
そのような中、薬師寺たちが味方と頼んだ前将軍家(足利義材)勢力、細川慈雲院(成之)の阿波細川家、
畠山卜山(尚順) らの後詰めの出勢が遅れ、故に久しく持ちこたえること出来ず、同二十日、終に
淀城は攻め落とされ、四ノ宮父子を始めとして尽く討ち死にした。

城将の薬師寺元一は生け捕りとなり、かくして京勢は帰陣した。
この戦果に細川政元は大いに喜び、大将であった薬師寺与二に「与一は汝の心に任せて腹を切らせろ」と
命じ、与二は「畏まり候」と、兄与一元一を、彼が先年船橋の当たりに菩提寺として建立した一元寺という
寺へ送り、そこで腹を切らせた。

薬師寺与一元一は、最期にこう言った
「私は主君へ野心の企てがあったのではない。ただ細川家が長久にと思い、事を起こしたのだ。
私は一世の間、終に二心を持たなかった。故にその心を名に顕し、与一と言い元一と名乗り、
寺をも一元寺と名付けたのだ。

只今、腹をも一文字に切るべし!」

そう、腹一文字に切って死んだ。生年二十九歳であったという。

(應仁後記)

薬師寺騒動についてのお話

5人間七七四年2018/08/03(金) 14:59:15.81ID:EaDFqGME
>>3
こんなデタラメな言い伝えを残したくなるぐらいに、完膚なきまでに負けたってことなんだろうなぁ…

6人間七七四年2018/08/03(金) 15:20:42.89ID:BjQSFajr
本当の伝承は負けて逃げる途中にあった崖に家康が褌を掛ければたちまち布が石になって徳川軍は逃げることができ
追ってきた武田軍が渡る頃には石が元の布に戻り武田の徒士が転落したというもの
地元じゃこの説が有力

7人間七七四年2018/08/03(金) 15:36:46.83ID:EaDFqGME
>>6
どっちにしたってあり得ん話やん…

8人間七七四年2018/08/03(金) 16:02:51.21ID:JyAogICI
>>4
魔法に専念すれば空も飛べるのか
普通は滅亡話のフラグとして変な術に凝ってるとか言われるのに
少なくともこのエピソードでは普通に勝ってるしw

9人間七七四年2018/08/03(金) 18:22:18.80ID:DzoYyfFj
花の乱でも政元は魔法の練習してたな

10人間七七四年2018/08/03(金) 19:10:51.28ID:8Tj6olph
>>3
まとめの10964
此の度の戦いにうたれし三河武者、末が末までも

で後世の伝承以外が出てた

11人間七七四年2018/08/03(金) 23:16:32.62ID:sLqMHVzg
>>4
>しかし近年細川政元は、政務を粗略にし、専念して魔法を行い、空の上へ飛び上がり空中に立つなど、

⊂⊃                      ⊂⊃
        ⊂ \        /⊃
          \\ /政ヽ//
   ⊂⊃  ((   \( ^ω^)    ))
            /|    ヘ       空も飛べるはず
          //( ヽノ \\
        ⊂/   ノ>ノ    \⊃
             レレ   スイスーイ   ⊂⊃
           彡
\____________________/

                 (⌒)
                   ̄
                O
               。
          /政ヽ
   ⊂二二二( ^ω^)二⊃
        |    /       ブーン
         ( ヽノ
         ノ>ノ
     三  レレ

12人間七七四年2018/08/04(土) 09:55:46.27ID:WSX/lJ7W
流石に脳内地元民ではないのかそれ

13人間七七四年2018/08/04(土) 11:18:44.07ID:DylmrFnz
このAA、春先も貼られてなかったかな

14人間七七四年2018/08/04(土) 11:20:41.01ID:2hjMYhnQ
>>13
きっと細川政元が空を飛ぶ度に

15人間七七四年2018/08/04(土) 16:54:12.41ID:ZwjgR1TT
魔法の修行してたのは知ってたけど
普通に飛べるようになってるの草

16人間七七四年2018/08/04(土) 17:09:49.63ID:Jm9RK1uG
麻原の前世

17人間七七四年2018/08/06(月) 18:40:54.70ID:eGdBHg/i
細川政元暗殺の後、畿内は細川澄之の勢力によって押さえられた。
しかし細川澄元家臣の三好之長は、澄元を伴い近江国甲賀の谷へ落ち行き、山中新左衛門を頼んで
近江甲賀の軍士を集めた。
また細川一門の細川右馬助、同民部省輔、淡路守護らも味方に付き、さらに秘計をめぐらして、
畠山も味方に付け大和河内の軍勢を招き。程なくこの軍勢を率いて八月朔日、京に向かって
攻め上がった。

昔より主君を討った悪逆人に味方しようという者はいない。在京の者達も次々と香西、薬師寺を背き
捨てて、我も我もと澄元の軍勢に馳加わり、程なく大軍となった。そこで細川澄元を大将とし、
三好之長は軍の差し引きを行い、九郎澄之の居る嵯峨の嵐山、遊初軒に押し寄せ、一度に鬨の声を上げて
入れ代わり立ち代わり攻めかかった。そこに館の内より声高に「九郎殿御内一宮兵庫助!」と名乗り
一番に斬って出、甲賀勢の望月という者を初めとして、寄せ手の7,8騎を斬って落とし、終には
自身も討ち死にした。

これを合戦のはじめとして、敵味方入り乱れ散々に戦ったが、澄之方の者達は次第に落ち失せ、残る
香西薬師寺たちも、ここを先途と防いだが多勢に無勢では叶い難く、終に薬師寺長忠は討ち死に、
香西元長も流れ矢に当たって死んだ。

この劣勢の中、波々下部伯耆守は澄之に向かって申し上げた
「君が盾矛と思し召す一宮、香西、薬師寺らは討ち死にし、見方は残り少なく、敵はもはや四面を取り囲んで
今は逃れるすべもありません。敵の手にかけられるより、御自害なさるべきです。」

九郎澄之
「それは覚悟している」
そう言って硯を出し文を書いた
「これを、父殿下(九条政基)、母政所へ参らすように。」
そう同朋の童に渡した、その文には、澄之が両親の元を離れ丹波に下り物憂く暮らしていたこと、
また両親より先に、このように亡び果て、御嘆きを残すことが悲しいと綴られていた。
奥には一種の歌が詠まれた。

 梓弓 張りて心は強けれど 引手すく無き身とぞ成りける

髪をすこし切り書状に添え、泪とともに巻き閉じて、名残惜しげにこれを渡した。
童がその場を去ると、澄之はこの年19歳にて一期とし、雪のような肌を肌脱ぎして、
尋常に腹を切って死んだ。

波々下部伯耆守はこれを介錯すると、自身もその場で腹を切り、館に火を掛けた。
ここで焼け死んだ者達、また討ち死にの面々、自害した者達、都合170人であったと言われる。

寄せ手の大将澄元は養父の敵を打ち取り、三好之長は主君の恨みを報じた。
彼らは香西兄弟、薬師寺ら数多の頸を取り持たせ、喜び勇んで帰洛した。

澄之の同朋の童は、乳母の局を伴って九条殿へ落ち行き、かの文を奉り最期の有様を語り申し上げた。
父の政基公も母の北政所も、その嘆き限りなかった。

(應仁後記)

細川澄之の敗北と切腹についてのお話

18人間七七四年2018/08/08(水) 21:49:54.59ID:xiowr2gD
関ヶ原の合戦の後、9月24日、大阪表に徳川秀忠が大名16名を引き連れ現れ、大阪に着陣するや、
すぐに大阪城へ使いを立てた

『今回の戦乱中、伏見城にて討ち死にを遂げた鳥居元忠、松平家忠、同五左衛門三名の首を
当地に取り寄せ実検を行ったとある上は、この一乱、秀頼公の企てであるのは紛れも無い事であり、
これより攻め滅ぼさせていただく。』

この口上に大阪城中は驚愕し、秀頼の母である淀殿はこれを請けて申した

『秀頼は未だ幼年であり、一乱を企てることは申すに及ばず、首実検の事も毛利輝元、その他奉行たちの
仕業であり、秀頼の存ずる義ではない』

そう一々に詫言したため、秀忠は京へ戻った。
そこで徳川家康がこの事を聞き、
「秀頼公については赦免し、今後は御蔵70万石ほど宛行うように。」
と仰せになった。

その発言までは諸家も旗を張り立て一戦の支度をしていたが、秀頼安堵の情報が伝わると、諸手ともに
旗を治め休息した。

(駿河土産)

これはおそらく史実ではないのでしょうけど、ここでも対豊臣強硬派が秀忠で、穏健派が家康なんですね。

19人間七七四年2018/08/09(木) 06:29:43.59ID:3X1txoR3
若いのが積極で老人が慎重なのは今昔いつも同じ

20人間七七四年2018/08/09(木) 08:55:53.37ID:+mM+IPr0
天正十一年、仙石権兵衛尉秀久は讃岐の国を賜りて小豆島に来ると
引田の浦を取ってかけ持ちにし時変を考えた
安富肥前守はもとより秀吉公へ人質を出していたので土佐方へは従わず
雨瀧城をあけて小豆島へと渡っていた

秀久はまず屋島を取って城としようとしたが、山高くして益がなかった
幸いに高松城(喜岡城のこと)という良き城があり、これを攻め取らんとして
二千余人をもって取り上がり押し寄せたが
城主高松左馬助がよく守ったため抜けず、また空掘であったが数尺に切り立ち
底深い掘であったので、攻め手は蟻の如く群がったが、ついに城を攻め取ることができず引き返した
この際城中の鉄砲に当たって死んだ者が数十人あった

次に八栗が嶽の城を検察したが、険要のみにして治をなすには益がなかったため
志度の浦に戻り、結局そのまま小豆島へと帰帆した
その後仙石氏は少兵だったため、(土佐方の)香川氏・香西氏などには手向かわず
島伝いにあちらこちらに上陸し、少々の成果があった
土佐方は、高松城は国家の治道をなすべき立地であるから
久秀はまた攻め来たるだろう、加兵を入れて守らすべしとして
香西家臣唐人弾正、片山志摩守らに加え寄子百余人を指し使わし
城兵と共に二百余人をもってこれを守らせたため、城中はますます強くなった

(南海治乱記)

新居の物件探しをしてたら上手くいかず、いつの間にかゲリラ活動をする羽目になったお話
この後に引田の戦いが起こり、仙石秀久は讃岐から撤退します

21人間七七四年2018/08/09(木) 10:50:39.07ID:8eEbnfec
(江口の戦い敗戦後)

天文18年(1549)11月26日より、将軍大御所(足利義晴)は御病気となる。
上池院法印紹弼が御薬を調進し奉る。

12月4日、御所御快気により伊勢国の住人・加多兵庫助教員が所持する竟花と号する
大鷹を、彦部雅楽頭晴直をもって召され長等山で御狩をされた。近衛准后父子、細川家
以下が供奉し、三井の衆徒ら多くが出迎え夜に入って御帰りとなった。

浅井久政は進藤山城守貞治に語って曰く、「将軍家の様子を見るに、武の御器量は甚だ
少なし。伊勢の加多が秘蔵する鷹を召して御慰みとなさるのは、今なさることではない。

ただ義士を集めて武林のもとに慰みなされば、何ともなく御運も開かれるであろう。
人はその作用に疎き時、必ず家を失うものぞ。

将軍家は和歌に達しなさるよりも武に達しなされば、まことに先祖の大功もおのずから
輝かせなさることだろう」とのことであった。

同21日よりまた将軍大御所は御病気となる。今度は片岡大和守晴親が御薬を奉った。

19年正月5日より、足に腫気があり、また上池院が御薬を奉った。同8日には山徒
正覚房法印の勧めによって御近習12人が登山して、中堂まで千度巡礼を行った。

久政はこれを聞いて曰く「人は必ず滅びんとする時に、まず空しく物事にかかって内に
留まらない。よって物を頼むのだ。これが前触れである。

鬼神には常に祈るもので事に臨み祈るべきものではない。ああ、将軍家が他界されれば
三好が時を得て、天下は三好のものとなるであろう。

これは武将の勤めてはならぬ過ちである。自己の神明を磨き出す人は希であるから、
皆々がこのようなものである」と言ったのだという。

――『浅井日記』

22人間七七四年2018/08/09(木) 12:49:16.17ID:A88EkG0V
久政は莫迦息子と違って名君であったか

23人間七七四年2018/08/10(金) 16:54:32.36ID:Wo/D1KX8
天分22年(1553)正月3日、六角義秀朝臣が元三会を勤行された。精進代
雞足院導賀、浅井久政が代官として登山した。

7月28日、将軍家(足利義輝)の許容により、前右京大夫晴元父子が上洛した。
これは佐々木左京大夫義賢(六角義賢)があらかじめ申しなしたからである。

久政はこれを嘆いて「ああ、これは乱のもとか。今の武将(将軍)は有名無実なり。
足利家の滅亡はほとんど近きものとなった」と言った。

8月朔日、三好長慶は前の右京大夫晴元父子が許されて上洛したと聞き、摂津・
河内両国の兵2万余人を引き連れて上洛した。将軍家は防戦に

及ばず、京都を去って丹波国山国に下りなさった。同13日、義藤公(義輝)は
勅命により上洛された。

――『浅井日記』

浅井日記は久政を悪く描いてないのは面白いけど六角義秀がバンバン出てくるし、
久政隠居もスルーされててうーんとなる。

24人間七七四年2018/08/10(金) 17:58:55.02ID:knCl25iW
存在してると都合が悪いから抹消されたんだろうな
秀吉に

25人間七七四年2018/08/10(金) 18:59:07.54ID:1tByHFeu
>>24
つまらん。ありえん。

26人間七七四年2018/08/10(金) 19:22:17.15ID:RFs/7dHc
もう六角家中の人間にしか見えん

27人間七七四年2018/08/11(土) 08:33:19.76ID:pvd4tFcp
天正十三年四月、宇喜多秀家備前美作の兵一万五千
蜂須賀彦右衛門尉正勝、黒田官兵衛尉孝高を検使とし
仙石權兵衞尉秀久、尾藤甚右衛門尉知定
杉原七郎左衛門尉家次、小西弥九郎行長、共に七人の兵将二万三千人をもって讃州に発向した
四月二十六日に屋島の浦に到着し、北の峯に旗を押し上げると
国中の人民これを見て騒動すること言うばかりもなかった

ところが北の峯は分内狭迫にして兵を留めるのが難しく、そのため南の峯へと移ったが
この山も上代の名城なれど山高くして戦さをなすには用がなく
其の日下山して牟礼高松に上った

さてここに喜岡城という小城があり、高松氏世々の居城であった
香西伊賀守の旗下なれば、加番として唐人弾正、片山志摩守を兵将として百余人指し使し
高松左馬助配下の百余人と共に、二百余人をもって城を守っていた
この城は去年仙石秀久、小西弥九郎らが二千余人をもって攻めれども
堅城なれば落とすことができず、この度四国の手先に在って大軍の馬蹄にかかる事となった

秀吉公の御目代黒田孝高が宇喜多秀家に向かって曰く
「小塁(小城)あり、この度の手始めなれば、踏み落として然るべし
高松山の松を切り寄せ、これをもって堀を埋め上げ足場とし
一時攻めに陥とし国人の聴を驚かすべし」とて全軍に下知されたが
仙石氏これを聞き
「これは我が去年攻め残したる城なれば、他人の手にかけさせるべからず!」として勝手に攻め寄せた
このため攻め具を待たずに、総軍相争って蟻の如く城に取り付く有様となり、この時死ぬ者が多かった

城内にも鉄砲百挺ばかりあったが、敵兵二万余が天地を響かせ攻め寄せると
掘塀堅固とはいえ、猛勢に切所なければ、大軍がいやが上にも重なり
何の造作もなく落城し、二百余人の者ども一人も漏らさず攻め殺された

(南海治乱記)

28人間七七四年2018/08/11(土) 15:23:21.09ID:ZG86LWeA
天文21年(1552)2月26日、細川二郎氏綱とその弟・藤賢が摂津より上洛し、
三好長慶が供奉、翌日に将軍・義藤公(足利義輝)に謁見した。

3月11日、細川氏綱は右京大夫に任じられ管領に補任された。弟の藤賢は右馬頭に
任じられる。時に三好長慶、天下の権を執る。

この時、三好の家人・松永弾正忠久秀は、長慶の長男・義長(義興)の乳母と嫁して
諸事を沙汰した。その奢りは甚だし。長慶はこの松永を京都に留めて万事を下知した。

松永は西岡の凡下の者であったが方々に移り変わり、終いに三好に仕えるに至って
内縁に懸かることはこの如し。

6月10日、越前国主・朝倉左近将監延景が上洛し、将軍家(義輝)に謁見した。
延景は偏諱を賜って義景と号した。

義景は実は近江佐々木の管領・佐々木氏綱朝臣(六角氏綱)の二男で、朝倉弾正忠
孝景がこれを養子とした。

7月8日、朝倉義景は帰国、この時に左衛門督に任じられ従四下に叙された。義景は
近江に滞留し、浅井下野守久政の館・小谷の城において軍事を評論した。

(久政曰く)「今の世に武道に正しき将なし。運に乗じて一旦の功ありといえども、
後代、武の亀鑑に備わるべき者なし」

義景曰く「我が武は子孫の繁栄をもたらすとしても、私自身は非道(正道ではない)
なので身を立てることはないであろう」

(今世武道に正しき将なし。運に乗じて一旦功ありといふども、後代亀鑑に備ふべき者
なしと、義景曰、夫れ吾が武は子孫の繁栄を能くすと雖も、非道にして身を立てずと。)

――『浅井日記』

291/22018/08/12(日) 12:26:16.87ID:8OW2F72Q
大永6年(1526)の頃、それまで京都は暫く静謐であったが、不意の乱が起こった。
細川家の領国である丹波国の住人、香西四郎左衛門元盛は道永禅門(細川高国)の家臣であり、かの家の
沙汰を執り行い、威勢諸人の上に立ち驕りを極めていた。
この者の弟に柳本弾正忠(賢治)という者が居た(実際には兄)。彼は若年の頃は美童であり、高国は
彼との男色にひたられ、この者を寵愛し、成人の後、今に至りて俸禄身に余り、栄耀人に超えて、
香西・柳本兄弟の権勢は並ぶ者なかった。

この頃、細川右馬頭尹賢の所領である摂州尼崎に城を築く事を、高国は諸家に命じた。細川一門一党の
人々は日夜土石を運ばせ造営の役を勤めた。香西兄弟も尼崎に下ってこの役を勤めていた所、彼らの
下部の者達が、細川尹賢の人夫と、土一貫の事について争い口論に至り、やがて双方数百人に分かれて
瓦礫を投げ合う騒動と成った。しかし他家のの人々がこれをどうにか取り扱い和平をさせて、両方を
別け隔て、尹賢の者達は城中に入り、香西の人夫は丁場へと帰った。ところが、香西方のあぶれ者の一部が、
下知を聞かず尚も居残り、戯れに城中へと石礫を投げ入れた。

しかしこの行為に細川尹賢は怒った。
「和平の上に、さらに狼藉を働くなど以ての外の奇怪である!しかしこれは香西の慮外であるから
下部の者達を咎めるべきではない。」
そう、一旦は怒りを収めたが、香西は驕りの故であろうか、その後この事について細川尹賢への陳謝が
無く、そのような事は無かったかのように接した。

これに尹賢は鬱憤を重ね「あの兄弟、日頃の驕りに加え、さらにまた今回の事があった上は、彼らを
亡き者にしなければならない。」そう考え陰謀を巡らせた。
この香西元盛は文盲不学の者であり、常々料紙14,5枚ごとに判形を押しておき、手書きの部分は
彼が召し使っていた矢野宗好という者に、かの判紙を預け置いて、諸方書通のたび毎に宗好次第に
状を書かせ、書礼を進め返した。ところがこの頃どうしたことか、この宗好は香西の命に背き牢人
していた。

これについて、尹賢はハッと思いつき、密かに宗好を招き寄せ色々と語らい、彼の元に香西の判紙が
残っていることを確認すると、そこに秘計の状を書かせた。

その内容は、細川高国の仇敵である阿波の故細川澄元の残党である三好家の者共と、香西元盛が一味している、
というものであった。香西の判形紛れも無いよう拵えさえ、尹賢はこれを密かに高国の元へ持参し
「香西の謀反紛れもありません!」
と、その偽造した書状を証拠として誠らしく言い立て讒言をした。これに高国は、心浅くも真実と
判断し、「事を起こされる前に、早急に香西を誅さねばならない!」と、尹賢と示し合わせた。

しかし、突然高国は思った
「香西元盛を誅殺すれば、弟の柳本は私に仕えることが出来なくなってしまうだろう。年来、この柳本は、
この道永(高国)が『命に変えても』と契約した仲であり、いかにも名残惜しい。」
高国は様々に思案し、漸く思いつき、柳本へ起請文を書いた

『香西を誅殺するが、彼は謀反の者であるから是非に及ばぬ次第である。しかし柳本弾正に対して、
道永は少しも異心を持っていない。」

そう心情を顕し、これを文箱へ治めた。

302/22018/08/12(日) 12:27:31.73ID:8OW2F72Q
さて、香西を討つと雖も、まずは謀反の実否を直接問い糾した上で真実ならば誅すべきと、討ち手の
者達を定めておき、大永6年7月13日、高国の館へ香西は召された。香西元盛は自分がそのような
状況に置かれているなど夢にも知らず、何の警戒もなく急ぎ高国の館へ参り、遠侍に入ると、
若殿原二人が出迎え、「太刀と刀を渡されよ」と言う。香西は少しも騒がず太刀と刀を渡し
「何事があったのだろうか」と不思議に思う体にて座っていた。

その間、暫く時刻が過ぎた。細川高国は待ちかねて「香西は遅きぞ」と言った、
これを細川尹賢は聞き間違えたふりをして、かの討ち手の二人に云った
「香西は遅いと言われた!早く斬るのだ!」
二人は即座に走り寄って香西を斬り倒し、その頸を落とした。無残と言うも愚かである。

細川高国はこれを知ると「一体どう言うことなのか!?」と驚いたが、もはや力及ばず事は済んでいた。

その後、高国よリ、あの文箱を柳本賢治の元へ遣わした。書中に
『その方の兄である香西は謀反人であるから、国家のために誅するのだ。その方に今更恨みを含む
事ではない。年来の契約は忘れていない。今後いよいよ、忠義を尽くしてほしい。私は今までと
少しも変わらず、お前を懇ろに扱う』
これを誓詞に認め言い送った。

柳本は起請文を開かないまま高国の館へ持参し、「これは勿体なき仰せです。兄の香西元盛は
逆心の罪科にて誅せられた事であり、私は少しも恨みを含んでおりません。
兄の罪科にお構いなく、前々のごとく私を召し使って頂けるとのこと、その御厚恩は生々世々に
報いがたいものです。この上は私に置いては、今後一層の奉公の忠を尽くして勤めます。」
そう感涙を流し宿所へ帰った。

その後、柳本は実際に努めて忠義を尽くしたため人々も感心し「流石道永禅門が年来目利きして
柳本を寵愛していたのは尤もの事だ。これほどの忠臣は世にも稀である。」
そう褒め称えたという。
(續應仁後記)

香西元盛謀殺事件のお話。だがしかし

31人間七七四年2018/08/13(月) 18:23:06.99ID:2royz9GR
酉年江戸大火(明暦の大火)前の除夜半過の時分、(久能山東照宮において)角材木を板啄に
打ち付けるような音がしたので、いずれの者も驚いた。御神前の番・相田喜左衛門と申す者は

御供所の方からと聞いて見に出ると、御供所にいた神田武兵衛と鈴木次郎三郎は神楽所の辺り
から音を聞いたとのことで、出合わせて見てみたが何ら変わった様子もなかった。

また常々御神前には鼠が多いため、御供えの餅を鼠が食べないように毎年寝ずの番をしていた
のだが、明くる正月3日の晩から突然鼠がいなくなったので火の用心をしていたところ、

18日・19日に江戸で大火事があった。以後また鼠が出るようになった。

――『東照宮御奇瑞記』

東照大権現、明暦の大火を警告するというお話。

32人間七七四年2018/08/14(火) 14:56:17.06ID:OUO9MWgw
天文14年(1545)、応仁より後、度々の兵乱によって禁中はもってのほか御不如意
となったことは、神武天皇以来なかったことである。諸卿はこれを難儀とした。

近衛殿・鷹司殿・綾小路殿・庭田殿・五辻殿・中原大外記など皆近江に下向されて佐々木
の屋形(六角氏)を頼り、観音寺城下の常楽寺・慈恩寺に寓居された。

この他の諸公家も皆国々に下ってその所縁をへつらい、末々の殿上人・地下人らは摂津・
河内・近江などの間に徘徊して民間に交わった。

また京都を御出にならない人々には、商家に身を寄せて朝夕をしのぐ人もいた。あるいは
一椀の食を求めんがために門戸に侘び立ちすれば、戦国の習いで案内・検見(斥候)の者

かと怪しみ捕らえられ、詰問の責に及ぶ人もいた。あるいは賊のために討ち殺された人の
妻子や眷属として所々に迷い行き、愁嘆のあまり淵瀬に身を投げたり、自ら湯水を断って
渇死する人もいた。その消息は中々見るに忍び難く、哀なること前代未聞なり。

――『浅井日記』

33人間七七四年2018/08/14(火) 18:07:29.17ID:D5gccCUD
そういえば近年、最上義光が実は立派で良い人だったって持ち上げるの、それは別にかまわないんだけど、
山形県民の敬愛する・・とか捏造するのやめにしない?
あれは「山形市」の武将だからね?

なにしろ山形県内の四つの地方のうち、二つは最上家改易のおかげで成立した城下町(庄内藩・新庄藩)が中心だし、
もう一つは上杉家米沢藩だし

山形市周辺も同じく最上氏改易で成立した小藩がもとになってたり、最上義光に謀殺された地元武将を顕彰してたりするしね

意図的に貶める向きが山形市内であった過去から見直しが入るのは結構なことだが、やっぱり山形市以外はほぼ関係ないんですよ

34人間七七四年2018/08/14(火) 18:45:24.81ID:Ioyalr+m
市政ではなくて、県政を牛耳っていた人が山形市や山形県を巻き込んで引き起こしたんじゃないの?
その揺り戻しみたいなもんだからしばらくは仕方ないんじゃないの

35人間七七四年2018/08/14(火) 19:22:03.55ID:LLqe/t6I
米沢なんて伊達の後上杉の城下町だから最上推す要素一つもないという

36人間七七四年2018/08/14(火) 19:45:02.61ID:Uspq/7hs
>>33
突然どうした?

37人間七七四年2018/08/17(金) 17:52:36.93ID:VKMa4Eze
>>33
広島とか岡山とか、かつての毛利や宇喜多と江戸期の浅野と池田の扱いはどうなってんのかね?

38人間七七四年2018/08/17(金) 19:18:48.36ID:MXVA3GZ4
>>37
岡山は知らんが広島は完全に毛利の町。福島正則とか浅野とか殆ど意識されない。元就公一色。

39人間七七四年2018/08/17(金) 19:44:48.68ID:VKMa4Eze
なんでそんなに影薄いの浅野侯爵家

40人間七七四年2018/08/17(金) 20:58:01.68ID:L5nX58Ih
>>39
そりゃ、維新の勝ち馬に乗りたいやろ…

41人間七七四年2018/08/18(土) 10:01:03.09ID:3+iYClTC
此の時に当りて元親各所にて敗北し、ついに豊臣氏に降を乞いた。
是に於て豊臣氏は秀久の功を賞して当国(讃岐)に封じた。
(この時十河存保を山田郡二万石に分封)

さて秀久は宇足津の古城を修理してここに移ったが
当時の民情穏やかならずして、互いに結党し、国主に貢納するものがなかったため
秀久は直ちにその首魁どもを捕らえてこれを煮殺した。
また香川郡安原村の民が香西伊賀守の妻女を匿っているのを知ると
ある者は磔(はりつけ)に、またある者は斬首したため、ここにおいて一国の人民皆恐怖し従った。
(香川県史)

八幡神社(安原村大字安原下字平賀)由緒
世俗では岳八幡、又は平賀八幡と称せり。
社記、香西雑記等によれば、天正年間に仙石権兵衛秀久当国に封を受け、引田より宇多津に移居した。
時に当村の百姓等乱を起こし、秀久の命に服さなかったので乱民百余名が刎せられた。
そのため里人恐怖して安住せず、離散する者がすこぶる多かった。
この時当社御神体を奉じて葛西郷に至った者達がおり、そこで小さな祠を営んだ。
これが現在の香西町平賀神社の地であると言う。

(香川県神社誌)

仙石秀久讃岐入部時の弾圧とそれによって生まれた神社のお話

42人間七七四年2018/08/18(土) 15:18:23.99ID:l4EdEMjJ
仙石の民政下手はホントひどい。小諸藩では一郡逃散される始末だし。

この辺のこと、例のマンガではなにも描かれないんだろうなぁ。

43人間七七四年2018/08/18(土) 20:47:06.20ID:307WAghu
一揆ども撫で斬りは織田時代からの伝統でしょ
移民政策を取れば万事上手くいく

44人間七七四年2018/08/19(日) 20:26:30.58ID:/lrM7d7Z
その合戦(八幡原の戦い)は時を移し、そのうちに晴信(武田信玄)の命で犀川に大綱を幾筋も
張り渡し、武田本陣の大勢はその綱に取り付いて向かいの岸に上がり、大野の蘆萩の茂る中の

細道より旗・指物を伏せて忍び出て、謙信(上杉謙信)の本陣へと鬨の声を上げて切り入った。
このため越後勢の謙信本陣は一度にどっと敗軍したので、武田方は勝ちに乗って追い打ちした。

晴信が勇み喜んで旗を進められたところに、大塚村に備を立て申していた越後勢の宇佐美駿河守
定行2千ほどの勢が横槍に突き掛かり、晴信本陣を御幣川へ追い入れた。

そこへ越後の侍・渡部越中守翔5百余勢が馳せ付けて晴信本陣へ切って掛かり、宇佐美駿河守と
揉み合い信玄本陣を立ち挟んで討ち取り申した。武田の人馬は河水に流れる輩、または討たれる
者と数知れず。謙信本陣勢も取って返し、晴信本陣を討ち取り申した。

越後方の上条弥五郎義春・長尾七郎・元井日向守・沼掃部・小田切治部・北条丹後守・山本寺
宮千代・青川十郎・安田掃部以下も政虎(謙信)同様に御幣川へ乗り込み、槍を合わせて

太刀打ち・高名をなした。その他手柄の侍は多く、また討死の者も多かった。信玄も30騎ほど
で川を渡り引き退いたところを、謙信は川中へ乗り込んで信玄を二太刀切り付け申した。

信玄も太刀を合わせて戦い申されたところで、近習の武田の侍たちが謙信を中に取り込めたが、
謙信は切り払って中々近付くこともできない様子であった。

そのうちに信玄と謙信は間切れ致して押し隔てられた。その時、謙信へ掛かった武田近習の侍
19人が切り付けられた。

謙信は人間の挙動ではなく、まさに鬼神であったという。
(謙信は、人間の挙動にてなく、唯鬼神にて候と申候。)

その折はまさか謙信とは知らず、甲州方では越後侍の荒川伊豆守(長実)であると取り沙汰され
ていた。後に政虎と分かり「討ち止めるべきものを、なんとも残念だ」と皆々が申したという。

信玄は御幣川を渡って生萱山土口を目指し、先陣と後陣がひとつになって敗軍した。甲州勢は
塩崎の方へ逃げる者もあり、また海津の城へ逃げ入る者もいた。

中条越前(藤資)は小荷駄を警固していたところへ、塩崎の百姓数千人がくり出して小荷駄を
奪うため、中条はこれを切り払い散々に戦った。

この時、上杉・武田の両軍は入り乱れて散々に戦ったので、敵・味方の手負い・死人は数知れず。
信玄は敗軍して土口と申す山へ退き申され、上杉勢は追い詰めて土口で甲州方数百人が討たれた。

――『川中島五箇度合戦之次第』

「あいつ人間じゃねえ!」と言わしめた上杉謙信の武勇

45人間七七四年2018/08/21(火) 15:28:31.73ID:e2ACyTJw
甲斐・越後の軍兵たちは互いに名乗り合い、火花を散らして戦い申した。

その中で真田弾正幸隆は傷を負って引き退くところを、上杉方の高梨源五郎頼治が名乗りを
上げ、真田とむずと組んで押し伏せ、鎧の脇板の隙間を二刀刺し申した。

そのうちに保科弾正(正俊)が取って返し、「真田討たすな兵ども!」と言って戦い申した。

真田の家人・細屋彦助は下に合わせ高梨源五郎の草摺の外れ、膝の上より討ち落とし、主の
敵を取った。これより保科を“槍弾正”と申したという。

保科もその時に越後方の大将に取り籠められ、すでに危うく見えたところを後詰の侍の海野・
望月・矢代・須田・井上・根津・河田・仁科ら9人の侍がこれを見て「保科討たすな人々!」

と大勢で一度に鬨を揚げ追い散らし、越後の本陣近きところまで切り掛かり申した。そこを
越後の後詰の陣所より斎藤下野守朝信・柿崎和泉守景家・北条安芸守・毛利上総介・

大関安房守ら3千余勢が鬨の声を揚げて切り出て、追い返し押し戻し戦い申した。敵・味方
の手負い・死人、算を乱して数を知らず。

謙信も紺地に日の丸、白地に“毘”の字の旗2本を押し立てて原の町に備を立てられた。

――『川中島五箇度合戦之次第』

真田幸隆、危機一髪

46人間七七四年2018/08/22(水) 09:19:26.55ID:OFF1GAII
高梨頼治って
真田信繁の傅役の高梨内記の兄説があるようだけど
この逸話を見ると無理があるような

47人間七七四年2018/08/23(木) 15:28:47.99ID:9WnDNqbg
信玄の弟・武田左馬助信繁は70騎で後詰の陣より馳せ来たり、信玄が手負い申されたと聞いて
その仇を討ち止め申すべしと、仇を探された。

その時、謙信は川の向こう岸へ着かれ、左馬助は大音を揚げて「そこへ引き取り申されるのは
大将・政虎(謙信)と見受けた! 私は武田左馬助である! 兄の当の敵なので勝負なされよ!」

と申された。謙信は乗り戻すと「私は政虎の郎等・甘粕近江守(景持)と申す者である! 貴殿の
敵には不足であろう!」と申し捨てて、川岸に乗り上がった。

左馬助は主従11騎で打ち濡れて川を渡り申した。謙信は川岸に馬を立てて待ち受けた。

左馬助は左右を睨み「敵は一騎であるので信繁も一騎で勝負する! 皆々後ろへ下がるように!」
と命じて真っ先に渡ったところを、政虎は河へ馬を乗り入れて左馬助と切り結んだ。

左馬助は運尽きて左の高股を打ち落とされ、川へ逆様に落ち入った。

謙信は向こう岸に乗り上がり、宇佐美駿河守(定行)が7百余勢で備える中へ馳せ入り申された。

(原注:一説に武田左馬助信繁を討ち取ったのは村上義清であるという。上杉家では謙信が直に
左馬助を討ち取ったと申し伝えている)

――『川中島五箇度合戦之次第』

48人間七七四年2018/08/23(木) 16:45:33.30ID:kogqW73A
>>47
>私は政虎の郎等・甘粕近江守(景持)と申す者である! 貴殿の
>敵には不足であろう!
ず、ずるい…wまあ兵法にずるいも何もないけど。

49人間七七四年2018/08/24(金) 01:51:18.15ID:k0eQsWFI
元亀元年(1570)4月27日、浅井父子とその他近江の城主らは金ヶ崎・手筒山両城ともに
降参したとの由を聞いて、信長の後ろを遮って討とうとした。信長は大いに驚いて兵を引き、

28日、朽木越えのため引き返した。越前勢は追いかけて戦い、信長はまさに討死せんとしたが、
松平三河守家康が後殿して朽木谷に差し掛かった。この時、朽木信濃守元綱は8百余騎で難所に

引き受け信長を討とうと遮った。信長は通れず、松永弾正久秀は朽木と旧好があったので松永が
まず行って朽木を頼んだ。

朽木は節義も一時の所縁も忘れてこれを許し、信長を通した。信長は虎口を逃れて京都に至った。
近江の諸士は皆、朽木に義のないことを憎んだ。浅井長政は朽木を辱めて曰く、

「元綱はなぜ馬を他門に繋ぎ肩をそばだて尾を振るのか! そもそも朽木は江州先方の士にして、
しかも佐々木家血脈の一流ではないか! その業の口惜しきことよ、名字を汚した士なり!」

これに朽木は一言の返答にも及ばなかった。

――『浅井日記』

50人間七七四年2018/08/24(金) 10:15:27.32ID:c4dUWH66
きっと松永が朽木の子息を拐って手出ししないよう言い含めたのだろうな

51人間七七四年2018/08/24(金) 10:44:03.08ID:uwltokou
まとめブログの8605
草が風になびくような
>家康は
>「お前のような地位の低いものは、草が風になびくようなものであるから、深く責める必要はない。
>本領安堵はこれまでと変わらない」
>とおっしゃったので、元綱も家康の寛容さに感動し、涙を流しながら退いたそうだ。

「朽木越えの時は助かった」とでも言えば家康の株はもっと上がっただろうに

52人間七七四年2018/08/24(金) 21:26:17.80ID:R8yzVX6v
赤座、小川「…」

53人間七七四年2018/08/25(土) 12:09:54.01ID:wY6mtzYB
>>51
王者は誰にも頭を下げないし、例え黒であっても白と言い切り白と認めさせねばならないのだよ

54人間七七四年2018/08/25(土) 20:59:44.46ID:lVWyYuvh
>>47
あの上杉謙信が私は別人の下郎ですよとかしれっと虚言で誤魔化そうとするとか
話として面白すぎる
まぁ11対1を1対1に持ち込んだ上に勝って悠々退却したといえば武略ではあるのだが
…あるのだが草生える

55人間七七四年2018/08/26(日) 09:32:55.76ID:Ak7DzSzb
>>51
家康は取り残されてたから朽木越えしてねえよ。
秀吉と一緒に普通に撤退だ。

56人間七七四年2018/08/26(日) 18:32:10.13ID:23LKJVS7
天正も5年(1577)丁丑にうつり、織田信長卿は去年の11月に大納言より内大臣に登られ、
威勢はますます盛んとなった。このため甲斐武田方では、いよいよ北条を頼まんと、

一昨年の結縁の後、常々小田原に使者を送り氏政を尊敬することは大方ならず、とにかく妹君と
一日も早く婚儀を行うことを急いだ。氏政も縁組のことを約束しながら織田家を憚ったのか、

今年まで延滞していたのだが武田方よりしきりに催促もしがたく、今年正月下旬に至って小田原
より輿入れとなった。早野内匠助・清水又八郎・剣持与左衛門が輿添として参った。

勝頼は婚儀を滞りなく行い、両家合体の盟約は定まったため甲斐でも相模でも喜ぶこと限りなし。

その中でも高坂弾正(昌信)は「長篠より3年この方、今夜初めて心安く寝入ったのは小田原より
御輿入りとなったゆえぞ」と喜んだ。弾正は「とにかく武田家の長久を思えば、このうえは謙信

とも和睦して御入魂あらば、いよいよ頼もしく安心でありましょう」と諫めたのだが、勝頼は血気
の猛将で人に遜順することを好まず、長坂・跡部両奸臣は弾正の諫めが行われれば我々の身の上が

危ういと思い、とかく高坂のことを讒言し妨げたので高坂の忠言も空しく用いられなかった。国中
の士民は一同に長坂・跡部を憎まぬ者はいなかった。

――『改正三河後風土記(甲陽軍鑑・武徳編年集成)』

57人間七七四年2018/08/26(日) 19:32:21.87ID:Z2N5Ltql
軍鑑は嘘っぱちだからなあ

58人間七七四年2018/08/27(月) 01:35:48.43ID:J6YW16a4
大上段に嘘っぱちと切り捨てるのももはや古い見方だけどな
とはいえ勝頼跡部長坂辺りの事績は大概信用度低い記述だけど

59人間七七四年2018/08/27(月) 18:26:37.59ID:FERgEUgq
甲陽軍鑑の史料としての評価について詳しく出ているので読んでおくといい

創られた“軍師”山本勘助 丸島 和洋
第2回 見直された『甲陽軍鑑』
http://kaze.shinshomap.info/series/kansuke/02.html

60人間七七四年2018/08/27(月) 19:15:57.07ID:R3lRzHIU
>>59
>『甲陽軍鑑』同士の比較検討が重要となるのだが、信頼できないという色眼鏡が存在したために、
>このような地道で手間のかかる作業には手がつけられていなかった。
ほー、まだまだ研究の余地がありそうだな、国がやってくれれば…ってそんな金はないか。

61人間七七四年2018/08/28(火) 07:01:04.62ID:GowozpsS
じゃあお前が独りでやっとけよ

62人間七七四年2018/08/28(火) 08:09:16.13ID:8OTbo6hr
なにをすねてるんだ?

63人間七七四年2018/08/28(火) 10:12:49.07ID:67sGtWik
>>62
色眼鏡おつ

64人間七七四年2018/08/28(火) 13:59:54.23ID:JVmjndk4
袋叩きから再評価は歴史学のお約束
目立ちたい学者や作家が無責任に変なこと言い出すのが困る

65人間七七四年2018/08/28(火) 15:10:45.17ID:xpYgg4E/
なので武功夜話が一級資料に返り咲く日も近いわけだ

66人間七七四年2018/08/28(火) 15:17:44.99ID:AIzY42hF
>>65
ありゃ明らかな創作やん…。

まあ、世の中には東日流外三郡誌を真書と認めないと迫害した史学会の重鎮とか
いたりしたから、あからさまな偽書・創作でも評価する輩は出るけどさ。

67人間七七四年2018/08/30(木) 20:28:08.07ID:fWfpQ1LT
甲陽軍鑑は創作だこれって10年前にいい悪いスレで見たぞ

68人間七七四年2018/08/30(木) 20:53:07.73ID:ItPA1KAf
>>67
その10年間で研究が進んだ

69人間七七四年2018/08/30(木) 21:26:13.55ID:vtjT338y
評価してもいい部分もあるんじゃってのが近年の流れだっけ?

70人間七七四年2018/08/30(木) 23:45:46.02ID:3ekIDmZ7
信頼できる史料だからとすべて信用するのが間違い
逆もまた然り

71人間七七四年2018/08/31(金) 00:35:09.34ID:uGdurO6l
江源武鑑「せやせや」

72人間七七四年2018/08/31(金) 17:31:47.56ID:v6XsZjyq
>>66
>東日流外三郡誌
だってあからさまな偽書だもん

73人間七七四年2018/08/31(金) 22:38:32.64ID:yRAEZnKq
>>72
さてはお前、古田一派だな…

74人間七七四年2018/09/01(土) 00:48:48.81ID:e1VXTpUJ
偽書って言ってるから違うんじゃ

75人間七七四年2018/09/01(土) 02:23:17.54ID:raZtNnU0
秀吉の義兵は3万余騎と聞こえ、光秀の狼狽は大変なものであった。丹波亀山の居城を一子・十兵衛光慶に
守らせ安土は明智左馬助に、佐和山は荒木山城(氏綱)に守らせて淀城は修築半ばにして洞ヶ峠まで出張し、

二男の阿古丸といって12歳の者を2度大和の筒井へ送り援兵を請うもやって来ないため、光秀は大いに
恨み嘆いた。味方に来たらずして叶わぬ長岡与一(細川藤孝)も筒井順慶も心を変じてやっては来ない。

織田七兵衛(津田信澄)は討たれ、徳川殿は伊賀路を経て帰りなさると推量しなにとぞ徳川殿を討って来た
者には士農工商の差別なく恩賞をその望みに任せるとその道々へ触れ流し、きっと一揆が取り籠めて

討ち止めるだろうと思ったが、思いのほか討ちもらして捨て置いても害にもならぬ穴山梅雪を討ち殺した。
よもや急には打って上るまいと思った羽柴は大軍、しかも食い止めるか討って上るかと思う毛利も加勢して

羽柴は早くも摂津を打ち立ったと聞こえた。イスカの嘴、このようにまで物事に齟齬が生じたことを光秀は
「ああ天なるかな!」と空を仰いで嘆息し、悔やんで泣きに泣いた。

――『改正三河後風土記』

76人間七七四年2018/09/01(土) 13:55:32.52ID:EcywMg4w
イスカの嘴
「ああ天なるかな!」

ラノベでありそう(小並感)

77人間七七四年2018/09/02(日) 10:07:52.81ID:QJT0qNQx
長篠の合戦の時、徳川家康勢が多田新蔵を生け捕った。下帯が赤地の唐錦であったため、
「お主は只者ではないな、名を名乗るべし」と問うたが名乗らず、
「ならば雑人の手にかけ殺す。名を名乗るならば切腹を許す。」
そう申した所

「父は若き時分は多田三八郎、この頃では淡路守と云う者の倅である。」

と、答えた。これは只者ではないとのことで、身柄を織田信長の元へと遣わせた。
信長は彼を直に召し出し

「淡路守の子に久蔵新蔵という両人があると聞いた。汝は何れぞ」

「新蔵也」

「名のある武士であるから命を助ける」

「既に縄目の恥の及び候へば、ただ速やかに頸を刎ねられることこそ辱し」

しかし信長は「縄を解け」と、信長の前で小手から縄を切り落とした。

新蔵はそのまま門の外に出たが、そこに長柄の鑓が立てかけてあったのを取ると、
そのあたりの雑人二人ばかりを突き殺し、これによって近くに居た兵士たちが集まり
取り囲んで、新蔵を斬り殺した。

信長はこれを聞くと
「惜しき事をした。そのまま雑人を4,5人も突き殺させておけばよかったのだ。
あたら侍をおのれらが不功者故に失ってしまった」と言ったという。

多田淡路守は信玄の時75人の足軽を預かり、足軽大将の内では、「小幡山城・多田淡路・山本菅助」と
並び称されたという。

久蔵は武田滅亡の折、勝頼に従い田野にて討ち死にした。

(士談)

78人間七七四年2018/09/02(日) 12:56:20.72ID:YioYpOEF
>>77
主家が滅んでる以上どうしようもなかったろうな…。巻き添えの雑人カワイソス(´・ω・`)

79人間七七四年2018/09/02(日) 13:03:08.47ID:MbPSOSiK
>>77
花の慶次にこんな場面あったな

80人間七七四年2018/09/02(日) 18:41:25.70ID:qGog6piQ
>>77
山本菅助は原文ママ?

81人間七七四年2018/09/02(日) 21:45:03.64ID:lJxe7x5m
>新蔵はそのまま門の外に出たが、そこに長柄の鑓が立てかけてあったのを取ると、
>そのあたりの雑人二人ばかりを突き殺し、

雑人って門番かな?

82人間七七四年2018/09/03(月) 01:12:39.68ID:FdLkwMdD
いきなり下帯ってことは捕まった時に全部脱いでたんだな

83人間七七四年2018/09/03(月) 11:32:09.16ID:r4ov/e1/
>そのまま雑人を4,5人も突き殺させておけばよかったのだ。


雑人の命軽すぎて泣いた

84人間七七四年2018/09/03(月) 14:34:26.79ID:XvPMkh4u
御当家(徳川家)三河岡崎御居城の贈大納言広忠卿(松平広忠)の御時より、正月2日に御一族と国士衆の
御礼次第を定めて左右に着座を分けた。着座の一番は鵜殿八郎三郎康定、二番は西郷孫九郎家員、

三番は形原の紀伊守家忠、四番は大給の松平和泉守親乗、五番は桜井の松平内膳正信定と東条の松平右京亮
義春の両人が隔年で1人ずつ着座した。先年信定・義春は兄弟なので信定の次に

義春が着座したのだが、信定が度々御敵となった後は降参しても兄弟はとかく不快の仲だったので毎度座班
を争うため、それより日を変えて出仕することとなったのである。(原注:大久保物語)

義春の病死後、甚太郎家忠(忠茂)の時その家老・松平右近忠次は「桜井と東条は兄弟の家筋といえど桜井
は度々叛逆し、一方で東条は二代に渡り忠義を怠らず。この事情もあるので桜井の座席を東条に下さるべし」

と願い出た。広忠卿は「その願いは道理である」と聞こし召し御許容になったので、甚太郎家忠は五番の座
と定まった。一両年が過ぎて信定は降参しその翌年正月早朝より出仕して東条家にも断らず五番座に着した。

甚太郎が出仕してみれば信定は早くも五番の座に着していた。甚太郎は気量ある者なれば何も言わず信定の
上の座に着いた。信定はこれを見て「この座は我が座なり! 甚太郎は庶子の筋でしかも私の甥ではないか!
叔父を越えて上座に着くべきではなかろう! そこ退け!」と罵った。甚太郎はからからと打ち笑い、

「不義不忠の働きをして叛逆し、ようやく只今降参した桜井と、二代まで忠勤を尽くした東条がなぜ座席を
争えようか!」と言えば、信定はいよいよ憤り「これは我が本座なり! いいから罷り立て!」と罵った。

すると東条の家老・松井左近(忠次。のち松平康親)が進み出て、「信定の仰ることはまったく心得ませぬ。
この座席は東条二代の忠義によって広忠卿が下された甚太郎の座席であります。それほどこの席が欲しくば、

どうして度々叛逆不義の働きを振舞われたのか! 降参した不義者が忠義無二の東条家の席を奪うなど叶い
ませぬぞ!」と罵った。信定は言葉に詰まってますます怒り、刀に手をかけ松井左近を討ち果たそうとした。

甚太郎と左近も一緒になって信定を討とうとし双方闘争に及ばんとした。ここに至り一座の面々はようやく
双方を抑留し、信定を追い返して甚太郎が本座で御礼した。その後、御一族の面々も様々に甚太郎を

申し宥めて、広忠卿も御内意ありそれ以来、両人は隔年で出座すべしと定まった。六番は長沢の松平上野介
康高。この康高は初め竹谷の松平・御油の松平より下座だったが、広忠卿の妹君と夫婦だったのでその上に
座することと定められた。康高が亡くなった後にこの妹君は酒井忠次に嫁ぎなさった。

七番は竹谷の松平玄蕃頭親善、八番は御油の松平外記景忠、九番は深溝松平主殿助家忠、十番は二連木の
松平丹波守康長。これは元来戸田氏だが、忠勤によって松平を賜ったものである。

これより以下の群参の御礼衆は数多なれば漏らした。

――『改正三河後風土記』

85人間七七四年2018/09/04(火) 06:42:27.78ID:NGVt5dhV
天正2年、織田信長による長島の凶徒退治の時、貴族(信長の一族)多く討ち死にした。
その中に津田市助信成(織田信成)もあった。

信成の乳母人に小瀬三郎次郎清長という者が居たが、彼はこの時体調を崩し、陣屋に伏して
治療養生を受けていたが、信成討死と聞くと、物の具を着けて打ち出ようとした。
彼の郎従たちは「このように所労甚だしいのです、どうかお止めください!」と止めたが

「幾程命伸びた所で!」

そう言い捨て「何れの軍勢が信成を討ったのか」と問うと、振り返りもせずそこへ駆け入り、
馬を乗り放ちて敵5,6人を切り伏せ、自身もずたずたに成って討ち死にした。(我身もずたずたになりて打死す)

この小瀬は織田造酒丞の嫡男であったが、小瀬三右衛門尉の養子として家を継ぎ、尾張春日井郡小幡郷にて
五百貫を領していたが、極めて貧しかった。
その頃、柴田勝家が江州蒲生郡を領しており、「三千貫を参らせるほどに柴田をたのまれよ」と
彼の寄騎になることを誘われたが、

「代々市助家の家臣であり、どうして禄が豊かだからといって他に忠を成すでしょうか」

そう固く断り義を失わず、ついに戦死の功を顕した。

(士談)

86人間七七四年2018/09/04(火) 16:18:14.14ID:yCWOoY3D
信長の弟が生きてたらまた違った歴史になってたな
特に信與は有能だった、一番信長に愛された弟だった

87人間七七四年2018/09/04(火) 19:58:09.57ID:x9YLxTBS
一番信長を苦しめたのが一揆勢というのが面白い。

88人間七七四年2018/09/04(火) 23:29:30.08ID:NGVt5dhV
天正2年の長島攻めの事、織田軍の荒川新八郎は度々駆け合い、何度も敵を突き退けたため、
非常に疲労しある堤に腰を掛け休息した。そして喉が渇いたため堤より下りて水を手で汲んで
飲んだ所、彼の兜の前立てに付けられていた『運は天に在り、生死は定まる』という文字が
水鏡に鮮やかに映った。

これを見て新八郎は一際心も励み、気も猛くなりて、また取って返し敵陣に駆け入り、比類なき
働きをして討ち死にした。

この時、休息してそのまま引いていれば、命に別状無かっただろう。しかし日頃の志を印として
付けていたため、これを感じこのように剛操な行為を行ったのである。

そして彼のような勇猛な働きが有ったが故に、長島は陥落し、北伊勢五郡を副えて滝川一益へ「
与えられたのだ。

(士談)

89人間七七四年2018/09/05(水) 05:04:27.82ID:NdrGecMC
最後が消えてる

90人間七七四年2018/09/05(水) 14:25:45.77ID:FXDdffr9
>>88
投稿者です。下から2行目の「 は入力ミスです。申し訳ない

91人間七七四年2018/09/05(水) 15:57:05.24ID:u9h/GRwu
信長の弟、一向一揆とのだから戦いで死にまくってるよな。
なのに信長は顕如が降伏してきたら、あっさり許してるし。
信長ってイケメンキャラだよな。

92人間七七四年2018/09/05(水) 20:56:23.57ID:MWzlI9b3
信長に家族愛とか一族愛とかあったのだろうか。
家臣や領民を労わったり情を示す話はいくらかあるが、一族に対しては聞いたことがない。
息子にすら、思いつきで変な名前つけるくらいだし。

93人間七七四年2018/09/05(水) 21:07:21.63ID:VF4CIbvP
長島一向一揆で弟殺した一向勢皆殺しとか?

94人間七七四年2018/09/05(水) 21:10:53.91ID:G228q1j6
>>92
なんだかんだ、一族をそれなりには重用したよ。

95人間七七四年2018/09/05(水) 22:34:52.10ID:1WbwG0Kh
>>92
反抗した義兄と弟は一度は許してるね

96人間七七四年2018/09/05(水) 23:24:33.42ID:V05fc2qi
あの時代武士の子なんて親兄弟とは大して会わないからそんなに親愛の情もないだろ
恒興とかの方が関係深そう

97人間七七四年2018/09/06(木) 07:40:35.46ID:4nhJDA70
織田有楽の子、河内守(長孝)の所へ出入りする浪人に鈴木道休という者があり、彼は以前には
侍の役も勤めた者にして、大名貴人であっても侮らせないものがあった。

或る時、河内守の所にて人々寄り合い咄の有った時、河内守弟の左門(頼長)が鼓を鳴らした。
道休はそれを褒めたのだが、その褒め方が気に入らなかったのか、左門は鼓を道休に投げつけた。

道休もさしもの者故、その場にて左門を討ち果たそうとしたが、大勢が押し留めあつかいとなり、
その場は治められた。

道休はこの時不首尾に終わったため、返報の機会を待っていたが、その冬、大阪冬の陣が起こった。
織田左門は大阪城へ向かい、道休はこれをつけた。しかし左門は大名故に、道中で襲撃すること
叶わなかった。ここに於いて道休は思い究めた

「私は既に年老いている。もはや左門を討つ機会はないだろう。明日は左門が城中に入ってしまう
以上、一生の期はここにあり!」

そう言って、枚方において切腹した。

その後、織田左門はどう思ったのか、無頼漢と成り、冬の間城中に於いて戯け者となって、牛の角に
金銀の箔を貼り、自身はその牛に乗り、遊女にその牛を引かせるなどした。故に城より追い出され、
左門は入道して雲生寺と号して、武士を止めたという。

(士談)

98人間七七四年2018/09/06(木) 10:15:29.07ID:Ww/zjHKh
かぶいてるな

99人間七七四年2018/09/06(木) 18:07:05.93ID:iW3ksRbv
誠に愁嘆止む時無く


小牧・長久手の戦いで、池田恒興と嫡男の元助を始め家臣二十余人が戦死した。
(『池田家履歴略記』では親子の討死をうけ、周囲にいた家臣が切腹したとする。)
家督を継いだ輝政は、戦死した臼井藤丸の父親に書状を送っている。


去る四月九日、尾州合戦の節に父子始め家人二十余人が戦死し
藤丸もその中にあったこと、愁傷お察し致します。
私も父子の最期の次第がありましたので、察して下さいますように。
(後略)

五月三日      照政
               臼井一心老人


以上の書状は、池田輝政の確認されている発給文書の中で最古のもの。
父親の臼井一心は59歳、藤丸は一心の次男で25歳だった。
一心は同年の夏に、藤丸の肖像画と共にその上部に書付を残している。


池田勝入公・元助公に随い、尾陽において天正十二年甲申四月九日戦死。
御両君はじめ廿余人の討死を聞き及び、誠に愁嘆止む時無く、かなしみの余り
愚息が幼像を画して忌日に懸け、香華を手向け、法華を読誦し畢んぬ。


臼井家の子孫は後に鳥取藩士となったため、この書状と肖像画は
臼井家に伝来する資料として、現在は鳥取県立博物館に所蔵されている。

100人間七七四年2018/09/08(土) 07:58:29.66ID:2tdKSWZ8
>>92
息子の名前についてはありきたりな名前で無い所に
信長なりの愛情を感じないでも無いかな
信雄の伊賀のやらかしで思いっきりブチキレこそしたけど
実際に縁切りや処罰までは至ってないし

101人間七七四年2018/09/08(土) 10:03:17.08ID:P3EW1Rpx
>>92
家族親族に甘々で有名なんですが?

102人間七七四年2018/09/08(土) 21:09:29.99ID:1AT/Wywy
安中重繁

上野国安中城主。当初山内上杉家、後に甲斐武田氏に仕える。

…とこれだけだと一見ただの戦国武将だが、よく見てほしい。
この武将の名前、読みは『しげしげ』である。

103人間七七四年2018/09/08(土) 22:02:42.28ID:WGJWmIHs

104人間七七四年2018/09/09(日) 06:54:02.22ID:ecWFEVIE
織田殿の命を受けて甲信の諸城を守った諸士は皆々城を捨てて上洛すればその昔信玄に滅ぼされた諏訪頼重
の伯父・新太郎満隣の子・小太郎頼忠は旧好の家人を催して諏訪郡に押し入り高島城を乗っ取って20余年
の蟄懐を開いた。

信玄のため追い出された小笠原長時の弟・洞雪斎も上杉景勝の助けを得て深志城に還入し、川中島の旧領主・
村上信濃守義清の子・源吾国清(山浦国清)も越後より勢を催して、景勝の扶助で川中島を領略した。

(中略)

一揆の首長・大村三右衛門は誅に伏すといえども甲斐は未だ穏やかならず、所々に悪徒蜂起の聞こえあり。
これを静謐ならしめよとの仰せを蒙り、大久保七郎衛門忠世は甲斐に赴き上口に陣した。

石川長門守康通・本多豊後守広孝とその子の彦次郎康重・岡部次郎右衛門正綱らも同じく赴く。忠世は康通・
正綱らと議して佐久郡諏訪に赴き、諏訪小太郎頼忠を説諭して御味方となす。また大草左近知久・大和頼元、
同じく式部頼氏・下条らも同じく帰順せしめたのであった。

(中略)

14日に酒井左衛門尉忠次に信濃一円を賜り、忠次は東三河の勢を引き連れて伊奈口より諏訪に至り、諏訪
小太郎頼忠方へ使者を立てて「信州一円は某が拝領したので、これからは我が下知に従うべし」との由を

申し送った。頼忠は大いに怒って、「私は大久保忠世の勧めによってこそ徳川殿に従ったのだ。どうして
忠次の下知を守ろうか!」とたちまち敵の色をあらわし、高島に籠城して矢石を飛ばし忠次らを拒んだ。

忠次は高島城を取り囲んで東三河勢をもって攻めるも頼忠はまったく雌伏せず、その国人も多くが忠次の
下知に従わずに北条へ内通せんと見える由が聞こえたので、

忠次の信濃所領のことは停廃なされ(原注:武徳編年集成)、なおも忠次ならびに東三河勢をもって高島城
を囲ませ攻めさせられた。24日、城兵が松平又七郎家信の陣に夜討した。家信はわずかに13歳。

武田の家人が多かったのでよく戦って敵を退けた。26日、松平主殿助家忠は兵を偽って引き出し伏兵を
設けて多くの者を討ち取った。(原注:家忠日記・武徳編年集成)

(中略)

8月朔日(1582年)、北条氏直は甲斐を攻め取るために、4万余の人数で信濃海野口より甲斐若御子へ
発向せんと信濃役行者に出て梶ヶ原まで着陣した。この由が徳川家御本陣に聞こえて、高島城攻めに参った
酒井忠次以下の輩は皆白須まで引き返しせしめた。

3日、忠次ならびに大久保忠世・本多広孝・大須賀康高・石川康通・岡部正綱らは、乙骨(原注:武徳編年
集成に音骨)まで着陣した。この時までも氏直の大軍が間近の梶ヶ原にいるとはまったく知らなかった。

大久保の家人・石上兎角之助という者が6日夕に佐久郡蘆田小屋八ヶ嶽の方より来たり、この由を告げた。
諸将は大いに驚き、この地の庄司太郎左衛門は忠世が常に諸事用達をさせた者だったので、この者を見に

遣したところ、向かいの草木茂る中に敵が充満していた。「追い付けてここへ来ます!」との報告を受けた
諸将は、「この小勢ではどうして合戦叶おうか。しかし、夜中に引き取っては追い討たれて良くないだろう。

夜明けに早々に引き取ろう」と、その夜の将卒は用意して夜明けを待った。明けて7日(原注:柏崎物語・
武徳編年集成)、すでに打ち立たんとするに及び、忠世は、「私がせっかく諏訪小太郎を味方に引き入れた

というのに、忠次がいわれざる無礼を振舞ったせいで諏訪を北条方にしてしまった。だからこのような大事
に及んでしまったのだ!」と言った。忠次は大いに怒って口論し、今日の後殿を争ったために時刻

は移って巳の刻に及んだ。敵は早くも向かいの原に押し寄せてきた。諸将はいろいろと講和して一番は酒井、
二番は大須賀、三番は石川、四番は大久保、五番は本多、六番は穴山、七番は岡部と定まった。

――『改正三河後風土記』

105人間七七四年2018/09/09(日) 15:48:09.13ID:Iume/PEe
松平康安さんの立場は

106人間七七四年2018/09/09(日) 16:07:34.25ID:CLIK4ATt
覇王伝の一字拝領を思い出した。

107人間七七四年2018/09/09(日) 18:04:43.89ID:jrybM0LQ
これまで天下のことは権現様(家康)が骨を折られて、矛先において天下を納められ、
沈毅である台徳院殿(秀忠)が御跡を継がれられここまで天下を治められてきた。
このことは唐にも日本にも稀なことであり、
その後を不肖の身であるこの私が継いだことは冥利の程にも恐ろしいことである。
これまでどうにか天下が治まるようにと朝に夕にと工夫してきたが、
あまつさえ近年は病気がちで天下の政事もうまく務められてはいない。
このことについて両御所(家康・秀忠)はどのように御思いになっているだろうかと心配になっている
だから昨日も其方(酒井忠勝)へこの思いを詳しく語って聞かせたのだ。

(小浜酒井家文書)
寛永18年(1641年)8月5日付酒井忠勝宛徳川家光御内書

108人間七七四年2018/09/09(日) 18:58:05.54ID:Iume/PEe
ちなみに康安さんの祖父は三光(みつみつ)

109人間七七四年2018/09/09(日) 19:28:33.87ID:CLIK4ATt
芳賀高孝(はが たかたか) 下野宇都宮氏の家臣。

探せばもっとあるかも。

110人間七七四年2018/09/09(日) 19:46:58.93ID:HVrjQLTb
でも、有職読みしていたことが多かったんだろうなぁ。

111人間七七四年2018/09/09(日) 19:54:49.70ID:wCzcxmWK
苗字からの名前への連続もあるぞー

三好義興、三好義継、松永長頼、三好吉房とか。

今回は関係ないが

112人間七七四年2018/09/09(日) 21:03:53.91ID:v+y1rya+
伊賀伊賀守(安藤守就)を思い出した

113人間七七四年2018/09/09(日) 21:37:18.49ID:UjsyPQ9G
秀吉「佐久間信信殿は誠に果報者でござるな。」

114人間七七四年2018/09/10(月) 01:09:34.52ID:4DrALfPI
>>110
芳賀高孝「よし、これから儂のことも有職読みで呼べい!」

はが たかたか → はが こうこう

115人間七七四年2018/09/10(月) 07:49:48.21ID:Qy5/blWy
なに有識読みしてるんだよと思ってたら普通に出家だったと言うオチもありがち

116人間七七四年2018/09/10(月) 09:46:44.12ID:DXJY70FD
天正四年(1576年)、那須家中の重臣大関高増は、大関氏の居城であった白旗城を出ると、那須宗家の居城烏山城の北方に黒羽城を築きここに入った。
この時期の那須氏は白河氏を支援して佐竹と戦う構えを見せていたが、高増は長男の晴増を白河義親の婿養子として送り込むなど
那須氏の対外政策の主導権を握っていた。
その高増が築いた黒羽城は東西を那珂川・松葉川に囲まれた丘陵の上にあり、本丸を中の丸・北の丸・三の丸にぐるりと守られた鉄壁の構えを見せており、
家中における大関氏の存在感を存分に見せつける威容を誇った…と言うか、主家の居城を遥かに凌ぐ那須最大の縄張りを持つ堅城であった。

後に大関氏は主家を出し抜いて近世大名として名を残すことになるのは周知の通りだが、
居城を見るとこの頃には既にどっちが那須の支配者なんだか分からない状態となっていた。
大関と佐竹という内患・外患に挟まれた那須資晴もたまったものではなかっただろう、という意味で悪い話。

なお黒羽藩は関東では数少ない外様大名による支配が明治まで続き、黒羽城は大関氏のシンボルとして廃藩置県まで鎮座し続けた。
一方の烏山城は天保元年(1681年)に那須氏の旧領復帰がなされたが、わずか6年後に改易されて以降二度と那須氏の手に戻ることはなかった。

117人間七七四年2018/09/10(月) 10:42:39.65ID:5szqQKC0
那須って大名に復帰できたのか…
そして改易されたのか…

118人間七七四年2018/09/10(月) 21:04:15.45ID:v1E6D+e4
>>116
大関高増の名前が出た時点中身見る前にこりゃ酷い話なんだろうな
と思ったら思ったより酷くない?と思ったのは毒されてるのかな
しかし1576時点でコレじゃ関東仕置きより前に秀吉に謁見した時の
大関一党は独立領主ですよって説明にも説得力ありすぎだな

119人間七七四年2018/09/11(火) 03:45:31.02ID:nRue5DhT
大関家って高増の息子たちの歴代当主がことごとく短命なんだよなぁ。
その下の代でも、嫡男がいなかったり幼少だったりして兄弟で家督継承する例も多いし。

120人間七七四年2018/09/11(火) 06:37:35.62ID:sJg15PM7
呪いだよ

121人間七七四年2018/09/11(火) 07:41:58.05ID:l2BXtzEA
大関さんくらいで呪われるならもっと呪われてそうな家系いくらでもありそう

122人間七七四年2018/09/11(火) 11:28:39.24ID:oZ7p8Ouo
近世大名なんて江戸時代に血筋絶えてる家は幾らでもあるだろ
養子で家が存続してる方が多いんじゃね?

