関ヶ原合戦の真実 Part9

1人間七七四年2018/12/23(日) 14:17:08.63ID:uA0riSLH
慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原で徳川家康らの東軍が石田三成らの西軍を破った戦い。
豊臣秀吉の死後、天下の実権を握った家康は三成と対立し、それぞれ諸大名を
糾合して戦ったが、小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し、三成らは処刑され、
豊臣秀頼は摂津・河内・和泉60万石の一大名に転落した。この結果、徳川氏の覇権が確立。
俗に「天下分け目の戦い」という。
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関ヶ原合戦の真実 Part8
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1518176864/

2人間七七四年2018/12/23(日) 14:18:04.66ID:uA0riSLH
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関ヶ原合戦の真実 Part7 [無断転載禁止]©2ch.net
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関ヶ原合戦の真実 Part6
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関ヶ原合戦の真実 Part5
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関ヶ原合戦の真実 Part4
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関ヶ原合戦の真実 Part3
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1464347783/

関ヶ原合戦の真実 Part2
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1453807317/

関ヶ原合戦の真実
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1430516022/

3人間七七四年2018/12/23(日) 14:18:36.09ID:uA0riSLH
新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い
白峰 旬 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4863669283

関ヶ原合戦にはよく知られたおなじみのエピソードが多い。
しかしそれを歴史的に検証するとどうなのか?
本書では一次史料を用い、小早川秀秋への「問鉄砲」はフィクションであり、
小早川秀秋は開戦と同時に裏切り石田三成方は瞬時に敗北したこと、
家康の小山評定は歴史的事実とは言えないことなどが、次々に検証されていく。
生駒利豊書状の真に迫る白兵戦のすさまじい描写、細川忠隆の首注文史料の数字が語る実戦の具体性も
本書の見どころである。

【序章】関ヶ原合戦はどう語られてきたのか―江戸時代に誕生した関ヶ原合戦像?

【第一章】関ヶ原合戦当日の虚像を剥ぐ?

【第二章】関ヶ原合戦以前の通説を正す

【第三章】小早川秀秋を裏切らせた「問鉄砲」はフィクションである

【第四章】『日本戦史』の布陣図に歴史的根拠はない?

【終 章】すりかえられた天下取りの戦い

4人間七七四年2018/12/23(日) 14:19:13.18ID:uA0riSLH
白峰氏の石田・毛利連合政権成立の論拠
【1】豊臣秀吉の後継者である豊臣秀頼を直接推戴した
【2】毛利輝元が公儀の城郭である大坂城に入城して豊臣秀頼を直接補佐した
【3】自らを「公儀」と称した
【4】政権の所在地である大坂を中心とした上方を完全に掌握していた
【5】大名(細川忠興)を改易にして、近隣の諸大名に城受け取りを命じた
【6】大名に所領(知行)を与えた

ソース
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/dk05213.pdf?file_id=5363

文禄の役の際、講和使節の内藤如安から提示された意見書の冊封の案

日本国王、豊臣秀吉

大都督、小西行長、石田三成、増田長盛、大谷吉継、宇喜多秀家

都督、豊臣秀次

亜都督、徳川家康、毛利輝元、前田利家、小早川隆景など

5人間七七四年2018/12/23(日) 14:21:07.56ID:uA0riSLH
秀吉死後の体制に関する史料

太閤様御覚書

太閤樣被成御煩候内ニ被爲 仰置候覺

一 内府久々りちきなる儀を御覽し被付、近年被成御懇候、其故 秀頼樣を

孫むこになされ候之間、秀頼樣を御取立候て給候へと、被成 御意候、

大納言殿年寄衆五人居申所にて、度々被 仰出候事、

一 大納言殿ハおさなともたちより、りちきを被付御存知候故、秀頼樣

御もりに被爲付候間、御取立候て給候へと、内府年寄五人居申所にて、

度々被成 御意候事、

一 江戸中納言殿ハ 秀頼樣御しゅうとになされ候條、内府御年もよられ、

  御煩氣にも御成候者、内府のごとく、秀頼樣之儀、被付御肝煎候へと、

右之衆居申所にて、被付 御意候事、

一 虫ト肥前殿事ハ、大納言殿御年もよられ、御煩氣にも候間、不相替 

秀頼樣御もりに被爲付候條、外聞實儀忝と存知、御身ニ替り肝を煎可申と被 仰出、

則中納言ニなされ、はしたての御つほ、吉光之御脇差被下、役儀をも拾万石被成御候事、

一 備前中納言殿事ハ、幼少より御取立被成候之間、秀頼樣之儀ハ御遁有間敷候條、

  御奉行五人にも御成候へ、又おとな五人之内へも御入候て、ゥ職おとなしく、

  贔屓偏頗なしに御肝煎候へと、被成 御意候事、

一 景勝、輝元御事ハ、御りちきに候之間、秀頼樣之儀御取立候て給候へと、

  輝元へハ直ニ被成 御意候、景勝ハ御國ニ御座候故、皆々ニ被爲 仰置候事、

一 年寄共五人之者ハ、誰々成共背御法度申事を仕出し候ハゝ、さけさやの躰にて罷出、

  双方へ令異見、入魂之樣ニ可仕候、若不屆仁有之而きり候ハゝ、おいはらとも可存候、
  
  又ハ 上樣へきられ候とも可存と、其外ハつらをはられ、さうりをなおし候共、
 
  上樣へと存知、秀頼樣之儀 大切ニ存知、肝を煎可申と、被成 御意候事、

一 年寄爲五人、御算用聞候共、相究候て、内府、大納言殿へ懸御目、請取を取候而、

  秀頼樣被成御成人、御算用かた御尋之時、右御兩人之請取を懸 御目候へと、被成 御意候事、

一 何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、其次第相究候へと、被成 御意候事、

一 伏見ニハ内府御座候て、ゥ職被成御肝煎候へと 御意候、城々留守ハコ善院、長束大藏仕、

  何時も内府てんしゆまても、御上り候ハんと被仰候者、無氣遣上可申由、被成 御意候事、

一 大坂ハ 秀頼樣被成御座候間、大納言殿御座候て、惣廻御肝煎候へと被成 御意候、

  御城御番之儀ハ、爲皆々相懃候へと被 仰出候、大納言殿てんしゆまても、

  御上り候ハんと被仰候者、無氣遣上可申由、被成御意候事、

右一書之通、年寄衆、其外御そはに御座候御女房衆達御聞被成候、以上、

6人間七七四年2018/12/23(日) 14:21:53.47ID:uA0riSLH
    遺言覚書

一 内符

  利家

  輝元

  景勝

  秀家

此五人江被仰出通口上、付縁辺之儀互可被申合事、

一、内府三年御在京事 付用所有之時ハ中納言御下候事

一、奉行共五人之内徳善院・長束大両人ハ一番二して残三人内壱人宛伏見城留守居候事、内符惣様御留守居候事、

一、大坂城、右奉行共内弐人宛留守居事、

一、秀頼様大坂被成御入城候てより、諸侍妻子大坂ヘ可相越事

  以上

  八月五日

7人間七七四年2018/12/23(日) 14:23:05.89ID:uA0riSLH
豐臣氏五大老五奉行靈社上卷起請文寫

(端裏書)
「秀吉樣御他界之以後拾人連判誓帋寫」

敬白靈社上卷起請文前書之事

一 秀ョ樣御爲存候上者、諸傍輩に對し私之遺恨を企不可及存分に事、

一 此連判之衆中に對し、誰々讒言之子細在之共、同心不可申候、何時も直に申理、可隨其に候、

  自然不相屆儀承付候者、無隔心可令異見候、事により同心無之候共、遺恨には存間敷事

一 傍輩中不可立其徒黨候、公事篇喧嘩口論之儀雖有之、親子兄弟緣者親類知音奏者たりとも依怙贔屓不存、如御法度可致覺悟事

一 此衆中之うわさあしさまに被申聞仁於有之者、則其申主をあらはし、互可申屆候、左様に無之候て、拾人之外別人を近付、

  此衆中之うしろ事あしさまに取沙汰申間敷事、

一 諸事御仕置等之儀、其輕重をけつし、十人之衆中多分に付而可相究事、

一 拾人之衆中と、諸傍輩之間にをいて、大小名によらす、何事に付ても一切誓帋取りかはすへからす、

  如此相定上、若誓紙取あつかい仕候衆に至ては其徒黨を立逆意之基眼前候條、各相談仕、曲事に可被仰付事、

一 對 秀ョ樣、誰々惡逆之子細雖有之、出しぬきの生害不可有之、其罪科之通申屆、理之上を以可有御成敗、

  縱其身にけのひ候共、其在所へをしよせ可被加御成敗事、

    以上

右條々若私曲僞於有之者、忝も此靈社上卷起請文之御罰、各深厚に可罷蒙者也、仍前書如件

   慶長三年九月三日     長束大藏大輔

    輝元           石田治部少輔

    景勝           搏c右衞門尉
    
    秀家           淺野驒正少弼 

    利家           コ善院

    家康 

8人間七七四年2018/12/23(日) 14:23:36.89ID:uA0riSLH
「七月十二日之夜半、大坂へ旅庵被差下御条書之案文也」
一 伏見御城本丸・西丸之間ニ御番可仕之由、及両度ニ雖申理候、無御納得候事、

一 秀頼様 御為、可然儀ニおひてハ各御相談次第と安国寺へ申候事、

一 安国寺御留之事、

一 伏見・大坂之しまり之事、

一 増右より参候書状、小摂へ遣申候事、

一 如右御城内へ不致在番候者、大坂へ罷下、 秀頼様御側へ可致堪忍存候事、

一 同名中務太夫(島津豊久)、爰元へ召留候事、

一 御奉行衆之内御一人、伏見へ御在番候事、

9人間七七四年2018/12/23(日) 14:24:11.46ID:uA0riSLH
吉川広家の三成に対しての感情を表す書状

吉川廣家覺書

  對石治少我等所存之事

一 上樣以 御諚出雲伯耆に被 下置候領地之儀、御他界之後、宰相へ渡可申旨被申出候事

一 我等女五ヶ年之間、雖在伏見候、終不致 御目見候之儀、治少以時分可申由候而打過候事

一 高麗地御付城被  仰出候刻、二三ヶ國に一城宛被仰付候、我等國者方角他國に相替候、都合八万石之領地役とて、

  とくねきと申城五ヶ年之間相拘候事、

一 大明之人數、加肥後城うる山へ罷向候時、從 上樣七人之御目付衆御相談之刻、我等所存之段、彼衆中へ得御意候事、

一 うる山河越之時致先馬、大明之者壹人我等打捕申候、此両条をK筑前存知之前に候事、

一 至高麗都大明衆相動候刻、柳川、小早川致先手候、其一戰之時、壹人我等討取候事、

一 高麗都河下に、彼國之者共、一城取付在之處に、備前中納言殿、三奉行衆并前但馬、加遠江、小攝津守其外被相動候事、

  二之丸乘崩候刻、我等被疵候、手之者共頸五ツ討取候、本丸者かこひ能御座候て持居候、左候處に、

  大刑少被罷越、我等者共可引取旨致下知、被引取候事、

一 於伏見 上樣書院之御成申上度存、五ヶ年之間石治少雖奉ョ候、終不致成就候事、

一 上樣御逝去之刻、諸大名衆に御遺物被下候、我等式者不寄存候而在之處に、有方より承付儀候間、治少へ相尋申候處に、

  失念之由候而、至其時 御太刀拜領仕候事、

一 太閤樣 御感狀之寫如此に候、此御正判國本に御座候間、於 御不審者、可奉懸 御目候事、

一 太閤樣へ中國より奉得御意候儀、㝡初K如水、蜂彦右以御取次之筋目、萬事得如水御指南申候、然者、

  右兩人近年五奉行衆よ半御座候に付而、我等身上之儀不達 上聞候事、

    以上
    
    慶長十九年十一月十一日   廣家  

10人間七七四年2018/12/23(日) 14:25:27.82ID:uA0riSLH
毛利家臣が企みを聞かされた時の心情を表す書状

毛利氏老臣連署狀

  以上

態得御意候、今度安國寺出陣に付而甲州迄被罷出候處、石治少、大刑少手前如何被見及候哉、大坂被打歸候、其上、

輝元存候而被呼戻候樣被申廻、無是非次第に候、於此条者、輝元且而以被存間敷よ存候、於各々も不審千万に候、

此段被聞届候者、定而御理雖可被申達候、自廣嶋被申入候者、可爲遲々候条、先爲御分別、御旁々樣迄、爲留守居之者共、

前後之首尾、以飛脚申入候、追々爰許之樣子、至廣嶋申遣之候条、案外之仕合可被致仰天候、猶重々可得貴意候、恐惶謹言

 七月十三日  u田玄蕃頭
              元
           熊谷豐前守
              元直
           完戸備前守
              元次

吉川廣家自筆書狀
  
  以上

去五日、雲州罷立、至幡州明石罷着候處、安國寺於江州石治少、大形少手前見及子細候哉、大坂罷歸候て、

我等事も可相(てへんに只)由申候条、昨日罷着候、然者右御兩所御企承、驚入候、殊更安國寺自輝元被呼歸候樣申廻候段、

無是非次第に候、於輝元は、前後存間敷よ不審に存計候、爰許之樣子、留主居之者共、至廣嶋に申遣候、頓而可有到來候間、

追々可申上候、此由御心得所仰候、恐惶謹言
           
                         吉川藏人

11人間七七四年2018/12/23(日) 14:25:57.59ID:uA0riSLH
 岐阜攻め前後までの西軍諸将の書状
   
六月十日付安田能元・甘槽景継・岩井信能・大石元網・本庄繁長宛上杉景勝書状

今度上洛不成様子、第一家中無力、第二分領仕置之ため、秋中迄延引之趣、奉行衆へ令返答之処、重而逆心之讒言を以、是非上洛無之者、

向当郡可被及行之旨候、就之存分雖有之、元来無逆心筋目之条、 抛万事可令上洛覚悟落着、併読人糺明之一ケ條申入候処、

無是非只不相替上洛与計有之而、剰日限を以催促如此被押詰、上洛之儀者如何としても不成候、数通之起請文反古ニなり、

堅約も、好も、不入讒人之糺明も無之躰、時刻到来無二思詰候条、譜代・旧功牢人不依上下、右之趣、無拠分別仕候者ハ、

供之用意可申付侯、自然、無分別を以、理不尽之滅亡被述懐を存候者ハ、何者成共無相違可出暇候、然者、上方勢下候日限聞届次第、

半途へ可打出候、諸口之儀ニ候条、領分端々被押破、 地下等心替可仕義必然候、其時節、或在所を無心元存知、

或妻子ヲ難捨心中候者、当座之不覚末代之名をくたすへく候条、兼而肉を切而、可存是候、内々無疑心仕置無二奉公存詰者之糺明直ニ申出候者、

人ニより遠慮可有之候条、各以分別急度可被相究者也、

六月十日        景勝

安田上総介殿

甘槽豊後守殿

岩井備中守殿

大石播磨守殿

本庄越前守殿

12人間七七四年2018/12/23(日) 14:30:44.50ID:uA0riSLH
中川秀成宛西軍首脳書状

前田玄以等連署狀

 態申入候

一 去十七日折紙幷一書を以申入候、定而可相屆候、内府上樣被背御置目、上卷誓帋之筈を被違、

恣之働に付而輝元、秀家、羽兵庫、年寄衆中申談、 秀ョ樣馳走被申、取立申可に相究及楯鉾候、

其方儀太閤樣御恩賞不被相忘候者、秀ョ樣へ御忠節此時候事、

一 濃州之儀岐阜中納言殿、稻葉右京、大柿、犬山悉秀ョ樣忠節可被申に相究、人質進上被申候、

一 勢州之儀、桑名氏家内膳在城、爲加勢原隱岐被遣候、亀山岡本人質進上申、爲加勢池田伊與守、

濱民部被差越候、~戸羽柴下総在城、津城、松坂、岩手何も御人數被入置候、勢州丈夫に御置目相澂候事、

一 輝元御人數弐萬餘勢田、守山之間に陣取、何之口へ成共東國より罷上候者可差向之由候、備前中納言殿、

筑前中納言殿醍醐、山科、大津へ取續御陣取候、

一 大坂大小名共に人質丈夫に御卜、其上妻子、番等堅申付候事、

一 其方儀慥之留主居被申付、人數被召連早々可有御上候、此時候間、可被抽粉骨候、然者外聞可然樣に馳走可申候、

 恐々謹言

                 長大
 七月廿六日           正家
                 揄E
                   長盛
                 コ譱
                   玄以
 中川修理殿
     御宿所

13人間七七四年2018/12/23(日) 14:31:40.22ID:uA0riSLH
真田親子宛三成書状

去廿一日に両度之御使札、同廿七日於江佐に到来、令拝見候

一、右之兩札之内、御使者持參之書に相添覚書幷御使者口上得心事

一、先以今度意趣、兼而御知も不申儀、御腹立無餘儀候、然共内府在大坂中、
  
  諸侍之心いかにも難計に付而、言発儀遠慮仕畢、就中貴殿御事迚 
  
  公儀無御疎略御身上に候間、世間如此上者、争ととこほり可在之哉、
  
  いつれも隠密之節も申入候ても、世上不成立に付ては、御一人御得心候ても無専儀と存思慮、
  
  但今は後悔候、御存分無餘儀候、然共其段も、も志や不入事に候、千言万句申候ても、
  
  太閤樣御懇意不被亡思食、只今之御奉公所希候事

一、上方之趣、大方御使者見聞候、先以各御内儀かた大形少馳走被申候
  
  可御心安候、揄E、長大、徳善も同前に候、我等儀者、使者如披見候、
  
  漸昨日伏見迄罷上躰に候、重而大坂御宿所へも人を進之候而御馳走可申候事

一、今度上方より東へ出陣之衆、上方之樣子被承、悉歸陣候、然者於尾、濃令人留、
  
  歸陣之衆一人一人之所存、永々之儀、秀ョ樣へ無疎略究仕、歸國候様に相と候事

一、大略無別条、各々無二之覺悟に相見候間、御仕置に手間入儀無之候

一、長岡越中之儀、太閤樣御逝去巳後、彼仁を徒党之致大將、國亂令雜意本人に候間、
  
  即丹後國へ人數差遣、彼居城乗取、親父幽斎在城へ押寄、二の丸迄討破り候之處、
  
  命計赦免之儀、禁中へ付而御侘事申候間、一命之儀被差宥、彼國平均に相濟、御仕置半候事

一、當暮、来春之間、關東為御仕置可被差遣候、仍九州、中國、南海、山陽道の人數、
  
  既八月中を限、先江州に陣取幷来兵粮米先々へ可被差送之御仕置之事

一、羽肥前儀も 對 公儀毛頭無疎意覺悟に候、雖然老母江戸へ遣候間、
  
  内府へ無疎略分之躰に先いたし候間、連々、公儀如在不存候条、
  
  各御得心候て給候へとの申され分に候事

一、ヶ条を以蒙仰候處、是又御使者に返答候、又此方より条目を以申儀、
  
  此御使者口上に御得心肝要候事

一、自此方三人使者遣候、右内一人は貴老返事次第案内者そへられ、此方へ返可被下候、
  
  殘弐人は會津へ之書狀共遣候条、其方より慥かなるもの御そへ候て、ぬまた越に會津被遣候て可有候、
  
  御在所迄返事持来歸候者、又其方より案内者一人御そへ候て上着待申候事

一、豆州、左衞門尉殿、以別帋雖可申入候、貴殿御心得候て可被仰達候、
  
  委曲御使者可被申伸候

  恐惶謹言 七月晦日 三成
  
  真房州
    御報

14人間七七四年2018/12/23(日) 14:33:46.90ID:uA0riSLH
真田親子宛大谷吉継書状

眞田安房守       白以

左衞門佐殿

大坂より

猶以此方之儀、大坂いかにも丈夫に人質を取かたまり申候、伏見之城へは嶋津、輝元、備前中納言殿、小西御鐵炮、弓衆今日取寄候、

無程のりくづし可申候、此已後は留主御氣遣有間敷候、伊豆殿女中改候間、去年くたり候時、左衞門佐方へくやみ候樣子迄を

證跡に申無別儀候、豆州へも不苦候はは、御心得候て可給候、左衞方へは東海道うつの宮へ出合候樣、さわ山より兩吏くたし申候、

天下泰平無此上候へ共、御兩所の御事、心かかり不及是非候、以上、

大坂御留守より飛脚被差下由候間、申入候、

一 内府去去年已來御仕置 太閤樣御定被背相、秀ョ樣御成立難成由候而、年寄衆輝元、備前中納言殿、嶋津此外

關西之諸侍一統上を以御仕置改申候事、

一 去十七日に西丸内府留主居理にて出し、輝元被移候事、

一 出陣之諸侍妻子御年寄衆より被相卜候、御兩所之御内儀、我之預分に仕候事、

一 内府置目御ちかへ、十三ヶ条書顯候、諸人存知に付中々無不審體候事、

一 何方に御在陳候共、右趣御分別候而、秀ョ樣御身捨有間敷事肝要候、倂御居住の所により、かぶりのふられざる仕合可在之候、

此返事に御内狀を可給候、御年寄衆へもみせ申候樣に調可被下候、委曲御年寄衆よりの觸狀条目可被進候、

萬々御左右待申候、恐惶謹言、

  七月卅日                  白以



真田宛西軍首脳書状

急度申入候、太閤樣後不慮以来、内府被背御置目、上卷誓帋被違、恣之働無是非次第に候

殊更今度景勝可被相果段、不謂儀に候間、種々理申候へ共、無同心下向、如此之上、

秀ョ樣可被取立、非所行候之間、各申談、守御置目、秀ョ樣御馳走之為可申、上方之儀一篇に相固、

御仕置申付、關東へ罷立候衆も妻子人質於大坂相究候間、不可有異儀候歟、勿論上方在京在國之衆は、

何様にも、秀ョ樣へ御忠節可申上由、無二之覺悟に候、就之伏見之城在番に關東二千計在之間、

卽時に諸手より乘崩、大將鳥居彦右衞門始候て、一人も殘討果候、誠以天罰與申事に候、

次丹後之事、羽柴越中兄弟餘多在之内、壹人秀ョ樣へ御目見をも申させす、悉召連關東へ罷立候、

其上御忠節も無之に、新知召置候段、不相屆儀候間、人數を遣城々何も請取、田辺之城町二ノ丸焼崩押詰仕寄候て、

堀際迄責詰候、落居不可有程候、其表之儀堅固の被仰付、秀ョ樣への御忠節此時候、

左候者各々被相談、御外聞も可然樣に可申談候、恐々謹言

八月二日  長大正家
      
      揄E長盛
      
石治三成
      
コ善玄以
    
芸中輝元
    
備中秀家
 
真田安房守殿 
御宿所

15人間七七四年2018/12/23(日) 14:35:02.80ID:uA0riSLH
松井康之宛西軍首脳書状

急度令啓候、内府去々年已來、太閤樣被背御置目、上卷之誓紙を被違、恣の働付而、今度各申談、

及矛楯候、關東之儀も伊達、最上、佐竹、岩城、相馬、真田安房守、景勝申合、色を立候に付而、

則八州無正體事候、上方より罷立候衆も、妻子人質於大坂相究候故、是又懇望候、

就其越中方之事、大勢兄弟之内、壹人秀ョ樣へ御目廻をも申させす、悉關東へ罷立、

其上何之忠節も無之、新知召置候儀、不相屆に付而、丹後之事城々悉請取、田辺一城町二ノ丸まで令放火、責詰仕寄申付候、

落居不可有程候、貴諸之事、太閤樣別而被懸、御目、知行等まで被下候間、秀ョ樣へ御忠節可在之義候、

於樣子者太田美作守方へ申渡候て差下候、其郡之事、速可被明渡候、何かと候ては不可然候、恐々謹言

八月四日  長大正家
      揄E長盛
      石治三成
      コ善玄以
  松佐 御宿所

真田宛三成書状

巳上 態申入候

一、此飛脚早々ぬまた越に會津へ御通し候て可給候、自然ぬまた、會津之間に他領候て六かしき儀在之候共、

  人數立候て成共、そくたくに成共、御馳走候て御通しあるへく候

一、先書にも如被申候、貴殿事早々小室、ふかせ、川中嶋、すわの儀、貴殿へ被仰付候間、

  急度可有御仕置候、可成程御行此時に候事

一、とかく物主共城々へ不罷歸御才覚肝要に候事

一、會津へも早々關東表へ御行被仰談、行に可被及之由申遣候、貴殿よりも御入魂候て、可被仰遣候事

一、從越後も無二に秀ョ樣へ御奉公可申旨、申越候間、妻子も上方に在之事候条、僞も在之ましく候、

  羽肥前儀、母江戸へ遣故候か、未むさとしたる返事候、剩無二に上方へ御奉公と申羽柴五郎左へ

  手前へ人數を出候間、自越後越中へ人數可被出申越候、定相違有間敷候事

一、關東へ下上方勢、漸尾三内へ上り、御理半に候、それそれに承候儀究候て相濟候事

一、先書にも申候伏見之儀、内府爲留主居、鳥居彦右衞門尉、松平主殿、内藤弥次右衞門父子、

  千八百余にてこもり候、七月廿一日より取巻、当月朔日午刻、無理に四方より乘込、

  一人も不殘討果候、大將鳥居首は御鐵炮頭すすき孫三郎討捕候、然而城内悉火をかけ、

  やきうちにいたし候、鳥居彦右衞門尉は石垣をつたい、にけ候よし、誠かやうなる儀、

  卽座に乘崩候段、人間之わさにて無之と各申合候事

一、先書にも申候丹後之儀、一國平均に申付候、幽齋儀者一命をたすけ、高野之住居之分に相濟申候、

  長岡越中妻子は人質に可召置之由申候處、留主居之者聞違、生害仕と存、さしころし、

  大坂の家に火をかけ相果候事

一、備之人數書、爲御披見進之候、此方之儀可御心安候、此節其方之儀、公儀有御奉公、

  國数可有御拝領儀、天之あたふる儀候間、御由断在之間敷候事

一、拙者儀、先尾州表へ岐阜中納言殿申談、人數出候、s左太只今御理申半に候、於相濟者、

  參州表へ可打出候、もし於不濟者、C洲へ勢州口一所に成候て、可及行候、

  猶言事可申承候、恐々謹言

八月五日   三成
  真田房州
  同 豆州
  同 左衛門介殿
      人々御中

16人間七七四年2018/12/23(日) 14:39:11.04ID:uA0riSLH
次は

17人間七七四年2018/12/23(日) 14:40:08.07ID:uA0riSLH
真田宛三成書状

去三日之御狀今六日子刻至佐和山參着、令拜見候、

一 先書に度々申入候、參着如何、其國一ヶ國之仕置責取に被仰付之旨、輝元、秀家、揄E、長大、

コ譱從拙者可申遣旨被申候間、其心得而深志、河中嶋、諏訪、小ゥ、甲州迄之儀、成程弓矢御才覺可被仰付候、

何も上方に妻子有之衆に候間、不可有異儀候、若愚之意方者、押付成敗有之可有配領旨相談之上被申定候間、

其旨可被仰付候、被移時日候而者其詮有間敷候、但餘御手候衆者此方に可承候、美濃衆可被差向儀候、

羽右近儀者各別之遺恨、其故者御若輩之 秀ョ樣を申掠新地拜領曲事よ被仰候事候、

一 會津被越候飛脚可被仰談儀肝要候事、

一 越後之儀者堀久太差執心無之候条、上方缺國多候間、越後者被遣景勝、久太上方に而拜領の樣有搆、

一 河中嶋儀者御手に餘に付而者可承候、從此方被仰付方可有之候、

一 前肥州江戸に老母幷家老人質に置候故歟、其補ひとての事に候哉、于今慥に御請をも不申、剩丹五郎左へ出人數等と申付、

北國へも如形被遣御人數候、堀久太上方へ無二之覺悟候、越後筋に候間、越中に亂入候得よ申遣候事、

一 丹後國之儀者一國平均所務半申付候、幽齋事色々懇望に付赦一命流罪候、息越中事故御法度被誑内府、

御若輩之 秀ョ樣を申掠取新地候故遺恨深候、被か妻子居大坂候つ、焼討に被申付候事、

18人間七七四年2018/12/23(日) 14:41:07.04ID:uA0riSLH
続き

19人間七七四年2018/12/23(日) 14:41:21.59ID:uA0riSLH
一 先書にも申候、大坂西丸に家康留主居之者五百餘居候を追出して遣伏見城、西丸に者移輝元候、

其已後伏見城鳥井彦右衞門大將に而手八百餘人置候、各申談、去る朔日從四方乘破不殘壹人討取、城中御殿此間雜人原踏荒候間、

悉火を懸一字も不殘焼払候事、

一 内府上杉、佐竹敵に被任、僅三萬之人數を持、分國抱十五城、廿日路被上事成物候哉、路次筋之面々今度出陣候上方衆如何内府次第よ申共、

廿年已來 太閤樣之御恩を内府去年一年懇切に相替、 秀ョ樣へ如在仕、剩大坂に差置たる妻子を捨可申候哉、

其上内府此中各へ差而懇も無之と承候、右之分別も無之衆之壱万、上勢壱万計を語ひ候半を尾、參之間に而可討取儀誠に天之與に候、

然者會津、佐竹、貴殿等者着袴可有亂入存候、但被捨天道仕置見之候間、被上候事も可有候、唯今進候備如左右被相究候事、

一 載此書立候衆何も無二之覺悟候、可御心易候、日本國之諸侍之妻子入置大坂候間、於仕置可御心易候、

免角愚意違背之輩可被討取覺悟專要候、此方爲仕置明後八日尾州表へ被出候、岐阜申談候、不可有御氣遣候、

一手之筑紫衆者殘置佐和山、用次第可被打出候、尾州表へも輝元之人數壱万計吉川、安國寺召連、長大同道に而昨日被打出候、

其外勢州表書立次第に候、鈴鹿越を被打出、輝元之儀者、自然家康被上候者、濱松迄被着候時分人數弐万召連至勢州出馬可仕相定候、

此書立之人數五三日已前に悉從國々馳上相知候、於仕置者可御心易候、其上金銀、玉薬料入候者可承候、從 秀ョ樣可被遣候、

太閤樣御貯之金銀幷闕地何も御忠節次第其々に可被下候、今度伏見表手柄仕置九州衆、内府江州之地行十万石令割符、

當座之引出物金銀に添感狀被下候、

一 定而可被聞召候、水野和泉守參州池鯉鮒に居候處に、加々井弥八郎よ申者出陣仕立寄致口論、弥八郎刺殺和泉守、

帯刀者新池を取候仕合よ相違候、中式も病死候、猶吉事切々可申承候、御用無之共可預御飛脚候、御内儀方大坂に御入候、

一段無事に候、宇多河内父子當城爲留主居今日當地へ被參候、下野事先日責伏見候節、被取合候而家中之者少々手負得共、

父子共に無事に候、可被御心易候、今度九州衆不大形 秀ョ樣へ御奉公振に候、抛命無二之體に候、輝元も同然に候、恐惶、

                           石田治部少輔

       八月六日

        眞田安房守殿

20人間七七四年2018/12/23(日) 14:42:14.58ID:uA0riSLH
真田宛三成書状


去五日之御狀、今日於濃州大垣令拜見候事

一、度々爰元之様子、其地之儀申越候、未無參着候哉、只今の御書中無御心元候事

一、羽久太儀、何樣にも秀ョ樣次第と度々到來候間、羽柴肥前老母幷家老之人質、江戸へ遣取、

  未御事請不申、剩加州小松表へ人數を出なとと風説候条、急度越中へ亂入可在之旨

  度々申遣候、定而早々被面へ可及行候事

一、石玄番事は大坂に妻子其上兄弟在之事候間、致推量に公儀慮外難成身上候間、

  石備前を以巨細申候き、定而別条在之間敷歟難計事

一、羽右近事、定而兎角に内府儀無二に可存候、新知拜領候、其上上方に妻子一人ならて無之、

  菟角貴所より早々可被及御行事

一、石玄事も濟候へは能候、不濟候はは、是又其方より可被御行候、越後より之道明候へは、

  會津へ之通用共に自由候事

21人間七七四年2018/12/23(日) 14:42:59.10ID:uA0riSLH
一、信州之儀は不及申、甲州迄も貴所御仕置可在之旨、輝元をはしめ各被申候事候、

  拙□より能申候へとの事、此段先書に申候、早々人をも御拘候て、方々へ之御仕置此時候、

  拙子儀しかと濃州に在陣候、長大勢州に在陣候、此口之儀、家康ほとの者十人上り候共可御心安候

  討果候より外他事不可在之候、今度關東へ罷立めんめん、尾、參州の間に集居候て、懇望申族も候、

  又江戸にて人質をしめられ、致迷惑族も在之事候、味方説に申候哉らん、家康急度上るなとと申成候由候、

  あわれ上り候へかしと念願迄候事

一、菟角早々會津へ使者を被立、公儀無御如在、拙者と被仰談候由、可被迎合候、不及申候へ共、

  國ならひにて物のそかどを申方□候間、如此御入魂上は、少々出入りはいらぬ事候間、

  物やわらかに、彼方気に入候樣に被仰越、御入眼此時候事

22人間七七四年2018/12/23(日) 14:43:28.50ID:uA0riSLH
一、先書にも如申、伏見之城、家康留守居鳥居彦右衞門をはしめ七頭歟千八百餘殘置候處、

  此時宜候間、關東へ明退候へと申候へ共、りくつ申候間、去朔日四方より乘入、

  一人も不殘討果候、鳥彦右首は御鐵炮頭鈴木孫三郎討捕候、此間、御殿中雜人はらふみけがし候間、

  不殘焼払候、大坂の儀も西之丸に人數五六百ほと殘置候を追出、伏見へ追入、輝元被入替候、

  是又伏見にて同然に討果候、伏見にて各手を砕乘崩候、九州なとの衆別而手柄を被仕候、

  大坂には揄E被居候、輝元も在城候、伏見にも六七千にて、掃除、普請以下申付候、

  然間京都、大坂静に候、勢州江安國寺、吉川壱万餘召連、長大同道にて罷越候、尾、濃へは拙子罷越候、

  嶋津其外九州衆佐和山へ被參候、人數入次第、尾、濃之間へ可打出候、丹後之事はや一圓平均に申付候、

  幽齋事可被成敗に義定候處、自 叡慮色々被 仰出、命之事相助、九州中流罪之體候、則諸方へ之備書立進入候、

  此備書立之内に在之面々□、無二 秀ョ樣可抽忠節覺悟候、せいしにまて相究候、此外先手に在之衆、

  書此立に不乘衆も可在之候、右之段先書に雖申候、不相屆候哉、又申入候、恐々謹言

  八月十日  石治少三成
    真田安房守殿
    同左衛門尉殿  御報 

23人間七七四年2018/12/23(日) 14:44:19.01ID:uA0riSLH
佐竹義宣宛三成書状

追て、來春は、頓て御上洛可被成候間、被御禮仰上可然奉存候、無御油斷御用意專一に奉存候

去月廿三日に其地を罷立候飛脚無異儀大坂へ罷着候、同月廿六日之御狀も於江左拜見、此飛脚大坂へ罷通候、

追而歸遣候節可申候事

一 内府日來之恣之仕置狼藉、追日曲事之次第有之付て、此備書之面々申談、可打果議定候、大坂西の丸留守居、

五百計殘置候を追出し、伏見之城へ追入、伏見には、鳥井彦右衞門大將にて千八百餘籠置候、大坂西の丸へは輝元被移候事、

一 伏見之城に、右之者共置候へは、不濟事に候間、去朔日四方より乘入、籠居候者、壹人も不殘打果而、

殿中此間雜人原ふみちらし候間、一宇も不殘焼捨候事、

一 長岡越中、若輩之 秀ョ樣を申掠新知行拜領候間、曲事無是非次第候、依之丹後國へ人數被遣一國平均に申付候、
  
幽齊居城に楯籠候を可討果に議定候共、禁中より命之儀赦免任叡慮一命被免候事、

一 真田事、無二に京家次第と被申候間、信州之仕置彼人に被仰付候事、

一 羽玖太も無二京家次第と被申付而、早々越中へ可被亂入之由申越候事、

一 羽肥前事、老母家老人質に江戸に遣に付而、未た慥之御請を不申、剩加州表へ被動候、定而江戸へ之

おきのいたるへく候歟、兎角曲事に候間、此口へも御人數如此被差向候事、

24人間七七四年2018/12/23(日) 14:45:06.08ID:uA0riSLH
一 日本國諸侍妻子、大坂に申置候間、此段可御心易事、

一 會津よりも度々到來に候、伊達最上相馬、何も入魂被申由候、其國之儀勿論會津必可爲御入魂候旨、

被仰談、家康可被討果御行此時候事、

一 萬か一も家康うろたへ候て上候はは、尾州參州之間に而討果儀案中に候、然間參口被遣御人數備、

書立、爲御披見進候事、

一 右之書立にはつれ候者は、多分今度其許へ出陣候衆に而候、漸尾州へ遁上、御理申半よ存候、

然共後々迄之究、それそれに申付候、人々より歸國之儀申付候、於仕置者可御心易候事、

一、爲仕置輝元人數壹萬餘、先吉川安國寺長束大藏同道に而勢州へ一昨日出陣候、輝元儀は濱松邊へ出陣、

家康上着之刻三萬召供出連、可上候に相定候、其外勢州へ一手向之人數すすか迄とし、次第次第にくり出候之事、

一 我等事、尾濃境目之爲仕置、尾州衆表一昨日八日に罷出候、岐阜衆と申談事候、九州衆は佐和山に

殘置人數入次第可打出候申事候、尚追々可申入候、恐惶謹言

 追而水野和泉、家康おちに候、それさえ出陣之刻、彼居城參州ちりうにおゐて馬廻かかの井弥八と申者と口論いたし、

弥八和泉を切ころし、堀帯刀其座に在合、痛手を負い相果候、新地を取候仕合に相違、中式少も痛死候、以上

  八月十日              石治少
                        三成
  義宣

    御報 

25人間七七四年2018/12/23(日) 14:45:49.13ID:uA0riSLH
島津忠恒宛義弘書状とその追伸

  嶋津惟新書狀

猶々内府公より貴所へ預候之鷹、ここもと陣立に付而、取亂候間、幸山路市兵衞尉罷上候条、下申候、

將又帖佐方之人衆定上候、自然濱市、かこしま之人衆同然に罷立候へなとと候ては、可致遲遲事可在之候、

帖佐之人衆者今程過上御座候条、盛にては罷成ましく候、伊勢平左衞門尉、本田六衞門尉兩人として、

人衆すすめ候て、早々可差上よし○被仰候而可給候、

七月廿九日之書狀、八月十七日濃州至垂井上着、令披見候

一 龍伯樣御上洛之儀被聞召合之由、御尤に存事候、然者被成御上洛。かみ樣へ御替候はん哉と申越候も、

世上靜謐之時分、内府公御意候条右之分申越候っ、當時者上方之成立諸式被成改易候条、于今者龍伯樣御上洛之儀不入儀候、

委細先書に申下候条可相屆候、

一 去春已來伏見御留主番に付而、人衆可被差上由數度雖申下候、無合點候哉、終に壹人も不被差上候、千萬無心元存候、

一 今度上方就轉變、前嶋太郎兵衞尉差下樣子具に申越候、雖然、御人衆被差上候之共、又者被上間敷とも否之返事無之、

大方成 御文體に候、畢竟太郎兵衞尉若輩故委細不申屆候哉、不審深重に存事候、連々御家中より在京之人衆七千人之御盛、

兼日相定由及承候条、先甚内半分と存、三千五百程急度可被差上由前嶋太郎兵衞尉を以申越候き、此如申下候樣子者、

御國元之儀も心遣存候ての由事候、然處九州衆過半被成在京。當時  秀ョ樣御用に被相立候、在國之衆者皆々被召上候、

其上分國よりも御人衆馳走可仕由被仰聞候間、其後申越候は、㝡前三千五百人可被差上由雖申下候、他國なみの儀候間、

有樣之軍役被仰付肝要之由細々申下候、然者此度之御書中、何方とも無一着遠慮之體と相見得申候、

定於御心中者、別儀有間敷候へ共、何としたる御事候哉、無心元存事候、

一 今度之御使、態上方亂入之體被及聞召、被差上候御札候之条、上方之行、御國元之仕置、旁被入御念被仰越候へ者、

愚意も又在之儀候、然處一着之樣子も無御座、一段大方成書面無心元事深重に存候、

一 秀ョ樣御奉公と申、御家御爲と申、拙者儀一命を捨可申事覺悟之前候、然間不顧恥辱御奉行中任御下知、

濃州垂井と申在所迄出陣仕候、當分在京之人衆はかこ嶋、冨隈、帖佐役人存知之前候条、人衆付今度差下不申候、

伏見御城攻に手負死人多々御座候間、彌無人共、中々可申樣無之候、今申分成共、御人衆被仰付、早々可被差上事、

且 秀ョ樣への御忠節、且御家之御爲、旁以御分別此時候、必拙者へ御見次申事にては會以無之候、

一 御奉行中へ書狀認可申由候て、判紙二まい慥かに上着申候、雖然此度上方就物忩、御人衆可有御馳走共、

又者上せ有間敷共、更に御書中に相見得不申候条、書可申樣雖無御座候、餘無音に罷成候、又爰元成合次第と承候条、

後日之首尾を不存候へ共、書狀調申候、案文差下申候、

一 内府致御供被罷下候上方之人衆幷井伊兵部、榊原式部東國之人衆引率、尾州至C洲上着之由申來候間、

定近々可被及一戰候、然時者再書可進之事不存儀候条、不遺胸懷申達候、

一 出水表之儀定可為不番候之条、被添御心候而可預候、將又肥後表之御人衆此度之覺悟何程に御座候哉、

無申迄候へ共、可被聞合事肝要候、不可有御由斷候、

一 此書狀長文にて候条、御六ヶ敷被思召候共、よくよく被御覽屆候而可預候、恐々謹言
  
  八月十九日   惟新

  少將殿
    まゐる

26人間七七四年2018/12/23(日) 14:46:19.16ID:uA0riSLH
  嶋津惟新書狀

 追而申候

一 判紙二まい被差上候条、書狀調候而、御奉行兩人へ進入申候、石治少老へは判紙不參候間認不申候、

何も重而人衆可被成馳走も、又者馳走有間敷候者、其理急度被仰分候而、書狀可被上事肝要候、

一 長宗我部殿人衆之事、二千之軍役而候へ共、此度之御忠節に候と被仰、五千めしつれ被罷上候、是又為御心得候、

一 K田加兵衞尉上着之砌、被仰上候誂物之事、具に承屆候次第に調させ差下可申候、然者内府公より貴所へ御給之刀可被上由被仰越候、

一段祝着申候、今度之御弓箭はれかましき儀に候へ共、然々之かたな所持不申候条、急度御上せ候而可給候、恐々謹言、

  八月廿日   惟新

27人間七七四年2018/12/23(日) 14:46:52.63ID:uA0riSLH
本田正親宛島津義弘書状

  嶋津惟新書狀寫

「御文庫四拾八番箱中」

猶々出水之儀者國堺之儀候間、惣別在國之人衆は彼表へ在番可申付候、其外衆中氣任無之樣に連々之置目稠可申付儀專一候、

乍勿論貴所事者在國候而、諸式可申付事肝要に候、將又長宗我部殿事者惣別人數弐千人之御盛而候へ共、

秀ョ樣へ爲御馳走五千人被召列、近日勢州へ着陣之由候、立花殿事者千三百人之御盛而候へ共、是も爲御馳走四千人召列、

今日爰元に上着之由候、餘國如此候處、さつまの仕立僅千人之内而爰元を仕舞候事、幾度申ても無面目次第難載筆紙候、

然者中書事は、此方より佐土原へ注進候てより人數早當陣上着候、然處出水、帖佐兩役人として一到來無之事更以無心元候、

幸便之条申越候、仍上方忩劇之由度々申下候、定而可相屆候、然者關東與京都之御弓箭而候条、尾州と濃州之堺を隔防戰候、

就其拙者事も御奉行中任御下知、濃州垂井與申在所に着陣候、當手之人數も伏見城攻に手負死人多々候条、

彌無人而晴かましき出陣、手前之迷惑さ各推量之外候、殊近日者 内府公御供候て、東國へ下向候上方之人數幷井伊兵部少、

榊原式部少、東國之人數を引卒、至尾州C洲上着候由申來候、定近々可被及一戰候、重々申下候やうに帖佐より之續衆、

分限、少分限を不謂、可有心人數者可罷上事此時候、能々無由斷可申付候、於巨細者旅菴可申候之間閣筆候、恐々謹言

   八月廿日                惟新

     本田六右衞門尉とのへ

28人間七七四年2018/12/23(日) 14:48:03.56ID:uA0riSLH
八月二十五日付長束正家・増田長盛・石田三成・前田玄以・毛利輝元・宇喜多秀家宛上杉景勝書状

