もしハワイ王国が独立維持していたら・・・? [無断転載禁止]©2ch.net

1Traveler2017/08/15(火) 23:18:51.16ID:jqYpeis2
太平洋戦争も起きていなかったかもしれない

65ゆうちょ じゃ だいちかんぎんよかな2017/09/29(金) 16:51:12.81ID:cLcb9ikA
そうだなー とうろくったけどさ はこだいとそうりょうでせんえんましなんだやめたのが

まいいや とうぶんとったらか

でもできたら いいめのwがしがなー ぶつぶつ

うん 野菜ジュース わrだかなきがする 感だけどさ ぐいぐいのむけどね

66Traveler2017/09/30(土) 09:35:08.43ID:uVm34Mw5
>>64続き

かようにカメハメハが火器武装に必死だったのも、すでに他の首長らが別の西洋船と接触し、火器で軍備を刷新していたから
である。1786〜87年にかけてカウアイ島の王カエオはかつてクックの部下だったディクソン船長と接触し、多くの火器を入手
していた。カメハメハの実父説があるカヘキリ王も、いまやマウイとオアフ両島を掌握。かれもまた、西欧人と積極的に接触
して西欧文明の利器を獲得し、山の上に輸入品用の倉庫まで建設していた。早くも1789年には、ジブ(船首の三角帆)つきで
二本マストの洋風帆装のカヌーを造っており、白人水夫をして西洋船と誤認させるほどであったという。カヘキリもまた火器
時代に入って風雲急を告げるハワイ諸島の、天下統一を狙っていたのである

ともあれ西欧文明を即座に導入するハワイ人の進取の精神は、タヒチなど他のポリネシアの島々と比べても白人の航海者に
強い印象を残したものらしく、当時の航海者の記録ではくりかえし指摘されている

なおダグラス船長は1789年7月、親友カイアナ王子から「敵対部族に、船の襲撃計画がある」と聞かされ、中国に出帆した

67Traveler2017/10/01(日) 09:20:53.02ID:li035DWp
>>66続き

さて、マウイ島の王カヘキリの勢力拡大は続き、オアフ島ばかりかカウアイ島にまで及ぶにいたっていた
これに対しカメハメハは1790年に軍を動員、マウイ島に上陸する。両軍は名勝イオア・ニードル付近で激突した
河は血潮で赤く染まるも、形勢はカメハメハに有利であった。しかしこの時、本国のハワイ島で宿敵ケオーウアが
カメハメハの領土を攻略しているとの報に接し、かれはやむなくハワイ島に帰島する

カメハメハの本隊が反攻に転じると、ケオーウア軍はあえなく退却。しかもこのとき偶然キラウエア火山が噴火し、
ケオーウア軍は溶岩流の災厄まで受けて虫の息となった。だがカメハメハがとどめを刺そうとした時、こんどは
マウイ島の軍が、ハワイ島北岸に接近しているとの急報を受ける。カメハメハは直ちに転戦し、辛うじて水際での
撃退に成功した。このとき両軍の船は、白人から得た大砲を装備している。即ち、ハワイ初の本格的な海戦だった

68Traveler2017/10/01(日) 23:32:07.24ID:l9bKvRCr
そっかー わからないこともなんていうか ろまんじゃない?

69Traveler2017/10/02(月) 10:39:22.16ID:lbEQtJR7
>>67続き

その後4年間にわたり、カメハメハとカヘキリはにらみ合いを続けることになる
ちなみに、カメハメハ艦隊の艦載砲を指揮していたのは英国人デービスとヤング。2人はカメハメハの軍事顧問でもある

彼らがカメハメハの幕下に参加したのは、偶発的事件が契機であった。1789年冬、ハワイ島のオロワルに到来したアメリカ船
2隻が住民とのトラブルのすえ銃撃で多くの住民を殺してしまい、翌年3月3日、現地の首長カメイアイモクの巧妙な作戦で迂闊
に岸に誘導された1隻が襲撃される。若い船長は海に突き落とされ、生き残った船員は一人だけだった。それがデービスである

僚船の最期を見た残る1隻の年配の船長は、すぐ出帆する。なお2隻の船の船長はともにメッカトーフといい、父子関係である
が、こちらの船からも一人だけ乗組員が残留した。それがヤングである。彼の残留が、特命によるものか脱走かは不明である
デービスとヤングは首長カメイアイモクの手中に落ちるが、首長の行動を良しとしないカメハメハが、2人を保護したのである

70Traveler2017/10/03(火) 09:27:53.98ID:mQt0GNuI
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71Traveler2017/10/03(火) 13:08:37.23ID:CL2oZZPQ
>>69続き

1791年5月、メットカーフ父子とは別のアメリカ船がハワイに来島。カメハメハとカイアナ王子は同船の船長イングラハムと
贈答の交換を行い、マスケット銃を受け取っている。しかしこの時、カメハメハが船室から辞してカイアナ王子だけが残る
瞬間があり、そのとき王子が「カウアイ島に行くなら、同行したい」と呟いたことがイングラハム船長に、強い印象を残した

「カイアナは、出身地カウアイ島の軍に合流し、カメハメハと対抗しようともくろんでいる」と、船長は看破したのである
ともあれメッカトーフ船長が襲撃された事件のことはイングラハム船長も調査して手記を残しており、その余波であろうが
カメハメハの彼に対する態度にも不自然さがみられた。イングラハム船長はカメハメハの誘いを断り、沖合にとどまった

さて。カメハメハはコハラに、神殿を造った。その名もプウコホラ・ヘイアウ。人身御供をおこなう戦争用の神殿である
その上で「講和しよう」と偽って宿敵ケオーウアをおびき寄せ、カヌーに乗って訪れた彼を、儀礼用の神聖な槍で突き殺す
時に1791年。かくてハワイ島は再統一され、新築神殿のクーカーイリモク神は、その格式にふさわしい生贄を得たのだった

72Traveler2017/10/04(水) 11:34:43.40ID:ZLwWs8WR
>>71続き。なおその前に>69、>71の誤記を訂正。「メットカーフ」と「メッカトーフ」が混じっているが、前者が正解です


1792年3月2日、英国の提督ジョージ・バンクーバーが、再統一されて日も浅いハワイ島の西海岸を来訪する

当時、カメハメハは宿敵ケオーウア亡き後の土地再分配で忙しく、東海岸に滞在中だった。そのためバンクーバー提督との
折衝には、広東帰りのカイアナ王子が当たることになる。ところが彼はこの時、英語をすっかり忘れてしまっていたという
カイアナは例によって火器の入手を試みるが、提督はこれを拒否。代わりにブドウやオレンジの苗木を贈った。なお、この
時カイアナは自らを「カメハメハと同格の王だ」と偽り、「ハワイ島六郡のうち、南の三郡は自分の国だ」と主張している

バンクーバー提督は次にオアフ島のワイキキを訪問する。折しもカヘキリ王とカエオ王が、カメハメハの侵攻に備えて躍起
になっているとの情報にも接した。続いてかれはカウアイ島に向かい、ワイメア湾に一週間ほど滞在する

このときバンクーバー提督の船には王族イムナウ並びに、カエオ王の息子カウムアリイが訪れている
カウムアリイ王子は当時12歳。30人の従卒をしたがえ、自らは鉄の剣を帯び、13丁のマスケット銃と弾薬を装備していた
弱年のカウムアリイ王子の利発さは、英国の提督を感銘させた。彼の聡明さについては、他にも複数の西欧人が記述している

バンクーバー提督は、この航海ではカメハメハに会うことなくハワイを発った。なお提督が去った直後の3月7日、英海軍の
貨物船ダエダラス号がオアフ島に上陸したところ、ハーゲスト船長をふくめて3名の乗員が殺害される事件が起きている

73Traveler2017/10/05(木) 09:36:59.33ID:v4GEMzKE
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74h2017/10/05(木) 09:38:22.61ID:v4GEMzKE
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75Traveler2017/10/05(木) 13:49:31.70ID:MPRFdXrp
>>72続き

