戦国ちょっといい話45 [無断転載禁止]©2ch.net

1人間七七四年2017/06/08(木) 07:42:51.12ID:BB46T000
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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戦国ちょっといい話44
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2人間七七四年2017/06/08(木) 08:56:38.07ID:5vsAHSFo
一乙保守

3人間七七四年2017/06/08(木) 09:43:45.69ID:49cEHkDI
前スレ987だけど巻き込み規制食らって後半投下出来なかったので再投下

牧野成里、池田輝政の仲介により帰参


牧野伝蔵成里は十六歳で父の仇を討って当家(徳川家)を立ち退き
久留米侍従(長谷川)秀一や関白秀次に仕えた。
関白の事があってからは、石田三成に仕え関ヶ原の戦でも石田方にいたが
大敗したので兵十余人ばかりを引き連れ、大敵の中を切り抜けて
池田輝政の所に来たので、輝政は播州に(伝蔵を)伴って帰った。
そのまま輝政の所に身を寄せ、剃髪し一楽斎と名乗った。

(伝蔵が)播州で輝政に(徳川家への)帰参の事を乞うたが、年月を経ても
その沙汰がなかったので、ある時播州から伏見に参り輝政に向かって
「させもが露も年ふりし」*
などとほのめかせば、輝政は
「まだそのような折ではない。成里は先に帰国するように
 我もまた見はからうとしよう」
と言って慰めた。
その後(家康の)御夜話に侍する者に、(輝政は)この後折を見て
成里の事を言い出してくれと頼んだ。

ある夜(家康が)三遠にいらっしゃったときの話だが、いつもより機嫌よく
伺候している者の膝近くまで御座を進められ、近づかれて来られたので
牧野伝蔵と板倉四郎左衛門が縁故のあることに話が及んだときに
「伝蔵は今も永らえているようですよ」
と一人が申し上げた。
君(家康)はどうとも思っていないような様子だったので、みな固唾を呑んだ。

4人間七七四年2017/06/08(木) 09:44:40.99ID:49cEHkDI
この時輝政も御次の間の襖際に蹲って仰せを聞いていて
「(この上は加増された備前に代えても伝蔵の事を執り成さねば……)」
と思っていたが、(家康が)江戸の者を呼べと仰せられ
(近臣が)鵜殿兵庫重長がおりますと申したところ
「兵庫を江戸に遣わして
 『ここで勇士を一人掘り出したので差し上げる』と申せ」
と仰せられたので、輝政が喜びを堪えることが出来ず
御次の間から走り出て、上意に対してありがたいと感謝すると(家康は)
「成里は大剛の者なので永らえていて喜ばしく思ったのだ」
と仰せられたので、輝政は
「近日召し連れてまみえさせます」
と申せば
「我が会うまでもない。江戸に遣わし将軍家にまみえさせよ
 幸い明日は酒井忠世が井伊直政を連れて江戸に参るのでそれと同道させよ」
と仰せがあった。

輝政が御前を出ていこうとしたところ、近藤石見守秀用の一族の某が
輝政の袖を引き
「秀用の事もこの機会にお許しを願って下さい」
と言った。輝政は
「牧野の事だってかろうじてお許しをもらったのだぞ。秀用の進退など
 どうして気にされることがあるだろうか。我が力の及ぶ所ではない」
と拒めば
「あの方が今日ほど御機嫌のよいことはまたとないことでしょう
 ぜひともお執り成しになって下さい」
と言ったので、輝政が再び御前に出て申し上げると
すぐに恩免をもらえたので、輝政は言うまでもなく
秀用の喜びも尋常ではなかった。

かくして成里は江戸に参り、還俗して旧名に戻り三千石の新地を賜った。
のちに叙勲して伊予守と称したという。


――『東照宮御実紀』『武徳編年集成』

*百人一首に選ばれている藤原基俊の和歌
「契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり」の隠喩。
基俊が息子の官職を人に頼んだが得られなかったときに詠んだもの。

5人間七七四年2017/06/08(木) 22:50:22.64ID:4my3G2lg
>>1

6人間七七四年2017/06/09(金) 01:50:34.82ID:gJc/DjjY
>>1乙じゃ

7人間七七四年2017/06/09(金) 17:07:05.10ID:jMN9vXWl
台徳院殿秀忠公は御釣り髭であられたという。井伊掃部頭殿(直孝)も釣り髭であった。
(台徳院殿秀忠公には御つりひげ御座候由。井伊掃部頭殿にもつりひげ有之候。)

――『松雲公御夜話』

8人間七七四年2017/06/09(金) 18:36:19.82ID:ezl2clO7
竹中半兵衛には、若くして弓矢巧者の評判があった。

織田信長の時代、柴田滝川といった人たちは寄り合いで
「若輩者に何ほどのことがあるだろうか。いつか竹中に出会った時、弓矢の詮索だてを致せば、
一句も言えずに理に詰まるだろう」
などと彼を評していた。

そのような折、羽柴秀吉は中国より竹中を使者として、信長に仔細を言上するため京に上らせた。
柴田たちはそんな寄り合い話をしていただけに、内々に竹中と参会したいと望み、「ならば招き入れて
一献を勧め、そして詮議をも致そうではないか。」と、竹中を柴田の所へと招待した。

その場において一礼の後、柴田がまず言った
「この度、中国において毛利家との対陣の様子、筑前(秀吉)の思惑などを話してみよ。」

竹中聞いて
「私は筑前殿よりその思惑を承ってはおりません。何事を申せるでしょうか?」
そういって、それを語ることを辞退した。
すると柴田は重ねて

「ならば筑前の思惑は差し置き、そなた自身の考えもあるだろう。御辺の思惑、如何様に
この戦をすべきか、それを語られよ。」

竹中、止むを得ずして、毛利家弓矢の風情、此の方のあしらい方、双方の考えといったことを
一々に説明し

「未だ上様(信長)に、筑前殿よりの使いの趣を言上いたしておりません。先ず御前を済ませたいと思います。」
そう挨拶して出ていった。

その場に居た、柴田、滝川、丹羽、佐久間といった歴々は竹中の言ったことを聞いて
「彼は前々に聞いていたより、なお勝っていた。
今日の物語、毛利家のあしらい、弓矢の勘弁、一つとして難ずるべき所はなかった。
ならば、弓矢の才というものは、合戦の経験の多い少ないによるものでは無いのだろう。」
そう感じ入ったという。

(士談)

9「南蛮寺興廃記」22017/06/09(金) 18:59:32.61ID:eAHh5iIP
「南蛮寺興廃記」より、イエズス会が伊吹山に薬草園をひらくこと

寺の結構荘厳眼を驚かす。又ウルカン一人にては弘法力に叶うべからず。
本国より数人召しよべしと命ぜられる。ウルカン悦びて本国へ申し送る。
そもそも南蛮切支丹国と云うは国号イスパニヤならびにポルトガル、カステラと
云う海上日本里程一万二千余里世界の国を以て見る時は唐土日本よりは日本より
西方に当たる国なり。然るに南蛮と号することはこの国の従属の亜媽港、
呂宋等、日本の南方に当たれり。故に南蛮と号する者か。
アマカワ、ルスン等は日本より里程八百里にて殊に日本より南に当り、
イスパニヤの隣国にも非ずしてその国の従属たるアマカワ、呂宋等は守護も無き
島なる故南蛮人往々に其の島に船を止め今は南蛮人多く住居するが故に類属の国なりと云えり。
イスパニヤ隣国にエグレスと云う国あり(インギリヤともイギリスとも云う)
阿蘭陀の西に在る島国なり。日本里程一万千七百里と云う。
此のイギリスは南蛮国と別種なる由、云い伝う。
斯くてウルカンが本国より渡来するは浮羅天破天連、計理故離イルマン、弥理居須イルマンと云う。
(破天連と云うは師のごとく、イルマンと云うは弟子のごとく)是等が乗るところの南蛮船、
若州(若狭国)小浜に着船す。
南蛮人若州より江州海津へ至り船を湖上に浮かべて大津に至り京都南蛮寺に入りて
ウルカンに謁し信長へ注進す。信長悦びて安土へ召し呼ばわる。
浮羅天破天連はウルカンより背高きこと一尺五寸。色青く髪髭黄色なり。
衣類はウルカンが如く、相隣の両イルマンは医術外治ともに奇妙なり。
(最初ウルカンが安土へ来たりし時より南蛮人奏者は長谷川竹(秀一)に命ぜられる)
今般は六種の捧げ物あり。瑠璃の宝珠、香一包、犬皮十枚、瑪瑙の机一脚、虎皮十枚、
五色羅紗五十枚献上す。
不日に南蛮寺へ帰り重ねて信長へ訴え曰く。天帝宗はあまねく病難貧苦を救いて
起臥を安んじ法を伝え、現安・後楽の願望を成就す。
薬園を給いて薬種を植え、其の備を成さんことを願う。
信長許諾して山城近国の内其の地を選ぶべしとありければ、両イルマン江州伊吹山を願い得、
此の山に登りて五十町四方切り開き薬園として本国より三千種の薬草の苗種を取来せしむ。
伊吹山にこれを植え(此の故に今二百年の後までも其の根此の山に止まりて川芎艾(もぐさ)の類
此の山を以て名産とす。)それのみならず本国より財宝おびただしく取り寄せて
金銀に替え七宝の瓔珞金襴の幡錦の天蓋六十一種の各香、門外まで薫し、往来の人々止まる。
(此の寺常に一仏壇に本尊を立てすと云えり)。

落語「亀屋」に出てくる、灸に使う艾の宣伝文句が「江州伊吹山のほとり、柏原、本家、亀屋左京、薬もぐさよろーし」
だったけど、もとをたどればイエズス会のおかげだった?

10人間七七四年2017/06/09(金) 19:08:57.96ID:eAHh5iIP
よく考えたら百人一首の藤原実方の歌で
「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」
とすでに歌われていた

11人間七七四年2017/06/09(金) 23:14:49.81ID:M6wlLfbw
俺も気になって調べたけど、イエズス会側の史料で薬草うんぬんの話は見つけられなんだ

12人間七七四年2017/06/10(土) 13:46:44.58ID:MzfslN0X
>>9
>若州(若狭国)小浜に着船す。

まーた小浜か
前にもアラジンとかいう名前のイスラム商人とかも流れ着いてなかったっけ?

13人間七七四年2017/06/10(土) 22:20:06.79ID:I7EY2XpE
 物事の勢いによっては、事がはかどって行き自ずから人も育って力が増すものである。
 天正十八年、北条氏政を太閤秀吉が攻められた時、
小田原の城から西にあたる所に高い山があった。
要害で地の利がよいと、すぐに石垣を積み上げて、所々に櫓を上げて、悉く屏をかけ、
たちまち壁を塗り、一夜の内にその上に白紙を張った。
これが白壁のように見え、城主はこれを見てその器量を感じたとか。
 今は石垣山と呼んでいる。


『武士としては』

14人間七七四年2017/06/11(日) 01:27:24.99ID:ZNnSTgYf
立花宗茂の家臣に堀次郎右衛門という人物がいたのだが、立花家が棚倉から柳川へ戻って
ほどなくして没し、堀家には男子がいなかったため宗茂は次郎右衛門の娘のくろに次の書状を送った

父次郎えもん事、代々奉公、ことに東国まてまかり下り、へつしてしんらうの事に候間、
男子これなく候へとも、其方にたいして山間郡よしかい村之内、百石あておこない候、
後々は似合いのさい合をも申付候はんため、右之通りに候、仍如件
元和八年七月六日  宗茂(花押)
堀くろ女
『柳川市史資料編X 鬼塚文書 立花宗茂知行宛行状』

江戸時代に藩主の配慮で女性に家を継がせたという珍しい事例

15人間七七四年2017/06/11(日) 02:10:37.92ID:YQxDzO82
後家に化粧料を与えて、後で婿を取らせて家を再興させよう、って話じゃないの?

16人間七七四年2017/06/11(日) 02:12:55.86ID:GSPWhLoP
関東管領憲政さまも戦死した家臣の女子に家督と城主の座を認める手紙を出してたなあ

17人間七七四年2017/06/11(日) 02:23:11.93ID:ZNnSTgYf
>>15
奥方じゃなくて未婚の娘に対してだから似てるけど違う感じだな

18人間七七四年2017/06/11(日) 05:48:10.37ID:FeToHE5W
普通に堪忍料を与えて再興の目を与えてるだけのような

19人間七七四年2017/06/11(日) 22:05:45.74ID:5UlT2XLV
公方様、御鷹の鶴の胆(マル)を上げらるるときの咒文

  ある人がひそかに話してくれた。
公方将軍様が御鷹狩に鶴を獲られて丸肝をあげられたときは、
御上と御小納戸頭取がお供のものと心中で唱えさせる呪文があるという。

「業尽きるの衆生は、放つといえども生ぜず。
故に人仲に宿して、得らるるを以って善果とす。」

これは、禽類でも鶴は大鳥でかつ寿命を保つものなので、
これを害するのは殺生の中でも罪が深いに違いないからとの事である。
きっとこの呪文も確かにあるのだろう。
基本、神祖から受け継がれていたのであろうか、
御代々唱えられている事だと聞いた。

 秘かに神祖の御知遇を考えてみた。
この呪文を生み出したのは大樹寺の登誉上人であろうか。
この人は神祖が天下を取られたころにはもう亡くなられている。
また天海僧正だと、神祖とはちょっとの間にしか会っておらず、
力が盛んだった時期の多くは台猷の二世(秀忠・家光)の頃であった。
ならば増上寺の観智国師であろう。相応の時の人である。
きっとこの国師が神君に差し上げたのであろう。

 しかしこの呪文は仏経の何によるのであろうか、出所はまださだかでない。


(甲子夜話三篇)

20人間七七四年2017/06/12(月) 05:34:25.20ID:Y/zvUrtP
心の中でしか唱えてないのになんて知ってるのw

21人間七七四年2017/06/12(月) 18:37:21.30ID:xZqoEU9p
井伊掃部様の御屋敷前、坂中の北に仰々しい井戸がある。それは
汲みもしないのに立派な釣瓶縄を備えていた。

それは昔“鱗屋敷”といって、直江山城守が住んでいた時に掘った
井戸だという。これをトウ庵先生(古賀トウ庵)に聞くと曰く、

「直江は天下の英雄なり。英雄の掘った井戸である故、井伊家では
用いないけれども代々大切にこれを保存しているのである」

とのことである。

――『直江兼続伝(天雷子続)』

22人間七七四年2017/06/13(火) 01:49:44.51ID:qTIEz3oo
>>21
大河で井伊の先祖は井戸から出てきたとか言ってたし、井戸を特別視してたのかも

23人間七七四年2017/06/13(火) 14:59:20.56ID:j0uYUwB8
睡庵(渡辺勘兵衛了)が坂本に居住していた時、睡庵の家来が大津の町において喧嘩のこと有りと聞いて、
吉村又兵衛(宣充)、その頃は牢人であったが、睡庵のもとに急いで駆けつけてきた。

水庵は対面するや言った
「喧嘩見舞いであるのなら、特別のこともないので帰られよ。
ほかに話したいことがあるのなら、飯を食ってから話されよ。」

吉村
「喧嘩のことを聞いて急いで見舞いに来たまでである。そういうことならば帰る」
そういって帰ったが、この時睡庵は次男を道まで遅らせた。水庵は次男にこう申し含めていた

「私は直に言わない、汝、密かに吉村に伝えてほしい。今日の見舞いのこと、吉村には似合わぬことである。
我等の手の者の喧嘩のこと、別にこれといった仔細のあるものではない。こういう事には天下の大法が
大方定まっている。我が者が斬り殺されれば相手の者は切腹に成るし、人を斬れば此の方の者が切腹と成る。
である以上、気遣いに成ること無い。

こういったことに吉村が大急ぎで京より来るというのは、まるで一揆合いで手足の働きをするの若者の
ようではないか。以降慎まれるように、と」

然るべき事である。

(士談)

24人間七七四年2017/06/14(水) 01:02:25.08ID:OUrzwPNV
加藤肥後守(忠広)が没落以後は、
熊本の城は細川肥後守(忠利、越中守?)が横領して入城したが、
その後には城内外で家鳴り等がして騒がしかった。
加藤の亡魂が念を残したからだと申し伝わっていたので、
細川公は残念な事であると、菩提寺にある加藤が着ていた具足を乞い受けて、
天守の四重目に納められたら、その後に静かになったとか。


『武士としては』

25人間七七四年2017/06/14(水) 01:05:07.82ID:e6F4knWm
横領とは酷い表現だな

26人間七七四年2017/06/14(水) 01:34:30.30ID:WE0HmbYS
「横領」は明治中期以降に出来た言葉らしいが、原文はどうなんだろう

27人間七七四年2017/06/14(水) 09:53:05.94ID:xVPK1Uvj
>>22
              :ill||||||||||l:
             :i|||||||||||||||
           /''';:|||||||||||||||||l:、
          /:i  :||||||貞|||||||i `'!
          / :|  :||||||||||||||||||l ノ!
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28人間七七四年2017/06/14(水) 10:16:45.54ID:TDMsc1AT
忠広の生霊か

29人間七七四年2017/06/14(水) 18:16:53.47ID:i+cO2s5n
中根宗閑と内藤善斎がある時の話で申し上げなさった事には、

台徳院様(徳川秀忠)が、ある時に御鷹野をなさり、田の畦に
御腰を御かけ遊ばされて、御膳を召し上がりなさった。

その時、御湯がなかったので、「向かいの在所に参って湯を
沸かさせ申すように」との旨を仰せにつき、

百姓の家より御湯を御取り寄せ遊ばして召し上がりなさった。

その節などは、このように諸事に御軽きことであったとの由を
(宗閑らは)申し上げなさった。

その旨、戊戌閏10月21日に拝聴仕った。

――『松雲公御夜話』

30人間七七四年2017/06/15(木) 00:30:38.37ID:dWS33giL
長岡幽斎が鶴の料理法を人にお教えされるとき、
その人は貴重な鶴の替わりにと
白鷺を板に乗せて出したので、
とっさに、

白鷺か何ぞと人の問いし時 鶴と答えて食いなましものを

「『伊勢物語』の

白玉か何ぞと人の問いし時 露とこたえて消えなましものを

の本歌取り」

(昨日は今日の物語)

31人間七七四年2017/06/15(木) 11:43:27.15ID:jUGlq9M2
不人気だけ

32人間七七四年2017/06/15(木) 18:43:51.74ID:Dny9w7CR
>>30
「昨日は今日の物語」ってタイトルめっちゃオシャレや!

なお本文の意味はわからない

33人間七七四年2017/06/15(木) 19:40:10.63ID:HMJ96zTR
井伊直孝は華美の風が上下を通じて一つの流行となった事を憂え、自藩にだけは昔ながらの士風を振作したいと考えていました。
江戸からの帰途、彦根に向かうために琵琶湖を横切って行くほうが近いので船により、彦根城の天守が見えた時に、藩士たちの出迎えを想像することもできました。
「皆の者。江戸出立の際、その方達に渡した荷物があろう、あれを開けい。」
「はっ。」
家臣たちは前々から気にかかっていたその荷物を開けると、中からは袴まで揃えた一揃えづつ綿の着物が出ました。
直孝は快活に笑い
「それに着換えいたせ。」
藩士たちは久しぶりでの国入りに綿服を着て同輩に会うのを気恥ずかしいと思いましたが、主命なので否応もなく渋々着換え終わった時、船は城下の岸に着きました。
出迎えの藩士の面々は直孝の後に続く士たちを見て、一人残らず綿服なのにどきりとしました。
出迎えの藩士は、己の姿を顧み、美服が粗服を迎えに出た形に妙な空気を醸し出しました。
「大義。」
直孝は、出迎えの士をいたわりましたが、衣服については帰城の後も言及しませんでした。
黙っていても、藩士たちには彼の心が分かったので、以後、彦根藩士は美服奢侈の排すべきを悟ったのです。
日に日に藩士の風俗は改まり、堅実な風が、以前とは逆な方向に吹いたのです。

(常山紀談)

34人間七七四年2017/06/15(木) 22:59:14.80ID:0xUE2tCx
慶喜「贅沢でもいい。忠義を尽くしてほしい」

35人間七七四年2017/06/15(木) 23:50:57.07ID:dWS33giL
天正十九年十二月二十八日、近江中納言秀次公は関白に任ぜられた。
その礼として家康公から井伊兵部大輔直政を遣わされた。
そのとき秀次公は囲碁をされていて、直政を呼んで物語をされた。

「昔、私が三好孫七郎といったときは直政も無官で万千代と申していたな。
会合して碁を打ったが、その時は直政は碁が強くて私は弱かったものよ。」

その碁の話に事寄せて、尾張長久手の合戦に直政に打ち負けた事を思い出して、
それとなく

「今、私と直政とでは昔とは手合わせは違ってくるだろう。
私も忝くも関白に任ぜられたのだ。勝負も大いに変わるはずだ。」

と笑いながら御申されると、直政は

「そのときは拙者とて無位無官の万千代。
只今は四位の侍従に叙任されています。
手合わせもそれほど昔と変わらないでしょう。」

と恐れることも無く答えた。
時に取って意地の有る申し分といえる。


『武士としては』

36人間七七四年2017/06/16(金) 04:20:17.65ID:Yt7CmcZ5
立花家の紋所は古来より杏葉紋であったが関ヶ原の後に配流のある時、夜の夢で
筑後国祇園山が自身(立花宗茂)の頭上へ覆いかかる様を見て目を覚ました。

この夢より程なくして召し出されて、本国を賜った。これによって牛頭天王の神慮を
(宗茂は)かたじけなく思われ、かの社の守の形を家紋としたのである。

――『明良洪範』

37人間七七四年2017/06/16(金) 20:39:16.21ID:5Rqe2+am
関ヶ原の役の時、奥州において上杉景勝と伊達政宗取合の時分、景勝勢は福島より二里出て
政宗と戦った。

この時。北川図書という者、元は蒲生氏郷に仕えていたが、氏郷没後は景勝に属し、
景勝より桑折の地を与えられ、その頃郡図書と名乗っていた。

図書はこの合戦で討ち死にを覚悟し、朋輩である岡左内に頼んだ。
「私の陣羽織を息子の久兵衛に遺したいので、討ち死にの際にはこれを遣わしてほしい。」

左内は受け取り、後に図書の子・久兵衛にこれを渡した。図書は討ち死にしたのだ。

この事について、後の人は様々に評した。
ある人
「同じく戦場に臨んで、我も人も必死をこそ旨とすべきなのに、どうして自分が必ず生き残ると思い、
人の形見を請け取るなど有るべきだろうか?」

これに対して、傍らに居た人が言った
「そうではない。互いに言い交わし話し交わした心友の間で、その人を見込んでこう言っているのに、
請け取らないということが有るだろうか?
自分が必ず生き残るから、受け取って渡す、と言っているのではない。彼の形見を我が預かり、
我が形見を彼に預けるというのは、勇者の思いを込めた行為というべきではないだろうか。」

この岡左内という人物は、後に越後と称し、類まれなる勇士で、数度の戦功を成した。
この時の戦でも、川中で伊達政宗と太刀打ちして、自分の猩々皮の羽織に、政宗の太刀傷二ヶ所まで
受けたと言われている。
彼も蒲生氏郷に属して、後に景勝に仕え、その経歴もあって北川図書と親しんでいたとか。

北川図書の子孫は、今も加賀太守(前田家)の家中にあるという。

(士談)

38人間七七四年2017/06/16(金) 23:36:40.72ID:YzgH35zF
大坂落城直後のことでした。市内警護にあたっていた徳川方の役人が板倉勝重のところへ駆け込んでまいりました。
「容易ならぬ風聞を聞き及んでまいりました。」
「容易ならぬとは何か。」
勝重は煩雑な政務を執っていましたが、平生と少しも違ったところなく落ち着いてたずねました。
「さればでござります。大野修理の命令をもちまして、よからぬ禰宜どもが権現様の人形を作り申し、呪詛調伏申したとのことにござりまする。
まことに不届きなる者共、早速召し捕らえて重い罪科にと存じましたなれど、一応お耳に達してからと考えまして参った次第にござります。」
「それはご苦労。」
勝重は、水のように静かにうなずきました。
「せっかくであるが、禰宜どもが召し捕らえるには及ばぬぞ。」
「何と、何と仰せられます。権現様を呪詛いたす大罪人を、そのままにいたせと仰せあるのでござりまするか。」
「いかにも。」
勝重はは莞爾と笑いました。
「禰宜、山伏などと申すものは、金銭をもって依頼されれば、人を呪詛もし、悪魔退散も祈るものじゃ。商売のようなものよ。
我らが大坂方より多額の金銭を与えれば、秀頼公をも呪詛し調伏するのを拒むものではない。
また、彼らごときに呪詛されて御運の傾く権現様ではないはず。
たかが金銭欲しさの呪詛調伏、相手にするでない、すておかれい。」
勝重の一言は、家康の大きさを更に大きくするものでありました。
大坂方からの命で家康を呪詛した禰宜たちは、一時はどうなることかと心配したのですが、
何の咎もなく赦されて、今更のように板倉勝重の徳を讃仰したのでありました。

『明良洪範』(良将言行録)

39人間七七四年2017/06/17(土) 04:08:56.99ID:bAhFoq+C
土井大炊頭利勝は土井小左衛門利昌の養子である。実は水野下野守信元の次男なり。
一説には神君(徳川家康)の御落胤であるという。

ある人が殿中で利勝の髭を見て、「貴殿の髭は神君の御髭によく似ている」と、言った。
利勝は、翌日に髭を剃り落として登城した。この頃までは、髭を立てて置くのが風俗で
あったが、利勝が剃り落としたのを見て人々は追々髭を剃り落としたのだということだ。

この利勝は衆人よりも智謀に優れた人だった。先年、関白秀次が太閤の御不審を蒙り、
一大事となるという時、利勝の智謀によって秀次の謀の罪に陥らず、台徳公(徳川秀忠)
と御同道で太閤の御前へ出なされば、太閤は殊の外喜びなさり、

「さすが新田殿の子孫である」と賞美なさった。神君も御上京なさり、利勝の智謀の計らい
を御賞美なさった。その時、利勝は17歳であった。

後年、執権であった時、密事を評議することがあった。しかるに、これまでは密事を評議
するには茶室などのような狭い所でその周辺の障子襖などを皆仕切って評議したが、

この度は利勝が大広間の真ん中に座り、その周辺の障子襖を残らず取り払って評議衆
のみ一座し、他は人払いして評議したため、余人が忍び聞きすることはなかったので、

これ迄のように密談が漏れる事は少しもなかったのである。利勝の知慮は衆人の及ばぬ
ところと、将軍家(徳川秀忠)も深く賞美なさった。

また本多正純が罰せられた時、ある人が言ったことには、「正純は不届きとはいえ、正信
以来旧功の家であるのに、此度の御仕置きは余りに厳重すぎである」とのことだった。

利勝はこれを聞いて、「いまは天下創業の時なれば、賞罰などは厳重でなければ平天下
長久ならず。それにはまず御譜代を厳重に罰しておくことが天下への示しである。正信が
どうして泉下において、恨み申すことであろうか」と、申したということである。