一 大閤様御不慮以来、内府被背御置目、被?上巻誓帋、恣之仕合故、各被仰談、被立御置目、秀頼様御馳走之段肝要至極存候事

一 日本國諸侍妻子人質、大坂ニ被召置二付而、無二忠信之覚悟被仕候由、御尤候、弥堅固之御仕置たるへき段、令校量候事

一 伏見之城在番之関東勢、早速被仰付、爲始鳥井彦右衛門悉被討果之由、誠天罰不浅存候事

一 羽柴越中、條々被違ニ付而、丹後被召上、國中平均ニ被仰付之旨、珍重ニ候事

一 當表之儀、如?仰、去月廿一日内府江戸を被打立、廿六・七時分白河發向議定之?ニ、上方変化之様子動轉、悉敗軍候、
 
内府者今月四日ニ小山?(より)江戸へ被打入候、則関東表可罷出処、最上・政宗見合、慮外之躰候条、急度申付、奥口相済、
 
関東へ三昧可仕候上者、卒尓ニ関東表及調議、奥口蜂起候へハ、手成見苦候条、右之分候、

但内府上洛議定ニ候者、佐竹令相談、?万事関東乱入之支度無油断候条、可御心安之事

一 南部・仙北・由利中之面々、秀頼様へ御奉公可申上由、此方へ使者到来候事

一 越後之儀、江戸へ人質を出、無二内府一味之躰ニ候条、一揆?申付、少之人數をも遣可討果由存候処、秀頼様へ無二忠節之段、
 
就中越中江動?被仰付之由候条、羽久太(堀秀治)へも可令入魂旨申届候、一揆等も相静候、溝口・村上両人之儀者、前廉?無別儀候事

一 當表之儀者、随分丈夫ニ可申付候条、可御心易候、諸口申付候故、急速関東へ不罷出候儀、所存千万候、併来月中者佐竹相談、是非可及行候、
 
猶當表仕置、最上・政宗義も御指圖次第可存其旨候、恐々謹言、
                       
               會津中納言
   八月廿五日          景勝
  長大
 増右
石治少
徳善院
輝元
秀家
      参御報人々御中

29人間七七四年2018/12/23(日) 14:48:40.16ID:uA0riSLH
戸川達安明石守重宛書状とその返書

戸川達安書狀寫

此表近々に御在陣之由候条、御床敷存一書申入候事、

一 今度は不慮之御たてはかり無是非次第に存候事、

一 其表貴殿御壹人御陣取之由承候、如何樣なる仕合にて御越候哉、承度候、秀家何に御在陣候哉、

貴殿御そはに無之儀不審に存候事、

一 此表之儀、上方爲御手遣諸勢C洲邊御在陣に候、井ノ兵部少輔、本田中書、松平下野殿其外先手衆一兩日中に

此表着陣に候、石川左衞門大夫、松平玄蕃爲先勢頓にC洲被罷着候、内府樣去十六日に江戸御立候、

廿五六日には必C洲可有御着との追々御左右在之事候、

一 我等儀此表先手衆に相加罷越候、左京儀は富田信濃守緣者に付て、爲加勢あのの津へ渡海仕分此表へは不參候事、

一 御弓箭之儀、内府樣御勝手に可罷成事、程有間敷候、さてさて秀家御身上之儀此時滅亡と存事候、

貴殿いかに思召候哉、侍從殿御事幸内府樣むこにさせられ候、御事に候間、御家あひ續候樣には貴殿御分別にて

如何やうとも可罷成事候、此時無是非當家被相果候段我等式まて無本意存事而候間、其御心得尤に候、

惣別秀家御仕置にては國家不相立とは天下悉しりふらし申事に候、其上侍從殿御取立候へは、

貴殿なと筋目少も不相替候間、此刻之御分別專一に存まてに候、我等事對貴殿少も如在を不存候間、

思召寄儀不被殘御心底御返事にくわしく可被仰越候、然はたそ御存知之もの壹人進之候而尚以可申承候事、

一 我等事、今度身上に付て内府樣御厚恩をかうふり申候、其上關東にも重々御懇に御意共に候間、

女子、母何も其方に雖有之と、内府樣へ無二に御奉公を仕、とにもかくにも御下にて可相果覺悟に候、

くれくれ善惡御返事奉待候、恐々不宣、

八月十五日  達安

30人間七七四年2018/12/23(日) 14:52:37.25ID:uA0riSLH
明石守重書狀

C洲迄御上付、御使札本望存候

一 如被仰越今度者不慮御立別、互無是非御事候、

一 拙子事、伊勢表御仕置等爲可承、十日已前より此地罷越候而有之事候、秀家事伏見落城之後は大坂被罷下候、

又此比は草津表被罷出在陣之事候、

一 内府御先手衆至于C洲御着岸之由尤可爲左樣と存事候、其付貴樣御事先手衆に御加候て其元御出候由、

此度善惡に可懸御目と存候事、

一 内府公去十六日江戸被成御立之由、此度之義被成御上候はて不相叶儀候条、尤可爲左樣候、

内々存候は只今迄無御上事不審存候き、

一 御弓箭之儀内府御勝手程有間敷之由被仰越候、其方に而は左樣に思召事尤候、此方衆中被仰候は、

秀ョ樣御勝手に可被仰付事は案中候、倂内府於御上は菟角可被及防戰候之間、其上而の御事候、

一 秀家御家中儀被仰越候、誠各御無覺期故外實惡罷成候、然共御聞及も可有之候、

於上方人之存たる衆餘多被相抱候、存外丈夫に有之事候間、於其段は可御心安候、

一 浮左京殿あのの津表へ爲加勢御出勢之由候哉、津より迎致候を途中に而被打果候条、いまた津へは御越有間敷と存候、

津之城儀急度御取詰に而候、定不可有程候と存候、

一 御兩人事度々此方に而申出候、此比御左右不承候つ、預御書中滿足此事候、

一 貴殿御事内府御厚恩之由候間、とにもかくにも御しかたにて可有御果との御内存尤候、然者貴所御妻子事、

只今和州郡山に御在宅事候、秀ョ樣可爲御勝手候間、右之衆中少も如在不可存候間、可御心安候、

一 善惡之返事可申越之由承候、只今之御書中に而は樣子不相聞候間。御内意爲可承壹人相副進之候、恐々謹言、

八月十九日      明掃部頭
              守

  戸肥樣まゐる

       御報

31人間七七四年2018/12/23(日) 14:55:11.42ID:uA0riSLH
次に東軍

32人間七七四年2018/12/23(日) 14:55:39.61ID:uA0riSLH
岐阜攻め前後の東軍諸将の書状

井伊直政本多忠勝宛黒田徳永書状 K田長政コ永壽昌等連署狀

犹以穩密之書中に候之条、御他言御他見在間敷候、卽此狀可有火中候、以上

態以飛札申入候、仍而此表之儀蹟々人數相揃候、内々犬山表に押之城を仕、各御出次第に河を越可相働旨惣談相究候處、

村越毛介殿爲御使御越候て俄談合相替、とても 内府樣御馬きりきりと出不申はか不參候間、何事も不入義候、

一刻も急河を越、いか體に成共可相果候由誰々なく就被申出、各其分に同意に候、然者天下之勝負河越に相究候間、

御兩所急御越候て今一御談合候て尤に存候、御人數は被爲置、御自身迄片時もはやく御出專用存候、恐惶謹言

    八月十九日         K田甲斐守長政
                   コ永法印壽昌
                   奧藤兵衞三明

  井兵部樣
  本中書樣
     人々御中

33人間七七四年2018/12/23(日) 14:56:16.16ID:uA0riSLH
秋田実季宛佐々政孝書状

佐々政孝書狀

秋藤太樣         佐々淡路守政孝

  御報

尚以上方之儀御てま入申間敷候間、可御心安候、無何事有之事候はは、早馬一つ御もとめ候て可被下候、

いまほともちたへし申候間、扨如此候、此書中頓而火中被成可被下候、以上

御書中并口上之子細具以得其意候、内府樣へ之御狀田C六先陣へ罷越候間、西隱州申談、御使者口上之樣子をも得

御意申、御返事之通口上に具申含候間、其御分別尤に候、重而東へ於被成 御出馬者樣子可被仰遣候条、

其御覺悟尤候、隨而先度上方御人數此表へ就出陣、大刑部少も可罷下旨候てつるかより催人數、たるい邊まて罷立候處に、

石治部少方より使をよひ越、於佐保山二日令談合如此企別心、内府樣、奉行衆御手切之樣に罷成、上下機遣共可被成御推量候、

34人間七七四年2018/12/23(日) 14:56:56.70ID:uA0riSLH
一 上方への路次中、駿河中式少監物同長丸共人しち江戸へ被召寄、城々には内府樣御人數を被入置候、

遠州懸川山内對馬、濱松堀尾信濃、參州吉田之儀は不及申、田中兵部、尾州s大夫殿兄弟しち物羽三左へ被請取、

是も右之分に御座候、

一 甲州淺見、信濃國千越前、日根野織部息子、石川玄蕃、京極修理、さなだ伊豆兄弟參人是も無別儀候、

さなた親、中むすこは宇都宮より引返し別心之儀候事、

一 濃州木曾川かち渡り餘多御座候、何方を御越候はんも御儘候、かち渡り無座候ても、あかめ、いもう、吉里、

かやう之所此方より相抱候条、濃州へ成共、江州佐保山へ成共、御働之儀は成安義に御座候、

一 濃州より相抱候城々之事、竹かはな百々越前、大柿に伊藤長門息加勢、河尻肥前、伊藤左馬正、rヒにたきのまるも、

郡上稲右京、金山稲右近、遠山田丸此分相抱候、岐阜之事も中納言殿無人而御座候、日數五十日と被相抱候事成間敷と風聞候事

35人間七七四年2018/12/23(日) 14:57:51.77ID:uA0riSLH
一 勢州桑名氏内膳、加勢原隱岐守 ~戸羽下、亀山岡本次兵へ、加勢大和衆少身者五六人已上二手ほと入置之由、

鳥羽嶋九鬼持分、此分上方一所之事、

一 勢州之内此方より相抱候城之事、津冨田信濃守、松坂古兵部少、右二ヶ城相抱候事、

一 尾州犬山は濃州より相抱候、石備前、加勢加藤左衞門尉、竹中丹後、かやう之者共相籠候、

一 江州佐保山水口大津、則侍從如此相抱申事、

一 伏見去朔日に致落居、城主鳥井彦右衞門、内藤与次右衞門、松平主殿、其外諸人五六百打果之由候事、

一 大坂本丸右衞門尉、西丸輝本居申之由候、其外口々番勢之事もてるもとと被申付之由候事、

一 羽越中殿妻子、其外國持衆女子なと改、二丸へ可入置旨使立改候處に、羽越中殿留主居稲冨、小笠原右兩人として

越中殿妻子をさしころし、火懸、腹を切り相果申候間、双方女子とも堅改申候儀は打置、人しち有之は取、

無之は留主居之人しちを取置申候由其聞候事、

36人間七七四年2018/12/23(日) 14:58:23.62ID:uA0riSLH
一 丹後へも人數を出し羽越父子之居城を責申候由候、然共已上四ヶ城を二つははらい、二ヶ城へ相つほみ丈夫に被相抱之由候

國中之一きをおこし寄勢數多打取申候由候事、

一 北國肥前殿去月之末より被相働、加州表羽五郎左居城へ被取懸、はしはし放火取出二ヶ城被申付、

其より先へ被相働大庄寺へ取懸、山口玄蕃父子其外二三千も籠有之を去二日に責崩、山口玄蕃父子其外軍兵九百餘

被打果候由御注進候、然所に小松近邊少通路無人に付面、又取出を可被申付、其より上方へ可被相働之旨御注進被成事、

一 丸岡山修理、北庄木紀伊守、府中堀帯刀、かやう之衆も無別儀肥州次第之由候事、

一 大刑つるかに居申、羽肥前殿御上之由をね、木のへに取出を仕ふせき可申由候て、筑前中納言殿を爲物主、

其外若狹侍從、鍋嶋信濃、毛利豐前、かやう之衆壹万餘之つもりにて、右之取出をこしらへ申候由候、

此廿六日に可被成御出馬之旨候、頓而上方より御吉左右可申上候、何も委細之儀は口上に可被申候、恐惶謹言、

  八月廿二日             正敞
  秋藤太樣
      御報

37人間七七四年2018/12/23(日) 15:02:15.97ID:uA0riSLH
家康側近等宛井伊直政書状

  井伊直政書狀寫

此表存之外に各被出精候、今朝之注進には幸田之渡りの仕合不相聞候間不申上候き、敵二千計に而河端へ出候を、

河を被越被及合戰、羽三左衞門殿手計へくび五百程被打捕之由飛脚之申口に候、直に可有御注進候間具には其に可相聞候、

どどの越前、犬間勘平討死之由申候、岐阜中納言殿やうやう山へ迯上之由申候、手負も多は無之由申候、

一柳監物殿案内之事之事候間、先を被致候に付而、彼家中隨分之者討死申之由候、岐阜へ取懸可申之由候處に、

河越各くたびれに付而今夜は北方に陣取、明日はぎふへ動可被申之由候、大方ぎふも落居程有間敷之由何も申候、

此地羽左衞門大夫殿組之衆は明日先岐阜へ押詰候而、羽三左衞門尉殿組之衆惣構をも被破候者、ぎふの上之かち渡りを越、

佐和山へ動相上り可申之由今夜談合相定申候、三左衞門尉殿之組、淺左京殿、山内對馬殿、松下右兵衞殿、池田備中殿

有馬玄蕃殿、堀尾信濃殿、一柳監物殿は今度道筋に付而被致案内者候、

38人間七七四年2018/12/23(日) 15:02:50.92ID:uA0riSLH
一 羽左太と此筋へ被越候衆、賀藤左馬殿、羽越中殿、K田甲州、藤佐渡殿、田中兵部殿、本多因幡殿、生讃岐殿

羽修理殿、筒井殿、松倉豐後殿、秋山左近殿、~保長三郎殿、大形如此候、一昨日は無理に羽左太に押つつき

本中、我等河を越申候處に、今夜何も御理而惣之蹟に可押之由候間、兩人之儀者從 内府樣御使之儀に候間、

近罷立、得御意をも申ために候条、是非共左衞門大夫殿御人數之蹟に押候樣に被成候て可給之由申候へ共、

達而被申候間無是非候、か樣に候ては何事候て御注進申候共、三里、四里蹟而候間遲々可申候、其上何も被入精候處に、

致見除候樣而一段迷惑申候、

一 自當地岐阜へ三里御座候、北方よりは二里にて候間、明日も甼を被破候事は、三左衞門尉殿之組衆たるへきと申事に候、

一 石治少此間者岐阜へ切々見廻申、其上河手と申所に陣取申候事も候處、河越候而より大柿へ引入、

ものみを壹人此筋へ出し申事無之候、今日赤坂邊迄も押申候者大方佐和山に迯け入可申候と何もわらい申事候。

一 たる井には嶋津、たちはな居申候由申候、恐々謹言

    八月廿二日      井伊兵部少輔直政

    本多佐渡殿
    西尾隱岐守殿
    村越茂介殿

39人間七七四年2018/12/23(日) 15:03:31.70ID:uA0riSLH
浅野長政宛福島正則書状

   s正則書狀

  以上

遠路御狀忝拜見見仕候、爰元之樣子羽三左殿、左京殿申談候、隨而一昨日廿二日に三左衞門殿、左京殿、

遠州衆川越在之處に、岐阜衆少々罷出候候を、被及一戰被追崩候、手柄共に候、次昨日羽越州殿、加左馬殿、

我等いなは山へ取つめ早束落去仕候、中納言殿儀いろいろかうさん被申候間、小しやうとも二三人にて、

尾州へおくり申候、爰元之儀彌○はかゆき申候樣に、羽三左左京殿談合いたし秀ョ樣御爲よきやうに可仕候、

於樣子は可御心安候、恐惶謹言

     八月廿四日      羽左衞門大夫
                    正則

    淺彈正樣

40人間七七四年2018/12/23(日) 15:04:12.91ID:uA0riSLH
結城秀康宛福島正則書状

  s正則書狀寫

急度致言上候、一昨日廿二日はきわう、おこし舟に而我等爲先手相越、かしのい、竹かはな近邊令放火、

翌日未明に岐阜へ押懸、則時に町追破、すいりゆうしに丸三つ御座候、弐つ其外二三ノ丸悉乘崩、

本丸も天主まて責詰申候處に、木作、百々已下罷出三郎殿御身命無異儀樣にと降參仕候に付而、

井兵部少輔、本中務令談合、くるしかるましき由被申候に付而、先尾州まて退申候、城中之者數多討捕候、

其段井兵、本中渊底被存候間、定而可申上候、次城責申候刻、うしろつめ心に石治部者かうと河向まて罷出候處、

K田甲斐守、藤堂佐渡守ら向河を越、一戰に及、追崩數多討捕候由候、定而樣子直に可被申上候、

今日各相談仕明日佐和山表へ相勤、重而御吉左右可申上候、恐惶謹言

     八月廿四日      羽左衞門大夫
                    正則

       羽參州樣
           人々御中

41人間七七四年2018/12/23(日) 15:04:50.37ID:uA0riSLH
中川秀成宛松井康之・有吉立行連署状

尚々内府様漸北伊勢へ可被成御働と存候、大坂無正躰籠城用意候旨、已上

急度申入候

一 大坂去十八日出船之者、夜前此地へ下着、慥ニ申来候、長大ニ人数被添南いセへ打越、阿野津・松坂・岩手三ノ城可請取由候て使被立内ニ、

富信州(富田信高)・古兵少(古田重勝)・稲蔵(稲葉道通)三人舟七十艘斗にて着岸、城々へ被入候、筒井も伊賀へ帰国之旨候、就其矢手関地蔵へ被引退由候事

一 北国之儀、府中城へ大刑少人数寄、色々被申候へ共、堀帯(堀尾吉晴)留守居堅固ニ申故丈夫相抱ニ付、手当残置北庄へ通、彼表ニ在陣之旨候事

一 丹後之城弥堅固之由申来候、御奉行衆才覚にて禁中へ申、勅使ニて雅楽殿(生駒親正)・阿波殿(蜂須賀家政)並ニ被仕候様ニと被申候へ共、一切取相無之旨候、

越中かたヨリ追々人ヲ小々被打上様子申、城中弥強申由候、尚吉左右可申承候、恐惶謹言

八月廿五日

松井佐渡守(花押)

有吉四郎右衛門尉(花押)

中修理様
人々御中

42人間七七四年2018/12/23(日) 15:10:35.87ID:uA0riSLH
ふんことの(村井豊後長頼)   はひ(羽柴肥前、前田利長)
                        まいる
金法印(金森長近)よりひきやく給候、しうちやく申候、 我々事七月廿六日ニ小松おもてへはたらき候所に、

ふしミのしろせめ申候由うけ給候間、八月一日ニ大せう寺へはたらき、ふしミのしろのたよりにもなり可申候と存、三日に大せう寺へ取かけ、

そくしニせめほし、山口おやこ(山口宗永・修弘)うち取候、すなわち越前へはたらき可申と存候所に、

ふしミのしろ一日ニおち申候由候、其上越後いつき(一揆)おこり申候由、久太(堀秀治)よりちうしん(注進)候間、まつ人しゆうち入候て、

おいさし物いけなをし申候而、二日中ニはたらき可申候と存候、 孫四郎(前田利政)おんなとも、上方にい申ニつゐて、

孫四郎色々の申分候、のとい申人しゆおたて候ましきよし申候間、此中もしゆえことわり申候、なかはにやかてもさかいめへ出度候所に、

かやうの事にてはかゆかす候事、てんとうつき申かと存候、かやうの申ひらき、大ふへ申されす候事候間、

われ?のめいわくすいれう候へく候、左馬助なとハわれ?かたへ人しちを出し申候、其ほかの人もちも、大方人しちを出し申候、孫四郎かたよりわれ?に、

色々さま?のふそくかましき事申候、此ひころ、おとゝいのなかにても、一人ならてハなく候間、あらけなくいけんを一つ申さす候間、とうさめこ上方に候つるとて、

がてんすまざる事申候、此よしかうしつへもよく申度候、大なこん殿おり、色々せいしなとおもいさせ候、、其上かうしつなとも、其方に御いり候間、

一かとせいおも入候て、よく候所に、かやうにふんへつちかい候事、われ?しやわせあしきゆへニ候、めことも上方に御入候物とも何ほとも御入候、

孫四郎ハよ人にかわり、かうしつをゑとにおき、其上われ?をしうにもおやにももち申候間、おんなめこらをすて候てくるしからぬ事候、

おかしきしやわせ候、しかしなからせかれの事候間、くるしからぬ事、心やすかるへく候、

大せう寺の事にひきやくまいらせ候へハ、ろしにとゝこうりあるへく候、 かしく

九月五日

43人間七七四年2018/12/23(日) 15:11:38.32ID:uA0riSLH
家康側近宛加藤清正書狀

(後筆)
「女共罷下に付、其注進として大坂への便宜に遣候、大坂より才覺仕遣候へと申遣候」

 跡書

態致言上候、何方迄被成御馬候間、承度存申上候、

一 拙之女房共今月朔日熊本に至而召寄候、若御機遣被思召候はんかと存申上候事、

一 從奉行衆我等かたへ申談候はんとて、毛利壱岐守を差下之由候、書狀は相越候へ共、其身は小倉在之由候、

其後去月晦日に大坂我々留主居之ものに申付、互之誓帋之案文差越、 秀ョ樣へ御忠節此時候間、

家老之者共人質をも出罷上御奉公申候樣にと被申越候、于今不能返事候、樣子により如水申談返答可申遣候、

か樣之儀若御耳にたち候共、被成御不審間敷候、重々如水と申合在之事候間、御心安可被思召候、事三申上候へ共、

于今壹人も不罷戻候、小山より被下候我等もの壹人參着候、其已後又壹人進上申候、重而又如水申談壹人つつ進上候事、

一 此面之儀尾州C洲邊へ被成御着候御一左右承、いつれの道にも此鄰國可申付と存、如水申合候て在居候、

聊卆爾之儀仕間敷候条、御心安可被思召候、委儀は右如水相談進上申使口上に申含候、此等之趣可然樣に御披露所仰せ候、恐々謹言、

   九月七日         加藤主計頭
                   C正
     本多佐渡守殿

     西尾隱岐守殿

44人間七七四年2018/12/23(日) 15:12:19.34ID:uA0riSLH
 跡書

急度致言上候、今度無二御奉公申上、心底立御耳御判頂戴之儀、御前に付置候小性昨日罷下口上に申聞候、

誠忝御諚共可申上樣無御座候、於此面之儀者聊無越度樣に可申付之条、御機遣被成間敷候、將又大坂より我等女房共仕合能召下候条、

御心安可被思召候、然者先度拙者もの小山より被仰付被成御下し候、口上に尾州表迄不被成御馬已前に卆爾之働仕間敷之旨被仰下に付而、

今迄相かかへ申候、はや尾州迄被出御馬濃州口御勝手之樣子も相聞候条、此方角之儀如水申談、急度相働無程鄰國申付御注進可申上候、

此等之趣可然樣に御披露所仰せ候、恐々謹言、

   九月十一日          C正

     本多佐渡守殿

     西尾隱岐守殿

跡書に重而は此印判にて可申入候間、可被成其御心得、爲其に只今おし候て進之申候、

45人間七七四年2018/12/23(日) 15:13:21.39ID:uA0riSLH
上田攻めに関する史料

方針の転換の告げる里見義康宛秀忠書状


此表之仕置申付候處、大柿之城に石田治部少輔、備前中納言、嶋津、小西已下楯籠候處、先手之衆取巻候間、

早速可罷上由、内府より被申越に付て、急上洛令候、將又其表長々在陣御苦労悉く存知候、猶彼地より可申達候段、

一二不能候、恐々謹言

   九月十一日             江戸中納言
                       秀忠

    安房侍從殿
        御陣所 

曽祢原盛安宛渡辺金内書状

  定

一 今度さなたあわのかみ(真田安房守)でじろくわしやかたけ(出城冠者嶽)におゐて、

當月六日に、一之きと(木戸)にてたたかい、身方四人打死ておい八人有之所に、其身てをおい、きとをやふり、

てきの旗をとつて石川玄幡守へ參上仕候き、目前之かせき(稼ぎ)しやうこ(証拠)に不及候条、

以来之しうもん(証文)可然旨拙者に被仰渡れ候故、如此出し置者也、仍如件、

   慶長五年          渡邊金内
      九月十五日

      曽祢原C七殿

46人間七七四年2018/12/23(日) 15:14:13.45ID:uA0riSLH
決戦直前の吉川広家と石田三成の書状

祖式長好宛吉川広家書狀

去月廿四日津城落城去之儀付而、態飛脚、令祝着候、於干今者、趣具可有其聞候間、不能申候、其以後濃州表へ打出之、

去七日南宮山と申に陣執り候、敵は樽井赤坂に有之事候、双方中間一里候、只今まては弥行無乘之候、追々可申遣候、

其地番衆普請等無緩之由肝要候、諸事犹以不可油断候、従香又(香川春継)、山九(山縣春佳)可申候、謹言

九月十二日         廣家花押

  祖九右

47人間七七四年2018/12/23(日) 15:14:47.22ID:uA0riSLH
祖式長好、佐々木長綱宛吉川廣家書狀

尚々、其元万之心持肝心まて候候、此状兩人之外は拜見仕間敷候、まじく、追而申聞候、此表敵三万計陣取在之事候、

味方人數ははるばる多候。乍去、いかにもかたまり不申候、彼是以被申下さる子細共多候間、各心遣之此事候、

内府も被出候よし申候、ぎふ、いぬ山被越候間、被出候事は此節にて候候、菟角大事まて候候、心持之ため申遣候之、

兩人少も他言候ては不可然候候、爰元はやかて可相聞之候、吉事まじく、

九月十二日          廣家花押
  
  祖九
  
  佐九

48人間七七四年2018/12/23(日) 15:15:57.36ID:uA0riSLH
搏c長盛宛三成書状 石田三成書狀寫

 態申入候

一 敵至今日赤坂何之行も無之延々と居陣、ものを待樣にしかと有之體に候、不審成と各申候事、

一 從江州被出候衆、勢州より被出候衆參着候はんとて、今日たきのかなやと申所へ被出逢候、拙子儀はおほかきに在之事に候、

當城へ近邊の人質伊藤家來之もの幷町人のしちもつ迄入置候、敵より火付之才覺伊藤若輩故、家中之者共樣々之才覺仕候に付て、

心ゆるし不成候、殊に拙子之者共さき手に有之所は敵相二町三町之間に候之条、拙子は城中にしかと有之體に候、

今日之談合にて大形味方中之仕置可相究候、あらあらなから一昨日長大、安國寺卷題陣所へ我等參、彼内存承分にては

諸事相濟間敷と存候、その故は殊之外敵を大事に懸られ候て縱敵はいくん候共、中々可相果行も無之、

菟角身用心之御陣取之積り計にて候、陣所は垂井の上之山候に山取之用意に候、彼山は人馬之水も有之間敷程の山にて候、

自然之時は懸合にも人數の上り下りも不成候程の山にて候、味方中も不審可仕候、敵も可爲其分事、

一 爰元苅田候へは、兵粮は何程も有之事に候へとも、敵を大事に懸られ苅田にさへ人を不被出候、

兵粮は江州より可出候由候間、成次第に持出可申候、近比味方中ちちみたる體に候事、

49人間七七四年2018/12/23(日) 15:16:41.12ID:uA0riSLH
一 味方共に勢州江州之人數出候はは、何とそ一行可有之と存候處に延々としたる體に候、依之敵も亦ためらい候體に候

拙者所存候通も長大、安國寺へも申候へ共、一圓御取合無之候間、其通に仕候事、

一 菟角如此延々と候はは、味方中も心中難計御分別之前に候事、敵味方下々の取沙汰には妻子人質之儀は何樣にても

苦しかるましき體に候、揄E、内府へ被迎合筋目に候とても、妻子なと一人も成敗之義有ましきと申なし候、

是もK白を存たる者は不申下々申事に候、倂申も無餘儀候、既に如斯討被討候へ共、其者之妻子御成敗穩便故、

先書にも如申犬山加勢衆謀叛なとも出來候歟、さりとては有間敷儀なから是も妻子氣遣無之故と下々申候、

爰元諸侍申され候も敵方之妻子五三人も成敗候はは、心中替可申と申事に候、爰許承候通申入候、御分別に不過候事、

一 大津之義、去とては此節根をたやされ候はては、已來御仕置之さはりたるへきと存候、殊に伊奈之侍從殿、

當表にて種々之才覺御推量之外にて候事、

50人間七七四年2018/12/23(日) 15:17:33.83ID:uA0riSLH
一 敵方へ人を付置聞申候、佐和山口より被出候衆之中、大人數もち敵へ申談らるる子細候とて此中相尋候、

其故は勢州へ被出陣をも申留、各面々在所在所に被相待候樣にと申談なとと申、此二三日は頻にかけ口有之、

敵方いさみ候つる然るに江州之衆悉山中へ被出而、かけの口違候樣に敵申候とて、唯今申來候、菟角今之世は

人質不入體に見へ申候、終に出し候人質無御成敗候間、人質に不搆も無餘儀候事、

一 何れ之城之傳々にも、輝元御人數入被置候御分別肝要に候、此段子細有之候間御分別あつて勢州を初、

太田駒野に今度城を搆候而能候はんと存候、江濃之境目松尾之御城、何れ之御番所にも中國衆入可被置御分別尤にて候、

如何程にも慥成遠國衆にて候へ共、今時分は國郡之心差し有之付て、人之心難計候、御分別之前に候事、

一 當表之儀は何とそ諸侍之心揃候はは、敵陣は廿日之中に破り候はん儀は何れの道にも可多安儀に候へ共、

此分にては結句味方中に不慮出來候はん體眼前に候、能々御分別肝要に候、羽入兵、小攝抔も其被申樣に候へ共、

遠慮有之と見へ申候、拙子儀は存知之たけ不殘申候、

51人間七七四年2018/12/23(日) 15:18:04.58ID:uA0riSLH
一 長大、安國寺存之外遠慮深く候、哀々貴所に當表之儀、一目御目に懸度候、扨々敵之うつけたる體家中之不揃儀

思召之外に候へ共、それよりは味方中事をかしき體に候事、

一 輝元御出馬無之事拙子體は尤と存候、家康不被上には不入かと存候へ共、下々は此儀も不審たて申事に候事、

一 度々如申入金銀米錢遣はさるへき儀も此節に候、拙子なとも似合に早手之内有たけ此中出し申候、

人をも求め候故、手前之引廻し御推量可有之候、然は此節に極り候と存候間、其元も可有其心得事、

一 從江州被出衆之手前、自然之不慮之儀も候へはと存、是のみ迷惑に候、輝元御出馬無之候はは、

佐和山下へ中國衆五千計入可被置候儀肝要之御仕置に候、菟角勢州へ被出衆之歸りは大垣、佐和山の通路にも不搆、

自然之時分は太田幷駒野へ取つき、畑道を江州へ御通用之積計と相見え申候間、長引可申と存候事、

一 備前中納言殿今度之御覺悟、さりとては御手柄、是非なき次第に候、此段自諸口可相聞候間申に不可及候、

一命を棄而御かせきの體に候、其分御分別御心得可有之羽兵入、小攝同然に候事

一 當分御成敗有之間敷人質妻子、宮島へ御下可有之歟、御分別部不可過候事、

一 今度勢州口より被働衆、中國は不逮是非其外長大、大刑幷御弓鐵炮衆も長大、安國寺一手に被引向樣に相見え之候間、

大人數廻り兼候、人數も少々そつに罷成體に候事、

一 丹後之儀隙明之由に候、少にても外聞に候間、彼表之衆當表に被立候樣に可然候、恐々謹言

  九月十二日    石田治部少輔

    搏c右衞門尉殿

52人間七七四年2018/12/23(日) 15:18:39.35ID:uA0riSLH
決戦の経過、結果に関する書状類

伊達政宗宛徳川家康書状

今十五日午刻、於濃州山中及一戰、備前中納言、嶋津、小西、石治部人衆、悉討捕候。直に佐和山迄、今日着馬候。

大柿も今日則捕候。可御心安候。彌其表之様子、彌御仕置等、尤候、恐々謹言

  九月十五日   家康花押

    大崎少將殿

53人間七七四年2018/12/23(日) 15:19:32.38ID:uA0riSLH
年次欠(推定関ヶ原直後)養徳院(池田恒興母)宛徳川家康書状

御文ことに二いろを くり給候、しうちゃくに そんし候、

うけ給候ことく、てんかとりしつめ候、

三さへもん殿一たんと 御しんらうともにて候、

いつれもめてたき事、

かさね々申うけ給候へく候、

めてたくかしく

やうとく院  内ふ

54人間七七四年2018/12/23(日) 15:20:05.06ID:uA0riSLH
松平和泉守宛石川長門・彦坂小刑部書狀

早々御飛脚本望存候、其樣子則御耳に立申候、然者去十四日赤坂に被成御着、十五日巳之刻關ヶ原へ指懸被為及一戰、

治部少輔、嶋津兵庫頭、小西、備前中納言十四日之夜五つ時分に大垣外曲輪を焼払、關ヶ原へ一所に打寄申候つる

此地之衆幷井兵又s殿、爲先手其外悉打続く、敵切所を抱有所へ指懸、とりむすひ候刻、筑前中納言、

わき坂中書、小河土佐父子、此四人御味方被申、うらきりを被致候、則敵敗軍仕、追討に無際限うちとり申候、

大將分は大谷刑部少輔、嶋左近、嶋津中務、戸田武蔵平塚因幡此外討取り申候へ共、先人之存候衆は此分に候条、

打捨はなをかき候て捨申候間、誰を討捕申候も、然々と不被不存、又十六日に佐和山へ指懸とりまき候て、

田中兵部水の手をとり、本丸へ押懸申候へは石田杢父子、治部少輔しうと父子、同治部おや、妻子一人も不殘きりころし、

てんしゅに火を懸、悉焼払落城仕候、其刻城より三百人ほと取○、手前へ罷出候處を一人も不殘うちとり申候、

皆々小姓共まて高名いたし候間、可御心安候、治部少補は十五日之合戰場より行かた于今聞へ不申候、

將又安國寺をは吉川、ふく原兩人思食にからめ出し申候、輝元御訴詔被申候由候へ共、如何可有か不被存候

犹替儀候者追々可申入候、恐々謹言

九月十七日   石川長門
        彦坂小刑部
  松平和泉守殿へ

55人間七七四年2018/12/23(日) 15:21:33.40ID:uA0riSLH
近衛信尹宛て近衛前久書状

昨朝御見廻申候ヘば、早天に大津ヘ御越之由候間、大助に申置帰山申候。主水をも遣し候ヘ共、

未内府は大軍に付、路つかへ、江州守山辺に居陣之由申、昨日主水も従((二)中途(一)帰申候。御仕合如何候哉

一 一昨夕彼陣床より拙者ヘ参候者、直に語候趣、為に御心得一申候。内府は当月朔日に国本を出馬候て、
  
  十四日に大がき表ヘ被(二)押寄(一)候を、大がきの軍勢石治少・島兵入・小西など見候而、山ヘ取上リ候。
  
  内府は五万程にて、手人数各別ニ備られ居陣候

一 先手之人数は、福島一番・長岡越中二番・金森法印三番・田中兵部其外上方之人数四万計、面々に備、
  
  青野ヶ原にての合戦にて候。即時に切立得(二)大利(一)候。

  番ひに金吾手をかへされ候。其太刀場にて、大谷刑部討死候て、其ままきり崩候。上方より出陣の人数五万計候。
  
  四五千も討死候と申候

一 十九日に沢山ヘ取かけらる、則落居候て、石治少子・杢など討果候由候

一 石治少・島兵入は山すたいに引退候と相見、行方不れ知候。越州へのき候はんかと申候。生捕に仕候との沙汰は、

  うそにて候と申候

一 きっ川は輝元被れ取候。知行分悉給置候者家康ヘ味方に可れ参候との(あつかい)にて候ヘどもそれは余之□之由候て、

  半分の契約にて、一味申候との事候。

  安国寺は乗物にてのき候を、きっ川者共追懸候ヘ共、行方しらす見失候。生捕之沙汰不(レ)存候と申候

一 備前宰相は討死との事雑説候。無(ニ)異儀(一)之由申候。是以味方には不(レ)成被(レ)申

一 長尾景勝との和睦は無れ之候。其手当に結城三河守・政宗など被(レ)残候と申候。政宗は一筋に家康ヘ一味之由候。

  白石と哉らん申候城、景勝抱候を此方ヘ被(レ)取、政宗入城之由候。此城前々政宗城由候

一 佐竹は景勝・石治少などヘ一味之由申候而隔心と相聞候と申候

一 信州さなだは敵に成候て、中納言忠秀・榊原式部少輔などは、彼国ヘさしむけられ候と申候。是も手間不(レ)可(レ)入候間、

  一途被(二)申付(一)、上洛との事にて候と申候

一 なつか大蔵は、みなくちの城に居候。それへも人数さしこされ、可(二)討果(一)之由ト申候

  三奉行は可(レ)有(二)成敗(一)之由にて候と申候

一 昨日より風聞は、なつか大蔵は内府ヘかけ入候と申候。内府被レ申候は、よくとも悪くともの事候由候と申候。
  
  此儀は昨日より承候、事実は不(レ)存候。

右之趣は水不(レ)入慥之事候、彼虎口より直に当所ヘ参候ものにて候。直に承候間、為(二)御心得(一)ニ申候。以上

  九月廿日     東入

猶々如れ此処に、津小平かたより書状くれ候て、内府今日大津へ被(レ)越候由、由来候間、主水をも又さし遣し候。

今日又御越候哉、定可(レ)有(二)御聞(一)候へ共、令レ申候。書中御らんじ候はば火中々々

56人間七七四年2018/12/23(日) 15:22:38.52ID:uA0riSLH
吉川廣家自筆書狀案

追々重々致言上候、

一 今度惣御和談之事、其許相伺候而可相調事候つけ共、敵之手前先書に如申上候、内府着に付而、

至野ヶ原、悉先陣衆は打出、㝡前陣所へ者内府被入移候、左候て行之樣子相聞え候分は人數二手に分候而、

一手は山中へ押入、筑中左然候處へは筑中御逆意はや色立仕合候、就其大柿衆も、被地被居候事不成候而如山中、

大刑少陣無心元之由候て、被引取候、是は佐和山へ二重番引可仕覺悟と相見え候、惣別眼前候、

さ候へは御弓鐵御味方として被出候○衆○○衆は、多分心合之樣子と相聞え申候、其地被罷居候衆も、

使者付置候はぬかた衆は、多も無之由候、一つとしてはや御弓矢御勝手に可成立ふり無御座候、此時者、

數代之御家をむさむさと可被相果事、餘殘多存、長大、長老其外之衆へも不致談合、兩人短息之餘、

別に傳無之候条、K田甲斐所へ廣家内三浦と申かち者を、口上計狀をも不持せ○に遣惣和談之手筋、

可有如何哉と計申遣之候へは、K甲mカへ談合候て、即内府御本陣所へ使召連被参、

井伊兵部、本多中書被引合せ候て、被遂披露候、内府御對面候左候へは候て、先伊兵、本中以~文無別儀旨申候へ、

以其上、吉川lエ~文人質候者上、到來の上にて、内府直御~文対輝元樣可被進之由候而、井兵、本中書前書之~文、

對兩人被差越候、勿論血判筆本を此方使に見せ候、其条數、一 惣和談不可有御別儀之事、一 對輝元、内府少も無御別心事、

57人間七七四年2018/12/23(日) 15:23:26.40ID:uA0riSLH
一 只今御分國相違有間敷事、此条々にて候、又mカK甲ら、如此相調候上者、上者以來兩人少も無別儀馳走可申之由、

對兩人~文誓紙被仕候て、三浦にmカ者一人、K甲者一人被付越候条、此上者、又此返事仕候はてはとの談合仕事にて、

兩人請紙仕使者歸○○も右四人之誓紙之返事仕調遣候て、爰元候此上は御行之様子如何候哉と、兩使へ相尋申候處、

兩使申事には、山中へ之先手は、mカ太、K甲、其外加左馬、藤佐、其外上より罷下候衆中筑中納言殿御手引之事に候条、

打合中にたて候て可討果候、可合戰仕候、

南宮山へ之手あては、先手池田三左衞門尉、井伊兵部、本多中書、其外内府馬廻、

此衆にて土佐侍從陣から御弓鉄炮衆陣、安國寺陣田中兵部、堀尾信濃足かかり能候条、

是を切崩候て、かさ陣へ可切上之由にて候、於于今此分候者、御和談調候はは間、相違可仕候条哉と

申候、先此分にて候つると申候条此方申分には、此御和談之事は、○○先兩人計存候、長大、安國寺、

長土御弓てつほう衆なとは被存間敷候条、御手あて衆已下被出候は、可及合戰候、さ候へは、此首尾相違の樣候条、

○○○○一圓に御手あてなしに○被作せ之候者、當陣之者不打出樣相(手偏に只)候て可罷居候由申候て歸候へは、

其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候、此方御人數之事不被打出候て御(手偏に只)候て

御座候へとの可然之由申て歸候右如申上候とかくあひ候する仕合にて中々無之趣候つる条長大、

安國寺は人數たかり候つけ共、兩人面白おかしく申候て、御人數打出候はて、敵手ふり聞合申候處、案中山中之儀事

即時被乘崩、悉被討果候、嶋津なとゑり勢三千にて、隨分一合戰は可仕之由候つけ共、中なか馬を被入不相成候て

其身一騎のりぬけ伊勢地のことく被退候、式候つる条、幾重々とい候はぬ仕合にて御座候つる由申候事、

58人間七七四年2018/12/23(日) 15:24:37.14ID:uA0riSLH
一 mカK甲より山中へ被打出さまに、又使者二人被越、人質之事lエ弟、粟屋彦右衞門尉子を早々出之候て可然之由、

被申候申越候条、合戰之仕合は右之分候、於于今はひかへ候ては不成ふりにて候条、如望兩人兩人差出之、

内府直之内府直之殿樣へ之御誓紙之事、㝡前申談辻にと申候而、廣家nョ使者兩人相副差出之候、

mカK甲先手へ被參候故、兩使は先さまへ參、未罷歸候、人質をは、別而内府於御本陣被○請候て候て一段

御懇に被仰、堀尾信濃殿にお預け候、當手御人數之事も、如江州被打出可然之由、mカK甲被申置候条、

任其辻、昨日南宮山より陣易仕候、路次案内者をも堀尾信濃殿より被出候へと内府被仰出候て兩人被出候道筋も

信濃殿被參候北すちのみちへ罷出候、今日佐和山着可仕候条、追々趣可申上候、

一 長土佐殿御弓矢てつほう衆は、一昨日内府山中へ被打越候を披見候てから、人夫悉如伊勢地被退候て、

山中之合戰勝手に成候由被聞候てから、ととけなしに皆伊勢路のことく被罷退候、

一 長大大藏殿も、山中合戰惡敷候由到来候へは、即ととけなしに如伊勢路被罷引退候、

一 安國寺も。長大同前に中途まてのかれ候つるか、いかか被存候哉、自中途被引歸候而、南宮山被罷越候、

然者、此和談之由被聞候て、定而腹可被切せ候条、覺悟可仕之由、使者にて候条、且而左樣有之事にても無之候条、

人數武具なとのけらけ候て、しのい候て出家一分之安國寺にて先被參可然候はん由候て、右之とをりにて候、

59人間七七四年2018/12/23(日) 15:25:06.84ID:uA0riSLH
一 爰元調之儀は右之分候、はや余日無之事候者、不及申、一刻もはつけ候へは、御無事之調不成仕合候つる故、

其元相伺申候事、中なか不罷成候て、右之分に先爲兩人相調申候条、其元御事何もかも兩人そこつに○被○作せせ候てらけ候て、

この節御家之御續千言万言肝心迄候、口上申分候衆一人早々下之候て申上度候へとも、路次のほといかにも不被計候て延引仕候、

何も今明日中一兩人差下之以口上具可申上候、其内爲御分別有搦|以書中申上候、

重々致言上候、爰許御無事之筋目、當分國中無相違可被進之由、~文被易、爲人質lエ左近、

粟屋彦右衞門尉子十郎兵衞可差出之由、御好に付而、其辻に差出相調申候、s左衞門太夫殿、K田甲斐守殿被相調、

井伊兵部、本多中書務御取次にて候、何も段々出入者口上被申分候衆一兩人を明日中差下之候て可申上候条先以其元之事、

右之辻に被思食候て可然候、一昨日十五日内府樣直に山中へは被押寄被及合戰、即時被討果候、昨日至江州二手に被分亂入候、

當手之事、北口之手同前に打出可然之由、mカK甲より被申候条、其辻に致陣易候、mカ、K甲先手へ被參候故、

人質之儀堀尾信濃殿へお預け候、即又路次案内者をも信濃殿より被差出候、一昨日は當手之事は南宮山㝡前之陣取に候て、

手前引堅かまはすに有之たる趣候、兎角於于今は、其元之御事此地にての調手はす違候はぬことく

御覺悟尤存候、候て御家被續候事此時と存迄候千言万言無別条候右如申上候口上之衆軈而差下之可申候路次之計を仕延引候此由

押紙

   敬白靈社上卷起請文前書事

一 今度之儀以御取成被思召分忝候事
     
     慶長五年九月廿二日  安藝中納言輝元

     羽柴左衞門太夫殿

     K田甲斐守殿

   起請文前書之事

一 御身上之儀向後 内府樣不可有御相違之事

     慶長五年九月廿九日   K田甲斐守
                    長政

        羽柴藏人殿
             參

60人間七七四年2018/12/23(日) 15:28:09.53ID:uA0riSLH
村越直吉今井宗久宛政宗書状

  伊達政宗書狀

  以上

去十二日自C洲之書狀共相屆候、卽自之可申上候處、今少最上表之樣體をも爲延引仕候、

一 其表之儀、大柿爲助衆毛利宰相、長大、吉川、安國寺被罷出之由、依之先衆へ可打向、卽時に可被討果之旨尤存候、

可被得勝利必定と存候、

一 此表之儀最上へ直江爲始、仙道、白河之人衆迄も參二千騎計足軽三萬程に而陣取仕、先達而如申入候はた屋之城攻切候条、

河西過半一返仕付而出羽守散々取亂、已山形之城可相敗樣に候間、息修理大夫爰元へ被越候、而加勢之儀被申候間、

内府樣御爲と存候而手前を指置、拙者祖父に候上野介に五百餘騎鐵炮千挺其外人衆五六千、卽遣申に付而、

陣取候候敵取亂已長井へ可引入體相見候条、出羽守上野申談、敵陣近所へ相働候へ共、兩方そなへ之間に大惡所候而

合戰不仕由申越候、然間敵除候事も不成候而于今在陣仕候、

一 此砌與存候而、去廿五日長井口へ下關と申所にかかり、人衆少し遣候而湯之原之城へ押懸撫切に可仕と存候處、

彼所之者共普代之筋を以頻懇望仕候間、身命計相助入手申候、依之新宿之城も明迯仕候、最上へ申合、

此上我等自身長井へ亂入可仕由存候、左樣に候者最上に在陣之衆も可爲敗軍由存候、最上所々迄も此邊拙者壹人迄之樣而

賦等申付候、扨々人衆も數多持候衆鷹野計に而遊山仕、皆々なかめて居申候、あたら知行哉らんにて候、是は貴所迄への之ざれ事に申候、

一 最上へ悉人衆取越、會津も景勝小性共計指置候而、用立候者者皆最上へ參候由迯人共何も申候間、此砌白川境迄も

關東之御人數被出候者、自之も伊達筋より仙道へ罷出候、卽手を合可申由、參州樣又御留主居之本佐州、石日向守各へ追々爲申上候、

于今無御報候、何篇五三日中、何方へ成共罷出、追々御吉左右可申上候、

一 南部境も種々六箇敷御座候を、我等使者を遣候而、上方之御樣子、又御爲不存逆意之旨少も候者、南口に人衆殘置、

我等馬廻計に而南部へ罷出候共、則時に可申付候条、如何候はんとおとしかけ候へ共、一段こまり候て、今者何樣にもと申事候間、

近日仙北よりも最上へ手切候而景勝へ一味之由候間、近邊と申南部より仙北へ後詰仕候へよし申付候、

一 此方之儀者乍若輩拙子壹人にても可仕候条、無申迄候へ共、上方御備專一候、

此書狀被入御披見可被下候、書中に少も僞不申入候、次有中書へ此由申度候、別而書狀も進候、御吉左右互可申承候、恐惶謹言、

  九月廿九日           政宗

   村茂介樣

   宗椈V
      人々御中

61人間七七四年2018/12/23(日) 15:35:56.30ID:uA0riSLH
正直嫌気がさしてきた

62人間七七四年2018/12/23(日) 15:36:25.69ID:uA0riSLH
浅野幸長宛清正書状

  加藤C正書狀

                加主計
   淺左京樣          C正
     人々御中

  已上

急度申入候、今度者彼惡逆人徒黨を企候處、早速御上候て、於濃州面御手柄之由承及候、然處内府樣御出勢に付而、

於關原面被成御合戰、悉所被討果、打續各御手柄共御羨敷候、此等之儀爲可申入、同名右馬允指上候、其元之樣子、

一々被仰越候て可給候、此面事、只今宇土之城取詰、本城二丸迄に仕成候間、落去程有間敷候、然者其面より被討洩立花左近、

妻子ぬすみ取罷下、則柳川へ令入城候、彼者罷下事少は拙者仕合に候、宇土面隙明次第相働、則時討果御注進可申候、

不及申候へ共、九州中之表裏もの共、壹人も不被成御免候樣に、連々可被仰上候、上方いつせの國々にても惡黨同心之者共、

身上無恙不被成御赦免樣に是又可被仰上事尤に存候、定而上かた御手に立もの在之間敷候、國々之樣子具に可被仰越候、

此面之儀何も如水申談、きつと可申付候間、可御心安候、恐惶謹言

      十月二日          C正

     淺左京樣
        人々御中

63人間七七四年2018/12/23(日) 15:37:08.73ID:uA0riSLH
吉川廣家自筆覺書

一 先年治部少輔安國寺致同心企逆意候、於大坂申出候刻、宗瑞留主居之者共令相談、
 
  更に非如此子細に之段、再三異見仕候事、

一 右之樣子安國寺不致承引、逆心之存立、宗瑞事呼越候而大坂西之御丸罷上候、以來無是非之次第に罷成候事、

一 大御所樣數年對宗瑞に悉之子細、其限無御座候、宗瑞内々不致忘却候之、下々まて悉被存候、然者、

  其刻治部少輔安國寺致同意に付而、右之申わけ不罷成之事、

一 於大坂、揄E其外相談之子細共身及申躰、K田筑前殿まて至關東言上仕候處、大御所樣如此に被成御書候之事、

一 於赤坂に井伊兵部殿本多中務殿へ得御意、㝡前之辻無相違覺悟仕候事、

         以上

       五月朔日      吉川藏人(広家花押)

        本上州樣

64人間七七四年2018/12/23(日) 15:37:42.32ID:uA0riSLH
吉川廣家自筆覺書案

 (この文書は、慶長五年の九月のものにかかる)