1793年1月末、バンクーバー提督は二度目のハワイ島来訪を果たす。北西部カワイハエ湾に停泊し、カメハメハの側近に
して王族のケアモクに接触。その懇願に負けて、カメハメハ用だったヤギと羊を進呈する。提督はケアモクの村に上陸
し、回転銃などの火器が装備された軍船が建造されている光景を見た。プウコホラ・ヘイアウ神殿にも案内され、討ち
死にした敵兵の首が飾られているのを目撃した。1790年、ケオーウア軍が、カメハメハ軍によるマウイ島遠征のスキを
突いて攻撃してきた時に抗戦したのがケアモクであり、そのとき討ち取った首だとのことだった。

2月22日、タブー(物忌み)を済ませたカメハメハがやっと寵愛する王妃カアフマヌと英国人の顧問ヤングをしたがえて
来訪した。かつてクックの下士官だったバンクーバー提督は若いころのカメハメハを見たことがある。微かな記憶では
あったが、荒々しいイメージは持っていた。だが、この時の印象は激変していた。
「予想は心地よく破られた。若き日のどう猛さはやわらげられ、ふるまいは全体として開放的で快活、分別もあり寛大
さと徳がくわった」

提督に随行していた植物学者メンジ−も、「威厳にみちた振舞いが身についていた。柔和ではないが不愉快でもなく、
表情も富んでいるので、彼の同胞一般より感情が読み取れる。とぎれとぎれの会話でもすばやい理解を示すので驚いた
立ち居振る舞いは開放的で、愛想がよく自由闊達。初対面なのに、彼に惹かれていた」と激賞している

76Traveler2017/10/07(土) 16:49:23.79ID:8e32RopX
>>75続き

その後、バンクーバー提督とカメハメハの間で贈与の交換があった。カメハメハがヘルメット4つ、カヌーに満載した肥えた豚、
そして芋を贈るのにたいし、提督は雌牛5頭と羊3匹を贈る。甲板上で生まれて初めて牛を見たカメハメハは巨大な豚だと思い、
喜ぶ反面その巨大さに恐怖を隠せず、噛まれぬよう用心していた。牛が顔を自分に向けると慌てて人垣に隠れたという。群衆も
カメハメハに劣らず牛を珍しがりかつ恐れ、牛がカヌーに乗せられて上陸すると、仰天して海に飛びこんで逃げたり椰子の木や
家の屋根に登り、それでも鈴なりで見入ったという。とまれカメハメハはこの「珍獣」のため、さっそく飼育責任者を指名した

だが、この贈り物に野心家のカイアナ王子とケアモクは嫉妬した。カイアナは自分も最高の豚を用意すると申し出たが、すでに
十分な供与を受けたとしてバンクーバー提督はこれを固辞。次の機会を約してかれを宥めた。このやりとりを見たカメハメハは
不機嫌そうに沈黙していた。その後、二人の間に冷ややかな雰囲気の会話があった。カメハメハは、許可も無く持ち場を離れて
勝手にイギリス人と交渉をしたカイアナに、鋭い皮肉を述べたように見えた。しかし白人の手前もあってか、暫くして二人は
冗談をとばしあい和解したように見えた

3月3日、バンクーバーはクックが死んだ海岸から上陸。念のため重武装していた。だがカメハメハはバンクーバーが礼装したと
でも誤認したのか、さっそくバンクーバーから贈与されたガウンをまとい、自ら村を案内する。カメハメハのファッションに
群衆からどよめきが起こり、カメハメハは得意満面だった。しかし同行していたカイアナは嫉妬を隠さなかった。バンクーバー
に、声高に、なぜカメハメハばかり優遇するのかと問うた。提督はカメハメハが王であることを指摘したが、彼は不服げだった

77Traveler2017/10/08(日) 12:04:46.78ID:HJApF3Y7
>>77続き

バンクーバー提督が、カメハメハ王とそれ以外の首長の扱いに差をつけたのは、「それこそが、ハワイ安定の道だ」と考えて
いたからだった。だが当然ながら、こういう人間関係に対応するのに気苦労はつきものだったことも、書き残している
ともあれカメハメハの自尊心とカイアナ王子の野心は、すでに外国人の前でさえ取り繕えない段階に達していたのである

3月4日には150人の兵を参加させての、模擬戦の観戦があった。カメハメハ自身も参加しており、一戦士としても無双の豪勇
の持ちぬしであることを示している。夜にはバンクーバーが、返礼に西洋の砲術を派手に披露した。遠方で砲声を聞いた住民
らの間に、「カメハメハとバンクーバーの仲が決裂し、西欧人が村々を焼く」という不穏な噂が広がるしまつであった
それを見取った上でバンクーバー提督はカメハメハの英国人顧問デービスに、「この武器はカメハメハが他島の征服に使う
ためにではなく、彼の統治を安定させ、外国の侵略から国を護るため使うべきだ」と念押しした。すなわちバンクーバーの
目的は、カメハメハが他の島の主権者たちと和平をむすぶことにあったのである

だがカメハメハと率直に話し合った結果、和平の条件としてカメハメハが挙げた要求は法外だった。「カヘキリ王とカエオ王
は先の戦争で勝利したカメハメハにマウイ島とモロカイ島を割譲し、オアフ島・カウアイ島及び両島に属する小さな島々のみ
で平和に暮らせ」というものだった。バンクーバーは、「先方が受け入れられる内容ではない」と判断した。マウイ島遠征の
時にさえハワイ島内で反乱が起きた事を知っていたので、海を越えた諸島の統治はカメハメハには無理だと考えていた

78Traveler2017/10/08(日) 12:05:44.32ID:HJApF3Y7
>>77>>76の続きです。アンカーをミスりました

79Traveler2017/10/09(月) 11:01:53.37ID:4qdDZjIT
>>77続き

カメハメハとその臣下たちは、明らかにバンクーバー提督の英国艦隊を自分たちの同盟者として、彼らの覇業に参戦させる
ことを目論んでいた。故に提督の中立的な態度に失望を隠さなかった。「かつてオアフ島で起きたダエダラス号襲撃事件は
カヘキリ王の兄弟が、下手人だ。彼らを成敗してほしい」と、熱心に請願したのである。
カメハメハたちはバンクーバー艦隊とほぼ同時にハワイ諸島を訪れたダエダラス号を、バンクーバーの部下の船だと信じて
いた。復讐をけしかけて、憤慨した提督が介入することを期待した。提督が「その気はない」と拒否すると、一様に驚いた

なおこの時のカメハメハとの会見においてバンクーバーは、キリスト教への改宗をカメハメハに勧めたものらしい。だが、
カメハメハは自分たちの神々の地位の降格を感じ取り、逆提案した。「それなら提督よ。あなたと、私の司祭。この二人で
ケアラケクア湾の断崖から飛び降りてもらう。より強い神に護られた側が、生きのこるはずだ」と。さすがにこの提案には、
バンクーバー提督も閉口して拒否した。そして恥じたのか、この件について彼の手記は完全に沈黙している。然るにこの時
のやり取りは、カメハメハの英国人側近ヤングによって後続の米英の航海者たちに言いふらされ、詳細が残ってしまった

その後さらに贈答の交換があり、また前後して船員らと島民らとの雑貨交易もあったが、すでに西洋人の物品は住民にとり
珍しいものではなくなっていた。インフレは4倍から5倍に達し、モノによっては売ろうとしても投げ返される始末だった
ともあれカメハメハとの会見を終えたバンクーバー艦隊は3月7日、マウイ島に旅立った。

80Traveler2017/10/10(火) 14:34:29.06ID:K7D19Xij
>>79続き

3月12日、バンクーバー提督はマウイ島ラハイナに到着。「ハワイ島に比べ荒廃した印象」と記す。翌日、カヘキリ王が訪れた
バンクーバーはカメハメハに贈与したのと同じマントを彼に贈呈し、他の首長らにもそれぞれの地位に応じた贈与をしたが、
これに対しカヘキリは「カメハメハ軍に田畑を荒らされ家畜を殺されて、返礼もままならない」という釈明をしている

バンクーバーはカヘキリに、カメハメハとの講和を勧める。マウイ島の荒廃はカメハメハの攻撃ならびに、大軍を維持するため
の強引な食糧調達に起因すると、提督は判断していたのだ。だがカヘキリは和平を望んでもカメハメハへの不信をぬぐえず、
「軍の動員を解除すれば猛々しいカメハメハは、たちまち侵略してくる」と反論した。バンクーバーは仲介を申し出て、ヤング
宛てに講和の手紙を出す事にする。だが、後にバンクーバー三度目のハワイ訪問で判明したことだが、手紙を携えたマウイ島の
使者はハワイ島西岸に上陸するなり現地の住民に殺害され、使命を果たせなかった。ハワイ島民はマウイ島の使者を、「神殿の
人身御供を盗みに来たのだ」と誤解したのである。