――『明良洪範』

40人間七七四年2017/06/18(日) 01:15:39.27ID:G1R0oyIu
村越茂助は家康の家臣でしたが、ふとしたことから勘気にふれ、目通りの叶わぬ身分となりました。
茂助は心中不平でなりませんでした。一にも徳川、二にも権現様と主家大切に働いて来たのに、
身に覚えの無い理由で遠ざけられるということは憤懣にすら値するものでありました。彼は門を閉じました。
戸外へ出ません、出たところで見るもの聞くもの、ことごとく癪に障ることばかり、いい加減なおべんちゃら武士が、
大手を振って歩き、正義の士はすべて不遇にいるように見えて、腹が立ってたまらないのでありました。
ほど経て、家康の方から茂助を呼び出しましたが、茂助は応じません。
「拙者は御勘気にふれた身の上でござる。お目通りはおそれ多い。」
嫌味と鬱憤とを言って、決して伺候しませんでした。ところがそこへ伏見の大地震が起こりました。
人畜の死傷も数多く、建物の倒れたものは枚挙にいとまありません。世間は物情騒然として、流言は日に盛んです。
こうなると根が忠義一徹な茂助ですから、家康の安否が気になってたまりません。
「権現様はいかがなされましたか。」
まず本多正信まで問い合わせました。
「その方、それほど心配になるか。」
正信はにっこり笑って言いました。
「よい機、と言っては悪いが、今こそお詫び申し上げる時ではないか。のう、すぐ参れ、参ってお見舞申し上げい。」
しかし、茂助は頭を横に振ったのでした。
「拙者は御勘気にふれた身でござる。押し付けがましく参上するのは如何かと存じまする。」
「それがいかぬと言うものじゃ。」
正信は言葉を尽くして説き聞かせた上、家族の者をそれぞれ知人にあずけて、ただ一人伏見へやることになりました。
もし家康の気持ちが元通りであれば、その場で討たれる覚悟をしていたのです。まことに悲壮な見舞い人と言わなければなりません。
伏見の家康の住居は、地震のためにひどく破損し、見るからに酷い有様になっておりました。
しかし隆々たる家康の声望は、そうしたうちにも無言の威力を示しました。
諸国の大名はこぞって見舞いにやってきます。家康は家康でこの機を逃さず、大名の心をつかむ工作を怠りませんでした。
彼は自ら握り飯を握って、見舞いの大名にそれを接待していたのです。村越茂助は、そうした家康の前に進んで、
「村越茂助にござりまする。」
こう言って、言葉のかかるのを待ちました。一言、言葉があったなら、すぐその場の仕事を手伝おうと思ったのです。
ところが、家康は横目でじろりと見たきり、ついに一言の言葉も与えませんでした。
茂助の失望といったらありません。彼はすごすごと立ち戻りましたが、途中から再び引き返して、
「茂助でございます。殿、茂助でございます。」
ほとんど泣くばかりに言いました。が、これも白い目で黙殺されてしまったのでした。

41人間七七四年2017/06/18(日) 01:17:02.93ID:G1R0oyIu
駄目だ!絶望のあまり、茂助はよろよろと立ち上がって戻りかけました。その時です。
いたわるような声が耳元でしたのでした。それは阿部正勝です。茂助はすがりつかんばかり、それまでのことを話しました。
「わかった、が誠意じゃ。誠意が通るまでの辛抱、よいか。」
「はっ。」
再び、茂助はとって返しました。が、もう物を言う元気もなく、黙って家康の前にうずくまったのでした。
しばらくして、家康は、茂助の居るのに気づきました。二人の目がはたと会いました。
滲むような柔い人情が、お互いの目の中に光りました。
「茂助。」
「殿。」
茂助の目先は、ぼうと霞んできたのでした。嬉しさのあまり、罪も恨みも一切の雑念の消えた新しい世界がそこに開けたのです。
「いかが致した。」

『明良洪範』(良将言行録)

42人間七七四年2017/06/18(日) 04:52:56.99ID:jFVDgUyD
台徳公(徳川秀忠)御上洛の時、彦根城を御旅館になさるとの由を御沙汰につき、
井伊直孝は将軍家を敬うあまり、家中の妻子家族を皆近郷へ立ち退かせた。

この事を台徳公は御聞きになり、彦根城へ御立ち寄りもなく、直に大津へと御出に
なったので直孝は大いに驚き、そのまま彦根に閉門して御沙汰を待った。

その後、台徳公は「旅館になる城は屋敷内へ小屋を建てて、そこへ家中の妻子を
入れるのが然るべきというのに、直孝はいかなる所存で家中の妻子を近郷へ立ち
退かせたのか。実に不審である」と、仰せになった。

それから御下向なさるという時、直孝は、「このまま京都に閉門して慎んだほうが
良いだろうか?」と、酒井忠勝へ内々に問うた。

忠勝は答えて「そのまま彦根にいても然るべきではない。供を少し連れて槍一本を
持たせ、密かに御後から下り申されるべきでしょう」と、言った。

直孝はその通りにして慎んで下った。台徳公は三島を御通行の折に仰せになって、
「直孝は下ったか?」と御尋ねになった。忠勝は答えて、

「供に3人を召し連れて慎んで御後に付き、供奉仕っております」と申し上げたので、
台徳公はやがて直孝を召し出され、御言葉を御掛けなさったということである。

“井伊家の一本槍”はこの時より家例となったのだとか。

――『明良洪範』

43人間七七四年2017/06/18(日) 07:00:26.50ID:OqsrfH6f
>>41
身に覚えがないんだろ
折れるな茂助!

44人間七七四年2017/06/18(日) 17:17:19.00ID:5kXMhSIL
>>42
今思ったけど井伊って織田家中での明智みたいな立場なのか?
外様だし京までの道筋にある場所を任されるって

45人間七七四年2017/06/18(日) 23:12:19.32ID:G5NSzpbo
そろそろ鮭様のいい話頼む

46人間七七四年2017/06/20(火) 18:48:07.31ID:oqc2RtC1
>>14
山間郡は原文ママ?吉開は山門郡にある

47人間七七四年2017/06/20(火) 18:59:57.31ID:oqc2RtC1
>>21
憲政記念館の所に現存しているよな。この井戸

48人間七七四年2017/06/20(火) 19:09:14.48ID:qFtwVh1m
兼続の屋敷跡が
「憲政」記念館になったとは、
御館の乱の因縁があるようなないような

49人間七七四年2017/06/20(火) 21:03:34.38ID:oqc2RtC1
>>41
笑った

50人間七七四年2017/06/21(水) 17:16:33.93ID:QqZGxox/
立花飛騨守宗茂は一旦(徳川家の)御敵となったが、台徳公(徳川秀忠)の
御代に御許しを蒙り、旧領柳川11万石9千6百石を賜り、

入部してこの度の祝いの儀式として、家士の面々を饗応なされた。その席に
出て宗茂は物語りなされ、

「大昔に佐野源左衛門が本領を安堵されたのは罪無くして所領を失ったから
である。一方で私めは御敵となった者なのに、このように旧領を賜った。

これは誠にもって御厚恩である。されども一つには、当家の武勇は父・道雪
より以来、世に恥じること無く、

これらの事などを御賞翫されたのかも分からない。ならばこれからは尚更に
上下とも武備を忘れてはならない」

と仰せになった。

――『明良洪範』

51人間七七四年2017/06/21(水) 21:50:29.42ID:iv59Ojsk
既述のように、当時テンカ(=天下)の最高統治権を掌握し、専制的に支配していたのは松永霜台であった。
すなわち、彼はその点、偉大にして稀有の天稟の才能の持ち主であった。
彼は完全に自らに服従せしめていた大和国の、奈良の市街に近いタモンヤマ(=多聞山)という立派な一城に住んでいた。
そして五畿内においては、彼が命じた事以外は何も為されぬ有様であったから、位階や門閥においては彼を凌駕する多くの高貴な人たちが彼に奉仕していた。



フロイス日本史から、1563年頃の松永久秀の話

52人間七七四年2017/06/22(木) 23:51:44.66ID:53keMK1k
ある人の語った所に寄ると、戦場へ出る度ごとに戦功を顕し、先駆け殿の功重なる勇者があった。
彼の友人がこれを羨み、

「我も人も、武士の家に生まれて一通りの働きを遂げぬ者は、家職を辞めて農工商の職を行う人に
成るべきだろう。だからこそ一通りの働きはしているが、御辺のように度々の戦功を成し、
後にて後悔もないような、心と身と口の一致した働きをするのは、致しようというものが有るのだろうか?
有るのなら是非承りたい。」

こう問われ、この勇士は
「奇特なることを尋ねられるな。わかった、語って伝えよう。しかしこれは武士の本意であるので、三日
物忌みをしたまえ。その上でこそ伝えよう。」

これに問うた者は喜び、三日斎戒して再び対面した

勇士曰く
「生死は一大事である。人の生きることを止めないために慎むべき事であるから、この事を秘事にしているのだ。

大きな仔細が有るわけではない。人の身には手毬ばかりの大きさの、光る丸い物があって、常には臍の下
あたりに静まっている。
しかしこの光物は常に身中を往来し、面門(口)から外へ出入りもする。

臆病な者は、この光物が抜けて内に無い。このため光を失い何事も分明ならず、方向を失うのだ。

それより少し心得有るものは、外に抜けてはいないといっても、面頭に上がり、このため目も見えず
耳も聞こえず、その場における善悪の判断も出来なくなる。

それよりも一段上の人は、この光物が胸に上がり、胸騒ぎがしきりである。

上段の人は、臍下に留まり気は勝り、病気などに成ることもない。こう言った人こそ心口行の三つ一致して、
所行常に静かにしてその理も分明である。

これを修行するには、人に会って怒りを覚えた時、この事を思い出す事だ。
そこでよく考え、体の中の光物を納め付けた時、終には修行が本意に至るのだよ。」

この教を受け、問うた者は拝して退いたという。
これは定論ではないのだろうが、この説を実践すればその至極に至ることも出来るだろう。
かの孟子が論じた「放心」にも似ている。

(士談)

53人間七七四年2017/06/23(金) 02:05:21.72ID:/IPKuLm8
武術でいうところの「気」か

54人間七七四年2017/06/24(土) 18:19:04.41ID:s9WvoSYg
鹿児島県鹿児島市にある松原神社。松原神社は、天文館という鹿児島で一番の繁華街にあります。
ここは島津家の15代当主
島津貴久(靖國崇勲彦命(クニムケイサタカヒコノミコト))を、主祭神として祀っています。

かつて、このあたり一帯に、名刹・曹洞宗福昌寺の末寺である松原山南林寺がありました。
南林寺は、弘治二年(1556)島津家15代貴久によって建立され、大いに賑わっていたといいます。
貴久の死後天正十年に義久が南林寺を貴久の菩提寺に定めました。
明治二年(1869)の廃仏毀釈によりとりつぶされ、翌年、跡地に松原神社が建立されました。

松原神社には他にも戦国武将が祀られております。その人物について、神社内にある、
鹿児島県歯科医師会によって建てられた説明板には、次のように由来が書かれています。
「祭神は島津貴久公の臣 平田純貞 元亀二年(1571)三州平定途上、急死の主君の無念を思い出家諸国を遍歴、
元亀四年亡君命日六月二十三日殉死の作法に従い、うつろ舟に乗り蓋を釘付けに海に流させた。読経歯ぎしりの音、
三昼夜壮烈な殉死をげた。遺体の歯は抜けていた。当時歯痛に悩む人は自分で歯を抜いていたが、
自然に歯が抜けた純貞は、歯の神様と崇められるようになった。」

また、別の説として、鹿児島県歯科医師会会史(80周年史)では次のように記載されています。
「島津家15代の明主大中公(諱は貴久)の家臣・平田純貞、君主の命を奉じて虚無僧姿となり、
九州一円国情偵察の行脚をやった。その当時は織田、豊臣の時代で島津藩の如きも未だ後年の如く
統一されたものではなかったが、帰途福山において大中公薨去の報に接した。
 純貞落胆措く能わず人生最大の苦痛を味わいて殉死せんとした。即ち人生において歯痛に勝る苦痛は
あるまいとの観念から自ら全歯を抜き放ち、且つ空舟に乗ってこれを海中に投ぜしめた。」

なお、うつろ舟については、次の資料を見つけました。
「空舟とは本来、木を剔り抜きて船の如くし、殉死者はこれに乗りて蓋を釘付けにし且つ海中に投ぜしめる方法であって、
その当時の殉死の一形式として用いたといわれている。これが他の殉死と異なるところは、
万一運が良ければ陸地に漂着して救助されることもあったという。」

純貞の舟は2、3の漁家のみだったという海岸(今の南林寺町)に漂着した。即ち検死の結果、平田純貞ということがわかり、
これを海岸より程遠からぬ元の南林寺墓地(ちょうど現時の南洲寺より55メートル位西北にあたる)に埋葬された。
その時死体を東向に埋葬したところ、不思議に天地晦冥となり、風雨俄に起こったという。蓋し大中公を祀った松原神社が
その西にあり、大夫の霊が東向を欲しないためだろうというの で早速これを西向に改めたところ、
忽ち天地が元のように晴朗になったという。
何時の頃からか世人はこれを「歯の神様」と称え、歯痛に霊験あらたなものとして来拝者が後を絶たなかったという。

鹿児島県歯科医師会では、1960年頃から毎年6月4日に松原神社で”抜去歯”の供養祭とともに
「歯の神様」の祭礼を行っています。
(2017年は60人ほどの参加あり)

数年前の新聞の記事では抜去歯の数は二万本ほどだったそうで、皆さん歯を大事にしましょう。

松原神社
https://www.matsubarajinja.com/

55人間七七四年2017/06/24(土) 18:32:37.43ID:B5sHcQLP
島津斉彬の照国大明神、ててっきり天照大神に対抗して東照大権現になった徳川を倒した薩摩が
「東」より広い「国」にでもしたのかと思ってたけど
島津貴久が「靖國」だったからてだけ?

56人間七七四年2017/06/24(土) 18:44:27.62ID:D++bK00K

57人間七七四年2017/06/24(土) 20:46:04.57ID:TUR15A8h
補陀落渡りでもするのかと思った

58人間七七四年2017/06/24(土) 21:14:45.36ID:B5sHcQLP
補陀洛といえば
ポータラカ→補陀落→ふたら→二荒→にこう→日光
となったというのを近頃知った

権現様も補陀落に眠ってるということか

59人間七七四年2017/06/25(日) 12:18:03.00ID:MAg8NU8C
古の者の云えることを記せる書に、一番先陣、一番乗り、一番頸のそれぞれに軽重があるとしている。
但し名を得て人々から唱えられる為には、一に天命、二に国、三にその場、四に主人、といった要素が
必要であり、こう言った条件が揃わなければ、世に隠れない高名というのは成り立ち難い。
永禄天正以来の名を顕す輩は、この4つの条件を外していないのだ。
しかし高名があっても隠れて人に知られないのも、また皆天命であるから、更に恨むべきではないだろう。

また永禄天正以来、一番槍には千石、二千石、三千石、八千石までの賞が与えられている。
一番乗りには、豊臣秀吉は、一万石を宛てがうべきと定めたそうである。

保元・平治より織田信長の頃までは、槍という功名はなかった。信長の頃より、槍を以て世に誇るようになって、
それより皆以って、槍にあらざれば功にならない程に成った。

(士談)

60人間七七四年2017/06/25(日) 14:25:04.95ID:92x/1vvH
安定の毛利勝永

61人間七七四年2017/06/26(月) 09:38:11.31ID:W+BjMk6D
ある人、敵より攻められている城より、扱いを乞う和談の使いとされて城外に出ることとなった。
この時大将初め諸侍それぞれ言った

「御辺は、大勢のうちから特に指名されて城外に出ることとなった人物であるので、今更言うには及ばない
だろうが、城中のこと、少しでも弱みがあるように云っては、扱いに成りにくいものである。
随分城中の強みを語り、兵糧弾薬等までふんだんに有ることをよくよく言い聞かせられ然るべきである。」

使いの侍
「委細、相心得ております。古来よりの作法でありますから、宜しく申すでしょう。」

そう言って外へ出、寄せ手の大将の所に至ると、先ず湯漬けを望んで2,3杯を食し、その上で酒を望み、
これを飲んで申し上げた

「城中では、先月の5日より10人を以て一升扶持にしていましたが、今月に入ってそれも配給できず、
酒などは大将物頭ですらろくに口に入れることも出来ず、味噌などは皆消費し尽くし、今では一口舐めるのも
古の雁鴨の料理よりも大切に存じています。」

寄せ手の歴々聞いて、未だ兵糧は潤沢と考えていたので意外に思った
「これは思っていたのと相違している。しかしながら左様な事も有るだろう。久しき籠城であったのだから。」
「さて、弾薬の方はいかがか?」

「弾薬もまた、只今は不通にこれ無く候。」

「そういう事であれば、何故に今まで城から出ず、籠城しているのか?」

使いの侍、言った
「その事です。若年の者たちは『これではどうにも成らないから、一方へ切って出て、一同に討ち死にすべき!
必ず一報をば打ち破ります!』と主張しているのですが、大将も物頭も奉行どもも、物資が残っている事を理由に
同心致しませんでした。そこで彼らは『同心無くてももはや一方へ切って出て打ち抜くべし!』と言い出し
ましたが、大将が強いて抑留しことで、さすがに打って出ること出来ず、今日まで引き伸ばされております。」

「その、打って出ると主張している人数はいかほどなのか?」

「それも僅かに、百七,八十人ばかりです。雑人や下々は存じもよらぬことで、ただ侍分の者ばかりこれを
主張しています。」

これを聞いた寄せ手の者たちは談合した
「この使いの申す所、一々偽りが無いようです。であれば、仮に百七,八十人の侍が必死の思いをなせば、
寄せ手が勝利したとしても、大勢の死傷者が出るでしょう。ここは和談を用いるべきでしょう。」

こうして和議が整い、城が明け渡された時、兵糧雑器は未だ山のように残っており、弾薬も大量に
備蓄されていた。ただし、打って出ることを決意した人数を百七,八十人と言っていたが、実際には
十七、八にんも居なかったという。

この扱いの侍、優れて才の逞しき者と言うべきであろう。

(士談)

62人間七七四年2017/06/26(月) 16:27:33.20ID:SoVYyyyF
なるほど。舐めてかかって来るならば潤沢な弾薬で一捻りするのか

63人間七七四年2017/06/27(火) 10:16:38.98ID:T68U6Os8
兵糧弾薬残ってるのに城明け渡すなんて利敵行為じゃないの

64人間七七四年2017/06/27(火) 17:54:58.72ID:1VN7Msjq
信濃木曾義昌の家臣に、知村、山村という者があった。木曾義昌没落の後、両人ともに流浪していたのを、
徳川家康が関東において堪忍分を与えていた。

関ヶ原の役の折、家康は木曽路の通行の安全を確保するようにと命じ、ここに知村、山村の両名を、
先遣隊として遣わした。

そこで、鳥井峠の”こなたならい”という場所から、山村は福島(木曽福島)方面に手のものを遣わし、
説得することによって大方は徳川方へと属した。しかし未だ完全に徳川方となった状況ではなかったが、

「先ずは木曽福島が別状無く徳川に随身した旨を注進仕る」

そういって飛脚を馳せて、『木曽福島は相違なくこちらに従った」と家康へ言上した。

この時、知村はこれを危ぶんだ
「まだ木曽福島に実際に足を踏み入れておらず、この先どうなるかもわからない。なのにこのように、
逸りすぎて注進を行うのはいかがだろうか。」

しかし山村はこう言った
「勿論、この先どうなるかわからない。だが、我等が今まで接触した者たちの反応がこれほど様子の良い
状況である以上、別状はないだろう。それに、木曽福島を従えることが出来なければ、我等は再び
家康公に対面など出来ない。このような時分は急ぎ注進すべきなのだ。」

これに知村も止め得ず、注進に連署した。

果たして木曽福島に入ると、かつての木曾義昌の居城であった木曽福島城も難なく抑えることが出来た。
この時、木曽福島の者共の人質は、西軍の石川備前守(貞通)の催促により尾張国犬山城に入れ置かれていたが、
「木曽福島城が取られた以上、所々の人質共をここで殺すのも詮無きこと。」と、皆これを開放したという。

山村の策略が完全に当たったわけで、これは才の逞しさによるのであろう。

(士談)

65人間七七四年2017/06/27(火) 17:57:52.98ID:Ova7GEms
結構、綱渡り染みたことをする人多いんだな

66人間七七四年2017/06/27(火) 22:45:16.96ID:PO/13QAR
山村さんって材木管理だけかと思ってたから意外だった

67人間七七四年2017/06/28(水) 02:03:20.70ID:7LGw2mJr
貞通じゃなくて貞清じゃね

68人間七七四年2017/06/28(水) 07:13:40.33ID:fETTublr
テレビから出て徽宗

69人間七七四年2017/06/29(木) 00:04:31.96ID:RInqlD5Z
淀殿に仕えた各務兵庫の娘


森家の家臣・各務兵庫(元正)には息子が2人、娘が5人いた。
長女は森重政の妻だった。
次女は大坂衆で落城後に切腹した竹光伊豆の妻だった。
三女は丹後の田中七兵衛の妻だった。
四女は作州の各務勝太夫の妻だった。
五女は淀殿の侍女だった。

大坂城が落ちる前、淀殿は不憫に思い城を出るように勧めたが
どうあっても出ていかない旨を述べ、小脇差を懐に差したという。

後に京極高知の側室となり一男一女をもうけた。


――『武功雑記』

70人間七七四年2017/06/29(木) 06:23:26.13ID:Tm2U+4xu
脇差が欲しかったのか

71人間七七四年2017/07/01(土) 09:35:57.74ID:or08M729
加藤左馬助嘉明が伊予の松山にあった時、藤堂和泉守高虎は今治に在城していた。
松山の枝城には、嘉明の弟・主馬が置かれていた。これは今治領との境目であった。

ところが、この境目において在地の争いがあり、高虎の領分の百姓が、主馬支配下の百姓に
殺される、という事件が起きた。

高虎は堪忍致せぬ事態であるから、主馬の所へ軍勢にて押し掛け城を踏み潰すとの噂もっぱらとなり、これが
飛脚により嘉明に伝えられた。これを聞いた嘉明は扇子を手に持ちながら
「さればこそ 人かよいけり あさぢはら」
という歌の上の句を2,3度唱え、暫く黙っていたが

「今、弟を人に殺されて堪忍することは出来ない。今後どうなろうとも、是非出陣して
高虎を討ち果たすべし!未だ主馬が死なぬうちに後責め致すべし!」

そう言って即座に陣触れし、その夜の五つ(午後8時ころ)出勢と決め、諸士ひしめいた。
老臣たちも黙ってこれに従った。

しかし、河村権七といい、彼はこの頃まだ若年で、家老の列に入っていたが末座に控えていたが、
彼が進み出て四方に主張した

「今少し、後思慮なされるべきです!何故ならば、今から出陣いたしましても、高虎の勢が
主馬様の所を攻撃するのに間に合いません。また噂だけで実際に藤堂勢の出勢がなければ、我らが
陣触れして出撃する意味もなく、かえって公儀を軽んじて私の軍を起こしたとの批判も受けるでしょう。
特に藤堂は公儀において重んじられていますから、何を企んで我等に対し手段を致すか、はかりかねます、
今少し実否を正して、その後に後出勢なさるべきです!」

これに嘉明も屈し、その夜の出勢は中止となった。二時(約4時間)ばかりを経て注進があったが、
藤堂の出陣は噂だけで実際に軍が動く様子はない、との事であった。河村の才知が功を奏したのである。

その後、藤堂高虎は公儀に対し「加藤嘉明は境目の紛争で我儘をいたし、陣触れまで行った」事を、
数通の実例を上げ申し上げたため、嘉明の立場は難しいものとなり、身上破却に至る寸前まで行ったが、
様々に弁明し別状無かったという。

(士談)

72人間七七四年2017/07/02(日) 20:52:52.10ID:PL4U7vUW
尾州の西琳寺という寺に順正という長刀の術に熟達した僧がいた。順正が祖始旧跡24輩の巡礼をなして
棚倉に到った時に霖雨のためしばらく逗留することとなった。
一夕、領主の立花宗茂公を訪ね意気投合し、公から寺をこの地に移すことを勧められた。
順正がそれを承諾したため、宗茂公は白指山の山号を自書して与え、それを以って証左とした。
尾張に帰った順正が転寺の準備をしていると、宗茂公が柳河に再封されたため、
順正は宗茂公に従って柳河にやってきた。宗茂公は一寺を創建して順正を開山とした。
それが白指山西琳寺である。
(旧柳川藩志)

尾張の僧侶が奥州棚倉で誘われて九州柳川に移住したという話

73人間七七四年2017/07/03(月) 02:17:14.03ID:pm5eutU1
筑紫町にあるんだな。今度訪ねてみようかな

74人間七七四年2017/07/03(月) 18:17:25.88ID:8WDBP3oZ
羽柴秀吉が、自らを関白に任じ天下のことを預かり白すべき事を望んだ時、禁裏は勅定として

『古より執柄に任じられる家は定まっており、藤原氏が相続している。秀吉の姓はいかなるや。
このような事は、その姓に従っているものである。』

とあり、伝奏もそのように秀吉に説明した。

秀吉はこれを聞くと

「私は元百姓の子であり、姓氏ともにあらず。天子はこれを知り給いながらかくの如き勅定、
甚だ以て心得がたし。

ここで考えてみるに、往古より、生まれながら姓氏を持って出て、これぞ源平藤橘と、
自然に相備わるような事はない。時の天子がその生縁に因ってその姓を賜り、その人の住む場所により
在名を名乗る。

しかれば我、今武威を以って天下を併呑した。天子はどうして相応の姓を与えないのか?