  覺

一 内府樣會津へ御出馬之刻、爲御供我等安國寺被遣候事、

一 然者、七月六日に本國出雲罷立、同十三日、於幡州自安國寺の使に參合候事、

一 七月十四日に大坂參着、同晩に安國對談候事、

一 此時安國より申かけ候段、此方返答に 御所樣宗瑞へ別而御懇に被仰出、其上御契約之筋目等迄申候事、

一 同返答に、太閤樣御死去之刻、御遺言之趣御納得、起請文血判等迄被成、其後如右御契約之時、

  御~文御取替、其儀相違、不可然之由申候事、

一 九州に被殘居候衆も人數至

一 内府樣先年尾州小牧山御一戰之時、三ヶ國之御領主にて太閤樣御引懸一戰之勝利は被得候事、

  内府樣御手被任候處に太閤樣種々以御計略御あつかいに被成候へ共今八ヶ國之御領主、其外覺有諸大名衆、

  只今東國へ被致御供候、其上隆景ほとも被相果候上者今程之衆は縱可及合戰題目在之共

  中國西國少々在之衆は○方故被存寄候共支度可爲儀も成間敷迯候中國より被罷上衆は

  或は其覺も不及年又は皆々若き衆候間、旁以不可然候と申候事、

一 右之段々安國寺に申聞せ候へは、是非此度 内府樣被致謀叛事不可然之通申候へは左候者、

  安國寺可及切腹之由申候間、縱左樣に被存候相極候共、無如在輝元に安國寺はかへらけ不申と申候事、

  第一㝡前深重に 内府樣と被申合候筋目違候事は何ヶ度申候ても不可然之由申候事
  
一 如此申候内に大坂之樣子餘無心元被存、輝元大坂へ被罷上候事、

一 太閤樣御時、我等事K田如水は以來對中國取次候故、以其手筋、右之段次第申段半之事候間

  右之段輝元少も不被寄存處を、安國石治少大形少に被催立安國寺計を以悉皆如此成行候段を

  K筑州へ甲州へ以飛脚申遣候へは、其返事に 大御所樣御書相添甲州より飛脚被指返、于今所持候事、

一 南宮山之事、

一、右拵之段甲州へ申達候へは、上者無用捨拵之儀iz後申談甲州へ申届九月十四日に御和平調申候事
  
  則井兵部本中書mカ太K甲州靈社之起請文血判被申易候間此方よりもiz我等等~文進上候て

  九月十四日に御和平調申候

一 實子之證人被成御赦免候事

一 御返納過分に御宥免候事

65人間七七四年2018/12/23(日) 15:39:33.89ID:uA0riSLH
吉川廣家自筆覺書案

 (この文書は、慶長六年のものにかかる)

 中場言樣へ申上候条數之案

今度和睦相調、我等満足此事に候、此中之儀、世上之批判之所承及候之通、雖申上度候、

此御調無殘致首尾候而と存、延引仕候、就其事多御座候へ共、初中後之樣子、以一書申上候、

一 去七月、安國寺佐和山被罷越候て、石治大形被遂相談、如何御座候つるか、忍候而大坂被罷下候、

吾等儀、早々可罷上之由候而、七月十三日、飛脚到來候、於幡州参會候、大坂罷越、長老對談候之處、彼被申樣者、

内府樣會津御出馬被相定候、今度景勝上洛延引之儀者、太閤樣依 御諚、國之仕置被申付候

三年役儀御免被成候、故如此候、其身非如在候間、先拵に可被仰出哉之段、爲各度々雖言上候、

無御承引、今度御出馬被相極候、彼表之儀可相果迄に候、か樣に候へは、諸大名進退更無安堵之事に候、

66人間七七四年2018/12/23(日) 15:40:20.40ID:uA0riSLH
已來之儀者、 秀ョ樣御爲も如何可有御座候哉、會津堅固之内、各申合、可及弓矢之通、於佐和山、

石治大刑申合、揄E其外も同意に候、於于今者、 中納言樣一刻片時も早々御上洛尤之通申下之由被申候、

然者、我等申樣者、日本二つ之御弓矢、大篇之儀候間、我等式存道無御座候、安國寺御分別此時に候、

先吾等令申所者、先年 太閤樣御逝去之前かと、諸大名被召集、靈社起請文以血判、向後各深重に申合、

公儀可有馳走之旨、可申上之由候而、重疊於 御前被相究候、其後 内府樣よ奉行方御半之刻、 中納樣別而被仰談、

已來御兄弟御契約、并藤七樣被成御契約に付而、又以御~文被仰合、已來内府樣被對 中納言樣無御等閑御座候故、

天下之聞え異于他儀共候、然者、憐國之諍、又は自他國引請候儀者、其身無如在候ても不及是非候、

何之道にもあらす候て、内府樣へ御別心非可有之儀候、其上今度謀叛候衆中被成御同心、御弓矢被思食立候事如何に候、

縱天下屬御勝手候而も、後代之聞え無曲候、左候へは、奉行方一味中よ被仰候衆中は備中、筑中、九州衆奉行衆に候、

兩中納言殿御若輩に候、其上家來區々に候、九州之儀者、遠國と申、如水、加主計別儀御座有間敷候、

惣國之衆中手前之覺悟可有馳走衆も、人數至來可爲不自由候、又奉行衆之儀弓矢方之儀は不承及候、

67人間七七四年2018/12/23(日) 15:41:17.85ID:uA0riSLH
朝鮮已來屬彼御手に候下々批判をも承候、然間、世上之沙汰も不存之儀に候、又中國之儀者、隆景御死去已後者、

前々に相替候、惣樣天下之さけすみも、此御弓矢御まけに可成哉と心得候、

又先年 太閤樣内府樣、於尾州小牧山御陣被及一戰、毛利武藏、池勝入被討死候、關白殿も先手を被崩、被失御覺候、

其一戰内府樣雖被得御勝利候、太閤樣以御思慮御拵に罷成、御緣邊以下相調、大躰者大形御勝手に罷成候、

其時太閤樣は、五幾内、中國、北國之諸大名被屬御手に御發足候、 内府樣は、其刻三ヶ國御領知候、

於于今者、八州御隨逐候、諸大名も在覺人者、悉東國方に有之事に候、然時は、御弓矢懸合不申候かと存候、

日ョ樣被仰置候も、當分五ヶ國十ヶ國御手に入候段は、時之御仕合にて候、已來之儀者、於御子孫も、

天下御竸望曾以被思召寄間敷通、連々被仰聞たる之由、元春内々申候き、万一天下御手に入候共、

權柄者可爲奉行衆候、左候はん時者、 内府樣へ被屬候よりも、御外聞實共可爲御心遣候、御まけに成候上にては、

惣之大名衆は、任時之躰に不可有實儀候、相極所者、揄E、石治、大刑、 中納言樣可爲御迷惑候哉、旁以安國御思慮此時に候段、

再三申候、然處、大坂西丸御留主居衆申理候間、此方人數可入置之通達而被申候、 中納言樣御意承届候はて、

68人間七七四年2018/12/23(日) 15:42:18.70ID:uA0riSLH
各我等式不及同心之由、返答申候、然者、長老被申樣は、於此儀者、 中納樣御内證得申候、去春nョ、堅兵木津に被殘置候も、

此儀に付而之事之由被申候而、一圓に無同心候、宰相殿、完戸殿其外もか樣之儀少も無御存知之由に候、此時は長老いかに被申候ても、

御意承届候はては、聊爾之働不相成事に候段申候、其時長老其申分に候時は、無曲次第に候とて、腹可仕之由候て、

以外違亂被仕候き、縱左候共、御爲には替不申候間、長老被相果候而も、中國之御爲に候間、不及是非之通申候半、

はや可有御上之樣に御至來も少々御座候、其時各申段、椙杜下總守至廣嶋被罷下候へと申候、此節は先以廣嶋被成御(木偏に只)、

御分國え被仰付尤に候、此方之儀者、木津各被籠候而、世上之儀承届可申下之通、相含差下申候之處、於中途被參會、

然々不申達候て、被罷上候之事、

69人間七七四年2018/12/23(日) 15:42:55.35ID:uA0riSLH
一 中納言樣無御上之内、益玄被申樣は御弓矢に罷成候時之ささはりには成間敷候、若 中納言樣無御存知之由、被仰度時は、

可然候之間、木津御留主居之者として言上仕之通、關東へ可申遣候哉、其旨趣は、中納言樣此企會無御存知候、其段自廣嶋雖可申開候、

遠路に候之間延引仕候、先輝元不被存之段、木津留守居之者共言上候由、申捨度候、後々御用に立御事もやと被申候、

是は無余儀被申樣と申候て、完戸、益玄、熊豐より榊式、本佐、長右近迄之書狀被認候、吾等も書狀相調、

完戸殿飛脚同然に可遣と催候之處、中納言樣御上着候間、此時は此文言僞に候間、飛脚指留申候、私儀者、

如水已來K甲州累年懇切に候間、一旦不申遣之段も無曲存、此儀 殿樣無御存、安國以計如此成下候通申遣候、

其返書に大御所樣御書相添到來候、則nョへ見せ申候事、

一 安國寺佐和山より被罷戻戾、於大坂被申趣は、 輝元此儀に付而被呼返候間、從江州罷歸候通、大名衆御馬廻へも數通書狀被遣候、

聞召も被可及候、又何方にも多々可有之間、已來紙面可有御覽候事、

70人間七七四年2018/12/23(日) 15:43:38.68ID:uA0riSLH
一 伏見之城へ人數差寄、責口被申付候刻、勢州へ可相働之旨、奉行衆相談被相究候、惣別濃州北國兩口之仕置、

堅被申付候て社尤候、勢州さしむかひたる儀にもあらす候間、出勢無詮候、雖然、長太、安國寺被罷向、

あのの津近邊掠本よ申所、兩人被陣取候、如何候哉、夜中我等陣所關之地藏へ被引取候、其より猶以敵味方覺相替候、

其後又津之城可指寄之由被相催候、左樣へは、大御所樣被成御打上候は、大分之一戰可有之前かとに、

不數城乘崩候ても無詮候、万一手負死人罷成候はは、一方御をくれに罷成儀に候處、首尾不合行被仕、城被乘崩候へ共、

手負死人候て人數半分に罷成、味方之覺莫大に罷替候事、

一 如此御弓矢出來候而、御名利共に、無曲可成行事如何に候、於此上も以御拵御家被續尤に候哉と、

nョ申合、堅兵少勢州呼越申、此段之物語申、差返候、其後 御諚之段、一日一日と奉待候つる事、

一 石治、大刑兼々相談被相澄樣子、大垣關か原人數、南宮山へ相まるみ一戰可仕に被相極候處、

九月十三日、 内府樣赤坂御着候刻、治少、大刑少大垣南宮を捨候て、山中へ引取候時は、前日之儀定相違候而、

佐和山へ可被打入催露顯候、然者、拵之儀連々申上も、此時に候間、K甲州へ可申試之通、

nョ申段、一人遣之、以口上申候處、則井兵、本中、mカ太、K甲州靈社血判之以起請文被申易候、

此方よりもnョ我等~文進之候て、九月十四日、御和平相澄候事

71人間七七四年2018/12/23(日) 15:44:25.41ID:uA0riSLH
一 同十五日、 大御所樣於關か原一戰被仰付候、其刻、廣家nョをくれ候て、治少合戰失勝利之由御沙汰候、

たとへは當日可爲勝利見懸仕候共、前日に血判起請文を以申替候辻、違返非可仕之儀候、其上南宮山と關か原之間二里之中間にて候、

又南宮へ之手宛、羽三左、一柳右近已下二万計指むけ被置候、其當日霧ふかく候て、五間十間相隔候所會見え不申候、

又は高山にて候故、山下行之趣、一圓見え不申躰に候、兼々も南宮衆一力之一戰可被申付との議定無之候、

何之条も其時筈難被仕合見え申候、只今世上之人口と、其刻之有躰には可爲相違よ存候、先年備中高松之城

太閤樣御責之刻、信長御生害之故、當方御和平被仰談、御陣可被打入之折節、從紀州雜賀、信長不慮之段、

遂に申越候、下々申樣は、此時手を返矛楯に及候者、天下則時に可被任御存分に所を、隆景元春御分別違候と各被申へ共、

前日~文被取替候辻、無忘却被相届之段、太閤樣御感候而、其故御當家于今如此御安堵候段、隆景折々御物語候て、

御自慢之一に候、定而各も可被及聞召候間、不及申候、併去年之御和平、此時に相應候哉之事、

一 九月十五日、南宮山にて合戰、只今各如被申候、其程被見懸候者、幸大將之長大藏、長老兩人被罷出候間、

nョ我等には不被搆、則時に一戰可被仕儀に候處、臨其期は、長束、安國寺不被相進候、只今世上之讃談は相違申躰に候、

又可成よ被見懸候所は、我等式へ一言之尋無御座候而も被申付候、其故は、津之城にて八月廿四日進陣、廿五日に仕寄候て、

廿六日に可乘崩よ申合候筈悉違候て、長束責口より町口へ被仕懸、其まま城乘に罷成候、爰を以可被成御推量候哉、

事過候て何かと致沙汰方も御座候哉、か樣之事は連々相聞え可申候間、已來可被 聞召合之候、已上

                          吉川藏人

                            廣家

72人間七七四年2018/12/23(日) 15:44:55.11ID:uA0riSLH
帖佐彦左衛門宗辰覚書
「防戦よふなく柴田(島左近か)即時に敗軍すれば、石田軍皆陳破れて敗北す、然れば午の刻の事なるか」

大重平六覚書
「石田殿、一時もこたえず候て、中書様(島津豊久)陣場へ崩れかかり候」

舜旧記
「美濃堺、於柏原、内府先勢、福田(福島か)、長岡越中、加藤左馬助、合戦之由、
 □大□(谷か)之勢、敗北大谷刑部少輔打死、余(金か)吾殿依叛逆也、巳刻也」

当代記
「関ヶ原には石田治部浮田中納言大谷刑部島津兵庫小西摂津守将陣の処に、
 金吾中納言内府公属味方之間、敵敗北、数百討取」

十六・七世紀イエズス会日本報告集
「(戦闘が)始まったと思う間もなく、これまで奉行たち(西軍)の味方と考えられていた
 何人かが内府様の軍勢の方へ移っていった」
「こうして短時間のうちに奉行たちの軍勢は打倒され、内府様は勝利をおさめた」

73人間七七四年2018/12/23(日) 15:46:30.25ID:uA0riSLH
終わった、途中で始めた事に激しく後悔をした

74人間七七四年2018/12/23(日) 15:50:25.65ID:+zd6oLLV
まぁそりゃな。おつ

75人間七七四年2018/12/23(日) 15:52:37.80ID:Zazyr1a0
お疲れ様です。

76人間七七四年2018/12/23(日) 15:55:14.18ID:IN/3D5/8
乙ですけど、これ全部読む人いる?

77人間七七四年2018/12/23(日) 16:28:38.21ID:el2tBTnt
乙ですがここまであるとwikiで資料集サイトみたいのつくったほうがよいかもね

78人間七七四年2018/12/23(日) 19:10:41.04ID:IN/3D5/8
まあ自分で>>76の様なこと書いといて何ですけど、>>19の三条目の戦費や恩賞に関する記述が気になる
ずいぶんと勝手なこと言っていないか。そんな権限があるのかと思った。それで家康のこと非難できるのかと

79人間七七四年2018/12/23(日) 22:23:54.22ID:uA0riSLH
>>77
作る場合には規制対策のため、途中短文を入れたり
書状を短めに分割してたりしてますので
ご配慮お願いします

80人間七七四年2018/12/23(日) 23:20:48.52ID:c9q2yG/9
テンプレ長すぎて草生い茂る

81人間七七四年2018/12/24(月) 00:18:37.31ID:qtHuo9AM
>>1
これはイチ乙と言わざるを得ない。
最初荒らしかと思ったのは内緒

82人間七七四年2018/12/24(月) 08:31:34.68ID:2Bk2osnf
恐ろしいのは更に史料が増えていく可能性があること

83人間七七四年2018/12/24(月) 10:43:56.61ID:RHNyixu9
wikiとかのがええな

84人間七七四年2018/12/24(月) 11:06:38.13ID:OJ88uN1B
スレ容量が心配だわ

85人間七七四年2018/12/24(月) 11:12:56.98ID:0zobcdDY
悪いがスクロールが大変なのでNGにさせてもらった

86人間七七四年2018/12/24(月) 14:36:42.32ID:5kswMVyj
これはもう荒らしじゃなくてキチの部類だろう

87人間七七四年2018/12/24(月) 15:41:53.85ID:xL/yVIIf
>>76
みんな有名な知ってて当たり前な史料だから今更読まないけどいちいち本を引っ張り出さなくていいのは便利かなとは思う

88人間七七四年2018/12/24(月) 18:30:28.21ID:RHNyixu9
労力に感謝すべきだが

89人間七七四年2018/12/24(月) 18:49:35.91ID:/Jky83bv
メニー苦しみます

90人間七七四年2018/12/24(月) 21:57:56.02ID:zR07V92w
>>43>>44の清正の書状、媚うっている感じがして嫌だな
>>82
内府ちかひの条々とか直江状とかの有名ところもまだ無いしね
>>84
史料自体は前スレにも全部あった奴だから、これからよほどの長文でも無い限り
大丈夫じゃないのかな

91人間七七四年2018/12/25(火) 01:08:48.16ID:c5zOpzhd
>>1
遅まきながら、今スレでのテンプレ史料等コピペ作業、誠に比類なき働きで見事です。
言うまでもありませんが、とてもめでたいことです。
めでたしめでたし(珍重珍重)。

ifスレの14レス分でもめんどくさいのに70レス分は相当たいへんだったと思う。
とりあえずこのスレ保存して、なにか必要になれば、「真実スレP9の>>1-70読め」
で済むようになると思う。
というか養徳院宛徳川家康消息も入れたか。

まぁたしかに内府違いの条々はあったほうがいいなとは思うけど、
全文がよくわからんからなぁ。

前スレで挙げた時慶記8月17日分を再掲しときます。

時慶記 8月17日 天晴、請取番早参、中山中納言番所ニテ物語アリ、
退出ノ後近衛殿へ参上、大坂ト内府間ノ拵ノ義被仰聞数刻伺候候、
麦飯・酒給、柳原ト間ノ義紫竹ノ一義ヲ申入御合点也、
又御所へ参、宿ノ義ハ阿野へ語テ退出、豊国社へ参、衣冠ハ御供所ニテ改、
於神前拝、如例、参詣ノ衆大略下向ニテ静也、
吉田父子(兼見・兼治)へ遣人、丹後義モ無心元旨申候、
照門へ参上、月待トテ乍立御物語?ニ申入御酒給、
月ハ二条辺ニテ拝、左近丞雇番所ニ置、
花園左近二郎ハ瘧病煩由ニテ不出、餅・酒如例出、
新内侍在付由聞、准后御方(勧修寺晴子)ニモ御懇ニ承、
女御殿同、於豊国社神楽可参??候処ニ吉田私ニ可取行由候、
不謂由ニテ伝奏ヨリ被押テ此度ハ無之由候


大坂と家康の和睦案?や丹後のことについて触れられてる。
なんか時慶って酒飲んで酔っ払ってばかりの印象。

92人間七七四年2018/12/25(火) 01:53:46.66ID:kQV7G1+Z
まとめブログ作って>>1に貼った方がより効率的じゃけ

93人間七七四年2018/12/25(火) 08:30:19.55ID:GylJE9ME
関ヶ原駅の看板に主な武将と書かれてる武将
東軍…徳川家康、井伊直政、加藤嘉明、細川忠興、黒田長政、福島正則、竹中重門
西軍…石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家、大谷吉継、小早川秀秋、平塚為広

94人間七七四年2018/12/25(火) 10:28:59.94ID:p7qugNNw
>>78
石田は蟄居の刑罰を受けた受刑者だよ。
そんな人間が、後陽成天皇の下賜を受けて出陣した武家で最高の地位につく内大臣に謀反をおこしたのが関ヶ原の戦いだ
たしか太政大臣家の豊臣も、主君の天皇家と一緒に物資援助をしている。

そもそも、豊臣という存在は、惣無事と聚楽第行幸で、帝を主君として関白が采配をふるう体制として成立したので、
豊臣が主君を名乗るのは帝に対する僭越もはなはだしい。まぁ、豊臣はしょせん主家を乗っ取って成立した逆臣の家ってことだな

95人間七七四年2018/12/25(火) 10:41:18.58ID:p7qugNNw
上杉は、隣国の堀と最上が警鐘をならしている以上、
主君の帝から大政をゆだねられ、公儀の運営を委託されている最高位の内大臣としては対応せざるえない
なのに直江状で弁明せず居直るのだから征伐も当然。帝も下賜して征伐を支持している。上杉も石田も大義はないな

96人間七七四年2018/12/25(火) 13:38:33.53ID:ronekUBI
>>92
よろしく!

97人間七七四年2018/12/25(火) 19:26:34.82ID:u9tJZIby
>>94
三成って隠居したんじゃなかったっけ?

98人間七七四年2018/12/25(火) 22:57:29.40ID:1RzT74FN
たしか隠居で代わりに家康が息子の出仕を認めていたはず
清正あたりは三成に対する処置が穏便すぎて、家康に不満を持った説があった様な

99人間七七四年2018/12/25(火) 23:13:05.61ID:c9zb2rzG
三成は権力欲の塊だから死なない限り隠居も何も意味がないからね
どうせ返り咲き目的で暴走するのは分かっているのだから清正が不満を持つのも仕方がない

100人間七七四年2018/12/26(水) 16:01:47.44ID:hzb1j2VS
>>95
直江状は偽書の疑いが強いし、上杉も上洛には一端は応じたけど、条件が合わず断念した筈

101人間七七四年2018/12/26(水) 19:53:12.06ID:XRNHDNWN
もし七将襲撃の時に三成を切腹でもさせてれば関ヶ原が起こらなかった代わりに徳川への政権移譲はもっとゴタゴタしたのかな

102人間七七四年2018/12/26(水) 19:57:38.23ID:8WHt4+O6
奉行は三成だけじゃない

103人間七七四年2018/12/26(水) 20:01:36.53ID:BkNctwHr
豊臣は主家を簒奪した大義のない存在だが、関白と惣無事と聚楽第行幸で忠誠の対象を天皇に置き換えることで
帝からゆだねられた大政の主催者としてトップになった存在だからな。
でも聚楽第行幸で大政をゆだねられた関白左大臣内覧を殺した時点で、その立場は壊れた。秀頼にはなんの大義もない。

諸大名、特に大大名も、領地を削られたり、故郷を奪われたり、左遷されたり、娘を殺されたり、冷遇されたりと、豊臣に恨みを持つ者ばかり。
秀頼は祈祷士の子供という話もあるし、乱世になっただろう。

104人間七七四年2018/12/26(水) 20:05:47.01ID:BkNctwHr
×関白左大臣内覧
○関白左大臣内覧豊臣長者
訂正

聚楽第行幸で公認された関白左大臣内覧の豊臣長者を殺して出てきたのが秀頼なので、こいつに大義はない。
しかも秀吉が九州にいたときに祈祷師と乱交して生まれた子供という話だ。血統を重視する当時の価値観からするとゴミ以外の何者でもない。

内大臣の家康がまとめなきゃ乱世だったろう。

105人間七七四年2018/12/26(水) 20:16:14.29ID:8WHt4+O6
やっぱ関白盗ったのが悪いよ豊臣
関白は公家の常任役職だからさ
あれが太政大臣や征夷大将軍だったら朝廷の怨み買わなかったよ
役職は有限なんだから公家の頂点職を盗んだら怨まれるって

106人間七七四年2018/12/26(水) 20:27:43.19ID:BkNctwHr
>>105
そもそも秀吉に大義はないからな。諸大名に命令できる正当性は帝に認められたという一点のみ

秀吉は、織田家子飼いの草履取りで、主君に寵愛されて軍団長になると
主君を備中に招き寄せて死なせ、没後1年たたずに側室や孫娘や息子や妹をつぎつぎに殺して
主家を簒奪した逆臣なわけで、こんなクズには誰も従わんよ。認めれば謀反を容認することになる。

けど天皇が関白に任命し、太政大臣に任命し、豊臣賜姓をおこない、聚楽第行幸して大政をゆだねたから
草履取りに正当性が生まれたわけ。

けど2度目の聚楽第行幸で公認された関白左大臣内覧の豊臣長者を殺した時点で豊臣にはなんの正当性もなくなった。
だから契約書を乱発したわけ。

けどそんな契約書は帝が関白や征夷大将軍を任命すればなんの意味もない

107人間七七四年2018/12/26(水) 21:12:51.29ID:R9ANC1n9
ここは関ヶ原について語るスレなんで、豊臣政権の正統性の是非とか語りたいなら、該当するスレでやってくれないか

108人間七七四年2018/12/26(水) 22:00:34.53ID:BkNctwHr
関ヶ原ってのは豊臣の正当性のなさが生み出したものってこと。

「主家乗っ取り」「関白左大臣内覧殺し」の豊臣を持ち上げて、「脱獄囚」の石田が謀反をおこし
「帝が下賜」をおこなって出陣した「最高位の内大臣」率いる軍に謀反をおこした戦いが関ヶ原だ

109人間七七四年2018/12/27(木) 20:14:11.44ID:fuQD2Fka
家康も乗っ取ってるけどね

>>100
奉行たちと交渉してて折り合わなかったんだっけ?
景勝だかが怒ってなかったっけかな

110人間七七四年2018/12/27(木) 20:40:24.71ID:h8GZu21A
家康は三成の謀反を鎮圧してあげたのだから
豊臣が家康に感謝するべきだろうね

111人間七七四年2018/12/27(木) 21:12:53.80ID:nggvcBVy
>>108
脱獄囚って三成は佐和山に隠居しただけで、別に捕われていたわけでは無いぞ
だから加賀征伐のときも家康の要請に応じて兵を派遣したりしている
自分の結論ありきで、歴史上の物事を勝手に妄想して貰っては困る
三成を脱獄囚というなら三成が監禁状態でそこから逃げ出したという史料でも出してくれないと

112人間七七四年2018/12/27(木) 22:34:42.07ID:w7aFe/E4
隠居したうえで蟄居だろ?江戸時代の刑罰でいう蟄居隠居

113人間七七四年2018/12/27(木) 23:33:43.76ID:h8GZu21A
謀反をでっち上げて関白を謀殺したり異国との戦で偽講和を仕掛けたことを考えたら
三成の蟄居は温情といっていい刑罰だろうに
それで我慢できないなら三成を斬首刑にするのも仕方がないよ

114人間七七四年2018/12/28(金) 00:23:20.83ID:hansGQMQ
>>113
頭悪いなあその程度の知識しかないのになんで書き込みしたんだ?
とっとと自殺してくれ無能な働き者

115人間七七四年2018/12/28(金) 02:07:44.38ID:F7I0ip2/
>>112
蟄居迄命じた史料はない、だから家康暗殺計画を三成が家康に密告できたりする分けで、勝手な思い込みではなく、史料に拠って書いてくれ
でなければ妄想と言われても仕方ない

116人間七七四年2018/12/28(金) 12:01:42.61ID:3SoFFi7W
受刑者とか脱獄囚って言葉のひびきでダメージが入っているらしいな

後陽成天皇が下賜をおこなっておくりだした武家で最高位の内大臣に謀反をおこした逆賊とでも言えばいいか
朝敵石田三成

117人間七七四年2018/12/28(金) 12:08:42.99ID:i5L6PffT
キンタマしゃぶってるか?おまえら。
関ヶ原オナニーはおもしろいか?あ?

118人間七七四年2018/12/28(金) 12:13:48.10ID:0FnAl+Cr
>>117
泣くなよ三成ガイジ

119人間七七四年2018/12/28(金) 12:38:30.56ID:xXLL2Qk2
三成は秀次に濡れ衣を着せて死に追いやったり、朝鮮で偽講和を仕組んだりと
明らかに豊臣を混乱させて天下を乗っ取ろうと企てていた
更に秀吉が死ぬと毛利や上杉と結託するなど謀反の準備を急速に進めていた

家康が関ヶ原で三成の謀反を鎮圧したからいいものの
家康の手腕がなければ日本全体が三成によって大混乱に陥れられていたところだった

120人間七七四年2018/12/28(金) 12:57:26.92ID:OufdsdH5
>>116
そういう話しじゃなくて関ヶ原直前の時点で三成が受刑者なのかただの隠居なのかって話し

121人間七七四年2018/12/28(金) 13:38:26.32ID:c6Th/AFR
さすがに蟄居かどうかの史料だしてくれって別に居丈高に言われてるわけじゃないのにその応答はアカンよ
三成が世間で言われてるほど清廉じゃなくかなり悪さしてるっていうのは明実録なり太閤遺言なりで説明できるんだから
やった確証がない秀次への讒言とか隠居についてもヒステリックに答えるんじゃなく、史料をもって客観的に答えるべきだよ

122人間七七四年2018/12/28(金) 15:27:18.24ID:lMl4j7Y0
ただの隠居なら、佐和山から京・大阪に出てきても問題なかろうが、実際には出歩けなかったんだから、
実質国元で蟄居だろ。
佐和山までの道中も護衛という名目だけど、実際には結城秀康に護送されてるわけだし

123人間七七四年2018/12/28(金) 20:11:30.49ID:Dv7vyiRL
実質というけど史料があるなら見たいな

124人間七七四年2018/12/28(金) 20:53:50.90ID:3SoFFi7W
蟄居という表記が資料でなされているかはしらんけど、日本人が一般的に物を調べるときに使うウィピペディアでは

石田三成 wiki
家康の仲裁によって三成は奉行を辞し佐和山城に蟄居

関ヶ原 wiki
家康・毛利輝元・上杉景勝・秀吉正室北政所らによる仲裁の結果、三成は奉行職を解かれ居城の佐和山城に蟄居となる

って書かれているので、蟄居じゃねぇ、隠居だ!というなら、書き直してくれば?

讒言しまくって恨みを買い、私闘事件をおこしたあげく
責任をとって奉行を更迭されて佐和山まで護送され、出てくるなってのは蟄居だと思うが。
家康に保護してやらなきゃ、厳しい処罰を求める武断派の主張どおり斬首や切腹だったろうしな。改易もありうるか

125人間七七四年2018/12/28(金) 21:13:15.83ID:a9gtCD53
>>122
蟄居と言うのは例えば、加藤清正が公儀の意に逆らい、庄内の乱に介入し
伊集院忠真を援助した結果、家康が激怒し清正に上洛を禁じた上、
もし清正が上洛しようとしたなら、菅平右衛門、有馬則頼に淡路で阻止するように
命じたような状態だろう。
ちなみに上記の清正の件は山田貴司氏の説によっている

126人間七七四年2018/12/29(土) 12:12:08.34ID:Nsl/x/wP
出典不明のWikipediaを出してくるあたりで蟄居の根拠は無いものとしれる

127人間七七四年2018/12/29(土) 14:25:53.34ID:84mqrX/0
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12190445857

ちょっと調べたけど、三成は徳川邸に逃げ込んだわけじゃないのかね。史料そのものが少ないみたいだが。

奉行更迭、佐和山蟄居は定説のようだが

128人間七七四年2018/12/29(土) 14:40:42.48ID:GgZ9lKen
多聞院日記や慶長年中卜斎記に三成が自分の伏見屋敷に戻っている旨の記述があるよ

129人間七七四年2018/12/29(土) 15:27:16.31ID:hrRY8kN/
>>127
今更、それか。もしかして秀次は切腹ではなく自害説も知らないとか

130人間七七四年2018/12/29(土) 16:07:45.94ID:84mqrX/0
信孝も自害、秀次も自害、秀吉に都合の悪い人は自害って説か
ついでに信長の息子の秀勝は秀吉が関白になると病死という

131人間七七四年2018/12/29(土) 22:08:53.67ID:R8LZ+zvl
なにかスレの流れが関ヶ原からずれてきていて、三成アンチスレでやって欲しいと思うような内容になってきているようなので、
ここで史料の紹介を一つ。
有名な史料で、概要や意訳は目にしてきたのですが、最近漸く元の文を目にする機会があったので上げてみます

132人間七七四年2018/12/29(土) 22:11:14.04ID:R8LZ+zvl
  直江兼続宛西笑承兌書状

     豐光寺承兌書狀寫

態以飛札申達候、然者景勝卿御上洛遲滞に付而、内府樣御不審候儀不少候、上方雜説穩便無之候付、

伊奈圖書、河村長門被差下候、此段者、使者口上に可申達候得共、多年申通上者、愚僧笑止に存如此候、

香指原新地被取立、越後津河口道橋被做候段、何篇不可然候、中納言殿御分別相違候共、

貴殿御異見油斷與存候、内府樣御不審無據歟存候事、

一 景勝卿御別心無之候者、靈社之起請文を以、御申開可被成旨、内府公御内存に而候事、

一 景勝卿律儀成御心入者、太閤樣へ幷内府公御存知之事候得者、被仰分之品々さへ相立候者、異儀不可有事、

一 近國堀監物一々申上候間、御陳謝堅無之者、御申分相達申間敷哉、何篇御心中に可有事、

一 當春北國肥前守利長異儀之處、内府公順路成思食に而、無別儀思之儘靜謐仕候、是皆前車之誠に而候間、

   其元兼而御覺悟、可爲尤歟之事、

一 京都に而揄E、大刑部少萬事、内府公へ被申含候間、御申分候者、御申越可有候、榊式太へも被仰越候而、可然歟之事、

一 千萬も不入、中納言殿御上洛遲候付、如此候間、一刻も早御上洛候樣に、取沙汰可被爲計事、

一 上方に而專取沙汰之事者、會津に而武具取集候と道橋被做候との事に而候、内府公壹入、中納言殿上洛御待被成候事者、

   高麗へ御使者被遣候間、各降參被仕候者、來年歟來々年歟、御人數可被遣候、其御相談可被成候由に候間、
  
   御入洛近々可然候、其上に而、無諫意被仰分候樣に、少も早御上洛尤候事、

一 愚僧與貴殿、數ヶ年無等閑申通候得者、何事も笑止に存如此に候、其地之存亡、上杉之興廃之境に候条、

   被廻思案之外、他事有間敷候、萬端使者口上に申含候、頓首、

     卯月朔日         豐光寺
                       承兌

    直江山城守殿
            御宿所

133人間七七四年2018/12/29(土) 22:12:13.01ID:R8LZ+zvl
こちらは返書である直江状と違い偽書説は無いようですね

134人間七七四年2018/12/29(土) 22:31:59.89ID:NHa82hYI
「治少一人佐和山に隠居候て天下事存知なく候様」(毛利文書)
まあ蟄居と言っても間違いじゃない

135人間七七四年2018/12/30(日) 13:52:31.60ID:q8Zd2oqR
隠居って書いてないかそれ

136人間七七四年2019/01/02(水) 22:05:34.34ID:2voG3EYs
隠居でも蟄居でも良いけど天下の事に関わらないようにとされた人間が
>>19にあるようなこんな勝手な事約束したら駄目だろう

此書立之人數五三日已前に悉從國々馳上相知候、於仕置者可御心易候、其上金銀、玉薬料入候者可承候、從 秀ョ樣可被遣候、

太閤樣御貯之金銀幷闕地何も御忠節次第其々に可被下候、今度伏見表手柄仕置九州衆、内府江州之地行十万石令割符、

當座之引出物金銀に添感狀被下候

137人間七七四年2019/01/03(木) 14:49:20.87ID:sWrCXp7k
意味としては、秀吉の遺産から補給物資や恩賞の支給を勝手に約束しているということでいいのかな?

138人間七七四年2019/01/04(金) 15:11:51.84ID:SjsLpbTs
こそ泥と大差ないじゃないか

139人間七七四年2019/01/05(土) 16:55:49.16ID:1jGIG3HO
こういう約束していて後で咎められないと考えなかったのかな
だから考えが甘いとか言われるんだよなぁ

140人間七七四年2019/01/05(土) 17:02:59.91ID:0VlajGwn
勝てば官軍なんですよ

141人間七七四年2019/01/05(土) 17:14:07.28ID:vHbRIAm3
>>140
しかしなあ、西軍はそもそもの挙兵理由が『政権を私的に専横してる家康をこらしめる』だった訳で、
その言葉を使ってしまうと「お前ら人の事エラそうに説教出来るのか!?」という話になってしまう
それにその論法は秀吉死後のの家康の行動を非難する理由が完全になくなってしまうぞ
それこそ、『勝てば官軍』なのだから

142人間七七四年2019/01/05(土) 17:19:08.37ID:0VlajGwn
権力争いなんてそんなもんでしょ

143人間七七四年2019/01/05(土) 17:46:42.68ID:r7uEEEFB
豊臣公儀は関白に任命されることで公儀を名乗り、聚楽第行幸で大政をゆだねられて公認された存在だったが、
豊臣が行幸で公認されていた関白左大臣内覧の豊臣長者を一家皆殺しにしたことで公儀性が失われたからな。

相国の秀吉が織田家を簒奪したときのように正当化しようとしたけど、誓詞を乱発しただけだった。誓詞に公儀性はない。
太政大臣の死後は、将軍も大臣も内大臣以外いない状態だったので、内大臣が政務をおこなった。

その内大臣が後陽成天皇の下賜をうけて征伐をおこなった軍に謀反をおこしたのが、奉行を更迭されて隠居していた元奉行なわけで。
石田三成には最初から大義なんてものはない。大義を主張したいなら、最低でも太政大臣家に公認されて物資援助を受けることは必要で
家康と対等な関係になりたいなら、後陽成天皇に大臣に任命してもらって、下賜を受けて兵をあげないとね。

144人間七七四年2019/01/05(土) 18:19:00.82ID:EhUijil6
>>143
書き込む前に推敲くらいしろバカ

145人間七七四年2019/01/05(土) 19:39:47.08ID:z7OdQs2C
>>136
伏見攻めで手柄を立てた連中に内府江州十万石の割符を恩賞にしたみたいだけど
文脈から見れば江戸の地だろうけど、江州と言えば普通近江で江戸は武州だと思うんだけど
この時代、江戸を江州と読んだ例が外にもあるのかな
>>139
考えが甘いと言えば、書状が送られてきたくらいで上杉と敵対していた堀が味方に付くと
あっさり信じる甘さがどうしようも無い。書状に出てくる丹羽長重が西軍に付いた理由もよく分からんけど
>>144
どのスレでも似たようなこといつも書いている奴だろう

146人間七七四年2019/01/05(土) 19:59:42.88ID:IonXBqFB
>>145
近江にある徳川家在京料のこと

147人間七七四年2019/01/05(土) 20:48:20.45ID:z7OdQs2C
在京料自体は貰っていたみたいですけど、その九万石の根拠って、
三河風土記からでこれは後世の編纂物なので
あまり当てにならないって事じゃ無かったかな

148人間七七四年2019/01/05(土) 21:18:52.96ID:0VlajGwn
じゃあこの書状が裏付けになるな

149人間七七四年2019/01/05(土) 22:36:47.82ID:r7uEEEFB
主家簒奪の逆賊が、聚楽第行幸で簒奪を正当化しながら、
その聚楽第行幸で公認された関白左大臣内覧の豊臣長者をぶっ殺した時点で豊臣に大義はないからな。

1600年当時は、内大臣が公儀を運営し、内大臣の率いる軍は後陽成天皇が下賜をして見送った軍だ。

豊臣に大義はないし、石田三成にも大義はない。

150人間七七四年2019/01/06(日) 06:49:27.52ID:z82Qfeka
>>145
丹羽って加賀征伐の時は家康方だったよね
そこから何があったのかな

151人間七七四年2019/01/06(日) 08:00:36.91ID:AvhGHsC6
>>150
単に利長が嫌いなんだろ

152人間七七四年2019/01/06(日) 11:24:27.38ID:uYWxqC8b
前田は丹羽に人質を要求してきたんだっけか?
逆に浅井畷後に丹羽の人質になった前田利常は長重の優しさを爺さんになっても忘れなかったらしいね

153人間七七四年2019/01/06(日) 17:03:30.79ID:MoR2zbE7
丹羽もなぁ。長秀が欲をかかなきゃ織田が秀吉に食い荒らされることもなかったろうに
長重も東軍に味方しとけばよかったのに、近視眼的に内大臣と敵対して改易だものな。
丹羽は目の前のことしかわからないニワトリみたいな家だな

154人間七七四年2019/01/06(日) 17:40:44.82ID:3cUkVyuZ
いっそ会津征伐に同行してた方が結果良かったかもな

155人間七七四年2019/01/06(日) 22:31:18.96ID:ks/d9lLz
でも大名に復帰して家存続させたんだから、マシな方じゃ無いか

156人間七七四年2019/01/07(月) 00:03:12.39ID:ePEqQNrP
丹羽長重は石高でみるとジェットコースターのような人生で面白いな

丹羽長重
123万石 親から相続する

15万石 家臣が佐々に内応したといちゃもんを付けられ秀吉に奪われる。重臣3人も奪われる

4万石 家臣が狼藉したといちゃもんをつけられ秀吉に奪われる

12万石 小田原征伐に参加して功績で

改易 関ヶ原で西軍に参加し前田に攻撃を仕掛けたため

1万石 1603年に許されて大名復帰

2万石

5万石

10万700石 息子に相続して死亡

157人間七七四年2019/01/07(月) 08:36:31.09ID:drN6O2K6
復帰できたのは仲の良かった秀忠のおかげだけど、改易される遠因はその親父の行動というのが可哀想
まあ、家康にしてみれば前田さえ折れれば丹羽のような小大名なんてどうでもよかったんだろうけど

というか前田は小勢の丹羽にやられて進軍を諦めたわけだけど、やっぱり前田家って戦下手なんかな?

158人間七七四年2019/01/07(月) 12:40:37.00ID:W2/9kn0z
伏見救援のために越前まで攻め込んで伏見が落ちたから引き返して
帰りがけの駄賃で小松でも取るかぁと攻めたら手強くてそのまま退却
進軍諦めたのは小松攻める前やね

159人間七七四年2019/01/07(月) 13:02:19.67ID:GBvbFgNn
まず往路で小松を迂回しようとしたけれど、城外で丹羽勢に迎撃されて一戦(浅井畷の戦い)、
その後大聖寺城を落として南下、帰路に小松攻めという流れだな。

1601592019/01/07(月) 14:12:12.46ID:GBvbFgNn
おっと ×迎撃されて一戦(浅井畷の戦い) ○帰路に小松攻め(浅井畷の戦い)

161人間七七四年2019/01/07(月) 15:38:59.36ID:TxS3EYo/
関ヶ原は地方の動きも普通に面白いよね

162人間七七四年2019/01/07(月) 21:58:34.39ID:iELVGKMF
地方と言えば如水、広家に西軍が勝った時の為か何なのか
こんな書状出しているんだよな。如水らしいと言えばらしいが

163人間七七四年2019/01/07(月) 21:59:18.71ID:iELVGKMF
K田如水自筆書狀

  廣家
   
    參人々御申    如水

天下之儀てるもと樣御異見被成候樣にと奉行衆被申、大坂城御うつりなされ候事、目出度存候、左候て、

秀ョ樣へ別心存者あるましく候条、やかて目出度しつまり可申候、左樣候て、九州四國衆人しちてるもと樣

御あつかり候やうに被仰上可然存候、九州にても鍋賀州、賀主、羽左近、毛壹、嶋津此衆專存候、甲州人しちは、

貴所樣てるもと樣より御あつかり候やうに御才覺給へく候、左候て、何樣にも御馳走可申候、人しち奉行衆候へは、

てるもと樣御馳走不成事候条、其御分別專一候、内府公上國は必定あるへきと存候、左樣時は、又貴所樣御きもいりにて、

てるもとさま御事相澄可申候、とかく此節御分別專用候、扨々不慮之事共如何成行可申候や、其表樣子具令仰聞、

一人御下候へかしと存候、左候て、我等心中も貴所樣へは不殘可申上候、かしこ、

  八月一日

164人間七七四年2019/01/07(月) 22:24:34.38ID:qpqtoTgY
いやこの書状、最初の方はおめでとうって言ってるけど、人質は絶対奉行衆に渡すなとか内府が勝って畿内に入るからその時は広家がしっかりせなあかんのやでって書いてない?

165人間七七四年2019/01/11(金) 06:38:37.89ID:bHfU6yfM
>>163
人質として押さえておく鍋島、賀主?、立花、毛利壱岐、島津、長政が如水が重視した面々かな
関ヶ原で毛利吉成の名前ってあまり見ないから、気になるところだけど

166人間七七四年2019/01/11(金) 11:48:31.73ID:4tciLata
>>165
鍋島加賀守、加藤主計ではないかなと。
つまり九州の有力諸大名。

167人間七七四年2019/01/14(月) 17:19:59.47ID:NuHBReh1
>>157
秀忠の御伽衆に選らばれているくらいだから、前田が戦下手なんじゃなくて、丹羽が上手いんじゃないのかな

168人間七七四年2019/01/14(月) 22:58:34.93ID:+S47N5x3
長重が戦上手だった事を示す実績とかあるの?
秀忠の御伽衆って中野等の立花宗茂を読むと最初の八人が
丹羽長重、佐久間安政、細川興元、立花宗茂
猪子一時、三好一任、堀田一継、能勢頼次で
この他に節々出仕する衆として日野輝資、山名豊国、成瀬正一、朽木元綱があるけど
正直言って玉石混淆じゃないのか

169人間七七四年2019/01/14(月) 23:35:47.45ID:9FeryoWx
島左近とかいう大事な戦で即死した実績を持つ男
こいつ過大評価の塊だろ

170人間七七四年2019/01/15(火) 12:31:39.41ID:mFeVqPIv
>>168
この中だと立花宗茂、細川興元、成瀬正一、佐久間安政かな

そして丹羽長重。

171人間七七四年2019/01/16(水) 16:07:45.50ID:7CDgotWd
秀忠の場合の御咄衆は家康が死んだ半年後くらいに組織されたもので
将軍の顧問として知識経験豊富だったり武功がある人材を集めたらしいから、
長重は築城に関する知識を買われたとかじゃないかな

まあ、丹羽長重と立花宗茂の2人は家光の代でも継続して御咄衆をやってるから
かなり重用されていたようだけど

172人間七七四年2019/01/16(水) 21:32:20.43ID:QYRGmbyD
細川忠興が、丹羽長重と立花宗茂からの情報なら確実だ、って言ってるくらいだからな。
政権中枢メンバーの一員だったと考えてよかろう。

173人間七七四年2019/01/16(水) 22:30:19.16ID:2x4KpY7B
中枢ではのうてブレーンの一人ではないかい

174人間七七四年2019/01/18(金) 22:07:35.05ID:iZr28Hd4
秀忠の御成の御供も決行しているし、信頼されていたんだろうな
逆に宗茂とか秀忠が死んだとき花押に変化があったらしいし
丹羽の方は主体で取り扱っている本とかが無いから知らない

175人間七七四年2019/01/19(土) 22:08:42.61ID:J2EVQTwt
丹羽長重とか結構面白そうな題材だと思うんだけどな
親父の方も南條範夫の短編小説くらいしか見た事ないし

176人間七七四年2019/01/20(日) 23:25:08.48ID:hspgLpj8
出典は『武功雑記』だけども、
秀忠御咄衆のうち
立花は九州、九鬼は船手、脇坂は四国、平野は秀吉、佐久間は北国および奥州、細川は上方に詳しい(から選ばれた)

丹羽長重はなんで選ばれたのかは、
17世紀後半の松浦鎮信(あるいはそのネタ元の老家臣)にはもう明確ではなかった模様
もっとも、余人にも分かりやすい選抜理由がある必要はないけど

177人間七七四年2019/01/21(月) 02:39:31.66ID:LbHHYuCq
見つけたので提示する。

内府ちかひの條々

一、五人の奉行、五人之年寄共、上巻之誓紙連判候て無幾程、
 年寄共之内弐人被追籠候事
一、五人之奉行衆内、羽柴肥前守事、遮而誓紙を被遣候て、身上既可被果候處ニ、
 先景勝爲可討果人質を取、追籠候事
一、景勝なにのとかも無之ニ誓紙之筈をちかへ、又ハ大閤様被背御置目、
 今度可被討果儀??敷存、種々様々其理申候へ共、終無許容被出馬候事
一、知行方之儀、自分ニ被召置候事ハ不及申、取次をも有るましき由、
 是又上巻誓紙之筈をちかへ、忠節も無之者共ニ被出置候事
一、伏見之城、大閤様被仰出候留主居共を被追出、私ニ人數被入置候事
一、拾人之外、誓紙取やりあるましき由、上巻誓紙ニ載せられ、數多取やり候事
一、政所様御座所ニ居住之事
一、御本丸のことく殿守を被上候事
一、諸侍の妻子、ひいき?ニ候て、國元へ被返候事
一、縁篇之事、被背御法度ニ付て、各其理申、合點候て、重而縁?不知其數候事
一、若き衆ニそくろをかい、徒?を立させられ候事
一、御奉行五人一行ニ、一人として判形之事
一、内縁之馳走を以、八幡之検地被免候事

右誓紙之筈ハ少も不被相立、大閤様被背御置目候へハ、
何を以たのミ可在之候哉、如此一人宛被果候て之上、
秀頼様御一人被取立候はん事まことしからす候也、

慶長五
   七月十七日

178人間七七四年2019/01/21(月) 05:02:30.31ID:/T4vbOnN
御掟…婚姻は上様の許可をとらなくてはならない
遺言…秀吉が死んだあとは、徳川前田が政治をおこない、奉行は相談し認可を取る

つまり内府ちかひの条々は御掟も遺言も無視するものだな。直江状もまた同じ

179人間七七四年2019/01/21(月) 07:00:30.84ID:dY5/oaTB
>>178
内府ちかひの条々では「奉行」は徳川家康、前田利長、毛利輝元、上杉景勝、
宇喜多秀家を指す。

180人間七七四年2019/01/21(月) 14:59:41.71ID:/pEcDxrD
おまえら、400年前の話はもういいってwwwwwwww

自分の将来を考えろ!wwwwwwwwwwww

181人間七七四年2019/01/21(月) 15:27:07.25ID:5qgG5G5M
また史料増えたのか。次スレ、テンプレだけで80レス越えそうだな

182人間七七四年2019/01/21(月) 18:01:28.42ID:+AVURoCi
>>179
丸島先生なんかも指摘されてる通り、奉行たちは自分たちこそ正統で相手は役人に過ぎないという意味で家康たちを奉行と呼んでる
けれど前田玄以らは他称ではずっと奉行と呼ばれつづけて反対に家康らは他称で大老とされてるため、あくまでも五奉行たちの詐称のようです

183人間七七四年2019/01/21(月) 22:14:21.12ID:Ezhyf1kc
奉行より年寄の方が格下だからな。石田らの年寄自称はへりくだってんだよ

184人間七七四年2019/01/21(月) 22:17:22.22ID:xwXs8HQ6
石田好きはもしくは家康アンチは、なんでも石田の都合の良い様に考えるから始末に悪い

185人間七七四年2019/01/22(火) 05:48:54.20ID:cm79ZnhX
家康はなんだかんだですごかった
三成は頭いいふりしたバカだった、これでよし

186人間七七四年2019/01/22(火) 07:40:22.20ID:PazeiqiM
バカは違うんじゃないの?
身の程知らずだとは思うけど

187人間七七四年2019/01/22(火) 18:14:22.42ID:2kdTSYSF
身の程を知らず、自分本意な周りに迷惑なことをする人間を馬鹿というんじゃないのか

188人間七七四年2019/01/22(火) 18:54:19.58ID:PazeiqiM
この場合は頭が切れるかどうかって意味だと思うけど?

