戦国ちょっと悪い話45 [無断転載禁止]©2ch.net

1人間七七四年2017/07/17(月) 09:31:56.46ID:PQvx1qrF
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

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戦国ちょっと悪い話44
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2人間七七四年2017/07/17(月) 09:42:12.53ID:UXe2nase
>>1乙に候

3人間七七四年2017/07/17(月) 10:20:06.97ID:PQvx1qrF
朝敵として幕府の討伐を受けていた畠山右衛門佐義就であったが、寛正4年11月に赦免を受けると、寛正6年12月、山名宗全などの援助を受け、
ついに河内より上洛を果たす。一騎当千の士卒五千余期にて千本の地蔵院に着陣した。すると彼はそこから、直に山名宗全入道の許に行き、謝礼を述べた

「今度、私が出仕できたのは、御芳志によるものです。」

宗全も
「佐殿の上洛のこと、ただ一身の大慶なり」と賀し、通夜酒宴の興を催した。

翌朝、義就が宿舎とする地蔵院の門の扉に、何者かが落首をしていた

『右衛門佐 頂くものが二つある 山名の足と御所の盃』

(応仁記)

義就が、畠山家の家督としての復帰を認めるという意味での、御所(将軍)の盃を頂くために、山名宗全の足元にひれ伏した、という意味ですかね

4人間七七四年2017/07/17(月) 13:27:54.16ID:6zIr1JCj
戦国時代の男色にまつわる話を書いて下されい。

方々よろしうに、お頼み申す。

5人間七七四年2017/07/18(火) 01:00:20.98ID:5xL/Eti2
・鎌倉杉(岐阜県大井町)

大井武並神社の祠の後ろに一大の古杉がある。これを“鎌倉杉”という。
別名に“太閤杉”ともいう。その別名には次のような伝説が絡んでいる。

豊臣秀吉は朝鮮征伐の際に船檣を求めて、ついにこの地で東西二株を
倒し、さらに中央の一株に斧を加えたところ、

切る者はたちまち血を吐いて倒れ、杉の切り口からは鮮血が湧き出た。

奉行の各務兵庫(元正)はなおも人夫を促し励まして、切り進ませたが、
またまた血を吐いて死亡するに到ったため、ついにその計画を中止した。

その杉には、今なお斧痕をとどめている。

――『恵那郡史』

6人間七七四年2017/07/19(水) 23:02:45.18ID:UmjAh2kJ
武田信玄の軍旗は6つあり、その一つに書して曰く

『疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山』

この旗は川中島の戦いの時に初めて用いられたと言われる。
後に、三方ヶ原の戦いで大勝を得、新たに加えられた旗には

『天上天下唯我独尊』

の八文字が描かれたという。
凡その物、未だ満ちて欠けない物はない。これは聖人の明戒である。
信玄が加えたこの八文字は、満もまた極まっている、これ覆亡の兆しならずや。
天正元年3月、さらにこの旗を立てて野田城を攻め、たまたま銃弾に傷つき、4月、ついに没した。

(随意録)

7人間七七四年2017/07/20(木) 11:40:47.67ID:K/Okvhdd
>>6
信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に、この新たな反キリスト者は比叡山を再建するため都に来るのであり、
都のキリシタンがはなはだ懸念しているように我らは今後の迫害に備えておく必要がある。
ただ、もしデウスが我らに見方し給うならば、
神の恩寵と御助力によりこの悪魔の怒りがほとばしるのを予期するのはたやすいことであろう。
信玄が遠江と三河の国に来襲する前、面白い事があった。
それは彼が信長に書状をしたためた時、まったくの傲慢さから己の名を高めようと、書状の封筒に己が名を次のように記したことであった。
すなわち、テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)と。
これは天台宗の教えの家の最高位者にして修道者なる信玄を意味する。
これに対して信長は、ダイロク・テンノマオウ・ノブナガ(第六天魔王信長)、すなわち諸宗派に反対する悪魔の王と答えた。
というのも、ダイバ(提婆)が釈迦の宣教を妨げたように、信長もまた今まで日本の全ての偶像に対する崇敬を妨げたからである。
それ故、私は彼が我らの主なるデウスの正義の鞭のように当地の諸宗派の悪しき迷信を罰するため、
かつての繁栄を取り戻すことを神の御慈悲において信じている。
しかして今や異教徒たちは、彼の勝利がこの度かくも急転したのは
比叡山や観音に捧げられた寺院を焼き払うという無謀な所行に対する神仏の罰以外の何ものでもないと言ってはばからない。
だが、信長はこれをことごとく一笑に付し、日本においては彼自身が生きた神仏であり、石や木は神仏ではないと言っている。


1573年4月20日付ルイス・フロイス書簡より

8人間七七四年2017/07/20(木) 17:38:21.91ID:raQOLju8
提婆達多の提婆(デーヴァ、神)と
ゾロアスター教の悪神ダエーワと
ラテン語のデウスは同語源
デウスが提婆達多と同様、仏教打倒という魔の所業をしても不思議ではないな

9人間七七四年2017/07/20(木) 19:23:30.87ID:XOH91jah
にしても、信玄はやっぱり上洛の意図があり、実現の可能性は高いと思われていたのか。

10人間七七四年2017/07/20(木) 19:51:10.51ID:e2dWouAG
>>9
そう宣伝してたってこととそういう噂が流れてたってことは事実だろうね
ただしこの時フロイスが記した包囲網側侵攻の噂は義昭以外全部ハッタリだったけど

11人間七七四年2017/07/21(金) 05:51:12.75ID:kjoRx6NM
蠣崎季広の時代、一族の基広は謀叛を企てて家督を奪おうとし、季広が
帰依する賢蔵坊という者を誘って季広を呪詛させたが効果が無かった。

天文17年3月、季広が上国に行くのを機会とした基広は、賢蔵坊に季広
を討たせようとするも、彼は心を翻してその企てを季広に告げた。

季広はすぐに長門藤六広益を遣わし、基広を誅殺させ、南条越中広継に
上国を守らせた。広継の妻は季広の長女であった。

彼女は婦女の身ゆえに家督を継げないことを憤り、ついには謀叛を図り、
父・季広の近臣を誘い、弟の舜広と元広に毒を与えた。このために二弟
は病んで毒害され、陰謀は発覚して広継夫妻は自殺した。

――『北海道史』

12人間七七四年2017/07/24(月) 11:12:23.64ID:0xK7yMrw
夜話の時、ある人が言った
「これは人が仮託した物なのだが、その人の情実によく当たって居るのではないかと思う」

・時鳥を贈って参った人あれども、鳴かざりければ

 鳴かぬなら 殺してしまへ時鳥  信長
 鳴かずとも 鳴かして見せう時鳥 秀吉
 鳴かぬなら 鳴くまで待てよ時鳥 家康

これを語った後、さらに二首を添えた。
ただしこれは憚りのあることであり、元より事実ではなく仮託の事でもあるので、作者は記さない。

 鳴かぬなら 鳥屋へやれよ時鳥
 鳴かぬなら 貰って置けよ時鳥

(甲子夜話)

有名な時鳥の歌の原典ですね

13人間七七四年2017/07/24(月) 12:44:50.10ID:5yc4xKdz
まとめサイトの10393「連歌その心自然に顕るる事」で既出
(板仕様が変わったのかリンクが貼れない)

14人間七七四年2017/07/24(月) 14:55:04.07ID:0xK7yMrw
>>13
確認不足でした。かわりに

織田と美濃斎藤家との軽海合戦の折、斎藤龍興の老臣である稲葉又左衛門を、池田庄三郎(恒興)、
佐々内蔵助(成政)が同時に討ち果たした。
織田信長が実検あって首帳に記す時、佐々内蔵助は「これは相(同時)討ちではありません。池田の功名です。」
と主張し、池田は「佐々の功名です」と主張して互いに譲り合った。

この光景がなんとも美しすぎて(何とやらん美し過ぎて)、信長の機嫌はどんどん悪くなっていった。

この頃、信長の元で出頭した僧に、島蔵主という者があった。当時の尾張では、皆が金言のことを「蔵主」と
呼ぶほどの人物であった。
彼は信長の機嫌がどんどん悪化しているのを見ると進み出て申し上げた

「この首は池田が取ったものでも、佐々が取ったものでもありません。両人の申す所、実に尤もであると
存じます。」

信長は呆れ
「ならば、両人の内どちらかが取らずして、一体何者がこの首を取ったのだ?不審である!」

「何の事もありません。これは瓜のように、首の臍、自然と落ちたものなのでしょう。」

この返答に小姓たちが笑いだし、信長もつられて笑い、この場は平穏に済んだ。

(近古武事談)

15人間七七四年2017/07/25(火) 23:39:11.79ID:4l9ckoea
小田原征伐において山中城が陥落した時、こぼれ者共(牢人たちか)は多く松平周防守(康重)の手に
加わっており、彼らは頸百四、五十を得た。彼らはこれらの頸を道にかけて通ろうと思い、周防守はこれを
牧野右馬允(康成)に相談した。しかし牧野は

「はかばかしい頸を取ったわけでもない。雑人に頸をかけ置くなどというのは要らぬことだ。
結果的に見苦しくもなるだろう。ただ頸の数だけど書き付けて披露するのが良いだろう。」

周防守はこの意見に従った。

ところが、後で周防守の家来たちは
「右馬允にだしぬかれた!頸を一つづつ道にかけておけば、太閤秀吉が通った折、大いに御感にも
あっただろうし、諸軍勢の勇にもなっただろう。全く要らぬことを意見しおって!」
そう、牧野の意見を批判したという。

しかし牧野は彼らを偽ったわけではない。ただその時の状況の判断が薄かったので、
このような批判を受けたのであろう。

(士談)

16人間七七四年2017/07/27(木) 00:26:25.47ID:FnnnmptH
ある時、徳川家康公の上意にこのようなものがあった

「人を見立てる時、自分を基準にするべきではない。自分のかしましい心を曲尺と定めて
人を選ぶ時、自分より勝る人間を選んで薦めるだろうか?

また、その自分にまさる良き者は、自分に対して追従をすることはないだろう。
自分に付き従う輩にばかり、目をつけるのは不忠というものだ。」

(武野燭談.)

17人間七七四年2017/07/27(木) 07:29:42.85ID:5NsddGb6
>>16
どうでもいいけどなんで悪い話に投稿したん?

18人間七七四年2017/07/27(木) 10:41:11.98ID:BmOTs3V3
近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀で


関ヶ原の戦いが終わり初めての慶長6年の歳賀は、家康の体調不良により
諸大名は1月15日、公家衆は29日に秀頼と家康にそれぞれ賀す形で行われた。

近衛信尹は自身の日記で、そのときの愚痴を書き留めている。

正月二十九日、(大坂城)西の丸の内府(家康)へ御礼、此時内府は病気で
中納言殿(秀忠)が名代をした。中納言殿へと父子への礼で太刀代二つだ。
(家康父子の)取次は池田三左衛門(輝政)一人だった。秀頼であるならば
三左衛門でもいいが、ここでは本多榊原大久保などであるべきではないのか。
――『三藐院記』

輝政は去る18日には秀頼の名代として朝廷に歳賀をしているが
前後から推測するにどうも信尹は、輝政は名目上は豊臣家臣なのに
まるで徳川家の直臣のようにして出てくるのは不適切だと思ったらしい。

19人間七七四年2017/07/28(金) 03:42:04.31ID:GkcDtqOG
大坂より御帰陣の時のこと、権現様(徳川家康)は、その日は三嶋に御一宿の
はずが、ただちに小田原へ御越しになられ、大久保五郎左衛門(康忠か)を

召し出されて今回の御軍功を御吹聴なされた。大久保は御答えして「殿はよき
御巡り合せでしたね。でも15年遅かったですね」と申し上げた。

(殿は能御仕合にて候。乍去十五年おそく候と申上候。)

権現様は御勝軍に御喜びのあまりに、「その方にも2万石を取らせようぞ!」と
仰せ遊ばされた。すると大久保は御答えして、「殿は唐までも欲しいのですね。
私は2万石でも嫌です、欲しくないです」と、達て辞退申し上げたという。

(大久保御請に。殿は唐迄もほしく候べし。私は弐万石もいやにて候とて。)

だが実は不足の心であったという。五郎右衛門は七郎右衛門の兄の子である。
また新八(康任か)の祖父である。

――『武功雑記』

20人間七七四年2017/07/28(金) 06:43:40.19ID:Io2U+32W
>>18
解釈は逆だと思うなぁ
近衛信尹は秀吉のせいでエライ目にあってばかりだし

21人間七七四年2017/07/29(土) 03:35:02.37ID:3N0XHs1a
>>19
権現様は後にこれを聞き、「不足なのはもちろん知っていた。だが大久保の者は面倒くさい故、
あえて取らせなかったのだ」と語った。

――『俺の想像』

22人間七七四年2017/07/29(土) 13:46:06.13ID:YqOeGAFB
城井の一揆の時、黒田長政の馬が深田に入りこんだのを、三浦六之助が自分の馬を奉り長政を退かせ、
長政の馬の尾を切り鐙を外してから長政を追いかけたという。
馬を奉って主人を撤退させたのは、沈勇かつ忠義ある行いであり、ことにこの時の作法が
勝れた心得と言うべきである。

古来より、主人の馬を戦場で放つ時、主人が討ち死にしたのではないことを示すため、
尾を切り鐙を外すのが礼であったという。
国府台の合戦の時、里見義弘に安西伊予守が自分の馬を奉って、自身は歩行して供をした。
しかし義弘の馬は鞍鐙をつけたまま陣中を駆け回ったため、これを見た兵たち
「さては義弘討ち死にか」と思い、これによって敗勢となり随兵の過半が討ち死にを遂げたという。

物事の究理薄いと、思わぬ失があるものなのだ。

(士談)

23人間七七四年2017/07/29(土) 16:54:35.70ID:VYTTBZlK
阿波と讃岐に伝わる昔話で、篠原長房の息子が没落したあと猟師になって物の怪を退治するも
誤解から村人たちに殺されてしまったって話があるそうだけど
やっぱり長房が粛清されたあと残党はロクな目に合わなかったっていう暗示なのかね

24人間七七四年2017/07/31(月) 08:23:38.85ID:zeMg4GZe
穴山梅雪は駿河国江尻に、曽根内匠と共に番手にあり、徳川家康に対し内通を申し出ていたが、
梅雪の妻子は人質として甲府にあり、これを引き払うことは難しく、殊にその頃は武田勝頼も梅雪を疑い始めていた。

そこで梅雪は密かに、徳川家康に内通を打診して、『返り忠仕るべし』との書状を持つ使節が来たのを、たちまちに誅殺した。
そしてその書状、並びにその頸を勝頼に見せた。
勝頼はこの計略に謀れ、梅雪を疑う心を和らげた。これにより梅雪は、妻子を引き取ることが可能になったという。

(士談)

25人間七七四年2017/07/31(月) 08:27:55.27ID:kaq0+LQg
妻子のために家康の使者を殺しておきながら家康に降るのか
のちに梅雪だけ死ぬのも仕方ないな

26人間七七四年2017/07/31(月) 08:54:53.00ID:RR+3UwN9
曽根内匠といえば信玄の両眼の1人だけど
こっちは内通してなかったんだろうか

27人間七七四年2017/07/31(月) 11:02:37.61ID:9PztAVDP
>>26
義信派だったらしいし徳川に無抵抗で降りてるから内通あったっぽい

28人間七七四年2017/08/01(火) 06:43:13.50ID:0Qt/DYkk
・唯落の城の事 本名高城

立縫の郷・動土村にあり。国府伯耆守親俊の居城である。

大永4年、尼子経久が出雲より伯耆に攻め入り、国中の
城々を攻め立てた時、

当城へは未だに手付かずであったのに、伯耆守は大いに
驚き恐れ、「ああ、敵の多勢が攻めて来る!」と思い、

小勢では籠城も叶わないとして、俄かに城を空け退散した
ということである。

敵が攻めてもいない以前に自ずから落城した故、郷民は
これを嘲って“唯落の城”と呼んだのであるが、

今に至ってもその称あり。本名は高城という。

――『伯耆民談記』

29人間七七四年2017/08/01(火) 07:13:23.41ID:7R2uTJ20
そんな城いっぱいあんのに

30人間七七四年2017/08/01(火) 08:31:02.73ID:iziwR2LU
バカな百姓には戦略的撤退とか理解できんし

31人間七七四年2017/08/01(火) 08:36:59.67ID:LyWGmxu9
伯耆が放棄

32人間七七四年2017/08/01(火) 12:38:08.25ID:FqwVfGb3
国府氏って小野流海老名氏なのかな?
伊勢にも国府氏がいるみたいだけど同族か?

33人間七七四年2017/08/03(木) 11:14:05.46ID:o7Tvq0XV
督姫、駿府の家康へ会いに行ったときの行列で


兵庫県加古郡播磨町北本荘にある蓮華寺には
古い礼盤(本尊の前で導師が礼拝し誦経するための高座)がある。
ttps://www.town.harima.lg.jp/kyodoshiryokan/kanko/rekishi/bunkazai/images/2012122316226.jpg

平成に入ってから内側に墨書で、宥恵というお坊さんが礼盤の寄進者等の名と共に
慶長14年に見た督姫の行列の様子を記していることが発見された。
ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/67/5499bb5e4cefffcc252b301616d6ab0e.jpg

内容を意訳すると
『御前様(督姫)は、かご五、六十、お付の女性は三百人を超え、家臣などを合わせると
 総勢五千人余りの大行列で駿府に向かっていた。お供の贅沢で派手な衣装を見た人は
 目を驚かすばかりで「前代未聞有るまじき」と国中に広まる有様だった』

督姫は実際に慶長14年には息子の忠継、忠雄、輝澄を連れて駿府に行き
(夫の輝政は恐らく篠山城の普請中)6才の輝澄に松平氏を授かっているが
仮に墨書が本当なら、民衆には余りに大げさな里帰りに見えたのかもしれない。

34人間七七四年2017/08/04(金) 09:19:48.91ID:im8VIwth
伊達政宗が、小田原に出馬した豊臣秀吉に謁するため向かった間、会津の留守は伊達成実に任された。
この留守の間、二、三夜ほど会津が以ての外に騒動した。『会津の内に心変りの者があって、越後の人衆を
引き入れる』との噂が広まったのである。この事を実尺という山伏が成実も告げたが、成実は
「一体何者がこれを言っているのか」と尋ねた。実尺は「世上隠れなき噂ですので誰とは特定できません。」
と答えたが、成実

「ともかく一人づつ名指ししろ。さもなくば汝を罪科に問う。」

このため山伏は、そう言っていた人間を一人づつ語り、成実は順次これを改めていった。
そして19人目に、伊藤七郎という者の屋敷に仕える下女にたどり着いた。

伊藤七郎は政宗の小田原行きに従っていた。そしてその屋敷の門の脇の長屋に、なにがしと言う若党が居たが、
彼が槍を持って広間から出てきたのを、かの下女が見て「さては何事かあったのか!?」と、この事を
出入りの魚売りに語ったというのだ。この話が広まり、そこに尾ひれがついて会津中の騒動になったと
考えられた。

これによって、成実はかの下女を成敗し、当面の戒めとした。

(士談)

35人間七七四年2017/08/04(金) 09:27:51.57ID:pSJEYCRn
成敗しちゃったの!