また関白職が藤氏に限定されるというのもこれまた心得がたい。
関白は天下の政務を預かり四海の権を執る職であり、今この職に任じられるのは私以外に誰がいるというのか。
藤氏歴代関白に因循するといえども、ただ有名無実な存在であり、何の意味もない。
かつて朝廷が関白職を設置した由縁を、能く考えてみることだ!禁裏にはそのように返答してほしい。
よき勅答を待つ。」

これにはさしもの伝奏の公卿も、言葉もなく退出した。
そして天子はついに豊臣の姓を下し、秀吉を関白の職に任じた。

(士談)

75人間七七四年2017/07/03(月) 20:50:35.25ID:pm5eutU1
関白就任は棚ぼただったんだよね
この話の様に姓のせいで関白就任が断られたなら別に太政大臣でもいい気がする
清盛の前例があるし

76人間七七四年2017/07/04(火) 12:07:16.30ID:Z7UEEGAF
弘治元年10月、陶晴賢が芸州厳島に押し渡ったのを、同月30日大風雨の夜、毛利元就は押し渡って、ついに
陶を討ち果たした。いわゆる厳島合戦である。

この合戦は大事の軍であったから、陶晴賢の元より、伊予の河野へ船を借りに遣いが出された。
同日に、毛利元就よりも河野に船を借りに来た。
この時、陶晴賢は何ということもなく船を借りた。
毛利元就は「一日の間貸され候へ。厳島に渡りてやがて戻すべし。」と云い送った。

河野家の重臣であった村上通康はこれを聞いて
「少しのことながら、思い入れが違う。毛利が必ず勝利するだろう。」
そう考え毛利家に船三百艘を貸した。はたして陶晴賢はその合戦に打ち負けて、中国地方は悉く元就に属した。

(士談)

77人間七七四年2017/07/05(水) 17:39:23.39ID:qhAAv/+d
 毎日城を見廻っては普請などを命じ、朝飯は城より弁当を取り寄せて、
所構わず道端や堀の端で食事をし、その日の普請の当番には声をかけては話を聞いた。
侍屋敷の前では畳を一、二帖借り出して敷物とし、結構な仕立てを嫌って、いかにも質素であることを好んだ。
 寺の門前に無用な植木などがあれば、この木を掘り除き、茶を植えて信徒たちに茶を分け与えるよう指示した。
また知行所は残らず見て廻り、農家の周りに堀があれば用心は田中に任せよと言い、堀を埋め立てさせ稲や畑を作らせた。
年貢高を決めるための調査には自ら赴き、作柄の見立てを行って収穫のよしあしに従って年貢率を決めたので百姓たちは喜んだ
 また、罪人があると、首を切る代わりに荒地の開墾をさせるこのような仕置きは九州小倉の越中殿にも聞こえていた。
知立から西尾の間にある三里に及ぶにし野という芝原を囚人たちを使って開墾させ、
ここに松を植えたので後にここは松原となって毎年塩木として売る事ができるようになった。
(石川正西聞見集)

塩木(海水を煮沸し塩を作る際の薪用の木)

田中吉政、岡崎時代の統治

78人間七七四年2017/07/06(木) 11:00:20.83ID:shzTRTJ6
 秀吉公の於萬(秀次)様は秀吉公の鳥取陣に供をして当国に来ていて、宮部継潤に養子として預けていた。
宮部の陣所辺山森という要害には、役者も数多く居た。落城後は秀吉公播州へ帰陣して、
於萬様は当城に留まり宮部に養育されていた。
天正十年の春には秀吉公は何を思ったか播州に送り返せと命じられ、
継潤に家老として友田左近右衛門か田中久兵衛(吉政)二人のうち一人を付けろと併せて命じられたので、
田中久兵衛を付けた。
この二人宮部家中では才覚武勇優劣付かない侍で、秀吉公も内々召し抱えたいと考えていて、
特に友田を望んだのだが、継潤が惜しんで出さないと考え両人のうち何れかという形にされた。
案の定友田惜しみ、田中の方を差し出してきた。
後於萬様は播州に帰り、秀吉公は近くに置いて大変可愛がり、次第に成長して元服した。
(因幡民談記)

79人間七七四年2017/07/07(金) 06:18:01.37ID:E7nZay3K
 長顕(田中吉次)、軍に従えないことを憤って、父に訴えたけれども許されず、長顕手勢30騎ばかりを引具し忍び出て、父に先立って馳せ参じた。
(田中)吉政これを聞いて大いに驚き、池田侍従(輝政)に事情を告げた。輝政が吉田城を守らせていた竹村彦右衛門のもとに早馬を立て、長顕を押し止むべき由と下知した。
長顕は吉田の城を避けて本坂城を過ぐるところを竹村は追いかけて吉田の城に伴わせようしたところに輝政より飛脚が到来して、止める必要はないという。
是は徳川殿、長顕の志の程を感じ許すことによって父子共に向かう
(藩翰譜)

関ヶ原時、東海道の大名が自分の城をと人質を家康に差し出すも吉政の人質が江戸からが逃げてきたという逸話

80人間七七四年2017/07/07(金) 06:26:22.82ID:E7nZay3K
いい話に書いちゃったけどまあいいか

81人間七七四年2017/07/07(金) 17:09:42.14ID:ssyeJvnd
神君(徳川家康)は、

「武道を嗜む士は、戦場へ赴くからには必ず死を遂げるという心掛けが
なければ叶わない。白歯の者は、歯が黄色にならないように心掛けて、
髪も香りを留めるのが良い」

と仰せられたということである。

上田主水入道宗古(宗箇)と申す武士は、

「討死の首になった時のことを心掛けるべきである。されば月代が後ろ
下がりでは首になった時に詫び言顔になって見苦しい。

それゆえ、後ろ高(後ろ上がり)に剃るのが良い。その前日には月代を
剃って首を綺麗に致す心掛けが第一である」

と申した。

――『明良洪範』

82人間七七四年2017/07/07(金) 23:31:50.02ID:ORWkGDa9
白歯のものってなんつうか初めて聞いたな

83人間七七四年2017/07/08(土) 11:11:46.03ID:PtOrjCfS
 三成は並の者ではないので、今日落ち人となりても明日は又様々な謀略を企むことも考えられる。
したがって田中を一人に捜捕させるのはいかがなものかと私議するものもいた。
しばらくして吉政は石田を捕らえ出て進じた。
その時、田中はかねてより治部と仲がいいゆえに少しも疑いがないとはいかなったが
此度の功によって我が疑いは晴れたと仰られた。
諸人は初めて盛慮の深淵を感じた。
(徳川実紀)

84人間七七四年2017/07/08(土) 20:36:43.42ID:kOydjY6e
読売新聞に載ってたので。
兵庫豊岡でラスボスから茶々への愛の見舞状
秀頼公出産直後に贈られたもので、10月7日から11月26日まで兵庫県姫路市の県立博物館で公開されるそうな。
内容は茶々が高熱を出し、何度も灸をすえて体調が回復したのでそれを喜んだもので、
「これから食事をしっかりとるように。また秋刀魚を送ったので味わうように」とねぎらう一方で、追伸でこんなことも書いている。
「灸が嫌いなはずなのに、それほど高熱だったと聞きましたさすがは拾のおふくろです。」
ラスボスの細やかな性格と茶々への愛情の深さがうかがえると記事には書かれていました。

85人間七七四年2017/07/09(日) 01:30:12.47ID:2VY1cRSN
 この国(筑後)の殿(田中吉政)は一般的にその発展を妨げずにいたところ、
眠ってはいけない悪魔は、その手下である数人の異教徒を通じて、
その発展を邪魔するだけではなく、殿が発した若干の言葉をきっかけにして
既にキリシタンになっている人たちを帰京させることさえ望んだ。
その言葉とは父祖の教法を変えるのは望ましくない、というものであったが、
彼らはその言葉の意味をねじ曲げて自分たちの邪な悪意に従って解釈した。
こうして、かの異教徒たちは、殿の公の役人であり、
キリシタンがいる数ヵ村を治めていたので、
既にキリシタンになっているものは回心せよとそれらの地区に布令を出した。
(中略)
 さて、キリシタンたちがこのような窮状におかれているときに、
殿がたまたま司祭たちの修道院に来て食事をし、そこにある楽器を見た。
その折、司祭に対してすこぶる愛想がよく、優しい態度を見せ、
(司祭は)彼に大いに敬意を表して厚くもてなした。
キリシタンは、自分たちがキリシタンたちに対し企んだことを殿がもし知ったならば、
よい結果にはなるまいと考えて、その悪企みを断念することにし、
キリシタンたちは自由に、平穏になり、敵たちは困惑し恥いった。

(イエズス会日本報告集1−4)

86人間七七四年2017/07/09(日) 16:47:58.14ID:XGOtj05r
図書館ってこんなサービスしてるの?
どこでもやってる?

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000179545

87人間七七四年2017/07/10(月) 13:41:31.93ID:FFhxfwX+
永禄13年、駿河花澤城を武田信玄が攻めた時、武田方の落合治部が討ち死にした。
その頸を敵は取ろうとし、一方治部の弟である左平次は兄の死骸を戦場から退けようとして、
このため敵味方入り乱れての競り合いとなった。

この時、信玄の旗本衆は高台よりこの様子を見て、旗本の総攻めのように、一斉に鯨波の声を上げた。
これを聞いて敵の兵は皆、旗本衆の攻撃があると考え城に入り、左平次は無事、兄の死骸を
退けたという。

(士談)

88人間七七四年2017/07/11(火) 12:47:58.44ID:F9sSnusY
佐久間不干斎(信栄)が織田信長の叱責により高野山へと立ち退く時、その道中に
野伏が殊の外起こり、通行が非常に困難となった。

この時、佐久間不干の側には唯一人、当時16歳であった山口修理亮重政が付いていた。
彼は飛脚のように先行し、先々で所の名主にこう申し触れて廻った

「佐久間不干が明日、ここを通られる!罪過はご赦免されているため、郷人どもがもし
一人でもこれに手を出せば、後日御詮索あって、必ず罪を問われようぞ!」

翌日、佐久間不干の通行を妨げる者は無かった。

(士談)

89人間七七四年2017/07/11(火) 19:44:28.37ID:3R43EUyZ
>>87
前にも「鬨の声と言えば」ていうので出典不明で出ていた

ついでにこの漫画ではなぜか上杉との戦いってことになってる
ttp://i.imgur.com/yLfJKkM.jpg

90人間七七四年2017/07/11(火) 19:58:20.11ID:I0EiXcXu
>>88
これ信長の威光の話だよねw

91人間七七四年2017/07/11(火) 23:10:38.34ID:3vZPBYkw
>>89
この頃の民明書房の真実味は異常

92人間七七四年2017/07/11(火) 23:23:03.03ID:/jTE09E/
真田信幸も岩櫃城に家族と避難するときに鬨の声をあげて
盗賊や乱波たちを追っ払ってたっけ
加沢記だから信憑性怪しいだろうけど

93人間七七四年2017/07/11(火) 23:29:38.91ID:oXS0/r1j
信長は稲生で林の手勢に囲まれたときに、大声でわめいて相手を追い散らしたね

94人間七七四年2017/07/12(水) 16:08:52.56ID:7chqTk7M
天正15年、豊臣秀吉の九州征伐の時、豊前の岩石城に熊谷越中という者が、多くの人数とともに立て籠もった。
この方面の先手の大将は堀左衛門督(秀政)であり
「岩石は良き城なれば攻め損じては後に影響を与える」と、蒲生氏郷をこの城の押さえとし、
秀吉は秋月へと向かった。

この時、蒲生氏郷は岩石城の様子を詳しく見届けるために、斥候の侍として、吉田兵助、周防長丞の二人を
派遣した。二人は岩石城の状態、また麓の様子などを見て回ったが、そこにはひと一人無く、食を食べた
跡もあったが、飯粒は乾いていた。
これを見届け、その通りに報告した。

次に氏郷は、布施二郎右衛門、土田久助の二名を岩石城に遣わした。
二人が帰って報告する話も、前の報告と特に違いはなく、また先の飯粒の他に、一体いつ退去したのかを
知れる証拠も無かった。

その後さらに、蒲生四郎兵衛に「見てくるように」と斥候に出した。
四郎兵衛は見て帰り

「岩石城の者たちは10日以上前に退去しました」

と報告した。

「その仔細は?」

「このあたりでは10日ほど前に雨が降りましたが、その後降っていません。
また、道道には足跡が見つかりませんでした。雨の降った後まで居たのであれば、必ず足跡が
残っているはずです。」

この報告に氏郷は「見るべき所を見ている」と、褒美を与えたという。

(士談)

95人間七七四年2017/07/16(日) 14:47:54.59ID:+Kef9Q/f
朝鮮征伐の時、高麗において漢南の加勢が、百万の大軍にて押し来たるとの情勢の中、
日本軍の兵士たちは疲れ果てており、気は弱り勢いも遅れていた。

この時、加藤清正は早朝に出てきて兵士たちにこう語りかけた

「昨夜、珍しき瑞夢のお告げがあった。今日、押しゆく所の道に必ず大きな石がある。
これを引いて帰れば、戦は必ず勝利するということを、まさしく私は見た!
夢は信じるに足らぬものだというが、合戦に挑む前表、吉凶必ず著しきものなのだ。」

そう大いに喜んで押し行った所、はたして大石があった。清正はこれを見るや

「その形、昨夜夢で見たものと聊かも違わない!天のお告げであること、明らかである!」

そして自身で石の上に上がり、大声を上げて木遣をして兵士たちに引かせた所、諸軍大いにいさみ、
問題なく引いて帰った。そして軍士たちはこれに気をはげまし、大いに勢いを取り戻したという。

(士談)

96人間七七四年2017/07/17(月) 09:29:47.75ID:PQvx1qrF
悪い鼻スレが落ちてたので立ててみる

97人間七七四年2017/07/17(月) 09:32:37.88ID:PQvx1qrF
出来た。悪い話はこちらに

戦国ちょっと悪い話45 [無断転載禁止]©2ch.net
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1500251516/

98人間七七四年2017/07/17(月) 09:40:10.62ID:UXe2nase
>>97
おっつー

99人間七七四年2017/07/17(月) 13:37:28.76ID:6zIr1JCj
戦国時代の男色にまつはる佳話を是非ともお聞かせ願ひ度いものぢや。

方々、何卒よしなに頼み入り申す。

愉しみにして居りますぞ。

100人間七七四年2017/07/19(水) 05:54:26.93ID:cQO9i7mY
岩村城には石川五右衛門偽上使の伝説がある。豊臣の天下の時、岩村城主
の田村中務大輔(直昌)には嫡庶の二子があった。

やがて中務大輔が病にかかって瀕死の状態となった時、この二子を中心に
御家騒動が起こった。しかし庶子である次男は、実は佞奸な家老の

倉元甚五右衛門の姦通の子で、倉元は庶子に家督を継がせて主家の横領を
企てたのである。これを推知した中務大輔は腹心の小姓・金森林念に、

家督相続の遺言状を託して間もなく世を去った。忠臣の金森は思案の上で
騒動の顛末を関白・豊臣秀次に注進したので、秀次は使者・福原団七郎を
岩村城に乗り込ませて一切を解決させることにした。

これを探り知った石川五右衛門は、「良き機会ぞ」と、すぐに団七郎の家臣を
手に入れ、途中<十三峠辺りであろう。また岩村城下玄吾坂下ともいう>で
待ち伏せて団七郎を殺し、自分はすっかり使者に化け込んで、

行列厳しく岩村へ到着した。偽使者をすぐに訪れたのは奸物・倉元だった。
彼が多分の金子を賄賂にして帰ると、まもなく小姓・金森は密かに訪れて、

倉元の悪計の一部始終を訴えた。さてその翌日、五右衛門はいよいよ城入を
なし、倉元を利用して散々腹を肥やしてから、

彼の悪事数々を満座の中で弁じ立てた。その後、家督は無事に長男へ譲られ、
倉元は死刑にされて騒動は落着したという。これは五右衛門一代を通じての
大義賊伝として講談などにも読み込まれている。

――『恵那郡史』

101人間七七四年2017/07/19(水) 06:48:10.45ID:pTcGI5g6
>>100
この岩村城ってのは美濃の岩村城でいいのかな?

102人間七七四年2017/07/19(水) 07:11:21.70ID:aF6T985F
福原さんかわいそう

103人間七七四年2017/07/19(水) 07:13:57.71ID:SMPelxR4
義賊()

104人間七七四年2017/07/19(水) 09:25:43.91ID:PTyFtPRC
美濃岩村なら関ヶ原で改易された田丸中務大輔直昌のことなのかな

105人間七七四年2017/07/21(金) 10:03:56.50ID:WpG9uMxK
天正13年、羽柴秀吉による四国征伐の折、伊予金子城の籠城戦において、長宗我部方の藪内匠と、
毛利家の士、児玉三郎左衛門との槍合わせは、世の人が大変に話題にした出来事であった。

後に、本多佐渡守正信が児玉を招いて、その時の働きの様子を詳しく尋ねた事があった。
しかし児玉は「前後の次第を忘却してしまいました。」と言って、終に語らなかった。

その後、ある人が児玉に、何故語らなかったのかを尋ねた。児玉は

「藪内匠は、今ではその名が世上に流布している有名人である。彼が話した内容のとおりに
私も語れば、相違なく然るべしであろうが、もし私の言う所と創意があれば、人から褒貶もあり
よろしからぬ。

私は現在、武功を主張せねばならないような立場で江戸に来たわけではない。忘却したと言っても
失うものはない。また内匠について悪しざまな評判が立つのも本意ではない。」

正信もこれを後で聞いて、その志を深く感じたという。

(士談)

106人間七七四年2017/07/21(金) 13:34:57.53ID:T5B68rgu
ヤブタクミ?

107人間七七四年2017/07/22(土) 18:44:44.31ID:q3SVQupX
織田信長の初めの頃、柴田勝家と坂井右近(政尚)の二人が軍奉行を担当し、織田家の弓矢のことは
全てこの二人が指引した。信長はここに「蜂屋兵庫頭(頼隆)をこの両人に加えるように」と命じた。
蜂屋は武功抜群の者であった。

ところが柴田と坂井は、信長に対し
「蜂屋を加えられるのであれば、我々は軍奉行の役儀を返上します。」と、強い拒絶を表明した。

信長はこれを聞いて、
「こういったことは両人も進んで同意すべきなのに、そうしないのは不審である」と、
再び使いを以て命じたが、両人は猶以て役儀の辞退に及んだ。

信長はやむを得ず、両人に対し何故蜂屋を加えるのかを、直に説明した。

「蜂屋については、お前たち両人と同じ武功も者であるとは考えていない。だが彼は
諸事口才のある者である。合戦の最中、戦場から両人のうち一人帰って報告を行わなければ
いけない事もあるだろう。またこちらから両人の一致した判断に疑問を持つこともある。
そういう時、蜂屋を加えておけば、私の元に使いとして送るときも、また判断について
問い合わせるのにも便利ではないか。」

柴田、坂井はこの理に納得し、反対を取り下げたという。

(士談)

108人間七七四年2017/07/23(日) 02:08:28.81ID:4+4ziU7k
始めの頃っちゃまだ尾張の頃かな?

109人間七七四年2017/07/23(日) 12:03:46.98ID:1Pz0svPG
蒲生氏郷が、その頃の伯楽(馬を見分ける名人)である”こつひら”という者に尋ねた

「早い馬というのは、前足の地面を蹴る力の故に早いのだろうか、それとも後ろ足の捌きが良い故に
早いのだろうか?」

こちひらは申し上げた
「馬は、後ろ足の捌きが良い物が早いと存じます。」

これに氏郷
「私は幼若の頃より織田信長卿の傍に昵近して、目にも見、耳にも聞いたこと多い。
弓矢のことは、先を追い立てられた場合、二の手を以って持ち返すのは非常に難しく、
ただ先を第一とするのが肝要なのだと、信長卿は常に仰っていた。
ここを以って考えれば、前足のよく効いた馬の方が早いのではないかと、私は思ったのだ。」

こつひら、謹んで申し上げた
「私はいやしき業の者ですから、左様な高きわざの事は存じません。ですが、私は元西国の出身なのですが、
船の往来を見た時、前櫓よりは後ろのとも櫓に上手な水夫を立てて押したほうが、船は早くなります。
前櫓が良くても、とも櫓の押し手の能力が低いと、船は満足に動かないものなのだと見えました。
船も馬も、遅速のことわりは同一の物であると考え、ご返答したのです。」

(士談)

110人間七七四年2017/07/23(日) 12:10:18.68ID:UWC8+0GP
新庄「バッティングで大事なのは腕ですか?腰ですか?」

野村監督「どっちもや」

を思い出した

111人間七七四年2017/07/23(日) 12:27:22.34ID:NJfbG9iN
こういうのを拗らせると、拍子を打った時に音が鳴るのは右手か?左手か?みたいな話になっていくんだな

112人間七七四年2017/07/23(日) 14:36:31.16ID:5Vt6clig
マキバオーのマスタング走法

113人間七七四年2017/07/25(火) 05:04:18.56ID:k9GLkaDF
・丈巌岩(岐阜県鶴岡村田代)

元和元年大坂落城の時、城を逃れ出た浪士で、近江大吉寺で法師になり
丈巌院弟慶と称した者がいた。

この者は徳川方の捜査の厳しさに、ついには寺を逃れて鶴岡の地に至り、
家を構えて付近を開拓し、世を避けて隠れ住んだ。

ところが、またもや探知されて捕手の人数が押し寄せた。丈巌院は山上の
大岩に上り、釜を被って兜に擬し、太刀を打ち振るって法螺貝を

吹き鳴らした。その凄まじい勢いに恐れをなした捕手の者共は、ついには
引き返したのだという。この岩を名付けて“丈巌岩”というのである。

――『恵那郡史』

114人間七七四年2017/07/28(金) 00:45:57.36ID:5+Yov4kP
日本国に歌道が流行れば


細川幽斎の弟子松永貞徳の『戴恩記』に出て来る幽斎の思い出話。

あるとき(幽斎が)丸(貞徳の自称)の数寄の程が
あはれであると仰せられた時だったか
「日本国に歌道が流行ればそこも人に知られるでしょうにね」
と仰せられたので、丸が気が済むまで
「丸はこれが流行らぬのは幸せだと存じています。もし流行れば
 大名高家の人が我先に(幽斎の)御意を得られるでしょう。
 そうなればいつわたくし如きの者が御前に出られるでしょうか」
と申すと、尤もですねとお褒めになられた。

またあるとき、(幽斎が)
「禅定殿下(九条稙通)から源氏物語を御相伝されていれば
 御身とは弟子兄弟になっていましたね」
と冗談を言われたので、丸が思い切り
「よき御兄弟を持たれることは、誠に御果報並々ならぬ事ですね!」
と申し上げれば、一層機嫌よく笑われていた。

115人間七七四年2017/07/30(日) 16:42:29.39ID:GEqodZar
武田信玄の時代、武田家の武士の常々の慣習として、、道において、一人は騎馬、もしくは足駄(雨天用の
高下駄)履いていて、もう一人が歩行で行き会う場合、その両人がたとえ仲が悪くても、歩行の者が
物陰に隠れるのが当然とされた。そして騎馬、もしくは足駄の者は遠くで地面に降りて時候の挨拶をする。

先に歩行の者が物陰に隠れたのは、馬から降ろないでおこうという思いやりであり、武士としての
礼儀である。このように人が例をしたというのに、これに挨拶を返さないのは非義というものである。
また用心のためにも、騎馬のものは降り足駄を履いていれば脱ぐのは、良き武士の作法である。

しかし馬に乗ったまま通るのなら、降ろすことは無用である。それは相手が武士の作法を知らぬ女侍なのだ。
逆に徒歩の者が傲慢で「降りよ!」などと言い掛けて来るのなら、それは降りる必要はない。
降りるくらいなら相手を討ち果たすべきだ。

もし又、親兄弟の敵のある者が徒歩で通る時、狙われる人が騎馬で行き会った場合、
狙われている者は「御使に参る!御免候へ!」と、嘘を慇懃に言って乗り通れ。
こうすれば狙う人も討たないことが不覚にならず、騎馬のまま退けば追いつかれることもない。

(士談)

116人間七七四年2017/08/02(水) 01:15:04.30ID:qWCCf7Sp
○ 重箱獅子舞(三郷町野井)

口碑によれば徳川家康が武田氏と戦い、利なくして逃れて野井に来た時、

たまたま村民らは村社武並の祭典に集い、神前で酒を酌み、興に乗じて
重箱を戴き袱紗を被り舞っていた。

家康は、「ちょうど良い」とその群れに入り、ついに敵の危難から救われた。
家康は天下統一の後、この武並社の祭礼を重んじ、

“重箱獅子の舞”を奨励した。毎年の例祭には岩村藩主に使臣を遣させて
獅子舞を臨検させ、野井祭の名が高かったという。

今なお、重箱獅子の舞を伝えている。

――『恵那郡史』

117人間七七四年2017/08/02(水) 01:17:29.09ID:DdYy0X2r
なんでもかんでも三方ヶ原のせいにすればいいと思うなよw

118人間七七四年2017/08/03(木) 05:14:39.58ID:UnR9P03U
賤ヶ岳の戦いの折、堀秀政の陣へは、佐久間玄蕃(盛政)の進出した中しきり方面、並びに賤ヶ岳方面より、
しきりに加勢助力の求めがあった。このため、秀政はすぐに兵を出そうとしたが、これを
堀七郎兵衛(利宗、あるいは道利)と云う者が抑えて申し上げた

「勝家の柳ヶ瀬の陣から玄蕃の陣に向けて、使いが切々と往来しているのを確認しました。これは、
玄蕃の行った中入から、早く引き取れと伝えているのだと考えます。
もし玄蕃が中入を引き取るとすれば、もと来た道を帰らず、中しきりを突き抜けて帰陣しようとするでしょう。
然らば我等はこれと一戦しなければならない場にあります。
また玄蕃が引き取らないのなら、勝家が必ず、本軍を中しきりに押し寄せて合戦を始めるでしょう。

この2つ以外の方針はありえません。ですのでここで我が兵を分散すること無く、その節を待たれるべきです。」

「しかし玄蕃が引かず、勝家も出てこなければどうするのか」

「その時は勝家の運がここに尽きた、という事です。」

そう言ったが、はたしてその通りとなった。

この堀七郎兵衛は、かつて明智光秀との山崎合戦の際、堀尾吉晴の軍が天王山に駆け上がり、秀政の軍も
その後に続こうとしたのを止め

「山上の味方は崩れるでしょう。然らば彼に続いては供崩れとなります。別の場所より登るべきです。」

秀政はこれを聞き入れ別の場所から登ったが、はたして先手の堀尾の軍は敗れた。しかし別場所より
上がってきた堀軍が横槍を入れる形となり、大利を得た。これも七郎兵衛の策略であった。

(士談)

119人間七七四年2017/08/04(金) 04:47:25.63ID:++S31VTs
大久保玄蕃頭(脚注:玄蕃頭忠成)は小田原陣の時に13歳。権現様(徳川家康)
に直訴して小田原へ御供し、御馬の側にいた。玄蕃頭は大筒の鳴る音を聞いて、

驚いて頭を下へ下げられたため、権現様は御覧になられ「侍の子はその様には
せぬものよ」と仰せになった。そのため玄蕃頭は、

それからは鉄砲の鳴る中を通るたびごとに、飛び上がり飛び上がり致された。
(それより鉄炮のなり通る度ごとに。飛びあがり飛びあがりいたされ候。)

――『武功雑記』

120人間七七四年2017/08/04(金) 06:35:41.31ID:BUqreTBj
>>119
余計にびっくりしてるような

121人間七七四年2017/08/04(金) 09:05:23.56ID:YjmFAJXA
>>120
うんw

122人間七七四年2017/08/04(金) 11:17:39.14ID:UKPuWRly
秀忠、江戸城内に孫の遊び部屋を作る


元和7(1621)年、越前藩主松平忠直は病を理由に江戸の参勤を止め
自身は北庄に帰り、代わりに嫡男で7才の仙千代(光長)を参勤させた。

忠直は秀忠の娘婿で、庶兄の結城秀康の嫡男でもあったが
家中の騒動や本人の不行跡などが重なり、元和9(1623)年には配流される。
秀忠はそのとき既に思うところがあったのか
十月に叔父の松平直政と共に登城してきた仙千代を、殿中で養育することにした。

公(光長)はいまだ中剃がなかったので、将軍(秀忠)が自分の手でこれを剃り
夫人(お江)が髪を結われ、その間土井大炊頭(利勝)が(光長を)抱えていたという。
また、仙千代の為に遊ノ間を造らせ、柱などは(光長が怪我をしないよう)
悉く天鵞絨(ビロード)で包んだ。
――『美作津山松平家譜』

孫が可愛い秀忠の話。

123人間七七四年2017/08/04(金) 11:41:44.44ID:JM7Qhewf
葵徳川だともし家光に嫡男が出来なかったら光長を家光の養子にと秀忠が考えてたという設定だったけど、この辺の話がネタ元なのかな

124人間七七四年2017/08/05(土) 02:19:32.10ID:ijKyoav/
>>119
鉄砲の音にビビって、恥じて切腹未遂したパターンがあったな
超絶有能だけど、息子の汁かけ飯にケチを付けたことになってる人
鉄砲伝来以前だから、何を見たのかは結構気になるが

125人間七七四年2017/08/05(土) 21:33:43.50ID:UiAK/N8P
http://www.weekly-ueda.co.jp/tethu/back/main23.html
村の衆がほとほと困り果ててたそんな時、耳よりな話が聞こえて来た。
なんでも、津島(愛知県)の牛頭天王の末社の弥五郎殿が虫退治に大変ご利益のある神さまだそうで、
村では早速その神さまをお迎えして虫退治をお願いすることを決め、まことに足の速い若者を使者に立て、そのお宮まで出向くことになった。