123人間七七四年2018/09/11(火) 15:25:01.66ID:LBisfZrC
女系でも分家でも血が繋がってるとこはいいよ
完全に他家の養子の血筋になってる有力大名もよくあるじゃん
家老や家臣の方が本来の家系の血筋だったりとか

124人間七七四年2018/09/11(火) 16:23:30.26ID:ucgBqjD7
繋がっていたら繋がっていたで伊達順之助のような、らしい子孫も出てくるし
たしか繋がってるよね

125人間七七四年2018/09/11(火) 23:26:22.73ID:CQSDdH6X
血筋を守るために近親相姦を繰り返してると子供が障害児ばかりになって血筋絶えるってのは生物学的によくあること。
ホモ接合型が増えて劣性遺伝(昨今では潜性遺伝と言うらしいが)の遺伝病が顕在化しやすくなる。
まあ江戸期の大名達がそうだったかは知らんが。

126人間七七四年2018/09/12(水) 01:19:48.46ID:wTVa8PRY
>>121
広域はともかく那須地方での呪われ度は高そうだがな>大関家
まぁ大関さん那須家中で好き放題してるけど外敵に対しては心強いから
単に排除すればいいかって訳にもいかないのが困りどころか
ただ大関にとって邪魔者扱いされると外敵との戦闘中に謀殺されそうなのが怖いが

127人間七七四年2018/09/12(水) 10:52:54.88ID:8Kk8cxb6
それにしても、上杉景勝って先代を意識しすぎてつまらない武将になったよな。
無口で笑わない、アレどっかの奥方も似た人いたな

128人間七七四年2018/09/12(水) 11:21:01.69ID:2tH6ChET
むしろ笑わない、喋らないが景勝の個性では

129人間七七四年2018/09/12(水) 15:11:08.10ID:76TCJBE1
武田に煽てられてちーと浮かれただけで直江が軒猿放ってきて謀殺だもんな
そらあんな仮面みたいな顔になるわ

130人間七七四年2018/09/12(水) 20:36:28.67ID:UQjlPd0i
事態がこれほどまでの状況に立ち至ろうとは(神よ、救いたまえ)
全く思いも寄らなかったことである。
会社の業務はキリスト教徒の名のために、殆ど足蹴にされてしまった上、
さらに、会社の職員は、(今まで常に行われてきた)勤勉な勤務によって任務を充分に果たすことも、
この傲慢で残忍な国民に満足を与えることもできずにいるが、
それというのも、彼ら(日本人)が(キリスト教に対する憎悪)には事闕かないからであり、
とりわけ、彼らが我々はポルトガル人が崇拝しているのと同じ神と
その子キリストの存在を信じているのを知っているからである。

『オランダ商館長日記』附録「1641年2月10日付けマークシミリアーン・ル・メール宛フランソワ・カロン訓令」

131人間七七四年2018/09/12(水) 20:39:37.54ID:OVJRMD8l
景勝ってなにが凄いのか良くわからんよな。
上杉の家督取ったのはまあ、凄いけど、それ以降の活躍がさっぱり。関ヶ原の逸話も直江関係ばかりだし。
毛利輝元は凡庸とされてたのが、最近見直されたり、と動きはあるが、景勝については特に毀誉褒貶もなく、
実体がよくわからん。

132人間七七四年2018/09/12(水) 20:49:10.45ID:wTVa8PRY
謙信以来の武張った上杉家のイメージを貫き通した事じゃないかな
まず極めて無口ってだけじゃなく家臣の前で笑ったの1回って時点で
尋常じゃない精神力の持ち主
関ヶ原で負けて家康に降伏したとはいえ夏の陣で家康に評価されてたり
本人は先代コンプレックスで必死に虚勢張っただけなのかも知れないが
結果的には家のイメージを保って一目置かれた訳だし

133人間七七四年2018/09/12(水) 21:23:53.83ID:qWWCnxkC
菅小左衛門、島津家臣に報復した咎により切腹する


慶長12年6月、駿府城の修築のため江戸から神君(家康)の荷物が送られていた。
国清公(池田輝政)は、船奉行の菅小左衛門に荷物の運送を命じた。
駿州清水で島津家の士が池田家の加子(船夫)に狼藉をして、加子四、五人に
怪我を負わせた後、江尻まで逃げていくということがあった。

そのとき小左衛門は陸にいたが後からこの由を聞くと、たった一人駆け出し
跡を追いかけて、島津家の家来が乗っている船に飛び込んだ。
奉行二人の内の一人と、下っ端を四、五人切り殺し、残った奉行を船の梁に
縛り付けて、自分の姓名をしっかり名乗ってから帰った。

当然このことは問題になってしまったが、(池田家臣の中では)
「小左衛門から仕掛けた喧嘩じゃないし、向こうが狼藉をしたんだから
 やむを得ないことなので、小左衛門は助命されるだろう」
という声もあったが、(幕府直参の)三浦志摩守が国清公の方へ参って
「喧嘩両成敗は天下の御法ですので、お助けすることは出来ないでしょう」
と言ったので、国清公もどうにも出来ず、小左衛門に腹を切らせることになった。

小左衛門はこのとき三十一歳だった。
死に臨み友人の安宅次郎左衛門に、遺言状を書き送った。

遺言状(『菅文書』)で小左衛門は父の惣兵衛について
「惣兵衛は年寄りなので、そちらの家に呼んで毎日慰めてあげて下さい。
 一、二年の間だけでもいいのでお願いします」
と、後事を託している。

小左衛門の子の九郎太郎は三歳だったが、父の知行四百石を与えられた。
九郎太郎が五歳のとき、(国清公は)家臣の石丸雲哲に
「あの九郎太郎は成長しただろうか、お城へ連れてくるように」
と仰せられたので、九郎太郎が登城すると国清公は膝元に呼ばれて
懇ろに仰せられたあと、菅若狭に守り立てるように命じられたという。

国清公が亡くなり興国公(池田利隆)が播磨に入ったとき、新参の者は暇を賜ったが
まだ十六歳で無役だった九郎太郎はそのまま仕えることが許されたという。


――『池田家履歴略記』

134人間七七四年2018/09/13(木) 20:31:03.63ID:a5yC5vEo
こんなんどうしたら正解だったんや

135人間七七四年2018/09/13(木) 20:38:59.57ID:oPuUvg4k
>>133
>加子四、五人に怪我を負わせた
これで五人も殺したのか…と引いてしまうのは現代の価値観かねぇ。

136人間七七四年2018/09/13(木) 20:57:17.33ID:1fmrxVb6
>>134
黙っていたら腰抜けとして処罰
反撃したら両成敗で処罰
詰みである
…仕掛けられないようにつねに警戒してろって事かな
でも向こう見ずな奴はこっちの警戒とかお構いなしだろうしな

>>135
やられたらやりかえせな精神だなぁ…
こういうの見るとハムラビ法典ってなるほど穏健な方なんだなと思わされる

137人間七七四年2018/09/13(木) 22:03:12.47ID:MdIF2uXQ
やられたらやり返してよい、ただしそれ以上はやり返すなの精神と
やった方も応じた方も罰なの精神は割りと似ている気がする

138人間七七四年2018/09/13(木) 22:25:24.85ID:uGl7Zatq
長崎喧嘩みたいに徹底的に報復した後、先行して死ぬのが精神衛生上良さそう
どんなに精神強い人間でも沙汰待つ時は辛いだろうし

139人間七七四年2018/09/13(木) 22:27:15.75ID:pFVibWI+
ある時、織田信長の元へ、村井長門守(貞勝)が、鏡屋宗白という者を召し連れ、
彼は手鏡を信長に献上し、御礼申し上げた。

信長はこれを取り上げて眺め
「非常に明白な鏡だ。願わくば心の善悪も見ることの出来る鏡であればなあ。
世の癖として、諸侯大夫、寵臣たちの為したことは、良いことも悪いことも、
人は皆極端に語るために、却って心を暗ませるという事が、日々月々に悪化している。
しかし行いの悪さを諌めるという事はしない。
そういう事に左右されない諫臣を求め得なければ、政道の実態を聞くことは出来ないのだ…」

などと物思いにふけりながら、ふと鏡の裏を見るとそこには『天下一』と銘があった。
これを見て信長たたちまち気色が変わった

「去る春、どこかの鏡屋が献上してきた鏡にも、裏に『天下一』と銘があった!
『天下一』はただ一人であってこその、一號にてあるべきなのに、二人あるというのは
猥りというものではないか!
これ偏に長門守、お前の不明より起こったことだ。そして汝の不明は私の不明なのだぞ!」

そう、殊の外悔やむ様子であった。

(甫庵信長記)

140人間七七四年2018/09/14(金) 05:13:36.68ID:joeuWfgB
>>135
綱吉による教化は本当に重要だったんだなぁ…

141人間七七四年2018/09/14(金) 10:10:59.23ID:A3TosaDU
>>134
損害賠償を請求すれば良い。断られたら暴れる。

142人間七七四年2018/09/14(金) 12:04:56.52ID:ErgQINDx
武士の場合、損害より面目の問題なんだよなあ

143人間七七四年2018/09/14(金) 12:28:59.19ID:7tKdY49C
鉄砲玉の身分はそうだろうね

144人間七七四年2018/09/14(金) 12:30:33.38ID:uzG3c2Dm
室町時代から「故戦・防戦法」で理由の如何にかかわらず先に手出ししたほうを罪に問う、とやっても
ちっとも紛争を予防できなかった挙げ句の「喧嘩両成敗」なわけでな。

ちなみに江戸期を通じて「喧嘩両成敗」を適応した事例は、実は殆どないらしい。
法執行の側も、これが極めて理不尽な法であることを重々承知していた模様。

145人間七七四年2018/09/14(金) 16:39:09.53ID:LoLm7Buv
赤穂事件も喧嘩両成敗の対象にならなかったしなぁ
あれは浅野が罰せられるのは当然とも思うが

146人間七七四年2018/09/14(金) 17:35:28.33ID:gJvnQJNT
(山崎の戦いの時)

光秀の先手・斎藤内蔵助(利三)は狐川の向こう岸より使者を立てて、光秀を諫めた。

「今日の合戦は御延期然るべし。筒井の加勢も見えず、只今より坂本へ引き取られて要害に
拠って一戦されれば、安土に左馬助(明智秀満)がおりますので後詰の便りもあります。

そうでなければ、すぐにこれから安土に籠城されて然るべし。以前から申すように山崎の地
は味方にとってよろしからず。大軍を引き受けて防ぐにはもっとも難しい地です。

合戦の雌雄は只今にて候。時刻が移れば、その方策もなおさら難しくなります。」

このように申し送ると光秀はこれを聞いて、

「主君を弑逆するほどの光秀、天命の帰するところ何の恐れかあらん! 汝そこまで恐れる
のならばそこを引き取って当手に来るべし! 先手は他人に申し付けん!」

と罵ったため、使者は大いに恐れて立ち返りその旨を申した。内蔵助はこれを聞いて、

「光秀天罰逃れ難く、敗軍の兆しあらわれたり」

と言って嘆息した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・続武家閑談)』

147人間七七四年2018/09/14(金) 23:41:16.22ID:w7XezzrT
>>146
斉藤さんって謀反にノリノリだった説と諌めた説があるけど
これは諌めた説を下敷きにしてるのかな

148人間七七四年2018/09/15(土) 01:01:04.50ID:gFHjX2xk
今日もこの糞塗れ全身無毛の格好(水中長靴とゴム手)
で深夜の散歩。まずお酢を体に満遍なく塗ってから
糞を頭から全身に塗りつる。酸っぱさと糞の匂いで凄まじいことに。
外出寸前で500mlのグリセリンと小便を混ぜたものを
浣腸し巨大エイナスストッパー10を挿入。
ビニール袋には牛丼を入れ、バケツとジャンボウナギ持って写真の格好で外へ・・・
歩きながらも糞と酸っぱい体臭で大興奮。外灯の下で見たら
永久脱毛したチンポはフル勃起で糸をだらだらたらしまくり
人に遭遇しないように気をつけながら、家から10分ほどの公園に到着。
まず誰も来ない公衆便所に入る。
それから持ってきたバケツに跨りストッパーを
抜いて大量の排便をしました。
夕方に食べた白滝や未消化のネギが混じっていているものを
正座し既に糞塗れになっている体に、頭から全部被りました。
ここで持ってきた牛丼を糞で汚れていない床にばら撒き四つんばいで豚のように食べました。
食事後は1時間ばかり便所の床に寝転んで、ジャンボウナギでアナニー
をして帰宅しました。
誰かにこの一連の流れを、動画撮影してもらいたいんですが。
それか自分と同じような格好になってプレイ出来る方がいたらな・・・・

長文すいませんでした。

149人間七七四年2018/09/15(土) 18:44:15.78ID:mmlOQRDZ
水野家と松平家の狂った血ってある意味すごいな
あの両家ともまともに長生きした人物が少なすぎる
両方の血を受け継いだ人物が天下を取ったと考えるとすごいわ

150人間七七四年2018/09/15(土) 19:50:09.81ID:gWloQ7tz
今川のじっちゃんの教育が素晴らしかったと思う

151人間七七四年2018/09/16(日) 14:19:10.26ID:BFVsBUOo
天正10年の甲州征伐を終えた織田信長は富士遊覧の後駿河へと回り、駿府に到着すると
そこでは徳川家康が假屋を宜しく立ち置き、一献を進められた。

その頃は卯月の十日あまりであったが、今川義元が植えさせたという千本の桜も、花はすっかり
散り去っており、信長は「植え置きし主の栄えも、このようになってしまったな。」とつぶやき、
続けて思い浮かんだ一首を詠んだ

『今川の ながれの末も絶えはてて 千本の桜ちりすぎにけり』

(甫庵信長記)

ここから信長の「桜」が散るまで、4ヶ月あまりであった

152人間七七四年2018/09/17(月) 07:34:05.39ID:fSDtPYjS
どちらに理があるとか先に手を出したとか理非究明に時間がかかりすぎて評定が滞ったので家中の争いについては喧嘩両成敗にしたと言うのが実情だな

喧嘩両成敗を採用した大名も国衆の争いなんかは相変わらず理非究明をうたってるしね

153人間七七四年2018/09/17(月) 12:34:03.11ID:c3AbbcRr
天正10年6月朔日、惟任日向守(明智)光秀は亀山城において、明智左馬助(秀満)、同次郎右衛門尉、
藤田伝五、斎藤内蔵助(利三)、溝尾勝兵衛らを呼び寄せ、密かに語った

「各々の命を申し請けたい。それに同心するのなら評議をしよう。そうでないのなら、この光秀の頸を
刎ねるように。」

これを何の前触れもなく語ったので、五人の者達は「これは如何に」と驚き、呼吸も詰まりそうで、
互いに目を合わせるばかりであった。

そのような中、明智左馬助が進み出て
「今日まで殿を主と頼み奉る者共が、一大事に当たって、誰が見放すでしょうか。
何事であっても左馬助に於いては、御請け申し候」

そう頼もしげに言うと、残る4人も皆その儀に応じた。

光秀はこれを聞くと
「さては嬉しくも請けられたり。この儀、別の仔細に非ず。私の身の上に於いて、信長公が私を
誅されるという証拠がいくつか有る。既に事急であると考える。どう有っても逃れられぬ道が
迫っているのであれば、むしろ逆心を企てんと思う。各々同心に於いては、この牛王(牛王符)の裏に
霊社の起請文を!」

そう当座にこれを書かせ、その上で人質を取り固めた。

(甫庵信長記)

光秀が信長を討つことを告白するシーンですが、この時光秀が「信長に殺されそうに成ってるから
逆に信長を殺す」と言っているのが、スロイスが「日本では主人が下僕を罰しようとするのを知ると、
下僕が先に主人を討つ(だから日本で主人は下僕の前で感情を表に出さない)」と記録しているのと
ぴったり一致していて、同時代的にはリアリティの有るものだったのでしょうね。

154人間七七四年2018/09/18(火) 01:12:50.18ID:3a6RWHwE
「見恋」 いかにせむ心ひとつに月日へて つゐにあはての浦のみるめを 氏政
「蚊遣火」 ながめるつる月日のひかりに影そへて 草の庵りに蚊遣たくらむ 氏直
世の中にあらぬ草木を求めても 法のみちにふみもまよはじ 氏規
「契空恋」 知らせばや契し事ももしほ草 そをだに絶て思ふ心を 氏堯
逢坂のせきのひかしに武の 名やはかくるゝ十五の駒 氏照
色ゝのさかなはあれど今夜しも わきてさゞいのめづらしきかな 氏光
都路をかけていた鳴駒の音 新月夜にや今や別らむ 氏忠
月もはやさ夜ふけがたになりぬれば かれヽになるむしの声かな 氏邦
「月前雲」 やまかぜの吹よはるより久方の 月のな□□の秋のうき雲 氏能
「通書恋」 かばかりやさきの世くやし玉章の むすぶちぎりはあはじ物かな 氏親
冬のうみの時雨るゝ波のはげしきに 身もはづかしのさゞいなるらん 氏冬
見ぬ花やおもふばかりにかきつばた ふかき色香を面影にして 範冬

(喜連川文書)
足利義氏、北条氏康とともに当時の北条一門が読んだ和歌を氏照が記したとされている
また、範冬とは今川範以のこととされている
問題は現在北条関係で発見されている史料において唯一の所見になる氏能、氏親、氏冬とは誰のことなのか

悪い話というか北条研究で未だ解決されない謎の1つ

155人間七七四年2018/09/18(火) 08:16:59.64ID:SFBIDdSW
夭逝した氏政の兄貴が氏親とかいわれてなかったっけ?

156人間七七四年2018/09/18(火) 10:16:28.04ID:kAdBeT5C
早死したんなら和歌が読めない年齢のはず
母親の身分が低過ぎて虫けら扱いだったんだろうな

157人間七七四年2018/09/18(火) 12:59:53.16ID:d3+CY0nG
>>155
読んだ順番ではなく一門でも家格順じゃないかなあこれ
氏政が上の時点で氏政が家督継承したか次期家督継承者になってるんじゃないかなあ

158人間七七四年2018/09/18(火) 17:15:20.78ID:rWqd47zb
今川範以だって?妄言も大概にしろ
可能性があるとしたら氏真だろうな

159人間七七四年2018/09/18(火) 18:04:26.15ID:J62I4Vu1
崩し過ぎて読めなくなったんかな

160人間七七四年2018/09/18(火) 18:05:50.75ID:HApGphN1
>>156
いや最近の黒田基樹先生あたりの北条研究の本を読めよ。「北条氏親」は氏康の嫡男で
しかも氏康の正妻である瑞渓院(今川氏親娘)の子であり、氏政の同母兄だ。夭折と言っても
氏親の名乗りからも解るように既に元服していて、16歳で亡くなったと考えられているので、
このくらいの歌は詠める。

161人間七七四年2018/09/19(水) 03:48:27.63ID:dbRFW9CO
>>160
これくらいの歌が読めるだとw
そりゃお前の妄想だろ
ファンタジーで歴史を語るな

162人間七七四年2018/09/19(水) 08:29:48.27ID:UvppMgh5
荒らす前に勉強しろよ
草を生やしてわめき散らすなんて馬鹿にされるだけだぞ

163人間七七四年2018/09/19(水) 12:23:12.67ID:sOPW/iWx
ファンタジーくん勉強は捗ってる?
妄想ばっか書き込んでると馬鹿にされちゃうよ〜

164人間七七四年2018/09/19(水) 13:36:41.86ID:MDyPNUBo
烏帽子前から漢文読んだり古典読んだりしてた教養人の家なら十六歳で和歌詠むのなんてそれほどファンタジーとも思えんけどどうなんだろうな
江戸時代だと幕臣の子が元服前に四書五経習ってたり十歳に満たない子が辞世書いてたりするけど

165人間七七四年2018/09/19(水) 13:42:29.78ID:8tucQ05r
『玉露童女行状』の松平露ちゃんなんて五歳であんな詩残して亡くなってるしな
戦国どころか江戸も末期の話だけど

166人間七七四年2018/09/19(水) 15:29:01.14ID:CoHnNsGO
へー で、お前らの最終学歴は?w
教養も千差万別なのにな
アホの妄想話には付き合いきれんわ

167人間七七四年2018/09/19(水) 16:51:07.89ID:8tucQ05r
教養も千差万別ならなおのこと十六歳=歌なんて詠めるわけないっていう発想にならないと思うんだが…

168人間七七四年2018/09/19(水) 17:32:48.83ID:+qz+8mHV
教養人の家なら誰でも年少でも歌が詠める!


はいはい、寝言は寝てから言いましょうね。

169人間七七四年2018/09/19(水) 17:52:50.70ID:6ykGUsYr
なんだこいつ

170人間七七四年2018/09/19(水) 17:54:46.92ID:UvppMgh5
だから馬鹿にされると言ってやったのに…

171人間七七四年2018/09/19(水) 18:40:30.90ID:9YaWm/t0
(山崎の戦いの時)

寄手の先陣・高山南坊(右近)は味方が天王山を取り敷いたのを見て、そのまま山崎の大総門を押し開き、
打って出た。柴田源左衛門の備は総門の間際なので一番にこれを受けて鉄砲を撃ちかけ撃ちかけ防ぐとも、

池田父子(恒興・元助)と中川(清秀)の勢も追々雲の湧く如く競い掛かり、柴田源左衛門は散々に追い
崩され、それより段々と先手を追い立て厳しく厳しく攻め戦った。

中川は山を登って光秀の右備の諏訪飛騨守(盛直)・御牧三左衛門(量重)と弟の勘兵衛(御牧量則)の
左から打って掛かる。池田父子は川を越えて左備の伊勢与三郎(貞興)・津田与三郎(重久)の備の右を

突いて互いに箕の手形になって左右より挟んで引き包み討たんとす。斎藤(利三)の備に組みする先手の
近江勢は三方の敵を見て大いに恐れ、裏崩れして四方に敗走した。阿閉・後藤・多賀・久能・小川らは

取って返して諏訪・御牧を救わんと備も立てず専らに中川と池田に打って掛かり、一戦に追いまくられて
四方へさっと逃げ散った。高山・中川・池田の輩は逃げる近江侍どもは追い捨てて、また津田・伊勢・

諏訪・御牧らを討ち取らんと競い掛かる。伊勢が諏訪と御牧に向かって「さても申す甲斐もなき近江勢の
臆病者! 足手纏いが何になろうか、落ち失せたことは幸いなり! いざや花々しく討死して骸の恥辱を

すすぐべし!」と言えば御牧兄弟も同意して残兵千余騎は魚鱗に備え、勝ち誇る池田父子・中川・高山の
9千5,6百の大勢の中へ遠慮会釈もなく馳せ入り、敵を数多討ち取って伊勢も諏訪も同じ枕に討死した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』

172人間七七四年2018/09/19(水) 19:19:24.76ID:Fn+lTAQ/
>>166
自殺まだ〜

173人間七七四年2018/09/19(水) 20:58:57.62ID:dbRFW9CO
ファンタジーくん、お勉強は捗ってる?
あんまり妄想ばかり話してると周りから馬鹿にされちゃうぞ!笑

174人間七七四年2018/09/19(水) 23:07:08.09ID:Fn+lTAQ/
>>173
だから、自殺はまだなの?

175人間七七四年2018/09/19(水) 23:32:40.63ID:/EtKXUqe
まぁまぁ、「教養の無い>>173は歌が詠めない」でいいじゃないか

176人間七七四年2018/09/19(水) 23:49:01.99ID:b06l2sfQ
荒らしにかまふ者も又荒らしなりけり

177人間七七四年2018/09/20(木) 00:03:17.03ID:zcn4VUlO
だから馬鹿にされると言ってやったのに… ファンタジーくん笑

178人間七七四年2018/09/20(木) 00:42:42.87ID:fZMi3yzc
まぁまぁ、必死に考えたファンタジーなんだろ
自閉症だろうけど温かい目で見守ってやろうぜ!笑

179人間七七四年2018/09/20(木) 10:17:44.68ID:GzuFkm+G
ファンタジーくん、お勉強は捗ってる?
お菓子な学説ばかり取り上げてると敗退しちゃうぞ!笑

180人間七七四年2018/09/20(木) 11:41:37.88ID:7vV4Wocv
どんだけかまって欲しいんだよ…

181人間七七四年2018/09/20(木) 12:13:12.56ID:t5nAQXiA
構いたくてウズウズしてんだろ?
一晩中考えてたファンタジーを聞かせたくて笑

182人間七七四年2018/09/20(木) 13:22:37.98ID:aYspIvRC
しつけえ

183人間七七四年2018/09/20(木) 15:15:30.90ID:/r31CO9S
まぁまぁ、一晩中考えたファンタジーなんだし折角だから聞いてあげようよ

184人間七七四年2018/09/20(木) 20:34:57.55ID:r3ODPhn/
IDコロコロ変えるキチガイが粘着しちゃったなぁ…

185人間七七四年2018/09/20(木) 22:16:00.68ID:FJ0UgTgQ
16歳で和歌作る程度でファンタジーならこのスレ自体と言うか戦国時代の逸話がほぼファンタジーみたいなもんだろ

186人間七七四年2018/09/20(木) 22:38:34.64ID:myQ+WRsY
織田信長公ご自身は、金石をも欺くほど、信を堅く守る人物であった。
しかしそれ故に、人の非を以ての外に悪まれた。そして臣の職分に違う事があれば、
殊に記憶し忘れること無く、一旦はそれを宥しても、腹の中に籠め、多くの年月を経て
何人かは流罪に処せられた。

一善を賞する時は衆も善を励み、一悪を罰する時は衆は自らの悪を恐れる。況やその類悪であれば
なおさらである。これを以て惟任日向守(明智光秀)は、己がこれまでした事を顧みて、
非義が累積していると感じた。しかし

「それを弁解した所で宥してはもらえないだろう、今はそのような色が見えなくても、今後必ず
戒められるだろう。」

そう思い究め、却って逆寄せして弑したのだ。

自分は忠を尽くしても、人が己に忠を尽くすことを欲するべきではない、という言葉があるが、
これが至当であろう。上下共に旧怨というものは、義を優先して捨てるべきなのだ。

(甫庵信長記)

信長が、自分と同じ倫理基準を家臣にも求めたために結果として裏切られ殺された、という批評。

187人間七七四年2018/09/20(木) 23:11:09.68ID:5IuVxU7i
ファンタジーくん、お勉強は捗ってるかい?
16歳で若作るなんて精力あるんですね〜笑

188人間七七四年2018/09/20(木) 23:22:50.07ID:FJ0UgTgQ
>>186
突然過去のやらかしを理由に追放されたのが林秀貞だけじゃなかったならなおのこと光秀じゃなくても誰かに討たれそうだな

189人間七七四年2018/09/20(木) 23:47:49.21ID:WG8ZXjTf
まとめスレで北条一門の歌が1位になってたね
コメント部分を抜粋

今週の1位はこちら!北条一門の歌です!
黒田基樹先生の『戦国北条家一族辞典』によると、この「喜連川文書」で系譜的地位が不明とされていたのは「氏親」「氏能」「氏冬」
そして「範以」でした
そのうち「氏親」は「大宅高橋家過去帳」にて、16歳でなく成った氏康嫡男として存在が確認され、「氏能」「氏冬」は、
一方が上杉謙信養子となったいわゆる「上杉景虎」、および北条宗哲長男三郎(宝泉寺殿)ではないかと比定されています。
また「範以」は今川氏真嫡男の今川範以と考えられています。
これは一度にこれが詠まれた、というより、足利義氏の時代に詠まれたものを後世編纂した、というもののようですね。
長く研究者を悩ませてきた記録でしたが、ようやく全体が見えてきた史料、とも言えそうです。

190人間七七四年2018/09/21(金) 00:00:20.33ID:25Vuxrbv
ファンタジー笑笑

191人間七七四年2018/09/21(金) 00:23:31.23ID:25Vuxrbv
>>189
>また「範以」は今川氏真嫡男の今川範以と考えられています。

はい、ねつ造 笑

>足利義氏の時代に詠まれたものを後世編纂した

足利義氏は生年1541没年1583、今川範以は生年1570没年1608である。
また範以は誕生の翌年には両親とともに小田原から退去し、徳川家康の庇護下に入っており、その後京へあがった。
言経卿記に登場するのが1594の9月、父とともに公家衆と交わり、連歌会・和歌会の常連であったそうだ。
以上から足利義氏の時代に詠まれたものとは考えにくい。

必死にランキング上位にしてねつ造しても無駄ですよ、ファンタジーくん 笑

192人間七七四年2018/09/21(金) 01:02:22.11ID:2b1amua3
範冬? 北条家臣には「範」の字は猪俣と中山だけだ
北条一門だし・・・ああ氏康の孫の範以のことか!

単純やのう

193人間七七四年2018/09/21(金) 06:03:05.42ID:fX5WZda+
山崎の戦いの時、神戸信孝(織田信孝)は斎藤利三勢に攻められるも中川清秀が横合より斎藤勢を
攻めたため、利三は敗れて落ちていった。合戦が済んで後、信孝は瀬兵衛清秀の手を取って戴き、

「今日、親の仇を討ち取ったのも、まったくそこもとの武功ゆえ!」と、感涙を流して感謝された。
その時、秀吉は駕籠に乗ってその様子を見て「瀬兵衛瀬兵衛、今日は骨折り骨折り」と言いながら

通り過ぎた。清秀はこれを聞き「筑前、早くも天下を併呑する気象あらわれたり」と申したという。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』

194人間七七四年2018/09/22(土) 14:13:27.79ID:khh+DCR8
(山崎の戦いの時)

光秀は先手が追々敗走するのを聞いて心中大いに悶乱し、後悔しても甲斐もなきことであった。時に御牧
より使者がやって来て早く引き取りなされと諫めるも、光秀の心は一向に定まらずとやかくと先延ばした。

比田帯刀秀照が光秀を諫めて「進むも退くも時による。先々今夜は青龍寺まで引き取り、明朝は坂本へなり
安土へなりと引き取りなされ。安土には左馬助(明智秀満)が2千余騎で在城しておりますから、いまだ

頼みがないわけではありません。早く早く!」と勧めると、光秀は途方を失って「青龍寺はどの方向だ!」
と尋ねた。帯刀は馬から飛び降りると光秀の馬の轡を取り、馬を引き立てて進めた。しかし敵は早くも道を

差し塞いだ。進士佐左衛門と関田太郎八は馬前に進み、前途を遮る敵を攻め破り引き返しては追い払った。
光秀はようやく逃げ走らんとするも本道には敵が充満して行くこと叶わず、田間の小道を過ぎて青龍寺の

総構堀に馬を乗り入れ土居を登らんとしたが馬は疲れて登れず、進士佐左衛門が来て光秀を馬から降ろし、
その馬を引き上げて光秀を抱え乗せ大手の橋より青龍寺に入った。光秀が櫓に上り四方を望めば、

敵の大軍は雲霞の如く、その旌旗は風に翻る。「ああ夥しき軍勢かな! 敵の人数は3万7千5百余騎とは
聞いていたが、かくも目に余る大勢は近国の勢が集まったのか、それとも味方の人数が敵に加わったのか。

四面楚歌の声したる項王の陣中も同じ思いであったのか!」と光秀は慌てふためいた。そこで人数の着到
を試みたがその人数を見るに、申の刻までは騎士530騎、弓鉄砲の軽卒6百人余いたものが、それも酉
の刻には上下百人に満たなくなった。光秀はよほど心取り乱したのか、この6月の極暑炎熱であるのに

朝から着ていた具足を着替えずに、まず坂本へ引き取ってともかくもせんと評議一決し、夜半の鐘を待ち
青龍寺を逃げ出た。付き従う輩は一番に明智勝兵衛(溝尾茂朝)、その後より光秀、進士佐左衛門、

堀尾与次郎、山本仙入、三宅孫十郎、村越三十郎らであった。その後、小栗栖の方へと小幡の古道を急ぎ
行くと、傍の藪陰にたむろしていた百姓一揆どもが落人と見て、藪の中から真っ先に進む勝兵衛を突いた。
(原注:原書は村越三十郎とする)勝兵衛の甲冑は札の良い胴丸なので裏を突き通しはしなかったが、

馬から突き落とされた。その次に乗り来る光秀は胴腹を突き抜かれた。光秀はあまりに狼狽してこの6月
の炎熱の中で今朝から着ていた具足を着替えもせずにいたので、槍はぐさりと具足を突き通した。

光秀は「憎き奴!」と言いながらそこを乗り抜けたが3町ほど進んではたと落馬した。供の者ども大いに
驚いて駆け集まり「坂本までの道はもう近くです!」と申したところ、光秀は腸を見せて「我が命ここに
留まる。もはや助かりがたし。汝らは我が首を切って知恩院へ送ってくれ候へ」と言うので、

やむなく勝兵衛が介錯し光秀の首を打ち落とした。この時、光秀齢59(原注:武徳編年集成に57)。
母を人質として磔にかけてより37日、主君を弑逆してよりわずかに12日。不忠不孝の天罰巡るのも
早き理、天地神明の冥鑑こそ恐ろしきものである。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』

195人間七七四年2018/09/22(土) 16:49:37.68ID:Civtyswb
>>194
生々しくてイイ(・∀・)!

196人間七七四年2018/09/22(土) 20:39:43.56ID:5fRHuOJu
織田信長の軍の大将である坂井右近(政尚)が元亀元年(1570)11月26日に堅田の戦いでに討ち死にした理由だが、
彼はその以前、6月21日の姉川の戦いで嫡男久蔵(尚恒)が討ち死にして以来、何事も心に入ってこない様子で
あったのだが、敵対する堅田の一揆の内より、猪飼昇貞、居初又次郎、馬場孫次郎の三名が、信長へ寝返ることを
申し出てきたため、信長より「家臣の誰かが海を越えて堅田に行くべし」と命じたところ、坂井がこの命に応じ、
一千あまりの兵を率いて11月25日の夜中に堅田に入り、その構えに火の手を上げて合図を示した。

ところが、浅井朝倉軍がこの火の手に気づき「このまま放置して織田軍に堅田を取り固められては大変な
事になる!」と、26日の早朝よりこれを攻めた、そのため坂井政尚をはじめ安藤右衛門佐、桑原平兵衛などが
討ち死にした。

坂井は勇猛な将であったが、事の利を尽くさず、早くに敵に察知されたことが誤りであろう。

これは天正時代の尾張蟹江城の戦いでも、滝川一益が早くに合図の火を発したために、ついに敗北している。
全て名のある勇武の将であっても、事の理を詳らかにしなければ、このような落ち度があるものなのだ。

(士談)


嫡男を亡くした動揺が続いていて判断を鈍らせた、という事なんでしょうね。

197人間七七四年2018/09/23(日) 21:50:26.46ID:al5PRGdw
朝倉にしては動きが速いな

198人間七七四年2018/09/24(月) 03:48:41.32ID:XTRl6+g8
朝倉って動くべきところで全然動けて無いという偏見があるから
この動きも浅井主導だったんじゃ…とか思ってしまう

199人間七七四年2018/09/24(月) 11:43:23.04ID:EluHms2J
朝倉の初動の遅さについて理由も検証されるようになってきたからな
度重なる動員と領外出兵で徐々に統制ができなくなっていったっぽいとか

200人間七七四年2018/09/24(月) 15:07:56.65ID:w1gRc5ll
義景さんは攻めはヒドいが守りはなかなかだろ

201人間七七四年2018/09/26(水) 00:19:16.40ID:Il7Ru6Vb
毛利輝元「これも私の分の悪さです」


毛利家の重臣吉川広家と毛利秀元は仲が悪かった。
毛利輝元は一人娘の竹姫を種々の事情で、広家の息子・広正に嫁がせることにした。
下記はそのことについて、秀元に説明する書状の抜粋&意訳。


こちらで話そうと思っていましたが、(あなたが)上国していて出来なかったので
この者をさし下して、あなたに内談することとします。
お姫(竹姫)の身上(縁談)のことは、おあちゃ様(阿茶局)にお任せすることに
していて、もし家中で縁談が出来るならあなたの息子とするのがいいかなと
思っていましたが、あなたには息子がいないので、どうすることも出来ません。

それでこれより以前、広家が「息子と縁談して下さい」と申していました。
「まず家中にお姫を置くことが決まらないと(答えられない)」と言ったので
最近はそのことを(広家は)申して来なかったのですが、(私が)
「公儀から仰せ付けられるかもしれないので、分別を持ってくれ」と言うと
「(息子との)縁談を整えたあとでも、(公儀の縁談が来たら)家のためですから
 文句を申すことはないし従うつもりです」
と広家は申しました。
また広家はあなたが宗休(毛利元政)に「然るべき所と(縁談を)するべきだ」と
配慮の話をしたことを承っていて、宗休にも(縁談の話を)申していました。

世上のことはどうなるか分かりませんから、日頃から縁談を決めておかなければ
整うものではありません。お姫は少しも根気がなく、もっての外短気なので
他国との縁談は気兼ねすることが多いでしょう。秀就の縁談も大事でした。
秀就は男なので(他国の姫と)縁談しましたが、後悔しているくらいです。
(秀就が)よからぬことをしでかして、家が崩れることにならないかと思い
日夜並々でない気遣いをしています。

この上お姫を他国などと縁談してしまえば、(私の)気遣いが及びません。
しかも女の身なのですから、(お姫が縁談相手を)不愉快にすることがあれば
中々他国でのことをどうにかすることも出来ません。そうであるので家中に
(お姫を)置かなければ家は滅亡するのです。

このように言うと、ただ広家と縁談したいからこんなことを言うのだと
思うかもしれません。神に誓って言いますが、そんなことはありません。
私の身にもなって下さい。藤七(秀就)のことは全く迷惑千万になったので
むしろ近くの者と縁談する方が支障がありません。(他国と縁談するのは)
外聞のために実を失うようなことだと、朝夕気が気でないのです。

お姫が丈夫で貞心だったなら、気遣いと言っても(お姫のことを)当てにも
出来ますが、体が弱く正気ではないので、突然一大事となってしまうでしょう。
家中でも人にやることは大事だと考えているので、他国にやることなどは
言うに及びません。このことを(あなたに)話しておきたかったのです。

広家と縁談すれば手元に(お姫を)置いて、まずいことになれば私のところへ
呼び戻すことも簡単に出来ます。また家中のためにもなるでしょう。
あなたに息子がいたら本望でしたが、これも私の分の悪さです。
(以下略)


ーー『毛利家文書 一一八八号』

ちなみに輝元の他の書状を読むと、元々お互い子供がいないときに輝元が
「子供が出来たらお前にやるよ」とふざけて言ったのを、広家が本気にしたらしい。

202人間七七四年2018/09/26(水) 02:35:15.07ID:2rEkY+vu
てる夫の口の軽さはいかにもお坊ちゃまらしい
よく言えば鷹揚、厳しく言えば軽率と

203人間七七四年2018/09/26(水) 06:59:36.43ID:59seQf71
吉川は裏切り者だから宗家となんとしてでも縁組しないとね

204人間七七四年2018/09/26(水) 16:07:48.69ID:wQDBsTHB
>>201
お姫様が酷い言われようで草
説明のために大げさに盛ってるかも知れないがそれでもこれは…輝元に似たのかなw?

205人間七七四年2018/09/26(水) 21:54:37.66ID:hy17lFhD
>>203
むしろ逆
公儀と繋ぎが取れてるのは吉川の方で輝元がそれを頼りにしてる状態

206人間七七四年2018/09/26(水) 22:51:21.90ID:iu+zB/OK
永禄三年十二月、十河民部大輔一存と松永久秀はその仲悪しく、常に不快を現していた。
その頃、十河は病を煩い有馬温泉へと湯治に向かったが、この時松永は意見申した
「有馬温泉の権現は葦毛馬を御咎めある神であり、その馬は用いるべきではない。」
しかし十河は松永の申すことを用いず、また松永も十河の言うことを背ける間柄であり、
この時も十河はこれを聞かず、葦毛の馬に乗り湯治のため山を登ったが、案の如く落馬して
たちまち死去したのは不思議な事である。命運尽きるとは言いながら、あえなき事である。

(足利季世記)

松永「だから言ったのに…」

207人間七七四年2018/09/27(木) 07:19:42.68ID:xClyAv6P
>>205
とはいえ、支藩扱いになろうとする吉川と家中統制のためにそれを抑え込もうとする毛利宗家の
争いが幕末まで続くわけだが。

208人間七七四年2018/09/27(木) 09:17:42.46ID:hSj2UTzI
>>207
それ逆だよ。
幕末の争いがあったから広家にまで遡及して仲が悪かったことにされてるが
広家の時期にはまだその手の問題はなかった

209人間七七四年2018/09/27(木) 12:05:41.24ID:h9l33jpv
独立大名になろうとした騒動を巻き起こしたのも秀元の方だしなあ

210人間七七四年2018/09/27(木) 12:22:06.35ID:fKw4E6eC
関ヶ原では吉川の内通のせいで秀元は動けなかった
このため長束や長曾我部も棒立ち
内通のお陰で毛利は取り潰しを免れたというが南宮山が動いてたら金吾はどうしただろうな
吉川は忠臣じゃなくて裏切りモノだよ
秀元が広家を嫌いなのはこの一件が大きい気がする

211人間七七四年2018/09/27(木) 13:10:37.85ID:DY2JVs++
>>206
警告したから暗殺してもばれないな!ってことじゃあるまいなw

>>210
輝元じゃ関ヶ原に勝ったとしても日本統一なんて無理だし、目先の勝ちより未来を見据えた広家は忠臣だと思います。

212人間七七四年2018/09/27(木) 18:40:57.66ID:h9l33jpv
実際の和睦には福原も噛んでるし広家が独断で進めた形跡はないんだよね
家康到着後に慌てて交渉を始めてるからよほど兵力差があって勝ち目なしと判断したんだろう

213人間七七四年2018/09/27(木) 19:26:01.92ID:1lUQP2X3
金吾は最初から徳川に通じてたし
開戦後即西軍に攻めかかってるから(問い鉄砲はフィクション)
吉川が西軍に味方しようが勝負は決まってた

214人間七七四年2018/09/27(木) 23:14:04.33ID:xClyAv6P
家康本隊到着、岐阜を制圧して東軍諸将はやる気十分、金吾は要地を押さえて好きなタイミングで攻撃を始められる、
西国は黒田が大友を蹴散らして、毛利は広島城の守備兵も足りない状況。
この状況で和睦を考えない方がどうかしてるし、輝元はここで判断を誤るほどぬるい武将ではない。

215人間七七四年2018/09/28(金) 04:54:27.36ID:vdEL2s7b
判断がぬるくないというより一時乗せられたけど
本来そんな天下に野心がある訳じゃないから和睦したってだけじゃないのか?
判断力を褒め称えるケースでも無いような

216人間七七四年2018/09/28(金) 07:03:35.63ID:XBMh2JxP
>>211
輝元じゃ天下統一は無理ですと?if小説の読みすぎで頭お花畑状態かよ

217人間七七四年2018/09/28(金) 07:17:40.48ID:1+xdDwkE
みんな関ヶ原好きだな

218人間七七四年2018/09/28(金) 07:19:09.06ID:uVCKsRxv
またこいつかよ

219人間七七四年2018/09/28(金) 08:11:22.75ID:5g1GriLD
>>216
毛利単独でその他の大名家全てを叩き潰せるほどの戦力はないようだし、
そんな事が出来るような体制もなっていないし、そんな意思もないようには見える。
輝元個人の資質や能力は一流で天下の切り回しにも足りるだろうけど、毛利家で天下統一は無理だろう。

220人間七七四年2018/09/28(金) 10:17:34.88ID:VukKNhIL
>>213
全くだな錦吾は元から東軍で開戦同時に大谷隊に突撃している
だが真田十勇士の支援を受けた大谷は要塞化させた陣城で金五を足止めさせていた
この難攻不落と見えた陣城を陥落させたのは小川や赤座らの裏切りが大きい
金吾がかねてより潜ませていた伏兵なのだ
合図は勿論問い鉄砲、小早川に対してではなく小川らに対してであった
時が経てどう言うわけか小早川に対しての鉄砲になった
伝え間違いか写本したときの誤字であろう

221人間七七四年2018/09/28(金) 10:29:23.97ID:VukKNhIL
この程度目の前の箱で調べれば直ぐ出てくるっていうのにお前らホンマ頭に虫飼ってるんだなあ
まず関ヶ原でgglks

222人間七七四年2018/09/28(金) 14:39:09.05ID:ykiWyD2u
触っちゃだめだな

223人間七七四年2018/09/28(金) 15:05:04.95ID:ULUhtSs4
これがファンタジー脳か・・・

224人間七七四年2018/09/28(金) 15:32:54.55ID:jCGDxUuW
こんなん笑うわ
しかもなんでこんな自信満々なんだ

225人間七七四年2018/09/28(金) 15:46:04.29ID:MrYqQawk
反三国志だって滅茶苦茶な内容をさも当然のように書いてるだろう
下手に整合性の取れた嘘をつくより滅茶苦茶な嘘を作る方が開き直れるもんだ

226人間七七四年2018/09/28(金) 18:58:41.08ID:wKYHXGHY
自分の無知指摘されて火病って開き直ったしても面白くないな
まあ勝利宣言できれば何でもいい人種なんだろうが

227人間七七四年2018/09/28(金) 22:29:03.73ID:pcpbQ0P5
>>206
上杉定正「落馬して命を落とすとは…」
鬼義重「武士の名折れよ」

源義朝・太田道灌「温泉いいよね!」

228人間七七四年2018/09/28(金) 23:50:11.14ID:nWlOr0St
>>227
源頼朝「呼んだ?」

229人間七七四年2018/09/29(土) 08:42:12.14ID:isHscARN
>>226
2ちゃんは初めてか?自己紹介するなら他所でどうぞw

230人間七七四年2018/09/29(土) 21:46:23.02ID:SujEa8Yj
伴内と言う者、世に類ない咄の名人にて、豊臣秀次公の御前を離れず、世の中の事を興あるように
取り繕い咄をつかまつる程に、一段と御意良くして、常に秀次公の御前に詰めた。

彼の咄の内、十の内半分は観世又次郎(観世方小鼓打ち)がどれほどうつけた事を言ったか、という
物であったため、秀次公は「それほどうつけ者なのか」と思し召した。

ある時、秀次は観世又次郎を召した。彼は御前に参って謹んで罷りあり、またいつもと同じ様に
伴内も伺候した。秀次公は仰せに成った

「いかに観世、どうして汝は萬に疎く心がうつけているのか?普段伴内の話す内容を聞くと、
大方汝のうつけ話ばかりなのだ。又次郎いかに?」

観世承り「そうですな、伴内と言う者は身体無芸なる奴でありますから、私のような天下道具の名人の
事を申さないと、喋ることが無くなってしまいます。ですので仕方がないと、私は彼をかまい申しません。」

秀次公はこれを聞くと「非常に面白い。伴内返答は如何に!?」と仰せに成ったが、伴内は当惑して赤面し、
何も言えなかった。そこで秀次公は観世又次郎を大なる利発者と感じ、「伴内が困っておる」と、大いに
笑った。これ以降、伴内は観世又次郎の事を語らなくなった。

(義殘後覺)

231人間七七四年2018/09/30(日) 00:05:59.88ID:Skd+u1dp
無事に帰陣して……


濃州金山に自考斎という金持ちがいた。
あるとき(森家の)士たちに
「士という者は、戦陣で虎口に臨めば討ち死にを心がけるものだと聞いていますが
 長可様の御家来にも討ち死にと覚悟する士はいないようですね」
と語った。若い士が聞き咎めて
「士であれば誰でも、殿の御馬先で埋もれ草になってもよいと心がけるので
 生きて帰ろうと思う者はいない」
と言った。

そのとき自考斎は「聞いて下さい」と言って、証文を読み始めた。
「『今度荒木摂州(村重)の謀叛により、上様(信長)が行かれることになったので
  殿(長可)も先手として近日出陣します。近頃は甚だ御無心しておりますが
  金子五、六両をお借りしたく存じます。戦が終わった際には無事に帰陣して
  元利共に返済します』」
「とあるので、討ち死にの心がけはないと思ったのです。もし某が今度
 御先手のお供をするとしたら、某は討ち死にするかもしれない身なので
 『諸道具をもってなんとしても精算するように、と家人に申し置きました』
 と(証文に)書きますが、頼もしくはないでしょうね」
と言ったとか。


――『森家先代実録』

232人間七七四年2018/09/30(日) 00:50:00.84ID:ExIQtF5Z
>>229
見当違いの手垢つき煽り文句に強がりの草ときた
とことんお前つまらん奴だね

233人間七七四年2018/09/30(日) 07:06:48.14ID:/fFfpkxW
こうして針にクソレスをつけて垂らすと簡単にアホが釣れるのな

234人間七七四年2018/09/30(日) 09:36:04.04ID:+wh1ddCw
>>231
内容とはずれるけど、題でアニメの可成戦死前後の諸々を思い出した
可成とえい様や長可たち家族の一時の団欒
出陣する信長と帰蝶の会話
そして今期最終話のえい様と信長の会話
長可の憤慨

3分アニメのわりにはかなり濃い

235人間七七四年2018/09/30(日) 15:01:00.39ID:3tpAPdKz
按ずるに本文(武田勝頼討死の記事)はかの家に伝わる甲陽軍鑑の説に拠って記したものである。
大久保の物語(三河物語)には勝頼夫婦は田野の河原の草むらに敷皮を敷いて休んでいたところ、

早くも敵が押し寄せてきた。跡部(勝資)がこの時に逃げ去らんとするのを土屋惣藏(昌恒)が
射殺したとある。柏崎物語には勝頼は具足櫃に腰をかけておられたが、滝川義太夫(益氏)が

付け込んで土屋惣藏を討ち取り、伊藤伊右衛門永光が横合より勝頼を討ち取ったと見える。また、
武家閑談には伊藤伊右衛門の話として津田幸庵が物語り、「近年の書物を見るに勝頼切腹と

書くものもあり、また仰々しく戦って討死されたように書いているものもあるが、私はその頃は
小平次といって滝川方におり、伊藤伊右衛門とは同輩だったので目の当たりに見たのだが、

左様ではなかった。勝頼は鎧の櫃に腰を掛けて太刀で防戦されるといえども、飢え疲れておられ
何の働きもなく伊右衛門が討ち取った」と板倉周防守(重宗)宅で物語ったと見える。

これなどは実事と思われるのでここに付して一致に備える。

――『改正三河後風土記』

236人間七七四年2018/10/01(月) 05:41:35.82ID:epxSMMKk
原文ママって昔からいるけど幾つくらいなんだろ。
尾木ママより年上だよな?

237人間七七四年2018/10/01(月) 06:29:29.88ID:LU99VYtA
せやな

238人間七七四年2018/10/01(月) 10:07:14.73ID:zJi+lk3f
原文ママがいるのに原文パパがいないのは何故ですか

239人間七七四年2018/10/01(月) 14:55:43.20ID:Ts4e6VOD
すみませんちょっとお聞きしていいですか
このスレって家に伝わる口伝や文書の類のエピソードも書き込んでもいいんでしょうか?
田舎の本家さんで本家に伝わるちょっと面白い話を教えてもらったんですが

240人間七七四年2018/10/01(月) 15:09:07.77ID:HE6nt8RL
なんでもいいぜ、なんなら創作でも面白かったらモーマンタイ。

241人間七七四年2018/10/01(月) 16:34:03.96ID:OMlibQG8
さすがに創作は勘弁して…

242人間七七四年2018/10/01(月) 16:38:48.77ID:9oSFemqQ
大体三成が悪者にされる

243人間七七四年2018/10/01(月) 16:42:22.55ID:z8njKTos
よかった、では投下しますね!

これは祖母方の実家の本家に伝わるお話です。
うちの祖母方の先祖は近江六角氏重臣だった甲賀五十三家の一つの三雲氏。
六角定頼の頃、三雲典膳実乃の代に近江国の野洲栗太郡九万石を領有することになった。
街道の要所を抑える立場になり、張り切った実乃は居城である三雲城の改築を決定。
しかし探しても探しても実乃の満足できるレベルの築城に詳しい者が見つからない。
どうしたものかと悩んでいた頃、観音寺城下で甲斐武田の家臣の青年が捕らえられる事件が起きた。
小山田氏の一族に連なるその青年は主家から都への用を命じられ、道中で六角家中の者と刃傷沙汰を起こしたんだとか。
これがかなり複雑な事情の絡む事件だったらしく、六角定頼は慎重に沙汰しようと実乃に青年の事情聴取を任せることに。
実乃は面倒に思いつつも青年への事情聴取を重ねるうち、偶然彼が甲州流の築城術を修めていると知った。
しかも青年は知識豊富なだけでなく実践経験もあり、腕前はかなりのものらしい。
実乃はニーズにがっつり当て嵌まる人材の発見に大喜び。
しかし当の青年は刃傷沙汰の下手人で最悪斬首の可能性すらあったので、実乃は一計を案じた。
年頃の一人娘を世話係として青年に近付けて籠絡させ、娘の腹に既成事実をこさえさせたのだ。
悪どいことに実乃は自分の指図であることを隠し、可愛い一人娘になんてことを!と青年に詰め寄り、根が真面目な彼に責任を感じさせて婿入りを承諾させた。
そしてすぐさま実乃は定頼に「あの下手人がうちの娘に手ぇ付けちゃいましてねぇ〜いや困ったなぁ〜可愛い一人娘なのになぁ〜」と報告。
まんまと刃傷事件の沙汰をうやむやにし、青年に三雲家へ婿入りさせる許可をもぎ取った。
行定と改名して婿養子になった青年は命を救ってくれた上にデキ婚を許してくれた実乃へ大いに感謝。
誠心誠意をもって三雲城の改築をはじめ三雲家のために全力を尽くしたそうである。

そんなうちのご先祖ってちゃっかりしてるよね、というお話。

244人間七七四年2018/10/01(月) 16:47:03.57ID:z8njKTos
補足ですが本家のおじいさん曰く、このお話は江戸時代の本家の人の書付にあったエピソードだそうです。

245人間七七四年2018/10/01(月) 18:00:46.27ID:HWVtq0qk
>>243
良い話なのか悪い話なのかw

246人間七七四年2018/10/01(月) 18:30:16.84ID:OMlibQG8
三雲氏かぁ。旗本になって旧領復帰したはずだから、
ご祖母様は士族のお嬢さんだったわけですな。

247人間七七四年2018/10/01(月) 18:43:15.60ID:G1veDJIA
>>246
本家さんの名字は今なお三雲さんですw
明治維新の際に新政府軍から幕軍と見なされないよう蔵の文書や物品を田んぼで三日三晩焼きまくった、という勿体ないエピソードも聞きました

248人間七七四年2018/10/01(月) 18:59:56.30ID:N9uYEr+j
三雲氏の子孫ならちょっと教えて欲しい
何故、内陸部の領地を有する三雲氏が
明との貿易のルートを持っていたのか?
室町幕府の貿易ルートに便乗させてもらってたとかかな?

六角氏に対しては譜代の重臣層よりも
三雲氏や蒲生氏のような国人領主層のほうが
積極的に奉公してるように見受けられるのだが
独立した存在ではなく完全な臣従家臣だったんでしょうか

249人間七七四年2018/10/01(月) 20:27:34.57ID:wM63+IVG
>>248
おそらく室町幕府の勘合貿易に便乗したんじゃないでしょうか
どうやら三雲氏は幕府に対して独自のコネクションを持っていたみたいです
本家に僅かに残る記録等を見るに実乃と行定は度々六角氏に断りなくか事後承諾かで幕府とやり取りしていたようでして
どうも行定の代までの三雲氏は六角氏に完全には臣従をしていなかったと思われます
六角氏側も行定婿入り事件の顛末のように三雲氏に対してどこか遠慮があったみたいですし
六角氏にとって当初の三雲氏は建前上家臣、実際は同盟者かそれに準じる家だったのではないか?と本家さんは言ってました
甲賀郡惣中の窓口も兼ねていた節があるので下手に機嫌を損ねられない取り扱い注意な存在だったんだろうと
三雲氏が積極的に六角氏への奉公をするようになるのは定持の代からですね
よくわかりませんがこのあたりで六角氏と三雲氏の関係に何かしらあったと思われます

250人間七七四年2018/10/02(火) 01:37:08.10ID:UGo9HjLG
久留米侍従秀包、野津仁兵衛めさるる事

ある時上方より優れた相撲取り達15人が、許状を取って西国へ罷り下り、筑後に来たことを聞いた
毛利(小早川)秀包は、素より相撲好きで名のある者共を20人ばかり抱えていたため、「彼等と
取り組みをさせよう!」と考え、すぐに宿を仰せ付け、上方より下ってきた相撲取りたちをそこに
4,5日休息させ、その後白洲に召して手の者共たちと相撲を行わせた。

しかし、さすがは上方から許状を取って下るほどの取り手達であり、秀包の20人ばかりの相撲取りは
悉く倒された。これに秀包はたちまち機嫌を悪くし、御前の人々も興を冷ました様子であった。
このようなときに行事が「対戦する相撲取りはもう尽きたのでしょうか?お望みがないのであれば
終いにしたいのですが。」と言ってきた

秀包はこれを聞くと「私が抱えた奴らは何れも脛の立たぬことの浅ましさよ!野津仁兵衛そこにあるか!?」
と仰せ付けた。仁兵衛承って御前に伺候すると、秀包彼を見て仰せに成った

「相撲取りめらは悉く取り負けた。汝出て責任を取れ!」

仁兵衛承って「これは思いもしない御諚である。侍の役儀については調練してきたが、相撲を取るなど
学んだこともない。しかし御諚意なれば罷り出でねばなるまい。」

そう考え裸になり、下帯をよく締め、9寸5分の鎧通しをしっかりと挿して土俵に向かった

「相撲をとって私が負けるのは、十のうち百だ(すまふをとらんにまくる事は十か百なり)、
しかし下になるなら、そこで彼のほて腹を突き貫いて殺すことに何の仔細もあるまい。」

そう思い切って土俵に上がると、相撲取りはこれを見て「御脇差はいかがでしょうか、それを外して
頂けませんか」とと申したが、仁兵衛は
「汝らのような相撲を取る者はそう考えるだろうが、それがしは生まれてより刃物を片時も離すことが
無かった。これは侍の身の道具であるから挿していることを少しも気遣いしなくていい。
そんな事よりはやはや合わせよ!」

そう申したが行事も「尤も、御意の通りとは思いますが、然しながら相撲である以上、同じ様に
お取りください。」と言ってきた。しかし仁兵衛

「汝らはいわれぬことに気遣いをするものだな。さあ早く取らぬか!」そう怒りだした。
行事たちも力なく、立ち会わせた。

ここで対戦した相撲取りは心に思った
「この相撲に勝ったならば、必ずこの刃物で腹を突かれること疑いない。命失いては何かせん。」
そう体を引きつつ、見栄えも良い形で場中にて負けた。
秀包を始めとして御前の人々一度にどっと笑った。このようにして仁兵衛は2番勝った。

上方の相撲取りたちの中に”かんせき”という物があり、彼は関相撲(最も強い力士)であった。
彼も取り組みに出たが、勝った時に突き殺されるのを恐れて、様子を良くして場中にて負け逃げた。
都合3番打ち勝ち座中どっと笑い、秀包も機嫌よく、相撲取りたちは退散した。

後に野津仁兵衛が語った所によると
「さすが彼等は上方の者共で、気が効いていた。無才覚の奴らなら、2,3人は腹を突き通して
いただろう。」そう笑いながら言ったという。

この取組の後秀包は、それまで彼の抱えていた相撲取り達を、悉く扶持を放した。

(義殘後覺)

251人間七七四年2018/10/02(火) 06:32:43.17ID:3GsNyvbi
>>249
詳しい解説有難うございます
三雲氏についてまた何か情報等ありましたら
六角氏のスレにでも書き込みお願い致します

252人間七七四年2018/10/02(火) 07:22:49.77ID:oXq3kBvy
>>250
秀包、人間が小さいなぁ…

253人間七七四年2018/10/02(火) 07:51:15.31ID:3iB0lRFr
まとめの7490
小早川秀包と上方の相撲取り達
で既出

254人間七七四年2018/10/02(火) 11:55:40.26ID:UGo9HjLG
>>253
あらま、不注意でした申し訳ない。こちらもあるけど出典付きがないので…

天正二年七月、織田信長が長島の一揆を伐った時、蒲生氏郷は大剛の者を組み討ちにして首を取り
実検に入れた。しかし信長はこれを冷笑し褒詞無かった。

暫くして氏郷に言った
「凡そ勝負は時の運に寄るもので、兼ねて計ることは出来ない。功名は武士の本意というが、それは
品によるものだ。今の汝の功名は、軽卒のやることである。一方の大将たらん者は、更に好むべきではない。
身の危うきを顧みないのは、それほどの功とは言えない。今後、この心を忘れるな。」
そう戒めたという。

(名将言行録)

信長「この時注意したのに…」

255人間七七四年2018/10/02(火) 12:17:40.56ID:sUtctfiJ
婿じゃなかったら褒めてたろ

256人間七七四年2018/10/02(火) 13:12:35.48ID:u24CW0IM
>>255
鬼武蔵相手なら激賞だったろうな

257人間七七四年2018/10/03(水) 00:40:35.31ID:AUGOf0r/
鬼武蔵は敵にけしかける狂戦士だが氏郷は士官候補だからな

258人間七七四年2018/10/03(水) 05:45:34.46ID:KOBAUlk+
バーサーカー武蔵

259人間七七四年2018/10/03(水) 07:06:44.21ID:iHzjGr8g
特殊奥義持ってる武蔵にモブが敵うわけないじゃろ

260人間七七四年2018/10/03(水) 14:15:14.69ID:666c4AP6
池田恒興、信輝改名説の出所


長年池田恒興(勝入)の諱とされてきた信輝は、一次史料には全く見られない名前であり
現代の研究においては、実際に名乗った名前でないことが定説となっている。

恒興の死後50年以上経った寛永18年、子孫である岡山藩主・池田光政と
鳥取藩主・池田光仲が幕府へ提出するため連名で作成した『池田家系図』では
既に恒興が後に信輝に改名した旨の記述が出てきている。

発端は檜尾神社(現:甲賀市甲南町池田)の棟札であった。
棟札には天正8年に"池田勝三郎信輝"が檜尾神社を造立したと書かれているのである。
また檜尾神社の社家の伝承では、「檜尾大明神は"信輝"の産土神であること」
「"信輝"の父親・恒利は元は滝川氏であり、従って甲賀出身であること」が
伝えられていたという。(『乍恐御尋書付之事(檜尾神社由緒問答)』)

当然現実の恒興は信輝に改名していないので、棟札は本物ではありえず
伝承にも疑問符がつくのだが、これを真に受けて池田家の史料が作られてしまった。
書付では、そもそも産土神であることを証明するようなものが池田家側になく
滝川家の領地とされた村々で、恒利のことを尋ねたが由緒については不明だったとする。
江戸時代の檜尾神社はその"由緒"から、池田家中や池田家の領地の城下町において
配札や祈祷を行い、藩主の参勤交代でもお祓いなどを行っている。

ちなみに檜尾神社の棟札は、池田家関連の展示会で実際に展示される関係もあり
図録の解説等では表立って怪しいものとはされていない。
ただもちろん現在の池田家の研究者で、信輝改名説を採用している人はいない。

261人間七七四年2018/10/03(水) 17:37:41.18ID:Eo2oX5U9

262人間七七四年2018/10/03(水) 18:18:06.08ID:24Iu/MMc
>>261も同類なんだろうな

263人間七七四年2018/10/04(木) 09:12:34.05ID:mCJF7Uvf
上杉家の侍が織田家の城下に来た。これは直江方(景綱か)より、織田方へ謀の使いとして
派遣された者であった。しかしこの使者は柴田勝家によって捕らえられ、拷問にかけられた。

しかし使者は拷問の中、高らかに笑った。目付けの者これを見て「何故笑うのか」と問うた。

「日本国に大いなるうつけたる者三人あり、よってこれを笑うのだ。」

「うつけたる者とは誰だ。」

「うつけた知音(友人)を知らずして、このような大事を申し通ずるうつけが一人、
またそんな事も辨えず、使いに頼まれたうつけ者が一人、
また味方になるものを敵にするうつけ者一人。
この三人の大馬鹿者が寄り合い、その中で私一人が目壺に入ったのは、おおいなる仕合せと存じ、
これを笑うのだ。」

勝家はこの報告を受けると信長に申し上げた上で、この使いの者を免し様々に馳走し、褒美を取らせ
彼を援助した。

(名将言行録)

上杉からの使者が怪しいので拷問にかけてみたが、「友好国の使者にこういうことするの?上杉を敵に
回す気!?」という内容を言われて待遇を変えた、という所でしょうか。

264人間七七四年2018/10/04(木) 12:28:26.47ID:AKjHBDtu
太閤秀吉公、長宗我部元親親子、仙石権兵衛尉を大将として、四国勢を大友加勢として差し越され
島津義久と豊州脇津留、迫の口等にて合戦あり。

はじめ脇津留の戦には、長宗我部、仙石利を得ると言えども、迫の口の戦に利を失い四国勢敗亡す。
長宗我部嫡子信重(親)戦死、仙石権兵衛尉は小舟に乗りて阿波の洲本に渡りけりと言いて
その頃の落書に

仙石は四国を指して逃げにけり
三国一の臆病の者

(大友公卿家覚書)

仙石権兵衛と言えば…のこの逸話。
本文にある脇津留は土佐勢が伊集院・新納らと死闘を繰り広げた地で
迫の口は仙石隊が島津家久・本庄主税助と対峙した場所です。
正面を家久、左斜めの小山を本庄に押さえられた仙石秀久は動けに動けず
頃合いは良しと山から駆け下りた本庄隊の突撃とそれに続く家久隊の攻撃によって敗走、勝敗が決しました。

265人間七七四年2018/10/04(木) 15:23:11.94ID:t/ZKtexL
長曾我部の鉄砲隊がヘタレで瞬殺されたのが大敗の要因

266人間七七四年2018/10/04(木) 16:41:47.49ID:5I0E/ccX
仙石を擁護するとしたら、まさかあそこまで四国勢が弱いとは…となるけど、
そもそもめちゃくちゃやって、四国勢の力を発揮させられなかったバカ軍監が仙石なわけだしなぁ…

267人間七七四年2018/10/04(木) 17:15:23.89ID:nPioJHur
鳥なき島の蝙蝠の本領発揮ってどんなんやろ

268人間七七四年2018/10/05(金) 18:21:05.13ID:l4Rx9ZXQ
>>266
九州上陸当初は割とまとまってた四国勢だけど
仙石が補給名目の収奪や苦役等の軍政で在地勢力の反感を買ったあたりから
十河・長宗我部共に距離を置き始めた感じがありますね

269人間七七四年2018/10/05(金) 21:12:44.95ID:lNaCgzgy
大友って土佐一条氏を支援してたよな。

だから大友と長曾我部の関係ってあまり良くなかったんじゃないかと思うんだが、どうだろう?