またバンクーバーは、「ダエダラス号襲撃事件」の犯人の処罰も求めた。これに対しカヘキリは、すでに首謀者のうち3人を
罰していること、残りも罰するので、弟のカモホモホをオアフ島まで同行させるむね宣言した。
なお植物学者メンジーはカヘキリの息子の同伴でラハイナ内陸を調査した際、田畑がよく耕作されていることを確認しており、
マウイ島の戦災の規模については、誇張がある可能性もある

81Traveler2017/10/11(水) 13:32:00.82ID:VXVac+ou
>>80続き

この時、珍事も起きている。マウイ島滞在最後の日、カヘキリ王があいさつもろくにせず、慌てて下船したのだ。バンクーバーは
自分に落ち度があったかと案じたが、最後まで船に残ったカエオから「カヘキリは礼儀を知らない人物だ」と説明を受けたという
しかしバンクーバーに批判的な植物学者メンジ−によれば、ニイハウ島から来訪した女性にバンクーバーが贈与したリボンが紛失
したことが、事件の発端なのだという。「ハワイ人の誰かが盗んだに違いない」と決めつけたバンクーバーが威嚇的な態度に出た
ため、驚いた首長らはカヌーで去ってしまい、カヘキリ王もあわててキャビンから飛び出し逃げたのだという
メンジ−は、「取るに足らない事で騒いで、マウイ王族との平穏な友好関係が終わってしまった」と書き残している

そこでバンクーバーはカヘキリ王に山羊を贈り火器演習を披露して、アメと鞭で懐柔したあとカモホモホを乗せてオアフ島に向う
ワイキキでは、3人の男がダエダラス号の乗員殺害のかどで連行されてきた。「下手人は、全身に入れ墨をしていた」という目撃
情報どおり身体の半分に入れ墨があったものの、カヘキリ王の部下はどれも似たり寄ったりだったから決め手とはいえない
ともあれ3人は、カヌーでバンクーバー提督の乗船ディスカバリー号の脇に連れてこられ、首長のピストルで脳天を撃ち抜かれた
この死刑執行についてはバンクーバー提督も確信が持てなかったが、提督に辛辣な下士官ヒューイットは、「罪状に関しては彼ら
は無実だと、後で聞かされた」と書き残している。タブーを破ったかどでの別件逮捕での処刑を、白人を宥めるために流用したと
いうのだ。もちろんバンクーバー提督は、その件についても沈黙している

同じころ、カウアイ島で首長イナムーの圧政にたいする反乱が起きている。イナムーは島に住んでいた白人にけしかけられて独立
をはかり、外国船にたいする海賊行為を働いていたのである。反乱そのものはその白人に鎮圧されてしまうのだが、カヘキリ王は
老骨に鞭打ち、ブラウン船長の船バターウォースでカウアイ島に向い、イナムーを説得。イナムーが服従を誓い、一件落着した。

82Traveler2017/10/12(木) 14:18:35.71ID:lgvbtgJx
>>81続き

さて。バンクーバー二度目のハワイ訪問はカウアイ島の探査を持って締めくくられるが、植物学者メンジ−がまじめに
探査しているあいだ、乗組員マンビーとウィットニーという者たちは村の調査がてら、カヘキリ王の義兄弟である首長
の歓待を受け、あげく美女接待まで受けていた。マンビーは「夜明けが来るのが名残惜しかった」と、書き残している

1794年1月9日、バンクーバー三度目のハワイ訪問。ハワイ島ヒロに到着するも、折しもカメハメハは祭事の主催をして
いる最中のこととて、かれを外交交渉の席に引き出すのに難航する。バンクーバー提督は、「交渉をしないなら、船に
積んでいる武器や家畜は、カメハメハの宿敵マウイ島の王に渡す」と脅迫したと、下士官ベルは伝えている。やむなく
カメハメハは、祭事を短縮してバンクーバーと会見。然るにその席に、カメハメハの愛妻カアフマヌの姿は無かった
なんと当時の彼女には、カイアナ王子との不倫嫌疑がかけられていたのである

当時、カメハメハは西洋人水夫ボイドに指揮させてハワイ初の竜骨船を建造中であったが、竜骨の製造に難渋していた
しかるにバンクーバーの船大工も助力し、ついに長さ10メートル強で幅3メートル弱の竜骨船ブリタニア号が進水する
バンクーバーは板の間に詰める麻クズ(まいはだ)・マスト・帆ならびに大工道具も贈与した。一方ハワイ人らも既に
イルカ肉を煮て油脂を採り、それを船体に塗るという西洋式の工夫を、すでに会得していたという

83Traveler2017/10/13(金) 06:14:01.26ID:RExxbA7r
アロハー

84Traveler2017/10/13(金) 13:58:54.78ID:CcB6zXXW
>>82続き

2月15日、バンクーバーはカメハメハと妻カアフマヌの和解を取り持った。カアフマヌの父ケアモクはマウイ島の有力者である
ことから、「この夫婦の不仲は、ハワイの平和を乱す」と判断したのだ。カアフマヌがしぶしぶ船に乗ってカメハメハの所に
来ると、バンクーバーは彼女の手を取りカメハメハと握手させた。ハワイ人には物慣れぬ儀礼ではあったが、「かくして夫妻
の仲は回復し、二人は感動の涙で抱き合った」と、バンクーバーは自画自賛している

2月19日、カメハメハはじめ酒を知らないハワイ王族らは、バンクーバーの船に招かれ洋酒(ワイン・ラム)をご馳走になる
結果、限度知らずに鯨飲して醜態を演じる者が続出した。そんな中カメハメハは生来アルコールに強いのか限度をわきまえて
いるのか、羽目を外すことは無かった。

その席に、かつてメットカーフ船長のアメリカ船を襲撃したカメイアイモクも参加した。彼は過去の西洋船への攻撃を弁明し
バンクーバーの許しを得ると、宴席に参加した。お尋ね者だった彼は西洋人とのつきあいが無いこともあり、粗野に見えた
初めてのワインでたちまち酩酊してしまい、おつきの者が「すわ毒殺!」と鉄串で作った手製の短剣に手をかけ、カメハメハ
が説明して事なきを得る一幕もあった。その間、バンクーバーは生きた心地がしなかったという

その後も弾薬箱の盗難(&返還)事件だの、贈与した家畜の養育・消費方法へのアドバイスといったエピソードが連続するが
この間、船上に招かれた王族の間で「英国に服属する」方針については、意見が一致した。方針は一枚岩ではなかったものの
ハワイ島の宿敵マウイ島にたいし安保上、優位に立つことが主目的だった。また、海外渡航経験をもつカイアナ王子からは、
バンクーバーの部下をハワイ島に残すよう要求された。おなじ英語圏の米国をはじめ他の白人国が来た時、ハワイを守る英国
の軍と、区別する為である

85Traveler2017/10/14(土) 10:55:28.81ID:KpxdCUdL

86Traveler2017/10/14(土) 15:37:24.07ID:pel0pFUz
>>84続き

さて。カメハメハ一行はバンクーバー提督の船でハワイ島西岸を北上する途上、食事に牛肉と羊肉を供された。初めて口にする
種類の肉にどんな反応を示すか、提督は試してみたかったのである。牛肉は塩漬けだった。にも関わらずほぼ全員が「豚肉より
美味しい」と言った。羊肉の方もカメハメハを含めて多くのハワイ人が、「犬肉に似ているが、犬より美味」という反応だった

3月1日が、カメハメハとバンクーバー提督の別離の日となる。バンクーバーによれば無難な別れだったが、例によって批判的な
植物学者メンジーの「暴露」によれば、カメハメハはバンクーバーに赤い布を所望するも断られてしまい、提督の吝嗇に立腹。
あげく他の船に乗っていた王族にも呼びかけて、一斉に西洋船から降りてしまったのだという。因みにカメハメハは、赤い布で
フンドシを作るつもりだった。何となれば赤フンドシは、王族は最も尊ぶものだからである。ともあれバンクーバーは翌3月2日
に出帆。マウイ島・オアフ島を経て、カウアイ島に寄港。カウムアリイ王とも会見して羊を贈り、英国に帰還した