色々混ざったんだな多分

126人間七七四年2017/08/06(日) 08:16:22.99ID:0wSsLWfk
加藤清正が朝鮮の王子を捕虜とした時、王子と随臣たちは数日間食を摂っていなかったので、
清正は王子側に聊かも強く当たること無く、すぐに座を設けて膳を整え、食を薦め饗応した。
酒が三度めぐる頃、清正の近習の兵たちが、肴を用意する為走り回っているのを見て、王子の
臣下たちは驚いた。

「これは清正が王子を欺いて害しようとする謀ではないか!?」

そして半弓を引いて清正の方に向き、彼に矢を放とうとした。

清正はこの誤解を解くため説明するにも、言葉が通じないので聞き入れてもらうことは出来ない。
そこで彼は、印を手にして彼らに見せた。これにて『この印を押した誓約が違わない事』を表したのだ。

これにより従臣たちの心解けて半弓を置いた。この隙に清正側は王子を彼らから離して身柄を確保したため、
従臣たちの興奮も自然に静まったという。

(士談)

127人間七七四年2017/08/06(日) 12:29:26.67ID:+WlXfnng
半弓もたせてんの!?w

128人間七七四年2017/08/06(日) 13:57:42.06ID:4d+IWi5I
昔から何をしても勘違いするお国柄か

129人間七七四年2017/08/06(日) 16:42:24.48ID:geByxlBJ
捕虜だったらお国柄関係なく殺されるのは警戒するだろそりゃ

130人間七七四年2017/08/06(日) 17:21:14.23ID:+SrK0vnr

131人間七七四年2017/08/07(月) 18:06:10.56ID:ptMNn+dR
北条陸奥守氏照の家臣の内に、中山勘解由、石原主膳という人に知られた武士があった。
この内中山は、小田原征伐のさい八王子城にて討ち死にし、石原は氏照の供をして小田原城にあり、
氏照自害の後は井伊直政に仕えた。彼は武功ある武士であったので、直政より旗を預けられた。

関ヶ原の岐阜城攻めの際、浅野幸長の軍勢は、岐阜城の出城であった瑞龍寺を乗っ取った。
浅野勢は瑞龍寺内部になだれ込んだが、その時何故か浅野の旗を立てるものが居なかった。
他の部隊も近くを通ったが、この事に気づくものが無かった中、いい直政の兵が搦手より押し入り、
石原の下知にて直政の赤旗を城の内に押し立てた。その上で浅野勢のうち大将分の者を招くと
石原は言った

「瑞龍寺は井伊直政の勢が乗っ取った!」

浅野の者たちは驚き反論した、「これは存じもよらぬことを承る。幸長の手にてここは乗っ取ったのだ!」

「ならば城を攻め取った印は何であるか?」

「我等は勢はいずれも城の中を走り回っているではないか!」

石原これを聞くと、傲然と言い放った
「それは御自分の功名というものだ。御旗印の一流も見えない以上、実正とはいい難い。
我々は旗を上げた。これこそ証拠である!」

これに幸長の家臣たちは言葉に詰まり、返答できないでいた。
と、ここで石原は大笑いし

「いやいや、この話はここまでにしよう。各々がどうも弓矢の礼儀をご存じないようなので、
あえてこのような事を申したのだ。勿論この城を落としたのは各々が粉骨された故であるのだから、
我々は旗を降ろし、城をそちらに参らす。」

そういって、旗を撒いて撤収したという。

(士談)

132人間七七四年2017/08/07(月) 18:30:00.50ID:99qRtOQS
>>131
いい話スレだけど、喧嘩になるかと思った

133人間七七四年2017/08/07(月) 18:49:24.48ID:Oii5T9zM
後の「ショー ザ フラッグ」である

134人間七七四年2017/08/08(火) 12:39:51.62ID:ynSNdkpH
○ 枝垂栗(旧静波村)

大字東方の澤中に枝垂の栗樹群落がある。元亀3年、武田勢が美濃に入る。

明知城主・遠山相模守景行らはこれと戦い利なく、苗木城主・遠山勘太郎の
もとへ逃れようとして、澤中まで至った。

この時の疲労は激しく、路傍の栗の枝を力にしばし休憩した。これより付近の
栗樹に至るまで、いずれも枝垂れるに至ったという。

――『恵那郡史』

135人間七七四年2017/08/08(火) 19:52:29.25ID:nEtblIws
折って杖にするんじゃなくて、ぶら下がるように掴まってたのか

136人間七七四年2017/08/09(水) 15:01:12.11ID:Gqo3zfNg
関ヶ原の時、金吾(小早川秀秋)は松尾山を占拠したが、その占拠に向かう折、それまで陣を張っていた小屋に
澤角図書という者を残した。ところがこの澤角は後に残るのを迷惑として、秀秋に供奉することを望んだ。
そこで秀秋は、澤角に小屋を棄てて供をするよう命じた。

これに老臣たちは反対した。「御陣屋には留守が居なくてはならないものです。」
しかし秀秋は

「留守はいらぬ。何故なら東軍が必ず勝利するのだから留守を置くに及ばない。
万一西が勝てば、猶以って留守は要らない。そのまま差し置くべし。」

そう云ったという。

(士談)

137人間七七四年2017/08/09(水) 15:48:56.97ID:3ROO509T
関ヶ原開戦前に裏切りを決めてた説か
開戦時には大谷隊に掛かっていたって続くのかな?

138人間七七四年2017/08/10(木) 02:36:06.65ID:6Fs6RB2v
○ 安造穴(旧福岡町高山)

昔、安造という賊が隠れ住んだ岩窟と伝えられる。遠山氏は天正の役
で長久手に敗れ、ここに身を隠した。

すると、その愛する白狗がしきりに鳴いて敵襲を報じ、また白馬が来た
のでこれに乗って逃れ、ついに危難を避けることができたという。

以来、苗木では白狗白馬の飼養を禁じた。

また曰く、安造穴は“安子穴”で、お安という女が零落してここに住み、
玉のような子供を産んだとかで、安産の洞といわれるという。

――『恵那郡史』

139人間七七四年2017/08/11(金) 08:04:22.14ID:NJal55J9
大坂御陣の時分、石川主殿頭(忠総)は大久保相州(忠隣)の子なので
閉門でおられ、冬陣に御供することを佐渡殿(本多正信)に願われたが

叶わず、駿河にて上野介殿(本多正純)を頼られたがこれも叶わなかった
ので「この上は御成敗を仰せ付けられようとも、ままよ!」と、大坂へ上り、

隙あらばと心掛けなさった。さて、伯楽ヶ淵(博労淵)で本多雲州(忠朝)
討死の時、主殿頭は比類なき働きをなした。

されども御所様(徳川家康)は、(無断での従軍について?)ともかくも
仰せにはならなかったという。

――『武功雑記』

140人間七七四年2017/08/12(土) 18:15:34.81ID:P5a+mbW7
関ヶ原の時、大道寺(直次か?)は黒田家の陣にいた。9月15日に先に出て様子を見ていた所、
西軍の陣より鉄砲がひたひたと打ちかけられ、これにより討ち死にも多く出た。
このような所に黒兜の武車が出て、敵方の様子をじっくりと観察していた。
彼は馬に手綱をゆらゆらと打ち掛け、いかにも心静かに周りを見ていた。
その様子が大変見事であったので、大道寺は彼のそばに寄って居た。

すると彼は、「只今戦は始まった」と独り言を言った。
大道寺はこれを聞いて「何ゆえに左様に見られるか?」と尋ねた。
武者は

「鉄砲の弾が足元に落ちたが、その落ちようが、力なくころころとしていた。
これは敵との間合いが近くなり、急ぐ事で筒の中に弾薬がろくに入らないまま発射し、
それ故弾が力なく落ちるのだ。」

そう説明した。

ある話によると、この武者は斥候に出た井伊直政であるとの事である。

(士談)

141人間七七四年2017/08/15(火) 01:05:53.69ID:jXrd5l+q
嫌儲の兜スレで見かけたこれすごいけど
こんなの実際に戦場で被って戦ってたのだろうか?


59 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ dff7-GZKN)[] 投稿日:2017/08/14(月) 23:39:45.58 ID:bS+SiuCu0
森可成
http://www.spy.ne.jp/~satomako/0763-z.JPG

65 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイWW 4eae-jNn9)[age] 投稿日:2017/08/14(月) 23:55:44.65 ID:JeTMXUqN0
>>59
前田利長の兜もロングやぞ

http://i.imgur.com/B5MglTk.jpg
http://i.imgur.com/U91EJe2.jpg

142人間七七四年2017/08/15(火) 08:18:47.60ID:X3olDnP9
清正も長いぞ

143人間七七四年2017/08/15(火) 20:22:03.87ID:gU50rwyN
大阪の陣において、井伊直孝家臣・庵原助右衛門の子・主税が、敵と組討をし、組み伏せた所に、
敵の家来たちが出てきて主税を斬りつけた。そこに主税の郎党たちら集まってこれを仕留め、
主税はついに敵の頸を取った。

この様子を、彼の父である助右衛門は見ていながら、助けに行こうとしなかった。
合戦後、人々は助右衛門に対し「あまりにひどい」と非難した。しかし助右衛門は

「私は、主税が非常に不憫に思った故に助けなかったのだ。
もしあの時、私が行って敵を除けば、人はみな、主税は私に助けられたのだと言われてしまうだろう。
運は天にあり、死は定まれり。
私に助けられたという名が残るのが不憫である故に、助けなかったのだ。」

父子の間であっても、武士の道とはかくあるべきである。

(士談)

144人間七七四年2017/08/15(火) 22:32:45.21ID:1v4Ror0J
又兵衛「俺が敵と組み合って川に落ちた長政を助けなかった理由と同じだな」

145人間七七四年2017/08/16(水) 20:14:58.86ID:su27RtZg
>>141
武田家で「兜をかぶらず笠や烏帽子でごまかしている者がいるが見苦しいので必ず兜をかぶれ」
みたいな書状があったから、戦場でもずっとかぶっていたかは微妙

146人間七七四年2017/08/16(水) 21:07:47.14ID:gVNv9b3Y
>>145
それ軍役通りの装備になってないから怒られてるんだよ。
武田だと馬鎧とかも手抜きの定番だし

147人間七七四年2017/08/16(水) 21:18:29.45ID:su27RtZg
>>146
なんで軍役で兜って指定されれてるのかくらい考えろ

148人間七七四年2017/08/16(水) 21:55:42.25ID:18h3KstQ
細川幽斎「武家に仕える者は」


(幽斎の)御座の間の近くでたくさんの小姓衆がどんなに騒ぎ暴れていても
(幽斎は)少しも叱ることはなかった。

賄いの恩斎と申す者が時々(小姓衆を)叱るようなことがあると
幽斎公は
「武家に仕える者は、事が起こってしまえば今すぐにでも命を失う物だ。
 可哀想だから、子供は暴れていても制してはいけないよ」
と仰せられていたので
召し仕えている衆は自分の親よりも(幽斎のことを)
深くありがたく思い、例え大名になるとしてもこの御家を出て
別の主君を頼みにしようと思う者はいなかっただろう。
だからこそ小勢で不慮に籠城をなされたのに(※1)
多勢の寄手が容易く攻めることが出来なかったのだ。

この幽斎公の御俗名は犬打つ童まで(※2)も知っている細川兵部大輔藤孝公と申す。
若き時より弓馬は言うに及ばず、和歌、連歌、鞠、包丁、打ち囃子の道までも
心得られて、その道の極みに至るまで情趣を解することによって
人に劣るような芸は持たない人である。


――『戴恩記』

(※1)田辺城の戦いのこと。
(※2)犬を追いかけ回す三歳の児童でも知っている、という意味。

149人間七七四年2017/08/16(水) 22:27:22.30ID:KCxrewke
細川だと進士流なのかな?

150人間七七四年2017/08/16(水) 22:27:49.97ID:KCxrewke
ああ、包丁道のことね

151人間七七四年2017/08/17(木) 12:19:06.10ID:wAw/k95s
糞重たい兜なんかかぶりたくないだろう

152人間七七四年2017/08/17(木) 20:39:56.04ID:q77eno0m
ベトナム戦争でボディアーマー着なくなって問題になった米兵と同じパターンだね
戦闘は本当に一時的で、日常の行軍とかが圧倒的に長いし

153人間七七四年2017/08/19(土) 11:26:45.94ID:gTINS7Et
伊東長久「笠の何が悪いと言うのか」

154人間七七四年2017/08/19(土) 13:16:56.09ID:OGKKDBqt
葉っぱ隊「褌一丁あればいい〜」

155人間七七四年2017/08/19(土) 13:22:26.85ID:CQ34pFGq
せっかく赤備えとか作ってんのに台無しになるから

156人間七七四年2017/08/21(月) 16:59:46.80ID:uGfwiSOk
立花道雪が筑後にての合戦で、敵が山上の道雪の軍に敗退し、道雪軍はこれを追撃した。

敵がすでに下山した時、道雪は味方に下知して進軍を止め、先に斥候を出した所、
案の定敵は山の下に降り立ち、それぞれに備えを固め道雪の軍を待ち構えていた。

そこで道雪は合図を定め、静かに備えを山下に下ろし、ゆっくりと敵に接近した。
そして槍が届くほどの間近と成った時、合図とともに一斉に鬨の声を発し槍をばっと持ち上げた。

すると敵は驚き気圧され、容易く敗北したという。

(士談)

157人間七七四年2017/08/22(火) 04:40:38.86ID:lvwuulW2
宇治から幕府に茶を献上する時、その運搬途上は人々がこれを避けるのが
例であった。ある時に大久保忠教(彦左衛門)は、これの運搬中に出くわして
わざと避けなかった。

役人が忠教を叱ったところ、忠教は知らぬ振りをして「汝等は何する者ぞ?」
と問うので、役人は、「これはお上の茶である。よって道をあけねばならない」
と言った。

これに忠教は、「茶がどうして人より貴いものか。まして私は役人ではないか。
よって、汝等の方から私のために道をあけたほうがよい」と、答えた。

――『学生の漢文(近世叢語)』

158人間七七四年2017/08/22(火) 07:35:10.02ID:+wZ6x60J
彦左…

159人間七七四年2017/08/22(火) 11:36:57.78ID:W9FCLw1N
大友義統率いる豊後勢が戸次川へと出立した際
その部将足達図書は遅れてやって来た。
義統がなぜ遅れて来たのかと問うと
「今日の合戦は当家浮沈の極まる一戦です。万が一敗北の暁には討ち死にはもとより覚悟の上
 後顧の憂い残してはならぬと立ち帰り、妻子を殺し、家に火を掛けて来たのでございます」
これを聞き、義統を始め皆涙を流さぬものはなかった。

「豊後全史」

その結果は悲惨であったが、この時点ではギリギリ良い話(?)なので

160人間七七四年2017/08/22(火) 12:52:18.34ID:q3gY/N3F
>>157
答えた後どうなったのかってのが知りたいw
普通このテの話って「流石は○○よ」とかそんな感じで〆られるけど

161人間七七四年2017/08/22(火) 19:37:05.55ID:HRLKmaln
>>159
戸次統常とおんなじやん
統常は弟妹だったけど

162人間七七四年2017/08/23(水) 03:06:48.06ID:0sMZAtSc
秀吉が朝鮮を征伐した時、池田三左衛門尉輝政は船奉行の中村九郎兵衛に命じて兵糧を
肥前名護屋に船で運ばせた。中村は提灯2,3百と太鼓3,4十を買って名護屋へと到った。

時間は巳の刻で潮の状態も良かった。しかし中村は玄海ヶ島に船を止めてわざと日暮れを
待ち、亥の刻になって船を漕ぎ入れた。そして2,3百の提灯に火をともして連れ、3,4
十人が太鼓を打ち立てると、火の光が海中に写り、太鼓の音は城の上に広く響いた。

秀吉が使者を遣わして、「何者ぞ?」とお尋ねになったところ、「輝政の家来・中村九郎兵衛
が兵糧を漕いで来た船である」と答えた。秀吉は元来華美を好んだので中村の迎合は甚だ
秀吉の心に適い、すぐに秀吉は中村を朝鮮に渡海させなさった。

中村が朝鮮に到ると合戦はすでに無くなっていた。(中村朝鮮に到れば軍すでに解けぬ。)
その時、兵糧はまさに尽きるというところだったので、諸将は大いに喜んだ。

これは誠に中村に才略があったとはいえ、虚名であって実際の功ではない。しかし、主君の
ためであって、自分のためにするわけではない時は、少しは認めるべきであろう。

(是誠に中村才略ありと云へども虚名也、実功にあらず。君の為にして自ら為にせざるとき
は少しくゆるすべし。)

――『武将感状記』

163人間七七四年2017/08/24(木) 08:29:06.47ID:I2+9Smnk
多賀谷氏と宇都宮氏が関東において合戦していた頃、ある時多賀谷は灰を夥しく城下に集め置き、
敵をあしらい引き寄せ、風上に備えを立てて、足軽のせり合いの前に、小者雑人を出して灰を空中に
撒き散らした。

ここで足軽はこの灰を追いかける形で、煙に紛れて敵に突きかかり、大いに戦果を得たという事が
あったそうだ。

(士談)

164人間七七四年2017/08/24(木) 08:40:17.18ID:cH4DxRBM
>>163
民家に雑兵が押し入らてガクブルの農民が「へ?灰ですか?」ってなってるとこを想像すると笑える

165人間七七四年2017/08/24(木) 08:51:15.28ID:N8EUZHXM
そして周辺の木々は何故か桜が満開になったとめでたしめでたし

166人間七七四年2017/08/25(金) 13:22:03.98ID:EExyBIJe
近江にての事であると、ある人の語った事である。

旱魃の年に惣村の間で水論があり、一方が堤を作って水をせき止めた。
一方はこの堤を切るとし、一方は切らせまじきと、双方の間で合戦騒ぎとなった。

しかし堤を破壊しに来る方が大勢であり、堤を守る方は小勢にて、如何にすべきかと考えていた時、
その在所に浪人がいたためこれに相談すると、この浪人は才の有る人物で、地下の者たちを集め、
老人を集め一組に、そして若者を集めて一組とし、堤の傍につぶてと成るような石を多く集めさせ、
この脇に老人の組を置き、若者たちには竹槍を持たせ、彼らの組を川の下に置いて合図を待たせた。

さて、敵方の百姓たちが堤に集結すると、老人たちが大勢集まって居る所を攻撃目標と定め押し掛った。
浪人は彼らを矢ごろまで引きつけると、一斉に石つぶてを投げさせた。
これに打たれて敵方が辟易した所で合図を出すと、若者の組が竹槍で突撃した。
これによりこの村は大いに勝利したという。

(士談)

167人間七七四年2017/08/25(金) 13:28:47.54ID:bNHBOouS
いいね

168人間七七四年2017/08/25(金) 14:19:43.35ID:IXgtcgqq
これ400年位前の話なんだろうけど似たようなことを80年代までやってた中国人マジ蛮族

169人間七七四年2017/08/25(金) 17:47:48.67ID:g2gmuTl0
歴史を知れば知るほど人間は変わってないと思うので今もどっちも蛮族であり普通の人間だと思います

170人間七七四年2017/08/25(金) 19:54:02.96ID:+kmqCcoW
シリアとイスラエルなんて国家ぐるみで近代兵器使って同じようなことやってるしな

171人間七七四年2017/08/25(金) 22:35:43.11ID:XoXk+W8B
>>166
諫早湾かな?

172人間七七四年2017/08/25(金) 22:41:15.45ID:1HZw0XdN
>>171
>近江にての事であると、ある人の語った事である。

173人間七七四年2017/08/26(土) 04:29:53.80ID:SRqGYAZ3
一、東照宮(徳川家康)薨御の前日、元和2年4月16日のこと。

榊原大内記(照久。久能山東照宮祭主)を御前へ召されて、御他界遊ばされた
ならば御遺骸を久能山へ葬り奉るようにと、御廟の地まで委細を仰せ付けられ、

「其の方は新肴初物などを常々献上しており、その志を深く思う。我の他界以後
もますます久能にあって、神主役を奉公仕るように。

東国の状況については、いずれも被官の大名であるから、逆心の者も生じまい。
しかし一方で、後々まで西国については心許なく思っている。

西国の乱逆が生じないよう守りをなすので、宝塔を西向きに建てて衆徒4人を
差し置き、知行は50名(石の誤り?)ずつ遣わして、神前の勤行を致すように」

との旨を、仰せ付けられた。

一、権現様(徳川家康)御在世中の御秘蔵の御馬は、御宮近くに御厩を建てて
そこに入れ置いた。その馬は数度そこを離れ出ても、直に御宝塔の方へと参り、

前足を折って嘆く様子に相見えたが御他界の御年の7月、また御厩を離れ出て
御宝塔の裏道の石垣際まで参り、前膝を曲げて死んだ。

一、島原一揆の元旦、御拝殿(久能山東照宮)に1桶ほどの量の血があった。

一、同じ朝に、御神前の御装いの御鏡(鏡餅)が1飾りなくなった。

一、同年、禰宜頭の高津権左衛門が番所で臥し申しておったところ、

夜半に(東照大権現が)御鎧を御着なされて、御馬にお乗りになられ、御瑞垣の
内をお廻りになられた。「油断して寝申しておる!」と、御叱り遊ばされ、

御馬の足音が聞こえた。その後に御宝塔の方で馬のいななきを聞いたとの由を
権左衛門は確かに申した。

一、この以前は禰宜の番所は御瑞垣の内にあった。番所にて当番の者が大声
で物語り仕ると御内陣より、「やかましい!」と御叱り遊ばれたと、その時の当番
の者たちが確かに申したとの由である。

――『東照宮御奇瑞記(久能山の社僧等がもてる書)』

174人間七七四年2017/08/26(土) 12:10:41.97ID:B+cFrsO4
>>173
一、同年、馬の鞍に1握りほどの味噌があった。

175人間七七四年2017/08/28(月) 12:18:10.82ID:ggEQipfE
>>174
おいやめろ

176人間七七四年2017/08/28(月) 15:06:36.58ID:cFxc+vWP
神子田半左衛門(正治)が家中の者を手打ちにするという時、縁側において爪を切っていたが、
その爪を切るための小刀が下に落ちた。そこでその咎人を呼び

「縁の下に小刀が落ちた。取ってくるように」

と命じた。
そこでこの者が縁の下に入った所を、縁の上からそのまま刺殺した。
そして人を呼び、死骸を取り出させた。

神子田は言った
「放し打ちだからと言って、確実さのない成敗を好むべきではない。下人などは、このようにして
殺すものだ。」

(士談)

177人間七七四年2017/08/28(月) 16:33:42.03ID:X7RjkNXz
>>176
いい話…?

178人間七七四年2017/08/28(月) 16:49:35.76ID:IAXy0+oW
効率のいい話なんだろ

179人間七七四年2017/08/28(月) 19:08:56.72ID:4Ke1VAXr
現代日本人は命ならなんでも大切だと思ってるから困る

180人間七七四年2017/08/28(月) 21:38:11.37ID:OraP3Sqx
>>179
誰が困るんだよw

181人間七七四年2017/08/28(月) 23:24:41.70ID:r7dpqF/e
        _,,:-ー''" ̄ ̄ ̄ `ヽ、
     ,r'"           `ヽ.
 __,,::r'7" ::.              ヽ_
 ゙l  |  ::              ゙) 7
  | ヽ`l ::              /ノ )
 .| ヾミ,l _;;-==ェ;、   ,,,,,,,,,,,,,,,_ ヒ-彡|
  〉"l,_l "-ー:ェェヮ;::)  f';;_-ェェ-ニ ゙レr-{   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 
  | ヽ"::::''   ̄´.::;i,  i `'' ̄    r';' }   | 久々にワロタ 
 . ゙N l ::.  ....:;イ;:'  l 、     ,l,フ ノ   | こういう成敗が好まれた
 . |_i"ヽ;:...:::/ ゙'''=-='''´`ヽ.  /i l"  < のが昔の武士なんだよな 今の新参は昔の
   .| ::゙l  ::´~===' '===''` ,il" .|'".    | 武門の心得を知らないから困る
    .{  ::| 、 :: `::=====::" , il   |     \________
   /ト、 :|. ゙l;:        ,i' ,l' ノト、
 / .| \ゝ、゙l;:      ,,/;;,ノ;r'" :| \
'"   |   `''-、`'ー--─'";;-'''"   ,|   \_

182人間七七四年2017/08/29(火) 09:01:19.68ID:8ssQuzbj
>>180
更生の見込みが乏しい元懲役囚のそばに住んでる人とか

183人間七七四年2017/08/29(火) 19:38:00.68ID:XAKbPvrn
立花宗茂のものとみられる甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」が立花家臣の子孫の家から見つかった
柳川藩には、朝鮮出兵時の1593年、邪魔な袖を切り落として戦っていた小野成幸という家臣に
「袖がない具足は見苦しい」と宗茂が自らの鎧の袖を成幸に与えた逸話があるという。
その逸話の袖と思われるものが、2016年に小野成幸の子孫から柳川市に寄贈された。
袖は一対で安土桃山様式。長さ29センチ、幅23〜27センチ、重さ720グラム。
鉄の小札に金箔を貼り、透明の漆で仕上げたもので、小札をつなぐ威は紫、紅、白の3色の糸が
交互に使われている。大友宗麟の重臣だった義父の立花道雪または宗茂自身が
大友家から与えられたものとみられ、杏葉紋の金物が付けられている。
(今月の25日に柳川市が発表したらしい)

184人間七七四年2017/08/29(火) 19:59:22.89ID:ciSXwA0A
>>183
400年も残ってたとは凄いな、子孫GJ

185人間七七四年2017/08/29(火) 21:49:02.14ID:yeu/2L19
>>183
なんとなく宗茂らしいエピソード

186人間七七四年2017/08/29(火) 22:49:13.72ID:XAKbPvrn
今日の知恵泉でもこの袖が紹介されたね

187人間七七四年2017/08/29(火) 22:53:43.76ID:ZaU8nUoY
やってたな
家臣がわざと取った袖を宗茂が勘違いして与えてしまって
それを見てた別の家臣がさらに宗茂に袖を献上したっつー

微笑ましいなぁ

188人間七七四年2017/08/30(水) 09:52:36.49ID:QcrXrpWd
神子田半左衛門(正治)は常にこう言っていた
「人間のならい、何事にて失命するか計り難い。その死期に望んで、一言『神子田半左衛門なり』
と話して死ぬのが、一期の思い出、日頃の嗜みと言うべきだろう。」

豊臣秀吉によって彼が成敗される時、彼は残された人々のため、多くの書状をしたためた。
下人が「時間が遅れます」と注意すると、「今ひとつ残っている」と、心静かにこれをしたため、
行水し、立ち腹を切った。
ところが、介錯の者が切りそこない、頸を落とせなかった。
神子田はよろよろと膝を折り、左手にて顎を押して、首を切らせたという。

(士談)

189人間七七四年2017/08/30(水) 13:39:32.46ID:x7PIFI9f
立ち腹って立った状態で切腹したってことか?