270人間七七四年2018/10/06(土) 01:39:17.12ID:mHUusYx1
大友宗麟の娘が一条兼定の継室だけど婚姻したのがまだ土佐に影響力があった時代のことで後に大友は一条の領土回復を支援してるけど改宗した婿のために義理を果たしただけとちゃうんかな
大友にしたら土佐なんかいらんし彫塑とコトを構えようなんて思ってないかと

271人間七七四年2018/10/06(土) 09:45:56.70ID:TCdNhDe3
宗麟が四万十川合戦で義理を果たしてからもう10年以上経ってるし
仙石はアカンけど長宗我部親子はまぁ見どころあるわってフロイス評や
戸次川前後の元親・宗麟のお手紙やり取り見ると悪くはない感じはするね

272人間七七四年2018/10/06(土) 18:49:49.54ID:q4XVtgoD
天文13年(1544)、斎藤道三が織田信秀方の大垣城を攻めた際のこと、
道三は近江国よりも加勢を請い、霜月(11月)の始めより大垣城へ押し寄せ、二重三重に
取り巻いて、持楯掻楯を突き寄せ突き寄せ攻めた。敵味方の鬨の声、鉄砲の音は山河を動かす
ばかりであった。

道三方の陰山掃部助という者、軍勢を分けて牛屋の寺院を焼き払おうとして向かったが、
床机に腰を掛けて諸卒を下知していた時、寺内より流矢が来て陰山の左目に二寸ばかり
射込んだ。彼はすぐにその矢を抜いたが、直後また流矢が来て今度は右目へ刺さった。
このため起きようとも起きられず、動くことも出来ず、ただ呆然としてそこに有った。

俄に両眼が射潰されるなど只事ではないが、その理由としてこのようなことが言われた。
かつて平家の侍大将であった悪七兵衛景清が差していた”あざ丸”という太刀を、去る
9月22日の大合戦(斎藤道三が稲葉山城に押し寄せた織田信秀を撃退した加納口の戦い)の
折、織田方で討ち死にした千秋紀伊守が最後に差しており、これを陰山が求めて差したのだが、
幾程もなく盲目と成ったことこそ不思議である。

その後この刀は、丹羽長秀の所有と成ったが、長秀もこれを所持して目を以ての外に患い、
さてはこの刀を所持した者は必ず目の祟に合うのではないかと沙汰され、熱田大神宮に進ぜようという
事となり、宝殿へ納めると、即座に眼病は平癒したという。

(甫庵信長記)

273人間七七四年2018/10/06(土) 19:20:01.23ID:FUVuOp6w
>>272
景清の刀が戦国時代まで残って使われてこんな騒ぎまで起こすとかロマンだ…。

274人間七七四年2018/10/06(土) 19:22:53.02ID:wcyDn2+q
景清「頼朝を討とうとしたら果たせなかった。
源氏の世を見るくらいなら我が両眼をくりぬいて清水寺に奉納してやる!」
をネタにした「景清」という落語を思い出した

275人間七七四年2018/10/06(土) 19:52:21.68ID:aW8FcG6c
>>273
残っているのはさておき、実戦で使うとは…。
当時でも価値は文化財的なもんじゃないの?

276人間七七四年2018/10/06(土) 19:56:27.77ID:bWFQtJT4
源平討魔伝か

277人間七七四年2018/10/06(土) 20:11:11.24ID:HbSLVMGi
1万以上も記事があるのに何故この逸話がないのかが不思議だから投下。
今回は城の看板から。そのまま書くのは憚れるので、表現を加えたりします。


戦国時代の建築は死と隣り合わせと言っても過言ではない。運んでいた石が落下したり、積んでいた石垣が崩れ落ちるなど、死者は相当なものであった。
そのため、当時は人柱をすることで災害などで破壊されないように城の完成を祈願する目的があった。
この当時、誰が人柱になるかはそれぞれ異なっており、たまたま通りかかったから人柱にされたり、定めた日の1番目にその城に来たから人柱にされたり、籤引きによって人柱にされるケースもあった。


1576年、柴田勝豊は丸岡城を築城していた。
しかし、何度天守閣の石垣を積んでも崩壊したため、人柱を入れることとなった。
そこで選ばれたのが2人の子供を抱えて貧乏な暮らしを強いられていた隻眼の女性であるお静であった。
生活に困窮していたお静はせめてでも子供だけはという親心があったのか、子供のうち1人(2人説もある)を侍に取り立てて勝豊に仕えさせてもらえないだろうかと頼んだ。
勝豊のほうもこの条件で了承し、お静は人柱となって埋められた。


こうして丸岡城の天守閣は立派に完成した。
さあこれでお静の子供も侍に、となるはずであった。
ところが、勝豊はどこぞに転封を言い渡された。(長浜には1582年に転封)
『息子を侍に取り立てるだと?あれは嘘だ。』とばかりに、お静の子供は侍にしてもらえなかった。恐らく転封先でさえ連れて行ってもらえなかったのだろう。


折角自らの命を犠牲にしてまで子供の幸福と城の繁栄と引き換えにしたお静はこの反故に失望と激怒したことだろう。
お静は事実上怨霊となり、藻刈りをする卯月に大雨が降り、洪水が起きたため、人々は『お静の涙雨』(またはお静の血の涙)と呼び小さな墓を建ててお静の霊を慰めた。
(現在でもこの時期に雨量が増えるのは丸岡の両隣に該当する坂井市春江や勝山市が該当している。気象庁参照。)


一方、勝豊はお静が死んだ7年後に死んだ。
どこぞの西国の大名ならば人柱となって埋められたはずの娘が実は生きていたという美談があったものを、結局のところ今回は全員不幸になってて胸糞悪い。

278人間七七四年2018/10/06(土) 21:39:33.79ID:Ymc/oMUE
>>272
千秋も眼をやられて討ち死にしてなかったかな

昔、この逸話「あざ丸」がスレにあがったときは寺を攻めるんじゃなくて、敵城を攻めるときに寺に陣を敷いてたことになってるね

ガラケーなんで前の逸話を貼り辛いので貼らんけど

279人間七七四年2018/10/07(日) 14:38:32.53ID:G7rq19Uf
山伏、悪魔と語る不可思議の行為

日本人は巫術及魔術を好めり。此術に長ぜりと解する主なるものを山伏(Jamambuxen)と云へり。
「円き谷の士」といふ意味にして、彼等は悪魔と親密なることを信ぜり。

此等の魔術家は熱心及敬虔の好評を買はんがに二日、時には三日三夜目を閉づることなく、食事をも取らず。
彼等は此間に不可思議の行をなすが如し。即ち彼等の魔術を用ひて巧に死人を墓より取去る。
而して如何にして之を為すや、又何時之を運びたるかは何人も知らず。
尚彼等は多数協同して死人を起たしむることありと云ふ。
即ち彼等の前に強直になって横臥せる死人に対して呪文を唱ふるに、死人は蘇生して起上ること是れなり。

彼等は三月間の鍛錬、断食、不眠によって自己の修養を完うすれば、彼等は最も親しき知友を招きて
此目的の爲に作れる船に乗り、一同歓喜して身を海中に投ず。

日本人の死を怖れざる所以

凡ての恐怖及死の苦痛を軽んずる風を勧むること、彼等の宗教の如きはなし。若し斯くの如き恐怖に
畏縮する者あれば、之を卑劣漢として共に語るに足らずとす。蓋し彼等の信ずる所にては死は幸福に達する
確なる道なり。此説は古くより日本に受入れられ居たるが、他の地にも多く、殊にゴール、英國、獨逸等に於て
然りとす。

死を怖れざる人々の霊魂は公共の善の為、又は神の為に自己を捧ぐるものにして、死すれば直に楽園に移さると信ぜしなり。

(モンタヌス日本誌)

山伏のこととか日本人の宗教感のこととか

280人間七七四年2018/10/07(日) 15:22:44.89ID:KeNTnhbo
その日、秀吉は勢を分けて丹波亀山城をも攻め取り光秀の長子・十兵衛光慶をも誅殺し、信長公御父子を始め
本能寺・二条御所で忠死した人々を厚く改葬し、それより岐阜へ赴いて、

信長公の長子・三法師丸(信忠嫡子・秀信)に拝謁した。この時、柴田勝家も北国より馳せ上り信雄・信孝も
来会せられ、丹羽・池田などの輩も皆来会したところ、秀吉の計らいで三法師丸は今年わずか2歳ではあるが、

織田家の正統なので主君と定めて信雄・信孝両人を後見とし、信忠卿の御遺命であるからと前田徳善院玄以・
長谷川藤五郎(秀一)を保傅の役とし、三法師丸を安土に移した。また三法師丸が15歳になられるまでは、

信長公の所領の国々を諸将が配分して守護すると評定し、尾張は信雄、美濃は信孝、近江長浜に旧領を添えて
柴田、播磨と光秀が領した丹波を秀吉が預かり、丹波は以前養子と定めた信長公の末男・次丸秀勝(羽柴秀勝)
に授けるとのことだったという。これにつけても「秀吉の計らいは私無し」と言って人々は感服した。

若狭は丹羽、摂津尼崎は池田父子、伊勢長島は滝川に授けて5万石を渡し、3万石は蜂屋(頼隆)に授けた。
その他、近江30万石は三法師丸の賄料と定めた。何事も秀吉一人の沙汰としてなされ、信雄・信孝も一言も

加えること及ばなかった。丹羽長秀らはまったく秀吉の指示のままであえて異論を申す者もいない。柴田勝家
は大いに憤りを含んで秀吉の威権を嫉み、今日の評定の席上でも勝家は一人縁側へ出て投げ足をし、または

衣をかかげて尻を叩くなどして傲慢不礼の有様であった。このため丹羽は秀吉に囁き「ただいま四海は大いに
乱れている。貴殿に大望があるなら早く勝家を討ち果たしなされ」と言った。秀吉は大いに笑って、

「勝家は当家の元老宿将である。傲慢不礼も咎めるべきにあらず」と、少しも心頭にかけない様子に見えた。
さて諸将は三法師丸に拝謝して各々帰国に赴いた時、勝家は秀吉の帰路に伏勢を設けて秀吉を討たんとして

いるとの由が聞こえたので、秀吉は道を変えて早く美濃長松から近江長浜へと帰城した。勝家はこれを聞いて
自身は越前に帰るとして近江長浜を通行するという時に、「秀吉はどんな計略を設けているだろう」と大いに

気を遣い、美濃垂井の道で躊躇して大いに狼狽した。これを聞いて秀吉は大いに笑い、「私が何の遺恨あって
勝家を害するだろうか。心置きなく通行せられよ」と言って養子の次丸を人質に遣わすと、

勝家はようやく安心して木本辺りまで次丸を同道し国境より帰した。この時に人々は皆、秀吉と勝家の優劣を
察した。賤ヶ岳の戦いより前に、早くも勝敗雌雄は現れていた。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武家閑談・武徳編年集成)』

281人間七七四年2018/10/07(日) 15:34:22.16ID:Pi4MhT5K
>>280
>勝家は一人縁側へ出て投げ足をし、または衣をかかげて尻を叩くなどして
えぇ…w

282人間七七四年2018/10/08(月) 02:48:46.60ID:bp/PQxUM
名胡桃城について、北条氏直の言い分


天正15年11月に、北条家臣が名胡桃城を占拠する事件が発生した。
以下は同年に、北条氏直が秀吉の検使にあてた書状の意訳。

     条目
一、老父の上洛が延びたことで御立腹され、沼津に下向されるとのこと。
  六日の手紙は思いがけないことでした。そもそも夏に妙音院、一鴎軒(宗虎)が
  下向した際に、截流斎(氏政)の上洛はもちろんさせますが、今年は無理がある。
  でも来年の春夏の間になら出来ますよ。という話を筋道立てて説明したのに
  しきりにそれでは済みませんよと言ってきました。それで公儀の事は了簡に
  及ばないので、今月中に半ばまで行き正月中には京に着く予定にしました。
  先年家康が上洛した際には骨肉を結ばれて(秀吉の妹の朝日と家康の結婚のこと)
  大政所を三河にまで移されたとお聞きしたのに、名胡桃のことで御立腹されて
  いるので、ずっと留め置かれたり国替になるかもと方々から声が上がっています。
  一度(そっちに行ったら)帰国は出来ないんじゃないかと截流斎も申しています。
  (私たち)父子の国のこともお察しして下さい。だから妙音院、一鴎軒を招いて
  たとえこのまま在京になるとしても心中晴れやかに心やすく上洛するでしょうと
  申したのです。他の意味はありません。

一、今度の祝儀で上洛させようとした石巻(康敬)の待遇で、面目を失いましたのに
  更に私に対しての扱いもおかしいのはどういうことなんでしょうか。御両所に
  恨み入ります。四日に妙音院をこちらに招いたのは、石巻の待遇の理由がよく
  分からないので内々に尋ねるためだったのです。そうしたら途中で捕まった
  ことを聞かされたので、それは書付にて申し述べることとします。

一、こんなことになっていますが、疑心を持たずに扱ってくれるなら上洛すると
  截流斎は申しています。御両所の御分別に期待します。

一、名胡桃のことは一切存じません。城主の中山が出してきた書付によると
  既に真田がこちらへ渡していたものなので取り合いにはなっておらず
  越後衆が半ばあたりまでやってきて信州川中島と知行替えと申していると
  沼田から連絡があったので加勢したとのことです。越後のことは昔からの
  敵なのでやってきたら一日たりとも沼田は安泰にならないでしょう。まぁ
  彼が申すことが本当かどうかは知りません。家康にもこれを伝えましたから
  徹底的に調べて、二、三日中には報告することが出来るでしょう。決して表裏
  ではないですよ。名胡桃に下向されたとき、百姓屋敷を見分されたでしょうに。

一、以前給わった吾妻領は真田のせいで百姓が一人もいなくなりました。加えて
  中条という地では、人は以前のところに詰めていて渡ってきません。こういう
  些事は申すことではないので打ち捨てて下さい。なんといっても名胡桃のことで
  対決する上は何事もお任せします。以上。

  十二月七日     氏直
    富田左近将監殿
    津田隼人正殿


――『武家事紀 巻第三十三』

283人間七七四年2018/10/08(月) 09:38:17.76ID:w62eEAoQ
名胡桃城といえば考古学的調査で名胡桃城事件の頃の遺物はほとんど出土せず、
火災の痕跡も若干のみで、とても戦闘で落城したとは考えられず、平和裏に開城したのではないか、
という話が武井英文先生の『戦国の城の一生』に出てた。

284人間七七四年2018/10/08(月) 17:44:01.59ID:N7Ecm7CH
元親(長宗我部元親)は天正4年(1576)よりおよそ7年の間に四国を切り従え、天正10年には元親が
ことごとく押領した。(原注:長曽我部記・土佐軍記)信長公はこれを御聞きになって元親に対し、

「土佐・阿波両国は与えよう。伊予・讃岐は献上せよ」と仰せ遣わされた。元親は「これは思いも寄らぬ仰せ
かな。それがしが四国を押領したのは、まったくもって信長から恩賜されたわけではない。すべてそれがしが

数年武力をもって切り取った国々である。何の子細があって信長に進上することだろうか。仮に討手を差し
下されようとも、どうして容易に避け渡すことであろう」と返答した。これに信長公は、

「元親は猛勇に誇り、不礼の返答をしたことは捨て置けぬ。それならば武力をもって討ち滅ぼすべし」と仰せ
になって三男・三七信孝に四国を拝領なされ、「手柄次第に切り取るべし」と丹羽五郎左衛門長秀・

織田七兵衛信澄(津田信澄)・蜂屋伯耆守頼隆を差し添えなさった。この輩は「近日中に四国へと押し渡って
長宗我部の領国をことごとく切り取り、元親のこの頃勝ち誇る矛先を挫く」と大軍を引き連れ摂津住吉の浦に

参着した。折しも梅雨の晴れ間もないので大坂の城で人馬を休め、雨が晴れて順風の時節を待って過ごした。

古写本の長曽我部記、ならびに土佐軍記を捜索するに元親は四国押領の後は織田殿へ5,6度も使者を出して
ますます昵懇との旨を記し、織田殿がとかく争論したとは見えない。まして信孝の四国拝領のことも聞こえず。

今その事情を按ずるに、元親は明智光秀の被官・斎藤利三の妹婿である。それゆえに元親がその初め織田殿へ
通じた時も光秀の計らいであっただろう。とすれば光秀の救援となるのは元親の右に出る者はいない。

織田殿は近頃光秀を快しとされなかったために、その助けとなるであろう元親をまず除きなさらんとの内意で
元親へは御指図もなく信孝らをただちに討手に遣わされたのか、または三好笑岩(康長)は秀吉の甥・秀次を

養子としたわけだが、いま四国で元親に従わないのは三好一族ばかりであった。その三好が元親に攻められて
危うきこと旦夕に迫るゆえに、笑岩から秀吉の備中の陣へそのことを申し送って愁訴し、秀吉から織田殿へ

四国征伐を勧めてにわかにこの事が起こったのか、この二つの内どれかだろう。元親の側ではその事を知らず、
その内に織田殿も横死され、信孝らも大坂まで出軍したのみでこの事は止んだために、四国の側ではこの事に
ついてまったく取り沙汰さなかったものであろう。

――『改正三河後風土記』

285人間七七四年2018/10/08(月) 23:36:26.88ID:dZDk1bmh
うちの実家に伝わる本当かどうか微妙な話を一つ

我が家の祖先は元は甲斐の豪族にて武田家に仕えていたそうな。
ところが高天神城に詰めていた息子が討ち死に、徳川を敵と誓う。
しかし木曾が謀反を起こし、その征伐に向かっている間に、穴山が裏切りあっけなく武田家は滅ぼされた。
そこでどこをどうしたか分からないが、ご先祖様は親戚筋を頼って当時徳川(織田)と敵対していた毛利家に出仕。
今度こそ徳川都の戦をと意気込むも、毛利は徳川と和睦してしまう。
その後ご先祖様は風邪をひいてそのまま昇天、かたき討ちは子孫に引き継がれることとなる。
でもって、孫の代になって関ケ原が発生、すわ伯父のかたき討ちと意気込んで出陣したら吉川の裏切りで戦うことすらできず。
さらに山口に封じられて、毛利家はリストラの嵐。うちの一族はは帰農する羽目になった。
時は経って幕末、うちの一族は農民になっても代々徳川討つべしと伝えられていたため、奇兵隊が結成されるとすぐさま長男が募集に応じ、長州征伐の幕府軍と交戦その戦いで討ち死にしたそうな。
(うちは八男の家系)
以上、どこまでいっても徳川への恨みを晴らせなかったうちの一族の物語でした。

286人間七七四年2018/10/09(火) 00:32:46.70ID:VBumKs8/
今からでも徳川への恨みを晴らそうぜ!

287人間七七四年2018/10/09(火) 08:02:42.46ID:hx8dv+Kn
新撰組だと長男の入隊は土方が認めていなかったと伝わってるようだけど、さすがに奇兵隊は違ったか

288人間七七四年2018/10/09(火) 17:04:02.59ID:3PE+0Tuk
(武田氏滅亡後)

やがて信忠卿は諏訪へ参向されて父子は対面された。信長公は今回の信忠卿の大功は比類なしと
たいへん御誉めになった。かくて父子は計りなさり、

「徳川殿は駿河の諸城を速やかに攻め抜きなさり、その軍功はまったく軽んじるものではない」

として神君に駿河一円を進上された。神君は厚く感謝されてその上で、

「私めと今川家の旧好は忘れるべきものではありません。駿河は今川の旧領なので半国を分けて
氏真に安堵仕られたく存じます」

と仰せになった。信長はまったく御承知にはならず、

「何の用にも立たぬ氏真へくれてやりなさる程に必要ないのならば、信長が所領する!」
(何の用にも立たざる氏真へ、くれられ候程用なくば、信長所領すべし)

と御怒りになったので、駿河は一円に神君の御領地となされた。

――『改正三河後風土記』

289人間七七四年2018/10/09(火) 23:46:05.12ID:9iQGbbh4
後の交流からして意外と家康は本気で今川に恩を感じていたのかもしれない
それにしても到底本気とは思えず対外的なアピールであろうが
それにしても氏真に駿河半国分けたいとか
生き馬の目を抜く戦国の時代に言うとは到底思いがたいな
後世にできた逸話に真偽を問うのは野暮だと判ってはいるが

290人間七七四年2018/10/10(水) 10:17:50.10ID:qxcritGB
秀忠と違ってカミギミは自費不快のです

291人間七七四年2018/10/10(水) 10:25:59.57ID:LoT/qsy1
>>289
信長急死後、甲斐信濃手に入れても返してない所から見てもな・・・・・

292人間七七四年2018/10/10(水) 19:28:27.93ID:35C0sJ8M
まあ駿河方面への調略に、上手く行かなかったとは言え氏真に協力してもらっていた以上、
心にもない事でも立場上言うだけは言っておく必要があったのかもしれん。

293人間七七四年2018/10/10(水) 20:19:13.07ID:dpeX0mQH
>氏真
同盟破った武田は恨んでたけど徳川は別に恨んでないってのは武将らしくて好きw

294人間七七四年2018/10/10(水) 21:01:48.05ID:y0IcR6Me
>>287
それは浪士組として上京して、京都に残るメンバーを選別した時だな
新選組として徴募したときには特に制限してない

295人間七七四年2018/10/11(木) 00:09:20.94ID:DnnVud2J
>>293
まあ徳川が占拠した遠江はあくまで植民地で、武田が攻めてきた駿河は本国そのものだしな

296人間七七四年2018/10/11(木) 03:10:10.73ID:CX/7Sqex
小田原では北条氏政父子が織田殿横死と聞いて大いに喜び、天運時至れりと大軍を催した。大手の大将・
新九郎氏直は富田・石神の方から軍を進め本庄に旗を立てた。御陣は左京大夫氏政3万余騎が松山筋より

武蔵吉見山・冑山辺りを本陣として先手は神奈川(神流川)・烏川辺りに軍を進める。父子は大手・搦手
に向かって総勢5万余騎が6月18日、本庄に着陣す。氏政の弟の武蔵小衾郡鉢形城主・北条安房守氏邦

は血気の若者であった。氏邦は「滝川勢は信長父子が横死して上方騒動の沙汰を聞き将卒とも心は臆して
はかばかしい合戦はできまい。上野・武蔵の輩は余儀なく滝川に一味するといえど真実身命にかえて働く

はずはない。一益は鬼神であるとも頼むところは手勢だけで何程のものか! 今追い討ちして高名せん!」
とその勢5千騎ほどが陣列を離れ馬を馳せたのだった。滝川一益は滝川彦四郎法忠(忠征)に2百余人を

添え厩橋城を守らせ、津田小平次長興・稲田九蔵に8千余兵を添え松枝城を守らせ、自身は1万8千余兵
を連れて武蔵・上野の境の神奈川・烏川の辺り金窪の台に陣を張る。上野衆の小幡・内藤・和田・由良・
安中・深谷・成田・上田・高山・木部・長尾・真田らが所望して先陣に進んだところ、北条方は氏邦が

血気にはやり敵を大いに見侮った。前後を見定めず鬨を揚げ打って掛かるが、上野衆は武田信玄・勝頼に
属して軍旅に老練した者共どもである。少しも騒がず馬の鼻先を魚鱗に並べ敵が来るのを待ち受けた。

半町ほどに軽卒どもを先に立て、矢砲を激しく放って先駆けの北条勢数十人を打ち倒し、馬の足がしどろ
もどろになるのを見澄まして、大風の発するが如く馳せ掛かり突き立てた。頃は天正10年(1582)

6月19日、草木も動かぬ炎天に具足を着て息を揉み馳せ合ったために、流れる汗は目口に入って太刀の
打ち所も定かならず。北条方は石田大学・保坂大炊助を始め屈強の者ども2百余人が討死し、上野衆も

佐伯伊賀守を始め180人ほどが討死し、互いに多くの手負いを出した。北条方はほうほうで八幡山の方
へ引き取ったので、上野衆も烏川の水辺に集まり暑気を凌いで馬の足を冷やしていた。北条方は先手の

敗軍を見て新九郎が大いに怒って命じ、二陣の松田・大道寺を始め雲霞の如く深谷の方から打ち出でた。
一益がこれを見て、「今度は一益が一戦して雌雄を決する! 上野衆は後より続かれよ!」と先に進めば、

滝川儀太夫(益氏)・津田治右衛門・同八郎五郎・同修理・稲生対馬・富田喜太郎・牧野伝蔵(成里)・
谷崎忠右衛門・粟田金右衛門・日置文右衛門・岩田市右衛門・同平蔵・太田五右衛門以下逞兵3千余人が
神奈川を後ろにあてて玉村の方に向かって座備を設け敵を待った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』

297人間七七四年2018/10/11(木) 19:18:19.04ID:fnyKwghu
(神流川の戦いの時)

北条方は先手の敗北により二陣を差し向け、滝川一益はこれを迎え撃たんと逞兵3千余人が神奈川(神流川)を
背に敵を待ち受けた。北条勢は尽く坂東生まれの馬達者であり「上方の小勢何程のものか! ただ蹴り散らして
捨てよ!」とまっしぐらに打って掛かる。

滝川方は小勢といえど死を覚悟した者どもなれば、掛かりに掛かって息をもつがず喚き叫んで苦戦した。そこで
北条勢は偽って走り、小勢を真ん中に引き込んで包み討ち取らんとわざと逃げ走ったが、あまりに激しく追い

立てられ思いのほか討たれる者少なからず、滝川方は後陣の備になだれ掛かり氏直の本陣までも友崩れして逃げ
ようとした。そこへ冑山の方に陣を取っている総大将・氏政の先陣・伊勢備中守貞宗や芳賀伯耆守正綱を始め

1万余騎が北条美濃守氏親を先手の部将として神奈川を馳せ渡り、滝川勢の後脇から例の騎馬達者の坂東武士が
鬨を作って馳せ立てた。滝川儀太夫(益氏)始め津田・岩田・粟田・太田などの逞兵どもは、堅を破り鋭を砕き

奮戦するもついに駆け負けて敗走した。この時、一益は大声を揚げて「死生命あり! 運は天にあり! 坂東武者
との合戦は今日が始めなるぞ! 卑屈な振舞いで織田殿(信長)の御名を汚すな! ただ引き組んで討死せよ!」

と命じ、津田・粟田・太田などの勇士どもは「仰せになるまでもなく!」と馬の鼻を引き返して3千余人は大山
の崩れるが如く馳せ掛かる。北条方は大勢なのでひしひしと取り籠めて討ち取らんとするのを、破っては通り

取っては返し奮戦するも、氏親は胸に孫呉の兵法を蓄えた勇略無双の名士である。氏親は正兵・奇兵を入れ替え
攻め戦う。折しも氏直本陣もまた盛り返して大軍が左右より激しく攻め立て、一益も既に危うく見えたところで

津田治右衛門・同八郎五郎・同修理亮・岩田平蔵・同市右衛門・粟田金右衛門・太田五右衛門・篠岡伊右衛門を
始めとして屈強の滝川勢5百余騎が討死し、その他手負いも多いので一益は後陣の上野衆に使いを立てて、

「各々の合力あらば再戦して運の程を試みたい」と申したが、上野衆は「今朝の合戦に疲れ、そのうえ手負いも
多いので今日の再戦は御免蒙るべし」と申し、一益は今は力なく厩橋城に引き返した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』

298人間七七四年2018/10/11(木) 19:39:04.99ID:fnyKwghu
>>297
“北条美濃守氏親”は原文ママですが氏規でしょう

299人間七七四年2018/10/11(木) 22:26:57.76ID:X89uqhYO
>>296
大筋は関八州古戦禄あたりと同じだけど、細かいところは違うね。

300人間七七四年2018/10/11(木) 22:35:21.71ID:mhQerXtd
>>297
かなりの激戦なのにあまり有名でないような。大河ドラマ花の慶次に期待か。

301人間七七四年2018/10/11(木) 22:37:00.47ID:FSB7uYKJ
ドラマ的に言えばこれは勝つ!と思わせるシーン満載な滝川軍が
結局負けちゃう話だからなぁ…

302人間七七四年2018/10/11(木) 23:20:55.14ID:F7zdw75u
>>298
親と規って崩すと区別つかんもんな

303人間七七四年2018/10/12(金) 18:33:44.02ID:b1m9QGCZ
穴山梅雪は曽根内匠と共に駿河江尻城の番手であったが、徳川家康へ内通せんとした。
しかし梅雪の妻子は人質として甲府に有ったため江尻を引き払うことは難しく、しかもその頃は
武田勝頼が梅雪のことを疑っていた。

そこで梅雪は密かに家康に内通を打診した。そして徳川方より『返忠可被仕』との書状を携えた
施設が来たのを忽ちに殺し、その書状およびその頸を勝頼へ送った。
勝頼はこの計略に偽られて、梅雪を疑う心が和らいだため、彼は妻子を引き取ることが出来た。

(士談)

304人間七七四年2018/10/13(土) 07:17:14.82ID:JE2AuLW6
>>303
誤変換で施設になってるぞ

305人間七七四年2018/10/13(土) 14:34:58.06ID:+oppITPP
日本人は他の諸国民と、衣服・言語・文学。風俗および儀式において、想像の出来ないくらい違っている。
もし人間に種別があるのなら、我々は日本人とは違った種類であると言うべきだろう。

彼等の頭には、通常夏も冬も何もかぶらず、髪もない。衣服は絹および木綿の大きい各種の色物で、
絵があり、腕は肘まで顕にしている。また人々が夏の衣服に衣替えする定まった日があり、冬の衣服に
衣替えする別の日がある。これは確定したもので、何人もその日を間違えることはない。

その食物は他の諸国民と全く異なり。果実も甘いものも食べない。また油、酢、または香料の加わった
ものも食べない。牛乳とチーズは有毒なものとして嫌い、ただ塩のみで味付けをし、ある地方では
塩そのものが食料品である。
大多数の日本人は米と各種野の草や貝類を沢山食べ、野の草と貝類、および塩を以て栄養を取る者が多い。

皆、いかに暑いときでも、耐えられるだけの熱さの湯を飲む。また冬は同じ様に酒を飲む。
饗宴には無数の食物を供するが、その中には必ず生魚が加わる。彼等は大いに喜んで悉くこれを食うが、
パードレ達にとっては、宴会に出ることは非常な苦痛である。何故ならば宴会に出る15ないし20の食物の内、
手を付けられるものは一つもないのに、食わぬことは不可であり、だからといって食うのは相当に苦しい
ことなのだ。
我々が生魚を食わないことを彼等は怒りはしないが、もしこれを食うところを見れば非常に感激し、
彼等を喜ばせるために我慢するほどの者は必ず聖人で、天より来た者であろう、などと言うのである。

音楽は自然なものも、作ったものも不調和で、耳に厭わしく、15分聞くのも大変な苦痛だが、日本人を
喜ばせるために、我々は数時間聞くことを余儀なくされる。彼等は非常に音楽を好み、世の中にこれと等しい
物はないと考えている。一方で我々の音楽は、オルガンで演奏された歌でも彼等日本人にとっては相当に
嫌なものであるらしい。
彼等は祭りのさい様々な演劇をするが、音楽が必ず前奏される。

日本人は一般に甚だ健康であるが、気候が温和で健康に適しているのと、大食をせず、また多くの病気の
原因と成る冷水を飲まないためであろう。そのため病むことが有ってもほとんど薬を用いず、短期間に健康を
回復する。彼等は一切の病に際し、銀の針を胃・腕・背中などに刺す習慣である。また野菜を以て作った
火をつけるボタン(もぐさ)を用いる。

彼等は多くは眠らず、眠りも甚だ軽く、このため茶を飲む。この事と、多く食わぬことより良き判断と
工夫が生じる。彼等は、我々の文字は2ヶ月で覚える。甚だ良い記憶力を有し、少年は皆、いかに
複雑な使いの口上も、言われたとおり正確に伝え、大人たちはキリシタンに成って1年に達せぬ者も
生まれた時よりキリシタンであった者のように我等が教えを説く。

(『イエズス会日本年報』1586年1月6日付、パードレ・ロレンソ・メシヤ書簡)

刺し身の下りが、外国人が納豆食べた時の反応とそっくり

306人間七七四年2018/10/13(土) 17:01:04.74ID:MXurdPMO
鏡山合戦の後に毛利幸松丸が幼くして死去した後、合議により毛利家の家督は元就が継いだものの、
家中ではそれに反対する動きも有り坂広秀、渡辺勝らが元就の異母弟、相合元綱を擁立して尼子家と結んで元就に対し叛旗を翻す企てが立てられた。
いち早くそれを察知した元就は先手を取ってお抱えの琵琶法師、勝一を弟の元へ送り込み、ある日夜更けまで弾語りを聞かせて屋敷の者共が眠たくなった頃、
勝一に琵琶の音で合図をさせあらかじめ伏せていた兵に屋敷を強襲させた。
襲撃に気付いた元綱と30名ほどの家臣が抗戦し、元綱自身も鎗を持って古の源九郎判官義経の如き軽業で三間程の空堀を飛び越え奮戦して数多の敵兵を討ち、
300ほどの討手の兵を一時二~三町退かせはしたが深入りした所を討手の大将、志道広良の指示で矢を射かけられ、何本かの矢に貫かれて動きが鈍くなり、空堀に落ちた所を鎗で突き伏せられた。
元綱は伏せながら敵方の鎗を7本まで取って撥ね返したものの、数多の兵の手により終にそこで討たれてしまった。

(陰徳太平記 相合就勝謀叛付生害之事)

陰徳太平記では何故か元綱ではなく元就と元綱の弟である筈の就勝の名で書かれている

307人間七七四年2018/10/13(土) 17:20:47.52ID:Pbt1Zx4y
>>306
義経並って凄い褒めようだね、やっぱり謀殺した負い目があって持ち上げたのかな。

308人間七七四年2018/10/13(土) 17:48:01.15ID:9feaRx68
相合元綱が討たれるのを見た家臣らはその後
何の為に命を惜しむべきか!

と敵の中へ駆け走り打ち違え、刺し違え枕を並べて切り死にした。
元綱の家臣の一人、中原善左衛門兼勝は聞こゆる大力の剛の者であり数名の敵を切り伏せ辺りを伺いフラフラしていた所、
討手の大将、志道広良が小高い場所から兵に下知しているのを見つけると、つっと走って広良に駆け寄り鎧の袖を捕えると、

「御手に懸けられ候」

と言う。兼勝の大力に捕えられた広良は堪り兼ねたか中原の命を惜しんだのか

「心やすく思われたし、命をば助け申す可し」

と、兼勝を助命すると申し出た。兼勝は

「然らば御誓言候へ」

と迫り、広良は

「摩利支尊天も御照鑑あれ!広良身に代えても申し助け候べし!」

と誓いの言葉を発し、それを受け兼勝は広良の拘束を解いた。

(陰徳太平記)

この後、広良は約束通り兼勝の助命を元就に請い中原善左衛門は生き延び、後にその弓の腕を持って吉田郡山城の合戦にて尼子久幸を討ち、
山中鹿介に内応した神西元通に討たれる最期の時まで毛利家に忠を尽くした。

309人間七七四年2018/10/13(土) 18:00:20.63ID:9feaRx68
>>307
兄である元就に付き従い有田の戦いでも倍の兵だった武田勢相手に活躍しているから、武勇に優れているのを今義経と言われたのか
若くして仲違いして(異母)兄に討たれる事になる武勇に優れた(異母)弟と言う境遇から今義経と言われたのか、どっちなんだろうね?

310人間七七四年2018/10/13(土) 19:46:33.21ID:+oppITPP
日本人の清潔を好むことは想像が出来ないほどで、特に家および常に座する畳の清潔なことは、
最も忠実な聖器所預かり人の保った祭壇の清潔さに比べることができる。私はビジタドールのパードレと共に
織田信長、及び内裏の邸に行ったが、新しい靴でなければ入ることが出来ず、広間を通る時には、
暗黒の祝日の墓所の階段を登る時のようで、しかも一人が箒を持って塵を掃きつつ後ろから随って来た。
土間、及び縁側も清潔で、唾を吐くことが出来ず、ハンカチを用いなければならない。

台所には大きな鍋があり、沸騰していたにもかかわらず、水も灰もその他も、箒で掃いたように綺麗であり、
馬の居る厩もまた同様であった。

信長がその居室に落ちていた果物の皮を掃かなかった少女を斬り捨てたのは驚くに足らぬことで、
非常に清潔に注意するため、少しの不潔も大いなる罪と成るのである。

広間、居室、聖堂等は皆畳を敷き、外で靴を脱がねば入ることが出来ない。
庭(niuas)すなわち庭園は常に清潔で、箒を以て掃き、特別の位置に据えたものの他、一草一石も無く、
果樹を喜ばず緑と陰を珍重する。

(1586年1月6日付、パードレ・ロレンソ・メシヤ書簡)

ちょっとまて信長果物の皮掃き忘れた女の子斬ったんかい。

311人間七七四年2018/10/13(土) 20:57:51.28ID:z69OWUY6
信長って自分の爪を小姓たちに切らせたときに1つ隠して、あとでわざと落としたことあるよね

中国の逸話が元ネタだけど

312人間七七四年2018/10/13(土) 21:22:11.58ID:dQRjJYkR
内裏の邸って安土城を指すのかな?

313人間七七四年2018/10/14(日) 14:44:33.30ID:EdAdicSZ
その昔、飯錫の里(広島市安佐北区飯室、鈴張の周辺)は砂鉄がよく取れこの地には腕の良い鍛治職人が沢山いたそうだ。
その中に茂左衛門と言う鈴作りの名人が居たが、茂左衛門の作る鈴は評判が良く彼が作る鈴を馬に付けて戦をすると負ける事が無いと言う評判だった。

ある時、茂左衛門の鍛冶場へ200頭の馬をつれた立派な殿様の行列がやってきた。
 殿様は茂左衛門に鈴をできるだけ沢山作ってほしいと頼んで馬に載せてきた金を前金として渡し、少なければまだやろうと言ったそうだ。
 その代わり、これより三年間は他所の殿様が鈴を頼みこんでも一つも売るなと命じて鍛冶場を後にした。

それからと言うもの茂左衛門は朝早くから夜遅くまで鍛冶場から槌の音が絶える間もないほどに働いて多くの鈴を作った。

三年後、殿様の行列が再び茂左衛門の鍛冶場を訪れた。殿様はこの三年、茂左衛門が誰にも鈴を売らなかった事を聞くと満足して鈴を受け取り馬に付けさせ、礼金を払って鍛冶場を後にしようとした。

その時、殿様は茂左衛門を「こちらに来い」と手招きして呼び寄せた。
茂左衛門が前に出て膝をつき首を垂れた瞬間殿様は刀を抜くと茂左衛門の首を切り落としてしまった。
他の殿様に鈴を売られぬ様に茂左衛門を殺してしまったのだ。

しばらくして殿様は何千騎と言う味方の馬に茂左衛門の作った鈴を付け、意気揚々と敵対する殿様の領地へ攻め入った。

しかし、茂左衛門の作った鈴は鳴る事なく殿様の軍は散々に打ち負かされてしまったそうだ。

今でも大晦日の丑三つ時になると茂左衛門の鍛冶屋敷跡からシャーンとそりゃあきれいな鈴の音が聞こえてくるという。

飯錫の里が鈴張と呼ばれる様になったのは昔、茂左衛門のような鈴職人が沢山居たからといわれる。

(広島県の民話)

この戦に敗れたお殿様は毛利・吉川連合軍に有田中井手の合戦で敗れて戦死した、武田元繁では無いかと言われる

314人間七七四年2018/10/14(日) 17:38:48.03ID:ocNGDShA
>>313
鈴の音でそんなに士気とか変わるんだろうか、むしろないほうが安定しそう。

315人間七七四年2018/10/14(日) 18:15:31.62ID:LpAKMWMr
>>314
装飾品でしかないんだろうけど、華美に見えたり味方で統一して装備してたら士気が上がるとか、敵味方の区別をつける為に役立ったとか?

316人間七七四年2018/10/14(日) 21:19:14.41ID:FVCoKXYq
長久手合戦の時のこと

森武蔵守長可は美濃国金山が居城のため、大垣にほど近く油断していたため、池田勝入に先に
犬山城を占拠されたことで大いに焦り、池田へも知らせず犬山の先に進出し、羽黒八幡村を後ろに見、
前に小川を隔て、いかようにも一働き致すべきと、備えた。

この時、八幡の林に大蛇が出た。神主は「これ則ち八幡宮の御神体です!御勝利疑いありません!」と
申し上げたのだが、武蔵守は

「こんなものが八幡の神体なものか!(何條八幡の神体可成)」

と、これを引き裂いて捨てたという。金山から羽黒まで六里である。

森長可は血気の勇将であり、古より良将は神威を尊ぶということを知らなかった。
木曽義仲は新八幡に願書を籠めたし、織田信長も熱田神宮へ祈誓した。彼は良将とは大いに違っていた。

(長久手戦話)

317人間七七四年2018/10/14(日) 23:02:19.41ID:1wqlULXN
脱ぷん状態でタクシー乗車とがめられ立腹 連れの男が運転手殴打
https://www.kobe-np.co.jp/news/jiken/201810/0011730219.shtml

神君も脱糞状態で茶屋を利用したから老婆に咎められたのだろうか

318人間七七四年2018/10/17(水) 02:22:43.06ID:+jmlmL63
幼児に聞かせる物語でも心得があるべきだ


池田光政様が母君の福照院様のところへお越しになったとき
福照院様が何でもいいから御物語をするようにと仰せられた。
吾(作者、このとき十五、六歳)は、童の時に人から語り聞かされた
後も先もない物語を慰みとして一つ二つ申し上げますと言って話した。

一休和尚が道を歩いていると、道の傍の木の梢に童が一休に小便をかけて
ひどく笑った。一休は腰から銭を取り出してその童にやり
「よくもかようの仕打ちをしたな」
と言って去っていった。その童はよいことをしたのだと思って、人が通ったときに
また同じことをして銭を貰おうと待った。そこに士が通ったので、さっきのように
小便をかけて笑ったところ、怒った士にぶたれてしまった。

一休が利口なので人を使って意趣返しをしたのです、と申し上げると光政様は
「この物語の趣旨はそうではないだろう。一休に誠の志があるなら最初に
 小便をかけられたときに強く叱って、私は出家しているからぶたないが
 他人にかようの仕打ちをしたら命を失うぞ、と教えてやればいいのにどうして
 銭をやり人に仕返しをさせるのか。よこしまな心があったからではないのか。
 かような話が若輩の者の心にかなうはずがない。幼児に聞かせる物語でも
 心得があるべきだ」
と仰せられた。愚耳に留まったので記す。


――『烈公間話』

319人間七七四年2018/10/17(水) 14:32:15.93ID:pOFKU+KZ
一休ならありえる話と思えてしまう

320人間七七四年2018/10/17(水) 15:53:08.01ID:EuvSQKPV
>>318
一休はとんでもない食わせもんだしなぁw

321人間七七四年2018/10/17(水) 16:06:42.37ID:mXcoWGCT
一休の捻くれ具合を知らんかったんだろうなぁ…

322人間七七四年2018/10/17(水) 21:29:26.72ID:dTQ+W14S
東国の人である下瀬九太夫という武士が、上方へ上り、しかるべき人が有れば主取りをしたいと考えていたが、
近江で佐々木承禎(六角義賢)に認められ、その家臣と成った。

そうして一年ばかり過ぎたある時、六角家中の人々が寄り集まって様々な物語をする中、茨木兵太という者が
このように申しかけてきた

「九太夫殿は遠国よりはるばると上方まで上ってきたその志、誠に大切なことです。
そうであれば、弓箭の道にも定めて通じられていることでしょう。」

下瀬は答えた
「太刀打ちの勝負、弓法の事などは、侍の身につける基本的な所作ですから珍しいことではありません。
その他の芸がある事こそ大切だと思います。」

それでも茨木は望んだ
「そうは言われますが、兵法弓法は侍の所作なれども、私は不調法で身についていない者ですから、少し
ご指南を受けたいのです。」

「歴々たる御身代をお持ちの貴殿が、どうしてそのような事があるでしょうか。その様に仰るからには、
貴殿は私には無い、珍しきことを様々に身に付けているのでしょう。私こそご指南を望みたい。」

このように少し言いあいに成りかけた所で、側に居た人々が
「わかったわかった、武芸は武士の嗜道と決まっているが、総じて諸芸に付いて善悪の評価は有るものなのだから、
あまりそういう論議をするべきではないよ。」

そう言い紛らわしてその場は止んだのだが、これ以降下瀬と茨木は、表面上何も気にしていないようでも、内面には
心にかかるものが残った。

それから五十日程過ぎて、六角承禎は鷹野に出て終日狩りを行い、そのまま「猪狩をすべし」と、
侍衆三百余人を引き連れ、郷人達を勢子として獲物を追い立てさせ、狩りをしている所、大山の茂みより
巨大な猪が勢子に驚き、峰からまっすぐ下へと駆け下りた。
茨木これを見つけ、良い折だと弓を射たが、猪の前脛の高骨に当たり、矢は空へと蹴り飛ばされた。

猪は矢の当たったことなど物ともせず谷へ向かって駆け下りていたのを、下瀬も見つけ、射掛けた所、
その矢は脇腹を貫き、猪はたまらず岩のある方へ逃げた。

ところがこの時、茨木の者たちが下りてきてこの猪を捕ろうとした。当然下瀬の者たちも下りてきて捕ろうとした事で
互いに口論となり、茨木兵太は駆け寄ってきて、下瀬の者たちを弓で散々に打擲した。
下瀬はこれを見て馬にて駆け寄り、内々に意趣を持っていたため

「いかに茨木殿、猪狩りの法を未だ貴殿は知らないのか!?二の矢にて仕留めた猪を奪い取ろうとするのみ成らず、
私の者たちを打擲までしたこと、奇っ怪である。猪がほしいのなら取らせよう。」

これを聞くと茨木は
「人の猪を奪おうとしたから打擲したのだ!取らせようなどと、誰に向かって言っているのか!」
そう怒鳴るや、二寸七尺の太刀を抜いて打ちかかってきた。
下瀬も抜き合わせ、即座に茨木の弓手(左)の肩をしたたかに打ち付けた。
すると茨木の郎党たちがすかさず寄ってきて、下瀬の腰を切りつけたが、切りようが甘かったか、物ともせずに
平打に打ってまわり、たちまち五、六人を切り捨てた。
しかしそうしている内に、人々が彼を囲み、遠矢にて、まるで雨にように矢を射掛けたため、ついにこれにて死んだ。

(義殘後覺)

323人間七七四年2018/10/18(木) 00:17:52.70ID:/dVSBscy
長久手古戦場と白骨


長久手原の御一戦から当年(宝暦4年)まで百七十一年。

戦場の小高い所には悉く白骨、平地も貝殻のように砕けているのはみな人骨である。
この一戦で、秀吉方で討ち死にしたのは一万五千人余り
当家(池田家)で討ち死にしたのは一千七百人余りという。
この合戦後三年の間は田地が死人の血油で肥え過ぎたため、稲は実らなかった。
合戦の翌日に、農夫二十人が物を拾いに行って、残らず死んだという。

(中略)

活賀五郎左衛門という者が牛を放してしまい、勝入塚を突き崩した。
拳が出入りできるような穴が二つ三つ空いたが、その中から多くの白骨が
見えたという言い伝えがある。


――『池田氏家譜集成 長久手古戦場聞書』

324人間七七四年2018/10/18(木) 05:30:43.76ID:Dae3Z85n
物を拾いにいったのはなぜ死んでしまったのだろうか

325人間七七四年2018/10/18(木) 11:50:17.72ID:u71xBUX7
秀吉方の死者って2000人ぐらいでそ。10倍とまではいかなくても、盛っているなぁ。

326人間七七四年2018/10/18(木) 12:14:10.44ID:EWiGGD4h
数を誇張するのは中国人の特徴

327人間七七四年2018/10/18(木) 12:20:42.06ID:u71xBUX7
>>326
太平記読め

328人間七七四年2018/10/18(木) 12:58:29.73ID:EWiGGD4h
>>327
バーカ、著者が帰化人な

329人間七七四年2018/10/18(木) 14:40:01.64ID:u71xBUX7
>>328
いつから太平記の著者が帰化人になったんだ?

330人間七七四年2018/10/18(木) 15:16:37.66ID:eb8+eK8+
なんか古代から近親相姦繰り返して自称純倭人を名乗ってる気狂いがいるな

331人間七七四年2018/10/18(木) 15:18:31.26ID:8UF/z1Jw
>>322
この後どうなったんだ、お咎めは…?

332人間七七四年2018/10/18(木) 23:04:13.65ID:GeYuKs/D
>>329
いつもの荒らしだから触るな

333人間七七四年2018/10/18(木) 23:11:34.54ID:/oKi2VHI
>>332
くたばれチョン!!

334人間七七四年2018/10/19(金) 02:24:03.59ID:oLOdf51i
チョン同士が妄想お広げて傷を舐め合うスレはここでおかったですか?

335人間七七四年2018/10/19(金) 07:48:51.32ID:iv9/3xzO
徳島の照星仙谷の話ししようぜ

336人間七七四年2018/10/19(金) 10:16:49.64ID:FMHRyNke
>>335
はなししwwwwwww

337人間七七四年2018/10/19(金) 10:24:14.52ID:Z1RfuFJj
>>335
チョンさん恥ずかしいです

338人間七七四年2018/10/19(金) 12:46:07.77ID:2Sh7P9rw
>>335
はなししようぜ

合ってるじゃまいか

339人間七七四年2018/10/19(金) 13:17:05.59ID:bNLJ19JE
大須下郎おいしいね

340人間七七四年2018/10/19(金) 17:38:15.56ID:XAXrD2bf
ウンチしてるときアクメ感じちゃうのどうしてなの?

341人間七七四年2018/10/19(金) 21:55:17.66ID:jdVI2d3D
信長様のおちんちんおっきい....../////

342人間七七四年2018/10/20(土) 01:53:32.99ID:vYeAxxui
>>336
えっ

343人間七七四年2018/10/20(土) 09:54:29.96ID:2oO0lsHZ
>>339
×大須ういろう
〇大須ういろ
従って漢字表記はできません

344人間七七四年2018/10/20(土) 10:58:58.75ID:OlB2WBT/
外郎ね

345人間七七四年2018/10/20(土) 19:54:26.32ID:dxi81SEw
342-346
何故荒らしに触れるのですか?
荒らしに構う行為は荒らしと同じですよ。
道に落ちてる糞と同じ対応をして下さいね。
嬉々として触わるような真似はやめて下さい。

346人間七七四年2018/10/20(土) 21:31:01.56ID:uDcuG8Kz
>>345
またお前か、本当つまらん奴だな

347人間七七四年2018/10/21(日) 08:37:25.05ID:CK+z7aHk
>>345
お前が荒らしだろ。自演すんなクズ。

348人間七七四年2018/10/21(日) 13:34:07.67ID:X395TtDq
>>345
こいつ犬のクソ以下

349人間七七四年2018/10/21(日) 23:54:41.19ID:+K8lbiXg
久々のチョンサラブレッドの登場だな

350人間七七四年2018/10/22(月) 00:08:52.85ID:3d1yF6+j
>>345
荒らし認定しますた

351名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2018/10/22(月) 08:50:39.48ID:2QB8bUrM
翌日の早朝、(大友家の)軍隊は2レグワ前進して敵に接近することになったため、私はその地方に
在住するキリシタンを訪問するため引き返すことと成った。彼等キリシタンの多くは私が何度か
この地を通過した際に帰依した者たちであって、かつてパードレを見たことが無かったためである。

軍隊は食事が終わると喇叭(法螺貝)を吹き、部将たちはそれぞれ部下の兵士、および行李(資材を運ぶ
部隊)とともに出発した。兵士は皆よく武装し、列を整えて馬上の部将に随い、宿舎を出るや、この宿舎に
火をかけた。

陣営は約1レグワの長さがあり、約30ヶ所に別れていたが、悉く竹木及び藁を以て造られていたため、
またたくまに恐ろしき大火となり、四方は叫喚と煙のため地獄のような様相であった。
しかし軍隊には労働者多数があり、この日の正午には朝焼いたのと同じ宿舎を備えた陣営が、
次の場所に出来るのである。

私は宿舎を焼かれたため希望より早く出発したが、この日、風は私が進む方向へ吹いたため、
1レグワあまりの間、この煙のため苦しめられた。

そしてこの軍隊は行進中も火を放ち、敵の諸村は終日燃えた。

(1570年10月15日(元亀元年9月16日)付イルマン・ルイス・ダルメイダ書簡)

敵も味方も燃やすし宣教師も煙に燻される大友軍

352名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2018/10/22(月) 10:31:11.61ID:V00qoE9i
オウムと一緒で狂信者は始末が悪いな

353人間七七四年2018/10/22(月) 16:18:02.48ID:wL/yqqre
この戦い(長篠の戦い)も未だ半ばであるのに、勝頼の右備の穴山梅雪、本陣の後備の
武田左衛門信光(信堯)ならびに上野介信友(武田信友)らは勝頼を捨てて甲斐

目指して逃げて行く。この中でも信友は、信玄入道の父・信虎が我が子・信玄のために
本国甲斐を追い出されて婿の今川義元を頼み駿府に寓居した頃、かのところで設けた子

である。信友は駿河で成長し、父・信虎と謀を合わせ信玄に内通して今川家の諸功臣を
仲間に引き入れ、ついに氏真を追い出して信玄に駿河を奪わせた。

その功により、今は勝頼の方に扶持されていたところであったが、近年は癩病を患って
面相は変わり人の交わりも叶わず。よって甲斐勢は、「今回は是非幸いと目を驚かす

働きをして花々しく討死することだろうよ!」と頼もしく思ったが、人よりも先に逃げ
出したために諸軍は興さめてぞ覚えける。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』

354人間七七四年2018/10/23(火) 05:08:14.63ID:eTfwBn7W
(長篠の戦いの時)

本多平八郎(忠勝)は猶も厳しく武田勝頼を追って行くと、岡の辺りの松を盾に取って矢を放つ
敵がいた。本多の郎等・多門伝十郎と蜂須賀彦助は馳せ向かったが、彦助は敵を1人討ち取って

討死し、伝十郎は手傷を負って敵を追い散らした。また味方の軽卒らが1人の敵を生け捕ったが、
雑人かと思って着ている衣類を剥ぎ取って見れば、緋緞子の下帯を身に着けていた。さては只者

ではないなと姓名を問うと多田淡路守満頼の子・三八(新蔵か)であった。信長卿はこれを聞き
なさって、「それでは伯父の葬送の時に火車を切った勇士であるな。私が召し仕おう」と仰り、

長谷川竹丸(秀一)に命じその縄を解かれると、三八はその縄を引き切って近辺にいる者の槍を
押っ取りその辺りに群居する者4,5人を突き殺した。よって竹丸は槍を取って三八を突き倒し、

その首を取って信長卿の御覧に備えた。およそ今日の合戦は卯の刻の始めに押し出し、午の刻の
終わりに武田方は総敗軍とぞなりにける。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』

355人間七七四年2018/10/23(火) 14:38:18.02ID:+GgA7et2
>>354
この時のぶな画を討ち取ってれば…。

356人間七七四年2018/10/23(火) 15:08:34.38ID:0ZqLMIiZ
ごむながなんか本多のゴキブリなら瞬殺だろうな

357人間七七四年2018/10/23(火) 22:56:21.95ID:3ItfLnKv
私は昨年の書簡で、豊後の王(大友宗麟)の甥にして婿である土佐の王(一条兼定)が、豊後に於いて
キリシタンと成りしことを報告した。この王は一人の家臣(長宗我部元親)が反乱したためその国を逐われて
豊後に滞在していたが、前の書簡に認めた如くその国に帰り、短期間に国を回復した。

彼は豊後に在った3,4ヶ月間デウスの事を聴き、よく事理を理解する人であったため、多くの質問をなして
キリシタンとなる決心を成すにいたり、しばしば私に洗礼を請うたが、考えることがありこれを延期していた。
そのような中私は下(ximo)の地方巡察に行くこととなり、もし土佐の王が私が帰る前に病に罹り、又は
その国へ帰る事態となれば、府内にとどまるパードレ(ジョアン・バウチスタ)に洗礼を授けるよう
予め定めておいた。

我らの主は、土佐国の大身たちがその国を統治するため、人を遣わして彼を招くに至らしめ給いしが故に、
直に洗礼を授け、彼はその国を悉くキリシタンとする決意を成して出発した。その国に着きて、我等の主の
御加護により短期間に土佐全国を領し、暴君(元親)は多数の兵とともに守っていた主要な一城のみを有した。

王は我等の主が彼に与えた御恵を忘れず、甚だ良き町に立派なるコレジョを建てることを命じ、その町、
およびその他の地において6,7千クルサド(1クルサドは銀40匁に当たる)の収入を得るべき地を寄進し、
又国内の主要なる町々には大なる家を建て宣教師に説教を始めさせた。

かくして土佐の多数の主だった者たちはすでにキリシタンと成らんとせしが、デウスの隠れたる裁断により、
破滅が近づくのを悟った坊主達が努力したため、形成はたちまち一変し、王は一戦において敵に破られ逃げ、
味方の大身の城に入った。王は同所に在って私が臼杵に着いたのを聞き、書簡を託して人を私のもとに
派遣した。書簡の訳文は次のとおりである

『尊師が下より帰られたのを聞き、この家臣を貴地に派遣して私のことを告げ、私のためにデウスに
祈られんことを請はしむ。尊師の出発後、我が臣下の者数人が使いを遣わして私を招き、再び土佐に入国する
途が開けた為、私は尊師の手によって洗礼を受けることを望んでいたが待つこと出来ず、府内のパードレに
洗礼を受けることを請うた。その後私が国に着いて、我等が主デウスの御助により、間もなく
ファタ(Fata・幡多)の城とその町の他は悉く占領した、同所にはトソガミ(tosogami・長宗我部)が
5、6千の兵とともに籠もっていたが、これを守り続ける見込みはなかった。

私は我等が主デウスより受けた御恵を思い、パードレが当国に来るために、直ぐに会堂を建てることとし、
これに大いなる収入を永久に寄進し、国内の他の町々に大いなる家を建て、説教を始めさせる事とした。
臣下の多数は、私がキリシタンと成った後、我等の主より大いに保護を受けたのを見て、キリシタンと成らんと
決心したため、人を遣わして説教を成す者の派遣を請わんとしたが、この時意外にも形成一変し、私は再び
追い出され、今は長島(Nangaxima)の城に在る。

私は今日までデウスに対し不平を述べたことはなかったが、それにもかかわらず、何故にこの不幸が
起こったのか疑惑を持たざるを得ない。我等の主が、もし私が罪人であるため罰し給うたとするなら、
敵は異教徒であり、その主君に謀反を起こした者であり、更に大なる罪人である。この故に、尊師に請う所は
この疑惑を解き、また私一人異教徒の間に居るが故に、デウスの事に関する書籍を送付される事である。

私は一人だが、今日まで日曜日(の礼拝)を忘れた事は無い。当所に、昔山口においてキリシタンと成りたる
トビヤス(Tobias)という盲人が有る。彼と語ることで喜んでいる。

我等の主デウスに、私のために祈り、常に書簡を送り給え。私も又これを成すべし。』

右の書簡に対し返書を送り彼を慰めた。デウスがしばしば、最も愛する者に艱難を与えたもう事を述べたが、
彼はこれにて慰められ、すぐに他の書簡を送り、已に安心し疑惑も懐かず、デウスに祈ることを請うた。

(1576年9月9日(天正4年8月17日)付パードレ・フランシスコ・カブラル書簡)

一条兼定が宣教師に送った、四万十川の戦いでの敗北を受けての書状の内容である。

358人間七七四年2018/10/24(水) 04:42:32.22ID:9BSVOAEC
(長篠の戦いの時)

また典厩信豊(武田信豊)は度々敵と決戦し勇を振るったが、味方は総敗軍となったので手の者どもも
あるいは討たれあるいは落ち失せて相従う者はわずかに3騎となった。典厩は小桜を黄に染め直した

鎧に龍頭の兜を身に着け、紺地に金泥で経文を書いた母衣を掛けていた。この母衣は信玄の遺言で勝頼
から典厩に譲ったものである。勝頼は土屋惣藏昌恒・初鹿野伝右衛門信昌のただ2騎を従え長篠を落ち

延び三河黒瀬の小松ヶ瀬を渡ろうと思い馬を抑えると、伝右衛門を呼んで「私が典厩に譲った母衣絹の
裏書には『四郎勝頼』という名を記しておいた。もしやこの母衣が敵のために奪われては勝頼の恥辱と

思うのである。汝は後を引き返し典厩にこの事を告げて、母衣を受け取って戻れ」とのことであった。
伝右衛門は「畏まり候」と申して引き返し、典厩に会ってこの事を申した。典厩はこれを聞いて

「某も左様に存じたので先刻母衣を押したたみ、青木尾張守信時に渡しておいた」と申してやがて青木
を呼んだ。その母衣の絹を取って、初鹿野へ渡そうとした典厩の言い様は、「信豊の父・左馬助信繁は

信濃川中島の戦いで信玄のために御身代わりとして忠死した。信豊も出来る限り父・信繁に劣るまいと
数年の干戈の間に粉骨砕身するところをいつの頃にか勝頼に見落とされ、信玄の御遺言で賜った母衣を

戦場で取り返されるとは身の恥、家の恥。口惜しく存ずる」と申した。初鹿野が馳せ戻り云々と申すと、
勝頼は典厩の言葉も耳に入らない様子で、その母衣を取って腰に挟んだ。初鹿野が往来する間に、

勝頼がゆるゆると馬を止めて待っていたのは、「流石に猛将かな」と敵味方ともにこれを感心した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』

359人間七七四年2018/10/24(水) 06:57:36.06ID:pvYF8ZJA
お坊ちゃんの戯言はスルーの勝頼くん

360人間七七四年2018/10/24(水) 21:31:02.64ID:64ZiG2JZ
(長篠の戦い敗走の時)

武田勝頼は自分の名が記されている武田信豊の母衣絹を初鹿野伝右衛門信昌に取って来させ、小松ヶ瀬で
馬を止めて待っていた。初鹿野が戻ったところで三河・遠江勢はこれを大将と見て雲霞の如く追い掛かる。

勝頼は引き退こうとすれども、馬は疲れて進めない。笠井肥後守高利(原注:四戦紀聞では河西肥後守
満秀とする)がこれを見て馳せ付け馬から飛び降り、勝頼に「これに御乗り下され!」と申せば、

勝頼は「それでは其の方は討たれる!」と申した。その時、肥後守は「命は義によって軽し! 私は主君
に代わって討死します!」と勝頼を自分の馬に乗せ、自身は勝頼の馬の手綱を取って押し戴くと、

その疲れ馬に乗って轡を引き返し、「元弘建武の乱で新田義貞の命に代わって討死した小山田太郎高家が
12代の子孫、笠井肥後守高利! 今日先祖の跡を穢さず主君に代わり討死するぞ!」と追い来る敵を

2騎突き落とし、3騎目にあたる敵と引き組み刺し違えて討死した。これより後は、追う兵も少なくなく
なったので勝頼は静かに落ちて行ったところで、1日の暑気に倦み疲れて信玄より譲られた

『諏訪法性上下大明神』と前立に記してある秘蔵の兜を脱いで初鹿野伝右衛門に持たせたが、伝右衛門も
疲れたので殆ど持ちあぐね、勝頼に断ってその兜を道に捨てた。ところが、その後から来た小山田弥助が

これを見て「名高き兜を敵に取られては如何なものか」と拾い来たり、勝頼に追い付いて捧げた。勝頼は
大いに喜び再びこれを着け菅沼刑部(定忠)の居城に立ち寄り、しばし梅酸で渇きを休めまた乗り出した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』

361人間七七四年2018/10/25(木) 10:14:04.87ID:vu86f/YA
名乗り上げちゃったら身代わりの意味ねえな

362人間七七四年2018/10/25(木) 11:14:01.47ID:Vl28NzIX
身代わりじゃなくって殿でしょ?