36人間七七四年2017/08/04(金) 09:33:34.04ID:YjmFAJXA
おおごとにならないうちにな

37人間七七四年2017/08/04(金) 10:45:29.34ID:wElgxufl
性売!

38人間七七四年2017/08/05(土) 04:30:56.67ID:wW2quy7l
○ 弥五郎社(旧武並村藤)

藤の北端・木曽川畔にある。往時、織田氏と武田氏の兵乱に当たり、
所在で兵盗が起こり、富者の財を奪われることが多かった。

村民は恐れて財を携えて深山澤の尻に籠り、避難小屋に集まって
兵盗が退くのを待った。そんな中、たまたま尾張津島社の御師が

信濃に行こうとしてこの地を過ぎ、駅路の兵賊を心配して木曽川を
渡り、かの避難小屋に達しようとした。

村民らはこれを見て大いに恐れ、兵盗が至ったと見なし、鉄砲を
向けてこれを殺した。

元和偃武の後、村民が山芋採取に赴き、澤の尻山中で髑髏を発見
した。その村民は家に帰って病床に伏し、続いて疫病が蔓延した。

そこで陰陽家に占わせたところ御師銃殺の祟りであることが分かり、
津島神社に至ってこれを謝罪した。

こうして疫病はたちまち消滅したため、かの白骨を埋めて碑を建て、
“弥五郎殿”と称した。時に寛保3年6月である。

以後、悪疫流行の際は近村の民でお参りする者が多かったという。

――『恵那郡史』

39人間七七四年2017/08/05(土) 08:58:47.68ID:bworCp6E
いまでいうインフルエンザの類なんだろうな

40人間七七四年2017/08/05(土) 21:30:16.23ID:UiAK/N8P
掘田弥五郎で検索かけたら
堀田弥五郎という悪代官を農民が殺したら
疫病が流行りだして弥五郎と奥さんの藁人形を作っておまつりし
白山神社から津島神社までそれぞれの村の人形を送ったって出てきたんだが
岐阜県中津川市のがでてきた

41人間七七四年2017/08/13(日) 23:30:22.10ID:xXH2oUX+
大阪の陣において、堀尾山城守(忠晴)の寄せ口の備えを、上杉景勝の家臣である杉原常陸介(水原親憲)が
見て

「堀尾の備えは後ろから崩れるだろう。裏崩れというやつだ。」

そう言ったが、果たしで後ろのほうが騒ぎ立てた。
これは、杉原が堀尾の備えにおいて、馬を近くに引き付けていたのを見て、もし馬に鉄砲が当たれば
馬は必ず跳ね合う事から、これで騒ぎが広がり裏崩れに成る、と見て摂ったのである。

その後、堀尾の持ち口を上杉景勝に渡して陣替えをするように、との将軍からの命があった。
この時、景勝方より軍使を以て、堀尾方に「道を作って陣地を渡すように」との申し入れがあった。
これによって堀尾方は道を作って陣地を明け渡したが、景勝の軍勢はこれを見て罵倒した

「上方衆は、弓矢の事に巧無き者達だ!こんな道の付け方があるものか!」

そう声高に言い放ったが、堀尾の衆にこれについて返答をするものは居なかった。
これは、堀尾の者たちは通常のように、往来しやすいよう道を作ったのであるが、
景勝方の人々にとってこの場合の道とは、敵の攻撃から身を守り、負傷者が出ないように
作られるもの、だったからである。

(士談)

42人間七七四年2017/08/14(月) 01:04:03.19ID:vlaYX3eR
家康も嘆いていたけど、たった15年戦がなかっただけで
その辺のノウハウはボロボロになるもんなんだなぁ…

43人間七七四年2017/08/14(月) 14:19:58.49ID:O+XKGCMe
○ 源斎窟(旧坂本村千旦林)

吉村源斎の居た址で、木曽川の碧潭に臨んでいる。

天然の巌窟をなし、方9尺余り、その後方に更に一大の巖が河上に突出している。
そこは平坦で方5間余りある。現今もなお、焼米および陶器の破片等を掘り出す。

伝えに曰く、源斎は初めの名を吉村太郎左衛門氏勝といい、智謀優れ、かつ頗る
剛力の人であった。源斎はこの地に住んで付近の原野を開拓し、糧食を蓄えて
ひとえに時世を窺っていた。

武田信玄はその名を聞いて源斎を招いたが、源斎は応じなかった。そこで信玄は
兵を寄こしてその居を焼き、源斎を殺したという。

――『恵那郡史』

44人間七七四年2017/08/14(月) 21:02:50.32ID:TDVqvO2W
>>41
我ら上方の者に取って織田家に仕えし頃より道は攻め、武功を挙げるために造る物でござる。
謙信公の頃より武門の誉れ高き上杉家において道は敵やその矢弾より身を守り命を惜しむ為に造る物であったとは知りませなんだ。
此度は越後の軍法を学ぶ良い勉強になり申した。子々孫々までこの軍法の違いを伝え奉らん。


位言い返せる古参の兵は居らんかったのかね…

45人間七七四年2017/08/14(月) 22:01:40.61ID:9LMNQKA6
大阪の陣の折、ある人が井伊直孝の陣所に見舞いに行くと、直孝はその直前まで昼寝をしていて、
乱れ髪の体にて出てきた。

その人は尋ねた
「直孝殿は昼夜の心がけの気がある方なのに、どうして昼寝などしていたのですか?」

直孝はこう答えた
「夜寝ないからです。」

(士談)

そりゃそうだ

46人間七七四年2017/08/15(火) 05:24:52.89ID:An5zR+zm
いっ、いっ、井伊いの井伊〜
昼〜は寝床でぐーぐーぐー

47人間七七四年2017/08/17(木) 04:15:30.84ID:fm2rTd/F
ある老人の話によれば、「総じて武士の殉死には様々あって、義腹・論腹・商腹がある。

君は礼をもってし、臣は忠をもってす。主君のために心を尽くし、軍陣では主君の危機
を救い、太平の時は賞禄を目に掛けず無二の奉公を致し、もし主人の死去あらば二世
の供を致す、これが義腹なり。

昔、相馬長門守利胤の家士の金澤備中と申す者は相馬家代々の忠臣で、すでに備中
まで11代が戦場で討死したのであった。その子・忠兵衛という者は、将門より26代目
の大膳太夫義胤(中村藩第2代藩主・相馬義胤)が病死なさった時に申して、

「私めの先祖より亡父・備中まで11代は、いずれも御馬前で討死致した。ところが今は
天下太平なので、そのような御用にも立ち申さず。せめて二世の御供でも致し君臣先祖
の忠孝に備えるとしよう」

と、相馬の城下中村で殉死した。「これこそ誠の義士と言うべきだ」と、諸人は誉めた。

また、同格の傍輩が殉死するのを見て、「我も劣るまじ」として腹を切るのを論腹という。
また、さしたる恩もなく、死なずとも済むはずのものを、「我が命を捨てれば子孫の後栄
にもなるだろう」として腹を切るのを商腹という。

また、いつもは「主君に万一のことがあれば一番に命を捨てる!」と罵りながらその期に
臨んではとやかく言ってその場を外す者もいる。これは論ずるに足らず」

――『明良洪範』

48人間七七四年2017/08/18(金) 05:15:48.04ID:OmakkWrJ
○ 大将塚(旧岩村町)

伝に曰く、織田信忠が秋山晴近(虎繁)夫妻及び大島・座光寺らをここで磔にしたという。

その後、城主はあるいは難に遇いあるいは夭折した。時の人はこれをもって、その霊の
祟りと見なした。丹羽氏が城主になると寺を建て5人の魂を祭り、その名を東照山五仏寺
といった。(『巖邑府誌』)

なおこれに関して信濃の地はまた面白い伝説を持っている。すなわち掲げて参考とする。
ひとつは駒ヶ根村の姫淵の伝説、ひとつは諏訪のおまん殿の伝説である。

○ 姫ヶ淵(木曽旧駒ヶ根村)

天正3年4月、信長は武田氏を長篠に破り、大兵で岩村を囲んだ。11月、城中の兵糧は
尽きて城を出て降伏した。織田の兵はこれら2千人を殺し、城主の秋山を長良川で磔にし、
信長自らその姑<おば>を斬った。

姑の侍臣らは驚いて遠山氏の少女を拉して逃れ去った。やがて亡命の遺臣らは主家の
遺児を奉じて木曽に入り、小川村に隠れた。小川の民が織田と称するのは、この因縁に
基づくという。

同地方倉本立町荻原東野などの口碑によれば、少女らは美濃路より来て立町で木曽川
を越え、諸原小野谷を経て小川村に入ったという。

やがて少女は成長して見目麗しくなり、山家には似合わぬ美しく気品ある姿であったから、
宿の妻にと望む者が多かった。中でも諸原某という郷侍は、

「我こそ婿になる」と、日夜言い寄った。遠山氏の娘は厭わしさに、遂に水に身を投げて
死んだ。それより、諸原の辺りでは年々疫病が流行し、土民は恐れて祠を建てて、斎き
祀ったという。(『西筑摩郡誌』)

○ おまん殿(信州諏訪地方)

諏訪の昔話に曰く、天正10年のこと、織田信長は信州に侵入し、法華寺というところで
兵糧を使っているところへ、色々の小袖を着た女房が1人入って来た。

この女房は信長の前へ出ると、懐中していた錦の袋から茶入を出して、信長に見せた。
すると信長はにわかに激高して刀を抜き、この女房を一打ちに斬って捨てた。

この女房はすなわちおまん殿(おつやの方)で、もとは岩村の城主・遠山氏の妻、信長の
伯母である。岩村城が武田氏の手に帰するや、その将・秋山伯耆(虎繁)が入り守った。

遠山氏の後家・おまん殿は秋山の妻となり恥じる色も無く仕えていたから、信長は怒りに
堪えずこの始末に及んだのであった。

されば、おまん殿の恨みが消えないで遊魂は今でも彷徨って、夜な夜な小袖姿で茶入を
捧げて諏訪明神に詣でるのだという。(中里介山『大菩薩峠』)

――『恵那郡史』

49人間七七四年2017/08/18(金) 21:13:59.79ID:eiHQW3Ef
>小川の民が織田と称するのは、この因縁に基づくという。

スケーターは本当はこういうところの子孫だったりするんじゃないかな
系図を買ったんじゃなければだけど

50人間七七四年2017/08/18(金) 21:55:39.37ID:iAs5+xUD
戦国時代の日本人がいい加減に系図作ってたのに
現代の日本人がそれを信じつつも現代日本人の系図にケチをつけるのは興味深い現象だ

51人間七七四年2017/08/18(金) 22:07:18.91ID:eiHQW3Ef
つうかさ
俺は買ったって言ってもいいと思うけどね
ぶっちゃけ系図なんてそんなもんでしょ?

52人間七七四年2017/08/18(金) 22:32:55.08ID:QTgOSbH6
家康みたいに系図買えなかったので、怪しげな伝説捏造して源氏になった例も

53人間七七四年2017/08/18(金) 22:37:30.90ID:hBePV6uS
家康の安城松平に関しては、少なくとも祖父清康の時代から、おそらくは初代親忠の時代から新田源氏を名乗っていた模様

54人間七七四年2017/08/19(土) 21:00:53.48ID:vEh+t7Iu
大阪夏の陣の5月7日、大阪城より「秀頼生害の事、御免あるように」との使いに、大野修理(治長)が出て
本多上野介(正純)にこの旨を伝えていた時、田代大膳という者が側に居たが、彼は大野が地に座って
発言している時、後ろで刀のこじりを上げていた。

これに気がついていた正純は、後で田代に「なんと荒気な事を」と戒めたが、田代は

「彼(大野)は既に死人同然なのです。聊かも油断すべきではありません。」

と申したという。
彼は後に駿河大納言(徳川忠長)に仕えた人物であり、この事は、ある人が語ったものである。

(士談)

55人間七七四年2017/08/20(日) 10:20:48.38ID:1Gif5vGX
大阪の陣でのこと。堀尾山城守(忠晴)の寄口に、幕府使番渡辺図書助(宗綱・渡辺守綱次男)が訪れ
尋ねた

「この仕寄場より堀際まで如何程の距離があるか?将軍家よりお尋ねの時のため記しおきたい。」

しかし堀尾
「存じません。それを知りたければどうぞここから縄を打って測ってください。」

そこで渡辺は寄口より出て距離を測った。」

この話を横田尹松が聞いて、彼にこう言った
「失礼ながら御辺は今少し不巧者であるな。そういう時は、堀尾山城守も一緒に連れて出るものだ。
こちらに塩をつけるのなら、あなたも相手に塩を付けて良いのだ。」

(士談)

56人間七七四年2017/08/20(日) 21:06:40.38ID:EppBfuOJ
一休宗純「私が縄を打ちますから渡辺図書助(宗綱・渡辺守綱次男)様は綱を打って下さい」

57人間七七四年2017/08/20(日) 21:18:25.81ID:yzDBFuw+
城の堀辺まで綱を渡す
渡辺守綱と堀尾山城
なにか狂歌ができそうな

58人間七七四年2017/08/22(火) 02:34:50.20ID:W9FCLw1N
天正十四年十二月、豊後国戸次川合戦軍議での事である。
軍監仙石秀久、戸次川を目の前にして発議して曰く
「この川は九州一の大河にて頗る難所とは言え、大勢に切所はなし。何ぞ恐るるに足らん
 いざ、諸軍一同に渡して一戦に勝負を決すべし」
これに対し長宗我部元親曰く
「この川を渡るのは殊の外面倒なり。敵が川端に引いて備えるは堤の陰に伏兵あるべし。
 川の半途で鉄砲を打ちかけられれば先陣は全滅し、一陣敗れれば残りも全うする事は叶わず。
 ことさら島津は大敵といい、強敵といい、最も侮りがたし。殿下(秀吉)の戒めらるるは正に今日にあり
 しばらく川をへだてて対峙し、敵の虚実をはかって方便あるべし」
十河民部正保もまた諫めて曰く
「敵は目に余る大軍で、この小兵をもって大河を渡り、後詰(ごづめ)野戦するはもっての外なり。
 守りを固め、敵が大河を越えて来たらば一戦し、また越えて来ねばかねて御定めの如く、殿下の御出馬を待つべし」
秀久服せず曰く
「昔より川を渡った者が勝ち、渡された者が負ける事少なからず。早く川を渡れば人を制する利といい
 上方への聞こえといい、急ぎ渡し然るべし」

59人間七七四年2017/08/22(火) 02:36:28.43ID:W9FCLw1N
この時、はるか前方に元親麾下の細川源左衛門がおり、この勇士は四国のいくさにて高名を立て
秀久も見知っていたのでこれを呼び、渡河の可否について述べよと命ずると
「川向こうの小藪に伏兵あるべし。もし渡さば川中にて鉄砲うち掛けられ、先手破れ後手敗軍とならん
 対陣し敵の動きを見て方便あるべし」
これに対し秀久
「治承の昔、足利又太郎(足利忠綱)は宇治川にて、源頼政大勢にて防ぐと言えども遂に渡り済まし
 また後の元暦承久の合戦でも、川向こうの大勢を相手に渡すなり。我等も見聞する所、川を渡り利を失う事少なし」
源左衛門曰く
「昔は鉄砲なし今は鉄砲あり、いくさの様も変われり、ご思案あれ」
秀久曰く
「各々方さほどに同心なくば、我等一手をもって後詰せん」
ここに至りて諸将は無謀の策を喜ばざりしも、軍監の命なれば是非に及ばず、また味方を捨て一人身を全うするもならず
三軍和せざるは敗軍の兆しなりとてその議に従い、一同渡河の準備に取り掛かった。  

「土佐軍記」

60人間七七四年2017/08/22(火) 06:48:59.75ID:inKWe/E+
今も昔も指示する立場の人間がええかっこしいなら苦労するわ

61人間七七四年2017/08/22(火) 07:33:00.57ID:+wZ6x60J
元親を憎んでる十河は負けると分かった上で仙石に同調したと思ってたけど違うのか