87Traveler2017/10/15(日) 11:52:11.04ID:R0N+kolS
>>86続き

バンクーバー提督が出立するのと入れ替わるように、カヘキリと弟のカウアイ王カエオの連合水軍がハワイ島を急襲した
しかしカメハメハは、最新鋭の火砲搭載軍船ブリタニア号を先頭に応戦。北東部のハマクア海岸沖で、これを撃退する
余勢をかってカメハメハは、カヘキリに宣戦布告の使者を送る。だがカヘキリは、最大の宿敵であり息子でもある(と噂
される)カメハメハの台頭を予想してか、「俺はもう、老い先が短い。俺の身を黒いタパ(樹皮布)が覆うまで待て」と
暫しの停戦を、懇願したという。
はたしてその直後の1794年7月、カヘキリ王はワイキキで死んだ。その遺骨はハワイ島西岸に、秘密裡に葬られた

カヘキリの死後、息子のカラニクプレが継承する。いっぽうカウアイ王カエオは、マウイ島をも統括していた。カエオは
カウアイ島の混乱を鎮めるためマウイから出発、途中でオアフ島ワイマナロに上陸する。しかし、これを侵略と誤解した
カラニクプレ軍との間に、戦闘が勃発してしまう
それでもカエオとカラニクプレは叔父・甥の関係でもあり、カラニクプレが現地に到着すると和平が結ばれた。ところが
カエオがカウアイ島にむかうべく船団を進発させて間もなく、「カラニクプレが自軍内に、陰謀を企てている」との噂が
耳に入る。ならばとカエオはオアフ島に再上陸、カラニクプレとの決戦に臨んだ。軍の士気は高くオアフ島の近隣住民も
彼に加勢した。当初の形勢はカエオ王に有利であり、緒戦を圧勝で飾る。しかしここで、運命の女神がいたずらした

意気上がるカエオ軍の前に、西洋帆船の威容が立ちはだかったのである

88Traveler2017/10/16(月) 13:50:20.96ID:JakuaIt7
>>87続き

戦場に現れた西洋船ジャッカル号の主はイギリス人ブラウン。この時期、彼のほかにも2隻の西洋船がホノルルに寄港していた
カラニクプレはブラウン船長から武器を買い占め、かれを味方につけることに成功していた。初戦勝利の余勢をかって進撃する
カエオ軍はカラニクプレ軍の火器と西洋船の砲撃にひるみ、持久戦に持ちこまれる。そして12月12日、カラウオアの戦いで決着
はついた。カラニクプレが勝利し、誇り高きカエオ王は戦場で討ち死にしたのである

勝利の立役者となったブラウン船長は、カラニクプレの厚遇を受けた。だが1795年元旦、海岸で新年の祝いを楽しんでいたブラ
ウン一行を、突如として島民らが襲撃してきたのである。ブラウンらは殺され、かれの船ジャッカル号とその僚船は乗っ取られ
た。首謀者は、カラニクプレその人であった。
カラニクプレは生きのこった船員らを脅迫し、ハワイ島のカメハメハ急襲に協力するよう強要する。しかし夜半になると船員ら
は反乱を起こして船を奪還、王と王妃らを船室に幽閉する。夜明けになると曳航していたカヌーに彼らを乗せて、岸に戻した
その後、船員たちはハワイ島等で食料を調達して中国へと船出するが、そのおりカメハメハに会い、事の次第を告げたのである

カメハメハは、ただちに軍を動員する。かくしてここに、ハワイ史上最大の作戦が始まったのである

89Traveler2017/10/17(火) 17:37:00.45ID:d+CeQgFi
>>88続き

1795年2月、カメハメハ軍はラハイナに上陸。その大軍の威容を前に、守備隊長コアラウカネは戦わずしてオアフ島に逃亡する
カメハメハ軍は、モロカイ島南岸のカウナカカイ海岸に上陸。このとき彼のカヌー船団は、6キロにわたり海岸を覆ったという
この海岸でカメハメハは、最大の敵カラニクプレがいるオアフ島を攻略するための軍議を開く。だがその席に、広東帰りの王子
カイアナは招かれなかった。旭日昇天のカメハメハを嫉視するかれはすでに第一線からも外されており、身の危険を感じていた
オアフ進軍の途上、カイアナと弟ナヒオレアはひそかに軍列を離れ、オアフ島に上陸。ヌウアヌ渓谷でカメハメハを待ち受ける
カラニクプレの傘下にはせ参じた

カメハメハ軍はワイアラエ湾に上陸、ヌウアヌ渓谷でオアフ軍と激突する。当初は善戦したオアフ軍だったが、カイアナが砲撃
で倒されると後退を余儀なくされ、パリの断崖から突き落とされて壊滅した。カラニクプレはコオラウ山脈の中を数か月も逃亡
したが、洞窟に潜伏している所を捕まり、軍神に人身御供された。弟のコアラウカネはカウアイ島へと落ち延びた
残るはカウアイ島である。そんな折、1796年にブロートン船長のプロビデンス号がワイキキに停泊した。早速カメハメハは武器
と弾薬を所望したが、ブロートンは固辞する。かれは戦争直後の荒廃に驚き、手記を残している。さらに船長は、カウアイ島の
侵攻を断念するよう説いたが、カメハメハは「掌握できるものは全て獲得すること以外、考えない人物だ」と、評している

1796年、満を持してカメハメハはカウアイ島に出兵する。遠島への遠征ゆえ星を見ながらの伝統航法を用いるべく、夜間の出陣
であった。しかし途中で嵐に遭い、命からがらオアフ島に舞い戻る。ブロートン船長によれば出陣にあたり、カメハメハは全て
の豚を殺させたという。おそらく自分が不在のとき、反乱が起こることを危惧したのであろう

90Traveler2017/10/18(水) 12:14:50.68ID:V5i5JsK5
西欧人の平和希求は、ハワイの指導層には有難迷惑だっただろう

ハワイの統一事業が促進したのは白人の文明が流入すればこそ
「欧米の介入が強まる前に強力な統一王権を」という意識は、カメハメハほかの首長
たちも共有していただろう

91Traveler2017/10/18(水) 21:35:08.37ID:cqO8qYF7
>>89続き

期せずして起きたモラトリアムな状況の中、今度はカイアナの弟ナマケハが、ハワイ島で反乱を起こす。かつての王ケオーウアの
残党もこれに加勢する。カメハメハはハワイ島への移動のため、ブロートン船長の船を利用すべく依頼するも拒否され、やむなく
自分の水軍で渡海して反乱を鎮圧した。これが事実上、カメハメハの覇業における最後の戦闘となった。


翌1797年、カメハメハに嫡男リホリホ(カメハメハ2世)がうまれる。1801年、ハワイ島キラウエアのカウプレラ火山が大噴火。
「女神ペレの祟りだ」というので司祭は人身御供を捧げ、豚を溶岩に投げこんだが効き目は無かった。最後にカメハメハが己の
頭髪を投げこむと噴火が収まったと、伝説は語っている。翌年カメハメハは、マウイ島にハワイ初のレンガ造りの城館を建てた
このラハイナの新館で王子リホリホのお披露目も実施される。その後カメハメハはオアフ島ホノルルに動座し、賓客を引見した

92Traveler2017/10/19(木) 13:54:34.47ID:XJvlvYSZ
>>91続き。なお、その前に>91の訂正。「カウプレラ火山」は誤植。正しくは「カウプレフ火山」です

1802年。英国のターンブル船長はカウアイ島のカウムアリイ王に謁見した。ターンブルはカメハメハよりもカウムアリイ王の
方に好意を覚えた。カウムリアイは非常に聡明で英語もマスターしており、会話は楽しくて為にもなった。機知に富むと同時
に茶目っ気もあった。あるときターンブルの船で沖合に出たとき時化に遭うのだが、無事だったにもかかわらずターンブルや
おつきの従者らと口裏を合わせ、臣下の忠誠を試すいたずらをした。島に戻ったおりわざと船室に隠れて、岸で待つ臣下たち
に「カウムアリイ王は嵐で流され、あげくカメハメハの捕虜になった」と、いつわりの情報を流したのである