363人間七七四年2018/10/25(木) 13:18:13.39ID:9d1JBdE/
>>360
秘蔵の兜を捨てるほど疲れるってのがもう

364人間七七四年2018/10/26(金) 00:09:24.10ID:/rskxWzu
まぁ兜も結構重いからな
信玄より譲られた秘蔵の兜って言うからには結構古そうで
当世具足みたいに軽量化とかあまり意識されてなさそうだし
逃走中って事は兜の一部なり結び緒なりつかんで持ってたんじゃ
なおさら重く感じて捨てたくなるのも判らんでもない

365人間七七四年2018/10/26(金) 13:28:58.92ID:gqs82Hyy
(長篠の戦いの時)

大久保兄弟(忠世・忠佐)はこの輩(成瀬正一ら)と一同に柵より外に進み出て、武田の先手・侍大将の
山県三郎兵衛昌景の備に向かい鉄砲を撃ち掛ける。山県も始めの頃は軽卒を出し足軽迫り合いをしていた

が、次第に欺き引かれて堪えかね「あの柵を尽く押し破って進め!」と3千の赤備が一同に押し掛かった。
大久保兄弟は命じて思うままに山県勢を引き寄せ、3百余挺の鉄砲を隙間なく撃たせれば、先頭に進んだ

山県勢は散々に撃ち立てられた。その時、大久保兄弟・渡辺半十郎政綱・同弥之助・光池水之助らは山県
の属兵の広瀬郷右衛門昌房・小菅五郎兵衛元成・三科伝右衛門形幸といった名を知られた者どもと挑み

戦う。広瀬・小菅・三科も言葉を掛けて姓名を名乗り、馬上で突き戦8,9度に及び手負いて引き退けば
半十郎や水之助らは高名をなした。山県はそれには目もくれず3千余騎を手に付けて筋違いに織田勢・

佐久間右衛門信盛の柵を駆け破らんと押し掛かる。そこで信長卿は命じられて柵中より鉄砲を激しく撃ち
立てれば、山県勢はここに人塚を作る程に撃ち殺されたので、山県も堪えかねて引き退いた。

(中略。武田勢は鉄砲に苦戦するも、馬場信房・内藤昌豊が佐久間信盛・滝川一益を柵内に追い、信長は
柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉に命じて横から武田勢を攻撃させ、内藤がこれを迎撃する)

この時、山県は小山田・甘利らとともに撃ち残された勢を立て直して、柴田・丹羽・木下の勢を横合から
まっしぐらに打って掛かれば、柴田・丹羽・木下の人数は散々に突き立てられて敗走した。山県はこれを

追い打ちするかと見えたが、そうはせずにたちまち備を立て直して、徳川家の御本陣に打って掛かった。
御陣からは鉄砲を激しく撃ち立てれば、山県勢はまた撃ち殺される者若干なり。山県は白糸威の具足に

金の大鍬形を打った兜を身に着け、味方が討たれるのをものともせず、なおなお馬を進めたところ、本多
平八郎(忠勝)が「あれこそ山県である!」と命ずれば、筒先は山県に向かって放たれた。その弾が

飛んで来て山県の緩い糸の間から当たったため、山県は持っている采配を口に咥えて両手で鞍の前輪を
抑えてしばらく堪えていたのだが、ついにたまらず馬から真っ逆様に落ちた。味方がその首を取らんと
駆け集まるのを山県の従兵・志村又右衛門が敵に首を渡すまじと駆け寄り、その首を切って引き返した。

(原注:山県を撃ったのは大坂新助という者であると『勇士一言集』に見える)

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』

366人間七七四年2018/10/26(金) 15:43:35.78ID:CdMzI45A
あれ?本多忠勝って古今無双だったよな
一騎駆けする場面なのに鉄砲組頭に標的教えるなんて
まるで山縣の鬼神振りに糞尿漏らして動けなかったヘタレって言っているようなものじゃん

367人間七七四年2018/10/26(金) 18:43:27.30ID:Qryb1ahC
スルーでよろしく

368人間七七四年2018/10/26(金) 20:06:25.04ID:8I+DB0d/
>>365
敵に首を渡したくないから切腹した後に…ってのは解るが、戦場で戦闘の真っ最中にもやるのか(困惑

369人間七七四年2018/10/26(金) 22:28:54.76ID:K7WJMRDm
彼女は獰猛な牝ライオンのように


播磨の国の殿(池田輝政)が住む城と御殿に接する異教徒たちが住む町で
悪魔がある女に取り憑くということがあった。彼女は獰猛な牝ライオンのように
家から出て誰も彼女を阻止出来なかった。そしてこの勢いと狂暴さをもって
城に入った。城の女房にさえ容赦せず、ついには無数の狼藉を働いた。
しかしその女房に仕えるあるキリシタン女に出会い、彼女に気づくと悪魔に
憑かれた女は逃げ出し、顔を覆って「キリシタンは恐ろしいものだ」と言った。

女房は腰元(あるキリシタン女)に
「この女はなぜお前から逃げたか」
と問いました。腰元は
「自分が首にかけている守り袋(アグヌス・デイ)のせいだろう」
と答えて、(悪魔に憑かれた)女の上に守り袋を置くと、女は静かになった。
異教徒たちは守り袋を拝むようになり、キリシタンの話を聞くことを望んだ。

その国で受洗した人たちの中に、公方(家康)の息女であるその国の領主の奥方(督姫)に
仕える高貴な若い婦人が二人いた。彼女たちはその御殿の他の女たちが、やはり
以前に行ったように、我らの聖なる教えの真実をよく理解して受洗した。


――『十六・十七世紀イエズス会日本報告集』 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)

370人間七七四年2018/10/27(土) 00:18:52.69ID:5EgtKHTm
>>368
討ち死にした大将の首を敵に渡せば敵の手柄となり、士気を挙げる材料とされる。
+ 首だけでも持って帰って供養しなければならない。

戦国時代どころか、戊辰戦争までやってた、当然のこと。

371人間七七四年2018/10/27(土) 01:19:31.10ID:rMYT+B8/
目玉w

372人間七七四年2018/10/27(土) 02:05:23.05ID:FBlC7Y7L
んなわけないだろ。スルー奨励だな。

373人間七七四年2018/10/27(土) 13:41:07.22ID:NONzLHXT
(長篠の戦いの時)

山県昌景の進軍を契機に続々進軍した武田勢であったが、いずれも織田・徳川両勢に柵内から鉄砲を
撃ち掛けられ多くの死傷者を出し苦戦した。勝頼本陣中軍の先手・内藤修理昌豊の1千余騎は先駆け

し、逍遙軒信綱(武田信廉)らも続いたが皆鉄砲に当たって引き退いた。この勢いに乗じ柵外に出た
佐久間信盛と滝川一益だったが、佐久間は手勢を立て直した馬場信房によって柵内に追いやられた。

白地に黒い山道の旗を押し立てる内藤はその後へ引き返し、滝川の3千余騎の勢の中へ突いて入り、
滝川勢は散々に突き立てられて、柵内へ逃げ入った。この様子を御覧になった信長卿は柴田修理亮

(勝家)・丹羽五郎左衛門(長秀)・木下藤吉郎(羽柴秀吉)に命じられ、この3人が千5百余騎で
森長村の方から横に打って掛かった。内藤はこれを見て馬の鼻を立て直し、白地に胴赤の旗と御幣の
馬印を真っ先に進めて打って掛かった。

(中略。山県昌景が柴田らを撃退するも討死)

勝頼も歯噛みをなして命じ、勢を進めて掛かったが激しい戦闘となり、典厩(武田信豊)・逍遙軒を
始めとして原隼人(昌胤)・小幡上総・小山田兵衛・望月甚八郎・安中左近・甘利三郎五郎らが諸軍
を進めて打って掛かった。こちらでは織田方において佐々内蔵助(成政)が、「内藤修理の備は浮き
立って見えます。一攻めに攻めては如何でしょう?」と申した。信長卿は「もっともだ」と許し給う。

(中略。その時、早くも徳川勢と武田勢が激突し互いに死傷者を出す。武田信豊が切り立てられ引き
退くと、信長は総攻撃を命じて武田勢総敗軍となり勝頼は敗走、武田諸将討死)

内藤は「今や討死の時至れり」と残兵百余人を選りすぐって半途より引き返し、徳川家御本陣目掛け
打って掛かった。これは御大将(家康)と直の勝負を決せんとする心と察した本多平八郎忠勝が

蜻蛉切の槍を振るって内藤と御本陣を懸け隔てて戦えば、榊原小平太康政・大須賀五郎左衛門康高も
中を破られまいと弓鉄砲の足軽を先に立て、射立て撃ち立て決戦した。内藤は手勢を皆討たれ自身も

鎧に立つ矢は蓑毛の如く。「流石は信玄の家で随一の勇士」と呼ばれた内藤が死狂い獅子奮迅の怒り
をなせば近寄り難く見えたところに、流れ矢1つが飛んで来た。内藤はこれに当たり馬からたまらず

落ちたものの、また起き上がって槍を押っ取り敵を突こうとするところを、朝比奈弥太郎泰勝が槍を
付けてその首を取った。泰勝はこの高名により徳川家の御家来に召し加えられたという。

(原注:泰勝は今川氏真の臣で、氏真より御見舞いの使者に来たり御陣にいたともいい、または元は
今川の家人で、この頃は小田原の北条家に仕えており、北条氏政から御見舞いの使者に来たともいう。
また氏真もこの時、信長とともにここに来た事が手記に見えているともいう)

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』

374人間七七四年2018/10/27(土) 18:42:18.68ID:doJT9R1D
相変わらず本多忠勝はヘタレだなあ
首すら取れんのか

375人間七七四年2018/10/28(日) 02:59:35.21ID:jQCsznEq
(長篠の戦いの時)

山県昌景の先頭に続き武田勢は攻め掛かるが、鉄砲の激しさに堪えかね引き退く。武田右備の先手・
馬場美濃守信房の一隊は魚鱗に備えて金鼓を鳴らし、寒防山の麓より信長卿の本陣に押し寄せ、

喚き叫んで柵二重まで破らんとした。織田方は少しも取り合わず佐々内蔵助(成政)・前田又左衛門
(利家)・福富平左衛門(秀勝)・野々村三十郎(正成)らが命じ3千挺の鉄砲で段々に撃ち立て、
寄手の走り寄る者は撃ち倒され撃ち落とされ、ここでも人塚を築いた。

(中略。武田勢苦戦。土屋昌続討死、武田信廉・跡部勝資勢裏崩れして敗走)

この勢いに乗じて織田方の滝川左近将監(一益)と佐久間右衛門(信盛)は柵外に出張した。神君は
これを御覧になって「かねがねの軍令の如く早々に柵内へ引き入るべし!」と御使者を遣わされたが、
両人はこれを用いず、信長卿からも使者を立てられてこれを制し給う。その間に馬場は敗れた手勢を
立て直し、佐久間勢を追い崩して40余人の首を切り、佐久間勢を柵内へ追い入れた。

(中略。織田・徳川勢の総攻撃により武田勢総敗軍。内藤昌豊ら諸将討死)

ここにおいて小幡上総信貞・小幡備前貞員・河窪備前・小山田十郎兵衛国次らは、皆勝頼を落ち延ば
さんがため踏み止まり踏み止まり、勇猛の働きをして死んだ。穴山梅雪の一隊は後をも見ず寒防ヶ嶺

を目指して逃げ行くと、一条(信龍)の一隊も散々に打ちなされて敗走した。三河・遠江の勢は勝頼
を討ち止めて高名にせんと喚き叫んで追っ掛ける。馬場美濃は討ち残された手勢20騎ほどをまとめ、

勝頼本陣の大文字の小旗の影が見えなくなったので馬を引き直して、長篠の城際まで取って返した。
馬場のその日の出で立ちは卯花威の具足に錆色の星兜に鍬形を打ったものを着なし、

朱に染まった(血まみれになった)月毛の馬には白覆輪の黒鞍が置かれていた。これに乗って白旄を
胸板の鐶に差し、槍は馬の平首に持ち添え敵に向かって「私は武田家の古老、馬場美濃なるぞ!

各々は私を討ち取って高名にせよ!」と大声で呼ばわり、槍を振るって敵4,5騎を突き落とした。
その後は刀に手もかけずに、塙九郎左衛門直政(原田直政)の郎等・川井三十郎のために自身の首を
授けた。時に62歳。馬場が勝頼に今回の合戦御無用なりと諫めた時、跡部・長坂の両人に向かって

「合戦を勧められる方々は逃げられようとも、諫める某は討死する」と申した言葉を守って、退けば
退けたものをこのように踏み止まって討死せるこそ哀れなれと惜しまぬ者はいなかった。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』

376人間七七四年2018/10/28(日) 21:19:37.48ID:6VuEZ25F
殺 伐 と し た ス レ に 鬼 武 蔵 が !
https://i.imgur.com/ycmhdzs.jpg
https://i.imgur.com/cpyqDDJ.jpg

377人間七七四年2018/10/29(月) 00:30:57.48ID:IayTbgkZ
世子(大友義統)は政治に当たるように成ってから、ますます国内の坊主および偶像崇拝を嫌い、
生来鋭敏にして才知あるがゆえに、神仏の崇拝を嘲笑し、この事について織田信長を模倣することを希望した。
信長はこれらを破壊することによって、所領、名誉および評判はますます加わったのだ。世子はこれを
実行せんとし、本年は祖先の何者も成さざりしことに着手した。

第一には復活祭(1578年3月3日(天正6年2月22日))前に使いをパードレのもとに遣わし、彼に仕える
武士および殿中に常に侍する青年が悉くキリシタンとなることを希望し、勧告は彼自身が成すべきが故に、
当院より人を遣わして説教を成し彼等に悟らしめんことを請うた。彼等が説教を始めた後、世子は突然
戦争(土持親成征伐)に臨むことになったため、さらに良き機会までこれを延期する必要が生じた。

世子はまた、神殿および坊主の僧院の収入を没収して家臣に与えることを始めた。(中略)一昨日一人の
キリシタンが私に告げたことによれば、世子は彼を当所より40レグワ余りの肥後国に遣わし、僧院の偶像を
焼かせ、其の収入は彼の兄弟に与えた。国の大身たちはこの事の理由を世子に尋ねたが、彼はこれに
こう答えた

「坊主等は国の髄を食い贅沢なる生活を成し、労働また戦争において死する貧民および兵士を嘲笑する。
彼等がもし宗規を守り、また来世において賞罰を与え、或いは現世において幸福と富を与える神仏であるのなら
猶忍ぶであろうが、坊主の生活は偽善と悪行に満ちており、その祈祷と供物は何等の効能も無いことは
経験によって明らかである。故に彼らに対して躊躇するのは愚の極まりであると思う。

織田信長は都の地方において同一の事を行ったが、かつて神仏より罰を蒙ったこと無く、むしろ繁栄
している。この故に坊主達に勧告するは、結婚する(僧侶をやめる)か、或いは兵士となることである。」

(1578年10月16日(天正6年9月16日)付パードレ・ルイス・フロイス書簡)

すっかり信長かぶれの義統。多分これ、フロイス自身が信長のことをキリスト教的に盛りに盛って報告して
義統を煽ってたんでしょうね。

378人間七七四年2018/10/29(月) 13:27:42.46ID:2F6DKB/B
(長篠の戦い敗走の時)

武田勝頼は馬場信房の殿と討死の間に落ち延びたが、この時に相伝の旗を捨てたのを本多平八郎
(忠勝)の属兵・原田弥之助が拾い取った。梶金平(勝忠。忠勝の与力・家臣)は大声を揚げて、

「どうした武田四郎! たとえ命を惜しみ敵に押付を見せようとも相伝の旗を敵に取られるなんて
ことがあるか!」と散々に罵った。武田方の旗奉行がこれを聞いて、

「その旗は古物だから捨てたのだ!」と言えば、金平はなおも声高に「山県・内藤・馬場などの
古老どもも古者だから捨てたか!」と声を放って大笑いした。武田方はこれを聞かぬふりをして

落ちて行った。神君(徳川家康)はこの事を聞こし召し「金平、当意即妙の申し様なり」と仰せ
になり、金平は御感心に預かった。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』

379人間七七四年2018/10/29(月) 15:04:30.49ID:v5Mmkc9X
>>378
>古老どもも古者だから捨てたか!
煽りがうますぎるw

380人間七七四年2018/10/29(月) 15:18:21.27ID:Omn6ajDG
佐久間、林も古者だったな

381人間七七四年2018/10/29(月) 23:36:56.88ID:c7+IdzTp
当意即妙の口ぶりなのを見ると三河者じゃなくて駿河か遠州出身なのかなとか思ってしまう

382人間七七四年2018/10/29(月) 23:55:09.65ID:IayTbgkZ
関ヶ原で東軍が大勝し、三成の陣悉く潰れたが、山の側を伝って人が多く通っていた。
井伊直政これを見て、松倉豊後守(重政)、その頃は右近と申していたが、彼に向かって
「あれは敵か味方か」
と尋ねた。松倉は「敵とも味方とも見分けがたい」と申している所に、甲州衆が合流した。

直政は彼らに重ねて「あれは敵か味方か」と尋ねた。甲州衆より「紛れも無く敵です」と
申した所、直政は二の句もなく即座に馬に乗りこれを追った。この時右の腕を撃ち抜かれ、
落馬したのである。

松倉はその後、この甲州者を激しく叱りつけた
「私も最初から敵だと判断していたが、味方がこれほど大勝しているのに、こぼれ物の退兵を
攻撃しても益はない。しかし敵と聞いて付かないのは甚だ本意に非ず。だからこそ私は何となくの
返答をしたのだ。それなのにお主は、巧者のふりをして要らぬ見切りをした、故に大将に
手を負わせたのだ!」

この甲州者は、早川弥左衛門であったという。

(士談)

383人間七七四年2018/10/30(火) 04:04:49.00ID:FIvjtvAp
>>382
直政がアホなだけやん。しかも、家臣からもアホと思われて、そう扱われている。

384人間七七四年2018/10/30(火) 05:23:21.62ID:myMWFJLJ
いつもの人かな

385人間七七四年2018/10/30(火) 07:32:54.85ID:xfS9uC0v
>>384
いつものキチガイおはよう😃

386人間七七四年2018/10/30(火) 07:41:04.48ID:xfS9uC0v
>>382
原文ママだろうけど早川弥惣左衛門のことみたいね

387人間七七四年2018/10/30(火) 10:15:20.94ID:lgbgK01D
>>382
でも味方だって言って、後でやっぱ敵だったって分かったら
やっぱりキレて来そう

388人間七七四年2018/10/30(火) 10:42:22.36ID:/KzaYwJ5
ググってみたところ早川弥◯左衛門、幸豊の生没年が(?-1600)になってるけど彦根城の築城に携わっているのでこれが誤りなのが分かるね
サイト主は記載してて誤りに気付かないのだろうか

389人間七七四年2018/10/30(火) 18:31:47.25ID:1NFKO9HO
状況わからんけど敗走する兵から首取って手柄になるのかな

390人間七七四年2018/10/30(火) 19:46:01.30ID:MhubSL59
なる
むしろ当時の首取りはほとんどが撤退時の追撃戦

391人間七七四年2018/10/30(火) 20:01:32.07ID:1NFKO9HO
>>390
ありがとうございます
たしか乱戦混戦の時に悠長に首切り落としてたら自分が死んじゃうし形勢逆転されかねないですね

392人間七七四年2018/10/31(水) 02:29:35.20ID:o/sbJwow
というか何であろうが首は首なので価値は変わんない
もちろん大将直々に打ち据えにしろとかの特殊な時は別だけど
後、そもそも敵に一番死傷者を与えられるのは古今東西問わず
敗走する相手への追撃時なので
必然的に手柄首も多くは追撃時に得られた物という事になる

393人間七七四年2018/10/31(水) 03:09:57.97ID:zbk28BfY
クズジャップwwwwwwww
露梁津で義勇兵のしかも海賊にコテンパンに負けて顔真っ赤wwwwwwwwwwww
これ日本の学校に広めようぜwwwwwwww
戦争敗戦国の猿の国ジャップwwwwwwwwwwwwwwww
だめだ笑いすぎてお腹痛いwwwwww

394人間七七四年2018/10/31(水) 05:28:01.16ID:cCMu2JnG
アホだろ

395人間七七四年2018/10/31(水) 06:42:17.14ID:zbk28BfY
こうやって単発で煽るだけの卑怯者ジャップ

396人間七七四年2018/10/31(水) 08:19:38.66ID:fJD3JKDR
露梁って明とその属国が撤退する日本に攻撃して惨敗したところだっけ?

397人間七七四年2018/10/31(水) 12:10:31.47ID:JhC/jKIM
韓国の教科書では朝鮮側の大勝利になってる

398人間七七四年2018/10/31(水) 22:36:48.27ID:kgWIfluu
卑怯な騙し討ち仕掛けた挙げ句にあっさり死んだんだっけ
イスンシン

399人間七七四年2018/11/01(木) 23:35:10.04ID:eJY+p62H
神子田半左衛門(正治)が家来の者を手放にするとして、縁側で爪を切っていたが、その爪を切る
小刀が下に落ちた。神子田はかの咎人を呼び、「縁の下に小刀が落ちた。取ってくるように」と言いつけ、
彼が縁の下にくぐった所、上から刺殺した。そして人を呼び死骸を取り出させた。

この時神子田は
「放し討ちなどといって、確実性のない成敗を好むのは然るべからざる事である。
下人などはこのようにして殺すのだ(下人などは如此こそころすべけれ)」
と。申したという。

(士談)

400人間七七四年2018/11/02(金) 11:47:36.51ID:75FhpIpu
秀吉軍初期メンバーだけど、物語でも扱いが悪くて当然の人か

401人間七七四年2018/11/02(金) 12:36:14.43ID:vMEsZMso
潔いと思うが
偽善者は暗殺者送って素知らぬ振りだからな

402人間七七四年2018/11/02(金) 13:03:32.56ID:SDHbTpAD
人が死んでるから悪い話なんだな

403人間七七四年2018/11/02(金) 19:11:58.57ID:9eOVVS3q
これって放逐する事を明言した訳ではなくて
内心で決めてたけど未発表の段階で抹殺したって事だよな
同じ殺すにしても誅殺や手打ちに比べてなんか汚いというか
陰湿というか…何かこう嫌な気持ちにさせる振る舞いというか

404人間七七四年2018/11/02(金) 19:24:46.01ID:x5p+lKo9
朝倉宗滴みたいな現実派だよな

405人間七七四年2018/11/02(金) 23:20:50.57ID:lOaOtw/w
>>403
なんで放逐せなあかんねん
これは上意討ちや
対象が領内におらん時は放逐やない出奔や
逃げる前に討つのは当然のこと
ひとかどの将なら宴で酔わせて討つ
下人なら手打ちでおk

406人間七七四年2018/11/03(土) 07:42:43.02ID:PUgQnT4P
>>403
「放し討ち」ってのは、相手にお前は死罪と決まったから、抵抗するなら抵抗しろ、って言って
罪人と討ち方が切りあいになるやり方のこと。
罪人が名のある武士の時や、討ち方が罪人側に同情している時に取られる方法で、
返り討ちにあったり、その場を切り抜けて逃げられる危険が当然ある。

407人間七七四年2018/11/03(土) 13:46:13.09ID:IcnH0ZmW
実はいい話なのか

408人間七七四年2018/11/04(日) 07:40:45.16ID:7Ayt5tas
>>406
立花家の黒門の放し討ちが有名かな

409人間七七四年2018/11/04(日) 17:44:58.36ID:xFrMk15D
>>406
>>399の1行目の手放しってのはどういう意味なんだろう
解雇の事なのか処刑の事なのか
いずれにしろそんな事を申し付けた後に2行目のような小間使いをさせるのは
考えられないから処罰を申し付ける前の話なんだろう
どういう理由で処刑されたのかは不明だが仮にも家来に対して
罪状も告げずにだまし討ちというのは如何な物なんだろう
確実に殺せるけど他の部下や同僚上司はどう思うか

410人間七七四年2018/11/04(日) 20:57:40.65ID:rdjEIXKG
だからこそ、神子田は嫌われ者として名を馳せていた。

411人間七七四年2018/11/05(月) 00:55:12.56ID:xOwWXg/m
(長篠の戦いの時)

徳川勢先隊の大須賀五郎左衛門(康高)・榊原小平太(康政)・本多平八郎(忠勝)・平岩七之助
(親吉)・鳥居彦右衛門(元忠)・石川伯耆守(数正)の諸将は自身で槍を振るって竹広の方より
まっしぐらに諸勢に抜きん出て突いて掛かる。武田方も和田・安中以下がこれを迎えて突戦する。

勝頼も本陣を進めれば、前備の望月右近・後備の武田左衛門信光も今日を最期と思い切って働き、
ここで本多作左衛門重次は7ヶ所まで手傷を蒙って右の眼を切られた。本多甚九郎・土屋次左衛門

を始め討死の味方も数多なり。敵も味方も討ちつ討たれつ手負い死人数を知らず。大須賀の属兵の
久世三四郎(広宣)・坂部又十郎・筧助太夫・同龍之助・伊藤雁助・浅井九郎左衛門・鷲田伝八・
柘植又十郎・鈴木角太夫・浅原孫七郎・松平助左衛門、その中でも渥美源五郎勝吉は生年19歳の

初陣なり。父に劣らぬ剛勇で敵の首若干を討ち取る。後々も高名を挙げて数え難し。“首取源五”
と異名を取ったのはこの勝吉のことなりけり。榊原の属兵では村上弥右衛門・富田三右衛門・伊藤
弥三・伊奈源左衛門・榊原仁兵衛・鈴木半兵衛も同じく奮戦して伊奈は討死した。

典厩(武田信豊)の勢1千余は返し合わせ返し合わせ突戦すれど、ついに徳川勢に切り立てられて
引き退いた。この時、信長卿の下知あって総軍一同に鬨を揚げて勇み進み追討すれば、勝頼もどう
しようもなく武田勢は総敗軍となり、鳳来寺の方へ敗走した。橋辺という所に至り大軍に追い掛け

られ、滝川に落ちて溺死する者もまた多し。真田源太左衛門信綱は渡辺半十郎政綱に討たれ、典厩
の弟・望月甚八郎信益(信永)は鳥居彦右衛門の同心・永田蘇父助に討たれた。

望月右近は永田澄之助に討たれて、堀無手右衛門は渡辺忠右衛門と小栗又一(忠政)両人がともに
討ち、興津十郎兵衛は高力権左衛門(政長)が討ち取った。その他に河窪兵庫助信実・下曽根源六

政利と弟の源七政秋・同弥右衛門政基・横田十郎兵衛忠重・油川宮内顕則・同左馬允顕重・高坂
又八郎助宣・甘利藤蔵吉利・杉原日向正之・土屋備前直親・高林恵光寺・岩手左馬助胤秀・原隼人

胤長(昌胤)・小山田五郎兵衛昌晟・高力源五郎昌宣・根津甚平伊広・真田兵部幸連(昌輝)・
安中左近広隆(景繁)・馬場彦五郎勝行・米倉丹後正継らは思い思いに奮戦して討死した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』

412人間七七四年2018/11/08(木) 12:32:42.21ID:rVeW0xgD
実は慰安婦に、レイプ以上の残虐行為をしている糞ジャップ軍

(1)韓国人慰安婦の1人は、なぜ1日に40人もの男にサービスしなければならないのかと尋ねたために、
日本軍指揮官の命令によって、他の慰安婦の面前で、刀でたたかれ、裸にされて、
たくさんの釘の突き出た板の上を転がされ、血だらけになった後に首を切られた。

さらに、日本軍指揮官の1人は、それを見ていた人々の前で
『あなたたち全員を殺すのは、犬を殺すよりも簡単だ』と述べ、死んだ女性の死体を
煮て食べるように強要した。

(2)韓国人慰安婦の1人は、他の40人とともに蛇だらけの水溜りに入るよう命令され、
そのうち数人は、無理やり水中に押し込まれ、その後、土をかぶせて生き埋めにされた。

(3)兵士に噛み付いた新入りの慰安婦は、他の慰安婦の面前、慰安所の中庭で首を切られ、ぶつ切りにされた。

(4)激しく抵抗した慰安婦の1人は、胴体と頭を別々の馬に縛り付けられ、他の慰安婦の面前で引きちぎられて殺された。

(5)多くの慰安婦は、中国兵捕虜の頭を煮た水の残りを飲むように強要された。

(6)性病にかかり、50人の日本兵に病気を移した韓国人慰安婦の1人は、灼熱の鉄棒で膣を消毒された。

(7)性的サービスを逃れようと入浴を拒んだ慰安婦は、木に逆さに吊るされ、ライフルで殴られ、
乳首を切り取られて、最後に膣から銃で撃ち抜かれて殺害された。

(8)筆者が最近傍聴した集会にも、元慰安婦が招かれ、体験談を語ったが、その上品で温和な顔立ちの元慰安婦が、
「慰安所の天井から赤ん坊の頭で作ったモビールのような飾りが吊るされていた」
と語ったとき、会場は一瞬息を呑んだ。


(上記の申立書、ならびにハウスフェルド法律事務所の各種資料は、
http://www.cmht.com/casewatch/civil/comfort.html
http://www.geocities.com/lordfreeza88/esytesti.htm

413人間七七四年2018/11/08(木) 12:58:17.58ID:X8SSxSYo
スルーでよろしく

414人間七七四年2018/11/08(木) 17:41:29.66ID:Y2HvOdmo
ある時、織田信長の前に武者修行をしているという武功の者がまみえた。
彼は冑に白熊の引き回しを付けて、冑立てに立てさせ、後ろに持たせて出た。

信長はこれを見て「彼はいままで手ひどい合戦には出会わなかったらしい。気に入らない。」
(彼はつひに手ひどき合戦には不合と見へたり。心にくからず。)
と言った。

これは白熊の引き回しなどと言うものは、それを損ねずに戦をするなどありえないためだという。

(士談)

415人間七七四年2018/11/08(木) 18:07:11.78ID:/DFHlKKj
おお。読んだことあると思ったら違うソースだった
いい悪いブログ10501 (まとめサイトのURL貼るとエラー出る)

416人間七七四年2018/11/08(木) 18:18:21.01ID:YcU4gmQy
>>412
404なんだが

417人間七七四年2018/11/08(木) 20:17:44.62ID:1gkzLAvN
>>414
信長公へのお目通りという事で気合入れて新調しただけかも知れないのに…
まぁ、何となく信長ってこういうの嫌いそうなのも判る
でも傷だらけの甲冑で来たらそれはそれで主張がワザとくさくて信用ならないとかも言いそう

418人間七七四年2018/11/08(木) 20:34:15.44ID:0WodYPFi
白熊ってホッキョクグマじゃなくてヤクのことなんだな

419人間七七四年2018/11/09(金) 00:02:05.85ID:of0Wpt0o
この王子(織田信雄)をもしキリスト教に帰依することが出来れば、大いなる収穫を得ること疑いない。
彼は意思甚だ強く、他の信長の子息達よりも、その父に似ている故である。

彼は諸人に対して甚だ親切なのだが、もし命令に背くものが有れば直ぐにこれを罰する。故にその家臣の
行儀正しく丁寧なることは驚くほどである。

先ごろ、彼は兵士たちに与える物がなく、一方で、一人の殿が余るほどの収入を有するのを見て、彼はその殿から
六千俵を奪ってこれを兵士に与えた。

この事件の後、信長は信雄を招き、何故そんな事をしたのかと尋ねると、

「私は父上の子の中で最も貧しく、兵士たちに与える物を持っていません。そのためあの殿より、有り余るものを
少し取ったのです。」と答えた。

信長は彼を責め、「奪ったものを返すように。」と言ったが、信雄はそれを理解した様子を見せなかったので。
信長は怒って小さな枕を彼に投げつけ、その殿の財産に対する彼の侵害を責めたのだが、それ以上は何も
出来なかったため、この殿に対し
「この上は武力を以て奪うべし。」
と言い、実際に対陣させた。

この殿は1万人、又は一万五千の軍勢を集め、一方の信雄は七百人ばかりであった。しかし信雄は
「何人も動くべからず」と命じ、一人で馬を馳せてその殿の陣中に乗り込み、諸方に乗り廻して混乱させたが、
殿の陣中では、彼が信長の子であるため誰一人これに触ることも出来ず、殿は隠れ、これを聞いた信雄は
「これを捜すのは時間を損ずるに過ぎない」と、闘いを中止した。

(一五七八年一月十四日(天正五年十二月七日)附、都發、パードレ・ジヨアン・フランシスコ書翰)

正直ひでえ話だな。

420人間七七四年2018/11/09(金) 02:09:06.89ID:4LmF8tH6
相手は四十万石くらいの人だったのかな

421人間七七四年2018/11/09(金) 07:39:04.23ID:JEmsZ9R9
再評価せねばならぬ武勇伝だね

422人間七七四年2018/11/09(金) 09:28:31.32ID:ow9Yza7j
三介殿のなさる事だからしょうがない

423人間七七四年2018/11/09(金) 09:54:57.62ID:tNMLWG7s
>>421
斜め上に

424人間七七四年2018/11/09(金) 10:07:37.36ID:gaPJnEaS
控えめに言ってゲェジ

425人間七七四年2018/11/09(金) 17:20:01.51ID:WhLjlONa
(姉川の戦いの直前)

織田信長は龍ヶ鼻に本陣を張り、総軍は横山城を取り囲んで攻めること急なり。城中には三田村・大野木・野村・
高坂、その他宗徒の者どもが少しも弛まず防戦するが寄手は大軍のために叶い難く、頻りに小谷へ加勢を乞うた。

浅井長政は小勢ながら捨て置き難く、8千余騎で小谷より出勢して大寄山まで着陣した。その時、越前よりも加勢
に朝倉孫三郎景健の1万余騎が26日に近江へ着陣する。神君は23日に近江坂田郡に御着きになり、24日に

信長の龍ヶ鼻の陣所へ御越しになって御対面された。浅井方では越前の加勢が来ることに力を得て「明日必ず一戦
すべし!」と評議した。長政の計策は「信長本陣の龍ヶ鼻まで50町あるので、ただちに攻め掛かれば人馬は

疲れてしまうだろう。今夜野村・三田村へ陣を移して、明日の夜明けに信長本陣へ切り入らん!」とのことだった。
浅井の家人・浅井半助はこれに「信長は手早き大将なので、野村・三田村までの陣替は覚束なく思われます。

今少し軍勢の様子を御覧になるべきでは」と申した。一方で遠藤喜右衛門(直経)は「長政の御謀はもっともなり。
是非一戦で勝負を決しなさいませ。私は敵中に紛れ入って、信長と引き組み討ち果たしましょう!」と申した。

長政は大いに喜び、27日の深夜に越前勢は三田村へ帰り、浅井勢は主計村・野村に移る。果たして半助の言葉に
違わず信長は「敵方が終夜火を焚くのは朝に合戦を心掛けているものと見た」と味方の備定めをされた。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』

426人間七七四年2018/11/09(金) 18:43:03.92ID:DZoKZpxX
>>419
何でそうなるんだ…としか思えない行動回路だ

427人間七七四年2018/11/09(金) 20:18:27.35ID:Py2/VUOM
確かに事実とは思いがたい

428人間七七四年2018/11/09(金) 21:08:40.86ID:xhuQeHXe
>>419
頭鳩山かな?

429人間七七四年2018/11/09(金) 22:13:01.97ID:0+fdcXJE
本多正純「一人の殿とは一体誰のことなんです?」

430人間七七四年2018/11/10(土) 11:07:22.55ID:DMxEB0Op
神君だろ

431人間七七四年2018/11/10(土) 16:39:27.63ID:9TutT64G
>>429
それは正純じゃなくても気になる

432人間七七四年2018/11/10(土) 20:14:27.23ID:Rb9DE5g9
収益のために頑張ったら主君のドラ息子に理不尽に収奪されるわ
気難しい主君がせっかく説教してくれたのに息子の物分りが悪いせいで
匙を投げられて合戦もどきまでさせられた挙句
アホでも主の息子だから手を挙げられないで居たら散々暴れられるとか
この殿にしてみれば降って湧いた災難すぎる…

433人間七七四年2018/11/11(日) 00:06:23.51ID:Rtctq3rn
作り話に釣られて大騒ぎ
莫迦の極み

434人間七七四年2018/11/11(日) 09:49:26.62ID:G6Tsp6v2
ソースフロイスだからなあ

435人間七七四年2018/11/11(日) 15:16:45.99ID:B54wEZv3
>>434
フランシスコさんでないの?

436人間七七四年2018/11/12(月) 11:02:07.25ID:HTgiWDr/
>>435
ごめんなさい
ちゃんと読んでなかった

437人間七七四年2018/11/13(火) 15:18:40.73ID:2rFScKgH
>>419
もしこのドラ息子の話が本当ならそんな役回りは光秀か村重かな
1年後に村重は謀反を起こしているし

438人間七七四年2018/11/13(火) 17:16:11.36ID:6IaFLY1o
本願寺に横流しする手筈だった兵糧を・・・
ぐぬぬ

439人間七七四年2018/11/14(水) 06:37:54.35ID:Kme0DLVB
永禄11年(1568)9月7日、足利義昭上洛のため六角承禎父子を討伐するべく織田信長は大軍を
催して近江へ出陣され、同8日、平尾村で人馬を休められる。11日には愛知川に着陣し、その近辺を

放火なされた。さて敵地に入ってみれば佐々木六角父子の設けた砦が数ヶ所あったが、織田殿は「諸塁
には目もくれてはならぬ。箕作・和田山両城を攻めよ」と手分けを定め、その後に宿老どもを召し集め

箕作城を攻める手立ては如何するかと評議された。坂井右近政尚が進み出て申すには「箕作と和田山の
間はさほど遠くはありません。敵もきっと互いに図り合って助ける手立てがあることでしょう。

幸いなことに、浅井備前守(長政)は味方であります。まずは和田山を浅井に押さえさせてしかるべき
でしょう」とのことで、織田殿も「もっとである。浅井はこの国の住人にして案内者であるから浅井に

箕作と和田山の間に陣を張らせて、和田山城を押さえさせよう」と仰せになり、佐々内蔵助(成政)と
福富平右衛門(秀勝)両人を浅井方へ遣わしてその旨を命じられると、浅井は「某父子はともに箕作

に向かい戦功を励みます。いかに織田殿の仰せであるとはいえ『和田山城の押さえをして手を虚しくし、
人の戦いを見物ばかりして日を暮らします』と申すことはできませぬ」と返答した。両使が帰って

その旨申せば、織田殿は重ねて両人を使者とされて、「浅井父子はそれならば急ぎ箕作城に攻め掛かる
ように」と仰せ遣わされた。浅井は承り「織田殿の御勢が攻め掛かる時は、某も引き続いて攻め掛かり

ます」と返答した。両使は立ち帰って来ると「近江第一の猛将と聞こえる浅井父子ですが、返答の鈍さ
からは近江侍の武勇の程が思い知られます」と申した。織田殿もこれを聞き給い、

「近江の浮かれ者どもはそんなものだろうよ」(江州の滑者共さこそあらめ)と打ち笑いなさり「それ
ならば我が手の者どもにこの押さえを命じる」と、美濃の三人衆といわれる氏家常陸介

(直元入道卜全)・稲葉伊予守(良通入道一鉄)・伊賀伊賀守(安藤守就)に、和田山の押さえを命じ
られ、また「箕作城の形勢を見て来い」と柴田修理亮(勝家)・森三左衛門(可成)・坂井右近の3人
に扈従・馬廻の侍5百余騎を添えて遣わされた。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』

440人間七七四年2018/11/14(水) 06:39:43.95ID:Kme0DLVB
箕作城の物見に出た森三左衛門尉・坂井右近将監は敵方の足軽と交戦し、敵80余を討ち取る。かくて
信長卿が仰るには「首途は良し。魁の勢は尽く愛知川表へ引き取り、観音寺に向かって鶴翼に陣を取れ」

と柴田に仰せ付けられ、各々主だった人々を召されて「なんといっても、出征の印が無くては叶うまい。
箕作城を攻めようと思うがどうだ。皆々計らい申すべし」と仰せになれば、坂井右近将監が進み出て、

「箕作と観音寺の間は少しばかりの距離の様に見えます。佐々木父子は目の前にいるというのに、なぜ
これを捨て置くべきでしょう。まずは観音寺を押さえる御手立てこそしかるべきです」と申せば、

信長卿は「幸いにも浅井備前守にとって近江は自国である。さぞ案内を知っていよう。『かの両城の間
に割り入って押さえられ、箕作城を攻められよ』と使者を遣わしてはどうか」と仰せになり、各々は

「もっともです」と申した。そこで佐々内蔵助・福富平左衛門尉が参り、「浅井方にこの事を申せ」と
命じられ、両人は急ぎ馳せ向かってその旨を申せば、浅井も家老の者どもを召し寄せて評定したのだが、

どうしたことか御返事を申しかねる様子のため、両人はやがて心を定めて「これはどうにもならないな
(罷成候まじ)」と馳せ帰ってその旨申し上げると、信長卿もさぞ不快に思し召されたろうが、今回は
浅井と初めての御見参でもあるし、特に君臣の睦みも未だ物慣れていないので打ち笑いなされて、

「それならば我が勢をもって両城の間へ割り入らせて、承禎父子を押さえさせよう。備前守には箕作を
攻めさせよ」と重ねて両人を遣わされた。ここで信長卿はのたまって、「かの大変のろまな浅井の所存

ならば同城どちらにせよ矢は受けるだろう。(彼大ぬる者の浅井が所存にては、両城何れも矢はうけ候
べし)その上で尽くして早く早く評議せよ」と仰せになり「ただいま攻められなされ」と申す者もあり、

「いやいや夜に入ってから攻められてしかるべきでは」と申す者もあり。信長卿は内々夜に入って攻め
ようと思し召していたのか、「日中に攻めれば城中の兵どもの多くは漏らさないだろうが、坂井の申す

通りと同じく思う。皆々支度を致し、夜に入ったら攻めるべし」と軍中へ触れさせ給う。そこへ佐々・
福富が馳せ帰り「なかなか(浅井は)申し上げるまでもなし! 美濃・尾張の者の他には、勇猛の者は

おりませぬ!」と怒って申す他もなかった。信長卿はかえって両人の気分を労わろうと思われたのか、
「私もまたそう察して早くも軍伍を定めたぞ。心安く思い候へ」と、御心良さげに仰せになった。

――『甫庵信長記』

441人間七七四年2018/11/14(水) 12:42:34.27ID:bQ2xyhE3
姉川で備を突き崩されたのはこの時の近江弱兵の先入観が出来てしまったからだろうか

442人間七七四年2018/11/14(水) 14:51:12.18ID:p3uXClc3
>>440
最後に怒ってる部下をいたわるのが良いなぁw

443人間七七四年2018/11/15(木) 04:05:32.41ID:fNoTZAMW
ボロカス言ってるけど地理的には浅井は重要な味方だからな
今後も度々使者に立つであろう両人の機嫌が良くないと
以後のやり取りで思わぬトラブルを産む事にもなりかねないし
信長一流の細かい気遣いという事か

444人間七七四年2018/11/15(木) 08:22:13.81ID:wfNGKXgM
加藤左馬殿(嘉明)が密かに家来に物語した事によると

「事を競って居る時は必ず、帯を前に結ぶべし、後ろで結んではならない。
伏見で大地震が有った時、太閤(秀吉)は如何遊ばしたかと、何れもがご機嫌伺いに
走った。この時私よりも足早に行く者があり、彼に行き負けるのも口惜しいと考え、
人混みの中でそっと、かの者の帯の結び目をほどいておいた。
すると彼は門を入った途端帯がほどけ、刀脇差が地に落ち、これを拾い上げ帯を
結び直す間に、私は先に駆け抜けた、という事が有ったのだ。」

この事以降、嘉明家中の者迄みな、前帯にいたしたという。

(武功雑記)

445人間七七四年2018/11/15(木) 09:58:54.02ID:0DfYpmTa
刀と脇差だけでよかったな
ボトム全部脱げて下帯丸出しにならなくて

446人間七七四年2018/11/15(木) 11:49:41.15ID:ZMC6mAH2
これがあるから三斎様は下半身露出しないふんどしを開発したよな

447人間七七四年2018/11/16(金) 01:00:27.56ID:d9pkbY3b
(姉川の戦いの時)

“北国無双”と聞こえし勇士・真柄十郎左衛門直隆父子は、両人とも衆人に抜きん出て働いた。十郎左衛門は
向坂式部と渡り合い、草摺の外れを一槍付かれながらも式部の兜の吹返を打ち砕き、あまる太刀で槍を打ち

落とした。式部の弟・五郎次郎が助けに来たが十郎左衛門はその太刀を打ち落とし、あまる太刀で五郎次郎の
弓手の股を薙ぎ据えた。その弟・六郎五郎吉政が進んで来る。六郎五郎の従者・山田宗六が、我が主人を討た
せぬと進むと、十郎左衛門は宗六を手の下に切り伏せた。その間に六郎五郎は十郎左衛門を掛け倒して

首を取った。十郎左衛門の嫡子・十郎三郎直基(隆基)は青木加賀右衛門(重直)の子・所右衛門一重と戦う。
所右衛門の郎等1人が掛け塞がったところを、十郎三郎は郎等が太刀を上げるよりも早く首を打ち落としたが、
所右衛門は鎌槍で十郎三郎の馬手の肘を薙ぎ落とした。

その間に朝倉孫三郎(景健)は危うき命を助かり、虎御前山まで引き取ったのである。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』

448人間七七四年2018/11/16(金) 10:44:39.78ID:pzw7m1wd
匂坂だと思ったら向坂とも書くのか

449人間七七四年2018/11/17(土) 14:35:48.11ID:QBvZ1LDM
(姉川の戦いの時)

この戦いの半ばで、誰かは分からないが朝倉方の者が御本陣に紛れて神君(徳川家康)に
近寄ろうとしたが天野三郎兵衛康景と加藤喜右衛門正次が怪しみ2人でともに討ち取った。

その血は神君の御刀にそそぐほど御近くでの出来事であった。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』

450人間七七四年2018/11/18(日) 09:55:08.45ID:HHO290R9
小栗又市は、駿府城の火災の時に奥方の御番を申し付けられていたが、避難のための門を開けるのが
遅かったため、御古茶という末の女中が、大勢が逃げる中踏み殺された。この責任により改易された。
当時、知行二千石であった。
大阪の陣の時再び召し出され、五百石を与えられた。

さて、御陣の時、彼は御使に遣わされることになったが、徳川家康は絵図を見ながら
「又市、これからこう参れ」と指示した。しかしこれに又市は「私の馬がくたびれており、参ること出来ません。」
と答えた。
これに本多佐渡守(正信)が、「私が馬を貸しましょう。」と言ったが、又市は

「人の馬を借りて行くのは嫌だ。その上こんな時ばかり、又市又市と仰せになる。何もくれないくせに!」
と言った。
(人の馬を借てはいやなり。その上加様の時ばかり、又市又市とばかり仰られ、なにもくれもせいでと云。)

(武功雑記)

なおこんな事言いながら「若い使番は俺と違って遠くからしか観察しないから役に立たない。」なんて言い放つほど
しっかり仕事していた模様。ちなみに大阪夏の陣で敵に接近しすぎて銃撃を受けその傷が元で翌年死んだ。

451人間七七四年2018/11/18(日) 16:06:44.95ID:0sQ0peas
(姉川の戦いの時)

これより先に織田方先陣の坂井右近(政尚)は敵に姉川を越させまいと遮ったが、浅井の先鋒・磯野丹波守(員昌)や
その他に高宮三河・大宇大和・山崎源八郎・前田信濃・蓮台寺常陸など5千余騎が突いて掛かった。坂井は小勢ゆえ

突き立てられて嫡子の久蔵16歳や郎等百人ほどが枕を並べて討死した。右近はこれを知らずに味方の陣へ引き取った
のであった。2陣の池田勝三郎(恒興)も散々に切り崩された。浅井方は切り誇り勝ちに乗じて阿閉・上坂を始め

7千余騎が一足も引かぬと突いて掛かる。木下(秀吉)・森(可成)の備も敗れて、整々堂々たる13段の備は11段
まで切り崩され、信長の旗本も大いに騒動してすでに危うくなった。これを神君は御覧になって「さらば掛かれ!」と

御命じになり、越前勢を追い捨てて浅井勢の中に馬煙を立てて喚き叫び駆け入り給う。稲葉伊予守(良通入道一鉄)は
今朝から徳川勢の後陣に備えて手を虚しくし口惜しく思っていたので、良き幸いと同じく馳せ入り突いて掛かった。

横山城の押さえとして備えている氏家卜全・伊賀伊賀守範秀(安藤守就)の3千余騎も横槍を入れ、徳川勢と双方より
激しく攻め立てれば、浅井長政も力を尽くして戦うもついに戦い負けて総敗軍となった。神君は歯噛みをなして衆人を

励まし命じられれば大久保七郎右衛門(忠世)・本多平八郎(忠勝)・酒井左衛門尉(忠次)・小笠原与八郎(信興)
などは先を争って奮戦した。青山虎之助定規はこれより先に討死す。また浅井方では浅井玄蕃(政澄)・磯野丹波守・
阿閉淡路(貞征)が取って返すも、ついに戦い疲れて玄蕃と淡路は引き退き、磯野は手勢3百ほどで

群がる敵を打ち破り佐和山の居城へ引き取る。浅井雅楽助・同斎之助・加納次郎左衛門・同次郎兵衛・安養寺甚八郎・
同彦六郎・細江左馬之助・早崎吉兵衛・上坂五助・同弥太郎・同次右衛門などは討死した。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』

452人間七七四年2018/11/19(月) 02:57:32.31ID:CTrXDgYx
(姉川の戦いの時)

遠藤喜右衛門(直経)は昨夜浅井長政の前で軍議があった時、「某は味方が万一敗軍と見れば敵軍に
紛れ入り、信長と引き組んで討ち取るべし!」と申したが、果たしてその言葉の如く首1級を携えて、

「この首を実検に入れたいと思うなり。大将は何処におわしますぞ」と言いながら信長の本陣近くに
進んで来たのを竹中久作(重矩。半兵衛の弟)が見咎めて引き組み、遠藤を切って首を取った。

遠藤の郎等・富田才八、その他に弓削次郎左衛門・今井掃部助も引き返して討死した。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』

453人間七七四年2018/11/19(月) 10:58:13.61ID:8WENTLh0
>>450と同じ様な事例

大阪の陣の時、安藤治右衛門に、徳川家康が何方かへの使いを仰せ付けた所、
治右衛門は「馬がくたびれており出来ません(馬草臥候間罷成間敷)」と申し上げた。
松平越中守が「私の馬を貸そう」と申した所、
治右衛門「人の馬に乗って行くことは猶嫌です(人の馬に乗申て行事は猶以嫌)」
と言ったという。

(武功雑記)

大阪の陣の段階でもこんなのばっかりか

454人間七七四年2018/11/19(月) 19:26:00.30ID:VZBn70rG
>>452
神風特攻…

455人間七七四年2018/11/20(火) 00:25:20.12ID:IhX79kpM
そこまで追い込まれてたんだね

456人間七七四年2018/11/20(火) 19:32:26.29ID:nigKKgzI
・佐々木六角左京太夫入道承禎とその子・弾正少弼義弼(義治)は観音寺城にあって箕作城へ敵が押し寄せれば
後詰して救おうとかねてより思い設けていたが、美濃三人衆がその道筋を取り切ったのでどうすればよいかと心
を苦しめた。そこへ箕作城は落城して和田山城も開け退いたと聞こえ、今や防戦の頼みもなく興ざめていた折に

織田家の大軍が勝ちに乗じて観音寺城に押し寄せると聞こえて承禎父子は大いに狼狽し、ついに堪りかねて城を
落ち失せ、甲賀の山中に逃げ入ったのである。入道父子が落ち失せたと聞けば、承禎がかねてより設けて置いた
国中の城々18ヶ所は一夜のうちに尽く落去した。織田殿の武威は破竹の如く、1日の間に近江を切り靡き

13日に観音寺城に入り給えば、国中の輩は皆々が降参して人質を献上し、柴田修理亮(勝家)・森三左衛門
(可成)・坂井右近(政尚)・蜂屋兵庫頭(頼隆)などへ命じられ、功を賞し罪を罰し、国法を沙汰された。

・さてさてこの度、佐々木六角承禎が大軍を有し数多の城々堅固に備え、国は富んで兵は強くありながら僅かに
一両日も支えられずたちまち没落したことは代々将軍家に不臣の乱逆挙動をした天罰ではないかと世上の評する
ところである。その故は常徳院義尚将軍の時にあたって大膳太夫高頼の子・弾正少弼定頼は武命を蔑如し上洛も

なさず、そのうえ将軍家近付きの御家来たちの領地を侵略した。常徳院は御憤りあって、長享元年(1487)
9月、近江鈎の里まで御動座されて3年まで攻め給えば、定頼は叶い難く甲賀の山中へ逃げ隠れた。明応元年
(1492)8月、恵林院義稙将軍が常徳院殿の御志を継がれて再度近江へ御動座された時もまた甲賀山中へ

逃げ入って頭をも差し出さず。永正5年(1508)6月、恵林院殿が周防国山口より大内義興を供奉し御上洛
された時には、定頼は細川左馬頭政賢・三好奇雲斎(之長)などと一味して京都へと攻め上り、これを阻まんと
するが打ち負け近江へ引き返した。光源院義輝将軍が北白川に城郭を構えておわした時は、今の承禎入道が大軍
を引き連れ京都へ乱入し、光源院殿を追い出し奉った。天文16年(1547)7月のことである。

また永禄8年(1565)に三好・松永が乱逆を振舞った時も内々承禎はその与党であったので、義昭が矢島に
おわして、しばしば御頼みあっても表では了承しながら内々では三好・松永と謀を通じて義昭を亡きものにせん
とし、今度の義昭上洛の道をも遮り留めようとした。

このように代々不忠不臣を振舞ったので数代の名家が一朝に失われたのも天命の然らしむる所とぞ知られける。

(原注:案ずるに足利殿は有力の人を頼んで怨敵を滅ぼして後に、またその功ある者を嫌って他人を頼み、その
功臣を滅ぼすことをもって代々の家風とされ、その旧轍を改めず。義昭は信長の功を忌み嫌われて朝倉・武田・
北条などを頼んで信長を滅ぼさんとしてついに天下を失うに至る。佐々木六角は攻められれば甲賀の山奥へと

逃げ入って、敵が去る時には首を差し伸ばして自国へ立ち帰るのを万古不易の謀計と代々思っていたのである。
よって今度も甲賀へ逃げ入ったが、時代は変じてその誼もまた異なり、ついに再び旧轍を踏むことはできずに
長くその家を失ってしまった。琴柱に膠して旧弊に因循し、改革の時を失う類は古今少なからず。

名門貴族の人々はよくよく心得なさるべきことではないか)

――『改正三河後風土記』

457人間七七四年2018/11/21(水) 03:32:06.45ID:t6PeB9XF
姉川って互いに3倍以上多いほうが崩されてるのが面白い

458人間七七四年2018/11/21(水) 07:06:10.44ID:IjNh0/IG
13備って言っても層が薄かったんだなきっと

おまエラの頭と一緒で

459人間七七四年2018/11/21(水) 20:25:38.67ID:ucCeN/Yq
明智日向守が本能寺に押し寄せ、その軍勢が織田信長の御座所まで入った時、日向守の家臣である
天野源右衛門、鑓を持って縁へ上がると、鴨居に兜を当てて尻餅をついた。そこに森乱丸が鑓で源右衛門の
外腿を突いた。その後乱丸は内へ入ったが、源右衛門立ち上がり、障子越しに人影を見てこれを突いた。
おそらくこれが信長であったのだという。

(武功雑記)

460人間七七四年2018/11/21(水) 22:08:46.32ID:sPYXC3wR
確かこの人はこの後に森長可の部下になるんだよな
そして信長と同じ日に死んだ

461人間七七四年2018/11/22(木) 02:54:31.07ID:jwHYgfCL
またいつものアホか

462人間七七四年2018/11/22(木) 13:45:43.46ID:kEbWa5TN
皆々家一つで育った片口者なので


若原右京は(池田家臣の)若原勘ヶ由の甥にあたり、関ヶ原の戦で功があった。
段々出世し禄四千石になり、中村主殿と共に国政を執って過分の威勢を持っていた。
国清公(池田輝政)が薨じた後、右京と主殿は奢侈に流れて仕置もよくないと
関東に伝わったので、神君(家康)はとてもお怒りになった。
それにより安藤対馬守(重信)、村越茂助(直吉)両人が上使として姫路に来たる。
時に二(三)月十五日、池田の御一族ならびに老臣物頭どもの列座にて、右京と主殿の
御不審のことなどについて御穿鑿があった。

第一に、右京は四千石の身上で騎馬の士を百人召し抱えているのは甚だ不審である。
第二に、良正院殿は神君の御女であり、その御腹の君達は御孫である。しかし右京は
良正院殿を初め幼君達に対し、無礼過分の振る舞いがあったこと。
第三に、池田の一族、歴代の家老どもを差し置いて、おのれ一人威勢権柄を振るい
諸事ほしいままに執り行ったこと。
この条々について申し分があるかと、村越安藤両人が上意として申し渡した。

右京は承って

「上意の如く心馳せの浪人どもに、後々三左衛門(輝政)直参として召し出されると
 申し聞かせ、優れた百人を自分で召し抱えたことは確かです。これは三左衛門が
 当国を拝領したとき莫大の御恩を忝なく思い、内々思うところがあったのでしょう
 当地は海陸肝要の所でその上関東より御心懸けがある国なので、とりわけ大切だと
 その任に当たるべき者を選ばれ、国法軍法を拙者一人に申し付けられました。しかし
 小身では叶わないからと加増をすると、家老初め譜代の者が恨み憤ることは必至。
 そのため蔵入五万石の地代官に申し付けられ、知行代わりとして心のままに取り
 計らうように命じられたからなのです。浪人どももそのために召し抱えていました」

「第二に、奥方子息などに無礼慮外を仕ったとありますが、これは三左衛門が奥方の
 暮らしが華美に過ぎるときは家の破れる元である、子息の方も同じことだ、左様の
 ことがあれば遠慮なく取り計らうよう、内々に申し付けられたからです。大御所様の
 御姫君、御孫であっても、過分の御振る舞いがあるときは恐れながら諌めましたのは
 確かです。武州(利隆)は別腹の惣領で、左衛門督殿(忠継)は当腹の愛子、その次々の
 子息の方も同じことですが、ややもすれば武州を越えて若輩が奢り、全てのことが
 過分になったときに異見をし、差し止めたので無礼と聞き及びになられたのでしょう。
 不敬と言い立てる程の事柄は、露ばかりもございません」

「第三に、一門家老どもを踏みつけたとのことですが、上意の如く池田出羽(由之)は
 池田の嫡家で一城の主、その他家老どもも多くは城主郡主です。このような一門譜代の
 歴々が国中の仕置などに召し使う才略があれば、それが一番よいことだったのですが
 皆々家一つで育った片口者なので、その任に付けるのは難しかったものですから
 三左衛門の思いのままに、国政軍法を某に申し付けられましたのは周知のことです。
 これについては何の子細もございません」

と申したところ、丹羽山城入道(右京の親戚)が末座より進み出て
「上使の御前にて高声無礼である」
と叱ると、右京は(丹羽の)眼を見て
「なんだ徳入、無礼とは何事か。亡き殿が御在世のときに我に対して、左様のことを
 言い張るべきなのに、今更出てきて我を折檻する方が無礼だ」
と言ったので、丹羽は言葉もなく引き下がった。

右京の申し開きは悉く立ったが、国政に相応しい者ではないと、将軍家は播州から
右京を御改易にし、主殿も同罪になったという。


――『池田家履歴略記』

右京が改易になったせいで、加増や召し抱えが反故になった士も多かったとか。

463人間七七四年2018/11/23(金) 02:56:40.72ID:/Iaku1z0
義昭将軍が帰洛されたために畿内はようやく静謐の如くなったものの、諸国はますます擾乱して一日片時も静かならず。
その中でも甲斐に武田信玄、越後には長尾謙信、相模に北条氏政、駿河に今川など互いに険要の地に割拠し、各々国境

を争って干戈はまったく止む時なし。今川氏真は昏愚闇弱といえども父・義元の武威は残り、譜代の被官や武功の輩は
多いため駿河・遠江両国を失わず。武田信玄は父の信虎を追い出して家国を奪ったほどの無道人なれば父子の大倫さえ
知らず、ましてや舅甥の情をどうして弁えることだろうか、甥の氏真の家国をも侵略せんと年来謀計を巡らせた。

そこへ父・信虎が駿府を逐電し京都へ赴くとして掛川の満福寺より内通し「今川氏真は昏弱にして譜代古老の輩は怨み
を含み、二心を抱く者がいる」と告げてきた。信玄は大いに喜び、氏真の老臣である瀬名陸奥守(信輝)・葛山備中守

(氏元)・朝比奈兵衛太夫(信置)などといった随一の侍大将どもへ賄賂を贈り交わりを厚くして語らった。その内に
利を求めて欲に耽る輩は甲斐へ内通する者数多あり。その後、信玄は初鹿野伝右衛門(信昌)を駿河へ遣わし氏真方に

申し送ったことには「三河の徳川は父の広忠の時より今川殿の幕下に属して代々恩義を蒙ったが、いつしか大恩を打ち
忘れて尾張の信長に属するのみならず、今川殿所属の城々ここかしこを攻め取って今は遠江へ手を出さんとする形勢

である。その勇威に恐れて、今川家重恩の被官どもは徳川に降参する者も少なからず。只今の如くならば、近年の内に
遠江を徳川に攻め取られるのは眼前である。さりとて、いまの今川殿の弓矢をもって徳川に敵することも覚束ない。

座しながら徳川に遠江を取られて他家の所領とされるよりは、快く信玄に遠江を賜るべし。そうすれば信玄は遠江を
手に入れて日を置かずに大軍を発し、三河を攻め取って今川殿の怨みを報じよう」とのことであった。氏真は聞いて

大いに憤り、使者の伝右衛門を呼び出すと「信玄の遠江所望はまったく心得られず! その身は奸智貪欲にして、甥の
氏真の所領を奪わんがために巧言をもって欺くとは親戚の道に背いている! 遠江を徳川に渡すことはかねがね氏真が

覚悟するところだ! 信玄の奸計など無駄である! 汝は帰ってこの旨よくよく入道に申し伝えよ!」と返答して、
早々に伝右衛門を追い返した。信玄はこの返答を聞いて大いに怒って「氏真のような乳臭の小児が、なんと無礼の

甚だしいことか! それならば徳川と和睦し、後ろを心安くして駿府を攻め取らん!」と、やがて山県三郎兵衛昌景を
岡崎に遣わし「今より後は両家長く誼を通じて大井川を境とし、遠江は徳川殿の御手柄次第に切り取り給うべし」と
申し送った。神君も、もっともであると御同意の御返答をされた。

――『改正三河後風土記』

464人間七七四年2018/11/23(金) 10:09:32.49ID:GJCxuqZg
氏真の低評価ぶりが酷い

465人間七七四年2018/11/23(金) 10:19:09.75ID:OgYlCKSq
中川秀政の討ち死に


中川秀政は父・清秀が賤ヶ岳の戦いで討ち死にした際家督を継ぎ、その後も
秀吉配下として各地を転戦し、摂津国三木13万石を領する大名となっていた。
文禄の役でも弟・秀成と共に三千余りの軍勢を連れ肥前名護屋に参陣した。
秀政は渡海し守備についていたが、10月24日水原城の辺りで鷹狩をしようとした。

秀政は家臣からの
「今は敵兵が四方の山々に満ちているのに、軽々しく鷹狩をするのはいかがか」
との申しに従わず、甲冑の上に狩装束を着て連れ行く兵にも具足で武器を持たせた。
しかし鳥を驚かせないために、付いて行く者は皆徒歩で馬は五、六町後に引かせた。
鷹狩で鳬(ケリあるいはカモ)、雁の類を、数多く捕らえたという。

その時日本の雑兵二、三百人が薪取りか刈田にでも出てきていたのだろうか
朝鮮人に追い立てられ、散り散りに逃げていた。
秀政はそれを遥かに見て
「彼の者どもを目前に討たせては、後日の嘲りを遁れることが出来ようか」
と言って笠を脱ぎ捨て半月を打った冑を付けて、馬に乗りただ一騎にて馳せ入った。
付いていた兵は徒歩の鎧武者なので、心は逸ったが後に続くことが出来なかった。

秀政は伯耆安綱が打った二尺七寸の太刀を持ち、真っ先に出てきた七尺余りの敵を
左の肩先から乳の下まで斬りつけると、馬から倒れ落ちて死んだ。
続いて金子寛という敵が組み付いてきたので、(秀政は)太刀を捨て共にもつれながら
馬から落ちた。
(秀政は敵を)押し伏せて首を掻こうとしたが、脇差が弓手(左手)の方に回って
取れなかったので、下にいる敵の剣を抜いて二度刺し通し大将を討ち取った。
「続けや者ども」
と秀政は呼びかけたが、傍にいるのは雑人ばかりで物の用には立たなかった。
付いていた兵も未だ駆け付けられず、その間に近くにいた敵が半弓から毒矢を放ち
秀政の脇壺を射った。痛手を負ったものの、(秀政は)その敵と組み合った。

この時ようやく五、六人の兵が駆けつけ、草履取りの市蔵が毒矢を放った敵を引いて
柳原源蔵がこれを斬った。
横田九左衛門光成、田島傳助、村治五郎大夫などは群がる敵を斬り殺した。
その間にも、兵が駆けつけたため敵兵は悉く逃走したという。

それから秀政を引き起こすと矢柄が中の方へ折り曲がっており、矢を抜いたものの
箆(矢の棒の部分)だけ抜けて、鏃は中に残ってしまった。
(脇壺は)急所であり深手だったが、ようやく水原城に(秀政を)運んだ。
(秀政は)同日の暮に卒した。享年二十五歳。
遺骸は城の傍らに葬り、目印に桜を植えたという。