62人間七七四年2017/08/22(火) 08:02:52.86ID:HRLKmaln
四国勢はもちろん案内役の戸次隊のこのあとのことを考えるといたたまれない

63人間七七四年2017/08/22(火) 09:16:39.67ID:W9FCLw1N
>>58
十河民部正保→十河民部存保
に訂正

64人間七七四年2017/08/22(火) 09:21:39.91ID:W9FCLw1N
戸次川合戦における讃岐勢の悲哀

戸次川合戦が開始されると仙石・十河両軍は島津の先陣とぶつかり
これを川へ追入れて一旦踏み止まった。
十河存保は弓矢功者だったので彼我の虚実を察し、急ぎ仙石の陣へと馳走して曰く
「今、敵の先陣敗れたりと言えど、これは実の敗軍ではなく味方を引っ掛けるはかりごとである
 後陣の大軍は村々に満ちて我らに備えており、川向こうに伏兵があるから渡るべきではない
 勝ちいくさの勢いをもって一旦引き揚げ、兵卒を立ち直らせ、陣を固めて次のいくさを待つべきである
 敵は決して川を渡って来ないから、その間にこちらの方便もしやすくなるだろう」
仙石はもとより勇猛で怒りやすく、人の言を容れない性分だったため、存保の献策を用いず、大いに怒りて
「この勢いを持って敵を追撃せねば敵はまた持ち直すだろう。急ぎ川を渡り追伐すべし」
そう言うなり自ら槍を取って進発した
存保は苦笑して(原文:悪ク笑イテ)「今思い知ったわ」と言い捨てると自陣に戻り、郎従数人を呼び寄せ
「汝らは国へ帰り、千松丸(存保嫡男)を連れて上京し、このいくさのあり様を申して秀吉公のお目にかけよ
 これが専一の忠節であるぞ」そうしかじか言い捨てると、手勢に下知し川を渡って行った。

「南海通記」

65人間七七四年2017/08/22(火) 10:45:11.73ID:bjVqcGPk
ブラック戦国武将

66人間七七四年2017/08/22(火) 18:12:50.38ID:I/nuzxSG
豊臣秀吉文書集読んだら戸次川の後秀吉が大友の志賀親次や佐伯惟定に送った手紙だと
仙石が不届きにも勝手に戦い負けてしまい、すまないがもうしばらく頑張って持ちこたえてくれ
みたいな感じに書かれてたな

67人間七七四年2017/08/22(火) 19:32:15.47ID:dLLmZWq5
そらそう書くしかないわなw

68人間七七四年2017/08/22(火) 20:52:44.68ID:Sxe+xW1C
この戸次川推しは
とうとうセンゴクで戸次川の戦いまで来たからかな

69人間七七四年2017/08/22(火) 22:49:09.44ID:dGIwlC76
仙石無能

70人間七七四年2017/08/22(火) 23:27:17.91ID:fvB7DkEz
>>66
文書集持ってるなら仙石たちを送り込んだときの書状も読んでみると良いよ。
なかなかブラックだからさ

71人間七七四年2017/08/23(水) 04:29:52.37ID:O3+xSojw
仙石は昔も今もカス揃い

72人間七七四年2017/08/23(水) 15:25:11.58ID:anEy0bRv
豊後勢から見た戸次川合戦渡河

大友義統は鶴ヶ城の難儀を聞き、援兵を考えたが譜代の家人は
島津に心を寄せ内通(原文:ヨソ聞キシタル)の有様のため
如何ともし難い状況であった。
そこに仙石・長宗我部「殿下の御下向あるまでは
進んで合戦するべからずとの上意とは言え
鶴ヶ城の危機を見捨てるのもまた難しいのでないか」との進言をし
これ幸いと大友軍勢相加わり、都合六千余の勢が十二月十二日の未明に府内を出発し
鶴ヶ城の西北、川を隔てて鏡城と呼ばれるところに着陣した。
旗馬印をおびただしく並べ蟠踞すると、前は竹中村、後ろは深い谷のために
幾千万騎もあるように見え、城を攻めあぐねていた島津勢
この有様に気を奪われて慌てふためき、我先にと馬を返して
坂原山まで三十余丁の地点まで引き返した。
そこでしばらく人馬を休めると斥候の者を召し
「汝等これより立ち帰り、後詰の勢の分際を見極めて来るべし」
と言い含め、方々に遣わした。
(続く)

73人間七七四年2017/08/23(水) 15:27:15.55ID:anEy0bRv
さて仙石権兵衛、諸卒に下知して言うには
「機を先する時は人を制するに利あり
 おおよそ川を隔て陣を取るに
 渡して戦いに勝たない事はなしと言うがいかがが?」
士卒ども難所を越えて血気盛んの故か
この川を渡して敵を蹴散らすべしと申し上げた。
長宗我部元親これを深く制して曰く
「川を渡して勝ちたる例は多いと言えど、不案内なる敵地へ入って
そのような働きをするのは殿下(秀吉)の覚えもいかがであろうか。
またこの川の形勢を見るに、こちらの岸は高く
馬の乗り上げが難しい。ここは敵と対峙し
敵がもし川を渡って来たらその半途を打てばよい。
ここは平に待ちたまえ」と制したが
権兵衛もとより短才愚蒙の人だったので
聞かぬ顔にて馬をさっと打ち入れると
その手の兵千五百余我先にと川を渡り始めた。
元親も今はこれまで、やむを得なしと、身をかたくし怒りながら川を渡った。
「豊薩軍記」

74人間七七四年2017/08/23(水) 15:50:58.54ID:9wzzu0EL
慌てふためいた「ように見せた」んだろうな

75人間七七四年2017/08/23(水) 20:00:30.68ID:mYgG+7Q6
お家芸の釣り野伏ですね

76人間七七四年2017/08/23(水) 20:07:35.32ID:1E7jkg3i
短才愚蒙ってすげえ言われようw

77人間七七四年2017/08/23(水) 22:47:42.19ID:Cz0GgWje
なんでこんなアホなことしたんだろう、経験豊富な武将だったのに。

78人間七七四年2017/08/23(水) 23:31:57.49ID:EQZ+wj9p
讃岐もらったし、いいとこ見せたかったんじゃないの

79人間七七四年2017/08/25(金) 20:21:18.15ID:7I3kQIYN
戸次川合戦讃岐勢の最期

ここにおいて仙石、いくさに敗れ、土佐讃岐の兵卒混一になって崩れた
桑名太郎左衛門、信親に使者を馳せて曰く
「今すぐお引き返しください、少しも遅れてはなりませぬぞ」

槍を入れる信親存保、撤退の下知をしたが及ばず、共に押し立てられ
存保が家人に言うには

「阿波の守護だった頃、信親と戦う事数度にして
 一度は長宗我部が首を見んと切望していたが
 その遺恨は今である。信親に呼びかけて討死させ
 我が思いを晴らすとしよう」

(続く)

80人間七七四年2017/08/25(金) 20:22:48.65ID:7I3kQIYN
信親に使者を馳せて曰く

「今日の戦いは仙石の謀(はかりごと)の拙さによるとは言え
 恥辱は先手の将帥にあり。
 引き返して勝負を決したまえ。存保も加勢申すべし」

存保馬に鞭を打ち馳せ行くと
信親も勇壮の将なればもっともであると承諾し
両将共に取って返し、敵の中へ馳せ入れ
火水の如く戦いて、晴れなる戦死を遂げられた。

香川民部少輔、安富肥前守、羽床弥三郎
阿波の矢野、河村などの軍将数十人
勇名ある者数百人、総兵千有余人
皆力のある限り戦い、そして死んでいった。

「南海通史」

81人間七七四年2017/08/25(金) 22:19:54.39ID:kEYXRfFo
>>59
>「各々方さほどに同心なくば、我等一手をもって後詰せん」
一人で討ち取られちゃえばよかったのに

82人間七七四年2017/08/26(土) 14:21:09.45ID:l1s1q4Vz
信親と長宗我部家が不憫でならない…。

83人間七七四年2017/08/26(土) 14:48:49.94ID:2DOcTq0a
次男三男死なずにすんだかもな

84人間七七四年2017/08/27(日) 22:52:38.35ID:d6s6yIK8
茂木山城(茂木治良か?)という者、下総茂木山城の城主にて、佐竹に属していた。
朝鮮征伐の時、佐竹に従って西国に至った。

佐竹の人数を集めて、老臣たちが手配をしている時、佐竹の家老が縁の上に立って、他の者達はすべて
軒下に降りるよう下知した。しかし皆、これに従おうとしなかった。

この様子を見て茂木山城は、その家老に言った
「その方、先に下に降りろ」(其方先下に居よ)

人を下知するなら手前を慎むのが、古よりの戒めである。
(士談)

85人間七七四年2017/08/28(月) 00:23:20.76ID:tb33UCMO
下総じゃなくて下野茂木なんじゃないかな
佐竹が下総と接点あるのは北総・東総あたりだろうけど茂木氏はちょっと記憶にない

86人間七七四年2017/08/28(月) 03:07:52.48ID:IAXy0+oW
これ人名はもぎやましろで城がもぎやまじょうなのか

87人間七七四年2017/08/30(水) 14:48:51.99ID:D/ZmCpnd
去る程に豊後の軍、仙石権兵衛が無法ゆえに寄手大きに打ち負け
十河・田宮を始め、軍兵どもあえなく討たれ、仙石・大友は豊前国へ逃げゆき
弥三郎(信親)は討ち死にし、宮内少輔(元親)は生死知らざる事が
追々都へ聞こえて来たので、秀吉公大いに怒りて仰せつけられるには

「権兵衛は元来強気無法の者であれば
 敵を侮るな、一人駆けはするな
 衆議一同の上進退せよと再三かたく示したのにその議を用いず
 宮内少輔の諫言を聞かず、我意に任せる事は上を軽侮し
同僚を軽慢するのと同じであり、曲言の専一である。
 察するに彼は、先年宮内少輔に手痛く当たられた事を深く心意にはさみ
 この度公議を借りて讐を返し、元親に恥辱を与えんとして
 かえって己に及んだのであろう。これは武士の本意ではない
 一方弥三郎は同列の罪逃れざるを知って潔く討死した。不便というにも余りある
 我、彼が不快を知らず、相将に列した事は甚だもって落ち度であった
 今更悔やむに益はなし、しかしながら元親がもし討死となれば
 土佐国の一揆供がその弊に乗って狼藉する事もあるだろう」

そうして信親忠死の跡なればとして
土佐国政の事を仰せつけられ
増田長盛、藤堂高虎を上使として土佐国へ差し下し
長宗我部家に慰問をなし、例え元親親子相果てたとしても
領地は安堵して次男香川五郎二郎に遣わすべしとの御朱印を下された。

(土佐物語)

88人間七七四年2017/08/31(木) 10:50:37.09ID:tjcfsPmD
十河家.....。

89人間七七四年2017/09/01(金) 15:44:00.98ID:Bz4Hb9x8
徳川家康が落馬した時、馬の手綱が手にかかったままであったのを、供奉の侍の内、素早く気づいた
者が居て、走りより抜き打ちに手綱を切った。これは馬が駆け出して家康を引きずるのを防ぐためである。
家康は彼に「状況に応じた的確な判断であった」と褒美を与えた。

上杉謙信が馬で川を越す時、中ほどにて落馬したが、供のものがこれを抱きとめた。
謙信は岸に上がると、この者を即座に成敗した。

「我に組み付くほどの者は有るべからずと思っていたのに、このような事、甚だ憎き次第なり。」

そう言ったという。

(士談)

90人間七七四年2017/09/01(金) 16:11:50.62ID:kbfuy3yN
女謙信

91人間七七四年2017/09/01(金) 16:35:22.46ID:gCjqVHM7
ほっとけばよかったんか?

92人間七七四年2017/09/01(金) 16:49:17.56ID:RBdXbDLf
>>89
女性説に信憑性が出てしまう逸話だ。

93人間七七四年2017/09/01(金) 19:30:33.94ID:MY8HDl+b
つうかさ
近仕の侍を手打ちにできる女性って芳我台さんや古の巴さんみたいな人か?

94人間七七四年2017/09/03(日) 10:19:34.20ID:KQR2AFta
井伊直政の家臣に浅井奈(朝比奈?)左太夫という者があり、度々武功を顕した人物であった。
それ故に直政も、彼を高く評価していた。

奥州九戸の陣において、井伊家重臣である木俣土佐(守勝)の家来の何右衛門という者が、良き敵を討った。
ところが、そこに左太夫が来て頸を奪った。
何右衛門はあらかじめ、この頸の左の耳から右の耳の脇まで脇座して貫き、印をつけていた。
左太夫はこれを知らず頸を奪い去った。

その日の内に、頸は直政の実検に入り、直政は「いつもながらの武功である」と左太夫に声をかけていた所、
末座に控えていた何右衛門が、木綿の雨羽織を脱いで4つに折って出て、この頸にかぶせ、左太夫に向かって
言った

「私の高名の頸を、ここまで持参していただき、かたじけない。」

左太夫はこれを叱りつけ、退かせようとした
「せがれ(若僧)、推算なり!」

しかし何右衛門
「この頸は私が取ったものを、左太夫がここまで奪い来たのです。」

「せがれめが有りもしない事を言う!その場へも来ていないのに!」

「御辺が取ったというのなら、定めて証拠があることでしょう。」

「私の取った頸に証拠などあるものか!」

ここで何右衛門
「されば、それがしは取った頸に証拠がある故に頸に物を着せたのです。」
そして、頸の証拠として脇差で貫いたことを説明し、羽織を取ると、まさしくその通りであった。

これを聞いた何右衛門の主である木俣土佐はしかし、「汝のような者が、あの歴々の働きの場へ行くのも
慮外である!」と、何右衛門を叱責し退出させた。
そしてその夜、左太夫は井伊家の陣より駆け落ちをした。

しかしながら、この左太夫はこれで廃るような人物ではなく。その後結城秀康に召し出され千石の扶持を
与えられた。直政の元にいたときも、千石であったそうである。

(士談)

95人間七七四年2017/09/05(火) 10:20:51.55ID:aCPiblhV
西江久右衛門という者が島津中納言(忠恒)に仕えていたある時、忠恒が家来を叱りつけ、
その脇に西江が平伏していた。

叱責をしている内に忠恒の目の色が変わり、この者を手討ちにしようと考え、刀を抜こうとした、
しかし叱責されていた者もこれを見て、身を沈め刀に手をかけた。

この時、脇に居た西江はとっさに、この者の刀のこじり(鞘の末端部分)をそっと持ち上げた。
このためこの者が前に倒れた所を、忠恒が手討ちにした。

忠恒はこれを感じ入り、「西江は左足がきく(西江左足のきゝし)」と賞賛した。
左足で刀の鞘を持ち上げたのであろうか。

忠恒はこの手討ちの時、顔色いささかも常と変わらなかったとのことである。

(士談)

96人間七七四年2017/09/05(火) 10:44:07.14ID:UYv4oUVb
基地外すぎるw

97人間七七四年2017/09/05(火) 12:12:14.33ID:JxXPtsVL
>>95
さすが島津…w

98人間七七四年2017/09/05(火) 15:29:07.38ID:K7LHrv19
平伏状態から左足?
例えじゃないのか

99人間七七四年2017/09/07(木) 21:30:49.08ID:LuuX7Y+o
関白秀次の供をして、大島雲八が伏見から大阪へと向かう時、6月のことであったので、生きた鷺を籠に入れて
持たせていた。

案の定、秀次が船の中で、雲八に「鷺を射て参れ」と命じた。
もし射外せば如何かと思ったものの、持ってきた鷺があったので、心やすく射たという。
たとえ射外しても、これを「射たものです」と差し出せば良い、ということであろう。

この大島雲八は名誉の射芸との名を得ており、それゆえにこのような嗜みがあったそうだ。

ただし、心得が悪しければ主人を偽るものとなるのだから、こういうことはよくよく心得を持った上で
行うべきであろう。

(士談)

100人間七七四年2017/09/08(金) 23:39:00.53ID:XzrI/Uma
尾張内府(織田信雄)の元に、「鷹の上手である」と、浅利牛乱という者が目通りした。
彼は「ハイタカに雁を取らす」との言い立てをした。信雄は「これは珍妙である」と、彼を召し抱えた。

浅利はこの雁取りの鷹を据えて御前に出たが、この鷹、殊の外羽を羽ばたかせて鳥を取ろうとする
様子であったが、その日は狩りをさせずに置いた。脇から見れば、まぎれもなく雁を取るような体であった。

しかしその翌日、浅利は信雄の前に出ると「あの鷹はイタチに食われてしまいました」と、涙を落として
説名した。

実は、先に鷹が羽ばたいていたのは、一方に餌を持って見せたため、鷹が興奮していたということで、
つまりは偽りであったという。すなわち、信雄を騙したということである。

(士談)

101人間七七四年2017/09/09(土) 08:31:06.55ID:4xz0EMTm
>>100
つまり、人を騙した浅利に罰があたった、ってこと?

102人間七七四年2017/09/09(土) 18:19:41.24ID:pozdrvhm
イタチにヤられたことだって本当かどうか

103人間七七四年2017/09/11(月) 14:55:59.26ID:NI9S8d5p
大阪の陣の時、前田家家臣の平野弥次右衛門に、味方の武士が楼門より出て攻撃してきた。
弥次右衛門は味方と知らず、これと戦うため鎌槍にて駆け寄ったが見れば加賀前田家の相印であり、
顔は見えなかったが兜と指物を見て

「何者か!?味方打ちであるぞ!」

そう大声で罵しり槍を引き、さらに罵った。

合戦の後、この罵られた者、堪忍ならざるによって弥次右衛門と刺し違えようと、彼のもとに
やって来た。弥次右衛門は彼の来訪を知ると、郎党中言たちそれぞれに棒を持たせ、自身も
木刀を持って彼の前に出た

「其方は私と刺し違えるとの聞きたる仔細有るによって、このような用心をした。」

彼は来訪した趣を述べ、それを聞いた弥次右衛門

「その事で来られたとは知らなかった。私はその時断ったように、顔は見えておらず甲冑だけは見えた。
其方と知って言ったのではない。である以上、悪口を言っても仕方がないではないか。
あの時罵った相手がその方であるのなら、私と刺し違えるのは、大いなる誤りである。」

そう言い、押しすくめて帰らせた。
彼の者止むを得ずして、その夜、駆け落ちをした。

(士談)

104人間七七四年2017/09/12(火) 10:21:27.13ID:JUYJ/n2X
島原の乱の終結後、幕府の下知により九州有馬で戦った諸大名をねぎらうようにと、将軍家光より
大田備中守が豊前小倉まで派遣された。
九州の大名小名が集まった中、備中守が演説した。ここで松平信綱が備中守に向かって申した

「今回、鍋島が軍法を破り、事粗忽が起こった。これについては既に備中守にも伝えてある。
江戸において、如何様にも上意にまかせ申すべきである。」

鍋島(勝茂)はこれを聞いて反論した
「私は全く軍法を破ってはいません。榊原殿が一番に城へ乗り入ったゆえに、彼を討たせては
如何かと存じて押し入ったのです。これは併せて御忠節とも存じます。」

信綱「然らば榊原方へそれを確認すべきだ。」

こうして鍋島方より榊原飛騨守(職直)へ問い合わせた所、この頃榊原は長崎に居たが、これに返答し
「それがしの倅、佐左衛門佐が一番乗りを致したため、倅を見殺しには出来ず、続いて乗り入りました。
倅は若輩なため、御軍法を背きました。全く鍋島の一番乗りではありません。」

そう答えたため、榊原が一番乗りであることが明確と成った。

これにより榊原職直は長崎奉行を解任され、閉門とされた。

(士談)

105人間七七四年2017/09/12(火) 19:14:38.33ID:mUmd8lxQ
おい、金の斧と銀の斧持って行け!