「正直な臣下たちは嘆き驚いた。こびへつらいではない、真摯な愛情と忠誠心の発露であった。我慢できなくなった王が臣下
の前に姿を現すと、嘆きは喜びに変わった」と、ターンブルはカウムアリイの人望ぶりに感嘆している。なおカウムアリイ王
はカメハメハ没後、その最愛の妻カアフマヌと再婚したことで有名な人物でもある

ともあれこの逸話自体、カウムアリイ王とその臣民らにおけるカメハメハの脅威を、裏付けるものではある。カウムアリイは
西洋式の船を新造し、新天地に脱出することを真剣に検討していた。ターンブルはカウムアリイの人物に傾倒し、カメハメハ
の絶大な軍事力の前でかれの勢力が風前の灯火であることを嘆いた。「野心家カメハメハが覇を唱えたのもバンクーバー提督
の助力あってこそだが、これは提督の誤りであった。しかし今となってはこれも神意のさだめ、是非も無し」と慨嘆している

その後、ターンブルはホノルルでカメハメハの居館をも訪れている。かれの宮殿は西欧式のレンガ造りで、窓にはガラス板が
はめこまれ室内にはありとらゆる欧米の調度品がそろえられていたという

93Traveler2017/10/20(金) 17:47:05.69ID:xalhCVbi
>>92続き。その前に>92の訂正。本文2行目に「カウムリアイ」とありますが、これは勿論、「カウムアリイ」が正解

1803年5月、アメリカ人クリーブランド船長が来訪。初めてハワイに馬をもたらす。クリーブランドはケアラケクア湾に
馬を初上陸させて乗馬を披露したさいの情景を、手記に残している。
「船員が馬に乗ってギャロップ(全力疾走)させると住民から歓声があがった。恐れと驚きが半々の顔で馬を見る群衆
の中に、カメハメハも居た。カメハメハは馬の有用性を理解できず『人間より早く移動できるが、餌代には値しない』
と、感じていたようだ」
そのせいか馬との交換で得られた食糧も予想外に少なく、クリーブランド船長は失望した旨を書き残している

ポリネシア文化にも、食用家畜(鶏・犬・豚)は存在した。ゆえに牛や山羊や羊は、彼らにも珍重された。だが乗用や
荷役、農耕などで畜力を利用するのはオーバー・テクノロジーであり、珍しがられこそすれ利便性は実感できなかった
ようである。ただし後にはカメハメハも馬の有用性を認めたのか、乗馬をマスターしている

ともあれカメハメハは諸島統一のため、海軍力の充実に余念がなかった。25〜50トンの西洋式軍船20隻を進水させて、
カウアイ島攻略に備えていたのである。これらの軍船のいくつかは、船底に銅板を張るという贅沢な補強がされていた

94Traveler(錦川鉄道)2017/10/20(金) 20:09:22.09ID:83hVANLM
age

95Traveler2017/10/21(土) 16:36:03.76ID:F6RQg8K/
>>93続き

1804年、カメハメハは中古の2本マスト西洋船を購入、中国との白檀交易に使う。なお、この時期にコレラが流行。カメハメハも感染したが
回復した。ただしカラニモク以外の、多くの王族が死去している。またこの年、ロシア船が2隻到来した。即ちネヴァ号とナデスダ号である
ネヴァ号のリジアンスキーはカメハメハと謁見し、さらにその後、カウアイ島でカウムアリイ王にも謁見した。リジアンスキーは「ハワイ島
で疫病が猛威を振るい、そのためカメハメハはカウアイ島への遠征を断念した」むね、報告した。カウムアリイ王はこれに大喜びしたという

ちなみにもう一方のナデスダ号には、救助された日本人漂流民が乗っていた。仙台伊達藩の水夫4人である。なお代表格の津太夫が帰国後に
口述した調書の写本が、石巻地方の郷土史料に残っている。一部を引用すると「酷暑の国で、眺めはマルケサスと変わらない。寄港の目的は
いつも同じで、とくに水の補充が一番である。上陸した太十郎によれば土着の人は自生の芋を主食とするが、耕作は知らないようだ」との由
邦人のハワイ来訪が信頼に足る文書記録で裏付けられた例としては、これが最古である。ときに1804年 5月。黒船来航の49年前のことである

1807年、カメハメハの聖なる妻にして王子リホリホ(カメハメハ2世)の実母ケオプオラニが、重病に陥る。「タブーのココヤシを食べた者
がいる」とのお告げにもとづき、三人の男がダイヤモンドヘッド付近のヘイアウで人身御供とされた(なおケオプオラニの没年は、1823年)
ともあれカメハメハは、カウアイ島のカウムアリイ王を攻めあぐねた。両者は水面下で条件をすり合わせ、白人の白檀交易者ウィンドシップ
の進言も容れて1810年、遂に和平が成立する。カウムアリイは従兄弟カマハロラニを使者に立て、カメハメハをハワイ全土の王として承認。
臣下として納税義務を負いリホリホを後継者と認める代わりに、身の安全とカウアイ終身王の地位を約束された。だがオアフ島でカメハメハ
に謁見したかれを毒殺しようとする動きが、カメハメハ麾下の首長たちの間に起きていた。このときカウムアリイ王を危急から救ったのが、
カメハメハの古株の白人側近デービスである。カウムアリイはデービスの忠言に従い、謀殺が仕組まれた宴会を欠席。ぶじカウアイ島に戻る

だがこの一件で、デービス自身が恨みを買ってしまう。かれは事件直後の1810年 4月に急死してしまうが、毒殺であるのは、ほぼ確実である

96Traveler2017/10/21(土) 20:36:00.58ID:6Kr0iZnx
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97名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2017/10/22(日) 18:10:47.21ID:q3OeWpWP
>>95続き

かくしてカメハメハの覇業は完成した。カメハメハの伝記を書いたハーバード・ゴーワンはカメハメハを「太平洋のナポレオン」と
呼んだが、その統一事業は苦難にみちたものであった。当初においては百戦錬磨のマウイ王カヘキリこそが統一戦争で頭一つ抜きん
出ており、マウイ島を攻略しようとしたカメハメハに苦杯を舐めさせたことを、忘れてはならない。一時期はカヘキリとその親族で
あるカエオが並び立ち、カメハメハに立ちふさがっていた。この三国鼎立の形勢において、カヘキリが天下統一の最右翼だったのだ

オアフ島を平らげた時点で大勢は決したとはいえ。総仕上げとなるカウアイ島の併合にしても、二度の攻撃失敗のあげく外交交渉に
よって、ようやく成り立ったことである。けわしい道のりだったというほかなく、後の日系移民にはカメハメハを曹操や徳川家康に
なぞらえて評する人もいる。ただし日系移民の仏教団体(西本願寺)が編纂した「布哇開教誌要」はもう少し冷ややかである。同書
によればカメハメハの統一もしょせん「西力東漸の時代」と評し、「故にカメハメハの統一といふと難、実は西力の統一のみ。西人
と西人の利器とが、カメハメハの名に於いて布哇八島を征服したるのみ」と、やや辛辣ながら時代背景の実相もまじえて評している

98Traveler2017/10/23(月) 17:08:20.61ID:0nL1Dbjp
>>97続き

さて。安定期のカメハメハ政権について、もう少し記述する
19世紀初頭になると、>95のネヴァ号・ナデスダ号を皮切りに、英米に後れを取ったロシア船が盛んに到来していた
その頃はすでに鉄器が社会に浸透しており、かつては何にも増して渇望されていた鉄製品の価格も、暴落していた。斧
一本で買えるのは子豚にすぎず、カメハメハは交換単位として鉄の棒を得るよう、配下に支持する。すでにハワイ住民
は西欧人から鍛冶技術を習得し、自ら必要な鉄製品を加工できるようになっていた。それに伴い鉄の棒が一種の通貨を
兼ねたといえる。だが鉄の棒も暴落の一途をたどり、代わりに機織りのない島で、染めた布地の需要が高まっていった

カメハメハ治世下のハワイに長期滞在し、当時のハワイを詳述した西欧人は何人かいる。カメハメハの側近としてその
覇業を手伝ったヤングとデービスは惜しくも記録を残さなかったが、王室の内情を細かく観察した英国人キャンベルの
記録は、白眉の文献史料とされる。1787年、グラスゴー生まれの水夫で、カムチャツカ付近で難破し漂流中、ロシア船
ネヴァ号に救われた。凍傷で両足を失ったものの明晰な頭脳の持ち主で、英語通訳として重用されたのである。1809年
ハワイ来訪。カメハメハと妻カアフマヌと一年ほど寝食を共にし、貴重な王室の内情を記録する。かれは最初、王の船
の帆の検査・修理を任されてハワイ人に惜しみなく技術を伝え、また彼らの技能を賞賛した。だがハワイに居る白人ら
は技術の独占を望んだので、彼らとは軋轢があったという。とまれキャンベルは「カアフマヌ妃の同情を受け、彼女の
家に滞在した。白人と暮らすのはハワイの貴顕のステイタスだった」と記している。彼が障碍者ゆえ許されたのだろう

99Traveler2017/10/23(月) 20:40:24.23ID:xmzaw4mM
うーん かれーうどんかな なべやきとか さむそうじゃんね そとでやrんでしょ?