――『中川家譜』

466人間七七四年2018/11/23(金) 15:15:02.19ID:UlX5qNJK
秘伝のクソを鏃に塗ると瞬殺するんだわwww

467人間七七四年2018/11/23(金) 15:26:00.44ID:cAkTgeNM
>>463
>徳川に遠江を取られて他家の所領とされるよりは、快く信玄に遠江を賜るべし
無茶苦茶な要求過ぎて草

468人間七七四年2018/11/23(金) 15:42:23.83ID:UlX5qNJK
領土野心ないならいい条件だと思うけどな
徳川からの防波堤になってくれる申し出
断るのはアホでしょ

469人間七七四年2018/11/24(土) 01:26:15.31ID:3nUGGM6I
どうみても遠江だけでは済みません本当に(ry
まぁ戦国時代なんて力の強い奴は無茶な要求してくる訳で
それが嫌なら力を持つか降参するかって話だな

470人間七七四年2018/11/24(土) 11:57:34.49ID:p8OrvtZN
信玄「わしは海が見たかっただけなんじゃ…」

471人間七七四年2018/11/24(土) 12:39:41.80ID:g58iGVCm
>>463
ハルノブ・ノート

472人間七七四年2018/11/25(日) 18:14:09.89ID:ZB80nPSy
(薩た峠の戦いの時)

永禄11年(1568)11月6日、信玄は3万5千余人を引き連れて甲府を出軍し、下山通を経て由井八幡坂を左に
見なし、長坂を越え宇津総というところへ日数7日で押し付けて松野に陣を取った。信玄にかねがね内通する今川方の

諸将へ「いよいよ忠勤を励むべし。恩賞は望みのままであろう」と申し送った。氏真はこの事を夢にも知らず、信玄が
出軍したと聞き「さらば出向かい蹴散らさん!」と人数を催した。先陣の庵原左馬進忠宗と同安芸守忠胤は2千余騎で

薩た峠を前にして陣を取った。2陣は岡部忠兵衛長宗(土屋貞綱)・小倉内蔵助直次(資久)が7千余騎で八幡に陣を
取る。総大将・今川氏真は2万5千余騎で清見寺に備えていた。今川家一族や旧好の宿将老臣かれこれ21頭は

総じてその勢3万4千余。「股肱金鉄の勇士どもも今日を大事と兜の星を輝かし、具足の袖を連ねて雲霞の如く列して
いるから、今川と武田の雌雄を決する大合戦、さぞやいかめしき事であろう」と敵も味方も固唾を飲んで今日を最期と

思っていた。そこへ信玄方先手の旗の手が見えると、そのまま後陣に備えている今川方の朝比奈兵衛太夫秀盛(信置)
は早々に陣を払い駿府へ逃げ帰った。これを見て瀬名陸奥守親隆(氏俊)とその子・中務大輔氏範(信輝)や三浦与一
義高・葛山備中守氏信(氏元)、ならびに武田陸奥守信虎が駿府で設けた上野介信隆(信友)らを始めとしてかねがね

信玄に内通する侍大将21人の輩が同じく評議したことには「氏真の暗愚ではとても駿河・遠江領国を長く守ることは
できない。ついには織田・徳川両家のために切り取られるよりも、かねがね信玄が所望の如く信玄に授けて、その功を
もって我らは恩賞に郡邑を数多申し受けよう。これこそ家名を失わずに富貴を得る妙計である」と評議一決して各々

駿府へ逃げ入った。数代恩顧の老臣がすでにこの如くなれば、前後に隙間なく居並んでいる諸軍勢は氏真を顧みもせず、
しばらくの間に我も我もと逃げ帰り近辺に人ありとも見えざりけり。先陣の庵原左馬進と同安芸守が後ろを振り返って

見ると、後陣はにわかに群れ立って引き退くかと見えたので「これはいかがしたことぞ! 八幡辺りに控えている味方は
堪えているか見て来い!」と使者を遣わすと、やがて馳せ帰って「この近辺にいた味方の勢は1人も見えません!」と

言った。庵原は聞いて「それではこの勢だけでは武田との合戦は叶わない! ひとまずは駿府へ引き返し、重ねて軍議を
定めて合戦する!」と申し、21人の老臣どもを召し集めたところ各々別心を企てたのかもしくは武田勢に恐れたのか、
一言も存慮を申し出す者もなく途方に暮れた有様であった。

――『改正三河後風土記』

473人間七七四年2018/11/25(日) 20:24:40.17ID:542rKWP7
信玄視点だとまさに戦わずして勝つを体現したいい話かな
氏真視点だと眼も当てられないが

474人間七七四年2018/11/26(月) 17:40:01.92ID:KK3kfl/4
佐々陸奥守成政が越中の守護職であった時、彼は越中外山に在城していた。

何保という所に、菊池入道と号す者があり、彼は元は長尾(上杉)に属し、現在は佐々に随心して、我が子を
成政の傍に使わし、常に外山に出仕して、越中の昔のことなどを物語した。

ある時、酒宴たけなわで成政も興に乗じている時分、常にもてはやしていたナマズの盃を取り出し、これに
酒をつがせ飲むと、次に菊池入道へさした。入道三度これをかたむけ成政へ返し、腰に挿していた脇差、これは
波平であったが、それを捧げ

「慮外ながら献上仕る。これはかつて長尾(上杉)謙信より受納した物ですが、どうか謙信にあやかり給うように。」

そう言ったところ、成政は大いに怒った

「何事をあやかるというのだ!?謙信の武勇など、いか計りの事があるというのか!」

入道を怒鳴りつけ、脇差を投げ捨てた。入道はこれに

「武勇のことではありません。謙信は九ヶ国の管領でありました。ですので、果報いみじくましますように、との事です。
この入道も老耄して、酒興故にこのような事をしました。この脇差はどうぞ御小姓衆へ。」

と、酌に立った小姓に遣わした。これを見て成政も機嫌が直り、「小姓どもへのあやかり物としては丁度いい。」と
言って笑った。

(士談)

475人間七七四年2018/11/26(月) 19:12:47.85ID:Yfv/hYw6
佐々成政はほんと状況読めないし小物だし…
なぜ没落したのかがよくわかる。

476人間七七四年2018/11/26(月) 19:35:45.98ID:bNDBxVrQ
>>474
切れた上司に対するフォローがすげえw即興でこんな返しができるようになりたい…。

477人間七七四年2018/11/26(月) 20:36:04.60ID:22rAOMew
>>292
戦国時代はその場で手打ちにならなくても根に持たれて後で謀殺とかされそうだしフォロー力高くないとそれなりの年齢迎えるのすら厳しそう

478人間七七四年2018/11/27(火) 15:13:01.25ID:T+B7ABYS
魚住城攻めで勝家と大喧嘩したんだっけ

479人間七七四年2018/11/27(火) 21:54:05.37ID:x04VAUwX
薩た峠の戦いにて殆どの今川諸将は今川氏真を見限り駿府へ逃げ入り、その後の軍議で存慮を口にしなかった。
その中でも今川随一と人に知られた朝比奈兵衛太夫(信置)は軍議の席へ出座もせず、料理の間の長炉に背中

を向けて居眠りしていた。岡部忠兵衛(土屋貞綱)と小倉内蔵助(資久)らは、この様子を見て不思議に思い、
「兵衛太夫には逆心があるかと見及びます」と、氏真へ告げた。「それには何ぞ証拠ありや」と、氏真が尋ね
られると両人は答えて「兵衛太夫は無双の剛士。数度の名誉を人に知られた身が、今回は武田の旗色も見ずに

一番に逃げ帰ったこと、これ一つ。次に武田の軍勢はすでに当国へ乱入し、事の急に臨み軍議の席にも出ない
こと、これ第二なり。またこの騒動の最中に、当家随一の老臣が具足も身に着けず炉を囲んで座眠りしている
こと。この3ヶ条をもって、不審がないとは言えません。みるからに21人の侍大将は尽く信玄に内通したと

見えて合戦を気遣う様子もなく、敵を恐れる様子をも見えません。兵衛太夫1人を誅戮すれば、残る輩はこれ
を見て懲りるのではないでしょうか」と述べれば氏真ももっともだと得心し、日根野備中守(弘就)ならびに

内蔵助の嫡子・小倉与助両人に命じて、「兵衛太夫にいよいよ逆意の形勢あれば、速やかに討ち果たすべし。
もしもそうでなければ、軽卒な騒擾を起こしてはならない」と指示を加えた。両人は畏まりやがて料理の間に
来ると座睡している朝比奈の側へ立ち寄ったが、朝比奈はまったく用心する様子も見えず。日根野は小倉を

差し招き、「朝比奈に逆位があれば我ら両人の形勢を見て少しは用心するはず。しかし、さらさらその様子も
ない。この上は朝比奈は逆心にあらざるか」と言う。小倉は聞いて「私もそう存ずるので軽卒な振舞いをして
はならない」と相談し、氏真へその有様を告げた。その間に兵衛太夫は密かに座を立って宿所へ帰り、

弟の金七郎に向かい「私は今日、ようやく虎口を逃れて帰ったのだ。その故は日根野備中守と小倉与助は両人
で我が身の側に立ち寄り、しばらく佇み立っていた。その様子は事ありげに見えたので、必ず主君の命を蒙り
秀盛(信置)の形勢を窺い見て、もし私に怪しい体でもあれば、討ち果たそうとする様子だった。

秀盛はこれを推察して、もしもこちらで用心の体をすれば身の災難は逃れられないと心付き、わざと知らぬ体
で座眠りしていた。それを見て両人は不審の顔色で立ち去ったのだ。今や陰謀の露見は程近い。そうなったら

甚だ危うい。私は速やかにここを立ち退く。其の方は私めの人質を盗み出してどこかへ落ち行かせよ」と申し
含めて、兵衛太夫はその夜に逐電した。氏真はこの事を夢にも知らず、重ねての軍議をするとして宿老どもを
召し集めると、秀盛はすでに逐電したと聞こえて氏真は呆れ果て、とかくの沙汰にも及ばなかった。けれども

21人の宿老どもは各々が敵への内通露見を恐れて、皆が武田に従った。秀盛の弟・金七郎は兄の人質を盗み
出して逃げたものの、これを聞いた氏真が大いに怒って手分けして追い掛けさせれば、金七郎は取り逃したが
人質は取り返して来た。このため氏真は諸人を懲らしめるためとして、かの人質の首を刎ねたのであった。

――『改正三河後風土記』

480人間七七四年2018/11/28(水) 01:55:28.03ID:oszB9Hdo
>>465
秀政の死については天正20年12月6日付中川秀成宛秀吉朱印状で触れてるね
秀政が部下を連れず単独で敵の番所へ視察に出て待ち伏せに逢い
その時の傷がもとで死んだと報告を受けた秀吉が軽率過ぎると激怒してる

481人間七七四年2018/11/28(水) 19:23:41.98ID:k9WRVOTA
黒田如水入道は茶の湯を嫌っていた。「武士の道に非ず。なんぞや刀小脇差まで外に捨て置き、
丸腰にて其の会あらんこと、沙汰の限りである。」と言っていた。

ある時、豊臣秀吉が如水を招き、数寄屋にて茶の会があった。如水としても君命辞し難く、その命に
応じた。ここで秀吉は、如水一人を客として、数寄屋にて密事を談じた。これは関白秀次生害の事であったと言われる。
他者が知ること無く、詳細に話し合いをし、終わって退出した。如水はこの時大いに茶の会に大利あることを感じ、
以後数寄の道を趣味としたという。

(士談)

482人間七七四年2018/11/28(水) 23:07:36.70ID:n4LZlX5q
随分晩年の話だな
それまでに茶の湯に付き合わなきゃならない事なんて山とありそうだが

483人間七七四年2018/11/29(木) 09:44:07.54ID:smPpcYRC
これが

黒田官兵衛と茶の湯

の出典か

484人間七七四年2018/11/29(木) 09:47:31.06ID:smPpcYRC
名将言行録出典だと話はおもしろいけど名将言行録だから…となるけど
山鹿素行先生はどうなんだろ

485人間七七四年2018/11/29(木) 20:16:21.24ID:/TtpzPNN
今川諸将が氏真を見限り朝比奈兵衛太夫も逐電する内に、武田先陣の山県三郎兵衛昌景・馬場美濃守氏勝(信房)・
小山田右兵衛尉信茂・小幡上総介信実(信貞)・真田源太左衛門信綱・同兵部少輔達連(昌輝)・内藤修理亮昌豊ら

3千5百余騎は江尻を越えて宇和原まで寄せ来たる。駿河の町人・百姓どもは「これは何事なるや!」と上から下へ
と騒動して資材雑具を東西へ持ち運び、あるいは幼き子を背負い老いた父母の手を引き南北へ逃げ迷う。城中の女童
も慌て騒ぐこと限りなし。武士も妻子を持て余して逃げ支度ばかりし、合戦を心掛ける者はなし。

大将の氏真も近習どもが騒ぐのを見て呆れ果てるばかりである。そんなところへ三浦右衛門佐(義鎮)が慌ただしく
馳せ来たり、手の舞い足の踏むところも覚えず、顔色は土の如くになって申すことには、「主君は未だ世の有様をも

御存知ないまま、そのように御過ごしなのですか! 21人の逆臣どもは皆々信玄に降参し、主君に向けて弓を引き、
矛を逆様にして攻めようとしています! これを防ぐ味方はおりません! 退くべきところは退き、進むべき時は進み、
進退節に応じますのを良将の振舞いとします! そのように座しながら敵の虜となり給うのは口惜しいことではあり

ませんか! 急ぎこの城を立ち出て砥城の山家へ身を潜めて計略を巡らし、重ねて快復の功を顕してください!」と
例の利口巧言をもって知恵有顔で申せば、何事も三浦の申すところに背かぬ氏真はこれをもっともと得心し、近習
わずかに50余騎を召し連れて、代々住み慣れた駿府を立ち出て、砥城の山家へ落ちて行ったのである。

城中の女童は皆歩行素足で走り出たが、道も分からずにかれこれさまよっているのを、情けも知らぬ下部(身分の
低い者)どもがここかしこに追い詰めて、打ち倒し押し伏せ衣服を剥ぎ取り、物を持っていれば奪い取って赤裸に
した。喚き叫んで泣き悲しめば、そのまま息絶える者もおり、目も当てられぬ有様であった。

――『改正三河後風土記』

486人間七七四年2018/11/30(金) 16:35:16.50ID:Ny+xzMJX
さてまた今川家譜代恩顧の老臣どもは利禄のために誘われ、大節に臨んでその志を奪われた輩多き中でも、
葛山備中守(氏元)は「かねてからの内約通り、駿河を下し賜われたい」と願い出た。

ところが信玄は頭を振り「汝は如何なる忠節があって左様な願いを申し出すぞ。数代恩義を蒙った主君を
捨てて叛逆したことを大功と思っているのか。君恩を知らざる禽獣に駿河を取らせるくらいなら、

甥の氏真へ返し渡す!」と、大いに嘲笑って罵った。葛山は大いに怨み悔いてもどうしようもなく、年を
経て後に北条氏康へ内通し、氏康の手引きをして信玄を滅ぼし怨みを報じようと計略を巡らせた。しかし、
その事は露見して生け捕られ、信濃諏訪で磔に掛けられたのである。

瀬名陸奥守(氏俊)は程なく不療の病を受けて病死し、その子・中務大輔(信輝)は信玄の心に違えて
甲斐を追い出され小田原へ逃げて行くが、氏康もその不忠を憎んで扶助せず、ついに民間に落ち入った。

朝比奈兵衛太夫(信置)はしばらくの間駿河にいたが、武田勝頼滅亡の後に徳川家の誅を蒙ったのである。
その他大身小身ともに信玄へ内通した者を信玄は称美せず、あるいは誅せられ、あるいは飢死し、あるい
は民間に流浪した。不忠無道の天誅逃れざるこそ恐ろしけれ。

――『改正三河後風土記』

487人間七七四年2018/12/01(土) 00:49:10.56ID:lEMylcGS
事情斯くの如きに際し、薩摩の王(島津義弘)及びアウグスチン・ツノカミ殿(Augustine Txunocanmindonio 小西攝津守行長)は
彼等の手兵を治部少輔(石田三成)の前に出せり。
内府様[徳川家康)は之を見るや、兵士を集中してヨカタ川(Jocatangauwa)の河岸に沿ひて下り、其進出を妨げんとせり。
彼は対岸に二人の強き将軍の指揮下に在る新来の援軍あることを、其軍旗によりて知りしかば、此方の河岸に止りたり。
伏兵を恐れしを以てなり。

両軍相対峙して、機会を窺える間に、全日本を通じて党派は二分して互に戦ふに至れり。

豊後の王國に於ては、クアムビオエンド(Quambioiedo 黒田官兵衛孝高)は、其子甲斐守(長政)より送りたる使者により、内府様の軍の
勝報(岐阜城陥落)に接せり。之に気を得て彼は八千の兵を以てフランシスコ(Francisco 大友義統)を襲へり。
彼は故の豊後王(大友宗麟)の子にて、久しく太閤様の爲に都に止められしが、内閣員(奉行衆)の命によりて放たれ、四千の兵を以て
豊後に帰りしなり。
閣員はフランシスコが正当なる王として此地の臣民を其手に附け、よりてカムピオエンドに抗し得んとの希望なりしなり。

然るに予想は全く反対に出で、フランシスコは國に帰るや直に敗績したり。之が爲に豊後の一國は全く内府様の確保する所となれり。
此を初として内閣員は到る處に反抗に遭へり。
(モンタヌス日本誌)

モンタヌス日本誌の関ヶ原についての著述の一部。大友義統は九州に下って即座に敗北した事になっているわこのせいで奉行衆への反抗が続出するわ

488人間七七四年2018/12/01(土) 19:16:47.19ID:OplMdQS/
(今川氏真の駿府退去後)

今川氏真の無二の寵臣・三浦右衛門佐(義鎮)は、氏真を伴い砥城の山家に忍んでいたが、朝比奈泰能(泰朝
の誤り)が使者を立てて氏真を遠江掛川城に迎え入れるに及び、右衛門佐も氏真に付き添って掛川へ参らねば
叶い難き身ではあるが、この年来に右衛門佐は氏真の寵に誇って古老武功の輩に無礼を振舞ったため、朝比奈
は右衛門佐を甚だ憎んでいたので、右衛門佐は大いに恐れて氏真と別れて、父・小原肥前守(鎮実)が守って
いる花沢城に入り、父子一緒に武田勢と一戦せんと立て籠った。

長谷川次郎右衛門(正長)は一族21人軍兵3百余人が藤枝の城(徳之一色城)に籠り、他に由比・浅原・
斎藤などの輩も伊具山に備えて一防せんと控えていた。故に信玄は容易には駿府へも入り難く、先手の山県
三郎兵衛(昌景)・馬場美濃守(信房)・小山田右兵衛尉(信成)・小幡上総介(信貞)・真田源太左衛門
(信綱)・同兵部少輔(昌輝)・内藤修理亮(昌豊)などを遣わして、駿府の城を焼かしめた。

折しも烈風が吹いて櫓やその他楼閣は一円に燃え上がり、黒煙は天地をかすめた。今川家数代の間に富貴奢侈
を極めて積み蓄えた財宝・珍器・名物は尽く焼亡し、金銀を散りばめた大廈高楼が一夕の灰燼となった有様は、
姑蘇城一夜の煙や咸陽宮三月の火もこうであったのか、呉越秦楚の古も思いやられて哀れというのも愚かなり。

(原注:『烈祖成積』『東遷基業』などには、信玄が賄賂で招くと留守を預かっている岡部次郎右衛門正綱は
信玄に降参して安部大蔵元真は退去し、後に神君に帰順した。その後に信玄は駿府の城を焼いたとある。

しかしながら翌年5月に神君が氏真と御和睦の後、氏真を駿府に帰任なさしめんと駿府の城を経営された時に、
岡部正綱兄弟にその事を命じられた。岡部がもし信玄に降参したなら、何故氏真のために築き給う城を岡部に
命じられようか。

まったく岡部はこの時までは信玄へ降参せず、氏真の味方であった故にこの普請を仰せ付けられたのであろう。
12年の11月より信玄は駿河に攻め入り、12月再び駿府を攻めた時に岡部はついに信玄に降ったのである。
安部もその時に退去したのであろう。よってここは成積・基業の説を取らない)

信玄は山県三郎兵衛に駿府を守らせ、自身は久能山に陣を取った。如何なる滑稽の者の仕業であろうか、翌月
駿府の焼き跡に一首の狂歌を大札に書いて立てたのである。

「甲斐もなき大僧正の官職を 慾に駿河の甥倒し見よ」
(欲のままに甥から駿河を奪わんとする大僧正の徳の無さを見よ)

信玄と氏真は舅甥の仲であるから、たとえ救援することは無いとしても、信玄は姦謀を巧みにして氏真の家人
どもを貨財をもって誘い、ついに国郡を奪い取ったことを憎まぬ者はいなかった故、このように誹謗したので
あろう。信玄は武門にあって何の故にか比叡山明応院に賄賂を送って大僧正の僧綱に任じ、今また甲斐を領し
ながら駿河を奪って甥・氏真の所領を失わしめた故、諸人はその無道を謗り憎むのも道理と知られたり。

これのみならず信玄が無道というのは、父・信虎を追い出して家国を押領し、罪なき嫡子・太郎義信を殺害し、
諏訪刑部大輔頼重と和睦し、頼重を甲斐へ招き寄せて偽り殺してその国郡を奪い、そのうえ頼重の娘を妾とし、
その腹に勝頼を設けた。

このような暴悪の所行は挙げて数え難し。今川家の重宝である京極黄門定家卿真蹟の古今集を借りて、ついに
返さず、国中の盲人を召し集めて焼き殺すといった類は物の数ではない。老算妙謀古今に比類なく、軍法戦術
は孫呉を彷彿させるといえども、子孫の繁盛は覚束ないと思わぬ者はいなかった。

――『改正三河後風土記』

489人間七七四年2018/12/01(土) 20:05:06.68ID:Xogi4/3p
>>486
信玄を信じてはいかんということか

490人間七七四年2018/12/02(日) 01:14:12.53ID:7oc/IBR2
武田先手の山県三郎兵衛・馬場美濃守・小山田・小幡・内藤の3千5百余騎は江尻・宇和原まで押し来たる。

駿府の地下町人は申すに及ばず、城中の男女は慌てふためき徒歩裸足で走り出て、どことも知らず迷い行く
のを、情けも知らぬ下部どもがここかしこに乱れ散って衣装を剥ぎ、手に持っている物を奪い取れば、喚き
叫んで悲しむ有様は、哀れというだけでは言い尽くせない。

そうして信玄の手に触る者もなく武田の軍兵は城中へ乱れ入り、今川の館を焼き払った。さしも長年作り磨か
れた大廈の構えが一時に灰燼となってしまったのは、何とも酷いものであった。

翌日に如何なる滑稽の者がしたものか、御館の焼け跡に、

「甲斐もなき大僧正の官賊が 欲に駿河を追(甥)倒す見よ」

と書き立てたのである。末代といえども氏真は信玄の甥であるから、親しき誼を疎んで捨てるまでは良いと
しても、押し倒して国を奪い取ることは無道至極であると眉を顰める人が多かった。

信玄は駿河衆を手に入れ、その人質を取って甲斐へ遣わされた。駿河花沢の城主・小原肥前、同藤枝の城主・
長谷川次郎左衛門、遠江掛川の城主・朝比奈備中守、その他に戸久・一色の城代らは無二の忠臣で、まず氏真
を掛川の城へ迎え入れて、その勢7千余騎は城を堅固に持ち堅め、用心は厳しく見えた。

この度、忠義を忘れて敵に与し、譜代重恩の主君を押し倒す輩はまさに人皮畜生と言えよう。

――『小田原北条記』

491人間七七四年2018/12/02(日) 16:19:37.68ID:q8TVdi1P
既出じゃないと思ったけど、既出だったらすまん

光秀恨む女の霊 神社に残る戦国悲話/兵庫・丹波市
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181202-00010000-tanba-l28

(前文略)
 織田信長の命を受け、丹波の国を攻めた光秀だが、「丹波の赤鬼」との異名をとった武将、赤井悪右衛門直正らの抵抗に遭い、敗走を余儀なくされるなど、さんざん手を焼いた。

 そんなある日の夕暮れ。丹波に構えた戦陣にいた光秀に向かって、流れ矢がうなりを立てて飛んできた。身をかわして難を逃れた光秀は、背後の木の幹に突き刺さった弓矢を引き抜き、険しい目つきで矢尻を凝視した。

 そこには「土屋(はんや)」の印が入っていた。その印を見て、光秀の怒りが増した。

 土屋三坂と名乗る矢匠をはじめ、その一族が捕らえられ、光秀の前に引き出された。三坂は、柏原八幡宮の近くに居を構えていた。

 光秀は、三坂に言い放った。「わしは、土屋の矢が憎いのじゃ。わしを苦しめているこの矢がな。わからぬか」

 すでに死を覚悟した三坂は、光秀の剣幕にひるむことはなく、堂々と言い返した。「とんとわからぬ。わしは丹波の矢匠ぞ。頼まれて矢を商うに何の遠慮があろうぞ。赤井方であろうと、明智方であろうと、戦あっての矢匠ぞ」

 ふてぶてしい三坂の態度に光秀の怒りは頂点に達し、鬼と化した。「こやつらを、ことごとく火あぶりにいたせ」

 まもなく火あぶりの刑が執行され、火焔が夜空を照らした。処刑された者は、三坂をはじめ一族ら9人。見苦しい最期をさらした者は誰一人としていなかったと言われている。

 ただ、一族の中に火あぶりから逃れた者がいた。岡女という三坂の妹である。三坂らを捕えるために光秀の家臣たちが押しかけたとき、いち早く裏庭に逃げ出したのだ。

 兄の最期を知った岡女は、兄の後を追い、自害しようと思ったが、自分のすべきことは兄たちの霊を慰めることだと思い直し、髪を下ろして仏門に入った。兄をしのび、供養の日々が続いた。

 しかし、心に深手を負ったためか、ちょっとした風邪が命取りとなり、光秀を恨んだまま息を引き取った。

 柏原の里人たちの間で幽霊の話が交わされるようになったのは、それから間もなくだった。兄の三坂らが火あぶりにされた沼池のほとりに美しい女の幽霊が出るという噂だ。

 「昨日は、うめき声がもれていた」
 「一昨日は、しくしく泣いていた」

 のちに、心ある人たちによって沼池のほとりに小さな祠が建てられた。そのおかげか、幽霊の噂は途絶えた。

 霊をまつっていた祠はやがて柏原八幡宮に移され、今は厳島神社となって戦国の悲劇を伝えているが、地元でもこの話を知る人はそう多くない。
 (参考文献・榊賢夫氏著『丹波柏原・続篇』)

492人間七七四年2018/12/02(日) 19:01:31.44ID:3VrTm9J6
光秀のとこが忠興だったらしっくりくるんだが

493人間七七四年2018/12/02(日) 21:50:49.81ID:bbdeZ+zx
>>491
光秀らしくないなぁ

494人間七七四年2018/12/02(日) 23:53:13.05ID:IOgcy9Nw
矢匠も命がけの仕事なんだな

495人間七七四年2018/12/03(月) 04:17:19.68ID:DcTOfOoq
相当ストレス溜まってたのかなぁ?
この間評判の良い鈴職人が馬具用に大量の鈴作った後に殿様に殺された逸話も出てたけど、理不尽な事したら大抵後で返って来るよね。

496人間七七四年2018/12/03(月) 16:59:32.80ID:Mz61qWb/
林羅山と円模の地図


慶長11年6月15日、道春(林羅山)及び信澄(羅山の弟)は頌遊(松永貞徳)の仲介で
思いがけず耶蘇会者不干氏(ハビアン・日本人イエズス会士)の元に至った。
不干は従者の守長に三人を招かせ部屋に入れて、座らせた。

寒温(時候の挨拶)が終わると、春は徒斯画像(キリスト図)について質問したが
(不干は)はっきり解答しなかった。浅はかな解答になるのを恐れたのだろう。
またかの円模の地図(地球図)を見て、春が
「上下ということがあるのか」
と言うと、干は
「地中をもって下とする、地の上は天であり、地の下もまた天である。
 吾邦(ここでは西洋人のこと)は舟で大洋に漕ぎ出したが、東極は西、西極は東。
 これにより地の円であることを知る」
と答えた。

春は
「この理は成立しない。地下にどうして天があるだろうか。万物を観れば
 みな上下がある。彼が上下がないように言うのは、この理を知らないからだ。
 大洋の中は風も波もあるのだから、西に行こうとしてあるいは北や南に向かい
 その後東に行ったのを舟中の人が分からず、西に行ったと勘違いしただけだろう。
 西極が東になる訳がない。東極の西も同様である。物にはみな上下がある理を
 知らないので、彼は地中を下とし、地形を丸いとした。その惑いがどうして
 悲しくないだろうか。朱子の言う"天半地下を繞る"ことを彼は知らないのだから」
と言った。


――『排耶蘇』

他にも長々と反論があるがカット。羅山は中国の渾天説に拠って発言しているので
地が浮いていることには異論を述べていないが、朱子学では自然法則と倫理規範との
合致を説くので、天地の上下が相対的な地球図を忌避したらしい。
参考論文:金沢英之(2004)『《地球》概念のもたらしたもの』

497人間七七四年2018/12/04(火) 23:00:13.70ID:5wNcBLpD
ハビアンがそのあと棄教したもんだから林羅山が論破したような風潮があるけど
ハビアン単に「ヨーロッパから東も西もわからない技術で日本までこれると思ってるのか」と呆れていた可能性

498人間七七四年2018/12/05(水) 14:57:37.13ID:8cGYkPYR
去るほどに、栄える者は必ず衰え、生まれる者は必ず滅するの理の通り、朝倉家にも滅亡の時が訪れたと見え、
近年(朝倉義景の時代)多くの一族や被官が、或いは病死し或いは討ち死にし、家運の危うさは言うまでもなかった。

先ず右兵衛尉景高の嫡子次男が、一年の内に二人ながら死去し、その後景高も死去して末子孫三郎一人残命した。

九郎左衛門景紀の嫡男四郎左衛門景?(みつ)は、加賀へ出陣した折、大将であった景高と相論して自害し、
その舎弟中務大輔景恒も死去したが、父景紀も程なく卒去した。

堀江左衛門三郎景忠は、朝倉義景の勘気をこうむって能登国に立忍び、伊勢左衛門太郎景茂は、
過酒して不慮に酔死したため、国の防衛も薄く心もとない状況になり、人々は只薄氷を踏む心地であった。

その外、玄蕃助景連、同次郎左衛門景高、前波藤右衛門景定、小林備中守、窪出九郎右衛門、黒坂備中守といった、
千騎二千騎の軍勢を引廻すほとの者共も悉く死亡して、その後に義景は少数の、若輩の佞人たちだけに世を任したため、
功のある者には恩賞無く、罪の有る者は誅伐されず、彼らは奢りを極め欲を縦にし、己を強くし君を弱めて、終に
国の禍を招いたのだ。
(朝倉始末記)

老巧の者たちが多く死んだ事が朝倉の衰運を引き寄せた、と言う朝倉始末記の記事。

499人間七七四年2018/12/05(水) 15:38:02.15ID:GC/GK0DC
救世主の登場まであともう少し

500人間七七四年2018/12/05(水) 18:55:31.32ID:HXahwpEc
柏原の読みは「かいばら」なんでよろしく

501人間七七四年2018/12/05(水) 22:41:22.91ID:pN4nt+mo
豊臣から徳川へ時代が変わった頃、大坂の池田の町で奇妙な事件が起きた。
ひとりの男が寺にやってきて、亡くなった人の弔いを頼んできたのだが、
寺の僧侶が頼まれた場所に行っても誰もいない。
 寺だけでなく、葬儀屋も同じような目にあった。葬式道具をかついで
依頼された場所に行っても、該当する家がなかったのだ。
 そんな出来事が色んな寺や葬儀屋で起きたものだから、たちまち評判となった。
その話を耳にしたある寺の和尚が自分のところにそのいたずら者がやってきたら
捕まえてやろうと意気込んで待ち構えていると、ひとりの男がやってきて
弔いをお願いしてきた。
 その男の様子を見て「さては こいつに違いない」と決めつけて、和尚は
男を捕えて縄で縛り上げた。そして、和尚が「このいたずら者め!」と
怒鳴りつけて尋問すると、男は最初のうちは何とか誤魔化そうとしたが、
とうとう観念して白状し始めた。
「俺は元々大坂城に住んでいた古狐だ。侍どもが勝手に戦をしたせいで
大坂城は焼け落ちて、俺も重傷を負ってここまで逃げ延びたが、ついに
力尽きて死んでしまった。徳川の世になってから皆は戦で亡くなった人の
ことを忘れて暮らしてやがる。俺はそれが許せなかったから、こんな
いたずらをしたんだ」
 和尚がその話を感心しながら聞いていると、古狐の亡霊はこう言った。
「もういたずらはしないから、俺をお稲荷様として祀ってくれ。俺は
侍の中でも本多平八郎という奴が好きだった。強いし、気のいい男だ。
頼む。俺に平八という名前をつけて祀ってくれ」
 そう言い残すと男はすっと姿を消してしまった。和尚には古狐の気持ちが
よくわかったので、さっそく菩提を弔って稲荷の祠を建てた。
 これが今でも池田に残る平八稲荷の祠である。
 
 平八稲荷となってから、さすがに古狐はいたずらをしなくなったが、
池田の町にある他のお稲荷さんに喧嘩を売って迷惑をかけたようである。

502人間七七四年2018/12/06(木) 14:34:12.75ID:z0zI1XyY
>>501
オチw

503人間七七四年2018/12/06(木) 21:24:00.56ID:cjWmIg7g
狐と猿って相性悪くないのかな

504人間七七四年2018/12/06(木) 21:58:59.27ID:VriDoSJN
日向守明智云う、仏のうそをば方便と云、武士のうそをば武略と云。土民百姓はかはゆきこと也と名言也。
(老人雑話)

505人間七七四年2018/12/06(木) 23:25:07.67ID:o0R9xr8o
>>503
知り合いの姫が狐憑きになった時に、出て行かないと日本中の狐を絶滅させるぞ、と稲荷大明神を
脅迫する程度にはフレンドリー<サル

506人間七七四年2018/12/06(木) 23:47:35.75ID:U7W3U1dT
狐もワンワン吠えるから相性悪いはず

507人間七七四年2018/12/07(金) 05:52:50.75ID:nH7hfDGG
(薩た峠の戦い第二次合戦の時)

信玄は駿河久能に城を築いた。一夫が怒って関を塞げば三軍の帥も通ることを得難きほどの名地である。今福
浄閑父子(長閑斎友清・虎孝)に同心40騎・雑兵3百7十余人を属しここに籠め置いた。小田原では甲斐勢
を追い散らして氏真を救わんと軍勢を催す。

信玄が思われたのは「氏政は我が婿であるから差し障りはあるまいが、氏真は氏康の婿だから底心は心許ない」
と思われ、寺島甫庵という弁舌者を使者にして小田原へ申されたことには、

「氏真は近年政道悪しきゆえ、家康公に国を取られること疑いなし。そこで家老どもと談合致して氏真を追い
出し候」

と言葉を尽くして謝し申したが、氏康父子は聞き入れなさらずに激怒して寺島甫庵を牢舎させ、同12年正月
18日に小田原を出馬し、三島新経寺に本陣を据えられた。

松田尾張守(憲秀)・同肥後守・同右兵衛大夫(康長)・北条新三郎(氏信)・同常陸守(北条氏繁)・同
治部少輔(北条氏秀)・狩野入道・九島伊賀守・大道寺駿河守(政繁)・多目(多米)周防守・荒川豊後守・
橋本次郎右衛門尉・成田下総守(氏長)・千葉介国胤(千葉邦胤)・原式部大輔(胤栄)・同大蔵丞・大石
信濃守(照基)・内藤大和守(綱秀)を先手として、都合その勢4万5千余騎が三島より蒲原まで段々に陣を
取った。

また三崎の城より北条美濃守(氏規)・大道寺孫九郎(直繁)、伊豆の妻良こうらと沼津三枚橋より鈴木・
渡部・富永(政家)・太田・安藤・梶原三河守・間宮新左衛門(康信)などが3百余艘の兵船を揃え三保崎
へ漕ぎ寄せた。その勢5千余騎。

信玄は久能の城に陣を取り、山県三郎兵衛を1千5百余騎で府中に残して山西の押さえとして、武田左馬助
(典厩信豊)を大将として興津清見寺へ出勢する。同25日、氏康・氏政が清見寺表、薩た山へ出張された。
信玄も久能より清見寺へ出張して興津川原で辰刻より未刻まで3ヶ度の合戦があった。

――『小田原北条記』

508人間七七四年2018/12/07(金) 05:53:33.40ID:nH7hfDGG
その頃また武田信玄は寺島甫庵という者を使者として相模小田原へ遣わし、北条氏康・氏政父子のもとへ申し
送ったことには、

「今川氏真は信玄の甥であるが、昏弱にして佞奸の三浦右衛門佐(義鎮)の言葉のみ信用し、一族家人は非道
の政務を疎んで古老譜代の者どもは恨みを含み、軍卒国民は虐政に苦しんだ。そのうえ乱舞酒宴に耽って武備
を怠廃するゆえ、幕下被官ども皆徳川へ内通し、遠江の城々は大半が徳川のために攻め取られた。やがて駿河
をもかの家の所有となるは必定なり。他人のために取られてしまうよりは、信玄の手に預かり置くべきと存じ、
氏真を追放致し候。

このうえは富士郡の川原を境として川より東は北条家で管領なさるべし。川より西は信玄の所属として治め候
べし。このように約束を定めたうえは、両家はますます親睦して互いに患難を相救い申すべし」

信玄がこのように懇ろに申し送ると、北条父子は聞いて激怒し、

「姦賊が例の邪智巧言で欺くとも、氏康が何ぞ悪法師めの油口に誑かされんや! その使者坊主めを帰すな!」

と甫庵を搦め捕って獄屋に繋ぎ置き、甫庵の従者どもにこれを見せて、

「汝らが甲斐に帰って言うべきは『来春は氏康が早々に出馬して駿河に留め置かれた甲斐の将卒は一々に首を
刎ねる! その用意をして待つべし!』と、信玄に申し聞かせ!」

と申し含めて追い返せば、従者どもは怖気おののき早々に逃げ去った。

北条氏康・氏政父子は永禄12年(1569)己巳正月に4万5千余(原注:一説に5万)の軍勢を引き連れ
て駿河へ発向するとして、まず武田信玄より使者に遣わされた寺島甫庵を三島の三枚橋で磔に掛けて、信玄の
無道と甥・今川氏真の家国を奪った罪を鳴らし、その18日には軍勢を進めて三島の心経寺に在陣し、先手の
諸軍を薩た山八幡平より由井・蒲原まで進ませた。

信玄方でもこれが聞こえて、山県三郎兵衛昌景に2千5百人を属し鞠子に砦を構え、花沢・藤枝・伊久美山の
敵を押さえさせて江尻・井上の両砦にも人数を加え、信玄の旗本は久能山に駐屯し駿河の人質どもをかの山中
に入れ置き、今福浄閑に馬兵40騎・歩卒3百5十人を添えて守護させた。先手は典厩信豊を大将に1万8千
の軍勢を興津河原に押し出し、北条勢と日々足軽迫り合いをさせた。けれどもその間には険阻の切所があった
ため、未だ互いに大合戦には至らずに日数を送った。

――『改正三河後風土記』

509人間七七四年2018/12/07(金) 19:40:50.33ID:WB/8Ev/K
>>507-508
北条視点と徳川視点か、みくらべると面白いね
信玄の酷さは共通してるw

510人間七七四年2018/12/08(土) 18:46:48.59ID:U/fiPbdI
土岐山城守(定義)の父(定政)の最初の名は、菅沼藤蔵といい、徳川家康の扈従として、武功有る
人物であった。井伊兵部(直政)の具足初めでは、御意にてこれを藤蔵が着せた。これは直政が
藤蔵の武義にあやかるように、との事であった。

ある時、徳川家康の御家人が豊臣秀吉に御目見えする事が有ったが、藤蔵は「私は主君を二人持たず」と、
終に目見えしなかった。

そんな藤蔵がある時、津田長門守(信成)と初めて参会した時このように言い出した
「貴所は津田犬斎とはどういう御関係か」

「私は犬斎の子である」

「しからば親父に似ないように。御親父は長久手の合戦での様子は悪しきものであった。またどこどこでも
悪しかった。」
などと思うままに語るのを、見かねた側に居た物が言葉をかけて言を止めた所、藤蔵は

「酒を給わり酔ってしまった故、色々なことを申してしまった。御免あれ。」
と語ったという。
(武功雑記)

511人間七七四年2018/12/08(土) 20:26:28.86ID:Ynjz9SsZ
>>510
時事ネタかよw

512人間七七四年2018/12/08(土) 22:27:04.14ID:5CjIsI5B
やな奴だな

513人間七七四年2018/12/10(月) 08:49:10.44ID:izyJ+4O5
犬斎は織田信包のことだぞ
信成の父は盛月
いろいろおかしい

514人間七七四年2018/12/10(月) 17:48:12.50ID:ldA590QC
関ヶ原戦役における伏見城の戦いに、金吾(小早川)秀秋の先手である松野主馬、平岡石見、彼らは
一万石づつ知行していた。

彼らは先手として城に向かって仕寄(城攻めのための構造物)を築いたが、松野主馬の仕寄の竹束は、
城内よりの火矢にて焼き立てられた。この様子に坂崎出雲は「城内より激しく防がれ、仕寄の構築は難しい。
暫く様子を見てから竹束を付けよう」と言った。

しかし村上三右衛門、その頃は宇右衛門と言ったが、彼は
「この竹束の焼け跡に、もう一度竹束を付けずに引くということ有るべきか!」と、直ぐにまた竹束を
付けさせ、松野と相談して、竹束の上に、防火のため壁の下地と成る土を塗るべきだという事になり、
「外に出るのを遠慮したいという衆は内にて土をこねられよ!外に出るという衆は、出て壁の下地を
塗るように!」と呼びかけた。

松野主馬の組より八人が出て壁の下地を塗った。その他歴々の侍も皆土をこねた。そこで主馬は
「組の足軽共のうち、この土を塗った者は、中間凡下の者であっても侍に致す!」と宣言したところ、
中間足軽の内8,9人出て壁を塗った。それ以後、竹束の仕寄は焼けなかった。
(士談)

ボク「もしや最初から土を塗った竹束を用意しておけばよかったのでは。」

515人間七七四年2018/12/10(月) 17:58:09.86ID:Ea7f08oE
日本人に対し無礼であり、気が利かぬ


ドン・プロタジオ(有馬晴信)やドン・バルトロメウ(大村純忠)は私に多くのことを語り
教会側の態度の誤りを指摘し、バテレンたちは日本人に対し無礼であり、気が利かぬ
あまたのことがあると語り、神社仏閣の破壊はバテレンたちが教義に反するというので
不本意に行ったことに過ぎないという。

彼らは
「我が国に住んでいるバテレンたちが、日本人の美しい習慣や高尚な態度を学ぼうと
 あまり努力せぬことは全く無智なことと思われる」
と語り、とるべき手段を示した。
私(ヴァリニャーノ)は、日本人の大いなる天禀の才に驚嘆して、これを認めた。


――『日本巡察記』 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)

516人間七七四年2018/12/11(火) 20:59:48.23ID:z57RbpQQ
遠江の国人どもは追々降参して御味方に属す輩多し。よって神君(徳川家康)はますます御馬を進められて、
掛川城を攻め給わんと、城下を放火せしめられた。しかしながら今年はすでに歳暮であり、合戦は明年の春
とすべしとして、見付へ陣を御取りになった。

そんなところに武田の部将・秋山伯耆守晴近(虎繁)は信玄の命を受けたのか、信濃より軍勢を引き連れて
遠江を切り靡かんと二俣辺りに向かった。秋山はまず久野城へ使者を遣わし、久野三郎左衛門宗能に「一族
を引き連れて信玄に降参すべし」と勧めた。宗能は先達て徳川家へ帰順していたので、秋山の使者に返事も
せず追い返した。

秋山は大いに憤り「それならば国人どもの見懲らしめに久野城を攻め落とせ!」と平尾村に陣取りして久野
の城に押し寄せんとした。宗能もこれを聞いて鼻闕淵という所へ出て防戦せんとする。神君もこれを聞こし
召して奥平監物貞勝入道道文・菅沼伊豆守満直・同新九郎正員などを援兵として遣わされ、秋山勢を防がせ
なさった。

ところが敵は思ったよりも大軍で、味方は散々に打ち悩まされた。秋山は勝ちに乗じて浜松まで追い寄せる
勢いである。しかも同国の犬居城主・天野宮内右衛門景貫はかねてより武田方の一味で、これも人数を押し
出し、秋山に力を合わせて働いたのである。

神君はこの時すでに浜松城へ御馬を入れられたが、秋山の方へ御使者を送り仰せ遣わされ「汝の主人である
信玄は先に約束を定めて、駿河を信玄が切り治め、遠江を私めに切り治めよと申し送った。私はその盟約を
守り大井川を隔てて互いに経略せんと当国へ働くところに、汝は何ぞ主人の盟約に背き当国へ乱入するや!
甚だもって無礼なり! 早くその地を去らずに事を先延ばすならば、私がただちに出馬して1人残さず首を
刎ねる!」と、仰せ遣わされた。

神君はその後に引き続いて御馬を出され、御勢も追々走り出てすでに秋山の陣へ打って掛からんとする形勢
であった。これを見て叶わないと思ったのか、秋山は早々に人数を引き纏めて信濃伊那口へと逃げ入った。
(原注:『三河物語』では駿河に入ったとする)岡崎勢は1人も逃すまいと追っ掛けたが、甲斐勢は地理に
熟練しているため、捨鞭を打って逃げ延びた。岡崎勢は牙を噛んで「今少し早ければ、秋山を討ち取ったと
いうのに!」と、名残惜しげに浜松城へ引き返した。

――『改正三河後風土記』

517人間七七四年2018/12/12(水) 00:39:19.28ID:3HnjJ5hf
河北省の無極から数キロ離れた地点に、東陽村という村落があった。
この村は自警団(地主の私兵)があり、日本軍からも中共軍からも独立していた。
日本軍は無極に中隊を置き、補給は川向こうの晋県にある大隊本部から受けていた。

昭和十五年のことである。
この東陽村へ中共軍の兵隊が数名徴税に来た。
そのころの中共軍はまだ勢力が弱く、漸次工作区域を拡大しつつあった時期である。
東陽村が、中共軍の勢力圏に含まれることを認め、徴税に応じさえすれば問題はなかったのだが、
自警団は中共軍と相容れず、交渉決裂した末に中共兵の交渉係を殺してしまった。
怒った中共軍はまとまった部隊をもって、武力にうったえるため、東陽村の自警団を攻撃してきた。
自警団としては勝ち目がなく、かれらは無極の日本軍へ救援を求めてきた。
それで日本軍から一個小隊が派遣された。
小隊は自警団と協力して戦い、中共軍を敗走させ、乞われて東陽村に駐まることになったのである。

このことは日中親和連携の美談として各方面に紹介された。事実、美談であった。
自警団や村民は日本軍を信頼し敬慕した。
そうなると日本軍も軍紀粛正にならざるをえない。
理想的な駐屯が東陽村にはあったのである。

ところがこの小隊が、配置換えになって、別な小隊が来てから状況が変わった。
別な小隊の兵員は、自警団や村民とは何の面識もないし、中共軍へ協力して応戦したという連帯感もない。
掠奪や強姦行為が出始めた。
はじめは、前の小隊への義理で我慢していた村の連中も、次第に日本軍への感情の疎隔を覚え出した。
この動揺を中共軍が見逃すはずはなかった。
かれらは巧みに自警団や村民に工作し、日本軍への離反を画策し、
昭和十七年には東陽村の日本軍駐屯地へ攻撃をかけてきた。
日本軍は支えきれず無極へ避退した。
戦闘はともかく、村民の反感が激しかったからである。
このとき以後、日本軍は二度と東陽村へはもどれなかった。

518人間七七四年2018/12/12(水) 08:58:06.99ID:B4YntS6f
半島で暮らしてた土人に強姦を教えたのは日帝軍人というのがはっきりしただけでも大発見と言える

519人間七七四年2018/12/12(水) 10:33:52.17ID:zsi4V5ZL
世界史板荒らしているキチガイが、このスレにも湧いた…

520人間七七四年2018/12/12(水) 12:19:04.70ID:loxy5NP7
それでも地球は回っている

マヌケの視野の限界が世界の限界と決めつけるなよ

521人間七七四年2018/12/13(木) 15:50:05.40ID:HL/Fr2gq
我等は日本人がその宗旨(仏教)において用ふる言葉をもって、真理(キリスト教)を説くこと長期間にわたりしが、虚偽の言葉をもって
真理を説く時は誤解を生ずることに気づき、直に有害なりと認めらるる言葉に代へて、我等の言葉を教ふることに変更したり。
新なる事物は新なる言葉を必要とするのみならず、日本の言葉の真意は、我等が言はんと欲するものと甚だ相違せり。

たとえば彼等にクルス(十字架)の意味を説明するに当り、彼等の国語にて十文字Jumongiと称するは、クルスの形の文字にして
十の意なるがゆえに、単純なる者はクルスと彼等の文字と同一なりと考ふべし。よって一歩ごとに、また一語ごとに彼等に説明をなすか、
或はその語を変更する必要あり。

かくのごとく五十以上の有害なる語ありしが、今彼等の語の意味とその害ある点、ならびに我等の語の意味を説けば、彼等もその相違を認め、
彼等の言葉をもってデウスのことを説く時は誤解を生ずることを覚り、右のごとくして明に了解するにいたれり。
予がこのことを述ぶるは、異教徒の間にありてデウスのことを説くに当り、説明に注意し、その用語を考慮せんがためなり。

彼等の文字は不完全にして我等の言葉に対する文字なく、文字をもって発音を示すこと能はざるものあり。
彼等は二様の文字(漢字、仮名)を有し、我等は彼等の言葉を悉く発音し、またこれを書くことを得れども、彼等はこれをなすことを得ず。
日本の文字(漢字)は二つの意味を有し、また二つ以上を有するものあり。たとえば上に掲げたる第一の文字(漢字:画像参照)は霊魂といふ意なるが、
また悪魔といふ意あり。重立ちたる人々が知らんと欲するはこの文字なり。
下に掲ぐる他の文字(仮名)は普通に用ひらるるものにして、第一の意味のほかなく、我等の書物はこれをもって書けり。
https://i.imgur.com/CpK7Wzy.jpg
(一五五五年九月二十三日[弘治元年九月八日]付、パードレ・バルテザル・ガゴが平戸よりインドおよびポルトガルの耶蘇会のイルマン等に贈りし書翰)

宣教師たちが日本への布教にあたって、翻訳の問題にぶち当たった事がよく解るお話

522人間七七四年2018/12/14(金) 13:35:01.25ID:9PH3mguA
当て字は翻訳を諦めた結果なのだろうか…

523人間七七四年2018/12/14(金) 19:59:26.41ID:tmCwL9fs
文禄二年(1593)、豊臣秀吉よりフィリピン諸島長官に贈りし書翰

パードレ・ペドロが予に携えて来た書翰、並びにパードレ・ペドロが特に予に告げたる所に依り、その地の習慣を知ることを得た。
バードレ・コボもまたこれを予に説いた。

予が誕生の時、太陽が予の胸に入った。これは奇跡であり、予が最初より東方より西方に至るまでの君主であり、諸国は服従し
予の門に来たりて平伏すべき事をを示すものである。
而して若し之をなさる時は、予は戦を行いて一同を殺すべし。

予は日本全国、並びに高麗の国を獲得した。そして多数の部将が、遠征しマニラを占領する許可を与えんことを予に請うた。
しかし原田Faranda(原田喜右衛門)及び法眼Funguen(長谷川宗仁)はこれ聞き、予に告げて、商船が当地より彼地に行って、
又当地にも来るが故に、敵であるとは思はれずと言った。是故に予は兵を派遣することを見合せた。

高麗Coriaの人その約を守らなかったが故に、予は之と戦ひ、都Meacoに至るまで獲得した。之に次いで、我が兵士は救援に来し
無数の支那人並びに多数の重立ちたる者を殺した。
高麗の人はこれを見て屈伏し、大使を派遣し、日本の兵士を高麗に留めんことを請い、また支那人たちも日本国と永久に親交を
結ばんと欲する事を告げた。予は多数の兵士を高麗の多くの城に置きて、使節の同所に来るを待っている。
若しその約を破らば、予は自ら行きて之と戦うだろう。

而して支那に赴けば、呂宋は甚だ近く、予が拇指の下に在る。我等は永久に親しく交るべきだ。此事をカスチリャに書き送るべし。
カスチリャの王は遠方に有るからと言って、予が言葉を軽視すべきではない。予はその地を見たことが無いと雖も、使者の言葉によって
其地の事を知るを得ている。

貴下が速かに人を遣わしたのはは賢明なることであり、予は大いに之を喜ぶ。その地より来た進物については、書附の通、これを受け取った。
予の方に於ては、永久に友交を欠くような事は無い。その地より来る者は、海陸共に安全に来ることを得て、これに何等の害を加えることなく、
その携へ来た物を盗む事もない。
バードレ等と共に来たこの者(副使ペデロ・ゴンザレス・カルバハル)は、我が国を見、又彼等に与えた歓待を見たるが故に、その言ふ所を信じ、
彼をカスチリャ王の許に派遣せよ。予は彼を待つ。而して我等の交流を一層確実ならしめんため、重立ちたる人一人を当地に来訪させることを望む。
その他のことは法眼が語るに譲る。
(異国叢書)

秀吉が生まれる時体に太陽が入ったっていう誕生譚、あれ海外にも宣伝してたのね

524人間七七四年2018/12/14(金) 21:04:33.45ID:tSN+5WQ1
まとめの10657
後悔すること無かれ。
てのには2年前に派遣した時のことが書かれてるな

525人間七七四年2018/12/14(金) 22:49:32.29ID:xH+MYM36
富樫氏と金津


金津高校がセンバツ21世紀枠候補の9枠にノミネートされたので金津関連で投下

富樫政親が加賀一向一揆により斃されて富樫氏の勢力は大いに減退した。
稙泰の時期になると一向一揆との力の差が大きく開き、1531年に大小一揆により敗北し、朝倉家臣・溝江景逸が領する越前金津へと逃れた。

1532年になると、一向一揆が暴れまわってて困っていた細川晴元が畿内で法華宗らと手を結び山科本願寺を灰にした。
そして、石山へと逃れた証如を助けるために加賀にいた幹部たちが証如の下へと走った。
その隙に旧領の奪還を果たし、野々市に稙泰の嫡男・泰俊を派遣するも、畿内の情勢が落ち着き、戻ってきた幹部たちによって再び追いやられてしまう。
その勢いあまって金津にいた稙泰を攻め込み、稙泰は自害に追い込まれしまった。
しかも1532年の時点で朝倉氏と加賀一向一揆は和睦を締結しており、朝倉軍が稙泰を助けた記述は見当たらない。

その後、稙泰の次男・晴貞が1570年に加賀一向一揆によって討たれると、泰俊が家督を継いだ。
しかし加賀一向一揆のために再び攻められて越前金津へと逃れた。
1574年、朝倉氏の滅亡後、杉浦玄任率いる一向一揆の大軍が金津へと攻めかかり、今度は溝江景逸・長逸父子を巻き添えにしながら、泰俊父子らは自害に追い込まれ、富樫氏は滅亡した。


この話は野々市町小史(現在の野々市市)や富樫記などを参考にして記述しました。

526人間七七四年2018/12/15(土) 01:11:20.41ID:wQqzwCcr
武蔵江戸の住人に太田源六資高(康資。父子の混同)という者がいた。大力武勇の誉れは関東8ヶ国に並ぶ者
なし。およそ30人でも動かし難き大石を、軽く持ってしまうほどの剛の者である。その弟に源三郎と源四郎
という者がいて、共に大力の兵どもであった。

ある時に3人が集まって言うには、「そもそも兵は剛強だけでは末代までの高名にはなり難し。それは何故か
といえば、今武蔵の中に我ら兄弟の上を越える力量の者はおるまい。如何なる鬼神であるとも3人で従えよう
として従わせられないということがあろうはずもない。

しかしながら(北条家からの)賞翫にも預からず、未だ一城の主にもなっていない。先祖の道灌(太田道灌)
は無力でも武功を顕し、末代までも名を揚げたものだ。我らは武勇を励んで氏綱父子二代に型の如く奉公した。
とりわけ過ぎ去りし大永3年(1523)、江戸城へ氏綱を引き入れて管領(上杉朝興)を追い落としたが、
城には遠山を置かれて、万事が我らの心に叶わない。

いざ同苗の美濃守入道三楽斎と相談し、安房の里見義弘と引き合わせ江戸城を攻め落とし、長く豊島郡を知行
して、言うまでもなく道灌の跡を継いで江戸城を取るべきと思うが、どうだ」

これに2人の弟どもは「もっともしかるべし!」と勇む。それから「これほどの大事を無造作には言うまい」
と、かの源六郎の菩提寺である法音寺という法華寺の番神堂に集まり、神水を飲んで、「この事を思い定めた
ならば二度と変じてはならない」と謹んで申し、その後に太田三楽の方へこの旨を言い遣わした。三楽は大い
に喜んで安房へ使者を立てて里見義弘を招けば、義弘は安房一国の勢と上総の軍兵を催し、下総国の国府台に
出張した。

そのようなところに法音寺の住持の僧は、かの太田兄弟の密談を聞き、日頃の誼を忘れて小田原へ注進して、
自身の檀那兄弟が謀反との旨を告げたのである。これによって遠山丹波守(綱景)に太田誅伐の討手を賜り、
すでにこれが押し寄せたので、太田兄弟は案に相違して夜に紛れて岩槻へと落ちて行った。これによって氏康
父子は日を置かずに打ち立ち、国府台へ発向された。

(中略。第二次国府台の戦い開戦)

ここに今回敵となった太田源六・同源三郎・同源四郎・黒川権右衛門・長南七郎などといった大力の若者ども
は一面に打って掛かった。志水太郎左衛門という大力無双の聞こえありし者は源六と渡り合ったが、志水の樫
の棒で源六は太刀を打ち折られ、力無く逃げたのである。源六はあまりに無念だったので「また太刀で打てば
折れるかもしれない」と、常に秘蔵していた長さ8尺の鉄の棒を取り寄せて軽々と引っ下げ、「なんとしても
志水めを打ち落とす!」と打ち振り打ち振り馳せ巡ったが、ついに見付からなかった。

源六はいよいよ腹を立てて、冑の鉢や胴中を構わず当たるを幸いに打って廻ると、多くの人馬が打ち殺された。
太田下野守という人は小田原勢の先手であったが、源六の有様を見て、「これは我が婿の源六なり!」と思い、
乗り寄せてくると源六に声を掛けて、

「おい源六、無益な謀反を致したものだな! 私は味方であるから、なんとしても先非を悔いて降参せよ!
命だけは助けよう! それにしても今日の振舞いは厳めしいものよ。しかしながら馬は何の咎によって打た
れたというのだ。人こそ打つだろうが、多くの馬を打ち倒すことは罪作りであろうぞ。どうなんだ源六!」

これを聞いた源六は「殊勝なことを宣うものですな。それならば人だけを打ちましょう。受けてみなされ!」
(いしくも宣ふものかな、人計り打つべし、受けて見給へ)と言うや否や、舅の下野守を開き打ちに丁と打つ。
下野守も太刀で打ち返さんとするが、大力で打たれてはどうして耐えられよう、前方の深田へ打ち落とされて
見るにしのびない有様であった。

(中略)

国府台の戦いが散じて後、太田源六は宿所に帰って妻女に向かって「私主の父の下野殿はこの度、戦場で某に
向かって言葉を掛けられたので、棒で頭を打ったのだ。必ずや痛んでおられよう」(某に向て言葉を掛け給ひ
し程に、棒にて頭を打ちぬ、定めて痛み給ふらん)と語った。

女房は大いに驚いて「なんですって! 父御前を打ち殺しなさったというのですか! 探し参らせよ!」と下人
どもを遣わすと、案の定下野守は深田の泥にまみれ、頭を打ち砕かれていたのを探し出した。女房は下野守の
葬礼を懇ろに営み、髪を剃り落として父の後世菩提を祈ったことは哀れである。武蔵神田の浄心寺はこの尼の
建立であるという。

――『小田原北条記』

527人間七七四年2018/12/15(土) 17:01:55.03ID:6Uin1sXO
>>526
リアル戦国無双でワロタw

528人間七七四年2018/12/15(土) 19:13:40.40ID:S5q0Xu8o
>志水太郎左衛門
清水だよね
足の力で馬を絞め殺せる人

529人間七七四年2018/12/15(土) 21:13:19.16ID:n4oH2Fyy
徳善院(前田玄以)は、元々は尾張国小松原の寺の住持であり、太閤秀吉が未だ匹夫の頃、彼とは
別して睦まじい友であった。当時、二人の徒然の話の中で、秀吉は言った
「私が若し天下を取ったら、貴僧は何かお望みは有るか?」

これに徳善院「私は京の所司代になりたい。何故なら京の者共は横柄なことばかりして、憎いからな。」
などと答えた。

その約束により、後年遂に彼は、秀吉より京都所司代を仰せつかった。この時所司代業務の巧者として
笠井小池が付けられたという。

(武功雑記)

530人間七七四年2018/12/16(日) 22:32:51.67ID:37WQa/33
羽柴秀吉が中国へ出陣の時、「兵粮が不足している」と、心もとない事を語った所、
竹中半兵衛はこれを承り、「お気遣いなされることはありません。」と、大坂から尼崎あたりの
辻々にこのような札を立てた

『今度羽柴筑前守、中国発向候。八木(米)早速運送するに於いては、定めて相場の倍の代銀をあい渡すべし。』

これによって兵粮沢山に集まったという。

(武功雑記)

倍の代銀を支払うのは秀吉なんだよなあ…

531人間七七四年2018/12/17(月) 05:35:30.72ID:/vlSqT/b
それをできるだけの財力があった

532人間七七四年2018/12/18(火) 17:51:17.65ID:ZMc4njbi
瀧川左近(一益)が未だ匹夫の頃、伊藤内蔵という者を討つ事を、諸人あぐんでいた。そのような中、
ある宮の拝殿で、内蔵がここに参詣する時必ず座する柱が有ったのだが、左近はここに密かに穴を開けておき、
内蔵が社参した時、この穴より鉄炮で撃ち殺した。

この事でその場の人々は大いに立ち騒いだが、左近はその中を何事もなかったかのように退いた。
しかしこの時刀の鞘を落としていたことに気が付き、これを無念に思い、再び立ち帰って鞘を取って
また退いた。
(武功雑記)

肝が座っているのやら座っていないのやら

533人間七七四年2018/12/18(火) 19:17:20.93ID:g1LvLh8E
(掛川城の戦いの時)

ここに今川氏真はこの20日に、密かに金丸山の久野三郎左衛門一門の老臣・久野八右衛門宗明の方へ
密使を遣わして、内々に申し送ったことには、

「久野一族が旧好を思って徳川方を叛き氏真方へ一味するならば、明夜に氏真が軍勢を出して天王山の
本陣に夜討しよう。その時に久野一族も敵の後陣より襲い攻めれば、徳川勢を破ること疑いなし。もし、
この事が謀の如くになれば、遠江一国を久野一族に授けてその功に報いよう」

久野一族は三郎左衛門宗能の弟・淡路守宗益、佐渡守宗憲、叔父・弾正忠宗政とその弟・采女宗常、
将監某、日向守守政、その他一族らがこれを聞いて皆利欲に引かれて義理を忘れ、氏真に一味すると
返答した。さて、その事を一家の大将・宗能に告げてその上で諫め申したことには、

「徳川殿は掛川城を攻め給うとも、この城は要害堅固でそのうえ今川方は忠義金鉄の勇士が数多籠って
いるため、容易く攻め落としなさることはできますまい。それよりは当家の一族が同意して氏真の命に
応じて夜討の働きをし、その功によって氏真から遠江一円を賜れば、家を興し先祖の孝、かつ子孫への
栄華を残すことでしょう。この事こそ、よく御思慮なさるべきです」

宗能はこれを聞くと、

「各々の諫言は一理無しというわけでもない。しかしながら、宗能は去年に一族を引き連れて徳川殿に
帰順し、その後はすこぶる厚い恩を蒙った。今故なくその恩を捨てて利のために義に叛き裏切ることは、
勇士の本意にあらず。そのうえ氏真の有様を見るに、讒を信じ佞を愛す昏愚の愚将で、行末は頼もしく
ない。面々も不義の謀計は思い止まるように」

と言って、その申すところを用いず。その翌21日には氏真が重ねて河井与四郎を使者とし「久野一族
がいよいよ同意するならば、明夜城から出る。きっと裏切るように」との旨を申し越したのであった。
よって淡路守・佐渡守・弾正・采女・将監らは皆氏真に同意し、「宗能を討って一族皆氏真に一味し、
明夜裏切ろう」と評議を決したのである。

八右衛門宗明は「いずれにして宗能は一門の惣領主将である。それなのに一門らは宗能を討たんとする
ことは嘆かわしい」と思い、この事を宗能に告げると宗能は大いに驚き、本間十右衛門長孝を使者とし
内々にこの子細を神君(徳川家康)の御陣に告げ奉った。

神君は大いに御感心され、菅沼新八郎定盈・松平与一郎忠正・植村出羽守家政(家存)・三宅総右衛門
康貞を加勢に遣わされて、また榊原小平太康政にも「宗能に力を添えて反逆者一族らを誅すべし!」と
命じられた。よって康政ならびに宗能は金丸山の本丸に籠り、その他加勢の四将は二丸に籠った。

この時に、淡路守・采女・将監は大手に向かい、佐渡守・弾正は搦手より攻め寄せた。城中では敵襲を
予想していたので多くの矢砲を隙間なく射出し撃ち出し、寄手が攻めあぐんだ折に、二丸に籠っている
加勢の輩は手分けして敵の後ろへと廻って、「徳川勢を後詰するぞ!」と喚き叫んで突いて掛かった。
本丸二丸に籠った輩も門を開いて切って出れば、寄手は散々に敗北した。