106人間七七四年2017/09/14(木) 03:03:39.63ID:n13mDo5e
関ヶ原合戦の時分、河渡を渡られた一柳監物殿(直盛)は元は伊予の河野氏である。

その子(直重)は欠唇で異名を“いぐち監物”と申した。その子(直興)が御家(前田家)
で御預かりとなった監物殿である。

河野姓を改められたのは河渡を渡られた監物殿である。その監物殿は柳の枝を土手
に差し、「家が繁盛仕るならば、ほこれ(茂ること?)。そうでなくば枯れよ」と申された。
すると、年々ほこり申したとの由で、

これにより“一柳”に改められたとの旨を船越伊予守殿(宗舟)が物語り、それを聞こし
召されたとの由を、享保2年10月朔日の夜に仰せになった。

――『松雲公御夜話』


一柳監物は欠唇である。人が差し障りを言えば、殊の外怒った。秦の苻堅に似ている。
(一柳監物缺唇也。人指合を云へば事の外怒る、晉の符堅に似たり。)

――『老人雑話』

107人間七七四年2017/09/15(金) 17:36:03.52ID:Uz3vy/o7
ある時、武田信玄はこのように言った

「人はただ、学ぶべきである。
学ぶと言っても読物ばかりではない。何事であっても習うことにより学ぶというのだ。
殊更弓矢の家に生まれた者は、心がけて一日一つ良き事を聞けば、十日には十聴き習い、
工夫分別して物の理に徹するならば、一文不通の人であっても、智者と呼ばれるであろう。

今川氏真は我が聟であり(原文ママ)、北条氏政はまさしく氏康の子である。
何れも物をよく書き、よく読み、短冊色紙に詩歌を記し、自作の文章もよくこなす。
しかし彼らは、当年既に二十五にして、弓矢のこと、武義の備えについて、何であっても
人の口に上る程度の話もないのは、最も文盲な者にも劣るといえる。

こういうことから考えるに、人々は学びというものに心得違いがあり、学ぶべきことを学ばず、
要らぬことを熱心に成し、結果家を失いなお下すに至るわけで、人々はそうならぬよう、慎むべきであろう。

(士談)

信玄が言うと色々複雑な気持ちになりますね。

108人間七七四年2017/09/16(土) 02:09:29.56ID:whL2ywNF
越後の謙信が一揆を退治しに加賀へ発向した時、たいへんに寒気が強く、
太田村へ人数を入れて、火を焼いてあたって居申した。

そこへ加賀の一揆の大将で、何とかの能登とか申す者が、にわかに攻め
掛かり、謙信はやり様もなく打ち負けて敗軍した。

これを大納言様(前田利家)は聞こし召され及んで、能登を召し出された。
それ以後、度々の合戦に能登は参加したが、1度の高名も無かった。

凡そ奉公人は禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬものであるとの由、
享保5庚子年6月5日に仰せになった。

――『松雲公御夜話』

109人間七七四年2017/09/16(土) 06:53:07.43ID:U6gQ3t67
>禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬもの
滝川の事か

ノブが生きてたら林、佐久間の次に追放されるのは明智か滝川だったんだろうな

110人間七七四年2017/09/16(土) 07:11:44.64ID:gyQZQRbc
だから禄重くなくて良いから茶入くれって言ったのに…

111人間七七四年2017/09/16(土) 07:43:44.23ID:goG3qGCB
>>109
関東にとばしてるから、しばらくは安泰でしょ
狙われるとしたら近江に所領のある光秀や秀吉じゃないの?

112人間七七四年2017/09/16(土) 10:35:41.22ID:AY+NQw1b
>>111
光秀も滝川一益同様に飛ばされるのが確定していたやん。

113人間七七四年2017/09/16(土) 11:34:35.22ID:TT1HxNQx
追放と領地替えをごっちゃにするな

114人間七七四年2017/09/16(土) 18:33:26.75ID:WWUjnWOe
光秀は近江坂本とか丹波亀山とか京都への入り口の一等地をあげちゃってた
から
使えない奴だったら追放のところ
使えるから転封


信長の野望での家宝強奪みたいな事をリアルにやっちゃう信長って
配下の部将を手駒位にしか思って無かったんだろうな...

115人間七七四年2017/09/16(土) 21:31:49.60ID:GB5g7IWs
初めから預けてあるだけだから仕方ないね

116人間七七四年2017/09/17(日) 02:51:37.49ID:SAQd3Wid
領地も預けてるだけだからしゃあないつか秀吉も同じだし

117人間七七四年2017/09/17(日) 09:38:19.60ID:S6O7voU+
堀家の文書だと秀吉も長浜から追い出されることになってたんだよね

118人間七七四年2017/09/17(日) 14:03:08.13ID:8hOQvV3e
>>117
光秀が追い出されるのだから、まあ当然そうなるでそ。

119人間七七四年2017/09/17(日) 14:10:19.11ID:duF2E/F9
滋賀とか奈良って現代だと糞田舎で全く無価値な場所だけど
近江とか大和って言われると輝いて見える不思議
戦国脳のなせる業なり

120人間七七四年2017/09/18(月) 13:56:29.58ID:OF8oWH05
幕末、坂下門外の変で老中の安藤信正が襲撃された際、
背中に刀傷を受け武士として恥ずかしい行為と罷免されたけど、

部下を身代わりにしたうえ、ウンコ漏らして逃走した権現様の前で
それ言えんのかと思う

121人間七七四年2017/09/18(月) 15:01:59.92ID:ITKlOKd1
馬場美濃が「首が我々武田に向かっていた死体はすべてうつ伏せ
浜松に向かっていた死体はすべて仰向けでした」
と家康の家臣が家康を逃がすために懸命に戦ったことを
讃えた逸話が有名なのにそんなツッコミ入れても

122人間七七四年2017/09/18(月) 16:31:59.01ID:2vMxxcGJ
そもそも脱糞は捏造だし

123人間七七四年2017/09/18(月) 17:16:14.53ID:EHDp9M22
>>120
ただのマウンティングだから
気の弱そうな奴とか自分が気に食わない奴にしか言わない

124人間七七四年2017/09/18(月) 18:25:47.93ID:+sb4bRcX
江戸末期と戦国時代じゃ価値観が違いすぎる

125人間七七四年2017/09/18(月) 18:41:21.22ID:VB9ybVN6
背中の傷は恥って背後から襲われたらアウトじゃんww

126人間七七四年2017/09/18(月) 18:51:23.18ID:ln2oHHsQ
>>125
そう
前後から挟み撃ちにされてるってことだから生き延びてるわけがない、てこと

127人間七七四年2017/09/18(月) 19:01:10.23ID:jyl/7Fs3
理屈じゃないんだよなぁそういうのって

128人間七七四年2017/09/18(月) 19:42:32.81ID:im4tbZsM
つうか、安藤の話は政敵を追い落とすためのこじつけだし。
安藤は不意打ちで怪我したけど、襲ってきた敵を殲滅して、怪我の痛みに耐えて公務を行った。
これで士道不覚悟とか、ありえないだろ。

129人間七七四年2017/09/18(月) 19:47:07.84ID:j0qCClEO
戊辰の頃になるとそういう実戦とは無関係の机上の観念論は力を失ったけど、
それまでは妄想しまくった童貞のようにわけわからんこと言っていたからなぁ…

130人間七七四年2017/09/18(月) 20:07:28.22ID:ln2oHHsQ

131人間七七四年2017/09/18(月) 20:49:00.80ID:gtKRsMo1
>>130
マジな話、風雲児たちは年表意外全部デタラメ。たまに年表も怪しい

132人間七七四年2017/09/18(月) 22:48:39.87ID:ScCnZBW/
>>131
坂下門外の変もでたらめなん?

133人間七七四年2017/09/19(火) 00:17:03.10ID:IG/5qCrB
蒲生氏郷は伊勢松島の頃、1日に3度ずつ着到(出勤帳)を付けさせ、人々の勤務状況を確認し
働きを励ましたという。また勤務状況を調べるため、山伏の姿に変装させた間者も使っていた。

これを考えるに、勤務において人を励ましたるまないようにするためには、このように詳しく
調べなければ通用しないものなのだ。自分の身を省みても、聊か油断あればやがて放埒に至る。
他の人もまたそのような物だろうから、度々に気をつけ、勤務状況を究明することが必要なのだ。

(士談)

蒲生氏郷の勤務管理エグいな

134人間七七四年2017/09/19(火) 00:19:47.20ID:dH0BVuCT
だって工場長だし

135人間七七四年2017/09/19(火) 00:32:57.94ID:FfJk9yvS
当時「働く」ったら武力行使のことだよな?

136人間七七四年2017/09/19(火) 00:42:33.79ID:Yut3aWsC
「着到」も連れて来た軍勢の内容確認だわな。

137人間七七四年2017/09/20(水) 01:03:22.99ID:um2u10wi
>>121
の話がまとめサイト見たらまだ出てなかったようなので「徳川実紀」元亀三年の箇所より抜粋
(家康の伝記の多くに取り上げられてるから有名だけど)
十二月二十二日三方が原の戦い御味方利を失い、御家の軍勢名のある者どもあまた討たれぬ。
入道(信玄)勝ちにのり諸手をはげましておそい奉れば、夏目次郎左衛門吉信が討死するそのひまに
かろうじて浜松に帰りいらせたまう。
(夏目が永禄時代に一向宗門徒に与していたが救われたため)この日御恩に報いんとて○○(家康への欠字)
君敵中に引き返したまうを見て、手に持ちたる槍の柄をもて御馬の尻を叩き立て、御馬を浜松の方へおしむけ、
その身は敵中に向かい討ち死にせしとぞ。
その時敵ははや城近く押し寄せ立てれば早く門を閉めて防がんと上下ひしめきしに
○○君きこしめし必ず城門を閉めることあるべからず。後より追々帰る兵ども城に入るたよりを失うべし。
また敵大軍なりとも我籠もる所の城へおしいる事かなうべからずとて、門の内外に大篝火を設けしめ、
その後奥へわたらせたまい御湯漬けを三椀までめしあがられ、やがて御枕をめして御寝ありしが
御高鼾の声、殿外まで聞こえしとぞ。近く侍う男も女も感驚しぬ。
敵も城の体いぶかしくやおもいけん。猶予するところに鳥居、植村、天野、渡辺等の御家人突いていで追い払う。
その夜大久保七郎右衛門忠世等は間道より敵の陣所へしのびより穴山梅雪が陣に鉄砲撃ちかけしかば、
その手の人馬が機?に陥り踏み殺さるるものすくなからず。
入道(信玄)もこの体を見て大いに驚き、勝ちてもおそるるべきは浜松の敵なりと驚嘆せしとぞ。
また武田が家の侍大将馬場美濃守信房というもの入道に向かいて
「あわれ日の本に越後の上杉入道と○○徳川殿ほどの弓取りいまだ侍らじ。
此の度の戦いにうたれし三河武者、末が末までも戦わざるは一人もなかるべし。
その屍こなたにむかいたるはうつぶし、浜松の方にふしたるはのけざまなり。
一年駿河を襲いたまいし時、遠江の国をまったく○○徳川殿にまいらせ、御ちなみをむすばれて先手をたのみ
たまいなば、このごろは中国九国までも手に立つひとなく、やがて六十余州も大方事行きて候わんものを」
といいけるとぞ。勝戦してだにかくおもいし程なれば、入道つづきて城を囲まんとせざりしもことわりなるべし。

138人間七七四年2017/09/23(土) 08:41:10.41ID:Ju6D0dwn
大友と島津が高城にて戦い、大友が敗北し、ことごとく追い打ちに討たれる中、豊後衆の妻子たちは
父兄の討ち死に、子夫の死亡を心配し、皆外に出てその安否の情報を待った。

そのような中、大友義統によって出頭した侍が生き残り、逃げ帰ってきた。
これを義統は大いに喜び、

「誰々が討ち死にしようとももはや聊かも苦しからず!汝が存命であれば千万人にも超える!」
と発言した。

この一言を聞いて、家中ことごとく心のなかで大友を見限り、やがて滅亡に至ったのだという。

(士談)

139人間七七四年2017/09/23(土) 10:48:05.50ID:hZL0SQ22
頼朝みたいに個室に呼び出して
「お前だけが頼りだ。(良く頑張った)」って生き残った奴らに声掛けすれば
忠誠↑↑だったのに(´・ω・`)

140人間七七四年2017/09/23(土) 17:46:05.08ID:r5rCVYyc
>>138
言われた方も困るだろこんなんw

141人間七七四年2017/09/23(土) 18:07:45.99ID:u32JutHQ
>>139
義統が個別に呼び出すと違う逸話になりそうだし

142人間七七四年2017/09/23(土) 19:29:26.48ID:2fDPs94c
義統の寵臣か
誰やろね

143人間七七四年2017/09/24(日) 10:31:31.81ID:EEplvcFY
>彦根城は日本が世界遺産条約を批准した一九九二年、文化庁がまとめた
>ユネスコに推薦する候補の暫定リストに記載された文化財十三件に入った。
>暫定リストのうち十一件、リスト以外の「後発組」も次々と世界遺産に登録された。
>彦根城は、先に国宝姫路城(兵庫県姫路市)が世界遺産に登録され、
>単独での登録が難しくなった。

>このため、市は姫路城や松本城(長野県松本市)、
>犬山城(愛知県犬山市)などとの一括登録を検討した時期もあった。
>しかし既に暫定リストに載っている単独での登録の方が一括より道のりが短いと判断、
>二〇一五年度、再び単独登録を目指す方向にかじを切った。

>同じ種類の遺産では登録が難しいため、単独登録の実現には
>姫路城との違いの検証が欠かせない。天守のみの登録である姫路城に対し、
>彦根城は中堀の内側一帯を「武家政治の拠点」としてアピールする戦略を選んだ。
>中堀の内側には、天守だけでなく、武家屋敷や能舞台など貴重な文化財が
>数多く残っているのが強みだ。

ソース(中日新聞)
彦根城 世界遺産足踏み四半世紀 戦略再考へ10月末に新組織
http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20170921/CK2017092102000010.html

彦根城をはじめ国宝5城(登録済の姫路城は除く)はどこも世界遺産を目指しているとか

144人間七七四年2017/09/24(日) 14:39:42.65ID:4xTwE4Xq
織田信長が岐阜に在城していた時、城内に桜の馬場を取り立て、その祝いとして連歌師の里村紹巴に
発句をするよう命じた。そこで紹巴は

『今朝とあけて 麓は柳桜哉』

そう連歌したところ、これを聞いた信長は

「城に”あくる”と言う事は禁忌である!時と場合によってはこの城を調伏する言葉であり、
遠島に配すべし!」

と、命じたという。

(士談)

145人間七七四年2017/09/24(日) 15:34:24.41ID:WJQIg07t
信長が言うととんちとか禅問答をしているようにもとれる

146人間七七四年2017/09/24(日) 19:37:19.83ID:Tjttvdh3
里村紹巴っていろいろ不運な目に会いつつもギリギリ許されることが多くて運が良いのか悪いのかよくわからん奴だな

147人間七七四年2017/09/25(月) 04:01:35.13ID:OzTAV6SS
生き残ってる以上死ぬ話を作るにはいかんからな

148人間七七四年2017/09/25(月) 08:02:54.28ID:cqcIMXVs
>>147
天庵様は生き残ってるけど、軍記物では死んでるよ

149人間七七四年2017/09/25(月) 14:19:47.02ID:43DBT54k
毛利元就の頃、芸州に花信(果心)居士と号する幻術の上手が来たりて、様々な術をなした。
元就はこれを見物するため、舞台においてその術を為さしめた。

居士は術を行い、にわかに瓜を作るというものを成した。
少しの間に、種を撒き、発芽し、蔓がはい、実が成って見事な瓜となった。
「さらばこれを初めて味合うべし。本成りの瓜が味が良いので、本成りを切りました」
そう言って差し出した。

元就はこの言葉に、自分の諱「元就」と同じ音の「本成り」という、禁忌の言があることに気がついていたが、
ついにここより病に伏せ、逝去したのだと、そう語る人がいる。

(士談)

果心居士のこの話、松永久秀だけじゃなく毛利元就バージョンもあったとは

150人間七七四年2017/09/25(月) 19:11:35.14ID:PyXdbaOX
>>148
珍しすぎるパターンだ

151人間七七四年2017/09/25(月) 19:31:39.07ID:y/csvWWQ
ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000154/files/1648_13207.html
聊斎志異の「種梨」では梨で似たような話が

152人間七七四年2017/09/28(木) 09:20:15.82ID:tkAo8cH+
細川直系子孫の護熙さん、都知事選出馬の噂が。色んな意味でイタい御隠居すぎる。
隠退したんだからこのまま陶芸・茶道に励んでいてくださいよ、お願いですから。

153人間七七四年2017/09/28(木) 12:12:42.29ID:fM+FepIE
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
と言って引退したはずなのに