100Traveler2017/10/24(火) 11:31:01.87ID:6QwHEKIH
>>99続き。その前に>99の訂正。本文4行目の「配下に支持する」は、「配下に指示する」が正しい

キャンベルはカアフマヌ女王を含めたハワイの女性たちが、タブーを密かに破って生活を楽しむ姿をこう描いている

「彼女らはしばしばタブーの期間中、夜陰に乗じて船に泳いで行く。豚やサメといった禁断のご馳走を食べる。もし見つかったら
どうなるのか、私は知らない。一度、女王が禁を侵すのを見て固く口止めされたこともある。彼女は『命懸けでもやりたいこと』
なのだと言う……首長たちは、来訪者(白人)が自分の妻たちと関係するのを『友好関係の証拠』とみなして歓迎するが、彼女ら
が配下の住民たちとも不貞を働いている点は、大いに妬んでいる。しかしカメハメハの妻たちの美徳は厳しく守られており、彼女
たち付きの召使の男女は、不貞の監視役も兼ねている。もし不貞を見つけたとき直ちに報告しなければ、その召使は死罪になる」

キャンベルはカメハメハの、伝統的な王権にもとづく呪術的権威についても書き残している。カメハメハが通りかかる時やかれに
謁見するとき、臣民は頭と肩に着けたものを脱がねばならなかった。王が足を踏み入れた家はタブー化し、以後は立入禁止となる
キャンベルがデービスに雇われて、彼の家で王の船のオールを作っていた時のこと。家の外にデービスが居るのに気づいた彼は、
「屋内に来て、仕事の進捗ぶりを確認してほしい」と頼んだ。デービスはそれを拒み、キャンベルが王権のタブーを忘れている事
と、それが恐るべき事態を招来することを強くいましめ、オールが完成するまで戸外でひたすら座って、待ち続けていたのである

またキャンベルによればカメハメハが痰壺に吐いた痰や排泄物は呪いをかけられぬよう、一つ残らず海底に沈められていたという

101Traveler2017/10/24(火) 11:31:59.85ID:6QwHEKIH
>>100>>98の続きです。アンカーをミスりました

102Traveler2017/10/25(水) 16:48:17.16ID:s0KtPoqg
>>100続き


加えてカメハメハは、神殿での儀礼も注意深く欠かさない人物だった。ただしまるっきり超越した存在でもなかった。キャンベル
は王がしばしば、タロ畑で額に汗して働く姿を目にしている。「臣下に勤勉のお手本を見せたかったのかどうかは不明だが、もと
もと島の人々は明らかに勤勉であるから、お手本ならば無用であろう」と、かれは記している。1810年3月3日、寄港した捕鯨船に
乗って帰国の途に就いたキャンベルは、カメハメハから英国のジョージ王への親書を託されそうになるが、一介の船員の身分ゆえ
辞退した。無文字社会の独裁王にとって臣民は全て家政の使用人であり、高度な行政システムに君臨する君主は想像の外であった

さて、ここで話題を変えてハワイの酒について。西欧人がもたらす酒の味をおぼえたカメハメハは、西欧人に命じサトウキビから
ラム酒を作らせた。生来かれは節度のある飲み方を心得ていたが、かれの妻や臣下とその妻女らは自制心に欠けていた。泥酔した
妻たちの口論は、男たちにとっては楽しい見世物だった。キャンベルによればカメハメハも強い酒で泥酔したことが一度だけあり
以来、深酒の悪影響を学んだという。1813年には、ハワイ人は蒸留酒の製造法を習得していた。鉄の鍋や壺で煮沸して得た酒精の
蒸気を、底を切って封泥で幾重にもつなげた瓢箪の殻で受け、中をくり抜いたココヤシの幹を管にして銅製の濃縮器(円錐型で、
内側に酒を通す輪がある)まで運び、錫の器に受ける装置を自前で製造し、西欧人を驚嘆させている。ほとんどの首長がこの装置
を私有していたが、この装置で得られるルミ(地酒のラム酒)は貴重品だった。民衆はサツマイモで薄いどぶろくを作るか、或い
は西欧人がティというユリ科の食用薬草の葉からビールを試作したのを見様見真似して、間に合わせていたという

103Traveler2017/10/26(木) 11:20:54.10ID:CDGEgEUa
>>102続き

さて、キャンベルのカメハメハ評を、もう少し付け加えよう。彼によれば王は1809年の時点で、50歳くらいに見えたという
がっしりした体格で他のハワイ人より色黒、前歯は2本欠けていた。ふるまいは温和で丁寧、人と別れるとき本気の涙を見せる
人情家だった。征服者でありながら臣下の人気は絶大だったが、それはカメハメハが至高の権力を得たことにより休息と繁栄が
到来したからである。商取引への理解も深く、西欧人からは「やりすぎ」と悪評が立ったが、不当な利益は貪らず、正直で高潔
だとキャンベルは評している。しかし英国王と「同じような生活ぶりか」を気にしており、西欧人の客に繰り返し尋ねたという

1813年8月11日、ケオプオラニに次男カウイケアオウリが誕生。のちのカメハメハ三世である

だが、ハワイにもついに帝国主義の危機が到来する。ロシアのアラスカ知事バラノフがハワイ植民地化を模索し、ドイツ人医師
シェーファーをカウアイ島に送ったのである。彼はカウアイ島のカウムアリイを説得してハナレイ渓谷を割譲させ、要塞建築に
乗り出した。かくして1814年、ロシア国旗がたなびく要塞が完成。ホノルルにもロシア国旗がたなびく煉瓦の洋館が建てられた
危機を察したヤングら英国人の進言もあり、カメハメハとカラニモクはホノルルに大軍を派して牽制、ホノルル要塞を建設する
さらにカメハメハはカウムアリイに、シェーファー以下ロシア人を追放せよと命ずる。シェーファーは弁明に奔走したが、追放
された。1816年11月24日、ロシアのコッビュー船長がカメハメハを訪問。シェーファーの件に露帝は関知していないと弁明した

104Traveler2017/10/27(金) 12:40:43.86ID:d5aIKFZG
>>103続き

さて。その治世において西欧文明導入に腐心し、英国の保護下に属したカメハメハではあるが、1819年にカムチャッカ号で
訪れたロシア人ゴロヴニンによると、バンクーバーが自画自賛するほどカメハメハは保護領の立場を好んだわけでもなく、
とりわけ「サンドウィッチ諸島」という命名を嫌って国内での使用を禁じていたという。バンクーバーから与えられた英国
国旗を意味も知らずに掲揚していたが、英米戦争のおりアメリカ人の船長に「英国領なら占領するぞ」とからかわれ、国旗
の意味を理解。「俺をバカだと思うな。俺は色んな国旗をもっているんだ。英国がダメだと思えば別のを掲揚するまでだ」
と真剣な態度で冗談に応じ、英国人に依頼して独自の国旗を制定した。これが現在も使用されている、ハワイ州州旗である

カメハメハは終生、キリスト教の布教を許さなかった。バンクーバー提督に「汝の神の力が本物なら汝、崖から飛び降りて
それを証明せよ」と無茶ぶりした逸話はすでに紹介したが、その後も何度か、似たような発言をしているという。ロシア船
で当時のハワイに来訪したドイツ系フランス人の文豪アーデルベルト・フォン・シャミッソーは1816年に、こう書いている
「キリスト教の導入は、現今のあらゆる秩序の破壊に終わるであろう。今や意識の高いカメハメハに率いられ、知識と経験
をもつ西洋人の補佐もある。ハワイ人が知っていることを、今こそ文字で記録する時だ」