ついに淡路守は生け捕りとなり、腹を切らせなさった。(原注:『家忠日記』『三河物語』)その夜に
一族家人5十余人が討ち取られ、弾正・采女・将監らは追い払われて佐渡守は行方も知れず落ち失せた。

この日、榊原康政は様々に工夫して奮戦し、中根善次郎(長重)・遠藤八右衛門・篠島才蔵・竹内太郎
左衛門・竹尾平十郎などの従士は多く功をはげまして各々高名したという。(原注:『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』

534人間七七四年2018/12/19(水) 10:46:04.36ID:MhW6Gkrw
>>532
抜き身を腰にぶら下げていたのか!そらカタワになるよなー

535人間七七四年2018/12/20(木) 00:20:54.49ID:MGa74IHB
(掛川城の戦いの時)

掛川城に籠る今川氏真は遠江一国を条件に久野一族に内応を促し、氏真の軍勢を出して天王山御本陣に夜討するので、
久野一族は後陣から攻めよと申し送った。。承諾した久野一族らは惣領・三郎左衛門宗能を討って神君(徳川家康)
を裏切ろうとしたが、露見して鎮圧された。

氏真は久野一族が裏切りを了承したことを大いに喜んで、「それならば今夜天王山の徳川殿本陣に夜討を掛けて大勝
すべし!」と、とりわけて猛勇の輩を選んでその用意をした。これは久野一族らはすでに誅に伏したことを掛川城中
ではまったく知らなかったからである。

神君には久野宗能が一族の陰謀を訴えて、今川より今夜御本陣へ夜討せんと計策を設けている旨を申し上げたことに
より、城兵の打ち出る道3ヶ所に大久保七郎右衛門忠世・水野総兵衛忠重・大須賀五郎左衛門康高の3人を将として
伏兵を置かれた。(原注:原書は忠世を次郎右衛門忠佐とする。『武徳大成記』『家忠日記』に拠り改める。『列祖
成績』『東遷基業』では本多豊後守(広孝)・松井左近(忠次。松平康親)を加える)

頃は永禄12年(1569)正月22日の夜、今川方屈強の勇士どもが天王山の御本陣を目指して、のさのさと来る
ところを、一の伏をやり過ごして二の伏の前を半ば過ぎ、三の伏の前に来たる時、大須賀康高がにわかに鬨を作って
打って掛かれば、三の伏兵も同じく起こり、敵を前後に引き包み打って囲んだ。

城兵は大いに驚くも、とりわけて選び出された剛勇の者どもなので、少しも気を屈さずに奮戦した。高天神衆の坂部
又十郎正家・筧助太夫正重、その他に鷲山・渡辺・久世・門奈などはとりわけ粉骨を振るった。この時、松井忠次は
御本陣にいたがここに馳せ来たり、味方を助けて勇をはげました。この合戦は夜の丑刻より始まったが、城兵どもは
手強く、争う間に夜はほのぼのと明けてしまった。

23日明方に神君も味方を救い給わんと山家三方衆を先手となされて、八幡山を過ぎてここまで御出馬された。長篠
城主・菅沼左衛門尉貞景は先頭に進んで討死した。同美濃守は讃井善右衛門と槍を合わせ、貞景の郎等・河井筑後は
勇を振るい、その他に御旗本勢が力戦して城兵どもは耐えかねて、天王小路から引き取らんとした。

内藤四郎左衛門正成・渡辺半蔵守綱・服部半蔵正成などは城兵に追い従って、掛川城へ付き入ろうと進んだ。大久保
治右衛門忠佐・同新十郎忠隣・小坂新助などは掛川城の空堀を越えて、三丸の喰違い虎口まで攻め込んだ。

城兵は日根野備中守弘就・同弥次右衛門(盛就)・同弥吉などが勇をはげまして命を惜しまずに奮戦すれば、味方も
林藤左衛門・加藤孫次郎(原注:『大三河志』は孫平次)・松下新助らが討死した。松井忠次の家人・岡田竹右衛門
元次・石川新兵衛・都築助太夫・左右田与平などは日根野兄弟と槍を合わせ、松下源太郎清景・浅原八蔵も高名した。

その他に水野忠重は城兵の大屋七十郎・伊藤武兵衛を討ち取り、武兵衛の首を椋原治右衛門に取らせた。水野太郎作
(正重)は日根野弥吉を討ち取った。大久保忠佐は近松丹波と言葉を交わして丹波を討ち取る。その後も忠佐は敵を
突き伏せ甥・忠隣に「その首を取れ」と言った。この年17歳の忠隣は「これは我が功にあらず」と自身で別の敵を
討って首を取った。

こうして城南は松尾口、北は太鼓門まで攻め入ったが、城兵は隙を見て城に入り門を閉じて出て来ないので、寄手は
仕方なく矢を収めて軍を返した。

(原注:内藤正成は、神君がこの時の戦功を御称美されたところ「今日の功名は某を始め、皆ひえ首に候」と申した
のだという。この事は『三河物語』に見える)

――『改正三河後風土記』

536人間七七四年2018/12/20(木) 19:32:48.23ID:Blni8hrv
(掛川城の戦いの時。23日の城攻め失敗後)

正月25日に神君(徳川家康)は人馬の労を休め給うため、しばらく見付に御帰陣されて所々砦の警衛を命じられた。

(中略)

この頃まで遠江では、浜名肥前守頼広・後藤佐渡守・気賀の新田友作・容輪三郎兵衛らが未だ徳川家の御下知に応じ
なかった。しかしながら、神君の御威勢が日を追って盛んになられると、浜名・後藤ならびに福井修理らが降参する
として、見付の御本陣に参った。

ところが御陣前で下馬しなかったために神君は御機嫌を損じ、鉄砲で後藤を撃ち殺させなさった。浜名は大いに恐れ、
その子・与兵衛と同じく甲斐へ逃げ行って信玄を頼んだが、信玄はこれを用いなかったために近江へ落ちて蟄居した。

肥前守の叔父・大屋安芸政頼と弟・金太夫頼次ら一族は、浜名城に籠り一戦せんとする。神君はこれを聞こし召して
本多平八郎(忠勝)・戸田三郎右衛門(忠次)を遣わされ、浜名・都築両城の要害を窺わせられたところ、その城は
堅固で急に攻め抜くのは難しいだろうと申した。よってその2月に城兵が降参すれば、その罪を許して本領を賜ると
諭しなさると城主は皆々降参し、この輩は本多・戸田両人に属せられた。この時に後藤覚兵衛も戸田に属した。

また後藤佐渡守の日比沢の城兵も降参し、気賀の新田友作は城を捨てて落ち失せ、行方をくらました。容輪村の容輪
三郎兵衛は久野三郎左衛門(宗能)と本間五郎兵衛(十右衛門長孝)に攻められて自殺し、この城も落ちたのである。

――『改正三河後風土記』


さて、永禄12年己巳正月23日に掛川城は落城して、氏真は小田原へと落ち行きなさったのであった。そのような
ところに3月の日、堀川で一揆が起き申す旨を告げて来たので、上様(徳川家康)はそのまま用意もなさらずに駆け
付け給い、準備もなく寄せ掛かると、やがて寄手は堀川城の塀に付き乗った。

大久保甚十郎17歳は一番に乗って内へと寄せたところを、鉄砲で左の紅先(頬の先端)を撃たれて討死した。平井
甚五郎もまた討死した。その他、数多の討死あり。

堀川は潮のさしている時は舟で寄せる他に行く方法がなく、潮干の時も一方口であったが、案内もなく詰め入って、
すなわち男女ともに撫で斬りにぞしたりける。

前述の大久保甚十郎が堀川で一揆の起こり申した折に通り合わせれば、尽く歴々の衆たちも一同した。その中には
驚き騒ぐ衆もいたので、甚十郎は御膝元近くに召し遣われ申した時、上様の御心がよろしいので一々に申し上げた。

「誰々は驚き慌てて後先に逃げ散り、山へも逃げ入りました。誰々は乱れずに神妙でありました」

この旨を申し上げると上様は「倅ながら神妙によく見た」と仰せになられて御感心になった。

――『三河物語』

537人間七七四年2018/12/21(金) 18:00:20.31ID:U9N4TaKs
(堀川城の戦いの時。掛川城再攻後)

掛川城では今川家の主だった勇士が3月5日・7日の両戦で大勢討死し、兵糧も追々乏しくなったので、「徳川家と
和睦して北条を頼み、氏真は小田原へ落ち行き、時節を見て回復の功を図るのがしかるべきか」と評議しているとの
旨を神君(徳川家康)は聞こし召し、「それならばこの地に押さえの勢を残してしばらく岡崎に帰城し、人馬の労を
休むべし」として数ヶ所に砦を設けるよう命じられた。

(中略)

この時、去年3月に遠江堀川城で攻め落とされた大沢左衛門基胤の属将である尾藤主膳(原注:一本には彦四郎)・
村山修理(原注:一本には山村。または村田)、気賀一揆の西光院・宝諸寺・桂昌院を始めとして給人百姓と称する
内山党、その他に寺社・地下人の男女1千5,6百人が堀川の旧塁を取り立てて立て籠もり、徳川家の御帰路を遮り
討ち奉らんとした。

神君はこれをまったく御存知なく、近習17騎・歩卒2百3十人ほどでこの道に通りかかられた。一揆どもはこれを
見たが、御勢があまりに小勢なので徳川家の通行とは思いも寄らず打ち過ぎた。その後に石川伯耆守数正が百騎ほど
で後陣を打って通りかかるのを見て初めて気付き、「さては先に通行した小勢こそ徳川殿であったか!」と後悔した
という。神君は岡崎帰城の後にこの事を聞こし召して、「ならば急いで征伐すべし」と諸軍に命じられた。(原注:
『武徳編年集成』には渡辺図書旨同の謀を用い給い、御先へ小勢で御通行されて古美村から船で浜松へ引き取られた
とある)

(中略)

神君は堀川の一揆を攻め給わんと3月27日に堀川へ押し寄せられ、山の後ろの平松崎という所に御旗を立てなさる。
(原注:ここの“御殿松”という古木は今も存在するという)そもそもこの城は海浜にして潮が満ちれば船で出入り
するが、潮が引いて干潟となれば巉巌峭壁で、陸地ただ一面となるので攻め寄せる便りを得られた。

「この城を只今攻め落とさなければ、その間に潮が来るであろうぞ。ひたすら攻め立てて攻め落とせ!」と御旗本勢
は攻め寄せた。その中で小林平太夫重直(原注:25歳)・その弟の勝之助正次・平井甚三郎・大久保甚十郎(原注:
23歳)・永見新右衛門為重は先頭に立ち、小林・平井・永見は皆討死した。(原注:『武徳大成記』などの諸書は
小林・平井・永見らは去年3月の堀川城攻めの時に討死したとするが、誤りである)

大久保甚十郎は深手を負って帰陣し、諸士の戦功を見届けて味方の輩に物語って落命したので、将卒とも甚だこれを
惜しんだ。榊原康政は勇を振るい、深手2ヶ所を負いながらもますます進んで攻め戦った。その他森川金右衛門氏俊
を始めとして大勢が一面に攻め入って城を乗っ取り、城兵108人の首を討った。その他烏合の一揆7百人は寛仁の
御沙汰により尽く許しなさった。この日、味方でも屈強の輩16騎が討死した。

――『改正三河後風土記』

538人間七七四年2018/12/22(土) 08:19:09.12ID:G2ELcZP/
朝鮮の役で、明の援兵が大軍で朝鮮へ派遣されたことで、名護屋の本営では日本軍危うしと
太閤秀吉にも報告され、軍評定を行った所、蒲生氏郷が進み出て発言した
「何程の事がありましょうか。この氏郷に朝鮮を賜れば、切り取りにして打ち破りましょう。」
しかし秀吉はこれにより、氏郷に大志有ることを忌み憎んだ。

また朝鮮に在陣する小早川隆景より遣いを以て報告があった
「この隆景が考える所は、十万の軍が渡海いたせば、それに城々を守らせ、隆景は先陣して明朝に押し入り、
北京を攻め落とすという事であり、この旨を申すように。」

秀吉はこれを聞くと
「小早川の智謀さもあらん。人々よく聞け、仮にこの秀吉が功を遂げずに死んだとしても、秀次を
大将として明朝に攻め入った時は、私の魂魄が雲に乗じて鉄の盾を突き、唐土の奴原を一々に蹴殺して
捨てるであろう。昔、柘榴を噛んで火とした者もあったと聞く。その小男の名は忘れたが。」

そう言うと、側の施薬院全宗が「それは北野の天神(菅原道真)の御事でございます。」と申し上げた。
秀吉
「それである!雷に成って天に上ったと言い伝わっているが、私のキンタマの垢ほどにも無い者だというのに!」
(吾陰嚢の垢ほどもあらぬ物を)
そう大声で言い放ち、聞く人はみな驚いたという。
(常山紀談)

539人間七七四年2018/12/22(土) 08:47:25.91ID:xsQjQ3yv
ω

540人間七七四年2018/12/22(土) 09:56:33.68ID:mOD0npr1
赤松満祐「お前が他人の事を小男とか言えんのかよwww」

541人間七七四年2018/12/22(土) 09:59:10.68ID:q05OBV9W
まとめの6912
全くその男は、我が睾丸の垢ほども

でも「武士道美譚」出典で同じ話が

542人間七七四年2018/12/22(土) 14:42:39.03ID:F7/rhJiV
>>538
>私のキンタマの垢ほどにも無い者
なんJ民かな?

543人間七七四年2018/12/22(土) 20:37:09.64ID:Z5u25ia/
大○義隆「キンタマの垢とな!?」

544人間七七四年2018/12/22(土) 20:55:48.33ID:0jUAonEO
南北合体

北条五色備の一人、北条綱高は妻を娶った。その相手は南条重長の妹である。
ここに北条と南条の奇跡の合体が成し遂げられた。
そうして生まれた男は初め南条元高と名乗り、後に北条康種と名乗った。北条であり南条でもある男の誕生である。
この男は長じて柿崎景家を破るなどの活躍もすることになるのであった。

545人間七七四年2018/12/23(日) 01:11:55.55ID:LCQGBw7J
>>544
高橋でもある

546人間七七四年2018/12/23(日) 11:31:12.57ID:aDntaSHQ
北条五色備の赤を率いている時点で南が入ってるような

547人間七七四年2018/12/23(日) 18:55:13.87ID:eE9Lsf8D
(掛川城の戦いの時)

神君(徳川家康)は人馬を休められて、3月4日に再度掛川城を攻め給わんと見付より御出馬され、5日には本多
平八郎忠勝・松平主殿助伊忠を先手として攻め寄せ給う。(原注:『武徳編年集成』はこの日の先手を松平甚太郎
(家忠)・松井左近(忠次。松平康親)とする。『東遷基業』『列祖成績』は原書に同じ)

すでに大手は南町口を攻め破り二の門に至る。ここに寒大寺川という大河あり。この頃、春雨は日数を重ねて降り
続けたので水嵩は増し、塩買淵という辺りは平素には歩行渡りの所だったが、水は深くなり寄手は大いに悩んだ。

搦手は水野惣兵衛忠重が西町口より攻め入り、松尾池を隔てて互いに矢砲を飛ばし挑み戦う。また一手は東口より
攻め入り、不動山を右に見て天王小路より押し寄せた。北畷口の一方は掛川城兵の心を一致させないためにわざと
開いて囲まず、城中からは朝比奈備中守泰能(泰朝の誤り)・三浦監物秀盛が天王小路に打ち出て激しく防戦する。

この時、松平主殿助の家士・石原十助が城兵を射たところその城兵は射られても未だ鞍を離れず、十助はまた射て
ついに射落とした。城中の将卒どもはその矢継ぎ早なるを感心し、その矢を金の団扇に乗せて主殿助の陣に送った。

7日には辰刻より朝比奈備中守と三浦監物が天王小路に打って出た。菅沼帯刀・伊藤治部少輔・同掃部介・同左近
左衛門・小笠原七郎兵衛・渋谷右馬允・朝比奈小隼人・同小三郎泰秀・笠原出羽守らは西宿より打って出て「今日
は歩兵には目も掛けず、大将分の者を討ち取らん!」と奮戦した。

敵味方は互いに勇を争った。本多平八郎・榊原小平太(康政)・大須賀五郎左衛門(康高)・大久保七郎右衛門
(忠世)・大久保治右衛門(忠佐)が自ら槍を振るって真っ先に進めば、味方の輩も勇み進んで突戦する。

菅沼三九郎は笠原七郎兵衛を討ち取り、高橋伝七郎は朝比奈小三郎を討ち取り、松下嘉兵衛之綱は菅沼帯刀を討ち
取り、本多三弥(正重。原注:一向乱の時に立ち退いたが、この時に御先手に加わった)は新谷小助を討ち取り、
高力与左衛門清長は粟飯原平左衛門を討ち取り、中山是非之助(姉川七本槍の1人)は伊藤左近元実を討ち取り、
散木某は山崎市兵衛を討ち取り、小林勝之助重直も首級を得たのであった。

“今川家十八人衆”と名を顕した朝比奈小隼人・伊藤治部少輔・同掃部介を始め、屈強の輩38人・雑兵180人
を討ち取る。味方でも中根伝四郎正重・本間五郎兵衛長季・加藤市十郎正重、本多康重の家士・畔柳又次郎を始め、
60余人が討死した。

また本多彦次郎康重16歳と家士の本多左馬助・吉見孫八郎、奥平家士の名倉五郎作、菅沼新八郎(定盈)家士の
菅沼弥太郎・今泉新助・同孫三郎・同久左衛門は皆戦功をはげました。

榊原家士の安松弥之助・菅沼家士の彦坂小作、御旗本では小林伝四郎吉勝が射芸を振るい、弥之助はこの功により
“矢之助”と賜る。小笠原喜三郎貞慶・菅沼藤蔵定政も戦功あり。けれども朝比奈備中守と笠原出羽守はなおも勇
を振るい、残兵をまとって城に引き取った。

松平与一郎忠正は旗馬印を塀際に押し立てて、諸手は竹束を付き寄せ今やすでに城を乗り取るかと見えたところに、
御本陣より「急いで諸手は引き取るべし」との旨が命じられた。よって与一郎が後殿し、早々に諸手の人数は引き
返した。これは今川与力の者も徒党して船に乗り、掛川城を後詰せんと掛塚の港へ着岸するとの注進があったから
である。

そこで榊原・大須賀ならびに鳥居彦右衛門元忠を掛塚に馳せ向かわしめ、かの今川与方力の者どもはこれを聞いて
早々に船に取り乗って逃げようとするところを、御目付に参っていた渡辺半蔵守綱が駆け付け、船に乗らんとする
敵を7人まで突き倒した。大須賀康高属兵の筧助太夫(正重)・久世三四郎(広宣)・坂部又十郎(正家)、榊原
康政属兵の清水久三郎・伊藤雁助も走り来たり首数級を得た。敵は散々に打ち負けて、残兵はようやく船に乗って
逃げ失せたのである。

(原注:『武徳編年集成』はこの両日の合戦を4日・5日とする。『東遷基業』『列祖成績』は原書と同じ5日・
7日とする)

――『改正三河後風土記』

548人間七七四年2018/12/23(日) 23:04:25.86ID:m1+OhMdA
この話は「戦国ちょっといい話46」の >> 583 で紹介した「正信偈合戦」
の続きにあたる逸話である。



 十年も続いた信長と本願寺の争いは和睦という形で一応の決着はついたが、
信長の方はそれで済ませるつもりはかけらもなかった。本願寺の側に属して
戦っていた摂津の人々が和睦成立後にそれぞれの村に帰って元の生活に戻った頃、
突如として信長軍が村々に襲撃を仕掛けてきた。信長軍の一番の目標は摂津近辺の
門徒を率いて戦った二人の指揮官、味舌下の明善寺の正義坊とその檀家の勘兵衛を
討つことであった。
 襲撃を受けた村では一向一揆に加担したと見なされた村人が捕らえられ、次々と
命を奪われていった。その光景は凄惨で、流血の現場を「流れの馬場」、
死体を積み上げた場所を「しかばね谷」と呼ぶほどであった。
 襲撃を事前に察知して運良く逃れた正義坊は、勘兵衛を連れて北の山へ落ちのびた。
「明善寺の正義坊は手ごわいぞ!」
 信長は騎馬兵三千人に正義坊への追撃を命じた。正義坊たちは箕面の止々呂美という
ところで追いつかれ、檀家の勘兵衛が身代わりとなって捕まり、その場で殺されてしまった。
 その後、勘兵衛がいた地元の明善寺周辺では亡くなった勘兵衛の霊を弔うために
供養塔を建て、念仏講をおこなった。無念講と呼ばれるその念仏講はこの時から
始まったそうである。

549人間七七四年2018/12/26(水) 20:53:09.94ID:ye6XdlVb
四郎こそ我が子と言いながら


ます田の四郎(天草四郎)、この者は近年肥後のうとふ(宇土)と申すところにいたそうだが
この度天草へ参り、みなキリシタンに立ち帰ってしまったという。
しかし大将となった四郎の母、祖母、姉は肥後殿(細川忠利)に捕らえられていた。
捕まっている山に、四郎の姉婿の大矢野の小左衛門と申す者がいたが、四郎が
「母、姉が捕らえられては是非も無し」
と申したので、小左衛門は忍び込もうとしたが捕らえられたのだという。

小左衛門を伊豆(松平信綱)が召し出され四郎のことについて尋ねると
「『四郎は普通のせがれではない』と親が申し做しており、四郎は人間ではないと
 評判になっていたので、人はみな騙されてしまった。私も同様でございます」
と申したという。

(中略)

小左衛門に伊豆殿御公使衆が(四郎の)様子を尋ねると
・四郎は十六だが利発で、読み物をあれこれ読む
・未だかつて十方にいないようなせがれであると、四郎の親は思っている
・親は「四郎こそ我が子」と言いながら「人間ではない」と奇特不思議なことを
 言いふらしたため、天草・有馬の者がキリシタンに立ち帰った
・自分も騙されて「敵がどんなに詫びてきたとしても目を眩まされるな」と言われ
 本当だと思って、みなの為に物事が上手く運ぶようにしていた
と申し、他に申し分はないとのことだった。


ーー『池田家中某氏島原陣覚書』

550人間七七四年2018/12/27(木) 10:34:37.91ID:A2FsnyoP
畜生のように逆さに吊され生きたまま生皮剥がされるのを目の当たりにすれば転んで自白しちゃうよね

551人間七七四年2018/12/27(木) 15:24:03.69ID:WAd4eUEx
平田宗次セブン

島津氏の家臣に薩摩平田氏という一族がいる。
嫡流筋の7代当主・平田光宗は家老になるほどの家柄に成長した。
そんな平田氏にスポットをあてたいと思う。

過去にサイトでは朝倉教景が5人いたと紹介されたが、ここ薩摩平田氏には同時期になんど7人も諱かぶりがいた。
まあ通称とか官職などで呼ばれてたから別にいいんだけどね。
だが、同時期に7人も同じなのは狂気の沙汰である。


それはともかくとして、選手を紹介していこう。死亡した順番で紹介いく。

(1コース)又十郎・・・1558年に曽於郡にて戦死。
(2コース)源太/新助・・・日向福島にて戦死。
(3コース)平次郎・・・朝鮮出兵で戦死。
(4コース)三五郎・・・大隅財部にて男色相手と共に出陣するが、相手が戦死したため敵中に突入し戦死。
(5コース)万兵衛・・・関ヶ原合戦で戦死。
(6コース)新次郎・・・日向野尻の狩りで伊集院忠真と馬を交換したが、忠真謀殺を狙う島津忠恒の配下による誤射されて死亡。
(7コース)左馬頭・・・9代当主・増宗が島津忠恒によって上意討ちされると、2年後に連座で処刑される。

結局7人全員まともな死に方してねえじゃねえか!
誰1人とも枕の上で死んでない。

↓系図はこちら↓
https://i.imgur.com/PrOIwht.jpg

鹿児島県の史料集などから抜粋

552人間七七四年2018/12/28(金) 19:44:13.74ID:pBe2OoRD
永禄12年(1569)5月下旬には、遠江一円が神君(徳川家康)に帰順した。かねがね大井川を限りに西は尽く
御領地となさる旨を武田信玄とは堅く盟約されたので、御領地の境を御巡見のため僅かな御供5,6百騎を召し連れ
なさって、榛原郡に赴かれた。

その時、信玄の侍大将・山県三郎兵衛昌景も3千余騎を連れて駿府よりこの辺りに来たり、金谷にて思いがけず行き
違った。昌景は礼をなしてその場を過ぎようとしたが、神君の御供が少ないのを見ると、喧嘩に事を寄せてたちまち
打って掛からんとした。これは内々信玄の密旨を受けており、かねてより虎狼の心を抱いていたからである。神君は
この様子を御覧になって、

「山県は味方が小勢であるのを見て時節よしと思い、かねての約を変じてにわかに備を立て直し、味方を襲い討たん
としている。去年に秋山伯耆守(虎繁)が約を背いて我が国境を犯そうとしたのも、今日の山県の狼藉も、いずれに
しても信玄の偽謀に疑いない。しかしながら味方は僅かの小勢、しかも地の利を得ず。少し引き退いて地利に拠って
戦うべし!」

と仰せになると、兵を5,6町引き退け険路に備えて待ち受けなさった。山県は徳川勢が逃げると思い勝ちに乗じて
暇なく追っ掛けたところ、本多平八郎忠勝が一番に小返りして奮戦した。その手に属する三浦竹蔵・原田弥之助・
桜井庄之助・梶金平(勝忠)・柴田五郎右衛門・大原作之右衛門・木村三七・渡辺半兵衛(真綱)・多門越中・荒川
甚太郎・本多甚六・河合又五郎は同じく進んで槍を入れる。

二番に大須賀五郎左衛門康高と榊原小平太康政が婿舅一手になり、槍を振るい決戦した。両将の手に属す坂部又十郎
(正家)・筧龍之助・久世三四郎(広宣)・筧助太夫(正重)・渥美源五郎(勝吉)・伊藤雁助・清水久三郎・鈴木
角太夫・加藤平次郎も劣るまいと争い進めば、

三番に大久保七郎右衛門忠世・弟の治右衛門忠佐が、また御旗本からは渡辺半蔵(守綱)・服部半蔵(正成)・菅沼
新八郎(定盈)・石川又四郎が馳せ出て槍を合わせ、敵7,8騎をたちまちに突き落とせば、山県はこの戦いに利は
あるまいと知って早々に人数を引き纏め、駿府目指して逃げ去った。

神君は秋山・山県らの狼藉はすべて信玄の姦謀であると御知りになって、これより永く信玄とは誼を断ちなさった。
信玄もこの頃に世上では信玄の姦謀を批難したのでこれを憂い、一旦山県を蟄居させ、その後程なく馬場・小山田ら
が愁訴するからとして山県を許したのであった。これはすべて信玄の作謀の致すところである。

越後の謙信もこれを聞いて「この度、信玄が徳川殿と盟約を変じ、山県をもってその虚に乗じ討たんと計ったことは、
武田家の瑕瑾(名折れ)である」と評したのであった。

(原注:按ずるに応仁以来、諸国割拠の英雄豪傑は少なからず。その中でも、越後の謙信と甲斐の信玄の2人は殊更
胸に六韜三略を明らめ、手に常蛇を制す。兵を用い陣を敷き、城を攻め敵を計る。尽く孫呉と機を同じくせずという
ことなし。天下後世が規則として仰ぐこと泰山北斗の如し。

しかしながら信玄のなすところは、すでに父を追って国を奪い甥を倒して地を掠み、天倫の道は絶えてしまったので
隣国の盟約を背く如きは論ずるに足らず。されどもこの度、盟約は未だ数ヶ月も経ずして山県に密かに計略を含め、
兵の少なきを窺って襲い討たんと計った偽詐姦邪はおのずと国々へ言い伝えて、これより大いに人望を失ったという
のは、そのようになってもっともな事である)

――『改正三河後風土記(武徳大成記・東遷基業)』

553人間七七四年2018/12/30(日) 15:01:21.19ID:QgRtDTK3
池田長吉と犬狩


慶長8年、池田備中守殿(長吉)は犬狩を行った。
巨濃郡湯山(現・鳥取市)の砂漠(海浜)の四方を海の方は開けて一辺五町で囲い
犬が通れないように、竹の菱垣を縛って催すことにした。
家中でお触れがあり、家臣の面々は日頃嗜んでいる武具を締め、馬を持つ者は
馬具を鮮やかに飾り、馬を持たぬ端侍は歩立になり弓槍を持って美を争い出立した。
その日になると、城下領内の者はもちろん国中遠里深山の者まで聞き及んだ者は
稀代の物見と思って、老若貴賤男女の区別なく竹垣の外に立ち並んでいた。
長吉公は高櫓を架けて、そこから見物していた。

飼い置かれていた数百匹の犬どもを少しずつ放し、かけ声をあげ追い立てると
群衆に恐れをなして、あちらこちらに逃げていった。
犬に当てようと矢比を測り馬を駆け回し、矢叫の声をあげて犬を射ると
当たって倒れる犬もいれば、当たらず逃げる犬もいた。
馬の逸足で追いつかれて、手元で矢に当たり倒れた犬もいた。
槍持ちに追いかけられ、槍で刺される犬もいた。
犬どもはあまりに追い回されるので、逃げる所がなくなり海へ逃げ込み泳いでいた。

備州公(長吉)は侍の立ち回りや弓槍の良し悪しを書き留めていた。
武者の駆け引きを試していたので、この場に出た侍たちは好機であった。
終日の騎射の面白さに諸人は心を慰めて目を覚ましたので、日が暮れて晩になり
太守(長吉)が帰城したところで見物人も退散した。
三日間の犬狩の間、諸人が行き交うのは言語を絶する壮観だったという。
長吉公が珍しき遊覧を行い諸人の目を驚かしたのは、ひとえに武道調練の嗜みを
家中の者に稽古させるためであると伝わっている。


――『因幡民談』
もうすぐ戌年も終わるので……。

554人間七七四年2018/12/30(日) 15:40:05.75ID:99p8w06u
>>553
一般大衆の娯楽でもあったのか、ワンチャンカワイソスと思うのは現代人のおごりかなぁ〜
>飼い置かれていた数百匹の犬ども
世話してた人、情が移ってそう

555人間七七四年2018/12/30(日) 17:04:00.85ID:EJ7XcMUV
美味しくいただきました!

556人間七七四年2018/12/31(月) 13:47:07.49ID:aukyqnVg
>飼い置かれていた数百匹の犬ども

太田三楽斎「(∪^ω^)」

557人間七七四年2018/12/31(月) 14:49:19.90ID:abDIRCtt
数百匹って凄いね、金かかって大変だろう

558人間七七四年2018/12/31(月) 19:05:56.83ID:+OVb+YgT
この年(1560)8月、氏康公(北条氏康)は足柄城を修造されるために巡見に出られて、関本の最乗寺に
参詣された。

この寺の開山の了庵和尚は、曹洞の開基である道元五代の法孫なり。この場所に山居があったが、大森寄栖庵
が常に信じて、この寺を建立した。そして関東奥羽までこの和尚の法孫として末寺が尽く当寺の住職を勤めて、
1年替わりで輪番した。七堂伽藍の建立なり。

開山の了庵和尚の弟子に道流という者がおり、我慢邪知にして大力の悪僧であったが、「私は生きながら天狗
となって、末世永々までこの山を守護せん」という誓願を起こして毎日荒修行を致し、道流は果たして天狗と
なって山中に住んだ。

「今も悪知識の者がいる時には、必ずやって来て障害をなすこと必定なり」と寺僧が仰々しく語ると、氏康の
供の人々は大いに疑って、「末世にもそんな不思議があるだろうか。その天狗とやらは鳥か獣じゃないのか」
などと言ってささやいた。

するとにわかに大風が吹き落ちて樹木を吹き倒し、寺の門戸を破って震動雷電すれば、「只今天狗に攫われて
いくのか!」と皆人は舌を振って驚き恐れた。こうして「まことに晴れていた空がたちまちこのようになった
のは、天狗の仕業に疑いなし」と氏康も信仰されて、この寺を再興なさった。

――『小田原北条記』

559人間七七四年2018/12/31(月) 23:08:02.71ID:rE7ObUZk
天狗よ!天狗の仕業よ!

560人間七七四年2019/01/01(火) 14:49:39.46ID:N7a8tba2
>>558
リアル天狗の仕業でワロタw

561人間七七四年2019/01/01(火) 17:18:54.23ID:bPx3K1wo
    r⌒\// ////:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ //// //
    (´ ⌒)\ ///::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|// //
ポッポー ||  \|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| _/ /ヽ        /ヽ
     人   ...\    +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;/ /   ヽ      / ヽ
    (__)     \    ( (||||! i: |||! !| |) )    /__/U  ヽ___/  ヽ
また (__)天狗か .\+  U | |||| !! !!||| :U  /__/   U    :::::::::::U:
    (・∀・#)       \   | |!!||l ll|| !! !!|/| | 天 // ___    \     ::::::::|
  _| ̄ ̄||_)        \∧∧∧∧/  | | 狗|   |    |  U     :::::::::|
/旦|――||// /|      <   天 >  | |  |U |    |        :::U::|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |      <   狗 >      l ├―‐┤   U   ...:::::::/
|_____|三|/      < の の >     ヽ      .....:::::::::::::::::::::::<
────────────< 予 仕 >─────────────
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \< 感 業  >天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!   
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''  ヽ<.!    >こういう天狗のように鼻が立ってたのが
|  /   | (●),   、(●)   | ∨∨∨∨\天狗の天狗なんだよな今の天狗は
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     / ヤダヤダ \天狗の天狗を知らないから
| |   |    `-=ニ=- '    /〃〃∩  _, ,_  \天狗の仕業じゃ!  , ;,勹
| |   !     `ニニ´   `/  ⊂⌒( `Д´) <\          ノノ   `'ミ
| /    \ _____ /      `ヽ_つ ⊂ノ    \        / y ,,,,,  ,,, ミ
| |    ////W   / )、._人_人__,.イ.、._人_人_人     / 彡 `゚   ゚' l
| |   ////WW /<´ 天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!>\  〃 彡  "二二つ
| |  ////WW /    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒   \|  彡   ~~~~ミ

562人間七七四年2019/01/02(水) 20:21:19.56ID:EIuaIzZA
丹羽佐平次は織田信雄の小姓であったが、後に豊臣秀頼に仕え、大坂落城の時、大阪城より
脱出し泉州貝塚まで落ち行ったが、そこで落ち武者狩りの野伏に道を遮られ取り巻かれた。
この時佐平次は彼等に言った

「我を殺すのか、又甲冑を奪うのか!?着ているものを剥がされるのは恥である。
しかし私は既に日本国を皆敵にしたのであるから、今も自分が世に有るとも思えない。
よって出家をしたい。どうかそのために、僧を一人呼んでほしい。」

これを聞いて野伏たちは僧を一人連れてきた。佐平次は「ならば」と、彼に立ち寄ると、
その僧をひしと取り押さえ、刀を僧の胸に当て、人質とした。

これに野伏らはどうにも出来ず、人質の命と引き換えに「どこであろうと送り申そう。」と言い、
そこで紀州和歌山に所縁の人があることを告げ、野伏たちにそこへ行かせ、暫くして迎えの者がきて
其の者と共に紀州に隠れ住んだ。それから程なくして赦免を被ったという。

(常山紀談)

563人間七七四年2019/01/02(水) 21:09:01.11ID:GSc+bkMx
>>562
落ち武者狩りなのに律儀w

564人間七七四年2019/01/03(木) 13:04:20.09ID:+x4SZTyg
その僧の檀家たちが野伏だったのかもしれない

565人間七七四年2019/01/04(金) 01:31:25.48ID:YYkFjjjl
天文23年(1554)の春、今川義元の三河出陣に際して織田信長は北条と通じ、氏康は駿河へ軍勢を
差し向けなさった。対して義元は甲斐を頼み、武田晴信も駿河に軍勢を出して、両軍は苅屋川で戦った。

武田旧臣の原虎胤は近年故あって北条家に来たり、剛強名誉の働きを致してこの度の戦いでは先手の斥候
となり、紺糸の鎧に半月の指物を差して、冑の真向に“原美濃守平虎胤”と書いている立物をして猪首で
身に着け、鹿毛の馬に黒鞍を置いて打ち乗り、小幡に言葉を掛けて小山田の備へと乗り掛けた。

小山田弥三郎の備の内から「関東浪人、近藤右馬丞!」と名乗って馳せ掛かる者がいた。原はキッと見て
「優れた気立てであることよ!」と太刀を抜き持ち、峰打ちで近藤の冑の錣の端や首の骨を続けて3打4
打すれば、近藤は馬からドッと落ちた。

そこへ後から続く小田原勢が下り重なって首を取らんとする。これに原が「その者は私が甲斐で目を掛け
た者で候! 許してくだされ!」と申したので、引き取ったのであった。

太田源六(康資)は知られた大力の剛の者で、大荒目の鎧に三枚冑の緒を締めて、樫の木の棒を抱え込ん
で白鴇毛の馬に乗って駆け巡った。「おい美濃守殿! これを見給え!」と申すと源六は、武田勢の先駆
けの武者7,8騎を馬の上から打ち落とし薙ぎ倒し、猛威をあらわした故、甲斐勢は辟易して引き退いた。

源六は乗っている馬に矢を射立てられて徒立ちとなり、原と連れ立って静々と引き返した。

永禄7年(1564)正月7日、国府台で北条と里見の軍勢が戦った。太田源六は遠山丹波守(綱景)を
始めとして進む兵6騎を馬上から切って落とした。

北条方の相州無双の大力で、志水右馬丞という剛強の兵は、柘の棒に筋金を入れて打ち振り、太田源六と
寄せ合わせてしばし戦うと見えたが、源六は持っている太刀を鍔本から打ち落とされて、貝を吹いて逃げ
ていったのであるが、余りに無念に思い、常に秘蔵して持っていた長さ8尺周囲7寸の鉄の棒引っ提げて
「志水を打ち落とす!」と、乗り廻し乗り廻し探すも、志水と遭遇しなかった。

源六は「この上は!」と当たるを幸いに向かう敵の冑の鉢や甲の胴中、馬人ともに尻居になるほど打ち据
え、横手に払い薙ぎ倒して打ち据えれば手負い死人はますます重なった。太田下野守は源六の舅であるが
小田原勢の先手にあって、源六の有様を見て馬を駆け寄せると、

「源六よ、余りにも正なく謀反したものだ! 咎を悔いて降参し給え! 某が命に替えても取り成すべし!
今日の働きは厳めしく見える。しかしながら、人こそ打ち給うとしても、馬には咎もないのに無用の罪を
作り給うものだ!」

これを聞いて源六は高らかに打ち笑い、「殊勝にも宣うものですな! 今は仰せに任せて人だけを打ちま
しょう。それでは、試しに受けて見給え!」と鉄棒を取り伸ばし、下野守を丁と打った。

下野守も「心得た!」と太刀で打ち背けようとしたが、大力で打たれてどうして耐えられようか、冑は砕
けながら首は胴に没入し、前方の深田へ転び落ちて死んでしまった。

戦いが散じて源六は宿所に帰り、妻の女房に向かって申したことには「和主の下野守殿は某に諫めの言葉
を掛けられたので、鉄棒で冑の鉢を打ち参らせたのだが、今頃は痛んでおられよう」と語った。

このため女房は大いに驚き「なんですって! 父を打ち殺しなさったのですか! 情けのないことじゃ!」
と下人を遣わして探したところ、下野守は深田に倒れて頭は冑とともに打ち砕け、首は胴の中に没入して
いるのを、泥にまみれながらも葬礼して仏事を営んで女房は髪を剃り、尼になって菩提を深く弔った。

この女房の建立した寺という武蔵江戸神田の浄心寺に尼の木像が今も存在している。

――『鎌倉九代記』

先に投稿した逸話と微妙に内容が違うので

566人間七七四年2019/01/04(金) 21:11:35.24ID:+NkA4Ls3
どこもかしこもみなやけ申候


以下は元和7年1月に江戸の徳川義直の新邸から出火した火事について
13歳の池田光政が国元にいる父・利隆の乳母・栄寿尼に報じた手紙。

________________________________________

一ふて申し参らせ候。
こゝもと正月廿四日のなゝつぢぶんからおわりのちうなごん様(徳川義直)、
なへしま(鍋島)、くない(池田忠雄)、扨、まさむね(伊達政宗)、もりいまさか(森忠政)、
おれかやしきはかりやけす候、さこん殿(池田輝澄)、うきょう殿(池田政綱)、
てらさはしま(寺沢広高)、廿四日の七つちふんからひるの四つしふんまてやけ申候、
どこもかしこもみなやけ申候めてたく、かしく。

   正月廿四日        新太  幸隆(花押)
      うはゑいしゅ 参

     おわり(尾張)     みと(水戸)       きの(紀州)
       △            △            △
              このふたついゑはのこり候

めんめんに文にてもかへすかへす申候、はんすれとも
いそかしく候間まつ此むきにて候、かしく。
________________________________________

大名屋敷が25軒も燃える大火事で他にも上杉、毛利、島津などが焼けたらしい。

567人間七七四年2019/01/04(金) 21:35:36.19ID:0RJw0w3F
子供にまで"まさむね"と書かれるのか

568人間七七四年2019/01/05(土) 18:31:56.44ID:1kKF9x1m
今川氏真の掛川開城の頃までも、山県三郎兵衛昌景は武田信玄の命を守り、駿府の焼け跡に仮の柵を付けて舎宅を営み
守っていた。神君(徳川家康)は駿河に打ち入って駿府城へ押し寄せなさるが、山県は僅かの柵だけでは防戦叶わずと
知り、城を捨てて甲斐へと逃げ帰った。

神君は小倉内蔵助(資久)をもって、北条氏康父子へ信玄とは永く誼を断ち給う由を仰せ遣わされ、それより氏康父子
と示し合わせて今川氏真を駿府へ帰還させなさる由を懇ろに沙汰された。しかし駿府の城郭は先に信玄のために焼亡し、
住居できる場所もないので、氏真は戸倉城にあって小倉内蔵助・森川日向守に命じ、城郭を修築せしめた。その功が半
ば成就したので、まず岡部次郎右衛門正綱とその弟治部右衛門、安部大蔵元真らに駿府を守らせて、もっぱら作事を営
ませた。(原注:『武徳大成記』『家忠日記』)

武田信玄はこれを聞いて大いに憤り、1万8千の軍勢を催して再び駿府を奪い取らんと、6月12日に甲府を打ち立ち、
富士山中の金王を通り、大宮に出て神田屋敷・蒲原・善徳寺・三枚橋・興国寺の城々には押勢を残し、1万2千の人数
で韮山口まで押し入り、17日に三島社内を侵して近辺を放火する。それから人数を進め、河鳴島に陣を張らんとした。

この時、原隼人(昌胤)は「この場所では水害があるかもしれません」と諫めたのだが、信玄はこれをまったく用いず、
河鳴島に陣を取った。北条氏康もこれを聞き、3万7千余兵を引率して出馬し、信玄と対陣して互いに兵を見繕って戦
いは未だ始まらず。

そんな折の19日夕方より雨が降り続き、夜に入った後に大風が激しくなり、雨はますます篠を突くが如し。甲斐勢は
雨革や渋紙、桐油などで陣屋を囲もうとする間に風はいっそう激しくなり、雨はなおも車軸を流し、本篝と末篝をとも
に一度に吹き消した。視線も定まらぬ暗夜に火打ちと付竹を取り出し、灯を立てようとしても陣屋陣屋の間は野原なの
で風が吹き入れて灯は移らない。とやかくと苦辛してようやく陣屋を囲めば、子刻ほどになっていた。将卒どもは疲れ
果て、甲冑を枕にしばし休息した。まして歩卒どもは宵の普請に労疲し、高いびきして前後も知らず伏していた。

この時、北条方が蒲原・興国寺・三枚橋の城々から信玄の旗本へ入れ置いた忍びの者どもは、密かに陣々の馬の絆綱を
切って捨てた。かねてより示し合わせていた事なので、その城々からの屈強の勇士3百余人は、その頃は世上でも稀な
“雨松明”(原注:一本は“水松明”と書く)というものを手々に持ち、筒の火で吹き付けて陣屋に火を掛け、三方か
ら鬨の声を揚げた。

甲斐勢はこの声に驚き「ああっ夜討が入ったぞ! 1人も漏らすな!」と言うも、すでに洪水が押し来たり、陣営は皆
水となった。「弓よ、鉄砲長刀よ!」とひしめくが、篝火も灯火も皆消えてまったく暗く、兵具の置き場所も分からず、
「敵味方を弁えかねて同士討ちするな!」と呼び喚き取り鎮めようとするところに、河からはしきりに洪水が溢れ出て
陣屋陣屋に流れ入り、しばらくの内に腰丈まで浸れば、諸将卒ともに慌てふためき高い所へ登ろうと騒ぎ立った。

陣々にあった弓・鉄砲・槍・長刀・武具・旌旗・兵糧まで津波に取られて押し流され、諸将卒は逆巻く水を凌いでよう
やく興国寺の峰へと押し登った。退き遅れて水に溺死する者も若干であった。信玄はしばしも滞留することができずに、
早々に大宮まで引き退き、もと来た道を経て甲斐へと帰陣した。この時、甚だ狼狽したものか、武田重代の家宝である
八幡大菩薩の旗を取り落とし、北条方に拾い取られたのである。

――『改正三河後風土記』

569人間七七四年2019/01/05(土) 18:32:29.35ID:1kKF9x1m
さる程に、永禄12年(1569)6月17日、信玄は御坂越に人数を出して、御厨通りを桃苑という所まで出張した。
先手の者どもは三島へ乱暴して明神の社壇を打ち破り、戸帳を盗み取る。社殿の中を見ると神鏡だけで本尊がなかった。

諸勢どもは「甲斐国は小国だが、どんな小社でもすべて本尊神体がある。これは甲州は神道が正しいからだ。三島は海
道に聞こえる大社であるのに、どうして本尊がないのだろう。なんだか分からぬ石のようなものがあるが、これが明神
の神体であるのか、その他には何もない。ただ宮ばかりで、尊きこともないではないか。このような神もなき宮に何の
罰があろうか。宝蔵をも打ち破り取ってしまえ」と申した。

その頃、吉田の某は浪人して甲斐国へ下り、信玄の手書をしていた。某はこれを余りに不届きに覚え、信玄へ進み出て、
「そもそも神道は陰陽の根元にして易道の本地であり、形もなく影もないところに神秘があるのです。これは皆神秘で
すから、凡人の及ぶところではありません。浅ましい狼藉でありましょう」と、制止したのだという。

信玄は韮山口まで働き、鳴島辺りに陣を取ったと氏康は聞きなさり、3万7千余騎を引率して駿河に発向した。信玄も
2万5千余騎を引率してしばらく対陣した。19日の晩景より雨が降り出し、箱根山の方から黒雲一叢が立ち来たり、
夜に入ると風は激しく篠を束ねて、降る雨はさながら流れ込むが如し。にわかに大水が起こって陣屋に込み入り、しば
らくの内に腰丈まで浸かり、甲斐勢は我先にと高みに登った。

物音はまったく聞こえず、長いこと震動があった。「これは只事であるはずがない。何れにしても三島明神の御咎めな
のではないか」と心ある者は思ったのだという。

その頃、高国寺城の勢が少ないとして、加勢のために福島治部大輔・山角紀伊守・太田大膳ら数百騎が蓑笠を着て松明
をともし高国寺城へ入った。これを甲斐勢の夜廻りの者が「敵が夜討に寄せて来る!」と告げるや、甲斐勢は騒ぎ立ち、
小屋は倒れて兵糧・雑具・兵具まで流し、甚だ取り乱したのだろう、余りに慌てふためいて武田重代の八幡大菩薩の旗
を波に取られてしまった。

その旗は北条家に取られ、氏康に献上された。「誠に信玄一代の不覚」とぞ聞こえける。その旗を九島伊賀守(福島伊
賀守)に賜り、伊賀守家の奇宝とした。

水は次第に増し、逆巻く水に向かってようやく命を助かり、夜もすがら信玄は甲府に引き返された。氏康も小田原へと
帰陣なさった。

――『小田原北条記』

570人間七七四年2019/01/05(土) 20:16:27.89ID:VzBE3OlO
>>568>>569
>3万7千
どっちも共通してるんだな、少しぐらい盛りそうなもんだけど。

571人間七七四年2019/01/06(日) 12:10:41.04ID:8AG8nNZJ
武田に勝つには倍以上ないと心許ない

572人間七七四年2019/01/07(月) 00:30:39.58ID:aCvm3RMw
永禄12年(1569)6月19日、武田信玄は河鳴島に陣を取り、北条氏康の軍勢と対峙したが、
洪水にみまわれて敗走し、よほど狼狽したのか武田重代の八幡大菩薩の旗を取り落として、北条方
に拾い取られてしまった。(>>568)

氏康は蒲原城に善徳寺曲輪という大郭を築き、その他に大宮・神田屋敷・興国寺・三枚橋・戸倉・
韮山・新庄・山中・深沢・鷹巣・獅子浜などの城塞に援兵3万余人を配分して籠め置き、自身は小
田原へ帰陣した。かくて北条方では、

「流石の信玄も今回はよほど狼狽したと見えて、重代の旗指物を取り落としてしまった!」

と嘲った。これに信玄方では、

「重代の重器であっても、津波のために流れたものをどうして恥としようか! 津波に流れた兵具を
拾い取って、武功手柄のように高言する笑止さよ! 旗が欲しくば、いくらでも製作して授けるぞ!
武略の優劣は戦場の勝負にあり。天変を頼みにして物を拾うを武功と思う浅ましさよ!」

と誹謗した。北条方はまたこれを聞いて、

「信玄が例の巧言曲辞をもって、その過誤を飾るとは片腹痛い! さる永禄6年2月の上野箕輪城
攻めで、信玄の家人の大熊備前(朝秀)は自分の指物を敵に取られたことを恥じ、敵中に馳せ入っ
てその指物を取り返した。その時に信玄は大いに感心して、『無双の高名比類なし』と感状を与え、
その時から大熊を取り立てて騎馬30騎・足軽75人を預けたのだと聞いている。

しかしながら、家人が指物を取られたのを恥じて取り返したことを賞美して、その家重代の重宝で
ある八幡大菩薩の旗は敵が取っても恥ならずと言うなら、大熊に授けた感状は今からは反故となる。
信玄の虚偽はさらさら証しにはできないな!」

と、双方嘲り罵ってやまなかった。その頃、老練の人々はこれを聞いて、

「信玄が洪水のために重代の重宝を流して敵に拾われたことは、天変であるから信玄の罪にあらず。
『河鳴島が卑湿の地で水害があるだろう』と原隼人(昌胤)が諫めたのを用いずに、その地に駐屯
してこの難にあった事こそ、一方ならぬ不覚である」

と誹謗したのだという。

――『改正三河後風土記』

573人間七七四年2019/01/07(月) 14:28:39.05ID:eQrzQF2I
>>572
レスバトルかな?

574人間七七四年2019/01/09(水) 08:45:56.18ID:0LSUZlgm
見事なレスバトルやな

575人間七七四年2019/01/09(水) 19:56:15.67ID:O6+KCoqz
天正10年(1582)午の年、信長公は甲斐国の武田四郎勝頼を御追罰のために、近江安土の
御城より御馬を出された。ただし先手は信忠公に仰せ付けられ、城之介殿は岐阜から御出陣なり。

家康卿は駿河口より御入りになられ、その他にも方々口々より飛び入れば、勝頼は甲府の家城を
開け退かれ、同国の田野里山林で討ち果てられた。その後、御仕置を残すところなく仰せつけら
れて駿河国を家康卿に進ぜられ、同年4月初め頃、信長公は安土の御城に御馬を納められた。

そこに家康卿が駿河国御拝領の御礼のため、穴山殿を御同道されて御上洛の由を聞こし召されて、
明智日向守の所をその御宿として仰せ付けられた。

そのようなところに、信長公は御もてなしのあまりにか、肴などの用意の次第を御覧になられる
ため、御宿を御見舞いになると、夏ゆえに用意された生肴は殊のほか鮮度が落ち申していたので、
門へ御入りになられるや風に乗って悪臭が吹き来たり、その香りを御嗅ぎ付けられて、もっての
ほか御立腹された。

信長公は直ちに料理の間へ御成りとなられ、「この様子では家康卿の馳走はできない!」と御立
腹になられて、堀久太郎(秀政)の所へ御宿を仰せ付けられたのだと、その時節の古き衆の口か
ら以上の通りに受け賜った。

信長記(信長公記)には『大宝坊の所を家康卿の御宿に仰せ付けられた』とある。この宿の様子
は二通りあると御心得なさるべきだろう。

日向守は「面目を失った!」と木具膳や肴の台、その他用意した取り肴以下を残らず堀へ打ち込
み申した。その悪しき臭いは安土中へ吹き散らし申したと相聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』

576人間七七四年2019/01/10(木) 11:01:21.60ID:+0PwuB4l
信長「このアライを作ったのは誰だあっ!!」

577人間七七四年2019/01/10(木) 15:07:09.56ID:T4ak4Lvy
お堀ってゴミ捨て場でもあったんだね

578世界周遊記・閲覧注意1/42019/01/10(木) 20:27:32.16ID:Fq1qzV5o
フランチェスコ・カルレッティ「世界周遊記」続き
今回は閲覧注意、自己責任で。
訳していて気分が悪くなったほどなので。

奇妙なことに病人に対しては新鮮で塩味のある魚、貝を食べさせる。
またあらゆる種類の苦い、酸っぱい、そして熟していない果実もまた患者に与えられる。
決して瀉血は行われず、このように全てにおいて我々と逆のことを行う。
彼らは残酷であり、死への恐怖はない。彼らは様々な機会に自殺し、刀で自刎する。
女性も男子と同様に自殺する。
多くの場合、特に貧しい家庭においては口減らしのために堕胎や出生直後の嬰児殺しを行う。
また王や領主の命令により、多くの男、またその妻も自殺する。
主従関係は強く、高い地位のものであれば理由なしに配下や奴隷を誰でも殺せる。

579世界周遊記・閲覧注意2/42019/01/10(木) 20:29:45.54ID:DZhIphWg
衣服の男女差はほとんどなく、年齢によって異なる。
トルコ式で長い服であるが、装飾品とボタンはない。ちょうど我々の部屋着のように、衣服の片側が反対側に重なる格好となっている。
シャツを下に着ずに直接着用され、綿の紐で覆われた絹の紐で腰に固定される。
女性の場合はもっと太い絹の紐をより重ねて用いる。貴族であれば彼らが貴族であるほど、その紐(帯)を幾重にも巻きつける。
彼らは歩くときには足を上げるのではなく、こするように歩く。
なお男性や12歳くらいの女の子の場合は、隠部を木綿の布で包んでいる。
女性は非常に美しく肌は白いが、目はとても細い。
彼らにとって大きい目より細い目の方がずっと好まれる。
ちなみに、彼女たちはインクのもので歯を黒く染めるため、口元はかなり奇妙に見える。
これは結婚した女性で行われるが、貴族も15から16歳になると同様に黒く歯を染める。
彼らはまた出来るだけ黒く自分の髪を染める。我々の美的感覚からすると、歯は象牙のように白く、髪は詩人の言うとおりに金髪であるべきなのに。
彼らは様々な色に着色された絹の布で服を着流が、貧しい人々の服は通常木綿で、青、赤、そして黒に染められている。
彼らが親族の死を悼むときは白衣を着ることが多い。
我々の気候と同様、雨雪で冷え込む冬には彼らは木綿の裏地に絹のようなダウンを詰め、暖かさを保つ。

580世界周遊記・閲覧注意3/42019/01/10(木) 20:32:15.14ID:ekZkt7/Q
長崎滞在中の私自身の経験から言うと、たとえ裕福な階級の人間でも一般に1人の女性としか結婚しない。
姦通罪は重く、有罪判決を受けた場合、密通した両人とも死罪となる。
起訴されたのち、男性と女性の姦通者を連れて車に乗せ、両手を後ろに縛り上げられ夫の家に連行される。
その場で男の陰茎は切断される。この際、皮膚を多めに切られた陰茎は女の方の頭の上に置かれる。
女の方も陰唇を切り取られ、男の方の頭に置かれる。
こうして頭を相手の隠部で飾ったまま、裸で市中引き回しにされる。
このように姦通罪については重く処罰するにも関わらず、娘や姉妹の名誉については尊重せず、むしろ注意を払っていない。
結婚前の女が、自分の両親または兄弟によって売られることも多く、恥ずべきこととも思っていない。
全国の貧困が、我々には考えられないような性的不健全さと奇妙な習慣の理由である。

581世界周遊記・閲覧注意4/42019/01/10(木) 20:35:35.30ID:p0rXyEgC
ポルトガル人、特に毎年中国つまりマカオからやってくる人々がこれらの証人である。
彼らは自分たちの船に紡績済み、もしくは紡績前の絹、胡椒、香辛料、染料などを積んでいる。
それらの商品を日本で売りさばき銀を手に入れるため、長崎市の港で契約を結ぶ。
彼らはそれらの商品を積み降ろすため、通常8〜9ヶ月滞在する。
これらのポルトガル商人相手の、少女仲買人は彼らの到着直後に来て、滞在中に住んでいる家の船員を訪問する。
そこで彼らは処女の少女を買いたいのか、それとも他の好みの女を買いたいのか尋ねられる。
滞在期間中、あるいはほんの数時間、一晩、数日、数ヶ月、少女を買いたいのか尋ねられる。
それらに応じて、契約が結ばれる。ときには少女の両親とも面会して価格の合意に至る。
彼らの要求に応じて、仲買人は少女を彼らの滞在所に連れて行き、彼らと少女を引き合わせる。
ときには仲買人と一緒に少女の家で会うこともある。
多くのポルトガル人はこの楽園で非常に快適に過ごしており、14から15歳の処女でありしかも美しい少女が、
約3または4スクードで彼らに与えられる。
少女は合意された時間だけ自分のものとなる。ただし、買った場合は少女を時刻までに自宅に送り返すことを忘れてはならない。
少女たちは体を売ったからといって結婚を嫌がられることはない。
それどころか、このように持参金を稼がなければ、多くの少女は決して結婚できないだろう。
こうして少女たちは、7〜8ヶ月の間にポルトガル人から30〜40スクードを受け取る。
少女がポルトガル人と金目的で結婚することもよくある。
また成人女性自身が体を売ることもあるが、この場合は交渉相手の両親がいない、という違いしかない。
お金は最終的に少女もしくは少女を売っている人々が受け取る。
それらの少女のほとんどは、この目的のために購入された奴隷である。
女衒を通じて少女を買うこともあるが、その場合、少女に与えられるのは食べ物と衣服分で少ししかない。
金の大部分は女衒の取り分となる。
この国のビーナスの喜びは、他の悪徳と同様に、少なくとも世界のどの地域よりも豊富にある。
動物のように恥知らずなことを公の場で行い、それを見られてもまったく気にしない異教徒の特徴と言える。

582人間七七四年2019/01/10(木) 21:55:01.56ID:1CpEtD6Q
つまり伴天連追放令は迫害による殉教やらの美談などとは全く関係なく
神の国から最も遠くにいる愚物どもを排除する当然の帰結であったと

583人間七七四年2019/01/11(金) 10:26:46.49ID:LubJF0Ng
>>582
なんでそうなる?

584人間七七四年2019/01/11(金) 15:00:12.43ID:rAQu8eA5
>>580
>皮膚を多めに切られた陰茎は女の方の頭の上に置かれる。
>女の方も陰唇を切り取られ、男の方の頭に置かれる。
>こうして頭を相手の隠部で飾ったまま、裸で市中引き回しにされる。
嘘くせーw

>>581
買春の言い訳のために盛ってる感がしますねぇ

585人間七七四年2019/01/11(金) 15:32:10.32ID:wLiw9gEm
市中で「サカナ、サカナ」と大声で連呼してまわってる土民だから恥知らずって言われるんだよ

586人間七七四年2019/01/11(金) 22:19:15.68ID:1rkZbCYl
>>585
何か変な思想にかぶれてそうやねキミ

587人間七七四年2019/01/11(金) 23:28:08.89ID:SWd6cAfG
関ヶ原の役の岐阜城攻めの際、田中吉政は郷戸川を渡ろうとする時、中間の中に水練を良くする者が
おり、これに瀬踏みをさせた。
このとき川は大雨の後、増水しており浅瀬が解らず、田中家を始め、諸勢渡りかねていた。
かの中間は川に飛び入ると、或いは浮かび或いは沈んで、その水深は甚だ深いと見えた。
ところが彼が帰ってこう報告した「浅く候。」
これを聞いた吉政は尋ねた「汝が渡った様子では、深い様子であったのに、今帰ってきて浅いとは
どういうことか。」
かの者これに答えた
「浅いという様子を見れば、他の部隊の備から、先を争って渡り始めるでしょう。ですのでわざと
深いかのように泳いだのです。」

こうして田中吉政の部隊は浅い場所を渡って先登の功を立て、かの中間はこの功により、郷戸三郎左衛門と
号し、武士の列に入れられ、後に細川家に使えて病死した。

(常山紀談)

588人間七七四年2019/01/12(土) 01:49:31.82ID:Z2aRHrOi
すげぇ

589人間七七四年2019/01/12(土) 05:34:49.51ID:8ZBw+Cjw
敵を欺くにはまず味方からやな

590人間七七四年2019/01/12(土) 07:37:14.31ID:xdruNIRv
>>586
土民乙

591人間七七四年2019/01/12(土) 08:07:17.76ID:YrqIEsxo
>>585
何か中途半端な知識で勘違いしていそうな気がするんだけど

592人間七七四年2019/01/12(土) 10:01:01.28ID:1WraiFrz
チョン乙

593人間七七四年2019/01/12(土) 10:08:07.57ID:Qo135D2i
お前ベトナム土民だろ 恥ずかしいのー

594人間七七四年2019/01/12(土) 10:10:11.58ID:ysO3A6LR
消されてやんのw

595人間七七四年2019/01/12(土) 10:15:57.84ID:M1cGi5PA
めくらwww

596人間七七四年2019/01/12(土) 10:55:18.46ID:HRx8zj5p
本当だ、まとめの方消されてるね。
あちらで指摘されてたけど、中途半端な知識かつ差別的な書き込みだしそらそうなるわな

597人間七七四年2019/01/12(土) 11:05:14.10ID:oZfvzNpq
歴史を直視できない土民ジャップwwwww

598人間七七四年2019/01/12(土) 11:17:54.39ID:RveEOo0z
韓国外交省当局者は11日、徴用工問題を巡る文在寅大統領の発言に対する日本政府の批判について、「甚だ遺憾だ。日本こそ歴史を直視する謙虚な姿勢を持つべきだ」と語った。

隣国にまで呆れられる土民国家の日本www

599人間七七四年2019/01/12(土) 11:23:04.50ID:mY4Ssx90
ここで悪い話をひとつw

実は慰安婦に、レイプ以上の残虐行為をしている糞ジャップ軍

(1)韓国人慰安婦の1人は、なぜ1日に40人もの男にサービスしなければならないのかと尋ねたために、
日本軍指揮官の命令によって、他の慰安婦の面前で、刀でたたかれ、裸にされて、
たくさんの釘の突き出た板の上を転がされ、血だらけになった後に首を切られた。

さらに、日本軍指揮官の1人は、それを見ていた人々の前で
『あなたたち全員を殺すのは、犬を殺すよりも簡単だ』と述べ、死んだ女性の死体を
煮て食べるように強要した。

(2)韓国人慰安婦の1人は、他の40人とともに蛇だらけの水溜りに入るよう命令され、
そのうち数人は、無理やり水中に押し込まれ、その後、土をかぶせて生き埋めにされた。

(3)兵士に噛み付いた新入りの慰安婦は、他の慰安婦の面前、慰安所の中庭で首を切られ、ぶつ切りにされた。

(4)激しく抵抗した慰安婦の1人は、胴体と頭を別々の馬に縛り付けられ、他の慰安婦の面前で引きちぎられて殺された。

(5)多くの慰安婦は、中国兵捕虜の頭を煮た水の残りを飲むように強要された。

(6)性病にかかり、50人の日本兵に病気を移した韓国人慰安婦の1人は、灼熱の鉄棒で膣を消毒された。

(7)性的サービスを逃れようと入浴を拒んだ慰安婦は、木に逆さに吊るされ、ライフルで殴られ、
乳首を切り取られて、最後に膣から銃で撃ち抜かれて殺害された。

(8)筆者が最近傍聴した集会にも、元慰安婦が招かれ、体験談を語ったが、その上品で温和な顔立ちの元慰安婦が、
「慰安所の天井から赤ん坊の頭で作ったモビールのような飾りが吊るされていた」
と語ったとき、会場は一瞬息を呑んだ。


(上記の申立書、ならびにハウスフェルド法律事務所の各種資料は、
http://www.cmht.com/casewatch/civil/comfort.html
http://www.geocities.com/lordfreeza88/esytesti.htm

600人間七七四年2019/01/12(土) 11:34:44.71ID:KS5mGSEm
>>599
これは語り継いでいかないといけない日本の戦争犯罪ですね。日本人を代表して大東亞の人々に謝罪します。

601人間七七四年2019/01/12(土) 12:09:19.05ID:znvOESOC
何だやっぱり糞喰い民族だったか

602人間七七四年2019/01/12(土) 12:27:14.84ID:2I5iyYTR
>>601
自己紹介おつかれ

603人間七七四年2019/01/12(土) 12:36:39.14ID:ePP2MDdM
畑の青菜にクソを撒いて青虫や蛆虫と一緒に青菜を食うジャップwwwww

604人間七七四年2019/01/12(土) 12:55:55.06ID:oTkGGLPa
岩手県では、歯痛が起こるとおまるの内側にこびりついているカスを削り取って虫歯の穴に詰めたという。

秋田県では、便所の溜の中に竹コを入れておくと節から節までの間にきれいな水が溜まるので、それを悪い物を食べたりきのこにあたったりした時に飲むという。

静岡県では耳だれの時、便所つぼの縁の汁をつけるとよく利くという。

クソ文化のジャップwww

605人間七七四年2019/01/12(土) 13:10:05.07ID:yl1M68n9
ttp://pd.kzho.net/1547211425263.jpg
ttp://pd.kzho.net/1547211425801.jpg
ttp://pd.kzho.net/1547211426571.jpg

血が濃いとこんなバカ殿になる

606人間七七四年2019/01/12(土) 13:49:12.64ID:Y0y/oVZd
https://www.av-opera.jp/works/detail/opud009/

ジャップの性癖ってどうなってんの???