190人間七七四年2017/08/30(水) 16:05:17.49ID:pDb7X0ma
鈴木主水の立腹は立ったまま切腹だった

191人間七七四年2017/08/30(水) 19:04:45.99ID:wVyiwil1
鎧の人は腹切ったまま屋敷に戻って文書の隠滅を図ったとかなんとか

192人間七七四年2017/08/30(水) 21:41:01.68ID:QmuPPF5I
立腹とは

古代中国、宋から来日した禅僧の蘭渓道隆が建長寺で披露した
腹で茶を立てる茶礼のこと

民明書房刊「茶の歴史」より

193人間七七四年2017/08/31(木) 04:04:36.60ID:UEGnf68d
前田利太(慶次郎利益)が高徳公(前田利家)に従って京都にいた時、
関白・秀吉は利太が奇人であると聞いて謁見を望み、

務めて異様を表して出仕するように命じた。すると利太は髻を耳上に
作り、皐比(虎皮)の肩衣を身に付け、異様な袴を穿いて出仕した。

利太は謁見するに到り頭をそばだてて拝謁し、髻はまっすぐになった。

秀吉は大笑いして良馬一頭をお与えになり、「再謁してわしの面前で
この馬を受け取れ」と、言った。これは利太が更に異様な装いで出仕
することを推量しての心中であった。

利太は退くと服を改めて髻を正し、進見して賜物を拝領した。表情は
正しく、容姿も厳粛であり、進退も規律があった。

秀吉は感嘆して、利太が変通を知ることを称えた。

――『加賀藩史稿』

194人間七七四年2017/08/31(木) 06:34:26.82ID:sFrl8ECp
大人ひとりじゃ持てないような脇差は持ってなかったのか

195人間七七四年2017/08/31(木) 10:43:01.79ID:tjcfsPmD
花の慶次の見せ場にあったな

196人間七七四年2017/08/31(木) 11:59:21.66ID:DQ47Luus
>>193
これが元ネタか、懐かしい。

197人間七七四年2017/09/02(土) 04:14:54.03ID:FEKQ9VHC
かつて夏夕に、前田利太(慶次利益)は馬飼いに松風という愛馬を引かせ、
馬飼いは洛東の鴨川で松風に水浴びさせるために出発した。

馬飼いは利太の意を受けて、烏帽子を腰にして鴨川に赴いた。その途中で
出くわした武士に「誰の馬なのか?」と問われると、

馬飼いは烏帽子を着けて舞い、今様の曲を口にして謡った。その曲中にて
「前田利太の馬である」と述べて、馬飼いは謡い舞ってその場を去った。

――『加賀藩史稿』

198人間七七四年2017/09/02(土) 06:53:19.22ID:vXsrAWJJ
あかいちょっかい革袴
とりのとっさか立烏帽子
前田慶次の馬にて候

199人間七七四年2017/09/02(土) 09:09:40.71ID:LylpQUao
仙台では政宗生誕450年をお祝いしていたのに
http://imgur.com/ijijVa4.jpg
http://imgur.com/qB9oIlP.jpg

生誕地の米沢では全く何もしていなくてギャップが面白かった
https://i.imgur.com/0Eb9VE7.jpg

200人間七七四年2017/09/04(月) 16:06:06.86ID:H9JDPduh
豊臣秀吉が、常に言っていたことの中に

「主人のことは、乗せるようなものであっても、何にか尋ねて来た時には褒めるものである。
言われた方は、乗せられていると思いながらも、褒められれば喜ぶものだ。
反りの合わない言い方をされれば、例え相手の言うことが正しいと思っていても、機嫌が悪く
成るものなのだから。」

このように侍臣に語っていたそうである。

(士談)

201人間七七四年2017/09/04(月) 16:28:42.46ID:FQvaBL80
下間頼広の出奔と栄転


下間頼広の父は本願寺の僧で執事職を務めた下間頼龍である。
頼龍は天正8(1580)年に法主の顕如が信長に降伏した際、和睦条約に連署したが
主戦派だった顕如の長男・教如の側近であった為に、翌年には教如の
石山への再籠城の企てに従ったので、顕如からは叱責され謹慎を命じられた。

その経緯から頼龍は本願寺が東西に分裂したときは教如に従い
東本願寺の設立を助けた為、教如は頼龍の嫡男である頼広に執事職を約束した。
ところが慶長14(1609)年に頼龍が亡くなると
なぜか教如は約束を反故にし、頼広に蟄居を命じてしまった。

ここで頼広の母の七条は、池田輝政に教如との取りなしを依頼した。
七条は輝政の母善応院と織田信時(信長の異母兄とされる)との娘であり
(信時の死後に善応院は池田恒興と再婚し、七条は恒興の養女になっている)
輝政から見れば異父姉にあたり、頼広は甥っ子ということになる。

しかし輝政の教如への説得は上手く行かず、教如の頑なな態度に
憤慨した輝政は、七条と頼広たちを自分の元へ出奔させた。
また輝政は自領の真宗系寺院全てに対し西本願寺の方に付くように通達し
従わなかった寺の寺領を取り上げたので、池田家が転封された後に入領した
本多忠政が逆に西本願寺派の寺院を弾圧するようになるなど、遺恨となった。

一方頼広は輝政の長男の利隆の家臣になり三千石を取って、重利と名乗った。
利隆が家督を継ぐと池田姓を許された重利は、重臣として家康にも拝謁し
大阪夏の陣では尼崎城で戦功を立て、戦後に1万石を与えられ大名になったという。


――『播磨新宮町史』など

202人間七七四年2017/09/06(水) 00:41:44.16ID:gmaXA5XC
まあ池田なんて本来門跡と面会できるだけで感謝しなきゃいけない身分だからなぁ

203人間七七四年2017/09/06(水) 16:25:33.95ID:IJXRMizk
永禄6年上杉謙信は越中の隠尾城を落とすべく軍を進めていた。
城を守る南部尚吉は徹底抗戦の意志を固めていたが尚吉の娘婿である
新開右衛門尉以下主だった者たちは謙信にはとても敵わじと尚吉に開城を勧める。
右衛門尉は妻を遣わしてまで説得するが、尚吉の決意は変わらなかったため
謙信に内通の使者が送られることになった。使者が携えていた書状には

「城を取り囲んで3日目の夜に城門の閂を外しておくので粛々と先頭は小勢にて攻め込まれよ」

と記してあった。これを披見した謙信は

「さしたる要害でもないのだから落とすに謀は要らぬ。また不義の者たちに与するものまた不義である。
しかも尚吉の扱いを如何するか記されていないのは不審である」

として使者を追い返そうとした。しかし近習の者が

「小敵と侮って思いがけぬ戦いになった例は古今数知れず。勝ち易きに勝つを選ぶは軍兵のためでもある」

と諌めたところ謙信も承知した。
しばらくして手筈通りの夜襲によって城は混乱に陥った。尚吉は館に籠って奮戦し
十人ばかり討ち取るも最期は上杉兵によって討ち取られた。
右衛門尉は

「今よりここは我が城。本意を遂げたり」

と大笑し謙信に会うため馬に乗ろうとした。
ところが雷鳴も無いのに馬が突然立ち上がり、落馬した右衛門尉はそのまま息を引き取った。
これを知った右衛門尉の妻は悲嘆して自害しようとしたが制止され、後に仏門に入った。
これを聞いた謙信は

「天命ほど恐ろしいものはない。少しでも行いを誤れば大きな報いを
受けることになり見通すことも難しいものである」

と自戒した。

204人間七七四年2017/09/06(水) 16:27:06.94ID:IJXRMizk
(越中古城並雑書記)より

205人間七七四年2017/09/06(水) 19:23:52.22ID:0Z+k4yXe
何を誤ったのかが全然分からないのだが

206人間七七四年2017/09/06(水) 19:51:57.20ID:lZpFGl/I
右衛門尉が舅を裏切ったことじゃないの
で謙信の理屈だと自分から唆した訳ではないとはいえ不義に味方するのも不義ということなので
いつ自分に報いが返ってくるかわからないから気をつけようということでは

207人間七七四年2017/09/06(水) 22:28:32.01ID:L8yC5R5O
>>「今よりここは我が城。本意を遂げたり」

あー、これですわ

208人間七七四年2017/09/06(水) 23:42:50.79ID:tXZXKWik
基本的にこの時代の武士なんて>>207みたいのばっかだと思うんだが

209人間七七四年2017/09/07(木) 00:09:13.41ID:RBdQCurE
???「今より我は毘沙門天。本意を遂げたり」

210人間七七四年2017/09/07(木) 13:29:38.50ID:Jr2Nz9xv
>>208
でも妻の父親だし、本意を遂げたってことは前から狙ってたっぽいしなぁ。

211人間七七四年2017/09/07(木) 23:40:11.58ID:h8hsbPLy
>>203
> ところが雷鳴も無いのに馬が突然立ち上がり、落馬した右衛門尉はそのまま息を引き取った。

十河「えっ」
龐統「なにそれこわい」

212人間七七四年2017/09/08(金) 04:47:19.83ID:jOWlonZa
三浦八郎左衛門と申す者は今川義元の家人であったが、権現様(徳川家康)
が御幼少の御時にとりわけて御目を掛けなされた御由緒があった故、

御尊骸が久能へ入りなされてより法体となり、名を“養雪”と改め久能へ参り、
毎日参詣致した。ある日、(東照大権現が)御内陣より、「三浦、三浦」と3度
御呼びになられた。

三浦は御拝殿の御椽から御本社の階まで参詣を致して、ただちに榊原内記
(照久)のもとへ参って暇乞い致して罷り帰り、翌日に相果てたとのことである。

――『東照宮御奇瑞記』

213人間七七四年2017/09/08(金) 19:05:51.03ID:KqDY/QkV
これ三浦さん呼ばれて逝ったのか

夏は終わったのに心霊話が続くとは

214人間七七四年2017/09/08(金) 20:20:17.37ID:5ZLyvS8/
この時代だからだろうね、祟り話少な目になってんのは

215人間七七四年2017/09/09(土) 04:30:38.81ID:FIiOK3Ag
七夕・八朔に白帷子を着用するのは、権現様(徳川家康)の御時分に、

騒がしい御時節につき、染め申す間もないため、白地のままで着用し、
いずれの者も罷り出た。

その儀が御吉例になり、今でも白帷子にするのだという。

これを岡田豊前殿か小堀仁右衛門殿に微妙院様(前田利常)が御話
遊ばされたのを御聞きになられたとの旨、

庚子1月4日に(松雲公・前田綱紀が)仰せ遊ばされた。

――『松雲公御夜話』

216人間七七四年2017/09/10(日) 03:26:48.66ID:R7oLFEbW
公方様(徳川将軍)が元日の朝に兎の御吸物を召し上がり申すのは、

家康公が御小身の御時に御艱難の折、林信濃守だろうか、その宅に
おいて御越年された御時分、

何も召し上がるべき物が無いとの由で兎の御吸物を召し上がられた。

これがすなわち御吉例になり申したとの由を、前述の同日(庚子正月
4日)に、仰せ遊ばされた。

――『松雲公御夜話』

217人間七七四年2017/09/10(日) 20:30:53.36ID:C/VcyUZR
これは家康のときからの行事になっていたのか
それとも神格化によって後代に行事となったのか

218人間七七四年2017/09/11(月) 05:43:44.10ID:FKeJNX/z
これは3億の価値は余裕であるの?

http://doradoradora.exblog.jp/25580731/

219人間七七四年2017/09/12(火) 14:01:47.81ID:BebqZxQE
小ネタ
「地味な方の加藤さん」でヤフー検索をかけると
何の捕捉もなく先頭に加藤嘉明のwikipediaが
出てくる。

220人間七七四年2017/09/12(火) 14:04:57.26ID:zq9eIs7l
加藤光泰「地味にすらなれなかった」

221人間七七四年2017/09/12(火) 14:36:22.50ID:78lKO1+I
グーグルで検索してもワロタわwww
https://i.imgur.com/7433hNm.jpg
https://i.imgur.com/tdN2sfZ.jpg

222人間七七四年2017/09/12(火) 14:38:52.06ID:+QnJlqGZ
空気だからしゃーない

223人間七七四年2017/09/12(火) 17:19:15.45ID:NAm1IRRB
>>220
空気なおかげで文禄の役で前野長康といっしょに明軍に負けてるのも知られてないな
一応甲斐24万石の大名になってたんだっけか

224人間七七四年2017/09/12(火) 22:50:10.86ID:BmQuoTzP

225人間七七四年2017/09/12(火) 22:54:40.59ID:Mgtr1m2r
荒木素白は書の名、家名は光辰。通称は三次、のちに内膳。母は桂氏。
九歳で福山藩主水野勝成に仕えるが、十九歳のとき同僚と争論して去り、伊勢に赴き津の藤堂高虎に仕える。
高虎、勝成のために酒餞を設ける。素白は給仕周旋する。
勝成恚りてこれを高虎に言う。高虎肯んせす。
素白去りて京師にいく。勝成怒りて国に入るを禁じる。
数年後、素白は鞆の浦にやってきて告首罪を請う。勝成はなだめて京師に帰した。
素白剃髪して禪を霊隠寺一絲に問い名を虚空素白と改める。
勝成に再び召し抱えられて月棒を貰う。勝成勝俊が亡くなったあとで辞去。
高虎の嗣子が招くが辞退。
素白は書を好み藤木敦直を師としてその名は高し。上代風の中興。書体三跡の室に入るという。後水尾天皇は召しだして扇と色紙に書かせて、おおいにこれを悦ぶ。
晩年力老いて病むにおよび大納言藤原弘資を遣わして慰問する。使者絶えず。貞享二年春死ぬ。年齢八十六歳。七男一女あり。(野史、名家全書)
大日本人名辭書

頑張って翻訳してみた。
勝成と高虎って仲良さそうだね。

226人間七七四年2017/09/13(水) 02:13:56.64ID:5Fm8W0c9
大坂御陣の時分、織田左門殿(頼長)も籠城した。

左門殿は殊の外おどけた人で、牛の角に銀箔を捺して乗られ申した。
また女中に刀を持たせ、毎度堀裏を廻り申されるような人であった。

(牛の角に銀箔を置乗被申候。女中に刀を持せ、毎度堀裏を廻り被
申候様なる人に候由。)

その由を前述の御話と同じ時に拝聴仕った。

――『松雲公御夜話』

227人間七七四年2017/09/13(水) 11:20:54.14ID:mz9dNTx1
大阪の夏の前に上手いこと城から出て長寿庵を営んだけど早死した人か

228人間七七四年2017/09/16(土) 02:54:49.52ID:KtXQnXKS
輝政公関ヶ原行軍順見の事


行軍のとき大将が諸軍を巡り見るのは古法であるが、関ヶ原合戦の行軍のとき
池田輝政公は諸卒の左の方をばたばたと(馬に)乗って走っていき
先陣の一番先で馬を右の方に折って、(前方を通って今度は先陣から)
諸卒の右の方を馬を地道に走らせて後陣まで順見したという。

戻るときに地道に走らせたというのは、(後陣から)先陣まで走らせるときは
諸卒が前へ行くので、早道に走らせないと追いつかないが
先陣の一番先まで行き右の方に折れて行き、諸卒の右の方で
(先陣から後陣へ)走らせるときは地道に静かに乗り戻ったとしても
諸卒は先へ行くので後陣まで地道に乗っても、間を取らないために
残らず順見しやすいからだという。


――『常山紀談』

地道:馬を普通の速さで進ませること。
早道:馬を速く進ませること。

229人間七七四年2017/09/16(土) 03:19:31.94ID:eamhuJlz
当たり前じゃ

230人間七七四年2017/09/16(土) 08:11:09.45ID:goG3qGCB
戦乱から100年遠ざかっているし、いろいろとわからなくなっていることとかがあるんじゃないのかな

231人間七七四年2017/09/17(日) 10:09:51.72ID:+anRRzXN
古人曰く、侍の大身小身ともに、不覚悟の品々というものが有る。

一に、人の悪口、噂を賢しらに言う人
二に、侍と侍の間の仲が悪いからと言って、座席や路頭において慮外の輩
三に、親兄弟の敵を狙わぬ事
四に、被官、下人などが口論した時、言い過ぎた方や、非分の働きのあった方に、早く理を言って
   話談するようさせなければならない。事に大身奉行たる人は、自分の配下に即座に罪科を
   申し付けて事を済ませるべきだ。
五に、相奉行にて損得のある仕事をする時、自分の得のために傍輩を出し抜くこと。
六に、武士たる者、万事につけて自分より勝るものを嫉むこと。
七に、身体を治められず好色をいたし、要らぬことに過分の振る舞いあること
八に、武道具の嗜み無く、弄ぶ所の器物(茶道具など)を専らとする事。
九に、人の良き道具をあれこれ言いくるめて取ること。
十に、少しの心ばせが有るからと言って、人より優れているかのように過言すること。
十一に、仕合が良いと未練な侍であっても褒め、良き武士であっても足元が弱いのを侮る事。
十二に、有徳(裕福)な町人を見込んで武士の聟にすること。
十三に、良き縁者を持つ女性を女房とし、女房の縁者の威勢が衰え、或いは亡くなると、その女房を
    悪しく扱う事。

おおよそこれらの事は、傍らより見聞きしても大変見苦しいものであるから、人々は自ら戒めるべき事である。

(士談)

近世初期くらいまでの、武士の倫理観について

232人間七七四年2017/09/17(日) 13:32:06.28ID:lOeraY96
戦国武将は大抵逆の事してる

233人間七七四年2017/09/17(日) 17:23:55.16ID:0gyA34Re
士談って明治頃の本だろ?もはや戦国の雰囲気ないわな

234人間七七四年2017/09/17(日) 18:27:32.39ID:ur7iNDF1
最後の後南朝

明徳三年(1392)に南北朝の合一が成った後も、南朝の残党(後に後南朝という呼称が作られた)は
禁闕の変などの武装蜂起を起こしたり、応仁の乱で西軍に祭り上げられたりと度々歴史の舞台に登場していた。、
しかし15世紀末のある記事を最後に、遂に後南朝は史書からその姿を消してしまう。

明応八年(1499)
此年の霜月、王が流されて三島にお着きになられた。早雲入道が諌めて、相州へお送りになった。
『妙法寺記』

たった一行の短い記事だが、「王」(後南朝の王とされる)が関東へ流され、途中で伊豆の北条早雲(伊勢宗瑞)が
それを迎えて、何かの罪(南朝復興の活動か)を犯したことについて諌め、その後相模へ送り出したというもの。
この記事が史書に見える後南朝の終見で、相模へ送られた王のその後の行方はまったく分かっていないが、
南朝の歴史の最後に、意外な人物とちょっとだけ接触があったよ、という話。

235人間七七四年2017/09/17(日) 18:54:07.83ID:zv/ao8/x
森茂暁「闇の歴史、後南朝」だと確実な後南朝の最後は山名宗全関連のようだ、以下抜粋

東京大学史料編纂所編纂の 『大日本史料第八編 』の一一 、文明一一年 (一四七九 )七月一九日の条には 、
「小倉宮ノ王子 、越後ヨリ越前ニ到ラセラル 」という綱文のもとに 、
@ 『晴富宿禰記 』文明一一年七月一九日の条 、
A同記 、同三〇日の条 、
B 「妙法寺記 」文明一〇年霜月一四日の記事 、
C同記 、明応八年霜月の記事を掲載している 。
なお B Cは 『続群書類従第三〇輯上 』に収められる 「妙法寺記 」にも載せられている 。妙法寺とは甲斐国都留郡の妙法寺 。

@は山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた 「南方の宮 」が国人らに送られて 、越後より越前国北荘へ移ったということ 、
Aは 「出羽王 」が高野へ向かう道中のこと 、
Bは 「王 」が京都より東海に流され 、甲斐に赴き小石沢観音寺 (現山梨県笛吹市 )に滞在したこと 、
また Cは 「王 」が明応八年一四九九 )霜月に流されて三島 (現静岡県三島市 )に着き 、
「早雲入道 」 (北条早雲 )が諫めて相模国に送ったこと 。
『大日本史料 』当該巻の編者が 「王子 、越前ニ到ラセラルヽ日ヲ詳ニセズ 」
「王子ト出羽王 、並ニ妙法寺記ニ記セル王トノ関係明ナラ 」ずと注記しているとおりで 、詳細は不明のままである 。
比較的信頼のおける南朝皇胤の所見史料の最後は @であろう 。

236人間七七四年2017/09/18(月) 18:57:09.29ID:gtKRsMo1
>>233
士談は山鹿素行の著書だから、一応近世初期だぞ

237人間七七四年2017/09/19(火) 05:07:13.57ID:bkfnltZI
中黒道随は毎度御前へ召され、古戦の物語をも聞こし召された。
ある時に道随は申し上げて、

「大坂において傍輩の中に手負いの者がいて引き退く時、その者
を背負って退くと、手負いの者を盾に致しているように見え申すか
と存じましたので、その者を前に抱えて立ち退きました」

との旨を申し上げた。道随の嫡子・太左衛門は黒田家に罷り在り
物頭であったが、道随は相願って暇を乞い、

御家(前田家)へ罷り越した。すなわち、その太左衛門へ家督を
仰せ付けられた。その子は六左衛門、二男は八右衛門と申した。

太左衛門の代までは2千石であったが、太左衛門が相果てると
六左衛門に千5百石、八右衛門に5百石が下されたとの旨、

同年(享保5年)4月27日の夜に仰せになった。

――『松雲公御夜話』

238人間七七四年2017/09/19(火) 18:21:30.94ID:5pudpMB+
栃木県立博物館にて、
「中世宇都宮氏 頼朝・尊氏・秀吉を支えた名族」
が開催中です
期間は9月16日〜10月29日

展示品によっては10月9日まで・10月10日からなど、期間限定のものもあるようです

ttp://www.muse.pref.tochigi.lg.jp/exhibition/kikaku/170916utsunomiyashi/index.html

239人間七七四年2017/09/19(火) 21:53:04.03ID:dH0BVuCT
栃木県の戦国関連
日光:東照宮
足利:足利学校
小山:小山評定
佐野:犬伏の別れ
は戦国好きならみんな知ってるし

那須、大田原
はあの三兄弟のおかげで此処の住人にはおなじみなのに

宇都宮や広綱
はいまいち目立ってないような

240人間七七四年2017/09/19(火) 22:02:00.80ID:0FIENwtC
ごめんね4行目までしか分からないんだ

241人間七七四年2017/09/20(水) 17:04:29.57ID:7v4OVPV9
まあ名族は確かだな。

242人間七七四年2017/09/20(水) 19:13:46.10ID:OnRT8wAe
池田の力、池水の流れ


天正8(1580)年、謀反していた荒木村重が花熊城に移ったため
池田恒興は信長に追撃を命じられ、息子の元助、輝政と共に花熊城を攻めた。
大将自ら槍を振るうような混戦で、恒興は槍で五、六人討ち取り
輝政は三須五郎大夫という勇士と組討勝負になり、なんとか首を切ったという。
この時の功により、恒興は荒木の旧領の摂津と以下の感状が与えられた。


武士高名越度之事

摂州大坂本願寺蜂起の時、佐久間右衛門佐(信盛)が対陣していた数年間は
敵が城中から出てきて戦ってはいたが、未だ敵一人討ち取ることはなく
原田備中守(塙直政)が兵を率いてこれを救い、敵と大いに戦い多く討ち取ったが
敵は依然として繰り出してきて、前後に攻め来るので討ち死にしてしまった。
右衛門佐は敵の仲間になったのか、あるいは信長に恨みがあるのかと思い
このことで、佐久間を追放した。

池田紀伊守(恒興)父子三人は摂州並びに四国、西国の間において
合戦の時少しもその陣を離れることはなく、敵が攻め来れば防戦し
未だかつて加勢の兵を乞うこともなく、高名は甚だ高しと安土には注進あり。

その次男古新(輝政)は年わずかに十六才で、敵陣に入り大いに武功を振るう。
真にこれは池田紀伊守の血筋で、信長の眼力に叶い、その手柄は比類ない。
この度花熊の城を攻め取ることは池田の力である。
信長は佐久間の事で面目を失ったが、池田父子の働きで"会稽の恥を雪ぐ"
その名誉は山よりも高い。

池田勝九郎(元助)は若年より敵に遭っては一歩も引かず
度々の高名は真に池水の流れを汲むものである。
信長の嫡子信忠、次男信孝、三男信雄(次男信雄、三男信孝の間違いか)にも
この池水の心底を言い含める。

それ虎は一毛を惜しみてその身を失う。
弓取りは名を惜しみ家を惜しみて、その命を軽んず。
身は一代なり、名は末代なり。
よろしく池田をもって明鏡とすべし。

その功に報いるため摂州一国の内諸所多くを、今後その所望に任せて
池田父子三人に宛て行う。これらの趣を感状とする。

天正八年八月十八日              信長判
池田紀伊守殿


――『寛永諸家系図伝』

243人間七七四年2017/09/20(水) 19:19:26.80ID:um2u10wi
池田輝政まだ若いのにすごいな
信長も、将来にわたって自分の子や孫に忠実に仕えてくれると思っただろうな

244人間七七四年2017/09/20(水) 19:22:46.98ID:h/uZFlBu
待って
どっからが書状なの?