しかし西洋人と交流しているハワイにおいて、宣教師が地歩を固める流れは必然であり不可避だった。1818年、カメハメハ
は宣教師に住居を与え賛美歌を歌う事や洗礼を容認。翌年8月、フランス軍艦のフレシネ艦長がハワイ要人と会談。王太子
リホリホを盟友イギリスと共に補佐するむね、約束。そのあと宰相カラニモクとその弟ボキに、カトリックの洗礼を施した

105Traveler2017/10/28(土) 20:03:12.60ID:hnZwBRfo
>>104続き

一代の風雲児カメハメハ大王が波乱の生涯を閉じたのは1819年5月8日のことである。かれが病床に伏せたとき、病気快癒を願った
司祭らが人身御供を提案すると、カメハメハは「人々は王(後継者リホリホのこと)に属す」といって、人民はすでに二世の臣民
であるとし、その生命を奪うことを禁じた。カメハメハの最期の言葉は「汝、正しい道を進むべし」であったといわれる。長年、
かれの側近として仕えてきたヤングは、大王の手を取り接吻した。司祭は豚を供儀してカメハメハが神界に辿り着けるよう祈った

カメハメハ大王の遺骨の行方は、いまもなお明らかになっていない。埋葬場所の公表は死に値する不遜行為と見なされ、関係者が
全員、口を閉ざしたからである。首長の埋葬に関する古来からのしきたりどおり、無数にあるハワイ島の溶岩洞窟のどれかに安置
されたとする説が有力だが、半世紀後にハワイ王朝7代目のカラカウア国王が累代王墓の建立を思いついた時には既に、偉大なる
高祖の遺骨の所在は不明になっていた。捜索の結果、墓守の一人が現代のコナ空港近くの、カロコ地区の溶岩砂漠から遺骨を発見
したものの。この捜索に関係した者が変死した等の怪談が、多く残されている。しかもこの遺骨、後世の鑑定により若い男性の骨
と女性の骨が混ざったもので、70代で死んだ大王の遺骨に非ずと判明した。現在ホノルルにある王墓に、カメハメハの名は無い

106Traveler2017/10/29(日) 14:42:59.58ID:IxC7BstV
>>105続き

カメハメハの死後、王太子リホリホは10日ほどの服喪を終えてコナの王宮で即位。カメハメハ二世となる。しかしこの時、彼の実母である
ケオプオラニおよびカメハメハ最愛の妻カアフマヌの二大巨頭を含む王族の女性らは、おりしも米国から来た宣教師夫妻と接触していた影響
からか、男尊女卑社会における「男女は食卓の席を別にせよ」というタブーの打破を目論んでいた。しかし王族の保守層は、タブーの遵守を
望んだ。板挟みになったリホリホは王宮を去ったが、追って来たカアフマヌの説得に遭い、やけになって側近と共に船で沖合に逃げ、2日間
も泥酔する。だがカアフマヌはカヌーを遣わした。観念したリホリホは、王宮の饗宴に参加する。外国人も交えた席ではあったが男女は別席
だった。意を決した王は、ヤングに命じて豚と鶏を切り分けさせ、王女の隣に座って旺盛な食欲で食べ始め、他の者にも男女同席を要請した

恐れ驚き、凝視していた原住民らは、王が死なないのを見て「アイ・カプ(食事のタブー)は破られた!」と叫んだ。「混乱を極めた食事の
後、王は命令を発した。全ての偶像を倒すべし、神殿を破壊すべし、司祭の権力は没収すべしと」と、宣教師の妻サーストン夫人は記録して
いる。かくして自由な食事「アイ・ノア」が、王国全土に布令された。なおカウアイ島のカウムアリイ王は、喜んでこれを受けいれたという

カメハメハの死から3か月経った、1819年 8月。>104で先述したフランスのフレシネ艦長が、西欧人として初めて大王死後の王都を訪問した
フレシネの部下アラゴが2人の男に案内され、王宮の神殿にあるカメハメハの遺体安置小屋に参拝に向う。所謂「もがりのみや」が、ハワイ
にもあった事がわかる。その掘っ立て小屋の入口で案内役は、呪文を唱えだした。意味は分らなかったが「カメハメハ」の名は確かに聞いた

そのあと案内役は地面をひっかき、かかとで踏むように踊り回った。アラゴたちにも同じようにやるよう指示したので、従った。入口は二重
の帳が垂れていて、中を見られなかった。アラゴが剣で帳を開けて中を覗こうとすると、周囲の見張りたちが恐ろしい叫び声で制止したので
慌てて止めた。だが隣の神殿には入った。すると「住民らは恐れと混乱の顔で固唾をのんで見守り、我々が境内に入ると近くの住民らは一斉
に跪き、次に腹ばいになった。だが彼らが立ち上がったとき、天からの火で我らが罰されないのを見て驚いていた」と、アラゴは書いている
タブーの侵犯が、天罰はどうあれ目潰しや生贄レベルの厳罰対象だったのは確かである。西洋人の振舞いが、様々なタブーを崩し始めていた

107Traveler2017/10/29(日) 20:10:48.02ID:m926rly2
【流血注意】可愛いペンギン達の壮絶な戦い・・・


 https://www.youtube.com/watch?v=BSm2oKO1jFU

108Traveler2017/10/30(月) 16:04:51.51ID:Pk2DKCK0
  ★★★二度と戦争したくないと本当に願うなら、その為に最も確実な方法は日本が核を持つことと知るべきである。今のま▲までは戦争屋・米国のケツをなめる以外に選択肢はない。★★★

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109Traveler2017/10/30(月) 17:32:57.71ID:9QCLuKx5
>>106続き

王族ケクオカラニは、二世が数々のタブー廃止の改革に着手したことを憤る保守層の代表格だった。かれはケアラケクア湾に程近い
己の故郷に隠遁したが、彼の隠棲地は不安にかられた司祭たちの拠点になってしまう。司祭クアワはケクオカラニを担ぎあげ、王朝
交代を企図した。危機感をおぼえた二世とカアフマヌらは武器の輸入に腐心しつつ、王母ケオプオラニらを派遣して懐柔を試みたが
決裂、内戦が勃発する。ケクオカラニの軍勢はカイルアの地まで進撃したものの、多勢に無勢で王軍に抗しきれず、海岸に後退した
しかるにそこには、砲を備えたカヌー船団が待ち受けていた。善戦空しくケクオカラニは左胸に被弾し、戦死。傍で健闘していた彼
の妻マノノは、夫の死を見てすぐに降服し助命を嘆願したが、左こめかみに銃撃を受け絶命した。時に1819年12月10日のことである

この叛乱鎮圧のあと、ハワイ版の廃仏毀釈運動が猛威を振るう。王族ホアピリの陣頭指揮でハマクアの神殿と偶像が破壊されたのを
皮切りに、破壊は全土に波及。辛うじて駆け込み寺ホナウナウだけが、例外とされた。なおホアピリが、ケクオカラニを焚きつけた
司祭クアワを処刑したのは言うまでもない。その後数年にわたって弾圧は吹き荒れ、「ハワイは無宗教という奇妙な光景が続いた」
(歴史家ジャルベス)。例のサーストン夫人も、以下のように生々しい証言を残している。

「偶像に固執する司祭が王の前に引っ立てられ、棄教の証拠として女の椀からポイを食べるよう、命じられた。彼はどうしても出来
なかった。それを見た王は彼にウィスキー一本一気飲みを命じ、木に斜めに縛り付け窒息させた。死体は一晩放置された。朝になり
人々は死体を木から降ろすと、かかとに縄をつけ村中を引き回し、それにも飽きると死体をカヌーに乗せ海に出て捨ててしまった」