607人間七七四年2019/01/12(土) 14:48:28.65ID:G3KR6uLO
クズジャップwwwwwwww
徴用工問題で差押えの措置が進むにあたり顔真っ赤にして遺憾砲wwwwwwwwwwww
これ世界中に広めようぜwwwwwwww
スカトロジャップwwwwwwwwwwwwwwww
だめだ笑いすぎてお腹痛いwwwwww

608人間七七四年2019/01/12(土) 16:28:58.37ID:JnzFIS6e
なぜジャップは喜怒哀楽すべてにおいて「うんこ」にとらわれてしまうのか?

A:糞食い民族だから

609人間七七四年2019/01/12(土) 17:47:11.95ID:6CwTcH0B
>>587
最後の病死ってのがアレだけど他はいい話だな。そこまで頭働くものなんだな。

610人間七七四年2019/01/12(土) 18:03:32.16ID:+03fn4hc
ジャップは病死より溺死がよく似合う
もちろんクソ桶の中でw

611人間七七四年2019/01/12(土) 18:04:56.87ID:cXdCGvFt
なんでこんなに荒れてんだ?

612人間七七四年2019/01/12(土) 18:07:52.52ID:+03fn4hc
上杉謙信は足を滑らせて肥に落ちて溺死したんだよな
好物に囲まれて死ぬなんてジャップ胸熱だろ

613人間七七四年2019/01/12(土) 18:18:19.15ID:KEeZG8o8
ウンコ文化なんて日本くらいだろ
病気に効くとか言って塗ったり食べたりしてんだもの
ウンコだけにチョンに擦りつけようとするネトウヨwww

614人間七七四年2019/01/12(土) 20:52:39.96ID:0R8u71+h
ネトウヨそっとじスレwwww

615人間七七四年2019/01/12(土) 21:21:46.28ID:Ipj08auS
歴史が無い国はトンスルしか文化ないからなあ
哀れだよな

616人間七七四年2019/01/12(土) 21:32:21.47ID:5sP9uIlx
それより歴史を直視できないお前らが哀れでならないわw
大便食って小便飲んでた歴史を忘れるなよwww
スカトロジャップwwwwwwwwwwwww

617人間七七四年2019/01/12(土) 21:43:27.31ID:5sP9uIlx
あの「うんこドリル」から今度は「ひらがな」が新登場!4〜6才児向け『うんこひらがなドリル』発売


さすがスカトロジャップだなwwww
幼児の頃からウンコ大好きときた
遺伝子に刻まれてるんじゃねーの?wwwwwww
食べてヨシ飲んでヨシの日本人が愛用するウンコ


見て見ぬ振りをするお前らが哀れwwwwwwwwww

618人間七七四年2019/01/12(土) 21:54:59.59ID:7Br7Zz29
         ∧_∧  このウンコは私のオゴリだ
         (`・ω・´)   シュッ
        (つ   と彡 ./
            /  ./
           /   ./
         /    /
        /      /
      / ///   / ツツー
     /  ●   /
   /       ./

619人間七七四年2019/01/12(土) 21:56:44.43ID:7Br7Zz29
              )
             (
         ,,        )      )
         ゙ミ;;;;;,_           (
          ミ;;;;;;;;、;:..,,.,,,,,
          i;i;i;i; '',',;^′..ヽ
          ゙ゞy、、;:..、)  }
           .¨.、,_,,、_,,r_,ノ′
         /;:;":;.:;";i; '',',;;;_~;;;′.ヽ
        ゙{y、、;:...:,:.:.、;:..:,:.:. ._  、}
        ".¨ー=v ''‐ .:v、,,、_,r_,ノ′
       /;i;i; '',',;;;_~⌒¨;;;;;;;;ヾ.ミ゙´゙^′..ヽ 
       ゙{y、、;:...:,:.:.、;、;:.:,:.:. ._  .、)  、}
       ".¨ー=v ''‐ .:v、冫_._ .、,_,,、_,,r_,ノ′
      /i;i; '',',;;;_~υ⌒¨;;;;;;;;ヾ.ミ゙´゙^′.ソ.ヽ
      ゙{y、、;:..ゞ.:,:.:.、;:.ミ.:,:.:. ._υ゚o,,'.、)  、}
      ヾ,,..;::;;;::,;,::;):;:;:; .:v、冫_._ .、,_,,、_,,r_,ノ′

620人間七七四年2019/01/12(土) 21:57:45.62ID:7Br7Zz29
ほらほら、ジャップの好きなウンコだぞー

621人間七七四年2019/01/12(土) 22:35:12.21ID:yfDsTh5i
https://scontent-nrt1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/16425941_106514156534728_8117789995842099416_n.jpg?_nc_cat=105&_nc_ht=scontent-nrt1-1.xx&oh=ecde2ee780af91f766522e8f613e7330&oe=5CCF112E#.jpg
https://scontent-nrt1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/16473783_108163896369754_5795890198147281383_n.jpg?_nc_cat=111&_nc_ht=scontent-nrt1-1.xx&oh=73b133441f4d8552c80c692e9f01eb86&oe=5C9541EB#.jpg
https://scontent-nrt1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/21742913_266948217157987_3767046702016925673_n.jpg?_nc_cat=106&_nc_ht=scontent-nrt1-1.xx&oh=b51e43482cd446df8ec58e9a016731a4&oe=5C9774EA#.jpg
https://scontent-nrt1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/21752346_269512333568242_3312704939409781785_n.jpg?_nc_cat=111&_nc_ht=scontent-nrt1-1.xx&oh=eefe59b3e1c8b1006483d36b5e5c15a9&oe=5CD589DA#.jpg
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622人間七七四年2019/01/12(土) 23:23:31.88ID:7h0NDeq2
>>587
コレってむしろ良い話じゃね?

623人間七七四年2019/01/13(日) 00:23:38.15ID:2osLBQc6
         ∧_∧  よく分かったな、このウンコは私のオゴリだ
         (`・ω・´)   シュッ
        (つ   と彡 ./
            /  ./
           /   ./
         /    /
        /      /
      / ///   / ツツー
     /  ●   /
   /       ./

624人間七七四年2019/01/13(日) 08:33:51.53ID:cSqRn7RR
        ∬ ∬    ∬ ∬    ∬ ∬  +
   +     人      人      人     +
         (__)    (__)    (__)
  +    (__)   (__)   (__)     +
.   +   ( __ )  ( __ )  ( __ )  +
      ( ´∀`∩ (´∀`∩) ( ´∀`)
 +  (( (つ   ノ (つ  丿 (つ  つ ))  +
       ヽ  ( ノ  ( ヽノ   ) ) )
       (_)し'  し(_)  (_)_)

625人間七七四年2019/01/13(日) 10:24:30.83ID:YX4I1QUl
ベルゼブブ降臨中か
よっぽど好きなんすね〜

626人間七七四年2019/01/13(日) 15:43:00.78ID:Zdhm48/O
石田三成らの挙兵により、徳川家康が宇都宮から江戸へと出立する際、佐竹義宣や秋田城介(秋田実季)
らは、石田三成に一味していると考えられていた爲、『上方と一味に候哉、そうではなく今回
我々に同心するというのであれば人質を出し、我らへの一味の験を顕すように。』と、花房助兵衛、
島田次兵衛の両人を使いとして佐竹へ仰せに成った。

これについて義宣は父親の義重に「これはどうするべきか」と相談した。義重はこう言った

「私は隠居であり、万事はお前の心次第にすべきである。しかしながら上方に既に妻子を人質として
置いているからといって、彼等を不憫に思い、心では家康に一味したいと思いながら、人質故に
上方に一味するような事は有ってはならない。戦国の頃は、人質を棄て義兵を起こす事が武家の習いであった。

もし又、とにかく上方に一味したいと考えているのであれば、上杉景勝、秋田実季と申し合わせ、
早々に軍を起こし家康を食い止めるべきだ。」

しかし義宣はこの言葉を用いず、合戦も仕掛けず、人質も出さず、徒に時を過ごした。

(武功雑記)

627人間七七四年2019/01/13(日) 16:26:24.39ID:2yKoJx54
              )
             (
         ,,        )      )
         ゙ミ;;;;;,_           (
          ミ;;;;;;;;、;:..,,.,,,,,
          i;i;i;i; '',',;^′..ヽ
          ゙ゞy、、;:..、)  }
           .¨.、,_,,、_,,r_,ノ′
         /;:;":;.:;";i; '',',;;;_~;;;′.ヽ
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       /;i;i; '',',;;;_~⌒¨;;;;;;;;ヾ.ミ゙´゙^′..ヽ 
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       ".¨ー=v ''‐ .:v、冫_._ .、,_,,、_,,r_,ノ′
      /i;i; '',',;;;_~υ⌒¨;;;;;;;;ヾ.ミ゙´゙^′.ソ.ヽ
      ゙{y、、;:..ゞ.:,:.:.、;:.ミ.:,:.:. ._υ゚o,,'.、)  、}
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628人間七七四年2019/01/13(日) 16:34:02.53ID:MWZGbZBv
>>626
─────────────‐
━━━mm━━━━━━━━━
 ||| lll | |    人  ガラッ
     | |   (__)   ||| ___=Q____
  |||  | | (____)   /
     \\( ・∀・ ) < おやじ!冷やしうんこ下痢だくで!
      \     \ \
||| ガラッ  )    ト、ヽ   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   |||   /     ( | | |||
━━━━━━━━━mm━━━
─────────────‐

629人間七七四年2019/01/13(日) 18:56:01.30ID:iwxzEU62
(坂本城落城の時)

城中では坂本城にやって来た弥平次(明智秀満)を見付けて、上下に至るまで勇み喜ぶこと限りな
かった。それから弥平次は人数に役目を行き渡らせて「ざっと務めよ」と申した。人数は偉丈夫で
はなかったが、そこかしこに配置した。その後、湯漬けを取り寄せてゆるゆると食すると、天守に
鉄砲の薬を開けさせた。

弥平次が天守から寄手を見渡せば、すでに城を半分ほど取り巻いていた。寄手は堀久太郎殿(秀政)
である。弥平次殿は天守から降りて塀の周囲を駆け回り、自身でそこかしこで鉄砲を撃ち、城を持
ち固めているように敵に見せかけ、また天守へ取って返すと、諸々の道具を取り出した。

弥平次は新身国行の刀と吉光の脇差、虚堂の墨跡を夜の物(夜着や寝具)に包み、目録を添えて、

「やあやあ、寄手の人々へ申す! 堀監物殿にこれを渡されよ! この道具は私ならぬ天下の道具な
れば、ここで滅しては弥平次は傍若無人と思し召される故、渡し申す!」

と申し、天守からこれを落とし申し候事。ややあって堀監物は返事をし、

「御目録の如く、少しも違いなく受け取り申した! しかしながら、申したき子細がある! 日向守
殿(明智光秀)が内々に御秘蔵なされた真の倶利伽羅の吉広江の御脇差はどうしたのか!」

と尋ねた。これに弥平次は返事して、

「その道具は上様(織田信長)より日向守が拝領された御道具である! 秘蔵の吉広江の脇差は久太
郎殿やその他の大名衆も御存知のように、越前国が破れた時に、朝倉殿の御物奉行が肌に差して出て
行ったところを、後に日向守が密かに聞き出して求め置かれたものだ!

渡したいとは存ずるが、光秀が命もろともと内々に秘蔵された故、私めの腰に差して死出の山にて
日向守に渡したいがためである! その事を御心得なされたい!」

堀監物とは現在の丹後守殿(秀政の従甥直寄)の親の事にて候。

(中略)

弥平次は真の倶利伽羅の切り物のある吉広江を、言葉を違えずその時に失わせた。

「時刻が移って敵が乱入すれば外聞は見苦しいであろう」と弥平次は覚悟を定め、日向守殿の御前
所(正室)と自身の内儀を手に掛けひたひたと刺し殺し、その脇差を取り出して天守の戸を開いた。

「寄手の人々は御覧になれ! 弥平次自害の様子を見習って手本にせよ!」

と弥平次は言うと、腹を十文字に掻き切り、伏せざまに鉄砲の薬に火を掛ければ、煙となって一天
の空へ昇ったのだということである。

後に焼け跡の灰を探してみると、残りの刀や脇差、その他の道具の形は確認できたが、吉広江の脇
差は見付からなかった。その後、古井戸からこれを取り出したが、すでに腐ってその形も見分けら
れず、「おそらく吉広江であろうか」と人々が推量するだけであったと聞いている。

松永殿(久秀)は首と平蜘蛛の釜を見せなかったが、この脇差の収め様もよく似ていると人々は申
し合ったと承り候事。

――『川角太閤記』

630人間七七四年2019/01/13(日) 19:33:32.84ID:/HqfRDEu
>>626
後世の人間の感覚だと、関ケ原の頃はまだ戦国自体だけど、当時はもう戦国の世は終わったって意識だったんだな

631人間七七四年2019/01/13(日) 19:48:06.46ID:mKSNkryl
太閤殿下のおかげやで

632人間七七四年2019/01/13(日) 19:54:32.84ID:AtZ6ulhB
>>627
      人
     (__)
    (____)
    ( ・∀・)  うんこ発見!
   ⊂   つ  
    (つ ノ
     (ノ

633人間七七四年2019/01/13(日) 20:38:19.00ID:cDY2A0Xz
>>629
>腹を十文字に掻き切り、伏せざまに鉄砲の薬に火を掛ければ、煙となって一天の空へ昇ったのだ
美しい…

634人間七七四年2019/01/13(日) 23:31:45.01ID:2dhPlWF7
全然悪い話ではなくむしろ良い話に思える

635人間七七四年2019/01/13(日) 23:44:19.36ID:0ukWP+Ka
>伏せざまに鉄砲の薬に火を掛ければ、煙となって一天
の空へ昇った
松永弾正「爆死はわしの専売特許だぞ」

636人間七七四年2019/01/14(月) 03:05:53.78ID:MKG9TZe7
>>631
惣無事令の有無はさておき、小田原→奥州仕置で天下統一、各大名が実力で領土をぶんどるのはもうありえず、戦国は終わったという認識になるでそ。

ただまあ、戦国的な気風は綱吉が将軍になるまで続くわけだけど。

637人間七七四年2019/01/14(月) 07:49:55.94ID:zcsrDI9p
ほらほらお前らの好きな味噌だぞー

              )
             (
         ,,        )      )
         ゙ミ;;;;;,_           (
          ミ;;;;;;;;、;:..,,.,,,,,
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          ゙ゞy、、;:..、)  }
           .¨.、,_,,、_,,r_,ノ′
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      /i;i; '',',;;;_~υ⌒¨;;;;;;;;ヾ.ミ゙´゙^′.ソ.ヽ
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      ヾ,,..;::;;;::,;,::;):;:;:; .:v、冫_._ .、,_,,、_,,r_,ノ′

638人間七七四年2019/01/14(月) 09:53:34.15ID:xO1Bprze
>>636
>ただまあ、戦国的な気風は綱吉が将軍になるまで続く

(改易しまくる)幕府が悪いよ幕府が〜

ムダに浪人増やす事になったのもなぁ

639人間七七四年2019/01/14(月) 09:58:48.12ID:IEDTryi4
改易しないと舐められるしなあ

640人間七七四年2019/01/14(月) 12:21:36.97ID:2qBLxhgW
>>630
おれは60歳だが、

15歳で関ヶ原に従軍してから、

37年間、弓鉄砲を使う場面は1度もなかった。

641人間七七四年2019/01/14(月) 12:49:01.37ID:yIHoPsQR

642人間七七四年2019/01/14(月) 14:49:45.95ID:928moBb/
>>629
>死出の山にて
>日向守に渡したいがためである!
これでほんとにそれだけ失われたってのがロマンティックで良いなぁ

643人間七七四年2019/01/14(月) 15:37:18.95ID:Qplf3XGe
誰かーロマンティック
止めてーロマンティック
胸がー胸がー苦しくなるー

644人間七七四年2019/01/14(月) 23:01:14.76ID:O4RpCBZN
後に人々は算段して「これ(明智秀満が吉広江の脇差を渡さなかったこと)は松永殿(久秀)が大和
信貴山の城で切腹した時、櫓の下へ付いた佐久間右衛門(信盛)の手勢より、城内へ呼ばわりかけた
のとちっとも違わない」と、申されたのだという。

その子細は、佐久間右衛門が所存を出されて、松永殿へ申し付けられた言葉だと聞いている。

「この度の事に及んでは、内々に御秘蔵の平蜘蛛の御釜を、上様(織田信長)も常々御望みに思し召
されておられる故、御出しになるのがもっともである! それで滅んでしまっては、あまりに本懐なき
次第と存じ奉る!」

以上の通りに松永殿へ告げ知らせたとおぼしく、ややあって城内からの返事があった。

「平蜘蛛の釜と九十九髪の茶入、これは来世まで持って行き、慰みにと存じていた。そんなところに、
安土の御城で信長殿は御自身で御茶を下され、その時に『いつまでも御手前の九十九髪の茶入で数寄
を致すがよい』と、仰せられたのである。

その時に私めは茶室を新しく建て、九十九髪で信長殿に一服申し上げようと存じていたのだ。しかし、
その頃の信長殿は私めを方々に御遣わしになられたので、その機会もなく打ち過ぎた故、九十九髪を
安土の御城で進上したのである。

しかしながら、平蜘蛛の釜と私めの首の二つは信長殿の御目には掛けまいぞ!」

このように返答すると、松永殿は平蜘蛛の釜を微塵粉灰に打ち割り、その言葉に少しも違わずに首は
鉄砲の薬で焼き割り、平蜘蛛の釜と同様に微塵に砕けたのである。(頸は鉄炮の薬にてやきわりみし
んにくたけけれはひらくもの釜と同前也)

この九十九髪は、古に九十九石の田地で買い取ったため、その名で呼ばれたと承っている。信長殿は
御秘蔵なされ、御最期の時に本能寺で焼き割れたと、相聞こえ申す事。

――『川角太閤記』

645人間七七四年2019/01/15(火) 12:29:01.13ID:6fWCpnwL
( ^ω^)新しいスレにマーキングするお
( ^ω^)
  つ∩と シコシコシコシコシコシコシコシコ
(;^ω^)うっ…!ドピュッドピュッドピュッドピュッドピュッ
( ^ω^)b マーキング完了お

646人間七七四年2019/01/15(火) 13:04:01.98ID:b4TGDFGv
犬のマーキング
https://i.imgur.com/qCbbJEy.gif

647人間七七四年2019/01/15(火) 13:48:55.66ID:0qpatG4+
>>644
九十九髪も同じ運命をたどる皮肉、悲しいなぁ

648人間七七四年2019/01/15(火) 17:44:16.69ID:zxba0zV8
その頃になっても水車が作れなかった国

649人間七七四年2019/01/16(水) 13:22:16.85ID:uZRkUMJ4
毛唐相手に幼女売春させてた慰安婦製造に長けた土民国家

650人間七七四年2019/01/16(水) 13:29:09.58ID:/rlx5wqh
今でも南北てふせんの主要産業だね
欧州ロシアへ農村奴隷を送り込む北、アメリカで輸出された高齢の売春団がしょっちゅう摘発される南w

651人間七七四年2019/01/16(水) 15:06:17.78ID:7EqpsoZH
売春が国技の土民国家では摘発されませんw

652人間七七四年2019/01/16(水) 15:33:06.84ID:01OrV5pT
家康公の愛した八丁味噌
https://i.redd.it/e9ufk8gbwe701.jpg

653人間七七四年2019/01/16(水) 17:24:42.42ID:Aon7odZO
元芸能人・公務員が含まれた日本遠征売春団を検挙=韓国
https://s.japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=175299

韓国で遠征売春が横行する理由 男女賃金格差が大きい経済的な困窮
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/13443038/

売春土民団とはこりあ参ったw

654人間七七四年2019/01/16(水) 21:13:33.90ID:QYRGmbyD
柴田勝家は賤ヶ岳の砦に居たが、前田利家の裏切りのため敗北し、彼はここにて討ち死にしようと
決心していた。しかし勝家家臣の徳山五兵衛と言う者が
「ここで討ち死にしても意味がありません。越前北ノ庄に退かれ、御城にて心静かに御腹を召すべきです。」
と諌めた。勝家もそれに同意し、越前へと撤退した。この時五兵衛は
「天下に隠れなき、勝家様の金の御幣の馬印をお預け下さい。勝家様の御命に代わり、私が
討死いたします。」と申し、言葉通り死を遂げた。

(原文)
柴田しつがたけの取出に居たりけるか、前田利家うらきりしたる故、柴田爰にて討死せんとありし時、
柴田か家臣徳山五兵衛と云もの申けるは、是にて討死し玉はんこと詮なし、越前北の庄へのかせ玉ひ、
御城にて心しつかに御腹召候へかしと諫めけれは、けにもとやおもばれけん、越前さして退玉ふ。
五兵衛申けるは、天下にかくせなき、きんの五弊あつけたまへ、御命にかはり討死仕らんと申て死をとげたり。

(祖父物語)

賤ヶ岳の敗因を、はっきり「前田利家の裏切りのため」と書いているのはホント珍しい。

655人間七七四年2019/01/17(木) 07:48:10.72ID:AqwNJxhY
幼女売春させてた慰安婦製造に長けた強姦猿が必死w

656人間七七四年2019/01/17(木) 11:13:36.18ID:Tv1J6rME
>>654
ロリコンの再犯率から鑑みてもとても信用に値する人物ではない

657人間七七四年2019/01/17(木) 16:10:44.14ID:87efot/+
韓国人は世界で最もキレイ好きな民族として世界中でよく知られていますが、
トイレの使い方は日本とは少し異なるので注意が必要です。
まず、トイレットペーパーを便器に流してはいけないので注意して下さい。
これは下水管の規格が日本よりも細く、紙が詰まりやすいためと、
トイレットペーパーが日本のものより厚みがあり水に溶けないためです。
また、第二次大戦中に日本軍によるソウル大空襲で下水道などのインフラが破壊し尽くされたため、
都市部でも下水道が未整備なところがあるということも大きく関係しています。
下水道未整備地域では、し尿は河川や海へ流されますが、分解されにくいトイレットペーパーが混じっていると、
河口付近で養殖されている韓国海苔や牡蠣に混じってしまうことがあるため、
環境意識が特に高いことでよく知られている韓国人は紙をトイレへ流しません。
これは三ツ星ホテルやショッピングモール等でも基本的には同じなので気をつけて下さい。
排便後に拭いた紙を捨てるためのゴミ箱が必ず備え付けられているので、そこへ捨てて下さい。
公衆トイレなどで紙が無い場合が多くあります。
旅慣れた人や韓国通の方は、現地の人と同様にゴミ箱から比較的キレイな紙を拾って再使用しますが
気になる方はトイレットペーパーを常に持ち歩いた方が良いでしょう。
また日本と違い、手洗い場が備えられてないトイレも多いので、気になる方はウェットティッシュ等も持参しても良いかもしれません。

658人間七七四年2019/01/18(金) 00:10:47.32ID:ePlVzHXh
慶長19年、豊臣秀頼は諸国の牢人衆を抱え、分胴をくずして竹を割り、そこへ鋳流して竹流しと名付け、
牢人たちに与え、十万余りを扶持していると徳川家康にも聞こえた。
そこで家康は「そういう事なら秀頼の御袋(淀殿)を江戸へ下すように。」と仰せ遣わしたが、
「思いもよらず。」との返事であった。そこで「そうであれば他に国を遣わすので、大阪を空けて
新しい領地へ国入りをするように。」と仰せに成ったが、これについても「思いもよらず。」と返答し、
さらに家康のもとには、大阪においていよいよ諸牢人を抱え、大阪城の普請を行い、鉄炮を磨き
矢の根を磨いているとの情報が入った。

「その儀ならば別心か。」家康はそう言った。

この時秀頼の守役である片桐市之正(且元)は秀頼に異見した。「もはや議論をしている時分ではありません。
とにかくどのような事でも、家康公の御意次第にお従いに成り、御袋様を江戸に送られるべきです。」
そう申し上げたが、大野修理、同主馬之助、同道犬、真田左馬助、明石掃部、その他の牢人どもが寄り合って
申した「とにかく御袋様を江戸に送るというのは要らざる事です。市之正は家康に加担し、あのように
申しているのです。市之正を成敗すべきです。」

これに危険を感じた片桐且元は吹田へ引き退き、これによって秀頼の謀反疑いなしとして、東は出羽、奥州、
関東八ヶ国、東海道、五畿内、西は中国、四国、九国、北は加賀、越前、能登、越中、越後と、日本に残り無く
大阪へと押し寄せた。

(三河物語)

三河物語だと大阪の陣の原因は最初から豊臣家の牢人召し抱え問題なのね。

659人間七七四年2019/01/18(金) 10:22:48.52ID:928dIX9v
【東京】JSに「電車を降りてトイレに行こう」と声かけ肩叩きし暴行容疑で逮捕された会社員、今度はJCを脅迫して逮捕
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1547732853/

倭猿の幼女狂いは国技と言うかもはや病気だな

660人間七七四年2019/01/18(金) 11:46:54.74ID:xxlwVxsQ
>>658
逐電したと思われていた真田信勝は大坂に潜伏していたのか!

661人間七七四年2019/01/18(金) 12:34:52.73ID:981Sk6ZK
羞恥心のカケラもない倭猿
http://livedoor.blogimg.jp/kinisoku/imgs/f/2/f2c28563.gif

662人間七七四年2019/01/18(金) 15:37:53.65ID:z+1Tg0U3
天下無双とは俺のことよ
http://img.erogif-ch.com/8gpDEkF4Qe/25.gif

663人間七七四年2019/01/18(金) 16:06:41.33ID:7LU45OGl
>>662
本多忠勝カッコイイ

664人間七七四年2019/01/18(金) 16:23:39.52ID:HuSd4Mb9
>>658
>分胴をくずして竹を割り、そこへ鋳流して竹流しと名付け、
>牢人たちに与え、
わざわざこんなことしたのはこっそり金与えたって意味?銅銭代わりなのかな。

665人間七七四年2019/01/18(金) 20:45:30.78ID:/cjd5+Sd
>>664
ここに出てくる分銅ってのは巨大な金塊の事だよ

666人間七七四年2019/01/18(金) 22:38:06.98ID:HuSd4Mb9
>>665
もっとすごかった!ありがとう〜。

667人間七七四年2019/01/18(金) 23:37:12.99ID:oWMg4/ko
茶々から秀次への手紙


文禄二年閏九月六日に、関白・豊臣秀次は太閤・秀吉の有馬湯治の見舞いへと赴いた。
見舞いに行くことを北政所と茶々へそれぞれ手紙で伝え、自身も湯治をした。(『駒井日記』)
以下は十月八日に来た茶々からの返信。


(有馬の)御湯が丁度良く、すぐ清須まで戻ってこられるとの懇ろな手紙をありがたく喜ばしく思います。
太閤も一段とご機嫌がよく、この程は聚楽に御成されました。
姫君(秀次娘)も御息災でいられるそうです。そのまま御上洛をお待ちしています。
御文はよくよくありがたく思い、何と言ってもめでたいことですから重ね重ねお願い申し上げます。かしく。

人々御中 
まいる    申給へ

――『福田寺文書』

返信前の十月一日には秀吉により御拾(秀頼)と秀次娘の縁談が取り決められており、それを受けての手紙と思われる。
このとき許嫁となったとされる八百姫は病気がちで、秀次正室の若政所が祈祷依頼を出している。(『兼見卿記』)
秀次自害の連座で亡くなった子女に八百姫がいないこと、没日が違うことなどから自害前に亡くなったとされる。

668人間七七四年2019/01/19(土) 19:05:44.45ID:ffQJv5Ep
>>664
竹流金でググれ

669人間七七四年2019/01/19(土) 21:30:54.95ID:r3vm1I6O
さて、因果というものは有るものだろうか。太閤秀吉、いにしえは松下嘉兵衛の草履を取っていた者であったが、
織田信長の御取立を以て人となり、今太閤の地位にまで至ったというのに、信長の御恩を忘れたか、
その御子である三七殿(信孝)をぬまの内海にて御腹を切らせ給い、尾張内府(信雄)の御知行を召し
北国に押し込め、御扶持の宛てがいもなく置いた。

さて又、太閤の御子秀頼も、相国様(徳川家康)を打ち奉らんと、大阪にて一度(家康暗殺騒動)、また伏見
にて諸大名に仰せ打ち奉らんと二度目(婚姻問題騒動)、会津御陣の御跡に諸大名を催して伏見の城を攻め殺し、
相国へ向かわせ給い、これが三度目(関ヶ原)、また去年謀反の企てをし諸牢人を扶持して敵対したこと
四度目(大阪冬の陣)、又当年手を出し合戦をし給う事五度目なり。(大阪夏の陣)

相国は御慈悲の有る方なので、四度目まではゆるしたが、助けたいとは思われたが、この上は是非無き次第、
助け置くものならば、又謀反を企てるだろう、よって腹を切り給えとて、御腹を切らせ給ふ。
これを見る時には、因果と言うものは、有るものだと感じる。

(三河物語)

670人間七七四年2019/01/21(月) 10:17:43.80ID:DVUcuj2L
体験を友達の母親とした体験談
中学時代からの友達のお母さんだったんだけど、
俺がそいつと仲良くなった頃には離婚してたんだよね。
当時まだ30代そこそこで小柄な人だったけど、
結構美人で気さくなお母さん。
俺が大学受かって
地元離れる時もパーティー開いたりしてくれて、
歳の離れたお姉さんみたいな感じだった。
で、4.5畳の狭い市営住宅に住んでいて、
俺はしょっちゅうそいつの家に溜まってたんだが、
彼女は昼間の勤めから帰ってくるとよく夕飯をご馳走してくれたりした。
で、そいつは地元の工場に就職して俺は東京の大学に進学したんだが、
夏休みに帰省すると帰ったその日に
お土産持ってそいつの家に遊びに行った。

671人間七七四年2019/01/21(月) 10:18:20.17ID:DVUcuj2L
友達の家に着くと彼女が出てきたが、そいつは留守だと言う。
そいつの勤めてる工場は三交代制で、夜勤のシフトに入ってるらしく、明け方に帰って来るらしかった。
俺はお土産を渡して帰ろうとしたが、
「せっかく来たんだし、大学のお話も聞きたいから上がって」
と引き留められた。
帰っても暇だった事もあり、お邪魔する事にした。
部屋に上がると、彼女はお茶を持って来てくれた。
しばらく居間で座ってテーブルを挟んで話し込んでたのだが、彼女は「暑いからちょっと着替えて来るわ」
と言って席を立ち、隣の部屋に行って着替え始めた。

672人間七七四年2019/01/21(月) 10:19:00.12ID:DVUcuj2L
隣の部屋で彼女が着替えてる衣擦れの音が聞こえてきた。
「ゴメンね、待たせちゃって」
彼女は薄いピンクのタンクトップにショートパンツで現れた。
・・・目のやり場に困った。
何しろ足も露わでタンクトップの脇からはブラがちらっと見えるし。
当時童貞の俺にしてみりゃもう勃起モノの光景で、話もしどろもどろになりかけてしまう。
「向こうで彼女出来た?」
不意に彼女が俺に訊いてきた。
「まだそんな相手いませんよ」と俺が返す。
ここで今までなら冗談話が弾むとこだったのだが、何故かそこで沈黙。
しばらくして彼女が口を開いた。
「じゃあ、あたしみたいおばさんでもこんな格好してると興奮しちゃうでしょ?」
「・・・しますよ、凄く・・・」
俺は予想外の質問に言葉も詰まりがちに返答した。

673人間七七四年2019/01/21(月) 10:19:42.13ID:DVUcuj2L
「・・・・抱きたい?あたしを」
彼女は俺に畳み掛けるように訊いた。
「・・・・・抱きたいです」
俺は半ば混乱していた。
何しろ普段オナニーのネタにしてた彼女から
そんな言葉が出るなんて想像も付かなかったからだ。
夢を見てるようだと言うのは、こういう事なのだろうか。
また少しの沈黙の後不意に彼女は立ち上がった。
そして部屋の窓を閉め、玄関の鍵を掛けると居間に戻ってきた。
そして俺の横に座ると真っ直ぐに俺を見つめて言った。
「抱いて・・・」
次の瞬間俺は反射的に彼女を畳に組み敷いていた。
だが、彼女は目を逸らさず俺を下から見つめて
微かに笑みを浮かべ優しい口調で言った。
「キスして・・・」
俺は促されるまま唇を重ねた。
長い初めてのキス・・・。
「いいんですね?俺本気ですよ?」
彼女は頷いた。
俺は熱に浮かされてるような気分だった。

674人間七七四年2019/01/21(月) 10:20:34.38ID:DVUcuj2L
現実感が沸かないまま彼女のタンクトップをたくし上げる。
薄いピンクのブラが剥き出しになった。
「待って・・・外すから」
俺は内心救われたと思った。
何しろブラなんて外した事が無いのだから。
彼女が少し身体をよじるようにして背中のホックを外すと途端にブラが緩んだ。
俺は無言でブラを取り去った。
そこには小振りな彼女の乳房があり、小柄な彼女の身体は思ったよりも華奢だった。
俺は彼女の乳房に顔を埋め乳首を咥えた。
俺はエロ本で見たように咥えたり舌で彼女の乳首を転がしてみる。
しばらく続けていると、段々彼女の呼吸が乱れて来てるのに気付いた。
やがて彼女が息を吐く毎に切ないような、溜め息にも似た声が俺出した。
「・・・こっちも見せて」
俺はもう辛抱出来なかった。
彼女の一番感じる処を見たくてショートパンツに手を掛ける。
彼女が腰を浮かせて無言の同意を示した。

難なく脱がせると上と揃いではないが、ピンクのパンツが目に入った。
やはり最初に目が行く場所は決まってるが、
その部分はもう彼女の愛液が染みてるのが一目で見てとれた。

675人間七七四年2019/01/21(月) 10:22:46.17ID:45bqlGxH
俺は更にパンツも脱がせにかかる。
再び彼女が腰を浮かせてくれた。
足首からパンツを抜き取ったらもう彼女の身体を覆うものは何も無かった。
改めて見ると、彼女の身体は友達のお母さんと言うよりせいぜい上級生の女の子の様な雰囲気だった。
彼女はさすがに恥ずかしいらしく、両手で顔を覆って息をてしている。
俺はゆっくりと両手で彼女の脚に手を掛けて開いた。
初めてみる彼女のヴァギナ。
愛液で濡れそぼってる毛の間にぽってりと小陰唇が見える。
俺は彼女のヴァギナに触れてみた、とは言っても童貞の悲しさ、初めて触るのだからまず形や構造がよく理解しきれてない。とりあえず指で開いてみるのだが、俺の知識では保健体育の断面図しか知らないのだ。
だが、更に拡げてみたところ膣が確認できた。

676人間七七四年2019/01/21(月) 10:24:32.40ID:2FZBbUvX
「乱暴にしないでね」
彼女が恥ずかしそうに言った。
俺は取り合えず舐めてみる事にした。
舌を割れ目に沿わせ、ゆっくり上下に舐めてみる。
初めて味わう愛液の味は少し塩味っぽい不思議な味だった。
しばらく外側を舐めていたが、徐々に割れ目に舌を入れてみる事にした。
やがて俺は割れ目の一番外れの部分に突起を探り当てた。
初めてクリトリスを見つけた訳だ。
クリトリスが女性の性感帯だという事だけは知っていた俺は、そこを舌で執拗に舐め始めた。
俺がクリトリスを責め始めると彼女は明らかに反応し始めた。
「んっ・・・ん・・・」
控えめだが彼女は声を漏らし始めた。
俺は注意深く舌の動きを調整しながら反応を観察した。
どうも舌で周りをねぶったり変化を付けたほうがいいらしい。
「はぁぁ・・・・・そこ・・・感じちゃう」
感極まったように彼女は上ずった声で俺に訴える。
「もっとされたいの?」
俺が聞くと彼女は潤んだ目で頷いた。
再び俺は彼女のヴァギナを激しい舌遣いで責める。
「はぁぁぁ・・・欲しくなっちゃう・・」
彼女は腰をもじもじと動かす。
「待って・・・」
不意に彼女は俺を制止する。

677人間七七四年2019/01/21(月) 10:26:34.56ID:2FZBbUvX
「あなたも脱いで・・」
「うん、じゃあ・・」
俺は彼女に促され立ち上がるとTシャツを脱いだ。
彼女は目の前に立ってる俺のベルトを外し、張り詰めた股間を撫でる。
ズボンの上からとは言え、充分怒張してるのだから思わず腰が引けてしまう。
「脱いじゃおうね」
彼女は俺のジーンズのボタンを外しファスナーを下ろした。
そして片足ずつズボンを脱がせてもらう。
「あぁ・・・凄いね・・・裕仁クンのこんなになってるんだぁ・・・」
感極まったように俺の張り詰めたトランクスを凝視しながら彼女は呟くように言った。
「見せて・・・あなたの・・」
トランクスを下げられ上を向いて怒張してる俺のペニスが露わになる。
彼女は愛しむように俺のペニスを両手で包み込んだ。
「何て硬いの・・・凄い・・・」
感嘆にも似た口調で、溜め息混じりに彼女は俺のものを見つめながら言った。
彼女は愛おしそうに俺のペニスを見つめる。
そしてゆっくりと包皮を剥き亀頭を露出させた。
(俺仮性w)
「・・・・・」
無言のまま俺のペニスに顔を寄せる彼女。
そして亀頭にそっとキス。
俺は敏感な部分を無防備に彼女に任せる。
彼女は舌を出し、ゆっくりと先の割れ目をなぞる。
「うぁっ・・・」
彼女がクスッと笑った。
「初めてだもんね、こういうコト・・・」
そう言うと彼女の舌は再び俺のペニスにまとわりつく。
カリの裏側を丁寧になぞるように舌が這う。
執拗な舌技は予想を遥かに超えるもので、初めて経験するフェラチオに俺は身悶えしかる。
だが、彼女の舌は容赦なく俺のペニスを弄ぶように裏筋をなめたてる。
膝がガクガクする。
俺は言葉もなくただ喘ぐだけだった。
やがて不意に温かい感触・・・彼女は俺のペニスを口に含んでいた。
彼女は口の中で俺の亀頭を舐め回す。
信じられないくらいの快感。
彼女は俺のものを愛しむようにゆっくり首を動かしねぶり続ける。
だが俺は急激に限界を感じた。
「あ、待って・・!」
そう言うのがやっとだった。
彼女の口から俺はペニスを慌てて抜いた。
「イキそうになったの?」
「うん、出ちゃうとこだった・・・」
「ふふふ・・・出しても良かったのに」

678人間七七四年2019/01/21(月) 10:28:00.86ID:2FZBbUvX
彼女は悪戯っぽく笑った。
予想外の彼女の答えに思わず照れが込み上げる。
「もう大丈夫だよ」
俺は照れ隠しに彼女を抱き寄せた。
彼女を抱きすくめると、俺は照れ隠しにわざと少し荒っぽくキスをした。
「んん・・・くぅ・・・ん・・・」
俺に抱き締められながら彼女が漏らす
甘い声に切なくなるくらい愛おしさが込み上げてくる。
しばらくして唇を離すと彼女が囁いた。
「裕仁クンの・・・ちょうだい」
俺は彼女をそっと畳に寝かせ、彼女は俺を受け入れる姿勢を整える。
俺はゆっくりと彼女の膝を両手で押し開いた。
彼女の潤んだヴァギナが僅かに開いて俺が入って来るのを待つ。
俺は腰をゆっくりと沈めながらペニスを彼女にあてがった。
彼女はそっと俺のペニスに手を添えて導く。
「来て・・・」
彼女は俺を見つめる。
「・・・・・」
俺は彼女の割れ目に向かって静かに差し入れてゆく。
亀頭が彼女の割れ目に呑み込まれ中へと入ってゆくのを俺は息を飲んで見つめた。
入り口で少し抵抗を感じたと思った瞬間、ぬるっと半分まで一気に入った。
「んん・・・んっ」
彼女が思わず声を漏らす。
「入った・・・・」
俺は続けて更に根元一杯まで一気に腰を落とす。
「んあっ!」
彼女が仰け反った。
「え、痛かった?大丈夫?」
あまりに鋭い反応に俺は思わず彼女の顔を覗き込んだ。
「違うの、久しぶりに男の人のが入って来たから感じちゃったのよ」
バツが悪そうに彼女は苦笑した。
彼女の中は暖かで柔らかく滑らかだった。
そして俺のものにまとわりつくように密着してくる。
「裕仁クンのが入っちゃったんだぁ・・・・」
彼女が不意に感慨深げに呟いた。
確かに友達のお母さんだと言う事を考えれば普通では考えられない。
俺自身もオナニーする時、彼女とセックスする事を想像してはいたが、こうして彼女を抱いているという事自体、こうしてても夢みたいな心境だった。

679人間七七四年2019/01/21(月) 10:30:16.89ID:KCXyvthf
「動いてみて・・・」
彼女に促され、俺はゆっくりと腰をグラインドする。
思わず彼女のヴァギナからペニスが出入りする様を思わず凝視してしまう。
彼女の愛液にまみれながらその感触に俺のペニスは更に硬さを増す。
だんだん感覚が掴めてきたところで動きを大きくリズミカルにした。
それにつれ、彼女の反応も徐々に顕著に現われ始めた。
「あっ・・・んっ・・・んっ・・・あん・・・」
俺に突かれる度に彼女は声を上げた。
既に俺は絶頂に達しそうだった。
「もう出ちゃうよ・・・」
俺の腕の中で目を瞑って喘いでいた彼女は頷いた。
「うん・・・いいよ・・・中でいって・・・・大丈夫だから・・・」
切れ切れにそう言う彼女の愛おしさに。
思わず俺は力を込めて抱き締めた。
突き抜ける様な快感共に俺は身体を震わせた。

彼女の中で・・・・・

680人間七七四年2019/01/21(月) 10:36:45.91ID:KCXyvthf
夏の盛りに夜とはいえ、締め切った部屋で抱き合ったせいもあって2人共汗まみれだった。
気が付くと夜半に近い時間。
彼女は照れくさそうに立ち上がると下着を付けてトイレに行き、台所からビールを持って来てくれた。
「大人になっちゃったね、今日で・・・乾杯」
そう言って彼女はクスクスと可愛く笑った。
そういえば彼女と乾杯するのはこれで2回目だった。
俺は彼女に貰った缶ビールを一口飲んで友人の事を思い、苦笑いした。
この後、夏休みが終わるまで毎日ヤリに行ってました。
1年後別れたっていうか、友達に俺達の関係がバレてしまって、そこで終わりました。
なにしろ田舎な上に市営住宅ですから、彼女も不特定な男性との交際が噂になりやすいせいもあって離婚以来セックスを殆どしてなかったそうです。

681人間七七四年2019/01/21(月) 11:08:12.69ID:C4xFzpwO
どうやら世界史板の食スレを荒らしているのと同じ人間が荒らしているみたいだな。

682人間七七四年2019/01/21(月) 11:35:05.35ID:fATDgmOS
ヒロヒト君サイテーだな

683人間七七四年2019/01/21(月) 12:30:10.53ID:fATDgmOS

684人間七七四年2019/01/21(月) 20:34:25.83ID:EAkodDCs
>>681
かれらは嫉妬とレイプとトンスルが国技だからな

685人間七七四年2019/01/21(月) 22:07:09.62ID:y1eQSZez
大阪夏の陣の後、京都にて大坂での働きの良し悪しについての御詮索が行われたが、或いは伝長老
(金地院崇伝)に相申したるという人もあり、または宗哲法印(片山宗哲)に相たるという人もあり、
或いは自分たちで互いに言い合って証人に相立ちたる人もあった。事おかしき証人である。

昔は出家や医者などを武辺の証人に立てるような人に対しては、中々付き合いもしなかったものだが、
今の世は末世にも成り、出家と医者が武辺の脈を取り、或いは察すれば武辺と成るようだ。

又は、度々武辺をした者を、昔は武辺の証人として立てたもので、その生きている間に敵の顔が
赤いか黒いかも知らぬような者を、武辺の証人に立てるような事は、笑って腹筋が痛くなるほど
おかしな事である。
(又は度々の武辺したる者を、昔は武辺のせう人には立て有に、一代之内敵のかほの赤きも黒きも
しらざる者を、武辺のせう人に立る事、腹筋のいたきほどおかしき事なり。)

相国様(徳川家康)はもとより度々合戦を経験した、日本では勿論異国までも隠れなき御武辺第一の
相国様であるが、おかしく思われながらもそれなりに対応し打ち置かせられているので、そういった
報告をした者達で自分の説明が通ったと武辺顔をしている者も多い。しかしそれを、古き武辺者たちは
目引き鼻引き笑っているのだ。

(三河物語)

686人間七七四年2019/01/22(火) 04:13:57.36ID:lazxmLUg
叛賊の光秀が予め計っていたことには、

「柴田勝家は越前北庄に在城して越後の上杉景勝と対陣し、羽柴秀吉は毛利という大敵と合戦の最中、
佐々成政は越中にあって道は遠い。滝川一益は関東にあって北条を気遣い、容易に出軍は叶うまい。
三七信孝と丹羽長秀らは大坂にあって未だ四国へ発向していないから、この輩は弔合戦をしようと引
き返し、押し寄せるかもしれないと思う。

しかしながら、その中の織田七兵衛信澄(津田信澄)は光秀の婿である。その上、信澄の父・武蔵守
信行(信勝)は弘治3年(1557)に謀叛して信長公のために誅せられた遺恨もあるから、必ず我
に味方するはずの者ぞ」

と内々に頼み遣わすと、信澄は早速一味した。この時は四国発向のために順風を待ち合わせ、信孝を
始めとして丹羽長秀・蜂屋頼隆も共に大坂城にいた。信孝・長秀は本丸に住し、信澄は二の丸にいた
ところを、光秀は謀を授け、「もし信孝を謀り殺したならば、その恩賞として摂津を半国授けよう」
と申し遣わしたのである。

信澄は願うところの幸いと大いに喜び、諸々謀を巡らせたが、その陰謀はたちまち露見した。信孝は
丹羽・蜂屋らと相談し、「それならばまずは光秀誅伐の手始めに、逆党である信澄を誅戮する!」と
軍勢を催し、二の丸を取り囲んで鉄砲を厳しく撃ち掛け攻め寄せた。

信澄も「覚悟したこと!」と手勢を指揮して手強く防戦しようとしたところ、その家人・匂坂民部丞
は「逆意であるからとても打ち勝つ戦にあらず」と思ったのか、丹羽に回忠して寄手を二の丸に引き
入れ、信澄はついに叶わずして上田左太郎重安(宗箇)のために首を取られた。

光秀がこれを聞いて肝を潰し、狼狽したことこそ浅ましいことである。

――『改正三河後風土記』


大坂には三七殿と惟住丹羽五郎左衛門殿、織田七兵衛殿の3人とその他小大名衆4,5人がおられた。
惟住五郎左衛門殿の所より秀吉が承ったことには、

「近日中に姫路へ御帰城の由を承りました。早々に御馬を急がされよ。拙者の次第も御弔合戦一つを
志してはおりますが、御存知のように七兵衛殿は日向守の婿であるため、きっと内心は一味同心であ
ると推量致して前の疑いは果てぬ故、大坂を出立しないのはそれが理由なのです。後から様子につい
ては追々注進させます」

と五郎左衛門殿より道中への早飛脚があったと、相聞こえ申し候事。

(中略)

これは羽柴筑前守殿の所から丹羽五郎左衛門殿への御内心と聞いている。

「織田七兵衛殿は日向守と本心は一味同心であろうと存ずる。三七殿と仰せ談じられて、七兵衛殿を
御討ち果たしなさるのが御もっともと存ずる」

この筑前守殿の御内心と、五郎左衛門殿も内々は判断を同じくしていたので、七兵衛殿の御座所の大
坂本丸の外、千貫矢倉へ押し寄せて鉄砲ずくめにして攻撃致され、道理も表裏もなく七兵衛殿を討ち
果たしたのだと聞いているが、まさしく明智合戦は収束した。

(あや表裏なく打果し申と聞え申候扨こそ明智軍はおさまりけり)

――『川角太閤記』

687人間七七四年2019/01/22(火) 05:39:16.44ID:mhxHrSOm
大坂城ってあったのか

688人間七七四年2019/01/22(火) 08:13:54.80ID:PazeiqiM
>>687
名前は知らないけど、本願寺を応急措置で修復したものでしょ
ここを本格的な城にして安土の後の居城にするつもりだったって話もあるよね

689人間七七四年2019/01/22(火) 13:06:07.36ID:E7+m/5a+
岩手県では、歯痛が起こるとおまるの内側にこびりついているカスを削り取って虫歯の穴に詰めたという。

秋田県では、便所の溜の中に竹コを入れておくと節から節までの間にきれいな水が溜まるので、それを悪い物を食べたりきのこにあたったりした時に飲むという。

静岡県では耳だれの時、便所つぼの縁の汁をつけるとよく利くという。

クソ食いが国技のジャップwww

690人間七七四年2019/01/22(火) 15:48:59.00ID:wQulmgG9
>>689
歯に詰めるのは正露丸じゃないのか?

691人間七七四年2019/01/22(火) 16:04:22.59ID:vXZ3wd4s
>>690
本来は糞だよ、正露丸は代用品

692人間七七四年2019/01/22(火) 17:27:20.77ID:5sZTG+Jr
>>690
相手にするなよ

693人間七七四年2019/01/22(火) 17:37:14.31ID:Eks1QXVO
>>692
誰からも相手にされないので哀れにも自作自演をやってる

694人間七七四年2019/01/23(水) 01:53:05.64ID:28mmi28N
とクソ食いが発狂しています

695人間七七四年2019/01/23(水) 10:31:21.12ID:uyuZXSnc

696人間七七四年2019/01/24(木) 03:48:09.63ID:wqDfmpXE
子のなき者はつる葉をも捜し求め


(文禄四年)四月廿三日

太閤様(秀吉)は関白様(秀次)の此度の御嘆き(弟・秀保の死)を気の毒に思し召し様々なことを
仰せられたので、(秀次)は良きついでと思し召して
「脇(側室)に子がありましたが、太閤様がどのように思し召されるだろうかと思い
 御沙汰をしていませんでした」
と申し上げられると、(秀吉は)
「どうして左様のことを隠していたのか。めでたいことで言い分などない」
と仰せられた。

また(秀吉は)ついに北政所様(ねね)にも
「子のなき者はつる葉をも捜し求め養子にするが、幾人御子にしても満足することはないものなので
 (秀次の子について)不満はない」
と仰せられ、北政所様より(秀次の)内儀、大上様(日秀尼)、小少将*に(そのことの)仰せがあった。


――『駒井日記』

* 同一人物かは不明だが、秀次事件で同名の人物が秀次の妻妾として連座している。

697人間七七四年2019/01/24(木) 08:41:23.08ID:VBDop7/k
手当たり次第に強姦か 民族性が伺えるな

698人間七七四年2019/01/25(金) 22:22:58.26ID:r9OmiDI6
(清州会議後)

吉法師様への御礼次第の目録を作るにあたり、秀吉は信忠様に御目を掛けられたことを仰せになって、
吉法師様の御守りを望みなさった。これを柴田殿(勝家)ら各々は感心され、秀吉は大名衆の目録に御
入りにはならなかった。

吉日の日が来ると、御一家衆(織田一族)はもちろんのこと、大名小名も残らず太刀折紙を御持参と定
め、御一家衆などは早朝に並み居って伺候なされた。

吉法師様は御月代になされて長袴に小さ刀だけで、秀吉は上段に厚畳を2畳重ね、座布団の背後の上段
3分の1ほどに屏風を立て回し、その裏側に上臈衆や御乳の人を御置きになられた。

秀吉が若君様を御抱きになられて上段に上がりなさるのと等しく、御礼事は始まった。三七殿(織田信
孝)と成心(常真。織田信雄)、その他の御一門中は御目録の如く御礼され、次第次第に事は納まった。
これは直接の御参上である。

大名衆の目録は柴田修理殿が参上し、その他も目録の如く目出度く納めたと聞こえ申し候事。

屏風の陰に御乳人や上臈衆を御置きになられた御判断は、吉法師様が御存知のない供を御覧になられて、
御機嫌を損ねた場合は御乳の人を呼び出し、御乳などを差し上げなさるためである。その他に不断に御
側に付き添い周られている上臈衆を皆々屏風の陰に御入れ故、御機嫌を一度も損ねなかった。

考えのまわる衆中はこの様子を見出し、目配せや鼻で合図して陰で笑いなさった。その子細は、

「御一家衆の御礼を始めとして、直接の御参上である。謹んで頭を地へ付けられて御礼なされているが、
筑前守殿は若君様を御膝の上に置かれて、少し頷きなさっているだけで、まことまことに上様が御礼を
御受けなさるような作法と、ちっとも違わぬように礼を御受けになられている。

柴田修理亮や滝川左近(一益)、丹羽五郎左(長秀)などにとっては猶更上様の位のように拝見致す」

前述に申し上げたような考えのまわる衆は「あれを見なされ。筑前守を上様とあがめるのは、すなわち
筑前こそ上様。御一家衆も柴田を始めとした皆々も、筑前に欺かれたのだよ」と内密に笑いなさったの
だと聞いている。

しかしながらその御礼は目出度く納まり、大名高家に至るまで宿々へ帰られたと聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』

699人間七七四年2019/01/26(土) 20:19:07.24ID:jQx+upVJ
(賤ヶ岳の戦いの時)

20日の夜に入り、秀吉は賤ヶ岳山の麓に夜に紛れて御入りになった。その隣の百姓どもを呼び出され、
この頃の陣取りの事なので、百姓どもに敵の陣取りの次第を御尋ねになられると、一々にこうであると
申し上げた。

「それならば汝は案内をよく知っているだろう。筑前守の者を汝に付けよう。頼む」と秀吉は仰せられ、
金1枚を遣された。「難無く戻ればまた2枚を遣しましょうぞ。この者を連れなさって前田又左衛門殿
(利家)の陣へ紛れ入りなされよ」と仰せになれば、その百姓は「大形山をつたって参りましょう」と
御受けし、秀吉は申状を御書きになり、前田又左衛門殿へ遣しなさった。

「夜に紛れてここまで参着しました。敵の人数を残さず引き付けた時には、篝火を数を尽くして燃やし
ます。火が多く見えたならば、明日の合戦と思し召されよ。合戦を結んだ時には裏切りを願い奉りたく
存ずるが、かねてよりの御心中は存じておるので、はっきりと裏切りにはなられますまい。

合戦に御構いなさらぬことは裏切り同様でござるので(合戦に御かまひなき事裏切同前に御座候間)、
そのように御心得なされたい」

このように仰せ遣わしなさると、又左衛門殿からは、

「それでは茅野まで夜に紛れて御着きになられたか。篝火のことは心得申した。仰せのように裏切りは
御容赦なさって頂きたい。外聞は如何なものかと存じます(如御意裏切は可被御免候外聞如何と存候)。
明日の御合戦では、御指図のように双方ともに構いますまい」

との御返事であったと相聞こえ申し候事。

(中略)

前田又左衛門殿は、自城の越前の府中に難無く父子ともに入りなさった。この城は柴田殿(勝家)の家
城から道を5里隔てた近江の入り口である。又左衛門殿は「秀吉は早々にここへ気負いして攻め掛かり
なさるものであろう」と思案された。

裏切りを確かにしてこうと見えればこそ、秀吉も御満足と思し召されようが、そうではなかった(裏切
をも慥かにして角と見えはこそ秀吉も御満足とは可被思召に其儀はなし)。

身の上も危うく思いなさったということなのか、又左衛門殿は「まずは城の総構えに鉄砲を配置せよ!」
と子息の孫四郎殿(前田利長)を出され、あちこちに鉄砲を配置し今か今かと御待ちになったのである。

――『川角太閤記』

700人間七七四年2019/01/27(日) 20:25:23.11ID:RsuwMCIe
(賤ヶ岳の戦い敗戦後)

佐久間玄番(盛政)は賤ヶ岳の御合戦より越前敦賀の奥の在郷へと赴き、主従3人で百姓の家に立ち
寄ったが、百姓めらに棒ずくめにして召し捕らえられた。

秀吉はその百姓めらを召し寄されて、褒美なされようとした。「手伝い致した百姓めらも皆々参れ」
と仰せになり、百姓は御褒美を望んで「我も手伝いました!」「我も我も!」と申し、その召し捕ら
えた家に入っていたような者12人を召し寄せられた。

秀吉の御思案には「合戦の勝ち負けは世間の習いである。秀吉が負ければ、今日は人の身の上、明日
はまた自分の身の上である」と思し召しなされ、「百姓には似合わぬ事を致したものだな。見せしめ
のために、褒美として機物(磔用の刑具)にあげよ」と仰せになり、その時の12人を機物に御あげ
になられた。

これは明智を討った百姓の時とは異なっておられた。討手に罪の軽重があったからである。

(中略)

三七殿(織田信孝)は野間の内海で御切腹を仰せ付けられた。その時の御辞世に、

「むかしより主をうつみのうらなれは むくいをまてやはしはちくせん」

――『川角太閤記』

701人間七七四年2019/01/28(月) 22:54:14.43ID:NfnBdDvr
又々ここに不審な事がある。犬打ち童に至るまでの人々が、本多佐渡守(正信)が、大久保相模守(忠隣)を
讒言したのだと言っていることである。
そのような事、人が知るはずもない内容を申している

そもそも本多佐渡は相模守の親である七郎右衛門(忠世)の重恩を受けた者であり、恩を忘れてどうして
そんな事をするだろうか。それは事情を知らない人の無責任な噂に過ぎない。
相模については、子の主殿を初め我々こそ知らないまでも、きっとその身の科も深かったのであろう。
その上であっても、佐渡が讒言するようなことはゆめゆめ有るまじきと、今においても思っている。
町人や民百姓まで正信が讒言したと申す理由はどう言うことかとも思うが、そういう事も有るかと、
不審では有るが、ともかくよく解らない。

佐渡について、若い頃はむごい人物だという評判はあったが、歳も寄り定めてその心も直ったのだろう。
佐渡守が若い頃には、七郎右衛門が朝夕の食事の援助をし、その女子供に対しても塩、味噌、薪に至るまで、
同じく援助し、彼が御敵を申して他国へ駆け落ちした時も、女子供を援助し、その後家康公へ御詫言を
申し上げて帰国し、先ず隼鷹匠と成り、その後色々と取り成しを申し上げ、四十石の御知行を申し受けて
出仕したが、その後も援助した。

このため、佐渡は年末年始には必ず、嘉例として大晦日の飯と元三(正月三日)の飯を七郎右衛門の家にて
喰った。関東へ移った後になっても、江戸にてその嘉例を続けたほどの佐渡である。どうしてその恩を忘れる
だろうか。

七郎右衛門が果てる時も、佐渡守を呼んで遺言に、相模に不沙汰無きようにと頼み入って果てたのだ。
その時も佐渡は七郎右衛門に向かって、「どうして不沙汰などしましょうか、御安心あれ。」と、しっかりと
申したというのに、その心を引き違えて讒言するようなことが有るだろうか。

昔は因果は皿の縁を巡る、などと言っていたが、今は巡ること無く直ぐに向こうに飛ぶようだ。
今においてはどうかとも思うが、人々が囁いている事は、そのように思われる。
良い因果は報われても見えにくく、悪しき因果が悪しく報いるのは見えやすい。そういう事であろうか。

佐渡は相模守御改易の後三年も経たずして顔に唐瘡が出て、顔崩れ奥歯の見えるほどに成りそのまま死に、
子である上野介(本多正純)は、御改易となり出羽国由利へ流され、その後秋田へ流され佐竹殿に預けられて、
四方に柵を付け堀を掘って番まで付けられた。人々が因果であると申し習わすのもこれでは仕方がないかも
しれない。

相模守の御改易も、大うす(デウス)御大事の御仕置きと有って京都に召し遣わされ、その後御改易となり、
また上野介御改易の時も、最上の仕置すべしと仰せ付けられ召し遣わされて、その後にて御改易を
されたのであるから、同じような状況であり、故に「讒言申した因果の報いか」と、世間にて犬打ちの童まで
申したのだろう。

(三河物語)

702人間七七四年2019/01/29(火) 13:03:27.94ID:oqMmLcgF

703人間七七四年2019/01/29(火) 17:46:00.29ID:Wr+hP5vY
(賤ヶ岳の戦い勝利後)

その年も暮れていけば、秀吉は大坂の城に御入りとなられた。年が明ければ尾張へ取り掛かって、
常真(織田信雄)を攻めなさろうと思し召し、

「私は水攻めで2つも3つも城を落とし遂せたのである。尾張の国は水攻めになる国だぞ。その
故は、ことのほか大河があって、少しの水でも国中へ暴れるからだ」

と秀吉は仰せになり、

「皆々皆々よ、さてさて御気を付けなさるのですぞ! 熱田辺りを丈夫に御塞き止めなされば、
国中は水に落ち込むことであろう。その用意をせよ!」

と御分国の鍛冶に鍬・鎌・斧などを仰せ付けられ、ならびに明俵をおびただしく御用意なさった
と聞こえ申し候。また、伊勢・近江・美濃の山々で枠の木などを仰せ付けられた。

(中略)

その年申の4月9日に、家康卿と秀吉との長久手の御合戦の次第は書き付け申し上げるに及ばず。

秀吉は大坂に御馬を入れられ、家康卿を何とぞ御引き付けなさりたいと思し召された。前述の水
攻めの御謀を仰々しくなされたので、東の常真方では恐れ慄く心をも抱き、

「秀吉が多勢を引率して当国に向かわれることは必定なり。当国は水が国中へ落ち込む国なれば、
ただ秀吉に御従いになられることが御もっともです」

と常真に申し上げれば、常真は悪心得で「さては家中は筑前守に内応でも入れたのか」と前疑い
なさったと聞いている。この事が秀吉に伝わり聞こし召され、秀吉はそれならばと思し召して家
中を御手繰りなさった。

常真の御家中の津川玄番(義冬)・岡田助三郎(重孝)・滝川(雄利)・浅井(長時)・丹宮の
5人に御状を送り付けられて、様々に御手繰りになられた。

この事を常真は聞こし召されたのか、岡田助三郎のことを土方彦三郎(雄久)に仰せ付けられて、
かの彦三郎が天守で助三郎を抱いたところを常真が手討ちになさったのだと、聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』

704人間七七四年2019/01/30(水) 14:48:21.48ID:BCfrZ7lK
池田恒興の犬山城略取に対する恩賞


賤ヶ岳の戦いの後秀吉と織田信雄の関係は悪化し、天正12年3月13日に池田恒興が犬山城を占拠した。
下記はそのことに対する恩賞について、秀吉から恒興の母(養徳院)に送られた手紙。

今度の勝三(恒興)の犬山の御手柄は、中々お礼を申せるようなことではないのですが
尾張一円(一国)を勝三に差し上げるつもりです。また藤三郎殿(長吉)に美濃稲葉の知行を相添えます。
それゆえ、あなたさまにまで一筆進上しました。恐々謹言。
 勝九郎殿(元助)へはあなたさまに内密に申し上げた通りですので、御心を安くしてください。以上。 
  
    三月廿三日           秀吉(花押)
               秀吉
おおちさま(養徳院)            ちくせん


――『原富太郎氏所蔵文書』

恒興と元助が小牧・長久手で討ち死にしたため、実際には尾張一国を貰うことはなかった。

705人間七七四年2019/01/30(水) 19:25:29.45ID:MBkW3Zlu
(柴田勝家の自害後)

秀吉は越前の国まで御上りになられ、越前一国と加賀半国を丹羽五郎左衛門殿(長秀)に進ぜられた。

そういうわけで、佐久間玄番(盛政)は賤ヶ岳の御合戦より越前敦賀の奥の在郷へと主従3人で百姓の
家へ立ち寄ったが、山路を伝った故に、ときを踏み杖にすがり、百姓にもぐさを貰ってときの口に灸を
致した。

家中の者は主人を装って「あの者は我々が召し連れている者で、ことのほか草臥れているから食べ物を
買い申したい。早く早く焼いてくだされ」と頼んだ。すると百姓めらは、「あのときを踏んでいるのは
主人だ。2人の者はとき踏みの家中の者か」と心中で見及び、「食べ物を焼かせて売りましょう。その
間に御休みなされ」と申して騙したのである。

そして百姓らに言い聞かせ、主従を棒で押さえ付けて召し捕らえたところ、推量したようにとき踏みは
佐久間玄番で2人は玄番の家中の者だった。

召し捕らえたことは同国北之庄に注進された。秀吉の御心には「無情にも縄を掛けたものよな」と思し
召されたが、是非に及ばぬ事の成り行きである。

秀吉は御心をもって玄番の縄を解きその身をゆるゆるとさせ、乗り物に乗せて道中を良いように労り、
それから「ただちに上らせよ。場所は宇治の槇島に置けよ」と仰せられて、道中を良く労わって玄番を
槇島に置いた。しかしながら、御番は堅く仰せ付けられた。

秀吉はその百姓めらを召し寄され、「百姓には似合わぬ事を致したものだな。見せしめのために、褒美
として機物にあげよ」と仰せになり、その時の12人を磔になさった。(>>700

――『川角太閤記』

“とき踏み”って何だろ…

706人間七七四年2019/01/31(木) 10:52:12.23ID:a/3DMyKC
流れからして、鋭い物かな?
「鋭き」って「とき」とも読むらしいけど。

707人間七七四年2019/01/31(木) 13:45:06.32ID:h4t6uh2G
天文十三年八月十一日、一条戻橋にて一人の男が処刑された。
男の名は和田新五郎、三好長慶の配下である。
新五郎は将軍足利義晴の嫡男、菊童丸(義輝)の世話係の女房と密通した罪で捕縛されたのだ。

新五郎の処刑は後に長慶と対立することとなる義晴・晴元の裁定によって行われたという。
その方法は凄惨なものだった。
新五郎への刑罰は「鋸挽き」と決まったのだが、まずはじめに縛り上げられ身動きの取れない新五郎の右手が鋸で切り落とされた。
次に苦しみ悶える新五郎の左手が切り落とされる。最後に頸を落とされ、漸く新五郎は絶命した。
続いて新五郎と密通した女房も一糸纏わぬ姿で洛中を引き回された上で、六条河原で首を打たれた。
この処刑は当時としても残忍な仕打ちとして都の人々に受け止められ、山科言継は日記に「前代未聞」と記している。

後に長慶は主君・晴元に対して反旗を掲げることになるが、この頃には既に晴元(と義晴)との暗闘が始まっていたっぽい話。

708人間七七四年2019/01/31(木) 14:15:07.03ID:hUh1KEi1
>>700>>705
百姓カワイソス…

709人間七七四年2019/01/31(木) 14:44:27.80ID:CgHfjAJq
>>705
文脈からだと刺じゃね

710人間七七四年2019/01/31(木) 20:45:58.89ID:VSKpX2dp
織田信雄について、今の人が彼を「ノブヲ」と云うのは誤りである。本来は「ノブヨシ」である。
永禄の御湯殿上日記に、「今日織田ののぶよし参内」とあるのは、信雄の事であると、村井敬義が
語っている。

伊勢貞丈曰く、「私の同僚に、昔の土方勘兵衛(雄久)の嫡家の人が有るが、昔勘兵衛はこの信雄から
一字を賜ったとして、代々雄の字を通り字としている。今の亥之助は、実名を雄忠と号している。
先祖より代々雄の字をヨシと唱えている。

(安斉随筆)

マジすか伊勢貞丈先生。つか江戸中期はノブヲ呼びが一般的だったのか信雄。

711人間七七四年2019/01/31(木) 21:24:51.97ID:hUh1KEi1
>>710
そんな近い時代でさえ読み方論争があったのかw

712人間七七四年2019/01/31(木) 21:43:06.46ID:jlsrvXNy
土方雄久って、雄を貰った時は雄良を名乗ったんでしょ?
"よしよし"だったのか?