2452422017/09/20(水) 19:45:49.91ID:OnRT8wAe
>>244
>武士高名越度之事
から全て書状です。(諸系図伝からの引用なので書状そのものではないですが)

246人間七七四年2017/09/21(木) 03:22:10.82ID:bTnaNMaE
一、本多安房守(政重)は大献院様(徳川家光)の御代に、毎度御前で色々
と御話を申し上げた。これがあまりに御話申し上げ過ぎているとして、

酒井讃岐守殿(忠勝)などは御笑止(気の毒に思うこと)に思いなさったとの
由、岡田豊前殿(善政)が相公様(前田綱紀)に申し上げられた。

一方で申し過ぎることは、微妙院様(前田利常)や陽広院様(前田光高)の
御為によろしきことも多くあったとの由である。

これは右の記事と同じ時(享保5年8月12日夜)に仰せになった。


一、本多大夢が安房守と申した時、大献院様の御代に参府し、何れの時か
御目見えした折、大献院様の仰せがあると、何やら色々申し上げたという。

その後に岡田豊前殿が申されたことには、松平伊豆守殿(信綱)が御申しに
なったそうで、安房守は何やら御前で申し過ぎたとの由を御申しになられた
との旨の噂があったとのことである。

これは前述の豊前殿の物語りを聞こし召されたとの由を、右の記事と同じ時
(享保8壬卯年5月25日)に仰せになった。

――『松雲公御夜話』

247人間七七四年2017/09/22(金) 15:43:53.29ID:SmL/qRqe
ある時、穴山梅雪が馬場美濃(信春)の向かって聞いた

「徳川家康というのは、人に優れて利根な人物か?」

これに馬場美濃
「なんという不案内なお尋ねか。

謡、舞、或いは物を読んでその理解が早いことを利根といい、
その所作がらが良いのを器用とも利発とも言います。

座配や時宜についての仕様が良く、大身とも小身とも、付き合って一つも軽薄な所がないのを
利発者、あるいは公界者と言います。

芸の理解が良くなく、座配なども良くないが、武義について勝れた者、放し打ちの一度も二度も
致したような者を利口者、
槍脇を勤め首尾の良きこと2,3度有れば甲斐甲斐しき者と言います。
そしてそのような働きが重なれば兵者(つわもの)とも、覚えの者とも言い、
その覚えが重なると、大剛の者、
その人物に、さらに分別工夫が有ればそれを名人と言います。

徳川家康は三河一国から遠江まで手をかけ、日本の弓矢取りの中でも若手の代表格と言えるでしょう。
そういった人物に対し、利根かどうかと尋ねるのは、いかがなものでしょうか?」

この話の内容から考えるに、利根、利発、利口、覚えの者、大剛の者などという区別であるが、
馬場の言っている理屈も正しいとは言い難い。これはその当時の、世俗における理屈を伝えている
だけなのだろう。

ただし、何事でもその道々に定まった言葉というものがあり、その弁えなく使ってしまっては、
その言葉の持つ意味が消えてしまう。
そういった意味で、例えば同じ学問僧を指す言葉であるが、教家においては所化と呼び、
洞下においては江湖と呼び、開山派では衆寮と呼ぶように、その品によってその言が変わるのだと
心に付けて、言葉に気をつけてその説を詳しく説明すれば、みだりな言葉の出ることは無い。

そういった中、「武辺者」という言葉を定まったものとして使う向きがあるが、この意味合いも
東西都鄙によって別であり、家によっても変化する。その文字の字義、理えお正し、言葉をみだりに
致さないこと、これも君子の戒めの一つである。

(士談)

言葉を使う時はその意味や定義をきちんと押さえておかないといかんよ、というお話

248人間七七四年2017/09/22(金) 16:45:29.09ID:j6deZQvo
いちいち呼び変えるのって大ふへんだなぁ

249人間七七四年2017/09/22(金) 17:38:47.63ID:OQHDg4wR
なるほど、儒者の書きそうな書物だ

250人間七七四年2017/09/26(火) 15:28:33.97ID:l7q/KHP7
>>238行ってきた
ここやまとめサイトで突っ込まれてる「秀吉を支えた」についてはこんな描かれ方
「天正十八年(一五九〇)、小田原城の北条氏を滅ぼした秀吉は、つづいて宇都宮城に滞在して天下統一の総仕上げに着手した(宇都宮仕置)。
(中略)
二二代国綱は秀吉から領地支配を認められ、その後も秀吉への奉公に励んだ。
国綱は、太閤検地を領内で実施して経済基盤を固め、朝鮮出兵(文禄の役)などの過度な軍役をつとめた。
秀吉からは豊臣姓・羽柴名字を許され、朝廷の官職である侍従にも任じられるなど、国綱は秀吉の一門格として処遇された。
慶長二年(一五九七)、国綱は突如、領地を没収された。秀吉の不興をかったことが原因とされるが、真相は不明である。
国綱旧領の事後処理は、秀吉の奉行浅野長政と真田昌幸に命じられ、両人は宇都宮でその対応にあたった。
宇都宮氏の再興を期す国綱は、旧臣たちとともにふたたび朝鮮半島に渡ったものの(慶長の役)、秀吉の死去によってその望みは断たれた。
再興の願いがかなわぬまま国綱は、慶長十二年(一六〇七)に江戸で死去した。」

251人間七七四年2017/09/26(火) 15:51:47.42ID:l7q/KHP7
また展示されてた上杉家文書に収められている景勝宛の宇都宮国綱書状に
「景虎を破って家督を確固たるものとしたこと喜ばしいです
佐竹たちと一味中を結成して対北条同盟をつくってるので安心してください
特に秀吉との関係強化をはかることをお考えください」
とあったから「秀吉を支えた」でも不自然ではない気が

ほかにも
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=5134
で第20代当主宇都宮尚綱が使っていた軍旗の展示もあったが、その説明文が
「本軍旗は、宇都宮俊綱(のちに尚綱)が天文十八年(一五四九)に喜連川早乙女坂(さくら市)の合戦で実際に使用したものである。
俊綱は那須氏との合戦で討死をとげ、この軍旗は敗走する宇都宮勢から那須氏が奪い取ったものになる。
以後、那須家では「宇都宮俊綱旗」として伝来された。」
だったせいで適当に読んでたら
「ああこの戦いの時にはまだ俊綱で、後から尚綱に改名したのか
…てこの戦いで死んでる!」と突っ込んでしまった。
軍旗の名称が俊綱旗だからそっちをメインにしたのだろうか

ついでに、この早乙女(五月女)坂、現在では尚綱を射殺した鮎瀬弥五郎実光にちなんで「弥五郎坂」という名前になっている。
尚綱坂や俊綱坂と呼ばれないのが少し不憫

252人間七七四年2017/09/26(火) 16:26:55.27ID:ItlnoGBr
うむ、レポ乙

253人間七七四年2017/09/26(火) 18:57:34.46ID:KrZ4khGv
マイナー大名だけど地元でこうして扱われるのはなんか嬉しい

254人間七七四年2017/09/26(火) 20:17:15.98ID:iEpll7pY
大体歴史ある家ってのはマイナーなんだよな
メジャーどころは伊達島津大友あたりか微妙な感じで上杉か

255人間七七四年2017/09/26(火) 22:49:41.70ID:8e1WUmfJ
佐竹

256人間七七四年2017/09/26(火) 23:01:33.66ID:r0Me4Piv
確かに戦国期の千葉介はマイナーだ

257人間七七四年2017/09/26(火) 23:40:04.01ID:MoqyhZHA
越前朝倉英林(孝景)が言ったことに
「武者の雑談で出てくる、いかにも巧者の言葉を信仰し、能く聞くこと肝要である。
ただし若い頃から、合戦において巧者のように振る舞えば、却って悪名を得る事もある。
武者の事において人を褒める場合、『あれほど成る者は有るまじき』とは言わぬものである。
『並ぶ者はあるが、増す者はいない』と褒めるのが良い。」

(士談)

英林公の、人の褒め方についてのお話

258人間七七四年2017/09/28(木) 18:02:08.18ID:hprxhZ3H
大阪夏の陣の折、青山伯耆守(忠俊)の備えは敵を真向に受け非常な激戦を繰り広げたが、
伯耆守は青山組の侍に向かって叫んだ

「願うところの幸いに候!何れも悪びれたりするな、誰も誰も、今日を討ち死にと思い定めよ!」

しかし、これを聞いた野一色頼母が言い返した

「これは仰せとも思えない!他は知らないが、私は江戸を出る時から既に討ち死にと思い定めて
いるのだから、今日を限りの討ち死になどと存ずるまでもない!」

この一言に人々は勇気を励まし

「そうだ!頼母の言うとおりだ!」

と一同して勇んだ。野一色はその日、討ち死にを遂げた。

(士談)

259人間七七四年2017/09/28(木) 21:30:20.64ID:0Nn+ZtJN
http://sikyo.net/-/1013876

野一色助重

亡くなってから402年144日過ぎました。
26歳で亡くなりました。
1589年に誕生、1615年05月07日に亡くなりました。
生誕428年が経過しました。没後402年が経過しました。
暮らした時代は、安土桃山時代 から 江戸時代 です

>>ただし若い頃から、合戦において巧者のように振る舞えば、却って悪名を得る事もある。

26歳は当時としちゃそれなりの年齢だろうけど、関ヶ原では11歳だし就職は1612年みたいだし

260人間七七四年2017/09/28(木) 22:35:34.20ID:NnFaSWqr
ノイッショクスケシゲ

261人間七七四年2017/09/29(金) 03:25:37.95ID:yfdPfta+

262人間七七四年2017/09/29(金) 13:10:09.00ID:knKSZPOa
このスレってさ
まとめ管理人とかいう奴が延々と
現代語訳してコメント集めてんの?

263人間七七四年2017/09/29(金) 14:50:46.40ID:sori05xS
しらんがな。ツイッターで聞いてこいよ。

264人間七七四年2017/09/29(金) 15:59:42.71ID:lC8w7Akb
管理人は基本的に何もせずコピペブログ作ってるだけ

265人間七七四年2017/09/30(土) 02:43:45.97ID:PbrYLDou
大献院様(徳川家光)は名誉な公方様でござった。御一代の内に御鷹狩をされ、
ならびに島津家へ仰せ付けなさり、犬追物を上覧された。

また安宅丸を仰せ付けなさり、諸大名を召し集められて御遊覧などをなさった。
大方、太閤秀吉の気風を御慕い遊ばされた御様子である。

その安宅丸御遊覧の時、諸大名が舞いを仕るなど、色々の音曲がござった。

松平陸奥守政宗(伊達政宗)は御酒宴のうえで三方を頭に被って踊り申された
という。興に思われる趣のあることであったとの由である。

松平越後守殿(光長)や新太郎殿(池田光政)もその座に御出の方で、以後に
相公様(前田綱紀)へ御参会の折に度々直に御物語りを聞こし召されたとの由、

同年(享保7年)1月12日に仰せになった。

――『松雲公御夜話』

266人間七七四年2017/09/30(土) 21:17:20.14ID:G/SK1aus
https://info2.city.kanazawa.ishikawa.jp/www/event/detail/1261
第15回全国藩校サミット金沢大会

徳川さんと前田さんに山本博文さんが加わり3人で鼎談
有名な徳川前田両氏の日本郵船時代の逸話はでたかな

267人間七七四年2017/09/30(土) 23:59:42.15ID:D1E7tGqL
朝倉宗滴いわく
「音信として、秘蔵の馬、その他重宝を人に遣わす時、それに付けた書状の書式が慮外であれば、その
遣わした珍物も尽く無となり、かえって遣わさないよりも劣ることが有る。
心得の上手、下手にはこれほど相違の有るものである。よくよく分別有るべし。

(士談)

268人間七七四年2017/10/02(月) 13:46:53.74ID:dP9+ENkW
仰々しくしラッピングした方がありがたみが出る、
みたいな話?

269人間七七四年2017/10/02(月) 22:13:13.31ID:brJ4Rm+G
>>268
たとえ贈り物が素晴らしくても書状で礼を失すれば全てが台無しにするという話し。

武家は面目が大事だから書札礼を守らないと、それだけで争いのタネになる。

270人間七七四年2017/10/02(月) 22:37:43.24ID:YTBNVBv4
中公新書の桜井英治「贈与の歴史学」って本だと
室町時代では貨幣経済が育たなかった分、贈与がその埋め合わせとなり、贈り物自身の価値というよりは
贈与によるコミュニケーションが主な目的となっていたようで
(贈り物はたらい回しにされるのが当たり前、数日前にあるところに出した贈り物が巡り巡って戻ってくることもあったとか)
書式が慮外ならそもそもの目的のコミュニケーションも果たせないな

271人間七七四年2017/10/02(月) 22:46:50.47ID:29W7x5RH
フロイスも「贈り物がないことには話すら聞いてもらえない」みたいな事書いてたな

272人間七七四年2017/10/03(火) 03:11:36.71ID:o3oJm9vk
足利尊氏が貰った贈り物人にあげてたら全部なくなっちゃった話とか割りと普通のことだったのかな

273人間七七四年2017/10/03(火) 08:00:43.94ID:lHax47KH
あれは違うみたいだが

274人間七七四年2017/10/03(火) 12:49:33.40ID:N9tcduy+
田中角栄が相手の予想より少ない額だと馬鹿にされたり恨まれるからやらないほうがマシって言ってたな

275人間七七四年2017/10/03(火) 14:00:44.69ID:8y/Y6Xjj
角栄が言っても説得力がない

276人間七七四年2017/10/03(火) 14:17:29.19ID:iQtwkKN2
蒲生秀行は、一時宇都宮に転封され、後に60万石にて会津に復帰した。
この時彼は、とある家臣を召して聞いた

「わが父氏郷は、百万石にて会津に在城し、奥州の押さえとなっていた。
しかし今私は60万石にて奥州に有るのだが、この石高では思い通りに、奥州の押さえが
出来ないのではないだろうか?この事について尋ねたいのだ。」

家臣は申し上げた
「氏郷様が百万石にて奥州に召し置かれた時分は、太閤殿下は遠く離れた大阪に居られましたから、
百万石であっても独りでの行動はしにくいものでした。
しかし現在は御旗本が江戸となりました。江戸から会津までは僅か5,6日を過ぎないほどの行程です。
60万石であっても、かつての百万石より危うさはなく、奥州の押さえとして、充分に働くことが出来ます。」

これに秀行は、速やかに言上したことを神妙であると感心した。

(士談)

277人間七七四年2017/10/03(火) 16:15:10.82ID:gcVt3+vJ
儒教特有の家臣age

278人間七七四年2017/10/03(火) 19:03:41.10ID:ZpdTyF3B
最近は文句ばっかり付けるアホが常駐してんな

279人間七七四年2017/10/03(火) 23:26:18.41ID:PQQbOlsn
明治維新に影響をあたえた仰徳大明神(毛利元就)


毛利元就は毛利家にとって神君として崇められていた。
徳川家康が東照宮大権現なら、元就は仰徳大明神である。

毛利家中興の英主といわれる重就は元就の遺訓をまとめて「御教戒」として君主のありかたを照らす鑑とした。
やがて幕末、藩士中村清旭は安政二年(1855年)元就の遺訓を集大成して「大訓衍義」を著した。
これは元就の勤王精神を長州に植え付けることとなった。
というのも毛利元就は永禄三年(1560年)に財政難の為、即位式が出来なかった正親町天皇の為に
即位の御料として銀四十八貫を献上し即位式を挙げさせてあげたのである。

これが前例となり毛利家だけは、他の大名と違い
年末年始はもちろん朝廷の吉凶時にさいしても、朝廷への進献が許されていた。
そして石見銀山を永久的に毛利家が支配する為に皇室御料所として寄進し、毛利家が管理者として実権を握った。
これにより秀吉が天下を取ったあとでも秀吉は石見銀山には中々手が出せなかった。


元就が天皇への勤王あつく(打算的勤王という人もいる。まあないとは言えないでしょうね)
こういった経緯もあり激動する情勢に長州藩では藩の方針を以下とした。

第一に天朝への忠節
第二に幕府への信義
第三に祖先への孝道

すなわち天朝と幕府が対立した場合、天朝方につく下地は元就のころから出来ていたのである。


高杉晋作は第二次下関戦争の為の挙兵での檄文で
「御先祖洞春公の御遺志を継がせられ御正義御遵守遊され候…」
「洞春公尊霊を地下に慰め御両殿様(藩主敬親、元徳父子)の御正義を天下万世に輝かし奉り…」と掲げた。

洞春公は元就の法名。
つまり元就を範に攘夷決行、王政復古を訴えたのである。

奇兵隊の最初の作戦は戦局には全く影響のない安芸郡山攻略。

目的は唯一つ、毛利元就の墓所の奪還である。

280人間七七四年2017/10/03(火) 23:34:11.14ID:KBj7WAN5
大江広元の子孫が武家政権を倒して王政復古を図るとは
祖先は天皇と幕府の次だから気にしてなかったんだろうけど

281人間七七四年2017/10/04(水) 10:51:49.08ID:4vJxH0l7
すべては「そうせい!」の一言で

282人間七七四年2017/10/04(水) 16:18:09.71ID:Kbab0n5s
>>279-280
歴史の流れって面白いなー
毛利と島津が幕末にあんなことになるとは権現様でも気づくめぇ

283人間七七四年2017/10/04(水) 21:05:13.25ID:EAg4DYKA
出典は?

284人間七七四年2017/10/04(水) 21:22:35.19ID:lpvoNYzS
江戸幕府のはじめ、板倉勝重が京都所司代であったころ、二人の男が一反の巻絹を争う訴訟があった。
両人ともにそれが自分のものだという確証がなく、遂に勝重の裁断を仰ぐことと成り、これに対し
勝重は

「双方とも証拠がない以上やむを得ない。これを分かつべし」

そういって彼らの目前でこれを中央より断ち、それぞれに分け与えて去らせた。

その後、勝重は人を遣わして密かに二人の様子を探らせたところ、甲は喜び、乙は怒れる色あり、との
報告が還った。勝重は速やかに甲を捕え獄に下した。

(今古雅談)

285人間七七四年2017/10/04(水) 22:27:21.22ID:OcJJ7uqw
>>284

巻絹だけに裁断ってか

286人間七七四年2017/10/05(木) 19:34:10.18ID:8zUhQpLS
千利休は茶について、武野紹鴎に学んだ。

紹鴎はある時、利休の才を試みようと、密かに人に命じてその庭を掃除させ、
その後、利休に「わが庭を掃除せよ」と命じた。

利休が紹鴎の茶亭の前に行くと、地面は拭うがごとく掃き清められ、わずかの塵すら留めず、
木々の緑を鮮やかに照らしていた。そこには利休が手を加える所はなかった。

しかし利休は木々の間に入り、一本の松を揺らすと、落ち葉が風に翻り、点々と地に落ちた。
これによって風情、一段と増した。

そして利休は紹鴎に伝えた
「謹んで命を完了しました。」

武野紹鴎はこれを見て、利休の奇才に感じ入り、茶における様々な秘訣を伝えた。
こうして利休は終には、茶博とまで呼ばれるに至った。

(今古雅談)

287人間七七四年2017/10/05(木) 19:45:40.11ID:M/gUdZAy
いいね

288人間七七四年2017/10/05(木) 20:39:59.42ID:W5QFadg9
むかし、掃除した浜辺にわざわざゴミを撒き散らしたテレビ局がありましてね
それを回収する様子を放映してましたな

趣向はまったく違うがそれを思い出したw

289人間七七四年2017/10/05(木) 20:41:45.09ID:f5o6L3Z6
茶亭の前に行くとすでに掃き清められ手を加えるところがなかった利休は
松の木を揺らすなど激しい威嚇行動をとった

290人間七七四年2017/10/06(金) 15:47:25.82ID:bAHcXAIl
ゴリラかよ
たしか六尺の大男だったよな

291人間七七四年2017/10/08(日) 23:15:16.48ID:vtU+lYlX
上杉謙信が刑罰を設けた時、第一に奪刀、第二に死罪、第三に所領没収、第四に侍身分の剥奪、
第五(不明)、第六に禁錮の六種類とした。

ある時、謙信配下の長尾右衛門佐という者が、その所行悪しきとして処罰を加えられ、
所領没収の刑を申し渡された。またこれにより、終身帯刀を禁じられた。
右衛門佐の親族はこの処分に大いに驚き哀訴した。
これを請けて謙信も、彼の先代に忠功有るを以って、罪一等を減刑し、特に双刀を許して
切腹を命じた。

(今古雅談)

292人間七七四年2017/10/08(日) 23:56:00.51ID:hCwvv1Sg
なんとなくだが当時の人にとっては奪刀の方が死罪よりキツい気がする

293人間七七四年2017/10/09(月) 14:13:02.70ID:5R3wNeTf
命より名誉…。

294人間七七四年2017/10/09(月) 15:02:34.20ID:tHmmBpae
名誉が無くなったら大抵の場合暮らしてけなくなって命もなくなるからな
だったら命を無くしてでも名誉くらい残しておこうという簡単な話

295人間七七四年2017/10/09(月) 23:19:55.75ID:6zdH1xbb
丹羽長重の将、江口三郎衛門の従者に出口藤蔵という者があった。
彼は剛勇にして戦功も少なくなかったが、傲岸不遜な性格のためはかばかしい所領を得ず、
齢既に60を過ぎていたが、録僅かに200石であった。

慶長5年、前田利長が大聖寺城を攻め、これを下して凱旋する時、丹羽長重は兵を出してこれを追撃し、
浅井山下にて戦った。
出口藤蔵はこの時後軍にあったが、「吾が畢生の功名を立てるべきは今日にあり!」と、まっしぐらに
敵陣に駆け入って縦横自在になぎ倒し、遂に敵将を斃してその頸を取り去ろうとした所、そこに敵兵
15,6騎駆け集まってきた。藤蔵は彼らの攻撃をとっさに防いだが、彼の斃した敵将の頸は奪い去られた。

この時、この戦場に藤蔵の妻が、半白の髪を後ろに結い上げ、手織りの麻衣をかいがいしく引き掲げ、
腰には短刀を帯び手には瓢箪を持って、足早に歩み来るのに彼は気がついた。

「あわれ我が妻、我に酒を与えん為に敵兵の中を健気にも来たれるものか」

藤蔵は両手を上げて差し招き「出口藤蔵はここに在る!早く来たりて酒を飲ませよ。見まごう事なかれ!」と
声を限りに呼んだ。
ところが妻はこれに応えず、逆に本陣の方に向かって行こうとしたため。傍らに居た兵卒が彼女を呼び止めた
「出口氏があのように呼んでいるのに、何故応えないのか?」

妻は言った
「いいえ、頸わずかに一つばかり、しかもそれを取り返されて追うことも知らぬ男に、私の夫だからといって
どうして言葉を交えることが出来るでしょうか?この酒は、主君に奉らんとわざわざ持ってきた物です。
卑怯者に振る舞うために持ってきたわけではない!」

そう言い捨てて本陣へと向かった。
この言葉を聞いた藤蔵は大いに感奮し、逸足出してかの首級を奪い去った一隊に追いつき火花をちらして
戦闘し、四方八面に追い捲り再び首級を取り返して、山下の本陣へと戻った。
この時彼の主人である江口は、藤蔵の妻が酒を持ってきたのを喜び、副将の南部右衛門と共に
瓢箪の酒を傾けていたが、藤蔵が首級を携えて来たのを見て大いに喜び、
「お前もこの酒を呑むべし」
と言ったのを、藤蔵の妻は傍らで止め

「その酒は、この瓢箪こそ賜るべきものであり、藤蔵が飲むべき理由はありません。
何故ならその首級を取り戻したのはこの瓢箪であり、藤蔵ではありません。」

これには藤蔵も笑いだし
「このババア、またしても悪口を申し出したり。せっかくの勲功も汝のために無駄骨折となったわ」

このやり取りに、陣中で笑い転げぬものはいなかった。

(今古雅談)

296人間七七四年2017/10/09(月) 23:39:26.98ID:Dbatpy+g
出典は違うが(「小松軍記」)まとめサイトの9190
「酒瓢箪の仕業」で既出

297人間七七四年2017/10/09(月) 23:41:11.56ID:Dbatpy+g
まとめサイトの605
江口三郎右衛門の家来出口とその妻、酒と泪と男と女・いい話
でも「武将感状記」が出典で出ていた

298人間七七四年2017/10/10(火) 19:56:05.70ID:fEscj1Be
こんな女絶対結婚したくねえ

299人間七七四年2017/10/10(火) 20:33:34.23ID:o40fN3zB
大人しい女性ならともかく何十年と連れ添っていればたいていはそうなる

300人間七七四年2017/10/10(火) 20:57:37.46ID:k1cXf0Y7
俺の嫁だったら絶対家で餅食ってるぞ
なんだかんだ情があるよこの夫婦

301人間七七四年2017/10/10(火) 23:36:54.30ID:LIJlKtSs
詰まらせて死ねばいいのに

302人間七七四年2017/10/11(水) 11:32:31.80ID:LNFCsoX1
戦陣に来るのはまあ無いと言えないが、戦場の最前線に酒持ってくるのはこの時代でも凄い

303人間七七四年2017/10/11(水) 15:47:17.05ID:gmnkmarz
>>294
Mine honor is my life; both grow in one.
Take honor from me, and my life is done.

って奴だ

304人間七七四年2017/10/11(水) 18:00:35.41ID:hmMnuSkv
成瀬隼人正正成が新たに領した地に、米商人八郎兵衛という奸商があった。彼の父の代より、
密かに大小の二種類の升を用い、不正の利益を得てその富巨万とした。

しかし隼人正が領主と成るに及んで、政令厳格にして姦悪尽く摘発されるに及び、八郎兵衛大いに恐れ、
自首して罪を請うた。

この事に隼人正は思った
「八郎兵衛は人を欺き不正に利得を得ており、その罪は許しがたい。しかし自ら罪悪を知り訴え出た。
その心情は恕するべきであろう。まして、この不正を始めたのは先代であり、必ずしも追求すべきでは
ないだろう。」

そして八郎兵衛にこのように命じた

「自今以降は世間に公表して2つの升を使うべし。ただし購入に小升を以ってし、売る時には大升を
以って行え。これを7ヶ年行うことで、前罪を償うべし。」

隼人正はこれによって不正の富が損ずるとのつもりで命じたのである。
ところが、これ以後八郎兵衛の店頭には米を買う者日々に群集し、その富は昔日の倍となったという。

(今古雅談)

305人間七七四年2017/10/11(水) 18:07:39.71ID:K1Mthq9x
意味が分からない

306人間七七四年2017/10/11(水) 20:01:12.55ID:7KqRD381
不正しなくてももうかる値段設定だったってことかな、もしくは付属品で儲けたか。

307人間七七四年2017/10/11(水) 20:06:27.09ID:H4+NZ/St
売れば売るほど赤字になりそうだけど…米以外のものも売ってたのかね。

308人間七七四年2017/10/11(水) 20:30:23.18ID:lV7aeGVh
薄利とはいえ他よりマシな値段設定とか

309人間七七四年2017/10/11(水) 20:54:33.09ID:OGC4e17e
この店は他店より大きな升で買えると七年経ってもイメージが付いたんじゃないかな

310人間七七四年2017/10/11(水) 21:43:47.62ID:hmMnuSkv
本阿弥光悦は、累代刀剣の目利きであり、研ぎ、および拭いの業を以て聞こえた本阿弥家の跡を継ぎ、
殊に拭いの殊に詳しく、また書に妙であった。

ある時、近衛三藐院殿(信尹)が光悦に尋ねた
「昨今、天下に能書と称すべき人物は誰であろうか?」

光悦は言った
「先ず、さて次は殿下(信尹)、その次は八幡の坊(松花堂昭乗)でしょう。」

「待て、その”先ず”とは誰のことか?」

光悦平然と答えた
「即ち私なり。」

ただし、当時この3人は天下三筆と聞こえ(寛永の三筆)、光悦の私僭ではない。

ある日、近衛信尹がにわかに光悦を召した。光悦、何事ならんと慌てて参上すると、直ぐ様御前に召され、
信尹は光悦の手を屹と掴み「己は!己は!」と言葉荒く叫んだ。

光悦としては思いもよらぬ事にて、「何事や、御意に逆らいましたでしょうか」と恐る恐る申し上げると、
信尹は笑いながら

「己はどうして斯くも能く書く手を有しているのか!」

そう戯れたのだという。

(今古雅談)

311人間七七四年2017/10/12(木) 14:28:07.56ID:KZ3Q7YcS
>>310
昔からこのネタあったのかw

312人間七七四年2017/10/12(木) 14:57:24.61ID:Pqs6bOG0
なんちゅうもんを食わせてくれたんや…なんちゅうもんを…

313人間七七四年2017/10/13(金) 09:16:20.71ID:HheWmS3P
ある夜、林羅山が徳川家康に侍講する折り、列座の者達、羅山の博識がどれほどのものかを試みようとした。

先ず、岡田淡州が問うた
「蓬莱島という能狂言の中に、『鬼の持ちたる宝は隠れ笠、隠れ蓑、打ち出の小槌、ジヨジヨ、ムジヨムジヨ』
と言う所がある。この『ジヨジヨ、ムジヨムジヨ』とは何なのか?」

羅山答える
「鬼の宝として出た品々は、宝物の中でも上々であり、またこの上に上々無し、という意味で、
『上々、無上無上』と言っているのです。」

次に内田信州が問うた
「鎌倉に『ノツケン』堂という場所がある。昔金岡納言(巨勢金岡:平安期の宮廷画家)がここに来て、この
勝景を写さんとしたが、筆に尽くし難く、筆を捨てノッケに成りたる故に、この堂を『ノッケン堂』と云い、
また『筆捨松』と呼ばれる松も今に存在すると云うが、これは本当であろうか」

羅山これに
「金岡が筆を捨ててノッケになったのではありません。あの堂は金澤より出る山越への坂の右の、高い場所に
あり、坂から仰ぎ見ることから『仰見堂』、これが訛って『ノッケン堂』となったのです。」

堀田加州問うた
「子供の遊びに、左右の手を寄せて『鬼の皿』という事をする。その詞に曰く

『タイドノタイドノ、一モタイドノ、二モタイドノ、タイガ嬢、梶原、アノウン、メクラガ杖ヲ、
ツイテ通ルトコロヲ、サラバ、ヨツテ、ツイノケ』

と歌っているが、これは何を意味しているのか。」

羅山、これも
「これは鎌倉時代の、源頼朝の意にかなう、威勢強き人々を数え並べた歌です。
先ず『タイドノタイドノ』とは、”御台殿”すなわち北条政子の事で、『一もタイドノ二もタイドノ』とは
続けて並べる人が居ない、と云っているのです。

『タイガ嬢』とは”大の嬢”、すなわち頼朝の娘、大姫君という、清水冠者の夫人を指します。

次の『梶原』は平三景時で、これも当時の寵臣です。

『アノウン』とは安明寺といって、北条時政の妻である牧の方の一族で、盲人でしたが、彼は特別に
殿中において杖をついて歩くことを許され、この人に行き合う者達はみな彼を避けて通していました。
故に『サラバ、ヨツテ、ツイノケ』と云うのです。」

その後も様々な問答があったが、羅山はすべて滞りなく答え、皆、彼が細事にまで通じることに
感嘆したという。

(今古雅談)

さすが人間ウィキペディア

314人間七七四年2017/10/13(金) 15:02:58.61ID:Ohs68rOU
クイズ王とファンの集いかな?