189人間七七四年2019/01/22(火) 20:55:30.03ID:cm79ZnhX
いやわきまえることのできない、自らを理解してないバカってことで。
実務やれる人間なんて別に三成に限った話じゃない
ただしい判断につながる理屈がもてるかどうかでバカかどうか決まると思う

190人間七七四年2019/01/22(火) 21:27:17.96ID:iYt162zz
内府ちかひの条々って実際全部家康がやってたことでしょ、
これに対して家康って反論というか釈明ってしてないよね?

191人間七七四年2019/01/22(火) 21:34:29.87ID:wguO5PhU
家康は保守的で正しい手続きを踏むことを心がけ現状維持を望む人だからね。
反論すれば豊臣家が割れる。相手が理不尽なことを言っていても受け入れる度量がある。

そもそも御掟で婚姻などは秀吉の許可を取ることがうたわれており、
秀吉の遺言で徳川前田が秀吉なきあとの政治をおこない、奉行はその意見を聞き従うことと言われていた。
石田ら奉行は何ごとも家康の意向を聞いて従わなければならない立場だったのよ。それを無視して書いた迷文が内府ちかひの条々

192人間七七四年2019/01/22(火) 21:48:33.67ID:KsWVwjbm
自分達が権力の座に着く為に、公戦である上杉討伐の留守を狙って
家康を糾弾する事で無理矢理正当性を持たせる為に書かれた物だからね
しかも姑息な事に東軍に参加している面々には送っていない
自分達の主張が本当に正しいと思っていれば、敵である連中にも送って良いはず

193人間七七四年2019/01/22(火) 22:02:22.91ID:mOMrxrnN
>>190
三成が謀反を起こしたというのが家康の反論だろ
もしも三成が謀反人として首謀して作ったものなら
謀反人たる三成を討てば煙路に様に消えてなくなる

だから関ヶ原で三成を討伐して内府ちかひの条々が嘘であることが証明された

194人間七七四年2019/01/22(火) 22:23:42.83ID:Hwapaamz
正面から弾劾されたならともかくクーデターしたやつの建前なんか答える意味がないよな

195人間七七四年2019/01/22(火) 23:52:52.86ID:iYt162zz
一応>>177の補足説明だけど、内府ちかひの条々は、
秋田家文書、筑紫古文書上、真田文書、松井家文書、加能越古文書、武家事紀、
慶長見聞書とあり(他にもあるかも)、それぞれにどの程度違いがあるかは
少なくともわたしはわからない。
実際には証拠隠滅した家もあるだろうし、どの程度ばら撒かれたのかもよくわからない。
奉行がどこに送ったと一覧でも残してくれていればよかったんだが。

196人間七七四年2019/01/23(水) 15:44:40.55ID:m1WKLxbU
知行勝手にやったとか徒党を組んだとか、自分達を棚に上げて何言っているのかと思う

197人間七七四年2019/01/23(水) 16:47:23.66ID:VSSyBxhV
最高位の内大臣、家康が政治をおこなうのは当然なんだよ。遺言でも認められていること。


一つ、年寄五人で蔵入の御算用を処理することにきめたから、
家康殿と利家殿にそれを見せ、受取状をとっておき、
秀頼様が御成人なされて、御算用のことをお尋ねになった場合は、御
両人の受取状をお目にかけるようにしてほしい、と仰せられた。


 ⇒家康殿と利家殿にそれを見せ、受取状をもらう。つまり利家なきあとは家康が許可を出す


一つ、どんな事でも、家康殿と利家殿の御意見を聞き、その御意見次第できめるように、と仰せられた。


 ⇒家康殿と利家殿の御意見を聞き、その御意見次第できめるように。つまり利家なきあとは家康の意見しだいできめる

198人間七七四年2019/01/23(水) 18:00:25.12ID:Vie7AKG/
つまり最終決定権者は石田ら奉行じゃないのか?
その文言だと。

199人間七七四年2019/01/23(水) 18:02:18.23ID:t3JSCqse
その決定内容は家康や利家の意向を汲んだものになるのでは
秀吉の遺言って奉行の独断専行を戒めているようにも読めるんだよね
一々仕事の仕方を指示されてるところとか

200人間七七四年2019/01/23(水) 18:36:19.69ID:Flbc1L0L
秀吉の遺言の穴は家康に征夷大将軍に就任してはいけないと言うような文言を付けなかった事。

201人間七七四年2019/01/23(水) 18:48:10.99ID:Knnd2K/g
家康に将軍職が転がり込んできたのは関ヶ原のせいで豊臣に天下の統治能力がなくなったのが誰の目にも明らかになったせいだろ
むしろ遺言で長束増田石田の三奉行を引退させるべき
豊臣政権の未来の外戚徳川家康じゃなくて
徳川政権の徳川家康にしたのは最悪だ

202人間七七四年2019/01/23(水) 18:57:34.65ID:de34H1jQ
家康としては豊臣政権での執権管領でも良かったのかもな

203人間七七四年2019/01/23(水) 18:58:16.80ID:jMCqbEAG
確か五奉行どころか増田と石田だけで輝元主導による秀元への領地割譲にOK出してた書状があるらしいね
五奉行が、とひとくくりにされるけどやはりどうも暴走してるの増田と石田のよう

204人間七七四年2019/01/23(水) 20:11:49.32ID:Q2XzkON1
確かに五奉行が存在しないか力がはじめから弱ければ対立も起きず、秀頼を下ろす方向に進まなかったかもしれない。
淀殿が生きてる限り家康も大きな事はできないし徳川家の立場をさらに強めたり、あからさまに淀殿や秀頼の権力の削ぎ落としを進めればさすがに政権内部からの風当たりは悪くなっただろうしな

205人間七七四年2019/01/23(水) 20:47:49.66ID:VSSyBxhV
>>198
官僚は政治家のいうことを聞きなさいってかいてあるだろ?
官僚は政治家の徳川前田の意見をきいてその意見できめなさいと。

206人間七七四年2019/01/23(水) 21:10:51.56ID:47YrLNLN
>>205
官僚的な役割を与えられた大名というだけで、自分の才覚で成り上がってきたから今の官僚とは違うと思う。

207人間七七四年2019/01/23(水) 21:31:02.44ID:0V+f6xZW
「法度違反の者が出た場合、五奉行は提げ鞘の格好で違反者を取り締まれ」(=絶対に武力討伐はするな)
という遺言もあるんだよな

208人間七七四年2019/01/23(水) 21:37:32.54ID:Q2XzkON1
上杉も前田もは度が過ぎてたし武力征伐は致し方ない

209人間七七四年2019/01/23(水) 22:10:41.44ID:REahWpK6
加賀征伐、何故か家康の陰謀みたく言われてきたけど
家康に暗殺計画を告げた連中を考えると、むしろ西軍参加奉行衆の陰謀な感じがするな

210人間七七四年2019/01/24(木) 13:36:48.81ID:kpseeHbJ
よく仕組んだとか言われてるけど
関ケ原前の家康は天下なんて狙っていなかったと思うんだよね
豊臣政権内で権力掌握できれば、それでいいかなといった感じ

211人間七七四年2019/01/24(木) 14:13:39.36ID:zYDfJWDU
暗殺の密告したと言われるのが増田、長束もしくは三成だっけ?

212人間七七四年2019/01/24(木) 16:26:55.45ID:3QsK3oQX
豊臣滅ぼすまで15年あるからね

213人間七七四年2019/01/24(木) 19:29:25.75ID:xBX7t6tI
>>210
ただ関ヶ原後の家康のやったことは
国家掌握のために重要なことばかりで
それも265年続いたような完成度があった。
完成度云々は結果論かもしれないけど
おもいつきで出来るような各種統治手段とも
思えないのだよね。
ではいつから天下狙ってたか、というのは
それなりに面白い話なんだけど、本人の日記が
あるわけでもないしどうしても仮定の話になってくる。

214人間七七四年2019/01/24(木) 19:33:42.59ID:3QsK3oQX
まあ言ってみれば現実化するかどうかは別にして
日本最大最強大名でライバルが死んだんだから
天下を考えない方がおかしい

215人間七七四年2019/01/24(木) 19:47:07.68ID:XahPFvWj
まともな感性があるなら、豊臣体制が続くわけないとわかるわな。

豊臣のはじまりは主家簒奪。支える人は織田家の家臣と戦国大名。
簒奪を関白の官位と聚楽第行幸で正当化しながら、
聚楽第行幸で公認されていた関白左大臣内覧豊臣長者を一家皆殺し。
外征を2度失敗。官位妨害で公家が大臣になれないようにした。太閤検地で圧政をおこなっている。
秀吉が死んで半年で子飼い同士で武力闘争。
一門衆の層が薄すぎる。石高ベスト10のうち過半数以上がなんらかの形で豊臣に恨みがある。などなど。

家康がまとめなきゃ乱世だったろう。信長と家康の苦労はなんだったのかって話だ。

216人間七七四年2019/01/24(木) 19:50:54.55ID:g9cc7FGg
豊臣体制は遅かれ早かれ終わっただろうけど関ヶ原が無かったら、秀頼存命の上公家としての豊臣家存続はあり得たと思う。

217人間七七四年2019/01/24(木) 19:58:45.95ID:X8KpBIEc
>>216
それは多分関ヶ原の有無関係なしに十二分にあり得たものだと思うよ
豊臣政権の崩壊は秀吉の死とイコールだけど、豊臣家の滅亡はひとえに当主秀頼の自爆だし

218人間七七四年2019/01/24(木) 20:02:01.94ID:DfAuBMh3
まさかの汚い秀吉綺麗な家康?
相も変わらず好きだねぇw

219人間七七四年2019/01/24(木) 20:08:43.21ID:DfAuBMh3
秀頼の養育って誰がしていたの?
大禍さえなければ一族でもあるし転封ですんでいたろうにね

220人間七七四年2019/01/24(木) 21:02:20.59ID:83SxZeas
>>209
利長は利家のあとを継いで秀頼の守役になる筈だったから
奉行達からすれば家康程では無いにしろ邪魔な存在ではあっただろうけど
だからといって西軍の陰謀だというのは妄想説に近いと言わざるを得ないね
>>210
関ヶ原直後に全ての制度を完成させたわけじゃないし、家康が死ぬまで
時間はたっぷりあっただろう。家康亡き後秀忠がさらにしっかりと固めてくれた所もあるし

221海老酢2019/01/24(木) 21:46:31.92ID:b+kHxRU0
徳川の体制を作り上げたのは家光の時と言われてるけどね。
知恵伊豆こと松平伊豆守さんがほとんどを作ったんではなくて?

家康さんは幕府を開いて何年も経たないで死んでるしょ

222人間七七四年2019/01/24(木) 22:31:57.58ID:g9cc7FGg
秀忠こそが幕府設立の立役者だよ

223人間七七四年2019/01/24(木) 22:41:33.47ID:cPW5TZst
秀忠はとにかく改易しまくったイメージ

224人間七七四年2019/01/25(金) 01:46:22.49ID:E2/vBe4G
基本線は秀忠が作ってるよな
家光はそれを盤石化した

225人間七七四年2019/01/25(金) 07:55:00.68ID:1ceviovn
まあ秀忠時代の政策のうち禁教令、武家諸法度、禁中並公家諸法度、一国一城令あたりは実際には家康主導だけどね
秀忠自身の政策で一番大きいのはやっぱ鎖国だと思う

226人間七七四年2019/01/25(金) 08:05:38.41ID:1DsJRw7x
大阪の人間が狂っていた一向宗もひどかったけど、キリスト教もひどいからな。
日本人を奴隷にして出荷したりで、侵略と奴隷化がセットだったから鎖国も致し方ないところ。

でも鎖国といわれるけど、オランダや中国と貿易をしていたし、新井白石の解体新書などもあるから鎖国というのも間違っている。
というか、家康はウィリアムアダムスをブレーンにしていたので、家康は開明的だよ。

227人間七七四年2019/01/25(金) 08:19:04.66ID:Fm8E2tTC
鎖国じゃなかったことになってるんじゃないか、最近

228人間七七四年2019/01/25(金) 10:51:32.15ID:bBZkmLR/
>>225
秀忠は主にそれらの法令を破ったら処罰されますだね
法を布告するのは簡単だが、それに実効性を持たすのは大変なことで

229人間七七四年2019/01/25(金) 22:52:10.87ID:UsO2vzJ7
貿易と布教のセット売りを意地でも譲歩しないスペインポルトガルの排除
ほっとけば領民でもなんでも売っぱらう私貿易の禁止
対蘭中朝貿易港の限定と管理

どこでもやってる海禁政策の一種で普通の貿易統制であり鎖国という言葉はそぐわないという最近の流れ

230人間七七四年2019/01/25(金) 23:23:16.88ID:ouDrkh9/
やった事の是非はともかくとして家康自身は豊臣政権期の後始末に終始したって感じじゃない

231人間七七四年2019/01/26(土) 05:51:58.62ID:/cj4rPnO
それを家康一人でほぼやっているのが、奉行連中や輝元らにしたら、許せなかったんじゃないのかな

232人間七七四年2019/01/26(土) 07:15:08.76ID:zfZFy0EB
家康は良かれと思ってやってるが反対派から見れば権力乱用に見えたか
婚儀の件はどうやろう

233人間七七四年2019/01/26(土) 07:58:21.77ID:0EZ7Bpi4
正直、あれは誰かがやらないと適齢期を超過する
男女が続出する

234人間七七四年2019/01/26(土) 08:04:17.58ID:BFRsbNS4
御掟で婚姻は上様の許可制
遺言で上様の死後は「どんな事でも、家康殿と利家殿の御意見を聞き、その御意見次第できめるように」

三成は恩掟を軽視し、遺言を無視し、没後半年で私闘事件をおこし、
帝が下賜をして豊臣が物資援助をおこなって出陣した内大臣率いる軍に反乱をおこした謀反人

235人間七七四年2019/01/26(土) 08:08:27.35ID:l7iv0pSZ
家康は秀吉が死んだ時点で五大老制度はそもそも無理と分かってた。
いくら秀頼を盛り立て豊臣の血筋で政権を確立しようとしても天皇家や足利家でさえも血統の維持に限界があったのに秀頼たった一人でできるはずは無い。
終わりが見えてる豊臣政権から次の時代に戦国時代を挟まないように、上手く収束させるには秀吉が目指した武家関白による政治でなく室町幕府に代わる権威が必要と考えた。それで徳川は鎌倉に倣って東国に江戸幕府を開く事を考えた。
恐らく京都の公家側の要望も聞き入れてのことだろう。家系のあやふやな秀吉より無理にでも源氏に繋げられる徳川の方が幾らかマシだから。

家康には野心も何もないよ。五大老筆頭としての仕事を誰よりも完璧にこなしただけ。
関ヶ原の真相は三成が勝手に反目してきて反徳川の面々を集めて自爆してくれただけだよ。

236人間七七四年2019/01/26(土) 08:18:54.23ID:CThd9Qn5
記録に残ってるかは知らないけど
五摂家をはじめとする公家衆から何とかしてくれと家康に相当な陳情があったのは推測できる
秀吉の関白就任が五摂家から騙し取ったものだったから奪還の気持ちは強かったろうし
秀頼成人まで朝廷の人事を凍結したもんだから公家衆が昇任できず大迷惑被ってた
旧来の小説講談では朝廷も公家衆も豊臣政権を喜んでいたかのように描かれてるけど
これらのことはもっと知られるべきだと思う

237人間七七四年2019/01/26(土) 08:32:44.71ID:UryAHVjA
>>236
つまりそういった状況を打開し豊臣を倒すために家康が三成を決起に誘引したってことか

238人間七七四年2019/01/26(土) 08:57:05.76ID:BFRsbNS4
>>235
豊臣じたいもう無理だろう。

豊臣家はそもそもが主家簒奪の謀反人の家柄だ。
それを関白任官と聚楽第行幸で公認してもらうことで正当化して成立しながら、
聚楽第行幸で公認してもらった関白左大臣内覧の豊臣長者を一家皆殺しにしたわけだからな。
これで正当性があるとか思っているやつは頭が変だ。さらに隋の煬帝のごとく2度も外征に失敗している。

さらに豊臣公儀の下にいた大名はもと織田家家臣と豊臣に征服された戦国大名や、惣無事を受けて外交的に天皇に服属した徳川伊達のような戦国大名。
それらが領地を減らされたり左遷されて故郷を奪われたりしている。豊臣に恩義なんてないんだから。

そして秀吉が死ぬと、半年で秀吉の子飼いたる武断派と文治派で武力闘争をはじめる始末だ。
家康は現状維持のためによくやったよ。

関ヶ原の戦いは、帝の下賜を受けた最高位の内大臣が、豊臣に物資援助されて軍を動かしたわけで、
三成が正義を主張したいなら、豊臣の公認と帝の公認、大臣への任官くらいは最低でもしないとだめだ。三成は国会を襲撃して占拠したテロリストと変わらない

239人間七七四年2019/01/26(土) 09:06:19.15ID:BFRsbNS4
>>236
豊臣 主家簒奪の家。関白任官と聚楽第行幸で簒奪を正当化しながら、聚楽第行幸で公認された関白左大臣内覧豊臣長者一家を皆殺し。聚楽第を破壊。外征2度失敗
天皇 任命した関白左大臣内覧豊臣長者を一家皆殺しにされた。右大臣を流罪にされた。大臣を任命できなくなった。
公家 大臣になれなくなった
農民 太閤検地で税金をしぼりとられた。
大名 徳川は故郷を奪われ敵地に左遷沼地に住めと強要。伊達と上杉も故郷を奪われた。長宗我部島津は降伏。石高ランキングの上位過半数が豊臣に恩はない。
一門 豊臣長者一家皆殺しで脆弱
子飼 秀吉が死んで半年で武力闘争開始

240人間七七四年2019/01/26(土) 10:07:06.45ID:4VQ9cKhg
鎌倉政権のようなやり方なら豊臣政権存続はあり得たと思うけど
ただ、その場合は後世、豊臣ではなく大坂政権とか伏見政権と呼ばれたかもね

241人間七七四年2019/01/26(土) 10:17:06.76ID:hz8N2t5S
今だって「桃山(伏見)時代」だしな

242人間七七四年2019/01/26(土) 12:28:29.64ID:gxTvAFG+
>>232
私婚の禁止は武家諸法度にもあるし何らおかしなことではない
問題は秀吉死後誰がその許可を出すのかはっきりしてなかったことと
それを生きるか死ぬかの政争レベルに引き上げられてしまったこと
あんなん利家を擁して家康に大老職を退けとかいって大事にせずとも
不備を指摘して今後どうするか決めましょうか位の扱いにしてれば揉める事もなかった

243人間七七四年2019/01/26(土) 12:36:16.69ID:vg1NQSry
>>237
家康が誘引したわけじゃなく、三成が勝手に暴発しただけだろう

244人間七七四年2019/01/26(土) 14:03:02.19ID:bLx740yY
自分たちはいの一番に遺言破りして、相手の違反は大老職退けとまで問題大きくしてる訳だから
家康が許せないとかじゃなく、豊臣政権を自分たちに都合のいい政権にしようと画策してるだけよね

245人間七七四年2019/01/26(土) 15:28:53.92ID:aaKwsHoH
>>237
なんやねんその陰謀論

246人間七七四年2019/01/26(土) 16:24:21.03ID:UryAHVjA
>>245
>>236は公家から状況打開の働きかけが家康にあったと見てるわけでしょう?
手っ取り早いのが豊臣を政権から遠ざけることじゃないかな?

まあ、>>236が秀吉は汚い家康は綺麗の人ぽいから俺も穿って書いたのは事実だけど

247人間七七四年2019/01/26(土) 16:40:58.17ID:bLx740yY
いやその人別人ちゃうか、君の言うてる人毎回同じこと言うてる人のこと指してるんやろし

公家からの状況打開要請はあくまでも朝廷の仕事してってことなんだから
豊臣政権の家宰になってる家康が別に豊臣家の権威低下させるような真似せんでも政権内で仕事すりゃいいだけだし

248人間七七四年2019/01/26(土) 17:19:29.03ID:BFRsbNS4
秀吉がクズなのは確定だろう。

草履取りから引き上げてくれた主君の喪中に主君の妻や孫娘や息子を殺すクズが秀吉だからね。
しかも関白任官と聚楽第行幸で正当化しといて、その聚楽第行幸で公認されていた関白左大臣内覧豊臣長者の一家を皆殺しにするクズだから。

主家簒奪→関白任官→惣無事→聚楽第行幸(1回目)→聚楽第行幸(2回目)→関白左大臣内覧豊臣長者一家虐殺→秀吉死亡→関白任命→征夷大将軍任命→豊臣滅亡

この流れを理解することが重要だな

249人間七七四年2019/01/26(土) 17:28:06.41ID:aaKwsHoH
ネタで言ってるかと思ったらガチで陰謀論信じてそうで草も生えん

250人間七七四年2019/01/26(土) 17:35:58.79ID:Kh0JJaC5
まさか今度は輝元も嵌めたとか言い出さないだろうなぁ

251人間七七四年2019/01/26(土) 20:23:41.05ID:IgkxKzMH
  /_________ヽ
   ||  //||      ||
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   ||     ||(´・ω・)||  麻薬取締法違反で送検
  | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
 

252海老酢2019/01/26(土) 20:34:37.32ID:bMwUcduM
重臣や側近、ことによったら親子兄弟の粛清なんて世界史では珍しくもない。
鎌倉殿だってやったことだし。

なんで秀吉ばっかり責められるかね。

そして主君の妻や孫娘やらをいつ秀吉が殺したんかね?
むちゃくちゃな書き込みって自己満足だけで傍目には面白くないもんだよ。

253人間七七四年2019/01/26(土) 20:50:17.44ID:Nu+XL8cx
>>252
その鎌倉殿という先例があったにも関わらず、全く同じ失敗を繰り返したからだよ
一門を信用出来ない、謀反の兆しがあると殺しまくった結果、
息子の代で御家を絶やしてしまった、御家大事が絶対の武士にとってこれは最悪だ
確かに一門同士での殺し合いはある、それでも武家が一門を重視するのはなぜか?
それは一門を完全に粛清すると結局は御家を潰してしまう可能性が高いからなんだよ
だからこそ一門は大事にされる、整理や監視は無論必要だけどね

254人間七七四年2019/01/26(土) 21:08:06.39ID:ll5R9l80
>>252
そりゃ、秀次の粛清が豊臣家の滅亡に直結したからに決まってる。
お前が言う源頼朝も、義経を攻め殺した事は非難されてるだろ。正当性は段違いなのに。

主君の妻と言うのは、信孝の母の坂氏の事だと思う。一緒に信孝の娘も磔にされたという説もある。

255人間七七四年2019/01/26(土) 22:52:14.08ID:bLx740yY
秀吉はもともとが五十歳近くに織田当主が亡くなって、そっからの行動だし
んで子供も六十歳近くからの子だしで、もろもろを整理整頓するにはあまりにも時間がなかったって感じ

自分だけでやろうと思えばなんでもできてしまった間違いなく傑物であるが故に、健在な間は組織形成やらなにやらの粗もすべて自分で覆えてたんだけど、その自分が抜けた後は粗だらけのものを歳ゆえに丸投げするしかなかったなぁって感じ

256人間七七四年2019/01/26(土) 22:58:13.08ID:BBiB6lIm
>>236

朝廷からしたら関白は由緒正しい五摂家の持ち回りの役職であり、

征夷大将軍や源氏長者は由緒もクソもない盛時の強者に打算的に与えるものだったから、それを徳川に与えようが痛くも痒くもなかった。
由緒も何もない豊臣が関白に入ったのはあくまで事故であり源氏長者や征夷大将軍を喜んで受けてくれる徳川の台頭は公家側からしても願ったり叶ったりだったわけだな

257人間七七四年2019/01/26(土) 23:09:34.36ID:BFRsbNS4
公家からすれば、
豊臣は伝統ある近衛家の猶子にもぐりこみ、近衛信尹に譲る約束で関白になりながら、約束を反故にしたあげく近衛信尹を流罪にした不義の家だからな。

さらに、織田内大臣を流罪、近衛左大臣を流罪、菊亭右大臣を流罪、関白左大臣内覧豊臣長者を一家皆殺しとやりたい放題したあげく、
大臣職から公家をしめだした。

武家からすれば、下賎な野人で草履取り出身の男が、主家簒奪の不忠行為をおこなって成立したのが豊臣なわけで、
忠義を重んじる武士からすればゴミのような存在だ。
さらに武家関白制の関白左大臣内覧の豊臣長者を殺した不義の存在が秀吉秀頼なわけだから。支える価値もないクソといえる

258人間七七四年2019/01/27(日) 06:51:33.74ID:y7xMsbfB
>>250
そう言えばネットで見たんだけど、関ヶ原後広家が自分が貰える筈だった領地輝元に譲った話、後年吉川家が創作したものらしいね

259人間七七四年2019/01/27(日) 11:12:15.87ID:CawfYAdG
むしろ広家はもっと野心を持つべきだった
無能輝元を排除して自分が毛利を乗っ取り支配者になるくらいの強い気概があれば
斎藤道三や松永久秀みたいな評価を勝ち取れた

260人間七七四年2019/01/27(日) 11:14:21.26ID:m/OfHI52
>>259
結局負けるんかいw

261人間七七四年2019/01/27(日) 11:33:19.69ID:m/OfHI52
家康には野望も悪意もないよ。公家による日本の歴史を正しい形に修正しただけ。家康個人の戦略もあるだろうが基本は公家が立てた方針に従っただけ。

禁中並公家諸法度も公家の体面を保つように作られてるし、関白の摂関家以外からの任官はあり得ないとわざわざ書かれてる。
天皇家は江戸幕府が支援するから生活も安土桃山時代よりは安定できるようになったし公家にとってはいい事ずくめで徳川様々と言った所だったんだろう。

262人間七七四年2019/01/27(日) 13:24:11.57ID:FxoW187j
>>258
そりゃそうだろう。
広家の頭の中
「ボンクラ輝元は、当然処刑で毛利本家は取り潰し」
「東軍のために働いた漏れは、2か国の太守になって毛利本家の名跡を継げるに違いない」
そう思ってたのに、家康の大甘裁定でぶち壊しになったばかりか、
毛利家中で裏切り者扱いされて、5万石なのに家臣のまま。
なんとかして自分を正当化しないと暗殺されかねない。
この際、つける嘘はつきまくっただろうからね。

263人間七七四年2019/01/27(日) 14:39:11.61ID:ZLhnc33K
島津義弘が伏見城守備を鳥居元忠も断られたいうのと同じぐらいの眉唾話

264人間七七四年2019/01/28(月) 14:22:34.45ID:OG/bwy2f
天下を望むな→広家しか言ってない嘘
防長は輝元へ→かなり怪しい

265人間七七四年2019/01/28(月) 16:07:35.19ID:kaHIvQE+
まあそれについては広家がついた嘘というか
岩国藩が長州藩と一緒に本家から独立を画策して失敗した後の家格低下を恐れて子孫が捏造したっぽいから
さすがに広家自体が嘘ついたってのは濡れ衣かなぁ

266人間七七四年2019/01/28(月) 21:45:39.43ID:abxcOp1N
>>265
だから>>258で後年吉川家が創作した物って書いたんだけどね
だけど広家自体も自己弁護の為色々と自作している感じだしね
例えばテンプレの>>64>>65の覚書は吉川家文書には
慶長五年と六年の物として収録されているけど、家康の事
大御所様と書いてしまっている箇所がある以上、
家康が将軍職を辞した慶長十年以降に以降に書かれた物だと
思うんだよな

267人間七七四年2019/01/28(月) 23:16:12.29ID:a23ZDp/Z
>>266
ああいや失礼
あなたのコメントに対しての他の方のコメントがまるで広家がついた嘘のように語られていたので、誤解させて申し訳ない

そして確かに大御所様という書き方には違和感がありますね

268人間七七四年2019/01/29(火) 16:46:54.06ID:rA1F+zeP
秀吉に送られた2人
小早川秀包
人質として秀吉の元に送られたが、その才能を秀吉に愛された。
豊臣系大名として各地にてその才能を遺憾無く発揮し、立花宗茂と義兄弟となり朝鮮出兵でも大活躍した。

吉川広家
自己の地位権力名誉に執着する傾向が若い頃から度々見られる
21歳で秀吉の人質として大阪に入るが直ぐに帰されている。
父と兄が亡くなり吉川家を相続すると能力を開花させると、毛利の重臣として認められる。
この時期権力要求は鳴りをひそめる

人質として送っていた娘は秀吉のお目通りが叶わない等、天下の人物としては軽視されていた。
ところが小早川隆景の死、毛利秀就の家督相続、毛利秀元の独立など家中の足並みが乱れると、その権力と地位要求は肥大していく。

269人間七七四年2019/01/29(火) 19:24:56.94ID:YVFIQ2eJ
>>254
秀吉は、なんだかんだ言うても信長の嫡孫の秀信を大名として残してるしね。
しかも、信忠の旧領の美濃に領地だから、この手の話としては甘々。

まあ、譜代の居ない豊臣家としては旧織田系諸侯の機嫌を取る必要有ったんだろ。

270人間七七四年2019/01/29(火) 19:45:03.64ID:2ju/f90q
>>269
秀頼だって成長してから大人しく転封受け入れてたら大名として残ってたよ
大坂城だけは絶対に出ていかなきゃならんのよ

271人間七七四年2019/01/30(水) 10:49:30.13ID:0qlNiASc
秀忠や家光が今後豊臣家をどうするかは分からないが
家康が秀頼に出した条件は秀吉なんかより、はるかに甘い
秀頼が大名としてまともな判断能を持っていたら将軍の娘婿として、かなり良い地位を築けた

272人間七七四年2019/01/30(水) 11:37:06.50ID:UmIxjBjG
関ヶ原って結局秀吉の粗放な統一の必然的な後始末だったよな
豊臣政権の統一は秀吉にしか維持できないものだったし秀次や成人した秀頼では恐らく無理だったろう
持続可能な統一にはどちらが勝とうがどちらに大義があろうが関ヶ原が必要だった

273人間七七四年2019/01/30(水) 13:38:28.48ID:CmbQ1JBI
>>271
伊達あたりよりよほどよい立場に君臨できただろうにね。
みのほどをわきまえる、時流を知る、どちらかでも秀頼がもっていたならねえ

274人間七七四年2019/01/30(水) 14:49:13.22ID:M9sM2lm+
>>272
確かにね、仮に普通に秀次後継で、秀頼が秀次の婿みたいな妥協案でも、一度大戦争は
有ったはず。徳川、毛利、上杉って大きな大名が存在し過ぎてるもん。

前漢だと、高祖の庶子長子の斉王家が嫡流が断絶したって理由で一度おとり潰しをして
其の後、傍流の王族7人に御家再興「つまり7つに分割」してる。

徳川みたいな大きな大名は最低でも分割相続で小さくする事はやるはずだよね。

275人間七七四年2019/01/30(水) 15:31:00.21ID:D8EWeGK6
秀頼の不幸は母親が淀殿だった事。

276人間七七四年2019/01/30(水) 16:19:41.14ID:8/T9ORVM
淀は少なくとも大坂の陣の時にはまだしもまともな判断してたから
結局は秀頼本人があまりにもって感じ
まぁ教育責任が淀にはあるだろって意味だとその通りだけど

277人間七七四年2019/01/30(水) 17:24:05.96ID:47qgxhS7
16歳「この春(慶長13年2月1608年2月)、大坂の秀頼公は疱瘡をお患いになり、はなはだ危急」当代記
20歳「彼は30歳を超えざるに、甚だ肥満し、自由に身体を動かすこと能わず」セバスチャン・ヴィスカイノ(1612年面会)
22歳「世になきお太り」長澤聞書 長澤九郎兵衛

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 了| "~`、  "~"`   {,',; ;} 。  |;;;;;;;;;;ノ∪  \,) ,,/ ヽ〜
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     `i、-- '´   |ソ:
      ↑               ↑
   想像上の秀頼         現実の秀頼

豊臣秀頼
身長196cm
体重161キロ (明良洪範)
BMI41.91
適正体重84.52kg
適正体重より+76.48kgオーバー

BMI 体型イメージ
http://pbs.twimg.com/media/CBy3u20UsAEefCo.jpg

疱瘡(天然痘)の顔 塩田三郎
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/Saburo_Shioda.jpg

278人間七七四年2019/01/30(水) 18:46:38.47ID:V86iPWgF
本当は当主の教育は母親はやらん

279人間七七四年2019/01/30(水) 19:04:52.46ID:0qlNiASc
淀のせいってより浪人連中に乗せられた秀頼とその周辺が暴走したようにしか見えない
悲劇のプリンスとして安徳天皇の役割を演じさせたいんだろうけど、
それを20過ぎて子供までいる武家男子にやらせるのは無理がある
母親の実家がもっと力を持っていたらって意味なら、まあ分かる

280人間七七四年2019/01/30(水) 19:26:08.17ID:GCEHzHxp
何故か淀のせいにしたがるけど秀頼は一貫して主戦派だな

281人間七七四年2019/01/30(水) 20:59:45.20ID:cGoe1rel
淀と言えば正室の北政所、司馬遼が好きな所為か評価良いけど
秀吉の子飼い連中の為体を考えると多少過大評価気味な感じがする
西郷局亡き後、秀忠達を養育したと言われる阿茶局の方が賢そうな気がするなぁ

282人間七七四年2019/01/30(水) 21:01:33.69ID:47qgxhS7
脳筋が多いことで有名なねね幼稚園

283人間七七四年2019/01/30(水) 22:22:13.10ID:ZI+O18Qq
>>269
信長の家族 織田一家
信長 秀吉に呼び出されて移動中に京都で殺される
長男 秀吉に呼び出されて移動中に京都で殺される
次男 秀吉に改易にされ流罪。家康の口利きで大名復帰。幕末まで残る
三男 秀吉に短刀を贈られ自殺させられる
四男 秀吉が関白になった年に「病死」する
五男 秀吉に呼び出されて移動中に京都で殺される
側室 信長の没後10ヶ月で秀吉に串刺しにされて殺され数日間晒される。坂氏。お方様
孫娘 信長の没後10ヶ月で秀吉に串刺しにされて殺され数日間晒される。幼女。
妹  秀吉に筆頭家老柴田勝家と共に攻められ、自殺する。
弟  長利。秀吉に呼び出されて移動中に京都で殺される

「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん」 織田信孝

『それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。
 しかるに、いったん信長公の寵遇を受けて将帥にあげられ、大禄を食みだすと、
 天よりも高く、海よりも深きその大恩を忘却して、公の没後ついに君位の略奪を企つのみか、
 亡君の子の信孝公を、その生母や娘とともに虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。』

284人間七七四年2019/01/30(水) 22:26:52.02ID:BCT9p+5g
>>281
司馬遼太郎といえば、桂人で知られる阿茶局を何故か醜女に設定していたな

285人間七七四年2019/01/30(水) 23:26:22.53ID:XeqIpnsC
>>277
昔の人はただでさえ小さかったのに
そのサイズだと化け物に見えたんじゃないの?

286人間七七四年2019/01/30(水) 23:38:31.31ID:WBncMpMo
相撲レベル

287人間七七四年2019/01/31(木) 02:44:08.98ID:jlsrvXNy
誇張も入ってるんじゃないの?

三成に荷担していたと見られる宗湛とかの商人はまったくのお咎めなしだったのかな?

288人間七七四年2019/01/31(木) 09:28:48.14ID:55IpUgPn
>>284
写真も何も無い時代だし、正直女性の顔なんて想像でしか無いからね。
言える事は、美人って伝聞が伝わる人は、周囲の人に優しかった事が多いという事くらい。

ゴダイヴァ夫人なんか絶世の美人って事に成ってるけど、真実の婦人像は大分違うらしい。
修道院とかに寄付する慈善が大好きな婆さんだったみたいだね。
つまり、優しい性格に感謝した人達が聖女伝説を作ったと。

つまり、醜女伝説はその逆では?

289人間七七四年2019/01/31(木) 09:34:55.33ID:55IpUgPn
>>288
少しこのスレの本題とは、ずれるけど追加。

征服王ウイリアムがノルマン朝を作った後の検地でも、数少ないアングロサクソン系領主と
して残ってる。
優しい性格で敬愛されてたので、取り潰せなかったんでは。

290人間七七四年2019/01/31(木) 10:09:04.66ID:ky7NBt7C
司馬先生の作った設定に伝説もへったくれもないだろ
小説と史実の区別くらいつけろ

291人間七七四年2019/01/31(木) 10:51:30.10ID:Xt1Vxga2
阿茶局の醜女化は司馬遼の家康嫌いのとばっちりくらっただけだと思うが
それでも淀の描き方よりマシ
家康(周辺も)は嫌いなりにも偉大さを認めているところがあるが淀にはフォローがない
すべての責任を押し付けられたような感じ、まあ今と使える史料なんかも違うだろうからしょうがないだろうが

292人間七七四年2019/01/31(木) 12:33:01.16ID:CwOzniZp
wikiに書いてあるけど、司馬遼太郎は大阪生まれの大阪育ちで大阪で死んだ人間だからな。
大阪ってのは金と宗教に酔い南無阿弥陀仏を連呼しながら織田徳川と宗教戦争をしていたキチガイどもで家康嫌いは筋金入りだ。
まぁ歴史が歴史だからな。

■大阪の歴史チャート■
金と宗教に酔い南無阿弥陀仏を連呼しながら織田徳川と宗教戦争 → 織田に降伏する → 豊臣の主家簒奪で金と権力に酔い太閤殿下万歳 → 徳川に滅ぼされる →首都大阪の夢を絶たれる

とまぁしょうもない歴史だ。副首都だの大阪都だのといまだにあきらめてない

293人間七七四年2019/01/31(木) 12:43:48.87ID:mJ+hkcLC
大阪府民だけど家康好きだよ
大坂が大発展したのも江戸時代だし

294人間七七四年2019/01/31(木) 14:55:21.17ID:ekELMVVh
徳富蘇峰が悪い

295人間七七四年2019/01/31(木) 23:12:38.44ID:ky7NBt7C
とはいえまぁ、太閤下水みたいに江戸時代より前に存在を遡れないような下水道でも太閤なんて名前使ってるわけで
ことに地元史観というのは問題のあるものだなーと、観光資源である場合もあるから無理クリにでも話作るし

最近だと滋賀が石田三成を義の将だなんだと押し出してて、これまた軋轢生みそうだ

296人間七七四年2019/02/01(金) 00:41:47.33ID:ZnwbbEet
仙台とか熊本とかどこにでもある話やでね

297人間七七四年2019/02/01(金) 03:15:48.13ID:ix4xeeDF
名古屋にゃ太閤とおりなんて名前をつけた大通りもあるが、特にそれほど秀吉がそこでなんかしたわけでもないんだよな

298人間七七四年2019/02/01(金) 11:31:06.23ID:ZETvEe50
>>295
そりゃあさあ、三成の旧領は徳川譜代の井伊家の所領に成り、佐和山は廃城って運命でも
それなりに地元では人気有ったんだし。
大阪の陣で豊臣家が滅亡って結末だと、幼主を守る為の挙兵って言い分に一定の支持者が
産まれるのは仕方ない。

299人間七七四年2019/02/01(金) 11:47:38.38ID:F/p5ScKu
秀吉が備中に呼び寄せたせいで草履取りから引き上げてくれた主君が死んだというのに、
主君が死ぬと、たったの1年で、主君の妻と孫娘を串刺しにして殺し、
妹を筆頭家老と一緒に攻め滅ぼし、父母や義父殺しに関与しながら、その長女の淀を犯して側室にし、三女を政略の道具に使い
自分を織田家へ仕官する口利きをしてくれた生駒吉乃の息子さんを改易にして流罪にし、
聚楽第行幸で公認されていた武家関白制の関白左大臣内覧ご一家を女子供も皆殺しにしたのが豊臣って事実をバカな愚民には理解できないからね
出世したってだけで評価されてしまう。外征に2度も失敗して朝鮮人ごときを征服できない。

人妻寝取りが大好きで人のものを奪うことが趣味の秀吉は不義不忠不貞不徳のいくつもそろった日本人の恥だ。

300人間七七四年2019/02/01(金) 11:51:43.25ID:R3Ek22Za
物欲はないが権力欲は異常にある
三成は面白い人間だよな

301人間七七四年2019/02/01(金) 11:59:08.42ID:G8q3H2T9
生涯官僚で良かったんだよ
嫌われ者の癖に変に野心を持ってしまった事が火に油を注ぐ羽目になった

302人間七七四年2019/02/01(金) 12:05:52.72ID:F/p5ScKu
石田三成ねぇ

秀吉の遺言で「どんな事でも、家康殿と利家殿の御意見を聞き、その御意見次第できめるように」と言われていたのに、遺言に逆らい、
利家が死んだあと内大臣家康の意見を聞かずに行動し、上杉と一緒の反乱をおこしたクズだな。

上杉には隣国の堀や最上が警鐘を鳴らしたため、内大臣は弁明を求めていた。
居直った上杉と、権力ほしさに反乱をおこした御仁の共作が関ヶ原の戦い。

帝が下賜をおこなって出陣した最高位の内大臣率いる軍には豊臣家も物資援助をおこなっていたが、
三成らは豊臣にすら公認してもらえなかった。

毛利や三成は賊徒にすぎないね

303人間七七四年2019/02/02(土) 02:34:48.21ID:IlnFQLSU
>>300
何か面白いよね、別に譜代家臣って訳でも無いんだから秀頼を見捨てる選択肢は
有ったはずなんだよな。
佐和山19万石を守るのが目的なら、上手く家康に媚びれば良いだけだったんだよね。

304人間七七四年2019/02/02(土) 03:13:40.75ID:RTPhjp/N
金より権力が欲しかったんだろ。
家康は豊臣直臣を使わなくても、自分の家臣だけで政権を回せるんだから、
家康政権になれば豊臣の官僚が干されるのは見えてた。

305人間七七四年2019/02/02(土) 04:36:08.05ID:MKqpWoxb
別に秀頼のために挙兵したわけでもないしな三成
むしろ秀頼のため思うなら挙兵しないで家康立てていくのがベストな選択だし、秀吉もそれ望んでた

ほんと世間に流布してる説とは真逆で
家康が豊臣家にかなり忠を尽くしてて、三成はそれの邪魔してる状態やね

だから世間の流布説の義の将扱いがおかしいから軋轢生むと危惧してる訳

306人間七七四年2019/02/02(土) 15:35:05.17ID:sVFuBWJk
義将を名乗りたいなら、
@帝に大臣に任命してもらう
A秀吉の遺言で、政治は徳川前田ではなく、石田にまかせるのでその御意見次第できめるように」と書いてもらう
B出陣にあたっては帝に下賜をしてもらって応援され、豊臣家からの物資援助をしてもらう
C豊臣への忠義をうたうなら豊臣家に公認してもらう

最低でもこれらは必要だわな。三成のどこに義があるのか歴史の謎だわ。

主君が死ぬと1年で主君の家族を殺して主家を簒奪し、関白の地位と聚楽第行幸で主家簒奪を正当化しながら
その聚楽第行幸で公認されていた関白左大臣内覧豊臣長者を一家皆殺しにした秀吉秀頼親子に正義があると主張するのと同じくらい歴史の謎

307人間七七四年2019/02/02(土) 15:39:31.90ID:x68FbYdE
金だろうが領地だろうがそんなものは権力者の地位にいればいくらでも手に入るからな
三成ら奉行の権力の源泉は後の側用人と同じで君主の側近くで仕えている事だから
秀吉存命時の佐和山19万石には色々な余禄があるけど
秀吉没後(特に失脚した後)の佐和山19万石は額面どおりの19万石に過ぎず価値が全然違ってくるし
あのままだと加増もなく僻地へ転封もありうる
佐和山19万石を三成にとって価値のあるものに戻すには
秀頼との間に存在する邪魔者を排除しないといけないわけだ

308人間七七四年2019/02/02(土) 19:09:42.43ID:IlnFQLSU
>>305
丁度、同じ奉行の浅野長政が家康に媚びて世渡りしたから、三成が徳川に寝返った場合の
未来も予想は可能では有りますね。
浅野は、徳川領に隣接してた甲斐から紀伊に転封、其の後加増転封の建前で安芸備後に
移された。

三成も、南近江の所領が安堵された訳が無く、九州か山陰、或いは奥州辺りに飛ばされる
でしょうね。
その上で、当然大阪攻めの時は出陣を求められるって事だね。
まあ、やっぱ三成の性格では主君を攻めるのが嫌だったんでは?