713人間七七四年2019/01/31(木) 21:43:24.47ID:bXFoRI6t
ノブカツの読み方はいったいw

714人間七七四年2019/02/01(金) 08:56:27.56ID:d8IU6Pkh
信雄の読みについての考察は別の逸話でもあったな

715人間七七四年2019/02/02(土) 20:51:07.26ID:AAgREs3T
楢村長高(長教)の室町殿日記を参照すると、三好筑前守義長(義興)は、将軍足利義輝の命を奉じて
泉州備前入道并びに同伊勢守(伊勢貞孝)を誅伐した。であるのに賞が行われず、義長はこのため、
備前入道の闕所を賜って従卒を扶助しその功を賞せんと考え、これを所望したが、賜ること無く、
義輝は彼の地を一円に伊勢加賀守(貞助)に与えた。これ故に三好義長は公方の御料所の代官を
私的に置き換えてその年貢を抑えようとした。公方は役人を下して三好の代官を追い払おうとするも、
三好は家人を遣わして公方の役人を追い払い年貢を横領した。

これ以降、公方より度々討手が向けられたが、毎回討手は敗北し、終には三好が御所を囲み攻めた。
そのため義輝は自害した。永禄8年5月19日の事である。尊氏将軍の嫡流は13代にて滅亡した、
それも義輝公が愚弱だったためである。

(安斉随筆)

伊勢貞丈先生、さすが足利義輝に厳しい。

716人間七七四年2019/02/02(土) 23:46:05.23ID:wsG0sIic
山科言継の日記でも義輝はあっさり切腹してるけど、討手と派手に斬り合いをして討死する話は後世の創作なのかな

717人間七七四年2019/02/03(日) 02:18:11.18ID:OUxu/OA4
岩手県では、歯痛が起こるとおまるの内側にこびりついているカスを削り取って虫歯の穴に詰めたという。

秋田県では、便所の溜の中に竹コを入れておくと節から節までの間にきれいな水が溜まるので、それを悪い物を食べたりきのこにあたったりした時に飲むという。

静岡県では耳だれの時、便所つぼの縁の汁をつけるとよく利くという。

山口県では二日酔い覚ましに水で溶いたものを飲むとよく効くという。

愛媛県では好んで鹿のフンを焼いて食う。



クソ食いが伝統文化のジャップwww

718人間七七四年2019/02/03(日) 11:38:10.32ID:klR63awt
ウンコ大好き😘

日本人🐒

719人間七七四年2019/02/03(日) 18:29:38.39ID:Jzo4Auel
天正5年(1577)丁丑10月、和泉信貫山城を攻めた。松永弾正少弼久秀は大坂の付城を
守っていたが、信長公に恨みを含んで本願寺門跡の雑賀の兵と語らい、大坂を退いて信貫山城
に立て籠もった。

その故は、家康公が御登城の時に久秀は参会し奉ったのだが、信長公は家康公に向かって曰く、

「この翁は松永久秀である。この翁は、天下に及び難き事を多く行った。公方義輝を戮し奉り、
主君の三好義長(義興)を毒殺して三好一家と戦った。東大寺を焼いて大仏を滅し、三好長慶
の二男である左京大夫義継の間に入り、永禄8年(1565)から同11年まで天下を守って
大いに奢り、ついには義継を離れて殺害したのだ」

久秀は赤面して額に汗をかき、頭からは煙が立った(久秀赤面シ額ニ汗シ頭ヨリ烟ヲ立)。そ
の憤りによって謀叛を企てこの次第となった。

10月、城介信忠は大軍を引率して和泉を御進発され、佐久間信盛・明智光秀・筒井順慶など
は大坂の対城を出て河内より向かい、その途上で久秀の従党である片岡城を攻落し、城主の森
(正友)・海老名(友清)を討ち取った。

10月5日、信忠は信貫山城で会戦して久秀とその子の久通を攻めるが、父子は防戦して味方
に利せず。時に信盛は順慶と相談し、雑賀の兵を謀って信盛の兵を紛れさせ、城中に入ろうと
告げ、順慶の兵と追い掛けたり返したりして挑み戦った。

そのようなところで、久秀は予め雑賀の者と申し合わせていたので、城門を開いてこれを引き
入れ、信盛の兵も紛れて城中に入った。10月10日、その手引きで信盛と順慶は城へ入って
火を放った。

久秀は天守に登り「たとえ骨になろうとも信長の最期を見届けてやる!(タトヘ骨トナリテモ
信長ヲ見ハテン物ヲ)」と言って、自殺した。右衛門佐久通は生け捕りとなって切られた。

久秀の悪逆は積り、東大寺を焼いて大仏を滅したのも10月10日である。その日に至り滅亡
したことは「世にも不思議なことをなした」と言われたという。同年10月、播磨を羽柴秀吉
が賜った。

――『佐久間軍記』

720人間七七四年2019/02/04(月) 08:29:26.29ID:ab2WtWuB
だれが義継を殺したんだったか
と思ったら佐久間軍記か

721人間七七四年2019/02/04(月) 16:32:09.53ID:xX5vEmhQ
久秀に誘われて信長包囲網に加わったのに久秀だけ先に降伏したから久秀に殺されたともいえる

722人間七七四年2019/02/05(火) 20:27:29.27ID:95aPpVc+
銭96文を「百文」というようになったのは、上杉憲政の家老、長尾伊玄(景春)という者が制を立ててより
始まった事である。長尾が曰く、敵国に入り町人地下人逃げ散りその地に居なく成れば、軍に従って来た
小身の中間などは少しの者も買うことができなくなる。つまり取り鎮めても豊かでなければ、銭も使用
出来なくなるのである。逆に豊かな世では、欠漏があってこそ長久の政であるので、銭を96文にして
4文づつ欠けたほうが良い。その上32文づつ3つに分け、32文を4つに分ければ8文となる。このように
計算できるので使い勝手も良いと、96文を以て百文とし、960文を一貫文と定めた。

(安斉随筆)

実際に中世は銭百文未満を百文とする慣習があったようで。で省陌(せいはく)という慣行だったそうです。
それにしても上杉憲政の家老が長尾景春とか、まあ史実的にはむちゃくちゃですね。

723人間七七四年2019/02/06(水) 10:46:49.92ID:pnyl82Jx
96進数...

724人間七七四年2019/02/06(水) 13:39:06.31ID:FiKxO/hS
景春がいつだしたのかはわからないけど、wikiみると永正二年の撰銭令が日本での初出なのかな?
西国だと80枚75枚と地方によって違いがあるみたいだね
てか、維新後に禁じられるまで慣例として通用していたのか

725人間七七四年2019/02/07(木) 00:59:18.95ID:3cF+4286
元和六年二月五日付
長舟十右衛門宛 細川忠利書状より

吉田にていただいた水差しですが、政宗(原文ママ)が無理に取ってしまいました。
不便で迷惑しております。
もし国産の水差しができましたら、一ついただきたく思います。
いつもいただいている御道具で数寄を嗜むことができ、忝いことです。

伊達政宗、細川忠利から水差しを奪っていたという話。

726人間七七四年2019/02/07(木) 05:35:29.89ID:RuVOwh95
呼び捨てw

727人間七七四年2019/02/07(木) 14:25:34.01ID:lGDi4mrv
>>725
ワロタw

728人間七七四年2019/02/08(金) 10:11:00.86ID:JqmSKtn5
DQN四天王迷惑w

729人間七七四年2019/02/08(金) 10:27:57.27ID:daUYsr3e
中に小便を入れて返すまでがデフォ

730人間七七四年2019/02/08(金) 12:04:18.83ID:CuHW1AF+
>>725
こいついつも人の物パクってんな

731人間七七四年2019/02/08(金) 17:15:27.10ID:NxXWbqM3
本多平八郎(忠勝)死去の時、家臣の大谷三平という者が、追腹を切って殉死した。
その大谷の草履取りがさらに追腹を切ったのだが、このときの辞世の句

『死にともな あら死にともな さりとては 君のなさけの今はうらめし』

(安斉随筆)

追腹の追腹というのは、仕方ないけどさすがに不本意、みたいな感じだったんだろうな。

732人間七七四年2019/02/08(金) 23:42:54.67ID:WGPZr6ec
>>725
ここは喧嘩両成敗ということで半分にして双方で持とう

733人間七七四年2019/02/09(土) 18:45:55.75ID:vR7mGeIJ
>>731
まとめの1047
「殉死と本音・悪い話」で出典不明で一応既出

734人間七七四年2019/02/10(日) 07:29:58.83ID:4nGBoZpj
織田備後殿(信秀)からの、息子信長への遺誡のうちに、「大利を得た場合、其の勢いをよく養えば
敵国は自然に滅びるものである。」というものがあった。
この事を柴田勝家はよく知っていた故に、賤ヶ岳の戦いの際、中川清秀の砦の急襲に成功した
玄蕃允(佐久間盛政)に急ぎ引き取れと、使者数度に及んだが、玄蕃はそれを用いず自分の戦果を誇る
様子が見えた。

或いは曰く、このように玄蕃允が下知を用いないのであれば、勝家が早々に進み来て、玄蕃を引き立て
同道し引き取れば良かったのではないか。秀吉ならばそうしただろうと、心ある人は悔やんだという。

(甫庵太閤記)

735人間七七四年2019/02/10(日) 10:07:48.49ID:4tVhPuK3
ジャップ壊れてるなー
歴史に何も学ばないサルしかいないのなw
https://twitter.com/AcStjw8Bsigzx2c/status/1093390578362941440/video/1
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)

736人間七七四年2019/02/10(日) 14:33:09.70ID:qKn6gYUk
以下は秀吉が越中征伐の際、従軍する加藤光泰に送った陣立書。


越中江先勢遣覚

  一番
前田又左衛門殿(利家)     壱万

  二番
羽柴五郎左衛門殿(丹羽長重)  弐万

  三番
木村隼人佐殿         三千
堀尾毛介殿(吉晴)       千
山内伊右衛門殿(一豊)     七百
佐藤六左衛門殿(秀方)     弐百
遠藤大隈守殿(胤基)      弐百
遠藤左馬助殿(慶隆)      弐百

  四番
加藤作内殿(光泰)       千
池田三左衛門殿(輝政)     三千
稲葉彦六殿          千五百
森仙蔵殿(忠政)        千五百

  五番
民部少輔殿(戸田勝隆)     二千五百    
蒲生飛騨守殿(氏郷)      三千五百

  船手衆
因幡衆            二千
長岡越中守殿(細川忠興)    二千
  以上
信雄         馬廻  五千
  都合五万七千三百

  七月十七日秀吉(朱印)
      
      加藤作内とのへ

――『陸奥国棚倉藩主阿部家資料』

大軍を率いる丹羽長重は若干十五才であり、家中の統制が利かなかったのか
越中において家臣が寺院への乱入や殺害行為をし、軍律を犯したとされている。

737人間七七四年2019/02/10(日) 15:00:19.34ID:bCEsbCEB
毛介・・・
清廉潔白すぎて獄死しかけた御仁か

738人間七七四年2019/02/10(日) 16:17:09.60ID:Lt9hqGKI
今も昔も属国

碧蹄館の戦いの後、後退した明軍が開城に入りしばらくすると、軍糧が尽きた。朝鮮側は明軍のために各地で食料をかき集めたが足らず、情勢は緊迫していた。
明軍の李如松提督の部下の諸将が、軍糧が尽きたことを理由として、軍を撤退させることを提督に要請した。
提督は軍糧を用意できない朝鮮朝廷に怒り、柳成龍ら朝鮮朝廷の要人を呼び出し庭に跪かせ、大声で叱責し処罰しようとし、柳成龍は涙を流し謝罪した[

739人間七七四年2019/02/13(水) 00:14:41.65ID:WTqP41ZB
(柴田勝家自害の時)

勝家の家城である北ノ庄に前田又左衛門殿(利家)は真っ先に着かれた。城と寄り口との間に川一つあり。
その川に橋があって“北ノ庄の石橋”と申すはこれなり。

10間ほどの桁行短い淀みの橋があったが、これを渡らずに西の地に“愛宕山”という山があって、又左衛
門殿はその山に陣を取りなされた。そこに御旗本の先手の御人数が早くも到着した。

又左衛門殿の下知により、川端に又左衛門殿の手勢の人数が立てられた。橋口を又左衛門殿は心掛けられ
て一番に渡ろうと思われたのか、先手の御人数さえも橋口を渡らずに、主の手回りだけの人数で橋口を固
められて、又左衛門殿自身はまた愛宕山へ登って待ちなさった。

そこへ秀吉が早くも愛宕山に登りなされた。秀吉の仰せには「軍兵どもは腰兵糧を使え」とのことで、御
使番衆を所々に差し遣されて又左衛門殿へ仰せになり、「城を持ち固める前に攻め入ろう」と御談合なさ
れたところで、北ノ庄城は天守から焼け上がった。

後に城から出た者が申し上げたことによれば、勝家はとても叶わないと思われたということなのか、前述
に申し上げたように、天守へ鉄砲の薬を上げさせて二重に詰め置かれ、御前方(お市の方)やその他の片
を付けて勝家も自害なされたのだ。

勝家は燠掻きに火を入れて前述の時に上げ置きなさったのだが、腹を切ってその火を掛けなされたことよ
と見えて、二重の鉄砲の薬によって爆発すれば、天守の部材は四方八面に跳ね散らし、秀吉御陣取りの愛
宕山へは城から10町ほどもある所にまで、瓦などが虚空を跳ねて来たのである。

(おきかきに火を入右に被上置しか腹を切り其火をかけられたるよと見え二重の鉄炮の薬にてはね候へは
天しゆの引物とも四方八面にはねちらし秀吉御陣取の愛宕山へは城より十町程も御座候はん所にかはらな
とこくうにはねて来り候)

――『川角太閤記』

740人間七七四年2019/02/13(水) 20:47:39.56ID:hVOYUadj
姉川の合戦は東照宮(徳川家康)の勝事なり。信長が朝倉義景と対陣の時、東照宮は先陣を乞うた。信長
は叱って曰く、

「田舎者にどうして良い働きができるか!(田舎者何とて能せん)」

しかし東照宮はしきりに乞いなさり、信長はこれを許した。東照宮は即時に川を渡って敵を破りなさった。
この時、信長の前を去る時に、草履を横様に御付けになられたという(草履を横さまに御つけ有しとそ)。

――『老人雑話』

よこ‐さま【横様/横▽方】
[名・形動]《「よこざま」とも》
1 横の方向。横向き。また、そのさま。「―に倒れる」
2 道理に合わないこと。また、そのさま。非道。「―な要求」

741人間七七四年2019/02/14(木) 12:55:49.95ID:mXn/dIqC

742人間七七四年2019/02/14(木) 18:53:15.11ID:/eS1jLtn
この先、権を争い威を妬む輩を秀吉は意の如く退治せしめ、秀吉1人の天下となることは快きかな
快きかな(此先争権妬威輩如意令退治。為秀吉一人之天下事快哉々々)。

これしかしながら、秀吉の武勇智計の致すところなり。まことに国家太平はこの時である。よって
忝くも今上皇帝(正親町天皇)の叡感は斜めならず。これがために朝日早からざるなし。

摂家清華を始めとして諸卿百官、ならびに三管領四職、その他所々の国司各々が来住して、秀吉に
随従せぬ人はいない。風雅の興や茶湯の会、日々の楽遊は枚挙にいとまあらず。

秀吉がますます政道をもっぱらにして人民を撫育するのは千秋長久の始まりにあらずや。至祝万幸。

時に天正11年(1583)11月吉辰。大村由己、謹んでこれを記す。

――『柴田退治記』

743人間七七四年2019/02/15(金) 18:10:30.03ID:eLOuuDtR
そうして滝川左近太夫(一益)は秀吉に懇望して身を任せ、長島城を渡すことで許容となった。

このような時(出典の成立年。1583年)に、東国においては徳川家康と北条氏政、北国において
は長尾景勝(上杉景勝)、西国においては毛利輝元が、皆秀吉へ方々から寄り集まっている。天下は
秀吉の掌握に帰すといえよう。

漢の高祖が天下を取った時に三傑あり。戦に優れたのは韓信なり。糧を巡らすのは蕭何なり。謀を巡
らすのは張良なり。源頼朝が日本を治めた時に三賢あり。義経は戦功をことごとくし、梶原景時は世
勢をもっぱらにし、北条時政は政道を行った。これはすべて良臣の諫めによって成し遂げたのである。

今は秀吉が一心で謀を巡らし糧を蓄え、戦をもっぱらにする。まことに前代未聞の大将なり。

――『柴田退治記』

744人間七七四年2019/02/15(金) 20:26:06.18ID:IC6boHOF
義経、景時、時政を頼朝の三賢とかいうと微妙な気分に

義経=韓信といえば白話文学「喩世明言」で楚漢戦争の英雄を三国演義の英雄に転生させる話を元にした
江戸時代の「英草紙」で源平盛衰記の英雄を太平記の英雄に転生させた話でもネタにしてるな

745人間七七四年2019/02/15(金) 21:44:28.69ID:L99+733I
>>744
フェイトの元ネタの魔界転生の元ネタの元ネタがあったとは

746人間七七四年2019/02/15(金) 22:15:30.40ID:02BhZVGW
転生は中国説話じゃよくあるネタだったからなあ
三国平話も転生から始まるし

747人間七七四年2019/02/15(金) 22:51:55.60ID:boxxZIZV
お腹を空かした虎に自分の身体を投げ出した人の転生体がお釈迦様という話もある

748人間七七四年2019/02/16(土) 13:13:36.59ID:S0aIoIwN
半兵衛の今孔明も「転生したんじゃねw」って意味で使われた可能性も!

749人間七七四年2019/02/17(日) 08:40:37.69ID:WHIrRcMo
外国人「あいつらはパソコンの裏では本性を現す!」

http://i.imgur.com/x1cRbhi.png

750人間七七四年2019/02/17(日) 16:25:23.15ID:QBNyGuoi
里村紹巴と秀次事件+α


世に定めとはないものである。良きことも悪しきことになってしまうのだ。

秀次関白殿は少し連歌の御稽古をされていたので、喜んで紹巴は毎日登城されていた。
かの御謀反の御談合をしていたとみなされたのか、(紹巴の)百石の知行や家財屋敷に至るまで
昌叱(紹巴の娘婿)に太閤御所(秀吉)が(紹巴から取り上げて)下されることになってしまった。
呆れるほどひどい身の上になってしまわれたので、気の毒に思いその年(文禄4年)の師走に
雪をかきわけて、丸(松永貞徳)一人隠れ忍んで(紹巴の所に)参った。

法橋(紹巴)は丸の名を聞きつけて懐かしく思われたのか、十間ほど(家から)出てこられて
丸の手を引いて、奥の住家へ引き入れられた。
道すがら(紹巴は)
「上手に遅くに来る者だ。春のころ、照光院殿(聖護院道澄)などから御見舞いの使者があったが
 (詮議が厳しく見つかると困るので)私の首を斬らせようとしたのかと思ったものだ」
と仰った。


――『戴恩記』
紹巴と貞徳の父は知り合いで、貞徳が12才の頃には月例の連歌の会に誘ってくれたらしい。

貞徳は里村紹巴の容姿や性格についても書いていて

「顔おほきにして眉なく、明なるひとかは目(一重まぶた)にて、鼻大きにあざやかに
 所々少くろみて、耳輪あつく、こゑ大きにきつきひびきありて、ざれごと申さるるも
 いかるるやうに侍り」

と記している。(戴恩記)

751人間七七四年2019/02/18(月) 00:37:47.82ID:d2+p9LT9
鶏鳴より取巻いて攻めれば


信長公が山門(比叡山延暦寺)を攻めたとき、九月十一日には諸将に命じて既に攻めかかろうとしたが
護国公(池田恒興)が
「今日はもう日も牛の後に及んでいるので、(そのまま)夜になれば悪逆の衆徒が逃げてしまうでしょう。
 明日鶏鳴(午前二時ごろ)より取巻いて攻めれば、一人も生き残らないでしょう」
と言われたので、もっともだということでその日の戦を止められた。

さて夜半よりあんなにも大きな比叡山を隙間なく取り巻いて、四方の手合いが合図の法螺を吹き立てると
一度に閧をドウとあげて攻め、山門もここを専らと防戦したものの、四方八方より焼き立てたので
ついに(延暦寺は)根本中堂を初め一宇も残らず灰燼となった。

(諸将は)老僧児童の首をはねたり生捕りにしたので、猛火の中に飛び入って焼死する者も多かったという。


――『池田家履歴略記』

752人間七七四年2019/02/18(月) 17:26:48.51ID:QhmfMSe6
また織田三介信雄は人数を率いて岐阜に攻め入った。三七信孝(織田信孝)もまた将軍(織田信長)
の御息男で、智勇は人を超えていた。(而智勇越人)

信孝がどうして自害を拒むことであろうか。かの山にて信孝は髪を洗って身を清め香を焚き、将軍
から賜った太刀で、首を刎ねて死んだ。逆心によって滅んだことは、おおかた天命なのではないか
(於自害豈可辞乎。彼山而沐髪C身焼香以将軍所被下太刀首刎死。以逆心相亡事殆不天命乎)。

――『天正記(柴田退治記)』

753人間七七四年2019/02/19(火) 18:28:01.04ID:rzhsIc24
そもそも羽柴筑前守秀吉は天正10年(1582)10月15日に将軍(織田信長)の御葬礼を勤め、
以来帝都の未申の角、山崎の上に一城を拵えて五畿内を直下し、生民を鎮撫した。そして先の秋田城
介平朝臣信忠の御若君(織田秀信)を迎え取り、安土に安置し奉って守護せしめんと欲したのである。

そんな折に織田三七信孝は、柴田(勝家)・滝川(一益)に相談して言った。

「若君を秀吉に渡しては、彼一人が天下を計り、欲しいままに権威を振るうだろう事は眼前である。
そうなってはどうして秦の趙高の専横や、唐の楊国忠の災いを招かないことだろうか」

そう言うと、信孝らは一味同心して御若君を介抱した。これにより秀吉は、一旦将軍御子弟の礼を厚
くし、かつまた誓紙の恐れを思って条々の懇書を呈したといえども、信孝の心には許容されず、あま
つさえ内々に敵対の計策を企てたのである。

この時、柴田修理亮勝家は同名伊賀守勝豊をもってこれを謀り、和平の調停をさせ、前田又左衛門利
家・不破彦三(直光)・金森五郎八(長近)を京都に上らせた。その故は、越前国は初冬から残春に
至るまで雪が深いために、糧を運ぶのが困難だからである。只今干戈が起こっては、人馬の疲れ百姓
の労、実に国の虚であると思ったのだ。

秀吉はこれを識量して調停を止め、臘月の初めに長浜に至り出張した。

――『天正記(柴田退治記)』

754人間七七四年2019/02/20(水) 19:51:45.68ID:CW5ADGE9
(長浜城攻めの時)

かの地(長浜)は秀吉が長く居住した要害である。このため、秀吉は長浜の案内を知っており、敵の
痛所を思惟して付城を構え、内側を繰り破るべく列をなす。

勝豊(柴田勝豊)は越前の援兵を頼みにするも、頃日の雪は例年を超過した。寒威は実に綿を透かせ、
風力はまさに酒を凍らせんとす。住む者は籠り伏し、来る者を凍え殺し、ことこどく人馬の通行は絶
えた。ここに至って勝豊は釈近謀遠しても労をなして功は無く、秀吉へ降参に至ることを考えた。

ところで、勝豊の本素は他名なり。勝家(柴田勝家)の養子となしたものである。只今秀吉に降参し
て一味することは、すこぶる本意を失うようなものだ。しかしながら、佐久間玄蕃助盛政はかの分国
において権柄を執ること実に甚だしく、これによって勝豊は内々恨みを含んでいた。

秀吉はその由来を知って疑わせること無く勝豊を引き付け、すなわち美濃へ向かった。これに従った
面々は惟住五郎左衛門尉長秀(丹羽長秀)・筒井順慶・長岡越中守忠興(細川忠興)・池田紀伊守之
助(元助)・蜂屋伯耆守頼隆、その他諸国の軍兵を引率して都合3万余騎。これが大風を凌ぎ深雪を
分けて、岐阜に至り押し寄せた。

国中の凶徒は、あるいは追罰を加え、あるいは降参して従い、日を経ずして残るは一国一城となった。
信孝はこれに惨憺して、ひとえに和与を嘆き慕う。そうして信忠の御若君(織田秀信)に信孝の老母
と息女を添えて、人質に出したのである。

秀吉はこれを見て古を思い、なおも憐憫奉る志あり。秀吉は囲みを解いて12月29日に美濃を去り、
山崎城へと至って、かの地で越年した。

――『天正記(柴田退治記)』

755人間七七四年2019/02/21(木) 19:29:31.77ID:SlVLXdW7
(柴田勝豊の降参と織田信孝との和睦後)

山崎城で越年した秀吉は元日より播磨姫路に赴き、2日3日の間には諸国の大名小名が袂を連ねて
踵を接し、車馬門前の市をなす。秀吉は朝には礼者に向かって親愛を尽くし、夕には近習に対して
政道を説き、天下の工夫は昼夜いとまあらず。

そうして若君御幼少の間は伯父の織田三介信雄を御名代となし、まず若君を安土に移し奉った。閏
正月初旬に秀吉もまた安土に至り、国々の諸侍は若君への礼儀を調え尊仰をもっぱらにする。あた
かも将軍(織田信長)御在世の時のようで、まことに君臣の礼は諸人の感心するところであった。

秀吉は安土に10余日逗留してその後また山崎に帰り、諸国に陣触して軍兵を集めた。軍兵は長浜
に寄せ来たり、秀吉は重ねて堅固にその人質を取った。

その頃、勝豊(柴田勝豊)は病気が穏やかならず、起き伏しも叶わずに病床にあった。これ故に自
身で出張することはできず、与力に大金藤八と山路将監(正国)を越前の境目に遣わし、片岡天神
山に出城を拵えて修理亮勝家に相対し、秀吉への無二の色立ての奥底を極めて、惟住五郎左衛門尉
(丹羽長秀)と組んで越前の押さえとなった。

(中略。滝川一益の挙兵)

秀吉は引き退いてまた長浜に至り、しばしば帷帳の中にいても心はあらゆる方面に向けられ、夙興
夜寝の謹み浅からず。

はたまた伊賀守勝豊は病気に堪えずにより上洛して、扁蒼の術を尽くしてもその効果はなく、すで
に易簀に及ぶを嘆いて曰く、遺言したのである。

「私は一世の内に再び越州の地を踏んで本懐を遂げるべく、恨みを晴らそうというところで、不幸
にもこのようになった。秀吉が越前を平らげて私の望みが叶えば、草葉の陰の弔慰となるだろう」
(我一世中再踏越州之地復寃可遂本懐之處不幸而如此。秀吉平越前於達我望者可爲草陰之吊慰)

秀吉は涙を押さえて離別を惜しむも、無常の習いでついに勝豊は逝去したのである。秀吉は金銀を
賜って洛中洛外の僧をもって供養し、葬礼法会を行ったことは数えきれないほどであった。

ここに至って秀吉は勝豊の人数を同木山に入れ置いたが、調略の風説があった。これにより木村隼
人佐(定重)が入れ替わり、大金藤八・木下半右衛門(一元)・山路将監は外構に出してもっぱら
これを用心した。すると山路将監の謀叛は次第次第に露見し、将監は妻子を捨てて白昼に敵陣へと
走り入ったのである。

――『天正記(柴田退治記)』

756人間七七四年2019/02/22(金) 13:51:48.28ID:lJC8o5NJ
小田原の陣の際、山中城攻めの時、中村式部少輔一氏の従兵、藪内匠は度々の誉れある剛の者であったが、
この時も一氏の手の中で一番に城下に附いた。しかし本陣から遠かったため、総大将である秀吉はこれを見ず、
その後に藪の友である渡辺勘兵衛(了)が、鳥毛の半月の大指物を指し、黒い馬に乗り、ただ一人山の尾崎より
城に乗りかけた。これを秀吉は見て「何者か」と姓名を問われ、渡辺は感称に与った。
彼が武名を挙げたのは、大指物の故であった。

(武将感状記)

757人間七七四年2019/02/22(金) 16:58:37.12ID:CQQ3FpkM
証明できない一番乗りなんて意味ないよね

758人間七七四年2019/02/23(土) 10:35:37.32ID:RphLH8pe
女に「貴方が初めてなの」とか言われても、膜をぶち破る感覚が無かったら、どうやって証明するんだよ、売女

759人間七七四年2019/02/23(土) 19:51:30.66ID:MaZU3Wfr
(山路正国の逃走後)

とりわけ織田三七信孝は秀吉に与するを好まず、また三介信雄に対しては牆に鬩ぐ(兄弟が内輪で
喧嘩すること)恨みがあって侮りを抑える心はなく、故に再び謀叛を起こした。

信孝が柴田・滝川と一統して天下を覆そうとする旨を議定したことは秀吉の聞くところとなり、4
月17日に秀吉は長浜より美濃大垣城に至る。信孝は美濃・伊勢の人数を端々で一手になし、方々
を焼き回った。

このため秀吉は「是非とも岐阜に攻め入り、鬱憤を散らさん!」とするところで、その頃は長雨が
止まず、郷土の川は洪水してまったく兵馬を渡すことができなかったので、秀吉は大垣に5,6日
滞留した。その間に伊勢峯城(滝川方の城)を信雄の御人数や、その他蒲生飛騨守氏郷・長谷川藤
五郎秀一・多賀・山崎・池田などが攻め詰め、落去したとの吉報があった。武辺勝利の吉兆である。

さて柴田勝家は信孝の御謀叛に力を得て、天下を取らんとしたのは無論のことである(可取天下事
勿論也)。旧冬に勝家が信孝に一味した時は救い奉ることができず無念であったが、今この時には
きっと一戦に及ばんとする。

幸いにも只今秀吉は美濃に赴いているので、その隙にまずこの表を打ち破るべく、かの謀叛人の山
路将監(正国)を案内者にして、敵の行動や陣取の様子をことごとく尋ね探らせた。

天正11年(1583)卯月20日、佐久間玄蕃助(盛政)を大将となして余呉の海馬手を通り、
賤ヶ岳を手元に置いて、中川瀬兵衛尉清秀が陣取る尾崎に押し寄せ、柴田父子は堂木山と左祢山を
襲うために近々と人数を立ち寄らせたのである。

――『天正記(柴田退治記)』

760人間七七四年2019/02/24(日) 19:56:05.69ID:kCbdXMQS
山崎の合戦の時、高山右近は自陣にて薙刀の鞘を外し、床几に腰を掛け、未だ合戦に至らないところに、
高山の家臣の甘利という者、彼は高山に寵遇されず、末座にしか居なかったが、高山の前に進み出て、
跪いてこう尋ねた

「私には今ここに、二つのうちどちらを選ぶべきか決しかねていることがあります。恐れながら
殿にその判断を承りたいのです。」

「それは一体何事か」

甘利は言った
「勇智の名のある者は、遠国、他家にあっても伝を求めて家に招き、高知を賜って恩顧薄くありません。
いわんや元よりこの高山家の家臣たちは、殿にとっての干城になるべき人材だとご覧になれば、人並みの
御言葉をもかけられます。

であれば、私が人数成らぬ体にて捨て置かれているのは、そのような御用に立たない者と思し召されて
いるからでしょう。

今、私が敵を斬り陣を破れば、それは殿のお眼鏡が違っていた事となり、これは不忠と言うべきでしょう。
だからといって、攻めかかるのに遅れ、退却することに先立てば、武士の名を失い、父祖を汚し、これは
不孝となってしまいます。

不忠の罪と不孝の罪、いずれが重いのかと、案じわずらっているのです。」

高山は甘利をじっと見ていたが、一言も答えなかった。
そうしている内に、敵すでに近くなると、甘利は

「たとえ不忠の罪であったとしても、拾い頸をし、敵の行く手を遮るくらいであれば、そのように悪しく
捉えられる事も無いでしょう。そして怯弱不孝の罪は重ねて補い難いものですから、あちらを捨てこちらを
取りましょう。」

そう言うと味方に先んじて攻め入り、高山家の一番槍を合わせ、兜首を獲った。
また明智光秀の軍が敗北し逃走を始めると、これを追って光秀の甥である明石義太夫を討ち取った。

直諫すべき時でなければ、みだりに主君の非を言うべきではない。
甘利の言葉はまことに無礼である。しかしその無礼を聞き届け、自ら反省することが出来なければ
暗君と言うべきである。

(武将感状記)

761人間七七四年2019/02/24(日) 20:44:44.21ID:Z+5elnds
こんなめんどくさい事ばかり考えてなきゃいかんのかと思うと絶対武士とかに生まれたくないな
もっとも平民に生まれたらもっと悲惨な人生なんだろうけど

762人間七七四年2019/02/25(月) 09:52:51.69ID:WuMV8JSF
>>761
これは単純に嫌味を言っただけかと

763人間七七四年2019/02/25(月) 11:29:34.76ID:YGzEIqam
>>761
多分こんなに面倒な奴だから厚遇されなかったんだろうね

764人間七七四年2019/02/25(月) 19:46:02.19ID:eCED7ohD
高山は松永、和田、荒木、明智、全ての主家を裏切ってる
こんな変節漢にいい家臣がいるわけがない
結局大名より宗教を選び家臣を路頭に迷わせたクズ

765人間七七四年2019/02/28(木) 12:41:33.39ID:Eo1e9caG
 ルイス・フロイス著「日本史」には茶会の席で起きた事件についての記述がある。

 堺の町人 日比屋了慶(洗礼名ディオゴ)は豪商として有名で、また彼の一族は
キリシタンばかりであることも知られていた。彼はモニカという洗礼名を持つ娘を
宗札(洗礼名ルカス)という男に嫁がせたが、モニカは宗札との間に二人目の子を
産んだ後で体調を崩してそのまま亡くなってしまったので、今度は次女のサヴィナを
宗札に嫁がせて改めてまた娘婿とした。
 サヴィナと夫婦になって幸福な生活を送っていた宗札であったが、
天正14年のある日、日比屋了慶の弟のガスパールから茶会に招かれたことにより、
人生が一変する災難に見舞われることになった。

 ガスパールの茶会に招かれたのは宗札本人の他に宗札の弟のリョーカン、そして、
日比屋了慶ならびにガスパールの弟にあたるトーアン、隣人の小島屋道察である。
日比屋了慶本人も招かれていたが、客人をもてなす用事があったので
茶会には参加しなかった。
 茶会は穏やかな雰囲気のまま終わったが、帰り際になっていきなりリョーカンが
隠し持っていた短刀を抜いてトーアンに襲い掛かって刺殺してしまった。さらに
リョーカンは短刀を小島屋道察に突きつけつつ、ガスパールに対して「私は
トーアンの命を奪ったが、この件は私に責任がないということを関白秀吉様宛ての
手紙に書け」と脅してきた。
 やむなくガスパールは指示通りに手紙を書いて渡すと、受け取ったリョーカンは
満足げな笑みを浮かべてから今度はガスパールに襲いかかってその命を奪った。
そこへかけつけたガスパールの下僕たちが殺人犯を取り押さえようとしたところ、
リョーカンは観念したのかその場で自害してしまった。
 犯人のリョーカンはかねてよりトーアンとは不仲で、キリスト教の信仰について
口論していたそうだが、詳しい動機は不明である。

 当時、堺は豊臣秀吉の直轄領であったので、この事件の捜査を担当したのは
堺の代官を務めていた石田三成である。彼はただ単に現場に居合わせていた
宗札を犯人の兄だからという理由で捕らえ、それに連座して宗札の妻子も捕まえて
堺から大坂へ連行した。それだけでなく、小島屋道察、および彼の家族、そして、
被害者のトーアンの家族もまとめて逮捕し、あげくのはてに彼らの財産を没収した。
 
 突然2人の弟を失った日比屋了慶は娘婿の宗札が理不尽な理由で家族ごと逮捕された
だけでなく、宗札の一家がいずれまとめて死刑にさせられることを聞かされて、
いてもたってもいられなくなり、四方八方手を尽くして助命嘆願に奔走した。
徳川家康や北政所、千利休、高山右近など多くの有力者たちがとりなしてくれたが、
秀吉の反応は思わしくなかった。
 そして、天正14年11月22日、宗札は何の罪もないのに磔にされて処刑された。
当初は妻子も一緒に処刑される予定だったが、北政所や宇喜田秀家夫人らの嘆願が
功を奏して宗札の妻子は許されて日比屋了慶のところへ引き渡された。
 多くの人が捕らえられた事件であったが、結局、処刑されたのは宗札だけで済んだ。
けれども、小島屋道察は財産没収により茶の湯の名品2点を秀吉に取られたりしたので
散々であった。

 翌年の天正15年に宣教師の追放令が出ていることから、この強引な捜査は秀吉の
意向によるキリシタン弾圧の一環ではないかと疑われている。石田三成がおこなった
この事件への対処があまりにひどかったせいか、ルイス・フロイスは三成について
「キリシタンの敵であり、野心家で傲慢な悪徳に満ちた人物」と手厳しく評価している。

766人間七七四年2019/03/02(土) 19:12:03.59ID:N0xXXHkF
惟任(明智光秀)は公儀を奉り、2万余騎の人数を揃えた。ところが備中に下らず、密かに謀反
を企てる。しかしそれは、その場の存念にあらず。年来の逆意と推測されるところである。

さて5月28日、光秀は愛宕山に登って一座の連歌を催した。光秀の発句に言う、

「ときは今あめかしたしる五月かな」

今これを推し量ればすなわちまことに謀反の先兆なり。何人がかねてより悟ったことであろうか。

――『天正記(惟任退治記)』

本能寺の変の同年に成立した惟任退治記の記事。「何年も前から叛意があったようだ」とのこと。

767人間七七四年2019/03/04(月) 17:51:38.81ID:5DaS4Rjq
さて、羽柴筑前守秀吉は舎弟の小一郎秀長を伴って、さる天正6年(1578年)に播磨へ下り、
別所と対峙して以来、西国征伐の軍主を奉り、備前美作の守護・宇喜多は手に属し、播磨・但馬・
因幡以上五か国の人数を引率し、天正10年(1582)3月15日、備中国へ向かって冠城に
押し寄せた。敵の備はもっとも剛強なり。

さてこの城は、たとえ人数を損おうとも無二に攻め破り西国の響きにする旨を、かねてより定めて
いた。これにより杉原七郎左衛門尉家次・荒木平太夫(木下重堅)・仙石権兵衛秀久が先をなし、
かの地で肝要の践をなして水手を攻め入りこれを取った。

秀吉は感悦して3人ともに馬・太刀を遣わしたのである。城からはとりどりに懇望を尽くしたが、
これを聞かずに万牛五丁の攻めをなして即時に乗り込み、ことごとく首を刎ね終えたのである。

――『天正記(惟任退治記)』

わざわざ名前が挙がるあたりこの3人当時は期待されてたのかなぁと思った。

768人間七七四年2019/03/05(火) 15:22:15.22ID:Zb58w6bs

769人間七七四年2019/03/05(火) 17:41:18.44ID:CvS0qjxX
加藤清正が朝鮮に赴いている時に、その跡にて薩摩人の梅北国兼が肥後の地を侵掠した。(梅北一揆)
境善左衛門は熊本に留守居として佐敷城に居たが、肥後の国衆は多くが梅北に従い、兵勢いよいよ盛んであった。
境はこれと戦っても力で匹敵することは出来ないと判断し、一旦偽って梅北に降伏する体にして、
彼を刺し殺そうと思い、城を梅北へ渡した。

梅北は入城したが心許さなかった。そこで境は「今日より臣令を取るの始めなれば、祝詞のため御盃を頂き
候はん」と、梅北を饗した。この時梅北の心を和らげようと、酌取りに美女を出した。

梅北先ず飲んで、境にさし、座を立って肴を与えた。
境は「かねてこの時斬ろう」と企んでいたが、その威におされたか、手出しできずに座に帰ってしまった。
しかし「この時を過ぎては叶わじ」と思い、短刀を抜き飛びかかり、梅北を刺殺した。

その場にあった者たちは手々に刀を抜き放ち境に斬ってかかろうとしたところを、境は目をいからし
声を励まし

「汝等狂せりや!?梅北は賊である。彼に属するのが本意であるのか?
私と心を同じうして、彼が与党を討てば、清正はお前たちの咎を宥し、これまでの非を改め、
むしろ賊を討つの功を賞せられるだろう。
これを拒否すれば、秀吉が汝等の三族を梟首とするのに数日とかからないだろう。
汝等は、わきまえないのか!?」

これを聞いて、皆境に同意し、北梅の手の者たちが逃げるのを追いかけ切り伏せ、この乱を鎮めた。

境善左衛門の知行はそれまで二百石であったが、清正は後に十倍の二千石を与えた。

(武将感状記)

770人間七七四年2019/03/07(木) 11:02:54.15ID:ZVqQAeQN
「悪い子は秀吉が来るぞ!」
と言われりゃ確かにひるむ

771人間七七四年2019/03/07(木) 11:44:19.44ID:iijwI8SO
豊臣秀吉の朝鮮征伐の時、池田三左衛門輝政は、船奉行の中村九郎兵衛に命じて、兵粮を
肥前名護屋に送らせた。中村は名護屋へ出港する前に、提灯2,300,太鼓3,40を買った。
そして船を出し間もなく名護屋という時、時刻は巳の刻(午前10時頃)で潮の状態も良かったにも
かかわらず、玄界灘の島に船を止めわざと日の沈むのを待ち、亥の刻(午後10時頃)になって
船を漕ぎ入れた。この時、船の周りに取り付けた2,300の提灯に火を灯し、3,40の太鼓を
一斉に敲くと、火の光は海面に映り、太鼓の音は城の上にまで響いた。

秀吉は使いを遣わして何事かと問わせた所、「輝政家来中村九郎兵衛、兵粮を漕するの船なり」と答えた。
秀吉という人は素より華美を好み、中村はそれに逢迎(こびへつらうこと)して、甚だ秀吉の心に叶った。
その後秀吉は中村を朝鮮に渡海させたが、彼が朝鮮に至った頃には既に和平が成立していた。しかし
日本軍の兵粮は盡きかけており、諸将は大いに喜んだ。

(武将感状記)

772人間七七四年2019/03/08(金) 08:55:46.57ID:fDyNMKVL
北条と今川は相計って、遠州、武州の塩商人を留め、甲斐信濃に塩を入れず、これを以て
武田信玄の兵を苦しめんとした。

上杉謙信はこれを聞いて、領国の駅路に命じて、塩を信玄の元に運ばせ、
「我は兵を以って戦いを決せん。塩を以って敵を窮せしむることをせじ。」
そう言い送り、信玄はこれを受け取った。

これは上杉謙信の義にして、かつ勇なる所であると雖も、必ず深慮遠謀があったと見るべきだろう。
信玄は謙信より先輩であり、北条、今川の地を掠め奪う者は先ず信玄であった。
これ故に、信玄を仇とすること、六国の秦に対する如きものであった。

信玄がもし危機に至れば、その次は必ず謙信である。信玄が諸牧と戦って兵が久しく解けなければ、
その間に北国を一円に撃ち従えて勢い盛大となれば、東海の国々がたとえ力を合わせ志を一つにしたとしても
恐るるに足りない。謙信はそう考えたのだと言えるだろう。

(武将感状記)

773人間七七四年2019/03/08(金) 10:47:49.29ID:O3AGB8QZ
知っていましたか?
日本人のおじいさんたちは武田信玄のように拉致監禁強姦殺人魔です

韓日三十年戦争の際に日本が韓半島から五十万人の若く美しい小中学生をはじめとする少女たちを処女供出として強制連行し監禁し強姦し尽くして
最後は銃殺や生き埋めや生きたまま鎖につないで松脂をかけて焼き殺すなどして証拠を隠滅した
生存者はわずか400人ほどだったという史実に対して平和少女像は祈りを込めて世界中で設置されています
慰安婦像という呼び方は誤りで日本を攻撃する意図はかけらもない

なお国際戦犯法廷は日本国王と日本国を婦女子への強姦及び性奴隷制度について人道に対する罪で有罪とする判決をくだしている
しかし独裁者安倍は100億ウォンの小銭でごまかそうとしているのだ

774人間七七四年2019/03/08(金) 13:12:56.98ID:EifkUekl
 利休七哲として有名な千利休の弟子の中に兵部大輔の牧村利貞という大名がいる。
 彼は稲葉一鉄の孫であったが、父親が庶子であったため、稲葉家ではなく外祖父の牧村政倫の家督を継いで
美濃の牧村城の城主となった。
 利貞は秀吉のもとで出世して伊勢の国で2万600石の領地を与えられ、1593年には牛之助という息子が
誕生するが、不幸なことに牧村利貞はその同じ年の7月10日に朝鮮出兵で出陣した先で病にかかり亡くなった。
息子がまだ赤ん坊だったため、利貞の弟の稲葉道通が継いだ。もちろんこれは一時的なもので、牛之助が
成人したら家督をゆずる約束であった。
 稲葉道通は関ケ原の戦いで東軍について活躍し、その功績で加増されて伊勢田丸の4万5700石の大名となった。
 1607年、牛之助は15歳になったが、稲葉道通が家督をゆずる気配は全くなかったので不満をいだいた牛之助は
徳川家康にこのことを訴えて何とかしてもらおうと画策したが、その動きを察知した稲葉道通は刺客を放って
牛之助を亡き者とした。
 こうして完全に領地を我が物にした稲葉道通であったが、その後、半年足らずで急死してしまったので、
人々は甥の牛之助の命を奪ったたたりだと噂しあった。家督の方は稲葉道通の息子の紀通が継いだが、
1648年、幕府から粗暴な振る舞いについてとがめられたことが引き金となって自害し、そのことが原因で
改易処分となっている。
 親の因果が子供に報いをもたらしてしまったのであろうか。

775人間七七四年2019/03/08(金) 18:11:03.52ID:YVaPWxdX
>>772
でも謙信は関東で遊び疲れてから
北陸でも勢力伸ばそうとしたよね
ちょっと遅かったよね

776人間七七四年2019/03/09(土) 08:25:30.39ID:SrppcBwW
柴田みてもわかるように北國勢は冬は領国に籠るから春夏に掠奪が出来なければジリ貧だよ

777人間七七四年2019/03/09(土) 11:25:04.75ID:Y8BGkzOR
>>776
冬に領国へ籠るとは限らないでしょ
謙信なんか通行できるうちに越山して夏に越後へ戻るし

778人間七七四年2019/03/09(土) 18:40:43.12ID:6ECJ3CPn
(賤ヶ岳の戦いの時)

清秀(中川清秀)はこれ以前に度々に及んで武辺に落ち度を取らず、勇力を世間に知られた侍なり。

「度々の晴れ戦、万一鈍兵の名を得ては生涯の不覚!」と思い定めた清秀は「運は天にあり、進ん
で退くことなかれ! 」と諸卒に言葉を掛け、1千余騎が塁を離れて突き出た。玄蕃助(佐久間盛
政)の兵はこれを見て、余さず漏らさず押っ取り込めて、数刻攻め戦う。

清秀は我劣らじと、兵5,60騎が弓手馬手に並び、散々に切り合い割り入り追い立てた。清秀は
一旦は勝利を得たものの、敵は多勢をもって手負い死人を顧みず、風の発するが如く河の決するが
如く乱入して、ついに清秀は討死した。

その時、玄蕃助は勝ちに乗じて太刀場を取り、前は鯨波が地を響かし後ろは狼煙が天をかすませた。
風はふるい、旌旗は光を添えて日に輝く。甲冑は影を並べ、その威光は誰をもって争えようか。

この時、清秀が速やかに引き取っていれば、一化先は敵の勝手をなすとしても“勢に因りて之を破
る”との諺をもって、その尽くが居陣となったものであろう。

秀長(豊臣秀長)の陣所を始めとして、先手の陣取りは各々堅固の備であった。一陣が敗れて残党
も無事ではないといえど、士衆は一致して軍は心を結んだ。これまことに良将が軍を統べる故なり。

そうして江北の戦は相果てた。事が済んだ時、それより羽檄をもって件の注進あり。秀吉はこれを
聞いて清秀が討たれたために、甚だ深く哀憐した。

――『天正記(柴田退治記)』

779人間七七四年2019/03/10(日) 09:15:15.13ID:7JNEY6op
上杉謙信が自ら兵一万余りを率いて越中に入り、柿崎和泉(景家)に命じて、別将を副えて
辺塞を攻めさせた。ここから引き取る時、敵将が出てきたためこれと戦った。
この時柿崎の従兵である大川十郎は、左の腕を射抜かれたその矢も抜かず、取った頸を掲げて
柿崎の前に来た。ところがこの時、柿崎は大川を怒鳴りつけた

「お前は元より頸一つを取りかねるような者ではない!どうしてこの程度のことを誉れとするのか。
お前はまた、矢一筋くらいで弱るような者ではない。どうしてそんな事を勇だと思っているのか!?
一歩でも進むべきところを、知らないのか!」

そう辱めた。このためこの戦で士卒頸は斬捨てとなり、柿崎の軍は大いに苦戦した。

首級を置いて闘撃を先とする時は、功名の先後が転倒してしまう恐れがある。これは武士が怨みを
含む端緒となる。だからといって、ただこの恐れを無いようにした場合は、戦いに集中すべき場所を
引いて闘撃を止め、首級を貪ろうとする場合もある。こちらは兵勢が挫かれる基となる。

これ故に、良将はかならず軍を監督しこれを正すのである。

(武将感状記)

780人間七七四年2019/03/11(月) 09:25:27.29ID:rW6/n506
摂津半国の主であった松山新介(重治)の家臣である中村新兵衛は度々の手柄を顕した勇将であり、
時の人は彼を「鑓中村」と号して、武者の棟梁と讃えた。

彼は戦場において、羽織は猩々緋、兜は唐冠に金纓を用いていた。敵はこれを見ると「すわ、
例の猩々緋よ、唐冠よ!」と、戦う前から敗れ、あえて向かい近づく者も無かった。
ところがある人が、中村にこの羽織と兜を強いて所望し、彼はこれを与えた。

その後戦場に臨んだ時、敵は中村の羽織と兜を見なかった。これ故中村の部隊に対し
競いかかって切り崩しに来た。中村は鑓を振るって敵を多く殺したが、中村が居ると知らない
敵はこれを恐れず次々と向かって来、彼は遂に戦没した。

これより、敵を殺すのが多いからと言って勝つわけではない、威を輝かして敵の気を奪い、
軍勢の心を挫けさせる事が大切なのだと理解すべきである。

(武将感状記)

781人間七七四年2019/03/11(月) 11:52:08.86ID:drPnIBZj
初陣の松山重治の若殿に貸したとか、死ぬ間際に後悔したとか脚色はあるが
菊池寛がそのまんま短編にしてるな

782人間七七四年2019/03/12(火) 18:11:16.87ID:mHf2sfph
>>777
ホームシックにかかって脱走する兵士が後を絶たないから見せしめに脱走兵を残酷に殺したっていうのにな

783人間七七四年2019/03/12(火) 18:14:24.11ID:I98YknG5
>>782
その逸話聞きたいな

784人間七七四年2019/03/12(火) 22:08:20.07ID:9iofhsJA
立花道雪なら
まとめの876
立花道雪と軍令違反・悪い話
でそういう話があったけど

785人間七七四年2019/03/14(木) 13:09:07.28ID:5xywtaBW
長期間の出兵になるとね、西欧だと貞操帯を夫が妻につけさせたわけだが、アジアとなると性に開放的だから夫が居ないと間男を呼び込んで毎晩ギシアンしてるわけよ
夫も夫で赴任先の戦場で農民女を攫って強姦してるわけなんだけれども生真面目で妻を愛してる人だったら脱走して妻に会いたくなるよね
不能で女装趣味の謙信にはそれが分からんのですよw

786人間七七四年2019/03/14(木) 16:28:58.47ID:3QVUhOU6
>>785
妄想乙としか

787人間七七四年2019/03/14(木) 19:18:53.80ID:+T9sT23I
秀吉に秀長以外の弟がいたとするなら間男の胤なんだろうなあ
似てなきゃあんな騒ぎにならんだろうし

788人間七七四年2019/03/14(木) 19:35:17.78ID:NtugCGIo
勝頼の代に至って、武田の威が衰えたのは、勝頼が兵を用いることの意味を理解していなかったためである。
勝頼は下條越前(信氏もしくは信正の事か)に信濃飯田城を守らせていた。士卒合わせて4,500人の
頭であった。

織田信忠がこれを攻めるという時、勝頼は小幡因幡(信定か)に命じてその加勢とした、因幡は小幡尾張(信貞)
の嗣子にて、五百騎の将である。この加勢の時も、二百騎あまり、総軍二千ばかりの人数であった。
そして小幡因幡は大身であるがゆえに下條越前の下知を受けず、下條越前は本城の守将である故に
小幡因幡の指図を用いず、互いに不和にして。因幡は自分の従兵を引いて遂に城を出たため、その騒動により
守備は崩壊し、士卒は半ば戦う前に離散して、飯田の城は陥ちたという。

(武将感状記)

789人間七七四年2019/03/14(木) 21:38:17.40ID:/7It3Fsz
>>788
実際は保科正直ってのが逃亡したらしいけど

790人間七七四年2019/03/15(金) 17:06:50.69ID:PU3Ax35N
さすが逃げ弾正w

791人間七七四年2019/03/15(金) 23:01:53.64ID:Rrpezbrm
>>790
高坂昌信「え?もう亡きお屋形様の所逝ってるんですけど?」

792人間七七四年2019/03/17(日) 18:01:12.52ID:5akfMxjR
槍を合わせずに逃げてる弾正さん

793人間七七四年2019/03/18(月) 09:51:18.67ID:eWwD9w/z
お屋形様の槍を貰いにあの世へ逃げ弾正

794人間七七四年2019/03/19(火) 11:37:43.67ID:jk5trKiU
ジャギ
顔半分が変
特徴的な兜
胸に七つの傷
弟を殺そうとする
強盗、器物損壊、殺人、犯罪をけしかける
俺の名を言ってみろ!
ヤバくなると典型的な命乞い

政宗
片目が変
特徴的な鎧兜
体中傷だらけ
弟を殺す
(文化財)強盗、(文化財)損壊、なで斬り、反乱をけしかける
なぜか高確率で『政宗』と呼び捨て
ヤバくなると典型的な命乞い

795人間七七四年2019/03/19(火) 18:28:56.34ID:4AUQbCQB
>>794
ラオウ
体のサイズが変
特徴的な兜
傷は人殴って治す
弟2人と殺し合いする
拳法の秘伝を奪って独り占めにする、侵略を繰り返す
何故か数十秒の会話の間に一人称がおれ、わし、わたしと変化する(その間二コマ)
ヤバくなると手段を問わず勝ちに行く

796人間七七四年2019/03/19(火) 19:37:18.49ID:0XLroh6q
辺野古反対活動家「米軍基地に入ったら不当逮捕されました。憲法違反だ」 地裁「国は賠償を」
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1552960892/

韓国旅行激減 旅行業関係者「私自身も行きたくないので、お客様にもお勧めできません」
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1552899251/

共産党 大山奈々子(神奈川県議会議員) 「すみやかに朝鮮学校への補助再開を!」
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1552915476/

797人間七七四年2019/03/20(水) 08:18:03.16ID:qDltLKH6
「江源武鑑」
偽書である。これは近江坂本雄琴村の民、澤田喜太郎という者、青蓮院法親王に奉仕して
禿童となり学問し、後に銀の茶碗を盗み売ったことが露見し追い出され田里に帰り、
自分が佐々木の嫡流であると偽って、佐々木の系図に加筆して、自分の先祖を拵え、
かつ佐々木の日記と偽って江源武鑑を作り刊行した。また大系図も彼が作ったもので
偽りが多い。

また、「和論語」「足利治乱記」「浅井日記」「異本関原軍記」「異本勢州軍記」等も
彼が作ったもので虚説である。

佐々木義実、義秀、義郷は彼が作った人名であり、彼の先祖であると言うが、その名は有っても
実体は存在しない。

彼の虚説を用いた書は、「国家治乱記」「異本難波戦記」「三河後風土記」「武家高名記」
「和州諸将軍記」「浅井始末記」「浅井三代記」「乗国太平記」「日本将軍伝」「諸家興亡記」
「武家盛衰記」「東海道駅路鈴」等である。

(安斉随筆)

江戸期の偽書認識の一端

798人間七七四年2019/03/20(水) 08:51:10.98ID:Zb0XR6PE
江戸時代の偽書はあまりにも多すぎて、いい研究対象になっているぐらいだからなぁ。

799人間七七四年2019/03/20(水) 09:53:53.58ID:ppHoo6uJ
お市が信長に小豆の袋を送って袋のネズミだと知らせた話は史実じゃないんだっけ

800人間七七四年2019/03/20(水) 10:36:20.19ID:SyiHyU0d
>>797
多過ぎワロタwもう作家だろコイツ

801人間七七四年2019/03/20(水) 12:48:06.05ID:2AEdCFPa
>>799
史実だと小豆の袋を送ったけどこんなつまらん物送ってきやがってとかで投げ捨てられたんだよな

802人間七七四年2019/03/20(水) 12:59:13.18ID:HCpm40Hv
>>797
おいキタロウ!

803人間七七四年2019/03/20(水) 21:09:32.98ID:T+/AoRxv
幕末の佐々木六角源氏太夫よりは
佐々木氏を研究してるな

804人間七七四年2019/03/21(木) 15:53:53.99ID:k5IvEHvc
一休和尚の歌として、『世の中は くうてはこして寝て起きて さてさて其の後は死ぬるばかりぞ』
というものが一休物語に見える。「はこする」とはクソをひる事であり、「はこ」は糞筥の事である。
またこれを「まる」とも言う。丸く細長い故である(おまるの語源)。

いかにも、人の一生は食うてはこして寝て起きるより他の事はない。しかしこの事たやすくなり難い
故に、君に仕える人もあり、士農工商、各々がその家業を勤めるのは、食いてはこして寝て起きて、
畳の上で死ぬべきが為である。であるのに、君にも仕えず家業をも勤めず、手足を動かさず人の宝を
目当てにして、好色大酒博奕して一生をおくらんとする者は、道路に倒れ死するか、獄屋の前にて
死するかであろう。

(安斉随筆)

805人間七七四年2019/03/21(木) 18:11:41.39ID:biJr3OHv
>>804
一休さん「くだらなすぎて笑う」

806人間七七四年2019/03/21(木) 19:31:16.55ID:l1o1mw+o
シコって寝て起きてでは無いんだな

807人間七七四年2019/03/21(木) 19:37:59.72ID:tRxEhkyD
ロリコン和尚が

808人間七七四年2019/03/21(木) 20:26:43.05ID:wT3KvidZ
>>804
なーんか勝手な解釈が論語や孫氏をビジネス書()にしたものと同じ臭いがする

809人間七七四年2019/03/22(金) 18:41:07.63ID:MmvfBlxx
老人(江村専斎)が少年の時、洛中には四書の素読を教える人がいなかった。公家の中で山科殿(山科言継)
が知っているということで、老人は山科殿から三部を習った。ところが『孟子』に至ると、山科殿は「本を
人に貸している」と言って、ついに教えなかった。事実は分からない。

――『老人雑話』

810人間七七四年2019/03/23(土) 12:03:33.17ID:R2H6RQcv
織田信長の次男である信雄は、本能寺に於いて信長が弑されたことを知る前に、鬼頭内蔵助を信長の
様子をうかがわせるため京都に遣わした。

鬼頭が山科に至った時、伊藤安仲に出会った、伊藤は信長の笛役であった。
伊藤は鬼頭を見て「ここは何処だろうか。」と尋ねた。逆に鬼頭は「貴殿はどうしてここに
居るのか」と聞いた。伊藤は涙を流し

「貴殿は未だ知らないのか。信長公が今朝、明智の謀反により弑され給われた。私のような者共は
途方に暮れて行先も解らず迷い逃げたのだ。」

それは朝日が山端に差し昇る頃であった。鬼頭は且つ驚き且つ疑った。しかし伊藤は
「偽りも事による。もし今信長公が恙無く、私がこのように大事の偽りを言えば、一体どうして
日本の地に身を置く所があるだろうか。」

「然らばここより立ち返り、貴殿の言葉を信雄様へ申し上げよう。」

「尤もである。証拠として、これは信雄様が御覧じ覚えたるものである」と、小刀を渡した。

鬼頭は急ぎ信雄の居城伊勢長島へと乗り戻り、その日の太陽が傾く頃に、三十余里を馳せ到着した。
然れども馬は疲れを見せず、まさしく稀代の駿足であった。

さて、鬼頭はこの趣を申し上げたが、信雄は信じようとしなかった。そこで証拠としてかの伊藤の
小刀を出すも、猶信じず、却って鬼頭が狂気したと思うような顔色であった。
致し方なく鬼頭は「やがて注進が参るでしょう。」と言って自宅へ帰った。
信雄は御伽衆の梅心という者に命じ、鬼頭を訪れてその様子を伺わせた。

鬼頭は浴衣を着ながら梅心の前に出て対面し、
「私が狂気したのかと思われたによって、その方に伺わせたのだろう。
もしあの情報が虚説と成って私が切腹させられれば、むしろ大いなる幸いであり、まことに望む所である。
虚説ではなく、私が切腹に及ばない事の方を憂いている。」
そう言って外に出て、繋いでいる馬の湯洗いをすると、馬はいなないて前掻きをした。鬼頭は馬の健盛なる
事を梅心に自慢した。梅心は帰ってこれを信雄に報告した。

その日の日暮れより諸方の早飛脚が、本能寺での事を告げた。
信雄は信長の弔い合戦について、今日よ明日よと言いつつ、出陣を十余日も引き延ばした。
その間に秀吉が備中高松より上がって、信長の仇を討った。これは信雄が無勇の故である。
これによって、後年、信雄は秀吉のために領地を没収された。しかし秀吉は信雄の制しやすいことを知って、
害はないと判断したため、大和に於いて五万石を与えた。

(武将感状記)

811人間七七四年2019/03/23(土) 12:23:06.52ID:1Z0ElKd4
信雄「大坂城捨てよっと」

812人間七七四年2019/03/24(日) 15:54:12.02ID:sv4h2wg8
最上義光、山形城作庭の悪い話

昔正月に新庄藩の殿様が曲川に鷹狩に行ったところ、突如大吹雪となり、先達の案内で杉の大木の下で風雪を凌いでいた
連れの人数は15人程で、木陰で一行が二列に並んだが、木の枝張りが良いため少しも風があ当たらなかった
暫くすると大吹雪もやんだので、その木の下から出て来て10間ほど歩き、振り返って大木を見ると葉が茂り幹も見えない巨木であった
新庄の殿様は大変に不思議がり「これはどうした木だ」と先達の村人に尋ねた
村人は「この杉の木はお目にかける事はもちろん、話にも出してはならない木だったのです。ただ、今は大吹雪で凍死寸前だったので、やむなくこの木の下にご案内しました
この木は曲川の大杉と言って、昔は2本あったのですが、1本は最上義光公がこの大杉の噂をお聞きになり、
是非に山形のお城の庭に欲しいと仰せられ、大勢の人夫を駆り出して掘り起こし、数月掛けて山形まで運んだところ、土が馴染まず枯れてしまいました
それからというもの、この大杉の西沢目の村には悪い事ばかり起こるようになり、現在でも貧乏なのです
今はお殿様がほど近い新庄におられますので、もしこの木がお目にとまりご用材になってしまえば、西沢目の村はなおいっそう貧困になってしまいます故、
この木の話は申し上げませんでした。なにとぞこの木のお話はなさいませぬよう」と答えた
吹雪もおさまり、お殿様は新庄にそのまま帰ったが、帰り際にまた大杉を振り返ってみると、不思議なことに大杉は普通の杉と同じように見えたという
その後この大杉は神木として現在まで大切に守られてきた

「新庄古老聞書」
関連:小杉の大杉、トトロ杉

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813人間七七四年2019/03/24(日) 17:42:06.15ID:73iKfOuo
>>812
日本昔話でありそうw

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