154人間七七四年2017/09/28(木) 12:33:49.00ID:ey2RYT/m
三歳の狂気を全く感じないわ
殿というより麻呂

母方祖父の近衛文麿のDNA引き継ぎすぎ

155人間七七四年2017/09/28(木) 15:27:47.16ID:Y+QiWj/g
よいのです

156人間七七四年2017/09/29(金) 08:24:08.37ID:SOu1LN08
寛永島原一揆が落居の後、幕府評定所において、井伊直孝、保科肥後守、酒井讃岐守、堀田伊賀守、
松平信綱、並びに老中列座して、石谷貞清を召して、上意の旨を以って御詮議の事があった。
石谷貞清は討ち死にした最初の幕府上使・板倉重昌の副使だったのである。
やるべきではない合戦をして人を多く討たせたことは、板倉・石谷が焦って討って出た故である、との
詮議であった。

石谷は申し上げた
「聊かも焦って仕った事などありません。『松平伊豆守、戸田左門が後の仕置のため使わされる』との
御奉書到来の上は、なんとかして年内に埒を明けておくべきでしたが、その甲斐もなく、
ならば元旦に押し寄せ城を乗っ取り、『後の御仕置』が出来るようにしたい、との心得にて、元旦を
総攻めと決めたのです。
仮に『我々両人が仕る所悪しきにより、重ねて伊豆・左門を下す』という事であったなら、焦って
致すということも有ったかもしれません。

そういった事でありますが、内膳(板倉重昌)は冥加にかなって元旦に死を遂げ、御奉公の一通を立て、
この御詮議にも逢いませんでした。
私は冥加無く、只今まで生き残り、このような御詮議をも承ることになりました。」

この言葉にその座の何れも黙り込んだという。

(士談)

武士って厄介な連中だな

157人間七七四年2017/09/29(金) 16:59:04.01ID:lC8w7Akb
戦争が政治や外交の延長だってことを考えないとそう見えるかも

158人間七七四年2017/10/02(月) 09:48:09.84ID:I3B0BlWP
永井隼人佐道利は、濃州金山城の城主であったが、織田信長による美濃平均の時流浪し、
その後足利義昭に仕えた。

ある時、摂津において、池田正勝を追放し池田衆を率いる荒木村重と、和田伊賀守(惟政)とが相戦う
ことがあったが、この頃、道利が和田の元へ使節に参った。その時、合戦について言った

「今の敵に対する軍立ては心得られませんし、地利も良くない。ここは待って戦うべきです。
さもなければ必ず敗北するでしょう。」

しかし和田は
「池田衆との戦では、普段から見方が少人数でも大利を得ている。池田方の兵の事など全く気にならない」
そう、大いに侮った。

和田は糠塚に陣をはり、荒木は馬塚に陣をはっていた。
この間は、荒木の方がつま先上がりの地で、和田方のほうが地形低く、掛かりやすい場所であった。

果たしてこの日、和田は敗軍し、義昭の使節であった永井道利も巻き込まれ討ち死にした。
これを摂州白井河原の戦いといい、元亀2年(1571)8月28日の事だという。

(士談)

159人間七七四年2017/10/03(火) 22:38:23.77ID:k5xzbSsL
ある日、利太(前田慶次)は浴場で入浴した。

この時の利太は巾で顔を覆い、褌に合口(短刀)を帯びて入った。
浴槽にいる者は驚いて出て、皆が刀を帯びて浴槽に入った。

そのうち利太は浴槽から出て合口を抜くと、その合口で垢を落とし
始めた。戻って来て入浴する者がこれをよく見ると、

それは合口ではなく竹べらであった。ここで初めてたぶらかされた
と分かり、人々は大いに恥じた。

――『加賀藩史稿』

160人間七七四年2017/10/03(火) 22:54:05.10ID:W4EWc78u
お決まりのアレね

161人間七七四年2017/10/03(火) 23:03:17.56ID:KBj7WAN5
まとめサイトの547(リンク貼ろうとしたら弾かれた)の
前田慶次の、かぶき者の入浴・悪い話
ていう翁草の話と少しちがうな

162人間七七四年2017/10/03(火) 23:06:46.00ID:zk4Bff29
長年の疑問がある。

wikiをみると、別所安治(別所長治の父)の誕生年が1532年なのに対し、
その弟である筈の別所重棟(重宗)の誕生年が1529年と、弟のほうが
先に生まれている。

重棟が妾腹で弟扱いされたのかとも思ったが、母親は同じらしいし、訳が
わからん。

誰かこの謎を解いてくれ。

163人間七七四年2017/10/03(火) 23:20:36.87ID:p7xh/80J
東京町田で赤子を揺さぶって殺害したとされる父親、苗字が有名な薩摩のボッケモンで、名前が「隼人」。

……もしも中馬大蔵の係累だったら、嘆かわしい事やね。

164人間七七四年2017/10/03(火) 23:29:11.29ID:p7xh/80J
>>162

松平頼重「何と奇怪至極な」

徳川光圀「何故、このような事が」

 書類上、光圀が「兄」で頼重が「弟」。且つ、光圀が嫡男で頼重が庶長子。

 尚、二人の生母は同一人物で終生、側室扱い。

165人間七七四年2017/10/04(水) 08:03:09.72ID:vTk4VTYg
兄より優れた弟など存在しない
後から生まれた方が優秀ならそっちを兄にすればいい

166人間七七四年2017/10/04(水) 11:24:43.10ID:x3gZgjEF
信幸兄さんのことか

167人間七七四年2017/10/04(水) 23:19:22.10ID:OcJJ7uqw
>>162>>164-165
天武天皇「割とよくある」

168人間七七四年2017/10/06(金) 23:28:53.28ID:KxLBGXY6
牛頭天王を信仰する者は、必ず胡瓜を食らうことを禁じている。これを食らうとたちまち邪疫に
感染すると言うのだ。或いは云う、牛頭天王の紋所は木瓜であり、これを”きうり(胡瓜)”と
読み誤ったのだ、とも、

しかし素戔嗚尊(牛頭天王の本地とされる)に紋所があるとも覚えず。
これについては、かつて織田信長がこの牛頭天王を深く信仰し、神輿の類ことごとくに、織田家の紋所である
木瓜を染めて納めたため、終にはこの木瓜が牛頭天王の紋所であると誤って伝えられたのだと言われる。

(今古雅談)

169人間七七四年2017/10/06(金) 23:39:35.87ID:sv0B/QpK
瓜にかぶりついていた若いころの信長…

170人間七七四年2017/10/07(土) 21:17:22.96ID:S9bwLdc0
豊臣秀吉の九州征伐の時、秀吉に赤い毛氈を献上した者があり、秀吉はこれを、九州征伐に参加した
諸将に分け与えた。

当時、日本には毛氈というものが殆ど入ってきておらず、諸将何れも、秀吉より下されたそれが
どういうものか解らず、諸将「これは一体何のために用いるものなのか」と話し合った。
しかしその内の一人が

「これはもしや…」

「なんだ?貴殿知っておるのか?」

「うむ…、私がかつて檀那寺に物を送った時、その住持がこのような赤い布を肩にかけて返礼に来た。
思うにこれもきっと、敬礼を表するために、肩にかける物なのであろう。
然らばこれを下された事への御礼は、これを肩にかけて参るべきであろう。」

これにより相談一決し、銘々毛氈を肩にかけて秀頼に拝謝したという。

(今古雅談)

※言わずもがなですが、毛氈とは獣毛で編んだ敷物です

171人間七七四年2017/10/07(土) 21:29:10.19ID:1zTQvYQi
秀吉にではないんかい?

172人間七七四年2017/10/07(土) 21:32:42.16ID:S9bwLdc0
>>171
スマン変換ミスです。
>>170 最後の行、秀吉ですね

173人間七七四年2017/10/08(日) 23:41:35.32ID:juswXgLI
>>167
天智と天武は父親が違う

174人間七七四年2017/10/09(月) 07:16:28.75ID:PcHM+p2F
田沢は博学じゃのう

175人間七七四年2017/10/09(月) 11:06:10.91ID:cwbiDh+H
>>170
毛氈(フェルト)は大陸では古代から広く使われてきて
天幕や敷物にカーテン、装飾品やら靴やら文字を書く際の下敷きやら
色んな物に使える超便利素材
献上されたのがどんな毛氈製品だったのか想像すると面白いね

176人間七七四年2017/10/09(月) 17:02:40.29ID:p2AEkszr
フロイスは信長への献上品を船のカーペットで間に合わせたって話があるな

177人間七七四年2017/10/10(火) 01:29:56.04ID:TeDqQxsY
そういや書道の授業で使ってた下敷きはフェルトぽかった記憶があるなおぼろげだけど

178人間七七四年2017/10/20(金) 19:05:32.73ID:IcLAlNWl
井伊直政の重臣の川手良則は、直政の姉の高瀬を娶ったが嫡男が無かったので、大草松平家の松平康安の三男を婿養子とした。

その川手良列(良行)は大阪の陣で井伊家の一隊を率いたが、夏の陣の若江の戦いで無謀とも言える突撃を繰り返して戦死した。
冬の陣の真田丸の戦いで井伊勢が先走って大損害を受けたが、良列は軍規を忠実に守って動かなかった。ところがかえって
臆病者の誹りを受けてしまい、そこで実父と実兄に相談の上で覚悟を決めていたのだという。

そこまで頑張ったのに、良列の遺児の良富も若死にしたのでお家断絶している。祖母の高瀬は孫より長生きしてますね。

179人間七七四年2017/10/20(金) 19:07:01.89ID:IcLAlNWl
ただし、過去ログ「賞の基準」、こちらの逸話では川手主水(良列)の扱いは正反対になっているようである。

180人間七七四年2017/10/23(月) 21:58:16.58ID:htmCXMy7
まとめの9741「講談、寛永御前試合では」でも触れられてるけど
勝海舟「陸軍歴史」巻28から抜粋

三代将軍家光公御代寛永十一甲戌年九月廿二日於吹上上覧所剣道立合之面々左之通り

   井場泉水軒・下谷御徒町住人

負  浅山一伝齋

鎧勝負
   初鹿野伝右衛門

負  朝比奈弥太郎

   竹内加賀之助・播州住人

負  由井直人・仙台藩

   仙台黄門政宗

負  秋元但馬守

   堀尾山城守

負  菅沼新八郎

   柳生市之丞・和州柳生の住人

負  石川又四郎

   佐川蟠龍齋・芝高輪住人

負  関口弥太郎・紀州郷士

   石川軍東齋・江戸小石川

負  松前帯刀・御取立の御旗本

鎧勝負
   大久保彦左衛門

負  加賀爪甲斐守

   樋口十郎兵衛・上州の郷士

討  中条五兵衛・甲州中郷士

   荒木又右衛門

討  宮本八五郎・豊前小倉藩

   芳賀一心齋・備中の郷士

討  難波一刀齋・遠州の郷士

181人間七七四年2017/10/23(月) 22:02:20.36ID:htmCXMy7
荒木又右衛門、宮本八五郎(伊織)の名前が見えるのはご愛嬌として、
編者の勝海舟は大久保彦左衛門や伊達政宗の名前が出てくることに疑問はなかったのだろうか
しかもこの「陸軍歴史」って陸軍省が勝海舟に依頼している真面目な本のはずなのに

182人間七七四年2017/10/24(火) 17:38:14.80ID:f/6URLZ0
>>180
これは魔界転生やってますわ

183人間七七四年2017/10/24(火) 23:07:06.45ID:skh5btLk
>>181
海舟は政治家だから歴史が正確かどうかには興味なかったのでは

184人間七七四年2017/10/25(水) 19:13:35.86ID:w2ASLYq0
赤川元保誅罰

嫡男隆元が早逝した責を理由に切腹に追いやられたされたとされる赤川元保の別のお話

赤川左京亮(元保)は近年、大友氏の抑えとして長門の国府、勝山に駐屯して居たがある日元就の命によって誅罰された。

左京は武勇に優れ、知恵もまた他の人よりも優れていたので元就様は輝元様が幼少の頃からその教育係として付けていた。
この為周囲の人々は左京を粗略には扱わず、左京は次第に驕り高ぶり傲慢な振る舞いが目立つ様になり、
遂には己が教育係を勤める輝元様が毛利家当主となれば自らの権勢はより高まるであろうと考えたか、左京は輝元様に

「輝元様も良いお歳になられました。いつまでそのままでいらっしゃるおつもりですか?元就様もうずいぶんご老衰のようですので、家督のことを急がせたとしても誰が反対しましょうか」
などと強弁していた。当時輝元様は志学(十五歳)の頃であったが、年齢よりも成熟した賢将で
「左京は邪な事を言っている。放ってはおけない」
と考えられ、元就様に直接この事を相談した。
「急いで京兆(左京亮の唐名)の首を刎ねてください」
との輝元様の言葉に元就様は
「左京め、驕りが過ぎるだけでなく、まだ二十歳にもならぬ輝元にこの様な邪な事を吹き込むとは、放っておけば秦の趙高か唐の安禄山が如き者となろう」
とお考えになり赤川左京を誅罰なさり、吉田の隅と言う地に住む左京の弟源右衛門には粟屋弥四郎、粟屋右衛門を差し向け、粟屋弥四郎が刺し違えて彼を討ち取り、
左京の養子又五郎には桂能登守が手勢数百人で囲んだが、屈強な又五郎の前に数十人が切られ、寄せ手は立ち往生してしまった。
そこへ粟屋彦右衛門と言う小兵の者が現れ、物陰に潜むと又五郎が数箇所手傷を負って眩暈がしたのか、しばらく息を整えているところに走りかかって引き倒し、取り押さえて首を切ってしまった。
又五郎は彦右衛門程度の小男ならきるほどの大力であったが、
彦右衛門に組み伏せられてろくな抵抗もできずに討ち取られてしまったということだ。
彦右衛門もこうした大力の者と知りながら、自分の力が劣っているのも顧みず、無手と組んだその意気が立派であった。

(陰徳記)

185人間七七四年2017/10/25(水) 19:17:34.15ID:E3GEJJbr
ちなみにこの最後に出て来る粟屋彦右衛門は幼名を源二郎と言い、既 十六歳の折に元就の命令で、元就の妾と密通した木原兵部少輔を討ち取った男でもある。

既出の逸話
毛利元就、妾のもとに忍ぶ男を
を参照。

186人間七七四年2017/10/25(水) 19:23:31.35ID:Sc/A6gmx
訂正
又五郎は彦右衛門程度の小男ならきるほどの大力であったが、

又五郎は彦右衛門程度の小男ならがんじがらめにできるほどの大力であったが、

187人間七七四年2017/10/25(水) 19:31:13.58ID:Sc/A6gmx
赤川元保誅罰

嫡男隆元が早逝した責を理由に切腹に追いやられたされたとされる赤川元保の別のお話

赤川左京亮(元保)は近年、大友氏の抑えとして長門の国府、勝山に駐屯して居たがある日元就の命によって誅罰された。

左京は武勇に優れ、知恵もまた他の人よりも優れていたので元就様は輝元様が幼少の頃からその教育係として付けていた。
この為周囲の人々は左京を粗略には扱わず、左京は次第に驕り高ぶり傲慢な振る舞いが目立つ様になり、
遂には己が教育係を勤める輝元様が毛利家当主となれば自らの権勢はより高まるであろうと考えたか、左京は輝元様に

「輝元様も良いお歳になられました。いつまでそのままでいらっしゃるおつもりですか?元就様もうずいぶんご老衰のようですので、家督のことを急がせたとしても誰が反対しましょうか」
などと強弁していた。当時輝元様は志学(十五歳)の頃であったが、年齢よりも成熟した賢将で
「左京は邪な事を言っている。放ってはおけない」
と考えられ、元就様に直接この事を相談した。
「急いで京兆(左京亮の唐名)の首を刎ねてください」
との輝元様の言葉に元就様は
「左京め、驕りが過ぎるだけでなく、まだ二十歳にもならぬ輝元にこの様な邪な事を吹き込むとは、放っておけば秦の趙高か唐の安禄山が如き者となろう」
とお考えになり赤川左京を誅罰なさり、吉田の隅と言う地に住む左京の弟源右衛門には粟屋弥四郎、粟屋右衛門を差し向け、粟屋弥四郎が刺し違えて彼を討ち取り、
左京の養子又五郎には桂能登守が手勢数百人で囲んだが、屈強な又五郎の前に数十人が切られ、寄せ手は立ち往生してしまった。
そこへ粟屋彦右衛門と言う小兵の者が現れ、物陰に潜むと又五郎が数箇所手傷を負って眩暈がしたのか、しばらく息を整えているところに走りかかって引き倒し、取り押さえて首を切ってしまった。
又五郎は彦右衛門程度の小男ならきるほどの大力であったが、
彦右衛門に組み伏せられてろくな抵抗もできずに討ち取られてしまったということだ。
彦右衛門もこうした大力の者と知りながら、自分の力が劣っているのも顧みず、無手と組んだその意気が立派であった。

(陰徳記)

188人間七七四年2017/10/25(水) 19:52:14.00ID:Sc/A6gmx
あれ、すんません。何か訂正してないのが連投されてる…

189人間七七四年2017/10/25(水) 20:41:48.26ID:CcjnGyV8
落ち着いて見直してからボタンを押せ

そして子供の頃は賢将だったと書かれる輝元

190人間七七四年2017/10/25(水) 22:29:52.43ID:AjqsyYpU
逸話でなくてニュースだけど

ttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171025-00000027-cnippou-kr
SJシウォン側「『豊臣秀吉が好き』発言、他意はなかった」

続いてシウォンは「この中で一番価値観が合う人物は」という追加の質問に「織田信長だ。織田が好きだったというカキフライをわざわざ食べに行くこともある」と説明した。


何がどうしてこうなった
歴史が伝わらない悪い話

191人間七七四年2017/10/25(水) 22:56:45.58ID:Sc/A6gmx
>>190
名前で何処の白人さんがそんな適当な事を?
と思ったら…

192人間七七四年2017/10/25(水) 23:01:03.74ID:p3fyvArH
ノッブ「そうそう、実はカキに当たっちゃったんだよ」

193人間七七四年2017/10/25(水) 23:13:15.54ID:08wdza5k
>>190
こんなことでいちいち突っ込まれるのか。めんどくせえ国だわ

194人間七七四年2017/10/25(水) 23:18:03.06ID:Ef10S7lE
比叡山高校の面接試験か何かで
面接官「尊敬する人物は誰ですか」
受験生「織田信長です!」
面接官「・・・不合格!」

という話を思い出した、本当にあったかは知らないけど

195人間七七四年2017/10/25(水) 23:23:39.21ID:BjysMpzj
TERU「牡蠣言うたらやっぱウチじゃけぇ」

広島城、実は3代目 毛利輝元が築いた時代の牡蠣ガラ付き石垣が残る
http://j-town.net/tokyo/news/localtv/248253.html?p=all


カンパイ広島!牡蠣ングダム
https://hiroshima-welcome.jp
https://youtu.be/BSOWyUl0PX0
カープは完敗しましたけどね(涙

196人間七七四年2017/10/25(水) 23:40:03.98ID:Sc/A6gmx
武田信玄「ワシも牡蠣大好きよ」
http://www.marutosuisan.jp/Steamed_Oyster/Oyster_story09.html

197人間七七四年2017/10/26(木) 10:53:25.09ID:zCLKuaFh
信長を偲んでカキフライ食うオフやったらおまえら来る?