315人間七七四年2017/10/13(金) 16:40:34.79ID:ZTvwgvqs
怪力乱神

316人間七七四年2017/10/14(土) 17:04:08.52ID:s8Qod1gV
上杉景勝という人は、豪邁肝大の大将にて、その軍陣に臨むや、先陣において既に交戦し、
矢弾雨のごとく降り喚声天地を振動するばかりであっても、身は幕中に有りて普段と変わらず睡眠
を取り、雷の如きいびきを上げるのを常としたという。

彼が豊臣秀吉に臣従し上洛した時、数百人の一行は完全に黙し咳の声すら聞こえず、只人馬の足音を
聞くのみであった。
その折、富士川を渡る際、船が小さく人多く、中流に至ってほとんど沈没せんとした。
この時景勝怒り、舷頭に立って鞭を挙げて一揮すれば、衆皆躍り上がるように水に飛び込み泳ぎ、
よって無難に渡ることを得たという。

景勝の厳格なることかくの如きなれば、彼の生涯において、只一度の外その喜悦の色を見たことが
無いという。
ある時、上杉家に一匹の猿があり、たまたま景勝が脱いでおいていた巾帽をかぶって逃げ、庭の木に
上り景勝に向かって3度頷いた。
彼はこれを見てにっこりと微笑んだ。
これ実に、左右の近臣達ですら、始めとも終わりとも、景勝の笑顔を見た一生の内ただ一度の事であったという。

(今古雅談)

317人間七七四年2017/10/14(土) 22:10:21.01ID:g3yndAKm
>>313
内田信州「ノツケンロール」


仰見堂って能見台ことかな?

318人間七七四年2017/10/15(日) 11:56:33.35ID:CEt5gvj1
一僧あり。かつて古法眼(狩野)元信を訪問して、「愚僧に鬼の絵を画いて与えられよ」と懇望した。
当時、鬼という名称はあったが、それがどんな姿かという絵形は無かったため、困惑した体であったが、
さすがは元信であり、心ひそかに思った

『和俗に丑寅の間を鬼門と号し人々最も恐れる所であるのだから』と、頭は牛の形に型取り、腰より下を
虎に型取り画いて僧に与えたが、実はこれこそ鬼絵の始まりであった。

以降の絵師たちはますます異形を巧みて丹精を施し、虎の皮の褌なども着けるようになったという。

(今古雅談)

319人間七七四年2017/10/16(月) 03:44:43.04ID:kqqh9NYq
無かったん?

320人間七七四年2017/10/16(月) 11:48:55.65ID:dJJE5qmC
鎌倉末期の大江山絵巻には鬼が描かれていたような・・・

321人間七七四年2017/10/16(月) 18:33:58.00ID:0h1KkTJT
豊臣秀吉が名護屋に在陣していた時のある日、陣屋を巡視していたが、ある小屋の庇に額が掲げられ
「朧月夜」とあるのを見た。
秀吉はしばらく考えていたが、ふと、左右を顧みて尋ねた
「これは誰の小屋か?」
「殿下の臣、野間藤六の小屋です。」

やがて小屋の主人、野間藤六が出て秀吉の前に平伏した。
秀吉は彼の姿を見るとうち笑って

「汝は敷物が無いのか。」

そういうと畳に白米を添えて与えた。これはこの額が、『朧月夜に”しくものぞなき”』という古歌によった
ものであると察したためであった。
(元歌は新古今和歌集にある大江千里の『照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜に似るものぞなき』)

またこれと同じ時に、小屋場の僅かに空地のある場所に菜を植えている者を見て大いに賞賛し

「永陣と見て退屈せずわずかの土地をも虚しくしない、誠に武士の注意かくこそあらまほしけれ。」
と、その小屋頭を召して白米を与えた。

(今古雅談)

322人間七七四年2017/10/16(月) 18:57:42.01ID:TgZ2Wb+O
角川スフィア文庫の「新古今和歌集」第一 春歌上 55だと
「照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月夜にしくものぞなき」
で「しくものぞなき」だが異本だと違うのかな

323人間七七四年2017/10/16(月) 23:50:02.07ID:MyjBEA0U
本来は大江千里が「如くものぞなき」と歌ったのだったが源氏物語ではこれを改変して「似るものぞなき」としたとのこと
新古今集には前者が採用されている
ちなみにこの歌はオリジナルは唐の歌でそれを和訳したもの

324人間七七四年2017/10/17(火) 00:12:27.94ID:Xw26Rndi
和訳というか元にしたというか

白氏文集・嘉陵夜有懐 其二

不明不闇朦朧月(あかるからず くらからず もうろうのつき)※新古今集では「不明不暗朧朧月」

非暖非寒慢慢風(あたたかからず さむからず まんまんのかぜ)

独臥空牀好天気(ひとりくうしょうにふせば こうてんき)

平生闔俣梵S中(へいせいのかんじ しんちゅうにいたる)

325人間七七四年2017/10/17(火) 12:51:30.84ID:NnEHy8T9
筑紫広門と高橋紹運の戦いの時、筑紫が兵を出して岩屋へと攻め寄せた時、紹運の家臣である
関内記の長刀持ちが、打物の鞘を外して用意していた所、どうしたわけか実淵勘解由という侍の頬先に
刀の先をひっかけ、流血におよんだ。
実淵は以ての外に腹を立て、今にも斬りかかろうとしたのを、内記は様々に弁解したが、全く承知なかった。
しかし内記の父・善虎という者がこの騒ぎを聞きつけてやって来て、言葉を尽くしたことで、ようやく
堪忍に及んだ。

この時善虎は内記を叱りつけた
「あれほど多い敵の面を斬らずに、味方の顔を斬るとは言語道断の次第なり!」

しかし内記
「私の存ずるところではありません。長刀持ちの若党の誤りであり、私にはどうにも出来ません。」

「それも其方が常々不覚悟の故に、未だ敵にも逢わぬ内に、早く長刀の鞘を外させていたためだ!
いつでも、敵が近くなってから打物の鞘を外し、敵の顔だけを斬れ!」

内記はこれに一言も反論せず、

「ならば、斬ってみせん」

そういうと長刀を取り陣所を出て大いに戦った。
この当時、関内記の事は”高橋の長刀打”と、九州において大いに評判に成ったという。

(士談)

326人間七七四年2017/10/17(火) 17:29:10.79ID:7bJ1dOiZ
いかにも江戸時代っぽ

327人間七七四年2017/10/18(水) 05:30:04.78ID:xX5oFGGB
天正14年、豊臣秀吉が関白であった頃、京の旧三条通白川橋より東5丁目に良恩寺という浄土宗の
寺があった。この寺の傍らに年老いた隠者が在り、粟田口の善輔と呼ばれた。(善法、または善浦とも云う)

この翁の住居は、藁葺き屋根に四本柱の四畳半一間にて、床の間もなく、土間に爐を切り円座を敷いて
賓主の座を分かち貴賎の別なく茶を振る舞い、物語などして、昼夜の分ち無く楽しんでいた。
また食料が無くなれば、一瓢を鳴らして人の施しを乞うた。
人々は彼の人柄を知っていたので、皆が金銭、米、布を恵んだ。
そうして物のある間は家を出ること無く爐にかけた手取釜にて粥を炊き、また湯を沸かして茶を喫した。
その湯が湧く時は、彷仏松濤の声を吟じて一人笑った。
また「手取釜 おのれは口がさし出たぞ 雑炊たくと人に語るな」など戯れることもあった。

秀吉がそのような話を聞き、利休に「その手取釜を得て茶を点てよ」と命じた。
利休は善輔の元へ行き、云々の命有りと伝えた所、善輔は聞くやいなや感情を損じ

「この釜を奉れば、他に代わりは無い!いわれの無い釜であるからとそのようにぞんざいに言われるとは
思いの外である!」

彼はすぐにその釜を、そのあたりの岩に投げつけ打ち砕き
「あらむつかし 阿弥陀が岸の影法師」
と呟いた。

利休もこれに呆れ果て「秀吉様は短期であるし、いかが致すべきか」と思い煩ったが、今更どうにも出来ず
帰ってありのままに申し上げると、秀吉は却って機嫌よく

「その善輔とやらは真の道人である。彼の持ち物を所望したのは我が過ちであった。」と、
その頃伊勢安濃津に越後という名のある鋳物師があり、彼に命じて、利休が見たままのもの2つを
模造させ、一つは善輔に贈り、もう一つは秀吉自らが蔵した。

その釜は善輔が没した後は良恩寺に納まった。これを見た人の話によると、その高さ五寸五分、
底廣さ七寸、口径三寸二分、弦は蝶番で、蓋から釜の腹にかけて木の葉を広く鋳つけており、
おおよそ今の鉄瓶と言えるものであった。
桐の箱に入れられ、箱書きには利休居士の手で『手とれ釜』と記されていた。
またこの釜に添えた、秀吉の文書が有り、そのその所に曰く

『手取釜並びに鈎箱に入れ、鎖まで念入りに出来、悦び思し召し候。尚山中橘内、木下半介に申すべき也

  十月十一日
                                 太閤(朱印)
                                  田中兵部大輔』

この文章は善輔に関係のないものだが、この釜に縁があることから、後に同寺に寄付されたものだろう。

なお、この釜の後伝とも言うべき話として、細川玄旨法印(幽斎)もこの釜を写させようと先の越後に命を
伝えたが、これに越後

「御所様(秀吉)の命にて、ただ2つ鋳たる物ですから、また同じ形に鋳るというのは、憚りがあります」

と、これを辞した所、玄旨も「それは理である」と戯れ歌を詠み、

「ならばこの歌をその釜に鋳付けよ、これが同じ物ではないという証拠である」

そう言って鋳させた。その狂歌は世にあまねく伝わる
『手とり釜 うぬが口よりさしい出て これは似せじゃと人に語るな』

こちらの釜は、今も細川家に秘蔵されているという。

(今古雅談)

328人間七七四年2017/10/18(水) 20:19:59.21ID:QI+GkoqQ
鬼松出たか、堀出たか


細川家臣・堀内傅右衛門は赤穂浪士を預かったときに接待役を勤め
『旦夕覺書』『堀内傳右衛門覚書』などの著書を残した。
曾祖父にあたる堀内構之助は池田輝政に五百石で仕えていた。
以下は『旦夕覺書』からの引用。


祖母の妙菴は構之助殿の一人娘で幼少の時に鬼松と名付けられ
とても大切にされていたので十二、三才までは、門前を池田輝政公が
お通りされる時には召し連れてお目通りさせたので
「鬼松出たか、堀出たか」*
と(輝政公が)毎度おっしゃられたと(自分が)幼少のときに聞きました。

老父は昔話が好きで、妙菴に構之助殿のときの備前の名のある侍や
物事を尋ねたときには、誰は知行何程それは番頭足軽頭と
(妙菴が)一々覚えていて話されたことを(老父が)覚えています。
昔は他にも(妙菴と)似たような人が多くいたそうです。
(中略)
昔は女でも武士の子は男子の心を持っていたのでございます。

* 恐らく名字の"堀内"にかけた洒落

329人間七七四年2017/10/19(木) 10:46:43.50ID:XGaKRpq4
鬼松は何だろうと思って調べてみたら妙菴の幼名かよ

330人間七七四年2017/10/19(木) 22:36:35.75ID:5AVF+jbi
関白豊臣秀次が、筑紫において藤原定家の書いた小倉の色紙を手に入れた。
これにより座敷を改め、色紙開きの会を開いた。
千利休を上客として、相伴3人という会であった。

頃は卯月(4月)の二十日あまり。明け方の事であった。
人々、座敷に入ったが。そこには明かりも無く、闇の中に釜の沸く音だけが聞こえ、
いかにも静かな様子であった。

「これは一体どんな御作意であろうか」

その場の人々がそう思っていたその時、利休の後ろの明かり障子が、ほのぼのと明るくなった。
不思議に思い障子を開けると、月の明かりが座敷の内にほのかに入ってきた。
さればとにじり寄って見ると、小倉の色紙がかけ物として飾られていた。その歌は

『時鳥 啼きつる方をながむれば
  ただ有明の月ぞ残れる』

誠におもしろき趣向にて、その時利休をはじめとした人々も、「さても名誉不思議のご趣向かな」と、
同音に感じ入ったという。

(今古雅談)

331人間七七四年2017/10/21(土) 20:28:54.82ID:nnJM5Bc+
>>329
ちゃんと本文を読みなされ

332名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2017/10/22(日) 10:17:08.95ID:lD4HBGRz
勝蔵は手負たり


信州高遠城に仁科五郎信盛・小山田備中・渡辺金大夫が立てこもったので
信忠公が攻められた時の先手は森長可・川尻肥前守・毛利河内守・団平八が
追手(大手)より向かうことになった。
然るところ長可は右の衆を出し抜かれて、小笠原掃部之介に案内させて
夜明けには高遠へ詰めかけられたので、(高遠方は)すぐに二の丸を空けて
本丸へ集まったので、(長可は)虎口を固められて御注進された。

信忠公は早々とお越しになられ総攻めと仰せられたので、長可が一番に
本丸へ乗り込まれて、広間口左の方へ入り座敷内で迫り合いになり
比類なき御働きで高名を上げられたが、手傷を負われた。
長可の家臣渡辺助右衛門豊守・林長兵衛為忠も高名した。

長可が腰より下は血になられて、首を持って参られたところを
信忠公が御覧になり
「勝蔵は手負たり」
と仰せになった様子は見事なる義にございました。


――『森家伝記』

333名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2017/10/22(日) 12:14:35.34ID:MmZEA88k
まとめの3131
「森長可『血染めの赤備え』」だと腕にかすり傷で腰から下は全て返り血だったけど
これだと自分の血も混じってるような

334人間七七四年2017/10/22(日) 21:12:38.35ID:LPWCxxI8
返り血のことを手負いと言い表すのか、手負いが高名なのかどっちだろう

335人間七七四年2017/10/22(日) 23:42:11.25ID:Sh+Hm2dH
連歌師の宗祇が諸国を修行していた折、ある国にて疲れ、近くに遊ぶ、主も知れぬ野飼い牛を見て
これを引き出し打ち乗りて、心に任せて歩ませた。

しばらくして牛の主が、牛のいないことに気が付き「これは悪漢が奪い去ったのだ」と、息せきって
追いかけ、これを発見すると宗祇を捕え、おおいに怒り沙汰のためと現地の奉行所へと突き出した。

奉行が宗祇に仔細を尋ねると
「私は宗祇と言って、諸国を巡る修行者です。あまりに足が疲れたため、野遊びしている牛を引き寄せ
乗り去ってしまいましたが、物盗みなどしようとしたわけではありません。ですがそもそも、
主がいないからと言って乗ってしまったのが過ちです。当然乗ってしまった事への代償は支払いますので、
どうか事無く許していただきたい。」

奉行はこれを聞くと
「宗祇といえば聞こえる和歌の修行者ではないか、ならば、何か歌を呼んで謝罪せよ。また、牛のことであるから
十二支をその歌に詠み込んで然るべし。」

宗祇、畏まってしばらく考え、やがてこのように詠んだ

『むまひつじ さるとりいぬもいなばいね うしとらぬさへうきなたつみに』

(今古雅談)

むま(午)ひつじ(未) さる(申)とり(酉)いぬ(戌)もい(亥)なばいね(子)
うし(丑)とら(寅)ぬさへう(卯)きなたつ(辰)み(巳)に
ということですね

336人間七七四年2017/10/23(月) 21:36:05.22ID:hy8AdOA6
連歌師の宗祇は旅の途中、怪異ありという廃寺を宿とした。
深夜、ふと目を覚ますと、寺の中に人々が集まり、連歌の会を行っていた。
そのうちに

『今宵の月は空にこそあれ』

という句が吟じられ、その附句を求められたが、その場の者達、みな付けかねて打ち悩んだ様子であった。
この時、宗祇は末席より

『やどるべき 水も氷にとじられて』

そう付けた瞬間、人々は「あっ」と感じ入り、そのまま消え失せた。


また宗祇が石山寺に詣でた時、

『うき草に 火を埋めたる蛍かな』

こう吟じて心ひそかに誇っていたが、その傍らより童子が出てきて
「これでは蛍が死んでしまいます」と

『池水に 火を打つ波の蛍かな』

そう詠ずるとどこともなく消え去ったという。

(今古雅談)

337人間七七四年2017/10/23(月) 23:29:05.04ID:htmCXMy7
童のくだり、落語の「西行鼓ヶ滝」で
西行が「伝え聞く鼓ヶ滝に来て見れば沢辺に咲きしたんぽぽの花」
と詠んで、我ながらよく詠めた、とほくそ笑んでたら
近くに住んでいた爺さん、婆さん、娘に次々手直しさせられ
「音に聞く鼓ヶ滝をうち見れば川辺に咲きしたんぽぽの花(白百合の花)」
と元の歌より良い歌にされ、西行が自分の自惚れを反省したら、
三人が正体を現し、実は歌の神である住吉三神だった、て話を思い出した。

338人間七七四年2017/10/24(火) 07:24:05.89ID:gGbJkRju
>>335

『むまひつじ さるとりいぬもいなばいね うしとらぬさへうきなたつみに』

ふっかつのじゅもんがちがいます

339人間七七四年2017/10/25(水) 17:50:24.41ID:pJNNrnk5
薩摩の兵児(へご)の謡に

『肥後の加藤が来るならば、焔硝肴に団子まうそ それでもきかずに来るならば、首に刀の引き出物』

というものがある。
『団子まうそ』とは、即ち弾丸を以て膳に変えるという事である。

当時、加藤清正が肥後国に封じられていたが、島津氏はこれと境を接し、非常に警戒しており、
出水郷に要害を築いた。その時この謡をつくり、人夫たちに歌わせたそうである。

(今古雅談)

340人間七七四年2017/10/25(水) 18:25:09.83ID:uHmIUURg
速攻で秀吉に訴えられそうだがw

341人間七七四年2017/10/25(水) 19:04:50.40ID:Ef10S7lE
NHKのその時歴史が動いたか何かで
「あく巻」ってお菓子といっしょに紹介していたような
秀吉の九州征伐の時の話と言ってた気がするけど、その時はそんなに加藤清正有名じゃないか

342人間七七四年2017/10/25(水) 21:04:01.30ID:CcjnGyV8
あく巻き、あんまり美味しくなかったなあ
もっと砂糖を使えばよかったかなあ

九州戦の頃の清正って官僚としての役割を期待されていたんだね
ときたまそういうコメントが出てはいたけど、もともと代官職が板についてた人だったんだね

343人間七七四年2017/10/25(水) 21:44:02.95ID:Sc/A6gmx
小西行長「あの…」

344人間七七四年2017/10/25(水) 22:30:10.23ID:Sc/A6gmx
毛利元就と陶晴賢の厳島合戦が終わって5~6日程した頃のこと。
厳島にて渡辺可性と言う者が捕らえられ、陶方の残存兵の後始末のため滞陣する元就の前に引き出された。元就は彼を見て

「この者は、先年私が山口へ下っていたとき、折々私の前へやって来た狂歌の名人じゃ。助けおいたとて、何として害を及ぼそうぞ」
とあって、召し出し
「これ可性、日頃たしなむところであろうが。狂歌一首、ただちに詠んでみせい。詠めたれば命助けようぞ」
と言った。可性は「かたじけのうございまする」と答え、すぐに

かけてしも頼むや毛利の締襷 命一つに二つ巻きして

と詠んだ。元就は、「この歌、それほどの秀逸ではないが、このような折にしては、よう詠んだ」と約束どおり可性の命を助けた。

345人間七七四年2017/10/25(水) 22:30:23.26ID:Sc/A6gmx
また、陶晴賢の同朋で、宗阿弥という者が生け捕られて、同じく引き出された。元就は彼を見て、
「この宗阿弥は普段から極めて大力の猛者と聞いておったが、何とやすやすと生け捕られて参ったことよな。将来の禍をなす者なるぞ。ただ一刻も早う殺せ。」
と言ったが、思い返し、また、
「それにしても、そちはこれまでたびたび武勇をあらわした。その名声の朽ちることをも顧みず、もしや命助かるかと、自害もせずに、こうして縄目の恥をさらすはめになったことよね。
さらば『命の惜しきは恥を思わず』という心を狂歌に詠め。そちも狂歌の名人と聞いたぞ」
と言った。宗阿弥が「かしこまりました」と申して、ただちに、

名を惜しむ人といふとも身を惜しむ 惜しさに代へて名をば惜しまじ

と詠むと、
「可性の狂歌よりは、はるかに勝れておる。助けおいたとて大事あるまい」
と、これも一命を助けたということである。「猛き武士の心をも和らぐるは和歌の徳なり」とはまことに名言である。
昔の大隈郡司の翁は「栲見るにぞ身は冷えにける」と詠んで罪を許され、藤原為明は「わが敷島の道ならで」と詠んで水火の刑を免れたが、
今の宗阿弥は「身を惜しむ惜しさ」と詠んで、一命を助かったのである。優雅な歌の世界は昔も今もその心は変わらぬものだと、当時の人々はこの歌を扇や畳紙に書いては、美談としてもてはやしたということである。
(陰徳太平記)

346人間七七四年2017/10/25(水) 23:10:50.26ID:BjysMpzj
>>345
>こうして縄目の恥をさらすはめになったことよね。

 .,'
    |. '、  \    `⌒iエ´ , イ
    |. '、   .',     ノ_,ィ ノ / /    ……出たわね。
    |  `''-、     ヽ二ノ /
  _,,-〈.\  '、 \   '⌒ /|、
     \ `"''-ニ,,_ `"''ー―くノ.|`"''
       .\     ̄ ̄ ̄ ̄ /

347人間七七四年2017/10/25(水) 23:18:50.37ID:VoDwP3CC
そうわよ

348人間七七四年2017/10/26(木) 10:54:04.39ID:zCLKuaFh
きたわね

349人間七七四年2017/10/26(木) 11:17:58.18ID:klTjDjGs
>>345
北斗の拳終盤の王国編思い出した。
雑魚が宮廷作曲家に良い歌を作るから死刑
と、言ってる所にケンシロウが現れ宮廷作曲家を救うと、雑魚に助かりたいか?

350人間七七四年2017/10/26(木) 11:19:45.63ID:klTjDjGs
なら歌ってみろ。雑魚歌う→駄目だな→雑魚爆死

351人間七七四年2017/10/27(金) 11:05:06.42ID:rCCUH/YG
美談なのか・・・?

352人間七七四年2017/10/27(金) 21:32:26.39ID:wsgJKNCI
元就さん、子供には芸事も学問も不要、って言ってるわりには、
学問と和歌が大好きだよね。

353人間七七四年2017/10/27(金) 21:50:38.91ID:8tT7Z6FC
>>352
既出のまとめから引っ張って来たんだが

『藝も要らず、能も要らず、遊も要らず、何もかも要らず。
ただ日夜共に、武略・知略・計策・調略を、工夫することが肝要なのだ。』

学問は否定していない様な…

354人間七七四年2017/10/27(金) 22:03:24.93ID:wsgJKNCI
>>353
ああ、すまん。
隆景さんの輝への説教の方だった。

355人間七七四年2017/10/29(日) 16:35:00.69ID:aWEy2xZH
鑓の柄というものは、軽くて硬いことに利があるが、上田宗箇は杉の柄の鑓を常に所持していた。
人がその理由を問うと

「突き折るほど働いての討ち死に、本望ではないか」

と答えたという、
滋賀与三右衛門も杉の柄の槍で、主人がその理由を問うと
「いざという時投げ突きにいたします」と言った。

阿波の三好が上方に進出して度々戦のあった頃、彼らの大方は竹の柄の鑓を持っていた。
それ故に、その頃の狂歌に

『阿波武者は 世々をかけて突ぬらん 皆鑓の柄を竹にてぞする』

これを京童が口々に唱えたとか。

(士談)

356人間七七四年2017/10/30(月) 02:38:20.61ID:GHo94Kii
>>355
上田宗箇の逸話はへうげものでも出てたね

357人間七七四年2017/10/30(月) 02:57:07.97ID:bVEVxMsI
浅野幸長は、稲富一夢(祐直)の鉄砲の弟子であり、彼の持ち筒は皆、一夢が指示して製造させたものであった。
徳川秀忠から誓書を下され、幸長にこの芸を習わせるほどであった。

この幸長の筒であるが、現代のものとは違い、巣(銃身の筒穴)の悪しき所を直さず、その筒のまま
それに合わせて見当目割(照準)を付けたため、筒ごとに見当目割に位置が違っていた。
また筒も金厚で重かった。
しかし年月をどれほど経ても、筒からの弾道が変わること無く、筒が老けるという事がないので、
故に標的を狙ったり弾数を多く撃つ場合には、この筒に限ると言う人もいる。

考えるに、現代に及ぶほど、実薄くして術(技術)に厚くなる。故に筒を薄くして、軽く用いる事が
出来るようにし、巣の中も加工してこれを直す事で弾道も一定にした。
しかし製造されて年月が経ち、また何度も使用されると、たちまち当たりが当初から違ってしまう。

これは技術を以って直したものであるので、元に返りやすいのだ。
悪しき所があれば少し槌で叩いてその時は直るが、年月を経ると元の悪しき所に返り、
弾数も撃てず目当ても違う。
鉄砲だけでなく何事もみな、この心得が有るべきだろう。

(士談)

358人間七七四年2017/10/30(月) 06:41:24.18ID:I5yfolQr
>>357
K川T景「ウチのボンクラは叩いても叩いても叩き足りませんでした」

359人間七七四年2017/10/30(月) 08:37:58.87ID:VS6wAuNF
現代でも連続射撃する機関銃や精密射撃用の銃は熱で変形して弾道狂わない様に肉厚のヘビーバレル使うんよね

360人間七七四年2017/10/30(月) 18:25:26.64ID:PlJHO+9W
K川で通字が「景」…香川氏かな?