309人間七七四年2019/02/02(土) 19:21:23.52ID:lDVbUB8Z
むしろ三成が挙兵しなきゃ大坂の陣も起きてないけどね
三成が徳川の天下を作ったようなもんだし

310人間七七四年2019/02/02(土) 19:42:34.08ID:MKqpWoxb
>>308
なんかとんでもない勘違いしてるな君
大坂の陣と関ケ原にはなんの関係もないぞ
大坂の陣が起きた理由は秀頼が大無礼働いたからなわけで、並の城主程度の能力さえあったならなら大坂の陣なんて起きすらせず、つつがなく豊臣家は続いたぞ

とりあえずちゃんと一回大坂の陣あたりの勉強しなおした方がええで、あまりにも古くて信ぴょう性のない説で語る前に

311人間七七四年2019/02/02(土) 23:15:02.96ID:sVFuBWJk
大阪の陣は呪殺テロリストの豊臣秀頼が五山認定の呪術テロをおこして、浪人をあつめて日本政府に謀反をおこした戦いだね
右大臣征夷大将軍に征伐されるのも当然だった。

関ヶ原の戦いは帝が下賜をして送り出した内大臣率いる官軍に、帝の公認も豊臣の公認もない人間が反乱をおこした戦い。
官軍には豊臣も物資援助をおこなっていた。まぁ、内大臣に討伐されるのも当然だろう。
三成が大義を主張したいなら、帝の公認か豊臣の公認を最低でも得る必要があった。

312人間七七四年2019/02/02(土) 23:18:24.14ID:sVFuBWJk
そもそも、主家を簒奪し織田家を乗っ取って成立した大義なき存在が豊臣で、
関白と聚楽第行幸で主家簒奪を正当化しながら、
その聚楽第行幸で公認されていた武家関白制の関白左大臣内覧豊臣長者一家を虐殺した秀吉秀頼親子に大義はないと思うよ。

313人間七七四年2019/02/03(日) 10:15:22.42ID:S3e+ozf0
>>311
方広寺の鐘銘、呪詛ならなんでそのままにしておくんだとか言う人いるけど
あれ、問題とされているのは、あくまで諱を用いた事、しかもそれを二つに分けたという
非礼が問題だから。五山からの回答でも問題としているのはその点で、
実際呪詛、調伏について触れている物は一つも無いからね

関ヶ原の話に戻るけど、西軍の連中はどこか気が抜けていると言うか、何というか
三成以上に義将とか持ち上げられている大谷吉継すらこの有様だし

314人間七七四年2019/02/03(日) 10:15:53.47ID:S3e+ozf0
島津義弘宛大谷吉継書状

態令啓達候、昨晩者被召寄、種々御懇之儀共誠此中候、散窮屈忝奉存候、以外大御酒を被下、于今ふせり在之事候、

今朝者早々預御使者、過分至極に存候、自是も早速可申上處、沈醉故御報迄に罷成恐入候、先爲御禮企一札候、

尚追々可得御意候、恐惶謹言

  七月廿九日                白頭(黒印)

             大刑少   
  羽兵入樣         白頭
     人々御中

315人間七七四年2019/02/03(日) 10:22:27.58ID:S3e+ozf0
七月二十九日と言えば伏見攻めが大詰めの頃だろうに
深酒して、返事も出来ず御礼の使者送るのが将として精々どうなんだろうか
ついでに言っておけば死病に冒されているとは思えないな

316人間七七四年2019/02/03(日) 10:56:38.06ID:Gd1ymwtL
使者を送ったのは島津側でしょ
単に書状の如く飲み過ぎたことへの労りか何かの返答を島津が催促して使者を送ったのかは分からんけど

317人間七七四年2019/02/03(日) 12:04:29.44ID:2TXtfP+d
なんか大谷吉継って有名な将の割りには何をやったのかとかが虚構にまみれてて実像がよくわからない人物ですよね

318人間七七四年2019/02/03(日) 12:08:08.58ID:McRwVQiJ
もし小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた?

319人間七七四年2019/02/03(日) 13:01:35.78ID:TQDZy5RF
あの人最初から東軍側なのでは

320人間七七四年2019/02/03(日) 13:12:34.59ID:gvWxwx8J
だって三成側に立って伏見城攻めてるんだよ。あの勢いで西軍のままだったら歴史は変わってただろう

321人間七七四年2019/02/03(日) 13:49:37.06ID:yBKy/Xz6
ではどうやって秀秋を西軍に引きずり込むのかな
まず三成には秀吉が死んだ後に殉死して貰おうかな

322人間七七四年2019/02/03(日) 14:13:14.49ID:R1SKCuzG
石田がなぜ挙兵したかという点については確たる証拠はないと思うが。
石田自身に権力欲もあっただろうが、
一般的には家康の専横を阻止する為に挙兵した
と言われてるでしょ。
客観的に見れば豊臣政権内の政争で劣勢側が
挙兵したが敗北したと。

323人間七七四年2019/02/03(日) 14:20:13.03ID:yBKy/Xz6
秀秋も武断派も三成嫌ってるんだから死んでもらった方がいいだろ
隠居させても挙兵する権力の亡者だぞ

324人間七七四年2019/02/03(日) 14:23:17.36ID:g+wOerp3
義演とかの僧侶や公家連中は西軍のこと秀頼衆と書いているし、山科も家康と秀頼の対面を和睦と書いているから
世間的にはやはりそう言う見方をしていたんだろうなぁ

325人間七七四年2019/02/03(日) 14:29:40.14ID:2TXtfP+d
世間一般で言われてる説で話したいのか
学説で有力な説で話したいのか

関ヶ原研究は世間一般で言われてる説と有力な説とが乖離しまくってるから、どれに絞って話するのか決めないと平行線よ

私的には世間でよく言われてる説をもとに語るのなんて、三国時代の話するときに演義の話で語るようなものだから、やる意味ないと考えるけど

326人間七七四年2019/02/03(日) 14:35:15.79ID:2TXtfP+d
その手の僧も公家もいた場所が京都や大坂な訳で、もろに西軍が占拠した場所の根拠地だから
果たして客観視できてるかと言うとかなり疑わしいんじゃねーかな

まさか自分たちの周りにいたのがクーデター軍だったって認識できる人中々いないだろうし

327人間七七四年2019/02/03(日) 14:53:21.56ID:g+wOerp3
>>325
当時の都周辺の知識層の人々の認識が、その当時の世間だろうと思って、世間的って書いたんだけど、分かりにくかったかな

328人間七七四年2019/02/03(日) 15:00:02.80ID:Dv/eCwKU
>>313
確かにさ、東洋では忌み名を使うのが無礼って慣習が有る国「中国とか」は有る。
皇帝の名前とかは使えないので、後漢時代は秀の字が使えなかった「初代が劉秀」とかは
有る。
でも、日本じゃ一族の通字とか、主君からの「一字拝領」とか有る国だしなあ。

大体さ、幕府が「家」とか「康」みたいな良く使う字を使用禁止にしたって事実無いじゃん。
清朝なんかでは、予想外の皇子が即位したんで改名「使用頻度が高い字が忌み名だと庶民が
迷惑」した話とか有るよ。

「家」も「康」も使用禁止にしてないのに、使うのが無礼ってヤクザの言い掛かり。

329人間七七四年2019/02/03(日) 15:01:55.89ID:2TXtfP+d
>>327
もちろん平常時の認識ならそれで間違いはないんだろうけど
西軍挙兵時は一時的に西軍の根拠地となってたから、都周辺の人間と他地方の認識が非常にずれてる可能性は認識してないとダメだと思う

それこそ黒田如水なんかは広家宛に輝元がやらかしたんやろうからはよ家康に謝罪しないとやべぇって書状だしてたりするし

330人間七七四年2019/02/03(日) 15:10:02.46ID:2TXtfP+d
>>328
日本でも勝手に他人の諱を使うことは無礼っていう慣習は存在してるよ
ましてや書いた僧本人が家康の名前を本人はお祝いのつもりで書いたって認めてるわけで、確実に家康の名前を意識して鐘銘に刻んでる

あと大坂の陣の発端に関しては鐘の銘が問題じゃなく、その件について話詰めてる最中に取次の片桐を連絡なしに追放したのが出兵理由
まぁその前から浪人集めたり鐘銘を含めた方広寺開眼供養でのもろもろの不審な行動も相まってるから
決して鐘銘だけが問題だったわけじゃない

331人間七七四年2019/02/03(日) 15:11:29.05ID:TBYJE8Pf
>>328
諱を使うのが無礼だったのは日本も同じだよ
なんで中国だけだと思ったの

332人間七七四年2019/02/03(日) 15:24:39.72ID:eK5BF2aE
大阪城や豊臣家は、経済規模を愛知県に抜かれた大阪にとって観光産業の客寄せパンダなんだよ。
だから豊臣は正義、石田は義将、家康は逆賊なんてトンチンカンなことを言っている。

事実だけを並べれば、豊臣は忘恩の家で主家簒奪で成立し、関白と聚楽第行幸で簒奪を正当化して惣無事で諸大名を帝に臣従させながら、
帝が聚楽第行幸で公認していた関白左大臣内覧豊臣長者の一家を虐殺した大義のない存在だ。秀吉秀頼に大義はない。

三成は帝の公認を得ておらず、豊臣の公認すらなく、関白殺しの前太政大臣が政治をゆだねるといっていのに、
帝が下賜ををおこない出陣した最高位の内大臣に謀反をおこした逆賊なわけで、義将どころの話じゃない

333人間七七四年2019/02/03(日) 15:32:44.98ID:eK5BF2aE
輝元が戦場に出ずに大阪に入り浸っていたのも、大義がないから。
同じ構図は明智光秀のときにもおこっていて、光秀もさっさと安土に行けばいいのに京都に入り浸っていた。

334人間七七四年2019/02/03(日) 15:52:34.04ID:eK5BF2aE
しかしお墨付きを欲しがる光秀や輝元は日本人らしいけど
だからこそ秀吉の異常性がきわだつな。

自分が呼び寄せたせいで主君が殺されたのに、1年で主君の妻と孫娘を串刺しにして殺し
息子を自殺に追い込み、妹を攻め滅ぼし、三法師に臣従したり信雄の臣従したりしながら
信雄をも殺そうとした。お墨つきよりまず行動。そして帝を使って正当化したのに、
気に入らないから関白左大臣内覧の豊臣長者の一家を皆殺し。まず行動。そして誓詞で正当化。
すごいわ

帝の公認も豊臣の公認もないのに謀反をおこした石田は秀吉によく似ている

335人間七七四年2019/02/03(日) 15:58:17.20ID:CpiWOfon
なぜ石田が挙兵したか?という点については確たる証拠がないので
大谷吉継首謀者説なんかもでてくるわけで、
一般的に言われているように豊臣政権を専横する家康を阻止する為かもしれないし、
毛利らと共謀して自分らで豊臣政権を牛耳るつもりだったかもしれない。
石田が己の権力欲のために挙兵したとする明確な証拠はない。
可能性を論じるならまだしも、断言するなら証拠を出すべき。

336人間七七四年2019/02/03(日) 16:06:48.52ID:CpiWOfon
このあたりは首謀者、あるいは首謀メンバーはだれだったのか、の論点ともリンクしてくるので、
石田が挙兵した、という一般説を取りつつもその理由は権力欲で、と
根拠不明部分を含めた語り方のスタンスはおかしい。
一般説でいくなら石田は家康の専横を阻止する為挙兵した、となる。
各種説を踏まえるなら首謀メンバーについては各説あり、挙兵理由も明確なものはない、
となる。

337人間七七四年2019/02/03(日) 16:14:17.39ID:eK5BF2aE
家康の専横とか言っているけどね、

豊臣公儀は関白の官位と聚楽第行幸で成立したもので、武家関白制が公儀性を保証している。
その体制下で家康は内大臣だったんだよ。太政大臣が関白を殺し、
征夷大将軍関白太政大臣左大臣右大臣が欠員な以上、内大臣が政務を引き継ぐのは公儀として当然なわけ。

そして関白殺しの太政大臣秀吉も

何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、 其次第相究候へ
どんな事でも、家康殿と利家殿の御意見を聞き、その御意見次第できめるように

と言っていたわけだから、三成がいちゃもんをつけていたんだよ。

三成が大義を主張したいなら、帝に大臣に任命してもらい、
秀吉に、どんなことでも三成の意見を聞いてその意見で決めるようにと遺言してもらい、
関ヶ原の戦いに大義を求めるなら、豊臣の公認は当然として、帝に下賜くらいはしてもらわないと話にならない。

338人間七七四年2019/02/03(日) 16:25:20.77ID:2TXtfP+d
わからないものはわからないものとして置いておくことも学問としては重要なことよね
勝手に仮定しちゃうことはそのまま観測に変なバイアスをかけてしまうし

339人間七七四年2019/02/04(月) 12:39:05.26ID:3EzTXMnQ
>>324
山科とか思い切り家康派の公家だよね。それが和睦と書いているのは気になるかな
彦佐も、やはり秀頼が家康に敵対したけど許されたみたいに書いていたと思ったんだが

340人間七七四年2019/02/04(月) 13:40:23.21ID:iI9RhKy4
和睦と見られていたとするなら、家康がその時点で豊臣家を見限って
独自の政権づくりに着手したと見ることもできるわけかな
出典は不明ながら後に二条城会見の際家康が「成人後は政権を返そうと思っていたのに関ヶ原で敵対したではないか」と詰った
との説もあるけど

341人間七七四年2019/02/04(月) 13:48:22.84ID:sUPikXGs
東西両軍共に名目上は豊臣家ために戦ったんだろ?
なんで和睦なんかするんだよ

342人間七七四年2019/02/04(月) 15:43:55.97ID:rdzjmCYE
東は天下のため。聚楽第行幸で忠誠を誓っている主君の帝から下賜をされ、前太政大臣家からも下賜されている。
西は豊臣のため。でも豊臣には認めてもらえなかった。帝にも認めてもらっていない。

帝から預けられた政治をおこなう内大臣に豊臣への忠誠をとなえて謀反をおこしたのが西軍。けどその豊臣は西軍を認めていない。

343人間七七四年2019/02/04(月) 16:00:27.92ID:rdzjmCYE
関白任命と惣無事で主家簒奪を正当化した豊臣は帝への臣従を求め、
聚楽第行幸でその体制を2度確認していた。けど豊臣はみずから武家関白制の関白左大臣内覧豊臣長者の一家を虐殺して
聚楽第を破壊し、体制を崩壊させた。
そして誓詞を乱発したあげく、外征を2度も失敗した太政大臣は死んだ。太政大臣の死後は内大臣と大納言が政務を引き継いだ。

太政大臣の遺言で太政大臣の死後は「'どんな事でも、内府と大納言の御意見を聞き、その御意見次第できめるように」と言われていたし、
御掟では上様の許可を取ることと言われていた。つまり大名同士の婚姻は上様のかわりである、徳川前田が許可を出す体制。
家康は内大臣として婚姻をしていったが、前田が文句をいったので謝罪した。
そして大納言が死去。公儀の決定権は家康のみになった。

大納言が死んだので、遺言ではこうなる。「どんな事でも、内府の御意見を聞き、その御意見次第できめるように」

ところがそれに不満をもった反乱分子が謀反をおこした。これが関ヶ原の戦い。

関ヶ原後、1601年に関白が任命され、1603年に征夷大将軍が任命され
公家関白制のもと、武家の征夷大将軍が天下の大政をおこない日本政府として支配するという体制に戻った。

そして1614年に、その体制を認められない秀頼が呪術テロをおこない、右大臣征夷大将軍に征伐された。

これが真実

344人間七七四年2019/02/04(月) 16:46:36.67ID:kuRuLxVQ
事情を一切知らない人間からしたら
徳川が畿内を離れたあと、豊臣本宗家は特に軍事衝突することもなく西軍を畿内に入れた
訳だから、そう見えたんじゃない?
山科も徳川と親しいとはいえ、豊臣政権内部の政争をどこまで理解してたのかって感じ
彦左は、あの彦左やし

そもそも当時子供で判断能力があるか非常に怪しい秀頼に、和睦もへったくれもないやろと思うけど

345人間七七四年2019/02/04(月) 17:48:03.05ID:TUuFEWDa
>>341
東西どちらも豊臣と敵対する相手ではないので、豊臣の為に戦ったはもともと無い話

346人間七七四年2019/02/04(月) 19:36:09.60ID:rdzjmCYE
家康は帝から内大臣に任命されていて、遺言で「何事も内府と大納言の意見次第できめるように」と言われている片われで、
帝に下賜をされて出陣し、豊臣からは物資援助を受けていた。

官軍を率いている内大臣を、三成ら賊軍の西軍と一緒に考えていることじたい間違っている。西軍は賊軍だよ。
そもそも対等の関係ではない。
賊軍だから輝元も大阪に入り浸ってお墨付きを欲したし、吉川もひよっている。本能寺の変後の明智と一緒だ。

三成には大臣職でもなければ、遺言による政治をたくすというお墨付きもなく、帝の公認も、豊臣の公認もなかった

347人間七七四年2019/02/04(月) 20:50:17.52ID:hAFR6yR0
>>341
別にさ、日本では鎌倉時代から主上後謀反とかの国ですし。

君側の奸って建前で主君を丸裸にするって事も良く行われてるしさ。
関ケ原の結果が、豊臣家の蔵入り地横領で65万石の大名に秀頼を転落させた訳だし。

まあ、一般人の感覚では秀頼公が家康に敗北したで間違い無いでしょ。

348人間七七四年2019/02/04(月) 21:12:16.81ID:rdzjmCYE
一般人の感覚なら、

帝の下賜を受けて出陣した最高位の内大臣率いる軍に、石田三成が謀反をおこして大阪城を占拠したって感じだろう。

現代で言うなら、天皇の爺ちゃんが自衛隊に頑張ってくださいと下賜をして応援し、総理大臣が自衛隊の総指揮官としてみずから指揮をとって出立したら
元官僚が空き巣のように反乱をおこして国会議事堂を襲撃して占拠した感じだ。

349人間七七四年2019/02/04(月) 21:12:22.51ID:kuRuLxVQ
実際に両軍ともに名目上豊臣家の為に動いてその結果、褒美とその領地管理を行う人間が必要だから蔵入り地が削れただけで別に横領でもなんでもない
それを敗北云々言っちゃうのは、自分の主観押し付けすぎちゃうか感

350人間七七四年2019/02/04(月) 21:24:42.19ID:rdzjmCYE
1614年のことなら、
関白左大臣が鷹司、右大臣征夷大将軍が徳川、内大臣が西園寺で、
帝に公認されている右大臣征夷大将軍が東京に日本政府をおき政治をおこなっているのに

呪術をもちいたテロを秀頼がおこない、そのテロ行為は当時最高の学識者たちが
『何よりも悪いことと考える。見逃してそのままに出来ない。承知できることではない。前代未聞である。好ましいことではない』
『源を射るという意味だ。無礼で不法極まりない。沙汰の限りである。呪詛調伏の心』とコメントしていて
政府に出頭するようにもとめたら、テロリスト秀頼が大阪で無職を集めて反乱をおこした感じだ。責任ある立場の大名達はだれも味方していない。

んで、前豊臣公儀に正当性があるかが一番の問題にされることが多いけど、
主家簒奪を関白と聚楽第行幸で正当化しておいて、その行幸で公認されていた関白左大臣内覧豊臣長者一家を皆殺しにした豊臣に大儀があるのかって話だ。
あるわけないな

351人間七七四年2019/02/04(月) 21:43:48.85ID:nirwJkIW
>>348
例えが面白いね。下賜されるのは菊の御紋の入った紙巻たばこか手ぬぐいといったところかな。

>>349
ならば豊臣領を120万石は残すべきだったんじゃない?
前田以下の石高まで削るというのは主家をないがしろにしたと言われても
仕方がないと思うが。

352人間七七四年2019/02/04(月) 21:59:46.51ID:lIx+rjsE
>>351
んな事言われても、別に豊臣家は関ヶ原の恩賞に文句なんか付けてないしなあ
少なくとも、自分はそんな話聞いたことないよ
諸大名が満足して豊臣家が抗議してないのなら、別に問題にせんでもいいだろ

353人間七七四年2019/02/04(月) 22:00:40.91ID:kuRuLxVQ
前田以上の石高だったら横領じゃないんだ!
とでも主張したいの?
手続きに則った上で領地配分して、豊臣家も文句つけてないし当時でもそれで主家を蔑ろにしたなんて風聞出てない
ないがしろにしたと言われてもってのは君が主観で言ってることでしょ

ましてや、豊臣家にもう領土維持や経営できる人材がいなくなったから、あれ以上に領土あったらむしろ酷だよ

実際には65万石すら自分たちで運営できてすらいなかったんだから

354人間七七四年2019/02/04(月) 22:04:33.62ID:kYMGZSxd
>>351
秀信に濃尾二カ国とは言わずともどちらか一国でもあげとけばそうも言えただろうけど岐阜13万石じゃねえ
あと秀吉が大領を継いだ幼君に対して家臣の管理責任を問うて領地を没収してるので
そういう意味じゃ関ヶ原で何もできなかった秀頼が領地を奪われるのもやむを得ないんじゃね

355人間七七四年2019/02/04(月) 22:06:25.29ID:rdzjmCYE
豊臣信者に多いのは惣無事と聚楽第行幸を無視することだな。

主家簒奪の逆臣が帝を主君とすることで主家簒奪を正当化した事実をなかったことにする傾向にある。

関ヶ原の戦い後の戦後処理は、家康が主君の帝の代理である内大臣としてやったのだから、何の問題もない

356人間七七四年2019/02/04(月) 22:42:47.30ID:tHGlGepy
>>355
荒らすなガイジ

357人間七七四年2019/02/04(月) 23:13:27.10ID:eGYVkU0I
>>351
豊臣に反逆する上杉を討ってあげるために会津まで出かけようとしていたのに
豊臣は子飼いである三成に謀反を起こされたうえに
何の対応もできず三成にやりたい放題をされていたんでしょ

それで家康たちがわざわざUターンして三成の謀反を鎮圧してあげたのだから
豊臣が東軍武将にかけた迷惑と手間を考えたら豊臣の全財産を恩賞として払っても足りないくらいだよ

むしろ家康は豊臣の財産を残しすぎたくらいだ
本来なら豊臣は朝鮮出兵と関ヶ原で諸大名にかけた迷惑の補償で現代の会社だったら確実に破産宣告を受けるレベルなのに
家康が温情をかけて豊臣の破産を回避してあげたというのが実情だよ

358人間七七四年2019/02/05(火) 00:12:06.58ID:WiAWPShh
豊臣の実態は、天皇を主君にした戦国大名の連合政権
聚楽第行幸で諸大名が忠誠を誓った主君が帝なわけだが、

その主君が関白を公認して、臣下を指揮する権利を与えた体制だ。まぁそれも武家関白制の関白左大臣内覧を豊臣が虐殺するまでだが。
太政大臣が死んだ1600年の豊臣にはなんの権利も公儀性もない。

>>357
たしかにそうだな。子飼いの家臣の責任くらいとってもらわないと。

359人間七七四年2019/02/05(火) 00:37:08.44ID:jPyESkpf
>>353
手続きってwwwwwww確か秀吉が死んだ時で約220万石有ったはずだよね。
つまり、約150万石も領地没収された最大の敗者ですよ、秀頼は。

360人間七七四年2019/02/05(火) 01:10:35.30ID:Sqwx/n6X
>>359
いやだから・・・
君そのあとに何人かから言われてること理解できてる?

戦に負けて領地を割譲したわけじゃなく、戦の褒美として領地を与えたという形でしょ
そもそも勝敗で語るものじゃないって言ってるんだけど

あと蔵入り地と家が直接支配を行う領地くらいの区別はつけようよ

361人間七七四年2019/02/05(火) 01:12:56.86ID:Sqwx/n6X
たとえば清須会議のあと秀吉の領地は一気に増えて織田家の領地はその分削られてるけど、それを織田は羽柴に負けたなんて誰も言わないでしょ

362人間七七四年2019/02/05(火) 07:51:57.19ID:IwSaO2PD
そもそも、蔵入地って領地じゃないだろ。
その土地で起こるトラブルを豊臣家が解決したりの領主としての義務を果たしてないし。
その土地から得られる収入をそのエリアの大名に豊臣家に上納させてるだけ。
秀吉生前から、真面目に上納しない大名が多くて問題になってたところで、
豊臣家の官僚団が消滅しちゃってシステムを維持できなくなったから、上納を辞めることにしただけ。

363人間七七四年2019/02/05(火) 09:15:25.20ID:WiAWPShh
豊臣に正当性がある前提で話をすすめる時点で間違っている。

豊臣は主家簒奪のお家柄で、聚楽第行幸で簒奪を正当化しながら、行幸で公認された関白左大臣内覧の豊臣長者を一家皆殺しにして
またも簒奪したのが秀吉秀頼の立場。

正当性があると思うほうがおかしい。

364人間七七四年2019/02/05(火) 10:18:13.27ID:Yu8hjBj7
糖質かなこれは

365人間七七四年2019/02/05(火) 15:00:09.35ID:WiAWPShh
正当性のない豊臣公儀下でおこった子飼いの家臣の謀反事件で、その残務処理に豊臣公儀の国有地が使われるのは当然なんだよ。
豊臣は正義であり、その豊臣の領地を勝手に分配するのはけしからんなんて視点で見ている時点でおかしい。

そもそも蔵入り地は公儀の国有地で、豊臣家の私有財産ではない。遺言でも

一つ、年寄五人で蔵入の御算用を処理することにきめたから、家康殿と利家殿にそれを見せ、受取状をとっておき、
秀頼様が御成人なされて、御算用のことをお尋ねになった場合は、御両人の受取状をお目にかけるようにしてほしい、と仰せられた。

と遺言されているのだから、蔵入り地をもらった畿内や北九州の大名が領地を返還すればいいだけだな。
前公儀に従うのが正しいと信じていて、文句があるなら、遺言に従って受取状を秀頼に提出して自分で返還しなさいってことだ。
蔵入り地が多かった畿内や北九州の豊臣恩顧の大名は蔵入り地を返還しなきゃだめだな。

366人間七七四年2019/02/05(火) 23:06:28.92ID:UsGZLt96
>>359
三成の謀反を家康たちに鎮圧してもらったことに感謝して
豊臣が150万石を恩賞として払ったのだから何も問題ない

367人間七七四年2019/02/05(火) 23:40:54.47ID:qG68Uc9Z
そもそも部下や諸侯の不満を抑えきれないのなら
トップが自腹を切ってでも恩賞を与えなきゃならんのは当たり前の事
その結果領地が減ったり、赤字になったとしてもそれはもうどうしようもない

368人間七七四年2019/02/06(水) 06:52:34.31ID:gO0LP04o
戦国武将は今の会社でいうと赤字上場みたいなものでどこも家計は火の車。営業利益がしっかり確保できてるとこはほとんどなかったと思われる。

369人間七七四年2019/02/06(水) 11:01:14.69ID:fzBLNVG0
普請や参勤のせいだろw

370人間七七四年2019/02/06(水) 11:11:19.56ID:En81u1Dh
普通に自転車操業だから他国に攻め入る状況が続いてたのが戦国時代
惣無事令出されても業務形態が他国侵略によって利益を上げる状態から変えられていない大名家なんて腐るほどある
ましてや一文の利益にすらならない唐入りで西国は財政破綻してるところ多かったよ

371人間七七四年2019/02/06(水) 12:56:43.48ID:sGN7IM2J
しれっと無かったことにされやすい朝鮮役の経済的悪影響
日本戦史を引用して西国大名の動員数から大したことはないとする
意見があったが、実際は相当カツカツの状態で、西国大名の兵も
実際は少なかった

372人間七七四年2019/02/06(水) 16:07:04.92ID:HyOvK4VD
主家簒奪は信長の後継者とか意味不明なことを言ってなかったことにされやすいし
秀吉が三法師に臣従したり信雄に臣従したりで織田家をかきまわしていたこともなかったことにされるし
主君の妻子や孫娘、妹を秀吉が殺していることも他人がやったことにされるし
惣無事で帝に服属するようにもとめたこともなかったことにされて豊臣の家臣とか寝言を言うし
聚楽第行幸もなかったことにされるし
聚楽第行幸で公認された関白左大臣内覧豊臣長者にたいして隠居が謀反をおこしたことは、殺生関白の謀反になるし
信尹に関白を譲る約束で近衛家猶子になって関白になりながら、約束を反故にして信尹を流罪にしたこともなかったことになるし
二度の外征失敗もなかったことになるし
太政大臣の遺言で政治を託され、帝の下賜を受けて出陣した内大臣に謀反をおこした石田三成は帝にも豊臣にも認めてもらえてないのに義将にされる
秀頼がBMI40越えの160キロデブなのも、すらりとした優男に捏造される

歴史を捏造する力がはたらいている

373人間七七四年2019/02/06(水) 17:00:01.40ID:i/1SMz2i
言いたいことは分かるから何度も書かなくていいよ

374人間七七四年2019/02/06(水) 17:32:24.27ID:p/rjT1UY
成り上がりは確かにあやかりたいもんだから秀吉ももてはやされてるが、秀吉は詰めがあまいのががっかりさせられる

375人間七七四年2019/02/06(水) 21:10:36.16ID:HyOvK4VD
喪中に恩人の家族を破滅させて、恩人が盟友と一緒に30年かけて作り上げたものを3年で盗み、
恩人を呼び捨てにしてバカにするような人間にはあやかりたくないな。主家簒奪をおこない、関白豊臣長者一家虐殺をした秀吉秀頼親子に大義はない。

376人間七七四年2019/02/06(水) 23:41:41.52ID:fMgxpjcO
秀吉は死んだあとの事何も考えてなかったからな。その点家康は偉大だよ

377人間七七四年2019/02/06(水) 23:54:37.65ID:HyOvK4VD
主家簒奪を関白と聚楽第行幸で正当化しながら、その聚楽第行幸で公認されていた関白左大臣内覧豊臣長者の一家を虐殺とかアホかって話だわな
公儀にしたがっているのはもと戦国大名で、伊達も上杉も徳川も長宗我部も島津も豊臣に領地を削られたり左遷されて故郷を奪われたりして恨みしかない。
なのに内部を外征に2度も失敗して、大義である関白を殺すとかあほすぎた。家康の大義と豪腕がなければ乱世に突入だったろう。
戦国大名は帝に従ったのであって、力のない秀頼なんぞどーでもいい存在。家康がいなけりゃ上杉とか黒田とか伊達とかも乱世をにらんでいたのだろう
戦国ファンとしては乱世逆戻りの方が楽しそうだが

378人間七七四年2019/02/07(木) 00:14:11.99ID:lVXYyp65
武家関白制は1595年に終わった。1601年以降は公家関白制

379人間七七四年2019/02/07(木) 01:46:09.05ID:Qqtc6yoJ
秀吉は計画性がないな

380人間七七四年2019/02/07(木) 20:15:28.14ID:lVXYyp65
主家簒奪を関白と聚楽第行幸で正当化しながら、その聚楽第行幸で公認されていた関白左大臣内覧豊臣長者を一家皆殺しにした秀吉秀頼親子

その豊臣への忠誠をとなえながら、豊臣にも帝にも公認してもらえず、
太政大臣の遺言で政治をたくされ、帝に下賜をされて応援され、豊臣が物資援助をおこなってて出陣した最高位の内大臣に反乱をおこした石田三成

どっちもどっちだね。なんで豊臣が正義で石田三成が義将なのか。歴史の謎すぎる

381人間七七四年2019/02/07(木) 21:37:59.89ID:aWcCiZkm
豊臣が一端天下を取りながら、滅亡した家であり、三成は敗北して処刑されたから、判官贔屓で両者とも持ち上げられている
それだけの話

382人間七七四年2019/02/07(木) 22:08:14.88ID:fTQyob1h
>>380
うるせぇ死ね

383人間七七四年2019/02/08(金) 21:59:55.74ID:bgPeMql+
そもそも東軍の連中、豊臣が正義か悪かなんて理由で家康の味方していないだろう
家康には自分達の権益を守ってくれるだけの力があり、逆に三成は自分達の権益を迫害する可能性があるから東軍に付いたってことだろう

384人間七七四年2019/02/08(金) 22:55:30.85ID:OW8fu0+s
判官贔屓というと義経で、義経はイケメンかつ八艘飛びするほど運動神経のよさでかっこいいが、
秀頼の場合、疱瘡のイボイボにきび顔で、体重161キロ、BMI42近いデブだからな。アキバ系のキモオタ好きじゃないときつい

>>277
https://www.locomotion.nl/admin/resources/img0043-1-w1920.jpg
これがBMI40越え

385人間七七四年2019/02/09(土) 08:15:37.09ID:U9VUiNuH
単純に家康を上げて豊臣を下げたいだけでしょ

386人間七七四年2019/02/10(日) 09:03:26.15ID:s2Ghal8e
この堀、真田宛の書状を見ると家康大垣城を水攻めにするって書いているけど
本気だったのか、味方に対して威勢の良い事行ったのか
どういう計算で書いたのかな

387人間七七四年2019/02/10(日) 09:03:52.62ID:s2Ghal8e
堀直寄、真田信幸宛家康書状

急度申候、仍大柿エ治部少輔、嶋津、備前中納言、小西攝津守、籠居候、卽取巻可被成水責とて、早速令出馬候、

自然景勝其口於相働者、眞田伊豆守、本多豐後守、平岩主計頭、牧野右馬允申付候条、各へ談合、其元城堅固可被相抱肝要候、

爲其以飛脚申候、恐々謹言

    九月朔日            家康

     堀丹後守殿

急度申候、仍大柿治部少輔、嶋津、備前中納言、小西攝津守、籠居候、卽取巻可成水責とて、早速令出馬候、

坂戸へ敵於相働者、無油斷加勢尤候、切々飛脚を遣、被添力事肝要候、恐々謹言

    九月朔日            家康(花押)

     眞田伊豆守殿

388人間七七四年2019/02/10(日) 10:14:42.42ID:thfxtxzW
>>386
東軍先鋒が提案して、家康は当初追認したが、直ぐに中止を命令した

389人間七七四年2019/02/10(日) 11:46:45.45ID:aDqzg3S+
よく秀吉擁護で無駄な戦力を消費させるために朝鮮の役を〜ってあるけど
子飼いの連中ばかり消耗して、潜在的脅威の大名が温存してる時点でない
子飼い連中も秀吉に恩があっても、あれでプラマイゼロでしょ
絶対何も考えていなかった

390人間七七四年2019/02/10(日) 12:35:54.58ID:HlONWaEN
『関ヶ原の合戦はなかった』って本をタイトルに惹かれて読んだ。
この本、面白いといえば面白いんだけど、アクロバティックな記述が多くて信用性には欠ける感じだね。

391人間七七四年2019/02/10(日) 14:43:24.06ID:niLjcOc2
なかったのか!

392人間七七四年2019/02/10(日) 17:53:25.75ID:s2Ghal8e
武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190210-00027414-president-soci

この記事の二ページ目の空襲で燃えた史料が気になるな
残っていれば色々と新発見があったかも知れないのに

393人間七七四年2019/02/10(日) 18:40:41.43ID:Y3iOhQFO
>>392
これは徳川が米軍と通じて証拠隠滅にかかったかな。

394人間七七四年2019/02/10(日) 18:48:18.41ID:oxlyEAvW
徳川の謀略か

395人間七七四年2019/02/10(日) 20:35:50.38ID:HFGeO4Nz
さすが家康汚いな

396人間七七四年2019/02/10(日) 20:39:10.14ID:X3UswPP5
よほど知られたくない事が書いてあったのだろう

397人間七七四年2019/02/10(日) 20:39:50.48ID:HFGeO4Nz
つか小早川の方は空襲で火がついてる蔵から当時の当主が火傷負いながら貴重な資料の大半を救い出したんだよな

398人間七七四年2019/02/10(日) 21:03:24.97ID:qnBeMVfa
徳川「やれ」
米軍「はっ」

399人間七七四年2019/02/10(日) 21:08:57.70ID:Y13o+Bfq
マジかよ徳川最低だな

400人間七七四年2019/02/10(日) 21:47:59.82ID:plgU4t2p
ここまでネタにされる徳川さすが偉大だな

401人間七七四年2019/02/10(日) 22:11:36.63ID:Lw5C/IcK
>>386
南宮山の伊勢方面隊がいなければ大垣の水攻めもあったかもしれない。
しかし南宮山周辺に大垣後詰として展開されたので、
この状況下で堤等の構築作業もままならんだろうし大垣包囲もできない。
江戸にいる9月1日時点では水攻めするつもりだったが
現地状況見て中止したのでは?

402人間七七四年2019/02/11(月) 01:32:37.87ID:r2Lxldl0
>>398
凄いなwwwwww徳川軍には召喚魔術師が居て、B29を召喚したんやな。

403人間七七四年2019/02/11(月) 02:15:49.50ID:zKYnd5LR
関ヶ原の陣地跡巡りしたいんだけど、
笹尾山やら通説で言われてるものは全部根拠の無い創作ってことね?

要するに山中村を回ればいいんでしょ?

404人間七七四年2019/02/11(月) 07:02:04.11ID:HlY3NIld
ネタはともかく三成子孫さん、徳川に好意的だな

405人間七七四年2019/02/11(月) 10:41:42.24ID:xr+oEANP
東軍は次みたいに書状を頻繁に交わして情報交換してるのに
西軍連中は勢いの良かった前半は書状よく出しているけど
後半は途切れがちみたいな印象受けていたけど、史料残っていたら
どうだっただろう

406人間七七四年2019/02/11(月) 10:42:43.38ID:xr+oEANP
黒田長政、藤堂高虎宛利長書状

態飛脚を以申入候、仍今度濃州表爲御先手早々御越、岐阜表之仕合羽越、加左馬より申來候、誠ここち能仕合可申入樣も無之候、

がうど河口迄治少罷出候處、御兩人河を被越彼人數被追崩、數多被討捕之旨、御手柄共候、就其、すくに佐和山表可被押寄儀、

彌其分候哉、樣子承度候、此表之儀、一兩日中に小松表急度可相働覺悟候、尚追々可申入候、恐々謹言、

                         羽肥前守
    九月三日                   利長(花押)

     K甲州樣
     藤佐州樣
        御陣所

京極高次宛家康書状

切々使札御懇意之段、難申尽候、去三日大津江被打返、手切之行可有由、修理殿、井伊兵部方より申越候間、一刻も出馬急申候、

中納言は中山道罷上候、我等は今日七日、至遠州中泉着陣候、委細修理殿、可被仰候間、不能具候、恐々謹言

     九月七日           御名乗御直判(家康)

      大津宰相殿

伊達政宗宛家康書状

追而申候、この書狀最上へ御屆候而可給候、以上

急度申入候、大津宰相以日來好味、此方と同意被成、去四日手合に候、京極殿書狀、爲御披見進候、

其元無油斷御行等肝要候、恐々謹言

    九月七日           家康(花押)

     大崎少將殿

最上義光宛家康書状

急度申

一 備前中納言、嶋津兵庫、石田治部少、大柿へ追籠、切通路陣所事。

一 就夫、父子共令出馬候、其口政宗相談、無油斷行等分別尤候、

一 大津宰相相此間は越前在陣之處、日來無等閑故、大津へ歸城。今月三日手合被申候、恐々謹言、

    九月七日           家康

     最上侍從殿

407人間七七四年2019/02/11(月) 10:43:19.14ID:xr+oEANP
前田利長宛家康書状

三枝源三罷歸、其表之樣子承令滿足候、然者濃州一篇申付、大柿城に備前中納言、石田治部、嶋津、

小西已下取籠置候得者、爲後詰敵罷出候所をくい留置候由申來付而、爲可討果、以夜次日罷上候、

殊大津宰相も罷歸色を立候、其許早々御手合之儀尤存候、爲其申入候、恐々謹言、

   九月八日       判(家康)

    加賀中納言殿

土方雄久宛家康書状

急度申候、仍小松宰相方書狀指越候間、爲披見中納言殿へ進上候、此節有御入魂、先々墓行候樣に尤候、

木紀伊守も内々申越候間、何樣にも乳納言可爲相談旨申遣候間、其方被致才覺、御入魂候て、

早々越前表江御手合候事肝要候、今十三日岐阜着陣候、近日凶徒可討果、可心易候、恐々謹言、

  九月十三日          家康

      土方勘兵衞殿

高畠定吉宛利長書状

 尚々るすの事たのみ入候、

わさと申入候、小松表すみ候、明日大しよう寺まてちんかへ申候、左候時は越前もきをひ有ましく候間、

すくにきの本へ出可申候、跡の事たのみ入候、かわる事追而可申入候、以上

   九月十八日         はひ利長  判

       岩見守殿

408人間七七四年2019/02/11(月) 10:46:20.16ID:xr+oEANP
ところで家康、署名や花押、判とかどんな基準で使い分けているんだろう
あと利長、>>42のもそうだけど家臣宛の書状だと仮名書きが増えるのはなんでかな

409人間七七四年2019/02/11(月) 10:46:53.56ID:mhW9ReR4
>>403
そもそも家康が8万の大軍で攻めてきて、配下には恐ろしい武断派が勢ぞろい
逆に西軍側を仕切っているのが文官で現場から超絶嫌われている三成だよ
まともな戦なんか成立するわけがないでしょ
処刑確実な三成とお友達連中以外はみんな逃亡か降伏で即決着だろ

実際に当時の書状は全てすぐに東軍が勝ったと書いているわけで
現実的に考えれば一進一退の攻防なんてありえないのは簡単に理解できる

410人間七七四年2019/02/11(月) 12:32:09.15ID:7oqXKqFQ
>>405
島津の書状から、岐阜城の戦いから南宮山に毛利勢到着まで、
大垣の西軍は孤立状態だったので、その辺の影響が大きい

411人間七七四年2019/02/11(月) 13:59:11.98ID:jYmXAVzT
大河に限らず、秀吉が秀次一族を根絶やしにしたのは三成の諫言があったと歪曲するのは
家康を善玉にしたい制作者の意図があったのかな?歴史資料にはまったく書かれてないのに

412人間七七四年2019/02/11(月) 14:01:49.80ID:zKYnd5LR
ところで白峰さんと高橋さんの主張は実際のところどちらが持ち上げられてるん?
白峰さんの真実は読んだけど高橋さんの最新著がアマゾンに無くて比較ができない

413人間七七四年2019/02/11(月) 15:15:40.29ID:f8d7yib4
>>412
まずは>>1-72を読んで自分で考えてみることをおすすめする。
山中村周辺だけで両軍合わせて6〜10万の大軍が布陣できるか考えてみるといい。

414人間七七四年2019/02/12(火) 14:53:08.80ID:GTYpEo+x
>>406
史料、また増えたのか

415人間七七四年2019/02/12(火) 18:51:47.68ID:7dpJZi+g
>>408
一般的には花押の方が厚礼、ハンコの方が薄礼
「目の調子が悪いので花押じゃなくハンコにします」なんて一文がついてるのも書状でよくある
花押なのかハンコなのかっては厚礼か薄礼かを決める要素だよ

最後の利長書状や>>42
仮名書(文)なのは1通常より私的な連絡に使われるもの、2差出人や宛先人が女性や子供、3法令の場合は室町時代以降に多くの人間に見せて読めるように仮名書のものが増える
この場合は1でおそらく利長の自筆なんじゃないかな
公的と私的の違いや使い分けが理解しにくいと思うけど、利長の場合は以下のように家臣に指示する内容も仮名書の書状で出してるものが存在するのが特徴だな
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/86336
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/220944

416人間七七四年2019/02/12(火) 19:42:18.99ID:4fBJ/wfz
>>412
高橋さんの本を読んだ限り、新説を証明する記述としてはかなり書き方が怪しいんだ。
アカデミックの訓練を受けていない人の書き方で、白峰さんと同列にしてよいものではないね。
ざっと読んだだけで引っ掛かる箇所も多いし。たとえば脇坂が大津で京極と一緒に籠城していたことになっていたり。

417人間七七四年2019/02/12(火) 21:08:29.55ID:D8LmFAO4
白峰も大概笑える

418人間七七四年2019/02/12(火) 21:21:34.06ID:3fVavJAY
>>404
それは先祖助命して貰っている上に、三成の事を家康が評価してたのもあるんじゃないか
むしろ脇坂、朽木、赤座、小川を嫌っている感じがしたな
しかしそれでも子孫よく先祖の敵だった家康の子供の家系の家に仕える気になったな
仕える方もそうだが、召し抱えた方もよくその気になったな

419人間七七四年2019/02/12(火) 22:25:17.33ID:30VSJJNG
まあ、主張の一部がおかしかったりでもその人の主張全部が否定されるものでもないから
もちろんあまりにもトンチンカンなこと言ってる場合は傾聴に値しない場合もあるけども

420人間七七四年2019/02/12(火) 23:37:21.40ID:Div5fmWr
それでお前らの当日の合戦?追撃戦?の見解は?
白峰もダメ、高橋もダメじゃあもちろん持論があるんだろうが

大垣から先行して出てきていた大谷隊が小早川軍の裏切りに遭って壊滅
小早川を潰そうと大垣から出てきた宇喜多、島津、小西、石田は
東軍の追跡に遭い、小早川、小川その他の軍勢とに挟み撃ちにされ瞬時に敗走

421人間七七四年2019/02/13(水) 00:13:08.48ID:SR+ZtMh/
>>411
@内々の儀を任された利休が奉行を無視して諸大名の取次を握ろうとする→命を奪われる
A関白を任された秀次が奉行を無視して自分の側近で政をしようとする→命を奪われる
B筆頭大老を任された家康が奉行を無視して政をしようとする→命を奪おうと戦を仕掛けられる

Bを三成が仕掛けたなら@やAも三成が仕掛けただろうというのは当然に考えられることだろう

422人間七七四年2019/02/13(水) 00:24:43.48ID:aFRdKti1
三成はそこまで有能じゃない

423人間七七四年2019/02/13(水) 01:41:08.58ID:xMBoge03
その大谷が大垣にいたってとこからして疑問なんだよ。
いつ大谷が大垣に入城した?脇坂・朽木・小川・平塚らもいっしょ?

現大垣市草道島町の西圓寺に出した
9月5日付の禁制の連署には石田、小西、島津、宇喜多の連署がある。
もし大垣に大谷がいたなら連署してるはず。
大谷は北陸では禁制出してたんだから。
だから少なくとも9月5日以前には大垣に大谷はいないと見ていいと思われる。
9月6〜14日の間に大垣入城したというなら可能性はあるが、
>>52には
>一 今度勢州口より被働衆、中國は不逮是非其外長大、大刑幷御弓鐵炮衆も長大、
    安國寺一手に被引向樣に相見え之候間、
    大人數廻り兼候、人數も少々そつに罷成體に候事、

とある。
訳が難しいけど、大谷ならびに弓鉄砲衆は長束・安国寺らの方へ引き向かうように見える?

長束・安国寺の指揮権のことを言っているのか布陣のことを言っているのかよくわからんけど
9月12日には大谷は石田が把握できる場所にいたであろうことはわかるが。

状況的には、垂井に東軍がいるんだから山中村に布陣して畿内、近江と
美濃、大垣との連絡線の維持、及び近江への東軍の進攻阻止は理にかなってると思うが。
そんな要衝を放置して大垣入城したら垂井の東軍に山中村押さえられたらどうすんの?
実際には小早川秀秋に松尾山占拠されてるが。

424人間七七四年2019/02/13(水) 10:32:23.96ID:RKvG7noa
ごめん、>>52じゃなくて>>51ね。
同じく>>50
>太田駒野に今度城を搆候而能候はんと存候、
 江濃之境目松尾之御城、何れ之御番所にも中國衆入可被置御分別尤にて候、

とある。太田・駒野は大垣から長島・桑名方面に抜ける南濃の狭路。
(信長が長島から撤退するとき氏家・柴田の損害出したルート)

これを鍋島勝茂・原長頼にやらせるつもりだったんじゃないかな?
そして松尾山には輝元が来てもいいように伊藤盛正が待機中だったと。

一応押さえるべき所は押さえてるってかんじだが…、負けちゃってるんだよね。

425人間七七四年2019/02/14(木) 10:02:38.44ID:K3MUaDkl
8月1日付青木一矩宛石田三成書状

尚以小松表之儀切々御注進尤候、ふかと相働に付て、
拙者人数つれ、不寄時日懸付、可有一戦候間、御気遣間敷候、
何時も可申便候、追々可得御意候、以上、

去月廿八日御飛札、今日朔参着、於大坂拝見候、
拙者儀昨日当地着候、仍小松表之様子承候、令得其意候、
定為差働ニても不可在之候、?各令談、小松へも御加勢、
其外大聖寺、丸岡、其他何へも御加勢可在之候、
相究御書立候条、頓て御人数可被差遣候間、於様子者、可御心安候、
其上何時も拙者懸合可申候間、被成御気遣間敷候、
将亦、今日伏見城本丸へ悉乗入、西丸何茂焼失候、
こほり落候者共数多討果候、殿主も悉焼亡、
加様早速相済候儀、天命難遁儀と存事候、
猶小松表之様子、追々御注進尤候、恐惶謹言、

八月朔日         石治部三成
   青紀伊様
       御報

426人間七七四年2019/02/14(木) 21:58:35.75ID:av89u8bM
いざとなったら三成自ら援軍行くとか書いているけど、実績が乏しい三成にきてもらっても嬉しくないだろう
それよりは頼りになる武将を送ってくれって気持ちだったんじゃないかな
そもそも盟友扱いの吉継にしたって将として評価されるのは関ヶ原以後で、それまでは奉行としてはともかく、将としての実績はほぼないはずだし

427人間七七四年2019/02/15(金) 19:05:15.87ID:VGLUSFqT
>>417
具体的にどこが笑えるの?