198人間七七四年2017/10/26(木) 10:57:55.61ID:3qLcsWsJ
エビフリャーなら

199人間七七四年2017/10/26(木) 11:29:11.87ID:EzYhYprw
某ゲームの居酒屋コラボイベントで
家康キャラのコラボメニューが「徳川最後の晩餐(鯛の天ぷら)」
だったのを思い出した

200人間七七四年2017/10/26(木) 12:40:45.79ID:0RRMjCpK
>>199
ちゃんとさつま揚げだったのかが気になる。

201人間七七四年2017/10/27(金) 06:00:30.73ID:mdeSg/6u
家康キャラなんだからそれは間違い

202人間七七四年2017/10/27(金) 13:21:15.40ID:QPdRFwSZ
織田信長の黒母衣衆に、伊藤武兵衛という者があった。
彼は坂井近盛という者を斬り尾張より退転し、駿河に亡命して今川氏真を頼った。
尾張からの牢人ということで、今川家の人々も彼を丁重に遇した。

ある時、乱舞の座において他の人々より「伊藤殿も何ぞ遊ばし候へ」と、座興を促されたが
彼は元より乱舞というものを知らぬため

「私は何も心得ませんので」

と断った。しかし「いやそう言われずに、何か一色」と更に促された。それでも
『今まで知らぬことであり、面目無いのですが、何も存じませんので。」

そういった所、座の若き者共、「この男、何も知らぬ」と嘲り、小鼓を彼に向かってころばして、
強いて所望した。
この様子を見て伊藤は、居直って言い放った

「私は若き頃より信長の脇に仕えて近国を従え、朝夕樫の柄(槍の柄)をこそ握っていたため、
穢多の皮を叩いた遊ぶ暇もなければ、知らぬなり!」

そして鼓を跳ね戻したが、かの若者達は

「いや、穢多の皮を叩く時は叩き、樫の柄を握るべき所で握る者こそ良いと言うべきだ」

そう言い、これに怒った伊藤が刀を抜こうとしたのを周りの人々が慌てて抑え止めさせた。

程なく、今川氏真は武田信玄のため駿河を退き、遠江掛川に籠った。ここを信玄と連携した
徳川家康が攻めた。
天王山の北に旗を立て、大須賀五郎左衛門、大久保七郎右衛門、松平周防守、土井豊後守らが
大手を攻め立てた時、城中には勇士多かったが、この時伊藤武兵衛が今川家の武士たちに言った

「穢多の皮の事承り及んでおりますが、畳の上では心安いでしょう。こういう時こそ少し叩いては如何か?
この武兵衛は信長の側にて習い置き樫の柄を握ってみせましょうぞ!」

そう申すと城より何度も打って出て、遂に討ち死にした。椋原次郎右衛門に討たれたという。
類少き勇者である。
しかし、もし彼に音曲の方の素養もあったなら、このように後まで心にかかることも無かっただろう。
であれば、知らぬというのは少し劣ることに似ているのではないだろうか。

(士談)

203人間七七四年2017/10/27(金) 16:29:06.71ID:xqOpkIKt
価値観が変わってしまっていることが窺えるな

204人間七七四年2017/10/27(金) 23:28:17.57ID:QPdRFwSZ
大将の旗、纏、馬印などというものは、高く遠くからも見えることに利がある。
これは相印となり、将の下知がよく届くためである。

豊前の城井一揆の時、その谷口に戦術上良い地形があり、その山を取れば利があり、取られれば
不利になるものであったので、黒田長政はこれを見て取ると、宵より物見をかけ、この山を占拠するとし、
そうして山に備えを段々と上げた。

ここまで城井の兵は全く見えなかったので、さては黒田勢に辟易して退去したかと、各々喜び
緊張が緩んだ。

その時、城井の馬印である赤い吹抜が突然現れた。
黒田の兵はこれに驚き、「唯今足元よ敵が出たり!」と混乱し敗軍した。

この時黒田の機は、行列の時のように長く立ち備えていた。これが進みながら敵と遭遇したため、
旗を立て直すことが出来なかったのである。
先の方からは「旗を立て直せ!」と下知があったが、旗奉行はこの命令を聞き入れなかった。
「その時間が有るからと言って、もし立て直すようなことをすれば、むしろより早く
軍が崩れます」
という理由であった。

賤ヶ岳の戦いで、秀吉の金の纏が出て佐久間玄蕃の兵たちが気を失い、小牧にても家康の扇の纏が出たことで
敵軍気を失い、関ヶ原にても家康の纏が突然現れたことで、石田三成は大いに驚き謀を失ったと言うが、
これらも同一の事例であろう。

(士談)

205人間七七四年2017/10/29(日) 18:50:14.36ID:TyHBz7w9
池田輝政への呪い

1609年(慶長14年)、城が完成して間もない12月12日の日付で、池田輝政に宛てた不気味な手紙が届いた。

それには輝政と夫人に天神(天狗)が取り付いて呪いを掛けようとしている。
「その呪いを解いて欲しいのなら、城の鬼門に急いで八天塔を建てて、大八天神を祀れ」と書いてあった。

これらは豊臣秀吉が城を築くときに姫山から総社に移した刑部神社の祟りだと人々は噂した。
そこで輝政はさっそく刑部神社を場内の三門内にお迎えし、祀ることにした。

ところがそれからも悪いことが続いた。
1611年(慶長16年)には、輝政がついに重い病気に倒れた。
そこで今度は、呪いの手紙に書いてある通りに、呪文を解く護摩祈祷を行い、
八天塔を刑部神社の横に建てると、輝政の病状は回復した。
その喜びも束の間、1613年(慶長18年)輝政は呆気なく亡くなり、その子供たちも次々に若死にした。

やはり、刑部大神の祟りに違いない。
「誰も居ないはずの天守閣に夜な夜な怪しい灯りがともり、大勢の人が泣き喚く声が聞こえる」
噂はその後も消えなかった。


ソース元 姫路城周辺情報サイト↓より
ttp://castle-himeji.com/dic/a/osakabe/

206人間七七四年2017/10/31(火) 08:06:02.47ID:YhjL3Wh0
これらは豊臣秀吉が城を築くときに姫山から総社に移した刑部神社の祟りだと人々は噂した。


池田輝政「何で太閤殿下や秀頼公でなく、私が呪われるんですかねぇ?」

207人間七七四年2017/10/31(火) 08:22:55.65ID:HvVIgT7R
だって引きこもりだよ?
遠出するなんて無理無理

208人間七七四年2017/10/31(火) 11:58:06.47ID:6fXAveTk
天守閣から年1回しか出てこない刑部姫w

209人間七七四年2017/10/31(火) 12:00:25.06ID:p2EHdXT7
>>207
妹は遠く猪苗代から生首持参で遊びに来るくらいアグレッシブなのに、お姉さまの方が干物姉なんですか

210人間七七四年2017/10/31(火) 12:10:47.86ID:NdoPDHxu
そも狐なのか蛇なのか

211人間七七四年2017/10/31(火) 12:18:37.77ID:G+3TkRin
>>210
妹は亀姫だけど、猪苗代城近所の田んぼで大入道に扮した大狢が退治されたらお城で怪異が起きなくなったとか…
ひ、姫じゃないから別の妖怪だよな…

212人間七七四年2017/10/31(火) 13:10:42.29ID:awjLPz8q
引きこもりにご利益がある、
とすれば参拝?が増えるかな

213人間七七四年2017/11/02(木) 17:25:55.37ID:j17J6I/M
丹波において、織田信澄の扈従の若者6、7騎が朝駆けを行い、敵30騎ばかりの中へ馬を乗り入れ、
それぞれに首を取って帰ろうとした。

この中に居た里見小才助と言う者の乗っていた馬は、三寸にあまり四寸に及ぶほどの大型であったが、
馬取は付かず、殊に腹帯もしっかり付けられていなかった。

鎧武者が指物を指して、首と槍と抜いた刀を持って乗ろうとすれば、鞍が返って上手く乗ることが出来ず、
そうしてもたもたしている間に敵が数多返してきて、小才助は討たれてしまった。
そして他の6騎は小才助を助けずに帰ったため、その頃その行為に対して批判が有ったそうだ。

大柄の馬に乗るべきではない、というのはこういう事であり、かつその上に、彼は馬の腹帯が
鞍の固定のために大切であるということを知らず、かといって鞍をつけない馬に乗る術も知らず、
その身の不覚悟のために討ち死にし、それだけでなく傍輩まで人々から批判させてしまった。
まさに誤りと言うべきであろう。

(士談)

214人間七七四年2017/11/02(木) 17:33:38.20ID:SXEm+Gu2
そんなやつに馬のせんな

215人間七七四年2017/11/02(木) 18:33:24.83ID:zdtRAxdV
今の出来事に置き換えるとバイクで立ちゴケするようなもんか

216人間七七四年2017/11/02(木) 20:33:18.88ID:9+jJPnHU
舅の援軍として丹波に赴いたのかしら
信澄の話は貴重だねえ

217人間七七四年2017/11/02(木) 21:10:59.46ID:j17J6I/M
織田信長が足利義昭を戴いた上洛戦の時、近江北郡にて坂井右近将監の子である久蔵が、この時わずか13歳にて
鑓を合わせ、彼の働きに義昭ならびに信長より感状が与えられた。
その頃、武田左吉という者の子も同じ13歳で、信長の側に仕えていたが、久蔵の振る舞いを羨ましく思った。

信長は入京すると、京より青龍寺、山崎あたりに退いていた三好勢を続けて攻めた。
この時、武田左吉の子が一番に、三好の陣へ馬を入れた。彼は敵との距離が良い所で馬より降りて
闘おうと思っていたが、其の身、未だ幼く、また馬は癇が強く逸っていたため、降りること出来ず
そのまま敵陣の中に引き込まれ、討たれた。
志は猛しといえども、本意無きことである。

武田左吉はこの他に子が無く、後に土方彦三郎という者の弟を養子とし、その者は武田宮内と名乗った。

(士談)

218人間七七四年2017/11/03(金) 05:00:34.56ID:Do5pozMZ
http://kirara.pref.yamaguchi.lg.jp/mag/html/vol255/web/omoyama.php

毛利元就と陶晴賢の決戦が行われた厳島の合戦。

219人間七七四年2017/11/03(金) 05:23:44.99ID:Do5pozMZ
途中送信しちまったい

http://kirara.pref.yamaguchi.lg.jp/mag/html/vol255/web/omoyama.php

山口きらめーる255号より

毛利元就と陶晴賢の決戦が行われた厳島の合戦。主に毛利方で後世に書かれた軍記物では陶軍2~3万対毛利軍4〜5千と語られるこの戦、
山口県史等に研究記載された話としては、戦死者は主に陶氏の家臣や山口県東部の周防国側の大内氏家臣、厳島神主家の家臣である神領衆の一部で
山口県西部に居た大内氏有力家臣の内藤氏や杉氏の参戦は無く実際の陶軍は1万居るか居ないかの戦力であったのでは無いかと言われている。
実際は軍記物で語られる様な兵数差が4倍を超える程の差は無く、毛利元就の軍が寡兵を持って自軍の数倍に値する陶軍を破ったと言うのは毛利側(で軍記物を書いたK川さんの)の誇張では無いか?
と言う悪い話

220人間七七四年2017/11/03(金) 05:26:34.11ID:DBo9XzeY
あー、ここは逸話、つまり史料そのものを紹介するところで、研究や学説を紹介するところじゃないので…

221人間七七四年2017/11/03(金) 05:51:45.04ID:OXWZBw6A
韓流スターのニュースがネタになる様なスレで何を今さら偉そうに

222人間七七四年2017/11/03(金) 06:03:55.33ID:Do5pozMZ
>>220
リンク先の山口きらめーるが通説への反論となる2012年刊行の山口県史の紹介なんで兵力差の部分だけ抜粋して書いたんだけど、それでもダメなのかい?
弘中隆兼の手紙の話とかまで書けば史料の紹介になったかな?

223人間七七四年2017/11/03(金) 06:31:27.47ID:l2f/gJOO
>>222
通説に反論したいのであれば普通に毛利スレとかでやればいいのではないかと。
ここも以前より人が減ったために雑談の頻度が増えたけど、そういう書き込みを許してしまうと
様々な人の自説の開陳場所になってしまう恐れがあるので。

224人間七七四年2017/11/03(金) 06:42:25.29ID:Do5pozMZ
>>223
通説への反論を元に議論や自説の開陳をしたいのでは無かった(とは言え最後の方は余計な文言だった)のだが、スレの主旨に合わないのなら以後こういう記事の紹介は止める事にするよ。
ごめんなさいね

225藤壮司2017/11/03(金) 11:21:24.25ID:QUY7q4tW
スレッドと関係ない話をするな!

226人間七七四年2017/11/03(金) 11:22:38.35ID:K/L2QCdk
まあまあ
まことは、自演魔だからな!
大目に見てやれよ!

227藤壮司2017/11/03(金) 11:23:20.55ID:mQ+q7i+r
自演魔のまことを大目に見る理由があるんかいな

228人間七七四年2017/11/03(金) 11:23:55.00ID:hyAQUZLk
キチガイだから、何を言ってもムダなんだよ!

229人間七七四年2017/11/03(金) 11:41:48.63ID:OXWZBw6A
このスレが過疎る理由がよく分かった

230人間七七四年2017/11/03(金) 13:02:26.69ID:/2a3P6ik
俺ルールを振りかざす人がいるからな

231人間七七四年2017/11/03(金) 21:27:31.63ID:MjoP67EC
菅沼

232人間七七四年2017/11/03(金) 22:49:27.68ID:lfiJSEc0
三十人の墓

広島市佐伯区の町中にある標高53mの海老山公園。
中世期には近隣の五日市城を居城とした宍戸備前守弥七郎元続(広島県北の宍戸氏でなく、厳島神主家の家臣である神領衆宍戸氏)
の支城があり、
当時は海に出た島城だった(現在近隣は埋め立て地となり住宅街の真っただ中)とも伝わる。
毛利元就と陶晴賢の合戦時、厳島に攻め込む直前の陶軍3万に攻め込まれた海老山城は
城主宍戸孫六以下30人の兵が討ち死に。死んだ30人の兵の亡骸は近隣住民により海老山に葬られ、墓石が作られたと伝わる。
https://i.imgur.com/FhteTPN.jpg
https://i.imgur.com/oCW5fJv.jpg
https://i.imgur.com/rhvuwgo.jpg
https://i.imgur.com/vGndI6B.jpg

233人間七七四年2017/11/03(金) 22:55:35.46ID:lfiJSEc0
ちなみに当城跡は、現在では夜中に行くと落ち武者の霊が現れるだの、
トイレで女子供の泣き声が聞こえてくるだのと噂される、心霊スポットであるとも言われている

・・・のだが、数年前の夜中に行ったものの筆者の身には何も起きなかったのであるが・・・
野生のアナグマや野良猫は居たのだが・・・
https://i.imgur.com/se3Q2fd.jpg
https://i.imgur.com/bdXQ8lE.jpg
https://i.imgur.com/KdJ3s12.jpg
https://i.imgur.com/LXTdoyH.jpg
https://i.imgur.com/N5PsMPb.jpg
https://i.imgur.com/oqTsQA0.jpg
https://i.imgur.com/3sZuIzo.jpg
https://i.imgur.com/5saHxDx.jpg

234人間七七四年2017/11/03(金) 23:12:56.95ID:lfiJSEc0
追記しておくと、現在の海老山公園は桜の名所でもあり
桜の時期に酒を持って夜桜を見に行くと、ひょっとすると何か起こるかもしれない。
(当地の看板、いつかいちの民話とくらしや広島市教育委員会の調査報告より)

http://www.mogurin.or.jp/maibun/yamashiro/kairouyama.htm
https://i.imgur.com/6W55Bi5.jpg

235人間七七四年2017/11/04(土) 07:49:48.97ID:gZX9IM+r
追記

神領衆宍戸氏とこの海老山城の落城について調べてみたけど、
広島県史の記載によると厳島神主家の配下である神領衆は毛利方と陶方に分かれ、
宍戸・野坂・栗栖・大野といった陶方についた神領衆は滅亡したという記述が有るようだったり、
厳島合戦の時、陶軍は山口の玖珂郡(現山口県岩国市)今津・室木の浜から500艘の船で厳島へ向かったとされているので、厳島合戦前に厳島から東北に10km位先にある海老山城を攻めるってのはちょっと疑問に思うんだけど、
実際のところはどうだったんだろうか?
https://i.imgur.com/XXEVtBR.png

236人間七七四年2017/11/04(土) 08:32:36.87ID:2m9NcCoW
海老山の宍戸も他の宍戸のうにじつは大内方についいてて毛利に攻め滅ぼされたとか

237人間七七四年2017/11/04(土) 08:51:44.61ID:gZX9IM+r
>>236
https://i.imgur.com/emjyjgZ.jpg
もしかして:実は毛利がやった?