361人間七七四年2017/10/30(月) 20:26:49.95ID:umVqhRCq
誰も通字なんて言ってないw

362人間七七四年2017/10/30(月) 23:36:55.73ID:SbOgUBMk
>>357
???「熱膨張って知ってるか?」

363人間七七四年2017/10/31(火) 01:03:15.98ID:1zbY6Qvi
ボケでもなんでもなく素で香川氏の誰だろと思ってしまった

364人間七七四年2017/10/31(火) 05:16:16.35ID:YhjL3Wh0
KBTIT

365人間七七四年2017/10/31(火) 13:42:58.23ID:YTm7Djfi
ボンクラだから金玉蹴られて死ぬんだよな

366人間七七四年2017/10/31(火) 17:31:16.90ID:jQaAtfFj
長宗我部元親が土佐において弓矢の盛りであった頃、家中の者、各役の道具番は道具にその持ち主の
名をしるして置いた。
このため普段も取り違えること無く、戦の場においても、取り落とした様が無作法であれば、その者の
誤りとなった。
これによって、持ち主たちはそれぞれ、一層心を尽くして疎かにしなくなったそうである。

弓矢の詮議が詳細な家では、心の付けように工夫があるものなのだ。

(士談)

367人間七七四年2017/10/31(火) 20:29:31.41ID:jQaAtfFj
信長秀吉の頃より、大柄な馬を用いなくなり、多くは小柄の馬を用いるようになった。
これは武具を着けて、口取りの者が居ない状態で乗った場合、大馬を乗りこなすのは
非常に困難なためであった。

元暦の頃(源平合戦の頃)に用いられた馬は、多くが大型のものであった。
大河を越え、岸石を駆け上がるのは、小柄な馬では出来ないことであった。
しかし駆け引きが自由で、戦を快く致すため思い通りに乗り下すには、小馬に限る。
ある人が言うには、和田伊賀守(惟政)、滝川一益、竹中半兵衛などは、何れも小馬に乗っていたそうだ。
豊臣秀吉も、賤ヶ岳の時に乗っていたのは、『小黒』と号した2寸(4尺2寸、約160センチ)に足れる
馬であったという。

考察して見るに、日々弓矢盛んにして戦競り合いが暇もなく行われる時代には、小柄な馬を
用いるべきなのであろう。

(士談)

368人間七七四年2017/10/31(火) 21:17:19.48ID:l2YmBqit
何で四尺二寸で160センチなの?

369人間七七四年2017/10/31(火) 21:22:14.12ID:NdoPDHxu
半兵衛は牛やろw

小黒の2寸って約130cmじゃないの?
160cmなんていったら希な大型馬だわさ

>>368
おそらく鯨尺

370人間七七四年2017/10/31(火) 22:09:43.86ID:fV6F543b
パッと鯨尺が出てくるってことは和装屋さん?
とにかくスゴいね

371人間七七四年2017/10/31(火) 22:54:13.10ID:l2YmBqit
>>369
37.88センチなのね
また一つ利口になった有り難う

372人間七七四年2017/10/31(火) 22:58:46.64ID:gmo4JNSz
曹操の7尺がなんで小男なのか分からなかったなあ
なまじ字が同じだから混乱する

373人間七七四年2017/10/31(火) 23:27:09.34ID:5JFwwVmX
孔子「六尺の孤を託すべし(身長六尺の孤児を保護してくれるだろう)」
身長180cmならとっくに成人してるじゃん!
とつっこんだ思い出

374人間七七四年2017/10/31(火) 23:32:22.91ID:5JFwwVmX
孔子じゃなくて曾子だった

375人間七七四年2017/11/01(水) 01:06:32.63ID:YQViDZEX
日本家屋の戸口が横三尺縦六尺基準で作ってるものだから、身長180センチ以上の日本人は苦労するという

376人間七七四年2017/11/01(水) 01:22:39.68ID:HrvqbaGt
>>375
2m超の友人は電車に乗るたびに吊り広告が暖簾みたいになって鬱陶しいとぼやいてた
昔、姫路城の天守閣に上ったらしいが狭すぎて最悪とも言ってたな

377人間七七四年2017/11/01(水) 02:13:14.33ID:P79UcJ+O
2mなんていってなくても170台後半ですでに色々頭ぶつけるぞ

378人間七七四年2017/11/01(水) 11:39:43.34ID:qp2MZxTP
実際は床やら敷居やらの関係で6尺切るから180行かない程度でも頭を打つ
打つというより、頭頂部をかする感じで勢い良く擦るから一番痛い

379人間七七四年2017/11/03(金) 11:07:35.51ID:lnNhTAaJ
他の人にはどうということもないのだろうけれど、某さんの記した一言が妙に心に残るので書きます。

越前の戦国大名朝倉氏の最後の当主朝倉義景の家臣に鰐淵将監吉広という者がいた。
鰐淵氏は元々、西国の生まれであるといい、いつの頃か越前に根を下ろし朝倉氏に仕えるようになった。
吉広の代には譜代の臣といってよい家柄となっており、その証拠に「吉」の字を入れた名乗りとなっている。
(他には山崎吉家、前波吉継、河合吉統など)
事実、義景には信頼されていて、加賀一向一揆勢の侵攻に備えて整備された九頭竜川沿いの軍用道路に吉広を
配置した他、お膝元の一乗谷にも居を構えさせ、近辺に置いて謀に加えさせていた。「朝倉始末記」などにも
加賀攻めの一員として「鰐淵将監」の名前がしばしば登場する。要地を守り、主君近くに控え謀議に参加し、
戦の最前線に立つ、まさに義景の重臣と言ってよい存在である。

そんな吉広だが、その為人がはっきりしない。滅亡した大名の家臣ということだからか、その人がどう考え、
生きたか、を知る逸話が残っていないのである。だが、唯一残された書状から吉広の人物が朧気ながら推察
できるかもしれない。

元亀2年(1571年)と推察されている9月5日の日付が記されたこの書状、天台座主庁務に宛てたものであり、
護符を授かった御礼方々、北近江の戦況を報告した内容となっている。この年8月半ばより、織田軍の攻勢に
合った浅井長政救援のため、朝倉軍は北近江に出陣した。義景の本軍は敦賀に留まり各浦から船を徴発する
など準備に追われていたが吉広は先駈けとして小谷城に入城したらしい。そこで織田方との戦闘が起こり、
損害が出た味方は山上に籠もり睨み合っている最中で、そんな折に護符が届いて誠にありがたい、必ずこちら
から打って出て勝利する、と述べている。吉広の書状の日付から一週間後の9月12日、護符を授けた当の延暦寺は
焼き討ちされ、多くの僧俗が殺害された。延暦寺の燃え上がる炎は琵琶湖対岸の小谷城からも見えた筈で、
吉広が蒙った精神的打撃はいかばかりであったろうか。

話を書状に戻して。
この書状には誰が墨したのであろうか、次のような貼紙がされている。

「朝倉義景ノ勇将鰐淵将監吉広書状」

勇将。名将ではない。勇将である。
吉広は主家の滅亡を喰い止めることはできなかった。滅んだ国の重臣。確かに名将とは言えないだろう。
だが、確かに勇将ではあったのだ。

天正元年(1573年)8月、退却途中を織田軍に追撃され、大混乱に陥った朝倉軍のうち、主君義景を越前に
落ち延びさせるため、その場に踏みとどまった玉砕した朝倉の精鋭三千、戦死者を伝える諸記録の中に
我々は「鰐淵将監吉広」の名前を見出すことができる。

勇将「鰐淵将監吉広」、その最期の働きが評価されたのか、子孫は加賀藩士の身分を得ることができたという。
雪に閉ざされる前に、一乗谷の鰐淵将監館跡、浄法寺の鰐淵将監館跡に行って手を合わせて拝んでみようかな。

3803792017/11/04(土) 08:52:13.49ID:SaI54eoM
すいません、訂正です。

×加賀藩士
○福井藩士

正確には、将監の息子は父親と一緒に討死。
将監の孫は丸岡城主青山宗勝(関ヶ原の戦いで西軍につき改易)に仕え、
将監の曾孫が福井藩士となりました。

大変失礼いたしましたm(__)m。

381人間七七四年2017/11/04(土) 20:03:06.54ID:KfZh2TsO
成瀬隼人正の父・吉右衛門は、関ヶ原の後は伏見にあり、隼人正は駿府にて御政道に加わり、
奉書を成す役人となり、父吉右衛門もこれを賞した。

出世をした隼人正の方より、時折黄金などが伏見の父のもとに送られてきた。
吉右衛門はこれを取ると、自宅の居間の天井より網を下ろし、この金をからげ置き、
客人が来るとこのように言った

「これを見給え。この金子にて肴(食事)を調えよと、隼人正より送ってきたのだ。
しかし、肴が食いたく成る度にこの金を見るのだが、それだけで肴を食うに勝るのだよ。」

大阪冬の陣の講和が整うと、伏見城に隼人正の二人の息子が祖父吉右衛門に逢いに来た。
吉右衛門は彼らに言った

「この度は別状無く扱いになったが、おっつけ御合戦となるだろう。ならば侍の重宝とは馬に如かずという。
江戸が広いと言えども、金二十枚に及ぶ馬はさほど沢山は無いだろう。
これにて馬を求め乗るように。」

そう、二人の孫に金二十枚づつ与えたという。

(士談)

382人間七七四年2017/11/05(日) 08:37:21.77ID:hB8/XYJE
落語で梅干しを見て出てきたツバでおかず代わりにしたり
鰻屋の匂いをおかずにする噺があるがほんとにするとは

383人間七七四年2017/11/05(日) 14:20:10.24ID:fZhUY7y+
>>382
息子の親孝行が嬉しかったんだろうなあ

384人間七七四年2017/11/05(日) 17:43:42.85ID:1omkA1D0
子供からの仕送りを全く使わずに貯めておく親御さんは結構いるよね
で、いざとなったら子供にそれをポンと出すみたいな

385人間七七四年2017/11/05(日) 18:59:30.43ID:qxNXpecv
それをまた孫に与えるというのがいいねえ。
こういう爺様になりたい。結婚もしてねえけど…

386人間七七四年2017/11/08(水) 11:02:01.01ID:CTHVlE03
男色に関する佳話を記してたもれ。

387人間七七四年2017/11/08(水) 12:19:34.68ID:wIqpSQ4E
真性の守銭奴で本当に黄金を肴に飯が食える人かと思ってしまった

388人間七七四年2017/11/08(水) 13:44:27.06ID:q4w5b6bw
>>387
利家や左内さんならやりそうw

389人間七七四年2017/11/08(水) 14:14:54.89ID:FIsJp2h+
>>388
左内さんの金はいろんな意味で違う使い方なので…

390人間七七四年2017/11/08(水) 16:19:17.49ID:g4JuK26V
まとめのコメントに出ていた喜連川温泉に行ったら
「小さな大大名 喜連川足利氏」という小冊子をくれたのでそこから抜粋

「伝説の姫君嶋子」
大蔵ヶ崎城主の塩谷惟久には足利頼純(小弓公方)の娘で嶋子という大変美しい妻がいました。
1590(天正18年)の小田原攻めの頃、豊臣秀吉はそれぞれの大名に対して、人質を出すように命じました。
しかし、惟久はそれに応えられず、秀吉の怒りを恐れて鷲宿村に移ってしまいました。
そこで嶋子は、夫である惟久の無実と断絶しそうな古河公方家の再興を古河にいる豊臣秀吉にお願いするため、
死を覚悟しつつ、古河に向かいました。
秀吉は美しい嶋子の願いを聞き入れ、古河公方で残った氏女(うじひめ)と嶋子の弟国朝を結婚させ、
喜連川の地で再興させました。

ついでに戦国ではないけど興味深い話↓
「討ち入りで大名が幻になった話(国替えの話)
喜連川足利氏と同じく足利の血を引く吉良家に関するこんな伝説も残っています。
喜連川足利氏は、源氏の流れをくむ家として、大大名と同じ扱いをされていましたが、
でも下野の小さな大名にはかわりありませんでした。
それを残念に思った吉良上野介は将軍徳川綱吉に働きかけ、喜連川足利氏を足利尊氏と縁の深い
三河国へ国替えすることへの内諾を得ました。
この吉報は、吉良家から喜連川足利家へ伝えられました。喜連川足利家の使者が吉良家に出向き、
お礼を述べて帰ろうとしました。
その時、大雪が降りそうなので泊まっていくようにと、吉良家から声をかけられました。
しかし使者は「主君に急ぎ報告したいので」と丁重に答えて帰りました。
その夜のこと、吉良家に赤穂浪士の討ち入りがあり、肝心の吉良上野介が討ち取られてしまったので、
国替えの話は立ち消えとなってしまいました。

391人間七七四年2017/11/08(水) 17:02:46.75ID:q4w5b6bw
>>390
この話でいつも思うのは、里見の庇護下にあった小弓頼純と那須の家臣である喜連川塩谷とが縁戚になったこと
どういう経緯があったんだろう

392人間七七四年2017/11/11(土) 22:56:26.21ID:+P/PnjQW
坌銭と頸銭

羽柴秀吉が鳥取城を兵糧攻めにした時の事。
城将、吉川経言(家)と主立った将士数名が切腹する事と引き換えに城兵や住民の助命が決まり、和議が成った。これにより鳥取城の出城であった丸山城も経言の助命嘆願の甲斐なく奈佐日本助、佐々木三郎左衛門、塩冶周防守らが切腹の上開城する事となった。
その丸山城開城の折の事である。丸山の諸卒が城を出る時、寄せ手の羽柴勢の者らが木戸をふさぐと

「城を明け渡した側は、坌銭(ほこりせん)と言って一人銀五分ずつ出す決まりだ。これは京都流の戦争のやり方だ。もしこれに背く奴らは、一人残らず切り殺すぞ」

と、脅しをかけた。「これはいったいどうしたことか」と皆々は顔色を変えたが、境与三郎右衛門と言う男は一人平然と笑って

「美濃・尾張や五畿内の腰抜けたちが、命の惜しいあまりに、武士の法を知らず、そんなものを出すのだろう。中国筋ではそれを頸銭(くびせんという。
いやしくも、武士たるものが、頸銭を出すということがあるものか。こんな恥辱を受けて命ながらえてもいたし方ないこと、城中の者どもよ。おれと一緒に切り死にしよう」

と言って、鎗を提げてすっくと立ち上がると、羽柴勢を睨め付けた。その有様はどんな鬼神でも敵とならば、ど真ん中を突き抜くべき面構えなので、気をのまれた寄せ手は

「こちらのしきたりを申しただけのことです。どうぞ通って下さい」

と言ったので、境は真っ先に立って場外に去った。

393人間七七四年2017/11/11(土) 22:56:57.56ID:+P/PnjQW
(陰徳太平記)

394人間七七四年2017/11/11(土) 23:58:54.14ID:OkFOnrZc
>>392
格好いい

395人間七七四年2017/11/12(日) 00:51:38.85ID:sY2WlIKM
>>392
津本陽作品の雰囲気

396人間七七四年2017/11/12(日) 12:24:07.79ID:FjtHX0DT
ところでこのスレって戦国時代の逸話ってことだけど、時期的に
応仁の乱開始の1467年からならおk
→享徳の乱開始の1454年からならおk
と前に議論になってた気がするが、戦国時代は享徳の乱から、と主張した峰岸純夫「享徳の乱」読んでたら
享徳の乱の前の永享の乱(1438年)で滅亡した鎌倉府が復興したのは1450年
その前には上杉禅秀の乱(1416年)、さらにその前には小山義政・若犬丸の乱(1380年)があった
となってて、関東が平和だった期間の方が珍しい気がしてきた
本では永享の乱での恨みが享徳の乱で噴出したような内容だったし
永享の乱も戦国時代に入れても不自然じゃない気がする

397人間七七四年2017/11/12(日) 12:48:39.64ID:NInLM6wR
>>396
まあ応仁の乱から戦国、というのは、乱の結果、将軍と在京有力守護(二十一屋形)による体制が決定的に壊れた、という所からで、
関東も享徳の乱で、鎌倉公方-関東管領の体制が壊れたから戦国、という感じなわけだ。
享徳の乱以前はそれでも、鎌倉公方-関東管領体制に何のかんので復元力があったから、内乱ではあっても「戦国」とは違う。
という解釈なんだと思う。

398人間七七四年2017/11/12(日) 13:13:22.64ID:pu3bL6ey
このスレのってか、この板の、なんだけど
話し合うとするなら

399人間七七四年2017/11/12(日) 13:27:16.91ID:AthnCwlt
室町時代なんてぜんぶ戦国時代みたいなもんやろ(暴論)

400人間七七四年2017/11/12(日) 16:26:23.36ID:ROgrEiQQ
松平広忠エピが少なかったので投稿してみます。

ある年の田植えの頃、近藤某という譜代の士が貧乏だったため、自ら田植えをしていた。
松平広忠は鷹狩りの道すがら見とがめ、近臣に命じた。
「あれは誰か。見覚えがあるが連れて参れ。」

近臣たちは近藤が朋輩のため赤面していたが、命令であるので仕方なくこのことを近藤に告げた。

近藤は泥まみれのまま、真っ黒な顔で広忠の前に出た。
近臣達は近藤は成敗されるに違いないと心配していた。

広忠は涙を浮かべてこう言った。
「譜代の士なればこそ、このような暮らしにも堪え忍び、いざ鎌倉という折に身命や妻子を投げ捨てて、代々の主君のために忠孝を励んでくれるのだ。なんじらもおそらく、この近藤と同じことをこの広忠に隠しておるに相違あるまい。早く家郷に帰り、田を植えよ。」

これを聴いていたものはみな涙を流し、
「かかるお情け深き主君のためには一命はもとより、妻子をも顧みず奉公の誠を尽くそう」
と誓い合ったとのことである。

401人間七七四年2017/11/12(日) 16:31:11.88ID:pu3bL6ey
できれば出典を…

402人間七七四年2017/11/12(日) 19:34:15.73ID:IZ4Go9pO
そして年貢を納めろか

403人間七七四年2017/11/12(日) 20:43:18.40ID:yuwsjLhx
松平家の家臣の忠義って個人的な美談じゃなくて、他国より中央集権的だったからなのかな

404人間七七四年2017/11/12(日) 20:43:39.39ID:xEfHF25d
>>402
考え様によっちや休みも副業して働け
忠勤に努めよ


って事か… これはブラック三河武士

405人間七七四年2017/11/12(日) 21:05:55.71ID:VvYToCE8
側仕えはいいから野良仕事してこいやろ

406人間七七四年2017/11/12(日) 21:39:06.14ID:NInLM6wR
松平は野良仕事で済んでいる分まだマシ。宇喜多直家さんのところとか貧乏すぎて家臣一同定期的に「絶食の日」を作ったくらいだからな。

407人間七七四年2017/11/13(月) 04:02:56.43ID:RuCFRyFm
>>406
横だけどソレ知らなかったわ、備前て貧乏イメージ無かったから。

408人間七七四年2017/11/13(月) 05:09:25.65ID:By1ObXnd
>>407
元々は家が滅んで放浪の末に戻って来て、一家臣になった時の話みたいだから
初心を忘れないように大名になっても続けてたみたいだけど

409人間七七四年2017/11/13(月) 07:19:55.36ID:GscqnKpT
それどころか盗賊働きもしてた話があったような

410人間七七四年2017/11/13(月) 09:55:46.66ID:QSoFrhPh
加藤清正は、家中の大身小身に限らず、武士が覚悟すべき条目を発したことがある。
その詞に曰く

『奉公の道、油断するべからず。朝は辰の刻(午前7時頃)には起きて兵法の鍛錬をし、食事を取り、
弓を射、鉄砲を撃ち、馬に乗るべきだ。武士の嗜みの良い者には、別して加増を与えよう。

乱舞は完全に禁止する。太刀を手に取れば、人を斬ろうと思うものである。である以上、万事は
一心の置き所から生ずるものなのだ。武芸の他に乱舞の稽古をしているような輩は、腹を切るべきだ。

武士の家に生まれた以上、太刀を取って死する道こそ本意である。常々から武士の道を吟味していなければ、
潔い死はし難いものだ。よくよく心に武を究める事が肝要である。』

(士談)

411人間七七四年2017/11/13(月) 11:11:34.93ID:SMfEMYwZ
ですってよ、柳生宗矩様

412人間七七四年2017/11/13(月) 12:31:03.05ID:6dPD9ssn
>>411
宗矩の甥の利厳「加藤家に仕えましたが何か?」

413人間七七四年2017/11/13(月) 12:37:35.95ID:K3XZqWFk
>>411
むしろ秀吉に対する挑戦状じゃないかと

414人間七七四年2017/11/13(月) 13:32:12.44ID:JiaZg2xL
尼子経久「若い頃、正月の月山富田城で大乱舞大会やったけど、アレは楽しかったなあ」

415人間七七四年2017/11/13(月) 14:07:33.86ID:CajRvILA
大乱舞ですとな。

416人間七七四年2017/11/13(月) 14:16:12.22ID:JiaZg2xL
>>415
750人くらいの首が舞った正月の大乱舞ですぞ

417人間七七四年2017/11/13(月) 23:14:20.72ID:xS1w1LCS
三浦道寸「なに、首が舞ったとな!?」

418人間七七四年2017/11/13(月) 23:49:58.93ID:GscqnKpT
"俺の躰はどこだあ"

419人間七七四年2017/11/14(火) 05:46:48.01ID:XyT2UExI
荼毘に付したよ、骨はある場所に置いてある

420人間七七四年2017/11/14(火) 07:41:35.14ID:GSRO0ABL
織田信長の家中の諸侍は、ひと月のうち2度ほど、八幡講愛宕講と称して会合し、
武義の詮議を行い、家職を忘れず、武運のことを神慮に祈った。
また同士の輩は、一同に誓詞を記し、互いの非を伝えあった。

ある時、何れも寄り合いをして、願書を書いて武運を祈るとき、
「皆は何を目標にして、どのように武職を勤めたいと思っているのか、それぞれその趣旨を書いて
入札にしよう」
という事になり、集まって書き出した所、皆『松野平介に劣らぬよう』『松野平介より先を致したい』
といった心がけが書かれていた。

この松野平介という人物は、美濃の三人衆に仕えていた武士であり、後に信長に召された、
信長は、その身が陪臣であると雖も、武の職業を勤めたる者であると、彼を非常に高く評価し、
岐阜の大手先の侍町に屋敷を与え、「諸人の規範にもなる人物だ」と言った。

このため織田家の諸侍は彼を見習い勤めを甚だ励み、それぞれに武義の職を勤め守った。

(士談)

421人間七七四年2017/11/14(火) 17:52:44.33ID:tx0xGda4
>織田信長の家中の諸侍は、ひと月のうち2度ほど、八幡講愛宕講と称して会合し、

初めて聞く話やな

422人間七七四年2017/11/14(火) 18:53:48.72ID:Un1oa4VD
織田家では月二回、職場内の勉強会兼飲み会をやっていたという事か。

423人間七七四年2017/11/14(火) 19:49:11.27ID:71UKaADV
織田家中自己啓発セミナー

424人間七七四年2017/11/14(火) 20:33:05.07ID:Cr5IYuoH
織田家で自己啓発とか
無道なことを

425人間七七四年2017/11/14(火) 21:07:10.78ID:WV2H8aGD
庚申講みたいに実質、ただの飲み会じゃないの?
まあ庚申講はいろいろと危ない相談もされてたんじゃないかって話もあるけど

426人間七七四年2017/11/17(金) 00:10:38.13ID:KP3+s06l
朝倉宗滴の言葉にこういうものがある。
『仁不肖によらず、武を心がける者は、第一に嘘をつかず、聊かもうろんな事なく、
不断に実儀を立て、総じて恥を知る事が、その基本である。

その故は、一度大事の用に立つ時、普段嘘をつきうろんな人物は、どれほど実儀を申したとしても
「例の嘘つきだ」と指をさされ、敵味方ともに信用してもらえない。
普段からの嗜みこそ、人として肝要なのだ。』

(士談)

犬畜生と呼ばれるのは良いが嘘つきは駄目らしい。

427人間七七四年2017/11/17(金) 00:22:49.48ID:zTBmePbl
そら人を動かせないからな
嘘をつくならバレないように、じゃねw

428人間七七四年2017/11/17(金) 00:34:34.80ID:agrzQCkt
本人だけバレてないつもりでもバレバレなんてことはざらにあるし
やはりついてはいかんのだよ

429人間七七四年2017/11/17(金) 00:39:41.86ID:zTBmePbl
その理屈じゃなんもできなくなるw

430人間七七四年2017/11/17(金) 01:14:05.73ID:agrzQCkt
お前も影で嘘つきって言われてるぞ

431人間七七四年2017/11/17(金) 01:59:43.94ID:T7bbYKd2
謀略は誠なり

432人間七七四年2017/11/17(金) 07:37:14.11ID:soPTu9TR
武士の嘘は武略なり

433人間七七四年2017/11/17(金) 07:51:09.39ID:ZwhB1xgF
宗滴さまは狼少年を読んで思うところがあったんやな(違

434人間七七四年2017/11/17(金) 08:30:26.01ID:Itwasr9p
朝倉宗滴さまの頃はまだイソップ物語は日本に入ってきてないな
伊曾保物語の前進となる「イソポノハブラス」ローマ字刊行は1593年らしいし
とあえてつっこんでみる

435人間七七四年2017/11/17(金) 10:00:34.58ID:MyYwJHbm
>>426>>428>>430
こういう事言ってる奴こそが裏では一番嘘つきだからな

436人間七七四年2017/11/17(金) 10:55:37.82ID:enORPDeU
最も利口な人たちは、
自分が何かの大事に際して
何か大きな利益のために詭計を用いることができるように、
生涯ずっと詭計を非難するふりをし続ける。

ヴォルテール

437人間七七四年2017/11/17(金) 11:23:31.10ID:1DNQFh/2
その点、「友人が殺人鬼に追われていて自分の家に駆け込んだ。
そのあと殺人鬼が来て『お前のところにあいつが逃げ込まなかったか?』と尋ねてきた場合、
殺人鬼に『駆け込まなかった』と嘘をつくのは罪である」
と言ったカントは偉大

438人間七七四年2017/11/17(金) 23:13:35.73ID:ps8BgnHl
>>437
あれ?
その場合は嘘をついて良いんじゃなかったっけ

439人間七七四年2017/11/18(土) 00:51:37.10ID:PE1a2IgP
カントによればそれでも嘘をついたらダメ
さすがにこれはあんまりだとして後世の人々がカントの理論から嘘をついてもいいように
いろいろと理論を組み立て

仏教で妄語戒があるのに法華経で三車火宅という例を持ち出して
人を救うためなら嘘を方便として使ってもいい、
と主張するみたいな

440人間七七四年2017/11/19(日) 05:18:03.85ID:rObbxWS5
天正15年、豊臣秀吉による九州征伐の時、堀秀政も秀吉に従って九州へと赴いた。
この時、陣中において秀政近習の山下甚五郎という者が気が狂れ、後ろより秀政を斬りつけた。

秀政の後を歩んでいた家老の堀監物は、これを見て即座に山下を斬った。
秀政も後ろを振り返り、拝み切りに斬った。
秀政と監物の刀は、同時に山下を打った。

山下が絶命したのを確認すると、「先は我なり。」秀政はそう、監物へ言ったという。

(士談)

441人間七七四年2017/11/19(日) 10:05:04.53ID:x64q5xMC
だいぶ前にあったね
向こうは出典なしで近習の名前が微妙に違うけど

442人間七七四年2017/11/19(日) 11:33:08.26ID:yZctRNIy
痴情のもつれか

443人間七七四年2017/11/19(日) 12:27:20.59ID:nMzdiPUl
なんか都合の悪いことでもあったんじゃないの>気が狂れ
徳川信康もそんなこと言われてたし

444人間七七四年2017/11/19(日) 13:56:08.91ID:FUlARS4v
非がなく殺しちゃったら気狂いにするしかないよね

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