110Traveler2017/10/31(火) 22:45:20.20ID:T6lJrRsF
>>109続き

1819年 8月、カメハメハ物故直後に来島したフレシネ艦長が、宰相カラニモクに洗礼を施したことはすでに述べた。その後、陸続として
カトリックとプロテスタントの宣教師一行がハワイに上陸し、布教活動を開始する。かれらの中でカアフマヌの厚遇を得て台頭したのが
1820年 3月31日、ハワイ島カワイハエに上陸したアメリカのカルビニスト・ビンガム一行である。島民に対し彼らが抱いた初印象は恐怖
と嫌悪であり、「彼らは人間なのか? 真っ黒で心の貧しい蛮人の中で暮し、彼らを文明化できるか?」と叫ぶ者もいたと、ビンガムは
書く。その上で「然り、信仰の力によって」と決意したという。その心象の是非はどうあれ、あるがままのハワイを好意的に描いていた
キャンベルやシャミッソーとは、対照的ではある。いずれにせよハワイの神々が、増え続ける白人の来訪者・移住者に無力であることは
島民も痛感しており、キリスト教は急速に普及した。だがお約束のカトリックとプロテスタントの抗争が勃発する等、混迷も深めていく

111Traveler2017/11/01(水) 21:43:23.07ID:JNE6ZOMe
>>110続き

1823年、カメハメハ二世と三世の実母にしてハワイ全島でもっとも神聖な血筋ケオプオラニが、ラハイナで死去した

この高貴な女性が、英国人宣教師ウィリアム・エリスの手でキリスト教式に葬られたのは象徴的事件であった。この
あと、リホリホ即ちカメハメハ二世は英国・米国の訪問を決定。妻カママルおよび王族ポキとその妻リリハ等を同行
させる。かれはエリス師も同行させたがったが、船長スターバックはこれを拒否した。1823年11月27日にホノルルを
出港、1824年 5月22日にポーツマスに到着。だがこの時、王室が自賛していた二万五千ドルは一万ドルに減っていた
船長は不透明な弁明をしたが、かれ自身もしくは出航時に密航して通訳になったフランス人の着服だったと言われる

6月10日、一行の一人が麻疹にかかった。免疫のないハワイ人は次々と感染、二世夫妻も敢え無く罹病した。まず妻
が先立ち、これに落胆した二世も14日に薨去する。1825年5月4日、二世の遺骸は詩人バイロンの従兄弟バイロン卿の
ブロンデ号で、ラハイナ港に帰還。王の葬儀が終わると、直ちに弟カウイケアオウリが即位。カメハメハ三世となる

112Traveler2017/11/02(木) 22:21:11.16ID:stSn+wTt
>>111続き

ロシア人コツビューは「1825年のホノルルにおいて、米国の宣教師ビンガムは専制君主の如し」と記述している。彼によれば二世の遺体を
本国に持ち帰ったバイロン卿は、イギリスから人形や影絵などのお土産も持参していた。然るにバイロンが島民に影絵芝居を披露しようと
準備している場へ、ビンガム師が登場。「悦楽を覚えると、ハワイ人は堕落して神への恐れを忘れる」なる理屈で、中止に追いやる。その
場にいたコツビューは、突然娯楽を奪われた島民らが不満の呟き一つ漏らさず従う従順さに驚き、「賢い政府ならこの純真な人々を容易く
文明化できよう」と述べている。だが首相カラニモクだけが「カメハメハよ、あなたは死ぬのが早すぎた!」とそっと呟き、悔し涙を見せ
たという。コツビューはビンガムの専制を「きつく弦を張る弓は折れる」と喩え、「ある晴れた日突然彼の星は堕ち、あっという間に権威
は無くなるだろう。今でさえ不満は充満しているのだから」と批判している。1830年には神技フラさえ退廃的とされ公的な場で禁じられた

いっぽうカメハメハ二世の外遊に随伴したフランス人リーブの要請もあり、フランスからもカトリック布教団が到来した。然しビンガムら
の反発及びフランスの経済進出を嫌う英米商人の圧力により、実権を握ったカラニモクはカトリックの弾圧に乗り出す。彼がカトリックの
洗礼を受けた最古参の王族であることを思えば、皮肉な展開であった。カメハメハ三世は1829年から10年間、カトリック布教を禁ずる法令
を出し、弾圧は公然化。改宗強要の監禁・拷問まで起きた。しかし1839年、フランス・フィリップ王の命を受けたM.ラプラス艦長率いる
フランス軍艦が来襲。「弾圧を続けるならホノルルを砲撃する」と恫喝された三世は、仰天して布教自由を宣言。表向きは弾圧も納まった

いずれにせよプロテスタントとカトリックの対立は象徴的であった。ハワイの歴史は、ハワイ人の関知しない所で回り始めていたのである

113Traveler2017/11/03(金) 23:16:44.24ID:x9jwWLYC
ハワイって第二次大戦で日本の味方してくれなかったけど
空爆して悪かったねって日本は思ってるのかな

114Traveler2017/11/03(金) 23:52:42.99ID:bnx5cIcU
>>112続き

さて。ここで引用元の書籍のページを大幅にワープさせ、ハワイ王朝の落日となる七代目の国王及び、八代目にして最後の女王となる
リリウオカラニについて触れることで、本連載の締めくくりとしたい。

七代目国王カラカウアの治世1876年には、アメリカとの互恵条約が結ばれ砂糖が非課税で対米輸出されるようになった。カラカウア王
は砂糖産業と移民を奨励し、1880年に宮廷内でフラを復活した。明治政府に移民を奨励したのも彼である。世界周遊の途中81年に訪日
して皇族との婚姻を画策したが、これにはアメリカ牽制の意味もあった。かれの姪であるカイウラニ王女(当時 5歳。父親は白人)を
山階宮定麿親王(東伏見宮依仁親王・当時13歳)と縁組みさせようという企てである。白人勢力の増長は、国王をそこまで追いこんで
いたのだ。だが開国して日も浅い日本にとってそれは外交上の火遊びという他なく、明治天皇から「我が国に余力なし」と辞退された

また彼は、ミクロネシアやサモアとの間に太平洋連盟(ポリネシア帝国)を締結せんと画策したが、これも欧米列強の横槍で頓挫する
あげく1887年、彼の絶対君主志向をきらう白人勢力に後押しされたクーデターが勃発。かえって権力を大幅に制限される。失意の彼は
アルコールに溺れ、療養空しく1891年サンフランシスコで薨去。かくして彼の妹にして最後の女王リリウオカラニが即位したのである

115Traveler2017/11/04(土) 19:26:42.42ID:GKrl3fHN
>>114続き

ハワイ王朝八代目にして、最後の女王リリウオカラニ。彼女もまた、アメリカ白人に牛耳られていく祖国に歯がゆさを覚えること
しきりであった。1892年、女王はイオラニ宮殿に議員や外交官を招集。白人の参政権を制限する事と、上院(貴族院)の任命権を
自身に帰属させることを骨子とした改憲案を宣言する。しかし白人中心の内閣は署名を拒否。1893年、かれらは臨時政府を樹立、
女王とその内閣に不信任を突きつけ、王制廃止を宣言した。このとき米国は自国民保護のため、ホノルルに寄港していたボストン
号から陸軍部隊を上陸させていた。女王は抵抗が無駄であると悟り、臨時政府の要求を受諾。これが世にいうハワイ革命の顛末で
ある。なお一部のハワイ人は抵抗を画策し、勤王の士が多量の武器弾薬を輸入して戦闘準備。1895年1月6日、ダイアモンドヘッド
の地で旗揚げを試みるがあえなく鎮圧され、女王も無念の涙を堪えつつ、ドール臨時政府大統領に降服。宮殿の一室に幽閉された

1898年 7月、革命の終着点・米布合併が布告された。午前11時に米布の受渡式が始まると、集まったハワイ人から啜り泣きが漏れ
カメハメハ大王の銅像を抱いて号泣する者もいた。ハワイ音楽隊のうちハワイ人16人は、この光景に耐えられず去ってしまった。
かくしてハワイ王朝は、八代で滅亡した。カメハメハ大王がカウアイ島のカウムアリイ王を降して統一を完成した1810年から数え
て、88年の歳月が経っていた


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本日をもって、カメハメハ大王伝の最終回といたします。88年という彼の王朝の命数は、長命の個人ならば起承転結を見届ける事
が可能な長さであり、安定期は遂に訪れませんでした。ひっきょうカメハメハのハワイ王国なるものは、西欧文明(及び西欧由来
の病原菌)が太平洋世界を席巻する動乱の時代を、生き急いだあだ花だったのかも知れません
                                                      <完>

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