と、自分も思ったけど
Wikipediaの防芸引分や折敷畑の戦いの項を参照すると、吉川元春と熊谷信直の事前の調略や交渉が上手く進んで1日で佐東銀山城・己斐城・草津城・桜尾城の4城、厳島を押さえた。
と有るので、翌年まだ反毛利側の白井氏や離反した野間氏と陶水軍が東の仁保城奪回に何度か攻め込んだりしてるから、その折に海老山城でも戦が有ったのかもしれないですね

238人間七七四年2017/11/04(土) 09:59:31.27ID:Uy076wyo
>>233
           |
            |  彡⌒ミ
           \ (´・ω・`)それは本当に落武者の霊だったのでしょうか…
             (|   |)::::
              (γ /:::::::
               し \:::
                  \

239人間七七四年2017/11/04(土) 12:35:39.58ID:KfZh2TsO
慶長5年、長尾(上杉)景勝が出羽国最上義光を攻めた時、上山城に里見越後(義近)の子、民部太夫が
籠っているのを、上杉方である山中城主・横田式部と穂村造酒允と言う者が両人大将分にて、人数
300ばかり押し寄せ、山向に陣を取り、それぞれ馬より降りて備の形成を初めた。

この様子を詳しく見ていた里見は、馬武者を選りすぐってこれに突撃を行い、横田・穂村の兵は
尽く敗北した。

横田はこの突撃の時、未だ馬に乗っていたためそのまま馬を駆けて落ち延びた。
穂村は馬から降りており、再び乗ろうとした時馬が付きかね手間を掛けている間に、敵が重なり来て
討ち死にしたという。

(士談)

備の形成途中で攻められるとやはり弱いのだな

240人間七七四年2017/11/04(土) 12:42:09.96ID:Anj7CIbq
城攻めにきてるのに300っていうのも気になるが、こんなしょうもない負け方は初めて見た

241人間七七四年2017/11/05(日) 14:16:17.85ID:uj8+QNYv
>>238
    r⌒\// ////:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ //// //
    (´ ⌒)\ ///::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|// //
ポッポー ||  \|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| _/ /ヽ        /ヽ
     人   ...\    +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;/ /   ヽ      / ヽ
    (__)     \    ( (||||! i: |||! !| |) )    /__/U  ヽ___/  ヽ
また (__)天狗か .\+  U | |||| !! !!||| :U  /__/   U    :::::::::::U:
    (・∀・#)       \   | |!!||l ll|| !! !!|/| | 天 // ___    \     ::::::::|
  _| ̄ ̄||_)        \∧∧∧∧/  | | 狗|   |    |  U     :::::::::|
/旦|――||// /|      <   天 >  | |  |U |    |        :::U::|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |      <   狗 >      l ├―‐┤   U   ...:::::::/
|_____|三|/      < の の >     ヽ      .....:::::::::::::::::::::::<
────────────< 予 仕 >─────────────
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \< 感 業  >天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!   
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''  ヽ<.!    >こういう天狗のように鼻が立ってたのが
|  /   | (●),   、(●)   | ∨∨∨∨\天狗の天狗なんだよな今の天狗は
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     / ヤダヤダ \天狗の天狗を知らないから
| |   |    `-=ニ=- '    /〃〃∩  _, ,_  \天狗の仕業じゃ!  , ;,勹
| |   !     `ニニ´   `/  ⊂⌒( `Д´) <\          ノノ   `'ミ
| /    \ _____ /      `ヽ_つ ⊂ノ    \        / y ,,,,,  ,,, ミ
| |    ////W   / )、._人_人__,.イ.、._人_人_人     / 彡 `゚   ゚' l
| |   ////WW /<´ 天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!>\  〃 彡  "二二つ
| |  ////WW /    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒   \|  彡   ~~~~ミ

242人間七七四年2017/11/06(月) 13:27:04.80ID:STEkgEWa
戸次川合戦長宗我部信親の最期

去る程に信親は、味方皆打ち負けて散々になり
元親の生死も知らざれば、今はこれまでとただ一途に思い定め
上下心を一致して龍粧(戸次川地名)に備を配り
静まり返って敵を待ち受けた

勇気最盛なる新納勢は、僅かな長宗我部勢が控えているの見て
ここはいささかも休むべきにはあらずと、三手に別れ閑閑と打ってかかる
信親七百余騎、三手に颯爽と別れて駆け合い
汗馬東西に駆け違い、旌旗南北に開き分かれ
追いつ返しつ、巻きつ巻きられつ、互いに命を惜しまず七、八度と戦い
新納が五千余騎、残りわずかまでに討たれたが
長宗我部勢も大半が傷をこうむり、(血で)朱になってその場にとどまった

伊勢兵部丞一千余騎、戦い屈したる長宗我部勢を
弊に乗って討たんとして横合いに駆け向うが
信親もとより思い切った事なれば、相懸かりに懸りて
弓手に側め、馬主に背け、打っては駆け通り、突いては押し払い
四武の衛陣堅きを砕き、揉み違い入り乱れ、喚き叫んで戦い続けた
敵味方の討たれた者は数知れず、互いに龍虎の争いなれば
このいくさ、いつ果てるのかもわからなかった

(続く)

243人間七七四年2017/11/06(月) 13:29:50.91ID:STEkgEWa
新納武蔵守は槍を取り、猪の怒れる如く大きく猛って突いて回る
細川源左衛門これを見て、願う所と槍を提げて向かい
武蔵守、物々しやと人を交えもせずに戦ったが
源左衛門に左腕をしたたかに突かれ、危うくなったところに
郎党二人駆け来たり、武蔵守を押し隔てて戦い
さらに伊勢兵部丞が馬を駆け寄せ、源左衛門に槍を付けたので
源左衛門ようやく若党に首を取られ討ち死にした

信親はあまりに手広く駆り立て戦う内に、乗り換えたる馬は三頭
平頭三太刀斬られて、犬居にどうと臥した
敵これを大将と見知ったので、駆け寄せ討ち取らんと進み近づくが
信親四尺三寸の大長刀を提げ、大勢の中へ割って入り
籠手・薙手・開手・十文字、八方乱して切りつけ
強靭の兵二十四、五騎を薙ぎ払ったので、長刀の柄は中より折れてしまった

(続く)

244人間七七四年2017/11/06(月) 13:40:06.17ID:STEkgEWa
敵二人得たり賢しと両方から飛びかかり打つ太刀を
信親さっと飛び違え、二人共に同じ枕に蹴り倒し、太刀を抜き胴を切り捨てた
新納これを見て、一騎打ちの勝負は叶うまじ
総軍一度に懸かれと下知すれば、蟻の如く集い、蜂の如く行き合い
信親の上に重なって前後左右より押し取り巻き
穂前を揃えて突く槍を、ひらりと飛び越え
持って開いては丁と切り、飛び違えては、はたと切る
されどもその身鉄石にあらざれば、精力疲れ、ついに鈴木内膳に討たれた
信親行年二十二歳、その死を惜しまぬ者はいなかった

吉良播磨守、本山将監、石谷兵部少輔らも何のために惜しむ命ぞやと
真っ先に敵の中に駈け入り、枕を並べて討ち死にした
これらを始めとして、桑名太郎左衛門……
(以下数頁に渡り延々と討ち死にした者の列挙が続く、下画像参照)
https://imgur.com/a/krw3g
https://imgur.com/a/2iU01

……この他精兵都合七百余人、我先にと駆け出で駆け出で
一騎も残らず皆斬り死にした
味方の討ち死には二千七百二十七名と聞いている

(土佐物語)

245人間七七四年2017/11/06(月) 14:30:51.09ID:TScJL+6v
センゴクすごく悪い話だ

246人間七七四年2017/11/06(月) 14:54:27.14ID:uHhFmV3f
>>242-244
脚色もあるんだろうけど凄まじい、描写が詳しくてこのまま剣劇にできそうだ。

247人間七七四年2017/11/06(月) 17:46:34.12ID:ewVS0Zz3
折角なので元親記による信親の最期の様子も

長宗我部軍も是非に及ばず陣触れをして、一足遅れて出撃したが、川を渡って
陣容も整わぬうちに、黒雲のように薩摩軍が押し寄せて来た。
年来城攻めを差し置き襲ってきたのだ。これが薩摩と土佐の史上初の激突である。
仙石軍は猛攻を避け、北方の豊前に退いた後だった。

群がり来る敵の中で、信親は馬を捨て四尺三寸の大長刀で八人を薙ぎ伏せ、
さらに刀を抜いて六人を切り据えた。
物の具の上から打ち合うので刀の刃はぼろぼろになっていた。
(信親は)辺りの敵を追い払って腹を切ろうとすると、多勢の者が走り寄り、
同じ場所で次々と自決した。
福留隼人(儀重)と細川源左衛門は元親のそばに駆け寄り、
この世の暇乞いをしてから命を絶った。

(中略)

討死した信親は二十二才だった。身の丈六尺一寸、平素は長船の名刀
三尺五寸の兼光を腰に差し、剣術に優れ、身のこなしの敏捷さは比類なかった。
走り跳びに二間を跳び越え、跳びながらこの刀を抜いた。
これほどの人なので、樊?にも劣るまいといわれて、元親も最も期待していた。

信親がこの日帯びていた刀は、先年信長公に名をもらった時、その祝儀に
拝領した左文字の太刀であった。

(元親記)

248人間七七四年2017/11/06(月) 17:59:05.81ID:ewVS0Zz3
文字化けしてしまった
樊カイにも劣るまいといわれて、です

あと×年来城○年光城です
重ね重ね失礼

249人間七七四年2017/11/06(月) 18:09:41.59ID:zLyaVyxg
>>247
信長、左文字の太刀とくると義元からぶんどったやつが思い浮かぶが
あれは別に伝わってるから他にもあったのかな

250人間七七四年2017/11/06(月) 19:47:28.06ID:o4NOSjYb
信長に貰った太刀や着ていた鎧兜がボロボロになっていて凄まじかったらしいね
この時、権兵衛が大人しくしていれば後の歴史が結構変わっていたかな?

251人間七七四年2017/11/06(月) 20:16:18.73ID:hnPtJm7D
>>248
年光じゃなくて利光だろう

252人間七七四年2017/11/06(月) 21:12:51.84ID:ewVS0Zz3
>>251
一応原文ママだよ
まあよくある当て字だね
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-066306&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%85%83%E8%A6%AA%E8%A8%98%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&IMG_NO=62

253人間七七四年2017/11/06(月) 22:25:40.59ID:JfPQ4w+X
>>250
関ヶ原のとき盛親じゃなくて信親だったらってとこか。なかなか渋いif

254人間七七四年2017/11/07(火) 04:16:34.83ID:qysCJnfh
案外、旗幟鮮明にして最初から西軍参加でやっぱり関ヶ原戦場で壮絶な討ち死に遂げてそう。

255人間七七四年2017/11/07(火) 07:28:38.32ID:QHo92xTP
そもそも、長曾我部って豊臣にも石田にも何の恩も無いよね

256人間七七四年2017/11/07(火) 08:23:26.49ID:fLGkSkHf
一応土佐安堵の恩はあるんじゃないの

257人間七七四年2017/11/07(火) 08:27:28.12ID:eAM3quoG
世間的にはそういうことになるわな
秀吉もめっちゃ宣伝しとるし

258人間七七四年2017/11/07(火) 08:47:13.48ID:EDsTJapH
取次ぎ役の増田長盛についてっただけでしょ

259人間七七四年2017/11/07(火) 17:19:02.18ID:NRHpoNbo
どうせ巻き込まれたなら一旗揚げてやる的な感じじゃないかねぇ

260人間七七四年2017/11/08(水) 00:44:26.12ID:PYoxyBnV
なんとなく、元親が関ヶ原前に死去していれば西軍について関ヶ原本戦にいそう。
元親がまだ存命なら東軍よりの中立ないしは佐竹のようなどっちつかずになってそう。

261人間七七四年2017/11/08(水) 06:05:13.08ID:KvFOQlX5
>>260
どっちにしろ詰みやんけ
後者なら改易で大名長曾我部家は維持出来そうだけど

262人間七七四年2017/11/08(水) 06:38:46.15ID:g1dobNL8
>>260
元親存命なら毛利と伊予を挟撃してそうだな、あとで知らぬととぼけそう。

263人間七七四年2017/11/08(水) 11:03:50.09ID:CTHVlE03
衆道に関するチョイと悪い話ってあるのかな?

264人間七七四年2017/11/08(水) 11:38:01.96ID:wIqpSQ4E
またお前か

265人間七七四年2017/11/08(水) 11:43:26.80ID:+3eszZUf
お前しかいない

266人間七七四年2017/11/08(水) 12:43:43.33ID:twusLRGw
備の場にて馬を取り放してしまててゃ、必ず味方の破れにつながるので、聊かも疎かにしてはならない。

賤ヶ岳の合戦で、柴田方であった前田利家の備が敵と交戦する前に崩れたのは、前田の家臣であった
三吉左吉という者が馬を取り放してしまい、それゆえに備が乱れ。佐久間玄蕃同時に崩れたのだ。

この時、前田の旗奉行である横山半喜(長隆)という者が討ち死にした。これはあの横山山城(長知)の
父である。旗の立てよう、見事であったという。

また関ヶ原の時、近江大津城攻めは9月15日に行うと決定していたが、13日に毛利方の吉川家の者が
陣屋において馬を取り放し、殊の外なる騒ぎとなったのを、共に大津城攻めに参加していた立花家の者達が

「さては中国衆は、我々を出し抜いて城を攻めるのか!」

そう勘違いをし、柳川衆はそうはさせるかと攻め掛かり、二、三の郭を乗っ取った。
柳川衆のこのような行為を見て、中国衆もまた攻め掛かった。

これらは、みな馬を取り放してしまったために起こったことである。故に、陣屋、備の場ともに、
馬を取り放さない心得がなくてはならないのだ。

(士談)

267人間七七四年2017/11/08(水) 16:26:05.50ID:vjs0DljE
>>263
陶興房の長男、興昌は主君、大内義隆と仲が悪くって父親の興房に暗殺された疑いが有るわね。
代わって陶の跡を継いだ隆房も興房に気性を心配されてたけど、正に父親に心配された通りの結果になったわね。

268人間七七四年2017/11/08(水) 16:50:45.38ID:VEWh+6Fb
>>255
どっちかっていうと敵方
柴田のときもそうだし徳川のときもそう
でも四国統一にかまけて秀吉牽制を怠けてるから味方の印象はボロクソ

269人間七七四年2017/11/08(水) 17:42:35.97ID:3V35s42x
統一できたところで所詮四国に過ぎないしなぁ。石高低すぎ。

270人間七七四年2017/11/08(水) 19:40:20.41ID:Apk8J3Tc
結局統一も成し遂げてないし
自分とこの記録ではちゃっかり達成したことにしてるけど

271人間七七四年2017/11/08(水) 22:03:20.15ID:exyUzbls
信長の要求飲んで阿波を三好に返して伊予に転進しときゃよかったんだ

272人間七七四年2017/11/09(木) 10:22:19.01ID:Y5rjaGJg
かつて、織田岸蔵坊(信長に仕えた織田信房 (造酒丞)の祖父)と村上紀伊守とが、当時の公方の
命により敵を退治したが、織田岸蔵坊は比類なき働きあり、紀伊守はさほどのことはなかった。

帰京した時、織田は馬を賜り、村上は太刀を賜った。
これに織田岸蔵坊は激怒した

「村上は一戦に崩れて恥を取ったと言うのに、それがしと一緒に御盃を賜っただけでなく、
御剣まで賜った。村上は『この太刀こそ勲功の賞である』と、子孫に伝え家の面目に備えるだろう。

しかし馬は生物なのだから、明日をも知れず、後代に残ることもない!
すぐに其の馬を打ち殺し皮をはぎ太鼓に張り、『これこそ将軍より賜った馬の皮である』と
銘を打って子孫に伝えよう!

各々、武勇を棄てて酒の飲み方を学ばれよ!村上が上戸故にこれほどの面目に余る待遇を受けたのだ!」

そう罵って御前から下がり、将軍は大いに興を覚ましたという。

(士談)

273人間七七四年2017/11/09(木) 10:28:26.47ID:gGam2wU+
信長の言い分と真逆w

274人間七七四年2017/11/09(木) 11:55:35.48ID:W5g8hSJd
汗血馬でも屠殺しちゃいそうな奴だな

275人間七七四年2017/11/09(木) 15:16:29.17ID:eUduDq1c
いい馬なら繁殖させれば儲かると思うんだが
それでは駄目なのか

276人間七七四年2017/11/09(木) 17:25:06.33ID:eVs8SPKm
戦国時代の名馬って繁殖に回って子孫も名馬っていう話聞かないし
いい馬をもとに繁殖させるっていう発想自体がないんじゃね

277人間七七四年2017/11/09(木) 17:44:38.79ID:kZkZr3ob
そもそも儲かるとかそういう話じゃなくて面子の問題なんだろうしな

278人間七七四年2017/11/09(木) 17:52:43.95ID:z/A/VUKh
池月・磨墨を頼朝から下賜されて宇治川で先陣争いした
佐々木高綱や梶原景季はいまだに語られてるのに

279人間七七四年2017/11/09(木) 17:57:05.12ID:W8CGtvmK
それは平家物語の作者と琵琶法師たちのおかげだな

280人間七七四年2017/11/09(木) 18:15:56.14ID:bdaIAzlk
>>276
ない。馬産に関しては明治まではとてつもない後進国。
なんせ、去勢すらまともにしようとしないぐらいだし。

281人間七七四年2017/11/09(木) 18:38:04.85ID:WWQClPL8
アラブを導入してみたもののうまくいかなくて小さく出ちゃったのって島津だったっけか?
まあ種馬を見分ける相馬が無かったんだろうけど

当時って自然交配なのかな?

282人間七七四年2017/11/09(木) 18:42:26.36ID:wtXKSyfd
日清だか日露の時に日本の軍馬が騒いで困ったので、それからせんばの導入が進んだって聞いたことある

283人間七七四年2017/11/09(木) 18:43:21.07ID:xGkzgLXd
>>277
馬を貰った=記念品と共に長く伝えられる程の功名と評価されなかった、と解釈したのかも。
あるいは「あの時こういう功名を遂げて馬を貰ったんだ」より、
「あの時こういう功名を遂げて太刀をもらった、それがこれ」と言えるほうが格好がつくと思ったか。
感状に拘る武士に似た考え方かな?