428人間七七四年2019/02/16(土) 03:29:24.54ID:uL02e/68
まあ大谷が山中村にいたのは間違いないよね

個人的な考えとしては伊藤が松尾山を小早川に乗っ取られて
小早川が更に大谷を攻撃、大谷壊滅、石田らの救援、垂井軍との挟み撃ち
までの時間経過は2日もかかってないと思う

429人間七七四年2019/02/16(土) 11:49:22.21ID:3CpA4sYb
吉川広家が影で裏切って宇喜多ら好戦派を死地に追い込んだように見える
戦後は三成に罪をかぶせて家康と手打ち

430人間七七四年2019/02/16(土) 12:56:20.69ID:E+niLnyN
広家が単独で、というより輝元と連絡し合ってるから毛利が一抜けたしてって感じじゃないかしら

431人間七七四年2019/02/16(土) 17:38:40.96ID:RjO+kSOW
西国での戦況が毛利家不利になり、清須城が想定外の速さで落ちた時点で、
負け戦だと判断し、損切りにかかったってことだね。
で、とかげのしっぽ切りされたのが、安国寺恵瓊と。

432人間七七四年2019/02/17(日) 11:17:23.29ID:pQacb8rc
時々話題が出る御掟、御掟追加と九州勢の書状

433人間七七四年2019/02/17(日) 14:02:10.17ID:7OAGiOkF

434人間七七四年2019/02/17(日) 14:06:14.20ID:5occYRlc
秀次事件で定められた御掟、御掟追加

豐臣家五大老連署條目

 御掟

一 諸大名緣邊之儀、得 御意、以其上可申定事、

一 大名小名深重令契約、誓帋等堅御停止事、

一 自然御喧嘩口論者、致堪忍可屬理運事、

一 無實儀申上輩在之者、双方召寄、堅可被遂御糺明事、

一 乘物御赦免之衆、家康、利家、景勝、輝元、隆景、幷古公家、長老、出世衆、此外雖爲大名、

  若年衆者可爲騎馬、年齢五十已後之衆者、路次及一里者、駕籠儀可被成御免、於當病者、是又駕籠御免之事、

   右條々於違之犯輩者、速可被處嚴科者也、

     文祿四年八月三日      隆景(花押)
                   輝元(花押)
                   利家(花押)
                   景勝(花押)
                   秀家(花押)
                   家康(花押)

435人間七七四年2019/02/17(日) 14:08:23.68ID:5occYRlc
豐臣家五大老連署條目追加

 御掟追加

一 諸公家、諸門跡被嗜家々道可被專 公儀御奉公事

一 諸寺社儀、寺法社法如先規相守、專修造、學問勤行不可致油斷事、

一 天下領知方儀、以毛見之上、三分二者地頭、三分一者百姓可取之。菟角田地不荒樣可申付事、

一 小身衆者本妻外、遣者壹人者可召置、但別に不可持家、雖爲大身、手懸者不可過一兩人事、

一 隨知行分限、諸寺進退可相働事、

一 可致直訴儀、於擧目安者先十人へ可申、十人衆訴人以馳走双方召寄、慥可被聞申分、直訴目安者、

  各別之儀候間、此六人へ可被申、以談合上、御耳へ於可入儀者。可被申上事、

  十人衆

冨田、寺西、森壱岐守、堀田若狹、佐々淡路、石田木工、片切守善、石川久五郎、山中山城守、木下與左衞門尉
  
  六人之衆

家康、利家、景勝、秀家、輝元、隆景 


一 衣裳紋、御赦免外、菊桐不可付之、於御服拜領者其御服所持間者可着之、染替別衣裳、御紋不可付之事、

一 酒者可隨樣器、但大酒御制禁事、

一 覆面仕往來儀、堅御停止事、

   右條々於違之犯輩者、速可被處嚴科者也、

     文祿四年八月三日      隆景(花押)
                   輝元(花押)
                   利家(花押)
                   景勝(花押)
                   秀家(花押)
                   家康(花押)

436人間七七四年2019/02/17(日) 14:10:19.01ID:5occYRlc
家臣宛忠興書状

目出度期見參候、以上

急度申候、石治部、輝元申談色立候由、上方より内府へ御注進候、如此可有之とかねて申たる事に候、

其外殘衆ことことく一味同心之由候、定而内府早速御上洛可在之候、然は則時に可爲御勝手候、

此狀參着次第、松井と市正は番子まで不殘召連、丹後へ可被越、自然之時は松くらをもすて、

女子をつれ宮津へ被越可然候樣にすまさるへく候、ョ入候、四郎右其外之者共之儀は其國のていを見合、

可成ほと木付にい候て、其上は居城にうつるへく候、かねて申合てをき候、此狀は丹後よりひめち邊へ遣、

舟にて屆候へと申付候、

一 内府は江戸を今日廿一御立候由候、我等は昨日うつの宮まて越在之事に候、さためてひつくり返し、

  上方へ相働たるへくと存候、恐々謹言

   七月廿一日               忠(花押)


      松井殿
      四良殿
      市正殿      

437人間七七四年2019/02/17(日) 14:13:03.36ID:5occYRlc
松井康之宛清正書状

 尚以、其許番衆入候者、此返事に委可承候、則申付可遣候、以上、

急度申入候、越中殿御身上之儀、秀ョ樣より曲事に被思召由而、丹後國へ隣國衆を差遣、城請取候へと、從奉行衆被申付候由候、

就其、越中殿御女房衆、爲留主居衆つれ候て退候由候、慥に我等者罷下、其樣子申候仕合者、屋敷中へ十七日之夜火をかけ

自害之樣子に仕成退候由候、則丹後へ遣上使衆への觸狀寫進之候、然時者其元に四郎右壹人被殘置、松佐早々丹後へ御越尤候、

か樣に可有之と存、先書へも申候き其元少にも候はは、自是似相之番衆をも合力可申候間、必可有御越候、爲其以飛脚申候、

委曲立本かたより可申候、恐々謹言

    七月廿七日子刻         C正(花押)


      松佐渡殿
      有四郎右殿
          御宿所

438人間七七四年2019/02/17(日) 14:14:53.08ID:5occYRlc
清正家臣立本斎宛松井康之書状

已上、

被差越使者去廿七日御狀、今日晦午刻到來、拜見、彼口上承屆候、

一 主計樣より種々御懇之御書中忝存候、度々被入御心被仰越、可申上樣無之候、御報申上候間、御被露候て可然樣に御取成奉ョ候事、

一 大坂より慥成御使者被罷下、越中屋敷之樣子被仰越候、此方へ追々申來候、女房衆大畧可爲自害と存候事、

一 丹後へ去十九日、おく丹波衆、但馬衆、城請取に越被由、此地へも慥に相聞へ申候事、

一 幽齋田辺に被居候事、

一 丹後城々不可有異儀候、河守なとは兼而引払、殘之城々丈夫に可有之候、可御心易候事、

一 丹後城々兵粮等も、當年は國中米留仕、一切不出候間、可有之と存候、此段不可有御機遣候事、

一 松井罷上儀、先書に如申、加子一切無之候、倂不捨置談合仕候、聊無由斷候事、

一 當郡之知行拜領を第一に被申之条、城請取に可參由承候、可爲其分候、各一返に覺悟仕候、其段可御心易候、

  兵粮、玉藥之儀、被仰越、忝存候、如形用意仕候条、自然不足之儀候者、重而可申入候事、

一 御加勢之儀、是又過分に候事、松井有之間は不及御加勢候事、

一 大坂之樣子、如水御小性直口先書に申入候事、

一 忠興 内府樣御共候て可被上候、然者隣國則時申付可遂本意候、尚口上に申候間、書中不具候、恐々謹言、

     七月晦日                 康之
                          立行

      立本老
         御報

439人間七七四年2019/02/17(日) 14:16:08.30ID:5occYRlc
中川秀成宛如水書状

  尚々甲斐守分領之儀、少も御氣遣被成間敷候、丈夫に致覺悟候、已上、

如貴札久敷不申承候、仍上邊之儀、不慮之仕合無是非候、如承候甲斐守致出陣候間、一入氣遣可有御推量候、

津國之儀候間、互に可申合候、其元之儀者、一揆多所候間、其御用心專一候、上方之樣子去月廿五日に出候舟申候、

何茂替儀者無御座候、

一 伏見之城者堅固に御座候、

一 丹後之儀、幽齋、越中殿居城堅固之由、申來候、丹波衆押に被居、但馬衆者江州へ被參候由候、

一 P田に中國衆城を拵申之由候、

一 伊勢、江州之堺目城を拵、其大將に刑少被參之由候、右之樣に城へ相拵候時者、内府之御一上國と見へ申候、

一 上方之樣子追々可相聞へ候間可申入候、委細態藤介方迄申入候間、不具候間、恐々謹言

                         如水軒
         八月朔日              圓C(花押)

         中修理樣 參
             貴報

440人間七七四年2019/02/17(日) 14:57:22.30ID:mtg/TMKA
>>434
景勝は御掟には署名してないんじゃ

441人間七七四年2019/02/17(日) 17:42:08.41ID:lWxdG4Fe
御掟は秀吉が生きていることを前提に作られている
秀吉の死後は遺言で徳川前田に政治がゆだねられていたので、秀吉が許可を出す部分は徳川前田が許可を出すと置き換えて考えるべきだろうな
前田が死んだあとは、徳川が許可を出す。

442人間七七四年2019/02/17(日) 18:41:43.94ID:5occYRlc
>>440
浅野家文書には景勝の署名は無いですけど、大井氏所蔵文書等には景勝の署名があったりするので、
どちらにしようかなとも思ったんですけど、同日の追加の方には署名しといて御掟には無いのも
景勝の立場からして不自然な気がしたので入れときました。

443人間七七四年2019/02/17(日) 22:06:18.85ID:5occYRlc
ついでですけど追加の六人衆も文書によっては五人衆だったりするので
前に書き込んだ史料も含め、所蔵文書によって一部文章に違いがある史料は
個人の勝手な判断で恐縮ですが、妥当では無いかと思う方を取捨選択して
書き込んでいます。

444人間七七四年2019/02/18(月) 02:59:34.03ID:dtaGjq+A
了解です。

445人間七七四年2019/02/18(月) 10:45:00.77ID:X8EZJhy7
>>438
清正、松井からあまり信用されていない感じがするな
したこと考えると仕方ないけど、家康からも疑われているし
島津からも非難されているし、言われているほど清正、人望ないんじゃないかな

446人間七七四年2019/02/18(月) 22:34:24.91ID:ZQiOe4OB
>>431
恵瓊って長篠の戦いで有名な鳥居強右衛門の息子に生け捕りにされているんだよな

447人間七七四年2019/02/18(月) 22:44:32.77ID:jhMRUpd9
なんでその時代に恵瓊がそんなとこで生け捕りになるの?

448人間七七四年2019/02/18(月) 22:58:21.21ID:98qPRPJ7
恵瓊って長篠の戦いで、有名な鳥居強右衛門の息子に生け捕りにされているんだよな

恵瓊って長篠の戦いで有名な、鳥居強右衛門の息子に生け捕りにされているんだよな


句読点使わんから意味が違ってくる。

ここではきものを脱いでください。 これといっしょ。

449人間七七四年2019/02/18(月) 23:36:16.79ID:i7JlxoWb
スネ右衛門が35歳で息子が15
絵形が12くらいか

450人間七七四年2019/02/19(火) 23:37:06.06ID:H0oaJ76B
>>448
理解したw

451人間七七四年2019/02/20(水) 21:34:21.53ID:OAFlCsMU
>>445
清正、朝鮮や庄内の乱とかの行動を見ると、欲深いというか姑息というか、そういうところが結構あるからなぁ
死んだタイミングが良くて、持ち上げられているけど、生きていても大したこと出来なかっただろう

452人間七七四年2019/02/20(水) 23:46:57.06ID:ZGyVNgT0
>>451
柳川開城後の島津攻めでも、黒田如水や立花宗茂は島津家に徳川との和睦を勧めたり
色々と便宜を図ってくれてたんだけど、清正だけはやたらと島津に攻め込むのを主張してたんだよな

453人間七七四年2019/02/21(木) 00:07:58.14ID:IyJVDJgx
昔清正が主人公の小説読んだけど官能表現が非常に興奮したから図書館から借りた本だったが思わず線引いちゃったわ

454人間七七四年2019/02/21(木) 00:46:01.45ID:z9HU1U4Z
>>453
犯人はアンタかよw

455人間七七四年2019/02/21(木) 06:27:13.76ID:KluW3caX
>>452
立花についても清正、浅野宛の書状で、立花は絶対赦すなって書いているしね

456人間七七四年2019/02/21(木) 07:38:51.85ID:8NZuwl+O
立花が鍋島相手に簡単に負かされたのが予想外で方針転換したってのはあるかもね

457人間七七四年2019/02/21(木) 18:48:44.41ID:MZHxrV6Z
立花家は家臣の丹半左衛門を徳川と交渉させて身上安堵の許しを得たうえで
清正たちと交渉して開城してるし、そもそも大坂城を退去した時点で徹底抗戦する気はないんだよな

458人間七七四年2019/02/21(木) 22:58:08.95ID:ZKwZ7Ihe
この時の家康に対抗できる人間は日本にいたのかな?官兵衛くらいか?

459人間七七四年2019/02/21(木) 23:01:03.86ID:ybIfOpfU
十数万石の黒田じゃ話にならないでしょ

460人間七七四年2019/02/21(木) 23:07:11.78ID:ZKwZ7Ihe
うぜえ パクリしかできない世界一劣ったルサンチマン猿チョン

おまえらはおとなしくまぬけ面してニダニダよだれ垂らしながら韓流サルダンスでも見てろ猿wwww

461人間七七四年2019/02/21(木) 23:09:17.08ID:ZKwZ7Ihe
>>459
いや、知恵と度胸で 個人的な能力で

462人間七七四年2019/02/21(木) 23:36:44.25ID:ybIfOpfU
大国の領主か戦国大名かそれに準じる盟主的経験ないから難しいでしょ

463人間七七四年2019/02/21(木) 23:38:08.43ID:ybIfOpfU
あとは景勝くらい

464人間七七四年2019/02/21(木) 23:42:02.35ID:2/eVSA0k
景勝も輝元も所詮二世だからなぁ…

465人間七七四年2019/02/21(木) 23:52:13.17ID:i4Lwnydu
輝元は暗愚だと見ていいんだろうが景勝はよくわからん
気概はあるけど突き抜けたものがない
したたかというほどでもない印象

466人間七七四年2019/02/22(金) 00:42:43.42ID:9BXE9MbQ
>>451
清正は肥後移封以来加増ないし
唐入りの戦費で領国は荒廃してるのに秀吉の死で戦果なしだからなあ
何とか収入増やそうとあれこれしたけど庄内の乱に介入したのは悪手で
会津征伐には従軍許されず関ヶ原では主戦場から遠く離れた九州戦線だから
なんとか挽回したいというか功を焦っている心境ではあるだろう

467人間七七四年2019/02/22(金) 01:31:31.09ID:RCSQea6J
清正のとこはどうも領国経営状況が戦時の自転車操業のまま変われなかったようで
それを2代目の時まで引きずって経営不能の一因となったようで
そりゃあ少しでもどこか領地取って足しにしなきゃ首も回らない状況でしょうね

逆に他の唐入り大名たちはよく経営続けられたなーというレベル

468人間七七四年2019/02/22(金) 11:50:54.95ID:TjFrWt0V
>>465
個人的にはフィクションだけど、真田丸での景勝像が、あぁこういう人物だったんだなぁ、と
腑に落ちたわ。

469人間七七四年2019/02/22(金) 18:08:18.37ID:wQiOeQoX
清正って元々は吏僚として期待されていたんだっけか

470人間七七四年2019/02/22(金) 19:39:41.86ID:KqMMnf/l
清正て文盲じゃなかったの
小野鎮幸との逸話で文盲だと思ってた

471人間七七四年2019/02/22(金) 19:48:08.45ID:1lDMrJ0b
あんな複雑な花押しといて文盲なら逆に怖いはw

472人間七七四年2019/02/22(金) 20:25:35.74ID:uu0e5plS
有名なものだと早稲田大学所蔵の朝鮮陣の最中に本国の留守居に宛てた文禄3年2月21日付中川重臨斎他宛書状が清正自筆
つい最近も熊本城普請に関して指示をしてる花押なしの清正自筆書状が初公開とかでニュースになってたな

473人間七七四年2019/02/22(金) 21:45:55.43ID:SRHKkWAG
>>467
城主、国衆、大名など領地の規模の差はあるにせよ、
他の連中は領地経営に対してある程度蓄積されたノウハウがあっただろうけど
清正は秀吉と同じく一代で成り上がった人間でその辺が不足していたのかも
あと明征伐に対する本気度の違いもあったんじゃ無いかな

474人間七七四年2019/02/22(金) 22:06:51.22ID:bxA4Lm+u
福島・左馬助の加藤も似たような出身・経歴だけど
領地経営で失敗してないから
清正のパーソナリティーが大きい気がする

475人間七七四年2019/02/22(金) 23:11:41.33ID:RCSQea6J
あー、そういやどなたかがおっしゃられてたけど
清正はすべての仕事を全部自分が指示するスーパートップダウン形態だったとか
そのせいで家臣にまるで仕事をこなすノウハウが蓄えられず、清正がなくなった時点で詰んだと

この辺りは劉邦は3傑がいて頼朝にも3人の重臣がいたけど、秀吉は全部ひとりでやってると評された状況と似てるのやもしれませんね

476人間七七四年2019/02/22(金) 23:57:38.24ID:Dizbf5g4
清正存命中から自転車操業だった節があるからなぁ
そのまま代替わりして好転することもなくあえなく改易と

477人間七七四年2019/02/23(土) 10:21:21.16ID:bBiwtr/O
>>435
十人衆、誰かわからないのが何人かいるな

478人間七七四年2019/02/23(土) 11:44:20.72ID:H0eLOuwn
肥後は佐々も統治失敗しているしかなり難しい土地だからな
むしろ現代まで慕われているだけでも清正はよく頑張ったと言える

479人間七七四年2019/02/23(土) 12:20:24.37ID:TYbPY+Mp
>>477
冨田、富田一白
寺西、寺西正勝or是成
森壱岐守、毛利吉成
堀田若狹、堀田一継
佐々淡路、佐々行政
石田木工、石田正澄
片切守善、片桐貞隆
石川久五郎、石川光元
山中山城守、山中長俊
木下與左衞門尉、木下延重

かな

480人間七七四年2019/02/23(土) 15:19:05.30ID:LyAEtr3r
>>478
佐々さんが命を代償に国衆をお掃除してくれたあとはそんなに難しく無いのでは?

481人間七七四年2019/02/23(土) 21:41:13.04ID:QdkZQZYw
かつての取次だった蜂須賀、黒田から毛利、吉川宛の書状

482人間七七四年2019/02/23(土) 21:41:48.54ID:QdkZQZYw
輝元家臣宛家政書状

蜂須賀家政書狀

猶々兩人御同意之儀、初者雜説と存、不實候處、安國寺より承候旨は、今度東國へ之御人數被指留之由蒙仰に付而、驚入候、以上、

態啓上候、仍今度石治、大刑逆意無是非存候、就夫、輝元様も御同意之樣に爰元申成候、無御心元奉存候、若於事實者、

さりとては世間之批判無御勿軆存候、勿論、近年内府無御屆儀共可有御座候、雖然、被奉對 秀ョ公、餘相違之題目、

拙者式不承候、於然者、以御覺悟天下之亂可有出來儀、歎敷御事、不可過御分別候、か樣之儀、推參、其恐如何御座候へ共、

年來別而御懇に付而申上候、此旨御披露所仰候、恐々謹言、

    七月十六日         (家政花押)

                     蜂須賀阿波守
     堅田兵部少輔殿   

483人間七七四年2019/02/23(土) 21:42:47.48ID:QdkZQZYw
吉川広家宛如水書状

K田圓C自筆書狀

              如水軒
   廣家樣         圓C
       參人々御中
   以上

態申入候、内府御上之由取沙汰申候、必定に候哉、其口に貴殿御座候間、一入氣遣に存候、御手前無御越度之樣に、

兼日御分別干要に候、上方人數之儀者、悉内府へ内儀有之様に申候間、御手前之儀專一に候、爲其此者進之候、

九州之儀今迄は靜に御座候、何樣に猥候共、手前之儀者、御氣遣被成間敷候、恐々謹言

   九月三日             圓C(花押)

     廣家樣
         參 

484人間七七四年2019/02/23(土) 21:44:17.68ID:QdkZQZYw
吉川広家宛如水書状

K田圓C自筆書狀

   廣家樣         圓C
       貴報

尚々、小倉之儀、從輝元加番入之由候間、壹岐へ不渡樣に可被仰付候、

去月廿二日之御狀、昨日三日に拜見由候、

一 先年より隆景元春申談、彦右衞門拙者中國之儀御馳走申、其續貴殿隆景無御忘却候、殘衆者、

   備前中納言同前之御覚悟候き、雖少身候、林肥前者、先年之筋目無忘却通、去年於京都拙者に申理候、

一 今度中國御家之續之事、貴殿御律儀故、羽左太、甲斐守に被仰談、御家再興中々不得申候、定而中國上下只今可存當事、

一 彌羽左太、甲斐守御入魂肝要候、兩人迄輝元幷貴殿御事御馳走候へと申遣候事、

一 宰相殿御事御幼少之節、別而馳走申候き、元C先年より無御等閑故申談候、又久留米藤四郎殿儀、是又貴殿御存之事候、

   御兩所より近年捨文一通不被下候、只今申候は不入儀候へ共、貴殿御事者、㝡前之馳走無御忘却通、奉感候故、兩人之儀を申事候、

一 上方於美濃口御取相當月迄も御座候者、中國へ切上、花々と見知返し候而、一合戰可仕と存候に、はやく内府御勝手に罷成殘多候、

一 於九州者、奉行方之者は嶋津、立花迯下有之事候、内府樣へ得御意に上せ候間、被仰出次第兩人之者共則時討果、

   罷上、以面萬々可申承候、恐惶謹言

     十月四日             圓C(花押)

     廣家樣
         貴報

485人間七七四年2019/02/23(土) 23:03:49.00ID:hdlgyYWL
>>480
逆らうものは皆殺しの勢いで粛清やったから生産力は当然落ちるわけで
これをいくら代官としての統治経験はあるものの
こないだまで3000石だった清正が乗り込んで運営するのって簡単ではないのでは
しかも九州の大名だから唐入りにおける大目の軍役負担までついてくる

486人間七七四年2019/02/24(日) 01:14:58.50ID:+eN63wEi
>>485
それは清正の問題で一揆後の肥後が取り立てて難治というわけでもないとおもう
大規模戦に巻き込まれた土地の生産力が一時的に落ちるのは普通だし

487人間七七四年2019/02/24(日) 14:25:22.30ID:BeCH2r4p
慶長5年9月15日早暁、関ヶ原は、濃い霧に包まれていた。家康は、既に安全な桃配山を降り、関ヶ原の東の端に陣を敷いている。
それは、霧が晴れたとき、敵方の度肝を抜く狙いであり、今日の戦に賭ける、家康の、決意の現れでもあった。
西軍の陣型は、相手を包囲するのに相応しい、鶴翼の陣備えであり、対する家康は、中央突破型の、縦隊魚鱗の陣型である。

488人間七七四年2019/02/24(日) 14:44:36.27ID:S3it2bcK
>>487
西軍は決戦のために布陣したのか追撃を受けて追い付かれたのが関ヶ原なのか

489人間七七四年2019/02/24(日) 15:59:07.53ID:Wo4KYOLo
損害からみるとまともに戦ったとは思えないんだよなぁ

490人間七七四年2019/02/24(日) 16:18:58.74ID:XIZk66y1
今だと小早川の裏切りによる松尾山占拠に対して、それを討つ為に出陣したら、東軍と意図せぬ戦闘となって、そのまま壊滅だったっけ

491人間七七四年2019/02/24(日) 16:20:44.16ID:0l0HP60f
ドラマはないけどそうやろなぁ

492人間七七四年2019/02/24(日) 16:27:51.25ID:BeCH2r4p
家康は、今日の戦いを、人間の体力の限界で考えていた。西軍は、家康の思わぬ出現により後手に廻り、前夜より、殆ど眠っていない。家康は、西軍の体力が回復しないうちに、合戦の火蓋を切って置きたかったのである。

493人間七七四年2019/02/24(日) 16:29:24.15ID:wlWcvXRt
>>487
軍記では西軍は特に記述は無くて、東軍も家康本陣を
魚鱗(関ヶ原方面)鶴翼(南宮山方面)と記述した程度

494人間七七四年2019/02/24(日) 19:38:57.78ID:sMq4NJ0Q
首謀メンバーについて思ったことなんだけど、
石田正澄が近江愛知川で人留めして上杉征伐参加予定だった衆を西軍に
引き入れたという部分だけど、
石田三成は7月29日に伏見城に到着するまで大きな動きがない。
これを以てか、石田三成は首謀メンバーではなく勧誘されただけ、
という説があるけど、石田正澄が愛知川で人留めしてるのに、
三成は首謀メンバーではないと言えるのだろうか?
もし勧誘されただけだと言うならば、首謀メンバーは毛利輝元+安国寺恵瓊、
増田・長束ら奉行衆、石田正澄、(大谷吉継、宇喜多秀家、上杉景勝?)となる。

石田三成は首謀メンバーだが、人望がないし隠居してる身なので、
出しゃばらずに目立たないようにしていた、のほうが説得力があるように思うが。

495人間七七四年2019/02/25(月) 01:02:42.67ID:8e2yyEUd
>>490
合ってる
ドラマみたいな布陣とか松平の抜け駆けとか奥平鉄砲とか無いから
松尾山の小早川、それに追随する小川、朽木らと家康勢に挟まれて2時間くらいで上方勢は壊滅

496人間七七四年2019/02/25(月) 09:59:59.67ID:UNqAGK97
吉川広家が内通して東軍は南宮山素通り
三成らも背後からの攻めに備えてたんだろうけど大軍で怒涛のようにくるのは予想外だったのかな

497人間七七四年2019/02/25(月) 10:48:54.22ID:XkaBMRKi
小早川から家康に密使も行ったろうし大垣城の外曲輪を焼き払って移動と資料にあるからバレバレだったか
外曲輪を焼き払うって必要だったんだろうか

498人間七七四年2019/02/25(月) 11:40:33.32ID:M+0oTvVg
じゃあ島津の退き口は無かったの?

499人間七七四年2019/02/25(月) 12:40:57.53ID:B4pQad8Y
>>490
西軍の中で関ヶ原で壊滅したとされてきた軍が、三成と一緒に松尾山へ向かった部隊ということかな

500人間七七四年2019/02/25(月) 13:57:07.76ID:j5dQ9xft
加藤清正って過大評価されてる気がする築城名手で熊本城素晴らしいけどさ…。
立花宗茂はそのままの評価で良いし黒田孝高も人望や名声はあれとしても実力はあったからあの評価で良いと思う。
評価が低いのは鍋島直茂と黒田長政。この二人は加藤清正黒田孝高立花宗茂の餌になってる気がする。実力凄いあるんだけど残念。毛利勝永みたい。

501人間七七四年2019/02/25(月) 14:08:48.00ID:5gTt4FAt
>>498
多分もっと早い段階で逃げてたと思う。戦闘終了間際で両軍とも混乱してるのに正確に敵兵の逃走劇を記憶して記述できる人間が居るとは思えない。


おそらく戦闘開始時に島津軍がいた事と終わってから島津に逃げ帰ったらしいという事実があって、
島津かどうか確証はないがが島津らしき軍団が大急ぎで逃げていったのを目撃したものが居て、話が合わさって作られた都市伝説のようなものだろうな。

502人間七七四年2019/02/25(月) 14:45:53.77ID:j5dQ9xft
戦闘開始直後に家老の長寿院盛淳や甥の島津豊久に殿させて薩摩に帰国したのを退き口と呼ぶのは誇張だと思うよ。それだけ早くに勝負(関ヶ原の戦い)がついていたという確証にもなってる訳なんだよな。
かなりの乱戦で長寿院盛淳もどこで戦死したかも定かじゃ無いし甥の島津豊久は生存してると思って後々探させた話もある位だからね。退き口云々は後世の作り話でしょ。

503人間七七四年2019/02/25(月) 14:47:19.79ID:xBNzk8Y3
合戦が始まってあっという間に西軍が潰滅してしまい、後方が逃げる西軍と追撃する小早川らで大渋滞してしまい、(実は)やや前方に布陣していた島津隊は追撃の結果やや隙間の空いた前方に逃げるしかなかった

というところじゃないか

504人間七七四年2019/02/25(月) 15:14:14.00ID:eZN8MutS
島津は普通に戦って普通に負けて普通に逃げただけ

505人間七七四年2019/02/25(月) 15:33:52.03ID:Ta183y5V
広家によると義弘、一騎で伊勢路の方に逃げたみたいだけどね

506人間七七四年2019/02/25(月) 15:39:35.49ID:j5dQ9xft
島津義弘が関ヶ原の戦いから薩摩に帰国した時に手紙で徳川家康旗本の精強さに震え上がったと書いてある。
この徳川家康旗本ってのは多分井伊直政隊や本多忠勝隊だと思うけど
手紙の内容で薩摩兵が斬っても斬っても屍を越えて襲って来る三河武士は人に非ずみたいな事書いてある。
つまり薩摩兵が最強に強くて退き口したなんてのは当人の島津義弘さえも言って無いから前方にたまたま空間が空いてそこに真一文字で逃走したのが後世美化されただけ。

507人間七七四年2019/02/25(月) 18:15:45.33ID:LJZcEaAP
旗倒してこそこそ東軍の左軍と右軍の間の隙間逃げただけだからな

508人間七七四年2019/02/25(月) 19:02:52.51ID:z+jvJIab
島津は覚書がたくさんあったよね

509人間七七四年2019/02/25(月) 20:35:41.70ID:hoXmKKrf
正直島津が武勇を誇れたのは九州でしかなかったよな

510人間七七四年2019/02/25(月) 21:39:32.91ID:SkjB+sJJ
島津家臣の覚書だと第一陣が宇喜多と小西、二陣が島津でその東側に三成が陣取り、大谷が遅れて合流
そして小早川により大谷が壊滅、東軍の先陣が宇喜多隊を壊滅し、次に島津に攻めかかり、
その間に東に陣取った三成を別部隊が壊滅。その部隊も島津に攻めかかり、その両軍の間を抜け島津が逃走。
それが何故か三成に不満を持っていた島津が戦闘には参加せず、最後に敵本陣に突撃を懸け
敵中突破した話になっている。

511人間七七四年2019/02/26(火) 00:33:31.57ID:OfNxPws6
松尾山には本来宇喜田隊が入る予定だったんだっけ?

512人間七七四年2019/02/26(火) 00:56:14.75ID:KOpQygXH
>>499
石田、小西、宇喜多、島津あたりかな主力は

513人間七七四年2019/02/26(火) 01:02:19.40ID:KOpQygXH
これ疑問なんだけど、合戦前夜のそれぞれの陣営位置について、
石田方は大垣城、家康方は美濃垂井、小早川が松尾山城、毛利勢が南宮山で合ってるよね?

家康方は石田方と比して西側(大坂寄り)にいたってこと?

514人間七七四年2019/02/26(火) 02:22:51.42ID:HmmkxOmn
前夜なら東軍は岡山だろ

515人間七七四年2019/02/26(火) 03:17:43.34ID:Wj4VC52J
島津は捨てがまり戦法で井伊軍に打撃を与えたのが風聞化したのかな

516人間七七四年2019/02/26(火) 05:38:44.30ID:gZqW6TXM
かなり盛ってるよね。義弘が国に戻れてもあんな壊滅状態なのをほめられたもんじゃない

517人間七七四年2019/02/26(火) 09:55:56.39ID:tv+10ucV
井伊直政は完全に島津の踏み石にされた感じよね。井伊直政は鉄砲の被弾で亡くなったのでは無くて過労死。
それが関ヶ原の戦いの2年後だったから島津軍があの赤鬼を仕留めた!みたいになった。
実際は赤備えと交戦した時に修羅の様な強さで親を鉄砲で射抜いても子供がその親の屍を越えて襲いかかるというヤバさだったらしい。
その後に来た本多忠勝なんかは釣り野伏せして馬が射抜かれて落馬したが鬼の形相で島津兵を蜻蛉切で串刺しにしたとある。島津義弘も本多忠勝隊に追い付かれ死を覚悟したが本多忠勝が見逃したらしい。何故見逃したのかは謎。
その後島津助名を井伊直政と本多忠勝が家康に取りなししている。

518人間七七四年2019/02/26(火) 10:16:56.67ID:tv+10ucV
釣り野伏せじゃなくて捨て奸でした。
ちなみに本多忠勝隊は500にも満たない数で関ヶ原を縦横無尽に駆けて首級90挙げたとある。

徳川四天王って地味なイメージあるけど信長や秀吉に絶賛されてたり格上の武田北条豊臣と戦って勝利して大将首迄獲ってる猛者揃い

自分は家康好きじゃないけど関ヶ原の戦いの時に徳川家康と徳川軍が強くて勝ったは頷ける。
西軍が勝てる要素が無いのが悲しい。

昔テレビのシュミレーションで立花宗茂の大津城包囲部隊も関ヶ原に布陣してたらってのがあったけどやはり最後は東軍の勝ちになってて悲しかった。

519人間七七四年2019/02/26(火) 10:31:29.18ID:tv+10ucV
>>511
毛利勢が入る予定だった。
最初は大垣城主伊藤盛正が松尾山に布陣したが小早川秀秋に追い出されている。
これを聞いた石田三成が焦って関ヶ原に急行したが既に松尾山の麓に居た大谷隊は壊滅。その後はここに書いてある通り。

520人間七七四年2019/02/26(火) 10:35:59.49ID:tv+10ucV
伊藤盛正は石田三成に松尾山は中国勢が入ると言われておりそれは毛利勢なのは伊藤盛正も理解してたみたく小早川秀秋が来た時に小早川側は毛利一門だから松尾山を降りられよと言われて無理矢理降りたらしい。小早川は毛利一門ではあるが中国勢では無いからね。

521人間七七四年2019/02/26(火) 12:31:36.20ID:tv+10ucV
歴史にIfは無いけど…大津城攻めの末次元康、小早川秀包、立花宗茂この部隊15000が松尾山に陣取ったらどうなっただろうか。この部隊が主戦派なんだよね。流石にこの部隊が松尾山に布陣してたら南宮山の毛利秀元や吉川広家も動かざるを得ないよね。
逆に南宮山にこちらの末次元康隊を配置するとかね…。
毛利輝元が意図してやった事なんだろうけどさ。

522人間七七四年2019/02/26(火) 12:43:31.14ID:USBAJKCx
>>518
井伊と本田はイメージあるが
他の二人がようわからん

523人間七七四年2019/02/26(火) 12:55:18.21ID:tv+10ucV
>>522
酒井忠次と榊原康政

酒井忠次は長篠の戦いで武田軍の背後を獲って長篠の戦いの勝利にみちびいた立役者。

榊原康政は小牧・長久手の戦いで羽柴秀次隊を壊滅寸前にして森長可、池田恒興親子を討ち死にさせた。

自分は西軍派なので徳川武将は好きじゃないけど強さは相当なもんだよ。

524人間七七四年2019/02/26(火) 14:02:29.75ID:USBAJKCx
>>523
なるほど

井伊も本多も自分で戦うからすごいね

井伊はやり過ぎだが

525人間七七四年2019/02/26(火) 14:09:59.05ID:qJ0fUvzt
松平忠吉「あれ?……俺は?」

526人間七七四年2019/02/26(火) 14:22:40.16ID:DslkMrnF
あっという間に味方の最前線を駆け抜けた井伊直政、松平忠吉の軍勢は、今日の戦で最強と見られていた島津勢に攻めかかり、静かだった高原盆地は、あっという間に動揺と混乱、修羅の坩堝と化した。
東の口をしめる南宮山と、西の口を閉じる松尾山が、動かなければ、西軍の戦いは、底も蓋もない桶で、水をすくう徒労に終わる。

527人間七七四年2019/02/26(火) 22:17:05.96ID:PBt3C7dW
>>506
その書状読んでみたいんですけど、何に収録されていますか

528人間七七四年2019/02/26(火) 22:30:00.30ID:IWd+y9Pn
>>523
三河の人間は家康の祖父や父親を殺したように気に入らない主君にはすぐ謀反をおこすクズだが、
よく言えば反骨精神旺盛で能力に優れている猛者ぞろいだ。
それを束ねあげて忠臣にした家康がすごいんだよ。光秀を蹴り倒し、秀吉をバカにする信長が唯一尊重する相手だからな

529人間七七四年2019/02/26(火) 22:43:44.86ID:DslkMrnF
だからこそ三者は、類い稀な友情で結ばれ、信長48歳、秀吉63歳、彼らから天下平定事業を託された家康は、19歳にして建てた厭離穢土欣求浄土を、59歳にして、関ヶ原に打ち立てのである。

530人間七七四年2019/02/26(火) 22:48:38.55ID:JQBgtYjO
ということは豊臣にとって代わる気満々で関ヶ原に臨んだってことかな

531人間七七四年2019/02/26(火) 22:51:45.43ID:JQBgtYjO
ああ
煽るとかそういう意図じゃないんだけど、家康の豊臣を排除した政権運営への意欲って関ヶ原前からだったのか後だったのかなと思って

532人間七七四年2019/02/26(火) 23:03:08.81ID:2qmGUMyX
とってかわるというよりは
西軍挙兵によって豊臣に公儀性というものが全くないことが証明されて
もう豊臣政権というものを家宰として維持することが不可能という認識にはなったんじゃないかな
とはいえ誰かが公儀をやらなければいけないし、江戸に幕府を開いて直接諸侯の首根っこつかんで抑える形にシフトしたって感じ

誰かが言ってたけど天下人ってむしろみんななりたくない、他人に押し付けて自分は要職ポジション確保してうまい汁すすりたい、でも誰かが天下人やらなきゃいけないっていう貧乏くじの押し付け合いが当時の共通認識であるって考え方も意識した方がいいかも

それはそれとしてちょっと上の方のはロマンに酔いすぎな記述の仕方な気がするなぁ

533人間七七四年2019/02/26(火) 23:05:01.00ID:HANAgwzp
色々な見方があるだろうが後じゃないかな
関ヶ原が起きなくても秀吉利家亡きあとの家康の豊臣政権での立場は鎌倉幕府の執権、室町幕府での管領相当の立場だし
結果的に関ヶ原で反徳川派が一掃されたことで単独政権の可能性が出てきただけで起きなくても政権の第一人者ではあった

534人間七七四年2019/02/27(水) 00:17:15.31ID:Pj1w2Wda
家臣を押さえつけられない時点で家としては死に体だからね
形式的には豊臣政権の内紛という構図だけど
豊臣家がどっちにも肩入れしなかった(できなかった)ことにより地位の失墜は免れなくなってしまった
なら何もできない豊臣家より勝った方の徳川家に天下を任せたほうがいいなってことになる

535人間七七四年2019/02/27(水) 00:30:24.25ID:4oLe2Dje
聚楽第行幸で公認されていた武家関白制の関白・豊臣長者一家を虐殺するのは明確な謀反行為だからね。秀吉秀頼の豊臣に公儀性はないよ。
秀吉の死後は内大臣が最高位の武士なので、仮の公儀を運営する資格を持つ。1601年に関白が、1603年に征夷大将軍が任命されたあとは
公家関白制のもと、将軍の実効支配体制だ。鎌倉室町江戸と続く伝統な流れ。豊臣はあぶくみたいなもんだ

536人間七七四年2019/02/27(水) 01:36:19.12ID:IoU7MPC3
家康の方は豊臣旗下にはいる前からしっかり組織が固まってたしなあ

537人間七七四年2019/02/27(水) 05:59:11.95ID:Q5QzTiAT
>>532
一応別の選択肢として、統一政権を完全に無力化して
都合のいい時だけ利用する古ぼけた神輿にするって手はあるがな
要は諸大名が好きに政権運営や領地拡大をする戦国時代に時計の針を戻すって方法だな
つーか、家康はこっちのルートもアリな筈なんだよね
内府違いの条々出された時点で「じゃあ好きにやらせてもらうわ」って選択肢もあったと思う

538人間七七四年2019/02/27(水) 12:15:25.28ID:Bsm9wVUp
>>527
横からだけど島津家文書だと思う。
違ってたらごめんね。

539人間七七四年2019/02/27(水) 16:46:14.47ID:1r2PHvdH
>>537
まぁそうなんすよね、動乱の時代カムバックも十分あり得たんですよね
だからまぁ関ケ原って動乱に巻き戻るかどうかに諸侯がノー!と突っぱねたものなんですよね
勿論毛利や上杉は大諸侯で動乱のがうまい汁吸えるから挙兵したんでしょうけど

540人間七七四年2019/02/27(水) 22:27:03.51ID:KpQV53yb
>>536
別の主君に仕える気はないから官位も感状もいらないとか
他の主君に仕えるくらいなら切腹するとか面倒くさい家臣も居るけどね

541人間七七四年2019/02/28(木) 01:42:55.64ID:Z2BM86Zf
>>537
まあ、あの時点で自分の領地に引き篭もる選択肢も有る事は有る。
但し、その場合は一度は膨大な討伐軍が来るんじゃ無いの?