284人間七七四年2017/11/09(木) 21:26:20.98ID:529zOpoH
ググったら武家事紀の同じ話が有り、書かれてるサイトが有った。そちらでは織田岸蔵坊の事を

きわめて貧しきが故に、布の旗、筵の障泥にて疲れ馬に鞭をあつ。 

村上紀伊守は馬具・武具も整え岸蔵坊とは対照的な姿。
 どちらが一陣、二陣となるかをくじで決め、村上紀伊守が一陣、二陣は岸蔵坊となった。
 村上紀伊守の第一陣は破れ、岸蔵坊は身に三箇所の傷を被りながらも一揆を打破った。
 こうして凱旋し将軍家に討捕らえた首を献上した。
 その様子を『武家事紀』は、 
 
  将軍家感悦のあまり御盃を下され、ことに駿馬を賜う。 
  村上も御盃にあずかりぬ。 
  村上もとより大酒なれば、数盃を傾く。 
  将軍家興に入り給うて御太刀を賜いて各退出す。 
  岸蔵坊大いに怒れる気色にて、 
  一番に逃亡せる村上は重代につたわる太刀を賜り、軍功無双の某には、明日もしらざる馬を賜る。
  此の馬を殺し皮をはいで太鼓に張り、是こそ将軍家より軍功に賜れる馬の皮よと銘をしるし、子孫に伝うべし。
  これ村上が上戸ゆえなり。 
  下戸なる者は益なし。 
  下戸無念なりと、ののしり立って帰れりとなる。 


これを見るに将軍には悪気無く、岸蔵坊さんに良かれと思って馬を与えたように見える。
岸蔵坊さんは襤褸を着ても心は錦じゃないけど、負けた筈の村上さんが褒美を貰うのが気に食わなかったのかなぁ?


http://www.gokuh.jp/ghp/busho/oda_001.htm

285人間七七四年2017/11/09(木) 23:18:27.34ID:WWQClPL8
織田の陪臣である岸蔵房がどうして将軍家に拝謁できるのか?
尾張に流れてくる前の話なのかな?

286人間七七四年2017/11/10(金) 07:28:13.28ID:6GS648by
一揆はどこの一揆で将軍はどの将軍なのか

287人間七七四年2017/11/10(金) 08:07:19.31ID:0CxMzdfO
>>285
織田岸蔵房で調べたら孫の織田信房が出てくるけど、信秀の代から仕え、元々織田姓ではないとある。
岸蔵坊が元々何処に仕えていて、どう流れて信房の代で信秀に仕える様になったかは興味深いね

288人間七七四年2017/11/10(金) 08:30:37.15ID:a9KTd7T+
>>287
信房の子に菅屋長頼がいるんだよね
織田姓を貰うことといい、かなり厚遇されていた一族なんだろうなあ

289人間七七四年2017/11/10(金) 09:19:44.74ID:DHQ/Z5Zt
現代でも仕事が出来ても飲みニケーションが出来ない奴は出世しないだろ
お前ら引きこもりには到底理解不能だろうがw

290人間七七四年2017/11/10(金) 11:19:14.92ID:2QZmOQNt
戸次川合戦後の讃岐について

ある時十河猪兵衛に会い、豊州利光川の戦(戸次川合戦)
存保戦死について問うたところ
猪兵衛曰く、我は幼主千松丸に属せられ参陣せず
父の猪右衛門、十河但馬、松田宗閑などの忠臣は皆死をもって従った
存保の命を伝えて来る者もあり、死亡を逃れて来る者もあるゆえ
我が見ていない事を語っても益はないだろう、と前置きし語り始めた

存保筑紫にて戦死の日は十二月十二日である
その日の八つ時分に、兵卒三百人ばかりが旗十流ばかりを靡かせ
十河の城に入るのを田畝に耕す農人が見た
次の日、近境の者どもが還陣を賀そうとやって来たが
城中の者はそのような有様を知らず、不思議な事だと言い合った
そんなことがあった数日後に、豊州戸次川にて
存保が戦死を遂げられた報告が届いたそうである
家人どもは十河家息男千松丸に付き従い、十河の城に留まり
仙石秀久は豊州の敗軍を恥じて讃州に入らず
直に高野山に入ったと聞いている

(続く)

291人間七七四年2017/11/10(金) 11:20:29.39ID:2QZmOQNt
また天正十五年正月、讃岐の国を尾藤甚右衛門尉賜いて入部し
兵卒を催し、筑紫陣(秀吉の九州平定)の用意をすることになった
去年の年貢は残っておらず、今年の収穫も先のため、手だてなければ
寺社領、神社仏閣の敷地まで検地を入れ、軍中の資用を宛て課した
国中の商家遊民に課役をかけて催促したが
はかばかしく財産も集まらなかった
仙石氏出陣の時と比べ、三分の一の形相にも及ばずして
九州へと赴いた事を思えば、高城の夜戦の際(根白坂の戦い)
尾藤氏が痩せたる兵をもって島津方の逞兵にあたり
固く守りて出なかったのは、己を知る者であったからである

神子田中左衛門は信長卿の御家にて
竹中半兵衛と両半と言われし弓矢巧者であり
この度、秀長卿の介添として日向の国に発向したが
高城の夜戦の際、善ヨウ坊を救わずをもって
改易されると言う人あるが、我はその実否を知らない

292人間七七四年2017/11/10(金) 11:21:17.92ID:2QZmOQNt
それ小軍夜に紛れていくさを起こし挑む事は、大軍にとって大事である
総軍皆出でて戦う時は、彼我を分かたずして、同士いくさするものだからだ
各陣固くして夜の明くるを待ち、敵の退き口について朝合戦をなすべきで
これぞ大軍の手だてである
秀吉公は勇戦を好まれるがゆえに、その時勢を糾さずして
尾藤が落ち度として讃州を没収されたのである

(南海治乱記)

293人間七七四年2017/11/10(金) 11:55:59.79ID:o6CIYIRI
>>289
0289 人間七七四年 2017/11/10 09:19:44

仕事出来ないからってそんな時間にこんな過疎スレに書き込みしなくても良いのよ

294人間七七四年2017/11/10(金) 13:11:13.54ID:6GS648by
まーそういう大義名分を本気で信じてるかどうかはあるかな

295人間七七四年2017/11/10(金) 16:53:48.89ID:OSsfLENC
>>293
君が引きこもりってのがよく分かるレスだねw

296人間七七四年2017/11/10(金) 16:56:09.24ID:U0AkbJiF
夕方までよく我慢したね

297人間七七四年2017/11/10(金) 21:42:59.07ID:vQYAvq4A
ずーっとF5連してたの?引きこもり君w

298人間七七四年2017/11/11(土) 09:38:31.22ID:n5TRw1sH
扇谷上杉定正は、養子で後継者とした朝良が食分を忘れて武士の業を勤めぬことに、曽我豊後守の許へ
戒めの書を記し送った。その内容に曰く、

『年来これについて言っては来たが、あまりに五郎(朝良)はたしなまず、一つのことすら、
この定正が納得するものは無かった。

去年の正月以来、朝良の随従の者たちに申し付け、彼の朝夕の雑談の内容を知らせるよう命じた所、
4,5人が密かに注進してきたが、何れも同じ内容であった。

朝良の所へ山口、小宮、仙波、古尾谷といった面々が参った時、朝良が彼らに尋ねるのは
ウグイスの事、武蔵野にての鳥追、狩りの雑談、武州六社(武蔵国一宮から六宮までの六社の神社)の
物語、深谷の馬場の早馬の事、酒宴数盃の物語であり、また或いは、京の方からきた牢人の面々が
出頭した時、彼らに尋ねるのは招月の歌、手跡の物語、心敬・宗祇の連歌、洛中貴賎、清水男山の眺望、
諸五山の様子、観世今春の能仕舞の雑談、といった内容だったそうだ。

これを知って私が悲しみのあまり涙を流したのは言うまでもない。この愚老が明日にも討ち死にすれば、
当方屋形の者共は皆、命を失うか生き残っても乞食に身を落とすであろう。』

そのように書いたのだという。

(士談)

299人間七七四年2017/11/11(土) 16:59:10.08ID:sH6ietgp
餓鬼の首 武田一族終焉の地

 武田山の背後、広島市安佐南区長楽寺にある「ふじが丘団地」の下に、こんもりと繁った林が残っており、この一帯が、武田一族の終焉の地と言われています。
この終焉の地は ”餓鬼の首” といわれ、 この地で武田氏が滅びた時、一族郎党たちを”首切り処刑”した所で (<安郷土史懇話会>によれば=悪人や罪人を処刑した場所であった所とされている) 、
掘れば血がでると言われている。 首切り処刑したと言われる 約1.5m 四方で高さ 1m の石積みがあります。

  この場所には武田一族の後裔の方たちが建立された 「武田一族の終焉の地」 の石碑があり、それには次のような碑文が刻んであります。

  『 今を去ること四百年有余年昔、天文十年三月十三日新羅三郎源義光が末裔 安芸の国守護武田信重はおしよせる大内.毛利の大軍に祖父の地を死守せんと戦せしも、 
衆寡敵とせず金山城にて一族諸共に自刃す。
残りし血族は悉く捕われ 六親等に至るまで女人、幼ごの区別なくこの地冷たき石積の上に あわれ無情の刃にかかりてはて封印される。
時は流れ辛くも難をのがれその血を今に伝えし物共真を積みて、悲願結集し尊き仏法の功徳をもって縛はとかる。
今はただ苦もなく怨みもなく一族とともに仏国浄土に赴かん。 願わくはその説く所怨親平等の大慈大悲戦乱に倒れし遍くの諸霊の上に注がれん事を。
      諸行無常 是生滅法 生滅滅巳 寂滅為楽 』

    武田信重が裔    ****  ****
                  ****  ****

    武田源三が裔    ****
         平成十年四月建立

http://www.cf.city.hiroshima.jp/gion-k/webstation/rekishi/takeda-hiwa/syuuennochi/syuennochi.html
http://taketayama-hoshoukai.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-f966.html

300人間七七四年2017/11/11(土) 18:23:55.81ID:LCc5v4ef
>>299
>今はただ苦もなく怨みもなく一族とともに仏国浄土に赴かん。
凄い名文…
作られたのは結構新しいんだね、400年以上たっても忘れない良い話じゃないか!

301人間七七四年2017/11/11(土) 18:55:30.54ID:/VYwKrBM
いや、後裔の方々が先祖の恨みを忘れるのはそうだけど、根本は一つの戦国大名家の一族がほぼ誅滅される話なんだからどう考えても悪い話だと思うんですが…

302人間七七四年2017/11/11(土) 20:08:27.19ID:Bb8OW2om
フランスに何か用があったん?

303人間七七四年2017/11/11(土) 21:07:45.33ID:girOAUNf
>>302
その発想はなかったわ

304人間七七四年2017/11/12(日) 02:45:28.05ID:8lgKdSVl
なるほど
しかしながら浄土とは表現しないだろうなあw

305人間七七四年2017/11/12(日) 07:55:19.56ID:xEfHF25d
おんばんさん

 天文10(1541)年 毛利元就軍との戦で銀山城は落城しました。執拗な追撃をうけながら武田方の武士達は戦いながら沼田方面に敗走しました。
 しかし、多くの武田武士たちは>>299のように捕らわれて斬首されました。 
一方、少数の一族の子女や老人は神社そばの通称”隠れ里” (安西中学校付近まで続くつづれ折の谷間) に隠れていたそうです。 
隠れ里の入口には大きな岩が2〜3枚あり,その陰で数人の武士達が護衛をしていましたが、毛利方に発見され全員殺されてしまいました。
 地元の人々は隠れ里入口の岩を割ってお墓を作り供養しました。昭和40年代後半の団地の形成に伴い移転されましたが、
地元ではその祠をおんばんさん(黄幡さん)と呼んで今も武田武士供養の祠として恵比寿神社に残っています。

恵比寿神社とおんばんさん
https://i.imgur.com/XoxSAkb.jpg
https://i.imgur.com/7gINtR9.jpg
http://www.cf.city.hiroshima.jp/gion-k/webstation/rekishi/takeda-hiwa/onbansan/onbansan.html

306人間七七四年2017/11/12(日) 12:04:59.63ID:RkRtT+mU
>>305
>岩を割ってお墓を作り供養しました
ケンシロウみたいな百姓が岩割ってるの想像して草

307人間七七四年2017/11/15(水) 12:32:23.31ID:vEgaCA4Q
大阪の陣の時、伊達政宗が奈良において、全ての足軽大将を集めて鉄砲を釣瓶撃ちさせたが、
加藤太という足軽大将の足軽たち300ばかりが鉄砲を撃たなかった。

この事を糾明したところ、加藤太は
「道中にて火を持っていれば、火縄を入れておく意味はない。火薬を足軽に預ければ道にこぼして多く
廃ってしまう。」
そう言って火縄、火薬ともに荷に包み小荷駄に付けて後より来るようにしたため、この時の釣瓶撃ちに
間に合わなかったのだという。

政宗は激怒し
「職分を忘れて、役人の出納を気取るか!?これ士の見せしめである!」
そう言うと自ら斬って棄てた。

また足軽たちに命じて、一斉に刀を抜かせ木を切らせた。
この時、一人錆びた刀を差し、木を切ることできなかった。これも糾明したところ、足軽が病のため、
人足を雇って代わりに役を勤めさせた。そのためそのような刀を持っていたのだと答えた。

政宗はこの足軽大将も成敗し、諸卒に示した。

(士談)

308人間七七四年2017/11/15(水) 13:37:17.20ID:ujGD9s1O
>>307
大阪の陣の頃になると実践遠ざかって久しいから、経済を優先させちゃう輩も増えたんだろうなぁ…
関ヶ原の頃ですら、朝鮮行かなかった大名は結構な期間実戦やっていなかったし。

309人間七七四年2017/11/15(水) 13:43:04.94ID:tw7Qdp6q
鉄砲の件はもっともだが、刀で木を切るのはやめた方が

310人間七七四年2017/11/15(水) 22:17:53.84ID:vEgaCA4Q
紀州に浅野長晟が在国していた頃、この国の地侍の某、功名の沙汰ありし者であったので
浅野家より扶助があり録豊かで、山中に彼の好きなように住ませ置いていた。

ところがこの者、武義を勤めず職を忘れて、ただ財貨を集めることばかりに熱心であった。
「財貨が有れば何時も、諸道具、人馬ともに揃えることが出来る。」
そう広言していた。

この頃、大阪の陣がはじまった。
彼は財貨を散じて人馬諸器を求め、由々しき姿で出かけた。ところが、集めた者共は元より下々の事であり、
紀伊から大阪までの道で、一人残らず逐電してしまい、残ったのは乗っている馬と我が身ばかりという
有様になった。
このような事では先々はかばかしい働きも出来ず、かといって紀州に変えるのも面目がないと、その場より
行方知らずになったという。

(士談)

311人間七七四年2017/11/15(水) 22:32:32.03ID:Rp1oDxjj
浅野長晟の動向からして徳川方に付こうとしたのかな
なのに逐電されたのか

312人間七七四年2017/11/16(木) 02:41:43.26ID:yf4aoXSx
いや豊臣のほうじゃね?負け濃厚だし

313人間七七四年2017/11/16(木) 09:09:49.57ID:lcvo0AJ8
大名が徳川についてるのにそれは考えにくいのでは…

314人間七七四年2017/11/16(木) 09:43:13.62ID:gi0/DeLC
じゃあどうして牢人が豊臣に集ったんだ?
勝ち濃厚の徳川に着いたのに逐電てワケワカメ

315人間七七四年2017/11/16(木) 10:01:26.44ID:80FlYgge
金だけ持ち逃げされたつう話だろ

316人間七七四年2017/11/16(木) 10:05:55.77ID:lcvo0AJ8
浪人は行くとこ無い人でしょ?
徳川は勝ち濃厚ったってやっぱり戦するわけだから死んだりケガしたりすることもあるし
いくら当時の日本人が勇敢っつっても臆病者卑怯者のクズもいるわけで

317人間七七四年2017/11/16(木) 21:12:04.25ID:GO7re+P1
これって、中間や小者の話でしょ。

318人間七七四年2017/11/16(木) 23:56:41.63ID:QSnBfgsM
>>316
現代の感覚で語られてもなw

319人間七七四年2017/11/17(金) 00:06:00.09ID:zTBmePbl
>>318
現代の感覚だったらこんな事起こらないだろw

320人間七七四年2017/11/17(金) 02:43:40.97ID:TxU4Zbse
論破されて発狂か?みっともねえ奴だなw

321人間七七四年2017/11/17(金) 10:08:15.24ID:MyYwJHbm
まあいつもの儒者説教

322人間七七四年2017/11/17(金) 23:32:55.32ID:KP3+s06l
越前朝倉義景滅亡の後、富田長繁は府中に在城していたが、龍門寺と云う者が密かに隠れていたのを、
使者を以て招き、『信長に申し上げ、本領安堵のことを才覚申そう』と伝えた。
龍門寺は大変喜び、府中を訪れて長繁を頼んだ。

しかし長繁は、龍門寺を討って信長への忠とするつもりであった。

彼は富田宗八という小姓を呼び、これを打ち手と定めた。そうして龍門寺を様々にもてなし、そのうちに
このように言った

「朝倉家代々秘蔵の中村太刀いうものを、大野郡より入手したのだが、茶の後にでも見てみないか?」

龍門寺も「それは是非見たいものです」との事であったので、長繁はそれを取り出し龍門寺に渡した。
彼は剣相を眺め、鞘に収めようとした時、この場に居た宗八がまかり出て言った

「一世の思い出に、私にもぜひ拝見させていただけないでしょうか?」

長繁は叱りつけた
「汝若輩の身でありながら、憚るべきことを!」

しかし龍門寺
「若き人がそう望むのは尤もなことです」と、その刀をそのまま宗八に渡した。
宗八はこれを受け取り見る体から、龍門寺を討ち取った。

(士談)

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