542人間七七四年2019/02/28(木) 07:16:39.58ID:QU7ChQlj
>>540
そんな中石川数正はかなり異質な配下だったんだな

543人間七七四年2019/02/28(木) 08:32:16.80ID:iYNG1a0i
西三河の領主だけに尾張の影響も受けやすいとか

544人間七七四年2019/02/28(木) 18:18:23.23ID:N/5zygS1
家康のお祖父ちゃんも父ちゃんも部下にやられた可能性高いし家康自身が三河一向一揆で部下の離反多くて苦労してるのに三河という土地柄だから部下がしっかりしてるってのはないんじゃね
むしろ家康が自力で信用できる部下たちを作った上で、のちのち後世の人たちが三河武士は忠実という風聞を作ったんでしょ

545人間七七四年2019/02/28(木) 19:45:44.37ID:KQrcomlm
父親の時は領内乱れまくりだしね

546人間七七四年2019/02/28(木) 19:56:37.43ID:2IwWMeA1
家康が偉大なんだよ。
三河人は不器用で武闘派な狂犬みたいなものだ。主人と認めなければかみ殺す。一向宗にドハまりした狂信者もいれば、石川数正みたいなのもいる。
その三河人をたばねあげて忠誠を誓わせ、秀吉に嫌がらせをされて左遷されてもついてくるくらい統率したのだから家康がすごいわけさ。
さすが信長が唯一の同盟者と認めただけのことはある。

547人間七七四年2019/02/28(木) 19:59:57.05ID:yeTnUQ9H
唯一の同盟者とかさらっと嘘をつくんじゃありません

548人間七七四年2019/02/28(木) 20:23:23.60ID:2IwWMeA1
秀頼の爺さんは裏切っただろ?妹を妻にむかえておきながらいきなり後方から奇襲して

549人間七七四年2019/02/28(木) 20:29:21.63ID:q9eBVSml
>>541
そのリスクがあるのは認めるよ、割と博打な決断だしね
ただし賭ける価値はあるとみる、毛利と上杉にとって強大な中央政権は結局邪魔だからだ
早い話が毛利と上杉に密使を送ってこう言えばいい
「味方になれとは言わん、征伐への従軍を拒否してくれたら毛利は播磨以西、
上杉は東北や北陸でどう動こうが徳川は関知しない」と
つまり毛利に西国、上杉に東北や北陸での優位性を認めるという事、
もっと言うなら「中央政権なんか無視して地方で好き勝手やろうぜ!」って事だ
まあ絶対とは言わんが話に乗ってくる可能性はあると思う

550人間七七四年2019/02/28(木) 20:29:43.64ID:tSlZOTPb
家康は飽くまでも大坂方との和議を望んでおり、大坂に集まった浪人衆が元凶と考えていたが、秀忠ら主戦派の勢いを止められなかったのである

551人間七七四年2019/02/28(木) 20:35:53.76ID:nE89rieY
ぶっちゃけ秀頼くんがバカ殿すぎて大揉めした結果だからなぁ、あれ
秀頼くんに最低限の器量さえあればつつがなく続いてたよ

お話の大坂の陣だとさすがにそれじゃああんまりだから花のようなる秀頼さまなんてしてるけど

552人間七七四年2019/02/28(木) 20:48:42.23ID:2IwWMeA1
秀頼はまずダイエットしないとね。武士の頭領になりたいなら馬に乗れないと話にならないよ。20歳前後の若武者なんだし。
家康のように武術の達人とは言わないまでも、香取神道流や新陰流を学んで印可を受けるとか、弓の腕を磨くとか、毎日馬で朝駆けしたり鷹狩りしたりしないと。
しかし、160キロをこえた疱瘡アバタ顔のデブを花のようにってどの花なんだろうな。ホトトギスの花とかか

553人間七七四年2019/02/28(木) 20:53:58.48ID:kUKf71LC
>>552
死ねガイジ

554人間七七四年2019/02/28(木) 21:20:49.54ID:oOTlw0Ka
>>552
家康が秀頼は産まれながらの大将の器と称してるからそんな奇形体格なわけ無いだろ。

555人間七七四年2019/02/28(木) 21:25:52.83ID:i8/xWqaL
島津家臣の覚書を何点か。しかしこの手の覚書って後年に行く程、
長く詳しく派手になっていくものだね

556人間七七四年2019/02/28(木) 21:26:26.01ID:i8/xWqaL
~戸五兵衞覺書

一 九月十四日夜入り候てより大柿御打立、夜中に關ヶ原へ御着被成候、夜明候へは東國衆大谷刑部殿陳にかかり、

  六七度之合戰有之候處に、上之山より筑前中納言白旗をささせ横入仕、大谷殿人數壹人も不殘打取り申候、

  備前中納言殿陳へは新手之大將相懸追崩、此方之御陣へ相かかり申候、東は別手之大將相懸候間、石田殿陣追崩候間、

  此方之御陳へ相かかり、其猛勢眞中へ 惟新尊公御掛り被成、大敵を打捕り眞中を切明、東之ことく御切通被成候、

  然處に如此御通被成候而も、何方へ御出可被成事に而候哉と人々申候へ者、又本之ことく大柿へ御籠可被成との御意に而、

  南宮山と申所へ御出被成、大柿を御覽被成候へは、もはや本丸に火之手あがり申候付、御籠被成候事不罷成、

  自其伊勢地こま野之坂江御上り被成、近江、伊賀、大和、河内、和泉御歸國之路次傳、片時も御側を不相離御奉公被成候事、

  我等日夜御側に罷在爲存知前に而候、

557人間七七四年2019/02/28(木) 21:27:39.42ID:i8/xWqaL
~戸久五郎覺書

一 大柿御打立之時より雨ふり、悉くぬれ申候而人々ふるひ申候、九月十五日之日出に、もはや東國衆のほりを指立候而、

  岡山より關ヶ原江參申候、先一番に大谷刑部殿陳にかゑり申候、大谷殿衆もかかり合、追つまくつ六七度之合戰仕候處に、

  上之山より筑前中納言逆心殿白はたを差せ横入仕、大谷殿人數壹人茂不殘討捕申候、備前中納言殿陳へは別大將相掛申候而

  一戰被成候得共、前に岡御座候而此方之陳よりは見得不申候、中納言殿相山申候、其敵則此方之陣江相掛申候、
  
  何茂亦したく爲仕敵に而候、東は石田治部殿陣猛勢相掛一戰有之候得共、石田殿陳茂相崩、其敵則此方之御陣江相掛申候、

  此方之御陣は弐番そなへに而候、然處、惟新樣被成御意候は、敵は何方か猛勢か御尋に而候、東より之敵以之外猛勢之由被申上候へは、

  其猛勢之中へ可相掛之由御意候而、脇々に少つつの敵はいかほとも有之候而も、其方は打置候而、猛勢之眞中江かけ入、

  過分成る大敵を打捕中を切明、山通なされみかたを見申候へは、漸下々かけて御手廻の人數五拾人程にて罷なり候、

  きりもの衆被申候者、このごとくの無人に而者軍仕事罷成間敷候、是よりは御思ひ被成候而は罷成間敷候よし被申候而、

  刀之ひるまきをとらて、御馬の印も打捨、東のごとく御通被成候、然處先を見申候へは、馬乘の敵いつかた騎共不知罷居申候に付、

  人々被申上候は、先に見得申候者皆敵に而御坐候、何と可仕候哉と被申上候得者、被聞召候而被成御意候は、

  敵に而候はは切通る、切通事不罷成候はは、兵庫頭切腹可被成之由御意に而候、何茂承候而畏たる由申上候而、

558人間七七四年2019/02/28(木) 21:28:09.37ID:i8/xWqaL
  敵之間四五間參候迄は、菟角之樣子無之軆に仕而參、間三間計に罷成候時、皆々刀をぬき、ゑいとう聲を上切通被申候時、

  年之比四拾才程之法軆乘物よりおり立、駕を此方之預に仕候而罷通候を御覽被成候而、其鑓與御意被成候へは、

  御道具衆頓而申上候、御取被成候而可被遊與被成候得共、いやあれ通之者はと御意に而遊し不申候、

  然處に後醍院喜兵衞江走出被申候へは、其所討捕申事は何より安候得共、後日之爲跡證にたすけ申候、只今爰元を召通候へは、

  西國之嶋津兵庫頭に而候、少茂北候而は不罷通候、東國衆之分に而は討留事不罷成候に付、只罷通申候、

  少茂北は不仕候由被申候處、人々被申候は、是程御忍被成度に不入名乘被申候、はかなく由口々に被申候時、喜兵衞耳に入、

  さりとては言語道斷、比興至極成儀を被申候、 惟新樣は御たすかり可被成と被遊候哉、御討死可被成事は覺悟之前に而候間、

  如斯名乘爲申由被申候へは、とかくを申候人無之候、其場を御邂候而より人々被申候は、如斯御除被成候而、

  何方江御出可被成事に而候哉、被申候へは、又本之大柿之城江御籠可被成と御意に而候付、大柿を差て御出被成候處、

  南宮と申所より大柿を見申候へは、本丸に火掛り候而落城而候付、御籠被成候事不罷成候、

559人間七七四年2019/02/28(木) 21:29:21.67ID:i8/xWqaL
~戸久五郎覺書

一 彼南宮山に長曾我部長宗新殿陳取罷居被申候、 惟新樣被成御意候者、於關ヶ原秀ョ公御奉公に別而分骨を被遊、

人數如此に討なされ御通被成候由に而、御使被遣候由御意に而候、人々被申候は、長宗新殿は眞下を敵御通被成、

  一戰茂不被成候時者、御心替に而もや御坐候半と、左候處御使被遣候而者、味方無人にて社候へ、不入儀に而候由、

  何も巧者衆被申候、右之段被聞召候而被成御意候は、長宗新殿心替に而もくるしからす被思召候、昨日今日迄被迎合たる儀に而候、

  其上高麗已來より之御念比に而候間、先々心替には御かまひ不被成候間、御使可被遣之由に而、誰かしと御意候へ共、

  我等可參と申人無之候處に、伊勢平左衞門殿被申上候、參候人無御坐候間、我等可參由被申上候、 惟新樣御悦被成、

  早々平左衞門被參候へと被成御意候、趣は 秀ョ公御奉公、於關ヶ原度々之合戰仕候而、人數如斯討なされ罷通候、

  後日出合之時分、證跡に御立被成候へと被仰候、右之御意平左衞門被承、主從三人に而長宗新殿陳江馬かけにて、

  そなへ之内に入被申候、人々申候は、平左衞門殿もはや被討被成候半與、口々に申候、暫歸宅無之候に付、

560人間七七四年2019/02/28(木) 21:29:55.84ID:i8/xWqaL
  扨被討候事一定に而候と申候處、そなへ之内より馬を乘出、歸宅被成候を人々見申候、扨者心替にに而無之由人々被申候、

  左候而御返事に、關ヶ原に而の合戰に御手柄之程可申樣無御坐候、去とては比類類御坐御事も、我等之下を東國衆罷通候へとも、

  此方江者かまひ不申罷通候間、我等人數壹人もそこね不申候間、何時に而も一合戰可仕候、長宗新殿も何方江成共、

  惟新樣御陳へ可被成樣除可申由に候、夫より伊勢之駒野之坂へ御上り被成、近江之内土山江御出被成候而御聞被成候へは、

  最早 公方樣京都江御打入被成たる由申に付、直に京都へ御出被成候事不罷成、又伊勢關地藏江御出、伊勢道之ことく御出被成候、

  楠平與申候左門町より西江御出被成、大山を御越、伊賀之内しからきと申所之樣に御出云々

561人間七七四年2019/02/28(木) 21:30:22.62ID:i8/xWqaL
~戸五兵衞覺書木脇休作働之次第

一 日出時分よりはや東國衆のほりを指立、大谷殿陳にかかり申候、此方之御陳之前備前中納言殿、東者石田殿請取之陣場、

  此方者二番備に而候處、大谷殿戰死、備前之中納言殿、石田治部殿追崩し、此方之御陳に猛勢かかり申候時、

  貴老御親父拜領之長刀を持、大音に而嶋津兵庫頭内之小弁慶と名乘、猛勢之中へ切入、敵數多打取、又 惟新樣御側之如く御參候、

  其後御跡を閉目可申候間、御心安御除被成候へと、被申上、山田民部殿、刑部左殿、只兩人御跡へ返敵をふせき、

  惟新様をのかせ上被申候處、伊賀國之内しからきと申所に而御一大事に而候へ共、刑部左衞門殿被罷出種々被申候而、

  其場無何事御座候、しからきの事は細成儀多候へ共、老筆不得書申候、夫より七ヶ國御通被成候、片時も御側を不相離、

  御共に而御下向に而候、

562人間七七四年2019/02/28(木) 21:32:08.90ID:i8/xWqaL
大垣城に再び籠城しようとしたら、本丸から火の手が上がり
もう落城していたので諦めたというのが少し気になりますね

563人間七七四年2019/02/28(木) 21:45:47.39ID:i8/xWqaL
あと小西に触れられていないのは、何でかなと思うですが

564人間七七四年2019/02/28(木) 21:54:17.65ID:6DaPn8es
ちゃんと訳せよ

565人間七七四年2019/02/28(木) 22:47:31.83ID:KQrcomlm
>>562
何が気にかかるの?

566人間七七四年2019/02/28(木) 23:58:33.76ID:i8/xWqaL
>>565
>>54書状だと西軍自ら外郭をを燃やしたはずなのに
自ら防御力低下させた城にわざわざ籠城しようとするかな

567人間七七四年2019/03/01(金) 00:47:11.69ID:poeiOndE
大垣城は小規模な城で大軍を収容する能力はなく集結した西軍は城の周りに陣城を築いて駐屯していたわけで
この外曲輪を三成らが移動するときに敵に利用されないように焼いてっただけだから城自体は無傷

568人間七七四年2019/03/01(金) 02:21:11.97ID:bmuvUISK
>>554
社交辞令というのもあるしねぇ
たとえば北の将軍様との会談で面と向かってデブともいえまいw

569人間七七四年2019/03/01(金) 03:07:24.97ID:2brakp2y
??「彼は30歳を超えざるに、甚だ肥満し、自由に身体を動かすこと能わず」
??「世になきお太り」
??「この春(慶長13年2月1608年2月)、大坂の秀頼公は疱瘡をお患いになり、はなはだ危急」

570人間七七四年2019/03/01(金) 23:01:33.37ID:YnbGhLUF
6月15日付兼松正吉宛前田玄以・長束正家・増田長盛連署状

急度申入候、
一 会津表各出陣之定日従関東可被仰出候条、
  七月十日以前ニ被罷立儀者無用由候、
  急被罷立候而在陣之所地下人可為迷惑候間、右之通被 仰出候事
一 於先陣軍法之儀、何様ニも内府様御下知次第ニ可被相働旨候、
  被背御下知自然心々ニ被相候者、可為越度事
一 路次中泊々之儀も、御兵粮丈夫ニ被遣候上者自賭ニ可被申付旨候、
  為御目付御使番衆所々ニ被置候間、若下々非分之族有之者、
  其主人可為越度旨御意候条可被入御念候、恐々謹言、

六月十五日    増右     長大     徳善
              長盛     正家     玄以

金松又四郎殿
         御宿所



6月25日付前田玄以・増田長盛・長束正家連署状

今度東海道金松又四郎出陣、人数四拾人・馬三疋事、
如帳面兵粮・馬飼料?可被計渡候、若雨降於逗留者、
応日数可被相渡候、則右米・大豆 公儀御算用ニ可被相立候間、
其主人請取を可被取置候、恐々謹言、

六月廿五日       長大     増右    徳善
                 正家     長盛    玄以

草津(近江)にて二日分
      新庄東玉(直忠)
      駒井中務(重勝)殿

亀山(伊勢)にて二日分
     岡本次兵衛殿

あつた(尾張)にて二日分
    羽柴左衛門大夫(福島正則)殿

すセ(三河嵩山(すせ))にて二日分
    田中兵部太輔(吉政)殿

見付(遠江)にて一日分
    堀尾信濃守(忠氏)殿

島田(駿河)にて一日分
    山内対馬守(一豊)殿

駿府(駿河)にて一日分
    中村式部少輔(一氏)殿

神原(駿河蒲原)にて二日分
    同人

571人間七七四年2019/03/02(土) 06:17:19.21ID:YypkSGSt
栄養状態も良くなく天下人ですらハイカロリーの食事ができ無い戦国時代では、そもそもBMI40越えるまで太る事ができない。
体重計も無い時代に見た目の体重43貫なんてのは書いた人間の主観に過ぎず「猪のような大男」と言ってるのと同じだよ。 
茶々の家系は普通に大男が多いわけだから母親にと思えば何もおかしくは無い。
身長はあってるとして体重もせいぜい100キロ程度だと思うぞ。

572人間七七四年2019/03/02(土) 06:38:01.44ID:5ToCR+Pg
>>556
宇喜田と石田をそれぞれ壊滅させた軍が攻めて来たので、その間を抜けて大垣城に戻ろうとしたら、
南宮山付近で落城しているのが見えたので、伊勢路の駒野坂方面に逃げて行ったってことでいいのかな

573人間七七四年2019/03/02(土) 11:38:38.42ID:K7IXs2IA
>>571
米やら武具やらの計量をするのに使うだろうから
たぶん城内に重さを測れるテンビン秤もあったんだろうけど
でかい天秤に秀頼を乗せて計量するの想像したら、かなりシュールな光景だな

574人間七七四年2019/03/02(土) 12:35:56.60ID:lwoO24Pw
すくなくとも「呆れるぐらいぶざまに肥っている」と思われ記録された事実がある

575人間七七四年2019/03/02(土) 15:24:11.06ID:pDrOl5Od
>>571
秀頼はハイカロリーなかまぼこが大好物だったんでちけお

576人間七七四年2019/03/02(土) 18:29:08.78ID:RKcGEcQw
家康みたいに晩年に肥るならまあわかるけど、本当に青年期に肥っていたなら堕落しすぎだわ

577人間七七四年2019/03/02(土) 19:10:29.09ID:YypkSGSt
だから肉も乳製品もない当時の食事で肥満になる事はあり得ないって

578人間七七四年2019/03/02(土) 19:12:30.42ID:OOGlj+PU
秀頼はデブ?
いわゆる大柄な体格って事じゃないのか?

579人間七七四年2019/03/02(土) 19:19:10.88ID:tt15F0uW
16歳「この春(慶長13年2月1608年2月)、大坂の秀頼公は疱瘡をお患いになり、はなはだ危急」当代記
20歳「彼は30歳を超えざるに、甚だ肥満し、自由に身体を動かすこと能わず」セバスチャン・ヴィスカイノ(1612年面会)
22歳「世になきお太り」長澤聞書 長澤九郎兵衛

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 了| "~`、  "~"`   {,',; ;} 。  |;;;;;;;;;;ノ∪  \,) ,,/ ヽ〜
 "7 `⌒`   ⌒   }ミ:. {   |::( 6∪ ー─◎─◎ )〜
  '|   /       レリ*    |ノ  (∵∴ ( o o)∴)〜
+  i  (       }ィ'     |∪< ∵∵   3 ∵> ハァハァ
   `  ー---    /|` +     \       ⌒ ノ
    ヽ  ̄    / |__        \_____/
     `i、-- '´   |ソ:
      ↑               ↑
   想像上の秀頼         現実の秀頼

豊臣秀頼
身長196cm
体重161キロ (明良洪範)
BMI41.91
適正体重84.52kg
適正体重より+76.48kgオーバー

BMI 体型イメージ
http://pbs.twimg.com/media/CBy3u20UsAEefCo.jpg

疱瘡(天然痘)の顔 塩田三郎
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/Saburo_Shioda.jpg

580人間七七四年2019/03/02(土) 19:33:07.45ID:jVUpAc4o
>>577
秀頼の親父は肉や乳製品を食ってた

581人間七七四年2019/03/02(土) 20:00:32.73ID:tt15F0uW
1キロ体重を増やすには7000カロリーが必要になる。

秀頼の場合は適正体重から76キロの脂肪をたくわえるわけだから、53万2000カロリーが必要

5年かけて太ったなら、1年で106400カロリー。日割りすると291カロリー。どんぶりを1杯よけいにごはんを食べると秀頼になる。
3年かけて太ったなら、1年で17333カロリー。日割りするとで485カロリー。どんぶり1杯に肉屋魚をおかずにつけて食べると秀頼になる。

鱒寿司を朝から20貫食べてたらしいから、まあそういうことだろう。

582人間七七四年2019/03/02(土) 20:40:46.07ID:tE1fbnso
肉は普通に食ってるよね
残ってるレシピでも狩猟で捕った肉を使った料理ありますし

583人間七七四年2019/03/02(土) 21:16:38.68ID:0Mlc5R7S
家康なんかは得意料理は鶴鍋とか

584人間七七四年2019/03/02(土) 22:06:22.22ID:tt15F0uW
すき屋の牛丼とかもカロリーはかなり高い。

https://www.sukiya.jp/menu/in/gyudon/

とろーり3種のチーズ牛丼のメガ盛を運動してないやつが3食食べたら間違いなく秀頼化するね
ジュースだのポテチだの食べたら間違いなく秀頼だ

585人間七七四年2019/03/02(土) 23:30:29.86ID:fXVzaEZL
将来デブになろうが、武芸も大将としての心構えも見つけていなくても
神輿としての可致なら充分あるからな
だから西軍首脳陣は、秀頼の居る大坂城を押さえて、家康を糾弾すれば西国や畿内の武士は勿論、
東軍に参加している連中もこぞって味方し、家康を孤立させられると思ったんだろう
実際は東軍の連中は想像外の勢いで反攻してくるは、味方に付くと思っていた連中は
敵に回るはで、右往左往する羽目になったわけだけど

586人間七七四年2019/03/03(日) 06:50:39.88ID:yebzqX4T
西軍の奉行連中って、なんであれだけ自分たちに都合のいいように物事考えられるんだろう

587人間七七四年2019/03/03(日) 07:18:43.23ID:/kBjQxbj
秀吉がいた時はそれで日本を支配出来てたからだろ

588人間七七四年2019/03/03(日) 07:36:17.19ID:6q3y7kJz
奉行連中はいつまで経っても秀吉時代の感覚が抜けないのが問題だよ
秀吉時代なら自分たちが豊臣の威光を掲げてふんぞり返っていれば
日本中の大名が平伏して言うことを聞いていたから
秀吉の死後も同じことができるという妄想が捨てられない

589人間七七四年2019/03/03(日) 09:38:08.40ID:O7AA6f+B
政治的に追い詰められての決起だから希望的観測にすがらざるを得ないというのもあるだろう

590人間七七四年2019/03/03(日) 10:32:39.39ID:745W9Jgr
結果的に家康は強かったが、さすがにやってみるまで分からない部分はあるよ。
のべ10万人近い戦力を動員したのだから。

591人間七七四年2019/03/03(日) 10:50:03.15ID:REu463Pi
動員したは良いけど、増田宛の三成の書状を見ると
士気は下がりっぱなし、金銀米錢は足らずという有様だからなぁ

592人間七七四年2019/03/03(日) 12:18:38.07ID:DaMH+Jso
奉行のくせに兵站を確保できなかったのか
鍋島の動きもあるだろうが商人たちが渋ったのかな
信用がないとは自分たちは思ってなかっただろう

593人間七七四年2019/03/03(日) 12:24:23.24ID:c6hWtElo
>>586
ろくに戦場にでてきてない連中が多いからじゃないかな

594人間七七四年2019/03/03(日) 12:32:12.08ID:pk03zuUF
【25日、四川省、地震、M4.9、2人死亡】 ポッポ住民「北海道のイブリと同じシェールガス採掘のせい」
https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1551579433/l50

595人間七七四年2019/03/03(日) 12:45:48.48ID:MpJuQuQR
>>586
奉行は自分らが下した命令=豊臣政権の命令とみなしていたけど、
諸大名は奉行の命令=秀吉の命令としかみなしてなかった、って事だろうな
結局は秀吉が作ったのは秀吉政権であって豊臣政権じゃなかったんだろう
…ただ、関ヶ原前の家康はかなり奉行寄りの思考っぽいんだよな
家康が政権から距離を置いた動きをしだすのって、関ヶ原後だし

596人間七七四年2019/03/03(日) 14:53:07.44ID:yebzqX4T
>>592
秀吉の命令下における、兵糧やそれを運ぶ人馬の準備、輸送路の安全の確保のノウハウはあっても
自力の範囲でそれを行うノウハウはなかったんじゃないかな。ましてや十万近くの兵の兵糧準備するのって
普通に大変だし

597人間七七四年2019/03/04(月) 02:35:08.68ID:yjoI5G0V
三成は下の者にやっとけと言うだけだったろうしな

598人間七七四年2019/03/04(月) 16:50:03.63ID:zNWeki6D
福島正則なんだけど関ヶ原の合戦時に明石全登隊と正面から戦ったけど押されて後退したというのをどこかで見たけどあれは本当なんですか?
それを見てた黒田長政と細川忠興に肥後の守(加藤清正)ならあの様な失態は無かった。と言われたとか。
後ろに居た京極高知、藤堂高虎、井伊直政、本多忠勝隊が合流して宇喜多隊を撃破したとあります。
数で宇喜多隊のが多いから押されるのはあれとして加藤清正なら押され無かったという事ですか? 福島正則って良く黒田長政と細川忠興に馬鹿にされてるけど1流の戦上手じゃなかったんですか? 後世における福島正則ディスと加藤清正アゲを食らった感じもしますが。

599人間七七四年2019/03/04(月) 18:02:12.96ID:3B44e09o
福島は宇喜多明石に比べれば小勢だし押される場面もあるだろうし
序盤から後続の藤堂高虎が加勢するのも当たり前、それでも明石隊より少ないくらい
朝鮮では何度も敵軍を退けてると三成書状に書かれてるし海戦では李舜臣も破ってる
晩年増長して改易食らってるからイメージは悪いけど武将としては有能やろ

600人間七七四年2019/03/04(月) 18:29:17.41ID:ozs1/cZj
どっからの出典なのか言ってくれないと
後世の創作なら論ずるに値しないレベルだし

601人間七七四年2019/03/04(月) 19:29:07.55ID:pM+n29ex
レスありがとうございます。福島正則が武将として優秀なのは理解してます。
しかし加藤清正と良く比較されて清正は神様扱いな所があるのに対して福島正則は余り良い事を聞かなかったので気になりました。

出展先は武功雑記です。
後世の創作かもしれませんね。

スレ汚し失礼致しました。

602人間七七四年2019/03/04(月) 21:51:52.78ID:wrcpghNW
そもそも戦の経過が昔と今じゃ研究の結果、大分変わったしね
>>556とか>>557読んで見ると、大谷は結構奮戦したみたいだけど
宇喜多や石田、島津あたりはあっさりと崩壊した感じを受ける

603人間七七四年2019/03/04(月) 22:04:13.71ID:EN8BOnLb
武功雑記は元禄時代の成立だからなあ。関ヶ原からおよそ百年後。
同時代史料にはそもそも福島が宇喜多に押された云々の話自体存在しない。

604人間七七四年2019/03/05(火) 05:58:58.97ID:uUCym9OL
最近なんて西軍は二時間で瞬殺されたなんて説もあるしな

605人間七七四年2019/03/05(火) 07:36:12.54ID:jgYjrskF
東軍が解散始めた時間も残ってないのかな。

606人間七七四年2019/03/05(火) 07:51:45.18ID:KPbvoykA
関ヶ原の戦いはなかった

607人間七七四年2019/03/05(火) 12:45:18.69ID:kDkxvUhv
文禄2年1月11日付石田正澄・長束正家宛
前野長泰・加藤光泰・石田三成・大谷吉継・増田長盛連署状

此使者昨日路次迄出候処、先手小西方より注進御座候、
又黒田甲斐守・隆景より注進御座候間、重而申上候、

一 小西手前兵粮一切無御座候間、とかく在陣不相続候之処、
  自大明罷立候大明御詫言之儀申候付而、
  其取?を仕可打入支度仕候処、加藤主計先手之者越度之儀、
  又こもかい辺相動候衆新城不被攻落手負数人出来、
  其外舟手之儀など、事々敷北京へ申越候ニ付而、
  数万人唐人罷出小西手前へ取懸候由注進候間、
  都より一勢かせんほい迄打出隆景人数さき?押出、
  黒田甲斐守小西所へ可令加勢由申遣候処、
  今月四日より七日まで昼夜責申、七日ニ及一戦、
  壱万計討捨候へ共、敵も不相甘、小西兵粮無之ニ付而、
  小早川先手城迄四日路計打入由、重而注進候間、是非も無御座候事、
一 黒田甲斐守陣所へも右付打入以前ニ三万計取懸候を切崩千三百余打捨候事、
一 甲斐守手前兵粮久御座有間敷候、隆景申談差引無由断可相動候事、
一 都ニハ先書ニも如申上候、
  去秋手前?苅田以下たくわへ候兵粮正月中分可有之候、
  其外ニ去年洛中・洛外改置候兵粮、京着之刻、
  各扶持方卅日分請取候残、壱万四千石御座候事、
一 都有人数、宰相殿・前但・加遠・治部少輔・刑部少輔・右衛門尉
  此人数壱万七千之高にて御座候、跡之つなき三ヶ所、河端之城、
  内裏蔵相抱候ハて不叶城、六御座候、聊無由断普請以下申付候事、
一 自是釜山浦之間、随分此中せんさく仕、つなきの城々丈夫ニ御座候やうに仕候、
  此以前之分にてハ異儀無御座候へ共、
  加藤主計先手之者越度以来小西先手引取候間、
  国々逆徒等つのり可申候条、無人之手前如何御座候ハん哉と存候、
  別ニ可相加人数も無御座候、
  又十日路・十五日路わきに有之人数引出候事も合期不仕候、
  其上相加候ても兵粮無御座候、
  とかく各不罷渡以前ニ廿日路・卅日路わき?の国々へ無人ニて入すこし候故、
  右之分ニ御座候事、
一 隆景なとハ各罷渡候てより、道筋先手へ引出候故、
  先々迄路さき是ほどニも相続申候、又先手打入候ても別条無御座候事、
一 加藤主計なと遠国へとひこし入過申候間、跡々人数可被引出由、
  度々申遣候へ共、静謐之由申候て、不罷出候間、是非も無御座候事、
一 去年も如申上候、とかく釜山浦へ兵粮相届候やうに可被仰付事肝要ニ奉存候事、
一 此方警固之衆被仰付候へ共、今之分にてハ順風に成候者、
  釜山浦辺へ敵舟出候を此方警固おさへ候事成かね可申と存候、
  其子細ハ此方舟之内ニハ敵かこひ舟ほとの舟ハ一艘も無御座候、
  敵かこひ舟ハこもかい面ニも打見へ候分三百艘あまりも有之由申候、
  又都川へ去年氷はらさる以前ニおし入候も二百艘余乗入申候間、
  被成御校量かこひ舟の儀をも急度被仰付尤奉存候、
一 兵粮さへ御座候者、各申合、何程唐人罷出候共、打果可申候、
  何も手前?兵粮無御座候、
  又かりそめの陣替も五日路・十日路御座候間、御人数差引合期不仕事、
一 福島左衛門太夫手前なとへハ去年以来はや五・六度も敵三万・四万にて取懸申候、
  度々切崩五百・三百充討捨申候へ共、敵人数ハへり不申候、
  此方ハ手負重く次第ニ無人ニ成申候、道具以下も損申候事、

608人間七七四年2019/03/05(火) 12:45:29.16ID:kDkxvUhv
一 なこやへ御着座之由候間、両三人ニ一人渡海仕候て可得
  御諚と存候ツれ共、此節爰元一人成共引抜罷越候儀、如何御座候条、
  使者を以申上候、兵粮被仰付、釜山浦ニ慥之物主急度可被仰付事肝要奉存候、
  此以後ハ跡々つなき城間々自由ニ御座有間敷候条、御注進申上候も難相届存候、
  路次つなきの城一ヶ所・二ヶ所自然きれ候所御座候をも相続候ほと
  御人数をも被仰付被差渡候様ニ御披露肝要奉存候、恐々謹言、

 正月十一日
     増田右衛門尉 長盛
     大谷刑部少輔 吉継
     石田治部少輔 三成
     加藤遠江守  光泰
     前野但馬守  長泰

長束大蔵太輔殿
石田木工頭殿

609人間七七四年2019/03/05(火) 12:51:22.81ID:kDkxvUhv
一応参考までに挙げてみた。
石田が明確に讒言と言えるようなことを報告しているのは、
加藤清正が勝手なことして言うこと聞かないと報告している。
福島正則については敵を撃退したと活躍を報告している。
当然石田含め奉行衆は補給関連にも係わってる。

まぁ加藤清正からしたら秀吉の大明攻略を忠実に実行しただけなんだろうなとは思う。
こっちは快進撃してるのにあいつらなにもたもたしてるんだ?って。

610人間七七四年2019/03/05(火) 13:35:22.26ID:yHDkNo94
>>598
押されたあと他隊と合流して撃退に転じたなら釣り野ぶせだの待ち伏せだの言えるわけで
そもそも押し一辺倒になるほうが不自然だよな

611人間七七四年2019/03/07(木) 21:01:27.70ID:7l+TTUUM
>>602
宇喜多に襲いかかった先陣の大将というのが福島、井伊あたりで
東の三成の陳に襲いかかった別の大将というのが黒田、藤堂あたりなのかな?

612人間七七四年2019/03/07(木) 23:51:53.45ID:WF9eZz6T
黒田、藤堂は男色なのかい?

613人間七七四年2019/03/08(金) 00:40:55.24ID:PY4mgNWO
意外と陣と陳は昔は同じ意味らしく、奇跡的に間違いではない文章という
呂布伝に引く英雄記だと陥陣営が陥陳営と書かれてるとかなんとか

614人間七七四年2019/03/08(金) 13:12:00.60ID:+h2B44/t
>>586
奉行連中が良く言及されるけど、直江兼続の自信の強さも大概だしなぁ
最上や伊達に対する上から目線の言動は何なのかと思う

615人間七七四年2019/03/08(金) 13:59:29.06ID:qI1bg1vg
遠く離れてるからなんか言っても相手がこないと甘く考えてたんだろ直江

616人間七七四年2019/03/08(金) 15:34:11.16ID:a9qUjsmh
景勝が意外とヘタレだから補うためじゃねえか
景勝は外面だけは立派な武士に見えるけど能力的には毛利輝元と大差ない感じ
家臣団のおかげ

617人間七七四年2019/03/08(金) 17:09:58.40ID:PY4mgNWO
御館の乱も家督すでに譲られてた景勝が神余氏の内通疑惑に対して強硬な態度とった結果上杉憲政やら家臣団キレされてお家騒動になったようだし
そのお家騒動収拾のために活躍した新発田氏に舐めた態度とって安田は腹切るわ新発田氏反逆するわの大惨事起こしてるしで
遠かろうが近かろうが相手バカにした態度とり続けてる気がする景勝兼続主従

618人間七七四年2019/03/08(金) 17:52:59.56ID:fDyNMKVL
関ヶ原の合戦の結果が伝わると上杉家の誰よりも早く本多正信に土下座して戦犯どころかシレっと徳川との交渉役ヅラをしている
直江兼続の変わり身の速さ。

619人間七七四年2019/03/08(金) 19:43:05.53ID:FLaUivv1
交渉役は本庄繁長じゃないの?

620人間七七四年2019/03/08(金) 20:44:52.07ID:iqUgDsQ4
>>616
主君をさしおいて、さしでがましいというか越権行為だよな直江

621人間七七四年2019/03/08(金) 22:50:39.60ID:cuix4JIB
大坂の陣で徳川秀忠から感状を貰って喜んでる直江兼続を皮肉った安田能元。
直江兼続は親豊臣から真っ先に親徳川になったイメージはあるな。

622人間七七四年2019/03/08(金) 22:52:02.22ID:iqUgDsQ4
いきり直江、即徳川の犬

623人間七七四年2019/03/09(土) 05:20:54.75ID:+jk6i/6z
>>621
まあ、上杉家の家臣として御家大事を最優先で考えたのなら
直江のその態度はアリといえばアリだろう
その為だったら、自分の名誉や直江家の行く末なんかどうでもいいとは思ってるようだし

624人間七七四年2019/03/09(土) 05:38:22.07ID:ffK73Yku
>>615
情報収集力も低そうな感じだしなぁ

625人間七七四年2019/03/09(土) 06:14:43.12ID:9bhOey2+
イキリバカの典型だよなあ直江
景勝さしおいてでしゃばりすぎだし関ヶ原後に腹切るぐらいすべきアホ

626人間七七四年2019/03/09(土) 06:28:39.36ID:QjkvWEuM
兼続さんはあの兜こそが売りなんだよ!

627人間七七四年2019/03/09(土) 12:10:04.80ID:uWwwHpA9
実際あの兜の前立てがなかったらここまで知名度持てたかと思うと
やっぱキャッチーなビジュアルって大事だよね

628人間七七四年2019/03/09(土) 20:05:44.03ID:le7X5X+k
直江兼続って内政はまぁ良いとして軍事と外交が駄目過ぎる。小早川隆景や鍋島直茂や堀直政らの陪臣と比べると凄く劣る。

629人間七七四年2019/03/09(土) 21:00:25.14ID:HRhYd+VS
結局愛宕を売りにしてただけのありがちな男だったよな直江

630人間七七四年2019/03/09(土) 22:05:29.61ID:oyPNVcbe
直江状が三成と結託して書いた物だとしたらなかなかの策士だと思うがな

631人間七七四年2019/03/09(土) 22:08:11.56ID:9UBTDwnj
>>630
創作だぞ

632人間七七四年2019/03/09(土) 22:21:30.12ID:uWwwHpA9
あれは徳川が上杉討伐のために畿内を空けたのを利用して西軍首脳が勝手に巻き込んだだけよ
上杉もびっくりしたろうね

なんかこの構図、朝倉討伐中の織田の背中狙って勝手に朝倉巻き込んだ浅井と一緒

633人間七七四年2019/03/09(土) 23:30:08.31ID:xkY2HX4m
関ヶ原もとい山中の話をしようか

634人間七七四年2019/03/09(土) 23:53:12.52ID:auFCP9I5
>630
直江状の真贋は別としても西軍も上杉もボロ負けなのに策士も何も…

635人間七七四年2019/03/10(日) 10:41:59.06ID:UwMMaVTo
八月四日 直江兼續書狀寫

追而其方越後へこし候事無用に候、可越由申遣用所相調尤候、書狀披見上方へ之飛脚申付候由尤候事、以上

一 越後一揆之儀者度々如申付候、あか北には先々手を不付、あか○春日山山の方へ成次第おこし候やうに可申付候、

  久太郎も上方○之御ふれ狀によつて此方次第と存軆ときこへ申候、咒哉溝口、村上事は勿論候、侍之筋目公儀に候条、

  兩人領分は先々取除候、其外は成次第可申付候事、

一 方々聞合、御備も今月廿日時分まて尤かんよふに存候条、先々一揆等にふかく人數を遣候事無用に候、太軆さへすみ候へは、

  成事にて候条、其心得專一候、此方之儀、最上、正宗討果候事、輒候へ共、内府之手成しられす候まま、

  手をみきりこらへ候指向候、一大事尤つつしみかんよふに候、越後之一揆成次第と可存候、爲其申遣候、謹言

   八月四日    兼續(花押)

     山田喜右衞門尉殿

636人間七七四年2019/03/10(日) 10:42:31.89ID:UwMMaVTo
八月五日 直江兼續書狀寫

追而爰元之儀今少見合可罷移候、御歸は今月中相極候条、各御相談、萬事不可有御油斷候、下々齋幷先方衆へも傳言申度候、以上

御狀披見、白川表より日々注進、内府いまた小山在陣之由申候条、其元無御油斷御仕置專一候、簗川之御加勢入置候、珎儀者可申述候、

次に佐竹より使者、昨日罷越候、從義宣如御斷者、今度上方之儀に付而、内府より證人こわれ候得共、不通に申きり候条、

定而手切可有之候、左樣に候はは、御加勢申請度との事に候条、ふかくふかく請申て、使者かへし申候、可御心安候、

又御奉行中諸國へ被遣候ヶ条書狀之寫進之候、猶自是可申入候、恐々謹言

                      直山
   八月五日                兼續

   岩備州
      御報

637人間七七四年2019/03/10(日) 10:43:18.03ID:UwMMaVTo
八月十二日 直江兼續書狀寫
     
追而勢三方所勞之由、無心元存候、無油斷御養生專一に候、以上

御便札本望至極存候、白川表彌無事之由、珎重存候、其許御在陣衆以御相談、御普請等可被仰付之段、乍御太儀可然御事に候、

宮中より珎敷到來次第、可預御狀候、將又此方無相換義、白石表之儀、郡近邊へ打出候人數、一昨々何も引除候に而付、百姓等先以還往申候、

上方之樣子、正宗も聞屆候故と存候、又最上口之儀も南部仙北衆上説を聞候て引払之故、最上無正軆取亂候由申來候、油利は庄内一味仕候、

小野寺殿も同前に候、越後之儀、村、溝無別条と計に而も不相濟候条、四五日已前、堀兵殿を遣申候、定而可相濟候、自然停候はは、

仕やう共有之事候、可御心安候、一兩日中に佐竹より使者之由申來候、自然若松へ參候はは、御左右可申入候、恐々謹言、

                      直山
   八月十二日             兼續

   岩備殿
      御返事 

638人間七七四年2019/03/10(日) 10:43:54.62ID:UwMMaVTo
九月三日 直江兼續条書寫

  覺

一 奧口御無事之儀、兩使御相談にて可被相濟候、連々如御申候、御不足之儀候共天下江御奉公と思召、白石なとの事に無御構、
  
  公儀さへ能候はは御調尤候、

一 關東御出馬之砌、政宗御同陣被申上候歟、不然は家老五三人も相濟、人數五千も三千も被相立候而、萬一御弓矢御むつかしき事出來候とも、

  關東御靜謐中別心無之樣、御堅め第一に候事、

一 最上之儀は政宗同前に付、延々見合候と聞得申條引詰承屆候て、手堅相濟候者、最上存分之儀可相調、自然不相濟存に而、

  日を送軆に候はは、外聞も不可然候條、一動可申付、左樣に候はは、若政宗より手切に申來候共、推返し使者を被遣、

  先々無事御つつけ可然候、其内に自米沢御左右可申入候事、

一 此中御意候、簗川城とりかへられ候儀、當城と白石之つなきにも相成、又は簗川のかはりにも可相成、地形御覽しつもり、

  政宗無事可相濟休に申來候はは、急御普請に御取次可然候、左樣に候はは栗刑も可被相招候事、付城引つめられ二三百にて可相抱御分別專一候、

一 自此口奧口筋御出勢は、最上手成次第と存候、彼表の樣子追而可申述候事、

   以上


                      直山
   九月三日               兼續

   本庄越州樣
      參人々御中

639人間七七四年2019/03/10(日) 10:44:30.62ID:UwMMaVTo
九月四日  直江兼續書狀

御狀披見、仍昨日爰元迄罷越候、最上表先度可相働處、少々懇望之儀候条、延引候、二三日中に相濟可申候、可御心安候、正宗も右同然に候、縱働成候共、人數無不足候、

上方之儀、所々城落之由、心地よき義候、猶重而可申入候、恐々謹言


                      直山
   九月四日                兼續(花押)

   甘備
     御報

640人間七七四年2019/03/10(日) 10:45:08.37ID:UwMMaVTo
九月八日  直江兼續書狀寫

追而、佐竹へ被遣候返礼、披見仕候、關東の儀、無相替儀候、以上、

御書拜見、仍而此表之儀、度々申上候最上付延々仕不相濟候、明日當地罷立、相動可申由存、先衆は今日より遣申候、人數も相調候条、

御心易可被思召候、敵地へ討入候事者、十二三之時分たる可、其内追々注進可申上候、此等之段可然樣に御披露、恐々謹言、

                     山城守
   九月八日 亥刻           兼續
         助次郎殿

641人間七七四年2019/03/10(日) 10:46:31.18ID:UwMMaVTo
九月二十一日  直江兼續書狀寫

追而直に可申上候へ共、無 御心元可被思召候条、貴所御心得之樣になされ尤候、爰元之儀は、可御心安候、以上、

幸便之条申入候、仍而只今白川より申來候は、上方散々に罷成候由相聞得申候、左樣に候へは、關東口は心安罷成候条、

但馬守米沢へ被指越、自然正宗白石おもてか米沢邊へ相動候時分、いつかたへ成共懸助候樣に被仰上尤候、當表儀、隨分申付候条、

見合候て、御直馬之御左右申上候儀も可有之候、内々其御用意專一候、大切之儀に候条、うらかたなとも御させ候て内々御心持候へく候、

自然此口へ加勢か、又正宗罷出候はは、兩國共に相濟候樣に支度候、とかく此方之儀は急度申付候条、御氣遣有之ましく候、恐々謹言、

                      直山
   九月廿一日              兼續(花押)

   安上樣
      參人々御中

642人間七七四年2019/03/10(日) 10:47:20.44ID:UwMMaVTo
十月四日  直江兼續書狀

追而今度不慮出來仕候樣子、具易だ申上候、とかく已來は御吉事とそんする事に御さ候、以上、

御書拜見、仍而今度之無仕合、中々迷惑仕候、半途に在陣、可致言上由存候へ共、庄内境目へ相動候故、彼庄仕置、又彼是有進處、

昨日當地荒戸まで打入申候、於此地、領中仕置申付、重而可致言上候、仙道表御仕置彼是に付而、安田上総介、今日相立可申候、

御人數もそんし申さす候、ひたち少手負申候、くるしからす候条、御心安可被思召候由、御披露候、恐々謹言、

                     山城守
   十月四日               兼續(花押)
   助次郎殿

643人間七七四年2019/03/10(日) 10:49:02.25ID:UwMMaVTo
最上の事は完全になめている感じだし、伊達にに関しては読みは甘いし
家康の動きはつかめていないような感じだね

644人間七七四年2019/03/10(日) 11:54:58.62ID:M4Mznzkh
関東をろくに攻め切れてもいないのに強気だな
まあ弱気というわけにもいかないだろうが。

645人間七七四年2019/03/10(日) 13:15:26.48ID:g1a2Ebk/
そもそも堀と上杉の対立ってそんなに緊迫してたのかね?
家康が上杉の討伐に出た理由ってどこまでこじつけでどこまで真実味があるのか。

646人間七七四年2019/03/10(日) 13:28:11.11ID:y1VLlYsi
筆頭大老が大名から訴えを受けて、勧告した上で、その勧告を拒絶された状況だからなぁ

647人間七七四年2019/03/10(日) 13:57:40.83ID:ddC+SuOR
>>645
朝日軍道は秘密裏に建設しようとしてたから危ない橋を渡っている感覚はあったと思うよ
戦国大名の感覚で領国を整備したつもりなんだろうけど
豊臣政権下だとその感覚が問題ということになりかねない
揉め事は戦争ではなく豊臣政権を通じて解決する事になってるから
加えて告発者の中に元家臣がいる以上言いがかりとして追求を逃れるのは難しいんじゃないか

648人間七七四年2019/03/10(日) 15:37:26.72ID:mFqkJemk
7月27日付上泉主水他宛直江兼続書状でも
家康が岩槻から引き返したと情報が入っているが実儀ではないだろう
と言ってるし実際動きは全く把握できてなかったんだろうな

649人間七七四年2019/03/10(日) 16:01:46.11ID:qx45RaNj
この辺の情報戦は全て家康の手のひらの上

650人間七七四年2019/03/10(日) 23:57:04.04ID:Z4zoUI9r
石田三成は笹尾山に陣を敷いてはいなかったというのはマ?

651人間七七四年2019/03/11(月) 02:04:31.06ID:nScw1ZTo
諸説あるって感じ
いわゆる通説は、関ヶ原の50年後に小浜藩主がまとめた
関ヶ原合戦始末記が元なんだな

それに対して、同時代の人の書状や覚書を活用して異説を唱える人が出てきてる
まだ決着はついてない

652人間七七四年2019/03/11(月) 07:43:46.29ID:KCPaiuUs
主戦場山中(やまなか)説

653人間七七四年2019/03/11(月) 18:48:57.80ID:9E+X+vH6
通説の戦域は、合戦の翌年に成立した『内府公軍記』にはもうある

654人間七七四年2019/03/11(月) 19:06:58.66ID:rW6/n506
>>653
翌年じゃないな。少なくとも数年後。

655人間七七四年2019/03/11(月) 19:14:30.12ID:dh2bLYtd
本来は関ヶ原にいなかった鍋島とかが西軍にいるし、あまり当てにはならない様な気がするかな
吉継が馬上で死んだっていうのは他で見たことないと思ったので気になるけど

656人間七七四年2019/03/11(月) 20:56:49.95ID:9E+X+vH6
>>654
いや、『言経卿記』に慶長六年十二月七日に太田牛一の関ヶ原合戦に関する本ができたとある

657人間七七四年2019/03/11(月) 20:59:04.77ID:9E+X+vH6
>>655
その辺は後年の版で修正されている
なればこそ、最初期のが慌てて執筆されたことが伺える

恐らく、牛一が家康に売り込もうとしたのだろう

658人間七七四年2019/03/11(月) 21:33:33.77ID:9XxNTQhv
>>655
牛一の頃だとやっぱり大谷吉継は輿ではなく、馬に乗れるくらいの健康状態って認識だったのかな
まあ今だと癩病じゃなく眼病だったみたいだった話になっているようだけど

659人間七七四年2019/03/12(火) 07:04:31.74ID:I31RLVHC
関ヶ原合戦はなかった説だと、すごく小さな戦いだったことになってるけど、
それじゃあそのあとの急激な西軍方のあきらめがわかんない
大合戦だったからこそ西軍方は諦めたわけで
宇喜多秀家が負けたぐらいじゃ降参にはならないでしょ

660人間七七四年2019/03/12(火) 10:06:59.07ID:/NIbFMY1
ツイッターやネットでテクノロジー犯罪と検索して、まじでやばいことを四代目澄田会の幹部がやってる
被害者に対して暴力団以外にタゲそらしをしてるがやってるのは暴力団で普段外に出ることが少ないため遊びで公共の電波と同じような電波を使って殺人をしてる
統失はほとんどが作られた病気で実際は電波によって音声送信や思考盗聴ができることが最近明らかになりつつある
警察や病院では病気としてマニュアル化されてしまっているのが現状で被害者は泣き寝入りしてる
被害者がリアルタイムで多い現状を知って、被害者間でしか本当の事だと認知できていない
実際にできると思われていない事だから、ただの幻聴ではない実際に頭の中で会話ができる
できないことだと思われているからこそ真面目に被害を訴えてる
海外でも周知されつつあることを知ってほしい。
このままだとどんどん被害が広がる一方


#テクノロジー犯罪
#四代目澄田会

[参考]
https://black.ap.teacup.com/yamisiougn01/6.html
https://tekunoroji-hanzaihigai.jimdo.com
https://blogs.yahoo.co.jp/patentcom 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:87f20c3c9ee883ab649a4d7f8b996d63)

661人間七七四年2019/03/12(火) 11:22:53.58ID:dhtldici
×関ヶ原合戦はなかった
○関ヶ原合戦は「決戦」ではなかった

662人間七七四年2019/03/12(火) 12:05:01.00ID:uiub4aMo
>>659
数えかたによるけど、50000から80000くらいの戦力が
一日で敗退、降服、寝返りによって無力化してるわけで、
影響甚大でしょ

戦いがいわゆる堂々とした野戦でなく追撃戦で決まったというだけで。

663人間七七四年2019/03/12(火) 14:06:27.68ID:6Xq6K9Ck
決戦ってそもそも両者がこの場所で何月何日に一大会戦だ!と意気込んで戦うことよりも
片方が完璧に相手の術中にはまったり、認識不足の結果意図せず大勢力と戦う羽目になることのが多いんじゃないですかね

戦争ってあくまで目的じゃなく手段ですから、大勢力同士ぶつかったら勝った方も損傷大きいこと多いですし、負けたら立ち直れなくなりそうですから双方基本は避けたいものでしょう

664人間七七四年2019/03/12(火) 16:13:34.26ID:Ujh/XC4P
史料を読んだ感じ松尾山を攻めようと陣を構えていたところに、東軍が予期せず攻めて来たみたいな印象を受けるけど、どうなんだろう
さすがに物見くらい出していたとは思うが

665人間七七四年2019/03/12(火) 16:26:30.49ID:hZ23KI5z
>>664
包囲されている大垣城から出てきたんだから、捕捉される可能性は頭に入れていたとは思うんだけどねえ

666人間七七四年2019/03/12(火) 16:52:42.17ID:cNCWFc+L
>>665
南宮山の毛利勢が既に東軍へ降伏していることを知らないからね

667人間七七四年2019/03/12(火) 16:54:09.28ID:OoK26zj0
捕捉される可能性があるから先に空堀掘ってあった関ヶ原でいったん陣敷いて
東軍が迷わず死地に飛び込んできたから案の定捕捉されて決戦って流れでしょ

668人間七七四年2019/03/13(水) 08:06:18.60ID:fx5GOUg6
吉川広家の寝返りを信じて関ケ原に向かった家康の度胸はすごいな
たとえ騙されても秀忠の軍と合流して一合戦する余裕はあるのか。。。

669人間七七四年2019/03/13(水) 08:39:57.32ID:hSq1tRw6
なんだかんだで東軍先鋒の半分は南宮山監視に回っていたし

670人間七七四年2019/03/13(水) 09:11:02.76ID:mcR1arwv
要は関ヶ原にいたるまえに雌雄は決していたので、関ヶ原「決戦」ではなかったということか

671人間七七四年2019/03/13(水) 09:39:50.40ID:FpvjDXFV
勝負は戦う前に決している。
兵法の鑑ですね

672人間七七四年2019/03/13(水) 11:40:58.47ID:f6TNiTeS
くだらない事言ってないで、
みんなで第六天魔王の歌でも歌おうぜ!
信長疾走曲!
https://www.youtube..../watch?v=r6zvrY5D4GI

673人間七七四年2019/03/13(水) 11:46:25.18ID:Q1gMHuGR
どちらか一方でも敵を撃滅する目的で戦闘した場合は決戦らしいので
西軍が意図してなかった場合でも、これは決戦らしいですね

単純に軍事用語の定義と一般で認知されてる定義にズレがあるだけのようで

674人間七七四年2019/03/13(水) 16:43:36.64ID:KWr5DLVJ
>>668
何方かと言うと、関ケ原に陣を敷けば家康は止まるって予想の気もしますよねえ?
あそこは、教科書に書いて有る様な絵に描いてるような死地なんですよねえ?

あそこで、普通に南宮山の毛利が退路寸断してたら普通に東軍惨敗して無いのかな?
幾ら野戦の名人の名声持ちでも、あそこまで見え見えの死地に入って惨敗したら戦死する気が
する。

675人間七七四年2019/03/13(水) 17:52:57.70ID:GfN41VKT
布陣図自体かなり信ぴょう性低いし
それで裏切っても家康に逃げられたら徳川との絶滅戦争始まるし
単純に領土ひろげたかっただけの毛利からしてもリスクでかすぎでしょ

つーか、徳川もある程度毛利から信頼できる言質取れたから行ってるでしょ

676人間七七四年2019/03/13(水) 18:05:18.70ID:GfN41VKT
ていうか西軍は二重引きの最中捕捉されて撃滅されてるんだから、毛利が反攻してもこれ幸いと退却して毛利だけが孤立するぞ

一回毛利は東軍素通りさせてる以上西軍にも毛利裏切りはバレてるし

677人間七七四年2019/03/13(水) 18:42:54.32ID:zSv6m+x3
>>674
毛利軍の前には毛利軍と同等の戦力の東軍先鋒軍右軍が抑えについてる
調略成功した上に保険もばっちりですよ

678人間七七四年2019/03/13(水) 21:38:43.21ID:l6cwpzHL
吉川広家は伊勢方面でかなり頑張ってるけど
本当に家康派だったのだろうか

679人間七七四年2019/03/13(水) 21:57:41.50ID:NIrGKal0
黒田長政に早々に内通しているから最初はその気だったけど
思っていたより当初の西軍の勢いが良くて、もしかしてと思い
伊勢方面では頑張ったけど、その後の西軍の為体を見て
やっぱり駄目だなと思い、改めて内通したってところじゃないかな

680人間七七四年2019/03/13(水) 22:10:36.28ID:zSv6m+x3
広家は最初は東軍と頻繁に音信してたけど伏見城陥落後に西軍が思いのほか順調に勢力広げるとパタッと止めて
岐阜城陥落でまた書状のやり取りせっせと始める分かりやすい行動しとる

681人間七七四年2019/03/13(水) 23:32:22.43ID:0lJPJ/cP
南宮山の抑えとして
浅野幸長 5000
池田輝政 6500
山内一豊 2600
有馬豊氏 2300

とあるけど池田輝政は家康の娘婿だから分かるけど
浅野幸長の正室が池田輝政の妹だから?
山内一豊は掛川城を明け渡したから?
有馬豊氏は家康の養女を妻としてたから?

この四人の家は幕末まで残ってるから準一門扱いだったのかな?

682人間七七四年2019/03/13(水) 23:52:42.99ID:ZvDr02Zm
先陣先陣とでしゃばってやかましくいうより、黙って後備えにまわるような者のほうが内府公のウケはよかったのでは、ありますまいか。
ただ、当方聞くところによると、浅野6500、池田4500、山内2000、有馬900と聞いておる…

683人間七七四年2019/03/14(木) 00:18:55.94ID:pWnnW1mp
>>681
それ全部木曾川の上流渡河組。堀尾もたしか大垣の押さえだっけ?
下流渡河組が今度は先陣を、とか言ったんじゃないかな?

684人間七七四年2019/03/14(木) 00:45:21.11ID:dsR1v4qb
>>681
東軍先鋒隊が岐阜城を攻めた時に2軍に分かれて進撃したんだが渡河して米野で防衛軍破って岐阜城に迫った部隊がその面子
もう一方の軍は福島黒田藤堂らで竹ヶ鼻城を落としてから岐阜城に到着してる
先鋒隊の2大主力部隊の片方をまんま毛利軍の抑えに当ててるという事

685人間七七四年2019/03/15(金) 13:38:45.56ID:p5yuS+ky
>>680
吉川家は自家弁護の為の創作、色々頑張っているしね

686人間七七四年2019/03/15(金) 13:44:30.57ID:YT3JuF3s
長府、清末、徳山と比して、岩国は一段格下扱いをうけているところとかね

687人間七七四年2019/03/15(金) 21:53:59.53ID:PcydVXCA
創作だったら島津も負けていないと思うが

688人間七七四年2019/03/15(金) 22:09:53.54ID:wl8DMb7A
張り合われても

689人間七七四年2019/03/16(土) 12:53:03.32ID:nXNgneTW
>>687
伏見城籠城の約束、夜襲策を拒絶された、終戦直前迄戦せずに退陣、家康本陣目指し敵の真ん中を強行突破、
井伊直政に鉄砲で致命傷を与える、他にも何かありましたっけ?

690人間七七四年2019/03/16(土) 13:13:45.25ID:YB19u0GI
>>689
充分でしょうが

691人間七七四年2019/03/16(土) 20:17:43.47ID:fEoBzEZw
なんか調べれば調べるほど金吾を討とうとした刑部が逆にやられたようにしか見えんな

692人間七七四年2019/03/16(土) 20:27:58.88ID:kCWragNb
筑前中納言の変心を予期していた大刑少は、一隊を差し向けて迎撃し、500メートル押し戻したという説は、今日では違うのですか?

693人間七七四年2019/03/16(土) 20:39:20.13ID:FMUBpbX4
島津は最初からノリノリで西軍だぞ
三成には恩があるしね

694人間七七四年2019/03/16(土) 21:38:42.49ID:bh2tImGn
島津、というか主に義弘がノリノリ
義久は本気で中央の事変にかかわる気なかったんじゃねーかな
確かこの頃、義久と義弘での派閥争いが割と激化してたんじゃなかったかしら

695人間七七四年2019/03/16(土) 21:43:45.34ID:kCWragNb
義久、義弘、忠恒の三頭建てで収拾のつかぬ混乱よ。それもこれも、重臣筆頭伊集院家を不用意に突いたことに、端を発しておる。

696人間七七四年2019/03/16(土) 21:53:25.90ID:xOTKJ9Yd
>>687
まあ通説を纏めた参謀本部は薩長閥の影響たっぷりと承けているだろうしな
仮に伏見城籠城の件が事実だったとしても、西軍に参加した武将の中で
その命令を受けたのが島津だけだったかどうか怪しいし

697人間七七四年2019/03/16(土) 22:24:09.32ID:z2EoXx4g
上杉征伐時の西国大名の任務が大坂京守護だから任地として伏見城在番の打診された中に島津が居ても別におかしくないし
返事しないうちにうやむやになった程度の打診されたから何だという話やね

698人間七七四年2019/03/17(日) 00:12:58.05ID:xP55YhHw
>>679
もしかしてと思いw

699人間七七四年2019/03/17(日) 01:51:49.66ID:G+IRxVI7
>>691
実際やられたんでしょ

700人間七七四年2019/03/17(日) 06:43:57.53ID:ln6rmcqI
>>692
>>556 >>557の史料を見ると東軍の先陣と六、七度の合戦に及んでいたところ、小早川が攻めてきて壊滅した感じだし、
一隊を差し向ける余裕なんかなさそうだし、ましてや押し戻すなんて、とても無理そうだけどね

701人間七七四年2019/03/17(日) 07:36:47.03ID:5R5zlkmX
東軍は大谷を攻めた部隊、宇喜多を攻めた部隊、石田を攻めた部隊の
三隊に分かれて攻撃してきたって事なのかな

702人間七七四年2019/03/17(日) 16:42:09.34ID:HkrgBsZ6
宇喜多と大谷を攻めた福島藤堂を先鋒とする部隊
石田を攻めた黒田細川を先鋒とする部隊
基本的にはこの2隊やね。この2部隊の間を島津がそこそこ逃げたと。

703人間七七四年2019/03/17(日) 17:18:05.16ID:1yRdmCJj
最強と自称する薩摩隼人
三河武士と対戦したら戦慄
九州と朝鮮でしか通用しなかった

九州征伐の折豊臣秀吉麾下の堀秀政に弱すぎと言われた薩摩隼人…

イキリの直江兼続
空気読めない石田三成

西軍が東軍に勝ってる所が見当たらない

なんでこんな無謀な戦いを起こしたのか謎すぎる

勝てるかも?と思ったんだろうが…どこで勝てると思ったのか

詳しい人教えて

704人間七七四年2019/03/17(日) 17:34:53.24ID:PSF2pxTo
薩摩、最強に近い

三河より強いかも

柔軟性はなさそうだが

705人間七七四年2019/03/17(日) 18:44:05.88ID:z3U4xraD
>>704
>>506によると島津義弘が「三河武士は人に非ず」と書いたそうな

706人間七七四年2019/03/17(日) 18:53:18.55ID:HkrgBsZ6
島津が強いとか自称やでな九州以外では誰も言ってないという

707人間七七四年2019/03/17(日) 19:14:06.82ID:PSF2pxTo
>>705
ソースが見たい

家康の旗本が精強だった可能性はある

しかし徳川がそんなに強ければ
義弘を取り逃がすことはなかったはず

それから旗本が三河者なら高齢者になるが

708人間七七四年2019/03/17(日) 19:16:24.25ID:PSF2pxTo
義弘が自分で薩摩武士が精強だとは言わないんじゃないか

家康が三河武士は精強とは言ってないような

三河武士を継承した豊臣大名って誰?

709人間七七四年2019/03/17(日) 19:23:52.28ID:0sNASvIb
加藤嘉明とか?

710人間七七四年2019/03/17(日) 19:49:34.01ID:t0u+LtAB
よしあき隊が精強だったのか?

越後の堀隊が精強という話も聞かない
実際は精強だったかもしれんが

711人間七七四年2019/03/17(日) 20:31:15.07ID:z3U4xraD
>>707
どんなに強くても義弘だって取り巻きがいるんだし一目散に逃げられたら取り逃がすぞ

712人間七七四年2019/03/17(日) 20:33:33.75ID:t0u+LtAB
>>711
精強ならば追えばいい

それに80人も逃げてる

713人間七七四年2019/03/17(日) 20:34:45.96ID:t0u+LtAB
あとは自分が強いと言いたいがために
相手が強いというパターン

相手が弱いならなんでやられたって話になる

714人間七七四年2019/03/17(日) 20:39:51.79ID:z3U4xraD
>>712
>>517によると本多忠勝が見逃したってさ
資料が見たいね

715人間七七四年2019/03/17(日) 21:30:14.14ID:1o2D8Dmx
>>714
ソースは出せないが
福島が相手にするなって言ったとも

死兵だし、義弘に対するリスペクトがあったのかなと

徳川の対抗勢力を残すほうが豊臣には有利

716人間七七四年2019/03/17(日) 22:01:50.96ID:BMiTdDCY
小返しの五本鑓

出典 本藩人物誌

これに徳川家康旗本の事書かれてるよ

717人間七七四年2019/03/18(月) 01:10:27.16ID:2sjE56YJ
>>713
歴史上では、屡々そのパターンもありますね、最後の勝利者に勝った事が有るのか引き分けに
した事が有れば最強って言われる、パターン。

諸葛亮が名将って言われる理由の殆んどが、後年北伐で司馬懿と睨み合いしてたって事だし。
事実上の晋王朝の始祖と引き分け「兵力差3〜5倍くらい」してたって部分有る。

実際は、あの時点での司馬懿の立場だと下手に諸葛亮に勝つと統一してしまって、逆に危険
ってのが有ると思う。
漢王朝創業の功臣、韓信の運命は当時有名だったでしょうからね。

東魏、趙、燕、斉って黄河以北を韓信が平定したんで高祖が勝利したんだし。
魏が曹叡在世中に統一してれば、司馬懿は多分消されてた。

718人間七七四年2019/03/18(月) 01:22:44.78ID:fn6QhgvJ
>>717
司馬懿ほどの人物なら勝利してものらりくらりで何とかしそうだけど

719人間七七四年2019/03/18(月) 02:24:12.61ID:TQNR3nld
薩摩の兵士が国内でやたら強いバーバリアンみたいに表現されるようになったのはどこからなんだろ
木崎原・耳川・沖田畷と、確かに有名な島津の勝ち戦は多いけど上でも言われてる通り、名人久太郎には弱兵扱いされてるようだし
強さと野蛮さの表現として用いられる肝練りと称される火縄銃くるくる回してロシアンルーレットの初出は江戸も後期の甲子夜話らしいし

720人間七七四年2019/03/18(月) 09:47:16.50ID:uLGDsDAP
鹿児島県史料衆は鹿児島県立図書館のホームページで見られるけど、誰の項目のどの部分に書いてあるのかわからない

721人間七七四年2019/03/18(月) 09:56:28.50ID:xNto81Yc
関ヶ原に司馬懿がいたらどう動くかな
間違っても西には行かないだろうけど

722人間七七四年2019/03/18(月) 10:16:15.43ID:XrUoGAqF
実際にどのような戦闘があったかよりも
西軍の一武将でしかなかった石田三成がどのようにして西軍のリーダーとして創作されたかの方が興味がある

723人間七七四年2019/03/18(月) 11:03:59.14ID:2sjE56YJ
>>718
曹叡が生きてる状況では、司馬懿も迂闊な事は出来なかったんじゃないかな。

兎も角、蜀漢を滅ぼせば上流の優位を生かして呉に侵攻出来るんで、孫権在世でも
防げたとは思えないからね。

まあ、他の将軍に対しては諸葛亮は押し気味で終始してるし、わざと引き分けを装おえる程度
の強さは有るからね。

只、兵力差が3〜5倍程度って状況で何も出来ない程の実力差は無いと思う。

724人間七七四年2019/03/18(月) 11:23:21.23ID:TQNR3nld
>>722
西軍首脳の中で毛利とは手打ちにした以上、毛利にこの騒乱の責任を問うことはできない
あくまでも安国寺にそそのかされたという形
もう一人責任者っぽい宇喜多は逃走中、大谷は自決と責任を問えそうなのが石田しかいないってのが大きいんじゃないですかね

石田の不運は一緒に捕まったのが坊主の安国寺とキリシタンの小西だったせいで、切腹じゃなく打ち首に変わったっぽいところ

725人間七七四年2019/03/18(月) 14:41:41.90ID:nc61M5qj
>>724
だいたいそんな感じだろうね
誰に詰め腹切らせるかとなったら石田みたいな旧体制の腰ぎんちゃくが最適

726人間七七四年2019/03/18(月) 15:49:34.16ID:O/cJBub4
まあスケープゴートにされた感はある

727人間七七四年2019/03/18(月) 15:58:37.75ID:T3aIJ3FL
9月25日 輝元大坂城退去、福島黒田らが大坂入城、増田長盛、高野山へ退去
9月27日 家康大坂入城
10月1日 恵瓊、行長、三成が斬首される
時系列的にもこれだしな

728人間七七四年2019/03/18(月) 17:15:44.31ID:TQNR3nld
逃げ切ってほとぼりが冷めたころに出てくれば、宇喜多と同様遠島くらいだったんじゃないかな

こんだけ将が捕まりまくる合戦というのも稀有なような

729人間七七四年2019/03/18(月) 20:10:47.45ID:jWoJsFVU
その点でも大戦果だよな。
戦死と捕縛の違いはあるけど長篠の戦い位の比率か?

松尾山が東軍だから逃げにくかったとか。

730人間七七四年2019/03/18(月) 20:16:16.26ID:hnlS8kPs
それでいて主な武将で戦場で死んだのが大谷吉継だけというのもなあ

731人間七七四年2019/03/18(月) 21:00:39.08ID:HUclBCjz
平塚為広とか戸田勝成、河尻秀長なども戦死しているんだけど
如何せんマイナーだからなぁ
そう言えば島津豊久も戰死組か

732人間七七四年2019/03/18(月) 21:06:20.28ID:7qavw6Ux
主な大将分で
戸田平塚は大谷寄騎だから混乱のうちに戦死
島左近と島津豊久は潰走した時に殿軍として残って戦死
まあこんな感じか

負けた中では宇喜多はうまくやったのか

733人間七七四年2019/03/18(月) 21:18:33.33ID:uLGDsDAP
三成家臣だと島左近ばかり持ち上げられているけど、関ヶ原だと蒲生頼郷の方が頑張っているイメージがあるな

734人間七七四年2019/03/18(月) 21:30:27.66ID:iKn3oHlx
>>732
宇喜多の場合、目ぼしい連中がほとんど東軍に走ったから
秀家の小姓だか近臣が旗奉行で討ち取られたという話はある

735人間七七四年2019/03/18(月) 22:06:12.21ID:Ik1CHUvR
重臣として指揮をとっていた長船定行なんかはそのまま行方不明で
最初からいなかったような扱いになってるな

736人間七七四年2019/03/18(月) 22:09:51.66ID:p8EWaDUk
本多政重よく戦線離脱できたもんよ

737人間七七四年2019/03/19(火) 00:46:21.11ID:MARtQaSd
>>717
四次北伐では諫める張郃無視して諸葛亮の誘いに引っかかってボコボコにされてるし
破る気満々だったけど普通に負けただけじゃね

738人間七七四年2019/03/19(火) 00:47:01.26ID:imwS1XQN
宇喜多直家は家臣を関ヶ原前に家康に根こそぎ引っこ抜かれたけど西軍では凄く頑張ったよな。明石全頭や本多政重といった武断派が頑張ってたみたいだね。

秀家は、全軍1万7千を5段に分けて果敢に戦う。明石全登を筆頭に長船吉兵衛、宇喜多源三兵衛、浮田太郎右衛門、延原土佐らが、指揮に当たる。

家臣がスカスカ。

739人間七七四年2019/03/19(火) 00:47:40.61ID:imwS1XQN
>>738
直家じゃなくて秀家

740人間七七四年2019/03/19(火) 08:28:34.18ID:xerCSH8x
島左近は開戦直後に戦死したと聞いた
まあ二時間で終わったなら開戦即敗走だから同じか

741人間七七四年2019/03/19(火) 08:35:26.85ID:tBqCjTs3
家中不和を治められなかった秀家の自業自得

742人間七七四年2019/03/19(火) 10:40:52.38ID:CpSnCvje
秀家、家臣から刀抜かれて追い回されるレベルの不和になってたから
根こそぎ引っこ抜かれたんじゃなくああでもしないと大名としての形すら保てない状況だったよ

お家騒動自分で片付けられない大失態をそれこそ博打みたいな挙兵で盛り返したかったんでしょ あれを頑張ったというのはかなり違和感がある

743人間七七四年2019/03/19(火) 11:29:18.04ID:k/u8X2k7
西軍についた大名は宇喜多といい毛利といい島津といい
家中が揉めて何らかの騒動抱えてるのが多いね

744人間七七四年2019/03/19(火) 12:24:17.97ID:hxwvfAGe
徳川だって本多佐渡が戻ってきてるから、もう派閥争いの芽はあったんじゃないか

745人間七七四年2019/03/19(火) 12:52:19.47ID:XkSxDUZW
徳川は基本的に奉行の汚職とか、老中の依怙贔屓程度の話だし

746人間七七四年2019/03/19(火) 12:55:13.21ID:/zOly15w
>>743
そら半独立だった旧国人系家臣大量に抱えてる旧戦国大名やもん揉め事に事欠きませんよ
どっちかというと徳川やありとあらゆる手を使ってそれらを排除して挙国一致体制築いた上杉が特別なんやね

747人間七七四年2019/03/19(火) 13:06:32.18ID:xerCSH8x
徳川官僚団で一番の悪人が大久保長安だしな
実に健全

748人間七七四年2019/03/19(火) 13:47:40.95ID:FpP3QpAs
徳川の場合、東海から関東への移封を契機に、井伊、榊原、本多中務は大身に取り立て、たとえば酒井家次とかは小禄に据え置き、家中への支配強化貫徹に踏み切ったが、
他の有力大名が豪族連合の構造を残したままである状況で、家康は、いち早く自らの利点を生かした感じかな、関ヶ原は

749人間七七四年2019/03/19(火) 22:30:26.51ID:1KxCVEPk
>>743
毛利というと広家と恵瓊の不仲がよく言われるけど、そもそも輝元と広家自体が
あまり仲が良く無さそうなんだよなぁ
その後の毛利家中での吉川家の扱いを見ると、東軍との交渉において
広家、輝元に隠してたり騙したりした事があったんじゃないかって印象を受けるね

750人間七七四年2019/03/19(火) 23:23:28.14ID:LfJw8eTQ
酒井将監や三河一向一揆と信康事件、豊臣に臣従する前後での数正ら出奔
関東移封前から大名集権に対する挑戦(ともとれる事件)に勝利してきてるからね
家康のお家騒動に対するノウハウは当時随一でしょ
三成VS七将や島津にせよ宇喜多にせよ
やったかどうかは定かじゃないけど、他家のお家騒動を煽ったりなんかは簡単だったんじゃないか

751人間七七四年2019/03/20(水) 00:05:38.03ID:5RIIXuts
つーか傘下に下った大名の家中に火種を仕込んだのは秀吉で
それが秀吉の死後にきちんと目的を果たしたといった感じ

752人間七七四年2019/03/20(水) 00:07:43.03ID:UvV4a/rc
>>750
うーん、その書き方はいやらしいというかやるべきじゃないというか
やった証拠も一切存在しない、むしろ鎮静化に骨折ってるレベルのもんに
やったかもしれない、可能性はゼロじゃないみたいなこと言って煽るの
歴史を解釈するって面でもやっちゃいけないことだし、やるべきじゃない

753人間七七四年2019/03/20(水) 00:20:55.41ID:EAXfNwEi
お家騒動の工作は豊臣奉行衆がやってる
徳川前田毛利上杉宇喜多も互いに争わせて手球にとろうとしていたが大戦になってしまって、その手に余って自滅

754人間七七四年2019/03/20(水) 00:24:08.88ID:VzaXRAWL
水口5万石の長束の工作ではどうにもなりますまい

755人間七七四年2019/03/20(水) 00:24:12.93ID:i4Ye0ceS
>>744
徳川武断派と正信の確執なんて正純改易後に作られたおとぎ話ですし

756人間七七四年2019/03/20(水) 01:43:03.72ID:HvBqFOWG
>>755
知らなかった。そうなのか

757人間七七四年2019/03/20(水) 06:25:46.00ID:Fm7DTiPa
>>752
???「疑惑は深まった」

758人間七七四年2019/03/20(水) 06:34:30.30ID:Fia3wPg0
>>732
家柄で助命されたんじゃないかな

759人間七七四年2019/03/20(水) 10:18:03.12ID:JnGkn8r+
>>758
家柄じゃなくて縁故じゃないかな
宇喜田の家柄なんて大したことないだろう

760人間七七四年2019/03/20(水) 10:35:46.12ID:VzaXRAWL
シーマンヅと奥さんの実家前田家の口利きによる罪一等減か。あと、関ケ原の合戦から数年経過し、世が静謐を迎え、秀家の首を斬る必要性が減った。
関ヶ原直後に捕縛されていたら、前田がいくら頼んでも処刑だったろう
また、大坂の陣が終わって、赦免するから八丈島から出ても良い、といった話も幕府からあったようで、前田利常も、10万石を分封するから加賀に来ないかと誘ったが、
秀家は、島から出るのを断ったとか

761人間七七四年2019/03/20(水) 11:48:52.31ID:4cid88SZ
中納言というのもあったかもしれん

762人間七七四年2019/03/20(水) 16:26:29.51ID:St7aVNwW
むしろ行方くらまさずに大坂が岡山辺りで降伏交渉してれば毛利、上杉の他の五大老連中みたいに
減封で済んでた可能性も微レ存?

763人間七七四年2019/03/20(水) 16:27:36.17ID:xeengENj
当時の人の官位に対する感覚は大分ちがうんだろうな。

764人間七七四年2019/03/20(水) 17:09:45.75ID:xZ33K2hJ
1、2万石のギリギリ大名のレベルでなら残れたかもな
ただしそれ以上は無理
そもそも秀家は元から大名の器ではなく家中を纏める才すら無い

765人間七七四年2019/03/20(水) 18:21:32.62ID:4cid88SZ
籠城してれば可能性はあったかもな
面倒だから

766人間七七四年2019/03/20(水) 20:21:32.53ID:UvV4a/rc
あの当時的に籠城が決め手になって助命とかあるの?

767人間七七四年2019/03/20(水) 20:34:52.91ID:VzaXRAWL
籠城した場所によるだろうな。柳川や薩摩なら僻地だから見逃されたか

768人間七七四年2019/03/20(水) 20:42:36.76ID:4cid88SZ
城攻めは面倒だから

769人間七七四年2019/03/20(水) 21:00:29.89ID:UvV4a/rc
籠城してたことが決め手になって助命された事例はないの?

770人間七七四年2019/03/20(水) 21:23:33.84ID:LuRbllq5
丹後田辺城、大津城、安濃津城
交渉開城で助命は基本

771人間七七四年2019/03/20(水) 21:28:16.81ID:LuRbllq5
もっとも宇喜多秀家は首謀者格だから無理だろうけどな

772人間七七四年2019/03/20(水) 21:39:35.72ID:VzaXRAWL
東から西に寝返った宮部継潤、立てこもった鳥取城も命は助かり、盛岡に流された。
しかし、鳥取焼き討ちが過酷すぎるから、人身御供として斎村という寄せ手の武将が殺害された

773人間七七四年2019/03/20(水) 21:42:04.83ID:LuRbllq5
前の年に死んでますね

774人間七七四年2019/03/20(水) 21:45:24.32ID:9kyrKRLC
>>770
籠城戦というと城兵を助ける為に城主は切腹というイメージがあったけど
結構助かっているんだね

775人間七七四年2019/03/20(水) 21:49:27.43ID:lsosFtP1
宮部長房君はネタキャラ

776人間七七四年2019/03/20(水) 22:14:39.69ID:fLXnSBZL
焼き討ちって亀井の策略なんかね

777人間七七四年2019/03/20(水) 22:26:48.58ID:UvV4a/rc
>>770
ありがとうございます
古今伝授の断絶の可能性のある細川幽斎や、腐っても四職の京極氏といった
あくまでも巻き込まれただけ&家柄や特殊な技能を持った人間の助命が多いんですかね

さすがに首謀者格で助命された人はいないですよね

778人間七七四年2019/03/20(水) 22:50:11.72ID:4cid88SZ
景勝が首謀者格

779人間七七四年2019/03/20(水) 23:34:44.81ID:UvV4a/rc
景勝は景勝で勝手に西軍の挙兵に巻き込まれただけといえばだけではありますし
あれは籠城はしてないすよね?戦役終わって謝罪で終了ですよね?

780人間七七四年2019/03/21(木) 06:50:51.78ID:3mwmsr40
籠城してないが籠城も構えつつ

そもそも上杉征伐から
始まったのが関ヶ原

781人間七七四年2019/03/21(木) 11:41:29.23ID:4VmqFBmW
急ぎ駆けつけた三万八千の兵は、疲れていて、戦の役には立たぬ。時を過ごさば西軍にも余裕を与えてしまう。
それに、治部めをうまうまと、関ヶ原の野に、おびき出したは、今日ぞ。今日が、決戦ぞ。

782人間七七四年2019/03/21(木) 12:07:16.21ID:Ly6VpBbG
だから、上杉征伐でたまたま徳川が畿内を離れた隙を利用して上杉のあずかり知らないところで挙兵したのが西軍なんだから、首謀者でもなんでもないよ

783人間七七四年2019/03/21(木) 12:18:44.61ID:xFxtdEjf
西軍の主要人物で命を落としたのは斬首された石田小西安国寺を除けば
長束正家と佐和山城の三成親族ぐらいじゃないか
立場的には石田らと似たような立ち居地の増田長盛ですら助命されている
ちなみに長束正家も本領安堵という話で城を出たところ捕まって処刑だから
後世の人間にはそんなうまい話があるかと思われても
本領安堵という言葉には相当な魅力があるんだろうね

784人間七七四年2019/03/21(木) 12:43:00.93ID:5uP9ag3D
じゃあナツカだまされたんやん

関ヶ原は上杉攻めが開始点

家康がわざと西軍を蜂起させた

785人間七七四年2019/03/21(木) 12:47:03.08ID:XvBiHmd1
>>784
死ね

786人間七七四年2019/03/21(木) 13:04:28.02ID:3j1YEewt
上杉のあずかり知らないところで挙兵したのが西軍で、両者は関係なくて別個に動いてたというなら
元々上杉単独で戦うつもりだったことになるわけで
それならたとえ西軍が負けようが上杉の行動は変わらないはずなんだよな、戦い続けるはずなんだよな
なのに現実は西軍惨敗の報告を聞いただけで震え上がって逃げ出して戦うの止めて土下座して命乞いを始めたわけで

787人間七七四年2019/03/21(木) 13:09:50.21ID:k5IvEHvc
>>786
そもそも上杉は戦意がなく、征伐軍が国境まで来たら土下座する予定だったという説がある。(考古学的に征伐軍を防ぐための防御工事跡が
確認されてない)。

たまたま「西軍」が挙兵したので、ワンチャン有ると思って軍事行動を起こしたわけで、チャンスの根拠であった西軍が壊滅したら当然
当初の予定通りの土下座路線に戻る

788人間七七四年2019/03/21(木) 13:11:31.83ID:5uP9ag3D
西軍は上杉攻めで豊臣軍が東上したのを見て蜂起

関係ないなら、家康が大阪を離れたあたりで蜂起すればいい

789人間七七四年2019/03/21(木) 13:14:58.02ID:4VmqFBmW
今を去る418年前、天下分け目の関ヶ原合戦で、家康が、石田三成の率いる西軍を破り、大勝利を収めた裏には、伊達政宗の、大きな力があった。
すなわち、奥州の南にあり、絶えず、家康の背後を窺う猛将・上杉景勝の動きを巧みに牽制し、一歩足りとも、関東に近付けなかった政宗の備えがあったればこそ、家康は、後顧の憂いなく、関ヶ原で戦うことができた。
戦後、ただちに家康は、その功を賞で、政宗に対し、上杉から奪った領地のうち、会津60万石を与えるとの、お墨付きまで出しながら、その会津領は、同じ外様の、蒲生忠郷に与え、そ知らぬ顔を決め込んだ。
政宗にとり、家康のこの食言は、腹に据えかねるものであった

790人間七七四年2019/03/21(木) 13:15:34.96ID:k5IvEHvc
>>788
即座に反転されて滅ぼされるやん。アホなの?

791人間七七四年2019/03/21(木) 13:15:37.02ID:rt/R8WqD
畿内を固める必要があるので家康が遠国に離れてからのほうが良い

792人間七七四年2019/03/21(木) 13:42:49.62ID:XvBiHmd1
>>788
死ね

793人間七七四年2019/03/21(木) 14:44:48.01ID:Ly6VpBbG
そもそも西軍挙兵前に西軍首脳と上杉家が計画についてやり取りした書状すらない
ましてや上杉征伐に際して増田らは家康が畿内を離れる危険を理解して上杉征伐中止を求めてる
とてつもなく突発的なクーデターであって遠国の上杉と連絡を取り合う余地もないよ

そして上杉の目的は戦うこと、ではなく家中を納得させた上での和睦による軟着陸が目的
ところが西軍挙兵によってその計画が頓挫し、畿内騒乱のおかげで訪れた戦乱による領地拡大のチャンスも西軍が短期に瓦解してなくなってしまった以上
これ以上の戦闘は和睦するフェイズすら逸した絶滅戦争になる訳で、降伏しかない

正直西軍挙兵のせいで一番割を食ったところだよ、上杉

794人間七七四年2019/03/21(木) 15:01:14.91ID:5uP9ag3D
>>790
だから上杉攻めが起点

池沼?

795人間七七四年2019/03/21(木) 15:03:33.07ID:5uP9ag3D
>>793
もう一回挙兵すればええやん

796人間七七四年2019/03/21(木) 15:05:50.89ID:pbdCfhyc
>>795
頭悪すぎて草

797人間七七四年2019/03/21(木) 15:07:31.07ID:5uP9ag3D
>>796
キチガイ?

798人間七七四年2019/03/21(木) 15:17:35.65ID:Ly6VpBbG
なんか自分の言ってることの意味が理解できてない荒らしが居ついてしまったなぁ

799人間七七四年2019/03/21(木) 15:34:34.59ID:PdibzNxe
>>793
上杉に戦意がなかったのなら越後に一揆を起こす必要はまったくない。

800人間七七四年2019/03/21(木) 15:55:20.76ID:47HbZgqi
戦意はあるけど、西軍と連動したものとは言えない。

三成挙兵前に、景勝は一度本気で上洛に応じた書状が残っている。上洛していれば、三成は当然挙兵出来ない。
また景勝の土下座は、大坂開城から一年も経過している。

801人間七七四年2019/03/21(木) 16:00:48.06ID:k5IvEHvc
>>799
それはあくまで上杉を「讒言」した越後堀氏への牽制

802人間七七四年2019/03/21(木) 16:07:42.36ID:5uP9ag3D
上杉が連動していないなら
何で降伏したんだ

803人間七七四年2019/03/21(木) 16:14:40.03ID:pbdCfhyc
>>802
消えろ豚

804人間七七四年2019/03/21(木) 16:21:08.68ID:5uP9ag3D
>>803
カス

805人間七七四年2019/03/21(木) 16:28:20.16ID:47HbZgqi
>>802
勝てないから。
三成が挙兵しようとしまいと、結局降伏の選択肢は不動でしょ。
それとも、一族郎党全滅するまで戦い抜くと思う?
上杉は、三成挙兵のおかげで、降伏の時期が伸びただけ。ただし、西軍本隊が優勢なら別。

806人間七七四年2019/03/21(木) 16:35:54.71ID:5uP9ag3D
>>805
最初から降伏前提ってことか?

807人間七七四年2019/03/21(木) 16:38:01.28ID:5uP9ag3D
>>805
じゃあ西軍蜂起のタイミングで
講和して有利な条件を引き出せばいいんじゃあ?

808人間七七四年2019/03/21(木) 16:40:19.98ID:47HbZgqi
>>807
そう。
要は、降伏した際の落とし所をどうするかという話。
上杉家だけで天下の兵を引き受けて勝てると夢想する様な愚かな人物ではないでしょ、景勝は。

809人間七七四年2019/03/21(木) 16:41:49.23ID:WsIatUtC
>>807
はよ死ね

810人間七七四年2019/03/21(木) 16:43:20.67ID:k5IvEHvc
>>807
アホか。景勝が家中の主戦派を抑えられないから現実見せてそいつらに諦めさせようとしていたのに、その現実の来襲が無くなった以上
主戦派の行動を抑えることは不可能だっつーの。

要は上杉景勝の家中統制が不十分という前提が有るんだよ。

811人間七七四年2019/03/21(木) 16:47:23.53ID:47HbZgqi
>>807
さっきのは、>>806へのレスでした。

で。
西軍挙兵で、戦乱長期化を見込んだわけね。
豊臣政権=東軍と和解するなんてもったいないよ。
昔の様に好き勝手出来るチャンス到来なのに。

812人間七七四年2019/03/21(木) 16:50:00.64ID:5uP9ag3D
>>809
クソ豚

813人間七七四年2019/03/21(木) 16:51:11.88ID:5uP9ag3D
>>808
じゃあ何で一戦交えなかった?

戦ったけど不可能だったならば
格好がつく

814人間七七四年2019/03/21(木) 16:56:18.99ID:Ly6VpBbG
>>813
一戦交えちゃうのは手遅れなんだよ
一度戦端を開いてしまったら許されなくなる
外交って片方の気分だけで決められるものじゃなく両者の同意で初めて成り立つ

西軍挙兵のせいで許される方向へのプロレスが崩壊してしまい、その状況で一戦交えるのは和睦できるタイミングを棒に振って攻め滅ぼされるフェイズになる

815人間七七四年2019/03/21(木) 16:58:18.02ID:5uP9ag3D
>>814
じゃあいつ降伏するつもりだった?

816人間七七四年2019/03/21(木) 17:02:58.29ID:WsIatUtC
>>815
お前には考える頭がないのか
少しは自分で考えたらどうだ
小学生だってもう少し頭使うぞ

817人間七七四年2019/03/21(木) 17:03:23.58ID:Ly6VpBbG
>>815
当初の降伏プランのこと?
それは上杉征伐軍がこっちに来るまで
天下の軍勢がこっちに迫ってます交戦すると必ず負けますという現実を主戦派に見せることで
主戦派の意思をくじいて和睦

818人間七七四年2019/03/21(木) 17:04:23.15ID:5uP9ag3D
>>816
おまえのような低能にはわからんだろう

おまえが回答してもいいんだぞ

下呂雨

819人間七七四年2019/03/21(木) 17:05:05.01ID:5uP9ag3D
>>817
こっちてどこ?

領内?

820人間七七四年2019/03/21(木) 17:06:24.49ID:Ly6VpBbG
>>819
そうだね、上杉領に迫ってるってことだね

821人間七七四年2019/03/21(木) 17:06:53.27ID:5uP9ag3D
>>820
迫ってはきていたが?

822人間七七四年2019/03/21(木) 17:11:36.53ID:Ly6VpBbG
>>821
目前まで実際に大軍勢が迫らないとわからないでしょ?
領内の主戦派は景勝たちがハッタリで軍勢が来るなんて言ってるかもしれない、なんて考えてる可能性すらあるわけで

実際に大軍勢を目にしないと意思はくじけない

823人間七七四年2019/03/21(木) 17:12:30.30ID:WsIatUtC
>>818
お前が頭足りてないから質問しまくってるんだが
薬のやり過ぎで論理的思考ができないのかな?

824人間七七四年2019/03/21(木) 17:19:31.47ID:5uP9ag3D
>>822
じゃあ領内に入ってないのに
何で降伏したんだ?

825人間七七四年2019/03/21(木) 17:26:16.80ID:xFxtdEjf
>>824
関ヶ原の後に伊達に領内侵攻されてる
上杉が戦い続けるなら最上や堀の逆襲も覚悟しないといけないし
そんな状況で徳川軍と戦って好転する見通しがない

826人間七七四年2019/03/21(木) 17:30:38.05ID:5uP9ag3D
>>823
おまえ薬のやりすぎ
>>825
伊達が領内に入ったら降伏?

827人間七七四年2019/03/21(木) 17:34:52.42ID:Ly6VpBbG
>>824
状況がめちゃくちゃ悪いことが理解できたから
伊達や最上と実際に戦って敵対してしまったうえに、西軍瓦解で味方もなし
このまま態度を変えないと今度はプロレスじゃないガチの征伐が始まる

828人間七七四年2019/03/21(木) 17:43:17.10ID:xFxtdEjf
>>826
伊達だけなら上杉の国力的に十分相手できるが
周辺の勢力と戦いながら徳川と戦って勝てる見込みがない
戦わずして降伏するのは面子が許さないがかといって滅亡するまで戦うつもりもない
対外的にも対内的にも適切な落し所があのタイミング

829人間七七四年2019/03/21(木) 17:46:46.20ID:5uP9ag3D
>>827
がちの征伐されたんだが?

プロレスだったのか?

>>828
伊達と一戦交えるぐらいやっても良かった

830人間七七四年2019/03/21(木) 18:42:12.64ID:Ly6VpBbG
>>829
一戦交えてないでしょ?だから軍事的圧迫ではあるけれど和睦できる状況ではあるんだよ
プロレスって言うのはそういう意味

そして惣無事で私闘禁止とされてるのに、中央政変が収まったあとも伊達に攻撃をするのは和睦できなくなるよ

んー、なんというかもう少しだけ基礎知識をつけてくれないとあの当時の常識部分を理解してくれてないから説明がしづらい

831人間七七四年2019/03/21(木) 18:55:04.09ID:5uP9ag3D
>>830
>>830

一戦交えないと戦争する意味がないんじゃないのか

相手が許してくれる前提ならば
城を囲まれた時点で降伏するとかね

最上を攻めちゃってるけど

832人間七七四年2019/03/21(木) 19:04:48.19ID:Ly6VpBbG
別に戦争をしろとなんて言ってない、むしろ戦争したら手遅れになる
戦争する前に軍勢を見て屈服する、というのが大事になる
相手が許してくれる前提だけど、その相手をキレさせたらアウトなんだから

最上を攻めたタイミングを考えてほしい
あの時はちょうどクーデターによって一時的に戦乱状態に戻っていた
ところが短期間でクーデターが鎮圧されたことでまた秩序だった状態に戻ったわけよ
だから上杉も関ケ原の結果を聞いた瞬間に兵を引いたわけ

で、関ケ原までの一連の戦役のタイミングで惣無事違反を問うと違反する大名が大量に出てきて罰するどころの話でなくなる、ゆえにこのタイミングでの戦闘は不問になる
でも、中央の事変が収まったにも関わらずまだ攻める、となると話は別 これは完全に罪に問われる状況となる

833人間七七四年2019/03/21(木) 19:06:20.98ID:5uP9ag3D
そうだ

西軍蜂起の時点で東軍と和睦して
西軍を攻めれば良かった

そうすれば本領安堵だったかもしれない

伊達と最上も南下できるし
家康も悩む必要がなくなる

834人間七七四年2019/03/21(木) 19:07:12.58ID:5uP9ag3D
>>832
もともと罪に問われている

835人間七七四年2019/03/21(木) 19:07:31.91ID:pbdCfhyc
>>833
それじゃ景勝ただのガイジじゃん

836人間七七四年2019/03/21(木) 19:13:34.80ID:5uP9ag3D
>>835
プロレスらしいよ

そもそもやる気はないって言ってるけどね

詫びを入れる場合行動で示さないとな

837人間七七四年2019/03/21(木) 19:21:04.86ID:Ly6VpBbG
>>834
あのね?罪にも軽重があることはわかるよね?
こいつ軽い罪あるわ、絶対潰す とはならないでしょ?
上洛に応じないっていう罪だけならまだ全力で謝って済むけど、惣無事無視で他国攻め立てるってのは言い逃れできないよ

838人間七七四年2019/03/21(木) 19:27:04.92ID:xFxtdEjf
>>833
それはできない
というのは対徳川融和派の藤田信吉を内通疑惑をかけて追放してるから
戦わずして許しを請う選択肢が取れるならそもそも信吉を追放する意味がなく
兼続景勝の主従は何がしたかったのかという問題になる(特に兼続は責任を問われる)
上杉家の面目が立つ程度には威勢がよくないといけないし
かといって相手を本気で怒らすと滅亡する
例えは悪いが今の北朝鮮みたいな状態

839人間七七四年2019/03/21(木) 19:29:19.24ID:5uP9ag3D
>>837
じゃあもうダメじゃん

840人間七七四年2019/03/21(木) 19:32:06.49ID:5uP9ag3D
>>838
実際は戦っていないで降伏

西軍蜂起を口実に
和睦または西軍を攻める

西軍攻撃で戦果を上げれば
罪も軽減される

841人間七七四年2019/03/21(木) 19:37:27.34ID:Ly6VpBbG
>>839
いやだから話聞いてたよね?
最上を攻めた時はタイミング的にまだ不問に処されるタイミングだってば
それ以降に攻めた場合はアウトって話さっきしたよね

842人間七七四年2019/03/21(木) 19:43:08.95ID:xFxtdEjf
>>840
家康と仲良くしたらって進言した藤田信吉を家康と内通しただろって追放して
追手も出して信吉の親族も殺害してるのよ景勝主従は
そこまでしといてすいませんでしたと頭下げるのは支離滅裂
兼続が腹切るくらいの事しないと収まらない

843人間七七四年2019/03/21(木) 19:47:56.88ID:tRxEhkyD
上杉の避戦派って兼続派に襲撃されて栗田は討ち死に、信吉の徒党くらいしか生き残れなかったんだよね

844人間七七四年2019/03/21(木) 19:51:23.70ID:tRxEhkyD
>>842
家康はなんで兼続の責任を問わなかったのかなあ

845人間七七四年2019/03/21(木) 20:00:39.97ID:5uP9ag3D
>>841
どういうタイミング?
何故最上攻めはおk?

>>842
惣無事令無視で重罪らしいよ
だから行動で示さないとな

846人間七七四年2019/03/21(木) 20:07:39.11ID:xFxtdEjf
>>844
両者の利害が一致したとしか言いようがないと思う
上杉はある程度戦って実力を示し
家康は戦わずして従ってくれるならそれに越したことはない
他の人の表現を借りるならプロレスが成立したって感じ

>>845
惣無事令違反してごめんなさいができるならそもそも会津征伐はおこらない
家康の出頭命令に従えばいいんだから

847人間七七四年2019/03/21(木) 20:09:16.19ID:Ly6VpBbG
>>845
最上を攻めたタイミングを考えてほしい
あの時はちょうどクーデターによって一時的に戦乱状態に戻っていた
ところが短期間でクーデターが鎮圧されたことでまた秩序だった状態に戻ったわけよ
だから上杉も関ケ原の結果を聞いた瞬間に兵を引いたわけ

で、関ケ原までの一連の戦役のタイミングで惣無事違反を問うと違反する大名が大量に出てきて罰するどころの話でなくなる、ゆえにこのタイミングでの戦闘は不問になる
でも、中央の事変が収まったにも関わらずまだ攻める、となると話は別 これは完全に罪に問われる状況となる
って書いたよね

848人間七七四年2019/03/21(木) 20:34:33.38ID:5uP9ag3D
>>846
そうだとすれば一戦交えれば良かっただが

849人間七七四年2019/03/21(木) 20:36:23.55ID:5uP9ag3D
>>847
いや蜂起があれば惣無事令を無視していい理由にはならない

あと官軍、豊臣軍は惣無事令違反は問われない

上杉征伐ができなくなる

850人間七七四年2019/03/21(木) 20:43:26.66ID:Ly6VpBbG
>>849
頼むからもう少しくらい頭を使ってくれ
無視していい理由にはならないけれど非常事態であるがゆえに、即滅亡とされるほど罪に問われるわけじゃないということね

そして豊臣方が罪に問われないのは当たり前だよ そこを指摘して何が言いたいの

851人間七七四年2019/03/21(木) 20:49:32.98ID:4VmqFBmW
上杉は奥羽越佐の、毛利は瀬戸内周辺の、それぞれ覇者を目指し、軍事行動を起こしたが、上杉の場合、最上の時間稼ぎと長谷堂抵抗という予想外のアクシデントに見舞われ、
本領と荘内直結の宿願を果たせぬまま、終戦を迎えたのであった

852人間七七四年2019/03/21(木) 20:53:19.94ID:5uP9ag3D
>>850
非常事態って何?
そもそも征伐対象なんだよ?
そんなこともわからんの?

つまり征伐対象になっていて
それが継続しているってこと

853人間七七四年2019/03/21(木) 20:54:52.81ID:5uP9ag3D
>>850
結果論だけど滅亡にはなっていない

だからといって征伐対象でないことを意味しない

854人間七七四年2019/03/21(木) 20:55:50.72ID:5uP9ag3D
>>850
反豊臣は原則有罪処理だよ

855人間七七四年2019/03/21(木) 21:09:46.41ID:Ly6VpBbG
>>852
ああ失礼、これは君の言う通りやね
クーデター鎮圧が優先されただけで征伐の布告はまだ継続されてるね
だからこそここで伊達攻めるのはそれこそアウトでしょ
ちょうど家康が大坂城に入って上杉への処罰よりやらねばいけないことがあるタイミングでしか降伏できない

これで更に罪を重ねたらそれこそ良くて改易悪くて六条河原に上杉直江主従の首が並ぶよ

856人間七七四年2019/03/21(木) 21:11:23.68ID:XQT3OOvk
>>786
>>13の三成の書状を読めば分かるとおり、西軍首脳は上杉と連絡をとる伝手がなく
真田にそれを頼んでいる、此時点では連携無し
しかし真田が手を貸したのか、上杉のもとに書状が届いたらしく、
上杉は次の返書を送っている

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